はやし浩司

日本論(日本を考える)
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はやし浩司

民族の誇りとは……

●私はユネスコの交換学生だった
 一九六七年の夏。私たちはユネスコの交換学生として、九州の博多からプサンへと渡った。日韓の間にまだ国交のない時代で、私たちはプサン港へ着くと、ブラスバンドで迎えられた。が、歓迎されたのはその日、一日だけ。あとはどこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされた。私たちを直接指導してくれたのが、金素雲氏だったこともある。韓国を代表する文化学者である。私たちは氏の指導を受けるうち、日本の教科書はまちがってはいないが、しかしすべてを教えていないことを実感した。そしてそんなある日、氏はこんなことを話してくれた。

●奈良は韓国人が建てた?
 「日本の奈良は、韓国人がつくった都だよ」と。「奈良」というのは、「韓国から見て奈落の果てにある国」という意味で、「奈良」になった、と。昔は「奈落」と書いていたが、「奈良」という文字に変えた、とも。現在の今でも、韓国語で「ナラ」と言えば、「国」を意味する。もちろんこれは一つの説に過ぎない。偶然の一致ということもある。しかし結論から先に言えば、日本が日本史にこだわっている限り、日本はいつまでたっても、世界の、あるいはアジアの異端児でしかない。日本も、もう少しワクを広げて、東洋史という観点から日本を見る必要があるのではないのか。ちなみにフランスでは、日本学科は、韓国学部の一部に組み込まれている。またオーストラリアでもアメリカでも東洋学部というときは、基本的には中国研究をさし、日本はその一部でしかない。

●藤木新一の捏造事件
 一方こんなこともある。藤木新一という、これまたえらいインチキな考古学者がいた。彼が発掘したという石器のほとんどが捏造(ねつぞう)によるものだというから、すごい。しかも、だ。そういうインチキをインチキと見抜けず、高校の教科書すら書き換えてしまった人たちがいるというから、これまたすごい。たまたまその事件が発覚したとき、ユネスコの交換学生の同窓会がソウルであった(一九九九年終わり)。日本側のOBはともかくも、韓国側のOBは、ほとんどが今、大企業の社長や国会議員をしている。その会に出席した友人のM氏は帰ってきてから私の家に寄り、こう話してくれた。「韓国人は皆、笑っていたよ。中国や韓国より古い歴史が日本にあるわけがないとね」と。当時の韓国のマスコミは、この捏造事件を大きく取りあげ、「そら見ろ」と言わんばかりに、日本をはげしく攻撃した。M氏は、「これで日本の信用は地に落ちた」と嘆いていた。

●常識と非常識
 私はしかしこの捏造事件を別の目で見ていた。一見金素雲氏が話してくれた奈良の話と、この捏造事件はまったく異質のように見える。奈良の話は、日本人にしてみれば、信じたくもない風説に過ぎない。いや、一度、私が金素雲氏に、「証拠があるか?」と問いただすと、「証拠は仁徳天皇の墓の中にあるでしょう」と笑ったのを思えている。しかし確たる証拠がない以上、やはり風説に過ぎない。これに対して、石器捏造事件のほうは、日本人にしてみれば、信じたい話だった。「石器」という証拠が出てきたのだから、これはたまらない。事実、石器発掘を村おこしに利用して、祭りまで始めた自治体がある。が、よく考えてみると、これら二つの話は、その底流でつながっているのがわかる。金素雲氏の話してくれたことは、日本以外の、いわば世界の常識。一方、石器捏造は、日本でしか通用しない世界の非常識。世界の常識に背を向ける態度も、同じく世界の非常識にしがみつく態度も、基本的には同じとみてよい。

●お前は日本人のくせに!
 ……こう書くと、「お前は日本人のくせに、日本の歴史を否定するのか」と言う人がいる。事実、手紙でそう言ってきた人がいる。「あんたはそれでも日本人か!」と。しかし私は何も日本の歴史を否定してるわけではない。また日本人かどうかと聞かれれば、私は一〇〇%、日本人だ。日本の政治や体制はいつも批判しているが、この日本という国土、文化、人々は、ふつうの人以上に愛している。このことと、事実は事実として認めるということは別である。えてしてゆがんだ民族意識は、ゆがんだ歴史観に基づく。そしてゆがんだ民族主義は、国が進むべき方向そのものをゆがめる。これは危険な思想といってもよい。仮に百歩譲って、「日本民族は誇り高い大和民族である」と主張したところで、少なくとも中国の人には通用しない。何といっても、中国には黄帝(司馬遷の「史記」)の時代から五五〇〇年もの歴史がある。日本の文字はもちろんのこと、文化のほとんどは、その中国からきたものだ。その中国の人たちが、「中国人こそ、アジアでは最高の民族である」と主張して、日本人を「下」に見るようなことがあったら、あなたはそれに納得するだろうか。民族主義というのは、もともとそのレベルのものでしかない。

●驚天動地の発見!
 さて日本人も、そろそろ事実を受け入れるべき時期にきているのではないだろうか。これは私の意見というより、日本が今進みつつある大きな流れといってもよい。たとえば二〇〇二年のはじめ、日本の天皇ですらはじめて皇室と韓国の関係にふれ、「ゆかり」という言葉を使った。これに対して韓国の金大統領は、「勇気ある発言」(報道)とたたえた(一月)。
 さらに同じ月、研究者をして「驚天動地」(毎日新聞大見出し)させるような発見が奈良県明日香村でなされた。明日香村のキトラ古墳で、獣頭人身像(頭が獣で、体が人間)の絵が見つかったというのだ。詳しい話はさておき、毎日新聞はさらに大きな文字で、こう書いている。「百済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」と。京都女子大学の猪熊兼勝教授は、「天文図、四神、十二支の時と方角という貴人に使われる『ローヤルマーク』をいくつも重ねている」とコメントを寄せている。これはどうやらふつうの発掘ではないようだ。それはそれとして、が、ここでもし、「百済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」の部分を、「百済王族イコール、弓削(ゆげ)皇子」と解釈したらどうなるか。弓削皇子は、天武天皇の皇子である。だから毎日新聞は、「研究者ら驚天動地」という大見出しを載せた。

●人間を原点に
 話はぐんと現実的になるが、日本人のルーツが、中国や韓国にあったとしても、私は驚かない。まただからといって、それで日本人のルーツが否定されたとも思わない。先日愛知万博の会議に出たとき、東大の松井孝典教授(宇宙学)は、こう言った。「宇宙から見たら、地球には人間など見えないのだ。あるのは人間を含めた生物圏だけだ」(二〇〇〇年一月一六日、東京)と。これは宇宙というマクロの世界から見た人間観だが、ミクロの世界から見ても同じことが言える。今どき東京あたりで、「私は遠州人だ」とか「私は薩摩人だ」とか言っても、笑いものになるだけだ。いわんや「私は松前藩の末裔だ」とか「旧前田藩の子孫だ」とか言っても、笑いものになるだけだ。日本人は皆、同じ。アジア人は皆、同じ。人間は皆、同じ。ちがうと考えるほうがおかしい。私たちが生きる誇りをもつとしたら、日本人であるからとか、アジア人であるからということではなく、人間であることによる。もっと言えば、パスカルが「パンセ」の中で書いたように、「考える」ことによる。松井教授の言葉を借りるなら、「知的生命体」(同会議)であることによる。

●非常識と常識
 いつか日本の歴史も東洋史の中に組み込まれ、日本や日本人のルーツが明るみに出る日がくるだろう。そのとき、現在という「過去」を振り返り、今、ここで私が書いていることが正しいと証明されるだろう。そしてそのとき、多くの人はこう言うに違いない。「なぜ日本の考古学者は、藤木新一の捏造という非常識にしがみついたのか。なぜ日本の歴史学者は、東洋史という常識に背を向けたのか」と。繰り返すが一見異質とも思われるこれら二つの事実は、その底流で深く結びついている。


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