はやし浩司
家族の心を守るする法(家族は大切だと言え!)
家族の心が犠牲になるとき C ●子どもの心を忘れる親 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそ れに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。あるいは自分の子どもの学力が落ちて いるとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行くというケースも多い。アメリカの親たち は、「そのほうが子どものためになる」と考える。が、この日本ではそうはいかない。子どもが軽 い不登校を起こしただけで、たいていの親は半狂乱になる。先日もある母親から電話でこんな 相談があった。何でも学校の先生から、その母親の娘(小二)が、養護学級をすすめられてい るというのだ。その母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日 本ではそうなのか? ●明治以来の出世主義 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカで は、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。オーストラリアでもそうだ。 カナダやフランスでもそうだ。が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、 家族がないがしろにされてきた。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除され る。子どもでも「勉強する」「宿題がある」と言えば、すべてが免除される。 ●家事をしない夫たち 二〇〇〇年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割近く を妻が担当していることがわかった。「家族全体」で担当しているのは一割程度。夫が担当して いるケースは、わずか一%でしかなかったという。子どものしつけや親の世話でも、六割が妻 の仕事で、夫が担当しているケースは、三%(たったの三%!)前後にとどまった。その一方で 七割以上の人が、「男性の家庭、地域参加をもっと求める必要がある」と考えていることもわか ったという。内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。「今の二〇代の男性は 比較的家事に参加しているようだが、四〇代、五〇代には、リンゴの皮すらむいたことがない 人がいる。男性の意識改革をしないと、社会は変わらない。男性が老後に困らないためにも、 積極的に(意識改革の)運動を進めていきたい」(毎日新聞)と(※)。 仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の学歴社会があり、それを 支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐れる。それ が冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。言いかえると、この日本では、家族 を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていない。たいていの日本人は家族を平気 で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。 ●家族主義 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というの がある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあると いう「幸福」を求めて冒険するという物話である。あの物語を通して、ドロシーは、幸福というの は、結局は自分の家庭の中にあることを知る。アメリカを代表する物語だが、しかしそれがそ のまま欧米人の幸福観の基本になっている。少し前メル・ギブソンが主演する「パトリオット」と いう映画を見たが、あの中でも、深い家族愛がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」 を「愛国者」と訳すが、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父 なる大地を愛する」という意味の言葉に由来する。)
「国のためには戦わない」と言う欧米人も、「家族のためなら、命がけで戦う」とか「カントリー
(郷土)を守るためなら、戦う」とか言う。家族を守るということには、そういう意味も含まれる。 回りまわって、愛国心にもつながる。それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値 観を変えるべき時期にきているのではないのか。今のままだと、いつまでたっても、「日本異質 論」は消えない。が、悲観すべきことばかりではない。九九年の春、文部省がした調査では、 「もっとも大切にすべきもの」として、四〇%の日本人が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、 中日新聞社がした調査では、それが四五%になった。たった一年足らずの間に、五ポイントも ふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革命とも言えるべき大変化である。そこで あなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族は助け あい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育てを変 え、日本を変え、日本の教育を変える。 (参考) ※……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育委員 会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だという (二〇〇一年一一月)。
子どもに性教育を語る法(男女の差別を撤廃せよ!)
子どもに性教育を語るとき ●性の解放とは偏見からの解放
若いころ、いろいろな人の通訳として、全国を回った。その中でも特に印象に残っているの
が、ベッテルグレン女史という女性だった。スウェーデン性教育協会の会長をしていた。そのベ ッテルグレン女史はこう言った。「フリーセックスとは、自由にセックスをすることではない。フリ ーセックスとは、性にまつわる偏見や誤解、差別から、男女を解放することだ」「特に女性であ るからという理由だけで、不利益を受けてはならない」と。それからほぼ三〇年。日本もやっと ベッテルグレン女史が言ったことを理解できる国になった。 話は変わるが、先日、女房の友人(四八歳)が私の家に来て、こう言った。「うちのダンナなん か、冷蔵庫から牛乳を出して飲んでも、その牛乳をまた冷蔵庫にしまうことすらしないんだわ サ。だから牛乳なんて、すぐ腐ってしまうわサ」と。話を聞くと、そのダンナ様は結婚してこのか た、トイレ掃除はおろか、トイレットペーパーすら取り替えたことがないという。私が、「ペーパー がないときはどうするのですか?」と聞くと、「何でも『オーイ』で、すんでしまうわサ」と。 ●家事をしない男たち
国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「家事は全然しない」という夫が、まだ五
〇%以上もいるという(二〇〇〇年)(※)。年代別の調査ではないのでわからないが、五〇歳 以上の男性について言うなら、ほとんどの男性が家事をしていないのでは……? この年代の 男性は、いまだに「男は仕事、女は家事」という偏見を根強くもっている。男ばかりではない。私 も子どものころ台所に立っただけで、よく母から、「男はこんなところへ来るもんじゃない」と叱ら れた。こうしたものの考え方は今でも残っていて、女性自らが、こうした偏見に手を貸している。 が、その偏見も今、急速に音をたてて崩れ始めている。私が九九年に浜松市内でした調査で は、二〇代、三〇代の若い夫婦についてみれば、「家事をよく手伝う」「ときどき手伝う」という 夫が、六五%にまでふえている。欧米並みになるのは、時間の問題と言ってもよい。 ●男も昔はみんな、女だった? 実は私も、先に述べたような環境で育ったため、生まれながらにして、「男は……、女は… …」というものの考え方を日常的にしていた。高校を卒業するまで洗濯や料理など、したことが ない。たとえば私が小学生のころは、男が女と一緒に遊ぶことすら考えられなかった。遊べば 遊んだで、「女たらし」とバカにされた。そのせいか私の記憶の中にも、女の子と遊んだ思い出 がまったく、ない。が、その後、いろいろな経験で、私がまちがっていたことを思い知らされた。
が、決定的に私を変えたのは、次のような事実を知ったときだ。つまり人間は、男も女も、母
親の胎内では一度、皆、女だったという事実だ。つまりある時期までは人間は皆、女で、発育 の過程でその女から分離する形で、男は男になっていくと。このことは何人ものドクターに確か めたが、どのドクターも、「知らなかったのですか?」と笑った。正確には、「妊娠後数か月まで は男女の区別はなく、それ以後、胎児は男女にそれぞれ分化していく」ということらしい。このこ とを女房に話すと、女房は「あなたは単純ね」と笑ったが、以後、女性を見る目が、一八〇度変 わった。「ああ、ぼくも昔は女だったのだ」と。と同時に、偏見も誤解も消えた。言いかえると、 「男だから」「女だから」という考え方そのものが、まちがっている。「男らしく」「女らしく」という考 え方も、まちがっている。ベッテルグレン女史は、それを言った。 (参考) ※……国立社会保障人口問題研究所の調査によると、「掃除、洗濯、炊事の家事をまったくし ない」と答えた夫は、いずれも五〇%以上であったという。 部屋の掃除をまったくしない夫 ……五六・〇% 洗濯をまったくしない夫 ……六一・二% 炊事をまったくしない夫 ……五三・五% 育児で子どもの食事の世話をまったくしない夫 ……三〇・二% 育児で子どもを寝かしつけない夫(まったくしない)……三九・三% 育児で子どものおむつがえをまったくしない夫 ……三四・〇%
(全国の配偶者のいる女性約一四〇〇〇人について、一九九八年に調査)
これに対して、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」と答えた女性は、七六・七%いる が、その反面、「反対だ」と答えた女性も二三・三%もいる。男性側の意識改革だけではなく、 女性側の意識改革も必要なようだ。ちなみに「結婚後、夫は外で働き、妻は主婦業に専念す べきだ」と答えた女性は、半数以上の五二・三%もいる(同調査)。 こうした現状の中、夫に不満をもつ妻もふえている。厚生省の国立問題研究所が発表した 「第二回、全国家庭動向調査」(一九九八年)によると、「家事、育児で夫に満足している」と答 えた妻は、五一・七%しかいない。この数値は、前回一九九三年のときよりも、約一〇ポイント も低くなっている(九三年度は、六〇・六%)。「(夫の家事や育児を)もともと期待していない」と 答えた妻も、五二・五%もいた。 学校神話を打ち破る法(ズル休みをさせろ!) 常識が偏見になるとき C ●たまにはズル休みを……! 「たまには学校をズル休みさせて、動物園でも一緒に行ってきなさい」と私が言うと、たいてい の人は目を白黒させて驚く。「何てことを言うのだ!」と。多分あなたもそうだろう。しかしそれこ そ世界の非常識。あなたは明治の昔から、そう洗脳されているに過ぎない。 アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が一八歳のときにもっ た偏見のかたまりである」と。子どもの教育を考えるときは、時にその常識を疑ってみる。たと えば……。 ●日本の常識は世界の非常識 @学校は行かねばならぬという常識……アメリカにはホームスクールという制度がある。親が 教材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州 政府が家庭教師を派遣してくれる。日本では、不登校児のための制度と理解している人が多 いが、それは誤解。アメリカだけでも九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人 を超えた。毎年一五%前後の割合でふえ、二〇〇一年度末には二〇〇万人に達するだろうと 言われている。それを指導しているのが、「Learn in Freedom」(自由に学ぶ)という組織。「真 に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。地域のホームスクーラーが合同 で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は世界的な広がりをみせ、世界で 約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している(LIFレポートより)。 Aおけいこ塾は悪であるという常識……ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通 う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位 (※)で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。そのクラブ だが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは学校の中 にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が一二〇〇円前後(二〇〇一年調べ)。こう した親の負担を軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日本円で約一 四〇〇〇円)の「子どもマネー」が支払われている。この補助金は、子どもが就職するまで、最 長二七歳まで支払われる。
こうしたクラブ制度は、カナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性
に合わせてクラブに通う。日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学校外教育に対 する世間の評価はまだ低い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をも つが、それ以外には責任をもたない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住 所はもちろん、電話番号すら親には教えない。私が「では、親が先生と連絡を取りたいときは どうするのですか」と聞いたら、その先生(バンクーバー市日本文化センターの教師、Y・ムラカ ミ氏)はこう教えてくれた。「そういうときは、まず親が学校に電話をします。そしてしばらく待って いると、先生のほうから電話がかかってきます」と。 B進学率が高い学校ほどよい学校という常識……つい先日、東京の友人が、東京の私立中 高一貫校の入学案内書を送ってくれた。全部で七〇校近くあった。が、私はそれを見て驚い た。どの案内書にも、例外なく、その後の大学進学先が明記してあったからだ。別紙として、は さんであるのもあった。「○○大学、○名合格……」と(※)。この話をオーストラリアの友人に 話すと、その友人は「バカげている」と言って、はき捨てた。そこで私がでは、オーストラリアで はどういう学校をよい学校かと聞くと、こう話してくれた。 「メルボルンの南に、ジーロン・グラマースクールという学校がある。そこはチャールズ皇太子 が学んだこともある学校だが、そこでは生徒一人ひとりにあわせて、学校がカリキュラムを組 んでくれる。たとえば水泳が得意な子どもは、毎日水泳ができるように。木工が好きな子ども は、毎日木工ができるように、と。そういう学校をよい学校という」と。なおそのグラマースクー ルには入学試験はない。子どもが生まれると、親は出生届を出すと同時にその足で学校へ行 き、入学願書を出すしくみになっている。つまり早いもの勝ち。 ●そこはまさに『マトリックス』の世界
日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っていることでも、世界
ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。そこで一度、あなた自身の常識 を疑ってみてほしい。あなたは学校をどうとらえているか。学校とは何か。教育はどうあるべき か。さらには子育てとは何か、と。その常識のほとんどは、少なくとも世界の常識ではない。学 校神話とはよく言ったもので、「私はカルトとは無縁」「私は常識人」と思っているあなたにして も、結局は、学校神話を信仰している。「学校とは行かねばならないところ」「学校は絶対」と。 それはまさに映画『マトリックス』の世界と言ってもよい。仮想の世界に住みながら、そこが仮想 の世界だと気づかない。気づかないまま、仮想の価値に振り回されている……。 ●解放感は最高! ホームスクールは無理としても、あなたも一度子どもに、「明日は学校を休んで、お母さんと 動物園へ行ってみない?」と話しかけてみたらどうだろう。実は私も何度となくそうした。平日に 行くと、動物園もガラガラ。あのとき感じた解放感は、今でも忘れない。「私が子どもを教育して いるのだ」という充実感すら覚える。冒頭の話で、目を白黒させた人ほど、一度試してみるとよ い。あなたも、学校神話の呪縛(じゅばく)から、自分を解き放つことができる。 (付記) ※……一週間の間に所定の単位の学習をこなせばよいという制度。だから月曜日には、午後 三時まで学校で勉強し、火曜日は午後一時に終わるというように、自分で帰宅時刻を決めるこ とができる。 ●「自由に学ぶ」 「自由に学ぶ」という組織が出しているパンフレットには、J・S・ミルの「自由論(On Liberty)」 を引用しながら、次のようにある(K・M・バンディ)。 「国家教育というのは、人々を、彼らが望む型にはめて、同じ人間にするためにあると考えて よい。そしてその教育は、その時々を支配する、為政者にとって都合のよいものでしかない。 それが独裁国家であれ、宗教国家であれ、貴族政治であれ、教育は人々の心の上に専制政 治を行うための手段として用いられてきている」と。 そしてその上で、「個人が自らの選択で、自分の子どもの教育を行うということは、自由と社 会的多様性を守るためにも必要」であるとし、「(こうしたホームスクールの存在は)学校教育を 破壊するものだ」と言う人には、次のように反論している。いわく、「民主主義国家においては、 国が創建されるとき、政府によらない教育から教育が始まっているではないか」「反対に軍事 的独裁国家では、国づくりは学校教育から始めるということを忘れてはならない」と。 さらに「学校で制服にしたら、犯罪率がさがった。(だから学校教育は必要だ)」という意見に は、次のように反論している。「青少年を取り巻く環境の変化により、青少年全体の犯罪率は むしろ増加している。学校内部で少なくなったから、それでよいと考えるのは正しくない。学校 内部で少なくなったのは、(制服によるものというよりは)、警察システムや裁判所システムの 改革によるところが大きい。青少年の犯罪については、もっと別の角度から検討すべきではな いのか」と(以上、要約)。 日本でもホームスクール(日本ではフリースクールと呼ぶことが多い)の理解者がふえてい る。なお二〇〇〇年度に、小中学校での不登校児は、一三万四〇〇〇人を超えた。中学生で は、三八人に一人が、不登校児ということになる。この数字は前年度より、四〇〇〇人多い。 古い教育観を打ち破る法(子どもの選択を信じろ!) 日本が過去の亡霊を引きずるとき ●あのとき母だけでも…… あのとき、もし、母だけでも私を支えてくれていたら……。が、母は「浩ちゃん、あんたは道を 誤ったア」と言って、電話口の向こうで泣き崩れてしまった。私が「幼稚園で働いている」と言っ たときのことだ。 日本人はまだあの封建時代を清算しいていない。その一つが、職業による差別意識。この 日本には、よい仕事(?)と悪い仕事(?)がある。どんな仕事がそうで、どんな仕事がそうでな いかはここに書くことはできない。が、日本人なら皆、それを知っている。先日も大手の食品会 社に勤める友人が、こんなことを言った。何でもスーパーでの売り子をあちこちの会場で募集 するのだが、若い女性で応募してくる人がいなくて、困っている、と。彼は「嘆かわしいことだ」と 言ったので、私は彼にこう言った。「それならあなたのお嬢さんをそういうところで働かせること ができるか」と。
いや、友人を責めているのではない。こうした身勝手な考え方すら、封建時代の亡霊といって
もよい。目が上ばかり向いていて、下を見ない。「自尊心」と言えば聞こえはいいが、その中身 は、「自分や、自分の子どもだけは別!」という差別意識でしかない。が、それだけではすまな い。こうした差別意識が、回りまわって子どもの教育にも暗い影を落としている。この日本には よい学校とそうでない学校がある。よい学校というのは、つまりは進学率の高い学校をいい、 進学率が高い学校というのは、それだけ「上の世界」に直結している学校のことをいう。 ●そして私は母に電話をした…… 「すばらしい仕事」と、一度は思って飛び込んだ幼児教育の世界だったが、入ってみると、事 情は違っていた。その底流では、親たちのドロドロとした欲望が渦巻いていた。それに職場は まさに「女」の世界。しっと縄張り。ねたみといじめが、これまた渦巻いていた。私とて何度、年 配の教師にひっぱたかれたことか! それだけではない。親自身が、幼稚園教師の身分を認 めていなかった。中には私に面と向って、「どうせあんたは学生運動か何かをしていて、ロクな 仕事につけなかったのだろう」と言った男がいた。 ●「あんたは道を誤ったア」 母に電話をしたのは、そんなときだった。私は母だけは私を支えてくれるものとばかり思って いた。寒い冬の日だった。が、母は私の話を半分も聞かないうちに、「あんたは道を誤ったア」 と。「ああ、誤ったア、誤ったア……、アアア……」と。その一言で私は、絶望のどん底にたたき 落とされてしまった。胸の下にポッカリと穴があいてしまったかのような絶望感だった。それか らというもの、私は毎日、「死んではダメだ」と、自分に言って聞かせねばならなかった。が、そ れだけではなかった。私は外の世界では、「幼稚園で講師をしている」という事実を隠し、幼稚 園の中では、「留学をしていた」という事実を隠した。どちらにせよ、話せば話したで、皆「どうし て?」と言ったまま、口をつぐんでしまった。もしあのとき母だけでも、私を支えていてくれたら、 私のその後の人生は、大きく変わっていたに違いない。いや、これとて母を責めているのでは ない。母は母として、当時の常識の中でそう言っただけだ。 子どもの世界の問題は、決して子どもの世界だけの問題ではない。問題の根源は、もっと深 く、そして別のところにある。そしてこうした封建時代の亡霊をいつかどこかで清算しない限り、 日本の教育に明日はない。 古い教育体制を変える法(教科書を廃止せよ!) 私がアメリカの学校を見たときC ●楽しさのある学校 アメリカでもオーストラリアでも、そしてカナダでも、学校を訪れてまず驚くのが、その「楽し さ」。まるでおもちゃ箱の中にでも入ったかのような、錯覚を覚える。写真は、アメリカ中南部に ある公立の小学校(アーカンソー州アーカデルフィア、ルイザ・E・ペリット小学校。児童数三七 〇名)。教室の中に、動物の飼育小屋があったり、遊具があったりする。 ●カリキュラムも学校の自由 アメリカでは、教育の自由化が、予想以上に進んでいる。まずカリキュラムだが、州政府のガ イダンスに従って、学校が独自で、親と相談して決めることができる。オクイン校長に、「ガイダ ンスはきびしいものですか」と聞くと、「たいへんゆるやかなものです。州政府が提示する六つ の領域にそって、教師と親が相談して決めています」と笑った。もちろん日本でいう教科書はな い。検定制度もない。たとえばこの小学校は、年長児と小学一年生だけを教える。そのほか、 プレ・キンダガーテンというクラスがある。四歳児(年中児)を教えるクラスである。
費用は朝食代と昼食代などで、週六〇ドルかかるが、その分、学校券(バウチャ)などによっ
て、親は補助されている。驚いたのは四歳児から、コンピュータの授業をしていること。また欧 米では、図書室での教育を重要視している。この学校でも、図書室には専門の司書を置いて、 子どもの読書指導にあたっていた。話を聞くと、週に一度、それぞれの子どもを図書室へ呼 び、読書指導をしているとのこと。「授業の一つですか」と聞くと、オクイン校長は、「そうだ」と言 った。 授業は、一クラス一六名前後。教師のほか、当番制で学校へやってくる母親、それに大学か ら派遣されたインターンの学生の三人であたっている。アメリカというと、とかく荒れた学校だけ が日本で報道されがちだが、そういうのは、大都会の一部の学校とみてよい。周辺の学校もい くつか回ってみたが、どの学校も、実にきめのこまかい、ていねいな指導をしていた。 ●教育の自由化は世界の流れ 教育の自由化は、世界の流れとみてよい。たとえば欧米の先進国の中で、いまだに教科書 の検定制度をもうけているのは、日本だけ。オーストラリアにも検定制度はあるが、それは民 間組織によるもの。しかも検定するのは、過激な暴力的表現と性描写のみ。「歴史的事実につ いては検定してはならない」(南オーストラリア州)ということになっている。アメリカには、家庭で 教えるホームスクール、親たちが教師を雇って開くチャータースクール、さらには学校券で運営 するバウチャースクールなどもある。行き過ぎた自由化が、問題になっている部分もあるが、こ うした「自由さ」が、アメリカの教育をダイナミックなものにしている。 日本の文化を見る法(日本の文化を疑え!) 日本の文化が自閉するときC ●子どもを見ると、世界の文化が見える 子どもを見ていると、世界の文化が見えるときがある。昔、ある幼稚園へ行くと、一人の女の 子(年中児)が、小さな丸だけをつなげて、黙々と絵をかいていた。実にこまかい、見るだけで 気が滅入りそうになるような絵だった。そこで担任の先生に、「あの子はどういう子ですか?」と 聞くと、その先生はこう言った。「根気のあるいい子ですよ」と。しかしその子は、本当に「いい 子」か? 内閉した心が、行き場をなくすと、子どもはそういう症状を示す。自閉症初期の子ど もがよく似たような症状を示す。が、一方、伸びやかな子どもは、何かにつけて、大ざっぱ。存 在感があり、絵も大胆。画用紙を渡しても、あっという間に、画面いっぱいの絵をかいてしまう。 ●金沢の文化は自閉文化? ……という知識があると、文化の見方も変わってくる。たとえば金沢。その金沢の伝統工芸を、 一口で言えば、「精緻(せいち)」。実にこまかい細工を、ていねいする。まき絵や金箔工芸は 言うにおよばず、和菓子にまで、その伝統は生きている。こうした工芸は高く評価されている が、しかしその背景には、押しつぶされた人間の「自我」がある。あの前田家を美化する人も 多いが、しかし実際には、あの前田家が君臨した加賀藩は、日本でも、そして世界でも、類を 見ないほど暗黒かつ恐怖政治の時代でもあった。今でも金沢市には尾張町とか近江町とかい う町名がある。それぞれの地方から強制的に移住させられた人が住んだ町内である。また金 沢城の中には、藩主が、生身の人間をぶらさげて、刀の試し切りをしたところも残っている。そ ういう世界では、民衆は内閉するしかなかった……。 ●アメリカの文化は、開放文化 一方これとは対照的なのが、アメリカ中南部地方。テキサス州を例にとればよい。あそこでは、 すべてがもう、大ざっぱ。やることなすこと、すべてが大ざっぱだから恐れ入る。家具にしても、 表向きは結構見栄えのするものを作る。が、内側から見ると、ア然とする。どうア然とするか は、機会があれば、自分で確かめてみてほしい。言いかえると、テキサスの人に、精緻な仕事 を期待しても無理。不可能。絶対にできない。そういう雰囲気すら、ない。レストランの料理にし ても、量だけはやたらと多いが、料理というより、あれは家畜のエサ(失礼!)。 金沢の文化と、テキサスの文化は、きわめて対照的である。しかしそれはとりもなおさず、日 本人とアメリカ人の違い。さらには、日本の歴史とアメリカの歴史の違いでもある。で、結論か ら言えば、日本の文化は、内閉文化。アメリカの文化は、開放文化ということになる。これは子 どもの世界から見た、世界の文化論ということになるが、しかしそういう目で見ると、金沢の伝 統工芸がすばらしいと手放しでは言えない反面、テキサス州で作られる家具が、ひどいものだ とは言えなくなる。皆さんも、一度、そういう目で世界の文化をながめてみたら、どうだろうか。
日本の教育を見なおす法(教育を自由化せよ!)
日本の教育が遅れるとき ●英語教育はムダ? D氏(六五歳・私立小学校理事長)はこう言った。「まだ日本語もよくわからない子どもに、英 語を教える必要はない」と。つまり小学校での英語教育は、ムダ、と。しかしこの論法が通るな ら、こうも言える。「日本もまだよく旅行していないのに、外国旅行をするのはムダ」「地球のこと もよくわかっていないのに、火星に探査機を送るのはムダ」と。私がそう言うと、D氏は、「国語 の時間をさいてまで英語を教える必要はない。しっかりとした日本語が身についてから、英語 の勉強をすればいい」と。 ●多様な未来に順応できるようにするのが教育 オーストラリアの多くのグラマースクールでは、中一レベルで、生徒たちは、たとえば外国語 にしても、ドイツ語、フランス語、中国語、インドネシア語、それに日本語の中から選択できるよ うになっている。事情はイギリスも同じで、在日イギリス大使館S・ジャック氏も次のように述べ ている。「(教育の目的は)多様な未来に対応できる子どもたちを育てること(※)」(長野県経営 者協会会合の席)と。オーストラリアのほか、ドイツやカナダでも、学外クラブが発達していて、 子どもたちは学校が終わると、中国語クラブや日本語クラブへ通っている。こういう時代に、 「英語を教える必要はない」とは! 英語を知ることは、外国を知ることになる。外国を知ることは、結局は、この日本を知ること になる。D氏はこうも言った。「中国では、ウソばかり教えている。日本軍は南京で一〇万人し か中国人を殺していないのに、三〇万人も殺したと教えている」と。私が「一〇万人でも問題で しょう。一万人でも問題です」と言うと、「中国にせよ韓国にせよ、日本が占領したから発展でき た。鉄道も道路も、みんな、日本が作ってやった」「日本が占領しなかったら、今ごろは欧米の 占領下にあって、ひどい目にあっているはず」と食ってかかってきた。 ●文法学者が作った体系 日本の英語教育は、将来英語の文法学者になるには、すぐれた体系をもっている。数学も 国語もそうだ。将来その道の学者になるには、すぐれた体系をもっている。理由は簡単。もとも とその道の学者が作った体系だからだ。だからおもしろくない。だから役に立たない。こういう 教育を「教育」と思い込まされている日本人はかわいそうだ。子どもたちはもっとかわいそう だ。
たとえば英語という科目にしても、大切なことは、文字や言葉を使って、いかにして自分の意
思を相手に正確に伝えるか、だ。それを動詞だの、三人称単数だの、そんなことばかりにこだ わるから、子どもはますます英語嫌いになる。ちなみに中学一年の入学時には、ほとんどの子 どもが「英語、好き」と答える。が、一年の終わりには、ほとんどの子どもが、「英語、嫌い」と答 える。数学だって、無罪ではない。あの一次方程式や二次法的式にしても、それほど大切なも のなのだろうか。
さらに進んで、ベクトルや複素数、さらには微分や積分が、それほど大切なものなのだろう
か。仮に大切なものだとしても、そういうものが、実生活でどれほど役に立つというのだろうか。 日本の教育の柱は、「皆が一〇〇点だと困る。差がつかないから。しかし皆が〇点だともっと 困る。差がわからないから」になっている。もしそうでないと言うのなら、なぜ中学一年で一次方 程式を学び、三年で二次方程式を学ぶのか。また学ばねばならないのか、それを説明できる 人はいるだろうか。仮に必要だとしても、高校三年になってから、学んだとしても、遅くはない。 ちなみにあのオーストラリアでは、中学一年で、二桁かける二桁の掛け算を学んでいる。(日本 では小学三年で、三桁かける二桁の掛け算まで学ぶ。) ●日本はすばらしい国? さて冒頭のD氏はさらにこう言った。「あなたは日本のどこに、一体不満なのですか。日本は いい国ではないですか。犯罪も少ないし。どうしてそれを変えなければならないのですか」と。 私は何も日本が悪いと言っているのではない。「改善すべき点はいくらでもある」と言っている に過ぎない。また日本の欧米化がすべてよいと言っているのでもない。しかし世界には世界の 常識というものがある。もし日本が世界で通用する国をめざすとするなら、日本はその常識に 合わせるしかない。「ワレワレ意識」(CNN)に日本人が固執する限り、日本はいつまでたって も、国際社会から受け入れられることはない。私はそれを言っているだけだ。 ●教育を自由化せよ さて冒頭の話。英語教育がムダとか、ムダでないという議論そのものが、意味がない。こうい う議論そのものが、学校万能主義、学校絶対主義の上にのっている。早くから英語を教えたい 親がいる。早くから教えたくない親もいる。早くから英語を学びたい子どもがいる。早くから英語 を学びたくない子どももいる。早くから教えるべきだという人もいるし、そうでない人もいる。要 は、それぞれの自由にすればよい。オーストラリアやドイツ、カナダのようにクラブ制にすれば よい。またそれができる環境をつくればよい。「はじめに学校ありき」ではなく、「はじめに子ども ありき」という発想で考える。それがこれからの教育のあるべき姿ではないのか。 (参考) ※……ブレア首相は、教育改革を最優先事項として、選挙に当選した。それについて在日イギ リス大使館のS・ジャック公使は、次のように述べている(長野県経営者協会会合の席)。
「イギリスでは、一九九〇年代半ば、教育水準がほかの国の水準に達しておらず、その結
果、国家の誇りが失われた認識があった。このことが教育改革への挑戦の原動力となった」 「さらに、現代社会はIT(情報技術)革命、産業再編成、地球的規模の相互関連性の促進、社 会的価値の変化に直面しているが、これも教育改革への挑戦的動機の一つとなった。つまり 子どもたちが急激に変化する世界で生活し、仕事に取り組むうえで求められる要求に対応で きる教育制度が必要と考えたからである」と。
そして「当初は教師や教職員組合の抵抗にあったが、国民からの支持を得て、少しずつ理解
を得ることができた」とも。イギリスでの教育改革は、サッチャー首相の時代から、もう丸四年 になろうとしている(二〇〇一年一一月)。
過去の亡霊と決別する法(封建時代を清算せよ!)
日本人が出世主義を引きずるとき B ●清算していない封建時代 日本はまだあの封建時代を清算していない。していないばかりか、いまだに封建時代の亡霊 をひきずっている! たとえば二一世紀にもなった今でも、「父親の威厳」を説く人は多い。最 近でもこんな記事を読んだ。ある大学の教授のコラムだが、いわく、「明治生まれの父は職業 軍人でした。……ところがある晩、父から『無礼者!』と一喝され、ひざがしらをおろされたので す。風邪気味で急の吐き気を抑えきれず、正座して晩酌中だった父の着物を汚してしまいまし た。父の威厳はゼウスに似て、五歳だった私の脳裏に焼きついています」と。その教授は、そ ういう威厳こそが、父親に求められる理想の「父性」であると書いていたが、しかしそれにしても 五歳の息子に、「無礼者!」とは! @権威主義の親……「私は親」「あなたは私の子ども」という意識が強い。子どもを「物」のよう に扱う。このタイプの親の典型的な会話。「先生、息子なんて育てるもんじゃないですね。横浜 の嫁に取られてしまいまして……。さみしいもんですわ」と。息子が横浜の女性と結婚したこと を、このタイプの親は「取られた」と言う。「娘を嫁にくれてやる」とか、「嫁をもらう」とか言うこと もある。さらに上下意識が強くなると、「親に向かって!」「お前は、誰のおかげで!」とか言うこ とが多くなる。この権威主義の親かどうかは、電話のかけかたをみれば、わかる。つまりこのタ イプの親は、無意識のうちにも人間の上下関係を判断するため、地位や肩書きのある人や目 上の人に対しては、必要以上にていねいに接し、そうでない人には、尊大ぶったり、いばって みせたりする。私の知人にもそんな人がいる。退職前は、ある団体の「長」をしていたが、会う 人ごとに、「君は(退職前は)何をしていたかね」と。そしてその相手が自分より地位や立場が 上だったりすると、ペコペコし、そうでないと胸を張る。その落差がはたで見ていても、おもしろ いほど極端で、まるで別人かと思うときさえある。 A出世主義の親……「立派な」とか「偉い」とかいう言葉をよく使う。「立派な家を建てましたね」 「あの人は偉いもんだ」とか。子どもには、「立派な人になれ」「偉い人になれ」とか言う。あるい は一方的に子どもに高い学歴を求める。このタイプの親は、見栄やメンツを重んじる。世間体 を気にする。派手な結婚式をしたり、家の格式を重んじたりする。職業による差別意識も強 い。私が幼稚園の教師をしていることについて、「男なら、もう少しまともな仕事をしたら」と言っ た人(男性六〇歳)がいた。そういうものの考え方をする。 ●過去の亡霊が親子関係を破壊する 権威主義にせよ出世主義にせよ、それが強ければ強いほど、親子関係はぎくしゃくしてくる。 親にとっては、居心地がよい世界かもしれないが、子どもにとっては、居心地が悪い。要する に親は、子どもの者の心が見えなくなる。子どもはますます心を隠す。その分だけ、子どもの 心は親から離れる。この悪循環が、時として親子の間に、深刻な亀裂をつくる。「断絶」というよ うな、なまやさしいものではない。成人してからも、「親と会うだけで、不安になる」という人はいく らでもいる。「盆や正月でも、親がいる実家へ帰ることができない」という人(女性三〇歳)もい る。さらに悲劇は続く。息子や娘がそういう状態にあっても、このタイプの親はそれに気づかな い。たいていの親は、自分では「私こそ親の鏡」と思い込んでいる。 日本人は明治以後においても、あの封建時代を清算していない。もっと言えば心の奥底で、 いまだにそれを支えている。美化する人さえいる。しかし封建意識は伝統でも文化でもない。あ の江戸時代という時代は、日本人という民衆にとっては、悪夢のような時代だった。それを一 つずつ清算していくのも、私たちの役目ではないのか。 愛国心を考える法(愛郷心と言いかえろ!) 子どもに愛国心を語るとき C ●愛国心は世界の常識? 日本語と英語は、必ずしも一致しない。たとえばよく政治家は、「愛国心は世界の常識」という ようなことを言う。しかし……。 こんなことがあった。昔、オーストラリアの学生に、「君はどの島から来たのか」と聞かれたこ とがある。私はムッとして、「島ではない。本州(メイン・コンチネント)だ」と言うと、彼のみなら ず、周囲の者まで、どっと笑った。私が冗談を言ったと思ったらしい。英語で、メイン・コンチネ ントというと、中国大陸や欧州大陸のような大陸をいう。驚いたのは、オーストラリアの大学で 使うテキストでは、日本は「官僚主義国家」となっていたことだ。「君主(天皇)官僚主義国家」と なっているテキストもあった。日本が民主主義国家だと思っているのは、恐らく日本人だけでは ないのか。ほかに自衛隊は、英語でズバリ、「軍隊」、安保条約は、「軍事同盟」となっていた。 「日本の自衛隊は軍隊ではない。セルフ・デフェンス・アーミィ(自己防衛隊)だ」と私が言うと、 皆、またどっと笑った。こんなこともあった。 ●「ヒロシ、どうやってこの広い国を守れるのか」 ある日、オーストラリアの友人たちに、私が「もしインドネシア軍が君たちの国(カントリー)を 攻めてきたら、どうする」と聞いたときのこと。オーストラリアでは、インドネシアが仮想敵国にな っていた。当時はまだ、パプアニューギニアの領有権問題で互いにはげしく対立していた。が、 皆はこう言った。「逃げる」と。「祖父の故郷のスコットランドに帰る」と言ったのもいた。何という 愛国心! 私が驚いていると、こう言った。「ヒロシ、どうやってこの広い国を守れるのか」と。 英語でカントリーというときは、「国」というより、「郷土」という土地を意味する。そこで質問を変 えて、「では君たちの家族がインドネシア軍に襲われたらどうするか」と聞いた。すると皆は血 相を変えて、こう言った。「そのときは容赦しない。徹底的に戦う」と。 ●民族主義について ところで「民族」という言葉がある。しかしこの言葉ほど、あいまいな言葉もない。相対的な視 点で、そのとらえ方がどんどん変化する。同じ人間が、世界から見ればアジア民族。そのアジ アで見れば、日本民族。その日本で見れば、大和民族などなど。私の隣町では、「M原人(縄 文時代の遺骨)」が発見されたとかで、その町の人たちはさかんに、「M原人」という言葉を使 っている。もちろんそれぞれの立場で、自分の属する民族に誇りをもつことは大切なことだ。し かしそれが思想の中心になったとき、民族主義となる。が、この民族主義は、まさに両刃の 剣。民族主義がひとり歩きすると、とんでもないことになる。あのヒットラーは、「わがゲルマン 民族は!」と叫びながら、欧州を制圧していった。民族主義はよく国粋主義にすりかえられ、つ いで愛国心に利用される。 ●同じ愛国心と言っても その愛国心だが、「愛国心」を英語では、「ペイトリアティズム」という。もともとは、「父なる大地 を愛する」を意味するラテン語の「パトリス」に由来する。たとえばメル・ギブソンの映画に『パト リオット』というのがあった。日本語に訳すと「愛国者」ということになるが、あの映画の中では、 国というよりは家族のために戦う一人の父親が、テーマになっていた。つまり彼らが愛国心と 言うときは、「郷土を愛する心」を意味する。そこで私のこと。私は日本人を愛している。日本の 文化を愛している。この日本という大地を愛している。しかしそのことと、「国という体制を愛す る」というのは、別問題である。体制というのは、未完成で、しかも流動的。そも「愛する」とか 「愛さない」とかいう対象にはならない。愛国心という言葉が、体制擁護の方便となることもあ る。左派系の人が、愛国心という言葉にアレルギー反応を示すのは、そのためだ。 ●たった一つの地球論 ついでに……。宇宙船から地球を見た、サウジアラビアの宇宙飛行士アル・サウドはこう言っ た。「最初の一日か二日は、みんな自分の国を指さした。三日目、四日目は、それぞれの大陸 を指さした。が、五日目になると、私たちの心の中には、たった一つの地球しかなかった」と。 それはまさに人類がめざすゴールと言ってもよい。今、私たちが未来に向かってすべきこと は、そのゴールに向って一歩でも前に進むことではないのか。 ●愛国心を愛土心と言いかえてみる そこでどうだろう。愛国心という言葉を、「愛人心」「愛土心」と言いかえてみたら。「愛郷心」で もよい。そうであれば問題はない。私も納得できる。左派の人も右派の人も、それに反対する 人はいまい。子どもたちにも胸を張って、堂々とこう言うこともできる。「私たちの仲間の日本人 を愛しましょう」「私たちが育ててきた日本の文化を愛しましょう」「緑豊かで、美しい日本の大地 を愛しましょう」と。その結果として、現在の民主主義体制があるというのなら、それはそれとし て守り育てていかねばならない。当然のことだ。 日本の民主主義を考える法(官僚社会を解体せよ!) 日本の社会が不公平になるときC ●日本は民主主義国家? Yさん(四〇歳女性)は、最近二〇年来の友人と絶交した。その友人がYさんにこう言ったか らだ。「こういう時代になってみると、夫が公務員で本当によかったです」と。たったそれだけの ことだが、なぜYさんが絶交したか。あなたにはその理由がわかるだろうか。 ●外郭団体だけで一八〇〇! 平安の昔から、日本は官僚主義国家。日本が民主主義国家だと思っているのは、恐らく日 本人だけ。三〇年前だが、オーストラリアの大学で使うテキストには、「日本は官僚主義国家」 となっていた。「君主(天皇)官僚主義国家」となっているのもあった。このことは前にも書いた が、現在の今でも、全国四七都道府県のうち、二七〜九の府県の知事は、元中央官僚。七〜 九の県では副知事も元中央官僚(二〇〇〇年)。さらに国会議員や大都市の市長の多くも、元 中央官僚。いや、官僚が政治家になってはいけないというのではない。
問題は、こうした官僚支配体制が、日本の社会をがんじがらめにし、それがまた日本の社会
を硬直化させているということ。たとえばよく政府は、「日本の公務員の数は、欧米と比べても、 それほど多くない」と言う。が、これはウソ。国家公務員と地方公務員の数だけをみれば確か にそうだが、日本にはこのほか、公団、公社、政府系金融機関、電気ガスなどの独占的営利 事業団体がある。これらの職員の数だけでも、「日本人のうち七〜八人に一人が、官族」だそ うだ(徳岡孝夫氏)。が、まだある。
公務員のいわゆる天下り先機関として機能する、協会、組合、施設、社団、財団、センター、
研究所、下請け機関がある。この組織は全国の津々浦々、市町村の「村」レベルまで完成して いる。あの旧文部省だけでも、こうした外郭団体が、一八〇〇近くもある。こうした団体が日本 の社会そのものを、がんじがらめにしている。そのためこの日本では、何をするにも許可や認 可、それに資格がいる。息苦しいほどまでの管理国家と言ってもよい。そこで構造改革……と いうことになるが、これがまた容易ではない。平安の昔から、官僚が日本を支配するという構 図そのものが、すでにできあがっている。「日本は新しいタイプの社会主義国家」と言う学者も いる。
こうした団体で働く職員は、この不況もどこ吹く風。まさに権利の王国。完全な終身雇用制度
に守られ、満額の退職金に月額三〇〜三五万円近い年金を手にしている。「よい仕事をする ためには、身分の保証が必要」(N組合、二〇〇一年度大会決議採択)と豪語している労働組 合すらある。こういう日本の現状の中で、行政改革だの構造改革だのを口にするほうが、おか しい。実際、こうした団体の職員数は、今の今も、ふえ続けている。 ●不公平社会の是正こそ先決 この日本、公的な保護を受ける人は徹底的に受ける。そうでない人はまったくと言ってよいほ ど、受けない。こうした社会から受ける不公平感は相当なもので、それがYさんを激怒させた。 Yさんはこう言った。「私たちは明日の生活をどうしようと、あちこちを走り回っているのです。そ ういうときそういうことを言われると、本当に頭にきます」と。が、それではすまない。その不公 平感が結局は、学歴社会の温床になっている。
いくら親に受験競争の弊害を説いたところで、意味がない。親は親で、「そうは言っても現実
は現実ですから……」と言う。現に今、大学生の人気職種ナンバーワンは、公務員(財団法人 日本青少年研究所二〇〇一年調査)。ちょっとした(失礼!)公務員採用試験でも倍率が、一 〇倍から数一〇倍になる。なぜそうなのかというところにメスを入れない限り、日本の教育に明 日はない。 古い教育観を変える法(尊敬される人と言え!) 日本人が出世主義を引きずるとき ●偉い人と尊敬される人 日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人(respected man)」と言う。よく似 た言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。日本で「偉い人」 と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり偉い人とは言わない。一 方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、こう 言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」と聞くと、「信 長は天下を統一したから」と。中学校で使う教科書にもこうある。「信長はこれまでの古い体制 や社会をうちこわして、武士が支配する新しい社会づくりに取り組みました。荘園領主が設け ていた関所を廃止して、楽市、楽座を出して、自由な商業ができるようにしました」(帝国書院 版)と。これだけを読むと、信長があたかも自由社会の創始者であったかのような錯覚すら覚 える。しかし……? ●世界でも類のない暗黒時代 実際のところそれから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒かつ恐 怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民は極貧の生活 を強いられた。もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。由比正雪らが起こしたとされる「慶安 の変」でも、事件の所在があいまいなまま、その刑は縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、 「(そのため)安部川近くの小川は血で染まり、ききょう川と呼ばれるようになった」(中日新聞コ ラム)と書いている。家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美化される一方、彼に 都合の悪い事実は、これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、あくまでも その結果でしかない。 ●民主主義を完成させるために ……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこであなた 自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。もしあなたが 地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊を、いまだに心 のどこかで引きずっていることになる。そこで提言。「偉い」という語を、廃語にしよう。子どもに 向かっては、「偉い人になりなさい」ではなく、「尊敬される人になりなさい」と言えばよい。「偉 い」という言葉が残っている限り、偉い人をめざす出世主義がはびこり、それを支える庶民の 隷属意識は消えない。民間でならまだしも、政治にそれが利用されると、とんでもないことにな る。「私、日本で一番偉い人」と言った首相すらいた。そういう意識がある間は、日本の民主主 義は完成しない。 日本の教育レベルを考える法(幻想を捨てろ!) 日本の教育レベルがさがるとき ●日本の教育レベルは一六五カ国中、一五〇位? 東大のある教授(理学部)が、こんなことを話してくれた。「化学の分野には、一〇〇〇近い 分析方法が確立されている。が、基本的に日本人が考えたものは、一つもない」と。あるいは こんなショッキングな報告もある。世界的な標準にもなっている、TOEFL(国際英語検定試験) で、日本人の成績は、一六五か国中、一五〇位(九九年)。「アジアで日本より成績が悪い国 は、モンゴルぐらい。北朝鮮とブービーを争うレベル」(「週刊新潮」)だそうだ。
オーストラリアあたりでも、どの大学にも、ノーベル賞受賞者がゴロゴロしている。しかし日本
には数えるほどしかいない。あの天下の東大には、一人もいない。ちなみにアメリカだけでも、 二五〇人もの受賞者がいる。ヨーロッパ全体では、もっと多い。「日本の教育は世界最高水準 にある」と思うのは勝手だが、その実態は、たいへんお粗末。今では小学校の入学式当日か らの学級崩壊は当たり前。はじめて小学校の参観日(小一)に行った母親は、こう言った。「音 楽の授業ということでしたが、まるでプロレスの授業でした」と。 ●低下する教育力 こうした傾向は、中学にも、そして高校にも見られる。やはり数年前だが、東京の都立高校 の教師との対話集会に出席したことがある。その席で、一人の教師が、こんなことを言った。 いわく、「うちの高校では、授業中、運動場でバイクに乗っているのがいる」と。すると別の教師 が、「運動場ならまだいいよ。うちなんか、廊下でバイクに乗っているのがいる」と。そこで私が 「では、ほかの生徒たちは何をしているのですか」と聞くと、「みんな、自動車の教習本を読んで いる」と(※1)。 さらに大学もひどい。大学が遊園地になったという話は、もう一五年以上も前のこと。今では 分数の足し算、引き算ができない大学生など、珍しくも何ともない。「小学生レベルの問題で、 正解率は五九%」(国立文系大学院生について調査、京大・西村)だそうだ(※2)。日本では 大学生のアルバイトは、ごく日常的な光景だが、それを見たアメリカの大学生はこう言った。 「ぼくたちには考えられない」と。大学制度そのものも、日本のばあい、疲弊している! つまり 何だかんだといっても、「受験」が、かろうじて日本の教育を支えている。もしこの日本から受験 制度が消えたら、進学塾はもちろんのこと、学校教育そのものも崩壊する。確かに一部の学 生は猛烈に勉強する。しかしそれはあくまでも「一部」。内閣府の調査でも、「教育は悪い方向 に向かっている」と答えた人は、二六%もいる(二〇〇〇年)。九八年の調査よりも八%もふえ た。むべなるかな、である。 ●規制緩和は教育から 日本の銀行は、護送船団方式でつぶれた。政府の手厚い保護を受け、その中でヌクヌクと 生きてきたため、国際競争力をなくしてしまった。しかし日本の教育は、銀行の比ではない。護 送船団ならぬ、丸抱え方式。教育というのは、二〇年先、三〇年先を見越して、「形」を作らね ばならない。が、文部科学省の教育改革は、すべて後手後手。南オーストラリア州にしても、す でに一〇年以上も前から、小学三年生からコンピュータの授業をしている。メルボルン市にあ る、ほとんどのグラマースクールでは、中学一年で、中国語、フランス語、ドイツ語、インドネシ ア語、日本語の中から、一科目選択できるようになっている。もちろん数学、英語、科学、地 理、歴史などの科目もあるが、ほかに宗教、体育、芸術、コンピュータの科目もある。芸術は、 ドラマ、音楽、写真、美術の各科目に分かれ、さらに環境保護の科目もある。もう一つ「キャン プ」という科目があったので、電話で問い合わせると、それも必須科目の一つとのこと(メルボ ルン・ウェズリー・グラマースクール)。 ●規制緩和が必要なのは教育界 いろいろ言われているが、地方分権、規制緩和が一番必要なのは、実は教育の世界。もっと はっきり言えば、文部科学省による中央集権体制を解体する。だいたいにおいて、頭ガチガチ の文部官僚たちが、日本の教育を支配するほうがおかしい。日本では明治以来、「教育という のはそういうものだ」と思っている人が多い。が、それこそまさに世界の非常識。あの富国強兵 時代の亡霊が、いまだに日本の教育界をのさばっている! 今まではよかった。「社会に役立つ人間」「立派な社会人」という出世主義のもと、優良な会社 人間を作ることができた。「国のために命を落とせ」という教育が、姿を変えて、「会社のために 命を落とせ」という教育に置きかわった。企業戦士は、そういう教育の中から生まれた。が、こ れからはそういう時代ではない。日本が国際社会で、「ふつうの国」「ふつうの国民」と認められ るためには、今までのような教育観は、もう通用しない。いや、それとて、もう手遅れなのかもし れない。よい例が、日本の総理大臣だ。 ●ヘラヘラする日本の首相 G8だか何だか知らないが、日本の総理は、出られたことだけを喜んで、はしゃいでいる(二 〇〇〇年春)。本当はそうではないのかもしれないが、私にはそう見える。総理なのだから、通 訳なしに日本のあるべき姿、世界のあるべき姿を、もっと堂々と主張すべきではないのか。 が、そういう迫力はどこにもない。列国の元首の中に埋もれて、ヘラヘラしているだけ。そういう 総理しか生み出せない国民的体質、つまりその土壌となっているのが、ほかならぬ、日本の教 育なのである。言いかえると、日本の教育の実力は、世界でも一五〇位レベル? 政治も一 五〇位レベル? どうして北朝鮮の、あの悪政を、笑うことができるだろうか。 (付記) ※1……東京都教育委員会は、「都立高校マネジメントシステム検討委員会」を設置した(二〇 〇一年六月)。これはともすれば経営感覚を無視しがちが学校運営者(校長)に、経営感覚を もってもらおうという趣旨で設置されたものだが、具体的には、各学校に進学率などの数値目 標を設定させ、目標達成に向けた校内体制を整備させようというもの。つまり進学率や高校へ の応募倍率、さらには定期考査の平均点などで、学校が評価されるという。またこれに呼応す るかのように、東京都では「代々木ゼミナール」などの予備校での教員研修を始めている(二 〇〇一年一〇月より)。 ※2……京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであ ったという。 調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研 究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。結果、二五点満点で平 均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国立大学の文学部一年 生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をとったという。 さらに西村教授は四則演算だけを使う小学生レベルの問題でも調査したが、正解率は約五 九%と、東京の私立短大生なみでしかなかったという。 (参考) ●学力は世界第五位 国際教育到達度評価学会(IEA、本部オランダ・一九九九年)の調査によると、日本の中学 生の学力は、数学については、シンガポール、韓国、台湾、香港に次いで、第五位。以下、オ ーストラリア、マレーシア、アメリカ、イギリスと続く。理科については、台湾、シンガポールに次 いで第三位。以下韓国、オーストラリア、イギリス、香港、アメリカ、マレーシアと続く。 ここで注意しなければならないのは、日本では、数学や理科にあてる時間数そのものが多い ということ。たとえば中学校では週四〜五時間を数学の時間をあてている(静岡県公立中学 校)。アメリカのばあい、単位制を導入しているので、日本と単純には比較できないが、週三〜 四時間。さらにアメリカでもオーストラリアでも、小学一、二年の間は、テキストすら使っていな い学校が多い。 また偏差値(日本……世界の平均点を五〇〇点としたとき、数学五七九点、理科五五〇点) だけをみて、学力を判断することはできない。この結果をみて、文部科学省の徳久治彦中学 校課長は、「順位はさがったが、(日本の教育は)引き続き国際的にみてトップクラスを維持し ていると言える」(中日新聞)とコメントを寄せている。東京大学大学院教授の苅谷剛彦氏が、 「今の改革でだいじょうぶというメッセージを与えるのは問題が残る」と述べていることとは、対 照的である。ちなみに、「数学が好き」と答えた割合は、日本の中学が最低(四八%)。「理科 が好き」と答えた割合は、韓国についでビリ二であった(韓国五二%、日本五五%)。学校の外 で勉強する学外学習も、韓国に次いでビリ二。一方、その分、前回(九五年)と比べて、テレビ やビデオを見る時間が、二・六時間から三・一時間にふえている。 日本の中学生たちがますます勉強嫌いになり、かつ家での学習時間が短くなっていることだ けは事実のようだ。 子どもを喫煙から守る法(JT(日本たばこ産業株式会社)をつぶせ!) 禁煙教育を考えるとき ●徹底した禁煙政策 久しぶりにアメリカへ行って驚いた。禁煙が、こうまで徹底していようとは、予想だにしていなか った。飛行機の中はもちろん、主だったホテル、レストランでは、完全に禁煙である。看板すら ない。テレビコマーシャルも消えた。そこで、いくつかのタバコを買ってみた。その側面には、こ う書いてある。 「衛生局長からの警告。喫煙は肺がん、心臓疾患、肺気腫、妊娠異常を引き起こす」「喫煙を やめることで、あなたの健康へのリスクを大幅に減らすことができる」「紙巻タバコには、一酸 化炭素が含まれる」 一方、この日本では、野放し。タバコの自動販売機まである。その気になれば、小学生でも、 タバコを買うことができる。町の中には、巨大な看板すら立っている。この日本の中学校、高校 で、生徒の喫煙が問題になっていない学校など、どこにあるだろうか。私にもこんな経験があ る。 ●ヘビースモーカーの子ども 私はよく子どもの頭を手でなでる。そのとき、髪の毛が細く、ツルリとすべるような感じのする 子どもがいる。たいてい体は小さく、知的な発育も遅れがちである。で、そういう親を調べてみ ると、ほとんどと言ってよいほど、ヘビースモーカーであることがわかる。証拠があるとか、ない とかいう話ではない。もう二五年も前のことだが、私は通訳として、アルゼンチンのブエノスアイ レスへ行ったことがある。国際産婦人科学会があった。そこでのこと。宿舎になったホテルで 京都大学のN教授が、こんなことを話してくれた。いわく「胎児の異常出産(奇形)は、精子が卵 子に着床したその瞬間に決まる。タバコが大きく関係していることはまちがいがない。証拠がな いだけだ」と。そこで私が、「証拠とは何か」と聞くと、N教授は、「人体実験だよ。人体実験をす ればわかるよ。しかし人体実験をするわけにはいかないだろ」と笑った。 ●タバコ無害キャンペーン この日本では、何かにつけ、組織の利益が優先される。当時、全国の駅前では、専売公社 の職員たちが、大きなパネルを並べて、「タバコ無害キャンペーン」すら行っていた。たとえば 岐阜市の駅前では、「言われのない濡れ衣に、私たちは抗議する」という内容の立て看板のそ ばで、数人の男女がメガホンを片手に叫んでいたのを覚えている。今から思うと、何とおぞまし いキャンペーンであったことか! そうそう、アメリカで買った別のタバコには、こう書いてあった。「妊婦による喫煙は、致命的な 損傷、早産、低体重児を引き起こす」と。もし私がここに書いたことに文句があるなら、アメリカ の衛生局長に言ったらよい。
教育カルトを考える法(教育カルトに気をつけろ!)
教育者が教育カルトにハマるとき ●教育カルト 教育の世界にもカルトがある。学歴信仰、学校神話というのもそれだが、一つの教育法を信 奉するあまり、ほかの教育法を認めないというのが、それにあたる。教育カルトともいう。教育 カルトにハマったの教育者(?)は、「右脳教育」と言い出したら、明けても暮れても「右脳教育」 と言い出す。「S方式」と言い出したら、「S方式」と言い出す。 親や子どもを黙らすもっとも手っ取り早い方法は、権威をもちだすこと。水戸黄門の葵の紋 章を思い浮かべればよい。「控えおろう!」と一喝すれば、皆が頭をさげる。「○×式教育法」 を口にする人は、たいてい自分を権威づけるために、そうする。宗教だってそうだ。あやしげな 新興宗教ほど、釈迦やキリストの名前をもちだす。それも結局は、この権威づけのためと考え てよい。 教育には哲学が必要だが、宗教であってはいけない。子どもが皆違うように、その教育法も また皆違う。教育はもっと流動的なものだ。が、このタイプの教育者にはそれがわからない。わ からないまま、自分の教育法が絶対正しいと盲信する。そしてそれを皆に押しつけようとする。 これがこわい。 ●自分勝手な教育法 教育カルトがカルトであるゆえんは、いくつかある。冒頭にあげた排他性や絶対性のほか、 小さな世界に閉じこもりながら、それに気づかない自閉性、欠点すらも自己正当化する盲信性 など。これがさらに進むと、その教育法を批判する人を、猛烈に排斥するという攻撃性も出てく る。自分が正しいと思うのは、その人の勝手だが、その返す刀で、相手に向って、「あなたはま ちがっている」と言う。はたから見れば自分勝手な教育法だが、さらに常識はずれなことをしな がら、それにすら気づかなくなってしまうこともある。ある教育団体のパンフには、こうあった。
「皆さんも、○×教育法で学んだ子どもたちの、すばらしい演奏に感動なさったことと思いま
す」「この方式が日本の教育を変えます」と。あるいはこんなのもあった。「私たちの方式で学ん だ子どもたちが、やがて続々と東大の赤門をくぐることになるでしょう」(ある右脳教育団体のパ ンフレット)と。自分の教育法だったら、おこがましくて、ここまでは書けない。が、本人はわから ない。この盲目性こそがまさにカルトの特徴と言ってもよい。 ●脳のCPUが狂う? 私たちはいつもどこかで、何らかの形で、そのカルトを信じている。また信ずることによって、 「考えること」を省略しようとする。教育についても、「いい高校論」「いい大学論」は、わかりや すい。それを信じていれば、子どもを指導しやすい。進学校や進学塾は、この方法を使う。そ れはそれとして、一度そのカルトに染まると、それから抜け出ることは容易なことではない。脳 のCPU(中央演算装置)そのものが狂う。それはそれだが、問題は、先にも書いた攻撃性だ。 一つの価値観が崩壊するということは、心の中に空白ができることを意味する。その空白がで きると、たいていの人は混乱状態になる。狂乱状態になる人もいる。だからよけいに抵抗す る。ためしに教育カルトを信奉している教育者に、その教育を批判してみるとよい。その教育 者は、あなたの意見に反論するというよりは、狂ったようにそれに抵抗するはずだ。 結論から言えば、教育カルトをどこかで感じたら、その教育法には近づかないほうがよい。こ うした教育カルトは、虎視たんたんと、あなたの心のすき間をねらっている! 心の迷いから抜け出る法(学歴を問題にするな!) 親の心が不安定になるとき ●戦時下のサラエボで、「学校」? 戦時下のサラエボでのこと。ガレキになった家の中にいる子どもに、NHKのレポーターがこう 聞いた。「学校はどうしているの?」と。戦争で学校どころではないはずだ。しかし日本人は、子 どもを見れば、すぐ「学校、学校」と言う。明治以来、学歴信仰、あるいは学校神話が徹底的に たたき込まれている。 ●フリップ・フロップ理論 心理学に「フリップ・フロップ理論」というのがある。私は勝手に「コロリ理論」と訳している。箱 でたとえて言うなら、どちらかの側に倒れてしまっているときは、安定している。しかし箱という のは中途半端な状態に置くと、たいへん不安定になる。人間の心もそうだ。たとえば有神論の 人が無神論者に、無神論の人が有神論者になるときというのは、心理状態がたいへん不安定 になる。よく「この宗教は絶対正しい」と、大声でワーワーと騒いでいる人がいる。そういう人 は、心理状態がたいへん不安定になっているとみてよい。ちょっとしたことで、コロリと無神論 者になったりする。あるいは反対に、それまで無神論の人でも、いくつかの不幸が重なり混乱 状態になると、コロリと有神論者になったりする。どこかのカルト教団に入信したりする。反対 に、完全に信仰の世界へ入ってしまったような人や、まったくの無神論の人は、それなりにどっ しりと安定している。フリップ・フロップ理論というのは、そういう心理を説明した理論をいう。 ●次の安定状態へ さて本論。子どもが不登校児になったりすると、この日本では、たいていの親は大混乱する。 「進学できなくなってしまう」「高校ぐらい卒業しておかないと」「就職はどうする」「うちの子はダメ になってしまう」と。一見、子どものことを心配しているようで、親は自分のことしか考えていな い。世間体、見栄、メンツ、それにコースだ。この日本では「学校」というコースから、子どもが はずれることは、親にとっては恐怖以外の何ものでもない。そのため狂乱状態になる人も珍し くない。が、それも一巡すると、……と言っても、その間がたいへんだが、ちょうど箱がもう一方 の側に倒れるように、やがて落ちつく。しかもある時期を境に、コロリと倒れるように、だ。そし てこう言う。「学校なんて行かなくてもいいのよ」「何も学校だけが人生じゃないわ」と。人間の心 というのは、不安定な状態に対して、それほど長くは耐えられない。 ●「あなたはどこの大学ですか?」 どちらの側に箱が倒れているにせよ、一方の側から他方の側を見ると、まったく別世界に見 える。そして互いに、相手を理解できない。学歴信仰を信じている人に、その無用論を説いて も意味はない。一方、学歴無用論の人に、学歴信仰を信じている人の話をすると、自分たちの 過去を振り返りながら、「バカね」と笑う。戦時下のサラエボで、「学校、学校」と言っているNH Kのレポーターが、バカに見える。しかし結論から先に言えば、学歴信仰にせよ学校神話にせ よ、中身はカラッポ。もともと信ずるほうがおかしい。信ずる価値さえない。学歴信仰がいかに 愚劣なものかは、台湾へ行ってみればわかる。あの国では、いまだに初対面のとき、相手の 学歴を、あいさつがわりに聞きあっている。「あなたはどこの大学ですか?」と。二〇年前の日 本でも、ここまでひどくはなかった。しかし彼らは真剣だ。その真剣なところが、おかしい。 今、日本の親たちは、大混乱している。教育の世界そのものも、大混乱している。しかしこの 混乱を、フリップ・フロップ理論で説明するなら、それは次の安定状態への移行期ととらえるこ とができる。「教育改革」という言葉がよく使われるが、その改革にしても、安定期には生まれ ない。不安定だからこそ、改革が生まれる。今はその時期だし、恐らくあと二〇年もすれば、 「学校、学校」と言う人は、今の半分程度になるだろう。またそういう方向に向かって、私たちは 進まねばならない。
運命と戦う法(運命論を信ずるな!)
人が希望をなくすとき ●Y氏の重なる不幸 不幸は、やってくるときには、次々と、それこそ怒涛のようにやってくる。容赦ない。まるで運 命がその人をのろっているかのようにさえ見える。Y氏(四五歳)がそうだ。会社をリストラされ、 そのわすかの資金で開いた事業も、数か月で失敗。半年間ほど自分の持ち家でがんばった が、やがて裁判所から差し押さえ。そうこうしていたら、今度は妻が重い病気に。検査に行った ら、即、入院を命じられた。家には二四歳になる自閉症の息子がいる。長女(二一歳)は高校 を卒業すると同時に、暴走族風の男と同棲生活。ときどき帰ってきては、遊興費を無心する… …。 ●死ぬことが希望? 二〇〇〇年、日本での自殺者が三万人を超えた。何を隠そう、この私だって、その予備軍の 一人。最後のがけっぷちでかろうじて、ふんばっている。いや、自殺する人の気持ちが、痛い ほどよくわかる。昔、学生時代、友人とこんな会話をしたことがある。金沢の野田山にある墓地 を一緒に歩いていたときのこと。私がふと、「希望をなくしたら人はどうする。死ぬのか?」と語 りかけた。するとその友人はこう言った。「林君、死ぬことだって希望だよ。死ねば楽になれる と思うことは、立派な希望だよ」と。 Y氏はこう言う。「どこがまちがっていたのでしょうね」と。しかしその実、Y氏は何もまちがって いない。Y氏はY氏なりに、懸命に生きてきた。ただ人生というのは、社会という大きな歯車の 中で動く。その歯車が狂うことだってある。そしてそのしわ寄せが、Y氏のような人に集中するこ ともある。運命というものがあるのかどうか、私にはわからない。わからないが、しかし最後の ところでふんばるかどうかということは、その人自身が決める。決して運命ではない。 ●平凡は美徳だが…… 私は「自殺するのも希望だ」と言った友人の言葉を、それからずっと考えてきた。が、今言え ることは、「彼はまちがっていた」ということ。生きているという事実そのものが、希望なのだ。私 のことだが、不運が重なるたびに、その先に新しい人生があることを知る。平凡は美徳であ り、何ごともなく過ぎていくのは、それなりにすばらしいことだ。しかしそういう人生から学んだも のは、ほとんどない。 どうにもならない問題をかかえるたびに、私はこう叫ぶ。「さあ、運命よ、来たければ来い。お 前なんかにつぶされてたまるか!」と。生きている以上、カラ元気でも何でも、前に進むしかな いのだ。 心の温もりを守る法(子どもを受験で追うな!) 人が温かい心の温もりをなくすとき ●頭の中は営業成績だけ 昔、バリバリの猛烈社員がいた。ある企画会社の男だったが、彼は次々とヒット作を世に送 り出していた。その彼と半年あまり一緒に仕事をしたが、おかしなことに気づいた。彼の頭の中 にあるのは、営業成績だけ。数字だけ。友人の姿はおろか、家族の姿すらなかった。「仕事が 生きがい」と言えば聞こえはよいが、その実、仕事の奴隷。私はその男を見ながら、どうしてこ ういう人が生まれるのか、それに興味をもった。しかしその理由はすぐにわかった。 ●受験勉強の弊害 受験期を迎えると、子どもの心は大きく変化する。選別されるという恐怖と将来への不安の 中で、子どもの心は激しく動揺する。本来なら家庭がそういう心をいやす場所でなければならな いが、その家庭でも、親は「勉強しろ」と、子どもを追いたてる。行き場をなくした子どもはやが て、人とのつながりを自ら切る。切りながら、独特の価値観を身につける。 話はそれるが、こんな役人がいた。H市役所でもトップクラスの役人だった。ある日、私にこう 言った。「林君、H市は工員の町なんだよ。その工員に金をもたせると、働かなくなるんだよ。 だから遊ぶ施設をたくさん作って、その金を吐き出させなければならないんだよ」と。この話で 思い出したが、こんなことを言った通産省の役人もいた。「高齢者のもつ預貯金を、財政再建 に利用できないものか」(テレビ討論会)と。 ●親の恩も遺産次第 受験勉強の弊害を説く人はほとんどいない。明治以後、教師も親も、そして子どもたちも、そ れが「善」であると信じて、受験勉強をとらえてきた。しかしそれによって犠牲になるものも多 い。その一つが、心。もちろん「勉強」が悪いのではない。受験にまつわる「競争」が悪い。青春 期の一番大切な時期に、この競争で子どもを追いたてると、子どもの心から人間的な温もりが 消える。「能力のある人がいい生活をするのは当然」という人生観が支配的になり、ものの考 え方が、ドライになる。冷たくなる。「受験期に学級委員なんかしているヤツはバカだ」と言った 高校生がいた。親子という人間関係すらも、数字でみるようになる。今、日本の若者のほとん ど(六六%)は、「生活力に応じて、(老後の)親のめんどうをみる」(総理府九七年)と答えてい る。「どうしても親のめんどうをみる」と答えた若者は、一九%しかいない。この数字を裏から読 むと、「親の恩も遺産次第」ということになる。 子どもが有名大学へ入ったりすると、親は、「おかげさまで」と喜んでみせる。しかしその背後 で吹きすさぶのは、かわいた冬の風。その風が、今、日本中をおおっている。 その人の人格をつくる法(ウソをつくな!) その人の人格が決まるとき ●ごまかしがきかなくなる年齢 人も五〇歳を過ぎると、それまでごまかしてきた持病がどっと表に出てくる。六〇歳を過ぎる と、その人の人格がどっと表に出てくる。若いころは気力で、自分の人格をごまかすことができ る。しかし歳をとると、その気力そのものが弱くなる。 私の知人にこんな女性(八〇歳)がいる。その女性は近所では「仏様」と呼ばれていた。温厚 な顔立ちと、ていねいな人当たりで、そう呼ばれていた。が、このところ、どうも様子がおかし い。近所を散歩しながら、他人の植木バチを勝手に持ちかえってくる。あるいは近所の人の悪 口を言いふらす。しかしその女性は昔から、そういう人だった。が、年齢とともに、そういう自分 を隠すできなくなった……。 ●日々の積み重ねが人格に で、その人格。難しいことではない。日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが年とな り、その人の人格となる。ウソをつかない。ルールを守る。ものを捨てない。そんな簡単なこと で、その人の人格は決まる。たとえば……。 信号待ちで車が止まったときのこと。突然その車の右ドアがあいた。何ごとかと思って見てい ると、一人の男がごっそりとタバコの吸殻を道路へ捨てた。高級車だったが、顔を見ると、いか にもそういうことをしそうな人だった。また別の日。近くの書店へ入ろうとしたら、入り口をふさぐ 形で、四WD車が駐車してあった。横には駐車場があるにもかかわらず、だ。私はそういうこと が平気でできる人が、どんな人か見たくなった。見たくなってしばらく待っていると、それは女性 だった。しかしその女性も、いかにもそういうことをしそうな人だった。こういう人たちは、自分の 身勝手さと引きかえに、もっと大切なものをなくす。小さなわき道に入ることで、人生の真理か ら大きく遠ざかる。 ●さて私のこと さてこの私のこと。私は子どものころ、結構小ズルイ男だった。空きビンをどこかの塀の上に 置いて逃げたこともある。どこかの家の表札を持ちかえったこともある。大根畑で大根を盗ん で食べたこともある。そういう自分に気がつくのが遅かった。だから今、歳をとるごとに、自分が こわくてならない。「今にボロが出る……」と。先日も道路で小さなサイフを拾った。すぐにその 持ち主に電話をしたが、心のどこかで「もらってしまえば……」と思ったのを覚えている。いや、 こう書いても弁解にもならないが、私たちが子どものころは、戦後の混乱期で、モラルそのもの が崩壊していた。またそうでなければ生きていかれない時代だった。何か特別に悪いことをし たという覚えはないが、ごく日常的に小ズルイことをしていたのも事実だ。 ●道徳教育について 道徳教育が始まってもう一五年以上になる。しかし「道徳」といっても、大きく身がまえる必要 はない。また身がまえても意味がない。もし子どもたちに教えることがあるとするなら、ウソをつ かない、ゴミを捨てないなど、ごく常識的なことでよい。悲しいかな、そんな簡単なことですら守 れない人のほうが多い。それが現実ではないのか。登山家の野口健氏はこう言った。「登山家 の中でも、アジア隊の評判は悪い。その中でも日本隊は最悪。ヒマラヤをゴミに山にしている。 ヨーロッパの登山家は、タバコの吸殻さえもって帰るのに」(F誌〇〇年六月)と。野口氏のとっ た写真には、H大学(東京都の有名私大)山岳部と書かれた酸素ボンベなどが写っていた。 進学塾を考える法(有害環境を取り除け!) 親が進学塾を求めるとき ●文部行政の塾つぶし 地域にもよるが、この静岡県では、小さな塾はほとんどつぶれた。今は中規模塾が淘汰されつ つある。残ったのは大手の進学塾だけ。しかしそれこそ文部行政の思うツボ。文部行政の塾 つぶしは、最終局面を迎えたといっても過言ではない。中教審は、九九年の終わり、国に対し て答申を出した。その答申を受けて、マスコミ各社は、「中教審が学習塾を容認」と報道した が、これはまちがい。答申はこうなっている。
いわく、「体験活動を支援する態勢をつくる」(第三章第三節)「子どもたちを取り巻く有害環境
の改善に、地域社会で取り組む」(同第五節)と。全体を裏から読むと、「体験活動に協力しな い有害環境(=進学塾)は、地域社会(=PTA)の協力を得ながら、つぶす」となる。「容認どこ ろか、塾の完全否定ととらえたほうがよい」(学外研・木田橋)と。 進学塾が企業化して久しい。ある進学塾の経営者はこう言った。「一色刷りの案内書では、 生徒は集まりません。三色、四色にしないとね」と。また別の経営者は、「経営の秘訣は掃除に ある」と言っている。そのため「毎日午前中の数時間を掃除にあてている」(月刊「私塾界」)と。 またある経営コンサルタントは、「説明会は公的な会館を借りて、大規模にやるほど、効率が よい」(教材新聞)と書いている。 ●現実とのイタチごっこ こうした現状はともかくも、有害環境(?)はなくならない。いくら文部行政が逆立ちしても、 だ。理由は簡単。進学塾があるから、有害環境があるからではない。進学塾を求める親や子 どもがいるからだ。つまりなぜ親や子どもたちが進学塾を求めるか、その深層部分までメスを 入れないと、進学塾はなくならない。言いかえると、社会にはびこる学歴社会や身分制度、不 公平感がなくならない限り、進学塾はなくならない。
この日本。公的な保護を受ける人は徹底的に受ける。そうでない人はほとんどと言ってよい
ほど、受けない。不況などどこ吹く風。人生の入り口で、受験競争をうまくくぐり抜けたというだ けで、生涯、特権に守られ、権限と管轄の中で、のんびりと暮らしている人はいくらでもいる。そ ういう現状を一方で放置しておいて、塾だけをターゲットにしても意味がない。現に今、ボランテ ィア活動が内申点に加味されるようになってから、そのボランティア活動を教える進学塾まで現 れた。こうしたイタチごっこは、これから先、いつまでも続く。 |