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はやし浩司
はやし浩司
子どもの国語力を伸ばす法(会話能力を磨け!) 子どもの国語力が決まるとき ●幼児期に、どう指導したらいいの? 以前……と言っても、もう二〇年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣っていると思 われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどう違うか を調べたことがある。結果、次の三つの特徴があるのがわかった。 �@使う言葉がだらしない……ある男の子(小二)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」とい うような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。たまたま『戦国自衛隊』 という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だった?」と聞くと、その子どもはこう言 った。「先生、スゴイ、スゴイ! バババ……戦車……バンバン。ヘリコプター、バリバリ」と。何 度か聞きなおしてみたが、映画の内容は、まったくわからなかった。 �A使う言葉の数が少ない……ある女の子(小四)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウン」だけで 会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校はどうだったの?」、娘「ま あまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。 �B正しい言葉で話せない……そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの 子どもも外国語でも話すかのように、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のよ うにたどたどしかった。私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」、子「山ア……、上に イ〜、白い……へへへへ」と。 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそのこ とを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホントにモウ、ダ メネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった! ●国語能力は幼児期に決まる 子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。毎 日、「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話し方をしてい て、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。こういうケースでは、たとえめんどう でも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持っていますか。もうすぐバスが来ます」と言ってあ げねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本 を読んであげているから」と。 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いている からといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それこそ立て板に水 のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。しかしたいていは文字を音にかえているだけ。 内容はまったく理解していない。なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。 一度文字を音にかえ、その音を自分の耳で聞いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさ どる。一方黙読は文字を「形」として認識するため、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、 脳の中でも使う部分が違う。そんなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習 をするとよい。具体的には「口を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。 ●幼児教育は大学教育より奥が深い 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかって もらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思って いる人は多い。私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。ある男(五四歳)はこう言 った。「そんなの誰にだってできるでしょう」と。しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基 本と方向性は、幼児期に決まる。そういう意味では、幼児教育は大学教育より重要だし、奥が 深い。それを少しはわかってほしかった。 子どものやる気を引き出す法(四悪を避けろ!) 子どもがやる気をなくすとき ●学習の四悪 子どもを勉強嫌いにする四悪に、無理、強制、条件、それに比較がある。子どもの能力を超 えた学習を強要するのを、無理。時間や量を決めてそれを子どもに課するのを、強制。「テスト で百点を取ったら、自転車を買ってあげる」というのが、条件。そして「お隣のA君は、もうカタカ ナが書けるのよ。あなたは……」というのを、比較。この四悪が日常化すると、子どもは確実に やる気をなくす。勉強嫌いになる。 ●無理・強制・条件・比較 �@無理……子どもに与える教材やワークは、子どもの能力より、ワンランクさげるのがコツ。で きる、できないよりも、子どもが勉強を楽しんだかどうかを大切にする。イギリスの格言にも、 『楽しく学ぶ子は、よく学ぶ』というのがある。前向きに学習する子どもは伸びるし、そうでない 子どもは伸びない。しかも子どもというのは一度うしろ向きになると、いくら時間とお金をかけて も、一方的にムダになるだけ。親があせればあせるほど、かえって勉強から遠ざかってしまう。 そういうのをこの世界では、「空回り」というが、この空回りを感じたら、さらに思いきって内容を ワンランクさげる。
�A強制……やはりイギリスの格言に、『馬を水場へ連れていくことはできても、馬に水を飲ませ
ることはできない』というのがある。子どもを馬にたとえるのも失礼なことかもしれないが、要す るに親にできることにも限度があるということ。最終的に子どもが勉強するかしないかは、子ど もの問題。よく親は、「うちの子はやればできるはず」と言うが、やる、やらないも、「力」のうち。 「やればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思いなおす。あきらめる。そのあきらめが 子どもの心に風穴をあけ、かえって子どもを伸ばす。 �B条件……条件は、年齢とともにエスカレートしやすい。小学生のうちは、自転車ですむかもし れないが、高校生になれば、バイク、大学生になれば、自動車になる。あなたにそれだけの財 力があれば話は別だが、そうでなければやめたほうがよい。さらに条件が日常化すると、「勉 強は自分のためにする」という意識が、薄くなる。かわって、「(親のために)勉強してやる」とい う意識をもつようになる。実際に「親がうるさいから、大学へ行ってやる」と言った高校生すらい た。そうなる。反対に子どものほうから何か条件を出してくることもあるが、そういうときは、「勉 強は自分のためにするもの」と突っぱねる。こうしたき然とした姿勢が、時間はかかるが、結局 は子どもを自立させる原動力となる。 �C比較……この比較が日常化すると、子どもから「私は私」という意識が消える。いつも他人 の目を気にした生き方になってしまう。見えや体裁、それに世間体を気にするようになる。そう なればなったで、結局は自分を見失い、自分の人生そのものをムダにする。 ……というのは、少しおおげさに聞こえるかもしれないが、日本人ほど、他人の目を気にしな がら生きる民族も少ない。長い間、島国という閉鎖的な社会で、しかも封建時代という暗い時 代を経験したためにそうなった。そのため幸福観も相対的なもので、「隣の人よりもよい生活だ から、私は幸福」「隣の人よりも悪い生活だから、私は不幸」というような考え方をする。たとえ ば日本人は、「あなたは幸福なほうよ。みんなはもっと苦しいのだから」と言われたりすると、そ れだけでへんに納得してしまう。しかしこの生き方は、これからの生き方ではない。要するに、 無理、強制、条件、比較は、子どもを手っ取り早く勉強させるにはよい方法だが、長い目で見 れば、結局は逆効果。かえって子どものやる気をつぶす。 子どもに勉強ぐせをつける法(五悪に気をつけろ!) 子どもが勉強から逃げるとき ●フリ勉、ダラ勉、ムダ勉 子どもは勉強から逃げるとき、独特の症状を示す。まずフリ勉。いかにも勉強しているという フリをする。頭をかかえ、黙々と問題を読んでいるフリをする。しかしその実、何もしていない。 何も考えていない。次にダラ勉。一時間なら一時間、机に向かって座っているものの、ダラダラ しているだけ。マンガを読んだり、指で机をかじったり、爪をほじったりする。このばあいも、時 間ばかりかかるが、その実、何もしていない。ムダ勉というのもある。やらなくてもよいようなム ダな勉強ばかりして、時間をつぶす。折れ線グラフをかくときも、グラフばかりかいて時間をつ ぶすなど。 ●一時間で計算問題を数問! こういう状態になったら、親は家庭教育のあり方を、かなり反省しなければならない。こんなこ ともあった。ある母親から、「夏休みの間だけでも、息子(小二)の勉強をみてほしい」と。遠い 親戚にあたる母親だった。そこでその子どもを家に呼ぶと、その子どもはバッグいっぱいのワ ークブックを持ってきた。見ると、どれも分厚い、文字がびっしりのものばかり。その上、どれも 子どもの能力を超えたものばかりだった。母親は難しいワークブックをやらせれば、それだけ で勉強がよくできるようになると思っていたらしい。案の定、教えてみると、空を見つめて、ぼん やりとしているだけ。ほとんど何もしない。同じ問題を書いては消し、また書いては消すの繰り 返し。一時間もかかって、簡単な計算問題を数問しかしないということもあった。小学低学年の 段階で一度こういう症状を示すと、なおすのは容易でない。 ●意欲を奪う五つの原因 子どもから学習意欲を奪うものに、�@過負担(長い学習時間、回数の多い塾通い)、�A過関 心(子どもの側から見て、気が抜けない家庭環境、ピリピリした親の態度)、�B過剰期待(「や ればできるはず」と子どもを追いたてる、親の高望み)、�C過干渉(何でも親が先に決めてしま う)、それに�D与えすぎ(子どもが望む前に、あれこれお膳立てしてしまう)がある。 たくさん勉強させればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人は多い。しかしこれ は誤解。『食欲がない時に食べれば、健康をそこなうように、意欲をともなわない勉強は、記憶 をそこない、また記憶されない』と、あのレオナルド・ダ・ビンチも言っている。あるいはより高度 な勉強をさせればさせるほど、勉強ができるようになると考えている人もいる。これについては 誤解とまでは言えないが、しかしそのときもそれだけの意欲が子どもにあればよいが、そうでな ければやはり逆効果。 要は集中力の問題。ダラダラと時間をかけるよりも、短時間にパッパッと勉強を終えるほう が、子どもの勉強としては望ましい。実際、勉強ができる子どもというのは、そういう勉強のし 方をする。私が今知っている子どもに、K君(小四男児)という子どもがいる。彼は中学一年レ ベルの数学の問題を、自分の解き方で解いてしまう。そのK君だが、「家ではほとんど勉強しな い」(母親)とのこと。「学校の宿題も、朝、学校へ行ってからしているようです」とも。 ついでながら静岡県の小学五、六年生についてみると、家での学習時間が三〇分から一時 間が四三%、一時間から一時間三〇分が三一%だそうだ(静岡県出版文化会発行「ファミリ ス」県内一〇〇名について調査・二〇〇一年)。 ●変わる「勉強」への意識 もっとも今、「勉強」そのものの内容が大きく変わろうとしている。「問題を解ける子ども」か ら、「問題を考える子ども」へ。「知っている子ども」から、「何かを生み出す子ども」へ。さらには 「言われたことを従順にこなす子ども」から、「個性が光る子ども」へ、と。少なくとも世界の教育 はそういう方向に向かって動いている。そして当然のことながら、それに合わせて教育内容も 変わってきている。大学の入学試験のあり方も変わってきている。だから昔のままの教育観で 子どもに勉強させようとしても、それ自体が今の教育にはそぐわないし、第一、子どもたちがそ れを受け入れない。たとえば昔は、勉強がよくできる子どもが尊敬され、それだけでクラスのリ ーダーになった。しかし今は違う。「勉強して、S君のようないい成績をとってみたら」などと言う と、「ぼくらは、あんなヘンなヤツとは違う」と答えたりする。「A進学高校へ行くと勉強させられる から、A進学高校には行きたくない」と言う子どもも、珍しくない。それがよいのか悪いのかは別 にして、今はそういう時代なのだ。 ……などなど、そういうことも考えながら、子どもの勉強を考えるとよい。 子どもを本好きにする法(方向性は図書館で知れ!) 子どもの方向性を知るとき ●図書館でわかる子どもの方向性 子どもの方向性を知るには、図書館へ連れて行けばよい。そして数時間、図書館の中で自 由に遊ばせてみる。そしてそのあと、子どもがどんな本を読んでいるかを観察してみる。サッカ ーが好きな子どもは、サッカーの本を読む。動物が好きな子どもは、動物の本を読む。そのと き子どもが読んでいる本が、その子どもの方向性である。その方向性にすなおに従えば、子ど もは本が好きになる。さからえば、本が嫌いになる。無理をすれば子どもの伸びる「芽」そのも のをつぶすことにもなりかねない。ここでいくつかのコツがある。 ●無理をしない まず子どもに与える本は、その年齢よりも、一〜二年、レベルをさげる。親というのは、どうし ても無理をする傾向がある。六歳の子どもには、七歳用の本を与えようとする。七歳の子ども には、八歳用の本を与えようとする。この小さな無理が、子どもから本を遠ざける。そこで「うち の子どもはどうも本が好きではないようだ」と感じたら、思いきってレベルをさげる。本の選択 は、子どもに任す。が、そうでない親もいる。本屋で子どもに、「好きな本を一冊買ってあげる」 と言っておきながら、子どもが何か本を持ってくると、「こんな本はダメ。もっといい本にしなさ い」と。こういう身勝手さが、子どもから本を遠ざける。 ●動機づけを大切に 次に本を与えるときは、まず親が読んでみせる。読むフリでもよい。そして親自身が子どもの 前で感動してみせる。「この本はおもしろいわ」とか。これは本に限らない。子どもに何かものを 与えるときは、それなりのお膳立てをする。これを動機づけという。本のばあいだと、子どもを ひざに抱いて、少しだけでもその本を読んであげるなど。この動機づけがうまくいくと、あとは子 どもは自分で伸びる。そうでなければそうでない。この動機づけのよしあしで、その後の子ども の取り組み方は、まったく違ってくる。まずいのは、買ってきた本を袋に入れたまま、子どもに ポイと渡すような行為。子どもは読む意欲そのものをなくしてしまう。無理や強制がよくないこと は、言うまでもない。 ●文字を音にかえているだけ? なお年中児ともなると、本をスラスラと読む子どもが現れる。親は「うちの子どもは国語力が あるはず」と喜ぶが、たいていは文字を音にかえているだけ。内容はまったく理解していない。 親「うさぎさんは、どこへ行ったのかな」、子「……わかんない」、親「うさぎさんは誰に会ったの かな?」、子「……わかんない」と。もしそうであれば子どもが本を読んだら、一ページごとに質 問してみるとよい。「うさぎさんは、どこへ行きましたか」「うさぎさんは、誰に会いましたか」と。 あるいは本を読み終えたら、その内容について絵をかかせるとよい。本を読み取る力のある 子どもは、一枚の絵だけで、全体のストーリーがわかるような絵をかく。そうでない子どもは、あ る部分だけにこだわった絵をかく。また本を理解しながら読んでいる子どもは、読むとき、目が 静かに落ち着いている。そうでない子どもは、目がフワフワした感じになる。さらに読みの深い 子どもは、一ページ読むごとに何か考える様子をみせたり、そのつど挿し絵をじっと見ながら 読んだりする。本の読み方としては、そのほうが好ましいことは言うまでもない。 ●文字の使命は心を伝えること 最後に、作文を好きにさせるためには、こまかいルール(文法)はうるさく言わないこと。誤 字、脱字についても同じ。要は意味が伝わればよしとする。そういうおおらかさが子どもを文字 好きにする。が、日本人はどうしても「型」にこだわりやすい。書き順もそうだが、文法もそうだ。 たとえば小学二年の秋に、「なかなか」の使い方を学ぶ(光村図書版)。「『ぼくのとうさん、なか なかやるな』と、同じ使い方をしている『なかなか』はどれか。『なかなかできない』『なかなかお いしい』『なかなかなきやまない』」と。こういうことばかりに神経質になるから、子どもは作文が 嫌いになる。小学校の高学年児で、作文が好きと言う子どもは、五人に一人もいない。大嫌い と言う子どもは、一〇人に三人はいる。 (付記) ●私の記事への反論 「一ページごとに質問してみるとよい」という考えに対して、「子どもに本を読んであげるときに は、とちゅうで、あれこれ質問してはいけない。作者の意図をそこなう」「本というのは言葉の流 れや、文のリズムを味わうものだ」という意見をもらった。図書館などで、子どもたちに本の読 み聞かせをしている人からだった。 私もそう思う。それはそれだが、しかし実際には、幼児を知らない児童文学者という人も多 い。そういう人は、自分の本の中で、幼児が知るはずもないというような言葉を平気で並べる。 たとえばある幼児向けの本の中には、次のような言葉があった。「かわべの ほとりで、 ひと りの つりびとが うつら うつらと つりいとを たれたまま、 まどろんでいた」と。この中だけ でも、幼児には理解ができそうもないと思われる言葉が、「川辺」「釣り人」「うつら」「釣り糸」「ま どろむ」と続く。こうした言葉の説明を説明したり、問いかけたりすることは、決してその本の「よ さ」をそこなうものではない。が、それだけではない。意味のわからない言葉から受けるストレス は相当なものだ。ためしにBS放送か何かで、フランス語の放送をしばらく聞いてみるとよい。 フランス語がわかれば話は別だが、ふつうの人ならしばらく聞いていると、イライラしてくるはず だ。 子どもを勉強に向かわせる法(机は休む場所と考えろ!) 子どもが学習机から離れるとき ●机は休むためにある 学習机は、勉強するためにあるのではない。休むためにある。どんな勉強でも、しばらくする と疲れてくる。問題はその疲れたとき。そのとき子どもがその机の前に座ったまま休むことがで きれば、よし。そうでなければ子どもは、学習机から離れる。勉強というのは一度中断すると、 なかなかもとに戻らない。 そこであなたの子どもと学習机の相性テスト。子どもの好きそうな食べ物を、そっと学習机の 上に置いてみてほしい。そのとき子どもがそのまま机の前に座ってそれを食べれば、よし。もし その食べ物を別のところに移して食べるようであれば、相性はかなり悪いとみる。反対に自分 の好きなことを、何でも自分の机に持っていってするようであれば、相性は合っているというこ とになる。相性の悪い机を長く使っていると、勉強嫌いの原因ともなりかねない。 ●机は棚のない平机 学習机というと、前に棚のある棚式の机が主流になっている。しかし棚式の机は長く使ってい ると圧迫感が生まれる。もう一五年ほども前になるが、小学一年生について調査したことがあ る。結果、棚式の机のばあい、購入後三か月で約八〇%の子どもが物置にしていることがわ かった。最近の机にはいろいろな機能がついているが、子どもを一時的にひきつける効果は あるかもしれないが、あくまでも一時的。そんなわけで机は買うとしても、棚のない平机をすす める。あるいは低学年児のばあい、机はまだいらない。たいていの子どもは台所のテーブルな どを利用して勉強している。この時期は勉強を意識するのではなく、「勉強は楽しい」という思い を育てる。親子のふれあいを大切にする。子どもに向かっては、「勉強しなさい」と命令するの ではなく、「一緒にやろうか?」と話しかけるなど。 ●学習机を置くポイント 学習机にはいくつかのポイントがある。 �@机の前には、できるだけ広い空間を用意する。 �A棚や本棚など、圧迫感のあるものは背中側に配置する。 �B座った位置からドアが見えるようにする。�C光は左側からくるようにする(右利き児のばあ い)。 �Dイスは広く、たいらなもの。かためのイスで、机と同じ高さのひじかけがあるとよい。 �E窓に向けて机を置くというのが一般的だが、あまり見晴らしがよすぎると、気が散って勉強で きないということもあるので注意する。
机の前に広い空間があると、開放感が生まれる。またドアが背中側にあると、心理的に落ち
つかないことがわかっている。意外と盲点なのが、イス。深々としたイスはかえって疲れる。ひ じかけがあると、作業が格段と楽になる。ひじかけがないと、腕を机の上に置こうとするため、 どうしても体が前かがみになり、姿勢が悪くなる。中に全体が前に倒れるようになっているイス がある。確かに勉強するときは能率があがるかもしれないが、このタイプのイスでは体を休め ることができない。 さらに学習机をどこに置くかだが、子どもが学校から帰ってきたら、どこでどのようにして体を 休めるかを観察してみるとよい。好きなマンガなどを、どこで読んでいるかをみるのもよい。た いていは台所のイスとか、居間のソファの上だが、もしそうであれば、思い切って、そういうとこ ろを勉強場所にしてみるという手もある。子どもは進んで勉強するようになるかもしれない。 ●相性を見極める ものごとには相性というものがある。子どもの勉強をみるときは、何かにつけ、その相性を大 切にする。相性が合えば、子どもは進んで勉強するようになる。相性が合わなければ、子ども は何かにつけ、逃げ腰になる。無理をすれば、子どもの学習意欲そのものをつぶしてしまうこ ともある。 子どもの個性を伸ばす法(エビでタイを釣れ!) 教育が型にはまるとき ●「ちゃんと見てほしい」 「こんな丸のつけ方はない」と怒ってきた親がいた。祖母がいた。「ハネやハライが、メチャメ チャだ。ちゃんと見てほしい」と。私が子ども(幼児)の書いた文字に、花丸をつけて返したとき のことである。あるいはときどき、市販のワークを自分でやって、見せてくれる子どもがいる。そ ういうときも私は同じように、大きな丸をつけ、子どもに返す。が、それにも抗議。「答がちがっ ているのに、どうして丸をつけるのか!」と。 ●「型」にこだわる日本人 日本人ほど、「型」にこだわる国民はいない。よい例が茶道であり華道だ。相撲もそうだ。最 近でこそうるさく言わなくなったが、利き手もそうだ。「右利きはいいが、左利きはダメ」と。私の 二男は生まれながらにして左利きだったが、小学校に入ると、先生にガンガンと注意された。 書道の先生ということもあった。そこで私が直接、「左利きを認めてやってほしい」と懇願する と、その先生はこう言った。「冷蔵庫でもドアでも、右利き用にできているから、なおしたほうが よい」と。そのため二男は、左右反対の文字や部分的に反転した文字を書くようになってしまっ た。書き順どころではない。文字に対して恐怖心までもつようになり、本をまったく読もうとしなく なってしまった。 一方、オーストラリアでは、スペルがまちがっている程度なら、先生は何も言わない。壁に張 られた作品を見ても、まちがいだらけ。そこで私が「なおさないのですか」と聞くと、その先生 (小三担当)は、こう話してくれた。「シェークスピアの時代から、正しいスペルなんてものはない のです。発音が違えば、スペルも違う。イギリスのスペルが正しいというわけではない。言葉 は、ルール(文法やスペル)ではなく、中身です」と。 ●「U」が二画? 近く小学校でも、英語教育が始まる。その会議が一〇年ほど前、この浜松市であった。その 会議を傍聴してきたある出版社の編集長が、帰り道、私の家に寄って、こう話してくれた。「U は、まず左半分を書いて、次に右半分を書く。つまり二画と決まりました。同じようにMとWは 四画と決まりました」と。私はその話を聞いて、驚いた。英語国にもないような書き順が、この 日本にあるとは! そう言えば私も中学生のとき、英語の文字は、二五度傾けて書けと教えら れたことがある。今から思うとバカげた教育だが、しかしこういうことばかりしているから、日本 の教育はおもしろくない。つまらない。たとえば作文にしても、子どもたちは文を書く楽しみを覚 える前に、文字そのものを嫌いになってしまう。日本のアニメやコミックは、世界一だと言われ ているが、その背景に、子どもたちの文字嫌いがあるとしたら、喜んでばかりはおられない。だ いたいこのコンピュータの時代に、ハネやハライなど、毛筆時代の亡霊を、こうまでかたくなに 守らねばならない理由が、一体どこにあるのか。「型」と「個性」は、正反対の位置にある。子ど もを型に押し込めようとすればするほど、子どもの個性はつぶれる。子どもはやる気をなくす。 ●左利きと右利き 正しい文字かどうかということは、次の次。文字を通して、子どもの意思が伝われば、それで よし。それを喜んでみせる。そういう積み重ねがあって、子どもは文を書く楽しみを覚える。オ ーストラリアでは、すでに一〇年以上も前に小学三年生から。今ではほとんどの幼稚園で、コ ンピュータの授業をしている。一〇年以上も前に中学でも高校でも生徒たちは、フロッピーディ スクで宿題を提出していたが、それが今では、インターネットに置きかわった。先生と生徒が、 常時インターネットでつながっている。こういう時代がすでにもう来ているのに、何がトメだ、ハ ネだ、ハライだ! 冒頭に書いたワークにしても、しかり。子どもが使うワークなど、半分がお絵かきになったとし ても、よい。だいたいにおいて、あのワークほど、いいかげんなものはない。それについては、 また別のところで書くが、そういうものにこだわるほうが、おかしい。左利きにしても、人類の約 五%が、左利きといわれている(日本人は三〜四%)。原因は、どちらか一方の大脳が優位に たっているという大脳半球優位説。親からの遺伝という遺伝説。生活習慣によって決まるという 生活習慣説などがある。一般的には乳幼児には左利きが多く、三〜四歳までに決まるが、ど の説にせよ、左利きが悪いというのは、あくまでも偏見でしかない。冷蔵庫やドアにしても、確 かに右利き用にはできているが、しかしそんなのは慣れ。慣れれば何でもない。 ●エビでタイを釣る 子どもの懸命さを少しでも感じたら、それをほめる。たとえヘタな文字でも、子どもが一生懸 命書いたら、「ほお、じょうずになったね」とほめる。そういう前向きな姿勢が、子どもを伸ばす。 これは幼児教育の大原則。昔からこう言うではないか。「エビでタイを釣る」と。しかし愚かな人 はタイを釣る前に、エビを食べてしまう。こまかいこと(=エビ)を言って、子どもの意欲(=タイ) を、そいでしまう。 (付記) ●私の意見に対する反論 この私の意見に対して、「日本語には日本語の美しさがある。トメ、ハネ、ハライもその一つ。 それを子どもに伝えていくのも、教育の役目だ」「小学低学年でそれをしっかりと教えておかな いと、なおすことができなくなる」と言う人がいた。しかし私はこういう意見を聞くと、生理的な嫌 悪感を覚える。その第一、「トメ、ハネ、ハライが美しい」と誰が決めたのか? それはその道 の書道家たちがそう思うだけで、そういう「美」を、勝手に押しつけてもらっては困る。要はバラ ンスの問題だが、文字の役目は、意思を相手に伝えること。「型」ばかりにこだわっていると、 文字本来の目的がどこかへ飛んでいってしまう。 私は毎晩、涙をポロポロこぼしながら漢字の書き取りをしていた二男の姿を、今でもよく思い 出す。二男にとっては、右手で文字を書くというのは、私たちが足の指に鉛筆をはさんで文字 を書くのと同じくらい、つらいことだったのだろう。二男には本当に申し訳ないことをしたと思っ ている。この原稿には、そういう私の、父親としての気持ちを織り込んだ。 (参考) ●経済協力開発機構(OECD)が調査した「学習到達度調査」(PISA・二〇〇〇年調査)によ れば、「毎日、趣味で読書をするか」という問いに対して、日本の生徒(一五歳)のうち、五三% が、「しない」と答えている。この割合は、参加国三二か国中、最多であった。また同じ調査だ が、読解力の点数こそ、日本は中位よりやや上の八位であったが、記述式の問題について無 回答が目立った。無回答率はカナダは五%、アメリカは四%。しかし日本は二九%! 文部科 学省は、「わからないものには手を出さない傾向。意欲のなさの表れともとれる」(毎日新聞)と コメントを寄せている。 子どもを勉強好きにする法(学ぶことを楽しませろ!) 子どもがワークをするとき ●西田ひかるさんが高校一年生 学研に「幼児の学習」「なかよし学習」という雑誌があった。今もある。私はこの雑誌に創刊時 からかかわり、その後「知恵遊び」を一〇年間ほど、協力させてもらった。「協力」というのもお おげさだが、巻末の紹介欄ではそうなっていた。この雑誌は両誌で、当時毎月四七万部も発 行された。この雑誌を中心に私は以後、無数の市販教材の制作、指導にかかわってきた。バ ーコードをこするだけで音が出たり答えが出たりする世界初の教材、「TOM」(全一〇巻)や、 「まなぶくん・幼児教室」(全四八巻)なども手がけた。一四年ほど前には英語雑誌、「ハローワ ールド」の創刊企画も一から手がけた。この雑誌も毎月二七万部という発行部数を記録した が、そのときの編集長の大塚薫氏が横浜のアメリカンハイスクールで見つけてきたのが、西田 ひかるさんだった。当時まだまったく無名の、高校一年生だった。 ●さて本題 ……実はこういう前置きをしなければならないところに、肩書のない人間の悲しみがある。私 はどこの世界でも、またどんな人に会っても、まずそれから話さなければならない。私の意見を 聞いてもらうのは、そのあとだ。で、本論。私はこのコラム(中日新聞「子どもの世界」)の中で、 「ワークやドリルなど、半分はお絵かきになってもよい」と書いた。別のところでは、「ワークやド リルほどいいかげんなものはない」とも書いた。そのことについて、何人かの人から、「おかし い」「それはまちがっている」という意見をもらった。しかし私はやはり、そう思う。無数の市販教 材に携わってきた「私」がそう言うのだから、まちがいない。 ●平均点は六〇点 まず「売れるもの」。それを大前提にして、この種の教材の企画は始まる。主義主張は、次の 次。そして私のような教材屋に仕事が回ってくる。そのとき、おおむね次のようなレベルを想定 して、プロット(構成)を立てる。その年齢の子ども上位一〇%と下位一〇%は、対象からはず す。残りの八〇%の子どもが、ほぼ無理なくできる問題、と。点数で言えば、平均点が六〇点 ぐらいになるような問題を考える。幼児用の教材であれば、文字、数、知恵の三本を柱に案を まとめる。小学生用であれば、教科書を参考にまとめる。しかしこの世界には、著作権というも のがない。まさに無法地帯。私の考えた案が、ほんの少しだけ変えられ、他社で別の教材にな るということは日常茶飯事。こう書いても信じてもらえないかもしれないが、二五年前に私が 「主婦と生活」という雑誌で発表した知育ワークで、その後、東京の私立小学校の入試問題の 定番になったのが、いくつかある。 ●半分がお絵かきになってもよい 子どもがワークやドリルをていねいにやってくれれば、それはそれとして喜ばねばならないこ とかもしれない。しかしそういうワークやドリルが、子どもをしごく道具になっているのを見ると、 私としてはつらい。……つらかった。私のばあい、子どもたちに楽しんでもらうということを何よ りも大切にした。同じ迷路の問題でも、それを立体的にしてみたり、物語を入れてみたり、ある いは意外性をそこにまぜた。たとえば無数の魚が泳いでいるのだが、よく見ると全体として迷 路になっているとか。あの「幼児の学習」や「なかよし学習」にしても、私は毎月三〇〇枚以上 の原案をかいていた。だから繰り返す。 「ワークやドリルなど、半分がお絵かきになってもよい。それよりも大切なことは、子どもが学 ぶことを楽しむこと。自分はできるという自信をもつこと」と。 子どもを叱る法(目線の高さで叱れ!) 親が子どもを叱るとき ●叱るときは恐怖感を与えない 子どもを叱るとき、最も大切なことは、恐怖感を与えないこと。『威圧で閉じる子どもの耳』と 覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。が、反省しているから、そ うしているのではない。こわいからそうしているだけ。親が子どもを日常的に叱れば叱るほど、 子どもはいわゆる「叱られじょうず」になる。頭をさげて、いかにも反省しているといった様子を 見せる。しかしこれはフリ。親が叱るほどには、効果は、ない。叱るときは、次のことを守る。 ●叱るときの鉄則 �@人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)、�A大声で怒鳴らない。その かわり言うべきことは、繰り返し言う。「子どもの脳は耳から遠い」と覚えておく。話した説教が、 脳に届くには、時間がかかる。�B相手が幼児のときは、幼児の目線にまで、おとなの体を低く する(威圧感を与えないため)。視線をはずさない(真剣であることを示すため)。子どもの体 を、しっかりと親の両手で固定し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避け る。とくに頭部への体罰は、タブー。体罰は与えるとしても、「お尻」と決めておく。�C子どもが興 奮状態になったら、手をひく。あきらめる。そしてここが重要だが、�D叱ったことについて、子ど もが守られるようになったら、「ほら、できるわね」と、ほめてしあげる。ちなみに私が調査したと ころ、相手が幼児のばあい、約五〇%の母親が何らかの体罰を加えているのがわかった(浜 松市にて調査)。げんこつ、頭たたき、チビクリ、お尻たたきなど。ほかに「グリグリ(げんこつで 頭の両側をグルグリする)」「ヒネリ(げんこつで頭をひねる)」など。台所のすみで正座、仏壇の 前で正座というものもあった。「どうして仏壇の前で正座なのか?」と聞いたら、その子ども(中 一男子)はこう話してくれた。「お父さんが数年前に死んだから」と。何でもとても恐ろしいことだ そうだ。体罰ではないが、「(家からの)追い出し」というのも依然と多い。 ●ほめるときは、おおげさに 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも、『忠告は秘かに、賞賛はおおやけ に』と書いている。子どもをほめるときは、人前で、大声で、少しおおげさにほめる。そのとき頭 をなでる、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。 ただ、一つだけ条件がある。子どもの、やさしさ、努力については、遠慮なくほめる。が、顔や スタイルについては、ほめないほうがよい。幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見て くれや、かっこうばかりを気にするようになる。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女 子中学生がいた。また「頭」については、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重に する。頭をほめすぎて、子どもがうぬぼれてしまったケースは、いくらでもある。 ●励まし方 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。いつもプラスの暗示をかけるようにして、励 ますとよい。「あなたはこの前より、すばらしくなった」「去年よりずっとよくなった」など。またすで に悩んだり、苦しんだり、さらにはがんばっている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。 意味がないだけではなく、かえって子どもを袋小路へ追い込んでしまう。「やればできる」式の 励まし、「こんなことでは!」式の脅しも、タブー。結果が悪く、子どもが落ち込んでいるようなと きはなおさら、「あなたはよくがんばった」式の前向きな姿勢で、子どもを温かく包んであげる。 子どもをよい子にする法(子どもは使いまくれ!) 子どもをよい子にしたいとき ●どうすれば、うちの子は、いい子になるの? 「どうすれば、うちの子どもを、いい子にすることができるのか。それを一口で言ってくれ。私 は、そのとおりにするから」と言ってきた、強引な(?)父親がいた。「あんたの本を、何冊も読 む時間など、ない」と。私はしばらく間をおいて、こう言った。「使うことです。使って使って、使い まくることです」と。 そのとおり。子どもは使えば使うほど、よくなる。使うことで、子どもは生活力を身につける。 自立心を養う。それだけではない。忍耐力や、さらに根性も、そこから生まれる。この忍耐力や 根性が、やがて子どもを伸ばす原動力になる。 ●一〇〇%スポイルされている日本の子ども? ところでこんなことを言ったアメリカ人の友人がいた。「日本の子どもたちは、一〇〇%、スポ イルされている」と。わかりやすく言えば、「ドラ息子、ドラ娘だ」と言うのだ。そこで私が、「君 は、日本の子どものどんなところを見て、そう言うのか」と聞くと、彼は、こう教えてくれた。「とき どきホームステイをさせてやるのだが、食事のあと、食器を洗わない。片づけない。シャワーを 浴びても、あわを洗い流さない。朝、起きても、ベッドをなおさない」などなど。つまり、「日本の 子どもは何もしない」と。反対に夏休みの間、アメリカでホームステイをしてきた高校生が、こう 言って驚いていた。「向こうでは、明らかにできそこないと思われるような高校生ですら、家事だ けはしっかりと手伝っている」と。ちなみにドラ息子の症状としては、次のようなものがある。 ●ドラ息子症候群 �@ものの考え方が自己中心的。自分のことはするが他人のことはしない。他人は自分を喜 ばせるためにいると考える。ゲームなどで負けたりすると、泣いたり怒ったりする。自分の思い どおりにならないと、不機嫌になる。あるいは自分より先に行くものを許さない。いつも自分が 皆の中心にいないと、気がすまない。�Aものの考え方が退行的。約束やルールが守れない。 目標を定めることができず、目標を定めても、それを達成することができない。あれこれ理由 をつけては、目標を放棄してしまう。ほしいものにブレーキをかけることができない。生活習慣 そのものがだらしなくなる。その場を楽しめばそれでよいという考え方が強くなり、享楽的かつ 消費的な行動が多くなる。�Bものの考え方が無責任。他人に対して無礼、無作法になる。依存 心が強い割には、自分勝手。わがままな割には、幼児性が残るなどのアンバランスさが目立 つ。�Cバランス感覚が消える。ものごとを静かに考えて、正しく判断し、その判断に従って行動 することができない、など。 ●原因は家庭教育に こうした症状は、早い子どもで、年中児の中ごろ(四・五歳)前後で表れてくる。しかし一度こ の時期にこういう症状が出てくると、それ以後、それをなおすのは容易ではない。ドラ息子、ド ラ娘というのは、その子どもに問題があるというよりは、家庭のあり方そのものに原因がある からである。また私のようなものがそれを指摘したりすると、家庭のあり方を反省する前に、叱 って子どもをなおそうとする。あるいは私に向かって、「内政干渉しないでほしい」とか言って、 それをはねのけてしまう。あるいは言い方をまちがえると、家庭騒動の原因をつくってしまう。 ●子どもは使えば使うほどよい子に 日本の親は、子どもを使わない。本当に使わない。「子どもに楽な思いをさせるのが、親の愛 だ」と誤解しているようなところがある。だから子どもにも生活感がない。「水はどこからくるか」 と聞くと、年長児たちは「水道の蛇口」と答える。「ゴミはどうなるか」と聞くと、「どこかのおじさん が捨ててくれる」と。あるいは「お母さんが病気になると、どんなことで困りますか」と聞くと、「お 父さんがいるから、いい」と答えたりする。生活への耐性そのものがなくなることもある。友だち の家からタクシーで、あわてて帰ってきた子ども(小六女児)がいた。話を聞くと、「トイレが汚れ ていて、そこで用をたすことができなかったからだ」と。そういう子どもにしないためにも、子ども にはどんどん家事を分担させる。子どもが二〜四歳のときが勝負で、それ以後になると、この しつけはできなくなる。 ●いやなことをする力、それが忍耐力 で、その忍耐力。よく「うちの子はサッカーだと、一日中しています。そういう力を勉強に向け てくれたらいいのですが……」と言う親がいる。しかしそういうのは忍耐力とは言わない。好き なことをしているだけ。幼児にとって、忍耐力というのは、「いやなことをする力」のことをいう。 たとえば台所の生ゴミを始末できる。寒い日に隣の家へ、回覧板を届けることができる。風呂 場の排水口にたまった毛玉を始末できる。そういうことができる力のことを、忍耐力という。こ んな子ども(年中女児)がいた。その子どもの家には、病気がちのおばあさんがいた。そのお ばあさんのめんどうをみるのが、その女の子の役目だというのだ。その子どものお母さんは、 こう話してくれた。「おばあさんが口から食べ物を吐き出すと、娘がタオルで、口をぬぐってくれ るのです」と。こういう子どもは、学習面でも伸びる。なぜか。 ●学習面でも伸びる もともと勉強にはある種の苦痛がともなう。漢字を覚えるにしても、計算ドリルをするにして も、大半の子どもにとっては、じっと座っていること自体が苦痛なのだ。その苦痛を乗り越える 力が、ここでいう忍耐力だからである。反対に、その力がないと、(いやだ)→(しない)→(でき ない)→……の悪循環の中で、子どもは伸び悩む。 ……こう書くと、決まって、こういう親が出てくる。「何をやらせればいいのですか」と。話を聞く と、「掃除は、掃除機でものの一〇分もあればすんでしまう。買物といっても、食材は、食材屋 さんが毎日、届けてくれる。洗濯も今では全自動。料理のときも、キッチンの周囲でうろうろさ れると、かえってじゃま。テレビでも見ていてくれたほうがいい」と。 ●家庭の緊張感に巻き込む 子どもを使うということは、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。親が寝そべってテレビを見 ながら、「玄関の掃除をしなさい」は、ない。子どもを使うということは、親がキビキビと動き回 り、子どももそれに合わせて、すべきことをすることをいう。たとえば……。 あなた(親)が重い買い物袋をさげて、家の近くまでやってきた。そしてそれをあなたの子ども が見つけたとする。そのときさっと子どもが走ってきて、あなたを助ければ、それでよし。しかし 知らぬ顔で、自分のしたいことをしているようであれば、家庭教育のあり方をかなり反省したほ うがよい。やらせることがないのではない。その気になればいくらでもある。食事が終わった ら、食器を台所のシンクのところまで持ってこさせる。そこで洗わせる。フキンで拭かせる。さら に食器を食器棚へしまわせる、など。 子どもを使うということは、ここに書いたように、家庭の緊張感に巻き込むことをいう。たとえ ば親が、何かのことで電話に出られないようなとき、子どものほうからサッと電話に出る。庭の 草むしりをしていたら、やはり子どものほうからサッと手伝いにくる。そういう雰囲気で包むこと をいう。何をどれだけさせればよいという問題ではない。要はそういう子どもにすること。それ が、「いい子にする条件」ということになる。 ●バランスのある生活を大切に ついでに……。子どもをドラ息子、ドラ娘にしないためには、次の点に注意する。�@生活感の ある生活に心がける。ふつうの寝起きをするだけでも、それにはある程度の苦労がともなうこ とをわからせる。あるいは子どもに「あなたが家事を手伝わなければ、家族のみんなが困るの だ」という意識をもたせる。�A質素な生活を旨とし、子ども中心の生活を改める。�B忍耐力をつ けさせるため、家事の分担をさせる。�C生活のルールを守らせる。�D不自由であることが、生 活の基本であることをわからせる。そしてここが重要だが、�Eバランスのある生活に心がけ る。 ここでいう「バランスのある生活」というのは、きびしさと甘さが、ほどよく調和した生活をいう。 ガミガミと子どもにきびしい反面、結局は子どもの言いなりになってしまうような甘い生活。ある いは極端にきびしい父親と、極端に甘い母親が、それぞれ子どもの接し方でチグハグになって いる生活は、子どもにとっては、決して好ましい環境とは言えない。チグハグになればなるほ ど、子どもはバランス感覚をなくす。ものの考え方がかたよったり、極端になったりする。 子どもがドラ息子やドラ娘になればなったで、将来苦労するのは、結局は子ども自身。それを 忘れてはならない。 子どもの親像を育てる法(ぬいぐるみを抱かせろ!) 子どもに母性や父性が育つとき ●ぬいぐるみでわかる母性 子どもに父性や母性が育っているかどうかは、ぬいぐるみの人形を抱かせてみればわかる。 しかもそれが、三〜五歳のときにわかる。父性や母性(父性と母性を区別するのも、おかしな ことだが……)が育っている子どもは、ぬいぐるみを見せると、うれしそうな顔をする。さもいと おしいといった表情で、ぬいぐるみを見る。抱き方もうまい。そうでない子どもは、無関心、無感 動。抱き方もぎこちない。中にはぬいぐるみを見せたとたん、足でキックしてくる子どももいる。 ちなみに小三児の約八〇%の子どもが、ぬいぐるみを持っている。そのうち約半数が「大好 き」と答えている。 ●男児もぬいぐるみで遊ぶ オーストラリアでは、子どもの本といえば、動物の本をいう。写真集が多い。またオーストラリ アに限らず、欧米では、子どもの誕生日に、ペットを与えることが多い。つまり子どものときか ら、動物との関わりを深くもたせる。一義的には、子どもは動物を通して、心のやりとりを学 ぶ。しかしそれだけではない。子どもはペットを育てることによって、父性や母性を学ぶ。そん なわけで、機会と余裕があれば、子どもにはペットを飼わせることを勧める。犬やネコが代表 的なものだが、心が通いあうペットがよい。が、それが無理なら、ぬいぐるみを与える。やわら かい素材でできた、温もりのあるものがよい。 ●悪しき日本の偏見 日本では、「男の子はぬいぐるみでは遊ばないもの」と考えている人が多い。しかしこれは偏 見。こと幼児についていうなら、男女の差別はない。あってはならない。つまり男の子がぬいぐ るみで遊ぶからといって、それを「おかしい」と思うほうが、おかしい。男児も幼児のときから、 たとえばペットや人形を通して、父性を育てたらよい。ただしここでいう人形というのは、その目 的にかなった人形をいう。ウルトラマンとかガンダムとかいうのは、ここでいう人形ではない。 また日本では、古来より戦闘的な遊びをするのが、「男」ということになっている。が、これも 偏見。悪しき出世主義から生まれた偏見と言ってもよい。その一つの例が、五月人形。弓矢を もった武士が、力強い男の象徴になっている。三〇〇年後の子どもたちが、銃をもった軍人や 兵隊の人形を飾って遊ぶようなものだ。どこかおかしいが、そのおかしさがわからないほど、日 本人はこの出世主義に、こりかたまっている。「男は仕事(出世)、女は家事」という、あの日本 独特の男女差別思想も、この出世主義から生まれた。 ●ぬいぐるみで育つ母性と父性 話を戻す。愛情豊かな家庭で育った子どもは、静かな落ちつきがある。おだやかで、ものの 考え方が常識的。どこかほっとするような温もりを感ずる。それもぬいぐるみを抱かせてみれ ばわかる。両親の愛情をたっぷりと受けて育った子どもは、ぬいぐるみを見せただけで、スー ッと頬を寄せてくる。こういう子どもは、親になっても、虐待パパや虐待ママにはならない。言い かえると、この時期すでに、親としての「心」が決まる。 ついでに一言。「子育て」は本能ではない。子どもは親に育てられたという経験があってはじ めて、自分が親になったとき、子育てができる。もしあなたが、「うちの子は、どうも心配だ」と思 っているなら、ぬいぐるみを身近に置いてあげるとよい。ぬいぐるみと遊びながら、子どもは親 になるための練習をする。父性や母性も、そこから引き出される。 子どもの自立心を育てる法(依存心をもたせるな!) 日本人の依存性を考えるとき ●森進一の『おくふろさん』 森進一が歌う『おふくろさん』は、よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。しかし ……。日本人は、ちょうど野生の鳥でも手なずけるかのようにして、子どもを育てる。これは日 本人独特の子育て法と言ってもよい。あるアメリカの教育家はそれを評して、「日本の親たち は、子どもに依存心をもたせるのに、あまりにも無関心すぎる」と言った。そして結果として、日 本では昔から、親にベタベタと甘える子どもを、かわいい子イコール、「よい子」とし、一方、独 立心が旺盛な子どもを、「鬼っ子」として嫌う。 ●保護と依存の親子関係 こうした日本人の子育て観の根底にあるのが、親子の上下意識。「親が上で、子どもが下」 と。この上下意識は、もともと保護と依存の関係で成り立っている。親が子どもに対して保護意 識、つまり親意識をもてばもつほど、子どもは親に依存するようになる。こんな子ども(年中男 児)がいた。生活力がまったくないというか、言葉の意味すら通じない子どもである。服の脱ぎ 着はもちろんのこと、トイレで用を足しても、お尻をふくことすらできない。パンツをさげたまま、 教室に戻ってきたりする。あるいは給食の時間になっても、スプーンを自分の袋から取り出す こともできない。できないというより、じっと待っているだけ。多分、家でそうすれば、家族の誰 かが助けてくれるのだろう。そこであれこれ指示をするのだが、それがどこかチグハグになっ てしまう。こぼしたミルクを服でふいたり、使ったタオルをそのままゴミ箱へ捨ててしまったりす るなど。 それがよいのか悪いのかという議論はさておき、アメリカ、とくにアングロサクソン系の家庭で は、子どもが赤ん坊のうちから、親とは寝室を別にする。「親は親、子どもは子ども」という考え 方が徹底している。こんなことがあった。一度、あるオランダ人の家庭に招待されたときのこ と。そのとき母親は本を読んでいたのだが、五歳になる娘が、その母親に何かを話しかけてき た。母親はひととおり娘の話に耳を傾けたあと、しかしこう言った。「私は今、本を読んでいるの よ。じゃましないでね」と。 ●子育ての目標は「よき家庭人」 子育ての目標をどこに置くかによって育て方も違うが、「子どもをよき家庭人として自立させる こと」と考えるなら、依存心は、できるだけもたせないほうがよい。そこであなたの子どもはどう だろうか。依存心の強い子どもは、特有の言い方をする。「何とかしてくれ言葉」というのが、そ れである。たとえばお腹がすいたときも、「食べ物がほしい」とは言わない。「お腹がすいたア〜 (だから何とかしてくれ)」と言う。ほかに「のどがかわいたア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。 もう少し依存心が強くなると、こういう言い方をする。私「この問題をやりなおしなさい」子「ケシ で消してからするのですか」私「そうだ」子「きれいに消すのですか」私「そうだ」子「全部消すの ですか」私「自分で考えなさい」子「どこを消すのですか」と。実際私が、小学四年生の男児とし た会話である。こういう問答が、いつまでも続く。 さて森進一の歌に戻る。よい年齢になったおとなが、空を見あげながら、「♪おふくろさんよ ……」と泣くのは、世界の中でも日本人ぐらいなものではないか。よい歌だが、その背後には、 日本人独特の子育て観が見え隠れする。一度、じっくりと歌ってみてほしい。 (参考) ●夫婦別称制度 日本人の上下意識は、近年、急速に崩れ始めている。とくに夫婦の間の上下意識にそれが 顕著に表れている。内閣府は、夫婦別姓問題(選択的夫婦別姓制度)について、次のような世 論調査結果を発表した(二〇〇一年)。それによると、同制度導入のための法律改正に賛成 するという回答は四二・一%で、反対した人(二九・九%)を上回った。前回調査(九六年)では 反対派が多数だったが、賛成派が逆転。さらに職場や各種証明書などで旧姓(通称)を使用す る法改正について容認する人も含めれば、肯定派は計六五・一%(前回五五・〇%)にあがっ たというのだ。 調査によると、旧姓使用を含め法律改正を容認する人は女性が六八・一%と男性(六一・ 八%)より多く、世代別では、三〇代女性の八六・六%が最高。別姓問題に直面する可能性が 高い二〇代、三〇代では、男女とも容認回答が八割前後の高率。「姓が違うと家族の一体感 に影響が出るか」の質問では、過半数の五二・〇%が「影響がない」と答え、「一体感が弱ま る」(四一・六%)との差は前回調査より広がった。ただ、夫婦別姓が子供に与える影響につい ては、「好ましくない影響がある」が六六・〇%で、「影響はない」の二六・八%を大きく上回っ た。調査は二〇〇一年五月、全国の二〇歳以上の五〇〇〇人を対象に実施され、回収率は 六九・四%だった。なお夫婦別姓制度導入のための法改正に賛成する人に対し、実現したば あいに結婚前の姓を名乗ることを希望するかどうか尋ねたところ、希望者は一八・二%にとど まったという。 親子のきずなを深める法(成長を喜べ!) 親子のきずなが切れるとき ●親に反抗するのは、子どもの自由? 「親に反抗するのは、子どもの自由でよい」と考えている日本の高校生は、八五%。「親に反 抗してはいけない」と考えている高校生は、五%。この数字を、アメリカや中国と比較してみる と、親に反抗してもよい……アメリカ一六%、中国一五%。親に反抗してはいけない……アメリ カ八二%、中国八四%(財団法日本青少年研究所・九八年調査)。日本だけは、親に反抗して もよいと考えている高校生が、ダントツに多く、反抗してはいけないと考えている高校生が、ダ ントツに少ない。こうした現象をとらえて、「日本の高校生たちの個人主義が、ますます進んで いる」(評論家O氏)と論評する人がいる。しかし本当にそうか。この見方だと、なぜ日本の高校 生だけがそうなのか、ということについて、説明がつかなくなってしまう。日本だけがダントツに 個人主義が進んでいるということはありえない。 アメリカよりも個人主義が進んでいると考え るのもおかしい。 ●受験が破壊する子どもの心 私が中学生になったときのこと。祖父の前で、「バイシクル、自転車!」と読んでみせると、祖 父は、「浩司が、英語を読んだぞ! 英語を読んだぞ!」と喜んでくれた。が、今、そういう感動 が消えた。子どもがはじめてテストを持って帰ったりすると、親はこう言う。「何よ、この点数 は! 平均点は何点だったの?」と。さらに「幼稚園のときから、高い月謝を払ってあんたを英 語教室へ通わせたけど、ムダだったわね」と言う親さえいる。しかしこういう親の一言が、子ど もからやる気をなくす。いや、その程度ですめばまだよいほうだ。こういう親の教育観は、親子 の信頼感、さらには親子のきずなそのものまで、こなごなに破壊する。冒頭にあげた「八五%」 という数字は、まさにその結果であるとみてよい。 ●「家族って、何ですかねえ……」 さらに深刻な話をしよう。現実にあった話だ。R氏は、リストラで仕事をなくした。で、そのとき 手にした退職金で、小さな設計事務所を開いた。が、折からの不況で、すぐ仕事は行きづまっ てしまった。R氏には二人の娘がいた。一人は大学一年生、もう一人は高校三年生だった。R 氏はあちこちをかけずり回り、何とか上の娘の学費は工面することができたが、下の娘の学費 が難しくなった。そこで下の娘に、「大学への進学をあきらめてほしい」と言ったが、下の娘は それに応じなかった。「こうなったのは、あんたの責任だから、借金でも何でもして、あんたの義 務を果たしてよ!」と。本来ならここで妻がR氏を助けなければならないのだが、その妻まで、 「生活ができない」と言って、家を出て、長女のアパートに身を寄せてしまった。そのR氏はこう 言う。「家族って、何ですかねえ……」と。 ●娘にも言い分はある いや、娘にも言い分はある。私が「お父さんもたいへんなんだから、理解してあげなさい」と言 うと、下の娘はこう言った。「小さいときから、勉強しろ、勉強しろとさんざん言われつづけてき た。それを今になって、勉強しなくていいって、どういうこと!」と。 今、日本では親子のきずなが、急速に崩壊し始めている。長引く不況が、それに拍車をかけ ている。日本独特の「学歴社会」が、その原因のすべてとは言えないが、しかしそれが原因で ないとは、もっと言えない。たとえば私たちが何気なく使う、「勉強しなさい」「宿題はやったの」と いう言葉にしても、いつの間にか親子の間に、大きなミゾをつくる。そこでどうだろう、言い方を 変えてみたら……。 たとえば英語国では、日本人が「がんばれ」と言いそうなとき、「テイク・イット・イージィ(気楽に やりなよ)」と言う。「そんなにがんばらなくてもいいのよ」と。よい言葉だ。あなたの子どもがテス トの点が悪くて、落ち込んでいるようなとき、一度そう言ってみてほしい。「気楽にやりなよ」と。 この一言が、あなたの子どもの心をいやし、親子のきずなを深める。子どももそれでやる気を 起こす。 子どもの心をつかむ法(恩を着せるな!) 子どもの心が離れるとき ●フリーハンドの人生 「たった一度しかない人生だから、あなたはあなたの人生を、思う存分生きなさい。前向きに 生きなさい。あなたの人生は、あなたのもの。家の心配? ……そんなことは考えなくていい。 親孝行? ……そんなことは考えなくていい」と、一度はフリーハンドの形で子どもに子どもの 人生を手渡してこそ、親は親としての義務を果たしたことになる。子どもを「家」や、安易な孝行 論でしばってはいけない。負担に思わせるのも、期待するのも、いけない。もちろん子どもがそ のあと自分で考え、家のことを心配したり、親に孝行をするというのであれば、それは子どもの 勝手。子どもの問題。 ●本当にすばらしい母親? 日本人は無意識のうちにも、子どもを育てながら、子どもに、「産んでやった」「育ててやった」 と、恩を着せてしまう。子どもは子どもで、「産んでもらった」「育ててもらった」と、恩を着せられ てしまう。 以前、NHKの番組に『母を語る』というのがあった。その中で日本を代表する演歌歌手のI氏 が、涙ながらに、切々と母への恩を語っていた(二〇〇〇年夏)。「私は母の女手一つで、育て られました。その母に恩返しをしたい一心で、東京へ出て歌手になりました」と。はじめ私は、I 氏の母親はすばらしい人だと思っていた。I氏もそう話していた。しかしそのうちI氏の母親が、 本当にすばらしい親なのかどうか、私にはわからなくなってしまった。五〇歳も過ぎたI氏に、そ こまで思わせてよいものか。I氏をそこまで追いつめてよいものか。ひょっとしたら、I氏の母親 はI氏を育てながら、無意識のうちにも、I氏に恩を着せてしまったのかもしれない。 ●子離れできない親、親離れできない子 日本人は子育てをしながら、子どもに献身的になることを美徳とする。もう少しわかりやすく 言うと、子どものために犠牲になる姿を、子どもの前で平気で見せる。そしてごく当然のこととし て、子どもにそれを負担に思わせてしまう。その一例が、『かあさんの歌』である。「♪かあさん は、夜なべをして……」という、あの歌である。戦後の歌声運動の中で大ヒットした歌だが、しか しこの歌ほど、お涙ちょうだい、恩着せがましい歌はない。窪田聡という人が作詞した『かあさ んの歌』は、三番まであるが、それぞれ三、四行目はかっこ付きになっている。つまりこの部分 は、母からの手紙の引用ということになっている。それを並べてみる。 「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」 「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」 「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」 しかしあなたが息子であるにせよ娘であるにせよ、親からこんな手紙をもらったら、あなたは どう感ずるだろうか。あなたは心配になり、羽ばたける羽も、安心して羽ばたけなくなってしまう に違いない。 ●「今夜も居間で俳句づくり」 親が子どもに手紙を書くとしたら、仮にそうではあっても、「とうさんとお煎べいを食べながら、 手袋を編んだよ。楽しかったよ」「とうさんは今夜も居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」 「春になれば、村の旅行会があるからさ。温泉へ行ってくるからね」である。そう書くべきであ る。つまり「かあさんの歌」には、子離れできない親、親離れできない子どもの心情が、綿々と 織り込まれている! ……と考えていたら、こんな子ども(中二男子)がいた。自分のことを言う のに、「D家(け)は……」と、「家」をつけるのである。そこで私が、「そういう言い方はよせ」と言 うと、「ぼくはD家の跡取り息子だから」と。私はこの「跡取り」という言葉を、四〇年ぶりに聞い た。今でもそういう言葉を使う人は、いるにはいる。 ●うしろ姿の押し売りはしない 子育ての第一の目標は、子どもを自立させること。それには親自身も自立しなければならな い。そのため親は、子どもの前では、気高く生きる。前向きに生きる。そういう姿勢が、子ども に安心感を与え、子どもを伸ばす。親子のきずなも、それで深まる。子どもを育てるために苦 労している姿。生活を維持するために苦労している姿。そういうのを日本では「親のうしろ姿」と いうが、そのうしろ姿を子どもに押し売りしてはいけない。押し売りすればするほど、子どもの 心はあなたから離れる。 ……と書くと、「君の考え方は、ヘンに欧米かぶれしている。親孝行論は日本人がもつ美徳 の一つだ。日本のよさまで君は否定するのか」と言う人がいる。しかし事実は逆だ。こんな調査 結果がある。平成六年に総理府がした調査だが、「どんなことをしてでも親を養う」と答えた日 本の若者はたったの、二三%(三年後の平成九年には一九%にまで低下)しかいない。自由 意識の強いフランスでさえ五九%。イギリスで四六%。あのアメリカでは、何と六三%である (※)。欧米の人ほど、親子関係が希薄というのは、誤解である。今、日本は、大きな転換期に きているとみるべきではないのか。 ●親も前向きに生きる 繰り返すが、子どもの人生は子どものものであって、誰のものでもない。もちろん親のもので もない。一見ドライな言い方に聞こえるかもしれないが、それは結局は自分のためでもある。 私たちは親という立場にはあっても、自分の人生を前向きに生きる。生きなければならない。 親のために犠牲になるのも、子どものために犠牲になるのも、それは美徳ではない。あなたの 親もそれを望まないだろう。いや、昔の日本人は子どもにそれを求めた。が、これからの考え 方ではない。あくまでもフリーハンド、である。ある母親は息子にこう言った。「私は私で、懸命 に生きる。あなたはあなたで、懸命に生きなさい」と。子育ての基本は、ここにある。 ※……ほかに、「どんなことをしてでも、親を養う」と答えた若者の割合(総理府調査・平成六 年)は、次のようになっている。 フィリッピン ……八一%(一一か国中、最高) 韓国 ……六七% タイ ……五九% ドイツ ……三八% スウェーデン ……三七% 日本の若者のうち、六六%は、「生活力に応じて(親を)養う」と答えている。これを裏から読 むと、「生活力がなければ、養わない」ということになるのだが……。 子育ての方向性を考える法(四つの方向性を見ろ!) 子育ての方向性を考えるとき ●子育て四次元論 子育てには四つの方向性がある。 �@未来に向かう……子どもに子ども(あなたからみれば孫)の育て方を教えるのが、子育て。 「あなたが親になったら、こういうふうに子どもを育てるのですよ」「こういうふうに子どもを叱る のですよ」と。もっと言えば、子育ての見本を見せるのが子育て。「親子というのはこういうもの ですよ」「夫婦というのは、こういうものですよ」「幸せな家庭というのはこういうものですよ」と。 あなたの子どもは親になったとき、あなたがした子育てを繰り返す。それを想像しながら、子育 てをする。 �A過去に向かう……あなたは今、自分が受けた子育てを繰り返しているにすぎない。そこであ なたの過去をさぐってみる。あなたは心豊かで、愛情深い家庭環境で育っただろうか。もしそう ならそれでよし。が、そうでなければ、あなたの子育ては、どこかがゆがんでいるとみる。その 「ゆがみ」に気づくこと。あなたはひょっとしたら、そのゆがみに気づかないまま、今の子育てを しているかもしれない。そしてさらにそのゆがみを、あなたから、今度はあなたの子どもへ伝え ているかもしれない。……と、言っても難しいことではない。この問題だけは、気づくだけでよ い。しばらく時間はかかるが、それでなおる。 �B外に向かう……自分の子育てを「外」から見る。自分の子育てを、他人の子育てと比較す る。兄弟や友人、さらには近所の人たちの子育てと比較する。もしできれば、世界の子育てと 比較してみるのもよい。子育てでこわいのは、独善と独断。「子どものことは私が一番よく知っ ている」「私が子どもにすることには、まちがいはない」と豪語する親ほど、子育てで失敗しやす い。要は風通しをよくするということ。そのために視野を高くもつ。 �C内に向かう……子育てはただの子育てではない。よく「育自」という言葉を使って、「子育てと は自分を育てることだ」と言う人がいる。まちがってはいないが、しかし子育ては、そんな甘いも のではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越え、いやおうなしに育てられ る。親が子どもを育てるのではない。子どもが親を育てる。子どもが親に、人間がどういうもの かを教える。 ある母親は長男を交通事故でなくした。それから数年後、道で会うと、その母親は神々しい ほどまでの人になっていた。こうした不幸は決してあってはならないものだが、しかしその母親 は、長男をなくしたという苦しみや悲しみを乗り越えることによって、自分を育てることができ た。「お元気ですか?」と声をかけると、うれしそうにニッコリと笑ったが、私はそれ以上、話し かけることができなかった。近寄りがたくすら感じた。 以上、子育てに、未来、過去、外、内の四つの方向性があることを、私は「子育て四次元論」 と呼んでいる。 (付記) ●八一〇年後には、すべてあなたの子孫 今あなたは子育てをしながら、ひょっとしたら、「うちの子さえよければ」と考えているかもしれ ない。「他人の子どもはともかくも、とりあえずうちの子だけでも、うまくいけばそれでいい」と。し かしあなたが自分の子どもを育てながら、その子どもの中に孫、さらにその孫の中にそのまた 子どもを見ることができるようになると、この考えはまちがっていることを知る。こんな計算をし てみた。 仮に一組の夫婦(二人)が、二人の子どもを産み、それぞれの子どもが結婚して、また二人 ずつの子どもを産んだとする。それを二七代繰り返すと、その数は一億三〇〇〇万人を超え る。ほぼ今の日本の人口と同じになる。一世代を三〇年とすると、三〇年掛ける二七で、八一 〇年。つまり八一〇年後には、日本中のすべての人があなたの子孫ということになる。 ●視野を未来に あなたは今、自分の子どものことを心配する。しかし孫が生まれれば、あなたはその孫のこ とを心配するだろう。もしあなたに永遠の命があるなら、あなたはそのまた子どものことを心配 するだろう。……そういうふうに考え始めると、今、あなたが「自分の子さえよければ」という考 えが、実に小さなものだと知るはずだ。そしてその時点で、あなたは、自分の子どものことは当 然としても、同時にこの社会全体、日本全体、世界全体の問題を考えることも重要だと気づく はずだ。 ●私のジレンマ 実のところ、私もこの問題では悩んでいた。教育論を論じながら、いつも心のどこかで(自分 の子ども)と、(他人の子ども)を区別していた。自分の子どもに言う言葉と、他人の子どもに言 う言葉が、どこか違っていた。それは実に心苦しいジレンマでもあった。人間誰しも、内ヅラと 表ヅラ、あるいは本音と立て前を使い分けて生きるのは、たいへんなことだ。だからある日か ら、私はそれをやめた。やめて、自分の子どもにも、他人の子どもにもあるがままに接するよう にした。しかしそれが本当にできるようになったのは、自分の子どもの中に孫、さらにはそのま た孫を見ることができるようになってからである。子どもに子ども(あなたから見れば孫)の育て 方を教えるということには、そういう意味も含まれる。 子どもの抵抗力をます法(東洋医学の発想で防げ!) 子どもが非行に抵抗するとき ●あやしげな男だった あやしげな男だった。最初は印鑑を売りたいと言っていたが、話をきいていると、「疲れがと れる、いい薬がありますよ」と。私はピンときたので、その男には、そのまま帰ってもらった。 西洋医学では「結核菌により、結核になった」と考える。だから「結核菌を攻撃する」という治 療原則を打ちたてる。これに対して東洋医学では、「結核になったのは、体が結核菌に敗れた からだ」と考える。だから「体質を強化する」という治療原則を打ちたてる。人体に足りないもの を補ったり、体質改善を試みたりする。これは病気の話だが、「悪」についても、同じように考え ることができる。私がたまたまその男の話に乗らなかったのは、私にはそれをはねのけるだけ の抵抗力があったからにほかならない。 ●非行は東洋医学的な発想で 子どもの非行についても、また同じ。非行そのものと戦う方法もあるが、子どもの中に抵抗力 を養うという方法もある。たとえばその年齢になると、子どもたちはどこからとなく、タバコを覚 えてくる。最初はささいな好奇心から始まるが、問題はこのときだ。たいていの親は叱ったりす る。で、さらにそのあと、誘惑に負けて、そのまま喫煙を続ける子どももいれば、その誘惑をは ねのける子どももいる。東洋医学的な発想からすれば、「喫煙という非行に走るか走らないか は、抵抗力の問題」ということになる。そういう意味では予防的ということになるが、実は東洋医 学の本質はここにある。東洋医学はもともとは、「病気になってから頼る医学」というよりは、 「病気になる前に頼る医学」という色彩が強い。あるいは「より病気を悪くしない医学」と考えて もよい。ではどうするか。 ●子育ての基本は自由 子育ての基本は、自由。自由とは、もともと「自らに由る」という意味。つまり子どもには、自 分で考えさせ、自分で行動させ、そして自分で責任を取らせる。しかもその時期は早ければ早 いほどよい。乳幼児期からでも、早すぎるということはない。自分で考えさせる時間を大切に し、頭からガミガミと押しつける過干渉、子どもの側からみて、息が抜けない過関心、「私は親 だ」式の権威主義は避ける。暴力や威圧がよくないことは言うまでもない。「あなたはどう思 う?」「どうしたらいいの?」「どう始末したらいいの?」と、いつも問いかけながら、要は子ども のリズムに合わせて「待つ」。こういう姿勢が、子どもを常識豊かな子どもにする。抵抗力のあ る子どもにする。 親子の断絶を防ぐ法(子どものうしろを歩け!) 親子の断絶が始まるとき ●最初は小さな亀裂 最初は、それは小さな亀裂で始まる。しかしそれに気づく親は少ない。「うちの子に限って… …」「まだうちの子は小さいから……」と思っているうちに、互いの間の不協和音はやがて大き くなる。そしてそれが、断絶へと進む……。 今、「父親を尊敬していない」と考えている中高校生は五五%もいる。「父親のようになりたく ない」と思っている中高校生は七九%もいる(『青少年白書』平成一〇年)(※)。が、この程度 ならまだ救われる。親子といいながら会話もない。廊下ですれ違っても、目と目をそむけあう。 まさに一触即発。親が何かを話しかけただけで、「ウッセー!」と、子どもはやり返す。そこで親 は親で、「親に向かって、何だ!」となる。あとはいつもの大喧嘩! ……と、書くと、たいていの親はこう言う。「うちはだいじょうぶ」と。「私は子どもに感謝されてい るはず」と言う親もいる。しかし本当にそうか。そこでこんなテスト。 ●休まるのは風呂の中 あなたの子どもが、学校から帰ってきたら、どこで体を休めているか、それを観察してみてほし い。そのときあなたの子どもが、あなたのいるところで、あなたのことを気にしないで、体を休め ているようであれば、それでよし。あなたと子どもの関係は良好とみてよい。しかし好んであな たの姿の見えないところで体を休めたり、あなたの姿を見ると、どこかへ逃げて行くようであれ ば、要注意。かなり反省したほうがよい。ちなみに中学生の多くが、心が休まる場所としてあげ たのが、�@風呂の中、�Aトイレの中、それに�Bふとんの中だそうだ(学外研・九八年報告)。 ●断絶の三要素 親子を断絶させるものに、三つある。�@権威主義、�A相互不信、それに�Bリズムの乱れ。 �@権威主義……「私は親だ」というのが権威主義。「私は親だ」「子どもは親に従うべき」と考え る親ほど、あぶない。権威主義的であればあるほど、親は子どもの心に耳を傾けない。「子ど ものことは私が一番よく知っている」「私がすることにはまちがいはない」という過信のもと、自 分勝手で自分に都合のよい子育てだけをする。子どもについても、自分に都合のよいところし か認めようとしない。あるいは自分の価値観を押しつける。一方、子どもは子どもで親の前で は、仮面をかぶる。よい子ぶる。が、その分だけ、やがて心は離れる。 �A相互不信……「うちの子はすばらしい」という自信が、子どもを伸ばす。しかし親が「心配だ」 「不安だ」と思っていると、それはそのまま子どもの心となる。人間の心は、鏡のようなものだ。 イギリスの格言にも、『相手は、あなたが思っているように、あなたのことを思う』というのがあ る。つまりあなたが子どものことを「すばらしい子」と思っていると、あなたの子どもも、あなたを 「すばらしい親」と思うようになる。そういう相互作用が、親子の間を密にする。が、そうでなけ れば、そうでなくなる。 �Bリズムの乱れ……三つ目にリズム。あなたが子ども(幼児)と通りをあるいている姿を、思い 浮かべてみてほしい。(今、子どもが大きくなっていれば、幼児のころの子どもと歩いている姿 を思い浮かべてみてほしい。)そのとき、�@あなたが、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと 歩いていれば、よし。しかし�A子どもの前に立って、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いて いるようであれば、要注意。今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶……ということにも なりかねない。 このタイプの親ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語 する。へたに子どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そし ておけいこごとでも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、そうだ。子どもは子どもで、親の 前では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚する。が、 仮面は仮面。長くは続かない。あなたは、やがて子どもと、こんな会話をするようになる。親「あ んたは誰のおかげでピアノがひけるようになったか、それがわかっているの! お母さんが高 い月謝を払って、毎週ピアノ教室へ連れていってあげたからよ!」、子「いつ誰が、そんなこと、 お前に頼んだア!」と。 ●リズム論 子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、子ども が三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、それは騒 音でしかない。 このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くというこ と。そのとちゅうで変わるということは、まず、ない。たとえば四時間おきにミルクを与えることに なっていたとする。そのとき、四時間になったら、子どもがほしがる前に、哺乳ビンを子どもの 口に押しつける親もいれば、反対に四時間を過ぎても、子どもが泣くまでミルクを与えない親も いる。たとえば近所の子どもたちが英語教室へ通い始めたとする。そのとき、子どもが望む前 に英語教室への入会を決めてしまう親もいれば、反対に、子どもが「行きたい」と行っても、な かなか行かせない親もいる。こうしたリズムは一度できると、それはずっと続く。子どもがおとな になってからも、だ。 ある女性(三二歳)は、こう言った。「今でも、実家の親を前にすると、緊張します」と。また別の 男性(四〇歳)も、父親と同居しているが、親子の会話はほとんど、ない。どこかでそのリズム を変えなければならないが、リズムは、その人の人生観と深くからんでいるため、変えるのは 容易ではない。 ●子どものうしろを歩く 権威主義は百害あって一利なし。頭ごなしの命令は、タブー。子どもを信じ、今日からでも遅 くないから、子どものリズムにあわせて、子どものうしろを歩く。横でもよい。決して前を歩かな い。アメリカでは親子でも、「お前はパパに何をしてほしい?」「パパはぼくに何をしてほしい?」 と聞きあっている。そういう謙虚さが、子どもの心を開く。親子の断絶を防ぐ。 ※……平成一〇年度の『青少年白書』によれば、中高校生を対象にした調査で、「父親を尊敬 していない」の問に、「はい」と答えたのは五四・九%、「母親を尊敬していない」の問に、「はい」 と答えたのは、五一・五%。また「父親のようになりたくない」は、七八・八%、「母親のようにな りたくない」は、七一・五%であった。この調査で注意しなければならないことは、「父親を尊敬 していない」と答えた五五%の子どもの中には、「父親を軽蔑している」という子どもも含まれて いるということ。また、では残りの約四五%の子どもが、「父親を尊敬している」ということにもな らない。この中には、「父親を何とも思っていない」という子どもも含まれている。白書の性質 上、まさか「父親を軽蔑していますか」という質問項目をつくれなかったのだろう。それでこうし た、どこか遠回しな質問項目になったものと思われる。
子どもの心を落ちつかせる法(行きづまったら抱け!)
子どもの心がつかめなくなったとき ●スキンシップは魔法の力 スキンシップには、人知を超えた不思議な力がある。魔法の力といってもよい。もう二〇年ほ ど前のことだが、こんな講演を聞いたことがある。アメリカのある自閉症児専門施設の先生の 講演だが、そのときその講師の先生は、こう言っていた。「うちの施設では、とにかく『抱く』とい う方法で、すばらしい治療成績をあげています」と。その施設の名前も先生の名前も忘れた。 が、その後、私はいろいろな場面で、「なるほど」と思ったことが、たびたびある。言いかえる と、スキンシップを受けつけない子どもは、どこかに「心の問題」があるとみてよい。 たとえばかん黙児や自閉症児など、情緒障害児と呼ばれる子どもは、相手に心を許さない。 許さない分だけ、抱かれない。無理に抱いても、体をこわばらせてしまう。抱く側は、何かしら 丸太を抱いているような気分になる。これに対して心を許している子どもは、抱く側にしっくりと 身を寄せる。さらに肉体が融和してくると、呼吸のリズムまで同じになる。心臓の脈動まで同じ になることがある。で、この話をある席で話したら、そのあと一人の男性がこう言った。「子ども も女房も同じですな」と。つまり心が通いあっているときは、女房も抱きごこちがよいが、そうで ないときは悪い、と。不謹慎な話だが、しかし妙に言い当てている。 ●大切な「甘える」という行為 このスキンシップと同じレベルで考えてよいのが、「甘える」という行為である。一般論として、 濃密な親子関係の中で、親の愛情をたっぷりと受けた子どもほど、甘え方が自然である。「自 然」という言い方も変だが、要するに、子どもらしい柔和な表情で、人に甘える。甘えることがで きる。心を開いているから、やさしくしてあげると、そのやさしさがそのまま子どもの心の中に染 み込んでいくのがわかる。 これに対して幼いときから親の手を離れ、施設で育てられたような子ども(施設児)や、育児 拒否、家庭崩壊、暴力や虐待を経験した子どもは、他人に心を許さない。許さない分だけ、人 に甘えない。一見、自立心が旺盛に見えるが、心は冷たい。他人が悲しんだり、苦しんでいる のを見ても、反応が鈍い。感受性そのものが乏しくなる。ものの考え方が、全体にひねくれる。 私「今日はいい天気だね」、子「いい天気ではない」、私「どうして?」、子「あそこに雲がある」、 私「雲があっても、いい天気だよ」、子「雲があるから、いい天気ではない」と。 ●先手を打って自分を守る このタイプの子どもは、「信じられるのは自分だけ」というような考え方をする。誰かに親切に されても、それを受け入れる前に、それをはねのけてしまう。ものの考え方がいじけ、すなおさ が消える。「あの人が私に親切なのは、私が持っている本がほしいからよ」と。自分からその人 を遠ざけてしまうこともある。あるいは自分に関心のある人に対してわざと意地悪をする。心の 防御作用と言えるもので、その人に裏切られて自分の心がキズつくのを恐れるため、先手を 打って、自分の心を防衛しようとする。そのためどうしても自分のカラにこもりやすい。異常な 自尊心や嫉妬心、虚栄心をもちやすい。あるいは何らかのきっかけで、ふつうでないケチにな ることもある。こだわりが強くなり、お金や物に執着したりする。完ぺき主義から、拒食症になっ た女の子(中三)もいた、などなど。 もしあなたの子どもが、あなたという親に甘えることを知らないなら、あなたの子育てのし方の どこかに、大きな問題があるとみてよい。今は目立たないかもしれないが、やがて深刻な問題 になる。その危険性は高い。 ●行きづまりを感じたら、抱く ……と、皆さんを不安にさせるようなことを書いてしまったが、子どもの心の問題で、何か行 きづまりを感じたら、子どもは抱いてみる。ぐずったり、泣いたり、だだをこねたりするようなとき である。「何かおかしい」とか、「わけがわからない」と感じたときも、やさしく抱いてみる。しばら くは抵抗する様子を見せるかもしれないが、やがて収まる。と、同時に、子どもの情緒(心)も 安定する。 (参考) ●抱かれない子どもが急増! こんなショッキングな報告もある(二〇〇〇年)。抱こうとしても抱かれない子どもが、四分の一 もいるというのだ。 「全国各地の保育士が、預かった〇歳児を抱っこする際、以前はほとんど感じなかった『拒 否、抵抗する』などの違和感のある赤ちゃんが、四分の一に及ぶことが、『臨床育児・保育研 究会』(代表・汐見稔幸氏)の実態調査で判明した」(中日新聞)と。 報告によれば、抱っこした赤ちゃんの「様態」について、「手や足を先生の体に回さない」が三 三%いたのをはじめ、「拒否、抵抗する」「体を動かし、落ちつかない」などの反応が二割前後 見られ、調査した六項目の平均で二五%に達したという。また保育士らの実感として、「体が固 い」「抱いてもフィットしない」などの違和感も、平均で二〇%の赤ちゃんから報告されたという。 さらにこうした傾向の強い赤ちゃんをもつ母親から聞き取り調査をしたところ、「育児から解放 されたい」「抱っこがつらい」「どうして泣くのか不安」などの意識が強いことがわかったという。 また抱かれない子どもを調べたところ、その母親が、この数年、流行している「抱っこバンド」を 使っているケースが、東京都内ではとくに目立ったという。 報告した同研究会の松永静子氏(東京中野区)は、「仕事を通じ、(抱かれない子どもが)二 〜三割はいると実感してきたが、(抱かれない子どもがふえたのは)、新生児のスキンシップ不 足や、首も座らない赤ちゃんに抱っこバンドを使うことに原因があるのでは」と話している。 子どもの心をはぐくむ法(アルバムをそばに置け!) 子どもがアルバムに自分の未来を見るとき ●成長する喜びを知る おとなは過去をなつかしむためにアルバムを見る。しかし子どもは、アルバムを見ながら、成 長していく喜びを知る。それだけではない。子どもはアルバムを通して、過去と、そして未来を 学ぶ。ある子ども(年中男児)は、父親の子ども時代の写真を見て、「これはパパではない。お 兄ちゃんだ」と言い張った。子どもにしてみれば、父親は父親であり、生まれながらにして父親 なのだ。一方、自分の赤ん坊時代の写真を見て、「これはぼくではない」と言い張った子ども (年長男児)もいた。ちなみに年長児で、自分が哺乳ビンを使っていたことを覚えている子ども は、まずいない。哺乳ビンを見せて、「こういうのを使ったことがある人はいますか?」と聞いて も、たいてい「知らない」とか、「ぼくは使わなかった」と答える。記憶が記憶として残り始めるの は、満四・五歳前後からとみてよい(※)。このころを境にして、子どもは、急速に過去と未来の 概念がわかるようになる。それまでは、すべて「昨日」であり、「明日」である。「昨日の前の日 が、おととい」「明日の次の日が、あさって」という概念は、年長児にならないとわからない。が、 一度それがわかるようになると、あとは飛躍的に「時間の世界」を広める。その概念を理解す るのに役立つのが、アルバムということになる。話はそれたが、このアルバムには、不思議な 力がある。 ●アルバムの不思議な力 ある子ども(小五男児)は、学校でいやなことがあったりすると、こっそりとアルバムを見てい た。また別の子ども(小三男児)は、寝る前にいつも、絵本がわりにアルバムを見ていた。つま りアルバムには、心をいやす作用がある。それもそのはずだ。悲しいときやつらいときを、写真 にとって残す人は、まずいない。アルバムは、楽しい思い出がつまった、まさに宝の本。が、そ れだけではない。冒頭に書いたように、子どもはアルバムを見ながら、そこに自分の未来を見 る。さらに父親や母親の子ども時代を知るようになると、そこに自分自身をのせて見るようにな る。それは子どもにとっては恐ろしく衝撃的なことだ。いや、実はそう感じたのは私自身だが、 私はあのとき感じたショックを、いまだに忘れることができない。母の少女時代の写真を見たと きのことだ。「これがぼくの、母ちゃんか!」と。あれは私が、小学三年生ぐらいのときのことだ ったと思う。 ●アルバムをそばに置く 学生時代の恩師の家を訪問したときこと。広い居間の中心に、そのアルバムが置いてあっ た。小さな移動式の書庫のようになっていて、そこには一〇〇冊近いアルバムが並んでいた。 それを見て、私も、息子たちがいつも手の届くところにアルバムを置いてみた。最初は、恩師 のまねをしただけだったが、やがて気がつくと、私の息子たちがそのつど、アルバムを見入っ ているのを知った。ときどきだが、何かを思い出して、ひとりでフッフッと笑っていることもあっ た。そしてそのあと、つまりアルバムを見終わったあと、息子たちが、実にすがすがしい表情を しているのに、私は気がついた。そんなわけで、もし機会があれば、子どものそばにアルバム を置いてみるとよい。あなたもアルバムのもつ不思議な力を発見するはずである。 ※……「乳幼児にも記憶がある」と題して、こんな興味ある報告がなされている(ニューズウィー ク誌二〇〇〇年一二月)。 「以前は、乳幼児期の記憶が消滅するのは、記憶が植えつけられていないためと考えられて いた。だが、今では、記憶はされているが、取り出せなくなっただけと考えられている」(ワシント ン大学、A・メルツォフ、発達心理学者)と。 これまでは記憶は脳の中の海馬という組織に大きく関係し、乳幼児はその海馬が未発達な ため記憶は残らないとされてきた。現在でも、比較的短い間の記憶は海馬が担当し、長期に わたる記憶は、大脳連合野に蓄えられると考えられている(新井康允氏ほか)。しかしメルツォ フらの研究によれば、海馬でも記憶されるが、その記憶は外に取り出せないだけということに なる。 現象的にはメルツォフの説には、妥当性がある。たとえば幼児期に親に連れられて行った場 所に、再び立ったようなとき、「どこかで見たような景色だ」と思うようなことはよくある。これは 記憶として取り出すことはできないが、心のどこかが覚えているために起きる現象と考えるとわ かりやすい。 子どもの心を変える法(信じて伸ばせ!) 親の口グセが子どもを伸ばすとき ●相変わらずワルだったが…… 子どもというのは、自分を信じてくれる人の前では、よい面を見せようとする。そういう性質を 利用して、子どもを伸ばす。こんなことがあった。 昔、私が勤めていた幼稚園にどうしようもないワルの子ども(年中男児)がいた。友だちを泣 かす、けがをさせるは、日常茶飯事。それを注意する先生にも、キックしたり、カバンを投げつ けたりしていた。どの先生も手を焼いていた。が、ある日、ふと見ると、その子どもが友だちに クレヨンを貸しているのが目にとまった。私はすかさずその子どもをほめた。「君は、やさしい 子だね」と。数日後もまた目が合ったので、私はまたほめた。「君は、やさしい子だね」と。それ からもその子どもはワルはワルのままだったが、しかしどういうわけか、私の姿を見ると、パッ とそのワルをやめた。そしてニコニコと笑いながら、「センセー」と手を振ったりした。 ●子どもの心はカガミ しかしウソはいけない。子どもとて心はおとな。信ずるときには本気で信ずる。「あなたはよい 子だ」という「思い」が、まっすぐ伝わったとき、その子どももまた、まっすぐ伸び始める。 正直に告白する。私が幼稚園で教え始めたころ、年に何人かの子どもは、私をこわがって幼 稚園へ来なくなってしまった。そういう子どもというのは、初対面のとき、私が「いやな子ども」と 思った子どもだった。つまりそういう思いが、いつの間にか子どもに伝わってしまっていた。人 間関係というのは、そういうものだ。イギリスの格言にも、『相手は、あなたが相手を思うよう に、あなたを思う』というのがある。つまりあなたが相手をよい人だと思っていると、相手も、あ なたをよい人だと思うようになる。いやな人だと思っていると、相手も、あなたをいやな人だと思 うようになる。一週間や二週間なら、何とかごまかしてつきあうということもできるが、一か月、 二か月となると、そうはいかない。いわんや半年、一年をや。思いというのは、長い時間をかけ て、必ず相手に伝わってしまう。では、どうするか。 相手が子どもなら、こちらが先に折れるしかない。私のばあいは、「どうせこれから一年もつ きあうのだから、楽しくやろう」ということで、折れるようにした。それは自分の職場を楽しくする ためにも、必要だった。もっともそれが自然な形でできるようになったのは、三〇歳も過ぎてか らだったが、それからは子どもたちの表情が、年々、みちがえるほど明るくなっていったのを覚 えている。そこで家庭では、こんなことを注意したらよい。 ●前向きな暗示が心を変える まず「あなたはよい子」「あなたはどんどんよくなる」「あなたはすばらしい人になる」を口グセ にする。子どもが幼児であればあるほど、そう言う。もしあなたが「うちの子は、だめな子」と思 っているなら、なおさらそうする。最初はウソでもよい。そうしてまず自分の心を作りかえる。人 間関係というのは、不思議なものだ。日ごろの口グセどおりの関係になる。互いの心がそうい う方向に向いていくからだ。が、それだけではない。相手は相手で、あなたの期待に答えようと する。相手が子どものときはなおさらで、そういう思いが、子どもを伸ばす。こんなことがあっ た。 その家には四人の男ばかりの兄弟がいたのだが、下の子が上の子の「おさがり」のズボンや 服をもらうたびに、下の子がそれを喜んで、「見て、見て!」と、私たちに見せにくるのだ。ふつ う下の子は上の子のおさがりをいやがるものだとばかり思っていた私には、意外だった。そこ で調べてみると、その秘訣は母親の言葉にあることがわかった。母親は下の子に兄のおさが りを着せるたびに、こう言っていた。「ほら、あんたもお兄ちゃんのものがはけるようになったわ ね。すごいわね!」と。母親はそれを心底、喜んでみせていた。そこでテスト。 あなたの子どもは、何か新しいことができるようになるたびに、あるいは何かよいニュースが あるたびに、「見て、見て!」「聞いて、聞いて!」と、あなたに報告にくるだろうか。もしそうな ら、それでよし。そうでないなら、親子のあり方を少し反省してみたほうがよい。 子どもの心を守る法(自分の過去を見ろ!) 親が過去を再現するとき ●親は子育てをしながら過去を再現する 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまでは そうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は言いようのない不安に襲わ れる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「受験勉強」ではない。受験にまつわる、 「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、たとえば子どもが受 験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。つい先日も、中学一年生をもつ父母が、 二人、私の自宅にやってきた。そしてこう言った。「一学期の期末試験で、数学が二一点だっ た。英語は二五点だった。クラスでも四〇人中、二〇番前後だと思う。こんなことでは、とてもS 高校へは入れない。何とかしてほしい」と。二人とも、表面的には穏やかな笑みを浮かべてい たが、口元は緊張で小刻みに震えていた。 ●「自由」の二つの意味 この静岡県では、高校入試が人間選別の重要な関門になっている。その中でもS高校は、最 難関の進学高校ということになっている。私はその父母がS高校という名前を出したのに驚い た。「私は受験指導はしません……」と言いながら、心の奥で、「この父母が自分に気がつくの は、一体、いつのことだろう」と思った。 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はとも かくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいて いはこんな夢だ。……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室 に入ったと思ったら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動 かない。頭が働かない。時間だけが刻々と過ぎていく……。 ●親と子の意識のズレ 親が不安になるのは、親の勝手だが、中にはその不安を子どもにぶつけてしまう親がいる。 「こんなことでどうするの!」と。そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言っても ムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが、ズレている。親は親で、「すべては子どものた め」と、確信している。こうしたズレは、内閣府の調査でもわかる。内閣府の調査(二〇〇一年) によれば、中学生で、いやなことがあったとき、「家族に話す」と答えた子どもは、三九・一%し かいなかった。これに対して、「(子どもはいやなことがあったとき)家族に話すはず」と答えた 親が、七八・四%。子どもの意識と親の意識が、ここで逆転しているのがわかる。つまり「親が 思うほど、子どもは親をアテにしていない」(毎日新聞)ということ。が、それではすまない。 「勉強」という言葉が、人間関係そのものを破壊することもある。同じ調査だが、「先生に話す」 はもっと少なく、たったの六・八%! 本来なら子どものそばにいて、よき相談相手でなければ ならない先生が、たったの六・八%とは! 先生が「テストだ、成績だ、進学だ」と追えば追うほ ど、子どもの心は離れていく。親子関係も、同じ。親が「勉強しろ、勉強しろ」と追えば追うほ ど、子どもの心は離れていく……。 さて、私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試 験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向 に歩くようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたち は。あせってみたとて、同じこと」と。夢の中でも歌えるようになった。……とたん、少しおおげさ な言い方だが、私の魂は解放された! ●一度、自分を冷静に見つめてみる たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかない。気 づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。先の父母もそうだ。それまで の二人を私はよく知っているが、実におだやかな人たちだった。が、子どもが中学生になった とたん、雰囲気が変わった。そこで……。あなた自身はどうだろうか。あなた自身は自分の過 去を再現するようなことをしていないだろうか。今、受験生をもっているなら、あなた自身に静 かに問いかけてみてほしい。あなたは今、冷静か、と。そしてそうでないなら、あなたは一度、 自分の過去を振り返ってみるとよい。これはあなたのためでもあるし、あなたの子どものため でもある。あなたと子どもの親子関係を破壊しないためでもある。受験時代に、いやな思いをし た人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみるとよい。 子どもをゲームから守る法(商魂から子どもを救え!) 子どもがゲームづけになるとき ●ゲームづけの子どもたち 小学生の低学年は、「遊戯王」。高学年から中学生は、「マジック・ザ・ギャザリング(通称、マ ジギャザ)」。遊戯王について言えば、小学三年生で、約二五%以上の男児がハマっている(二 〇〇〇年一一月、小三児五三名中一三名、浜松市内)。ある日、一人の子ども(小三男児) が、こう教えてくれた。「ブルーアイズを三枚集めて、融合させる。融合させるためには、融合カ ードを使う。そうすればアルティメットドラゴンをフィールドに出せる。それに巨大化をつけると、 攻撃力が九〇〇〇になる」と。子どもの言ったことをそのままここに書いたが、さっぱり意味が わからない。基本的にはカードどうしを戦わせるゲームだと思えばよい。戦いは、勝ったほうが 相手のカードを取る「カケ勝負」と、取らない「カケなし勝負」とがある。カードは、一パック五枚 入りで、一五〇円から三三〇円程度で販売されている。「アルティメット入りのパックは、値段 が高い」そうだ。 ●ポケモンからマジギャザまで あのポケモン世代が、小学校の高学年から中学一、二年になった。そこで当時ハマった子ど もたち何人かに、「その後」を聞くと、いろいろ話してくれた。M君(中二)いわく、「今はマジギャ ザだ。少し前までは、遊戯王だったけどね」と。カード(一五枚で五〇〇円。デパートやおもちゃ 屋で販売。遊戯王は、五枚で二〇〇円)は、一〇〇〇枚近く集めたそうだ。マジギャザというの は、基本的にはポケモンカードと同じような遊び方をするゲームのことだと思えばよい。ただ内 容は高度になっている。私も一時間ほど教えてもらったが、正直言ってよくわからない。要する に、ポケモンカードから遊戯王、さらにその遊戯王からマジギャザへと、子どもたちの遊びが移 っているということ。カードを戦わせながら遊ぶという点では、共通している。 ●現実感を喪失する子どもたち 話はそれるが、以前、「たまごっち」というゲームが全盛期のころのこと。あのわけのわからな い生き物が死んだだけで大泣きする子どもはいくらでもいた。東京には、死んだたまごっちを 供養する寺まで現れた。ウソや冗談でしているのではない。本気だ。中には北海道からやって きて、涙をこぼしながら供養している二〇歳代の女性までいた(NHK「電脳の果て」九七年一 二月二八日放送)。そういうゲームにハマっている子どもに向かって、「これは生き物ではな い。ただの電気の信号だ」と話しても、彼らには理解できない。が、たかがゲームと笑ってはい けない。その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きている」とがんばったカルト教団が現れた。こ の教団の教祖はその後逮捕され、今も裁判は継続中だが、もともと生きていない「電子の生 物」を死んだと思い込む子どもと、「ミイラ化した死体」を生きていると思い込むその教団の信 者は、方向性こそ逆だが、その思考回路は同じとみる。あるいはどこがどう違うというのか。ゲ ームには、そういう危険な面も隠されている。 ●思考回路はそのまま で、浜松市内の中学一年生について調べたところ、男子の約半数がマジギャザと遊戯王に、 多かれ少なかれハマっているのがわかった。一人が平均約一〇〇〇枚のカードを持ってい る。中には一万枚も持っている子どももいる。マジギャザはもともとアメリカで生まれたゲーム で、そのためアメリカバージョン、フランスバージョン、さらに中国バージョンもある。カード数が 多いのは、そのため。「フランス語版は質がよくて、プレミヤのついたカードは、四万円。印刷ミ スのも、四万円の価値がある」と。さらにこのカードをつかって、別のカケをしたり、大会で賞品 集めをすることもあるという。「大会で勝つと、新しいカードをたくさんもらえる」とのこと。「優勝 するのは、たいてい二〇歳以上のおとなばかりだよ」とも。 わかりやすく言えばポケモン世代が、思考回路だけはそのままで、体だけが大きくなったとい うこと。いや、「思考回路」と言えばまだ聞こえはよいが、その中身は中毒。カード中毒。この中 毒性がこわい。だから一万枚もカードを集めたりする。一枚のカードに四万円も払ったりする! ●子どもをダシに金儲け 子どもをダシにした金儲けは、この不況下でも、大盛況。カードの販売だけで、年間一〇〇 億円から二〇〇億円の市場になっているという(経済誌)。しかしこれはあくまでも表の数字。 闇から闇へと動いているお金はその数倍はあるとみてよい。たとえば今、「融合カード」は、発 売中止になっている(注)。子どもたちがそのカードを手に入れるためには、交換するか、友だ ちから買うしかない。希少価値がある分だけ、値段も高い。しかも、だ。子どもたちは自分の意 思というよりは、おとなたちの醜い商魂に操られるまま、そうしている。しかしこんなことが子ど もの世界で、許されてよいのか。野放しになってよいのか。 (注)この原稿を書いた二〇〇一年はじめには発売中止になっていたが、二〇〇一年の終わ りには再び発売されているとのこと。 よい幼稚園を選ぶ法(先生を見て選べ!) 親が幼稚園を選ぶとき ●「どこの幼稚園がいいですか?」 「どこの幼稚園がいいですか」という問い合わせが、ときどきある。私のばあい、立場上、具 体的に幼稚園の名前を出すということはできない。しかしよい幼稚園を選ぶポイントはある。そ の一。まず園長を見る。園長が運動服でも着て、園児の中で汗をかいている幼稚園はすばら しい。理由がある。教育というのは、手をかけようと思えば、どこまでも手がかけられる。反面、 手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。しかし園長が率先して現場へ飛び込んでくるような幼稚 園では、現場の先生は手を抜くことができない。 ●子どものにおいのする幼稚園を 次に、幼稚園は子どもの視点で見る。たとえばピカピカにみがかれた、汚れ一つない幼稚園 は、親には受けがよい。しかしそれは子どもの世界ではない。よい幼稚園というのは、園舎の あちこちに子どもの臭いがする。落書きがあったり、いたずらをしたあとが残っていたりする。 そういう臭いがする幼稚園は、よい幼稚園ということになる。そして三つ目のポイントは、哲学 があるかどうかということ。富士宮市にR幼稚園というのがある。その幼稚園では、独自に玄米 食の給食をしている。給食の時間になると、子どもたちが「♪カメカメカメよ、カメさんよ」と歌を 歌いながら、玄米を懸命にかみながら食べている。大阪市のI幼稚園の園長は、ものを大切に するという意図から、いつもヨレヨレのスーツを着ている。浜松市のK幼稚園では、無数の動物 を飼っている。私が見に行ったときも、アヒルの子どもが生まれて、子どもたちはワイワイと喜 んでいた。そういう幼稚園は、すばらしい。 ●幼稚園は先生を見て選ぶ が、何といっても大切なのは、現場の先生だ。先生が生き生きと活動している幼稚園は、す ばらしい。よい幼稚園には活気がある。先生もハツラツとしている。明るい声が飛び交ってい る。静岡市の郊外にR幼稚園という幼稚園がある。その職員室でお茶を飲んでいたときのこ と。若い先生たちが、大きな声で、「今日の資料できていますかア!」「ハ〜イ、できてるわ よ!」と、皆が声をかけあっていた。そういう幼稚園は、すばらしい。「先生」というには、「先に 生き生きとするから先生」、……というのは、こじつけだが、しかし先生と言うのは、そうでなくて はいけない。その活気の中に、子どもたちが巻き込まれていく。あるいは先生が庭にいたりす ると、子どもたちが、先生のまわりに集まってくる。先生に飛びついたりして、楽しそうにはしゃ いでいる。そういう幼稚園はすばらしい。子どもと先生の関係を、外から観察してみるとそれが わかる。もちろんあまり推薦できない幼稚園もある。経営第一主義の幼稚園だ。それを感じた ら、子どもをやらないほうがよい。こういう幼稚園はやることだけはどこか派手だが、一本スジ が通っていない。それについてはここにはこの程度しか書けないが、要するにここに書いたす ばらしい幼稚園の、反対の幼稚園だと思えばよい。 ●メリハリのある授業がよい授業 また先生のよしあしは、メリハリのある授業ができるかどうかでみる。発言のときになると、子 どもたちが自由かったつに意見を言い、作業のときになると、シーンと静まりかえる。しっかりと した口調で、テキパキと指導を進める。そういう授業のできる先生はすばらしい。が、一番のポ イントは、子ども好きの先生かどうかということ。教えることを楽しんでいるかどうかでみる。子 どもが何かを失敗したときの様子をみれば、それがわかる。先生が子どもを叱るときでも、子 ども好きの先生だと、どこかなごやかな雰囲気になる。そうでない先生は、ピリピリとした雰囲 気になる。 ……とまあ、偉そうなことを書いてしまったが、許してほしい。園長や現場の先生なら、私のよ うな人間にこういうことを言われると、頭にカチンとくるものだ。「教育は権威だ」「運動着など着 られるか」と言う園長もいるにはいる。そういう気持ちはよくわかる。一応ここでは、私は常識的 なことを書いた。あくまでも一つの参考意見として……。 子どもと先生の相性を見分ける法(休み時間を観察せよ!) 子どもがよい先生を見分けるとき ●よい先生VS悪い先生 私のような、もともと性格のゆがんだ男が、かろうじて「まとも?」でいられるのは、「教える」と いう立場にあるからだ。子ども、なかんずく幼児に接していると、その純粋さに毎日のように心 を洗われる。何かトラブルがあって、気分が滅入っているときでも、子どもたちと接したとたん、 それが吹っ飛んでしまう。よく「仕事のストレス」を問題にする人がいる。しかし私のばあい、職 場そのものが、ストレス解消の場となっている。 ●「子ども的」ということ その子どもたちと接していると、ものの考え方が、どうしても子ども的になる。しかし誤解しな いでほしい。「子ども的」というのは、幼稚という意味ではない。子どもは確かに知識は乏しく未 経験だが、決して幼稚ではない。むしろ人間は、おとなになるにつれて、多くの雑音の中で、自 分を見失っていく。醜くなる人だっている。「子ども的である」ということは、何ら恥ずべきことで はない。とくに私のばあい、若いときから、いろいろな世界をのぞいてきた。教育の世界や出版 界はもちろんのこと、翻訳や通訳の世界も経験した。いくつかの会社の貿易業務に携わったこ ともあるし、医学の世界をかいま見たこともある。しかしこれだけは言える。園や学校の先生に は、心のゆがんだ人は、まずいないということ。少なくとも、ほかの世界よりは、はるかに少な い。 ●目線が子どもと同じ高さ? そこで「よい先生」論である。いろいろな先生に会ってきたが、目線が子どもと同じ高さにいる 先生もいる。が、中には上から子どもを見おろしている先生もいる。このタイプの先生は妙に 権威主義的で、いばっている。そういう先生は、そういう先生なりに、「教育」を考えてそうしてい るのだろうが、しかしすばらしい世界を、ムダにしている。それはちょうど美しい花を見て、それ を美しいと感動する前に、花の品種改良を考えるようなものだ。昔、こんな先生がいた。ことあ るごとに、「親のしつけがなっていない」「あの子は問題児」とこぼす先生である。決して悪い先 生ではないが、しかしこういう先生に出会うと、子どもから明るさが消える。 ●子どもと先生の相性 そこで子どもと先生の相性があっているかどうかを見分ける、簡単な方法……。子どもに紙 とクレヨンを渡して、「園の先生と遊んでいるところをかいてね」と指示する。そのとき子どもが あれこれ先生の話をしながら、楽しそうに絵をかけばよし。そうでなく、子どもが暗い表情にな ったり、絵をかきたがらないようであれば、子どもと先生の相性は、よくないとみる。もしそうで あれば、この時期はできるだけ早い機会に、園長なら園長に相談して、子どもと先生の関係を 調整したほうがよい。 (参考) ●教師の外部評価制 教師の指導力を、地域住民がチェックするという「外部評価制」が、二〇〇二年度より東京都 品川区で実施されることになった。評価結果は項目ごとに四段階で示され、年度末に公表し、 学校選びの目安にしようというもの。一つの自治体が小中学校に外部評価を導入するのはた いへん珍しい。学校そのものを外部のきびしい目にさらすことで、学校改革を促す試みとして、 今注目されている。 品川区には現在、公立小中学校は五八校あるが、各学校ごとに保護者と地域の住人数一 〇人に「評価モニター」を委託し、月に一度以上学校を訪れてもらい、一年間かけて学校の様 子を評価してもらおうというもの。具体的には、�@教員の指導が行き届いているか、�Aいじめな どで子どもが不当な扱いを受けていないか、�B学校の方針は妥当かなど、約二〇項目につい てA〜Dの四段階で評価する。結果は品川区のホームページで公表し、区が新入生に配る学 校案内にも掲載されるという。また評価の低かった項目については、各学校に改善計画を提 出させ、評価結果とあわせて公表するという。 ●私の経験から…… 「古い体質をなかなか変えようとしない学校教育を改善するには効果的」(若月秀夫教育長) ということだが、私ももう二〇年近く前に、浜松市内の小学校について、学校に対する評価を 調査したことがある。しかしその結果、�@評価は、複数の学校を相互に比較してはじめて可 能。�A客観的評価は、たいへん難しいの二点で、「この種の調査は、あまり意味がない」という 結論を出したことがある。その学校しか知らない父母や子どもに、「あなたの学校をどう思いま すか」と質問しても、その質問自体にあまり意味がないということ。そこで県外からの転校生 や、兄弟で別々の学校に通っている子どもやその父母に聞き取り調査をしてみたが、今度は サンプル数そのものが少なくて、「結果」と言えるほどまでに集計できなかった。さらに親の評 価はたいへん主観的なもので、「友だち先生」をよい先生とする親もいれば、悪いとする親もい る。また同じ先生でも、比較的勉強がよくできる子どもの親はよい先生と評価し、勉強ができな い子どもの親は悪い先生と評価するということもわかった。品川区のお手並みを拝見したい。 先生との信頼関係を保つ法(悪口は言うな!) 親と先生の信頼関係が壊れるとき ●先生の悪口はタブー 子どもに「内緒よ」「先生には話してはダメよ」と言うのは、「先生に話しなさい」と言うのと同 じ。子どもは先生の前では、絶対に隠しごとができない。英語の格言にも、『子どもは家の中の ことを、通りで話す』というのがある。先生は先生で、この種の話には敏感に反応する。だいた いにおいて、親が子どもと接する時間よりも、先生が子どもと接する時間のほうが長い。だか ら、子どもの前では、学校の批判や先生の悪口は、タブー中のタブー。言えば言ったで、必ず それは先生に伝わる。それだけではない。以後、子どもは先生の指導に従わなくなる。 ●先生とて生身の人間 ……というようなことは、以前どこかの本にも書いた。ここではその次を書く。一度、親と教師 の信頼関係が崩れると、先生自身は、急速にやる気をなくす。一般の人は学校の先生を、神 様か牧師のように思っているかもしれない。が、先生とて生身の人間。やる気をなくしたら、そ の影響は、必ず子どもに及ぶ。教育というのは、手をかけようと思えば、いくらでも手をかけら れる。しかし手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。それこそプリント学習だけですまそうと思え ば、それもできる。プリント学習ほど、教える者にとって楽な教育はない。ここが教育のこわい ところだが、親にはそれがわからない。一方で先生の悪口を言いながら、「うちの子のめんどう を、しっかりみろ」は、ない。 たとえばこんなことを言う子ども(小二男児)がいた。「三年になっても、今の先生のままだっ たら、校長先生に言って、先生を変えてもらうって、ママが言っていた」と。私が「どうして?」と 聞くと、「だって今の先生は、教え方がヘタクソだもん」と。もしあなたが先生で、子どもがそう話 しているのを聞いたら、どう感ずるだろうか。あなたはそれでも、怒りや悔しさを乗り越えて、教 育に専念できるだろうか。 ●先生との信頼関係が子どもを伸ばす 日本では、勉強を教えるのが教育ということになっている。どこかに「学歴」を意識したもの だ。が、大切なのは、人間関係だ。この人間関係こそが、真の教育なのだ。J君は、小学生の とき、ブラスバンド部に入り、そこで指導をしてくれた先生から、大きな影響を受けた。E君は、 中学生のとき、ペットボトルで二段式のロケットを作って、市長賞を受賞した。やはりそのとき 指導してくれた先生から、大きな影響を受けた。J君は、高校生になったとき、ある電気メーカ ーの主催する作曲コンクールで全国大会に出場したし、E君は今、宇宙工学をめざして、今、 その講座のある大学に通っている。もしJ君やE君が、これらのよい先生にめぐりあわなけれ ば、今の彼らはない。教育というのは、そういうものだ。では、どうするか。 ●「よい先生」をクチグセに! 子どもの前では、「あなたの先生はすばらしい」「よい先生だ」だけを繰り返す。子どもが悪口 を言っても、「それはあなたたちが悪いからでしょう」とたしなめる。そういう親の姿勢が先生に 伝わったとき、先生もやる気を出す。信頼には信頼でこたえようとする。多少の苦労ならいとわ なくなる。仮に先生との間で何か問題が起きたとしても、それは子どもとは関係のない世界で、 子どもの知らないところで処理する。子どもに相談するのもタブー。損か得かという言い方はあ まり好きではないが、しかしそのほうが子どもにとって得なことは、言うまでもない。 教師言葉を理解する法(言葉は裏から読め!) 教師が教師言葉を使うとき ●運動は活発ですが…… 子ども(小二男児)がもらう成績表の通信欄。そこには、こうある。「運動は活発にできまし た。授業にも集中できるようになりました。一学期は飼育係をし、友だちと協力して動物を育 て、思いやる心を学びました。二学期は学習面での飛躍が期待されます」と。 ●教師言葉 この世界には、「教師言葉」というのがある。先生というのは、奥歯にものがはさまったような 言い方をする。たとえば能力が遅れている子どもの親には、決して「能力が遅れています」とは 言わない。……言えない。言えば、たいへんなことになってしまう。こういうとき先生は、「お宅 の子どもは、運動面はすばらしいのですが……(勉強は、さっぱりできない)」「私のほうでも努 力してみますが……(家庭で何とかしてほしい)」と言う。あるいは問題のある子どもの親に向 かっては、「先生方の間でも、注目されています……(悪い意味で目立つ)」「元気で活発なの はいいのですが……(困り果てている)」「私の力不足です……(もうギブアップしている)」「ほ かの父母からの苦情は、私のほうでおさえておきます……(問題児だ)」などと言う。ほかに「静 かな指導になじまないようです……(指導が不可能だ)」「女の子に、もう少し人気があってもい いのですが……(嫌われている)」「協調性に欠けるところがあります……(わがままで苦労して いる)」「ほかの面では問題はないのですが……(学習面では問題あり)」というのもある。 ●ほめるときは本音でほめる 一方、先生というのは、子どもをほめるときには、本音でほめる。先生に、「いい子ですね」と 言われたときは、すなおに喜んでよい。先生は、おせじではほめない。おせじを使わなければ ならない理由そのもがない。裏を返して言うと、もしあなたの子どもが、園や学校の先生にほめ られたことがないというのであれば、子どものどこかに問題がないか、それを疑ってみたほうが よい。幼児のばあい、一つの目安として、誕生パーティがある。あなたの子どもが、ほかの子ど もの誕生パーティによく招待されるならよし。そうでないなら、かなりの問題のある子どもとみて よい。実際、誰を招待するかを決めるのは親。その親は、自分の子どもや先生から耳にする、 日ごろの評判を基準にして、それを決める。 ●教師言葉を裏から読むと…… さて冒頭の通信欄だが、プロはこう読む。「運動は活発にできました……(学習面はだめ)」 「授業にも集中できるようになりました……(集中力がなく、問題児である)」「一学期は飼育係 をし、友だちと協力して動物を育て……(ひとりでは責任ある行動ができない)」「思いやる心を 学びました……(自分勝手でわがままだ)」「二学期は学習面での飛躍が期待されます……(問 題を先送りする。家庭で何とかしてほしい)」と。実際、この通知表を受け取った母親は、喜ん で私にそれを見せてくれた。先生にほめられたと思ったらしい……? ●親も本音を言えない? 生々しい話になってしまったが、もともと教育というのは、そういうもの。親と教師の価値観や エゴが、互いに真正面からぶつかり合う。ふつうの世界と違うのは、そこに「子ども」が介在す ること。だから本音と建前が、複雑に交錯する。こうした教師言葉は、そういう世界から必然的 に生まれた。ある意味でやむをえないものかもしれない。だいたいあなたという「親」だって、先 生の前では本音を言わない。……言えない。言えば、たいへんなことになってしまう。それをあ なたは、よく知っている。 子どもに生きざまを教える法(懸命に生きてみせろ!) 子どもに生きる意味を教えるとき ●高校野球に学ぶこと 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすれば よい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。私たちがなぜあの 高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからではないのか。たか がボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意味があるようで、そ れほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもって言える人は、この 世の中に一体、どれだけいるだろうか。 ●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュ ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、な ぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。それから三〇年あまり。私もこ の問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけではないが、トルストイの『戦争 と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の 目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエー ル。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進 むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。つまり懸命に生きること自体に 意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、生きてみなければわからない。 映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っている。『人生はチョコレートの 箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』と。 ●懸命に生きることに価値がある そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、 それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。 命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが 宙を飛ぶ。その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、 そのあと喜びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ て、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。いや、あえて言うなら、懸命 に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。言いかえると、そうでない人に、人生 の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、ただ流されるまま、その日 その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。さらに言いかえると、「私た ちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私たちが子どもたちに教える ことがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。あの高校野球で、もし、選手 たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、高校野球としての意味は ない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り返しても、ただのヒマつぶ し。人生もそれと同じ。そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私た ちに教えてくれる。 子育てのすばらしさを学ぶ法(許して忘れろ!) 子育てのすばらしさを教えられるとき ●子をもって知る至上の愛 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ ること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上 の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。 ●自分の中の命の流れ 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分 の中に父がいる」という思いである。私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたこ とがある。その顔が父に似ていたからだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこ かに父の面影があるのを知って驚くことがある。先日も息子が疲れてソファの上で横になって いたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに死んだ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、 形だけではない。ものの考え方や感じ方もそうだ。私は「私は私」「私の人生は私のものであっ て、誰のものでもない」と思って生きてきた。しかしその「私」の中に、父がいて、そして祖父が いる。自分の中に大きな、命の流れのようなものがあり、それが、息子たちにも流れているの を、私は知る。つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超え た、いわば生命の流れのようなものだ。 ●神の愛と仏の慈悲 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死 はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理な り」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこに いて、私をあざ笑う。すがれる神や仏がいたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれ ができない。しかし子育てをしていると、その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子ども のできの悪さを見せつけられるたびに、「許して忘れる」。これを繰り返していると、「人を愛す ることの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者なら、深い愛を、万人に施すことが できるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。できないが、子どもに対してならでき る。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版であるにせよ、子育ての場で実践できる。 それが孤独な心をいやしてくれる。 ●神や仏の使者 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大 きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわ る、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の 深さにもよる。が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわか る。子どもというのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そし て生きる喜びを教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫に わたって、伝えてくれる。つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそうい う意味で、まさに神や仏からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた 自身も神や仏からの使者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐ らい、子育てですばらしいことはない。 |