| 階段でふとよろけたとき、三男がうしろから私を抱き支えてくれた。いつの間にか、私はそ
 んな年齢になった。腕相撲では、もうとっくの昔に、かなわない。自分の腕より太くなった息子
 の腕を見ながら、うれしさとさみしさの入り交じった気持ちになる。
 
 男親というのは、息子たちがいつ、自分を超えるか、いつもそれを気にしているものだ。息
 子が自分より大きな魚を釣ったとき。息子が自分の身長を超えたとき。息子に頼まれて、ネ
 クタイをしめてやったとき。そうそう二男のときは、こんなことがあった。二男が高校に入った
 ときのことだ。二男が毎晩、ランニングに行くようになった。しばらくしてから女房に話を聞く
 と、こう教えてくれた。「友だちのために伴走しているのよ。同じ山岳部に入る予定の友だち
 が、体力がないため、落とされそうだから」と。その話を聞いたとき、二男が、私を超えたのを
 知った。いや、それ以後は二男を、子どもというよりは、対等の人間として見るようになった。
 
 その時々は、遅々として進まない子育て。イライラすることも多い。しかしその子育ても終わ
 ってみると、あっという間のできごと。「そんなこともあったのか」と思うほど、遠い昔に追いや
 られる。「もっと息子たちのそばにいてやればよかった」とか、「もっと息子たちの話に耳を傾
 けてやればよかった」と、悔やむこともある。そう、時の流れは風のようなものだ。どこからと
 もなく吹いてきて、またどこかへと去っていく。そしていつの間にか子どもたちは去っていき、
 私の人生も終わりに近づく。
 
 その二男がアメリカへ旅立ってから数日後。私と女房が二男の部屋を掃除していたときの
 こと。一枚の古ぼけた、赤ん坊の写真が出てきた。私は最初、それが誰の写真かわからな
 かった。が、しばらく見ていると、目がうるんで、その写真が見えなくなった。うしろから女房
 が、「Sよ……」と声をかけたとき、同時に、大粒の涙がほおを伝って落ちた。
 
 
  何でもない子育て。朝起きると、子どもたちがそこにいて、私がそこにいる。それぞれが勝手なことをしている。三男はいつもコタツの中で、ウンチをしていた。私はコタツのふとんを、
 「臭い、臭い」と言っては、部屋の真ん中ではたく。女房は三男のオシリをふく。長男や二男
 は、そういう三男を、横からからかう。そんな思い出が、脳裏の中を次々とかけめぐる。その
 ときはわからなかった。その「何でもない」ことの中に、これほどまでの価値があろうとは!
 子育てというのは、そういうものかもしれない。街で親子連れとすれ違うと、思わず、「いいな
 あ」と思ってしまう。そしてそう思った次の瞬間、「がんばってくださいよ」と声をかけたくなる。
 レストランや新幹線の中で騒ぐ子どもを見ても、最近は、気にならなくなった。「うちの息子た
 ちも、ああだったなあ」と。
 
 問題のない子どもというのは、いない。だから楽な子育てというのも、ない。それぞれが皆、
 何らかの問題を背負いながら、子育てをしている。しかしそれも終わってみると、その時代が
 人生の中で、光り輝いているのを知る。もし、今、皆さんが、子育てで苦労しているなら、やが
 てくる未来に視点を置いてみたらよい。心がずっと軽くなるはずだ。
 
 
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