はやし浩司

最前線の育児論(101〜200)
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はやし浩司
最前線の育児論(101〜200)




最前線の子育て論byはやし浩司(111)

●子どもをからかう

(1)丸を、5個かいた、カードを見せる。うち一個は、指で隠す。「いくつありますか?」と聞く。す
ると子どもたちは、「4個!」と答える。

(2)「残念でした」と言って、指をとる。「丸は、5個でした」と。子どもたちは、「ずるい!」と言っ
て騒ぐ。

(3)今度は、丸を6個かいたカードを見せる。うち2個を指で隠す。そのとき、ほんの少しだけ、
隠した丸が見えるようにする。今度は、子どもたちは、「5個!」と答える。見えている丸が、4
個。それに1個、加えて、5個ということになる。(2)と同じように、「残念でした、丸は6個でし
た」と言う。たいていこの段階で、子どもたちは、興奮状態になる。

(4)つぎに丸を4個かいた、カードを見せる。中央部を大きく、指で隠したフリをする。今度は、
何も隠していない。が、子どもは、すなおに、「4個」とは言わない。「また隠しているんでしょう」
とか、「5個かな、6個かな」と言う。

(5)そこで私は、指をはずして、「4個でした」と言う。

(6)さらに、今度は、すみのほうに、小さな丸をかいたカードをあげる。指先で軽く隠す。丸は、
小さな丸も含めて、5個。が、子どもたちは、疑い深そうにカードをながめながら、「4個かな…
…?」と答える。

こうして、レッスンをつづけていく。子どもたちは、ますます興奮状態になっていく。

……といっても、何も、私は、子どもをからかっているのではない。思考力を刺激する、一つの
方法として、ここに例をあげてみた。

 まず一枚のカードを見せる。この情報は、目を通して、網膜に反映される。その反映された情
報は、視床下部を中継して、後頭葉にある視覚野に入る。

 その後頭葉の視覚野に入った情報は、一度、ここで、二次、三次の処理がなされて、必要な
情報だけが、よりわけられる。

 「カード全体」から、「丸」だけを抽出するわけである。

 そしてそこで処理された情報は、二手に分かれて、大脳の連合野に送られる。

 一つは、頭頂葉連合野。ここでは、位置関係などを判断するとされる。

 もう一つは、側頭連合野。ここでは、モノの判別をするとされる。

 こうして目でとらえられた情報は、大脳の中を瞬時にかけめぐり、丸の数を判断する。4個の
丸を見た子どもは、「4個!」と答える。

 実際には、こうした処理は、脳の中で、瞬時になされる。しかしこれはあくまでも情報の処理
でしかない。

 そこで私は、指をはずして、「5個だ」と教える。するとここで子どもは、その意外性に驚く。「ま
さか先生が、だますはずはない」という先入観は、ここで破壊される。

 ここで重要なことは、固定回路の破壊である。人間は、一定の行動パターンで動いていると、
その行動パターンに支配される。

 決して悪いばかりではない。こうしたパターンがあるから、人間の行動は、スムーズに流れ
る。が、その行動、および思考パターンが、子どものものの考え方を、固定化する。

 で、つぎに今度は、二個丸を隠したカードを見せる。

 すると子どもたちは、すでに学習しているため、今度は、見えている丸に、1を加えて、「5個」
と答える。

 が、隠れていたのは、2個。だから私は、「残念でした。6個でした」と言う。

 同じようなパターンで、子どもは、それまでの学習した経験を、この段階で、再び、破壊する。

 こうして新しい神経回路が、脳の中に形成されていく。人間の大脳の中には、約100億の神
経細胞があるといわれている。その神経細胞そのもの数は、生まれてから死ぬまで、ほとんど
変らないとされている。

 しかし一個の神経細胞からは、約10万個のシナプスが伸びている。このシナプスが複雑に
からんで、思考回路を決定する。つまりこうした刺激を与えることで、子どもの脳の中で、つぎ
つぎと新しいシナプスがからんでいく。

 で、100億x10万というと、DNAの遺伝情報の数を超えることになる。つまり脳の神経細胞
の働きは、遺伝情報の外にあるということになる。(ちなみに、人間のDNA情報は、10の9か
ら10乗と言われている。)

こうしてつぎつぎと、脳に刺激を与え、神経回路の発達を促していく。そしてそのつど、子どもは
学習し、その上にさらに新たな学習を重ねていく。

 最後に、何でもないカード。つまり「5個の丸をかいたカード」を見せても、子どもたちは、あれ
これ考えて、答えなくなる。つまりそれが「思考する」ということになる。

 大切なことは、情報の量ではなく、思考する力である。そしていかにして、子どもの思考力を
養うかということ。ここに書いた、カードによる刺激法は、私が考えた。こういう方法で、一度、
子どもの思考力を養ってみるとよい。コツは、つぎつぎと、固定回路を破壊していく。子どもの
側からみて、「アレッ!」と思う意外性を大切にする。

 こうしたレッスンがうまくいくと、子どもたちは興奮状態になるが、そのあと、子どもの頭にさわ
ってみるとよい。手でその熱さを感ずるほど、熱くなっているのがわかる。
(040307)(はやし浩司 シナプス 思考回路 思考プロセス 神経回路 視覚野)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(112)

【近況・あれこれ】

●今朝の悪夢

 朝、起きてみると、タンスの引き出しが、一様に、引き出されていた。空き巣である。

 別の部屋を見ると、ものが、散乱していた。あちこちを物色したらしい。

 で、金庫のある部屋に行ってみると、金庫は無事だった。しかしよく見ると、扉がこわされてい
た。

 心臓がドキドキして、そこで目が覚めた。

 夢だった。……いやな夢だった。時計を見ると、朝、5時。起きる時刻だった。が、そのままフ
トンの中で、あれこれ考えた。

 まず思い出したのが、D氏のこと。D氏は、それまで住んでいた市内の土地を手放した。当時
の価格で、1億5000万円で売れた。ちょうどバブル経済がはじける、その直前だった。

 が、そのお金を、現金のまま、金庫にしまっておいた。すぐそのお金で、別の土地を買うつも
りだった。

 そのD氏が、空き巣にやられた。1億5000万円を、そっくりそのまま、もっていかれた。

 私は、その話を、D氏自身から、数か月後に聞いた。そのときですら、D氏は、元気がなかっ
た。私は、「エーッ、本当ですか?」と言っただけで、つぎの言葉が出てこなかった。

 空き巣というのは、そういうもの。

 私自身は、空き巣に入られたことはない。しかしこうして夢の中で、模擬体験をしてみると、そ
の不快感が、よくわかる。いや、不快感などというものではない。不快感をとおりこした、絶望
感。それに近い。

 適切な言葉がない。

 心臓のドキドキは、消えなかった。自分で、「ただの夢ではないか」と、何度も言って聞かせ
た。しかし心臓は、相変わらず、ドキドキしていた。

 またD氏のことを、考えた。「さぞかし、悔しかっただろう」と思った。もともとは、D氏の父親の
土地だったという。考えようによっては、そのD氏の父親が、一生かかって稼いだ財産を、一日
にして失ったことになる。

 D氏の父親は、市内のビルの一角で、不動産屋を営んでいた。アパートの賃貸だけを専門に
する不動産屋で、まじめで、実直な人だった。私も一度、世話になったことがある。

 その空き巣について……。

 先日も昼のワイドショーか何かで、空き巣の特集番組を流していた。こういうご時世だから、
空き巣が急増しているという。例によって、例のごとく、実に軽薄そうな司会者と、同じくらい軽
薄そうなコメンテイターたちが、おもしろおかしく、空き巣について語っていた。

 ときどき、突然しおらしい顔をして、もっともらしいことを言っていたが、私の胸には響かなか
った。

 そう言えば、5、6年前に、近所に、連続して空き巣が入ったことがある。私の家の前の2軒
が入られ、私の家をとんで、裏の1軒が入られたという。

 警察がやってきて、「お宅は、だいじょうぶでしたか?」と。

 そのときは、空き巣にも無視されたかと、心のどこかで、何か悔しさのようなものを感じた。多
分、私の家に空き巣が入らなかったのは、イヌが2匹、放し飼いにしてあったからではないか。
うち1匹は、カンの強い犬で、かすかな物音でも、ワンワンと吠える。

 ともかくも、無事でよかった。

 フトンから出るとき、パソコン雑誌のソフトが気になった。

 今度、C社から、人の動きを感知して、記録する、パソコンカメラが売りに出された。定価は、
カメラとソフトつきで、8500円という。私も以前、同じような製品を考えたことがある。今では、
どこの家にもパソコンがゴロゴロしている。使わないで、放置してあるパソコンもある。そういう
のをうまく使えば、防犯にも利用できる、と。

 今度、長期間、家をあけるときは、それをつけておこう。空き巣に対しては、守りの姿勢だけ
は、勝てない。こちらから攻めることも大切。

 バッチリと顔をとって、インターネットで流してやる。相手が名誉毀損で訴えてきたら、そのま
ま刑事告発すればよい。

 そこまで考えたとき、やっと、心臓のドキドキが消えた。

 さあ、今朝も起きて、原稿を書くぞ……と思って書いたのが、この原稿。

 みなさん、おはようございます。はやし浩司は、今朝も、悪夢で、目が覚めた。
(040308)


●三男の引っ越し荷物

 三男の引っ越し荷物が、届いた。その量の多さを見て、驚いた。

 部屋は、八畳一間だったはず。しかしダンボール箱で、30箱近くもあった。それに机とかコタ
ツとか、冷蔵庫に洗濯機。電子レンジもあった。ゾーッ。

 「どこにこんなたくさんあったのか!」と、しばし荷物の山を見て、ボウゼン!

私「あれほど、捨ててくるか、友だちにあげてこい言ったのに……」
ワイフ「ホント!」と。

 こういうときワイフは、がまん強い。黙々と、あと片づけを始めた。が、肝心の三男様は、今日
は旅行とか。家にいない。何ということだ!

 少し手伝ったが、私はやめた。「明日、E(三男のこと)が、帰ってきたら、自分でさせればい
い」と。そして書斎にもどって、腹いせまじりに、この原稿を書く。

 それにしても、量が多い。「今どきの大学生は、こんなものか」と思ってみるが、それにして
も、多い。私が学生のときは、コタツと本だけ。それだけであちこちを移動した。

 それにしても、モノが多い。多すぎる。日本中に、モノがあふれかえっているといった、感じ。
しかしこういうのを、本当に、豊かな国というのだろうか。改めて、しばし、自分の机のまわりを
ながめてみる。

 この部屋だけで、パソコンが、5台。プリンターが、2台。スキャナーが2台。書類と本の山。そ
れにパソコンソフトのパッケージなどなど。

 この部屋の分だけでも、引っ越しとなったら、ダンボール箱に、10箱くらいになるのかも。あ
るいは、もっとなるかも? コタツや、机、本箱もある。「必要だから買う」という、単純な行動を
繰りかえしていたら、こうなってしまった。

 大切なことは、不便を当たりまえとし、その不便さの中で、工夫(くふう)しながら、生きること
だ。でないと、すぐ、私たちの生活は、モノの山の中に埋もれてしまう。


●メール

 一部のまじめな方には、不愉快な思いをさせているかもしれない。しかし私あてのメールに
は、住所と名前を書いてもらうことにしている。そして、住所、名前のない方からのメールには、
返事を書かないことにしている。

今までも、住所と名前を書いてくれるようにお願いしてきたが、今後は、さらに徹底したい。

 実際、住所とか名前のわからない人からのメールほど、不気味なものもない(失礼!)。相手
の方の年齢は、おろか、性別すらも、わからない。そうした思いは、こうしたメールをもらった人
なら、だれにでもわかるはず。(多分?)

 で、いただいた質問に答える段階になると、どう答えてよいのか、わからなくなる。年配の方
なら、それなりに。あるいは20代の若い方なら、それなりに答えなければならない。

 しかし、こういうふうに、ホームページや、Eメールアドレスを公開しているものにとっては、そ
うとばかりは言っておれない。それぞれの人が、それぞれに思い悩んで、メールをくれる。返事
を書かないですますと、かえってあと味が悪い。しかし……。

 数日前も、あった。私のホームページを読んだ人からのものだった。

「自我って、何?
 自分さがしって、英語で何ていうの?
 子育てって、どう考えたらいいのよ。
 ホームページ見たけど、多すぎて、読めないよ」と。

 内容は、本当にこれだけ。今風といえば、今風。文面からすると、女性で、しかも若い方だと
わかる。しかし子どもをもっておられるのかどうか、わからない。わからないまま、返事を書く。

「メール、ありがとうございました。
 返事が遅れたことを、おわび申しあげます。
 いろいろ雑用が多くて、失礼しました。

 ご質問の件ですが、「自我」というのは、
 (私は私)という、人格の核のようなものを
 いいます。

 その人のつかみどころのようなものです。
 人は、いつも、自分のしたいことに従って、
 行動しますね。その原動力となる、(自分)を
 (自我)といいます。

 この自我の発達が遅れると、ナヨナヨとした
 性格になり、ものの考え方そのものが、
 軟弱になったりします。

 (自分さがし)というのは、自分であって自分で
 ない部分を知ることをいいます。

 私たちの行動の大半は、その自分であって、
 自分でない部分によって、コントロール
 されています。

 まず、それに気づくこと。そしていつ、どのような
 形で、そういう自分ができたかを知ること。
 それが(自分さがし)です。

 子育てについては、私のホームページ、
 またマガジンで、そのつど、報告しています。
 今後も、どうか、参考にしていただければ、
 うれしいです。

 ホームページの閲覧、ありがとうございます。
 これからも、よろしくお願いします」と。

 送信ボタンを、クリック。

 しかしそのあと、「あれでよかったのかな?」とか、「わかってもらえたのかな?」と、いろいろ
考える。あるいは、心のどこかで、ふと、「どうして私がこうしたメールに、返事を書かねばなら
ないのか」とも、思う。

 で、やはり、今後は、このようにした。住所(簡単な住所でよい)と、名前のない人からの相
談、質問には、原則として、返事は書かない、と。私としては、本当につらいところだが、心を鬼
にして、そうすることにした。

 どうか、お許しの上、ご協力のほどを、お願いします。


●スケジュール

 自分が時間でしばられるのは、いやなくせに、その一方で、そのスケジュールをたてないと、
行動できない。いったい、この矛盾を、どう考えたらよいのか。

 「今日は、11時に風呂に入って、12時ごろ、銀行に行くから」と、今朝も、起きて、ワイフに、
そう言った。

 つまりそういうふうに、自分の行動に区切りを入れないと、ダラダラと時間だけが流れてしま
う。緊張感も生まれない。

 人間というのはおかしなもので、「さあ、時間はたっぷりあるぞ。何か原稿を書け」と言われる
と、とたん、ものが書けなくなってしまう。しかし、「あと2時間しかないぞ。さあ、どうする」と言わ
れると、とたんに、スラスラと文章が、頭の中から出てくる。

 しかしこれは、私だけの現象か?

 昔、幼稚園バスの運転手がこう言った。「私らは、きちんとスケジュールを決めてもらわない
と、仕事ができない」と。同じころ、ガソリンスタンドを経営している男は、こう言った。「時間単
位のスケジュールを決められたら、息苦しくて、気が狂ってしまう」と。

 人は、人それぞれで、生活の中で、その人につくられていく。

 私も、そうで、今の私も、結局は、自分の仕事の中で、つくられた「私」にすぎない。

 そしてこのこと、つまりこうした私がかかえる矛盾は、人生という、大きな流れの中にも、あ
る。

 人生の中では、「時間」が、「年齢」になる。

 「〜〜歳までには、こうしよう」「〜〜歳になったら、こうしよう」と考える。本当のそうするかどう
かは別にして、たとえば「65歳になったら、老人ホームへ入ろう」とか、「70歳になったら、世
界を一周しよう」とか、そういうふうに、考える。

 もっとも、それは、順調にいったらの話で、その前に、いろいろあるかもしれない。交通事故、
重い病気などなど。もともと自由というのは、そういうふうにして自分の体をしばっている、ヒモ
やクサリを解き放つことをいう。が、しかしそういうヒモやクサリが、向こうから、勝手にからんで
くることがある。

 そういうふうに考えていくと、本当のところ、人生のスケジュールを決めるのは、「年齢」ではな
い、「健康」だ。「頭の能力」だ。……ということがわかってくる。

 私の身のまわりにも、頭がボケてしまって、使いものにならなくなってしまった人が、たくさん
いる。それなりに、平和に暮らしてはいるが、私からみれば、死んだも同然。人間は、考えるか
ら、人間なのだ。

 私も、もうすぐその(死んだも同然)の人間になるかもしれない。それまでの勝負。私は、どこ
まで生きられるか。どこまで深く、生きられるか。この緊張感があるから、今日も、こうして原稿
を書く。……書ける。

 それにしても、最近私が書く原稿は、どれも駄作ばかり。鋭さが、どんどんと消えていくのが
気になる。


●ぼんやりと見る

 ぼんやりとまわりの様子を見る。

 そのとき、無数のものが、ばくぜんと、目の中に飛びこんでくる。

 目の網膜でとらえられた映像は、一度視床下部(ししょうかぶ)を経由して、脳のうしろにあ
る、大脳の後頭葉(こうとうよう)の視覚野(しかくや)に送られる。

 (網膜)→(視床下部、外側膝状体)→(大脳後頭葉、視覚野)

 しかしこの段階では、すべての情報がばくぜんと、脳の中のモニターに映されることになる。
カーテンも、机も、カメラも、印刷用紙も……。

 そこで私は、その映像の中から、必要な情報だけを選びださなければならない。

 たとえば私は、ここで、パソコンのモニターだけを見たいとする。しかもその中でも、文字だけ
を見たいとする。

 そこで視覚野に映った映像は、いろいろに加工される。これを大脳生理学の分野では、二次
加工、三次加工と呼ぶらしい。

 (視覚野の映像)→(二次加工)→(三次加工)

 そのあと、こうして加工された映像は、主に二つのルートを通って、大脳の各部に送られる。

 (加工された映像)→頭頂葉連合野(1)
          →側頭連合野(2)

(1)の頭頂葉連合野へ送られた映像は、空間的な処理がなされるという。たとえば脳の中で
も、この部分にダメージを受けると、自分の位置関係がわからなくなるという。

(2)の側頭連合野に送られた映像は、ものを認知するための処理がなされるという。この部分
が、ダメージを受けると、形がわからなくなるという。人の顔も区別できなくなることもあるとい
う。

こうして目から入った情報は、瞬時のうちに脳の中をかけめぐり、処理され、判断される。

 私はこうしてぼんやりと、カーテンごしに、外を見ている。何でもない行為だが、その裏で、無
数の情報処理がなされていることになる。

 こうした処理を直接頭の中で見ることはできないが、しかし想像することはできる。

 「あっ、今、後頭部に信号が送られたぞ」「二次加工されているぞ」「側頭連合野で判断されて
いるぞ」と。

 もちろんこれは私の勝手な想像によるものだが、それが結構、楽しい。

【追記】

 私たちが「そこ」に見ているものは、実際に、そこにあるものを見ているのではない。たとえて
言うなら、大脳後頭葉の視覚野というのは、モニター画面のようなもの。つまり私たちは脳の中
に映し出された、総天然色(?)の映像を見ているだけということ。

 もっとわかりやすく言えば、テレビを見ているようなもの。まさに光と影がおりなす、幻想の世
界を見ているにすぎないということになる。

 そう考えていくと、少し、不思議な気分になる。

  

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●究極の食事法 


 オーストラリアの友人が、新しいジョークを作って、送ってくれた。

  ...for those of you who watch what you eat, here's the final word on 
  nutrition and health. It's a relief to know the truth after all those
 conflicting medical studies:
(食事に注意を払っている人に、究極の食事法が、ある。医学的問題に
かかわっている人には、この事実を知ることは、とてもよいことだ。)


  1. The Japanese eat very little fat and suffer fewer heart attacks
  than the Americans, Australians, British, or Canadians.
(日本人は、脂肪をほとんどとらないし、そしてアメリカ人、オース
トラリア人、イギリス人、カナダ人より、心筋梗塞になる人が少ない。)


  2. The Mexicans eat a lot of fat and also suffer fewer heart attacks 
than the Americans, Australians, British, or Canadians.
(メキシコ人は、たくさんの脂肪をとるが、アメリカ人、オーストラリ
ア人、イギリス人、カナダ人より、心筋梗塞になる人が、少ない。)


  3. The Japanese drink very little red wine and suffer fewer heart
attacks than the Americans, Australians, British, or Canadians.
(日本人は、ほとんどワインを飲まないが、アメリカ人、オーストラリ
ア人、イギリス人、カナダ人より、心筋梗塞になる人が、少ない。)


  4. The Italians drink large amounts of red wine and also suffer fewer 
  heart attacks than the Americans, Australians, British, or Canadians.
(イタリア人は、大量の赤ワインを飲むが、アメリカ人、オーストラリ
ア人、イギリス人、カナダ人より、心筋梗塞になる人が、少ない。)


  5. The Germans drink a lot of beer and eat lots of sausages and fats 
  and suffer fewer heart attacks than the Americans, Australians, 
British, or Canadians.
(ドイツ人は、たくさんのビールを飲み、たくさんのソーセージと脂肪を
とるが、アメリカ人、オーストラリア人、イギリス人、カナダ人より、
心筋梗塞になる人が、少ない。)


  6. Ukrainians drink a lot of vodka, eat a lot of perogies, cabbage 
rolls and suffer fewer heart attacks than the Americans, Australians, 
British, or Canadians.
(ウクライナ人は、たくさんのウォッカと、たくさんのペロシチ巻きを
たくさん食べるが、アメリカ人、オーストラリア人、イギリス人、カナ
ダ人より、心筋梗塞になる人が、少ない。)


  CONCLUSION: Eat and drink what you like. Speaking English is 
apparently what kills you.
(結論:好きなだけ、飲んで食べろ。英語を話すことが、心筋梗塞の原因
ということが、これで証明された。)

+++++++++++++++++++

お返しに、私も、ジョークを考えた。
こういうケースでは、つまり友人が
何かジョークを言ったら、それに答
えて、何か有益な知識を、返すのが
この世界の礼儀になっている。

+++++++++++++++++++

日本では、鼻先から、唇までの長さが、ペニスの長さということに
なっている。古くは、中国の医学書にも、そう書いてある。
(The length between the bottom of the nose and the edge of the upper
lip shows the length of dick, as has been written in Chinese Medical
book.)

つまりこの部分が、長い人は、ペニスも長いということになる。
このことから転じて、スケベな心境になることを、この日本では、
『鼻の下を長くする』という。
(This means those who has longer length between them has a longer
dick. And we say, therefore, in Japan, "he has a longer length under the
nose", which means that he is horny.)

しかし英語では、ペニスを「角(つの)」にたとえる。
スケベを意味する、「H(エッチ)」は、「ホーニィ」、つまり「角
のようになった(ペニス)」という意味から、きている。
(In English, however, the dick is often imitated as a horn and therefore
English people would often say, "he is horny", or he is sexually excited.)

いろいろな説があるが、これは、「H(エッチ)」という言葉が
日本でも使われ出したころ、私が、アメリカ人の男性に直接聞いて
確かめたことである。
(And then we say, "he or she is H, which means he or she is a sex maniac.")

で、どちらが科学的かというと、やはりアジア人のほうに、軍配
があがる。
(But which is more scientifically logical? Or Chinese medical is much
more logical.)

人間には、九つの穴(女性は、十)がある
(We have 9 holes in our body. Ladies have 10. Count them when you feel free.)

これらの穴の大きさは、比例しているという。つまり女性器の
性能(まさに「性」能)は、その穴の大きさで決まる。もちろん
小さければ、小さいほど、よい。先ほど、不慮の交通事故で
なくなった、ダイアナ王妃のようでは困る。(日本語で、「ダイアナ」
は、「大きな穴」を意味する。念のため。)
(Those who have bigger holes have bigger holes and small holes, small
holes. Those who have big nose-holes have bigger 10 holes.
For example the ex-Princess of England, Ms. Dyana had bigger nose-holes.
This means she had big holes. As a matter of fact "Dyana means
in Japanese, Dai=big ana=holes.

そこで元来、鼻先から、唇までの長さが短い白人の男性と、
元来、鼻の穴の大きな白人の女性が、結婚したらどうなるか。
(Then what happens in case when the white man who has a shorter
length between the nose and lip marry to a woman who has big nose-holes?)

【結論】つまり、それが白人社会では、離婚率が高いという理由である。
Conclusion…(This is the reason why more couples get divorced in western world.)

+++++++++++++++


●ある母親の嘆き

 ワイフの友人が、ワイフに、こんな話をした。

 ある母親の子ども(女子中学生)が、万引きをして、補導された。よくある話である。とくに大
きな事件ではなかった。その母親を、Xさんとしておく。

 しかしそのあと、その母親は、軽い風邪をひいていたこともあったが、そのまま、寝こんでしま
った。娘の万引き事件が、よほどこたえたらしい。

 しかしその母親が寝こんでしまったのには、理由がある。

 自分の娘が、その万引きをして、補導されたところを、たまたま、同じ学校の生徒たちに見ら
れてしまったこと。が、本当の理由は、それではなかった。

 その少し前、こんな事件があった。

 その母親には、宿命のライバルというか、娘が小学生のときから、対立関係にある母親がい
た。そのライバルの母親を、Yさんとしておく。

 そのYさんの娘が、万引きをして、やはり補導された。で、それを知ったXさんは、このときぞ
とばかり、その事件を、みなに、言いふらした。「あのYさんの娘さんが、万引きをした」と。

 そのことは、Yさんの耳に入るところとなった。が、万引きしたのは、事実だし、またXさんの言
い方がたくみであったこともあり、Yさんは、何ら、抗議できなかった。Xさんは、こういう言い方
をした。

 「かわいそうですねエ〜。本当に。Xさんがかわいそうです。本当にかわいそうです。私もXさ
んの身になると、つらいです。本当に、つらいです。あんないい子が、万引きするなんてエ…
…!」と。

 いかにもYさんに同情しているかのような言い方をして、その話を、みなに広めた。

 で、そういとき、今度は、Xさんの娘が万引きをして、報道された! しかもそれを同じ学校の
生徒たちに見られてしまった!

 他人の不幸を笑ったものは、同じ立場に立たされたとき、今度は、その何倍も苦しむ。Xさん
の立場は、そういう立場だった。

 そこで教訓。

 絶対に、自分の子どもを、競争馬にしてはいけない。自分の子どもの、できがよいことを他人
に誇ったり、他人の子どもについて、できの悪いことを、笑ってはいけない。そういうことをすれ
ばするほど、いつか、自分で、自分のクビをしめることになる。

 ワイフの友人は、こう言った。「Xさんは、かわいそうなくらい、落ちこんでいました。しかしそれ
だけではありません。親子関係まで、おかしくなったそうです」と。

 どうして親子関係までおかしくなったか? その理由など、ここに改めて書くまでもない。


●火をつける子ども

 それに最初に気づいたのは、親戚の叔母だった。たまたまその家に遊びに来ていて、気づい
た。

 のれんの下が、少し、焦げていた。つぎに、となりの家との間に、コンクリートの壁があった
が、その壁の一部が、黒く、こげていた。そのあたりに、CDのゆがんだ燃えカスが残ってい
た。

 そこで母親が、息子(小4)の引き出しを調べると、何とそこには、ライターが、7、8個もあっ
たという。

 こういうケースでは、子どもを叱っても意味はない。強く叱れば叱るほど、子どもの心は、ます
ますゆがむ。というのも、「火をつける」という行為は、危険認識を超えているという点で、精神
そのものが、かなり病んでいるとみてよい。はっきり言えば、心の病気。

 同じようなレベルの行為に、自殺、自殺未遂、自傷行為、動物虐待などがある。病的な窃盗
グセなども、これに含まれる。威圧的な家庭環境の中で、慢性的な欲求不満がつづくと、子ど
もでも、心が、かなりゆがむ。

 しかしこういうケースに遭遇すると、親は、まず強く叱ったり、はげしく説教したりして、それを
なおそうとする。

 しかしそういう行為は、かえって、逆効果。それは肺炎か何かで、熱を出して寝ている子ども
に、水をかけるような行為といってもよい。(ますます子どもの心はゆがむ)→(ますます親が、
それを叱る)→(ますます子どもの心はゆがむ)の悪循環の中で、やがて子どもの症状は、行
きつくところまで、行く。

 そこで、こういう状態になったら、あるいはそういう症状を子どもが見せたら、「すべてをあきら
める」。あるがままを認め、受け入れる。この段階で、たとえば、まだ子どもの勉強や、受験に
こだわっていたりすると、それこそ、取りかえしのつかない状態になる。それともあなたは、肺
炎で熱を出して苦しんでいる子どもをたたき起こして、勉強をさせるとでも言うのだろうか。

 心の病気は、外から見えにくい分だけ、安易に考えやすい。しかし病気は、病気。その上、心
の病気は、なおるのに、半年単位の時間がかかる。半年でも、短いほうである。仮に小学校の
高学年児で、このような症状を示したら、なおるまで(?)に、数年、あるいはそれ以上、かか
る。

 数年前も、神社に放火した中学生がいた。つかまえてみると、余罪が、ぞくぞくと出てきた。そ
の子どもは、「むしゃくしゃしてたから、火をつけた」(報道)などと答えていたが、この問題は、
そういうレベルの問題ではない。


●韓国の離反

 反米親北をかかげて韓国の大統領の座についた、ノ氏。それはわかるが、このところ、ます
ます反日の旗印を、色濃くしている。

 北朝鮮を恐れるためか。それとも行きづまった国内経済への批判を、かわすためか。戦時
中の日本軍への協力者をあぶり出し、処罰してみたり、小泉首相の靖国神社への参詣につい
て、「黙っているからといって、いい気になるな」というような発言までしている。

 韓国は、北朝鮮と共和制を敷いたあと、アメリカとの軍事同盟を破棄したあと、最終的には、
中国の経済圏に自らを組みこむことを、もくろんでいる。そのためか、一時、今のノ政権の高
官は、「北朝鮮の核を容認する」というような発言までしている。「核があれば、韓国にとって
も、将来的に、有利になる」と。

 これに対して、アメリカの政府高官(元国務大臣)は、「米韓関係は、崩壊の一歩、手前」と発
言している。米韓のキレツ、それにともなう、日韓のキレツは、予想以上に大きいようだ。

 その北朝鮮は、核武装をしたあと、その核で日本を脅し、莫大な戦後補償を引きだそうとして
いる。その額、驚くなかれ、400億ドル。日本円で、4兆円以上。人口が日本の約8分の1だか
ら、日本にあてはめて計算すると、何と、32兆円規模の戦後補償ということになる。(日本の人
口、約1億6000万人。北朝鮮の人口、2200万人。4兆円を、2000万人で割ると、一人あた
り、20万円!)

 仮に日朝戦争ともなれば、韓国は統一旗をあげて、その北朝鮮の側に立つ。

 こういう流れの中での、六か国協議である。日本にとっては、まさに、「友人はアメリカだけ」と
いう状態だが、ゆいいつ救われるのは、アメリカと中国が、予想以上に接近していること。

一方、中国と北朝鮮が、予想以上に、仲が悪いこと。この2月からロシアは、北朝鮮に対する
無償援助を中断している。3月からは、中国も、中断するむねを、北朝鮮に通告している。さら
に北朝鮮の国内経済が、ほぼ壊滅状態に近いこと。「すでに戦争をしかける能力を失った」と
評する人もいる。

 とくに、この日本に対しては、ミサイル以外、手も足も出せない。何しろ、海軍力そのものがな
い。2隻ある軍艦も、旧ソ連から払いさげられた、オンボロ船だけ。だからやはり、ミサイルとい
うことになる。核兵器、化学兵器、細菌兵器ということになる。

 では、この日本は、どうするべきか。ここが正念場ということになるが、そのカギを握るのは、
中国ということになる。

 アメリカと日本は、北朝鮮の核問題を、最終的には、国連安保理へ付託することをねらって
いる。当然である。しかしそれに対して、中国とロシアは、今のところ、拒否権を行使する構え
である。

 そこでアメリカと日本は、中国とロシア(とくに中国)を、自分たちの陣営に取りこもうとしてい
る。六か国協議は、そのためのおぜん立てにすぎない。あの民主党の大統領候補のケリー氏
も、そう言っている。「ブッシュ政権には、はじめから、協議を成功させるつもりはない」と。

 日本にとって、最良のシナリオは、金XX政権が、自然崩壊すること。そして韓国との間で、ゆ
るやかな共和制が敷かれ、やがて北朝鮮が、韓国に吸収合併されていくこと。その思いは、ア
メリカ、中国、韓国も同じではないか。

 ただこの段階で、日本にとって、一つ気がかりなことは、このシナリオで北朝鮮問題が解決す
ると、日本のすぐ横に、強大な軍事力をもった反日国家が出現すること。そしてかつてのベトナ
ムを例にとるまでもなく、そのあまりあまった軍事力の矛先を、そのまま日本へ向けてくる可能
性がある。かつてのベトナムは、アメリカを追い出したあと、カンボジアに侵攻している。

 そういう意味で、今のノ政権の動きは、不気味ですらある。あるいは共和制を敷いたあとの、
布石ともとれる。

 日本は、今、戦後最大の危機を迎え、正念場を迎えている。つぎのことに注意したい。

(1)中国、韓国を、刺激しない。
(2)北朝鮮の挑発にのらない。
(3)アメリカとの関係を、最善状態にする。

 そのために日本がどうあるべきかは、それは各論の話ということになる。日本政府の動き
を、慎重に観察したい。


 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(113)

●ストレス
 
人間関係ほど、わずらわしいものはない。もし人が、そのわずらわしさから解放されたら、どん
なにこの世は、住みやすいことか。いうまでもなく、我々が「ストレス」と呼ぶものは、その(わず
らわしさ)から、生まれる。

このストレスに対する反応は、二種類ある。攻撃型と、防御型である。これは恐らく、人間が、
原始動物の時代からもっていた、反応ではないか。ためしに地面を這う、ミミズの頭を、棒か何
かで、つついてみるとよい。ミミズは、頭をひっこめる。

同じように、人間も、最初の段階で、攻撃すべきなのか、防御すべきなのか、選択を迫られる。
具体的には、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、心拍を速くし、脳や筋肉の活動が高ま
る。俗に言う、ドキドキした状態になる。

ある程度のストレスは、生活に活力を与える。しかしそのストレッサー(ストレスの原因)が、そ
の人の処理能力を超えたようなときは、免疫細胞と言われる細胞が、特殊な物質(サイトカイ
ン)を放出して、脳内ストレスを引き起こすとされる。そのため副腎機能の更新ばかりではなく、
「食欲不振、性機能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などのさまざまな反応」(新井
康允氏)が引き起こされるという。その反応は「うつ病患者のそれに似ている」(同)とも言われ
ている。

そこで人間は、自分の心を調整するため、(1)攻撃、(2)防衛のほか、つぎの3つの心理的反
応を示す。(3)同情(弱々しい自分をことさら強調して、同情を求めようとする)、(4)依存(ベタ
ベタと甘えたり、幼児ぽくして、相手の関心をひく)、(5)服従(集団の長などに、徹底的に服従
することで、居心地のよい世界をつくる)、ほか。。

(1)攻撃というのは、自分の周囲に攻撃的に接することにより、居心地のよい世界をつくろうと
するもの。具体的には、つっぱる子どもが、それに当たる。「ウッセー、テメエ、この野郎!」と、
相手に恐怖心をもたせたりする。(自虐的に、自分を攻撃するタイプもある。たとえば運動を猛
練習したり、ガリ勉になったりする。)

(2)防衛というのは、自分の周囲にカラをつくり、その中に閉じこもることをいう。がんこになっ
たり、さらには、行動が自閉的になったりする。症状がひどくなると、他人との接触を避けるよう
になったり、引きこもったり(回避性障害)、家庭内暴力に発展することもある。

大切なことは、こうした心の変化を、できるだけその前兆段階でとらえ、適切に対処するという
こと。無理をすれば、「まだ、前のほうがよかった」ということを繰り返しながら、症状は、一気に
悪化する。症状としては、心身症※がある。

こうした心身症による症状がみられたら、家庭は、心をいやす場所と考えて、(1)暖かい無視
と、(2)「求めてきたときが与え時」と考えて対処する。「暖かい無視」という言葉は、自然動物
愛護団体の人が使っている言葉だが、子どもの側から見て、「監視されていない」という状態を
いう。また「求めてきたときが与え時」というのは、子どもが自分の心をいやすために、何か親
に向かって求めてきたら、それにはていねいに答えてあげることをいう。

++++++++++++++++++++

心身症診断シート

 心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、心身症という。脳の機
能が変調したために起こる症状と考えると、わかりやすい。ふつう子どもの心身症は、@精神
面、A身体面、B行動面の三つの分野に分けて考える。

 精神面の心身症……精神面で起こる心身症には、恐怖症(ものごとを恐れる。高所恐怖症、
赤面恐怖症、閉所恐怖症、対人恐怖症など)、強迫症状(ささいなことを気にして、こわがる)、
不安症状(理由もなく思い悩む)、抑うつ症状(ふさぎ込んだり、落ち込んだりする)、不安発作
(心配なことがあると過剰に反応する)など。混乱してわけのわからないことを言ったり、グズグ
ズするタイプと、大声をあげて暴れるタイプに分けて考える。ほかに感情面での心身症として、
赤ちゃんがえり、幼児退行(しぐさが幼稚っぽくなる)、かんしゃく、拒否症、嫌悪症(動物嫌悪、
人物嫌悪など)、嫉妬、激怒などがある。

 身体面の心身症……夜驚症(夜中に突然暴れ、混乱状態になる)、夢中遊行(ねぼけてフラ
フラとさまよい歩く)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、遺尿(その意識がないまま尿もら
す)、睡眠障害(寝つかない、早朝起床、寝言、悪夢)、嘔吐、下痢、原因不明の慢性的な疾患
(発熱、ぜん息、頭痛、腹痛、便秘、ものもらい、眼病など)、貧乏ゆすり、口臭、脱毛症、じん
ましん、アレルギー、自家中毒(数日おきに嘔吐を繰り返す)、口乾、チックなど。指しゃぶり、
爪かみ、髪いじり、歯ぎしり、唇をなめる、つば吐き、ものいじり、ものをなめる、手洗いグセ
(潔癖症)、臭いかぎ(疑惑症)、緘黙、吃音(どもる)、あがり症、失語症、無表情、無感動、涙
もろい、ため息なども、これに含まれる。一般的には精神面での心身症に先だって、身体面で
の心身症が現われることが多い。

 行動面の心身症……心身症が行動面におよぶと、さまざまな不適応症状となって現われる。
不登校もその一つだが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、過
食、拒食、異食、小食、偏食、好き嫌い、引きこもり、拒食などが断続的に起こることが多い。
生活習慣が極端にだらしなくなることもある。忘れ物をしたり、乱れた服装で出歩いたりするな
ど。ほかに反抗、盗み、破壊的行為、残虐性、帰宅拒否、虚言、収集クセ、かみつき、緩慢行
動(のろい)、行動拒否、自慰、早熟、肛門刺激、異物挿入、火遊び、散らかし、いじわる、いじ
めなど。

こうして書き出したら、キリがない。要するに心と身体は、密接に関連しあっているということ。
「うちの子どもは、どこかふつうでない」と感じたら、この心身症を疑ってみる。

ただし一言。こうした症状が現われたときには、子どもの立場で考える。子どもを叱ってはいけ
ない。叱っても意味がないばかりか、叱れば叱るほど、逆効果。心身症は、ますますひどくな
る。原因は、過関心、過干渉、過剰期待など、いろいろある。

+++++++++++++++++++++

母親が育児ノイローゼになるとき

●頭の中で数字が乱舞した    

 それはささいな事故で始まった。まず、バスを乗り過ごしてしまった。保育園へ上の子ども(四
歳児)を連れていくとちゅうのできごとだった。次に風呂にお湯を入れていたときのことだった。
気がついてみると、バスタブから湯がザーザーとあふれていた。しかも熱湯。すんでのところ
で、下の子ども(二歳児)が、大やけどを負うところだった。次に店にやってきた客へのつり銭
をまちがえた。何度レジをたたいても、指がうまく動かなかった。あせればあせるほど、頭の中
で数字が勝手に乱舞し、わけがわからなくなってしまった。

●「どうしたらいいでしょうか」

 Aさん(母親、三六歳)は、育児ノイローゼになっていた。もし病院で診察を受けたら、うつ病と
診断されたかもしれない。しかしAさんは病院へは行かなかった。子どもを保育園へ預けたあ
と、昼間は一番奥の部屋で、カーテンをしめたまま、引きこもるようになった。食事の用意は何
とかしたが、そういう状態では、満足な料理はできなかった。そういうAさんを、夫は「だらしな
い」とか、「お前は、なまけ病だ」とか言って責めた。昔からの米屋だったが、店の経営はAさん
に任せ、夫は、宅配便会社で夜勤の仕事をしていた。

 そのAさん。私に会うと、いきなり快活な声で話しかけてきた。「先生、先日は通りで会ったの
に、あいさつもしなくてごめんなさい」と。私には思い当たることがなかったので、「ハア……、別
に気にしませんでした」と言ったが、今度は態度を一変させて、さめざめと泣き始めた。そして
こう言った。「先生、私、疲れました。子育てを続ける自信がありません。どうしたらいいでしょう
か」と。冒頭に書いた話は、そのときAさんが話してくれたことである。

●育児ノイローゼ

 育児ノイローゼの特徴としては、次のようなものがある。
@生気感情(ハツラツとした感情)の沈滞、
A思考障害(頭が働かない、思考がまとまらない、迷う、堂々巡りばかりする、記憶力の低
下)、
B精神障害(感情の鈍化、楽しみや喜びなどの欠如、悲観的になる、趣味や興味の喪失、日
常活動への興味の喪失)、
C睡眠障害(早朝覚醒に不眠)など。さらにその状態が進むと、Aさんのように、
D風呂に熱湯を入れても、それに気づかなかったり(注意力欠陥障害)、
Eムダ買いや目的のない外出を繰り返す(行為障害)、
Fささいなことで極度の不安状態になる(不安障害)、
G同じようにささいなことで激怒したり、子どもを虐待するなど感情のコントロールができなくな
る(感情障害)、
H他人との接触を嫌う(回避性障害)、
I過食や拒食(摂食障害)を起こしたりするようになる。
Jまた必要以上に自分を責めたり、罪悪感をもつこともある(妄想性)。こうした兆候が見られ
たら、黄信号ととらえる。育児ノイローゼが、悲惨な事件につながることも珍しくない。子どもが
間にからんでいるため、子どもが犠牲になることも多い。

●夫の理解と協力が不可欠

 ただこうした症状が母親に表れても、母親本人がそれに気づくということは、ほとんどない。
脳の中枢部分が変調をきたすため、本人はそういう状態になりながらも、「私はふつう」と思い
込む。あるいは症状を指摘したりすると、かえってそのことを苦にして、症状が重くなってしまっ
たり、さらにひどくなると、冷静な会話そのものができなくなってしまうこともある。Aさんのケー
スでも、私は慰め役に回るだけで、それ以上、何も話すことができなかった。

 そこで重要なのが、まわりにいる人、なかんずく夫の理解と協力ということになる。Aさんも、
子育てはすべてAさんに任され、夫は育児にはまったくと言ってよいほど、無関心であった。そ
れではいけない。子育ては重労働だ。私は、Aさんの夫に手紙を書くことにした。この原稿は、
そのときの手紙をまとめたものである。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(114)

【近況・あれこれ】

●知的レベル

 こんな話を聞いた。

 その家には、やや知恵遅れの青年男性がいる。年齢は、45歳だという。その家に、近所に
住む叔母がときどきやってきて、家庭教師をしているという。そして何でも今は、掛け算を教え
ているという。

 何ともほほえましい関係を想像するかもしれないが、内実は、かなりちがうようだ。その青年
が、その叔母の姿を見ただけで、オドオドとし、おびえてしまうという。その叔母氏は、その青年
に、かなりきびしい指導をしているらしい。

 その青年が、H市に住む妹氏に電話をしてきた。そしてこう言ったという。以下、その妹氏か
ら聞いた話。

青年「ぼく、掛け算、できない」
妹「いいのよ、掛け算なんか、できなくても……」
青「K町のJさん(=叔母のこと)が、ぼくを怒る……」
妹「どうして、怒るの?」
青「だって、ぼく、掛け算、できない」
妹「掛け算なんかできなくても、電卓を使えばいいじゃない」
青「でも、Jさんは、こんな計算もできないのって、怒る」と。

 その叔母氏には、叔母氏の考えがあってそうしているのだろう。しかしどこか、おかしい。どこ
か、トンチンカン。

 しかし現実の世界は、そういうレベルで、動いている。その叔母氏にしてみれば、(学校で習
うような勉強ができること)イコール、(社会復帰)ということらしい。その叔母氏自身も、学校神
話の信者かもしれない。

 その話を聞いたとき、私は、ものすごい距離感を覚えた。その青年との間ではない。その叔
母氏との間に、である。

 「そういう叔母氏を指導するとなると、10年はかかるだろうな」と。あるいは永久に不可能? 
知的レベルというのは、そういうことを言う。

☆バカな人を、バカというのではない。バカなことをする人を、バカという。(『フォレスト・ガン
プ』)


●為替レート

 オーストラリア・ドルが、今、1ドル84円だという(04年3月10日)。で、銀行で、日本円を、オ
ーストラリア・ドルに両替をしてもらった。が、その日のレートで、何と、1ドル95円だという。

 手数料だけで、11円!

 それにしても、高い。いつの間にか、こんなにも高くなってしまった!

 ついでに、オーストラリア・ドルを売るときは、84円引く11円で、73円だという。つまりオース
トラリア・ドルを売買するだけで、1ドルにつき、22円も、手数料がかかることになる。

 いくら銀行が冬の時代とはいえ、これはめちゃめちゃな手数料と考えてよい。しかも護船団方
式というか、この手数料は、どこの銀行でも、ほぼ、同じ。こういうのを談合というのではないの
か。カルテルというのではないのか。ずるいぞ、銀行!

 これ以上は、グチになるので、やめよう!

【安価な送金方法】

 海外に住む息子や娘に送金する方法は、いくつかある。その中でも、よく使われているの
が、銀行から銀行への送金。しかしこれも最近は、手数料が高くなった。

 一番安い方法というと、クレジットカードでの送金方法がある。日本で、お金を振り込みつつ、
外国では、カードで支払うというもの。

 この場合だと、1・60%の手数料だけですむ。

 仮に10万円程度をオーストラリアへ送金すると、銀行では、5000円前後の手数料がかか
る。しかしクレジットカードでなら、1600円。


●東京文化

 以前、こんなことを感じた。

 九州や、四国が、台風に襲われても、台風のニュースは、そのときだけ。しかし東京が台風
に襲われると、小さな台風でも、一日中、台風のニュース。

 文化、報道の世界も、日本は、中央集権国家。すべてが東京から始まる!

 それはわかるが、昨夜も寝る前に、ワイフが、こう言った。「毎日、Nさん(元巨人軍の監督)
のニュースばかりだけど、そんなに大切なことなのかしら?」と。

 Nさんは、東京では、重要な人かもしれない。何と言っても、元巨人軍監督。私とて関心がな
いわけではないが、こうまでガンガンとニュースで言われると、「?」と思ってしまう。

 H市の地元で、電子マガジンによるタウン誌を発行している、S氏も、こう言った。「日本人
は、N氏のニュースだけが、ニュースに思っているのではないか」と。

 東京というのは、中央でも何でもない。関東地方の、ただの地方都市。たまたまその東京
が、この日本で目立つのは、奈良時代からつづいた、日本人の中央集権意識によるもの。こ
れについて、アメリカ人に話を聞くと、「アメリカには、そういう意識はない」とのこと。

 クリントン元大統領も、ブッシュ大統領も、それぞれアーカンソー州、テキサス州などの、「地
方」から、大統領になっている。民主党のケリー候補も、そうである。何でもかんでも、「東京か
ら来た」というだけでありがたがる、この日本人の地方根性とは、かなりちがう。

 ホント!

 どうすれば、この日本人の地方根性は、なくなるのか? 都会(東京)コンプレックスと言って
もよい。

 つい先日も、あのノーベル賞を受賞した、K氏が、このH市で講演した。H市でも、最高級の
会場で、である。たまたま、その講演を、父親と聞きにいった子どもがいたので、「どんな講演
だった?」と聞くと、「パパも、みんな、眠ってた」と。「となりの人は、グーグーといびきをかいて
いた」と。

 こういう現実を、目の当たりに見せつけられても、まだ「東京」「東京」となびく。だいたいにお
いて、地方都市に住む人自身が、自分たちの住む地方をバカにしているのだから、話にならな
い。

 少し前だが、私が「今度、東京のMXテレビで、討論会に出るよ」と言ったときのこと。「どうし
て、あんたなんかがア?」と、思わずもらした女子中学生がいた。

 何も、その中学生を責めているのではない。しかしこうした意識は、多かれ少なかれ、みな、
もっている。しかしこの意識が改められないかぎり、日本には、民主主義は、育たない。

 言うまでもなく、官僚主義と中央集権意識は、密接不可分の関係にある。何でも中央から、
「下にイ〜」「下にイ〜」という土壌では、民主主義は、育たないということ。いつになったら、こ
のH市の人たちも、自分たちの地方根性に気がつくのか。

【一言】

 そのノーベル賞に異議あり!

 たしかにK氏が、ノーベル賞を受賞した。しかし実際には、その装置を、苦労に苦労を重ねて
つくりあげたのは、地元のH社の社長たちである。

 わかりやすく言えば、巨大な望遠鏡を作ったのは、地元のH社の社長たちである。その望遠
鏡を使って、それまで見えなかった星を確認したからといって、どうしてその発見者が、ノーベ
ル賞なのか。

 ノーベル賞を受賞すべきは、H社の社長である。「採算を度外視して協力した」と、H社の社
長は、地元の新聞などで、その苦労話を披露している。K教授との間にも、いろいろあったよう
だ。

 ……というのは、私がその当初からもっている疑問である。これから先、この問題は、もう少
し、資料を集めた上で、じっくりと考えてみたい。

ノーベル賞は、すばらしい賞だが、幻想をいだくのはよくない。その幻想にだまされるのは、さ
らによくない。「みんな、眠っていた」と、その子どもは言ったが、(決して、オーバーに書いてい
るのではない!)、それがどういう意味なのか。もう一度、この言葉のもつ意味を、みんなで考
えようではないか。

 
●煮干

 近所の魚屋で、(おやつ煮干)を買ってきた。教室の子どもたちに食べさせるためである。
が、そのまま渡さない。

 まず、子どもたちの前で、食べてみせる。食べる前は、少しボケたフリをする。そして一匹ず
つ食べたあと、利口になったフリをする。

 そのあと、おもむろに、子どもたちに、こう言う。「君たちも、食べたいか?」と。

 するとみな、「食べたい」「ほしい」と言う。子どもたちに煮干を渡すのは、そのあと。例によっ
て、例のごとく、あの歌を歌いながら……。

 「♪魚、魚、魚を食べると、
   頭、頭、頭、頭がよくなる……」と。

 子どもには、CA、MGのたくさん含んだ食品を与えるとよい。これは食生活の常識。もし子ど
もの献立で迷ったら、海産物を中心とした食生活にするとよい。もともと人間は、海から生まれ
た。何万年も、何万年も、その海の中で暮らしていた。

 だから健康になるためには、海にもどればよい。そして海のものを食べればよい。考えてみ
れば、これほど、わかりきったこともないのでは……。

 子どもたちは、煮干が大好き。本当に好き。少し食べさせると、「もっとほしい」と言い出す。

 紙コップ一杯程度の量くらいなら、あっという間に、食べてしまう。


●目に刺さったシャープペンシル

 A子さん(中2)と、机をはさんで話をしていたら、そこへ横から、B君(中2)がやってきた。生
徒の気配を感じた。が、そのままA子さんと話していると、B君が、「先生……」と。私はそのと
き、A子さんと、こっくりこっくりと、目を閉じて話していた。

 何かなと、瞬間、気をゆるめたそのとき、B君が、私の顔と、机の間にシャープペンシルをつ
きたてた。とたん芯の先がメガネのところではじけ、目の付け根に突き刺さった。突然、パッと
血が吹きだすのが、自分でもわかった。

 「何をするんだ!」と叫ぶのが、精一杯だった。タラタラと血が、鼻の横を通って、机の上に落
ちた。B君は、その血を見てあわてたのか、床に頭をこすりつけながら、「すみません」「すみま
せん」と、何度もあやまった。

 悲しかった。怒るよりも、先に、悲しかった。どうしてかわからないが、悲しかった。裏切られ
たという思いよりも、「私はこの子に、何を教えてきたのだろう」という思いにかられた。

 しかし子どものいたずらと、笑ってすませる話ではない。もともと多動性のはげしい子どもだっ
た。しかし私に対して、そういうことをするとは思っていなかった。老眼になり、目も疲れやすくな
っていた。「目を大切にしよう」と考えていた。その矢先のできごとだった。

 こういうとき、私は、だれに、どのように責任を求めればよいのか。怒りをぶつければよいの
か。

 まだ私だからよかったが、これが生徒どうしの事件だったら、監督責任は、私にある。仮にそ
れで一人の子どもが失明したとしたら、私がその責任を負わねばならない。

 とにかく悲しい事件だった。怒るに怒れないというか、砂をかむような虚しさを覚えた。若いと
きなら、目を閉じて話すこともなかったし、パッと体をかわして、それを避けることができただろ
う。しかしこのところ、自分でもよくわかるほど、動きがノソノソしてきた。

 とても残念だが、これからは、このタイプの子どもの指導は、断るしかない。私の手には、と
ても負えない。

 レッスンのあと、B君の母親に電話で理由を説明して、退塾を、お願いした。

幸いにも、急所ははずれていた。しばらく傷口を押さえていたら、血も止まった。しかし今でも、
眉毛の付け根あたりには、小さいが、傷口が残っている。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(115)

【ストレス】

●ストレスが、障害の引き金に!

 行きつくところまで行かないと、親は気づかない。その途中で、「おかしい?」と思っても、それ
を自ら、打ち消してしまう。「そんなはずはない」「うちの子にかぎって……」と。そして無理に無
理を重ねる。
 ある進学高校の先生が、こんな話をしてくれた。「入学の段階で、約5%が、すでに燃え尽き
てしまっている」と。「約20%の生徒に、無気力症状が見られる」とも。
 原因のすべてがストレスとは言えないが、ストレスが原因でないとは、もっと言えない。その大
半は、過負担、過剰期待、過激な受験競争と、無理な学習からくる、ストレスが原因と考えてよ
い。が、それではすまない。中には、そのまま心をゆがめてしまう子どもも多い。 
 摂食障害(過食、拒食)や、行為障害(ムダ買い、徘徊)、回避性障害(他人との接触を嫌
う)、精神障害(極度の不安状態になる、無関心、無感動になる)、感情障害(激怒しやすい、
感情をコントロールができない)などになる子どももいる。ストレスを、決して安易に考えてはい
けない。この種の障害は、無理をすればするほど、「まだ以前のほうが軽かった」ということを
繰りかえしながら、その症状は、一気に悪化する。

●前兆としての心身症
 大切なことは、その前兆症状をとらえて、適切に処理すること。たいていは、それに先だっ
て、心身症による症状が現れる。ただ心身症による症状は、まさに千差万別で、定型がない。
「どこかおかしい?」と感じたら、心身症を疑ってみる。
 ふつう子どもの心身症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。

 精神面の心身症……精神面で起こる心身症には、恐怖症(ものごとを恐れる。高所恐怖症、
赤面恐怖症、閉所恐怖症、対人恐怖症など)、強迫症状(ささいなことを気にして、こわがる)、
不安症状(理由もなく思い悩む)、抑うつ症状(ふさぎ込んだり、落ち込んだりする)、不安発作
(心配なことがあると過剰に反応する)など。混乱してわけのわからないことを言ったり、グズグ
ズするタイプと、大声をあげて暴れるタイプに分けて考える。ほかに感情面での心身症として、
赤ちゃんがえり、幼児退行(しぐさが幼稚っぽくなる)、かんしゃく、拒否症、嫌悪症(動物嫌悪、
人物嫌悪など)、嫉妬、激怒などがある。

 身体面の心身症……夜驚症(夜中に突然暴れ、混乱状態になる)、夢中遊行(ねぼけてフラ
フラとさまよい歩く)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、遺尿(その意識がないまま尿もら
す)、睡眠障害(寝つかない、早朝起床、寝言、悪夢)、嘔吐、下痢、原因不明の慢性的な疾患
(発熱、ぜん息、頭痛、腹痛、便秘、ものもらい、眼病など)、貧乏ゆすり、口臭、脱毛症、じん
ましん、アレルギー、自家中毒(数日おきに嘔吐を繰り返す)、口乾、チックなど。指しゃぶり、
爪かみ、髪いじり、歯ぎしり、唇をなめる、つば吐き、ものいじり、ものをなめる、手洗いグセ
(潔癖症)、臭いかぎ(疑惑症)、緘黙、吃音(どもる)、あがり症、失語症、無表情、無感動、涙
もろい、ため息なども、これに含まれる。一般的には精神面での心身症に先だって、身体面で
の心身症が現われることが多い。

 行動面の心身症……心身症が行動面におよぶと、さまざまな不適応症状となって現われる。
不登校もその一つだが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、過
食、拒食、異食、小食、偏食、好き嫌い、引きこもり、拒食などが断続的に起こることが多い。
生活習慣が極端にだらしなくなることもある。忘れ物をしたり、乱れた服装で出歩いたりするな
ど。ほかに反抗、盗み、破壊的行為、残虐性、帰宅拒否、虚言、収集クセ、かみつき、緩慢行
動(のろい)、行動拒否、自慰、早熟、肛門刺激、異物挿入、火遊び、散らかし、いじわる、いじ
めなど。

●暖かい無視と、ほどよい親

 こうした症状のうち、3〜5個、思い当たるようなら、黄信号と考えてよい。方法としては、(1)
『暖かい無視』と、(2)『ほどよい親』であることに心がける。
 (1)暖かい無視というのは、自然動物愛護協会の人たちが使い始めた言葉である。子ども
側からみて、「監視されていない」という状態を大切にする。また(2)ほどよい親というのは、
『求めてきたときが、与えどき』と覚えておくとよい。子どもがスキンシップや助けを求めてきたと
きには、それにはていねいに答えてあげる。
(040311)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(116)

●離婚のあとに…… 
 
 Aさん(38歳、秋田県H市在住)。5年前、二人の子どもを夫に預けて、離婚。原因は、Aさん
の不倫。そのAさんは、現在、そのときの不倫相手と再婚。「今は、最高に幸福な生活を送って
いる」(Aさんのメール)とのこと。

 が、その一方で、Aさんは、二人の子どもに対する、恋慕に苦しんでいる。二人の子どもは、
上の子どもが、11歳(兄)、8歳(妹)。「会いたいが、会うべきではない」「もし子どもたちが、自
分を求めていたら、どうしたらいいのか」「この5年間、まったく連絡をとっていない」と。

 前夫が再婚しているかどうかも、知らないという。現在、前夫の住んでいるところとは、70キ
ロくらい離れているとのこと。(以上、Aさんからのメールを要約。)

++++++++++++++++++

 メールの内容によれば、離婚相談のとき、Aさんは、「自分のわがままで離婚するのだから、
二人の子どもは、前夫に渡した」とのこと。しかしその文面からは、引き裂かれた母子の苦しみ
が、にじみ出ていた。それで私に、「アドバイスしてほしい」と。

 しかし私は、こういう事例については、まったく無力でしかない。とても残念だが、私の心に
は、Aさんを理解するだけの「心のポケット」がない。つまり人というのは、同じような苦しみや悲
しみを経験して、はじめて他人の苦しみや悲しみを理解できるようになる。それを昔、学生時代
の私の恩師は、「心のポケット」と呼んだ。

 ただ、想像できなくはない。そしてそれほどまでの事例ではなくても、子どもと別れた母親の
事例は、いくつか経験している。ひとつずつ、順に、心の紐(ひも)をほどいてみよう。

 Aさんは、不倫をした。しかしそれは決して、「浮気」と言えるような、浅いものではなかった。
その証拠に、Aさんは、二人の子どもと別れて、その不倫相手の男性と再婚している。

 そういうAさんを、だれが責めることができるだろうか。Aさんは、真剣だった。まじめだった。
そして自分の心の、「強烈な命令」に従って、前夫と離婚した。その強烈な命令は、Aさん自身
の心の迷いという範囲を超えた、まさに「人間として、その根底から、わき起こる命令」だったに
ちがいない。

 Aさんは、何も、まちがったことはしていない。もしAさんの行為がまちがっているというのな
ら、人間そのものがまちがっていることになる。

 Aさんは、結婚していた。二人の子どももいた。しかし電撃に打たれるような恋をした。そして
それに打ちのめされるようにして、離婚した。そこらの浮ついた男女が、遊びでする浮気とは、
中身も深みも、ちがっていた。

 で、その結果として、二人の子どもを、夫のもとに置いて、離婚した。そのときの判断が正し
かったかどうかは別として、Aさんにしてみれば、Aさんが感ずる「罪」に対する、せめてもの「つ
ぐない」だったかもしれない。Aさんは、こう言う。「前夫にすべてを捨てろというのは、できなか
った」と。

 不幸か不幸でないかといえば、こうした結末は、二人の子どもにとっては、不幸に決まってい
る。とくに今の状態では、二人の子どもは、「母は、私たちを捨てた」と思っている。またそう思
って、当然である。

 いくらAさんが、「そうでない」と思っていても、それはAさんの身勝手。事実として、Aさんは、
二人の子どもを捨てた。この親としての「罪」は、決してつぐなえるようなものではない。夫に子
どもたちを渡すことで、Aさんは、夫に対しては、つぐなったつもりでいるが、それは夫に対し
て、だけ。

 そこでAさんは、子どもへの思いが断ちきりがたく、思い悩んでいる。「どうしたら
いいか」と。

 Aさんは、不倫相手と再婚はしたものの、一日とて、心の晴れる日はなかったはず。「今は最
高に幸福です」とは書いているが、それは精一杯の虚勢であるにちがいない。朝起きれば、子
どものこと。昼の時報を聞けば、子どものこと。夜、床に入れば、子どものこと。近所の同年齢
の子どもを見ては、自分の子どものこと。それを思いやりながら、「今ごろは、9歳になったは
ず」「今ごろは、10歳になったはず」と。一日とて、いや一分とて、子どものことを忘れたことは
ないはず。

 それはものすごい閉塞(へいそく)感である。おまけに、Aさんを見る、世間の目は冷たい。恐
らく、親戚中から、白い目で見られている。「ひどい女だ」「子どもを捨てた、悪女だ」と。

 世間的な常識を言えば、そういうことになる。これに対して、Aさんが、抵抗したり、否定したり
したところで、意味はない。先に書いた、「強烈な命令」の前には、世間的な常識など、道端の
スミにたまったホコリのようなもの。この強烈な命令が、いかに強烈であるかは、あの川端靖
成をみればわかる。ノーベル文学賞までとった文学の大家でも、晩年、10代の女性と、恋をし
ている!

 しかしこうした閉塞感は、何もAさんだけが経験しているものではない。Aさんは、子どもと生
き別れたが、死に別れた人だって多い。さらに子どもではなく、親や兄弟と、生き別れたり、死
に別れたひともいる。夫や妻と、生き別れたり、死に別れた人だっている。恋人と生き別れた
り、死に別れた人となると、五万といる。あるいはもっと多い。

 それぞれが、それぞれに重い十字架を背負っている。こんな例もある。

 B氏(50歳)は、そのとき、母親と決別状態にあった。だから母危篤(きとく)の報を受けたと
きも、母親のもとには走らなかった。やがてすぐ母親はなくなったが、葬儀にも出なかった。B
氏が、45歳のときのことだった。

 そのB氏には、一人の妹がいた。身体に障害があり、介護がないと、満足にトイレへも行けな
い状態だった。しかしB氏は、その妹を、叔母に預けた。(本当は、見るに見かねて、叔母が、
その妹のめんどうをみることになった。決して、叔母のほうから、引きとったわけではなかっ
た。)

 このケースでも、B氏は、世間からは白い目で見られた。親戚からも、「ひどい息子」とののし
られた。しかしそのB氏が、実は、父親の子どもではなく、祖父と母親との間にできた子どもだ
った。それにいろいろと複雑な家庭の事情がからんだ。B氏は、母親を、心底、うらんでいた。

 が、それから5年。

 B氏の心が晴れることは、一日もなかった。B氏は、母親の死に目にもあわなかったことを悔
やんだ。葬儀に出なかったことも悔やんだ。そのときは「正しい決断」と思っていたが、時がた
つにつれて、心が変化するということは、よくある。

 毎日が、その「悔やみ」との戦いでもあった。今になってB氏は、こう言う。「どうして私は、もっ
と早く母を許せなかったのか」と。

 こうした事例は、形こそちがえ、いくらでもある。幸福な家庭は、どれもよく似ているが、不幸
な家庭は、みなちがう。顔もちがう。しかしつきつめれば、「不幸な思い」は、どの人も共通して
いる。

 だからAさんについても、「あなただけではないですよ」と言いつつも、しかし今、Aさんが感じ
ているであろう閉塞感は、B氏とは比較にならないほど、重いものであるにちがいない。私やあ
なたが安易に、アドバイスできるような内容のものではない。メールには、「私は幸福です」とは
あるが、幸福になれるはずはない。

 これから先、Aさんがすべきことは、(今は、まだ子どもたちが小さいから、しないほうがよ
い)、いつか、二人の子どもたちの前で、両手をついてあやまることである。しかしそのときで
も、二人の子どもが許してくれるとはかぎらない。しかしそれでも、Aさんは、あやまるべきであ
る。

 そういう日は、必ず、やってくる。でないと、この種の閉塞感は、日増し、年ごとに大きくなり、
ますますAさんを苦しめる。「忘れよう」「忘れよう」と、もがけばもがくほど、クモの巣のからん
だ、あり地獄の中に落ちていく。はっきり言えば、今、Aさんが感じている「幸福感」などというも
のは、紙のように薄いガラスでできた、箱のようなもの。

 つまりAさんは、こうした現実を、はっきりと認識しなければならない。逃げてはいけない。認
識する。それは同時に、とても苦しいことだが、それは自分がかかえた大病と、真正面から向
きあうのに、似ている。心の中の(わだかまり)を理解しないかぎり、その人は、そのわだかまり
と、戦うことすら、できない。

 本来なら、メールをくれたAさんに対して、「こうしたらいいですよ」というような返事を書かねば
ならない。しかし職業柄、どうしても、私の視点は、捨てられた二人の子どものほうに、向かっ
てしまう。「どれほど、さみしい思いをしただろうか」「つらい思いをしただろう」と。恐らく今の今
も、二人の子どもは、Aさんを慕いながら、その一方で、それ以上に、Aさんをうらんでいる。

 不倫がすべて悪というわけではない。

 真剣であるなら、不倫も許される。ある女性(35歳)は、一人の男性(43歳)と、一年にわた
って不倫をつづけた。週一回ほど会っては、濃厚なセックスを繰りかえした。しかしその女性
は、結局は、その男性と別れた。

 その女性は、別のところで、こんなことを言っている。「私は不倫をしました。あの世では、ま
ちがいなく地獄に落ちます。その覚悟はできています。ただ不倫をした分だけ、私は今の夫に
尽くしています。ですから不倫をしたおかげで、おかしなことですが、夫婦の仲もよくなりました」
と。

 いろいろな不倫があるが、そういう不倫もある。今さら過去を取り消すことはできないが、Aさ
んも、まだその段階であれば、いろいろ打つ手はあったのだろう。しかしその前に、その不倫
は、前夫の知るところとなってしまった。
 
【Aさんへ】 

 メール、ありがとうございました。

 多分、私に相談してくださっても、問題の根本が、解決しないかぎり、あなたの心が整理され
ることはないと思います。お力になりたいのですが、私は、あまりにも無力です。ゆいいつあな
たができることと言えば、二人のお子さんの幸福を願うことだけですが、しかしそれとて、もう、
あなたとは、関係のない世界のことです。

 あなたは「ひょっとしたら、二人の子どもが、今でも私を求めているかもしれない」「私はそれ
に答えてあげたい」というようなことを書いておられますが、それは、その通りであると同時に、
まったく、その通りではありません。

 自分たちを捨てた(この表現は適切ではないかもしれませんが、お子さんたちは、そう思って
います)母親を、二人の子どもたちも、まさに毎日、恋焦がれています。それは当たり前のこと
ではないですか! しかし同時に、内心の奥深くではそうであるとしても、それと同じくらい、あ
なたという母親をうらんでいます。それも当たり前のことではないですか!

 5年という歳月は、あまりにも長すぎます。母への恋慕が、うらみに変るのは、一日でじゅうぶ
んです。もちろんあなたには、あなたの言い分があります。夫のもとに子どもを置いていったの
は、夫への罪滅ぼしということですね。それはわかりますが、言いかえると、あなたは自分の子
どもを、取り引きの材料にしてしまったのです。

 多分、あなたは親意識の強い女性なのでしょう。子どもの心を確かめることもなく、また聞くこ
ともなく、一方的に、そうしてしまった? いただいたメールでも、子どもたち自身の心が、まっ
たく見えてきません。

 では、どうするか?

 答は簡単です。

 あなたは重い十字架を、死ぬまで背負います。重い、重い、十字架です。この十字架からの
がれる方法は、残念ながら、ありません。いくら弁解しても、いくら自己正当化しても、この十字
架からのがれることは、できません。

 あなたの二人の子どもが幸福になっても、仮に不幸になれば、なおさら、あなたの心が晴れ
ることはありません。そういう現実を、しっかりと見つめ、あなたはあなたで、懸命に今を生きて
いくしかないでしょう。

 だからといって、私はあなたを責めているのではありません。あなた自身ですら、「あなたが
あなたである前」の、「人間」という、まさにその人間から発する「強烈な命令」によって、自分の
行動を決めたのです。

 ゆいいつの望みは、そういう「強烈な命令」を、いつか、あなたの二人の子どもも、理解する
日が、やってくるかもしれないということ。まさにあなたは、(命がけの恋)をしたわけです。しか
しその命がけの恋は、二人の子どもの心に、ナイフを突き刺してしまった! そのキズを、だれ
が、どうやっていやすことができるというのでしょうか。

 私は、不可能だと思います。

 しかしね、Aさん。

 これが人生なのですね。今はまだおわかりにならないかもしれませんが、そういった自分も含
めて、「人間って、そういうもの」と、わかるときがやってきます。40代とか、50代になると、で
す。

 いろいろなドラマを繰りかえしながら、同時に、無数のドラマを、人間は、あとに残していく…
…。つまり「私」という人間を、「人間」という視点から、見ることができるようになります。そして、
ですね、そこが不思議なところですが、そういう人間に、「美しさ」を見ることができるようになり
ます。

 あなたも、いつか、そうして悩み、苦しみながらも、そういう自分の中に、「美しさ」を見ること
ができるようになります。ですから、今は、懸命に生き、懸命に幸福を求め、そして同時に、懸
命に悩み、苦しんだらよいのです。

 逃げてはだめです。真正面から、ぶつかっていきます。そういう中から、あなたは、別のあな
たを見出していく。そしていつか、気がついたとき、あなたはふつうの人をはるかに超えた、す
ばらしい人になっています。

 いいですか? だれしも、一つや二つ、そういう十字架を背負って生きています。この一年間
だけでも、こんな事例があります。

 一人息子(19歳)を、自殺に追いこんでしまった両親。同じく妻を、自殺に追いこんでしまった
夫。少し前には、自宅に放火して、娘を殺してしまった母親など。一見、極端な例に見えるかも
しれませんが、そういう人たちが背負った十字架とくらべると、あなたの背負った十字架など、
軽いものです。軽い、軽い、本当に、軽い!

 だからあなたはあなたで、前向きに生きていきなさい。

 あなたはあなたというより、人間が本性としてもつ「強烈な命令」に従った。それはまちがって
いない。以前、こんな原稿(この返事のあとに添付)を書きましたので、送ります。中日新聞に
掲載してもらったものです。何かの参考になると思います。

 そしてあなたは今の苦しみや悲しみを、つぎの段階にまで昇華させます。そうそう、先に書い
た、B氏ですが、今は、ボランティアで、老人福祉をしています。もう少し具体的には、自分にも
別の仕事があるので、妻に、その仕事をしてもらっています。その妻の仕事を、応援していま
す。

 なぜB氏が、そうなのか? そうしているのか? あなたなら、その理由がわかるはずです。

 たしかにあなたの二人の子どもは、あなたに捨てられた。これは事実です。心に大きなキズ
を負った。これも事実です。

 しかし二人の子どもは、必ず、それを乗りこえます。すでに乗りこえているかもしれません。子
どもの側からしても、その程度の問題をかかえている子どもは、いくらでもいます。今どき、離
婚など、珍しくも何ともないです。アメリカでも30%の夫婦が、離婚しています。意外と意外、こ
の日本でも、離婚率は、ヨーロッパ各国より、高くなりつつあります。

 ですから離婚の数だけ、あなたの二人の子どものような子どもも、いるわけです。(だからと
いって、あなたが背負った十字架を軽く感じてもらっては困りますよ。)

 私があなたなら、その分だけ、あなたの今の夫に、尽くします。尽くして、尽くして、徹底的に
尽くします。あなた自身の幸福というよりは、あなたの夫の幸福を、最優先します。そしてでき
れば、あなたの周囲に、あなたの助けを必要としている子どもたちのために、尽くします。

 ある女性(現在45歳くらい)は、今の夫と結婚する少し前、別の男性と遊んで、妊娠してしま
いました。それで中絶したのですが、そのときつけた子宮のキズが原因で、妊娠できない体に
なってしまいました。

 それでその女性は、それ以後、今に至るまで、何かの団体で、不幸な子どもたちの福祉活動
を繰りかえしています。つまりあなた自身も、何らかの形で、今の苦しみや悲しみを、昇華させ
ることができるはずということです。

 が、だからといって、あなたの心が晴れることにはならないでしょう。死ぬまで、晴れることは
ないでしょう。あなたがまじめで、そして懸命に戦えば戦うほど、そうです。しかし人生というの
は、もともと、そういうものなのですね。そうでない人生を、さがすほうが、むずかしいくらいで
す。

 とにかく前向きに生きていきましょう。もう、どうにもならないことは、どうにもならないのです。
大切なことは、今日できることを、懸命にすること。明日は、その結果として、必ず、やってきま
す。そして明日のことは、明日に任せればよいのです。

 そしていつか、あなたの二人の子どもは、あなたを求めてやってきます。そのとき、あなたは
もうこの世の人ではないかもしれない。(もちろんその前に求めてきたら、あなたは全幅に心を
開いて、子どもたちを受け入れます。)

 そんなときでも、あなたはあなたの二人の子どもが、部屋の中に入ってくることができるよう
に、しっかりと窓だけはあけておいてあげてください。「私の母は、すばらしい母だった」と思うよ
うな、そんな人をめざしてください。それが今できる、あなたの子どもたちへの、せめてもの罪
滅ぼしではないでしょうか。

 長い返事で、参考になったかどうかはわかりませんが、どうかどうか、前向きに生きてくださ
い。

++++++++++++++++++++

母親がアイドリングするとき 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。

今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四歳のとき。どこか不
本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男
性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた
何となく結婚した。

●マディソン郡の橋

 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。「どこにでもある田舎道の
土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」(村松潔氏訳)と。

主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生
命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。つまりフランチェスカは、「日
に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻に閉じこもって」生活をしてい
たが、キンケイドに会って、一変する。

彼女もまた、「(戦後の)あまり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の
中で、アメリカ人のリチャードと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。Hさんはそうした不
満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が不満だ」「お前は幸
せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こん
な話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまっ
た。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。

「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩
年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏
の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の
中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、
下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、
医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパー
の資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなた
がアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止
まることもある。しかしそのままということは、ない。

子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着
点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏
む。妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生
は動き始める。
(040312)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(117)

●人格の完成度

 人格の完成度、つまり内面化の完成度は、いかに相手の立場で、いかに相手の心情になっ
て考えられるかで、決まる。

 同調性……相手の悲しみや苦しみに、どの程度まで、理解し、同調できるか。

 協調性……相手と、どの程度まで、仕事や作業を、仲よく、強調してできるか。

 調和性……周囲の人たちと、いかになごやかな雰囲気をつくることができるか。

 利他性……いかに自分の利益より、他人の利益を優先させることができるか。

 客観性……自分の姿や、置かれた立場を、どの程度まで、客観的にみることができるか。

 言うなれば、自己本位とその人の人格の完成度は、反比例の関係にある。つまり自己本位
の人は、それだけ人格の完成度が低いことになる。

 このことは満1〜2歳の子どもを見ればわかる。たとえば私の孫。

 息子夫婦が、今、孫の歯磨きの習慣づけに苦労している。歯を磨こうとすると、いやがって逃
げてしまうという。そのときのこと、孫(1歳6か月)は、自分で自分の両目を押さえて、見えない
フリをするという。

 つまり「自分が見えなければ、相手も自分を見えないはず」イコール、どこかへ隠れたつもり
でいるらしい。

 あるいはある幼児(年長男児)は、こう言った。

 「ぼくのうしろは、まっくらだ。だから何もない。ぼくがうしろを振り向いたときだけ、そこにうし
ろの世界が現れる」と。

 これらは幼児の自己中心性を表す、典型的な例と言える。しかし同じようなことを、おとなた
ちもしている。

 世界のどこかで、飢餓に苦しみ人たちがいたとする。そういうニュースを新聞で見かけたと
き、そのまま目をそらしてしまう人がいる。テレビのニュースそのものを見ない人もいる。

 先日も、ある小さなラーメン屋に入ったときのこと。ちょうど午後7時になったので、私が店の
主人に、「NHKのニュースを見せていただけませんか」と言ったときのこと。「うちは、ニュース
は見ないから……」と、断られてしまった。

 結局は、世界の狭い人ということになるが、それだけ世界への同調性が、低いということにな
る。つまり世界のニュースに目を閉じることによって、そういった事件は、ないものとして片づけ
てしまう。
(はやし浩司 人格の完成度 同調性 協調性)

●無知&無理解

 子どもというのは、その年齢になると、その年齢なりの変化を見せる。とくに大きく変化するの
は、満10歳くらいからで、この時期になると、子どもは、急速に親離れをし始める。

 が、中には、それを許さない親がいる。あるいは、あまりにも無知で、そうした子どもの心の
変化を理解できない。

 このタイプの母親は、もともと子どもへの依存心が強い。支配欲も強く、子どもを自分の思い
どおりに動かそうとする。そういうこともあって、子どもが自分から離れていくのを許さない。だ
からあの手、この手を使って、子どもの(自由なる行動)を、制限しようとする。

 もっともよく使われる手が、子どもの趣味や、好みに干渉すること。

 「親の言うことを聞けなければ、サッカークラブをやめなさい!」
 「親に反抗したら、塾をやめさせる!」
 「親にさからったから、家を出て行け!」など。

 つまり親の意思に反したら、生きていくことさえできないという状態をつくる。そして子どもをし
ばる。

 悪玉親意識の強い人ほど、こうした手を使う。しかしこの方法は、まさに両刃の剣である。

 うまくいっても、子どもには、依存心がついてしまう。失敗すれば、(たいていは、失敗する
が)、親の関係は、その時点で断絶する。

 こんな例がある。

 あるとき、サッカークラブのコーチの家に、ひとりの母親から電話がかかってきた。そしていき
なり、「息子(小5)は、今月いっぱいで、クラブを退会します」と。そこでコーチが、理由を聞く
と、「親を親とも思わない態度が許せない。反省するまで、サッカーをやめさせます」と。

 こういう例は、決して、少なくない。

で、こういうケースでは、コーチでも、無力でしかない。母親の言うとおり、その翌日、コーチは、
その子どもの退会処理をした。が、その二日後、またその母親から電話。

 「息子も、よく反省したようです。今週から、またクラブに通わせますから、よろしく」と。

 しかしこの言葉にコーチが、激怒した。クラブが、親の都合だけで、よいように、もてあそばれ
たのではたまらない。が、そこはぐいとこらえた。その子どもは、クラブには、必要な子どもだっ
た。

 しかし、同じことが、また起きた。そのちょうど2か月後、今度は、その子ども自身から、電話
がかかってきた。泣きべそをかいていた。そしてコーチに、こう言った。

 「コーチ、……今月いっぱいで、……クラブをやめます」と。

 明らかに親に、そう言わせられているといったふうである。コーチは、「お母さんに、あやまっ
て、また来ることはできないのか?」と聞くと、「できないみたい……」と。

 家の中での騒動を、コーチは、その言い方の中に感じたという。で、その日は、そのままにし
ておいた。……というより、コーチは、すでにその子どもを、心の中では、レギュラーをはずして
いた。

 親の無知と無理解。この二つに振り回される子どもは、少なくない。親子だけではない。学校
の先生、塾やおけいこ塾の先生。さらにはクラブの監督やコーチなど。こういうケースは、私
も、よく経験する。しかし結論を言えば、こうなる。

 親も行きつくところまで自分で行かないと、気がつくことはない。

【追記】

 子どもを育てながら、心のどこかで犠牲心を感ずる親は、少なくない。不幸にして不幸な結婚
をした親ほど、そうかもしれない。

 そしてその犠牲心が、そののち、さまざまな形に姿を変える。ここでいう悪玉親意識も、その
一つということになる。

 親風を吹かしながら、子どもを自分の支配下に置こうとする。これを私は「代償的愛」と呼ん
でいる。一見、子どものことを考えながら、子どものことなど、何も考えていない。自分の心のス
キマを埋めるための道具として、子どもを利用する。

 しかしそれに気づく親は、少ない。あれこれ世話を焼きながら、それを「子どものため」と誤解
する。「あの子は、自分がいないと、何もできない子どもです」などと、平然と言う。つまり子ども
に依存心をもたせながら、自分自身も、子どもに依存しようとする。

 こうした相互依存関係が、それなりにうまくいくケースも、少なくない。しかしそのときでも、そ
こに、子離れできない親、親離れできない子どもという、つまりはベタベタの親子関係が生まれ
る。

 ここに書いた「サッカーをやめろ」と言われた子ども(小5)のばあいも、親子がそのまま断絶
してしまう可能性は、きわめて高い。もう少し子どもが大きくなれば、「バカヤロー!」「うるさ
い!」の大乱闘になることも考えられる。そういうケースは、少なくない。

 しかしそれだって、まだよいほうだ。ゆがんだ心が外に向えば、非行。内に向えば、家庭内暴
力。ただではすまない。だから私は、あえて言う。

 「親も行きつくところまで自分で行かないと、気がつくことはない」と。

 
●愚かな人VS賢人

 愚かな人には、賢い人は理解できない。が、賢い人には、愚かな人が、よくわかる。自分に
ついても、同じ。人は以前より賢くなって、それまでの愚かさがわかる。

 このことは、文章を書く人なら、みな、知っている。

 私も、ときどき、20年前、30年前に、自分で書いた文章を読みかえすときがある。そのと
き、そのつど、自分の愚かさに、あ然とするときがある。

 (だからといって、若いころに書いた文章が、つまらないと言っているのではない。反対に、そ
の感性や、純粋さに驚くこともある。)

 では、愚かな人と賢い人のちがいは、どこにあるのか。

 私は、そのちがいは、思考力の深さと、考える習慣によると思う。どこか手前味噌のような意
見だが、しかし「考える」ということは、山登りに似ている。高い山に登れば登るほど、それまで
の山が低く見える。予想していたよりも、はるかに低く見える。

 同じように、一つの考えを自分のものにすると、それまでの自分が、愚かに見える。ものすご
く愚かに見える。

 あとは、その繰りかえし。(だからといって、私が賢人というわけではない。誤解のないよう
に!)

 これは一つの例だが、今日も、道路へ、平気でゴミを捨てている若者を見かけた。何かの紙
くずを、手のひらの中で、クルクルと丸めて捨てていた。

 私から見ると、その若者は、愚かな人に見える。しかしその若者自身は、自分がそうであるこ
とには気づいていない。(ゴミを捨てない人)が、どういう人であるかさえ、知らないからである。
つまり愚かな人からは、賢い人がわからない。 

 こういう例は、多い。子育ての世界にも、多い。

 こちらからは、親の考え方や、育て方、それに子どもの問題点や、これから先、どうなるかと
いうことまで、手に取るようにわかる。しかし、その親には、それがわからない。わからないま
ま、私にあれこれ指示してくる。

 ……という話は、ここまで。立場上、スポンサーの悪口は書けない。ただそういうときは、私の
ほうが、バカなフリをして、つまり知らぬフリをして、その場をやり過ごす。それも大切な教育技
術の一つだと、私は思っている。


●泥棒の家は、戸締りが厳重

 昔から『泥棒の家は、戸締りが厳重』という。私は、この諺(ことわざ)の意味を、このところ、
毎日、考えている。

 私は、子どものころから、孤独だった。他人に心を開かない分だけ、当然のことながら、他人
を信用しなかった。よく「浩司は、愛想のいい子だ」と、伯父や伯母に言われたが、それはいわ
ば、仮面のようなものだった。

 本当の私は、人嫌いで、とくに集団行動が苦手だった。運動会にせよ、遠足にせよ、人に気
をつかう分だけ、よく疲れた。

 だからといって、ひとりでいることを好んだわけではない。ここにも書いたように、私はいつも
孤独だった。

 そういう意味では、私には、問題があった。対人関係を、うまく結ぶことができなかった。孤独
だったから、外に出て行った。しかし外の世界では、うまく、人と交際ができなかった。

 で、30代、40代は、そういう自分との戦いだったような気がする。今でも、基本的には、対人
関係が、苦手である。ただ子どもたちと接しているときだけ、私は、私でいられる。ありのまま
の自分を、すなおに表現できる。

 このことと、『泥棒の家は、戸締りは厳重』と、どういう関係があるのか?

 実は、私は、そのため、ここにも書いたように、「人を信用しない」人間だった。「信用しない」
といえば、まだ聞こえはよいが、裏を返すと、「疑りぶかい」ということになる。そう、私は、子ど
ものころから、その疑りぶかい子どもだった。

 たとえばだれかが、私に何かをくれたとする。そのとき私は、それに対して、「ありがとう」と言
う前に、相手の下心をさぐってしまう。「どうしてくれるのか?」「私に何をさせようとしているの
か?」と。

 つまり私は、人を信用しない分だけ(=泥棒であるため)、他人を疑ってしまう(=戸締りを厳
重にする)。

 で、私とワイフの関係についても、同じようなことがいえる。今夜も私は、ワイフにこう聞いた。

 「お前は、ぼくといっしょにいて、さみしくないか? ぼくたちは長い間、夫婦をしているけど、
ぼくは、お前のことを全幅に信じているわけではない。たとえばいつか、ぼくが倒れて、仕事で
もできなくなったら、お前はぼくを捨てていくだろうと思っている。心のどこかで、ね。そういうぼく
を、お前も感じているはずだ。だから、お前は、さみしい思いをしていると思う」と。

 それに答えて、ワイフは、こう言った。「あなたは、かわいそうな人ね」と。

 私は泥棒なのだ。だから、戸締りを厳重にしている。そういう自分と、どう戦えばよいのか。戸
締りばかりしているのも、疲れた。もうそんなことは考えないで、家中の窓や戸を、全部開け
て、のんびりと暮らしてみたい。

 聞きなれた諺だが、このところ、この諺の意味を、あれこれ考える。


●ケータイをもったサル

 どこかのだれかが、「ケータイをもったサル」といようなタイトルの本(新書版)を書いた。少し
立ち読みをしただけなので、内容はよく知らない。しかし、このところ、「なるほど、そうだな」と
思うときが、ときどきある。

 今日も、ローカル電車に乗ったときのこと。若い人たちが、みな、ケータイを相手に、きぜわし
く、指先を動かしていた。中には、こっそりと、会話をしている人もいた。が、その中でも、とくに
一人の女性が、私の目をひいた。

 かなり大柄な女性だったが、始終、ひわいな笑みを浮かべて、メールを読んだり、送ったりし
ていた。表情を見ただけで、そういう話とわかるような雰囲気だった。しかも傍若無人(ぼうじゃ
くぶじん)。よく満員電車の中で化粧をしている若い女性を見かけるが、私が受けた印象は、そ
れ以下だった。

それぞれの人が、何をしようと、それはその人の勝手。しかし私はその女性の笑みの中に、一
片の知性すら感ずることができなかった。まさにサル(失礼!)。本当にサル(失礼!)。

 人間とサルとはちがうというが、私には、動物園で見たあのサルと、その女性が、まったく区
別がつかなかった(失礼! 本当に失礼だと思うが、事実は、事実。)

 ためしにみなさんも、今度、ローカル電車に乗ったようなとき、若い人たちの姿を見てみると
よい。もちろん大半の若い人は、そうでない。しかし中に、ときどき、見るからに低劣な人がい
る。どう低劣かは、ここに書くことができないが、本当に、低劣。

 以前、私の恩師の一人が、「昆虫のような脳ミソ」という言葉を使ったことがある。理性や知
性を感じない人を評して、その恩師は、そう言った。たいへん失礼な言葉に聞こえるかもしれな
いが、私はその言葉を思い出しながら、「ああいう人たちのような脳ミソを、昆虫のような脳ミソ
というのだな」と思った。

 今、とても残念なことだが、その程度の脳ミソしかない人が、ふえている? ……多分?

【追記】

 ついでに、もう一つ苦情。

中高年の人たちも、うるさい。本当によくしゃべる。大声で。しかも「しゃべらなければ、損」とい
ったふうに、しゃべる。

 自分もその中高年の一人だから、偉そうなことは言えない。が、もう少し、まわりの人が受け
る迷惑も考えるべきではないのか。

 今日もローカル電車で、岐阜へ行くとき、ハイキングにでかける一行(全員が、50〜60代、
4〜5人のグループが、二つ)と、いっしょになった。

 そのグループが、ワイワイ、ガヤガヤ。本当に、うるさい。どうしてああまで、うるさいのか? 
一人がしゃべると、相づちをうって、ほかの全員が、これまた負けじとばかり、大声でしゃべる。
またそういうふうに、しゃべりあうのが、常識と考えているといったふう。

 おかげで眠っていこうと考えていた私の思惑は、完全にはずれた。席を離れて、となりの車
両に移ったら、そこにも、中高年の人たちのグループが! あきらめて一番手前の席にすわっ
て、私は、ただひたすら雑誌を読みつづけた。

 ……ずいぶんと失礼なことを書いてしまったようだ。今夜は、長旅で、少し疲れているせいか
もしれない。少し、気分がイラだっているようだ。

 でも、みなさん、電車の中では、もう少し、静かにしましょう!


●性欲

 乳幼児にも性欲があるといったのは、フロイトだが、それはともかくとして、男には、たしかに
排泄欲というものがある。

 たとえば、私は、銀行に行くと、ソファに座ったまま、頭の中で、よく銀行強盗を空想する。し
かしこれはあくまでも空想。ハリウッド映画の影響だと思う。

 だから実際には、銀行強盗をするような夢は見ない。つまり(空想)と、(現実)の間には、大
きな距離感がある。

 しかし一方、若い銀行員の女性を見ながら、あらぬロマンスを想像することはある。しかしこ
のばあいは、(空想)と、(現実)の間には、それほど距離感はない。だから実際には、夢の中
でも、そういった夢を見ることがある。

 もちろん銀行強盗を空想するような、罪悪感はない。それはいわば排泄のための、排泄行為
のようなもの。あえて言うなら、空腹なとき、ごちそうを食べる夢を見るようなものではないか。

 ところでフロイトは、その排泄欲を観察しながら、人格の完成度まで、段階化した。

(口唇期)……母親の乳房に口をあて、自分の快感を得るためだけの、自分勝手な性欲期。
(肛門期)……排泄だけを目的とし、排泄することによる快感だけを求める、性欲期。
(男根期)……女性を「女」と見ることにより、男としての優越性を求める性欲期。
(性器期)……たがいの心の交流を求めて、人間らしい、深い味わいを求める性欲期。

 しかし実際には、男には、こういう段階があるわけではなく、(フロイトを批判するのは、たい
へん勇気がいることだが)、いつもそれぞれの状態が、一人の男性の中に、混在しているとみ
るべきではないか。

 たとえば今という時点においても、私の中には、(口唇期)もあれば、(性器期)もある。ときに
(肛門期)もあり、(男根期)もある。ただ年齢と経験が加算されればされるほど、相対的に(口
唇期)の性欲が減り、より(性器期)の性欲を求めるというだけにすぎない。

 で、この状態は、40歳になっても、50歳になっても、変らない。だから今でも、ときどき夢の
中で、若い女性との、あらぬ夢を見ることがある。だからといって、それを浮気だとか、不倫だ
とか、そういうふうに考えてもらっては、困る。

 あくまでも、排泄欲としての、セックスを想像するだけである。ただ若いときとちがって、それ
が、夢精につながることは、少ない。そういう意味では、精力そのものは、たしかに衰えた。し
かし「男」としての性欲は消えるわけではない。

 フロイトは、性欲は、生きる力の源泉になっているという。考えてみればその通りで、人間も、
ほかの動植物と同じように、(種族の保存)を、生きるための最大の目的にしている。もし性欲
がなかったら、人間は、とっくの昔に絶滅していたことになる。

 性欲を悪と決めてかかるほうが、おかしい。俗な言い方をすれば、スケベな人ほど、それほ
ど、生活力も旺盛ということになる。スケベであることは、おおいに結構。男性のばあい、(女性
のことはよくわからないが……)、スケベでなくなったら、男も、おしまいということ。大切なこと
は、それをどうコントロールするか、である。

 で、ワイフのこと。

 ときどき、「今朝は、ヒワイな夢を見たよ」と、私が言うと、ワイフは、さも軽蔑したような目つき
で私を見る。「いい年して、まだ、そんな夢を見るのオ?」と。しかしそれは誤解。それを言いた
くて、このエッセーを書いた。

 ところで、私の銀行強盗計画は、こうだ。(あくまでもハリウッド映画用の脚本として……。)

 まず地下のxxxから、xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
xxxxxxxxxxxxxxxxx。ほかの仲間(ワイフ)はそのまま帰る。

 残った一人は、xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxを一台、天井から、ゆ
っくりとつりあげる。

 そのxxxxxxxxxに、無線のxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxコピーする。

 翌朝、銀行業務が始まったら、xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
xxxx。送金時刻は、銀行業務が終わる、ギリギリの時刻に設定する。

 送金先は、反対に、xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx。そうすれば、xxxxxxxxたちが、その不正送金に気づくことはない。

 こうして別の仲間(私のワイフ)が、xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
xx大金を自分のものとする。

 ハハハ。

 これが私の銀行強盗計画。今のところ、ワイフは、まったく相手にしてくれないから、これはあ
くまでも私の空想。しかしだれかがやろうと思えば、そういうこともできるということ。銀行側も、
そのための対策をしっかりと、とっておいたほうがよい。

 私の印象では、どこの銀行でも、xxxxxxxxxxxxxxxが、一つの大きな盲点になっていると思
う。

 ただし強盗をするほうも、時期を選ばないと、たいへんなことになる。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx。

 (いいのかなあ、こんなことを、書いて……。やはり、この部分は、ボツにしよう。マネをする人
がいるといけないから……。「xxxxxxx」と、重要な部分を、伏せ字にすることにした。)

 
●Zシティ中央館に公的補助????

 浜松市中心部の西はずれに、Zシティと呼ばれる一角がある。市が数百億円の援助をして開
発した地域だが、その中の一つが、経営不振にあえいでいる。(本当のところは、あのあたり
の開発ビルすべてが、経営不振にあえいでいる。)

 そこで「Zシティを破綻させたらたいへんなことになる」(K市長)ということで、急きょ、10億円
近い公的資金を、補助することになった。(当初は、20億円程度だった。)しかし「どうしてたい
へんなことになるのか」という部分の説明がなかった。

 そこでこの補助は、ご破算になった。当然である。

 仮にここで補助すれば、市の財政は、ますます深みにはまってしまう。ドロ沼と言ってもよい。
来年になると、さらに深みにはまってしまう。再来年になると、もっとはまってしまう。こうして毎
年、利息の不足分を補うだけで、10億円以上もの、税金を使うことになる。しかもそのZシティ
に関わる地権者というのは、たったの17人。

 わかりやすく言えば、市は、17人という民間人を助けるために、毎年、10億円以上もの税
金を使うことになる。

 (実際には、Zシティの中央館だけでも、負債額は、数十億円以上。この額は、これから先、
ふえることはあっても、減ることは、まずない。)

 もともと無謀な再開発であった。結局は、そのビルを建築した土建業者だけがもうけたという
再開発。地権者自身も、そういう意味で、被害者なのかもしれない。ここでZシティが破綻すれ
ば、土地の権利そのものを、失う。

 しかし、それにしても、ムダな建物が、多すぎる? みなさんは、自分の周囲を見渡して、そう
は思わないだろうか。公共の施設だけが、飛びぬけて、立派。場ちがいなほど、立派。

 昨日(3・13)も、岐阜市の郊外を、バスで旅をしてみたが、どこも公共施設だけは、飛びぬ
けて豪華。すばらしい。ぜいたく。

(昨日は、美濃→大矢田→武芸川→高富→岐阜のコースで、バスに乗った。)

バスは、途中、ある公共の保養施設の前でも止まったが、乗り降りする人はゼロ。時刻は、一
番忙しいはずの、午後5時ごろ。駐車場は、土曜日の祭日というのに、ガラガラ。実際には、駐
車してあった車は、多分、職員の車なのだろう。すみのほうに、数台あっただけ。

 ご多分にもれず、その公共施設も、都内の一流ホテル以上に、豪華。重厚なつくりだった。
敷地も広く、屋根も高い。あなたが住んでいる地域の周辺も、まちがいなく、そういった施設が
あるはず。ひょっとしたらあなたは、「こうした豪華な施設は、このあたりだけ」と思っているかも
しれない。が、それは誤解。

 全国津々浦々。小さな寒村にすら、こうした豪華な施設、立ち並んでいる。

 どうして日本は、こういうアホなことばかりしているのだろう。あとあとの維持費のことを考えた
ら、とてもできることではない。また、してはならない。

「ないよりはあったほうがよい」と。しかしこんな論理だけで、こんな豪華な施設ばかり建ててい
たら、この日本は、どうなる? もうすぐ、国の借金が、一人当たり、1000万円になる。4人家
族なら、4000万円。5人家族なら、5000万円。幼稚園児が200人で、20億円。それともあ
なたなら、その借金を返せるとでもいうのだろうか?

 日本は、気がついてみたら、とんでもない土建国家になっていた。先日、30年ぶりに日本へ
来たオーストラリアの友人も、日本の川や山々を見て、驚いていた。「どうして日本人は、川や
山をコンクリートでおおうのか」と。

 私はZシティを破綻させても、かまわないと思う。そして愚劣な土建国家の象徴として、つまり
こういうムダなものを、もうこれ以上つくらないためにも、その象徴として、幽霊ビルにすればよ
いと思う。みんなが、そのムダづかいに気づいて、もっともっと、怒ればよいと思う。その怒り
が、こうしたムダづかいに、ストップをかける。長い目で見れば、そのほうが、市民にとっても、
得なはず。

 そんなムダなお金があったら、教育(校舎を建設することではないぞ!)や、文化のために使
え。日本人を、賢く、利口にするために!

【静岡空港】

 ないよりは、あったほうがよい。……だれだって、そう答える。しかしそのお金は、どこから降
ってくるのか? わいてくるのか?

 第二東名だけで、工費が11兆円以上。国家税収の4分の1以上! 今、現存の東名高速道
路ですら、利用者が頭打ち。ここ数年のうちには、利用者は、減少に転ずるといわれている。

 そして今度は、静岡空港。「あれば便利だろうな」と、私も思う。成田空港は遠いし、名古屋空
港も、不便なところにある。しかしこれ以上、つぎの世代の子どもたちに借金を残してどうす
る。苦しむのは、子どもたちだけではないか。もしそうなら、多少の不便は、がまんする。賢い
おとななら、だれだって、そう考える。

 もう、やめよう! こんなアホな政治は! お金をかけるべきところが、ちがう。全国のみんな
が、一、二の三で、同時にやめれば、それですむことではないか。

 今、この日本は、官僚による、官僚のための、官僚の政策によって、破綻に向って、まっしぐ
らに進んでいる。いったい、どこまで行ったら、日本人は、それに気がつくのか? 

 私は何も、静岡空港の建設に反対しているのではない。ただ、これ以上、税金のムダづかい
は、やめてほしいと言っているだけ。もしそんなお金があるなら、税金を安くし、医療費を安くし
てほしい。教育費を安くしてほしい。そして教育や文化に、もっと、お金を使ってほしい。


●三男の旅立ち

 明日、夕刻の飛行機で、三男が、オーストラリアへ旅立つ。「そんな大げさなものじゃない」と
三男は言う。しかし今夜、家族で、そのお別れ会をした。

 このところ、私の周辺で、いろいろな問題が起きている。そのせいか、三男との別れが、ぐい
と胸に響く。ワイフが、こう言った。

 「私、E君(三男)と、二人だけで旅をしたことがないわ。だから明日は、東京まで、いっしょに
行ってあげたい」と。ワイフにはワイフの思いがあるようだ。私としては、それに反対する理由
など、どこにもない。

 その私は、三男とよく、二人だけで、旅をした。紀伊半島を回ったこともあるし、長野県から岐
阜県を、回ったこともある。タイへも、いっしょに行ったことがある。だから思い残すことはない。
ないはずなのに、どこか、さみしい。

 「恐らく、三男は、このまま、我が家にもどってくることはないだろう」と、私が言うと、ワイフは
黙っていた。それが、そのさみしさの原因かもしれない。つづいて、「親として、できるだけのこ
とはしてやろう」と言うと、「そうね」と。

 ……ここまで書いたところで、文がつづかなくなってしまった。淡い虚脱感というか、力が抜け
たというか。あまり考えたくないというか……。

私は子育てをしながら、むしろ、子どもたちに、人生を楽しませてもらった。だから息子たちに
は、感謝しこそすれ、それができなくなったからといって、今、さみしく思わねばならない理由な
どないはず。

それが、どういうわけか、さみしい。

 多分、このさみしさは、ひょっとしたら、人生が終わりに近づいたものがみな、感ずるさみしさ
ではないのか。子育てが終わったと思ったら、そこには、老後が待っていた……。今日も何か
のことで、カガミにうつった自分の顔をみて、こう思った。

 「はやし浩司も、ジジくさい顔になったなあ」と。

 自分でもいやになる。何かをしてきたようで、何もできなかった。これから先、あと10年生き
ても、20年生きても、この状態は、変らないかもしれない。「今日こそは……」「今日こそは…
…」と、がんばって生きてきたが、夜になると、「やっぱり何もできなかった……」と。毎日が、そ
の繰りかえし……。

 そう、だから今日、三男に、車の中で、こう言った。

 「ぼくは、ちょうどお前の年齢のとき、オーストラリアへ行った。日本へ帰ってきてからは、ずっ
と、苦労の連続だったけれど、そんなぼくが、かろうじて道を踏みはずさないですんだのは、あ
の時代があったからだよ。

 お前は、その時代を、今、自分でつくろうとしている。いいか、今のこの時は、これから先、お
前の(核)となる時代になるんだよ。思う存分、羽を広げて、この広い世界を、はばたいてみ
ろ。悔いのない青春時代を生きてみろ。

 オーストラリアにはね、本物の自由がある。日本人が見たことも、聞いたこともない自由だ。
その自由にふれてこい。それがね、いつか、お前の心の中で、さん然と輝き始めるよ」と。

 そう言い終ったときも、私はさみしかった。本来なら、喜んでよいはずなのに、その喜びがな
い。どうしてだろう。

 今夜は、早めに寝たほうが、よさそうだ。身も心も、疲れすぎている。ほんとうに、この二日
間、いろいろあった。

 
●思考

 「考えること」といっても、大きく分けて、二種類ある。考えていて、楽しいことと、考えれば考え
るほど、気が滅入ることである。

 そのちがいは、どこにあるかといえば、(わずらわしさ)。

 総じてみれば、わずらわしさの原因のほとんどは、人間関係から生まれる。人は、その人間
関係を避けて生きることはできないが、この人間関係は、一度こじれると、とことん、こじれる。
そして一度こじれたら最後。あとはわずらわしくなるだけ。

 だから気持ちよく生きるためには、そのわずらわしさから、自分を回避するしかない。つまり
は、その危険性のある人には、近づかない。昔、中国では、『君子、危うきに近寄らず』と言っ
たが、その(危うき)というのは、まさに人間関係のことを言ったのではないかと思う。

 E氏だったと思うが、あるノーベル賞受賞者が、こう言ったという。「ノーベル賞をとるような研
究をしたかったら、名刺を捨てなさい」と。

 つまり、わずらわしい人間関係とは、決別しなさい、と。

 このE氏の言葉には、一理ある。何かの目標に向って、まっしぐらに進んでいくためには、こう
したわずらわしさからは、できるだけ解放されたほうがよい。

 で、私も、毎日、いろいろと考える。考えること自体は、苦痛ではない。しかし考えれば考える
ほど、気が滅入ることも、少なくない。が、一方で、私は、あまり器用ではない。何かにつけて、
考えてしまう。そしてその結果、そういうわずらわしいことまで、同じように考えてしまう。そして
ますます気が滅入ってしまう。

 そうして考えてみると、「考える」ということは、まさに両刃の剣ということになる。考えることに
よって、自分を伸ばすこともあるが、使い方をまちがえると、自分を腐らせてしまう。その使い
分けをどうするか。これも、「考える」ことにまつわる、大切な問題だと思う。


●現実検証能力

 心が変調すると、現実検証能力を失うことがある。わかりやすく言うと、自分の置かれた立場
が、客観的に判断できなくなってしまう。

 たとえばよく知られた例に、家庭内暴力がある。家庭内暴力を起こす子どもは、家族をとこと
ん苦しめる。そのギリギリの限界まで、家族を苦しめる。そういう子どもに向かって、「そんなこ
とをすれば、あなた自身も、損なのだよ」と説明しても、意味はない。

 自分のしていること、自分がしていることがおよぼす結果や影響、自分の置かれた立場な
ど、そういうものが、理解できない。理解するための、思考力そのものが、ない。

 ほかにも、親の銀行通帳から、勝手にお金を引き出して使ってしまった子ども(女子高校生)
の例もある。が、さらにひどくなると、金銭感覚そのものがなくなることもある。

 これはある女性(母親)の例だが、夫の給料のほとんどを、衣服やバッグの購入のために使
ってしまう人がいた。それも、一個、10万円もするようなバッグを、何個も、である。

 夫が強く叱ると、そのときは、涙をこぼしながら反省するのだが、しかしもうその翌日には、別
のバッグを買ったりしていた。

 で、最近、ふと気がついたことだが、俗に言う、ノー天気な人、あるいはのんきな人というの
は、この現実検証能力のない人のことを言うのではないかということ。意外と、そういう人は多
いのでは……?

 たとえば慢性的なうつ状態が長くつづいたことが原因で、ものの考え方が、チャランポランに
なる人がいる。お金の使い方がだらしなくなるだけではなく、人間関係や、生活態度そのもの
が、だらしなくなる。一般には、「行為障害」とか、「行動障害」とか、言われている。

 しかしその中身はというと、この「現実検証能力」の喪失ではないか。現実感をなくすから、そ
れが原因となって、さまざまな行為障害的な行為を繰りかえすようになる?

 こんな例がある。

 ある男子中学生だが、父親が来客用のみやげとして用意しておいた洋酒のボトルのフタをあ
けてしまったという。そこで父親が激怒して、「どうしてこんなことをするのだ!」と叱ったところ、
その中学生は、「ちょっと、飲んでみたかっただけ」と、泣きじゃくったという。

 またある小学生は、薬のトローチを、お菓子がわりに、なめてしまったという。

 で、私の経験では、幼児期から少年少女期にかけて、一度、こうした現実検証能力を失うと、
その影響は、ほぼ一生、つづくのではないかということ。自信喪失から、自己嫌悪におちいるこ
ともある。

 本来なら、早い時期に、親がそれに気づき、適切な措置をとるべきである。しかしそういう親
に限って、支配欲が強く、子どもを、強圧や命令で、しばろうとする。具体的には、(強く叱る)→
(ますます子どもは現実感を喪失する)→(ますます強く叱る)の悪循環の中で、子どもの症状
は、さらに悪化する。だからその影響は、ほぼ一生、つづく。

 簡単な診断法としては、お年玉などのお金を、子どもに渡してみるとわかる。現実検証能力
の高い子どもは、そのお金を計画的に使う。何かの目的のために、大切に使う。そうでない子
どもは、もっているお金を、すべて使ってしまう。その場だけの楽しみのためだけに、使ってしま
う。しかもあと先のことを考えないで、使ってしまう。

 こうした現実検証能力の弱さを感じたら、育児姿勢が過干渉、過関心、溺愛的になっていな
いかを、謙虚に反省する。原因は、子どもにあるのではなく、家庭教育そのものにある。そう考
えて、反省する。

 実のところ、私も、このところ、現実検証能力が弱くなってきているのを感ずる。どこか自暴
自棄になってきたというか、そういう感じ。「なるようになれ」とか、「なるようにしかならない」と
か、そんなふうに考えることが多くなった。

 これは多分に、年齢のせいだと思う。あるいは「やるだけのことはやってみたが、やはりダメ
だった」という敗北感のせいかもしれない。だから現実検証能力のない子どもの気持ちが、よく
理解できる。

 ただ念のために申し添えるなら、この「現実検証能力」という言葉は、私が考えた言葉ではな
く、心理学辞典にも載っている、心理学の用語である。決して、軽く考えてはいけない。
(はやし浩司 現実検証能力 行為障害 自信喪失 自己嫌悪)


●ホームステイ

 毎年、多くの高校生や大学生が、留学のため、外国へでかけていく。そしてその先で、ホー
ムステイを経験する。

 私の三男も、今日、オーストラリアへでかけて行った。高校の元教師の家で、ホームステイす
ることになった。

 出かけるとき、私は、三男にこう言った。

 「ホームステイというのは、その先で、家族の一員になることをいう。決して、お客様になって
はいけない。向こうでは、最低でも、つぎのことをするように。

(1)食事の用意、片づけは、すること。
(2)シャワーで壁を汚したら、きれいに流しておくこと。トイレも同じ。
(3)ベッドは、毎朝、起きたら、なおすこと。
(4)家事一般は、積極的に、手伝うこと。

 日本の子どもたちは、こういった仕事をほとんどしない。子どものときから、そういう訓練を受
けていない。だから、アメリカでも、オーストラリアでも、日本の学生は、嫌われる。アメリカ人の
友人は、こう言った。

 「ヒロシ、どうして日本の子どもたちは、何もしないのか?」と。

 さらにタチの悪い学生となると、宿泊先の母親を、お手伝いさんか何かのように思ってしまう
らしい。「金さえ払えば、それでいい」と。しかしこれは大きな、誤解。誤解というより、まちがい。

 中には、金儲け主義で、ホームステイさせる人もいるにはいる。しかし大半の人は、ボランテ
ィア活動の一つとして、している。たとえば今、オーストラリアでは、1週160〜70豪ドルで、学
生を預かってくれる。日本円になおすと、15000円前後。月額にして、6万円前後である。もち
ろん、毎日、二食つき。

 安いと言えば安いが、それに甘えてはいけない。

私「家事を手伝うんだぞ。お前は、決して、お客様ではないのだからな」
三男「うん。わかっているよ」と。

 恐らく、日本の子どもほど、家事を手伝わない子どもは、いないのではないか。その点、オー
ストラリアにしても、ニュージーランドにしても、子どもたちは、本当によく家事を手伝う。学校か
ら帰ってきたあと、夕食の時間までは、家事を手伝う時間になっている。料理や洗濯のほか、
家の修理などなど。

 ホームステイは、その延長線上にある。

 もしあなたの子どもが、外国で、ホームステイすることになったら、ここに書いたことを、一
度、話してきかせるとよい。

【追記】

 ところで今、ひそかに問題になっているのは、自活できない大学生たち。大学へは入学した
ものの、自分の身のまわりのことができない。料理、洗濯、炊事などなど。高校を卒業するま
で、ご飯を炊いたことがない学生となると、いくらでもいる。

 一流と呼ばれる大学へ入った子どもほど、そうだそうだ。しかし考えてみれば、それもそのは
ず。

 小さいときから、勉強しかしていない。親も、勉強しか、させていない。また「勉強する」「宿題
がある」と言えば、すべての家事が免除される。そういう家庭環境で、育っている。その結果、
ここでいう、自活できない学生がふえた。


●メール

静岡県H市のYさんから、こんなメールが届いています。掲載の許可をいただけましたので、こ
こに紹介します。

++++++++++++++++

はやし先生

おはようございます。
すっかり春めいてきました。

マガジンいつも楽しみにしています。

二月から三月にかけては、
バイオリズムが低迷していたのか、
二女のケガから始まり、
どうも物ごとがうまく進まなかったり、
失敗があったりと・・・・・最悪でした。
精神的には落ち込むし、やる気はなくなるしで、
憂うつな日々でした。


その上家族が順番に風邪をひき、
私は疲労とストレスのピークに達していました。


些細なことですが救われるきっかけがありました。 

母「今年はおひな様どうしようか。」(かなり、やめようモードで聞きました。)
長女「ママ、大変そうだから出すのは、やめにしてもいいよ」
母「そうだね。今年はやめておこうか、たいへんだから」
長女「うん。」
---重〜い空気が流れました。---

そして翌日
母「夕べ考えたんだけど、やっぱりおひな様出そうか!」
長女「・・・?」
母「だっておひな様が、一年に一度この時を楽しみにしていたとしたら
人間の都合で勝手に出すのをやめたらかわいそうだと思って・・・」
長女「そうだね。私もそう思う。今度の土曜に一緒に出そうよ」

---部屋の隅で聞き耳を立てていた---
長男「僕は五人ばやしと、赤い顔のオヤジを出すよ」
(笑・笑・笑)

そして土曜日
人形やお道具を出しながら、
長女「ねえ、ママ、なんだか私、うれしくなってきた」
母「ママも」
---長女のいい笑顔---出してよかった〜〜と思いました。--- 

今年はほんの一週間しかおひな様が飾れませんでしたが、
子どもと一緒に、いい経験が出来ました。

私がおひな様を出そう!、と奮起出来たのは
マガジンの影響がすごくあります。
ホントにありがとうございました。

無料でも有料でも私にとっては
はやし先生のマガジンに、変わりありません。
(あまりに高額だと、そうも言ってはいられませんが(笑)).

子育ては毎日が迷いとため息とあきらめと、
感動と涙と笑いと・・・本当に疲れます。
(ちょっと吉本っぽくて、笑える文です。)

マガジンのお陰で、新しいエネルギーが補充されるようです。

はやいもので、マガジンを読み始めて、もうすぐ一年が終わります。
私は、昔から春休みのこの時期が大好きです。
木々も草花も自分に微笑んでいる
ようにさえ見えてくるのです(かなりジコチューです)

また、新しい一週間が始まります。

これからもよろしくお願いします。

       H市 Y(母親)より
  
++++++++++++++++++++

 毎日、読者の方から、平均して、20〜30通のメールをいただきます。できるだけ返事を書く
ようにしていますが、このところ忙しくて、それもままならなくなってきました。ときどき、数日おき
に、「返事はどうなっているのか?」と催促してくる人もいますが、一両日内に返事がないばあ
いには、私からの返事はないものと思って、どうかあきらめてください。

 当方の事情もご理解の上、こうした勝手を、どうかお許しください。

 当然のことながら、相談内容は、子育てに関することでお願いします。またご住所、お名前の
ない方からのメールは、原則として、そのまま削除させていただいています。そのため返事を
書くということは、絶対にありえません。

 また、お名前、ご住所を書いていただいたからといって、必ずしも、返事を約束するものでは
ありません。どうか、誤解のないように、お願いします。

 何か、テーマをいただけるようでしたら、どうか掲示板のほうに、お書き込みくださればうれし
く思います。たとえば「自閉症について書いてほしい」などと、書き込んでくだされば、時間をみ
つけて、それについて考えてみるようにします。

++++++++++++++++++++

【Yさんへ】

 欧米では、「子育て」は、義務ではなく、権利であるという考え方をします。ですから、たとえ
ば、だれかに子育てをじゃまされたりすると、「私の権利を奪うな」などと言ったりします。父親
が残業を命じられたようなときも、そうです。

 欧米では、伝統的に、「家族と楽しいときをすごすために、収入を得る」という考え方をするよ
うですね。家族が「主」で、仕事が、「副」という考え方です。

 一方、日本では、仕事は、いつも出世の道具でしかありませんでした。だから少し前まで、
「仕事のためなら、家族は犠牲になって当然」というような考え方をしていました。仕事が「主」
で、家族が、「副」というわけでした。

 今、この考え方が、大きく変わりつつあります。いろいろな調査結果をみても、日本人も、「家
族が大切」という考え方になりつつあるようです。

 実際、子育ても終わりに近づくと、後悔することばかり。「もっと、息子たちのそばにいてやれ
ばよかった」とか、「どうしてあのとき、もっと息子の立場になって考えてやることができなかった
のか」とかなど。

 一方、家族との楽しかった思い出だけが、心の支えとなっていることに気づきます。

 ですから、Yさんの判断は、正しかったと思います。子どもたちもそれを求めていたのでしょう
ね。お雛様を飾ってあげることで、心が暖かくなったはずです。が、それだけではありません。
いつか、あなたの子どもたちも、やさしいパパとママになり、幸福な家庭を築くことができるよう
になります。

 子育てというのは、そういうものですね。

 子どもに子どもの育て方を教えていくのが、子育てというわけです。メール、ありがとうござい
ました。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(118)

●モノにこだわる子ども 

 私が浜松市に住むようになったころのこと。講師をしていた進学塾の塾長に、ある中学生の
家庭教師を頼まれた。

 相手は、中学2年生の男子だった。

 たいへん頭のよい子どもだったが、どこか、心がつかめなかった。たとえばこちらが、Aのつ
もりで話をしていても、それを、Bとか、Cとかに、ねじまげてしまうようなところがあった。

 彼の名前を、A君としておく。

 そのA君は、中学へ入学するころから、時計を集め始めた。それ以前からも、時計には興味
があったらしい。A君の父親は、市内の大通りで、時計店を営んでいた。

 A君と対峙してすわるたびに、彼は、自分の時計を誇らしげに、私に見せた。当時でも、珍し
い、ドイツやスイスの時計を、A君はもっていた。数にすれば、40〜50個はもっていたのでは
なかったか。

 A君は、集めた時計を一度、綿でくるんだあと、箱にしまい、そしてそれを、金庫の中にしまっ
た。大切にしたいという思いから、そうしたのだろう。が、そのあと、彼は、母親や姉、妹に、金
庫の前を歩かせなかった。金庫の置いてある部屋の掃除も、させなかった。「その振動で、時
計の動きが、おかしくなる」と。

 しかしどういうわけか、A君は、私にだけは、時計を、自由に、いじらせてくれた。もっとも、こ
のことはずっとあとになって、母親から聞いたことである。「A雄は、林先生にだけは、気を許し
ていたみたいです」と。

 が、A君の奇行は、ますますはげしくなった。手に入れたいと思う時計があると、その時計を、
父親の経営する店から盗んできて、それを、一日中、特殊な液剤をつけて、みがいていた。

 が、そんなある日、事件が起きた。

 それを知った父親が、つまり家族にさえ、金庫の置いてある部屋を掃除させないということを
知った父親が、その金庫ごと、庭へ放り投げてしまったのである。

 そのときA君が、どういう反応を示したかは、私は知らない。しかしその数日後、A君に会って
みると、A君の様子は、一変していた。ヌボーッとした表情のまま、それでいて、顔は上気し、せ
かせかと落ち着きがなくなってしまっていた。目つきだけが、異様にギョロギョロしていたのが、
心に残った。

 明らかにA君は、もうふつうの子どもではなくなっていた。

 で、そのあとしばらくして、A君は、精神科の医院へ通院するようになり、さらにそのあと、部
屋の中に閉じこもるようになってしまった。私は何度も家庭教師をやめたいと申しでたが、母親
がときには、涙まじりに、「やめないでほしい」と、私に頼んだ。

 私だけが、A君の話し相手になっていた。

●今から思うと……

 そのとき私はまだ23歳。

 何がなんだかわからない状態で、A君の家庭教師をしていた。それにどんな心の問題があっ
たにせよ、私は、A君が嫌いではなかった。今でも、そのときA君がくれたオメガの時計を、一
つ、もっている。

 私が母親を通してその時計を返そうとしたことがある。しかし母親が、「A雄があげると言った
のですから、もっていてください」と言って、受け取ってくれなかった。「それはA雄が、一番大切
にしていた時計ですから……」と。

 ただここで言えることは、A君にどんな問題があったにせよ、金庫を放り投げた父親の行為
は、適切ではなかったということ。当時の父親の気持ちがわからないわけではないが、そういう
行為は、あまりにも無謀である。

 とくにこうした収集癖のある子どものばあい、(多かれ少なかれ、そうした収集癖は、だれにで
もあるものだが……)、それを強引にやめさせようとするのは、危険な行為と考えてよい。自分
の心を防衛するために、つまりは代償行為として、子どもが、モノにこだわるケースは、少なく
ないからである。

 わかりやすく言えば、子どもはモノに執着することによって、不安や心配から、自分を回避さ
せようとする。心理学の世界でも、これを「防衛機制」という。だからその子どもが大切にしてい
るものというのは、いわば心の聖域と覚えておくとよい。それがカードであれ、ゲームであれ、
何でも、である。

 たとえば自閉症やアスペルガー障害の子どもは、よく、ある特定のモノに、異常なまでにこだ
わることがある。これを、「固執行動」というが、こうした固執行動は、病気にたとえるなら、あく
までも「熱」。

風邪をひいて熱を出して苦しんでいる子どもに、水をかけてなおすようなことはしない。同じよう
に、モノにこだわる子どもから、そのモノを取りあげたところで、自閉症やアスペルガー障害
が、なおるわけではない。かえって症状は、ひどくなる。

 子どもが何か、ある特定のモノにこだわる様子を見せたら、親は、「なぜそうなのか?」という
視点で、子どもの心の奥底を見なければならない。

●Z君のケース

 もう一人、印象に残っている少年にZ君(高校生)がいた。彼は高校へ進学すると同時に、不
登校を繰りかえすようになり、やがて中退してしまったが、そのZ君は、レコードにこだわってい
た。

 もっている枚数もすごかったが、それらのレコードが、1ミリの狂いもなく、棚に並べられてい
た。母親の話によると、家族のだれかが、ほんの少しさわっただけでも、Z君には、それがわか
ったそうだ。「だから、部屋の掃除なんて、とてもできません」と。

 Z君も、今でいう、広汎性発達障害の一つだったかもしれない。こんな事件があった。

 Z君には、5歳年下の弟がいた。その弟が、その中の一枚のレコードを勝手に持ち出し、友
人に与えてしまったことがあったという。

 Z君は、すぐその異変に気づいた。で、ふつうなら(「ふつう」という言葉は適切ではないかもし
れないが……)、Z君は、弟を叱り、レコードを取りかえせばよかった。しかしZ君には、それが
できなかった。オドオドしながら、「レコードがない」と、何度も、母親にそれを訴えた。

 が、ここでZ君に、もう一つ、悲劇が重なった。

 母親が、こうした心の病気に、あまりにも無知だったということ。今から25年ほど前のことだ
から、しかたないと言えばそれまでだが、母親は、いつもZ君を叱りつづけた。「レコードの一枚
くらい、どうしたの!」「バカ言わないでよ!」と。

 そのためZ君は、ますます萎縮した。そしてそれがきっかけで、つぎの事件が起きた。

 ときどきZ君は、わざとみなの前でころんだり、倒れてみせるようになった。それを見たことが
ある人は、こう言った。「体を棒のように、まっすぐにしたままの状態で、地面にバタンと倒れま
した」と。

 自傷行為である。精神的に追いつめられた人が、よく見せる行為である。が、この段階でも、
母親は、Z君を叱りつづけた。「バカなことを、しないで!」と。

 本来なら母親はZ君を病院へ連れていかねばならなかった。しかし「世間体が悪い」という理
由だけで、それをしなかった。当時はまだ、(今でも、そういう風潮はどこかに残っているが)、
家族の一員が、精神科の医院に通院するというのは、「恥ずかしいこと」「隠すべきこと」と考え
る人が多かった。

 Z君の母親は、その世間体を、人一倍、気にする人だった。

●その後……

 A君にせよ、Z君にせよ、それから30年近い年月が過ぎた。で、その結果だが、A君は、その
後、いろいろあったようだが、立ちなおることができた。この原稿を書く前、消息をたずねると、
現在は、コンピュータのソフト会社を経営しているという。

 しかしZ君は、そのまま症状が悪化してしまい、いまだに母親とともに、ふつうでない生活をし
ているという。Z君の妹氏から聞いたところによると、Z君は、そのあと放火事件を起こし、近所
でも大騒動になったことがあるという。

 幸い火事は、隣のコンクリートを黒くこがした程度ですみ、また警察も、たき火の不始末と処
理してくれたため、大事にはならなかったという。ただ残念なのは、そういう状態になりながら
も、母親は、Z君を叱りつづけたということ。

 私の印象では、母親自身にも、Z君に対して、何か、大きなわだかまりがあったように思う。
たとえば望まない結婚で、望まない子どもであったとか、など。よくわからないが、少なくとも、Z
君は、母親の愛情に恵まれてはいなかった。

 で、こうした二つのケースを見たとき、その分かれ道は、どこにあるかといえば、結局は、「愛
情」の問題に行きつく。

 母親の豊かな愛情に包まれたA君。一方、母親の冷淡、無視、拒否的態度の中で育てられ
たZ君。

 この二例だけではないが、親の愛情のあるなしが、その後の子どものあり方に、大きな影響
を与えるのは事実である。仮にA君の母親が、Z君の母親のようであったなら、A君は、Z君の
ようになっていただろう。そして仮にZ君の母親が、A君の母親のようであったなら、Z君は、A
君のようになっていただろう。

 そういう意味で、親の愛情、とくに母親の愛情には、特別の力がある。魔法の力といってもよ
い。

 「モノにこだわる子ども」というテーマで書いていたら、いつの間にか、母親の愛情の話になっ
てしまった。しかし決して、関連性がないわけではない。

 もしあなたの子どもが、何か、モノに異常なまでにこだわる様子を見せたら、あなた自身の子
どもへの愛情がどうなのか、ほんの少しだけ、心の中をのぞいてみるとよい。そのときあなた
が心の中に、何か温もりを感ずればよし。その温もりがあれば、その温もりが、いつかやがて
あなたの子どもの心を溶かす。
(040316)(はやし浩司 固執行動 広汎性発達障害 モノにこだわる子ども 物にこだわる
子ども ものにこだわる子供 物にこだわる子供 こだわり)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(119)

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【近況・あれこれ】

●K首相のY神社参詣問題

 すこしきわどい話。いつもこのテーマについて書くときは、心のどこかにツンとした、緊張感を
覚える。しかし……。

 中国も韓国も、カンカン。「だまっているからといって、いい気になるな」(韓国N大統領・04・0
3)。「絶対に無視しない」(中国政府・全人代会議のあとで・04・3))と。

 しかし当の日本のK首相は、「Y神社をこれからも、参詣する」(3・15)と。

 あのね、日本は、侵略戦争をし、300万人もの、韓国人や中国人、それに多くの外国人を殺
しているの! いくら正当化しようとしても、あの侵略戦争は、正当化できないの! もしあの戦
争が正しかったとするなら、同じことを、今度、日本が、韓国(北朝鮮でもよい)や中国にされて
も、日本人は、文句を言わないこと!

 韓国の文化を押しつけられ、日本語が廃止になっても、文句は、言わないこと! どうして、
日本よ、日本人よ、そんな簡単なことがわからないの!

 もしドイツのシュレーダー首相が、ヒットラーの墓参りをしたら、どうなる。K首相が、Y神社を
参詣するということは、それに等しい。少なくとも、韓国や中国の人は、そう見ている!

 それまでの朝鮮半島は、本当に平和な国だった。が、そこへある日、突然、強力な、日本の
軍隊がやってきた。命令とあればどんなことでもする、ロボットのような軍隊だ。そしてその国
を、日本は植民地にした。

三人集まって韓国語を話せば、容赦なく投獄、処刑された。神社への参詣を強制され、日本の
文化を押しつけられた。

 いろいろな植民地があるが、ほかの欧米各国は、そこまではしなかった……というようなこと
まで、日本は、してしまった。それを意図的に知らされていないのは、実は、この日本人だけ。
韓国や中国が、ことあるごとに、「歴史認識問題」をとりあげる理由は、そこにある。

 もちろん私たち日本人が、「悪」というのではない。私たち日本人だって、その犠牲者なのだ。

 明治以後、もの言わぬ(考えぬ)従順な民作りが、日本の国策となっていた。そして世界に名
だたる官僚政治。先のあの戦争は、軍部という、一部の官僚たちによって画策され、実行され
た戦争だった。

 が、戦後、その官僚政治は、そのまま温存された。たとえばあの軍国主義を最先頭に立って
推し進めたのは、旧文部省だった。しかしその旧文部省の役人で、戦前から戦後にかけて、ク
ビになった役人は、一人もいない。責任を問われた役人も、一人もいない。

 その流れの中に、日本の教科書の検定問題がある。

 事実、私はUNESCOの交換学生として、1968年に韓国に渡るまで、日本がした悪行の
数々の、どれ一つも教えられていなかった! 彼らがもつ反日感情には、ものすごいものがあ
ったが、それは被害妄想というものではなかった。事実として、日本は、韓国や中国の人たち
に対して、してはならないことをしてしまった。

で、私はこう思った。「日本の教科書は、ウソは書いてない。しかしすべてを書いていない」と。

 私の父は。死ぬまで、天皇を崇拝していた。「天皇」と呼び捨てにしただけで、私は、父に殴ら
れた。「陛下と言え!」と。

しかしその一方で、台湾の戦地で受けた貫通銃創(左腹下から背中へ抜ける貫通銃創)で、同
じく死ぬまで、今でいうPTSD(心的外傷後ストレス障害(Post・Traumatic・Stress・Disorde
r)に苦しんだ。酒に溺れたのも、そのためではないかと思う。

 みなさん、もう少し、現実をしっかりみよう。そして考えよう。日本のK首相が、何をしようとそ
れは日本の勝手という論理は、日本を一歩離れたところでは、ぜったいに通用しない。「平和
だ」「平和だ」と叫ぶのは自由だが、相手の国の平和も保障して、はじめて平和なのである。

 自分たちは戦争をしたい放題のことをしておいて、今になって、「日本は、平和を守っていま
す」などいう詭弁(きべん)は、許されないのである。

 かなり過激なことを書いてしまったが、ともすれば、右傾化しつつある日本の方向に、小さな
クサビになればうれしい。私とて、いつもいつも、こういうふうに考えているわけではない。内心
では、もう戦後60年もたったのだから、もう少し、韓国の人も、中国の人も、心を開いてくれて
もよいのではないかと、そういうふうに思っている。私自身も、戦後の昭和22年生まれの団塊
の世代である。

 だからその私に、「戦争の責任をとれ」と言われても、本当のところ、困る。

 しかし相手の人が、なぜ、こうまで怒っているのか、日本人も、もう少し、謙虚に自分たちを反
省すべきではないのか。なぜなら、迷惑をかけたのは、ほかならぬ、私たち自身だからであ
る。

【追記】

 こう書くからといって、私は何も、天皇制に反対しているのではない。それはみんなが決めれ
ばよいこと。私はもともと、浮動票層に属するような人間だから、どこかいいかげん。しかし、数
か月前、こんなことを思った。

 あのK国の金XXが、列車で地方都市を訪れたときのこと。列車の中にいる金XXに向かっ
て、群集が、泣きながら、手を振っていた。どこかの民放が、そのときの模様を、テレビで報道
していた。

 で、ほぼ同じころ。たまたま天皇が、この浜松市にやってきた。国体の開会式に出るためで
ある。そのとき、この地域の人たちは、宿泊先になっているホテルの周辺で、提灯(ちょうちん)
行列を繰りかえした。

 私は、たいへん不謹慎なことかもしれないが、ふと、本当に、ふとだが、「K国の人たちも、そ
して私たち日本人も、同じようなことをしている」と思ってしまった。

 もちろん日本人は、「天皇陛下と、金XXとはちがう」と言うだろう。しかしK国の人たちも、反
対の立場で、同じようなことを言っているにちがいない。

 で、ここまで考えると、この先は、二つの考え方に分かれる。ひとつは、「だから、日本人も、
K国の人も、それぞれのトップの人を大切にしましょう」という考え方。もう一つは、「だから、と
もに、くだらないことをやめましょう」という考え方。

 どちらをとるかは、それぞれの人の勝手だが、これだけはわかってほしい。

 つまりどちらであるにせよ、たがいの考え方が、たがいの考え方として、尊重すべきであると
いうこと。批判するのは自由だが、しかし相手を否定したり、暴力や権力で、押し殺してはいけ
ない。

 それが民主主義の大原則である。その民主主義は、言論の自由があってはじめて成り立
つ。みながみな、正論をぶつけていけば、やがてその正論は、一つになる。心も、方向性も、
一つになる。言論の自由は、そのための手段である。

 またこういうことを書くと、「日本には、言論の自由があるが、K国には、ない。だから同一レ
ベルでは、考えられない」と言う人もいる。しかし本当に、そうだろうか。

 戦前の日本では、こういう公(おおやけ)の場で、「天皇」と呼び捨てにしただけで、不敬罪で
逮捕、投獄された。ヤミからヤミへと消された人も、数知れない。そういうことも、忘れてはなら
ない。

 さらに、こういう意見を書くと、必ずといってよいほど、抗議のメールが届く。抗議ならまだよい
が、ときどき、脅迫めいたメールが届く。気持ちはわからないでもないが、どうか、そういうこと
だけは、やめてほしい。私には、そういう脅迫は、意味がない。


●コース
 
 私が、金沢で学生だったころ、一人の学生が、一年間休学して、北海道へでかけていった。
何でも、牧場で一年間働いてみるとのことだった。

 私は、その話を聞いたときの新鮮な衝撃を、今でも忘れない。「エーツ!」と言っただけで、つ
ぎの言葉が出てこなかった。つまり当時の私には、その学生のそういう行為が、それほどまで
に信じられなかった。

 私たちには、私たちの「意識」がある。しかしその意識は、絶対的なものではない。普遍的な
ものでもない。そういった意識は、その人が住む環境の中で、日々につくられていくものであ
る。

 いくら「私は私」と思っても、「私」である部分は、意外と少ない。

 で、それから35年。今から思うと、あのときなぜ、私がああまで衝撃を受けたのかわからな
い。が、当時の私たちには、コースというものがあって、そのコースからはずれるというのは、
恐怖以外の何ものでもなかった。

 小学から中学、中学から高校、そして大学。就職。大学浪人という言葉もあったが、浪人する
こと自体に、敗北感がただよった。留年、落第となると、さらに敗北感がただよった。たとえば
一人の仲のよかった友人(文科)が、留年するハメになったことがある。I君という学生だった。
そのときのこと。

 いっしょに犀川(金沢市内を流れる川)のほとりまでついていくと、その友人は、声をふるわせ
て泣き始めた。つまりそれくらい、留年というのは、私たちの時代では、考えられなかった。

 そういう時代に、わざと留年して、北海道へ行く……。私は、今の若い人たちには、想像もつ
かないほど、強い衝撃を受けた。

 が、こうした衝撃がなくなったわけではない。

 私の三男が大学に入学したときのこと。私は三男にこう言った。「何も、まじめに卒業するだ
けが人生ではない。一年ぐらい、留年してもかまわないから、世界中を旅して歩いてみろ」と。

 そのとき三男は、私の言葉に本当に驚いてみせた。「そんなこと、考えられない」といったふう
だった。

 しかしそれから4年。今、三男は、大学へ休学届けを出して、オーストラリアへ渡った。そして
05年からは、M航空大学へ進むことになっている。今度は、「パイロットになる」と言いだした。

 そういう三男だが、そこまでの「自由意識」をもつまでに、かなり苦労をしたようだ。言いかえ
ると、いろいろなことがあって、ここまでたくましくなった。そう、この日本では、コースに沿って流
れていくのは、とても簡単なこと。しかしそのコースにさからって生きていくのは、たいへん。苦
労も、多い。しかし「生きる」ということには、もともとコースなど、ない。

 たとえて言うなら、未開の荒野を旅するようなもの。もちろんバスに乗って旅をするという方法
もある。しかしそんな旅に、どんな意味があるというのか。つまり、人生もそれに似ている。

 が、日本人には、まだそのコース意識が、しみついている。三男が、いろいろ悩んだというの
は、その意識があったからにほかならない。

 人は、「自由」という言葉を、簡単に使う。しかしその本当の意味を知っている人は少ない。だ
から私は、三男にこう言った。駅まで、三男を送っていったときのこと。「いいか、オーストラリア
へ行ったら、フランス革命からつづいている、本物の自由をみてこい」と。

 幸福は一つかもしれないが、その幸福にたどりつく道は、決してひとつではない。そしてどう
せ一度しかない人生だったら、思う存分、自分の人生を生きる。私は、三男には、そういう人生
を生きてほしい。

 平凡な人生など、クソ食らえ!、だ。

【追記】

 たいていの親は、自分の子どもが不登校児になったりすると、その初期の段階で、混乱状態
になる。狂乱状態になる親もいる。

 なぜそうなるかといえば、親自身の中に、コース意識があるからだ。親にしても、自分の子ど
もがコースからはずれていくというのは、まさに恐怖以外の何ものでもない。だからあわてる。

 しかしそういった意識も、結局は、作られたもの。あのマーク・トウェインはこう言っている。
『みなと同じことをしていると感じたら、そのときは、自分が変わるべきとき』(「トムソーヤの冒
険」)と。そういう意識を、「自由意識」という。

 ところで、オーストラリアのアデレードに住む友人が、三男を、未開の原野へ連れていってく
れるという。オーストラリアでは、「アウトバック」と呼ばれている地域である。

 そのアウトバックを、トヨタのランドクーザーで、走り回る。それは、実に爽快なことらしい。私
には経験がないが、もちろん日本では、まねをすることができない。多分、三男のことだから、
大きな衝撃を受けることだろう。

 それから友人のいとこが、グライダー教室の教官をしているという。どうやらそのグライダー
の操縦もさせてくれるらしい。

 今日(3・16)の午後、その三男から、電話が入った。「無事、アデレードに着いた」と。それに
答えて、私は、思わずこう言ってしまった。「楽しんでこい」と。本当は、「しっかりと勉強してこ
い」と言うべきだったが……。


●不景気

 日本は、ただ今、大恐慌のまっただ中!

 新しいタイプの大恐慌というべきか。火事にたとえて言うなら、火のない大煙に巻かれている
ようなもの。みんな、青息吐息。本当に、青息吐息。

 友人は、岐阜県のO町で、不動産取引業を営んでいる。その友人と、今日、電話で話しあう。
人口が4万人前後の町だが、不動産取引業を営んでいるのは、二軒しかない。が、それでも、
「取り引きがなくて、仕事にならない」と。

 「近くに、土地区画整理で売りに出されているところがあるが、坪15万円。高すぎるよ。そん
な土地、売れるわけがないよ。10万円でも、むずかしいよ」と。

 10年前には、そのあたりの土地でも、坪20〜25万円と言っていた。バブル経済のころは、
「どうしようもない荒地」(友人)ですら、坪30万円以上。それが今では、造成した宅地ですら、
10万円以下!

 ある経済学者に言わせると、こういう時代は、現金をもっている人が、有利とか。土地などの
値段がさがった分だけ、現金の価値があがるというわけである。「なるほど」とは思うが、だか
らといって、土地を買ってもしかたない。いや、その前に、現金そのものが、ない。

 さらに昨日あたりのニュース(中日新聞)によると、ほとんどの人は今、貯金を取り崩しなが
ら、生活しているという。しかしその貯金も、底をつき始めたという。青息吐息の状態を通り越し
て、いよいよ息切れの状態というわけである。

 どこか他人ごとのように書いているが、本当のところは、私のことかもしれない。しかし私のこ
ととも書けない。こうした問題は、きわめてプライベートな問題である。いくらマガジンでも、そこ
まで書けない。

 こうして日本も、少しずつだが、アジアの国の中でも、ごくふつうの国になっていく。「ふつうで
ある」ことが悪いというのではない。しかしそのとき、日本人が、頭の切りかえができるかどうか
ということ。

 ほとんどの子どもたちは、自分たちは、アジア人ではないと思っている。「ぼくらはアジア人と
はちがう」と言う。そこである外国人(アフリカ人)が、「君たちの肌は、黄色いだろ」と言うと、そ
の小学生は、こう叫んだ。「ぼくらは、黄色ではない。肌色だ!」(某テレビ討論会)と。

 こうしたオメデタサは、だれしももっている。つまりこのアジアの中で、ふつうの国になるとして
も、そこに至るまでに、日本人は、多くの心の葛藤(かっとう)をしなければならない。

 少し前まで、「2015年ごろ、アジアにおいて、日本と中国の経済的立場は、入れかわる」と、
多くの経済学者が、予想していた。しかしそれが今では、「2010年」になった。つまり5年、早
まったことになる。

 事実、東証に上場している外資系企業は、もう数えるほどしかない。一時は、130社近くあっ
たが、今では、30社もない。「仕事にならない」「翻訳料が高い」「財務省のハードルが高すぎ
る」などが、理由のようだ。

 そのかわり、すでにアジアの経済拠点は、シンガポールに移ってしまっている。アメリカなどで
は、日本の経済ニュースすら、シンガポール経由で入ってきている。

 こういう状態を一方で放置しておきながら、国内だけで、景気拡大をもくろんでも、うまくいくは
ずがない。たとえて言うなら、波の状態をみないで、船の中だけで、船の揺れと戦っているよう
なもの。これでは、失敗は、目に見えている。現状維持が、よいところ。

 私たちは、今、意識の乗りかえを迫られている。先進国から、ふつうの国へ。経済大国から、
ふつうの国へ。欧米人意識から、アジア人意識へ。少なくとも、これからは、札束を見せびらか
して、相手の顔をひっぱたくような外交政策は通用しない。

 『平成』という時代は、やがて総括されるときがくるだろうが、「まさに日本が、ほかの国と、平
らに成った時代」と位置づけられるだろう。

 何とも歯がゆい感じもするが、かといって、私たち庶民には、どうすることもできない。国の経
済どころか、自分たちの家計ですら、あぶない。だから私たちができることと言えば、せいぜ
い、その覚悟だけはしておくということ。

 岐阜県のO町に住む友人は、こう言った。「今なら、土地は買いどきだよ。お金があるなら、
買っておきな。このあたりでも、自己破産する人が、結構いてね……」と。それを聞いて、ふと、
「老後は、O町で過ごそうか」と考えたが、やめた。O町に住んだところで、仕事がない。つまり
私も自己破産するハメに。

ところで、竹中平蔵経済財政担当相は15日、3月の月例経済報告を関係閣僚会議に提出し、
その中で、景気の基調について、つぎのように述べている。「設備投資と輸出に支えられ、着
実な回復を続けている」と。

 つまり景気はよくなってきている、と。信じたいが、どう信ずればよいのか。こうした効果が、
地方都市にまで回ってくるのは、来年か、さ来年か。全国のみなさん、がんばりましょう! が
んばるしかないのです!


●オーストラリアでの初日

 三男が無事、アデレードに着いた。友人が、空港まで出迎えてくれた。携帯電話で、その連
絡が入った。そしてその夜、友人から、メールが届いた。

++++++++++++++++++++

Hi Hiroshi,

Gave Eiichi the grand tour of Adelaide while I did some shopping. He seemed to enjoy 
himself. He started to get tired towards evening.

Have got him settled in at his home stay place.

May will bring him down to stay with this next weekend. She is doing some training in 
Emergency medicine at Flinders Medical Centre (Next to Flinders Uni), during this week.

Eiichi should have no worries doing his English study. I found his spoken English better than 
I had expected. We communicated quite well. He was even able to navigate and direct me 
to his home stay house using the Adelaide Street Directory.

My Mobile Phone Number is +61 417 xxxxxxx

Cheers,

PS : Eiichi has tried today traditional Aussie fish & chips and also a traditional meat
pie. He said he enjoyed both. I hope he wasn't being a very polite boy like his father. :)


E(息子)をアデレードの町を案内した。ぼくは買い物をした。彼は楽しんだみたいだ。夕方にな
って疲れているように見えたので、ホムステイ先へ連れて行った。

ワイフが、週末にE(息子)を我が家に連れてくるつもり。ワイフは、今週は、フリンダーズ大学
の医療センターで、救急医療の訓練を指導している。(E(息子)のカレッジの隣)

E(息子)は、勉強をするのに、何も問題はない。彼の会話英語は、思っていたよりよい。うまく
会話できた。彼はアデレードの地図を見ながら、ホームステイ先まで、ぼくを案内してくれた。

ぼくの携帯の電話番号はxxxxだ。

E(息子)は伝統的な、オーストラリアのフィシュ&チップスと、ミートパイを食べた。両方とも、楽
しんだようだ。ぼくは、彼が、彼の父親のように、ぼくには礼儀正しくないことを願う。

++++++++++++++++++++
 
G'day, Mate!

It is a vague morning today and I feel very relaxed now.
It is a matter of strangeness to say that he is now 22
years old, the same age when I saw you for the first time
in IH. He is my third son and I am too, to my parents.
Just 34 years have flown away! You have a wonderful
families and now I have too, though we have lost some
very important people.

I just wonder how my son will recall these days when
he gets older or does he repeat the same life as ours?

I told him to come back when he can't drink water there
in Australia. This is a kind of Japanese expression which
means "you can't get used to new surroundings". Some 
people can enjoy overseas life, but some can't. I hope 
Eiichi can enjoy it. We will see how he does. 

Thank you for everything you have done to my son, and
please please tell your wife my best regards. I am sure
Eiichi will have wonderful days with you as I had with
you last time.

Thank you again.

Hiroshi
 
+++++++++++++++++++++

グッデイ、マイト

ぼんやりとした朝だ。気分はやわらいでいる。
彼が22歳だというのは、おかしな気分だ。
ぼくがはじめて、IHカレッジで君にあったときの年齢だ。
彼は三男で、ぼくも、その三男だった。
ちょうど34年が、過ぎたことになる。その間に君は
すばらしい家族をもった。ぼくももった。大切な人も
何人かなくしたけれどね。

いつか彼も、同じような人生を繰りかえし、
今の時代を思い出して、同じように思うのだろうか。

ぼくは彼に、「オーストラリアの水が飲めなければ、
日本へ帰ってくるように」と言った。つまりこれは
日本の言い方で、「新しい環境になれなければ、帰って
こい」という意味だよ。

外国生活を楽しむ人もいれば、そうでない人もいるからね。

息子にしてくれたことすべてに感謝するよ。くれぐれも
奥さんによろしく。E(息子)は、かつてぼくがそうであったように、
すばらしい日を送ると思う。

再び、ありがとう。

浩司

 
●子ども孝行

 石川県K市に住んでいるAさん(女性)のメールを読んで、考える。

 この世界では、一応「親が子どもを育てる」ということになっている。しかし実際には、「親のた
めに子どもが犠牲になる」というケースも、少なくない。

 Aさんは、結婚する前から、収入のない両親を、経済的に支えてきた。結婚してからも、自分
で働いて、そのお金を、両親に捧げてきた。「夫の給料から出してもらうのは、申しわけなくて
……」と。

 しかしやがて父親は、他界。残された母親を引き取ろうとしたが、母親がそれを拒んだ。「住
みなれた家を離れるのはいやだ」と。が、その母親が、このところ、とみに体が弱ってきた。そ
のため、ほぼ一日おきに、実家へ。車で30分ほどのところだという。
 
で、こういう生活が、もう10年近くもつづいている。

 Aさんの人生は、親に始まり、親で終わるような人生だった。……と、Aさんは、そう言う。「世
間の人は、私のことを、親孝行のいい娘だと言いますが、私はそんなふうには、思っていませ
ん。見るに見かねてというか、親だから放っておけないから、そうしているだけです」と。

 それだけ母親が、Aさんに感謝していれば、まだAさんも救われる。しかし実際には、いつも
喧嘩ばかりという。不平、不満を並べる母親。それに反論するAさん。「親の世話もたいへんで
す」「腰が痛いと言っては泣くのですが、もう治る年齢ではありませんし」と。

 「そういう施設へ預けたらどうですか?」と、私が返事を書くと、「母は、そういうところはいや
がりますので」と。かなりわがままな母親らしい。

 で、私は、ふと、こう考える。

 もしその母親に、Aさんのような娘がいなかったら、今ごろは、どうなっていただろうか、と。人
知れず餓死して、ミイラにでもなるのだろうか、と。実際に、そういう例も、ないわけではない。

 が、考えてみると、その母親がAさんに依存するようになったのは、Aさんがいたからではな
かったか、と。つまりAさんという存在が、母親の依存性を高めたともとれる。「世話がたいへ
ん」と、Aさんはこぼしているが、そういう状態をつくったのは、実は、Aさん自身ではないか、
と。

 こういう関係は、子どもの世界にも多い。子どもに一方で、依存性をもたせることをしておきな
がら、その依存性に悩む母親である。よい例が、過干渉であり、過保護であり、溺愛である。
子どもに対して、さんざん過干渉を繰りかえしておきながら、「どうしてうちの子は、ハキがない
のでしょう」と相談してくる親は、多い。

 Aさんは、結婚をする前から、実家に仕送りをしてきた。しかしそういう行為が、かえって、両
親の自立を妨げてしまった可能性がある。……「ない」とは言えない。

 英語の格言にも、『崖から飛び降りてから、飛び方を学べ』というのがある。人は追いつめら
れてはじめて、力を発揮する。ぬるま湯につかっていては、力は出てこない。つまり両親は、A
さんのそういう行為に甘えてしまった?

 日本人は、「親」という言葉に、どうしても幻想をもちやすい。子どものみならず、親自身も、で
ある。しかしその親も、50歳をすぎれば、ただの人。少なくとも、「子」と、それほど差があるわ
けではない。親をとおりこして、はるかにすばらしい人格者になる子となると、いくらでもいる。

 つまり親は、親であることに甘えてはいけない。親は親で、常に、自己鍛錬をしていく。前に
向って進んでいく。そして子どもは子どもで、親がそういうふうになっていくよう、親を仕向ける。
つまり子どもが親を、教育する。

 ほかにも、親の世話だけで、一生を終えたような人を、何人か知っている。本来なら、もっと
別の人生があったかもしれない。しかしその人は、その「親」にしばられて、何もできなかった。

 私はAさんのような方の話を聞くと、「私は、そうはなりたくない」と思う。「息子たちには息子た
ちの人生がある。そういう人生を、私という親が、奪うようなことだけは、したくない」と。

 私の印象では、世の人たちは、あまりにも安易に、「親孝行」という言葉を使いすぎると思う。
使うのはその人の勝手だが、かえってその言葉が、不必要に子どもを、しばってしまう。それだ
けならまだしも、親自身の自立を妨げてしまう。そういうこともある。

 Aさんは、「話を聞いてくださるだけで、結構です。返事はいりません」と書いてきた。だから返
事は書かなかった。が、一言。

 「結局は、許して、忘れる。その言葉を信じて、前に進んでいきましょう」と。
(040317)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(120)

●心の残像

 Mさん(38歳、女性)は、たいへん心おだやかな人だ。無口で、静か。強引なところは、まる
でない。

 しかし会話をしていると、どうも気分が暗くなる。

私「暖かくなりましたね」
M「明日から、雨で、また寒くなるそうです」
私「春は、いいですね」
M「私の子どもは、花粉症で苦しんでいます」

私「はやくなおればいいですね」
M「50歳をすぎるまで、なおらないそうです」
私「では、春は、あまり旅行などは、できませんね」
M「いえ、今年は、沖縄へ行ってきました」

私「よかったですか?」
M「どこも混雑していました」
私「物価はどうでしたか?」
M「観光客用のものは、みんな値段が高くて……」と。

 このMさんの会話の特徴に、みなさんは、お気づきだろうか。実は、Mさんは、私の言葉を、
ことごとく、否定している。まさに(ああ言えば、こう言う)式に、否定している。

 こういう否定のし方をされると、会話がつづかない。あるいはつづけていると、会話そのもの
が、暗くなってしまう。

 で、問題は、なぜ、Mさんが、こういう会話をするか、である。原因はいろいろ考えられるが、
ツッパリ症状の残像と考えてよい。もう少し専門的には、「拒否的態度の残像」ということにな
る。

 心の働きが変調してくると、子どもはさまざまな変化を見せる。とくに対人関係で変調してくる
と、ここでいう拒否的態度が現れてくる。

親「このゲームを片づけてよ!」
子「ウッセーなあ!」
親「ちゃんと、片づけてよ!」
子「ちゃんと、やるから、ワーワーわめくなよオ!」と。

 こうした拒否的態度は、そののち、おとなになることで、表面的には消える。しかしその残像
が、残ることがある。冒頭に書いた、Mさんが、そうである。

 で、Mさんに話を聞くと、こう教えてくれた。

 「高校を卒業すると、東京でしばらく働きました。趣味は、バイクでした。女性で、ナナハンと
か、自動二輪に乗っている人は、今でも珍しいと思います。みんなでグループを作って、あちこ
ちをドライブしました。夜中に、国道を200キロ近いスピードで走ったこともあります」と。

 Mさんは、かなり、飛んだ女性だったようだ。わかりやすく言えば、準暴走族的な、青春時代
を過ごした(?)。Mさんの行動からは、そうした様子がうかがえる。つまり、Mさんは、若いこ
ろ、かなり、そういう状態であった。

 もちろんMさん自身には、その意識はない。「私は、ふつうでした」「とくに、つっぱっていたと
いうことはない」と、言った。

 だからといって、Mさんが問題児だったと言っているのではない。しかしそのころ身についた
拒否的態度が、少し姿を変えて、母親になってからも出ていると考えられる。

私「お子さんも、沖縄へ行って、喜んだでしょう?」
M「それが、あんまり……」
私「また行きたいですか?」
M「私は、一度で、たくさんです」と。

 もっとも、こうした会話が、私という他人との間だけのものなら、問題はない。が、親子の間で
もそうだとすると、ときには、子どもの伸びる芽をつんでしまうことにもある。

 親の否定的態度は、子どもの心の発育に、マイナスのストロークをかけてしまう。

親「テストを見せなさい!」
子「がんばったよ」
親「何よ、この点数は! がんばったって、ウソでしょう!」
子「ちゃんと、一生懸命したよ」
親「どこが、一生懸命なのよ。こんな点数で!」と。

 若いころの心の変調が、おとなになっても残るということは、よくある。さて、あなたはだいじよ
うぶか? 

 しかし問題は、若いときに、そういう問題があったということではなく、その問題に気づかない
で、それを繰りかえすこと。ある夫婦は、いつも同じパターンで、夫婦喧嘩を繰りかえしている。

夫(妻が、勝手に電話を切ってしまったことについて)「どうして、電話を回さなかった?」
妻「あんたがいるとは思わなかったからよ」
夫「確かめればいいだろ」
妻「確かめたわよ」

夫「ウソをつくな!」
妻「ウソじゃないわよ」
夫「ミスをしたら、ミスをしたで、ごめんと言えば、それですむだろ!」
妻「すまないわよ。いつも、あんたは、怒るんだから!」

夫「もうこれ以上、オレに逆らうな!」
妻「逆らっていないわよ」
夫「逆らっている!」
妻「どこが、逆らっているのよ!」
夫「今、逆らっていないと言って、逆らっているじゃないか!」
妻「逆らっていないわよ」と。

 よくある、夫婦喧嘩のパターンである。で、こういうときは、こういう会話にすればよい。

夫(妻が、勝手に電話を切ってしまったことについて)「どうして、電話を回さなかった?」
妻「あら、ごめん。うっかりしていたわ」
夫「確かめればいいだろ」
妻「そうね、確かめればよかったわ……」

夫「そうだよ、ちゃんと確かめるべきだよ」
妻「そうね、ごめんなさい」
夫「まあ、いいけど。また電話がかかってくると思うよ」
妻「こちらから、かけなおそうか?」

夫「まあ、いいよ」
妻「大事な電話だったの?」
夫「わからないけど、久しぶりだったから」
妻「また電話する、って言ってたわ」
夫「じゃあ、待つか……」
妻「そうね」と。
(はやし浩司 心の残像 ひねくれ ヒネクレ症状 ヒネクレ)
(040317)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(121)

【みなさんからのメールに答えて……】

 毎日、たくさんの人から、メールをいただきます。ありがとうございます。このところ、何かと忙
しく、目を通すだけの状態がつづいています。どうか、お許しください。いただいたメールの中か
ら、テーマとして取りあげることができるものについて、ここで考えてみます。

●自宅で英語教室を開いている、Tさん(女性)から……
 
 Tさんは、「いくらがんばっても、何か、むなしい。子どもたちと、うまく人間関係ができない」と
悩んでいる。「いろいろな行事をして、子どもたちを楽しませても、それを理解してくれない」と
も。

 こうしたむなしさは、子どもを相手に教えているものが、共通して感ずるむなしさと言ってもよ
い。とくに私のばあいは、幼児が相手だから、そうなのかもしれない。しかしメリットがないわけ
ではない。

 「私」という人間をみたとき、私が私でいられるのは、幼児を相手にしたときだけ。あとの私
は、ゼーンブ、仮面。ウソ。インチキ。

 幼児とワイワイと騒いでいるときだけ、自分を取りもどすことができる。ハメをはずして、笑い
あう。そういうとき、「ああ、これが私なんだ」と思う。

 今日も、小1のクラスで、こんなことがあった。

 いつもふざけてばかりいる子ども(H君とI君)がいたので、プリプリと怒ってみせた。そしてこう
言った。

「先生の体の中には、大きな怒り虫がいる。とても大きな怒り虫だア! だれか、このハンマー
で、先生のお尻をたたいて、その怒り虫を外に出してくれエ!」と。

 ハンマーというのは、100円ショップで売っていた、おもちゃのハンマーである。いくら強くた
たいても、まったく痛くない。(音は、すごいが……。)

 するとみなが、「ぼくが出してあげる!」「私が出してあげる!」と。

 で、一番、力のありそうなK君に前に来てもらい、私のお尻をたたかせた。

そのとき、激痛で苦しむ顔をしてみせ、口からプイと、怒り虫が出たフリをしてみせる。とたん、
やさしい先生の顔になって、こう言ってやる。

 「K君、ありがとう。君のおかげで、怒り虫が外に出たよ」と。

 結局は、ふざけているのは、子どもたちではなく、私ということになる。

 しかしこういう(ふざけ)ができるのも、母親たちが、いつも参観しているから。つまり母親たち
の、暗黙の了解が、そこにある。もっとも、若いころは、ここまでは、できなかった。しかしこの
年齢になると、恥ずかしさも、どこかへ消える。どうせ母親たちも、私を、男と見ていない。

 机に両手をかけ、K君にこう言った。「いいか、怒り虫は、力いっぱいたたかないと、出てこな
い。しっかりたたいてくれ!」と。

 するとほかの子どもたちが、号令をかける。「イチ、ニーのサン!」と。

 そのあと、いろいろ作業をさせると、子どもたちはみな、うれしそうに、かつ楽しそうにしてくれ
る。

 で、私の経験で言えば、「教えてやろう」という気負いが強ければ強いほど、教える側も疲れ
るが、子どもたちもまた疲れるということ。コビを売ったり、機嫌をとったりすると、さらに疲れ
る。だからせめて子どもと接するときは、自然体で!

 学校の先生がこんなことをすれば、社会問題になる。新聞ザタになる。しかし私たちは、なら
ない。そこが私たちの仕事の、よいところ。すばらしいところ。

 昨日も、本気でとっくみあいの喧嘩をした子ども(小2男子どうし)がいたので、BW(私の教
室)のルールに従って、二人の子どもの頬に、キスをしようとした。(実際には、逃げてしまった
ので、しなかったが……。本当のところは、キスなどするつもりはなく、「するぞ!」「するぞ!」と
追いかけまわしただけ。)

 しかしこういうルール、つまり「喧嘩をしたら、頬にキスをする」だって、親の参観と、暗黙の了
解があるからはじめて、できること。学校の先生だったら、その一つで、クビが飛んでしまうだ
ろう。(女子にはしたことがない。念のため!)

 つまりは、信頼関係ということになるのか?

 Tさんの悩みには、何も答えていない感じだが、こうしたむなしさを回避するためには、やはり
親と教師の間の人間関係をつくるしかないと思う。Tさんは、幸い、女性だから、そういう関係を
つくりやすい。

 私は男だから、母親という「女の人」と関係をつくるといっても、そこには限界がある。教室の
外で、会って話をしたりするのは、タブー中のタブー。しかしTさんには、それができる。

 「私は先生」という気負いをはずして、友だちになったりして、自由に遊べばよい。それがま
た、Tさんの特権のような気がする。(私ができないので、よけいに強く、そう思う。)

 私もあるときから、こう思った。「子どもに教えてやろうという気持は捨てよう。そのかわり、い
っしょに楽しませてもらおう」と。

 とたん、肩の重荷が消えた。同時に、仕事が楽しくなった。そして親には、「私の教え方に、文
句があるなら、やめてください」と。もっとはっきり言えば、居直って、教えることにした。「それで
生徒がいなくなったら、そのときはそのとき。知ったことかア!」と。

 中には、マユをひそめてやめる人もいた。しかし今でもこうして、かろうじてだが、BW(私の
教室)があるのは、そういう教え方を理解してくれる親たちがいるからである。

 そう、『笑えば、子どもは伸びる』。これが私の教え方の基本である。子どもは、自ら楽しませ
て伸ばす。これも、私の基本である。とくに幼児のばあいは、笑わせて、笑わせて、伸ばす。
「勉強は楽しい」という思いだけを、徹底的に植えつけておく。あちは、子ども自身が、自分のも
つ力で、伸びてくれる。

 私もある時期まで、サマーキャンプをしたり、クリスマス会をしたりと、子どもたちにサービスを
することばかり考えていた。しかし今は、そういう行事を、すべて廃止した。入学式だろうが、卒
業式だろうが、そういうことにはいっさい、関わらないでいる。

 規約の中にも、そう謳(うた)っている。「BW(私の教室)は、そうした行事は、いっさいしませ
ん」と。要は、中身で勝負。めんどうなこと、わずらわしいことは省略して、中身で勝負!

 こうしたやり方が、Tさんの参考になるとは思わない。立場も、目的もちがう。しかしこの年齢
になると、ときどき、「今のような仕事は、あと何年できるだろうか」と思う。体力的にも、しんどく
なってきた。一日、3時間程度が、限度のような気もする。4時間も教えたら、ヘトヘトになって
しまう。

 だからときどきワイフには、こう言う。「やれるだけやってみよう。あと3年(三男が大学を卒業
するまでの3年)、がんばってみる」と。

 そうそう、この3月で、BWをやめる年長児の母親(Nさん※)が、電話で、こう言ってきた。
「下の弟(満1歳)が、大きくなったら、またお世話になりますから、そのときは、よろしく」と。

 私は、内心では、こう思った。「それまで、生きているかどうか、わからないのに。生きていれ
ば教えさせてもらいますよ」と。

もちろんそんなことは言わなかったが、私は、そう思った。価値がわかる人には、わかる。わか
らない人には、わからない。わからない人など、相手にしないこと。

 つまりそれくらいのプライドをもたないと、この仕事はできないということ。

(Tさんへ……)

 我らが目的は、成功することではない。失敗にめげず、前に進むこと、ですね。少し前に書い
た、原稿を送ります。私もこの言葉には、何度か、励まされました。苦しいとき、念仏のように
唱えてみてください。きっと、心が軽くなりますよ。

(※Nさんへ……)

 きついことを書いてしまいましたが、弟さんが大きくなったら、またBWへおいでください。私の
マガジンを読んでいらっしゃらないということでしたので、こうして書いてしまいました。もし、万
が一、この文が、目にとまったら、お許しください。さようなら!

+++++++++++++++++

 『私たちの目的は、成功ではない。失敗にめげず、前に進むことである』

 ロバート・L・スティーブンソン(Robert Louise Stevenson、1850−1894)というイギリスの
作家がいた。『ジキル博士とハイド氏』(1886)や、『宝島』(1883)を書いた作家である。もと
もと体の弱い人だったらしい。44歳のとき、南太平洋のサモア島でなくなっている。

そのスティーブンソンが、こんなことを書いている。『私たちの目的は、成功ではない。失敗に
めげず、前に進むことである』(語録)と。

 何の気なしに目についた一文だが、やがてドキッとするほど、私に大きな衝撃を与えた。「そ
うだ!」と。

 なぜ私たちが、日々の生活の中であくせくするかと言えば、「成功」を追い求めるからではな
いのか。しかし目的は、成功ではない。スティーブンソンは、「失敗にめげず、前に進むことで
ある」と。

そういう視点に立ってものごとを考えれば、ひょっとしたら、あらゆる問題が解決する? 落胆
したり、絶望したりすることもない? それはそれとして、この言葉は、子育ての場でも、すぐ応
用できる。

 『子育ての目的は、子どもをよい子にすることではない。日々に失敗しながら、それでもめげ
ず、前向きに、子どもを育てていくことである』と。

 受験勉強で苦しんでいる子どもには、こう言ってあげることもできる。

 『勉強の目的は、いい大学に入ることではない。日々に失敗しながらも、それにめげず、前に
進むことだ』と。

 この考え方は、まさに、「今を生きる」考え方に共通する。「今を懸命に生きよう。結果はあと
からついてくる」と。それがわかったとき、また一つ、私の心の穴が、ふさがれたような気がし
た。

 ところで余談だが、このスティーブンソンは、生涯において、実に自由奔放な生き方をしたの
がわかる。

17歳のときエディンバラ工科大学に入学するが、「合わない」という理由で、法科に転じ、25
歳のときに弁護士の資格を取得している。そのあと放浪の旅に出て、カルフォニアで知りあっ
た、11歳年上の女性(人妻)と、結婚する。スティーブンソンが、30歳のときである。小説『宝
島』は、その女性がつれてきた子ども、ロイドのために書いた小説である。そしてそのあと、ハ
ワイへ行き、晩年は、南太平洋のサモア島ですごす。

 こうした生き方を、100年以上も前の人がしたところが、すばらしい。スティーブンソンがすば
らしいというより、そういうことができた、イギリスという環境がすばらしい。ここにあげたスティー
ブンソンの名言は、こうした背景があったからこそ、生まれたのだろう。並みの環境では、生ま
れない。

 ほかに、スティーブンソンの語録を、いくつかあげてみる。

●結婚をしりごみする男は、戦場から逃亡する兵士と同じ。(「若い人たちのために」)
●最上の男は独身者の中にいるが、最上の女は、既婚者の中にいる。(同)
●船人は帰ってきた。海から帰ってきた。そして狩人は帰ってきた。山から帰ってきた。(辞世
の言葉)

+++++++++++++++++++++

●山荘にて
 
 先週の週末には、いろいろあって、山荘へ行けなかった。だから今日(3月18日木曜日)、平
日だったが、朝早く起きて、山荘へ行ってきた。

 飲み水は、山荘からもってくることにしている。その飲み水がなくなった。

 で、朝、9時ごろ、山荘に到着。途中のコンビニで買った弁当(450円)を、二つに分けて、雑
炊にする。

 それを食べて、朝食は、おしまい。とたん、ものすごい眠気。ボンボンベッドの上で体を休め
ていると、ワイフが、「コタツに入ったら……」と。で、居間のほうへ。そこで1時間ほど、仮眠。

 それから風呂に入って、帰宅。その風呂の中で、今日、今年はじめてのウグイスの一声を聞
いた。コジュケイも鳴いた。静かだった。ちょうど雨あがりで、空が、洗われたように澄んでい
た。

 庭の草取りをして、キンカンを食べて、それに7分咲きのモクレンの花を写真にとった。庭の
隅(すみ)に、小さなきれいな花が咲いていた。その花を抜いてワイフのところにもっていくと、
「スミレよ」と。「スミに咲いているから、スミレか?」と、くだらないシャレを言う。

 数個、モクレンの花が咲いた枝を折って、ワイフに渡すと、「いいにおい……」と。「どれどれ
……」と、私もかいでみたが、何もにおわなかった。ワイフがもう一方の手にもっているコーヒー
のにおいのほうが、気になった。

私「何もにおわないよ」
ワ「におうわよ。かすかなにおいだけど」
私「コーヒーのにおいだよ、これは」
ワ「におうわよ。甘いスイカのにおい……」
私「ゲーツ、スイカのにおい?」と。

 私はスイカのにおいは、あまり好きではない。くだらないことだが、オーストラリアでは、スイカ
が一個、80円だという話を思い出していた。「E(三男)も、今ごろ、スイカを食べているかもし
れない」と。

 風呂を出てからは、急いで帰ってきた。午後からは、あれこれ仕事があった。


●「私は私」

 晩年のパブロ・ピカソは、幼児が描くような絵ばかり、描いていた。ピカソが、絵画の真髄をき
わめたとき、そういう絵を描き始めたというのは、たいへん興味深い。

 つまり絵画を追求していったら、そこに「それ」があった。つまりピカソは、自分の原点にたど
りつき、自分を取りもどした。それでああいう絵を描くようになった。……というのは、私の勝手
な解釈によるものだが、私は、今、強く、こう思う。

 私も幼児から高校三年生まで、過去30年以上教えてきたが、教育の本当のおもしろさは、
幼児教育にある、と。

 教えていて、私が私でいられるのは、幼児を相手にしたときだけ。幼児とワイワイと騒いでい
ると、そのままこちらの心まで、洗われてしまう。濁った心や、ゆがんだ心は、そのままその場
で、修正されてしまう。

 つまり教育が本当に教育らしい形を残しているのは、幼児教育である。……という意味で、そ
の心境は、晩年のピカソに近いのでは、と思う。

 教えていて一番つまらないのは、中学生。そのつぎが、高校生。そのつぎが、小学校の高学
年。これはよけいなことかもしれないが、受験がからんでくると、子どもの教育は、本当につま
らなくなる。

 が、私は、幼児を教えているときだけ、私でいられる。そのほかのときの私は、すべて、仮
面。このところ、つくづく、そう思うことが多くなった。

 ……と、否定的なことばかり書いていてもいけなので、私は、あえて提言したい。

 まず、幼児教育を確立する。その流れの先に、小学教育、中学教育を置く。そういう視点で、
現在の教育を、すべて見なおす。今の教育のように、どこかのエラーイ先生が、組み立てた教
育など、おもしろくもないし、役にもたたない。

 どこをどうするかは、各論になるので、別のところで書くが、しかし、教育を、上から下へ組み
立てていくのではなく、反対に、下から上へ組み立てていく。たとえば私は、年間44のテーマに
わけ、毎回、ちがった角度から、ちがった内容で、幼児を指導している。もちろんオリジナルの
カリキュラムである。

 ただ、誤解してもらっては困るのは、こうしたカリキュラムは、私が考えたものというよりは、
多くの母親たちが考えたもの。最初の10〜15年をかけて、私は、毎回、母親たちと相談しな
がら、今のカリキュラムをつくった。毎回レッスンが終わるたびに、「次回は何をテーマにしまし
ょう」「どの程度まで、教えましょう」と、話しあった。そこには、当然のことながら、無数の親たち
の知恵とアイデアが結集している。

 こうした44のテーマを基盤に、その上に、つまりそれを発展させた形で、小学教育や中学教
育を組み立てる方法も、あるということ。そういう意味で、「下から上へ組み立てていく」と、私
は、ここに書いた。

 多くの人は、幼児教育を、幼稚教育と誤解している。しかしこれはとんでもない誤解である。
不幸にして、そういう幼稚教育しか知らない人には、理解できないかもしれないが、幼児教育
は、奥が深い。ほかのどの年齢の教育よりも、深い。もちろん、その子どもに与える影響は、
決定的ですらある。私に言わせれば、そのあとの教育など、幼児教育の燃えカスのようなも
の。

 ピカソも、若いころは、かなりこった(?)絵を描いていた。写実的な絵も描いていた。しかし冒
頭にも書いたように、絵画の真髄を追求した結果として、ああいう絵を描くようになった。

 私は、そういう意味で、絵画と教育は、よく似ていると思う。


●先生を監禁

 どこかの高校で、校長が、先生を監禁するという事件が起きた。おおまかなストーリーは、こ
うだ。

 どこかの高校生たちが、修学旅行に出かけた。その旅行先でのこと。「カラオケを歌わせろ」
「歌わせない」で、一人の引率の教師と、生徒たちが口論になった。よくある事件である。

 で、その事件が原因で、「その教師と生徒たちとのトラブルを避けるために、校長が、その教
師を監禁した」(新聞報道)と。

 新聞報道だけを読むと、何とも、本末が転倒した事件ではないかと思う。生徒を監禁するな
ら、まだ話がわかる。しかし反対に、(正義感の強い教師?)を、校長が、監禁したという。

 恐らくこの事件の背景には、何かあるのだろう。こうした事件は、単純ではない。表面だけを
見て判断すると、まちがえる。しかし現実問題として、一部の進学高校は別として、最近の高校
は、どこも似たようなものだと思ってよい。このH市でも、「放課後の教室は、まるでラブホテル
のようだ」(ある教師)そうだ。

 「高校」とは名ばかり。……ということになるが、問題は、どうしてこうした子どもが生まれ、こう
した事件を起こすかということ。私が知るかぎり、幼児期の子どもたちは、ほとんどが純粋で、
美しい。それに恵まれた環境の中に育っている。

 そういう幼児が、中学生や高校生になると、様子が変ってくる?

 もちろんその兆候がないわけではない。早い子どもだと、小学一年生で、ツッパリ始める。し
かしこのときすでに、手遅れ。「なおす」のが、手遅れというのではない。本来なら、家庭のあり
方を猛省しなければならないが、それが期待できないということ。

 印象に残っている子どもに、U君(小1)がいた。彼は幼稚園を卒業するとき、代表で、答辞を
引き受けるほど、目だった子どもだった。が、小学一年生の夏ごろから、急に、ツッパリ始め
た。

 するどい目つき。投げやりな態度。乱暴な言葉など。

 そこでたまたま母親と会う機会があったので、そのことを母親に話すと、そのまま大騒動にな
ってしまった。父親がある宗教団体の熱心な信者で、私や母親の意見には、耳を貸そうとしな
かった。で、そのままその子どもは、私のもとを、離れた。父親は、どこか暴力団風の人だっ
た。

 で、その子どもは、高校へは入ったものの、暴走族に加わり、そのまま中退。このことから
も、その後の彼が、どのような小学時代、中学時代を送ったかは、容易に想像がつく。

 実際問題として、学ぶ姿勢のない子どもに、ものを教えることほど、たいへんなことはない。
すでにその段階で、学ぶ姿勢がないどころか、おとなたちに対して、不信感さえもっている。も
ちろん学力も、ない。

 「そういう高校生は、とっとと学校から追い出せ」という意見もあるが、彼らとて、このゆがんだ
社会が生み出した、犠牲者にすぎない。あるいは、追い出されたあと、どこへ行けばよいという
のか。

 私は、ドイツやイタリアのように、高校は、基本的には単位制度にして、午前中で授業を終え
ればよいと思う。そして午後は、クラブへ通えばよいと思う。「何もかも学校で……」という発想
そのものが、おかしい。

 この事件には、いろいろ考えさせられる。ただ、私は、幼児教育が主体だから、高校生のこと
は、よくわからない。またあまり考えたことがない。だからこの程度のコメントで、ここでは終わ
るが、何かしら、「?」と思う事件であることは事実。

 「先生も、たいへんだなあ」と思ってみたり、「修学旅行も考えなおさなければいけないなあ」と
思ってみたり……。本当に、いろいろ考えさせられた。

 
●レストラン

 仕事からの帰り道、いつも同じレストランの前を通る。

 65歳くらいの男性と、40歳くらいの女性が経営する、小さなレストランである。親子だろう
か。それとも夫婦だろうか。

 ちょうど空腹感が強いときなので、そのレストランが、いつも気になる。ときどき魚を焼いた香
ばしいにおいが、通りまで流れてくる。

 そのレストランができて、もう7、8年になる。たまたま開店の前日、その前を通り過ぎると、二
人が懸命に飾りつけをしていた。うれしそうだった。「ぼくたちの店だ」「やっと自分たちの店が
もてたのね」と、そんなことを言いあっているような雰囲気だった。

 が、このところ、そのレストラン、元気がない。いつ見ても、店の中は、ガランとしている。客は
いない。男性は、厨房に立ち、女性は、テーブルの一つに座って、ノートに何やら書いている。
おとといも、そうだったし、昨日も、そうだった。

 こういうレストランでは、一日、(イスの数)x(営業時間数)x(0・3)程度の客が入らないと、経
営は成りたたないという。具体的には、一日に、50食とか、100食ないと、成りたたないとい
う。

いつだったか、ある飲食チェーン店を経営している社長が、そう話してくれた。(この「0・3」とい
う数字は、それぞれの店の規模、性格で違うそうだ。)

 しかし50食というのも、たいへんである。5時間、営業をして、1時間当たり、10人! 一人
が、1500円程度の食事をするとして、あがりが、7〜8万円程度。利益が、3〜4万円。月に2
0日間営業して、60〜80万円程度。

 私が見たところ、1日に、5〜6人も、客がいないのでは……? 見ているだけでも、つらくな
る。こうした(客待ち商売)のきびしさは、私も、子どものときから、いやというほど、経験してい
る。

 問題がないわけではない。そのレストランには、たとえば駐車場がない。目立たない。それに
まわりの環境が、あまりよくない。道路も狭い。場所さえよければ、もっと客が入ってもよさそう
なレストランである。私も何度か、食事をしたことがあるが、その男性の腕前は、確かである。

 今夜も、そのレストランの前を通った。やはり客はいなかった。男性は厨房に立ち、女性は、
いつものテーブルに座っていた。

 人間というのはおかしなもので、いつもと同じように、同じことを考える。「親子だろうか。それ
とも夫婦だろうか」と。

 ちょうど春めき始めたころで、私は携帯電話で、ワイフに電話をした。「今夜のおかずは
何?」と。するとワイフは、こう言った。「イカ丼よ」と。「それなら、どこかで夕食を食べていくか
らいいよ」と言いかけたが、やめた。もうそのときには、レストランからは、あと戻りできないほ
ど、遠くまで来ていた。

 今度、どこかで外食することを考えたら、その店に行こう……と思いながら、自転車のペダル
を、深くこいだ。


●運動不足(?)

 このところ、また運動不足になってきた。体重計をみると、68キロ! ギョッ! またまた適
正体重を、2キロもオーバー。本当は64キロくらいが、一番、調子がよい。さっそく、ダイエット
開始。

 そのせいもあるが、どうも、このところ体が重い。自分でも、ノソノソしているのが、よくわか
る。運動は、きのうもサボってしまった。

 昨夜、ワイフが、こんなことを言った。歌手に、AMという女性がいる。私の年代の男なら、知
らない人はない。その女性が、ダイエットに成功したという。しかしこれはかなり前の話。

 で、ワイフが、昨日テレビで見たら、その女性が、再び、丸々と太っていたという。あきらかに
リバウンドしたらしい。

 「ダイエットといっても、ダイエットだけでは、ダメだよ。運動とペアにしなければ。そしてね、運
動といっても、その場だけの運動ではだめ。運動する習慣を身につけないと」と、私。

 かなりわかったようなことを言うから、恐ろしい。

すこし生意気な意見かもしれないが、私はこう思う。

運動することが重要ではない。いかにして、運動する習慣を身につけるかが、重要。ただ食事
の量を減らしたり、薬(?)をのんだりしても、ダメ。私のばあいは、少し食事の量を減らすと、
そのまま体重も減るので、それなりに効果はあるが……。

 また運動の習慣にしても、大切なことは、いかにしてそれを、生活のリズムの中に溶けこませ
るかということ。とってつけたような、つまり思いたってするような運動では、意味がない。5年と
か、10年とか、それくらいつづけて、はじめて効果が現れる。

 それにしても、このところ、体が重い。どうしてだろうか。コタツに入っても、すぐゴロリと横にな
る。ワイフに相談すると、「あなたは、春先は、いつもそうじゃなア〜い?」と。

 そう言えば、そうだ。どこかこのところ、花粉症ぽい。そのせいかもしれない。ようし、今日は、
自転車に乗るぞ! 春だ。春だ。人生の春だ! 負けるもんか!


●フィルタリング機能

 インターネット・エクスプローラー(IE)には、「フィルタリング機能」という便利な機能がついて
いる。みなさん、ご存知だろうか。

 たとえばしつこい相手から、何度もいたずらメールが届くようなとき、この機能を使えば、着信
と同時に、そのメールを削除。そしてそのままゴミ箱へ捨てることができる。

 方法は簡単。そのメールのところを、白黒反転させたあと、(メッセージ)→(送信者を禁止す
る)をクリックすればよい。あとはそれ以後、自動的に、その相手からのメールを、削除してくれ
る。

 私は、未承認広告、プロバイダーからのウィルス警告、不要なお知らせ、広告、宣伝などを、
この方法で、すべて削除している。もちろん不愉快な相手からのメールも。

 ここで重要なコツがある。

 IEで、送受信をすると、こうしたメールは、そのまま(削除済みアイテム)に送りこまれる。そし
てそのとき、削除されたメールがあることを示すために、文字が、太字に変化する。

 私は最初のころは、ここが太字になると、「だれからかな?」と思って、わざわざ見ていた。し
かし、そうした情報は、見ないこと。心を鬼にして、そうする。(見たら、フィルタリング機能を使
っている意味がない。)

 しかし先日、その(禁止された送信者)の一覧表を見たら、ナ、何と、そのリストが、ズラリと、
40人くらいになっていた! いつの間にか、そうなっていた。もちろんリストにあがっているの
は、アドレスだけだから、だれがどの人か、わからない。しかしそのつど、何かの思いをもっ
て、禁止処分にした人たちである。

 覚えているのは、2年ほど前、執拗に私に攻撃をしかけてきた男性がいたこと。最初のうち
は、ていねいに反論していたが、そのうち、その弾性は、「お前の意見は、狂っている」などとい
うようなことを言いだした。それで(禁止された送信者)に加えて無視することにした。

 そうでなくても、この世界、わずらわしいことが多い。昔とちがって、インターネットの世界で
は、すべてが瞬時、瞬時。瞬時に、情報を交換できる。しかも、不特定多数。こういう方法を利
用しないと、心がもたない。

 みなさんも、もし、だれかの執拗なメールに悩んでいたら、このフィルタリング機能を使うとよ
い。あとは心を鬼にして、(削除済みアイテム)のコーナーを見ないこと。一度、IEを閉じると、
次回には、(削除済みアイテム)は、きれいにカラになっている。
(はやし浩司 フィルタリング)


●女子のADHD
 
 ADHD児というと、男子だけと思っている人がいる。しかし実際には、女子にもいる。ただ男
子と女子では、多少、症状がちがう。

 女子のばあいは、騒々しいという症状が、第一に出てくる。チョコチョコと動き回る多動性は、
あまり観察されない。

 で、その騒々しさだが、「抑えがきかない」という点では、男子のそれと似ている。強く叱って
も、効果はその場だけ。たいていは、目に涙をいっぱい浮かべて、反省したような様子は見せ
る。

 その騒々しさには、つぎのような特徴がある。

 よくしゃべる(多弁性)のほか、しゃべっていることが、衝動的に、どんどんと変化していく。深
い思考力がなく、思いついたことを、ペラペラとしゃべるといった感じ。ものごとにあきっぽく、注
意力も散漫で、感情的な言い方が目立つなど。

女「今日、学校でさあ、運動場でさあ……」
私「静かに!」
女「いいじゃん、少しくらい。だいじなことなんだからさア」
私「今は、そういう話をしてはいけない」

女「怒っている、怒っている。でもさあ、あまり怒るとさあ……」
私「いいから、口を閉じて!」
女「だってさあ、先生だって、しゃべるじゃん?」
私「みんなが、静かに考えているんだから、あなたも静かに!」

女「みんなさあ、がまんしてるだけじゃん。ああ、今日も、疲れたア!」
私「○○さん、静かに!」
女「だまっているのも、疲れるのよね」
私「……」と。

 こういう会話が、よどみなくつづく。そこでさらに強く叱ると、瞬間的には、涙をこぼしたりして、
「ごめん」とか言う。しかし効果は、その場だけ。数分もすると、また、しゃべり始める。

 騒々しさは、小学3〜5年でピークを迎える。それ以後は、自己意識の発達とともに、自分で
自分をコントロールするようになる。見た目には静かになるが、しかし騒々しさは残ることが多
い。

 大切なことは、この自己意識をうまく利用して、本人に、それと気づかせること。そして自分で
自分をコントロールするように、しむけていく。ただこの段階でも、本人は、騒々しいとは思って
いないケースが目立つ。親自身も、気づいていないケースも、多い。
(はやし浩司 女子のADHD ADHD児 女児のADHD 多弁 多弁性)
(040319)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(122)

【子どもの世界】

●ジコチュー

 自己中心的であるということ自体、その人の精神的未発達を意味する。言いかえると、いか
にして、その自己中心性と戦うか。つまりは、それが結果として、その人の精神的発達を促す
ことになる。

 その人の精神の発達度は、協調性(他人と協調して行動できる)、同調性(他人の立場にな
って、その心を分けもつことができる)、調和性(みんなと仲よくできる)などによって、知ること
ができる。わかりやすく言えば、いかに他人の立場になってものを考えられるか、その度合に
よって、その人の精神の発達度を知ることができる。

 自己中心的というのは、そうした精神の発達が、未発達ということを意味する。

 特徴としては、(1)利己主義になりやすい、(2)独断と偏見をもちやすい、(3)自分を絶対視
しやすい、(4)他人の心を、自分の都合で、決めてしまいやすい、(5)他人と協調して行動が
できない、(6)心が冷たい印象を与えやすいなどがある。

 相手の立場になって考えることができないから、誤解やトラブルを引き起こしやすくなる。自
分勝手で、わがままということにもなる。こんな例がある。

 あるとき一人の母親から、電話がかかってきた。そしていきなり、「あなたの講演会を聞いて
みたいが、今度は、いつ、どこでありますか?」と。一方的な言い方だった。

 講演会といっても、一般の人が参加できるものとできないものがある。私の一存では決めら
れない。そこであれこれ迷っていると、「先生(私)のほうで、許可を取ってもらえないか」と。

 しかし実際には、そうした手続きは、けっこうめんどうなもの。主催者の方に頼めば何とかな
るが、その分、主催者の方も気をつかう。私が、それとなく断ると、「ああ、それならいいです」
と、そのまま電話を切ってしまった。

 こうした自己中心性は、多かれ少なかれ、だれにもある。が、これが親子の間に入ると、子
育てそのものが、おかしくなる。たとえば親意識というのも、結局は、自己中心性の表れの一
つと考えてよい。ものごとを、「親」を中心に考えてしまう。

 そういう意味でも、「親である」という立場に甘え、親風を吹かす人は、精神的に、未完成な人
とみてよい。子どもの立場で、子どもの心になって、ものを考えることができない。ずいぶんと
前の話だが、電話で、こう言ってきた母親がいた。

 「先生、私はBW(私の教室)を、やめさせたいのですが、子どもが『どうしても行きたい』と言
っています。どうしたらいいでしょうか」と。

 私の立場のみならず、子どもの心も、まったく考えていない。自己中心的な親は、そういうも
のの言い方をする。

 
●短気

 おおむね、短気な親ほど、子育て、とくに学習指導で、失敗しやすい。子どもの心というの
は、数か月単位で考える。それでも、短いほうだ。半年、一年単位でみる。

 たとえば小学一年生くらいで、一度、勉強嫌いになると、親が、それを(なおす)のは、容易な
ことではない。(逃げる)→(できなくなる)→(ますます逃げる)の悪循環の中で、ますます勉強
嫌いになる。

 で、私の出番ということになる。方法は、私にとっては、それほど、むずかしいことではない。
楽しめばよい。子どもといっしょになって、楽しめばよい。「教えてやろう」とか、「好きにさせてあ
げよう」とか、そういう気負いは、できるだけもたないようにする。

 ところで、今日、H市内で英語教室を開いているTさん(女性)から、こんなメールをもらった。

 私が「私は、子どもと接しているときだけが、私でいられる。あとの私は、ゼーンブ、仮面」と
書いたことについて、「私は、その反対だ」と。つまりその女性は、「子どもと接しているときだ
け、仮面をかぶる。だからレッスンが終わると、ドーッと、疲れが出てくる」と。

 私も若いときは、そうだった。しかしあるときから居なおって、教えるようになった。「これが私
だア!」と。

 もっともそういう教え方ができるようになるまでに、何年もかかった。親たちの信頼も必要だっ
た。

 だから今は、やりたいようにやっている。子どもたちが、サボリ・モードになってきたときは、い
っしょにサボって遊ぶ。疲れたときは、疲れたときなりに、冗談を言いあったり、ゲームをしたり
して遊ぶ。みんなで、近くの店へ、タコ焼きを食べにいくこともある。

 「やめたければ、やめろ」「来たい人だけ、来ればいい」と。そんなふうに、言うこともある。つ
まり自然体で、接するようにしている。

 この傾向は50歳になって、さらに強くなった。で。おかしなことに、そのほうが、また子ども
も、伸びる。で、最終的には、「こんな先生に習うくらいなら、自分でしたほうがマシ」と思わせる
ようにしむける。実は、これも重要な教育技術である。とくに高校生を教えるときには、そうす
る。

 若いころは、私自身のプライドもあり、なかなかうまくできなかったが、最近は、できるようにな
った。

 つまり子どもの自立を促す。「私は先生だ」と思っていると、教えるほうも疲れるが、生徒も疲
れる。気取ることはない。気負うこともない。

 少し話が脱線したが、そういう意味でも、幼児教室は、私にとっても息抜きの場になってい
る。いくらワイフと夫婦喧嘩をして、ムシャクシャしていても、子どもたちに、「センセー」と言いよ
られたとたん、私は私にかえる。

 要するに、子どもの目線で、教える。そうすれば、子どもは伸びる。たとえば勉強嫌いな子ど
もには、こう言う。「そうだよ。勉強なんて、ちっともおもしろくないよなア」と。

 すると子どものほうが、こう言う。「いいの? 先生が、そんなこと言ってエ?」と。それに答え
て、私はこう言う。「だって、本当だから、しかたないだろ」と。

 とたん、子どもの表情は、明るくなる。

 で、こうした方法で、子どもの心をつかみながら、(「つかむ」という意識をもつこともないが…
…)、子どもに勉強の楽しさを教えていく。具体的には、笑わせればよい。そして半年単位で、
子どもの方向性をつくっていく。

 しかし、ここでいつも大きな問題にぶつかる。

 親自身が、(ほとんどの親がそうだが……)、この段階で、つぎの無理を求めてくる。「やは
り、うちの子は、やればできる」「もう少し何とか」「もっと……!」と。

 これ以上のことは、スポンサーの悪口になるので、ここには書けないが、たとえて言うなら、こ
うした親の無理は、やっと風邪がなおり始めた子どもに、冷や水をぶっかけるようなものであ
る。で、あとは、元の木阿弥(もくあみ)。

 こういう例は、多い。本当に、多い。親は、「やればできるはず」と、子どもを追いたてるが、追
いたてると、今度は、マイナスの方向性に、子どもを落としてしまうこともある。そういうことが、
まったくわかっていない。

 「この子の実力は、この程度です。この程度と認めてあげた上で、本人がやる気を出すまで、
静かに見守ってあげたほうがいいと思います」と言いたくても、それは言えない。親が、それに
納得しないからだ。

 だから失敗する。失敗して、行き着くところまで、行く。だからわかりやすく言えば、「子どもの
勉強では、短気な親ほど、失敗しやすい」ということになる。少しニュアンスがちがうような気も
するが……。まあ、何かの参考になれば……。


●今よりよくなれば……

 ほとんどの親は、(今より、よくなることだけ)を考える。だれも、(今より悪くなること)は、考え
ない。

 しかし子どもの成長には、いつも二面性がある。今より悪くなることだって、可能性としては、
50%、ある。それを忘れてはいけない。

 たとえば子どもを、どこかの進学塾に入れたとする。そういう進学塾で、成績を伸ばす子ども
も、たしかにいる。しかしそれと同じくらい、かえって成績を落してしまう子どもも、いる。親は「き
びしければ、きびしいほど、いい塾」と考えるが、子どものもつエネルギーにも限界がある。

 朝から夕方まで、学校でしごかれた上に、夜の進学教室である。仕事にたとえて言うなら、毎
晩、夜遅くまで、残業するに等しい。その残業のほうで、エネルギーを使い果してしまって、どう
やって本業のほうで、がんばれるというのか。

 もちろん良心的な進学塾も多い。大半が、そうだろう。すべてが悪いというのでもない。大切
なのは、親側の心構えということになる。

 今年、K君という高校3年生を最後に、私は高校生の指導から、足を洗った。そのK君は、東
京工業大学の工学部に合格したが、私は、何も、特別なことをしたわけではない。週1回だ
け、いっしょに座って、話をしたり、いっしょに本屋へ行って、参考書を立ち読みしたりしただけ
である。

 トップクラスをねらう高校生というのは、いつも、そういう高校生である。そのK君にしても、年
末近くまで来たので、私はある日、こう言った。「あのな、往復の時間がもったいないだろ。もし
そうなら、うちへは来なくてもいいから、自分で勉強しろ」と。

 数年前、H大医学部へ推薦で合格した、O君もそうだった。(彼は、地元の新聞に取り上げら
れるほど、優秀な学生だった。)そのO君も、うちへくる日以外は、学校から帰ってくると、いつ
も寝てばかりいたという。(何度も、母親から、「だいじょうぶでしょうか?」という相談をもらっ
た。)

 もう少し専門的に言うと、「依存性」の問題である。

 ガンガンと教えれば、たしかにそれなりに効果はある。しかし同時に、子どもには、依存性が
ついてしまう。自分で自立して勉強するという、姿勢をなくしてしまう。だから中学入試や、高校
入試では、それなりにうまくいっても、そこで伸びは止まる。

 10%前後の子どもは、高校へ入ったとたん。30%前後の子どもは、大学へ入ったとたん、
燃え尽きてしまう。

 いかに依存心をもたせないように教えるか。それがこうした学外指導では、重要なポイントと
なる。

 が、実際には、この依存性を逆に利用する進学塾も多い。ベタベタに塾づけにすることによっ
て、塾をやめられないようにしてしまう。「この塾をやめたら、成績がさがるぞ」というような恐怖
心を、親や子どもに与える。

 実にたくみな方法だが、こういう方法は、同業者の間では、公然と議論されている。「生徒の
定着率を高くするには、どうしたらいいか」と。

 仮にあなたの子どもが、100人中、30番前後だったとする。あなたは当然、何とか、20番
台にしようと考える。しかしあなたが何とかしようと考えたところで、へたをすれば、40番台、5
0番台になることもあるということ。その可能性は、50%はあるということ。

 それを忘れてはいけない。
(040321)
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(123)

●子どもの神経症(心身症)

【長野県にお住まいのSSさんより】

はやし先生はじめまして 四月に入学を控えている6才と1才(ともに12月生ま
れ)の男児をもつ、N市(長野県)の、SSと申します。

長男のことで悩んでおります。ネットで色々検索し、先生のHPにたどり着きました。
これまでモヤモヤと長男についておかしいと思っていた事が神経症の症状にすべてあ
てはまり、また自分にも心あたりがあります。

神経症の診断をしてみたところA24、B12と高得点でした。

(A24というのは、現在、思い当たる症状の合計点。それが24点ということ。またB12というの
は、過去にそういう症状があったという症状の合計点。それが12点ということ。平均はそれぞ
れ3〜5点。24点というのは、異常な高得点と考えてよい。障害が現れる一歩手前の状態と考
えてよい。診断テストを希望の方は、はやし浩司のサイト→トップページ→ビデオでごあいさつ
→資料庫へ。はやし浩司、注)

今のところ一番ひどいのは、手洗いと臭いかぎの潔癖症と疑惑症、靴下をつねに上にひっぱ
っている症状です。一緒にいるとガマンしきれずとがめてしまいます。

以前はやたらと手を洗っていたのですが、近頃はかなり儀式化しており、たとえば入
浴後パジャマを着終わると手を洗う、決まった取っ手を触ったら洗うなどです。

今夜も、「お風呂に入ってきれいになって、きれいなパジャマを着たんだから手を洗わな
くても大丈夫だよ」と言うと「僕はオチンコを触ったら絶対に手を洗いたいんだ」
「あと、ちょっとでも汚い物を触った時も手を洗いたいんだ」と言いました。

この子の神経症の原因はやはり家庭にあると思います。初めての育児で私はかなり気
負い型の育児をしてきました。

結婚したと同時に夫の両親と同居しています。初孫とあって育児にも何かと口を出さ
れ、よくイライラしていました。

その事で夫ともよく衝突し、息子が2歳になる頃に義父が亡くなりました。一家の中
心だった義父が亡くなり家の中は一気に険悪めちゃくちゃになり

私は孤立しました。息子が3歳になった頃、半年間は完全に家庭内別居でした。
離婚も真剣に考え、決心した所で夫と歩み寄る事ができ少しずつ関係修復に努めてき
ました。

しかし、その間は私の情緒が乱れに乱れ、間近にいた長男は相当傷ついていると思い
ます。
親の修羅場を見せてしまった罪悪感は今も消えずずっとその事が気がかりでした。

夫とはお互い努力を重ねて関係修復し、長男が年中になった春、ちょうど2年前に次
男を妊娠しました。

妊娠初期から切迫流産の危機で入院、長男は実家に預けました。
退院後もつわりがひどく、次は早産の危険もあるハイリスク妊婦のため
安静生活をよぎなくされました。ずっと抱っこもしてあげられず、息子はけなげに耐
え気遣ってくれていました。相当のストレスだったと思います。

その頃はつめ噛みと小さい頃気に入っていた、しまじろうの人形をまたひっぱり出して
きて肌身離さず持っていました。

妊娠後期、少しずつ動けるようになり息子との時間を持てるようになりました。検診
について行きたがったので、幼稚園を休ませ、のんびりバスにゆられて(普段は車生
活です)、のんびり過ごしました。私が動けるようになると同時に情緒も安定するのが
よくわかりました。

そして5歳の誕生日の4日後に次男誕生。一緒に妊娠生活を乗り越えてくれた長男は
当然のように出産にも立ち会いました。しかし、難産で私が苦しむ姿(痛い、死にそ
うーと叫んだ)を見てかなりのショックを受けたようで、それ以後、不安症が出てきま
した。

そして出産したとたん、それまでいい子にしていたガマンが爆発するかのように赤ち
ゃん返り。半年間は長男優先で育児をしてきたつもりです。

そして、今回の症状が出始めた昨年夏ごろ、次男が動くようになり後回しにはいかな
くなりました。と同時に次男のベビーベッドをやめ息子二人と三人で寝るようになり
ました。が、これが次男真ん中で私と長男は離れる形態になってしまったのです。長
男は夫と就寝ですが夜中目覚めると私と次男の間にねじ入ってきました。

秋から冬にかけ手洗いの症状はエスカレートしました。幼稚園に相談すると、とくに
園生活に問題はなく少しトイレが近いかな、との事でした。スキンシップを大切にと
のアドバイスを受けましたが、私を含め皆であの手この手で手洗いを阻止しようとそち
らへ意識が向いてしまっていました。

手洗い意外にもいじけ、すねるのもひどく何か叱るだけで、「ママ僕の事きらいなん
だ、MMちゃん(弟)の方が大事なんだ」と、毎日毎日何回もネチネチと言い続けてき
ました。その都度「そんな事ないよ。二人とも大事だよ」と返して来ましたがあまりの
しつこさに「こんなに大事って言うのにどうしてそんなにわからないの!」と怒鳴っ
てしまった事も数回あります。

振り返ると、長男にずっといいお兄ちゃんを求めてしまっていました。嫌がるのにお
もちゃを貸すように強要しました。手洗いなどの潔癖は弟がおもちゃをなめて汚すよ
うになってから出てきました。

「どうしてそんなに手を洗うの?」と聞くと「僕は汚れた手でおもちゃを触っておも
ちゃが汚れるのがいやなんだ」と言いました。私への悪態も日に日にひどくなってい
ます。

先生のHPを知り、著書も読ませていただきました。

スキンシップは心がけていましたが、やはり要所要所で足りなかったようです。ベッド
のレイアウトも変え、私が真ん中で長男次男と川の字で寝るようになると、体は授乳で
次男側を向いていても嬉しそうに、私の背中へ寄り添ってきます。次男が遊びに夢中に
なっている時に長男においでと呼ぶと、これまた嬉しそうに膝の上に座って甘えます。

寝る前の絵本や長男の小さい頃の思い出話もとても喜びます。

一番驚いたのは「TGちゃん(長男)が一番大事だよ。ママは大好きだよ。」と、初
めて'一番好きだよ'と言ったとたんに、口癖だった「ママは僕の事が嫌い」という
イジケがなくなったのです。

そして、可愛がっていた次男を拒絶するようになりました。帰宅拒否でしょうか?
のんびりマイペースで遊べる義母の居間に入り浸っています。

もっと早く先生の育児論を知っていたら、ここまでひどい症状には至らなかったと思っ
ています。

私は今のままスキンシップを心がけていけば大丈夫でしょうか?  手洗いは好きにさせ
ていいのですか? 思いこんでいることに対し、洗う必要がないよと言わなくていいです
か?

今、長男をここまでしてしまった罪悪感でかなり自信がなくなっています。こんな小
さいうちに神経症を発してしまい、将来が不安でたまりません。治る事にこだわって
いけないと頭で思っても心がついていきません。心配で不安で長男が卒園し、春休み
になった今、苦しくてプレッシャーでつぶれそうです。

先生、お忙しい中あつかましいですが、どうかアドバイスお願いします

+++++++++++++++++++++

【SSさんへ】

 神経症の診断結果は、高得点ですね。平均は、Aが5点、Bが3点です。20点以上というと、
かなりいろいろな症状が出ていると同時に、精神的にも、大きなダメージを受けていると思いま
す。

 まず第一に、早く気づかれてよかったということ。「遅すぎた」というのではなく、「早くてよかっ
た」ということです。5〜6歳という年齢は、まだじゅうぶん、修復が可能な年齢ということです。

青年期に、こうした症状が出てくると、もろもろの障害(摂食障害、行為障害、不安障害、回避
性障害、妄想性、睡眠障害)へ、そのまま結びついていきます。精神障害になることもありま
す。

 で、順に、問題点を洗ってみます。

 TG君(長男)の心を不安定にしている最大の原因は、赤ちゃんがえりです。つぎに乳幼児期
の家庭騒動、家庭不安です。この時期、子どもは、絶対的な安心感の中で、心をはぐくみま
す。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味です。

 しかしそれができなかった。TG君は、この先、何かにつけて、不安先行型の人生観をもつも
のと思われます。赤ちゃんがえりそのものは、症状的には消えていきますが、それが原因でゆ
がんだ心(ひがみやすい、いじけやすい、つっぱりやすいなど)は、これからも残っていきます。

 だからといって、SSさんの育児が失敗だったというのではありません。多かれ少なかれ、み
なそうだということです。問題のない家庭はないし、そのため、問題のない子どもは、いませ
ん。もっとはっきり言えば、この程度の問題なら、みんなもっているということ。

 どの家庭も、どの子どもも、外から見ると、みんなうまくいっているように見えますが、それは
あくまでも、「外見」。だから、今までは今までとして、これからは先だけを見て、前に進むことで
す。

 私がSSさんで、すばらしいと思うのは、まだお若いはずなのに、よくも、ここまでご自身のこと
を知っておられるということ。また子育てを、よくも、ここまで客観的に見ておられるということ。

 いろいろあったご様子ですが、SSさんは、その結果、かなり精神的に成長なさったと思いま
す。あなたの年齢で、ここまで自分をしっかりと見つめておられる方は、そんなにいません。そ
の点について、まず、自信をもつこと。

 ふつうは、それにさえ気づかないで、我流、独断、独善で、ますます子どもの心をゆがめてし
まうものです。

 気になっている点から、順に話していきます。

●疑惑症、潔癖症について……

 これらはあくまでも、「外に出た症状」です。インフルエンザで言えば、「熱」のようなものです。

 熱を冷ますために、水をかけてはいけないように、症状だけをみて、それを抑えようとしても、
うまくいきません。かえって症状をこじらせます。

 原因は、慢性的な欲求不満と、ストレスです。

 方法は、スキンシップに始まり、スキンシップに終わります。親側からベタベタする必要はあり
ません。『求めてきたときが、与えどき』と覚えておきます。子どもがそれとなく求めてきたら、そ
のときは、濃密に、子どもが満足するまで、ぐいと抱いてあげたりします。

 多少の抱き癖、依存性なども生まれますが、ここは無視してください。

 幸いにも、SSさんは、たいへん愛情豊かな方だと思われます。この世界では、『愛は万能』と
いいます。愛が基本的にあれば、子どもの心はゆがみません。しかし愛がないと、いくら体裁
をとりつくろっても、失敗します。

 コツは、『許して、忘れる』です。(私のHPのあちこちに、それについて書いてありますので、
またヒマなときに、お読みください。)

 こうした行為(手洗い、臭いかぎ)を、「悪」と決めてかかるのではなく、『暖かい無視』をしま
す。ときには、子どもの心になって、「あなたは、きれい好きなのね。お母さんも、手を洗うわ」
と、いっしょに洗ってみてください。

 まずいのは、子どもに罪悪感をもたせることです。扱い方をまちがえると、さらにやっかいな
神経症(心身症)を併発します。火遊び、不登校、動物虐待など。だから今は、「なおそう」と思
うのではなく、「これ以上、症状を悪化させない」ことだけを考えて対処してください。

●赤ちゃんがえり……

 赤ちゃんがえりについては、今の対処法でよいと思われます。弟さんには悪いですが、全幅
に、TG君に、愛情を注ぎなおします。年齢的にも、自己意識が芽生えてくるころですから、症
状が消えるまでに、それほど時間はかからないと思います。

 子どもは、小学3、4年生ごろから親離れを始めます。これから数年が、勝負ですね。勝負と
いうことは、濃密かつ良好な親子関係を取りもどす、最後のチャンスということです。

 また幼稚園では、先生が、「問題ない」とおっしゃったことですが、それだけTG君は、外の世
界では無理をしているのかもしれません。家の中では、その分、荒れたり、ぐずったりするかも
しれません。家の中では、ゆるめてあげてください。

とくに4月からは、小学校が始まりますので、神経質な育児姿勢は、禁物です。(慎重に子ども
の心を観察してみてください。無理強いはしてはいけませんよ。かなり不安定になっていますか
ら、妄想性が、対人恐怖症になり、それが原因で、学校恐怖症、さらには不登校へと進む可能
性は、ないとは言えません。)

 あくまでも子どもの心になって考えるということです。ときどきぐずったら、「そうね、だれだっ
て、ときどきは学校へ行きたくないときもあるわね」式の理解を示してあげてください。KG君に
は、とくに、それが必要です。

●子育てのプレッシャー……

 子どもというのは、不思議なもので、親が何かをしたから、育つものでも、また何もしなかった
から、育たないものでもありません。

 重要なことは、(子ども自身がもつ育つ力)を信ずることです。たしかにSSさんの育児姿勢
は、気負い先行型です。「いい親でいよう」「いい親はこういうものだ」「いい子どもを育てよう」
と、気負っておられる様子がよくわかります。

 さらに「私は親だ」「子どもの問題の責任は、すべて親にある」という、どこかN県独特の親意
識もあるようです。

 子ども自身のもつ力を、もっと信じなさい。それはちょうど、子どもが風邪をひいて寝ていると
きのようなものです。親は、子どもの風邪をなおすために、薬をのませたりしますが、本当に子
どもの風邪をなおすのは、子ども自身がもつ治癒力のようなものです。体力といっても、よいか
もしれません。

 私たちができることと言えば、せいぜい、その(子ども自身がもつ力)を、横から援助すること
でしかないのです。すべてを、あなた自身が、背負ってはいけません。

 (多分、そういう意味で、あなた自身も、あまり恵まれた家庭環境で育っていない可能性もあ
ります。とくにあなたの父親との関係を疑ってみてください。)

 いいですか、今のKG君の症状が、これから先、いつまでもつづくと考えるのは、正しくありま
せん。同時に、しかし失敗すれば、さらに二番底、三番底へと落ちていきます。今の症状がす
べてではないということです。

ですからここは、先に書いたように、「これ以上、症状を悪化させない」ことだけを考えて対処し
てください。しかもその様子は、半年単位でみます。「今日、改善したから、明日なおる」という
問題では、決してありません。

 このあと、いくつか、参考になりそうな原稿をいくつか張りつけておきます。参考にしてくだされ
ば、うれしいです。

 なお、いただきましたメールは、少し私のほうで改変し、小生発行の電子マガジンのほうで使
わせてください。もし都合の悪い点があれば、至急、お知らせください。改めます。同じような問
題をかかえておられる、ほかの母親たちのためにも、よろしくご協力くださいますよう、お願い
申しあげます。

+++++++++++++++++

●子どもの情緒不安

 子どもの発達をみるときは、次の四分野をみる。

情緒の安定度、精神の完成度、知能の発達度、それに運動能力。

そのうちの情緒の安定度は、体力的に疲れたと思われるときに観察して、判断する。

たとえば運動会や遠足から帰ってきたようなとき。そういうときでも、不安定症状(ぐずる、ふさ
ぎ込む、ピリピリする、イライラするなどの精神的動揺)がなければ、情緒の安定した子どもと
みる。

あるいは子どもは寝起きをみる。毎朝、不機嫌なら不機嫌でもよい。寝起きの様子が安定して
いれば、情緒の安定した子どもとみる。子どもは2〜3歳の第一反抗期、思春期の第二反抗
期に、特に動揺しやすいということがわかっている。

経験的には、乳幼児期から少年少女期への移行期(4〜5歳)、および小学2年から4年ぐらい
にかけても、不安定になることがわかっている。この時期を中間反抗期と呼ぶ人もいる。

 情緒が不安定な子どもは、心が絶えず緊張状態にあるのが知られている。外見にだまされ
てはいけない。柔和な笑みを浮かべながら、心はまったく別の方向を向いているということは、
よくある。

このタイプの子どもは、気を許さない、気を抜かない、周囲に気をつかう、他人の目を気にす
る。よい子ぶることもある。そういう状態の中に、不安や心配が入り込むと、それを解消しよう
と一挙に緊張感が高まり、情緒が不安定になる。

症状としては、攻撃的、暴力的になるプラス型。周囲に溶け込めず、引きこもったり、怠学、不
登校を繰り返したりするマイナス型に分けて考える。

プラス型は、ささいなことでカッとなることが多い。さらに症状が進むと、集団的な非行行動をと
ったり、慢性的な下痢、腹痛、体の不調を訴えるようになったりする。

原因としては、乳幼児期の何らかの異常な体験が引き金になることが多い。たとえば親の放
任的態度、無教養で無責任な子育て、神経質な子育て、家庭騒動、家庭不和、恐怖体験な
ど。ある子ども(5歳男児)は、たった一度だが、祖父にはげしく叱られたのが原因で、自閉傾
向(親と心が通い合わない状態)を示すようになった。

また別の子ども(3歳男児)は、母親が入院している間、祖母に預けられたことが原因で、分離
不安(親の姿が見えないと混乱状態になる)になってしまった。

 子どもの情緒が不安定になると、親はその原因を外の世界に求めようとする。しかし原因の
第一は、家庭環境にあると考え、反省する。子どもの側から見て、息が抜けないような環境な
ど。子どもの心に負担になっているもの、心を束縛しているようなものがあれば、取り除く。

一番よい方法は、家庭の中に、誰にも干渉されないような場所と時間を用意すること。あれこ
れ親が気をつかうこと(過関心)は、かえって逆効果。

子どもが情緒不安症状を示したら、スキンシップを大切にし、温かい語りかけを大切にする。
叱ったり、冷たく突き放すのは、かえって子どもの情緒を不安定にする。

なお一般的には、情緒不安は、神経症(心身症)の原因となることが多い。たとえば、夜驚(や
きょう)、夢中遊行、かん黙、自閉、吃音(どもり)、髪いじり、指しゃぶり、チック症、爪かみ、物
かみ、疑惑症(臭いかぎ、手洗いぐせ)、かみつき、歯ぎしり、強迫傾向、潔癖症、嫌悪症、対
人恐怖症、虚言、収集癖、無関心、無感動、緩慢行動、夜尿症、頻尿症など。症状は千差万
別で、定型がない。

++++++++++++++++++++++

●子どもの神経症

 心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、神経症という。脳の機
能が変調したために起こる症状と考えると、わかりやすい。

ふつう子どもの神経症は、精神面、身体面、行動面の三つの分野に分けて考える。そこであな
たの子どもをチェック。次の症状の中で思い当たる症状(太字)があれば、丸(○)をつけてみ
てほしい。

 精神面の神経症……精神面で起こる神経症には、恐怖症(ものごとを恐れる。高所恐怖症、
赤面恐怖症、閉所恐怖症、対人恐怖症など)、強迫症状(ささいなことを気にして、こわがる)、
不安症状(理由もなく思い悩む)、抑うつ症状(ふさぎ込んだり、落ち込んだりする)、不安発作
(心配なことがあると過剰に反応する)など。混乱してわけのわからないことを言ったり、グズグ
ズするタイプと、大声をあげて暴れるタイプに分けて考える。ほかに感情面での神経症として、
赤ちゃんがえり、幼児退行(しぐさが幼稚っぽくなる)、かんしゃく、拒否症、嫌悪症(動物嫌悪、
人物嫌悪など)、嫉妬、激怒などがある。

 身体面の神経症……夜驚症(夜中に突然暴れ、混乱状態になる)、夢中遊行(ねぼけてフラ
フラとさまよい歩く)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、遺尿(その意識がないまま尿もら
す)、睡眠障害(寝つかない、早朝起床、寝言、悪夢)、嘔吐、下痢、原因不明の慢性的な疾患
(発熱、ぜん息、頭痛、腹痛、便秘、ものもらい、眼病など)、貧乏ゆすり、口臭、脱毛症、じん
ましん、アレルギー、自家中毒(数日おきに嘔吐を繰り返す)、口乾、チックなど。指しゃぶり、
爪かみ、髪いじり、歯ぎしり、唇をなめる、つば吐き、ものいじり、ものをなめる、手洗いグセ
(潔癖症)、臭いかぎ(疑惑症)、緘黙、吃音(どもる)、あがり症、失語症、無表情、無感動、涙
もろい、ため息なども、これに含まれる。一般的には精神面での神経症に先だって、身体面で
の神経症が現われることが多い。

 行動面の神経症……神経症が行動面におよぶと、さまざまな不適応症状となって現われる。
不登校もその一つだが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、過
食、拒食、異食、小食、偏食、好き嫌い、引きこもり、拒食などが断続的に起こることが多い。
生活習慣が極端にだらしなくなることもある。忘れ物をしたり、乱れた服装で出歩いたりするな
ど。ほかに反抗、盗み、破壊的行為、残虐性、帰宅拒否、虚言、収集クセ、かみつき、緩慢行
動(のろい)、行動拒否、自慰、早熟、肛門刺激、異物挿入、火遊び、散らかし、いじわる、いじ
めなど。こうして書き出したら、キリがない。

要するに心と身体は、密接に関連しあっているということ。「うちの子どもは、どこかふつうでな
い」と感じたら、この神経症を疑ってみる。ただし一言。こうした症状が現われたからといって、
子どもを叱ってはいけない。叱っても意味がないばかりか、叱れば叱るほど、逆効果。神経症
は、ますますひどくなる。原因は、過関心、過干渉、過剰期待など、いろいろある。

 さて診断。丸の数が、10個以上……あなたの子どもの心はボロボロ。家庭環境を猛省する
必要がある。9〜5個……赤信号。子どもの心はかなりキズついている。4〜1個……注意信
号。見た目の症状が軽いからといって、油断してはならない。

++++++++++++++++++

●愛情は落差の問題

 下の子どもが生まれたりすると、よく下の子どもが赤ちゃんがえりを起こしたりする。(赤ちゃ
んがえりをマイナス型とするなら、下の子をいじめたり、下の子に乱暴するのをプラス型という
ことができる。)

本能的な嫉妬心が原因だが、本能の部分で行動するため、叱ったり説教しても意味がない。
叱れば叱るほど、子どもをますます悪い方向においやるので、注意する。

 こういうケースで、よく親は「上の子どもも、下の子どもも同じようにかわいがっています。どう
して上の子は不満なのでしょうか」と言う。親にしてみれば、フィフティフィフティ(50%50%)だ
から文句はないということになる。が、上の子どもにしてみれば、その「五〇%」というのが不満
なのだ。

つまり下の子どもが生まれるまでは、一〇〇%だった親の愛情が、五〇%に減ったことが問
題なのだ。もっとわかりやすく言えば、子どもにとって愛情の問題というのは、「量」ではなく「落
差」。それがわからなければ、あなたの夫(妻)が愛人をつくったことを考えてみればよい。あな
たの夫が愛人をつくり、あなたに「おまえも愛人も平等に愛している」とあなたに言ったとした
ら、あなたはそれに納得するだろうか。

 本来こういうことにならないために、下の子を妊娠したら、上の子どもを孤立させないように、
上の子教育を始める。わかりやすく言えば、上の子どもに、下の子どもが生まれてくるのを楽
しみにさせるような雰囲気づくりをする。

「もうすぐあなたの弟(妹)が生まれてくるわね」「あなたの新しい友だちよ」「いっしょに遊べるか
らいいね」と。まずいのはいきなり下の子どもが生まれたというような印象を、上の子どもに与
えること。そういう状態になると、子どもの心はゆがむ。ふつう、子ども(幼児)のばあい、嫉妬
心と闘争心はいじらないほうがよい。

 で、こうした赤ちゃんがえりや下の子いじめを始めたら、(1)様子があまりひどいようであれ
ば、以前と同じように、もう一度一〇〇%近い愛情を与えつつ、少しずつ、愛情を減らしていく。
(2)症状がそれほどひどくないよなら、フィフティフィフティ(五〇%五〇%)を貫き、そのつど、
上の子どもに納得させるのどちらかの方法をとる。あとはカルシウム、マグネシウムの多い食
生活にこころがける。

++++++++++++++++

●子どもの分離不安

 ある女性週刊誌の子育てコラム欄に、こんな手記が載っていた。日本でもよく知られたコラム
ニストのものだが、いわく、「うちの娘(むすめ)(三歳児)をはじめて幼稚園へ連れていったとき
のこと。娘ははげしく泣きじゃくり、私との別れに抵抗した。私はそれを見て、親子の絆の深さ
に感動した」と。

とんでもない! ほかにも詳しくあれこれ症状が書かれていたが、それを読むと、それは、「別
れをつらがって泣く子どもの姿」ではない。分離不安の症状そのものだった。

 分離不安症。親の姿が見えなくなると、混乱して泣き叫んだり暴れたりする。大声をあげて泣
き叫ぶタイプ(プラス型)と、思考そのものが混乱状態になり、オドオドするタイプ(マイナス型)
に分けて考える。

私はこのほかに、ひとりで行動ができなくなってしまうタイプ(孤立恐怖)にも分けて考えている
が、それはともかくも、このタイプの子どもは多い。四〜六歳児についていうなら、一五〜二〇
人に一人くらいの割合で経験する。

親がそばにいるうちは、静かに落ち着いているが、親の姿が見えなくなったとたん、ギャーッと
ものすごい声をはりあげて、そのあとを追いかけたりする。

 原因は……、というより、分離不安の子どもをみていくと、必ずといってよいほど、そのきっか
けとなった事件が、過去にあるのがわかる。はげしい家庭内騒動、離婚騒動など。母親が病
気で入院したことや、置き去りや迷子を経験して、分離不安になった子どももいた。

さらには育児拒否、虐待、下の子どもが生まれたことが引き金となった例もある。子どもの側
からみて、「捨てられるのではないか」という被害妄想が、分離不安の原因と考えるとわかりや
すい。

無意識下で起こる現象であるため、叱ったりしても意味がない。表面的な症状だけを見て、「集
団生活になれていないため」とか、「わがまま」とか考える人もいる。無理をすればかえって症
状をこじらせてしまう。

いや、実際には無理に引き離せば、しばらくは混乱状態になるものの、やがて静かに収まるこ
とが多い。しかしそれで症状が消えるのではない。「もぐる」のである。一度キズついた心は、そ
んなに簡単になおらない。この分離不安についても、そのつど繰り返し症状が現われる。

 こうした症状が出てきたら、鉄則はただ一つ。無理をしない。その場ではやさしくていねいに
説得を繰り返す。まさに根気との勝負ということになるが、これが難しい。現場で、そういう親子
を観察すると、たいてい親のほうが短気で、顔をしかめて子どもを叱ったりしているのがわか
る。「いいかげんにしなさい!」とか、「私はもう行きますからね」とか。こういう親子のリズムの
乱れが、症状を悪化させる。子どもはますます被害妄想をもつようになる。

 分離不安は四〜五歳をピークとして、症状は急速に収まっていく。しかしここにも書いたよう
に、一度キズついた心は、簡単にはなおらない。ある母親はこう言った。「今でも、夫の帰宅が
予定より遅くなっただけで、言いようのない不安感に襲われます」と。姿や形を変えて、おとな
になってからも症状が現われることがある。
(040320)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(124)

【近況・あれこれ】

●初フライト

 私は子どものころ、パイロットにあこがれた。空を飛んでみたかった。

 今、三男は、そのパイロットになって、空を飛んでいる。オーストラリアでグライダーに乗って
いる。昨日(3・20)、その第一報が届いた。

 が、昨日は、あいにく気温が低く、風が強かったらしい。気温が低いと、上昇気流が発生しな
い。風が強いと、たとえ気流をつかまえても、すぐそれをはずしてしまう。

 こういうときは、フライトがむずかしいという。上下、左右に、グライダーは、はげしく揺れる。

 三男は、70歳近い、超ベテランのパイロットに、乗せてもらった。が、降りてきたときには、
「真っ青(PALE)な顔をしていた」(友人談)という。そこで友人が、「また乗るか?」と聞いたら、
三男は、「もういやだ」と。

 そこで、みんなで三男を説得したら、「また乗る」と言ったとか。「E(三男)は、セックスと同じよ
うに、地獄と天国を、両方、一度に経験した」と私がメールを送ると、友人は、こう言った。「天
国を見るのは、若者の特権だ。ぼくらには、何をしても、地獄に見える」と。

 で、今日は、別の飛行場で、小型機を操縦するつもりらしい。オーストラリアには、いたるとこ
ろに飛行場がある。友人のいとこは、そこで教官をしている。

 うらやましい……、と思いつつ、私は、いつものように、MS社のフライトシミュレーターで、空
を飛ぶ。そのゲームの中には、グライダーも収録されている。「多分、三男も、こういうふうに飛
んだのだろうな」と思いつつ、おもちゃの操縦桿を握る。

 オーストラリアへ行く前、三男は、こう言った。「(機長になって)初飛行するときは、家族を、
みんな招待できる。みんな無料で、飛行機に乗ることができる」と。

 パイロットになって、初飛行するときは、家族を、記念に、招待できるという。「それまでは生き
ていよう」と、ワイフに話す。しかしそのとき、飛行機が墜落したら……、そのときは、私の家族
は、ゼンメツ! (どうして私は、こうも、不吉なことばかり考えるのか……?)

三男「ぼくは、国内便のパイロットでいい」
私「バカだなあ。あのな、世界を飛び回れ」
三男「日本だって広い」
私「それは、世界をまだ知らない人が言うセリフだ。そのために、オーストラリアへ、お前は、行
くんだ。世界を見るんだ」

 飛行機で一歩、日本の外に出ると、日本の小ささに驚かされる。本当に、小さい。どうしようも
ないほど、小さい。日本に生まれ、日本だけに住んだことのない人には、それがわからない。
三男が、そうだ。

私「鹿児島県の徳之島の周遊パイロットになれと言われたら、お前はどうする?」
三男「いやだな……」
私「そうだろ。世界から見ると、日本を飛ぶというのは、それと同じようなものだ」
三男「日本と徳之島はちがうよ、パパ」
私「比率では、ほぼ、同じだ。世界からみると、日本は、徳之島※くらいしかない」と。

 若いときに、世界をみておくことは、とても重要なことだ。少なくとも、その人の常識がかたま
る前に、見ておく。常識がかたまってからでは、遅い。先日も、私に、「林君、君は、欧米かぶ
れしすぎているよ」と言った、男性(55歳)がいた。自分自身は、欧米の「オ」の字も知らないく
せに、だ。  

 私は、何も、日本を否定しているのではない。「世界を見ろ」と言っている。たとえばアメリカの
テキサス州の砂漠の真中に立って、そこから日本を見てみるとよい。日本の影など、どこにも
ない。大学生ですら、そのほとんどが、日本がどこにあるかさえ知らない。

 オーストラリアにしても、車で走ると、平原につづく平原が、打ち寄せる大海原(うなばら)のよ
うにつづく。それが何時間も何時間もつづく。気が遠くなるほど、つづく。そんなところで、「私は
日本人だ」と叫んでも、意味はない。ちょうど私たちが、ポーランド人とデンマーク人の区別が
つかないように、彼らもまた、アジア人と日本人の区別がつかない。

 日本人は日本人の伝統と文化を守る。アジア人はアジア人の、それぞれの伝統と文化を守
る。たがいにたがいの文化と伝統を、尊重する。それは重要なことだ。しかしどちらが優越して
いるとか、劣っているとか、そういうことを議論しても、まったく意味がない。

 世界に出てみると、その愚劣さがよくわかる。「世界を知る」ということは、そういうことをいう。

※……地球の面積=5億995万平方キロメートル、日本の面積=37万平方キロメートル。こ
の割合になっている島を、日本の中でさがすと、鹿児島県の徳之島(247平方キロメ−トル)
が、その島ということになる。つまり世界から見た日本は、日本から見た徳之島の大きさという
ことになる。 


●日本人としての、アイデンテティー(同一性)

 ここで「日本人のアイデンテティー」の話が出たので、ついでに一言。

 「日本人とは何か」「私たちは日本人であるという、その根拠は何か」……、それがアイデンテ
ティーの問題である。

 もっとわかりやすく言えば、「日本民族と、他民族のちがい」ということになるし、さらにもっと
わかりやすく言えば、「日本民族が、他民族よりすぐれているところは、何か」「日本民族が、守
り育ててきたものは、何か」ということになる。

 私は、第一に、「言葉」をあげる。

 こうしてモノを書く人間の特性かもしれない。本当は、国際的な言語で書いて、国際的な立場
で、自分の書いたものを発表したい。しかし私には、その「力」がない。(いや、今度から、英語
で、エッセーを書いてみようか。今、ふと、そんな欲望が、心を包んだ。)

 だからこうして書いているものを読んでくれるのは、第一に、日本語のわかる日本人というこ
とになる。

 もしこの日本語を、だれも理解できなくなってしまったとしたら……。考えるだけでも、恐ろし
い。

 で、今、私は、この日本という「ワク」の中に住んで、自由にものを考えて、話し、そして書いて
いる。これが私は、日本人としてのアイデンテティーということになる。

 あとは、食べ物。風俗。文化。習慣。

 日本人としての、居心地のよさこそが、私たちが守るべき、アイデンテティーと考えてもよい。

 こわいのは、民族主義。えてして、この民族主義は、「我らが民族を守るため」という大義名
分の中、相手の民族を否定する道具(方便)として使われる。国粋主義も、そこから生まれる。

 私たちは、自分たちのアイデンテティーを追求するときは、同時に、相手のアイデンテティー
も認めなければならない。こうした働きかけを、外の国々に向って同時にしてこそ、日本人は日
本人のアイデンテティーを守れる。

 私は、決して、日本人としての、アイデンテティーを否定しているのではない。
(040321)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(125)

【恐怖のインターネット・ストーカー】(実話)

●喜びも、つかの間

 Aさん(32歳・女性)は、やっとの思いで、自分のホームページを開いた。そのために、公民
館での、パソコン教室にも通った。近所の、大学生にも、手伝ってもらった。が、それが、恐怖
の始まりだった……。

 Aさんは、几帳面(きちょうめん)な人だった。それに、実のところ、ホームページについては、
無知に近かった。Aさんは、自分のホームページを開いたうれしさもあって、そこに、自分のこ
とをすべて書いてしまった。

 住所、電話番号、本名、家族の名前、メールアドレスなど。それに家族の写真まで。

 「仲のいい友だちに読んでもらえればと思って、そうしました」と、Aさんは、言った。

 しかしホームページには、個人の特定につながるような情報は、載せてはいけない。しかしA
さんは、そういう常識を知らなかった。


●アクセスカウンター

 1か月ほどたったところで、Aさんは、自分のホームページにアクセスカウンターを張りつけ
た。カウンターをつければ、何人の人が、ホームページを訪れたかが、わかる。

 Aさんは、毎日、そのカウンターの数字が、一人、二人と、ふえていくのを楽しみにした。

 で、さらに1か月ほどたったところで、Aさんは、もっと多くの人に、自分のホームページを読
んでもらいたいと願うようになった。日記風のエッセーも載せた。自分で描いたイラストも載せ
た。パソコンに詳しい友人に相談すると、「ホームページをもっている人と、相互リンクを張れば
よい」と教わった。

 そこでAさんは、あちこちのホームページをのぞきながら、その掲示板に、自分のことを書い
た。が、ここでまた、大きなミスをした。

 Aさんは、自分の住所と本名を、その掲示板に書いてしまった。「偽名では、相手の方に、失
礼かと思って、そうしました」と。

 こうしてAさんのホームページは、実名とともに、この世界に広まってしまった。


●最初のメール
 
 最初にその男性から、メールが届いたのは、正月もあけて、まもなくのことだった。名前も、
住所もなかった。

 Aさんは、何ら警戒することもなく、その男性からのメールを読み、返事を書いた。以下は、A
さんから聞いた話である。

 「最初は、見知らぬ男性とメールを交換するのが、楽しかったです。私のホームページを見て
くれた人ということで、親近感も覚えました。メールの内容は、儀礼的なあいさつが中心でした
が、相手の質問には、いつもていねいに答えていました。

おかしいなと思ったのは、相手の文章が、妙になれなれしい言い方のメールだったことです。ま
るで親しい友人に書いてくるようなメールでした。

 それに何というか、私のことを、よく知っているような言い方をするのですね。しかも近所に住
んでいるかのような言い方をするのです。たとえば『このところ、ここらも、急に春めいてきまし
たね』とか。

 で、最初の数週間ほどは、私も、そうしたメールを交換するのが楽しくて、こまめに返事を書
いていました。しかしそれを過ぎても、その男性は、自分の名前も、住んでいるところも、言い
ませんでした。

 『どちらにお住まいですか』と、一度聞いたことがあるのですが、『まあ、いいじゃないですか。
住所は、この日本かな……』という感じでした。

 で、私のほうも、もう聞くのもおっくうになりました。それで返事を書くのをひかえ始めたのです
が、ひかえ始めたとたん、相手からのメールが、どんとふえました。多い日は、一日に、5〜6
通とか、そんな感じでした」と。


●個人情報の削除

 私がそれに気づいたのは、たまたまAさんを、よく知る立場にあったからである。私のところ
にも、「私のホームページを開きました。どうか訪問してみてください」というメールが届いた。

 が、私はAさんのホームページどころか、メールを見て、びっくり。メールの末尾に、住所、氏
名、それに電話番号まで書いてあった。すぐAさんに、メールを出した。「個人情報は、すべて
消しなさい!」と。

 個人情報から、パスワードが推察されるということはよくある。たいていの人、とくに女性は、
自分の名前のイニシャルと、生年月日、もしくは住所と組みあわせたパスワードを使うことが多
い。家族のイニシャルを使うこともある。

 パスワードを盗まれると、どんないたずらをされるか、わかったものではない。

 ホームページを出すというのは、まさに世間に、自分をさらけ出すことを意味する。それなり
の覚悟があるなら話は別だが、そうでなければ、個人情報の公開は、最小限におさえたほうが
よい。

 100人のうち、一人は、まともでない人がいる。1000人のうち、一人は、さらに、まともでな
い人がいる。そういう人にからまれたら、不愉快な思いをするのは、そのホームページを開設
した人自身ということになる。

 が、ときすでに、遅かった。


●執拗なメール

 Aさんに、さらに執拗なメールが届き始めたのは、5月に入ってからだった。

 「奥さん、今日は、洗濯ですか。今日は洗濯日和(びより)ですね」
 「奥さん、お子さんは、もう学校へ行きましたか。これから何をしますか」
 「奥さん、今夜のおかずは、何ですか。好物の、鍋物ですか」と。

 ホームページのどこかに日記風に書いた記事を、その男性は読んでいたらしい。それをもと
に、あれこれ書いてきた。

 いつも「奥さん……」で始まるメール。Aさんは、こう言った。「あっという間に、私は、気持ち悪
いのを通りこして、パソコンに触れるのさえ、いやになりました」と。

 そこでAさんは、その男性からのメールを、「送信者禁止」にした。こうすれば、着信と同時
に、そのメールは、「削除済みアイテム」に送りこまれる。一度、インターネットを閉じれば、メー
ルそのものが削除される。

 が、相手の男性も、「開封確認」を入れていたらしい。自分のメールが開封されないまま削除
されているのを知ると、今度は、Re(件)名のところに、長々と、文面を入れてくるようになっ
た。

 「Re:奥さん、どうか削除しないで、読んでくださいな。かわいそうだと思ってください」
 「Re:奥さん、とうとう、怒らせてしまいまいましたか。そんな気じゃ、ないのです。すばらしい
奥さんに一言、ごあいさつをしたかったからだけです」
 「Re:奥さん、ホームページから写真をはずしましたね。でも、ぼくのほうで、ちゃんとプリント
アウトしてありますよ」
 「Re:奥さん、私、こう見えても、決して悪い男じゃ、ないんです」と。

 相手の男性のアドレスを調べると、どこかの無料プロバイダーを利用しているようだった。


●対抗策

 私に相談があったのは、その前後のことだった。私は、つぎのように教えた。

 「まず、送信者禁止はそのままにする。そして削除済みのアイテムに、その男性からのものら
しきメールが入っても、絶対にのぞかないこと」と。

 Aさんは、それまでは毎日のように、パソコンを開いていたが、そのころになると、一週間に
一度くらいになってしまったという。が、そのとき、Aさんを、まさに恐怖のドン底にたたき落すよ
うなことが起きた。

 「久しぶりだからもういいだろう」と思って、その一週間目に、インターネットを開くと、メールの
送受信が、受信状態になったまま止まらなくなってしまったという。

 やっと止まったところで、恐る恐る「削除済みアイテム」をのぞいたとたん、Aさんの顔は、み
るみるうちに青ざめてしまった。体も震えだした。

 そして私があれほど、「だれからか見てはいけない」と言ったにもかかわらず、Aさんは、その
「削除済みアイテム」を開いてしまった!

 すべて、「奥さん……」で始まる、その男性からのものだった。そして件名だけで、一連の文
章になるようになっていた。それが何と、100通以上! 数え切れないほどだったという。

 「Re:奥さん、お元気ですか」
 「Re:奥さん、このところ返事がいただけませんね」
 「Re:奥さん、お体のぐあいでも、悪いのですか」
 「Re:奥さん、そういえば、花粉症でしたね」と。


●現在

 Aさんは、ホームページを閉鎖した。同時に、パソコンを閉じた。そのAさんは、こう言う。

 「ホームページは、もうこりごり。パソコンを開く気もしません。メールアドレスも、個人は、公
開してはいけませんね。その恐ろしさが、よくわかりました」と。

 Aさんのようなケースは、決して例外ではない。私自身も、ときどき、しかも定期的に似たよう
なことを経験する。

 しかし免疫性ができたというか、今は、容赦なく、フィルターをかけたり、削除したりして、対処
している。いちいち気にしていたら、前に進めない。もちろん、5、6年前に、同じような経験を、
はじめてしたときには、かなり、不愉快な思いをした。

 で、こうしたメールが届いたときの、鉄則。決して、相手を、責めたり、攻撃したりしてはいけ
ない。批判してもいけない。ただひたすら、無視するのがよい。

 よくあるのは、ホームページの掲示板への、不良書き込み。私は、間髪を入れず、削除する
ことにしているが、そういうばあいでも、相手にしてはいけない。たいてい数回、削除を繰りかえ
すと、相手もあきらめるのか、書き込みをしなくなる。

 しかしAさんが経験したような男性も、いるにはいる。だから注意するにこしたことはない。
で、そのばあいも、相手にしないこと。「書き込みをやめてください」「もうメールは結構です」な
どと書くと、かえって相手の思うツボにはまってしまう。

 が、それでもいやがらせがつづいたら……。相手のプロバイダー(@マーク以後)を調べ、そ
のプロバイダーに連絡するとよい。「こういうメールが、届いていますが、善処してください」と。
(本当のところ、そういうこともしないほうがよいが……。)

 大切なことは、個人情報は、最小限に。できればホームページには、載せないこと。知らせな
いこと。とくに女性は、注意したほうがよい。はっきり言えば、この世界には、どこか頭のおかし
い「人」が、多すぎるほど、いる。

 どうか、みなさんも、しっかりと自衛策を講じながら、ホームページを開設してください。こわい
ですよ……! ホント! ゾーッ!
(040321)

【私のばあい】

 私も、メールアドレス、ホームページ、実名を公開しているため、「?」なメールは、よく届く。
抗議や、いたずら、いやがらせなど。掲示板への不良書き込みや、チャットルームへのいたず
ら書きも、あとを絶たない。(掲示板への不良書き込みは、毎週のようにある!)

 件名だけのメールも、ときどき届く。【未承認広告】と書いてあるほうは、まだよいほう。個人
の人からのメールだと思って、プレビュー画面に開いてみたら、その種の宣伝だったということ
も多い。

 で、私のばあいも、一度でも、そういうメールをくれた相手に対しては、「送信者禁止」※にし
て、対処している。つまり着信と同時に、削除。件名も、読まないほうがよい。(読めば、気にな
るので……。)

 いろいろな雑誌にも書いてあるが、そういうメールは、無視するのが、一番よいとのこと。反
論のため返信を書いたりすると、そのままこちらのアドレスがわかってしまうため、かえってめ
んどうなことになることがあるそうだ。また中には、(私は経験していないが)、いやがらせのた
め、ウィルスつきのメールを送りつけてくる人もいるという。

 (とくにウィルスつきのメールについては、その相手に、あれこれ返事を書いてはいけないそ
うだ。最近のウィルスは、差出人を詐称するという。つまり勝手にその人のアドレスを使って、メ
ールを送り届けてくるという。気をつけよう!)

 インターネットは、便利な面もあるが、扱い方をまちがえると、かえってめんどうに巻き込まれ
てしまう。実に、わずらわしい。その点、携帯電話に似ているのかも? 便利さを悪用する人
も、いるということ。じゅうぶん、注意してつきあうのが、よい。

 ここにも書いたように、とくに女性の方は、注意したほうがよい。(幸いにも、私は男なので、
「こわい」と感じたことはない。)今夜もワイフに、ここに書いたAさんの話をすると、こう言った。
「私も気をつけよう」と。決して、他人ごとではない。

 そうそうウィルス対策だけは、しっかりとしておいたほうがよい。

 ウィルス対策ソフト、ウィンドウズのUPDATEは、今どき、常識。さらに私のばあい、プロバイ
ダーのウィルス・チェック・サービスに加入し、かつパソコンを使い分けている。

 ウィルスのこわさは、もう何度も、経験している。だからへたな温情、好奇心は、禁物。「?」
「あやしい」「だれかな?」「何だろ?」と思ったら、即、削除。また削除。容赦なく、削除。「削除
済みアイテム」にメールが入っていても、絶対に、のぞかない。とくに件名のところが、英語にな
っているのは、要注意。

 なお※「送信者を禁止にする」ためには、その人からのメールを、一度、白黒反転させたあ
と、上の「ツール」から、「送信者を禁止にする」をクリックすればよい(アウトルック・エキスプレ
スのばあい)。

そのとき「削除しますか?」と聞いてくるので、「YES」をクリックする。そうすれば、そのつぎか
ら、自動的に、その人からのメールは、すべて「削除済みアイテム」の中に、放り込まれる。

 あとはAさんのように、いくらそのアイテムが太字になっても、開かないこと。心を鬼にして、そ
うする。そういう習慣が、あなた自身と、あなたのパソコンの健康を守る。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(126)

【みなさんからの、ご質問に答えて……】

+++++++++++++++++++

今週も、たくさんの方から、相談や質問を
いただきました。ありがとうございました。
その中から、いくつかを選んで、少し考え
てみます。

ほかにもいろいろ相談をいただきましたが、
時間の都合で、お答えできません。どうか、
お許しください。

+++++++++++++++++++

●エスの人

 フロイトは、人格、つまりその人のパーソナリティを、(1)自我の人、(2)超自我の人、(3)エ
スの人に分けた。

 たとえば(1)自我の人は、つぎのように行動する。

 目の前に裸の美しい女性がいる。まんざらあなたのことを、嫌いでもなさそうだ。あなたとの
セックスを求めている。一夜の浮気なら、妻にバレることもないだろう。男にとっては、セックス
は、まさに排泄行為。トイレで小便を排出するのと同じ。あなたは、そう割り切って、その場を楽
しむ。その女性と、セックスをする。

 これに対して(2)超自我の人は、つぎのように考えて行動する。

 いくら妻にバレなくても、心で妻を裏切ることになる。それにそうした行為は、自分の人生をけ
がすことになる。性欲はじゅうぶんあり、その女性とセックスをしたい気持ちもないわけではな
い。しかしその場を、自分の信念に従って、立ち去る。

 また(3)エスの人は、つぎのように行動する。

 妻の存在など、頭にない。バレたときは、バレたとき。気にしない。平気。今までも、何度か浮
気をしている。妻にバレたこともある。「チャンスがあれば、したいことをするのが男」と考えて、
その女性とのセックスを楽しむ。あとで後悔することは、ない。

 これら三つの要素は、それぞれ一人の人の中に同居する。完全に超自我の人はいない。い
つもいつもエスの人もいない。

 これについて、京都府にお住まいの、Fさんから、こんな質問をもらった。

 Fさんには、10歳年上の兄がいるのだが、その兄の行動が、だらしなくて困るという。

 「今年、40歳になるのですが、たとえばお歳暮などでもらったものでも、無断であけて食べて
しまうのです。先日は、私の夫が、同窓会用に用意した洋酒を、フタをあけて飲んでしまいまし
た」と。

 その兄は、独身。Fさん夫婦と同居しているという。Fさんは、「うちの兄は、していいことと悪
いことの判断ができません」と書いていた。すべての面において、享楽的で、衝動的。その場だ
けを楽しめばよいといったふうだという。仕事も定食につかず、アルバイト人生を送っていると
いう。

 そのFさんの兄に、フロイトの理論を当てはめれば、Fさんの兄は、まさに「エスの強い人」と
いうことになる。乳幼児期から少年期にかけて、子どもは自我を確立するが、その自我の確立
が遅れた人とみてよい。親の溺愛、過干渉、過関心などが、その原因と考えてよい。もう少し
専門的には、精神の内面化が遅れた。

 こうしたパーソナリティは、あくまでも本人の問題。本人がそれをどう自覚するかに、かかって
いる。つまり自分のだらしなさに自分で気づいて、それを自分でコントロールするしかない。外
の人たちがとやかく言っても、ほとんど、効果がない。とくに成人した人にとっては、そうだ。

 だからといって、超自我の人が、よいというわけではない。日本語では、このタイプの人を、
「カタブツ人間」という。

 超自我が強すぎると、社会に対する適応性がなくなってしまうこともある。だから、大切なの
は、バランスの問題。ときには、ハメをはずしてバカ騒ぎをすることもある。冗談も言いあう。し
かし守るべき道徳や倫理は守る。

 そういうバランスをたくみに操りながら、自分をコントロールしていく。残念ながら、Fさんの相
談には、私としては、答えようがない。「手遅れ」という言い方は失礼かもしれないが、私には、
どうしてよいか、わからない。(ごめんなさい!)

 
●孫のかわいさ

 前にも書いたが、どの人も「孫は、かわいい」と言う。私から見て、それほど「?」と思うような
子どもでも、「かわいい」と言う(失礼!)。

 浜松市に住んでおられる、Kさん(女性)から、「お孫さんは、かわいいですね」というメールが
届いた。それについて、一言。

 で、私も、私の孫が「かわいい」と思う。自分が、ジジイになってみて、はじめてその感覚が理
解できるようになった。恐らく、他人が見れば、エイリアンのような印象をもつかもしれない。や
たらと目ばかりが大きくて、どこか現実離れしている。しかしどういうわけか、私には、かわい
い。

 何というか、誠司の写真を見ていると、心が洗われるように感ずる。「天使」という言い方は少
しおおげさに聞こえるかもしれないが、私には、天使に見える。これもジジイになってみて、はじ
めてわかった感覚である。

私「みんな、自分の孫がかわいいと言うだろ。ぼくも、自分がジジイになって、それがはじめて
わかった」
ワイフ「そうね。しかし誠司は、たしかにかわいいわよ」
私「うん。しかしそう思うのは、ぼくたちだけだよ」
ワ「いいじゃない。他人がどう思おうと。私たちは私たちよ。私たちの孫だし……」
私「そうだな」と。

 だからこのところ同年齢の仲間が、「孫はかわいいよ」と言うと、すかさず、私はこう言う。「本
当に、そうだよな」と。やっと、少し、私も、すなおな気持ちになってきたようだ。


●赤ちゃんがえりのあとに……

 下の子どもが生まれると、上の子どもが、赤ちゃんがえりを起こすことは、よくある。それはそ
れだが、そのとき、上の子どもが、下の子どもに、執拗な攻撃性を示すことがある。

 ふつうの攻撃性ではない。「殺す」寸前のところまでする。そのため、下の子どもが、上の子
どもに、恐怖心さえもつようになることがある。

 ……という話は、この世界では常識だが、今日、こんなメールを、ある女性(埼玉県U市在
住、TEさん)から、もらった。

 その女性は、三人兄弟(上から、兄、自分、妹)の、まん中の子どもだった。兄とは、4歳ちが
い。妹ととは、1歳ちがいだった。いわく……。

 「私は、もの心つくころから、兄にいじめられました。そんな記憶しかありません。父や母に訴
えても、相手にしてもらえませんでした。兄は、父や母の前では、借りてきたネコの子のように、
おとなしく、静かだったからです。

 で、私は毎日、学校から家に帰るのがいやでなりませんでした。兄は、父や母の目を盗んで
は、私と妹を、(とくに私を)、いじめました。何をどういじめたかわからないようないじめ方でし
た。意地悪というか、いやがらせというか、そういういじめ方でした。

 よく覚えているのは、私が飲んだ牛乳に、兄が、何かへんなものを入れたことです。おかしな
味がしたので、すぐ吐き出したのですが、かえって母に叱られてしまいました。『どうして、そん
なもったいないことをするのか!』とです。

 で、私が中学生になったとき、とうとうキレてしまいました。兄ととっくみあいの喧嘩になり、兄
の顔に、花瓶をぶつけてしまいました。そのため兄は、下あごの骨を折ってしまいました。

 たいへんな事件でしたが、それ以後は、兄のいじめは止まりました」と。

 ……と書いて、私は、今、おかしな気分でいる。

 今の仕事を35年近くもしてきたにもかかわらず、こういう問題があることに気づかなかった。
自分の盲点をつかれた感じである。赤ちゃんがえりを起こした子どもについては、よく考えてき
た。が、しかし、その赤ちゃんがえりを起こした兄や姉の下で、いじめに苦しんだ、弟や妹のこ
とについては、考えたことがなかった。

 つまり赤ちゃんがえりを起こす子どもの側だけで、私は、ものを考えてきた。そして赤ちゃん
がえりを起こした子どもについて、「被害者」という前提で、その対処法を書いてきた。しかしそ
の赤ちゃんがえりを起こした子どもは、一方で、下の子どもに対しては、加害者でもあった。

 実際、このタイプの子どものいじめには、ものすごいものがある。ここにも書いたように、(下
の子どもを殺す)寸前までのことをする。そういう意味で、動物がもつ嫉妬という感情は、恐ろし
い。人間がもつ本性そのものまで、狂わす。

 弟を、家のスミで、逆さづりにして、頭から落とした例。自転車で体当たりした例。シャープペ
ンシルで、妹の手を突き刺した例。チョークをこまかく割って、妹の口の中につっこんだ例など
がある。

 このタイプのいじめには、つぎのような特徴がある。

(1)執拗性……繰りかえし、つづく。
(2)攻撃的……下の子を、殺す寸前までのことをする。
(3)仮面性……上の子が、親の前では、仮面をかぶり、いい子ぶる。
(4)計画的……策略的で、「まさか」と思うような計画性をもつ。
(5)陰湿性……ネチネチと陰でいじめる。

 この中で、とくに注意したいのが、(3)の仮面性である。もともと親の愛情を、自分に取りかえ
すための無意識下の行為であるため、親の前ではいい子ぶることが多い。そのため下の子ど
もが、上の子どものいじめを訴えても、親が、それをはねのけてしまう。親自身が、「まさか」と
思ってしまう。

 で、さらに一歩、踏みこんで考えてみると、実は、こうした陰湿な攻撃性をもつことによって、
上の子ども自身も、心のキズを負うということ。将来にわたって、対人関係において、支障をも
ちやすい。こうした陰湿な攻撃性は、外の世界でも、別の形で現れやすい。

 たとえば学校などで、陰湿ないじめを繰りかえす子どもというのは、たいてい、長男、長女と
みてよい。

 そういう意味でも、人間の心は、それほど、器用にはできていない。結局は、その子ども自身
も、苦しむということになる。

 さらにいじめられた下の子どもも、大きな心のキズをもつ。たとえば兄に対してそういう恐怖
心をもったとする。その恐怖心が潜在意識としてその人の心の中にもぐり、その潜在意識が、
自分が親となったとき、自分の子どもへのゆがんだ感情となって、再現されるということも考え
られる。

 実はここに書いた、埼玉県のTEさんも、そうだ。最初は、「上の兄(8歳)を、どうしても愛する
ことができない」という悩みを、私に訴えてきた。その理由としては、TEさん自身の子ども時代
の体験が、じゅうぶん、考えられる。断定はできないが、その可能性は高い。

 何度も今までにそう書いてきたが、決して赤ちゃんがえりを、軽く考えてはいけない。この問
題は、乳幼児期の子どもの心理においては、重大な問題と考えてよい。
(はやし浩司 赤ちゃんがえり 赤ちゃん返り 負の性格 下の子いじめ 攻撃性)


●負の性格

 「負の性格」という言葉は、私が考えた。

 その人がもつ、好ましくない性格を、「負の性格」という。たとえば、いじけやすい、ひがみやす
い、つっぱりやすい、ひがみやすい、くじけやすい、こだわりやすいなど。

 こうした性格は、その人を、長い時間をかけて、負の方向にひっぱっていく。他人との関係
で、いろいろなトラブルの原因となることもある。

 問題は、こうした負の性格があることではなく、そういう負の性格に気づかないことである。気
づかないまま、その負の性格に、操られる。そして自分では気づかないまま、同じ失敗を繰り
かえす。

 こうした現象は、子どもたちを見ていると、よくわかる。ひとつのパターンに沿って、子どもは
行動しているのだが、子ども自身は、自分の意思でそうしていると思いこんでいる。
 
 ただここで注意しなければならないのは、仮にひがみやすい性格であっても、その子どもが、
いつも、そうだということにはならないということ。

 相手によっては、素直になることもある。明るく振る舞うこともある。そういう意味で、人間の
心というのは、カガミのようなものかもしれない。相手に応じて、さまざまに変化する。

 言いかえると、子どもを伸ばそうと考えたら、この性質をうまく利用する。こうした変化は、子
どもほど、顕著に現れる。そして仮に負の性格があっても、それをなおそうとは考えないこと。
簡単にはなおらないし、また「それが悪い」と決めてかかると、子ども自身も、自信をなくす。

 で、問題は、私たちおとなである。

 こうした子どもの問題を考えていくと、その先には、いつも、私たちがいる。「私たち自身はど
うか?」と。

 考えてみれば、私も、いじけやすい、くじけやすい、それにひがみやすい。そういう負の性格
をいっぱい、かかえている。で、そういう性格が、おとなになってから、なおったかというと、そう
いうことはない。今でも、いじけやすい、くじけやすい、それにひがみやすい。

 ただ、そういう自分であることを知った上で、じょうずにつきあっている。どこか、ふと袋小路
に入りそうになると、「ああ、これは本当の私ではないぞ」と思いなおすようにしている。「自分を
知る」ということは、そういうことをいう。

 だれしも、二つや三つ、四つや五つ、負の性格をもっている。ない人は、いない。要は、それ
といかにじょうずにつきあうかということ。そういうこと。
(はやし浩司 負の性格 いじけやすい ひがみやすい)


●放火と火遊び

(S市のMUさんのご質問に、お答えして……。)

 親の目を盗んで火遊びする子どもは、少なくない。心身症の一つと考えてよい。抑圧された
心理状態が長くつづくと、子どもの心はさまざまに変調する。その一つとして、火遊びがある。

 ライターで、ものを燃やす。マッチに火をつけて遊ぶ、など。

 火遊びが、放火行為とちがうのは、火を燃やすスリルそのものを楽しむこと。放火は、まさに
そのものを消滅させる行為をいうが、火遊びには、それがない。燃やしては、消す。燃やして
は、消す。これが子どもの火遊びの特徴である。

 もちろん消すとき、それに失敗して、火事になることもある。しかしそれはあくまでも、結果。
子どもが隠れて火遊びをすると、たいていの親はあわてる。気持ちはわかるが、放火行為とは
区別して考える。

 で、子どもが火遊びをすると、親は、猛烈に叱ったりする。説教したり、怒鳴ったりする。しか
しこういうケース、つまり心が変調している子どものばあい、説教したり、叱っても、意味はな
い。原因そのものを考えないと、かえって、親の目を盗んで火遊びをするようになるだけ。

 私も焚き火がすきで、冬場になると、庭でよく焚き火をする。

 その焚き火だが、不思議な魅力がある。パチパチと燃えていく、木や葉を見ていると、静かな
興奮状態とともに、心がいやされていくのがわかる。そういう私の気持ちと、子どもの火遊びを
いっしょにすることはできない。しかし炎(ほのお)には、何かしら、不思議な魅力があるのは、
事実である。

 そこで子どもは、火遊びをする。

 A君(小5)は、カーテンの下端を燃やして遊んでいた。最近のカーテンは、不燃材を使ってい
る。だからライターで火をつけたくらいでは、燃えない。火であぶっても、黒くかたまるだけ。

 ほかにA君は、ときどき古いレコードや、カセットを、燃やすこともある。しかしレコードは、燃
やすと、モクモクと煙が出る。強い異臭がただよう。そのためA君は、隣の家との境へ入って、
レコードを燃やしていた。

 そういうA君を、母親は強く叱ったが、ほかにもA君には、病的な虚言癖もあった。ありもしな
いことを、あたかも現実であるかのように、シャーシャーとウソをついた。周期的に、軽い過食
と虚飾も繰りかえしていた。つまりA君の火遊びは、そうした一連の心身症による症状の一つ
に、すぎなかった。

 原因は、親の神経質な、育児態度。過干渉と過関心。子どもの側からみて、息が抜けない家
庭環境が、A君の心をゆがめた。つまりこうした原因を放置したまま、子どもの火遊びだけを責
めても、意味はない。

 もともと不安感の強い子どもと考えて、暖かいスキンシップが、有効である。添い寝、手つな
ぎを、積極的にしてやるとよい。
(はやし浩司 子どもの火遊び 火遊び)


●精神不安

 S県のKKさん(女性)が、精神不安で悩んでいるという。

 「何をしても落ちつきません。夫は『気はもちようだ』と言います。わかっていますが、この不安
感は、どうしようもありません。とくに何か、問題があるというわけではないのですが、不安でな
りません」と。

 不安イコール、情緒不安と考えてよいのでは……? 精神そのものが、不安定になってい
る。そこへ心配ごとや、不安なごとが入ると、情緒は、その心配ごとや、不安なことを解消しよう
と、一気に不安定になる。

 イライラしたり、反対に怒りっぽくなったりする。突発的に、喜怒哀楽がはげしくなったりする。
ささいなことで、激怒することもある。

 こうした症状は、だれにでもあるのでは……? 私は、花粉の季節(毎年2月末〜3月)にな
ると、心身のだるさを覚え、ついで精神状態が、不安定になる。毎年のことだから、このところ
は、自分で自分をコントロールする方法を、身につけた。「ああ、今の自分は、本当の自分では
ないぞ」と。

 幸いにも、ワイフが、きわめて安定した女性なので、そういうときは、すべての判断をワイフに
任す。「お前は、どう思う?」「お前なら、どうする?」と。たいていの問題は、それで解決する。

 あとはCA、MGの多い食生活にこころがける。CAの錠剤も、私には、効果的である。戦前ま
では、CA剤は、精神安定剤として使われていたという。

 もともと私は、基底不安型の人間だから、心配性。そのため、いつも不安とは、隣りあわせに
いる。とくに、今は、いろいろ問題があって、何かにつけて、落ちつかない。

私の欠陥は、いくつかの問題が同時に起きたりすると、パニック状態になること。具体的には、
大きな問題も、小さな問題も、同時に悩んでしまう。

 だからそうなる前に、つまり自分がそうならないように、気をつける。この世界でも、予防こそ
が、最大の治療法なのである。だから、あまり変ったことはしない。「平凡」を感じたら、それが
ベストだと思うようにしている。そしてその状態を、できるだけ長く守るようにしている。あとは、
よく眠る。運動も効果的。

 あまり参考にならないかもしれない。どうか、めげないで、前に向って進んでほしい。


●健康診断

 それで思いだしたが、明日は、健康診断の日。先ほど、書類に、必要事項を記入した。私は
午前中ですむが、ワイフは、午前と、午後の二回もあるそうだ。

 で、毎年、どういうわけか、胃のほうで、「要精密検査」となる。私は日常的に水分をたくさんと
るため、胃の上部に空気だまりが大きくできるためだそうだ。つまりその部分が、レントゲンに
写らない? よくわからないが、毎年、それでひっかかる。

 既往症なし。病歴なし。まあまあ、今のところ、健康のようだ。しかし実は、昨夜、こんな失敗
をした。

 近くのドラグストアへワイフと散歩がてら行ったら、便秘薬を売っていた。おもしろい名前の薬
だった。「どっさりウンチ」とか何とか。ワイフとゲラゲラと笑ってみていたら、店員さんが、試供
品をくれた。

 で、おもしろそうだったので、それを飲んでしまった。それが夜の9時ごろ。おかげで、夜中の
1時ごろまで、何度も、トイレ通い。腹は痛くなるし、ゴロゴロ鳴るし……。ウトウトとしかけると、
ゴロゴロ……。そこでトイレへ……。昨夜は、そんなことを、10回近くも繰りかえした。

 おかげで今朝は、睡眠不足。原稿も、あまり書けなかった。

 で、今夜は、早めに寝ることに……。では、みなさん、おやすみなさい! おたがい、体だけ
は、大切にしましょう!


●義理の兄夫婦の離婚問題

 もう一通、N県にお住まいの、SHさん(女性、35歳)からのメール。いわく、「義理の兄夫婦
が、離婚寸前。仲が悪そう。こういうとき、私は、どうしたらいいか。毎月のように離婚騒動を繰
りかえしている。しかし離婚はしないようだ……」と。

 夫婦というのは、おかしなもので、結論を言えば、夫婦のことは、夫婦にしかわからないとい
うこと。殴られても、蹴られても、「今の夫がいい」と言う妻がいる。あるいはまったく収入がな
く、一日中パチンコばかりしている夫でも、「今の夫がいい」と言う妻がいる。

 もちろんその反対の妻もいるだろう。要するに、夫婦の問題は、どこまでも夫婦の問題。その
夫婦に任せるしかない。

 では、夫婦を最後の最後で結ぶ、「絆(きずな)」は何か。

 私は(やすらぎ)だと思う。その(やすらぎ)が、ほんの瞬間でもあれば、夫婦は夫婦でいられ
る。反対にそれがないと、いくら体裁をとりつくろっても、夫婦の関係は、やがて崩壊する。

 で、私たち夫婦のばあい、その(やすらぎ)とは何かを、私はよく考える。

 これは結婚当初からの習慣になっているが、どちらかが夜、床にはいるときは、必ず、いっし
ょに入るようにしている。とくに、冬の寒い日は、ワイフのぬくもりは、ありがたい。つまりそれが
私にとっては、(やすらぎ)であるように思う。

 この(やすらぎ)があるから、あとは一日中、それぞれが勝手なことをしていても、私たちは夫
婦でいられる。仮に見た目には、大喧嘩をしても、また元のサヤに収まることができる。夫婦と
いうのは、そういうものか?

 多分、SHさんの義理の兄夫婦にも、どこかにその(やすらぎ)があるのかもしれない。またそ
れがあるからこそ、離婚しないで、最後のところで、たがいにふんばっているのかもしれない。
外見だけを見て、その夫婦を判断してはいけない。

 その点、欧米人の夫婦には、学ぶべき点が多い。たとえば寝室にしても、ほとんどがダブル
ベッドで寝ている。50歳になっても60歳になっても、そうだ。つまり一日のうちの三分の一か
ら、四分の一を、いっしょに過ごすことで、夫婦の絆を守っている?

 誤解のないように言っておくが、アメリカは別として、今では、日本の夫婦の離婚率のほう
が、ヨーロッパ各国の夫婦の離婚率より高いことを忘れてはならない。

 さてあなたは、今の夫(妻)に、どこでどのような(やすらぎ)を覚えているだろうか。これは私
の勝手な解釈によるもので、何も参考にならないかもしれない。しかし今の私の考えによれ
ば、その(やすらぎ)を、どこかで覚えれば、それでよし。そうでなければ、ひょっとしたら、あな
たも、離婚予備軍かもしれない。

 反対に言うと、たがいにその(やすらぎ)をもつということは、夫婦円満のカギになるというこ
と。毎晩、同じベッドで、たがいの寒さを防ぎあって寝るというのも、その一つの方法かもしれな
い。

 そう言えば、ここ数日、彼岸をすぎたというのに、寒い。しばらくストーブを使っていなかった
が、ここ数日は、使っている。そのせいか、昨夜は、改めてワイフの体のぬくもりを、ありがたく
感じた。
(はやし浩司 夫婦絆 夫婦のきずな やすらぎ 夫婦のやすらぎ)


●生徒の依存性

 教える立場のあるものは、いつも、生徒の依存性に注意を払わなければならない。はっきり
言えば、「生徒に、依存心をもたせてはいけない」。

 仮に教師が、生徒に依存性をもたせると、(教育)というよりも、それは(カルト)に近い関係に
なる。教師は、どこまでも教師。カルト教団の教祖であっては、いけない。

 たとえば教師と生徒は、いつかどこかで出会い、そして別れる。わかりやすく言えば、教師と
生徒の関係は、その出会ってから、別れるまでの関係である。つまり、教える側も、学ぶ側も、
その(別れ)をいつも、心のどこかに用意して、教え、そして学ぶ。

 そういう意味では、(教育)というのは、その人の(土台)のようなもの。

 私は中学時代、M氏という、バリバリの共産党員の先生に習った。塾の先生だった。何度も
市長に立候補したが、最後まで当選することはなかった。

 しかし私は、心の中で、いくらその先生を尊敬していても、私自身は、共産党員にはならなか
った。私が尊敬したのは、そのM先生の生きザマだった。

 たとえばM先生は、正月の年賀状も、自分で歩いて配達していた。夏になると、毎日、長良
川で水泳をしていた。そういう生きザマだった。事実、M先生は、(当然のことだが……)、塾の
中では、共産党の話は、まったくしなかった。マルクスの「マ」の字も、話さなかった。

 だから私は、M先生を尊敬しながらも、M先生を自分の土台とすることができた。恐らく私
も、M先生も、いつかくる(別れ)を予想しながら、つきあっていたのだと思う。

 そんなわけで、教師は、生徒に依存心をもたせてはいけない。「いつか、そのときがきたら、
あなたはあなたで勝手に生きていきなさい。あとのことは、私は知らない」と。そういうクールさ
(=ニヒリズム)をもつ。

 それが私は、教師と生徒の、あるべき関係だと思う。余計なお節介かもしれないが……。
(はやし浩司 理想の教師 教師と生徒 生徒と教師)
(040322)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(127)

【近況・あれこれ】

●町の活性化?

 浜松市内のZシティ・中央館が、経営危機に陥(おちい)っている。この原稿が、みなさんのと
ころに届くころには、「市」としての、基本的な方向づけがなされていることと思う。

 もともとこの開発計画は、無理な計画だった。それが私のような素人にも、よくわかった。そこ
で浜松市は、今年になって、Zシティに、10億円単位の公的資金を注ぎ込もうとした。しかしそ
れも、どうやら暗礁に乗りあげてしまったようだ。当然だ。17人程度の地権者(商店主)の懐
(ふところ)を守るために、10億円! しかもそれが、この先、何年つづくかわからない。

 もう、やめよう。こんなバカな政治! 全国のみなさんが、1、2の3で、号令をかければ、そ
れですむ。

 官僚と政治家と土建業者。この三者が一体となって、全国に、箱モノと呼ばれる、豪華な公
共施設ばかりを作った。しかしその大半は、破綻(はたん)。役人の天下り先としては、機能し
ているが、それ以上の価値はない。

 結局、そのツケは、つぎの世代の子どもたちが払うことに。払うというより、絶対に払えない。
本当に、これから先、日本は、どうするつもりなのか?


●国際情勢

 昨日、パレスチナの指導者(ハマスの精神的指導者のヤシン師)が、イスラエルによって暗
殺された(3・21)。これで中東情勢は、一気に不安定になった。……と、わかったようなことを
書いたが、私は、本当のところ、中東情勢については、よく知らない。しかし忍び寄る不安だけ
は、感じとることができる。

 一方、台湾では、二大政党が激突し、韓国でも、大統領の弾劾(だんがい)をめぐって、二大
政党が激突している。アジア情勢も、わけがわからなくなってきた。もっともこれらは国内問題
だから、それぞれの国に任せればよい。日本も、60年安保、70年安保のときは、大騒乱を経
験している。

 問題は、K国だ。今の今も、せっこらせっこらと、核兵器を製造している。本来なら、韓国がK
国をおさえなければならないのだが、その韓国は、これまたせっこらせっこらと、そのK国を助
けている。

 いったい、どうなっているのか?

 こうなってみると、日本は、島国で本当によかった。海が、外敵から日本を守るための堀(ほ
り)になっている。もし島国でなかったら……? 今ごろ日本は、どうなっていたことやら?

 今日の私は、どこかぼんやりとして、ものごとを深く考えられない。だからこんな上っ面(うわ
っつら)なエッセーしか書けない。ここまで読んでくれた人に申し訳ない。ごめん。


●送信者禁止処分

 前回、ストーカーメールについて書いた。しつこいメールを遮断(しゃだん)する方法について
も書いた。

 こういう機能がOE(アウトルック・エキスプレス)にあるということは、その種の悪質メールで、
困っている人が、多いということ。世の中には、心のない人が多い。よい例が、コンピュータウィ
ルスだ。そういうものを作って、どうして楽しいのか。時間と能力のムダ。そういうことが平気で
できる人というのは、人生をムダにしていることになる。その愚かさに、いつか気がつくときがく
るのだろうか。

 こう考えてみると、この問題は、自分の問題だと気がつく。私自身も、いつもどこかで、その愚
かなことをしている。そして自分の人生をムダにしている。

 私がよく後悔するのは、若いころ、他人のために本を書いていたことだ。ほかのことは知らな
いが、自分の思想を切り売りするというのは、娼婦が体を売るのに似ている? いくらお金の
ためとはいえ、してよいことと悪いことがある。あるとき私は、そう感じた。

 つまり「生きる」ということは、どこかでその「愚かさ」を知り、それと戦うことを意味する。が、
どうすれば、その愚かさを知ることができるのか。

 戦うべき、「私」には、つぎのようなものがある。

(1)自己中心性(利己主義、他人を犠牲にすること。)
(2)虚栄性(自分を飾るために生きること。)
(3)自己閉鎖性(生い立ちの中で身につけた、閉鎖性。他人に心を開けないという欠陥。)

 こうしたものが、私を愚かな人間にしている。そして「私」が、気がつかないところで、コソコソ
とコンピュータウィルスを作って遊んでいるバカと、同じことをしている。

 しかしそのときは、気づかない。毎日、こうして前に進んでいると(多分?)、その結果として、
過去の私が愚かだったことを知る。そういう意味で、釈迦は、「精進(しょうじん)」という言葉を
使った。立ち止まったとたん、その人は、自分を見失う。

 こうして考えてみると、この世の中に、他人の愚かさを笑える人は、いったい、どれだけいる
のかということになる。あるいは、ひょっとしたら、いないのかも? いろいろ考えさせられる。


●いかりやCさんの死去

 人気コメディグループ「D」のリーダーだった、いかりやCさんが数日前になくなった。そのCさ
んには、こんな思い出がある。

 私が金沢で学生だったころ、私は、下宿の近くにあった観光会館というところで、よくアルバイ
トをしていた。

 そこへ三波春夫という歌手の歌謡ショーがやってきた。私の記憶では、最前列よりも前に立
って(座って?)、上を見あげていたので、警備のようなアルバイトだったかもしれない。その三
波春夫ショーの前座だったか、途中だったかで、「D」が、一列に並んで、何かしらコントを披露
していた。

 まだ「D」が、かけだしのころだったかもしれない。当時は、三波春夫の全盛期でもあった。

 私には、高木Bさんという、やけに太った人のほうが、強く印象に残った。(名前は、ずっとあ
とになってから、知った。)ほとんど舞台装置もないような状態で、どこか寸劇風なコントをして
いた。そうそう今、思い出した。私がしていたのは、警備ではなく、そのときは、何か舞台の飾り
つけをするようなアルバイトだった。その飾りつけを操作するために、そこにいた。

 「おもしろかった」という印象はなかったが、「私も仲間に入れてもらおうかな」と思った。当時
は、まだそんな雰囲気だった。

 つぎに記憶のあるのは、何かの拍子に、三波春夫の楽屋へ入りこんでしまったこと。狭い楽
屋で、4〜5畳くらいしかなかったのでは? そこに三波春夫が立っていて、私を何かの重要人
物とまちがえたのか、直立不動のまま、あいさつをしてくれたのを覚えている。

 そのあと、私は、三波春夫の話は、みなにしたのは、覚えている。「D」の話は、しなかった。
しかし今、その当時のことを思い出してみると、つまり今という時点でみると、三波春夫は、消
え、「D」のいかりやCさんだけが、残っている。

 だからどうというわけではないが、人気商売の流れのようなものを、私は感ずる。一つの流れ
がやってきて、そしてしばらくすると、つぎの流れがやってくる。そしてつぎの流れがやってくるこ
ろには、前の流れは、消えていく。「世の無常」というのは、少しおおげさかもしれないが、それ
に近い。

 私自身は、いかりやCさんのコントよりは、渋い刑事風の演技が好きだった。が、そのCさん
もなくなった。そのことについて、今朝、ワイフが、こう言った。

 「古い人が、どんどんとなくなっていって、さみしいわね」と。私は、それに答えて、「うん、そう
だね」と言った。そう言いながら、あの日、あのコントを見あげていた自分を思い出していた。


●集団の中の個人

 いつだったか、I県の県庁に勤める友人がこう言った。「官庁なんてものはね、規則で成りたっ
ているようのものだよ。規則を取ったら、組織はバラバラだよ」と。

 外から見ると、巨大な組織も、中身と言えば、無数の規則のかたまりでしかない、と。

 おもしろい見方である。心理学の世界でも、こうした規則の存在を認める。それを「規範」とい
う。

 たとえば街を歩いてみる。そこには無数の人がいる。しかし、たがいのつながりはない。こう
した人たちを、心理学では、「群集」と呼ぶ。しかしその群集が、何らかの規範を保ちながら集
まったとき、その「群集」は、「集団」となる。

 官庁は、その規範で成りたっている。

 が、この規範には、いろいろな側面がある。便利な面もあれば、不便な面もある。わかりやす
く言えば、従順に従うか、反抗するかということになる。もちろんその中間も、ある。

 そこでこの「規範」に対する、人間の反応を、つぎの4つに分ける。

(1)従順、順応型……集団の規範を、何ら疑うことなく、受け入れる。
(2)挑戦、改良型……規範に対して、いつも改良を加え、住みやすくしようとする。
(3)抵抗、反抗型……規範に対して抵抗し、いつも反抗的態度をとる。
(4)逃避、退行型……規範から逃避し、自分だけの小さな世界に住もうとする。

 こうした4つのパターンは、そのまま、その人の生きザマとなって反映される。もちろんその組
織は、官庁だけにかぎらない。「会社」という組織や、さらには「日本」という組織も、その組織で
ある。

 私は、この中でいう、(2)の挑戦、改良型タイプの人間である。どんな世界に入っても、すぐ
ワーワーと騒ぎ始める。「こうしたらいい」「ああしたらいい」と。今も、こうしてモノを書きながら、
そうしている。

 しかしときどき、(1)の従順、順応型であったら、どんなに気が楽になるだろうと思うことがあ
る。私の知人の中には、そういう人も多い。組織という組織を、すべて受け入れてしまっている
(?)。言われたことだけを、言われたようにやっている。

 で、今、ふと思ったのだが、画家や作家の中には、(4)の逃避、対向型の人が多いのではな
いかということ。かなり話が脱線するが、許してほしい。ここから先は、まったく別の話と思って
もらってもよい。

++++++++++

 最近でも、50万部を超えるベストセラーを出した人が、いる。しかし実際に会って話をしてみ
ると、完全な「お宅族」。社会や集団とのかかわりを、ほとんどもっていない。しかし本だけは、
売れた。

 そこでマスコミが担ぎ出し、その人の意見をあれこれ求める。しかし考えてみれば、これはお
かしなことだ。私は、この疑問を、かなり若いころにもった。

 日本を代表するような画家にせよ、小説家にせよ、ではそういう人たちが、社会的にすぐれ
た人物であるかどうかということになると、疑わしい。何かの研究家も、そうだ。むしろどこか
「?」な人ほど、そういう世界では、成功をおさめやすい? このことは、たとえば教育の世界で
も、言える。

 私が20代のころ、東京のA大学から、一人の教授が、このH市にやってきて、子育て講演会
をもった。題して「幼児教育とは」。しかし話の内容は、まったくチンプンカンプン。あとでその教
授の経歴を調べたら、その教授は、「赤ん坊の歩行のし方を研究し、その歩行のし方から、人
間の進化論を証明した人」ということだった。

 人間の赤ん坊は、ある時期、ワニやトカゲと同じような這(は)い方をする。

 それ自体は、すばらしい研究だが、ではその研究者が、どうして幼児教育を説くことができる
のか。たまたま赤ん坊が研究テーマだったにすぎない。こうした誤解と、錯覚は、ほかにもあ
る。

 たとえば昔から、このH市は、楽器の町で知られている。それは事実だ。しかしそのH市は、
いつの間にか、音楽の町にすりかわってしまった。楽器と、音楽の間には、超えがたいほど、
大きな距離がある。以後このH市は、「音楽の町」として懸命に売りだそうとしている。が、今イ
チ、パッとしない。

 楽器と音楽。それは印刷機と文学と、同じくらい、離れている。印刷機の町だからといって、
文学の町ということにはならない。同じように、楽器の町だからといって、音楽の町ということに
はならない。どこか話が、おかしい?

 さてさて話が脱線してしまったが、こうしたそれぞれの人の特性を見きわめないと、ときとし
て、私たちは、その幻想と錯覚に振り回されてしまう。たとえば数年前、人間国宝となっている
歌舞伎役者が、若い愛人の前で、チンチンを出した事件があった。その写真は、写真週刊誌
にフォーカスされてしまった。

 しかしその役者が、人間国宝を返上したという話は聞いていない。その歌舞伎役者は、役者
としては、すぐれた人物かもしれないが、人間的には、「?」と考えてよい。つまり私たちは、そ
れぞれの人がもつ特性を、そのつど混濁してしまう傾向がある。端的な言い方をすれば、有名
人になれば、それだけ人格も高邁(こうまい)であると、誤解してしまう。

しかしそういうことは決して、ない。ないという意味で、ここに集団における人間の特性を4つの
パターンに分けてみた。もっとわかりやすく言えば、(4)の逃避、退行型の人が、その世界で成
功をおさめたあと、ついで、(2)の挑戦、改良型、あるいは(3)の抵抗、反抗型の人間に化け
ることは、よくある。

 「さてあなたはどうか?」「私はどうか?」という視点で考えてみると、おもしろいのでは……?
(はやし浩司 集団 群集 規範)


●精神病は、危険か?

 神戸で起きた、『淳君殺害事件』は、いまだに多くの場所で語られている。そのため、自分の
子どものことで、それについて心配する親も多い。たとえば自分の子どもが、精神科へ通うよう
な状態になると、「うちの子は、だいじょうぶでしょうか」「うちの子どもも、ああいう事件を引き起
こすのではないかと心配です」と。

 しかしその事件を引き起こした少年Aが、そうであったかどうかという話は、別として、一般論
としては、精神病の患者(統合失調症※を含む)が事件を引き起こす割合が、そうでない人が
引き起こす割合より大きいというデータは、今のところ、存在しない。

 インターネットを使って、あちこちと調べてみたが、そういう事実は、浮かんでこない。むしろご
くふつうの子どものほうが、凶悪事件を引き起こす割合が、高い。だから精神的に何か問題が
あるからといって、すぐそれを、「危険」と考えてはいけない。それこそ、まさに、偏見ということ
になる。

 日本人は、精神的に何か問題があると、それを隠そうとする。恥ずかしいこと、悪いことと考
える。しかし精神も、肉体と同じように、病気になる。なっても、まったくおかしくない。

 非公式な意見だが、アメリカ人の3分の1は、うつ病だという学者もいる。あるいは3分の1の
人は、一生の間に、一度は神経症になるという説もある。40%が、何らかの精神的病(やま
い)をかかえているという説もある。内科へくる患者の、3分の2が、すでにその段階で、心身症
になっているという説もある。つまり今では、精神病というのは、軽い風邪のようなもの。大げさ
に気にするほうが、おかしい。

 私も精神科の世話にはなったことこそないが、かかりつけの内科医師には、それに近い相談
をいつもしている。一応、睡眠薬とかそういう薬ももらっている。(めったに使ったことはないが
……。)若いころは、偏頭痛にも苦しんだ。

 むしろ、私のばあい、気をつけているのは、「ふつうに見える、ふつうでない人」だ。とくに、執
拗にからんでくる人には、注意している。アルツハイマー型痴呆症の人の、初期のそのまた初
期症状として、そういう症状を示すこともあるという。妙にかたくなになったり、がんこになったり
する。感情の繊細さが消えることもある。ズケズケとものを言うのも、その症状の一つである。

 40歳のはじめで、その症状を示す人は、5%(20人に1人)とみるそうだ。

 親でも、こういう親にからまれると、とことん神経をすり減らす。その人が、ふつうでないと気づ
くまでに、時間がかかるからだ。このタイプの人は、ものの考え方が、自己中心的。ある日、突
然教室へやってきて、「ウソをつくな!」と怒鳴ったりする。理由を聞くと、「夏になったら、紫外
線がふえるから、帽子をかぶろう」と私が言ったことが、「ウソだ」と。つまり「帽子では、紫外線
は防げない」と。

 自分勝手な妄想をふくらませてしまうため、会話そのものが、かみあわなくなってしまう。

 で、40歳というと、ちょうど中学生の子どもをもっている親の年齢ということになる。また5%
というと、生徒でいえば、10人に1人ということになる。(親の数は、20人になる。)

 学校の教室では、30人クラスでは、何と、3人は、このタイプの親がいるとみてよい。そういう
親が、これまた先頭に立って、教室そのものを引っかきまわしてしまう。だから最初から、警戒
したほうがよい。

 このことは、親どうしのつきあいについても言える。

あなたの子どもが中学生なら、あなたの周辺にも、このタイプの親が、1人や2人は、必ずい
る。(しかしあなたは、絶対に、そのタイプの人ではない。なぜなら、アルツハイマー痴呆症の初
期の初期症状を示す人は、こうしたマガジンを読まない。読んでも、すでに理解できない。)

 ともかくも、精神病が危険であるという考え方は、まちがっている。根拠がない。偏見である。
むしろ、まじめな人ほど、精神病になりやすい。

 またまた原稿を書いているうちに、大きく話が脱線してしまった。このところ、こうして脱線する
ことが多くなった。ひょっとしたら、これは痴呆症の始まりか……? ゾーッ!

 そんなわけで、この話は、ここまで!
(※……統合失調症。少し前まで、「精神分裂病」という診断名が使われていた。)


●催眠商法

 子どものころ、催眠商法というのを目撃したことがある。祖父だったか、だれかに連れていっ
てもらった。その催眠商法が、今でも、あるという。昨日、その催眠商法をしていた会社が、S
市で、警察によって、摘発された。

 方法は、ご存知の方も多いと思うが、こうだ。

 まず安い商品で、相手をつる。タワシや歯ブラシから始まって、鍋やフライパンなど。で、客
が、鍋を買うと、その価格の2〜3倍近い景品を、それにつける。「おめでとう。鍋を買ってくれ
た方には、この3000円の包丁をつけます!」と。

 こうして徐々に、高額商品へと客を誘導していく。すると客たちは、買わなければ損だという
意識をもつ。ある種の興奮状態になる。

 そういう状態にしたあと、その最後に、30〜50万円にフトンを持ちだす。客たちは、「高額の
フトンだから、それなりのオマケがあるにちがいない」と錯覚する。しかしそのフトンには、おま
けはない。「買った」と手をあげた客は、そのまま、その高額なフトンを買わされてしまう。

 ……という話を、ここに書くのが、目的ではない。

 昔、私が20歳の後半のころ、私は一人のゴーストライターに出会ったことがある。名前は、
MK氏といった。当時、MK氏は、40歳くらいだった。

 いろいろなゴーストライターがいたが、MK氏の力は本物だった。相手に合わせて、たくみに
文章を書いた。文体も、その人に合わせた。

 しかしそういう生活を長くしてきたためか、自分では自分の文章を書けなかった。おかしく思う
人がいるかもしれないが、モノを書くということには、そういう側面がある。が、そのMK氏の人
生が狂うきっかけとなったのは、彼が一年間、交通刑務所に入ったことだった。

 MK氏は、それまでに二度、飲酒運転で逮捕されている。そして三度目。そのときも、飲酒運
転だった。(本当は、だれかの身代わりになったという話も聞いたことがある。)

 それで、交通刑務所に、一年間、入った。

 そのMK氏は、出所後も、しばらくはゴーストライターをしていたが、この浜松市では、その仕
事も少ない。で、MK氏は、先に書いた、催眠商法に手を出した。

 私が一度、「今は、何をしていますか?」と聞いたことがあるが、そのときMK氏は、どこかは
にかんだ様子で、「フトンを売っているよ」と言った。

 で、それを最後に、MK氏とは、会っていない。ただMK氏をよく知る人とは、何度か会ったこ
とがある。その人の話では、今でも、MK氏は、今回、摘発された会社とはちがうが、その催眠
商法をしているらしい。

 ……という話を書くのも、この原稿の目的ではない。

 私はそのMK氏を思い出すたびに、こんなことを考える。人間の運命は、どこでどう決まるの
か、と。

 MK氏は、もともとまじめな人だった。才能もあった。もし彼が、東京とか、そういうところで仕
事をしていたら、今ごろは、何かの賞でもとって、著名な作家になっていたかもしれない。しかし
この浜松市では、モノを書いて生計を立てるのは、不可能。

 だからMK氏は、ゴーストライターをするようになった。彼は、衣料品販売会社の社長の自伝
を書いたり、いろいろなドクターの本を書いたりしていた。美容の本も書いたことがある。

 が、そのMK氏の運命は、交通刑務所へ入ったところで、大きく変わった。そしてそのあと、こ
こに書いた、催眠商法に手を出すようになった。

 もちろん催眠商法は、「悪」である。そしてそれをするMK氏は、「悪人」である。しかしMK氏
が、本当に悪人であるかどうかということになると、どうも、そうではないような気がする。MK氏
は、運命に翻弄(ほんろう)されるまま、いつしか、やがて、悪人に育てられていった。

 実は、私が書きたいのは、このことである。

 世の中には、善人もいれば、悪人もいる。しかしその「差」は、ほとんど、ない。わずかなチャ
ンスに恵まれた人は、善人になり、そうでない人は、悪人になっていく。私やあなただって、もし
MK氏と同じ立場になっていたら、そのまま悪人になっていたかもしれない。

 反対に言いかえると、今、善人ぶっている人だって、一皮むけば……ということにもなる。

 だからこのところ、私は、悪人を見ても、どうしてもその人が悪人には、見えない。「かわいそ
うな人だ」とまでは、思わないが、それに近い感情をもつ。その摘発された会社の社長は、顔を
隠しながらも、どこかうなだれていた。私はそれを、テレビでかいま見たとき、即座にあのMK
氏を思い浮かべ、ついで私を思い浮かべた。私だって、一歩、道をあやまっていたら、今ごろ
は、ああなっていたかもしれない、と。

 どこがどうちがったのか、私にはわからない。あるいは、本当のところ、ちがいなど、どこにも
なかったのかもしれない。日々の、ほんのわずかな積み重ねが、MK氏をMK氏にした。そして
私を私にした。それだけのことかもしれない。

 そのニュースを、テレビでみながら、私は、そんなことを考えた。


●別れのニヒリズム

 教えるという仕事をしていると、いつも、出会いと別れが、ペアでやってくる。出会いも、たい
へんだが、別れは、つらい。

 そこで教えながらも、子どもには、感情を入れ過ぎない。入れすぎると、別れが、もっとつらく
なる。

 では、どうするか?

 これはあくまでも私のばあいだが、別れると同時に、その子どものイメージを、つぎの子ども
に焼きつけてしまう。A君ならA君が去ったら、そのA君のイメージを、A君によく似た、B君に焼
きつけてしまう。

 親にしてみれば、「入会も、退会も自由」と思うかもしれないが、教育は、ものの販売とはちが
う。サービス業とはいうが、そのサービス業ともちがう。当然、教える側と、学ぶ側は、一本の
人間関係という「糸」で結ばれる。

 それはたとえて言うなら、親が子どもを手放すのに、似ている。そこまでは深刻ではないにし
ても、その何百分の一くらいの、さみしさはある。

 それと同時に、「退会」というのは、一般の会社でいえば、「クビ切り」にほかならない。親は簡
単に、「今月いっぱいでやめます」と言うが、私には、それが「今月いっぱいで、あなたのクビを
切ります」と言っているように聞こえる。

 だから長い間、こういう仕事をしていると、自分の心を守るため、いつも心のどこかで自分の
心にブレーキをかける。いつ別れがやってきてもよいように、心の準備だけはしておく。

 しかしおかしなもので、その別れが近づいてくると、それとなく雰囲気でわかる。子どもによっ
ては、どこか投げやりな態度を示すようになる。私の指示に従わなくなることもある。そういうと
きは、「ああ、この子との別れも、近いな」と、自分で覚悟する。

 もちろんだからといって、その親や子どもを、責めているのではない。もともと私がしている仕
事というのは、その程度の仕事。自分でもわかっている。いつだったか、同業のI先生も、こう
言った。「ぼくらは、教え子の結婚式に呼ばれることは、まずありまあせんから……」と。

 とくに私は、幼児を相手にしている。人間関係が、育たない。それに自分のしたことが、いくら
その子どもの(土台)になっていることがわかっていても、そこまで私を理解してくれる親は少な
い。この仕事には、そういさみしさが、いつもついてまわる。

 だからこの世界には、「20%のニヒリズム」という言葉がある。昔、だれかが、そう教えてくれ
た。「どんなに、教育に没頭しても、最後の20%(10%でもよい)は、自分のためにとってお
け」と。それがないと、こういう仕事をしているものは、あっという間に、身も心も、ボロボロにさ
れてしまう。


●マガジンが400号!

 やっとマガジンが、第400号を超えた。やっと、だ。目標は、1000号。あと、2倍半! まだ
まだ道は遠い。がんばろう!

 一番苦しかったのは、200〜300号あたりか。よく覚えていないが、何度もくじけそうになっ
た。が、そのたびに、多くの人に励ましてもらった。もしそれがなければ、この400号まで、つづ
けられなかったと思う。

 しかしまだ、600号もある! が、このところ、少し自信がなくなってきた。ワイフはときどき、
こう言う。「無理をしないでね」と。

 そう、どこか無理をしている感じがする。それに、どうしてこんな無理なことを、自分に課してし
まったのか、よくわからない。だれかに頼まれたわけでもないのに……、とよく思う。

 趣味なのか? 道楽なのか? それとも自分との戦いなのか? よくわからない。わからない
まま、毎日、こうしてヒマを見つけては、原稿を書いている。

 読んでくれる人に申し訳ないので、できるだけ役にたつことを書きたいと思っている。しかし本
当に、読んでくれる人がいるのだろうか。そういう不安もある。まあ、できるところまで、やって
みよう。その先に何があるかわからないが、やれるところまでやってみる。そのあとのことは、
そのときに考えればよい。

(今夜の私は、かなり弱気になっている……? 多分?)

 しかしここは、すなおに喜ぼう。やったぞ、400号! 原稿用紙にすれば、400x25=1000
0枚! 単行本にすれば、80冊! よくも、ここまで書いたものだ。ホント! みなさん、ありが
とう!
(040324)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(128)

●知能テスト

+++++++++++++++++++++

春休みが終わって、あちこちの園で、知能テスト
が実施されている。

それについて、M県にお住まいの、AAさんから、
「知能テストについて、詳しく教えてほしい」
「うちの子(年長児)は、IQ・105と診断さ
れたが、どういう意味か」という質問をもらった。

+++++++++++++++++++++

 現在、「ビネー式知能検査法」と呼んでいるものは、フランスの心理学者ビネーによって開発
された知能テスト法をいいます。

 それがアメリカで改良され、現在広く使われている、「スタンフォード・ビネー検査法」という知
能テストになりました。私たちが、「知能テスト」と呼んでいるものは、この「スタンフォード・ビネ
ー検査法」のことをいいます。

 この「スタンフォード・ビネー検査法」の特徴は、子どもの知能を、(IQ、intelligent Quality)で、
評化した点です。「うちの子のIQは……」というときの、「IQ」です。つぎのような計算式で求め
ます。

  精神年齢
    IQ(知能指数)=-――――――――――x100
               生活年齢

 (精神年齢)というのは、検査テストの結果。(生活年齢)というのは、満6・0歳であれば、6x
12=72ということになります。満10・0歳であれば、10x12=120ということになります。

 たとえば満6・0歳(精神年齢が72)の子どもが、テストで、80点をとったとします。すると、そ
のIQは、80÷72x100=111ということになります。

 このスタンフォード・ビネー検査法で、130を超えると、天才、69以下だと、精神遅滞と判定
されます。ただし、いくつかの問題点があります。

(1)訓練によって、点数が伸びる……幼児教室によっては、こうしたテストを事前に実施してい
るところがあります。ずるいですね。たとえばこの時期、慎重な子どもは、丸を描くときも、ゆっ
くりと、ていねいに描きます。つまりそれだけ時間がかかります。そこでその丸をはやく、描か
せます。少しだけ、時間がかせげるようになります。

ですから実際、ある程度訓練すると、10〜30点くらいは、点数が伸びるのは事実です。しかし
……??? 

(2)知能テスト、イコール、頭の性能ではない……知能テストで、よい成績をおさめたからとい
って、その子どもの頭がよいということにはなりません。この種のテストは、要領のよい子ども
が、よい成績をおさめます。

またこの時期大切なのは、思考の柔軟性(やわらかさ)です。頭のやわらかい子どもは、その
まま伸びつづけます。そうでない子どもは、伸び悩みます。さらに空想力、想像力、創造力とな
ると、こうしたテスト法では、測定できません。たとえば一定のオブジェ(形)を与え、その形を利
用した絵を描かせるというテスト法(ドローイング・オブジェ法)があります。

このテスト法は、子どもの創造力を知るには、すぐれた方法ですが、しかし採点方法が定型化
できないという欠陥があります。採点は、あくまでも教える側の直感力が基準になります。

(3)あくまでも標準値と比較しての話……スタンフォード・ビネー検査法は、あくまでも標準値
(生活年齢)と比較して、どうだというテスト法をいいます。ですから、約3分の2の子どもは、85
〜115の範囲に入るといわれています。必ずしも、絶対的なものではないということです。

たとえば仮に、満6歳のとき、IQが、120と診断されたとしても、生活年齢があがれば、それが
110になり、100になることもありえるわけです。もっとわかりやすく言えば、どこか早熟タイプ
の子どものほうが、よい成績をおさめるということです。

「子どものころは神童。二十歳を過ぎたら、ただの人」(失礼!)ということも、ありえないことで
はないということになります。

 このように知能テストというのは、あくまでもそのときの、能力のある部分を測定するにすぎな
いということです。ですからそれで仮に悪い点を取ったからといって、それほど深刻に考える必
要は、(まったく)ありません。

 もし子どもの知能を伸ばそうと考えたら、それよりも大切なことは、「考える習慣」を身につけ
させることです。(もの知りで要領のよい子ども)ではなく、(深く、よく考える子ども)です。

 つぎに大切なのは、(思考のやわらかさ)です。

 ところで、こんなことがありました。

 先日、あるところで、ある女性に会いました。年齢は、32歳ということでした。その女性に、私
は、こんなジョークを言ったのです。

 「ある男性が、バイアグラと、鉄分の入った錠剤を飲んで寝たら、翌朝、体は、北をさしてい
た」と。

 しかしその女性は、キョトンした顔で、まったく反応を示しませんでした。ジョークを話した私の
ほうが、驚いたほどです。内容を説明するといっても、きわどい話なので、それもできませんで
した。

 そのとき私は、「この女性は、頭のかたい人だな」と思ってしまいました。ふつうなら、ゲラゲラ
と笑うはずなのですが……。

 子どもでも、伸びる子どもは、頭がやわらかいです。ずいぶん前ですが、ワールドカップのと
き、私はふと、こんなことを口にしてしまいました。「アルゼンチンのサポーターの中には、女の
人はいないんだってエ」と。

 すると子どもたち(年長児)が、「どうしてエ?」と。

 そこで私が、だって、「アル・ゼン・チンだもんね」と。

 このジョークは、幼児には無理かなと思った瞬間、一人だけ、ニヤニヤと笑った子どもがいま
した。そういう子どもは、伸びます。

 この時期、大切なことは、子どもの頭をやわらかくする訓練です。具体的には、私の教室のコ
マーシャルになって恐縮ですが、「同じことを、同じパターンでは教えない」です。いろいろな角
度から、いろいろな方法で刺激していきます。

 たとえばBW(私の教室)では、年間、44のテーマに分けて、一度たりとも同じレッスンをしな
いように心がけています。そういう刺激が、子どもの頭をやわらかくします。子どもたちのもつ
自由な発想を、うまく集約しながら、それを一つの考え方に結びつけていきます。

 というわけで、あくまでも知能検査(IQ)は、一つの目安にすぎません。

 最後に一言。書店などには、こうしたテストの訓練用のワークがおいてありますが、風邪薬を
いくらのんでも、風邪の予防にはならないと同じように、こうしたテストをしたからといって、頭が
よくなるとは限りません。大切なのは、生活の場で、無数の刺激を受けながら、深く考える習慣
です。どうか、それを大切にしてください。

 方法としては、いつも、子どもに向かって、「あなたはどう思う?」「あなたはどうしたらいいと
思う?」と、話しかけることです。ぜひ、応用してみてください。

 参考までに、前に書いた原稿(中日新聞掲載済み)を、添付しておきます。

++++++++++++++++

子どもが伸びるとき

●伸びる子どもの四条件

 伸びる子どもには、次の四つの特徴がある。(1)好奇心が旺盛、(2)忍耐力がある、(3)生
活力がある、(4)思考が柔軟(頭がやわらかい)。

(1)好奇心……好奇心が旺盛かどうかは、一人で遊ばせてみるとわかる。旺盛な子どもは、
身のまわりから次々といろいろな遊びを発見したり、作り出したりする。趣味も広く、多芸多
才。友だちの数も多く、相手を選ばない。数才年上の友だちもいれば、年下の友だちもいる。

何か新しい遊びを提案したりすると、「やる!」とか「やりたい!」とか言って、食いついてくる。
反対に好奇心が弱い子どもは、一人で遊ばせても、「退屈〜ウ」とか、「もうおうちへ帰ろ〜ウ」
とか言ったりする。

(2)忍耐力……よく誤解されるが、釣りやゲームなど、好きなことを一日中しているからといっ
て、忍耐力のある子どもということにはならない。子どもにとって忍耐力というのは、「いやなこ
とをする力」のことをいう。

たとえばあなたの子どもに、掃除や洗濯を手伝わせてみてほしい。そういう仕事でもいやがら
ずにするようであれば、あなたの子どもは忍耐力のある子どもということになる。あるいは欲望
をコントロールする力といってもよい。目の前にほしいものがあっても、手を出さないなど。こん
な子ども(小三女児)がいた。

たまたまバス停で会ったので、「缶ジュースを買ってあげようか?」と声をかけると、こう言っ
た。「これから家で食事をするからいいです」と。こういう子どもを忍耐力のある子どもという。こ
の忍耐力がないと、子どもは学習面でも、(しない)→(できない)→(いやがる)→(ますますで
きない)の悪循環の中で、伸び悩む。

(3)生活力……ある男の子(年長児)は、親が急用で家をあけなければならなくなったとき、妹
の世話から食事の用意、戸じまり、消灯など、家事をすべて一人でしたという。親は「やらせれ
ばできるもんですね」と笑っていたが、そういう子どもを生活力のある子どもという。エマーソン
(アメリカの詩人、「自然論」の著者、一八〇三〜八二)も、『教育に秘法があるとするなら、そ
れは生活を尊重することである』と書いている。

(4)思考が柔軟……思考が柔軟な子どもは、臨機応変にものごとに対処できる。同じいたずら
でも、このタイプの子どものいたずらは、どこかほのぼのとした温もりがある。食パンをくりぬい
てトンネルごっこ。スリッパをつなげて電車ごっこなど。反対に頭のかたい子どもは、一度「カ
ラ」にこもると、そこから抜け出ることができない。ある子ども(小三男児)は、いつも自分の座
る席が決まっていて、その席でないと、どうしても座ろうとしなかった。

 一般論として、「がんこ」は、子どもの成長にとって好ましいものではない。かたくなになる、意
固地になる、融通がきかないなど。子どもからハツラツとした表情が消え、動作や感情表現
が、どこか不自然になることが多い。教える側から見ると、どこか心に膜がかかったような状態
になり、子どもの心がつかみにくくなる。

●子どもを伸ばすために

子どもを伸ばす最大の秘訣は、常に「あなたは、どんどん伸びている」という、プラスの暗示を
かけること。そのためにも、子どもはいつもほめる。子どもを自慢する。ウソでもよいから、「あ
なたは去年(この前)より、ずっとすばらしい子になった」を繰り返す。

もしあなたが、「うちの子は悪くなっている」と感じているなら、なおさら、そうする。まずいのは
「あなたはダメになる」式のマイナスの暗示をかけてしまうこと。とくに「あなたはやっぱりダメな
子ね」式の、その子どもの人格の核に触れるような「格」攻撃は、タブー中のタブー。

その上で、(1)あなた自身が、自分の世界を広め、その世界に子どもを引き込むようにする
(好奇心をますため)。また(2)「子どもは使えば使うほどいい子になる」と考え、家事の手伝い
はさせる。「子どもに楽をさせることが親の愛」と誤解しているようなら、そういう誤解は捨てる
(忍耐力や生活力をつけるため)。そして(3)子どもの頭をやわらかくするためには、生活の場
では、「アレッ!」と思うような意外性を大切にする。

よく「転勤族の子どもは頭がいい」と言われるのは、それだけ刺激が多いことによる。マンネリ
化した単調な生活は、子どもの知恵の発達のためには、好ましい環境とは言えない。
(はやし浩司 ビネー スタンフォード 知能検査 知能テスト IQ 生活年齢 精神年齢 子ど
もの知的能力 知的能力 知能)
(040325)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(129)

●白い顔

 我が家を改築してからのこと。ワイフが、いつもまっ白な顔をして、洗面所から出てきた。
「ナ、何だ、その白い顔は!」と言うと、ワイフは、「どこがア?」と。

 理由は、すぐわかった。

 洗面所に、二つの暖色系のランプがつけた。だいだい色の、明るいランプである。そのランプ
のもとで化粧をしていると、どうしても、白味を帯びた化粧になる……らしい。

私「化粧をするときは、自然光の中でしたほうがいい」
ワ「そうね」と。

 以来、街をいっしょに歩いていて、まっ白な化粧をした人を見ると、私はワイフにこう言う。「き
っと、あの人の家の洗面所も、だいだい色のランプだよ」と。

 で、その化粧。

 私は、昔から、日本人は、化粧のしすぎだと思っている。どうごまかしても、日本人は日本
人。アジア人。黄色人種。肌の白さが、白人とは、基本的にちがう。少し前、「私、ファンデーシ
ョン、使ってません!」と叫ぶ、どこかの化粧品のコマーシャルがあった。だいたいにおいて、フ
ァンデーションなど、使うほうが、おかしい(?)。

 こんな事件があった。

 ある日のこと。私の二男の妻が、近くのデパートへ、服を買いにいった。そこでのこと。二男
の妻が、試着室で、泣き出してしまったという。二男の妻は、生粋(きっすい)のアメリカ人。い
わく、「私が服を着ようとしたら、店員さんが、私の顔に袋をかぶせた。私は伝染病など、もって
いないのに……」と。

 それで私のワイフが、こう説明したという。「服に、ファンデーションがつくからよ。決して、あな
たを差別したからではないのよ」と。

 で、二男の妻に聞くと、アメリカ人の女性は、ほとんど化粧などしないという。使っても口紅程
度らしい。

 が、この日本では、もとの顔がわからないほどまでに、化粧をする。色を塗って、ツヤを出し、
その上にまた色を塗る。マユや、鼻の線を描いて、さらにいろいろなものを、顔や目につける。
私のワイフなんかも、若いころは、原型をとどめないほどまでに、厚化粧をしていた。アフリカ
の原住民にも、そういう種族がいるそうだ。顔から足の先まで、白いドロを塗る。(まだ、そのほ
うが、わかりやすい?)

 つまり戦後、日本人は、あの過激ともいえる化粧品メーカーのコマーシャルに、踊らされすぎ
た。S堂だの、K王だの、Pーラだの、いろいろある。

 で、今は、それが整形へとつながった。

 化粧にせよ、整形にせよ、それが悪いとは思わない。しかしものごとには、程度というものが
ある。限度というものがある。最近では、子どもに整形をほどこす親もいるという。いいのかな
あ?

 みなさん、もっと中身で勝負しようよ。……と言うのは、ヤボなこと。しかし世の女性たちは、
その化粧で、いかに多くの時間を浪費していることか。一人がすると、みながする。みながする
と、われもわれもと、さらにみながする。こうして日本の化粧会社は、ほかの産業と比べても、
特異な成長を遂げた。

 ところで話はかわるが、先日、100円ショップへ行ったら、100円化粧品というのが、ズラリ
とあった。そこらの化粧品屋に売っているものなら、おおかた、すべてそろっていた。

 私も、ためしに、つまりだまされたと思って、いくつかを買ってみた。整髪クリームやひげそり
クリームなどなど。で、その結果だが、何も問題ない。ないというより、まったくふつうの化粧
品。

以来、私が使う化粧品は、すべて100円ショップのもの。そこで改めて、私は、こう思った。

 「もともと100円程度のものを、莫大な広告費と宣伝費を上乗せされて、1000円以上で買
わされていたのではないか」と。

 とにかく日本の女性たちは、化粧のしずぎ。それだけは、国際的にみても、事実だと思う。


●尖閣諸島(中国名・釣魚島)

日本と中国、台湾が領有権を主張する尖閣諸島に、中国人7人が上陸した。そこで日本政府
は、その中国人を逮捕し、沖縄まで連行した(3・25)。

 これに対して、日本のK首相は、「逮捕は、法治国家として当然!」(3・26)と。

 地図で見ると、その尖閣諸島は、まさに台湾のすぐそば。率直な疑問として、「どうしてそこが
日本の領土なのかなあ」と思う。それはちょうど、北海道の東のはずれにある、クナシリ島、エ
トロフ島を見て、「どうしてそこがロシアの領土なのかなあ」と思うのに、似ている。

 だれも住んでいないのなら、よけいに、そう思う。「台湾のものだ」「いやちがう、日本のもの
だ」「やあやあ、そこは中国のものだ」と争っても意味はない。何かしっかりとした根拠でもあれ
ば話は別だが、もともとあのあたりは、台湾に昔から住む部族(高砂族)が活躍していたとこ
ろ。沖縄の住民も、もともとは、その高砂族の一派だったという。あるいは、日本本土というよ
り、台湾に住む部族に近かったという。

 (こういうことを軽々に書くと、そのスジの人たちから、猛烈な反発がある。不勉強をお許しい
ただきたい。今度、しっかりと調べておく。)

 ただ私は、こういうことが原因で、近隣の国の人たちと争い、それが戦争ということになれ
ば、バカげていると思う。「小さな島だから、みんなで仲よく使いましょう」というわけには、いか
ないのだろうか。

 どうもこのところ、日本のK首相の言動は、過激になってきたように思う。私もどちらかという
と過激になりやすい人間だが、私のばあいは、いつも温厚で、穏便なワイフが、私の言動にブ
レーキをかけてくれる。しかしK首相には、そういう人もいないようだし……。

 だれかがK首相にブレーキをかけないと、この日本は、たいへんなことになるぞ!……と、私
は、心配する。

 
●歩く

 ときどき、運動をかねて、自宅から浜松市内まで歩く。距離は、直線にして6〜7キロ。やや
速く歩けば、1時間と少し。ふつうに歩けば、1時間半の距離である。

 で、今日(3・25)も歩いた。今、その心地よい疲れが、下半身をおおっている。汗も少しかい
た。途中、パラパラと雨が降ってきた。万が一のときは、ワイフに助けを求めるつもりだった。し
かしその雨も、すぐやんだ。

 今日は、とくにこれはというドラマはなかった。道路工事をしている人や、学生たち、そういう
人たちとすれちがった。低い雲を見ながら、「あの雲の上は、銀色に輝いているのだなあ」と
か、そんなことを考えた。

 あとはただひたすら、大手を振って、前に向かって歩いた。そうそう一台、大型のベンツが横
を通りすぎたとき、「ぼくの足は、ベンツだ。体は、BMWだ。頭は、IBMだ」と思った。その車は
対向車を避けるため、私の右肩をかすめていった。あぶなかった。

 あとはいつものコンビニで、お茶を買った。いつもの店員さんではなかったので、「いつものメ
ンバーは?」と聞くと、その店員さんは、こう言った。「今日だけ、交代です」と。

 で、その店を出て、ここへ来た。時刻は2時。今日は3時から、4月からの新年中児たちの説
明会。もうこんなことを繰りかえして、30年以上になる。少し疲れた感じ。しかしやるしかない。
これが私の仕事なのだ。

 もう一度、簡単に掃除をして、イスを並べなおして、教材を置く。こうして私の新年度は、毎
年、始まる。


●本能

 本能は、意思の力によってコントロールできるか。

 本能といっても、内容は、一様ではない。しかし本能というのは、もともとは、生存に関するも
のがほとんど。もしその本能を否定するようなことがあると、人間は、子孫を後世に残せなくな
る可能性もある。

 そのため本能が悪いのではない。要は、どうすればその本能におぼれないですむかというこ
と。そういう意味で、本能は、恐ろしい。人間の本性そのものを、狂わす。

 たとえば私は、「男」だから、男としての本能をもっている。で、そういう自分を振りかえってみ
て言えることは、「この本能ほど、やっかいなものはない」ということ。つまり本能を、意思の力
でコントロールするのは、たいへんむずかしい。

 今年度も、このS県でも、校長以下、7〜8人の教職関係者が、懲戒免職になっている。全員
が、ハレンチ行為が理由である。で、そのたびに、マスコミは、「教師にあるまじき行為」と非難
する。

 しかし本当にそうだろうか。私は、こうした問題は、「油断」の問題だと思う。油断したときに、
その教師は、本能におぼれる。その教師自身の欠陥というより、心のスキの問題である。

 正直に書く。本当に正直に書く。

 私は、22歳のときまで、ガールフレンドを何人ももち、遊びまくった。セックスが好きだった
し、楽しかった。しかしある夜を境に、それをやめた。

 以後、ただの一度も、本当にただの一度も、キャバレーとか、クラブへ、入ったことがない。も
ちろんその当時はやった、ピンクサロンへも、だ。そして少なくとも、それ以後は、20歳以下の
女性と、遊んだことはただの一度もない。本当にない。

 唯一の趣味は、ときどきストリップを見に行くことだった。しかしそれとて、裸の女性を見ると
いうよりは、その雰囲気を楽しむためだった。年に、数回は行っただろうか。しかしここ15年
は、一度も、行っていない。

 そういう私を見て、「教育評論家が、ストリップ?」と思う人はいるのだろうか。もしそう言って
私を非難する人がいたとしたら、私は、こう叫ぶ。「私は、評論家である前に、男だ。人間だ」
と。

 だから正直に書くと、こうしたハレンチ行為で教職を追われた教師は、お気の毒としか言いよ
うがない。たまたま教職だったから、職場を追われた。それとも、ほかの公務員の人たちも、同
じように、懲戒免職になっているとでもいうのだろうか。

 私がたまたま品行方正なのは、それだけ自律心が強いからではない。たまたま、そういう本
能におぼれる機会が、なかったからにすぎない。だからマスコミが騒ぐように、頭からそういう
教師をたたくことが、どうしてもできない。

 本当に、本能というシロモノは、やっかいなものだ。

 これから先、もう少し、この問題は掘りさげて考えてみたい。


●パソコン漬け

 ある雑誌に、こう書いてあった。「一日に、10回以上、メールをのぞくようなら、ビョーキ」と。

 しかし私は、毎日、5〜7時間は、パソコンと向かいあっている。文章を書くためである。そし
てときどき、疲れたようなとき、ふと手があいたようなとき、メールをのぞく。

 ……ということで、私は回数にすれば、毎日、10回以上、メールをのぞいていた。だから私
は、「ビョーキ」ということになった。

 そこであるとき、私は、自分の行動を、つぎのように決めた。

 まずパソコンを使い分ける。

 ワープロ用、インターネット用、そしてホームページ用、と。

 ワープロ用と、インターネット用とで、同じパソコンを使うから、一日に10回以上もメールをの
ぞくことになる。しかし分ければ、そういうことはできない。

 つぎに、不要な情報には、どんどんフィルター(送信者禁止処分)をかけた。サーバー(プロバ
イダー)からのウィルス情報、不要なスタンドからの宣伝、あやしげなサイトからのメールなどな
ど。容赦なく、フィルターをかけた。

 こうすることで、私のところに届くメールがぐんと減った。同時に負担が、ぐんと軽くなった。そ
のため、メールをのぞくことも、少なくなった。

 そして最後に、自分に決めた。午前中は、2回。午後は、3回、と、メールをのぞく回数を、計
5回までに制限した。それ以上は、ビョーキ!

 携帯電話にせよ、パソコンにせよ、ハマると、本当にこわい。私は昔、パソコン通信(今のイ
ンターネットの全身)で、ハマってしまったことがある。そのとき、パソコンのこわさを、イヤという
ほど、思い知らされた。だから、今、パソコンに対して、自分でブレーキをかけるようにしてい
る。

 「10回以上は、ビョーキ」というが、本当のところ、その「10回」の根拠は何か。よくわからな
いが、その道の専門家がそう言うのだから、従うしかない。


●ふんばり勝ち

 この不況を逆手にとって、成功する道は何か? 

 こういう不況であるからこそ、ふんばる。こんな例がある。

 N県S市。人口が10万人足らずの小さな町である。

 その町には、昔は、10軒近い、自転車屋があったという。しかし平成時代に入ってから、つ
ぎつぎと、店をたたんだ。で、今、残っているのは、3〜4軒。

近くに大型スーパーができ、そこでも自転車を売るようになった。それで、また1〜2軒が、開
店休業に追いこまれた。

 が、ここで興味深いことが起きた。残ったのは、2軒だけだが、その2軒が、かえって、繁盛し
始めたというのだ。つまり同業者というライバルがいなくなった分だけ、その2軒の自転車屋
に、客が集まり始めた!

 値段的には、もちろんスーパーで売る自転車には、かなわない。しかし自転車には、修理が
必要である。あとあとの修理のことを考えると、自転車屋はやはり専門店で買ったほうがよい。
……と、客のすべてが考えているわけではないが、そういうふうに考える客も、少なくない。

 バイクをやめて、自転車に乗る人もふえた。健康のために、自転車に乗る人もふえた。どこ
か粗悪品の自転車がふえたため、修理もふえた、などなど。知人の男(その残った自転車屋
の主人)は、こう言う。

 「ふんばり勝ちですよ」と。

 苦しいときもあったらしい。「うちも来年は、店を閉めよう」と思ったこともあったという。しかし
がんばった! その結果、生き残った。いくら不況になっても、自転車は必需品。パンクの修理
などは、残る。

 今、日本中が不況の嵐の中で、もがき苦しんでいる。政府は、さかんに「景気は好転した」と
騒いでいるが、実際には、85%近い人は、「その実感はない」(Y新聞・3・25)と答えている。

 こういう時代だから、ふんばる。ふんばった人が、勝ち。土俵のまぎわまで追いつめられた人
が、ふんばる。そのとき足をゆるめれば、それでおしまい。今の不況は、そういう不況と考えて
よい。

 ただ、ふんばるといっても、職種のちがいもあるようだ。何がなんでも、ふんばればよいという
ものでもない。

 どんなに不況になっても、(なくては困る)という職種の人は、ふんばればよい。必ず、勝つ。
しかしもともと(なくても困らない)という職種の人は、ふんばっても、あまり意味はない? たと
えば私の仕事。

 ハハハ! (笑って、ごかます。)

 みなさん、がんばって、ふんばりましょう! 


●友人、城下君を、悼む。

昨夜(3・25)、学生時代の友人、本多君(旧姓、城下君)の訃報を、聞く。金沢で弁護士をして
いるK君と、本多君が住む、羽咋市で司法書士をしているA君から、ほとんど、同時に、連絡が
届く。

 聞いたとたん、背骨が抜けたかのような衝撃を受けた。ひざが、ガクガクした。

 本多君は、3年前、石川門の前で、会ったばかりだった。翌年の、02年にも、同窓会で会っ
ている。元気だった。私とタイプが似ていたので、ふつう以上の親近感を覚えていた。その本多
君が、死んだ!

 K君に電話する。しかし不在。つづいてA君に電話する。

私「どうしてだ?」
A「あいつ、10年前に、一度、脳腫瘍で手術をしてね。一度は、完治したんだ。で、また頭痛が
あったのでみてもらったら、再発だよ。全身に転移していたよ。それでね……」
私「もう一人、脳腫瘍の人がいたじゃないか?」

A「そう、ぼくだよ」
私「知っていたよ。お前は、だいじょうぶか?」
A「つぎは、オレだろうな。これからは、みんな、バタバタと死んでいくと思うよ」と。

 浜松市に住んでいる同窓生の、I君に連絡をする。しかし夜10時ごろまで電話をかけつづけ
たが、不在。

私「葬式は、どうしたらいいだろうか?」
A「無理をするな。遠いから……」と。

 実家の私の母も、このところ寝たきりになっている。で、週末には、実家へ戻ることになって
いる。しかしそれは言わなかった。「葬式には、行けたら行くよ」と、そんないいかげんな言い方
も、したくなかった。

 本多君。

 この前会ったときは、ダジャレばかり言って騒いでいた。学生時代は、そうは思わなかった
が、心の広い、大きな人間になっていた。その心の暖かさが、そのまま、まわりのものを包んで
しまうような男になっていた。

 「彼も、いろいろあったんだなあ」とは思ったが、しかし脳腫瘍を経験していたとは……! 

私「急だったのか?」
A「頭が痛いというからみてもらったら、おかしな影が写ってね。それでね……。手術中になくな
ってしまったよ。肺は、ガンが転移して、穴だらけだったそうだ」
私「……」
A「脳腫瘍は、急にくるよ。急だよ。症状がね」と。

 もう少し若いころの私だったら、心のどこかで、「ぼくでなくてよかった」と思ったかもしれない。
しかし今は、そうは思わない。私の中の、私の一部が、死んで消えてしまったかのように感ず
る。この喪失感は、どうしようもない。

 (このまま原稿が書けなくなってしまった……。)


●今日で、旧年度、終了! 3月26日!

 今日は金曜日。朝から曇天。昨日降った雨が、地面をぬらしている。

 やっと、昨日までに、いろいろなゴタゴタが片づく。おかげで今朝は、8時ごろまで、ぐっすりと
眠ることができた。

 昨日、書店で、アメリカやオーストラリアに住む友人たちに、いろいろな本や雑誌を買う。花
の本が好きな、Jさん。汽車が好きな、R君。それに孫の誠司に、英語の絵本。DVDも買った。
これはオーストラリアのB君のため。

 今日は、最後のレッスンが終わったあと、大掃除。気分は悪くないから、そのままワイフとど
こかで、打ち上げ式をするつもり。「今年度も無事に終わった」と。と、同時に、来年度の態勢も
整った。

 教室も往年の活気はないが、それはそのまま私の体力の限界。もう昔のようには、仕事はで
きない。これからは、自分の健康気づかいながらの、仕事となる。

 しかしこのぼんやりとした感覚は何だろう。友人の死か、それとも、春先の陽気か? 何かし
ら気(け)だるい。

 明日、三男が、もう一度、グライダーに乗るという。昨日は、オーストラリア500キロレースの
出場選手たちの壮行会があったそうだ。三男は、そこで何かしらのアルバイトをしたようだ。い
くらか、お金を稼いだのだろうか。

 今度の日曜日に、バスか、セスナ機で、アデレードに戻る予定だという。天気がよければ、セ
スナ機で、遊覧飛行をしながら戻るという。あの国は、何かにつけて、日本とはスケールがちが
う。

 長男の再就職先も決まった。「お祝い会をしようか」と声をかけると、「もう、いい」と。誕生日
が近いので、その日に、祝賀会は、まとめてするつもり。

 さてさて私も、春休みに入る。こういう長期の休みの最大の課題は、どうやって運動をつづけ
るかということ。数日も運動をしないでいると、すぐ体がナマってしまう。毎日、数時間は、自転
車に乗ろう。……と、今、覚悟した。

 ああ、それにしても、はっきりしない朝だ。昨日の雨で、このあたりの桜も散ってしまったかも
しれない。

今、ハナ(犬)が、遠慮がちにほえたところ。きっと散歩の犬が通ったのだろう。

 これから何人かに電話して、友人の葬儀に香典を届けてもらわねばならない。

 では、みなさん、Happy Spring−Time!
(040326)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(130)

●本能

 本能、つまり本能的行動には、(1)種別性、(2)生得性、(3)固定性、(4)不可逆性の4つが
あるという(深堀元文氏ほか)。

(1)種別性……同じ鳥でも、水をこわがる鳥もいれば、こわがらない鳥もいる。このように種別
によって、本能的行動がちがうことをいう。

(2)生得性……だれに習わなくても、クモは、クモの巣の作り方を知っていることをいう。

(3)固定性……一定のパターンで行動し、学習によって変えることができないことをいう。

(4)不可逆性……一つのパターンで行動していたとき、途中でじゃまが入ったようなとき、その
パターンがこわれることをいう。つまり途中から、もとの行動パターンにもどることができないこ
とをいう。(以上、同氏、「心理学のすべて」より。)

 そこで最大の命題。本能を、自分の意思でコントロールできるかということ。こんなジョークが
ある。(これは私が学生時代に、人から聞いた、ジョーク。)

++++++++++++++

 ある寺の僧侶が、寺の後継者をだれにするかで、悩んでいた。自分の命が、それほど長くな
いことを知っていた。

 そこで目立った、7人の弟子たちを本堂に集めて、こう言った。

 「これから、お前たちの中から、一人を選ぶ。お前たちの中で、もっとも、煩悩(ぼんのう)に
わずらわされないものを、わしの後継者とする」と。

 そこでその僧侶は、7人の弟子たちに、ペニスの先に、鈴をしばりつけるように言った。弟子
たちは、言われたとおりに、自分のペニスの先に、鈴をつけた。

 そしてしばらく僧侶と弟子たちが、瞑想(めいそう)にふけっていると、そこへ素っ裸の女性
が、入ってきた。美しい女性だった。そして弟子たちの前で、足を広げて、踊りだした。

 すると、どうだろう。あちこちから、かすかだが、鈴の音が聞こえてきた。チリチリ……、チリチ
リ……と。

 その音を聞いて、僧侶は、がっかりした。「何たることよ!」と。

 が、一人だけ、鈴の音が聞こえてこない弟子がいた。僧侶はそれを知って、その弟子のとこ
ろにきて、こう言った。

 「お前こそ、この寺を継ぐべき男だ」と。

 するとそれに答えてその弟子は、申しわけなさそうな顔をして、こう言った。

 「いえ、ご僧侶様。私の鈴は、とっくの昔に、どこかへ飛んでいってしまいました……」と。

+++++++++++++++

 聖職者は、性的関心をもってはならないとされる。少し前まで、教職者も、聖職者とみなされ
ていた。しかしそんな話は、とんでもない幻想。ウソ。どこかの学校の校長だって、夜な夜な、う
らビデオを見ながら、マスターベーションしている。

 本能的行動というのは、そういうもので、その人の意思の力で、どうこうなるものではない。い
わんや、コントロールできるものではない。

無理に、自分に『ダカラ論』をかぶせて、「私は教師だから」とがんばる人も、中にはいるにはい
る。

 たとえばだれかが、ヒワイな話をしたりすると、露骨にそれを嫌ってみせたりする。しかしそう
いうのを、心理学の世界では、「反動形成」という。つまりは、大仮面。『ダカラ論』をかぶせるて
いるうちに、自分でまったく別の自分をつくりあげてしまう。

 むしろこうした本能的行動が、人間のあらゆる活力の源泉になっている。あのフロイトだっ
て、リピドーという言葉を使ってそれを説明している※。「リピドー」つまり、生きる力は、性的エ
ネルギーである、と。

 女がいるから、男はがんばる。男がいるから、女はがんばる。一見、複雑にみえる人間社会
だが、すべては、そこから始まり、そこで終わる。もしその人から、性的エネルギーを奪ってし
まったら……。その人は、もう生きるシカバネでしかない。

 そこで結論。

 私たちは本能的行動によって、日々の生活の中で生かされている。しかしその本能的行動
は、いわば「無」から、「有」を生む行動といってもよい。そのことがわからなければ、森に立つ
木々を見ればよい。

 森に立つ木々には、本能的行動はない。だから、何と、その世界は、殺風景なことよ。ドラマ
など生まれる余地がない。(人間が木々を見て感動するのは、それは人間の勝手。木々たち
には、そういう感動はない。)

 一方、動物は、その「無」から、「有」を生みだす。その原動力が、性的エネルギーである。

 もっとわかりやすく言えば、人間は、ほかの動物たちもみなそうだが、一見無意味な本能的
行動に支配されながら、その中から、「生きる」という「有」を生みだしているということになる。も
し映画『タイタニック』の中の、ジャックとローズが、男と女でなかったら、あの映画は、ただの船
の沈没映画。

 しかしジャックとローズは、本能的行動に支配されて行動した。そしてあのドラマをつくりあげ
た。そしてその結果として、観客を、感動させた。つまり私たちが生きる意味は、そこにある。

 本能とは何か? ……それをつきつめていくと、実は、それが、「無」から「有」を生み出す、
原動力となっていることを知る。つまりは、動物と、この自然界を分ける、壁であることを知る。
気が遠くなるほどの長い進化の過程で、人間は、(あるいはその前の動物としての人間は)、
ただの物質としての生命体から、意思をもった生命体として、自らを区別することができた。

 ……どこかの哲学者が書くような、わかりにくい文章になってしまって恐縮なのだが、要する
に、本能的行動こそが、私たちが人間であるという証拠、そのものにほかならない。

 大切なのは、そうした本能を前向きのとらえるということ。そしてその前に、何が本能で、また
本能的行動であるかを、冷静に知るということ。つまりは、いかに意思の力でコントロールして
いくかということ。たとえて言うなら、本能は、野生を走る野生馬のようなものかもしれない。

 その馬に乗る私たちは、その馬をうまくコントロールする。野生馬そのものは、悪でも何でも
ない。むしろ野生馬を否定すれば、私たち自身の存在もあやうくなる。

 今日までの結論は、そういうことになる。このつづきは、もう少し頭がすっきりしてから、考え
てみたい。今朝の私は、どこかぼんやりとしている。頭がうまく働かない。
(はやし浩司 本能 本能的行動 本能論)
(040326)

(※)フロイトのこの学説に対して、ユングなどは、それを否定している。ここではフロイトの学説
にそって、話をすすめてみたが、だからといって、私がフロイトの信奉者というわけではない。
誤解のないように!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(131)

●金正田コメディ

 A新社という出版社から、また「マンガ金正田入門」(2)が、発売になった。赤本の(1)は、私
も買った。今度のは、青本。立ち読みしているうちに、思わず、笑ってしまった。本当かウソか
は知らないが、こんなエピソードが載っていた。

 (内容は、コメディ映画風に、私がかなり脚色した。チャップリンなら、こういうふうに脚本を書
いただろうというように、書きなおしてみた。どうか、お許しいただきたい。)

+++++++++++++++++

 金正田が、自分とそっくりの替え玉をつくった。本物の金正田を、金正田Aとする。替え玉を、
金正田Bとする。

 で、金正田Bが、金正田Aのところに、あいさつにきた。

 それを金正田Aが見て、びっくり。自分とウリ二つだったからだ。ホクロの数、位置、大きさは
もちろんのこと、髪の毛の生え際まで、同じだったという。K国の整形技術も、相当なものらし
い。が、一番むずかしかったのは、体型だったとか?

 あのスイカの入ったような腹をつくるのに、金正田Bは、わざと便秘にさせられ、嫌いな酒を
飲まされたという。

 が、ここで金正田Bは、失敗する。本物の金正田Aが、金正田Bをほめたとたん、金正田B
が、体を直角に曲げて、頭をさげてしまったというのだ。「ありがとうございます!」と。

 これを見て、金正田Aが激怒。「金正田は、だれにも、頭はさげない! お前は、思想強化所
で、精神も、オレになりきってこい」と。

 そこで金正田Bは、思想強化所へ、送り込まれた。いわば収容所である。

 で、二か月後。思想強化所で徹底的に訓練を受けた金正田Bが、また金正田Aのところへ連
れられてやってきた。そのとき、金正田Aは、金正田Bに、こんなことを言ったという。

 「アメリカ軍が来て、どちらが、本物の金正田だと聞かれたら、お前は、最後の最後まで、私
が、本物の金正田だと言わなければならない。殺されても、そう言いつづけるのだ。わかった
かア!」と。

 が、またまた金正田Bは、失敗をしてしまう。金正田Bは、こう返事をした。「わかりました、将
軍様」と。

 これがまた金正田Aを激怒させた。金正田Aは、金正田Bに、こう叫んだ。「バカモン! 様な
んか、つけるな。様をつければ、オレが本物だと、バレてしまうだろ。だれが何と言っても、私
が、金正田だと言うのだ。わかったかア!」と。

 そんなわけで金正田Bは、再び、思想強化所へ、二か月間、送りこまれた。

 金正田Bは、今度は、さらに徹底した訓練を受けた。そしてかっこうばかりではなく、心まで金
正田になりきって、金正田Aのところに、もどってきた。

 金正田Aは、それを見て喜んだ。「ようし、今日から、お前が執務室へ入れ。そしてオレのか
わりに仕事をしろ。オレは、24時間、毎日、ぶっつづけで仕事をしていることになっている」と。

 そして金正田Aは、金正田Bに、執務室で仕事をさせることになった。仕事といっても、たいし
た仕事はない。毎日、ハンをつくだけの仕事。で、本物の金正田Aはというと、そのまま、秘密
の地下道を通って、喜ばし組の女たちが待ている、歓楽会館へ。

 が、数日後、事件が起きた。

 ニセモノの金正田Bが、執務室でヒマをもてあましていると、そこへ喜ばし組ナンバーワンと
呼ばれている女性がやってきた。美しい女性だった。そして金正田Bを見ると、欲情をこらえき
れず、そのまま金正田Bに抱きついていった。

 金正田Bは、見たこともないような美人に抱きつかれ、すっかりその気に。いや、どんなこと
があっても、自分は本物であると言わなければならない。そういうつもりで、その美人と、数時
間にわたって、やりまくった。

 一方、本物の金正田Aは、歓楽会館で、女ざんまい、酒びたりの生活。そういうところへ、金
正田Bと、やりまくったその女性が、その翌日、もどってきた。そしてこう言った。「将軍様、昨日
は楽しかったです……」と。

 これを聞いた金正田Aは、これまた激怒。「オレの女に手を出すとは、許せない!」と。金正
田Aは、秘密の地下道を通って、執務室へ。が、ここでハプニングが起きた。

 執務室の前には、4人の警護兵がいたのだが、金正田Aと、金正田Bを見て、区別がつかな
くなってしまった。

警備兵「どちらが本物の将軍様ですか?」
金正田A「オレだ。オレに決まっている」
金正田B「オレだ。オレに決まっている」と。

 金正田Bも、必死である。ここでニセモノとバレれば、また思想強化所送りである。

 が、歓楽会館から帰ってきたばかりの金正田Aは、どこかやつれ顔。風格もない。一方、ニセ
モノの金正田Bには、風格があった。それで警備兵は、なんと、本物の金正田Aを、逮捕してし
まったというのだ!

 みなさんは、この話を信ずるだろうか。この話には、まだつづきがある。

 収容所へ送られた、本物の金正田Aは、ワイロをくばりまくって、その収容所から脱出して、
首都ピョンピョンにもどってくる……。そこでもまた、ハプニングが……。

 ここのつづきは、本のほうでまた読んでみてほしい。ありそうで、ありそうでなく、しかしそれで
いて、ありそうな話であるところが、何とも、おもしろい。

 『すべてをもつ独裁者は、すべてのものを恐れる』とは、どこかの哲学者が残した言葉。何も
恐れるものもなく、のんびりと暮らせる、私たちの生活に、私たちは、感謝しようではないか。
(040327)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(132)

●ホームレスの男

 私の教室から、数十メートル離れたところに、小さな公園がある。昔は、市役所がそこにあっ
たという。今は、記念公園のようになっていて、中央に、消防夫の銅像が建っている。なかなか
の力作である。

 で、昨日、その公園を横切って教室へ行こうとすると、一人のホームレスの男が目に止まっ
た。ちょうど青いビニールシートを広げて、何やら、並べるところだった。

 私はどういうわけか、このところ、ホームレスの人たちに、親近感を覚えるようになった。もと
もと私の生きザマも、彼らのそれに近いこともある。

 で、そのとき視線が合ってしまった。私がニコリと笑うと、その男も、どこかニコリと笑った。顔
の細い、60歳くらいの男だった。私が近寄ると、親しげに話しかけてきた。

 「これ、300円だよ。これがあると便利だよ。これは、200円でいい……」と。

 どこかはにかんだような、力ない、オドオドした言い方だった。

 みると、ゴミというか、どこかで拾ってきたようなものばかりを並べていた。実際、どこかで拾
ってきたものだろう。使い古しのローソクとか、皿とか、栓抜きなどが並べてあった。

 その間に、観葉植物も並べてあった。私が買うとした、それしかない。

私「これはいくら?」
男「ああ、これね、500円でいいよ。いや、300円でもいいよ」
私「根はついているの?」
男「砂地にさしておけば、根はつくよ」と。

 観葉植物もどこかの庭から、引きぬいて盗んできたものだろう。それがありありとわかるよう
な観葉植物だった。

私「名前は何ていうの。この植物?」
男「知らないよ。でも、きれいな花が咲くよ」
私「こっちのは、いくら?」
男「これも、300円でいいよ」と。

 男はどこか遠慮がちだったが、必死だった。懸命に、観葉植物を並べなおして、それを私に
売りつけようとした。

私「おじさんは、生まれはどちら?」
男「ああ、おいらね。おいらはね、周智郡のM町だよ。あのM町から、バスで、30分くらいのと
ころだよ」
私「フウーン。ここ数日は、暖かくなってよかったね」
男「そうだね。やっと暖かくなったね」と。

 私は一つの植木バチを指差して、「それをもらうよ」と。

 男は、瞬間、輝くような喜びを見せて、「ああ、これね。300円でいいよ」と。

 が、男は、その植木バチから、一本だけを、引きぬいて、別の植木バチに植え替え始めた。
少し話がちがう? が、私は、何も言わなかった。

 男は、その一本だけを、別の植木バチにぐいと押し込んだあと、それを手で高くもちあげなが
ら、「これでいいかなあ?」と。本当は、「一本だけとは思わなかった」と言いたかったが、言え
なかった。人なつこそうな男の表情が、それをはばんだ。

私「どうせ、すぐ別の植木バチに植え替えるから……」
男「包まなくてもいいかい?」
私「いいよ」
男「ありがとうね」と。

 私がバッグからお金を出すと、男は、「その皿の上に置いてくれればいいよ」と。時刻は、午
後2時ごろだった。で、私が、「おじさん、今日は何か食べたの?」と聞くと、下を向いたまま、だ
まってしまった。

 私は型どおりのあいさつをして、つまり左手に植木バチをつかんだまま、その場を離れた。と
たん、右手にあの消防夫の銅像が見えてきた。左の石段では、先ほどから男女の高校生が、
何やら、たがいの体に触れあいながら、いちゃついていた。

 のどかな昼だった。雨がやんで、空気も澄んでいた。私は仕事の前に、どこかで昼食を食べ
るつもりだった。しかしこのところ、太りぎみ。瞬間、私はふりかえった。男は、私を見ていた。

 私は男のところにもどった。

 「おじさん、これぼくの昼飯代だけど、おじさん、何か買って食べナ」と。私はバッグから1000
円札を取り出すと、男に渡した。「断られるかな」と思ったが、男は前にもましてうれしそうな顔
をした。

私「チップだよ」
男「ありがとうよ」と。

 心のどこかで「こんなことしていいのかなあ」と思いつつ、その場を離れた。今度は、もう振り
かえらなかった。

 公園を出るとき、ハトの一群が足元から、バタバタと飛び去った。
(はやし浩司 ホームレス ホームレスの男 随A)
(040327)


+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(133)

【心を考える】

●回避性障害

 人と会いたくない。ひとりで、部屋の中に閉じこもっていたい。どこか気分が重い。人と会う
と、疲れる。こわい。自分がそのままボロボロになっていくように感ずる。

 これが回避性障害である。

 この状態のとき、本人が何も考えていないかというと、それはウソ。無数の「考え」というより、
無数の「感情」が同時に、自分の中でわき起きてくる。もう少し具体的に説明しよう。

 引きこもっている人を見ると、一見、その人は、何も考えていないように見える。ぼんやりと、
時間が流れていくのに身を任せているように見える。実際、外から観察すると、そう見える。

 しかし実際には、そうではなく、そのとき、その人を、無数の感情(考えではなく、感情)が、襲
っている。

 悲しい思い。楽しい思い。こわい思い。つらい思い。それぞれに何らかのエピソードが付着す
ることはある。そういった、とりとめのない感情が、つぎからつぎへとわき起こり、その人を支配
する。

 平常なときというのは、つまりそうでない(ふつうの人)は、そうした感情の中から一つを選び、
それに身を任すことができる。しかしこのタイプの人には、それができない。「自分が何を考え
ているかわからない」というのではなく、そのため、「自分がどこにいるかわからない」という状
態になる。

 だから世間との接触が、できなくなる。本当に、こわいのだ。

 そこで回避性障害を起こす人は、昼間の日の光を恐れるようになる。その光の向こうに、人
の気配を感ずるからだ。無数の人の気配イコール、自分のバラバラになった感情ということに
なる。

 だからただひたすら、目を閉じて眠る。眠くなくても、目を閉じる。遠くで聞こえる車の走る音。
人の声。歩く音。家族の動静。すべてが気になる。そしてそのつど、別々の感情が心の中で起
きてくる。

 そういう意味では、まさに心のビョーキということになる。感情のコントロールそのものができ
なくなる。一つの妄想がつぎの妄想を、呼び起こす。そしてそれらが混ぜん一体となって、頭の
中をかけめぐる。

 それがこわい。

 こうして回避性障害の人は、見た目には、昼と夜を逆転した生活をするようになる。夜のほう
が安心できるというのは、それだけ人の気配を感じないからだ。

 ……と、私もときどき、気分が落ち込むと、瞬間だが、回避性障害のような状態になることが
ある。そういう自分を静かに観察してみると、そういう人たちの心の状態が、理解できる。

 私がたまたま回避性障害と言われないですんでいるのは、その期間が、「瞬間的」であるか
らにすぎない。しかし一歩、まちがえば、いつその障害にとりつかれるか、わかったものではな
い。この文を読んでいる、あなただってそうだ。

 大切なことは、だれにでも、そういう兆候はあるということ。何も、特別な人が、回避性障害に
なるわけではない。ごくふつうの人が、ふとしたきっかけでそうなる。

 つぎに大切なことは、そういう状態になる前に、できるだけ自分の心を静かに観察する習慣と
能力を身につけておくということ。そしてそういう状態になる前に、「今の私は、おかしいぞ」と、
自分の心にブレーキをかけるようにする。

 繰りかえすが、だれだって、心のビョーキになるのだ。回避性障害にだって、なる。同じ人間
だから……。


●夫の仕事、妻の仕事

 毎日、じっと何かに耐えながら、仕事をする。いやなことも、つらいことも、ぐいとがまんしなが
ら、仕事をする。

 仕事には、いつもそういう側面がある。ないとは言わない。この世界で、自分の仕事を楽しん
でしている人など、いったい、どれだけいるというのか。

 芸術家? 作家? 研究家? ……こういう人たちは、それなりに苦しいこともあるだろうが、
しかしサラリーマンのようなことはない。私のように、自営業者のようなことはない。

 私の恩師のT教授は、いつもこう言っている。「研究生活ほど、楽しい仕事はない。クリエイテ
ィブだし、もっともすばらしい仕事だ」と。

 そういう仕事にめぐりあうことができた人は、幸福だ。しかし大半の、つまり99%の人は、そ
うではない。もししなくてもよいということになれば、今のこの瞬間から、その仕事をやめてしま
うだろう。

 私たちは仕事をしながら、その中に、ほんのわずかな「生きがい」を見出そうとする。それは
(あとから理由)かもしれない。(こじつけ)かもしれない。何であれ、そこに何らかの意味をもた
せないと、仕事など、できない。

 もっともわかりやすいのは、(金儲け)である。お金を手に入れることを生きがいにすればよ
い。仕事イコール、金儲け。そのお金で、人生を楽しむ……。これならわかりやすい。

 ところでアメリカでは、外科医たちが、手術中に、音楽をかけながら手術をしているという。今
では、ごく当たり前の光景らしい。少し前の日本人なら、そうした行為を「不謹慎」と、非難した
だろう。

 事実、最近、マスコミで、こんな録音テープが暴露されて、問題になっている。何でもその外
科医たちは、手術中に、たこ焼きの話をしていたという。「あそこのたこ焼きは、うまい」「タレが
悪い」と。

 当然のことながら(?)、マスコミや、当の近親者たちは、その外科医たちを、まるでケダモノ
のように批判していた。

 しかしいくら尊い仕事とはいえ、あの外科医たちのしている仕事ほど、過酷で、いやな仕事は
ない。……と思う。私など、床に血が落ちているのを見ただけで、ゾーッとしてしまう。それにそ
の仕事には、いつも「死ぬ」「生きる」という問題がつきまとう。明るい日向(ひなた)で、幼児を
相手に遊ぶ仕事とは、根本的にちがう。

 で、あるとき、外科医を父親にもつ高校生とこんな会話をしたことがある。その外科医は、そ
のあと、しばらくしてその総合病院の院長になっている。

私「君のお父さんは、毎日、人間の生死を見つめているような人だから、ほかの人とは、ちがう
だろうね」
高校生「ううん、別に……」
私「夜中でも、自分の患者の様態がおかしくなったら、病院へかけつけるんだろ?」
高「ううん、行かないよ」

私「どうして?」
高「だって、そんなことをすれば、翌日の手術に、さしさわりが出るから……」
私「さしさわりって……?」
高「居眠りしたら、たいへんだよ。手術で、失敗するよ」

私「じゃあ、そういうときは、どうするの?」
高「ちゃんと、担当の宿直医がいるよ。その人に任すことになっている」
私「じゃあ、休みの日は……?」
高「休みの日は、パパは、ジョギングに行くよ。水泳に行くこともある」
私「急患で呼ばれることはないの?」
高「ないよ。そういうときは、学会に行っていると、居留守を使うことになっている」と。

 私は何も、その医師を責めているのではない。むしろプロと呼ばれる人は、そういう人のこと
を言うと思っている。でないというのなら、だれがあんな不気味な仕事(失礼!)など、するだろ
うか。これは別の外科医師の息子(小5)から聞いた話だが、その子どもの父親は、決して、焼
き肉を食べないそうだ。

 その気持ちは、痛いほど、よく理解できる。

 つまり考えようによっては、あの外科医のする仕事ほど、忍耐が必要な仕事はないというこ
と。3K(きつい、きたない、苦しい)ということになれば、その「3K」の上に「超」がつく!

 だれしも、みな、じっと何かに耐えながら、仕事をする。いやなことも、つらいことも、ぐいとが
まんしながら、仕事をする。仕事というのは、そういうもの。

 ……実のところ、私もこのところ、ふと、そう思うようになった。あるいは気がつき始めている
と言ったほうがよいのか。「こんな仕事をいつまでも、していて、それが何になるのだろうか?」
と。これはこのところ、少し疲れてきたせいかもしれない。収入にしても、それほど、魅力的でな
くなってきている。

 まあ、もう少し、がまんしてみるか……。みんな、がんばっているし……。


●山荘にて……

 今日は友人のお通夜があるという。一度は、行こうと思って、電車までは乗った。もしそのと
き金沢までの切符を買っていたら、金沢まで行ったかもしれない。しかし発車直前ということ
で、乗車証明書だけをもらって、電車に飛びこんだ。

電車の中であれこれ考えているうちに、とても無理だと感じた。体がだるかった。それに気分が
晴れなかった。

 昨日、友人に頼んで、香典だけは届けてもらうことにした。弔電も打った。しかし石川県H市と
なると、どこかで一泊しなければならない。どこか風邪(花粉症)ぎみの私には、つらい。

 途中、愛知県のS市でおりる。そこから浜名湖線にのって、金指(かなさし)まで。

 そこからバスに乗って、井伊谷(いいのや)まで。そこから地元のタクシーにのって、山荘へ。

 山荘では、風邪薬をのんで、ベッドに横になる。寒気が全身を襲う。はじめは「山は、まだ寒
い」と思ったが、そのうち寒さが違うのにきづいた。温度計は、20度を示していた。ふとんを2
枚かぶって寝たが、寒かった。また風邪薬をのむ。

 こうして3時ごろまで、眠る。わけのわからない眠り方だった。起きてからも、寒かった。ワイフ
に電話をすると、「今、どこにいるの?」と。「山荘だ」と答えると、驚いていた。私も、バツが悪く
て、山荘へ来ているとは言いづらかった。

 一度、のび過ぎたアカメガシを切ろうと、小屋をのぞいたが、電動ノコも、コードもなかった。
内心では、かえって「よかった」と思った。

 夕方、ワイフに山荘まで迎えにきてもらう。途中、「J」というイタリアン・レストランで、スパゲッ
ティを食べる。悪寒は消えなかった。「焼き肉が食べたかった」と、ワイフに言った。今夜は、フ
トンをうんと暖かくして寝るつもり。

 GOOD−NIGHT!
(040327)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(134)

●家庭内宗教戦争

 こういう時代なのかもしれない。今、人知れず、家庭内で、宗教戦争を繰りかえしている人は
多い。夫婦の間で、そして親子の間で。

 たいていは、ある日突然、妻や子どもが、何かの宗教に走るというケースが多い。いや、本
当は、その下地は、かなり前からできているのだが、夫や親が、それを見逃してしまう。そして
気がついたときには、もうどうにもならない状態になっている。

 ある夫(43歳)は、ある日、突然、妻にこう叫んだ。

 「お前は、いったい、だれの女房だア!」と。

 明けても暮れても、妻が、その教団のD教導の話ばかりするようになったからである。そして
夫の言うことを、ことごとく否定するようになったからである。

 家庭内宗教戦争のこわいところは、ここにある。価値観そのものが、ズレるため、日ごろの、
どうでもよい部分については、それなりにうまくいく。しかし基本的な部分では、わかりあえなく
なる。

 その妻は、夫にこう言った。

 「私とあんたとは、前世の因縁では結ばれていなかったのよ。それがかろうじて、こうして何と
か、夫婦の体裁を保つことができているのは、私の信仰のおかげよ。それがわからないの
オ!」と。

 そこでその夫は、その教団の資料をあちこちから集めてきて、それを妻に見せた。彼らが言
うところの「週刊誌情報」というのだが、夫には、それしか思い浮かばなかった。

 が、妻はこう言った。「あのね、週刊誌というのは、売らんがためのウソばかり書くのよ。そん
なの見たくもない!」と。

 こうした隔離性、閉鎖性は、まさにカルト教団の特徴でもある。ほかの情報を遮断(しゃだん)
することによって、その信者を、洗脳しやすくする。信者自身が、自ら遮断するように、しむけ
る。

だからたいていの、……というより、ほとんどのカルト教団では、ほかの宗派、宗教はもちろん
のこと、その批判勢力を、ことごとく否定する。「接するだけでも、バチが当たる」と教えていると
ころもある。


●ある親子のケース

 富山県U市に住む男性、72歳から相談を受けたのは、99年の暮れごろである。あと少し
で、2000年というときだった。

 U市で、農業を営むかたわら、その男性は、従業員20人ほどの町工場を経営していた。そ
の一人息子が、仏教系の中でもとくに過激と言われる、SS教に入信してしまったという。

 全国で、15万人ほどの信者を集めている宗教団体である。もともとは、さらに大きな母体団
体から分離した団体だと聞いている。わかりやすく言えば、その母体団体の中の、タカ派と呼
ばれる信者たちだけが、別のSS教をつくって独立した。それがSS教ということになる。

 教義の内容も過激だったが、布教方法も過激であった。毎朝、6時にはその所属する会館に
集まり、彼らが言うところの、「勤行」を始める。それが約1時間。それが終わると、集会、勉強
会。そして布教活動。

 相談してきた男性は、こう言った。

 「ひとり息子で、工場のほうを任せていたのですが、このところ、ほとんど工場には、姿を見せ
なくなりました。週のうちの3日は、まるまるその教団のために働いているようなものです。

 それに困ったのは、最近では、従業員はもちろんのこと、やってくる取り引き先の人にまで、
勧誘を始めたことです。

 何とか、やめさせたいのですが、どうしたらいいですか」と。

 部外者がこういう話を聞くと、「信仰の自由がある」「息子がどんな宗教を信じようが、息子の
勝手ではないか」と思うかもしれない。しかし当事者たちは、そうではない。その深刻さは、想
像を絶するものである。

 「本人は、楽しいと言っていますが、目つきは、もう死んだ魚のようです。今は、どんなことを
言っても、受けつけません。親子の縁を切ってもいいとまで言い出しています」とも。


●カルトの下地

 よく誤解されるが、カルト教団があるから、信者がいるのではない。それを求める信者がいる
から、カルト教団は生まれ、そして成長する。

 だから自分の家族が、何かのカルト教団に入信したとしても、そのカルト教団を責めても意味
はない。原因のほとんどは、その信者自身にある。もっと言えば、そういう教団に身を寄せね
ばならない、何かの事情が、その人自身に、あったとみる。

 冒頭に書いた、ある夫(43歳)の例も、そうだ。妻の立場で、考えてみよう。

 どこか夫は、権威主義的。男尊女卑思想。仕事だけしていれば、男はそれでよいと考えてい
るよう。その一方で、女は育児と家庭という押しつけくる。そういう生活の中で、日々、窒息しそ
うになってしまう。

 何のための人生? なぜ生きているのか? どこへ向えばよいのか? 生きがいはどこにあ
る? どこに求めればよいのか? 何もできないむなしさ。力なさ。そして無力感。

 しかし不安。世相は混乱するばかり。社会も不安。心も乱れ、つかみどろこがない。何のた
めに、どう生きたらよいのか。心配ごともつきない。自分のことだけならともかくも、子どもはど
うなるのか? 国際情勢は? 環境問題は?

 そんなことをつぎつぎと考えていくと、自分がわからなくなる。いくら「私は私だ」と叫んでも、そ
の私はどこにいるのか? 生きる目的は何か? それを教えてくれる人は、どこにいるのか?
 どこにどう救いを求めたらよいのか?

 ……そういう状態になると、心に、ポッカリと穴があく。その穴のあいたところに、ちょうどカギ
穴にカギが入るかのように、カルト教団が入ってくる。

 それは恐ろしく甘美な世界といってもよい。彼らがいうとところの神や仏を受け入れたとた
ん、それまでの殺伐(さつばつ)とした空虚感が、いやされる。暖かいぬくもりに包まれる。

 信者どうしは、家族以上の家族となり、兄弟以上の兄弟となる。とたん、孤独感も消える。す
ばらしい思想を満たされたという満足感が、自分の心を強固にする。

 しかし……。

 それは錯覚。幻想。幻覚。亡霊。

 一度、こういう状態になると、あとは、指導者の言いなり。思想を注入してもらうかわりに、自
らの思考力をなくす。だから、とんでもないことを信じ、それを行動に移す。

 少し前だが、死んでミイラ化した人を、「まだ生きている」とがんばった信者がいた。あるいは
教祖の髪の毛を煎じてのむと、超能力が身につくと信じた信者がいた。さらに足の裏を診断し
てもらっただけで、100万円、500万円、さらには1000万円単位のお金を教団に寄付した信
者もいた。

 常識では考えられない行為だが、そういう行為を平気でするようになる。

 が、だれが、そういう信者を笑うことができるだろうか。そういう信者でも、会って話をしてみる
と、私やあなたとどこも違わない、ごくふつうの人である。「どこかおかしのか?」と思ってみる
が、どこもちがわない。

 だれにでも、心の中にエアーポケットをもっている。脳ミソ自体の欠陥と言ってもよい。その欠
陥のない人は、いない。


●どうすればよいか?

 妻にせよ、子どもにせよ、どこかのカルト教団に身を寄せたとしたら、その段階で、その関係
は、すでに破壊されたとみてよい。夫婦について言うなら、離婚以上の離婚という状態になった
と考えてよい。親子について言うなら、もうすでに親子の状態ではないとみる。親はともかくも、
子どものほうは、もう親を親とも思っていない。

 しかしおかしなことだが、あるキリスト系の教団では、カルト教団であるにもかかわらず、離婚
を禁止している。またある仏教系の教団では、カルト教団であるのもかかわらず、先祖の供養
を第一に考えている。

 そして家族からの抵抗があると、「それこそ、この宗教が本物である」「悪魔が、抵抗を始め
た」「真の信仰者になる第一歩だ」と教える。

 こうなったら、もう方法は、三つしかない。

(1)断絶する。夫婦であれば、離婚する。
(2)家族も、いっしょに入信する。
(3)無視して、まったく相手にしないでおく。

 私は、第3番目の方法をすすめている。富山県U市に住む男性(72歳)のときも、こう言っ
た。

 「息子さんには、こう言いなさい。『ようし、お前の信仰が正しいかどうか、おまえ自身が証明し
てみろ。お前が、幸福になったら、お前の信仰を認めてやろう。ワシも入信してやろう。どう
だ!』と。

 つまり息子さん自身に、選択と行動を任せればよいのです。会社の経営者としては、すでに
適格性を欠いていますので、クビにするか、会社をつぶすかの、どちらかを覚悟しなさい。夫婦
でいえば、すでに離婚したも同然と考えます。

 そしてこう言うのです。『これは、たがいの命をかけた、幸福合戦だ』とです。そしてあとは、ひ
たすら無視。また無視です。

 この問題だけは、あせってもダメ。無理をしても、ダメ。それこそ5年、10年単位の時間が必
要です。頭から否定すると、反対に、あなたの存在そのものが、否定されてしまいます。

 あなたは親子の関係を修復しようと考えていますが、すでにその関係は、こわれています。
今の息子さんの信仰は、あくまでもその結果でしかありません」と。


●常識の力を大切に!

今の今も、こうしたカルト教団は、恐ろしい勢いで勢力を伸ばしている。信者数もふえている。
つまりそれだけ心の問題をかかえた人がふえているということ。

 では、それに対して抵抗する私たちは、どうすればよいのか。どう自分たちを守ればよいの
か。

 私は、常識論をあげる。常識をみがき、その常識に従って行動すればよい、と。

 むずかしいことではない。おかしいものは、おかしいと思えばよい。たったそれだけのことが、
あなたの心を守る。

 家族、妻や子どもに向かっては、いつもこう言う。「おかしいものは、おかしいと思おうではな
いか。それはとても大切なことだ」と。

 そしてそのために、常日ごろから、自分の常識をみがく。これも方法は、簡単。ごくふつうの
人として、ふつうの生活をすればよい。ふつうの本を読み、ふつうの音楽を聞き、ふつうの散歩
をする。もちろんその(おかしなもの)を遠ざける努力だけは、怠ってはいけない。(おかしなも
の)には、近づかない。近寄らない。近寄らせない。

 あとは、自ら考えるクセを大切にする。習慣といってもよい。何を見ても、ふと考えるクセをつ
ける。そういうクセが、あなたの心を守る。

 さあ、今日も、はやし浩司は戦うぞ! みなさんといっしょに、戦うぞ!

 世の正義のため、平和のため、平等のために! ……と少し力んだところで、このつづき
は、またの機会に! 同じような問題をかかえていらっしゃる方は、どうか掲示板のほうに、書
き込みをしてください。

 掲示板……  http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/
のトップページより!
(はやし浩司 カルト カルト信仰)
(040328)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(135)

【近況・あれこれ】

●忘れることの大切さ

 人は、忘れることを、「悪」と考える。しかし本当に、そうか?

 人は、楽しいことは、すぐ忘れる。しかし悲しいことや苦しかったことは、なかなか忘れない。
そのため、時間がたつと、いやな思い出ばかりが、脳を満たすようになる。これは人の脳がも
つ、欠陥のようなものかもしれない。

 ある夫婦は、(私たち夫婦もそうだが)、夫婦喧嘩をするたびに、10年とか、20年とか前の
話をもちだす。ときには、結婚当初の、30年以上も前の話をもちだす。

 もうとっくの昔に忘れてよいはずなのに、そういう思い出ばかりが、脳の中に残る。

 私は、今、少し、自分の考え方を変えつつある。つまり「忘れる」ということは、むしろ大切なこ
とではないか、と。

 話は飛躍するが、頭のボケた老人をみていると、あの人たちは、あの人たちで、あれでいい
のではないかと思うことがある。ボケることで、死の恐怖からのがれることができる。何も考え
ないというのは、それ自体、快感でもある。だから「あれでいい」と。

 しかし私は、ボケたくない。だから、それにかわって、「忘れる」という操作が、どうしても必要
になる。

 今まで、私たちは、「どうすれば忘れないですむか」ということばかり、考えてきた。「忘れるこ
とは、悪だ」と。しかしそういうふうに、決めつけて考えてはいけない。

 いやなことは、忘れる。不愉快なことは、忘れる。……そういう心の操作を、する。そして自分
の心を、そういったものから解放していく。

 つまり忘れたほうがよいことは、私たちの身のまわりには、山のようにある。それらをじょうず
に忘れていくというのは、この社会でじょうずに生きていくためには、とても重要なことである。

 今夜、私は、それに気づいた。


●藤枝・蓮花寺池

 春うららかな日曜日。ワイフと、藤枝市の蓮花寺(れんげじ)池まで行ってきた。3月28日。

 浜松駅から藤枝まで、片道、950円(おとな)。駅からはバスに乗って、20分ほど。藤枝小学
校の前を歩いていくと、目の前に蓮花寺池が見えてきた。

 蓮花寺池というから、寺があると思いきや、寺などない。近くに蓮正寺(れんしょうじ)という寺
があるが、その寺とは関係ないとのこと。売店でお菓子を売っていた女性が、そう言った。

 私とワイフは、一時間ほどをかけて、その池を一周した。しかし桜はなし、名物の藤の花もな
し。ただのにぎわいだけ。「佐鳴湖※のほうが、よっぽどいいね」「灯台、もと暗しというのは、こ
のことだ」と言いあいながら、歩いた。

 帰りもバス。よい運動になった。

 が、帰りの電車の中で、こんなハプニングがあった。

 ほとんど満員の電車だった。乗車率150%程度というのか。ほとんど自由に歩けないほど、
車内は混んでいた。が、シルバーシートを見ると、ボーイスカウトの子どもたちが、キャーキャー
と騒ぎながら、席を陣取っているではないか!

 とたんいつもの、私の正義感。

 指導者らしき、その服装をした女性に、にこやかに、しかしはっきりとわかる言い方で、こう言
った。

 「あのう、あの席は、シルバーシートですよ。指導なさったら、いかがですか?」と。

 しかしその女性は、私の言葉を無視した。明らかに、「いらぬお節介」という表情をして見せ
た。年齢は、40歳くらいだっただろうか。スポーツマンらしい、りりしい顔立ちをしていた。

 が、私は、そういう状態になると、絶対に、あとへは引かない。

 再度、にこやかに、さらにはっきりとした言い方で、こう言った。

 「だからね、あの席は、シルバーシートだと、私は申しあげているのです。お年寄りの人たち
も立っていることですから、指導なさってはいかがでしょうか?」と。

 今度は、その女性は、明らかに不機嫌な顔をした。そして私のほうには視線を合わせようと
もせず、シルバーシートを陣取っている子どもたちのほうへ向かって、人をかきわけながら、歩
いていった。

 すぐに5、6メートル離れた人垣の向こうで、子どもたちが、不満そうに何かを言っているのが
聞こえた。「疲れたよオ〜」「すわりたいよオ〜」と。

 それにしてもうるさい。ジャンケンゲームでもしているのか、キャーキャーというより、ギャーギ
ャーと騒いでいる。グリーンの帽子をかぶった男も二人いたが、注意する様子でもない。

 私とワイフは、あまりの騒々しさにあきれて、その場を離れた。そして電車の後部のほうへ移
動した。

 で、見ると、一人の女性の横があいているではないか。黄色いジャンパーが、そこに置いて
あった。私が、「そこは、あいてますか?」と聞くと、一度、ムッとした表情をしてみせたあと、「あ
いてます」と。

 これだけ電車が混んでいれば、わかりそうなものである。自分の荷物を置いたまま、平気で
いられるとは……! 年齢は60歳くらいの女性だった。私はそのジャンパーと、その下にあっ
たバッグをどかしてもらい、そこにワイフを座らせた。

 何とも、お粗末な光景である。隣では、先ほどから、20歳くらいの女性が、立ったまま、携帯
電話をかけていた。

 言いたいことは、山ほどある。

 まず第一、その女性の指導員。自分の不注意を指摘されて、不愉快な顔をする人というの
は、それだけ性格がヒネクレていることを示す。ボーイスカウトには、3つの誓いがある。私だっ
て、それくらいは知っている。

(1)神(仏)と国に誠を尽くす。
(2)いつも他人を助ける。
(3)体を強くし、心を健やかにし、徳を養う。

 3本指をたてて敬礼するのも、そのためだ。

 つぎに、混雑した電車の中で、平然と荷物を置いている人の神経を、私は疑う。他人に「あい
ていますか?」と聞かれるまで、その席に荷物を置いておく? しかも人生も晩年に近い、女性
が、である。

 またあれほど車内アナウンスで、「携帯電話を使わないでください」と言っているにもかかわら
ず、それを守る人は、ほとんどいない? いや、ほとんどの人は守っている。がまんしている。
しかしそういうルールを平然と破る人もいる。

 まさに電車の中は、この日本の社会の縮図。しばらくすると、左側の高架を、新幹線が、もの
すごいスピードで、電車を追いぬいていった。私はそれを見ながら、「文明とは何か」「文化とは
何か」と、改めて考えさせられた。

 電車を出ると、ワイフが、こう言った。「やっぱり、家庭教育よ」と。しかし私はこう言った。

 「家庭教育といってもね、親がなっていないんだよ。その親がなっていないのに、どうして家庭
教育など、期待できるの?」と。

悲しいかな、これが日本の現実である。
(※佐鳴湖……私の家から歩いて、10分ほどのところにある湖)


●回転式ドアで事故

 東京の六本木ヒルズで、6歳の男の子が回転式ドアに挟まれて死亡するという事故が、起き
た(04年3月)。

何とも痛ましい事故である。その場で、その地獄のような光景を、母親が、目の当たりに見て
いたという。母親のそのときの気持ちを察すると、本当に、ぞっとする。

 原因は、センサーが、子どもを感知できなかったことだという。センサーに盲点があったとい
う。まさに文明の機器の盲点といってもよい。一見、完ぺきに見える最新機器かもしれないが、
「完ぺきではなかった」ということになる。

 で、いくつかの点で、考えさせられる。

 一つは、その子どもは、一瞬のスキをつき、母親の手をふりほどいて、回転ドアに飛びこんだ
という。こうした突発的な衝動的行為は、この時期の子どもによく見られる現象である。

つまりそういう突発的な衝動的行為に、その回転ドアは、対応していなかったということになる。
こうした機器は、そうした突発的な衝動的行為も、当然のことながら、計算に入れて設計しなけ
ればならない。

 しかし、それは可能なのか。それとも不可能なのか。つまりあらゆる可能性に対応することが
可能なのか。もしそれができないというのであれば、こうした機器の設置には、そのつど慎重で
なければならない。

 私も、あの回転ドアが、あまり好きではない。タイミングをズラすと、どこかで体をぶつけそう
になる。手動でも、自動でも、事情は、同じ。毎日使って、なれている人には、そうでないかもし
れないが、たまに使う人には、こわい。

 私はドアの設計士ではないが、そこで、つぎのような方法を考えたら、こうした事故は、防げ
ると思う。

 その子どもは、回転ドアのドアと、左右の固定した壁の間にはさまれて死んだという。だった
ら、その固定したカベのほうが、力が加わったとき、開くようにすればよい。かりに万が一、だ
れかがはさまれ、センサーが不調であっても、ぐいと押すことで、壁が動けば、何も問題は、な
い。

 あるいは回転ドア部分を、やわらかい素材にするとか……。さらに回転ドアの部分も、力が
加わったら、動くようにしてもよい。そういう二重、三重の安全策を講じておく。

 壁をしっかりと固定した状態で、風車のように回転ドアが回れば、理屈の上では、こうした事
故はいつ起きてもおかしくはない。ある意味で、起こるべきして起きた事故と言える。

 こうして考えてみると、同じような危険性は、いたるところにある。たとえばエスカレーター。

少し前までは、よく、エスカレーターのすき間に靴をはさまれ、子どもがけがをするという事故が
あった。そのせいかどうか知らないが、私はあのバリカンの歯のようなエスカレーターが、いま
だに好きになれない。小さい子どもをつれてエスカレーターに乗るようなときには、何とも言えな
い緊張感を覚える。

 ほかに最近では、駐車場のシャッターがある。

 タワー式の駐車場では、車を一度、車庫に格納してから、エレベーター方式であちこちに移
動する。その車庫の前に、シャッターがついている。そのシャッターが、ものすごい勢いで、上
下する。あれは、本当に危険。あぶない。

 どこかですでに事故が起きているのかもしれない。しかしいつ事故が起きても、おかしくない
のでは……? 私も、一度、あるところで、不用意に車庫の中をのぞいていたら、突然、上か
ら、ギロチンのようにシャッターが、ドスンと落ちてきた。そんな経験がある。

 ほかにもいろいろある。

 本当に、この世界、危険だらけ。どうやって子どもを守ったらよいのか。今度は回転ドアだっ
たが、新しい機器が登場するたびに、こうした危険は、つぎからつぎへとやってくる。そしてその
たびに、犠牲者が出る。

 大切なことは、『見慣れない最新の機器には近づかない』ということ。こうした指導を、私もこ
れから先、子どもたちに徹底していくしかない。


●時の積み重ね

 自分の老後を、いかに予想していくか。これはとても重要なことだと思う。

 賢人は、何ごとも前もって用意する。愚人は、その場になってあわてる。

 最近、とくに気になるのは、脳梗塞を起こした人たちである。たいていは体半分の運動神経
がマヒする。

 それなりに不健康そうな人がそうなるというのであれば、まだ話もわかる。しかし見たところ、
それをのぞいて、まったく健康そうな人を見ると、いろいろ考えさせられる。昨日も、海辺で見
た男性がそうだった。年齢は、60歳くらいだっただろうか。その男性は、右腕だけをダラリと下
へ落したまま、ジョギングをしていた。

 「ああは、なりたくない」と思う。しかし同時に、「明日は、わが身」と思う。私だけが例外という
ことは、ありえない。だれにでも、老いは確実にやってくる。そして体のあちこちが、故障してく
る。

 若い人たちから見ると、20年先、30年先は、遠いありえない未来かもしれない。しかし50
歳、60歳の人たちから見ると、20年前、30年前は、つい昨日のような過去でしかない。

 そういう現実に、いつ気づくかということ。そう、最近、私は、「時」というのは、流れるものでは
なく、積み重ねられるものではないかと思い始めている。「流れる」という感覚でとらえると、過
去、現在、未来という概念が生まれてくる。

 しかし「積み重ねる」という感覚でとらえると、少なくも、過去、未来という概念は、消える。ある
のは、現実。どこまでも現実。過去があるとすれば、それは記憶や記録の中だけ。未来にして
も、その現実の中にある。

 つまり過去は、どこかへ行ってしまったのではない。同じように、未来は、どこからか、やって
くるものではない。過去も、未来も、そこにある。

 さて、そう考えていくと、子ども時代のあなたが、今のあなたの中にあるように、老後のあなた
も、あなたの中にあるということになる。その老後を、今、しっかりと見据えていく。それが賢い
生き方をする、賢人ということになる。

 たいへん、むずかしいことだが……。

 それにしても、脳梗塞は、恐ろしい病気である。脳細胞そのものを破壊する。もしそういうこと
になれば、過去や未来を知る、「私」自身もなくなってしまうことになる。

 改めて、予防法を考える。


●とんでもない詭弁(きべん)

 どこかの国の、どこかの宗教団体の指導者が、若者たちを集めて、こんなことを言っていた。
若者といっても、10代はじめの子どもたちである。

 「アラーの神のために、殉教せよ。神のために死ぬことを恐れるな。たとえ死んでも、今とまっ
たく同じ世界が、その向こうで待っている」と。

 その指導者は、要するに自爆テロをする子どもを養成していたようだ。

 しかし考えてみれば、これはとんでもない詭弁である。ウソ。インチキ。でまかせ。

 どうして死後の世界のことが、そこらの指導者にわかるのか。その指導者が、さも自信あり
げに、堂々と話していたのが、気になる。

 それにそんな子どもたちに死を教えるくらいなら、まず、自分が先に死んでみせればよい。恐
れることはない。あの世は、今の世とまったく同じなのだから……。

 こうした「思いこみ」は、そこらの宗教団体の信者でも、よくする。たとえば「あの世はある」と
説く人がいる。そこで私が、「本当にあるのか。あなた自身は見たことがあるのか」と言うと、
「神がそう言った」とか、「経典にそう書いてある」とか言って、逃げてしまう。

 私にはそれ以上のことはわからないが、やはり子どもたちには、自分で確かめた以上のこと
は話してはいけない。明らかにファンタジーとわかる話は別として、それ以上の話は、してはい
けない。それは今を生きるものが、つぎの世代に生きる人たちに対する、責任のようなもので
はないか。

 私自身は、あの世を見たこともないし、確認したわけでもないから、子どもたちには、「ある」
と言ったことは、一度もない。あの世があれば、もうけものだが、それは死んでからのお楽し
み。今は、「ない」という前提で、生きている。


●突発的な衝動的行為

 この回転ドア事件の子どもの話とは別に、突発的に衝動的な行為に走る子どもが、ここ10
年、20年と、10年単位でふえているように思う。

 ADHD児にかぎらない。どこかゲーム感覚というか、突然、あるとき、突飛もないことをする。

 脳の微細障害説を唱える学者もいる。最近のテレビゲームの影響を唱える学者もいる。環
境ホルモン(内分泌かく乱物質)説を唱える学者もいる。もちろん生来の遺伝子の問題をとらえ
る学者もいる。

 以前、こんな原稿を書いた。中日新聞で発表してもらったら、何人かの先生から、電話をもら
った。反響の大きかった原稿である。

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子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。

頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。動作も一
貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔
をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感
情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほ
うがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。気が向くと、黙々と作業をする。三〇年前に
はこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、ここ一〇年、急速にふえた。小一児で、一〇人
に二人はいる。

今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もいると、そ
れだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒
ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、六六%もいる(九八年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、一五%が、「一
名以上いる」と回答している。そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子
どもについては、九〇%以上の先生が、経験している。

ほかに「弱いものをいじめる」(七五%)、「友だちをたたく」(六六%)などの友だちへの攻撃、
「授業中、立ち歩く」(六六%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(五二%)などの授業そのも
のに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もい
る。

ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの教師
はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、二〇%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」
(一四%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(一〇%)と続く。

そしてその結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、八%、「かなり感ずる」「や
や感ずる」という先生が、六〇%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。

家庭にしても、昔のような崩壊家庭は少なくなった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、
そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味もなく突発的に騒いだり暴れたりする。そして同じよ
うな現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。

実際、このタイプの子どもを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビや
ゲームづけになっていたのがわかる。ある母親はこう言った。

「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているときは、話しかけても返事もし
ませんでした」と言った母親もいた。

たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきり
なしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。

その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くこと
ができない。浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮
城に魚が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。一見、発想はおもしろ
いが、直感的で論理性がない。

ちなみにイメージや創造力をつかさどるのは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳であ
る(R・W・スペリー)。テレビやゲームは、その右脳ばかりを刺激する。

こうした今まで人間が経験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えてい
ることはじゅうぶん考えられる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということに
なる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

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●予測できない、今の子どもの行動

 いつなんどき、事故が起きるかわからない……。しかもまったく予想外のことで……。

 それが今の、教育現場の現状である。

 突発的な行動。衝動的な行動。突飛もない行動。またそういう行動を繰りかえす子どものほう
が、仲間でも受けがよい。たいていはリーダー格というより、中心格。ワーワーと騒ぎながら、
ほかの子どもたちを、自分のリズムに引き込んでいく。

 この段階になると、「なぜ事故が起きるか?」という疑問は、あまり重要ではない。「どうしたら
事故を避けられるか?」が、重要である。もっと正直に言えば、「どうすれば、その責任を回避
できるか」が、重要である。

当然のことながら、ひとたび事故が起きれば、その責任は、すべて教師におおいかぶさってく
る。

 ある教師(小学校)はこう言った。「帰校するとき、子どもたちどうしが、けんかをしました。そ
のとき、A君がB君に、けがをさせました。そういうけがでも、『学校の責任だ』と怒鳴りこんでく
る親がいます」と。

 この事件にはつづきがある。

 そこでその教師が、「帰校時のことまでは、私は責任は負えない」と言った。常識で考えれば
当然の意見である。その教師は、正直な人だった。しかし母親は、それに納得しなかった。「学
校でのいじめがベースにあって、それが原因で、今回の事件が起きた」と。

 そこで校長をまじえて、三者で、話しあうことになった。……という話をここで書くのは目的で
はない。

 学校での行事はともかくも、今では、生徒を連れて出歩くなどということは、まさに自殺行為
(ほかに適当な言葉がない)としか、言いようがない。以前は、どこのおけいこ塾でも、夏になる
と、キャンプに行ったり、登山に行ったりした。しかし、今は、そういうことをする塾は、ほとんど
ない。よほど無頓着な塾は別として、もし事故でも起きたら……。それだけで、その塾は、閉鎖
に追いこまれてしまう。

 私もこういう仕事をして34年になる。そして最初の10年間ぐらいは、毎年、夏休みは春休み
には、キャンプや、登山、ハイキングなどに子どもたちをつれていった。しかしそんなとき、埼玉
県で学習塾を開いていた仲間のT氏(当時、私と同年齢)が、事故を起こした。その話を聞いて
から、そうした行事は、やめた。

 キャンプをしていたテントに、上から石が落ちてきた。だれかが上から投げたという話もある。
幸い命には別状がなかったが、一人の女生徒が、頭におおけがをして、1か月以上も入院し
た。そのとき請求された補償額が、3000万円(当時)!

 T氏は、あちこちからお金を借りて、その3000万円を用意した。が、そのあと、T氏は、塾を
たたんだ。最後に電話で話したとき、T氏はこう言った。

 「林さん、よけいなことはしないほうがいいよ。無料奉仕の野外活動でも、責任を問われるよ」
と。

 たしかに最近の子どもたちの行動は、つかみどろこがない。予想が立たない。こうした質的な
変化に加えて、わがまま。ぜいたく。自分勝手。「手のつけようがない」というのは、少し大げさ
かもしれないが、それに近い。

 だからその結果として、教育現場の教師たちは、ますます萎縮し始めている。隣のS市の小
学校で校長をしているW氏は、こう言った。

 「総合的な学習を利用して、いろいろなことをしたいのですが、あれこれ考えていくと、どうして
も小さくならざるをえまぜん。

たとえば近くに、結構広い池があるのですが、いかだ遊びはもちろん、模型の船を浮かばせて
遊びたいと思っても、そんな遊びは、不可能です。学校の外へつれていくことさえ、できませ
ん。事故でも起きたら、それこそたいへんです」と。

 子ども様々(さまさま)となった今、むしろおとなのほうが、子どもに頭をさげるようになってし
まった。ウソだと思うなら、電車の中を見てみればよい。子どもが席に座って、親やおとなたち
が、通路に立っている!

 何かがおかしい。何かが狂っている。そういう状態のまま、子どもたちだけがどこか、別の方
向へ進み始めている。その結果、教育現場の教師たちは、ますます萎縮し始めている。

 そうそうI町のI小学校の校長も、こう言っていた。

 「今では、生徒の頭をポカリとたたいても、親が、体罰だと怒ってきます。そういう時代です」
と。

 私も子どもが嫌いではない。しかしここ20年近く、こうした野外活動をしていない。


●英語の失敗
 
 学生時代に、イギリス人の家庭に食事に招かれたことがある。そこでのこと。家人が、何か
の料理をもってきて、「もっと食べるか?」と、すすめてくれた。

 それに答えて、私は、こう言った。「I have already had enough. 」と。「もうじゅうぶんいただき
ました」という意味で、そう言った。

 それを横で聞いていた友人(イギリス人)が、プッと笑って、こう言った。

 「ヒロシ、そういうときは、I have already had sufficiently.(じゅうぶん、いただきました)と言う
よ」と。「I have already had enough.」というのは、「もう、たくさん!」という意味になる? あわて
て言いなおしたら、みなが、ドッと笑った。

 英語は、むずかしい。

 昨夜も、こんな失敗をしてしまった。

 三男を二週間、とめてくれた友人がいた。オーストラリアに住む、オーストラリアの友人であ
る。その間、あちこちへつれていってくれたりもした。

 そこで一言、礼をと思って、電話をした。電話には、友人の奥さんが、出た。

私、「Thank you very much for what you have done too much to my son.」と。

 私は「息子にいろいろしてくれてありがとう」という意味で、そう言った。しかし「too much」とい
う部分が、まずかった。

 そう言った直後に、「いろいろ、やりすぎてくれて、ありがとう」という意味だということを知っ
た。「もう、うんざり」というときも、「too much」という。

奥さんは、すかさず大声でケタケタと笑いながら、「ヒロシ、あなたの言っている意味、わかる。
あなたを理解できる」と。

 「しまった!」と思ったが、私には、どうすることもできなかった。

 やはり英語は、いつも使っていなければならない。しばらく日本だけにいると、どうしてもカン
が鈍る。「私としたことが……」と思いつつ、電話を切った。


●春休みの運動

 春休みは、二週間近くある。今日(3月29日)は、その春休み、二日目。

 まず起きて、ハナ(犬)と、散歩。佐鳴湖まで行ってきた。それからワイフとドライブ。豊橋の先
にある、伊良湖(いらこ)岬をめざす。しかし途中で横道へ入って、海岸まで。そこで昼食。「伊
良湖岬までは、あと1時間くらい」と、コンビニの店員に言われて、あきらめた。遠すぎる……。

 伊良湖岬……愛知県豊橋市の南にある、島状の半島。

 夕方は、ワイフと散歩。一時間以上をかけて、佐鳴湖畔から、団地の北側を回る。このとこ
ろ、急に、足腰が弱くなったように感ずる。とくに、ヒザが弱くなった? 自転車だと、10キロくら
いなら、平気で走ることができる。しかし走ったり、歩いたりするのは、どうも苦手。

 「春休みの間は、毎日運動しよう」と言うと、ワイフも、スンナリと同意してくれた。

今夜は、これから山荘へ行き、明日は、木を切る。もう少し暖かくなると、ハチが出てくる。それ
からでは、遅い。


●山荘にて

 朝は、いつも鳥たちの大合唱で目がさめる。けたたましく、チョットコーイ、チョットコーイと鳴く
のは、コジュケイ。それにウグイス。今朝は、じょうずに、ホーケキョと鳴いていた。それにヒヨド
リ、カラス……。ときおり、ヒューイと鳴く鳥もいる。名前はわからない。あとは、何種類かの小
鳥たち。チッチッと時折鳴いては、どこかへと去っていく。

 時計を見ると、6時半。そのまま風呂に湯を入れて、ドボーン!

 あとは、何も考えない。窓の外の景色を見ながら、時の流れるまま、身を任す。谷のはずれ
に住むKさんの庭先から、青い煙が立ちのぼっているのが見える。空は曇天。低い雨雲が、す
ぐそこに見える。

 しばらくするとワイフも起きてきて、「もう、入っているの?」と。

 順に家族のことを思いやる。まず、三男。昨日から、授業が始まったはず。それに二男。孫
の誠司。そして長男。あとはもろもろのこと。脳の表層部分に、ランダムな光景が現れては消
える。そして忘れる。

 しばらくすると、ワイフが風呂に入ってきた。身をどかして、席をあける。

 「今朝、朝のチャイムが鳴った?」と、ワイフが聞いた。このあたりでは、朝の7時と夕方の5
時に、村のチャイムが鳴ることになっている。私は「聞こえなかった」と答えた。春休みは、チャ
イムも、お休みか……?

 相変わらず、ウグイスが窓の外で鳴いている。先週、山荘へ来たときは、まだうまく鳴けず、
ケキョケキョケキョと鳴いていた。少しは練習したらしい。あるいはこのあたりの新米?

 ウグイスは、縄張りを誇示するために、鳴くのだそうだ。そのせいか、谷あいの向こうからも、
聞こえてくる。そしてたがいに、かけあいながら鳴いている。

 考えてみれば、4日ぶりの風呂? ……ゾーッ。理由はともかくも、いろいろ重なって、風呂に
入る時間がなかった。

 バスタブから出て、いつもより念入りに石鹸をつけて、体を洗う。

 「ぼくはね、足の裏が油っぽくなると、夜、よく眠られないんだよ」
 「どうして?」
 「何となく、ベタベタした感じになって、気持ち悪い」
 「知らなかった……」と。

 意味のない会話がつづく。

 「朝風呂で気をつけなければいけないのは、心筋梗塞と、脳梗塞だそうだ。朝は、そうでなく
ても、血液がドロドロになっているからね。だから水分を補給しないと、いけないそうだ」
 「私、この水を飲むわ」
 「待て、今、もってきてあげるから」と。

 風呂から出て、台所へ急ぐ。つんとした冷気を感ずる。ペットボトルを手にもったまま、再び、
風呂の中にドボーン。

 水は、500メートルほど、パイプで山の中腹から引いている。水自体は問題ないが、その水
を一度、タンクにためてから配水している。そのタンクの中で、水が腐ることは、よくある。

 暖かいフトンに包まれているような心地よさ。こうして春の一日は、始まった。

 「今日は、何をする?」
 「ごはんを食べてから、考えましょう」と。

 あとは、ひたすら目を閉じて、ぬるい湯に身をまかす。ときどき、水を飲む。時は、3月30
日。火曜日。「今日も、思いっきり遊ぶぞ」と、おかしな誓いを立てる。
(040330)

++++++++++++++++++

【読者の方へ、お願い】

●メールには、ご住所とお名前を!

 毎日、たくさんの方から、メールや相談をいただきます。
 ありがとうございます。

 で、そのメールや相談なのですが、どうか、ご住所、お名前をお書きくださるよう、お願い申し
あげます。

 件名(RE)のところには、お名前と、簡単なご住所を!
 本文には、とくにはじめての方は、お名前(フルネーム)と、正確なご住所をお書きくだされ
ば、うれしく思います。

 このところ、ご住所、お名前のない方からのメールが、たくさん届きます。メールをいただくこ
と自体は、うれしいのですが、しかし受け取る私の方は、言いようのない不安にかられます。

 「男性なのかな」「女性なのかな」
 「この町の方なのかな」「遠方の方なのかな」
 「マガジンの読者なのかな」「ホームページをご覧なった方なのかな」などと、いろいろ考えて
いるうちに、返事が書けなくなってしまうこともあります。

 それ以上に、「ウィルス入りのメールだったら、どうしよう」と、考えることもあります。めったな
ことはないことは、よくわかっていますが、こういう世界のことですから、どうしても慎重にならざ
るをえません。

 またこのところいただくメールが多いため、返事を書かねばと思いつつ、それもままならなくな
ってきました。どうか当方の事情も、ご理解の上、ご協力くださいますよう、お願い申しあげま
す。

 「この前、相談した件は、どうなりましたか」という、返事の催促メール。あるいは「この前相談
した件で、あの問題は解決しましたが……」というメールをいただくと、本当のところ、たいへん
困ります。このところ、頭のボケも、少し進んでいるのかもしれません。

 一両日中に、返事がないばあいは、どうか、返事はないものと思ってください。いただいたメ
ールは、一、二日程度保存したあと、削除しています。どうか当方の勝手をお許しください。

 以上、よろしくお願いします。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(136)

【近況・あれこれ】

●ポール・ニューマンの「ノウバディズフール(Nobody's Fool)」を見る。

久々に、よいビデオを見た。若いころから、ポール・ニューマンが好きだった。私が世話になっ
た、友人の父親に似ていたこともある。名前を、キースさんと言った。5、6年前になくなった
が、本当にすばらしい人だった。

 それはともかくも、このビデオには、笑いと涙と、そして感動があふれている。好き好きもある
ので、私の好みを一方的に押しつけることは、避けたい。しかし見終わったあとの、さわやかさ
が、何とも言えなかった。

 このビデオは、ポール・ニューマンの遺作になったという。そのせいか、ポール・ニューマン
は、どこか元気がなかった。ブルース・ウィルスが脇役になり、ポール・ニューマンの演技を光
らせていた。★は五つ!

 なおこの映画の中で、おとなたちが、子どもに接するシーンが、あちこちに出てくる。そのシー
ンを見ていて、こんなことを思いだした。

 私の二男も、その妻も、孫に接するとき、同じような接し方をしている。「そこまで、おとなあつ
かいしなくてもいいのに」と思うほど、おとなあつかいをしている。賛否両論があろうかと思う
が、子どもの人格を守るということがどういうことか、それがわからない人は、このビデオを見
たらよい。

 たとえばポール・ニューマンが、孫を、数分間、ひとりだけ家の外に待たせるところがある。

 それに対して、息子が怒る。「子どもにとっての数分間は、一生に感ずるほど長いのだ」と。

 祖父役のポール・ニューマンは、それにあやまる。そしてそのあと、孫に懐中時計を渡す。
「一分間だけ、勇気をもて。それができたら、二分間、もて」と。そしてその懐中時計が、そのあ
と、一つの大役をこなす。キメのこまかさに、脱帽!

 ただ、翻訳が、いいかげん(失礼)! 会話のやりとりのおもしろさを、半減させている。字幕
に翻訳するのに限界があったのだろう。それはわかるが、もう少し、何とかならなかったもの
か。ときどき、字幕を見ながら、「そんなこと言ってないのになあ」とか、「ちょっとハズれている
ぞ」と思ったりした。


●家庭内暴力

 子どもの家庭内暴力に悩んでいる人は多い。福岡市に住む、TEさんから、それについての
相談のメールをもらった。

 子どもは、高校1年生。男子。学校では、成績もよく、優等生ということになっている。が、5歳
年上の姉に、暴力を振るう。そのことが理由で、姉が、今度、アパートを借りて、別居すること
になったという。

 はげしい家庭内暴力は、別として、何らかの感情のハケ口として、家庭内で、子どもが、だれ
かに暴力を振るうというケースは、少なくない。たいていは母親が攻撃対象になる。このタイプ
の子どもは、外の世界では、おとなしく、(いい子)であることが多い。

 つまり外の世界で、良好な人間関係を結べず、そしてさらにその結果として、慢性的な抑うつ
感がたまり、子どもは、突発的に家庭内で、暴力を振るうようになる。心理的には、「うつ病」の
一形態と考えるのが、一般的である。

 このタイプの子どもの暴力の特徴としては、(1)外の世界では、(いい子)であることが多い。
先生の指示には従順で、集団の中では、どちらかというと、おとなしい。(2)良好な人間関係が
結べず、外の世界では、仮面をかぶったり、がまんしたりすることが多い。(3)突発的に、暴れ
たり、暴力を振るったりする。かんしゃく発作のように、突発的に激怒して、叫んだり、ものを投
げつけることもある。

 そんな中でも、とくに注意しなければならないのは、(4)何を考えているか、わからなくなると
いうこと。

 初期段階としては、感情の表現が鈍化し、一見、静かでおとなしくなる。しかしその一方で、
心がつかみにくくなり、何を考えているか、わからなくなる。喜ばせようとしても、喜ばない。不
愉快に思っているはずなのに、それを顔に出さない、など。

 このタイプの暴力には、明確な一線がある。暴力といっても、子ども自身が、心のどこかで限
界をもうける。だから、つまりはギリギリのところまでは暴力を振るうが、その一線を超えること
はない。

 原因は、ここにも書いたように、外の世界で、良好な人間関係を結べないことと考えてよい。
そしてさらにその原因はといえば、乳幼児期の母子関係の不全とみてよい。あるいは親(とくに
母親)の溺愛、過干渉、過関心などが原因となることもある。

 「ウッセー! このヤロー。オレを、こんなオレにしやがってエ!」と、母親を足蹴りにしていた
子ども(中学男子)がいた。

 その子どものばあい、小学3、4年生くらいまでは、「静かで、おとなしい子ども」(母親の言
葉)だった。

 外の世界で、自分をあるがままに、(さらけ出す)ことができない。そのため、心は、いつも緊
張状態におかれる。仮面をかぶったり、(いい子)ぶるのは、あくまでも、その結果と考えてよ
い。

 そしてその結果として、つまりは、そうしてたまりにたまった、抑圧状態を解放させるため、家
庭内で暴力を振るうようになる。その暴れ方が、どこか狂人的であるため、家の人は心配した
り、悩んだりするが、「狂人」ではない。まずそれをしっかりと、理解する必要がある。

 私はこのタイプの子どもに、ある種の二重人格性を感ずる。暴れていながらも、別の子ども
がどこかにいて、それをコントロールしている。そんな感じがする。だから子どもが暴れたら、
親は、もう一人の子ども(道理がわかり、すなおな子ども)に、ていねいに話しかけるようにする
とよい。

 「今は、本当のあなたではないのよ」と。

 もちろん抜本的な原因追求と、その是正も必要である。高校1年生といえば、受験にまつわ
る重圧感に苦しむ年齢でもある。子どもの心の中では、不安と心配が、うずを巻いている。そう
いうものから受けるストレスが、子どもの心をゆがめているとも考えられる。

 こうした家庭内暴力は、子ども自身の自己意識が高まれば、表面的には消える。そういう意
味では、一過性のものだが、しかしそれでこうした問題が解決されるわけではない。

 ここにも書いたように、もともとは良好な人間関係が結べない子どもとみるため、おとなにな
ってからも、繰りかえし、症状が現れることがある。妻や子ども、反対に夫や子どもに、突発的
に暴力を振るうケースも、少なくない。
 
 そこで早期発見、チェックテスト。

【家庭内暴力型子どもの早期診断テスト】

(  )学校での様子(評価)と、家の中での様子(評価)が、おおきくちがう。
(  )学校では、おとなしく、いい子。しかし家の中では、横柄、乱暴、態度が粗雑。
(  )集団教育が苦手。運動会や遠足を楽しまない。ときにいやがる。

(  )どこか母親対子どもの関係が強く、父親不在の子育てをしてきた。
(  )親の前でも、言いたいことを言ったり、したいことをしなかった。
(  )一見、がまん強い子どもに見えたが、その実、生活態度がよく乱れた。
(  )ときどき、何を考えているか、わからないときがある。感情の表現が鈍化した。

(  )カーッとなると、興奮状態になり、手がつけられないことがあった。
(  )キレた状態になると、すごみ、まるで人が変わったかのようになることがある。
(  )ときどき、沈んだり、何かのことでクヨクヨ悩んだりする。

 この質問項目のほとんどに当てはまるようなら、要注意。こうした状態に、受験勉強の重圧、
さらに思春期の不安定要素が重なると、子どもの心は一気に、緊張状態におかれる。そしてそ
の結果として、ここでいう家庭内暴力に走ることも少なくない。

 ……と、きわめて大雑把(ざっぱ)に考えてみたが、全体としてみると、家庭内暴力を起こす
子どもは、ほかの精神的障害(引きこもり、摂食障害、回避性障害)を示す子どもよりも、予後
がよい。適切な対処の仕方さえ守れば、短期間ですむことが多い。

 対処法については、また別のところで考えてみたい。
(はやし浩司 家庭内暴力 診断テスト 早期発見)


●宇宙のロマン

 火星にも生物がいた? ……その可能性は、きわめて高い。しかも最近、火星の大気の中
に、微量ながらも、メタンガスまで検出されたという。

 一説によると、あくまでも一説だが、かつて火星にも、人間のような知的生物がいたという。
そしてその生物は、今の地球上の人間のように、化石燃料(石油、石炭)を使い、火星そのも
のの環境を破壊してしまたっという。

 その結果が、今の火星というわけである。

 ……となると、その知的生物は、どこへ消えてしまったのだろうか。化石燃料を使うほどの生
物だから、その知的能力は、私たち人間のそれと、それほどちがわなかったと考えるのが正し
い。

 方法はいくつかある。つまり火星の知的生物たちが、生き残る方法は、いくつかある。

 ひとつは、地底深くに、もぐるという方法。もうひとつは、宇宙に逃げるという方法。あるいは
その二つを同時に、してもよい。

 つまりこの問題は、地球人の未来の問題と言ってもよい。

 このまま地球温暖化が進めば、やがてこの地球も、火星と同じ運命をたどることになる。世
界の学者は、西暦2100年までに、地球の気温は、平均で、4〜5度、上昇すると言っている。

 しかしその2100年で、温暖化が停止するわけではない。そのあとも、さらに加速度的に、気
温は上昇しつづける。仮に4〜5度あがっただけでも、地球全体が、灼熱(しゃくねつ)地獄の
ようになるという。

 現に、今年の冬(オーストラリアでは夏)、あのメルボルン市ですら、気温が、40度を超える
猛暑がつづいたという。「今日は、45度になった」と、一度、友人が、メールを送ってきてくれた
ことがある。

 45度!

 たった35年前には、世界一、気候が温暖な都市として知られていた、あのメルボルン市が、
である!

 が、今では、2100年までに、4〜5度なんて数字を信ずる人は、ほとんどいない。すでにこ
の20年間だけで、1〜2度上昇している。

 つまり今の火星の姿は、地球の近未来の姿ということになる。そのせいか、科学者の中に
は、「火星を知ることは、地球の未来を知ることである」と唱える人もいる。「火星を研究するこ
とによって、地球の破滅的な未来を回避できるかもしれない」と。

 何ともクラーイ話になってしまったが、私は、人間の英知を信ずる。それに火星と地球は、ち
がう。大きさもちがう。地球には、広大な海がある。そう簡単に、火星のようにはならない。

 温暖化を地球規模で止める方法も、すでにいろいろ考えられている。地球上に、亜硫酸ガス
の傘(かさ)をかけるという方法もある。大気に穴をあけて、宇宙へ熱を逃がすという方法もあ
る。さらにそれでもダメなら、地下都市の建設や、宇宙基地の建設をするという方法もある。

 人間は、そう簡単には、滅びない。

 ただ、それには、一つ、大きな条件がある。

 ケータイ電話とやらをつかって、日夜、意味もない交信をしているようでは、ダメということ。意
味もないバラエティ番組を、家族で、ギャーギャーと笑って見ているようでは、ダメということ。交
差点で赤信号になっても、「まだ走れる」と、突っ切っていくようでは、ダメということ。(あまり、
関係ないかな?)

 要するに、地球の環境が破壊されるか、人間の英知が、その先を行くか、その競争というこ
とになる。人間の英知が負ければ、人類は、地球のあらゆる生物もろとも、絶滅する。

 しかし人間の英知が、勝てば、この地球は、未来も、安泰ということ。今、その競争が、始ま
ったばかりである。

 さて、その火星にいたかもしれないという知的生物だが、私は、ひょっとしたら、彼らは私たち
人間の遠い先祖ではないかと思っている。あくまでも、私が考える、SF(空想科学)でしかない
が、その可能性はないとは言えない。

 今夜の夕刊(3・31)によれば、火星の大気が、大きく変動したのは、数億年とか、そういう遠
い昔ではなく、ひょっとしたら、一万年単位の、それほど遠くない昔だったかもしれないという。

 もしそうなら、その時期は、人間がサルから分かれたころの時期に重なる。火星の知的生物
が、火星から逃れてやってきて、自分たちの遺伝子を、サルに組みこんだ……?、ということ
も、考えられる?

 あああ。私は、とんでもないことを書いている。こういう話を書くと、私の脳ミソが疑われる。以
前、ま顔で、「林君は、教育評論家を名乗っているから、そういう話はしないほうがいい。君の
教育者としての資質が疑われる」と忠告をしてくれた人がいた。東大を出て、ある出版社の研
究部長をしていた人である。

しかしこういう話は、嫌いではない。眠られぬ夜に、よく、そういう話を、ワイフとよくする。フトン
の中で、いつまでも時間を忘れてする。

ワイフ「宇宙人も、バカね。サルなんかに、遺伝子を入れるもんだから、こういうことになってし
まったのよ」
私「そう、私なら、イヌか、馬に組みこんだだろうね。そのほうが、ずっと、平和的な動物をつくる
ことができた」
ワ「魚なら、よかったのに……。魚なら、火を使うこともなかったでしょう」

私「しかし宇宙人は、自分たちによく似た仲間がほしかったのかもしれないよ」
ワ「そうね。宇宙では、孤独でしょうし……」
私「地球上で、一番、頭がよかったのは、サルだったしね」
ワ「じゃあ、私の遺伝子を、オラウータンに組みこんだら、どうなるかしら?」

私「きっと、美人のオラウータンが、生まれると思うよ」
ワ「それはすてきね」
私「ただし、オラウータンのオスが見て、そう思うだけだよ」
ワ「あら。いやだ。それならいいわ。やはりオラウータンは、オラウータンのままで……」と。

 火星のことを考えると、ロマンが、数限りなく、広がる。話題は、つきない。ひょっとしたら、私
たち人間は、その火星人の子孫かもしれないのだ。

昨夜も、遅くまで、そんな会話をした。そしていつの間にか、おたがいに眠ってしまった。いや、
ワイフのほうが、先だった。私は、ワイフがイビキをかき始めたのを覚えている。


●若き、女性ドライバーたち

 最近、気になるのは、若き女性ドライバーたち。はっきり言えば、運転がメチャメチャ。大半
の人はそうではないが、メチャメチャな運転をする人を見ると、たいてい若き女性ドライバーた
ちである。

 信号無視なんてものではない。完全に信号が赤になってからも、グイーンと、加速して、交差
点を横切っていく。あるいは、横道から、一旦停止もせず、大通りに飛び出してくる。その様子
は、何かしら世にうらみでもあるのかというような、走り方である。 

 昔、幼稚園で、園児に向って、こう怒鳴っていた年配の女性教師がいた。園児たちが、「ババ
ー先生!」とからかったときのこと。

 「私が結婚できないのはね、男たちが、みんなバカだからよ!」と。

 おかしなことだが、そういう若き女性ドライバーを見ると、私は、あのとき、そう叫んだ、あの
女性教師を思い出す。

私「女性というのは、今、複雑な立場にある」
知人「……?」
私「小学校の高学年くらいまでは、すべて女性上位で、ことが運ぶ」
知人「今は、そういう時代だからな」

私「ところが中学校へ入ることから、立場が逆転する。体力的にも、肉体的にも、男には、かな
わなくなる」
知人「なるほど……」
私「さらに高校から、大学へ入るころになると、そのちがいが、大きく出てくる」

知人「どうしても、この世の中、男に有利だからな」
私「そうなんだ。しかし最大の悲劇は、結婚後にやってくる」
知人「ぼくも、それを感じていた」
私「たいていの女性は、結婚と同時に、家庭の中に押しこめられてしまう。それはものすごい重
圧感であると同時に、挫折感でもある。欲求不満から、気がヘンになる女性だっている」

知人「男からみれば、『何が文句あるんだ!』ということになるんだけどね」
私「それは、男側の勝手な論理だ」
知人「そこで女性の中には、悶々とした気持ちを、うらみに変える人も出てくるというわけか?」
私「そうなんだ。メチャメチャな運転をする若き女性ドライバーを見ていると、ぼくは、そんなふう
に感ずる……」と。

 かなり前のことだが、そんな会話をしたことがある。相手は、同じ山荘仲間のT氏という人だ
った。

 実は、こうした「うらみ」は、私も経験している。

 私は、過去30年以上、自転車通勤をしている。健康のためには、よいことだが、しかしその
一方で、年に数回は、「あやうく……」というようなことを経験する。数年に一度は、死んでもお
かしくないというような事故を経験する。

 自転車は、道路では、まさに弱者。日陰者。車の流れの中を、チョロチョロと遠慮がちに走ら
なければならない。

 そういう私だから、横断歩道を自転車で渡るとき、ふと、車に対して、ある種の敵意を感ずる
ことがある。「横断歩道くらい、こちらを優先させろ」と。と、そのときである。いつもはそうではな
いのだが、その瞬間、自転車をこぐ私が、乱暴になることがある。

 ときに、強引に、車の前に突っ込んでいくことがある。つまり、若き女性ドライバーの心理は、
それに近いものではないか? 「車を運転するときぐらい、一人前に運転させろ」と。

 しかしあぶないのは、あぶない。昨日も、ドライブから帰ってくるとき、交差点で、車どうしがぶ
つかっていた。見ると、やはり、一方は、若き女性ドライバーだった。事情はよくわからないが、
多分、原因は、その若き女性ドライバーにあったのでは? そんな雰囲気だった。

 そうそう、自転車で走っているとき、一番、あぶないのが、その若き女性ドライバーたちであ
る。うしろから猛スピードで走ってきて、右肩をビューンとかすめていく。対向車がやってくると、
ギリギリまで車を路肩へ寄せてくる。

 ホント! 運転がメチャメチャ。

 ところで最後に一言。

 こういう私の意見に対して、ワイフもこう言う。「女は、運転がヘタだから」と。そこで私が、「お
前も、その女だろ」と言うと、ワイフは、「私は女ではない」と。私はそのつど、「……?」と、だま
ってしまう。

【追記】

 私はときどき、「私のワイフは、女性の姿をした男だ」と思うときがある。ワイフもよく、「私は
子どものころ、男としか遊ばなかった」「私も、男に生まれたかった」などと、言う。どうやら、ワ
イフは、母親の胎内で、男になりまちがえたようだ。これは余談。


●さらけ出し

 北海道にお住まいの、YSさんより、こんな相談をもらった。
 「うちの子(小5男子)は、集団活動が苦手です。集団活動になれさせるには、どうしたらいい
ですか」と。

 「サッカークラブもいや。運動会も嫌い。遠足も行きたくないと言います」と。

++++++++++++++++++

 「さらけ出し」については、もう何度も書いてきた。そこで、ここでは、私自身の子ども時代につ
いて書いてみる。

 私は、家の中では、結構、わがままな子どもだったと思う。しかし外の世界では、いつも何か
に、じっと耐えていたような感じがする。

 たとえば私は毎日、真っ暗になるまで、近くの寺の境内で遊んでいた。そこでのこと。私は、
追いかけたり、追いかけられたりしながら、走り回るのは、好きだった。しかし、どうしても好き
になれない遊びが、一つ、あった。

 だれかが空き缶を蹴る。その空き缶が蹴られた間だけ、みなは逃げて、身を隠す。鬼(おに)
になった子どもは、隠れた仲間をさがして、「○○君、見つけ!」と言って、空き缶を踏む。

隠れんぼうの一種だが、ほかの子どもは、スキを見て、その空き缶を蹴る。あるいは、鬼よりも
早く、空き缶のところにやってきて、空き缶を蹴る。するとそれまでに鬼につかまった仲間も、
いっせいに、逃げることができる。

 その遊びの、名前は忘れた。しかし私は、どういうわけか、その遊びだけは、好きになれなか
った。しかしその遊びだけ、ぬけるわけにはいかなかった。私は、その遊びになると、言いよう
のない重圧感を覚えた。こわいというより、いやだった。

 そういうとき、「ぼくは、したくない」とはっきり言えば、それなりに自分の心を軽くすることがで
きたかもしれない。しかし私には、それが言えなかった。

 ……という視点で、子どもたちの世界を見ると、日常的に同じようなことが起きているのを、
知る。

 遊びにせよ、勉強にせよ、いつも何かにじっと耐えているような子どもがいる。楽しまないとい
うより、こちらの用意する「輪」の中に、入ってこない。心のどこかで拒絶しながら、それでいて、
従順に従ってしまう。

 一般的には、「心の開けない子ども」とみる。そこで何らかの方法で、その子どもが、自分の
心をさらけ出せるようにしむける。方法としては、どっと笑わせるのがよい。しかし学年が進め
ば進むほど、子どもの心は、ますますかたくなになる。がんこになる。一時的には笑っても、す
ぐまたもとに戻ってしまう。

 そこで私自身は、どうだったのかと考える。

 私は、もともと、他人に対して心を開くことができないタイプの子どもだった。仮面をかぶり、
愛想のよい子どもを演じてはいたが、心の中は、いつも孤独だった。

 しかしそれに気づいたのは、私が40歳を過ぎてからではなかったか。そういう自分を、本気
でなおそうと考えたのは、50歳を過ぎてからではなかったか。

 いわんや、子どもに、「みなに、心を開きなさい」「いやだったら、いやだと言えばいい」などと
いっても、わかるはずがない。当時の私を思い出しても、私は私だったし、私に問題があるな
どとは、思ってもみなかった。いわんや、さらにその原因が、私と母との間の、母子関係にあっ
たとは、知る由もなかった。

 で、北海道のYSさんからの相談だが、こうしたケースでは、無理をすればするほど、逆効果
ということ。すでにYSさんの子どもは、小学5年生になっている。思春期も近い。「なおそう」と
考える時期は、もうとっくの昔に、終わっている。

 では、どうするか?

 私の経験で言えることは、そういう子どもであると認めた上で、その子どもにあった方法で、
これからのことを考えるしかないということ。もっとわかりやすく言えば、「うちの子は、集団教育
が苦手」と思って、あきらめる。

 多くの親は、「集団訓練の中にほうりこめば、子どももなれるはず」と考えるが、そんな単純な
問題ではない。ないということは、私自身の子ども時代を思い出してみても、わかる。

 あえて言うなら、どこかで、子ども自身が、自分をさらけ出せるように、しむけること。ワーッと
声を出させたり、笑わせるのがよい。しかしそれも、もうこの時期になると、一時的な効果しか
ない。そういう前提で、気長に考える。

 だれにでも、得意、不得意はある。子どもを伸ばすコツは、得意分野をどんどんと伸ばし、不
得意分野には目をつむる。「一つや、二つ、苦手なことがあってもいいではないか」と、そういう
大らかさが、子どもを伸ばす。


●運動

 今日は、家のフェンスをなおすことにした。予算は、一万円。浜松市の北にある、「J」という大
型DIY店へ行って、材料をそろえる。

 防腐剤加工をした木材と、セメントを買って、しめて9800円。ここまではうまくいった。が、そ
れからがたいへんだった。セメントの袋だけで、20キログラム。それに木材。1・8メートルの板
を14枚に、丸太の支柱など。

 家へ帰ってくるころには、もうそれだけでヘトヘト。15年前には、山荘の土木工事のほとんど
をした、私が、である。

 「体力がなくなったなあ」とこぼすと、ワイフも、「ホント。あなたも弱くなったわね」と。

 しかたないので、1時間ほど、休息をかねて、昼寝。

 で、それから作業開始。

 フェンスの修理そのものは、2時間ほどですんだ。が、それにしても、ものすごい疲労感。

 そこで一念発起。夕食をすますと、ハナ(犬)と、散歩に行くことにした。「こんなことに負けて
たまるか」という思いが、私をそうさせた。

 私は自転車に乗り、ハナをひもで制御する。そして1時間ほど、近くの山坂を走り回る。ほど
よい汗が、体中からにじみ出てくるのがわかる。

 家に帰ってから、ワイフとこんな話をする。

私「やはり、自転車だと、疲れないよ」
ワ「体が、そうできているのね」
私「お前だって、テニスだといいかもしれないが、ソフトだとだめかもしれないよ」
ワ「そうね」と。

 私が疲れたのは、重い荷物を運んだから。その部分の筋肉は、使ったことがない。しかし自
転車は、疲れなかった。むしろ気持ちよかった。それは毎日、その部分の筋肉を、鍛えている
から。

 人間の体というのは、どうやら、そういうものらしい。

 脳ミソについても、同じことが言える。私のばあい、こうして文章を書くのは、苦痛ではない。
英語で文章を書くのも、それほど苦痛ではない。しかし翻訳となったとたん、ものすごい重圧感
を覚える。なぜか。

 それは恐らく、日本語から英語、英語から日本語への連絡網が、すでにサビついてしまって
いるからではないか。

 50歳を過ぎると、こういう現象が、頻繁(ひんぱん)に起こるようになる。つまりそれだけ、柔
軟性をなくすということ。これも、老化現象の一つと考えてよい。言いかえると、いかにして、体
と脳ミソを鍛えていくかということ。それを、50歳前から始めておく必要がある。

 つぎの60代になったは、また考え方が変るかもしれない。それに、さらに体力が、弱くなる。
そのとき、私はどうなっているのか。あるいは今から、どうやってそれを予想し、予防したらよい
のか。

 できあがったフェンスを、道路から、ワイフと見あげながら、私は、そんなことを考えた。
(040401)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(137)

●家の間取り

 九州に住んでおられる、FKさんより、家の間取りについての相談を受けた。「建築設計士を
している友人から、相談を受けた。子どものしつけを考えると、家をどんな間取りにしたらいい
か」と。

 基本的は、子どもが、一度は、家族全員が集まる部屋を通って、自分の部屋に行けるような
間取りにすること。

 まずいのは、子どもが、家族の目が届くこともなく、(外)から、(自分の部屋)に、直行できる
ような間取りにすること。極端な例としては、(そういう家は少ないと思うが)、子ども部屋だけ
に、別の出入り口をつけることがある。

 そこで間取りの基本は、

 (外)→(家族全員が集まる部屋)→(子ども部屋)とすること。

 家族全員が集まる部屋というのは、居間であったり、台所であったりする。その部屋を中心
に考え、その居間や台所を通らないと、子どもが自分の子ども部屋に行けないようにする。

 私も息子たちが大きくなって、家を増築したとき、この点に気を配った。20畳程度の居間兼
台所と、その二階部分に、子ども部屋を二つ用意した。

 そのときのこと。アイデアは、二つあった。

 一つは、

 (外)→(廊下)→(階段)→(子ども部屋)という考え方。

 もう一つは、

 (外)→(廊下)→(居間兼第所)→(階段)→(子ども部屋)

 最大のポイントは、「階段をどこにつけるか」だった。廊下につければ、子どもたちは、私たち
の目にとまることなく、(外)と(子ども部屋)を、自由に行き来できる。

 しかし居間兼台所の中につければ、子どもの出入りを、いつも見ることができる。

 それで最終的には、居間兼台所の中に、階段をつけることにした。(いろいろ設計上、問題
はあったが、そうした。)

 その結果だが、それから15年以上。今から思うと、あのときの判断は正しかったと思う。子
どもたちが大きくなり、友だちをつれて出入りするときも、一度は必ず、私たちの目の前を通ら
なければならなかった。

 私とワイフは、そういう動きを見ながら、子どもたちが、どんな友人と、どんなことをしている
か、かなり正確に知ることができた。

 そうでなくても、子どもが大きくなると、会話が少なくなる。交流も、減る。だからこそ、物理的
な方法で、つまり自然な形で、親子が触れあう機会を用意するのは、とても大切なことだと思
う。

 家の間取りは、そういう意味で、重要なポイントとなる。

 そこでいくつかのポイントを、箇条書きにしてみる。

(1)子どもが子ども部屋へ行くとき、必ず、家族の前を通っていくようにする。
(2)子ども部屋は、できるだけ二階に用意する。
(3)子ども部屋は、採光がポイント。日当たりのよい部屋で、窓を大きくする。
(4)皆が集まる、居間や台所を、家の中心に置く。

 なお、子ども部屋の間取りについては、今までに書いた原稿を、ここに添付する(地元タウン
誌発表済み)。

++++++++++++++++++++

●子どもの部屋

 以前、高校の図書室で、どの席が一番人気があるかを調べたことがある。

結果、ドアから一番離れた、一番うしろの窓側の席ということがわかった。

子どもというのは無意識のうちにも、居心地のよい場所を求める。その席からは、入り口と図
書室全体が見渡せた。このことから、子ども部屋について、つぎのようなことに注意するとよ
い。

(1)机に座った位置から、できるだけ広い空間を見渡せるようにする。ドアが見えればなおよ
い。ドアが背中側にあると、落ち着かない。

(2)棚など、圧迫感のあるものは、できるだけ背中側に配置する。


(3)光は、右利き児のばあい、向かって左側から入るようにする。窓につけて机を置く方法も
あるが、窓の外の景色に気をとられ過ぎるようであれば、窓から机をはずす。

(4)机の上には原則としてものを置かないように指導する。そのため大きめのゴミ箱、物入れ
などを用意する。

 多くの親は机をカベにくつけて置くが、この方法は避ける。長く使っていると圧迫感が生じ、そ
れが子どもを勉強嫌いにすることもある。

 また机と同じように注意したいのが、イス。イスはかためのもので、ひじかけがあるとよい。フ
ワフワしたイスは、一見座りごこちがよく見えるが、長く使っているとかえって疲れる。

また座ると前に傾斜するイスがあるが、たしかに勉強中は能率があがるかもしれない。しかし
そのイスでは、休むことができないため、勉強が中断したとき、そのまま子どもは机から離れて
しまう。

一度中断した勉強はなかなかもとに戻らない。子どもの学習机は、勉強するためではなく、休
むためにある。それを忘れてはならない。
 
子どもは小学三〜四年生ごろ、親離れをし始める。このころ子どもは自分だけの部屋を求め
るようになる。部屋を与えるとしたら、そのころを見計らって用意するとよい。それ以前につい
ては、ケースバイケースで考える。

++++++++++++++++++++

ついでに、子どものプライバシーは、どのように
考えたらよいか。それについて書いたのが、つぎ
の原稿である。この原稿は、中日新聞に掲載して
もらったが、かなり反響のあった原稿である。

++++++++++++++++++++

●逃げ場を大切に

 どんな動物にも最後の逃げ場というものがある。動物はこの逃げ場に逃げ込むことによっ
て、身の安全を確保し、そして心をいやす。人間の子どもも、同じ。

親がこの逃げ場を平気で侵すようになると、子どもの情緒は不安定になる。最悪のばあいに
は、家出ということにもなりかねない。

そんなわけで子どもにとって逃げ場は、神聖不可侵な場所と心得て、子どもが逃げ場へ逃げ
たら、追いかけてそこを荒らすようなことはしてはならない。説教をしたり、叱ったりしてもいけ
ない。

子どもにとって逃げ場は、たいていは自分の部屋だが、そこで安全を確保できないとわかる
と、子どもは別の場所に、逃げ場を求めるようになる。A君(小二)は、親に叱られると、トイレ
に逃げ込んでいた。B君(小四)は、近くの公園に隠れていた。C君(年長児)は、犬小屋の中
に入って、時間を過ごしていた。電話ボックスの中や、屋根の上に逃げた子どももいた。

 さらに親がこの逃げ場を荒らすようになると、先ほども書いたように、「家出」ということにな
る。

このタイプの子どもは、もてるものをすべてもって、家から一方向に、どんどん遠ざかっていくと
いう特徴がある。カバン、人形、おもちゃなど。D君(小一)は、おさげの中に、野菜まで入れ
て、家出した。

これに対して、目的のある家出は、必要なものだけをもって家出するので、区別できる。が、も
し目的のわからない家出を繰り返すというようであれば、家庭環境のあり方を猛省しなければ
ならない。過干渉、過関心、威圧的な子育て、無理、強制などがないかを反省する。激しい家
庭騒動が原因になることもある。

 が、中には、子どもの部屋は言うに及ばず、机の中、さらにはバッグの中まで、無断で調べ
る人がいる。しかしこういう行為は、子どものプライバシーを踏みにじることになるから注意す
る。

できれば、子どもの部屋へ入るときでも、子どもの許可を求めてからにする。たとえ相手が幼
児でも、そうする。そういう姿勢が、子どもの中に、「私は私。あなたはあなた」というものの考え
方を育てる。

 話は変わるが、九八年の春、ナイフによる殺傷事件が続いたとき、「生徒(中学生)の持ちも
のを検査せよ」という意見があった。しかしいやしくも教育者を名乗る教師が、子どものカバン
の中など、のぞけるものではない。

私など結婚して以来、女房のバッグの中すらのぞいたことがない。たとえ許可があっても、サイ
フを取り出すこともできない。私はそういうことをするのが、ゾッとするほど、いやだ。

 もしこのことがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。あるいはあなたが子ども
のころを思い出してみればよい。あなたにも最後の逃げ場というものがあったはずだ。またプ
ライバシーを侵されて、不愉快な思いをしたこともあったはずだ。それはもう、理屈を超えた、
人間的な不快感と言ってもよい。自分自身の魂をキズつけられるかのような不快感だ。

それがわかったら、あなたは子どもに対して、それをしてはいけない。たとえ親子でも、それを
してはいけない。子どもの尊厳を守るために。
(はやし浩司 家の間取り 子ども部屋 プライバシー 子どもの尊厳 家出)
(040401)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(138)

●言論の自由

 週刊「B」が、発刊停止処分になった。元国会議員の娘の記事が問題になった。が、それに
対して、東京高裁は、発刊停止を、無効とした。当然である。

 言論の自由は、あらゆる権利の中でも、神聖不可侵な権利である。国民の権利として、最大
限尊重されねばならない。たかがこの程度の離婚問題で、言論の自由が制限されたら、たま
らない!

 しかしなぜ、その娘の記事が、週刊「B」に載ったか? 理由など、述べるまでもない。それが
わからなければ、反対の立場で考えてみればよい。

 あなたの周辺にも、離婚した人がいるだろう。しかしそういう人の記事が、週刊「B」に載るこ
とはあるだろうか? ぜったいに、ない! その娘の記事が週刊「B」に載ったのは、あの元国
会議員のT氏の娘だからである。

 娘は公人か、公人でないかという議論もある。しかしその娘のことは、私でさえ、よく知ってい
る。母親のT氏と、よくマスコミにも、顔を出してきた。一方で、そうしてマスコミをさんざん利用し
ておきながら、「私生活を暴かれた」は、ない。

 ただ私にも、言いたいことはある。

 週刊「B」側は、言論の自由を盾(たて)にとって、自分たちの正当性を主張している。しかしこ
ういうくだらない記事は、「言論の自由」というときの言論とは、意味がちがう。ただのゴシップ
記事。そういう記事が問題になったからといって、言論の自由が侵害されたと騒ぐのも、どうか
している。

 週刊「B」側は、著名な文士をズラリと並べ、反論記事を掲載した。どの文士も、週刊「B」の
息のかかった、イエスマンばかりである。東京あたりで、週刊「B」に嫌われたら、メシを食って
いかれない。

 言論の自由。

 本当に、この日本には、言論の自由はあるのかという議論から、始めねばならない。もちろ
ん、くだらないことを、そのレベルで、ギャーギャー騒いでいる間は、問題ない。元国会議員の
娘の離婚記事など、その範囲の話題でしかない。

 しかしその範囲をひとたび超えて、たとえば、天皇制の問題、国歌、国旗の問題となると、そ
うはいかない。さらに日本にはびこる宗教団体の問題。政治と宗教の問題となると、さらにむ
ずかしい。

 こうした問題について、率直な意見を書いたりすると、私のところでさえ、いやがらせの電話
などがかかってくる。教室へ怒鳴り込んできた人さえいる。

 まあ、あえて言うなら、週刊「B」も、もう少し、高い視点から、日本をながめたらよいというこ
と。今回の事件は、週刊「B」が、くだらないゴシップ記事を載せた。だから、書かれた人が、待
ったをかけた。それだけの事件である。

 それを仰々しく、「言論の自由が侵害された」と騒ぐことのほうが、おかしい。週刊「B」は、たく
みに問題をすりかえようとしている。しかし、そうはいかない。

 こうした軽薄なゴシップ記事を書かれた人は、ウソやまちがいがあれば、そのつど、名誉毀
損(きそん)か何かで、出版社をどんどん訴えればよい。それは正当な権利である。決して、泣
き寝入りしてはいけない。


●消費税がわからない(?)

 4月1日から、値段の表示が、消費税込みの総額表示になった。だからたとえば「100えん・
ショップ」は、4月1日から、「105えん・ショップ」になった。

 消費税がいくらか、わかりにくくするための措置ということらしい。消費税をあげるための、ワ
ンステップと考えてもよい。

 が、問題は、このことではない。

 問題は、こうした一方的な措置が、恐らく通産省の課長クラスの通達一つで、なされたという
こと。そしてそれに、全国のスーパー、デパート、小売業界が、そのまま従ったということ。

 昨日のテレビ報道によれば、(値札の張りかえが間にあわなかった)という理由で、休業した
大型店もあったという。

 なぜだろう?

 なぜ、今ままでどおり、価格と消費税を別に表示してはいけないのだろう?
 なぜ、こうまで、通産省の指導に、厳格に従わねばならないのだろう?
 なぜ、「うちの店だけは、今までどおり、消費税は、別に表示します」と言ってはいけないのだ
ろう。
 なぜ「100えん・ショップです。消費税は、別です」と言ってはいけないのだろう。

 つまりそれほどまでに、通産省の権限は、絶大なのだろうか。あるいはそういう指示に従わな
いことで、何か、不都合なことが生ずるのだろうか。不利益があるのだろうか。

 まさに日本は、官僚主義国家。上から下へと、一方的に、ものごとが決められていく。その一
端を、私は、改めて垣間見たような感じがした。

 何としてでも、自分たちの失政を棚にあげて、国民をだまして、その国民から、金をまきあげ
ようとする官僚たち。そして何ら疑うこともなく、あやつられるまま、あやつられている国民た
ち。

 それが今の日本の基本的な構図と考えてよい。


●うかつだった……!

 おとといの夜、風呂に入るとき、肉まんを食べた。私は、あんまんは好きだが、肉まんは好き
ではない。そこで肉まんをふかしたあと、それに、ミルクとマーガリン、それにチョコレートをつ
けて食べた。おいしかった!

 その味が忘れられず、昨日の朝、同じようにして肉まんを二個、食べた。ワイフが、テニスに
でかけていたこともある。

 が、……。

 昨日の朝、起きたときから、軽い、頭痛。「?」と思いながら、肉まんをふかし、それにミルクと
マーガリン、それにチョコレートをつけて食べた。おいしかった!

 が、それから1、2時間後から、頭痛がはげしくなった。偏頭痛である。しかし今回は、前兆な
しの頭痛。「?」と思っているうちにも、症状がはげしくなった。

 昼ごろにはダウン。ふとんの中で、苦しんだ。しかたないので、医師からもらった薬を、のむ。
しかしほとんど効果なし。ますます「?」。

 結局、夕方まで、ふとんの中。頭のシンが割れるように痛かった。夕食はラーメンだけ。何だ
かんだとしているうちに、時計を見ると、夜9時。またふとんの中へ。

 少し偏頭痛はおさまったが、薬のせいで、胃の中がムカムカする。心配してやってきたワイフ
と話しているうちに、原因がわかった。

 今回の偏頭痛には、思い当たる理由がない。平穏無事な生活をしていた。神経をつかうこと
もなかった。それに春休みになって、一週間が過ぎていた。

 が、やはり、原因があった。

 「チョコレートだ」と私は、つぶやいた。ワイフもそれに応じた。「あんた、バカね。チョコレート
を食べたの?」と。

 私は肉まんに、たっぷりとチョコレートをつけて食べた。それがよくなかった。若いころは、「バ
レンタイン頭痛」に苦しんだ。ちょうどバレンタインの季節になると、きまって偏頭痛が起きた。
それでそう呼んだ。

 職業柄、その時期、女の子(女の子といっても、幼児からの子どもだが……)から、たくさんの
チョコレートをもらった。それをあまり考えないで、当時は、パクパクと食べていた。

 理由はよくわからないが、私はチョコレートを食べると、偏頭痛が起きる。ホント!

私「バカだな。ぼくも……」
ワ「わかっているなら、食べなければいいのに……」
私「うかつだった。本当に、うかつだった」と。

 改めて、私が食べてはいけないものを、列挙する。

(1)酒類……ビールは、コップ3分の1、飲んだだけで、三日酔い。
(2)チョコレート……アーモンドチョコ、5.6個で、偏頭痛。
(3)コーヒー……飲んだ直後に、ゲーゲーとあげてしまう。

 ほかに、とくに悪いものは、ない。しかしこの三つだけは、だめ。改めて自分に言ってきかせ
る。「二度と、チョコレートは、食べないぞ」と。

 それにしても、昨日は、最悪だった。そのお返しに、今日は、ワイフと、近くの山へ登るつも
り。


●不良書き込み

 Y新聞の投書欄に、不良書き込みのことが書いてあった。「ホームページの掲示板に、不良
書き込みをやめてほしい」と。

 その投書をした人は、身体障害者の福祉のためのホームページを開いているという。そうい
うホームページの掲示板にさえ、不良書き込みをする人がいるという。しかしそういう書き込み
をする人のことを、本物のバカという。

『バカなことをする人を、バカというのよ。頭じゃないのよ』(フォレスト・ガンプ)と。

 実のところ、私のホームページにも、その種の書き込みが、よくある。

 「コスプレ、格安販売」
 「幼い子、全裸写真」
 「若奥様の、楽しいアルバイト」
 「秘密クラブで、ちょっと息抜き」などなど。

 私は、掲示板に、TEACUP社の無料サービスを使っている。このT社のばあい、書き込みが
あると、即、メールで、その内容を知らせてくれる。で、そのつど、私は、こまめに削除してい
る。

 こうした不良書き込みがあったばあい、やはり、無視するのが、一番。こういったことをする
バカは、いわば、インターネットのゴミのようなもの。そういうバカは、ある一定の比率でいる。
そういう前提で、インターネットをするしかない。

 へたに抗議したり、相手にしたりすると、かえっていやがらせがふえるという。何かの雑誌
に、そう書いてあった。つまり無視するのが、一番よい。

 と、言っても、その投書を書いた人の気持ちが、よくわかる。私も、最初のころ、そういう書き
込みをされると、本当にイラだった。いくら「不良書き込みは、お断り」と注意書きを書いても、
意味はない。堂々と書き込んでくる。

 で、そうした私の心理を分析してみると、こうなる。

(第1期)……書き込みをした連中を、たたきのめしたい衝動にかられる。
(第2期)……イライラしながら、削除を繰りかえす。
(第3期)……あきらめの時期。「勝手にしやがれ」という心境になる。
(第4期)……淡々と削除して、その直後には忘れてしまう。

 今は、もうその(第4期)。新聞に投書してきた人は、多分、まだインターネットを始めたばか
り? まだ(第1期)の段階ではないかと思われる。ほんの少しだけ、先輩の立場で言うと、こう
なる。

 「そのうちなれますから、無視しなさい」と。

 とは言いつつも、掲示板への書き込みだけではない。私のばあい、メールアドレスを公開して
いることもある。ホームページには、Q&Aコーナーももうけてある。そのため、心ない人からの
いやがらせが、あとを断たない。

 で、最近では、そういった人からのメールは、一度でも、そういうことがあったら、着信と同時
に、本文はもちろんのこと、件名ごと、削除することにしている。アウトルック・エクスプレスに
は、「送信者禁止処理」という便利な機能がある。それをうまく使っている。

 この処理を使うと、直進と同時に、件名と本文を、削除できる。

 要するに、無視するのが一番。どうせ自分の名前も堂々と言えない、気が小さい人たちであ
る。表だっては、何もできない。だから、相手にしない。そこらにころがっている、石の上に書か
れたグラフィティ(落書き)と思えばよい。


【追記】

 今日(4・2)、ワイフと二人で、愛知県境にある(とんまく山)に登った。そのあたりは、この地
方にだけしかないという、渋川(しぶかわ)つつじの群生地として知られている。

 地元の人たちがしかっりと管理していてくれるため、普段着のまま登れる山でもある。が、そ
の道すがら、両側は、穴ぼこだらけ。不届きな人たちが、花木を掘って盗んでいった、その跡
(あと)である。

 いたるところに、立て札が立っていて、それには、「山草をとらないでください」「花木は、山に
咲いていてこそ、美しいのです」「みんなで山の花を守りましょう」と書いてある。

 にもかかわらず、花木を抜いて、もっていく!

 一部の人とはいえ、こんな世界にも、そういう人がいる。つまりこういう心ない人というのは、
どんな世界にもいるということ。決してインターネットの世界だけのことではない。


●盗んだ花は、美しい?

 4月2日、土曜日。今日は、ワイフと二人で、引佐町(いなさちょう)と、愛知県の県境にある、
とんまく山(富幕山)という山に登った。(写真は、マガジンの4月号の中で紹介。)

 標高700メートル弱の山である。途中までは、車で行ける。そこからは歩いた。山頂まで、片
道、2キロ。なだらかな山道で、5、6歳の幼児でも登れると思う。実際、道すがら、その年齢前
後の子どもたちが山頂方面から、おりてくるのを見かけた。

 春の、うららかな日で、ちょうど吹き始めた新芽の香りが、心地よかった。少し前、別の登山
で失敗したため、今日は、急がず、無理をせず、体をいたわりながら、登った。

++++++++++++++++++

とんまく山へ……浜松市から北西へ、車で30〜40分のところに、奥山高原がある。ふもとに
は、半僧坊(はんそうぼう)という、禅宗の総本山がある。

その半僧坊の下から、道をどんどんと登っていくと、「奥山高原レジャーパーク」がある。そのあ
たりが、標高550メートルくらいだそうだ。そのレジャーパークの中の駐車場で車を止めて、徒
歩で富幕山(とんまく山)の山頂をめざす。

初夏のハイキングコースとしては、最適の高原といってもよい。

++++++++++++++++++

 が、私たちは、大きな失敗をした。

 その失敗。途中のコンビニで弁当を買っていくつもりだった。しかし国道からはずれて、半僧
坊にいたる道中に、コンビニはなかった。

 しかたないので門前町の中にある八百屋で、弁当を調達した。が、弁当は、なかった。さらに
しかたないので、パンを二個、それにバナナを数本、ミカンの缶詰などを買った。

 何とも、ハイキングらしからぬ弁当である。この段階で、高原の頂上で、弁当を広げて……と
いう夢は、シャボン玉のように、はじけて消えた。

 で、奥山高原レジャーパークの駐車場に車を止めてから、歩くこと、1時間と少し。意外と楽
に、頂上に着くことができた。土曜日ということだったが、すれちがった人は、10人前後。自分
たちのペースで、のんびりと登山を楽しむことができた。

 が、残念なこともあった。

 山道の両側には、このあたりにしか生えないという、渋川(しぶかわ)つつじが群生している。
そのつつじを、株ごと引き抜いていく人が、いるということ。山道に沿って、道端は、穴ぼこだら
け。場所によっては、たがやしたばかりの畑のようになっているところもあった。

「木を抜かないでください」「自然の花は、自然の中でこそ、美しいのです」という立て札が、悲し
い。そのそばで、むなしく、そよ風にゆれていた。

 ハイキングコースといっても、地元の人たちによって、しっかりと管理されている。途中には、
細いが、いたるところロープが張ってある。分かれ道には、道案内の標識も立っている。また
頂上の休憩所には、みなが楽しめるようにと、写真集まで置いてある。

 そういうハイクングコースで、盗採する人がいるとは! 

 とても楽しい一日だったが、帰りの車の中で、ワイフとこんな会話をする。

私「盗んだ木を見て、あとで楽しいのかねエ?」
ワ「盗んだとは思っていないのよ、きっと……」
私「自然を愛する心と、その自然の中に生える木を盗むという行為は、矛盾すると思うヨ」
ワ「あのね、そういうことをする人は、そんなふうには考えないと思うワ」

私「いいか。たとえばその木を盗んできて、自分の家で、植木鉢に植えたとするよね」
ワ「……」
私「その木を見ていて、そういう人は、気分が悪くならないのかねエ?」
ワ「だから、そういうふうには、考えないってばア」

私「じゃあ、どう考えるんだ?」
ワ「自分のモノになったと、喜んでいるだけヨ」
私「やっぱり、木を愛する心と、盗むという行為は、矛盾すると思うんだけどナ」
ワ「それは人間性の問題ね。その人間性が、狂っているのよ」と。

 私が言いたかったことは、こんなことだ。

 自然に生える美しい花木があったとする。それを「美しい」と思うのは、いわば人間がもつ、純
粋な心の作用ということになる。

 一方、「盗む」という行為は、邪悪な心の作用ということになる。まずこの段階で、純粋な心
と、邪悪な心が、まっ向から対立する。

 つぎに、その花木を自分の家にもってきて、植木鉢に植えたとする。しかしその花木は、いわ
ば、自分の邪悪な心の象徴のようなもの。つまりその花木を見るたびに、自分の邪悪な心を思
い知らされる。「この花木は、盗んできたものだ」と。

 私なら、そんな花木など、見たくもない。どこかへ捨ててしまう。しかし多分、その盗んできた
人は、その花木を見ながら、「きれいだ」「美しい」と楽しんでいる?

 私は、それを「矛盾」と、とらえる。

私「一度、そういうことをする人に会って、話を聞いてみたい」
ワ「何て、聞くの?」
私「盗んできた花木を見て、本当に楽しめますか。罪の意識を感じませんか、とね」
ワ「聞くだけ、ヤボよ」
私「そうだな……」と。

 私にも、邪悪な心がある。ないわけではない。銀行へ行き、そこで待たされるたびに、頭の中
で、銀行襲撃のプランを練る。もちろん、頭の中で想像し、それを楽しむだけである。そんな私
だが、しかし自然の中に生える花木を盗むという発想は、まったくない。相手は、まったく無防
備な、植物だ。そういうものを盗んでもってくるというのは、卑怯(ひきょう)というもの。

 しかし何とも、心のさみしい話ではないか。……ということで、この話は、これでおしまい。とに
かく、楽しい一日だったことには、ちがいない。あまりむずかしく考えないで、今日は、終わりた
い。
(はやし浩司 富幕山 とんまく山)


●夫と妻

 夫と妻の関係といっても、絶対的なものではない。それゆえに、決して安定的なものでもな
い。「夫だから……」「妻だから……」と、相手をしばっても、あまり意味はない。たとえば浮気
心。

 こんなことワイフに聞いても、絶対に本当のことを言わないだろうから、聞いたことがない。し
かし、私のワイフだって、浮気をしたいと思ったこともあるはず。あるいは実際に、私の知らな
いところで、浮気をしたことがあるかもしれない。

 ただ私が知っているのは、若いころ、しかし私と結婚したあとのことだが、俳優のN村A夫とい
う男に、うつつをぬかしていたこと。N村A夫がテレビに顔を出したりすると、ワイフは、いつも目
を輝かせて、画面を見つめていた。

 ずっとあとになって、つまりN村A夫が、本当は頭が、かつらをかぶっていることを知り、幻滅
してからのことだが、「私、N村A夫が、大好きだった。ああいう人に声をかけられたら、浮気し
ていた」と、ワイフが、告白したことがある。

 実は、N村A夫が、かつらをかぶっているということは、私が調べて、私がワイフに話してやっ
たことである。嫉妬(しっと)心もあった。

 「お前の好きな、あの男な。本当は、ツルツル、ピカピカの、ハゲ頭だア!」と。

 ワイフは、かなりのショックを受けたらしい。それからしばらくは、N村A夫の話を、まったくしな
くなった。ワイフが、「ああいう人だったら、浮気してもいいと思ったことがある」と告白したの
は、そのあとのことだった。

 だいたい、俳優なんかと、浮気などできるはずがない。また、あんなかっこいい男なんか、そ
うはいない。ザマーミロ!

 かく言う私だって、いつも、心の中では、浮気している。ただ、残念ながら、相手にしてもらえ
ないだけ。それにその度胸もない。正直に言えば、浮気をしたことがあるとも書けないし、浮気
をしたことはないとも、書けない。その立場は、ワイフと、同じ。読者のみなさんと、同じ。

 今、自分の文章を読んで気がついたが、もう一度、この文章を読んでほしい。私は、こう書い
た。

 「浮気をしたことがあるとも書けないし、浮気をしたことはないとも、書けない」と。

 この文章は、よく読むと、「私は浮気をしたことがある」という意味になる。論理的に考えると、
そうなる。ゾーッ。もし浮気をしたことがないのなら、「浮気をしたことがない」と書けば、それで
すむはず。

私は、どちらとも書けないという意味で書いたのだが……。「日本語というのは、おもしろいな
あ」と、へんなところで、へんに感心している。

 それはともかくも、しかし、長い人生。いろいろなことがある。あって当然。夫婦だからといっ
て、たがいに、変らぬ感情をもちつづけるなどということは、ありえない。私たち夫婦にしても、
定期的に、「別れてやる」「別れましょう」と、喧嘩をしている。

 そういうときというのは、本当に、ワイフのことを、殺したいほど憎く感ずる。恐らくワイフにし
ても、同じだろうと思う。愛情の一かけらも、感じない。「どこかで死んでしまえばいい」と思うこと
さえある。

しかし数日もすると、たいていのばあい、私のほうが白旗をあげる。「ぼくが、悪かった。またい
っしょに、寝よう」と。

私はおかしなことに、ワイフの肌のぬくもりを横に感じないと、よく眠られない。恐ろしい夢ばか
り見る。だから私のほうが、白旗をあげる。33年も、夫婦をつづけていると、そういうクセの一
つや二つが、身についてしまう。

 いや、夫婦というのは、そういうものかもしれない。みんなどこの夫婦も、外から見ると、うまく
いっているように見える。しかしどこの夫婦も、それぞれが、いろいろな問題をかかえて、四苦
八苦している。問題のない夫婦はいない。問題をかかえていない夫婦も、いない。

 大切なことは、たがいに、期待しすぎないこと。ほどほどのところであきらめて、納得するこ
と。

 あとは友として、遠くの前だけを見ながら、いっしょに歩く。しょっちゅう喧嘩ばかりしている私
たちだから、偉そうなことは言えないが、それが夫婦円満のコツではないか。

 まあ、ときには、寄り道をしたり、道草をくったり、ここに書いたように、浮気心をもつこともあ
るだろ。しかしそういうものがあっても、夫婦は夫婦。やっぱり同じ道を歩く。そして気がついて
みると、やっぱり夫がそこにいて、妻がそこにいる。

 夫と妻というのは、そういうものかもしれない。


●伝染するうつ病

 その人本人が、うつ病になるのは、ある意味で、その人の勝手。しかしこのうつ病には、もう
一つ、問題がある。こんな話を聞いたことがある。

 ある会社のある課の課長が、うつ病になってしまった。それはそれだが、1、2年もすると、そ
の課全体の社員も、うつ病になってしまったという。課長がもつ、クラーイ雰囲気が、社員にも
移ってしまったというわけである。

 こういうことは、家庭でも、よく起こる。

 夫がうつ病になり、妻もうつ病になるケース。
 母親がうつ病になり、子どもも、うつ病になるケース。
 反対に、子どもがうつ病になり、それを看病している間に、家族もうつ病になるケースもある。

 うつ病の症状としては、つぎのようなものがあるという(深堀元文「心理学のすべて」より)

( )憂うつな気分
( )興味や喜びの著しい減退
( )体重や食欲の減退
( )睡眠の増減
( )行動や動作が鈍くなる
( )落ち着きがない
( )疲れやすい
( )集中できない
( )自信がない
( )自殺を考える

 こうした症状が思い当たれば、うつ病ということになるが、このほかにも、(1)仮面うつ病や、
さらに最近ふえているのに、(2)軽症うつ病というのがある。

 仮面うつ病というのは、「身体的な症状が前面に出ていて、(精神的な)うつの症状が隠れて
いるもの」(同)。「軽症うつ病は、うつ病より症状より症状が軽いので、こう呼ばれている」(同)
と。

 深堀氏は、つぎのような症状があれば、軽症うつ病を疑ってみろと書いている(同)。

( )朝起きたときに、気分が落ちこむ
( )朝いつものように新聞やテレビをみる気になれない
( )服装や身だしなみに、いつものように関心がない
( )通勤の途中で、戻りたくなる
( )同僚と話をしたくない
( )夕方になると、気分が楽になる
( )「いっそのこと消えてしまいたい」と思うことがある

 こうした心の病気は、本人にその自覚があれば、あるいはまだあるうちは、症状も軽いと言
える。しかし重症になると、その自覚そのものがなくなる。

 最近でも、私の知っている女性(38歳)が、そのうつ病になった。ここに書いたような症状が、
すべて当てはまった。そこで夫(43歳)が、病院へつれていこうとしたが、その女性は、がんと
して、それに応じなかったという。「私は、何ともないから、病院へは行かない」と。

 しかしうつ病はともかくも、仮面うつ病にせよ、軽症うつ病にせよ、今では、薬で簡単になおる
時代である。深堀氏も、「薬物を中心とした治療によって、簡単に治る」(同)と書いている。内
科を訪れる患者の3分の1は、仮面うつ病によるものという説もある。

 わかりやすく言えば、うつ病は、まさに現代人がかかえる、心の風邪のようなもの。だれだっ
てなりうるし、またなったからといって、罪悪感を覚えることはない。

 で、私のばあいだが、私はもともとは、うつ型人間。ストレスを受けると、そのストレスをうまく
処理できず、よく落ちこむ。ただ幸いなことは、自分がそうなったとき、その自覚があるというこ
と。これを「病識」というが、その病識がある。

 さらに幸いになことに、私の仕事は、幼児と接すること。この幼児には、おとなの心をいやす
という、不思議な力がある。いくら落ちこんでいても、私のばあい、幼児と接したとたん、あるい
はその幼児と接している間は、気分が、ウソのように晴れる。

 今も、初老の、あぶない時期にあるが、むしろ職場そのものが、そんなわけで、私にとって
は、ストレス発散の場所になっている。幼児とワイワイと騒いでいるときだけ、自分でいられる。
「どうも自分はおかしい」と感じたら、子どもと、童心にかえって、ワイワイと遊んでみる……。こ
れも、うつ病治療には、効果的かもしれない。……と、今、勝手にそう考えている。

 ともかくも、うつ病は、決して、その人本人だけの問題ではすまない。(だからといって、その
人にそう言うと、ますます落ちこんでしまうので、そうは言ってはいけないが……。)そういう問
題も、あるということ。このつづきは、またの機会に!
(参考文献……深堀元文、日本実業出版社「心理学のすべて」)


●『レインマン』

 少し前、『レインマン』という映画があった。自閉症の患者を演ずる、ダスティ・ホフマン(レイモ
ンド)と、その遺産をねらう弟役を演ずる、トム・クルーズ(チャーリー)の映画だった。よい映画
だった。

しかしあの映画の中のダスティ・ホフマンが、自閉症の患者を正確に描写していたかどうかとい
う点については、疑問がないわけではない。

 やはり、演技は演技で、そのあたりに、私は、ひとつの限界を感じた。

 それはともかくも、最近、こんな相談をもらった。大阪府T市に住む、ある男性からのものであ
る。彼の兄(50歳)が、その自閉症だという。しかしその男性は、こう言う。

「レインマンという映画の中では、兄のレイモンドは、それでもどこか、ものわかりのよい兄とい
うことになっていましたが、実際には、あんなものではありません」と。

 「映画の中でも、兄(ダスティ・ホフマン)は、テレビを見ると言い出し、同じテレビを繰りかえし
見たりします。思ったとおりにならないと、パニック状態になったりします。私の兄もそうで、変
化をとくに嫌います。何でも、自分の思いどおりに、かついつもどおりになっていないと、パニッ
ク状態になります。

 日常の生活も正確で、昼の12時きっかりに、昼食を用意していないと、それだけで、不機嫌
になったり、イラだったりします。

 部屋の中の机すら、そんなわけで、動かすことができません。本一冊、動いていても、気がヘ
ンになります。そんな兄ですが、一つ、深刻な問題をかかえています。それは、性欲問題です」
と。

 ときどき、その兄を、自分の家へつれてくるのだが、その兄が、その男性の妻に抱きついた
り、キスしようとしたりするという。

 さらに妻がひとりで風呂に入っていたりすると、わざとさがしものをしているようなフリをしなが
ら、となりの脱衣所でうろついてみたり、さらには、タンスから妻の下着を引き出して、それを手
でもって、じっとながめていたりするという。

 「いくら心に障害があるとはいえ、許せることと許せないことがあります。そんなわけで、妻
は、兄が私の家にいるときは、かた時も、私から離れようとしません。兄を、こわがっていま
す。

 レインマンの中では、こういった障害をもつ人の、ある意味で、美しい部分しか描いていませ
んが、実際には、そうではないということです」と。

 男の性(さが)というか、そういうものは、「障害」とは、別の次元で、性は、その人を支配する
らしい。心が健康なら(こういういい方は不適切かもしれないが)、弟の妻には、いくら情欲を覚
えても、手を出さないもの。しかしその「心の健康」が欠けると、そうではなくなるということもあ
るということ。

 こんな例もある。

 ある男の子(当時、15歳くらい)は、今で言う、LD(学習障害児)で、知恵の発達もかなり遅
れていた。そのためいつも、どこか、ぼんやりとした様子を示していた。人前ではおとなしく、ハ
キもなかった。

 しかし15歳くらいになったときのこと。こんな奇行をするようになった。道を歩いていて、前か
ら女の子がやってきたりすると、突然、勃起したチンチンを出して見せたり、ときには、女の子
に背後から抱きついたりするなど。

 そこで近所の人が、その男の子の母親に、それとなく抗議をすると、その母親は狂乱状態に
なって、こう叫んだという。

 「うちの子は、おつむ(頭)は弱いが、そんなことをする子どもではありません。どうしてうちの
子を、そういうふうに、悪者扱いするのですかア!」と。

 その男の子は、母親の前では、まさに借りてきたネコの子のように、従順で、おとなしかっ
た。

 これだけではないが、私の印象では、たとえば性欲というような(本能)は、もろもろの障害と
は、別次元で働くのではないかと思っている。もちろん、(心が健康な人)でも、である。

 大学の教授でさえ、若い女子学生に手を出して、クビになった人はいくらでいる。学校の先生
となると、ごまんといる。人間国宝となっているような歌舞伎役者でさえ、二十歳未満の愛人を
もち、別れ際、チンチンを見せていた。

 心が健康だから、性欲が正常ということもないし、心が健康でないから、性欲がないというこ
とでもない。ただ心が健康でない分だけ、その性欲のはき出し方も、ゆがみやすいということ。
コントロールがきかないこともある。あるいは、性欲だけが、特異に強くなることもある。

 精神と本能は、どこかで分けて考えたほうがよいということ。『レインマン』という映画を思い出
しながら、ふと、そんなことを考えた。
 
 ついでに一言。……こういうことを書くと、自閉症の子どもをかかえている親は、心配するか
もしれない。が、こうした(心の問題)は、大きく二つの部分に分けて考える。

 ひとつは、(基本的な問題)。もうひとつは、(こじれた問題)である。

 軽い風邪でも、こじらせると、肺炎になる。中耳炎から難聴になることもある。同じように、(心
の問題)も、不適切な対処などが原因で、こじらせると、症状がひどくなり、さらに別の症状を示
すことがある。

 自閉症にしても、最初からそれと認めた上で、適切に対処すれば、こうした(こじれた問題)
を、最小限におさえることができる。ここに書いたような、(ゆがんだ性欲)の部分は、(こじれた
問題)に属する。

 だから大切なことは、仮に子どもの心に、何か問題があったとしても、それをこじらせないよう
にすること。よくあるのは、無理や強制、あるいは強引な方法で、子どもの心をなおそうとする
ような行為。

 こういう行為が重なると、ここでいう(こじれた問題)が起きることがある。

たとえばLD(学習障害児)にしても、本当の問題は、本来の学習障害があるということではな
く、それまでの無理な学習が原因で、勉強嫌いになってしまっていることが多いということ。

 よく親は、学習障害であることだけを問題にするが、自分が、その一方で、子どもを、勉強嫌
いにしてしまっていることには、気づいていない。そういうケースは、本当に多い。

 同じくADHD児にしても、乳幼児期のうちから、日常的に叱られてばかりいるため、親や先生
の指示に対して、免疫性を身につけてしまっていることが多い。

 こうした(こじれた問題)が大きくなると、当然のことながら、そのあとの指導がむずかしくな
る。

 ほかにも、不登校児の問題がある。最初の段階で、つまりある日突然、子どもが「学校へ行
きたくない」と言った段階で、適切に対処していれば、同じ不登校でも、もっと軽くすんだかもし
れない。

 しかし一度、こうした症状を子どもが示すと、大半の親は、まさに狂乱状態になる。この狂乱
ぶりが、子どもの症状を、一気に悪化させる。

 ここに書いた(性欲)の問題は、あくまでも、(こじれた問題)と考えてよい。自閉症児の子ども
がみな、同じような症状を示すというわけではない。
(はやし浩司 自閉症 こじれた問題 こじれる LD児 ADHD児 こじらす)


●カルトの布教番組

 昨夜(4・3)、心霊写真についてのテレビ番組を見た。見たというより、チャンネルをかえてい
たら、目に飛びこんできた。それで見るともなしに、しばらく見てしまった。

 実にくだらない番組だった。

 私が垣間見た部分では、ちょうど、こんな写真を取りあげていた。

 一人の女性(20歳くらい)が、どこかへ旅行に行ったときのこと。そのときとった、スナップ写
真の顔に、黒いシミが現れていた。そのシミは、鼻の、向って右側から、ほおの右側部分にま
で、広がっていた。

 それはたしかに、不気味な写真だった。

 で、いつもの、霊媒師のような女性が登場して、実にもっともらしく、こう説明していた。

 「これは、この女性の家の仏壇に、ほこりがたまっていることが原因で起きた現象です。この
女性の家、もしくは実家の仏壇の清掃をすれば、こうしたシミは消えます。墓参りも、きちんと
するように」(記憶に基づいて書いたので、不正確)と。

 まったくもって、「?」な回答だった。

 多分、その写真は、デジタルカメラか何かでとったものだろう。もしそうであれば、顔に塗った
化粧品に、カメラが、特殊な反応をしたことが考えられる。あるいはひょっとしたら、その女性
は、UV(紫外線)カットクリームか何かを使っていたためかもしれない。

 フィルムカメラでも、同じような反応を示すことがある。

 どちらにせよ、こうしたインチキな情報を流す前に、テレビ局側は、現場やカメラ、そのときの
状況を検証すべきである。科学的な検証もしないまま、一方的に、霊媒師の説明だけを、全国
に報道するというのは、きわめて危険な行為といってもよい。

 現にその番組の中では、4〜5人の小学生たちが、コメンテイターとして(?)、それぞれの意
見を述べていた。春休み中の番組ということで、子どもたちを並べたのだろうが、そんなこと
は、許されるべきことではない。その子どもたちは、その番組を見て、どのような死生観をもつ
だろうか。それを考えたとき、私はむしろ、そちらのほうに、ゾッとした。

 だいたいにおいて、仏壇にほこりがたまったくらいで、死者が、(霊なら霊でもよいが)、生き
ている人の顔写真に、そんな細工などしない。実に、低劣。くだらない。お粗末。バカげている。

(もし、そうなら、その根拠を示せ!)

 その霊媒師は、霊を尊重しているフリをしているが、その実、死者を、そして人間を、とことん
バカにしている。この文明国、日本にあって、そして21世紀にもなった、今、こうした人間が、
堂々と出てきて、こういう意見を述べること自体、私には信じられない。

 そういう人間をテレビに登場させて、意見を言わせるテレビ局側も、テレビ局側である。まさ
にカルトの布教番組と言ってもよい。あるいは、どこがどうちがうというのか。

 ここではっきりと、確認しておきたい。

 この世には、心霊写真などというものは、存在しない。今では、映像技術によって、どんな映
像でもできる。そこらの素人でもできる。それに可視光線だけが、(見える世界)ではない。カメ
ラやフィルムは、見えない光線にも反応する。冒頭にあげた、黒いシミなどは、その一例と考え
てよい。

 こういうアホな下地を、一方でつくるから、あのOM真理教のような、わけのわからない教団
が、つぎからつぎへと生まれる。テレビ局側も、少しは、自分たちのしていることに対して、もう
少し責任を自覚してほしい。
(はやし浩司 心霊写真)


●YM新聞の社説

04年4月4日。YM新聞に、『靖国問題を対日カードにするな』と題して、こんな社説が載ってい
た。

いわく、「一国の指導者がいつ、どのような形で、戦没者を追悼するかは、その国の伝統や慣
習に根ざす、国内問題である」

「首相は、これからも参拝を続ける意向を表明している。国内で、参拝の賛否をめぐる議論が
あってもいいが、外国に干渉される筋合いのものではない」(原文のまま)と。

私はその社説を読んで、「そういうふうに考える人も、まだ多いのだな」と、へんに感心した。

 話は変るが、今、二男は、アメリカに住んでいる。日本人はもとより、アジア人が極端に少な
い、中西部の小さな田舎町に住んでいる。その二男の親友は、韓国人のK氏である。

 また今、三男はオーストラリアに住んでいる。オーストラリア人の家庭にホームステイしている
が、もう一人、同居人がいる。数歳年上の、やはり韓国人である。私が電話をするたびに、流
暢(りゅうちょう)な英語で、その電話を三男に渡してくれる。

 少し心配して、しかし遠慮がちに、二男や、三男に、「韓国の人たちは、日本人のお前たちに
意地悪しないか?」と、私が聞くと、二男も三男も、「どうして?」と言う。つづいて、「いい人だ
よ」と言う。

 私は、そういう韓国の人の話を聞くと、心のどこかで「よかった」と思うと同時に、何かしら申し
訳ない気持ちにさせられる。

 日本よ、日本人よ、同じ仲間よ、もう少し、自分たちがしたことについて、謙虚に反省しようで
はないか。私たちが、戦前、韓国や、中国の人たちに対して、何をしたかを、だ。そういう反省
もないまま、「外国に干渉される筋合いのものではない」というのは、少し言いすぎではないの
か。

 心理学の世界でも、人格の完成度は、内面化の完成度ではかる。そしてその内面化の完成
度は、その人の同調性や協調性ではかる。つまりいかに相手の立場になって、相手の悲しみ
や苦しみが理解できるかによって、人格の完成度は決まる。

 自己中心的で、自分勝手な人は、それだけ人格の完成度は、低いということになる。自分の
立場でしか、ものを考えられない人もそうだ。

 同じように、国としての完成度も、その内面化の完成度によってはかることができる。たしか
に先の戦争で、日本人は、300万人も死んでいる。しかし同時に、その日本人は、同じく300
万人の外国人を殺している。

 そういった、日本軍に殺された人たちのことを思いやってこそ、はじめて日本は、国としての
完成度の高い国ということになる。

 繰りかえすが、この300万人というのは、日本へやってきた外国人を殺したのではない。日
本が外国へ行って、そこで相手の人たちを殺した。いかに弁解しようとも、あるいはいかに正
当化しようとも、この事実は、隠しようがない。むしろ、戦争で死んでいった300万人の日本人
ですらも、犠牲者だったかもしれない。一部の軍部という官僚に洗脳され、あやつられるまま、
戦場へと駆りだされていった。

 私は1968年に、UNESCOの交換学生として、韓国に渡った経験がある。今でこそ、日韓
の間には国交もあり、親交も深まったが、当時は、そうではない。行く先々で、私たちは、日本
攻撃の矢面に立たされた。

 日本軍が、韓国や中国で何をしたかって? そんなことは、向こうへ行って、自分で調べたら
よい。私は日本軍のあまりの蛮行に、私の目と耳を疑った。私はそのとき、「日本の教科書
は、ウソは書いてない。しかしスベテを書いていない」と実感した。

 今、韓国や中国の人が、さかんに「歴史認識問題」と取りあげるのは、そういうことをいう。

 で、日本の川口外務大臣は、「(日本の小泉首相は)、戦没者の犠牲の上に日本の平和と発
展がある。戦争を二度と起こさないという願いを込めて参拝している」(同)と説明したという。

 日本がいう戦争というのは、つまりは侵略戦争をいう。そういう戦争であれば、「二度と起こさ
ない」などということは、当たり前のことである。わざわざ「願う」ようなことではないはず。

 私は何も、靖国参拝に反対しているのではない。しかし「首相」という国家元首の立場で参拝
するというのは、問題だと言っている。その靖国神社には、A級戦犯として処刑された人たちの
遺骨も祭られている。

 いうなれば、ドイツのシュレーダー首相が、ヒットラーの墓参りをするようなものである。……と
いうのは、言い過ぎかもしれないが、少なくとも、韓国や中国の人たちは、そういう目で、日本
を見ている。

 仮に百歩ゆずって、戦前の日本の行為が正しかったとするなら、いつか、韓国や中国が、そ
の反対のことを日本にしたとしても、日本よ、日本人よ、文句は言わないことだ。

 今、日本は、アジアの中でも、たいへん微妙な立場にある。北朝鮮とは、まさに一触即発の
状態といってもよい。そしてその北朝鮮は、日本に対して使うためにと、毎年、5〜6個の核兵
器を製造している。

 こういう危機的な状況の中で、かえって北朝鮮の無謀な野望を正当化してしまうような言動を
繰りかえしてよいものかどうか。韓国のノ大統領ですら、「日本よ、だまっているからといって、
いい気になるな」と発言している。

 私たちは、このノ大統領の言葉を、もう少し、真剣に聞かねばならない。

 さらに百歩譲って、戦前の日本の行為が正しかったとするなら、なぜ、今、アメリカに対して、
抵抗運動を始めないのかということにもなる。日本は、そのアメリカに、日本中を焼け野原にさ
れ、その上、二発も原爆を落とされている。

 私に言わせれば、日本のしていることは、まさに矛盾だらけ。この私ですら、何がなんだか、
さっぱりわけがわからない。

 最後に、小泉首相には、首相なりの思いもあるのだろう。そういう思いの中で、靖国神社へ
参拝しているのだろう。それはわかるが、しかしここは、もう少し慎重であってほしい。今、北朝
鮮の核問題で、日本は、たいへん微妙な時期にある。わかりやすく言えば、韓国や中国の協
力なしでは、この問題は、解決しない。

 こんな時期に、あえて韓国の人や中国の人の神経を、逆なでするようなことをすることは、本
当に賢明なことなのか。小泉首相も、このあたりのことをよく考えてみてほしい。あるいはな
ぜ、今、彼らが、こうまで靖国参拝を問題にしているのか、それにはもう少し、謙虚に耳を傾け
てもよいのではないだろうか。

 言うまでもなく、繰りかえすが、私たち日本人は、少なくとも韓国や中国の人に対しては、加
害者であって、被害者ではないからである。

 ……しかし、YM新聞は、タカ派とは知っていたが、それにしても、ここまでタカ派とは、思って
もみなかった。5年近く購読してきたYM新聞だが、私には、もうついていけない。今月いっぱい
で、購読を中止することにした。ごめん!


●愛人問題

 このエッセーが、マガジンに載るころには、かなり情勢が変っているかもしれない。しかし数
日前(4・1)、こんな事件があった。

 日本の国会議員のH氏と、元国会議員Y氏の二人が、中国で、K国の高官と接触し、日本人
の拉致(らち)問題を話しあったという。

 しかしこれに対して、「救う会」(北朝鮮による拉致被害者の支援団体)のメンバーが、猛反
発。救う会のN常任副会長は「平沢氏は『もう北朝鮮と接触しない』と言っていたのに事前に何
の相談もなく訪中した。2人は拉致問題を政治利用している」(中日新聞)と非難した。当然で
ある。

 話は、ぐんと生臭くなるが、そのY氏は、いわば愛人問題で、政治の世界から失脚した人であ
る。ほかの世界の人ならともかくも、私は、そういう政治家を信用しない。理由は簡単。

 自分の妻でさえ、平気で裏切るような人である。国民を裏切ることなど、もっと平気なはず。

 問題は、現役のH氏である。「救う会」の副会長も言っているように、「政治利用している」の
は、明白。もっとはっきり言えば、売名行為。自分の手がらにして、「逆転ホームラン」(週刊
誌)をねらった。……と疑われても、しかたない。

 H氏が、もともとそういう活動をしていたのなら、話はわかる。しかし「救う会」ですら、「(H氏)
は、被害者の救出運動に無関心で、かつては北朝鮮へのコメ支援に熱心な人だった」「家族
のためとは思えない抜け駆け的な行動だ」と、酷評している。

 愛人問題を中心に書くつもりが、どんどんと別の話になっていく。つまり、私が書きたいのは、
拉致問題のことではない。

 つまり人間の脳ミソは、それほど器用にはできていないということ。一方で妻や夫を平気で裏
切りながら、国民には、忠誠を尽くす。そういうことは、できないということ。むしろ事実は、反
対。

 この世界には、一事が万事という鉄則がある。誠実な人というのは、何ごとにつけても、また
どんな世界でも、誠実なもの。反対に、不誠実な人というのは、何ごとにつけても、またどんな
世界でも、誠実なもの。つまりH氏はともかくも、あんなY氏を信用するほうが、どうかしている。

 かく言う私も、若いころ、愛人の数を自慢するような男に、お金を貸して、失敗したことがあ
る。そういう自分を今、振りかえってみたとき、「どうしてあの男の本性を、もっと早く見抜けなか
ったのか」と、残念でならない。

 妻さえ平気で裏切るような男である。私のような「友人」(彼は、そう言っていた)を裏切ること
など、平気。朝飯前。だから私も、裏切られた。

 話はあちこち飛ぶが、今回のH氏やY氏の行動は、その延長線上にある。何ともお粗末な茶
番劇としか、言いようがない。……というのが、私の実感である。
(040404)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(139)

●テレビの悪影響

 こんなショッキングな報告がなされた。

「乳幼児期にテレビを多く見た子供ほど7歳の時に集中力が弱い、落ち着きがない、衝動的な
どの注意欠陥障害になる危険性が大きい、との調査報告が、米小児科学会機関誌『ペディアト
リックス4月号』に掲載された。報告は、乳幼児のテレビ視聴は制限すべきだと警告している」
(協同・中日新聞)と。

 「テレビの1日平均視聴時間は1歳で2・2時間、3歳で3・6時間。視聴時間が1時間延びる
ごとに、7歳になった時に注意欠陥障害が起こる可能性は、10%高くなっていることが判明し
た」(ワシントン大学(シアトル)小児科学部のディミトリ・クリスタキス博士ら。1歳と3歳の各グ
ループ、計2623人のデータを分析)とのこと。

 これを読んだとき、まず最初に頭に思い浮かんだのは、私自身が、ほぼ4年前に書いた原稿
(中日新聞投稿済み)である。

 以前にも、何度もマガジンにとりあげた原稿だが、それをそのまま掲載する。

+++++++++++++++++++++

子どもの脳が乱舞するとき

●収拾がつかなくなる子ども

 「先生は、サダコかな? それともサカナ! サカナは臭い。それにコワイ、コワイ……、あ
あ、水だ、水。冷たいぞ。おいしい焼肉だ。鉛筆で刺して、焼いて食べる……」と、話がポンポ
ンと飛ぶ。

頭の回転だけは、やたらと速い。まるで頭の中で、イメージが乱舞しているかのよう。動作も一
貫性がない。騒々しい。ひょうきん。鉛筆を口にくわえて歩き回ったかと思うと、突然神妙な顔
をして、直立! そしてそのままの姿勢で、バタリと倒れる。ゲラゲラと大声で笑う。その間に感
情も激しく変化する。目が回るなんていうものではない。まともに接していると、こちらの頭のほ
うがヘンになる。

 多動性はあるものの、強く制止すれば、一応の「抑え」はきく。小学二、三年になると、症状が
急速に収まってくる。集中力もないわけではない。

気が向くと、黙々と作業をする。三〇年前にはこのタイプの子どもは、まだ少なかった。が、こ
こ一〇年、急速にふえた。小一児で、一〇人に二人はいる。

今、学級崩壊が問題になっているが、実際このタイプの子どもが、一クラスに数人もいると、そ
れだけで学級運営は難しくなる。あちらを抑えればこちらが騒ぐ。こちらを抑えればあちらが騒
ぐ。そんな感じになる。

●崩壊する学級

 「学級指導の困難に直面した経験があるか」との質問に対して、「よくあった」「あった」と答え
た先生が、六六%もいる(九八年、大阪教育大学秋葉英則氏調査)。

「指導の疲れから、病欠、休職している同僚がいるか」という質問については、一五%が、「一
名以上いる」と回答している。

そして「授業が始まっても、すぐにノートや教科書を出さない」子どもについては、九〇%以上
の先生が、経験している。ほかに「弱いものをいじめる」(七五%)、「友だちをたたく」(六六%)
などの友だちへの攻撃、「授業中、立ち歩く」(六六%)、「配布物を破ったり捨てたりする」(五
二%)などの授業そのものに対する反発もみられるという(同、調査)。

●「荒れ」から「新しい荒れ」へ

 昔は「荒れ」というと、中学生や高校生の不良生徒たちの攻撃的な行動をいったが、それが
最近では、低年齢化すると同時に、様子が変わってきた。「新しい荒れ」とい言葉を使う人もい
る。ごくふつうの、それまで何ともなかった子どもが、突然、キレ、攻撃行為に出るなど。多くの
教師はこうした子どもたちの変化にとまどい、「子どもがわからなくなった」とこぼす。

日教組が九八年に調査したところによると、「子どもたちが理解しにくい。常識や価値観の差を
感ずる」というのが、二〇%近くもあり、以下、「家庭環境や社会の変化により指導が難しい」
(一四%)、「子どもたちが自己中心的、耐性がない、自制できない」(一〇%)と続く。そしてそ
の結果として、「教職でのストレスを非常に感ずる先生が、八%、「かなり感ずる」「やや感ず
る」という先生が、六〇%(同調査)もいるそうだ。

●原因の一つはイメージ文化?

 こうした学級が崩壊する原因の一つとして、(あくまでも、一つだが……)、私はテレビやゲー
ムをあげる。

「荒れる」というだけでは、どうも説明がつかない。家庭にしても、昔のような崩壊家庭は少なく
なった。むしろここにあげたように、ごくふつうの、そこそこに恵まれた家庭の子どもが、意味も
なく突発的に騒いだり暴れたりする。

そして同じような現象が、日本だけではなく、アメリカでも起きている。実際、このタイプの子ど
もを調べてみると、ほぼ例外なく、乳幼児期に、ごく日常的にテレビやゲームづけになっていた
のがわかる。

ある母親はこう言った。「テレビを見ているときだけ、静かでした」と。「ゲームをしているとき
は、話しかけても返事もしませんでした」と言った母親もいた。

たとえば最近のアニメは、幼児向けにせよ、動きが速い。速すぎる。しかもその間に、ひっきり
なしにコマーシャルが入る。ゲームもそうだ。動きが速い。速すぎる。

●ゲームは右脳ばかり刺激する

 こうした刺激を日常的に与えて、子どもの脳が影響を受けないはずがない。もう少しわかりや
すく言えば、子どもはイメージの世界ばかりが刺激され、静かにものを考えられなくなる。

その証拠(?)に、このタイプの子どもは、ゆっくりとした調子の紙芝居などを、静かに聞くこと
ができない。浦島太郎の紙芝居をしてみせても、「カメの顔に花が咲いている!」とか、「竜宮
城に魚が、おしっこをしている」などと、そのつど勝手なことをしゃべる。

一見、発想はおもしろいが、直感的で論理性がない。ちなみにイメージや創造力をつかさどる
のは、右脳。分析や論理をつかさどるのは、左脳である(R・W・スペリー)。テレビやゲーム
は、その右脳ばかりを刺激する。

こうした今まで人間が経験したことがない新しい刺激が、子どもの脳に大きな影響を与えてい
ることはじゅうぶん考えられる。その一つが、ここにあげた「脳が乱舞する子ども」ということに
なる。

 学級崩壊についていろいろ言われているが、一つの仮説として、私はイメージ文化の悪弊を
あげる。

++++++++++++++++++++

 この原稿を中日新聞で発表したとき、反響は、ほとんど、なかった。つまりまったく相手にされ
なかった。無視された。

もっともこの日本では、私のような、無肩書き、無権威のものが、こういうことを言っても、相手
にされない。そういうしくみが、もうできあがっている。

 しかしアメリカから来た情報となると、みなが、飛びつく。そしてことさら大発見でもしたかのよ
うに、驚き、騒ぐ。

が、だからといって、私がひがんでいるというのではない。もうとっくの昔に、あきらめた。……
という話は、ここまでにして、私は、改めて、こう思う。

 乳幼児には、不自然な刺激は、与えないほうがよい、と。与えるとしても、慎重にしたらよい。

 よい例が、『ポケモン事件』である。アニメのポケモンを見ていた全国の子どもたちが、光過
敏性てんかんという、わけのわからないショックを受けて倒れてしまった。

 1997年の終わりの、12月16日(火曜日)の夜のことであった。

 人気番組『ポケモン』を見ていた子どもたちが、はげしい嘔吐と、けいれんを起こして倒れてし
まった。

その日の午後までにNHKが確認したところ、埼玉県下だけでも、59人。全国で382人。さら
に翌々日の18日には、その数は、0歳児から58歳の人まで、750人にふえた。気分が悪くな
った人まで含めると、1万人以上!

 中には、大発作を起こした上、呼吸困難から意識不明になった子ども(5歳児、大阪)もい
た。「酸素不足により、脳障害の後遺症が残るかもしれない」(大阪府立病院)とも。

 当初は、「原因不明」とされたが、やがて解明された。

 「テレビのチラツキではないか」(テレビ東京の広報部長)ということから、光過敏性てんかん
という言葉が浮上した(はやし浩司著「ポケモン・カルト」より)。

 この一例からもわかるように、脳の反応には、まだ未知の部分が多い。未解明の部分といっ
てもい。人間は、数十万年という長い年月を経て、ここまで進化してきた。しかしそれは自然の
変化に歩調を合わせた、ゆるやかな進化だった。

 が、人間を包む環境は、ここ50年、100年、急速に変化した。人間の脳が、そうした変化
に、不適応を起こしたからといって、何ら不思議なことではない。その一つが、ここでいうテレビ
ということになる。

 私はこの34年間、幼児の変化を、間近で見てきた。その経験だけでも、子どもたちが、大き
く変化したのを感じている。三段跳びに結論を急ぐが、「乳幼児に与える刺激には、慎重に」と
いう結論は、そうした経験から引きだした。

 私の本音を言えば、「そら、見ろ!」ということになるのだが……。
(はやし浩司 光過敏性てんかん ポケモン事件 乱舞する脳 テレビの悪影響 ポケモンカル
ト)
(040405)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(140)

【近況・あれこれ】

●うるさい女性

 電車に乗った。浜松から豊橋まで。その豊橋から、岐阜まで。もちろん、その帰りも……。

 しかしどの車両にも、たいてい一組、あるいは二組の女性がいて、これがまことに、騒々し
い。かしましく、ペチャクチャ、ペチャクチャと、間断なく話しつづける。

 うるさいなんていうものではない。耳障(ざわ)り。眠ることさえできない。で、その話の内容は
といえば、実にたわいもない、どうでもよいことばかり。まさに脳の表面に飛来した情報を、そ
のまま口にしているだけといったふう。

 「会員がやめて、それで会員が少なくなって……どうすれば会員がふえるかって、それはそ
のときの運ね……でも、どこの着付け教室も、今たいへんでね……先生はいくらでもいるんで
すが、今は着物を着る人も少なくなって……」と。

 もともと女性は、おしゃべりである。大脳生理学の分野でも、女性のばあい、大脳の右半球
にも、言語機能をつかさどる部分があることが解明されつつある。(これに対して、男性のばあ
いは、左半球にしかない。だから脳血栓や脳出血で、左半球を損傷を受けたときでも、男性に
比して、女性のほうが言語機能の回復が早いとされる。)

 また同じウエルニッケの言語中枢部分でも、女性のほうが、その部分の神経細胞の密度が
濃いこともわかっている。つまり女性は、その分、おしゃべりということになる。

 名前を出して恐縮だが、そういう会話を聞いていると、タレントの黒YT子さんのよう。まさに
「しゃべらなければ、損」「黙っていることは失礼」といったふうに、しゃべりまくる。会話というよ
り、ひとりごとに近い。

まあ、もっとも、しゃべるのは、その人の勝手だが、そのまわりの人が迷惑をする。女性によっ
ては、甲高い声で、キャッキャッとしゃべりつづける。それがときには、ノコギリで、ものを切るよ
うな音にさえ聞こえることがある。

 男性にもうるさい人はいる。いないわけではない。しかし世の、女性たちよ、電車の中では、
もう少し、静かにしようよ! 携帯電話ですら、「迷惑になるから、ひかえてくれ」とアナウンスさ
れる。その携帯電話より、はるかに、う・る・さ・い。

 で、子どものばあい、同じように騒々しい子どもに、ADHD児がいる。男子と女子とでは、多
少、症状が異なる。その女子の症状として、第一にあげられるのが、多弁性である。
 
 このタイプの女子は、本当に、よくしゃべる。うるさいほどに、よくしゃべる。制止しても、効果
は一時的。強く叱ったりすると、瞬間的に涙を出すこともあるが、しかしその直後には、もうしゃ
べりだしたりする。おさえがきかない。

私「あのね、10分だけ、口を閉じていてくれない?」
女「10分ね、10分でいいの?」
私「そう、10分でいい……」
女「でも、10分って、すぐよ。それでもいいの?」

私「だから、10分でいい。静かにしていてくれない?」
女「わかった。でも、そのあと、どうなるの。しゃべってもいいの?」
私「だからね、今から、静かにしていてよ」
女「でも、聞いてほしい話があるの」

私「何?」
女「私、だまっていると、気がヘンになるの」
私「だから、お願いだから、10分だけ。わかった?」
女「どうして、10分でいいの? そのあとはいいの?」
私「……」と。

 こういう会話が、延々とつづく。これはある中学2年生の女子とした、実際の会話である。
(はやし浩司 言語中枢 女性のおしゃべり 言語機能)


●夢のような美しさ

 04年4月6日、火曜日、ハナ(犬)と、佐鳴湖へ、散歩に行く。が、驚いた。本当に、驚いた。
まさに夢のような、美しさ! うっとりするような、美しさ!

 桜が満開。新緑の若葉が、水色の空にはえる。そしてその下では、青い、佐鳴湖が、春の陽
光を浴びて、静かに輝いていた。

 私は散歩していることを忘れて、携帯電話のカメラで、写真をとりつづけた。

 私は、美しい景色を見たりすると、「生きていてよかった」と思う。少しおおげさな感じがしない
でもないが、そう思う。とくに好きなのは、黄緑色の若葉が、水色の空に映える景色。色のコン
トラストが気持ちよい。今日は、その景色に、桜の淡いピンクが、色を添えた。

 ホント!

 もし生きることに意味があるとするなら、その一つが、「景色」と言ってもよい。人は、いつかど
こかで、美しい景色に出会うために生きている。それは、「私」という人間が、この世に生まれて
きたという、証(あかし)ということにもなる。

 こうしたものの見方は、たとえば、キリスト教や仏教でいう、天国観や極楽観につながる。昔
から多くの画家が、自分の空想の中で、天国や極楽を描いてきた。つまり今を生きる最終的な
目標の一つは、死んだあと、極上の世界に住むこと。そういう意味でも、私がここに書いている
ことは、それほどまちがっていないと思う。

 つまり、私たちは、いつかどこかで、美しい景色に出会うために、生きている!

 私は家に散歩から帰ると、ワイフにこう叫んだ。ワイフは、夕食のしたくをしていた。

「おい、夢みたいだったそ。夢みたいに、美しかったぞ。明日は、佐鳴湖で、お弁当を食べよ
う!」と。

 そう、もし天国や極楽があるとするなら、私にとっての天国や極楽は、そういう世界をいう。ま
っ白な雲の上とか、蓮(はす)の花の上とか、そういうところではない。私が今、見た、佐鳴湖の
ような景色のある世界をいう。

 もちろん、この地球上のどこかには、もっと美しい世界があるだろう。私が知らないだけかも
しれない。いや、知っているが、やはり私が日本がよい。その日本の中でも、住みなれた、この
浜松がよい。

私は、あまりぜいたくは言わない。もし天国や極楽があり、その天国や極楽が、今日見た、佐
鳴湖のようだったら、私はそういう世界へ行きたい。それでじゅうぶん。

 いや、ちょっと待て! 私は、天国や極楽へは、行けそうもない。悪いことばかりしてきた。い
や、悪いことはあまりしなかったが、よいこともしなかった。ごくふつうの、平凡な人間として、今
まで生きてきた。もし私のような人間でも、天国や極楽へ行けるとなったら、それこそ、天国や
極楽は、山手線のラッシュアワーのように混雑することになる。

 だったら、今、生きている間に、美しい景色を、脳の中に刻みつけておこう。それでよい。そし
もし、できれば、ときどきは、夢の中で、そういう景色を再び見てみたい。あるいは写真でもよ
い。死ぬ間際に、そういう世界が、脳の中をかすめたら、最高! 

 で、私は、今日、佐鳴湖でとった写真を、自分のホームページに載せることにした。(トップ・
ページ→はじめての方へ、ごあいさつ→春)

 ただ写真は、携帯電話のカメラでとったため、色が、よくない。ホームページに載せたあと、
自分で見てみたが、どうも、よくない。何というか、色が沈んでしまっている。残念! 携帯電話
は、S社製の「SO505i」(ドコモ)。

どうかそういうこともお含みおきの上、興味のある方は、写真を見てほしい。


●生きることの意味

 生きることの意味について、考えた。

 その意味は、いくつかある。それらを分類すると、こうなる。

(1)人との触れあい
(2)自然とのかかわり
(3)未来への展望性

(1)の「人との触れあい」というときの「人」には、家族、兄弟、親類、友人、社会人、その他、も
ろもろのすべての人が含まれる。

 こうした人たちと、心豊かな関係を結ぶ。それが第一。

 つぎに(2)「自然とのかかわり」。この世に生きるということは、すなわち、この世とのかかわ
りをいう。五感で感ずる世界、すべてをいう。「自然」という言葉を私は使ったが、その世界とい
うのは、私たちの体や心を包む、すべての世界をいう。

 三つ目に、(3)「未来への展望性」。私たちがなぜ生きるかといえば、私たちの経験や知識
を、つぎの時代の人たちのために、生かすことである。子育ては、その中でも、もっとも身近
な、一つの例ということになる。が、それだけでは、足りない。

 今の「私」や、「あなた」が、なぜ心豊かに生きることができるかといえば、それはすなわち、
先人たちが、その経験や知識を私たちに、残してくれたからである。

「先人」といっても、100年前、1000年前の人たちをいうが、つまり、今度は、私たちが、それ
をつぎの世代のために残す。そうすることによって、つぎの世代が、さらに心豊かな人生を送る
ことができる。

 私たちは、数十万年という、まさに気が遠くなるほどの年月を経て、ここまで進化した。しかし
その進化は、ここで完成されたわけではない。言うなれば、まだその途中。あるいはやっと、大
きな山のふもとにたどりついたような状態かもしれない。

 しかし不完全で、未熟であることを、恥じることはない。大切なことは、不完全で、未熟である
ことを、自ら認めることである。決して、傲慢(ごうまん)になってはいけない。おごり高ぶっては
いけない。

 私たちは、不完全で、未熟なのだ! それをすなおに認め、謙虚に反省する。そしてその上
で、自分のあるべき姿を、組みたてる。

 これからも人間は、うまくいけば、このあとも、何千年、何万年と生きていかれる。決して今
を、最高と思ってはいけない。頂点と思ってもいけない。さらに人間は、前へ前へと進む。

 しかし、この地球には、実にオメデタイ人がたくさんいる。

 まるで自分が、神や仏にでもなったかのように、ふるまう人たちである。しかしそんなことは、
ありえない。1000年後でも、1万年後でも、ありえない。ありえないことは、人間というより、地
球、地球というより、宇宙の歴史をみればわかる。あるいは、この宇宙の広大さをみれば、わ
かる。

 ……と考えていくと、生きる意味の中で、もっとも大切なのは、この三番目の「未来への展望
性」ということになる。

 もし私やあなたが、私だけの人生を生き、あなただけの人生を生きたとしたら、それはほとん
ど意味がない。ないことは、そういう生き方をした人をみれば、わかるはず。そういう生き方をし
て、死んだ人をみれば、わかるはず。彼らはいったい、何を残したか?

 つまりその「残す」部分に、生きる意味がある。

 悲しいかな、もっとはっきり言えば、私たちは、たとえていうなら、リレー競技で使う、バトンに
過ぎない。過去の人たちから受け取り、そしてそれを、つぎの世代の人たちに渡していく。それ
以上の意味はないし、またそれができれば、まさに御(おん)の字。じゅうぶん。たくさん。いや、
それを超えて、私たちは、いったい、何を望むのか。何を望むことができるのか。

 そこで私たちが、今すべきことは、先人たちの経験や知識に、謙虚に耳を傾け、よりよい人
間関係をつくり、よりよい環境を、身のまわりにつくることである。

 もっとも、これは100年単位、1000年単位の話である。30年とか60年とかいう、一世代、
二世代単位の話ではない。身のまわりの、ささいな変化にだまされてはいけない。私たちが考
えるべきことは、「100年前の日本人より、より心豊かな生活ができるようになったか」というこ
と。「1000年前の人間より、より心豊かな生活ができるようになったか」ということ。そういう視
点で、ものを考える。

 若い人は、その年齢に達すると、いきおい、「生きる意味」を求める。私もそうだった。多分、
あなたもそうだったかもしれない。「なぜ、私は、ここにいるのか」「なぜ、私は、生きているの
か」と。

 しかしその答は、永遠に人間は、知ることはないだろう。が、もし、視点を変えて、「私はバト
ンだ」と思えば、その答は、何のことはない、すぐ私やあなたのそばにあることを知る。

 私やあなたは、今、ここにこうして生きている。少なくとも、この文章を読んでいる、あなたは、
ここにこうして生きている。もし生きる意味があるとするなら、今を懸命に生きて、そしてそれか
ら得られた知識や経験を、ほんの少しでもよいから、つぎの世代に伝えることである。

 いつか、その時期はわからないが、いつか、人間が、すべて神や仏のようになる日が、やっ
てくる。必ず、やってくる。1万年後か、10万年後か、それはわからない。しかしその日をめざ
して、私たちは、とにかく前に向って進む。進むしかない。それが「生きる意味」ということにな
る。

 このつづきは、もう少し、時期をおいてから考えてみたい。
(はやし浩司 生きる意味 意義 生きる目的)


●三つの自己中心性

 自己中心性は、それ自体が、精神の未発達を意味する。(精神の完成度は、他人への同調
性、他人との協調性、他人との調和性で知ることができる。自己中心性は、その反対側に位
置する。)

 つまり自己中心的であればあるほど、その人の精神の完成度は、低いとみる。

 これについては、もう何度も書いてきたので、ここでは、その先を書く。

 この自己中心性は、(1)個人としての自己中心性、(2)民族としての自己中心性、(3)人間
としての自己中心性の三つに、分かれる。

 たとえば、「私が一番、すぐれている。他人は、みな、劣っている」と思うのは、(1)の個人とし
ての自己中心性をいう。つぎに「大和民族は、一番、すぐれている。他の民族は、みな、劣って
いる」と思うのは、(2)の民族としての自己中心性をいう。そして「人間が宇宙の中心にいる、
唯一の知的生物である」と思うのは、(3)の人間としての、自己中心性をいう。

 この中でも、一番、わかりやすいのは、(3)の人間としての、自己中心性である。

 しかし人間は、宇宙の中の、ゴミのような星に、かろうじてへばりついて生きている、つまり
は、(カビ)のような生物にすぎない。だれだったか、少し前、(地球に張りつく、がん細胞のよう
なもの)と表現した人もいる。

 (だからといって、人間がつまらない生物だと言っているのではない。誤解のないように!)

 たとえば、今、私たちの視点を、宇宙へ置いてみよう。すると、ものの見方が、一変する。

 この広大な宇宙には、無数の銀河系がある。そしてそれぞれの銀河系には、これまた無数
の星がある。その数は、浜松市の南にある、中田島砂丘にある、砂粒の数より多いといわれ
ている。(実際には、その数は、わからない?)

 太陽という星は、その中の一つにすぎない。

 で、私たちが住む、この地球は、その太陽という星の、これまたチリのような惑星に過ぎな
い。

 これが現実である。疑いようもない、現実である。

 こういう現実を前にして、「人間が宇宙の中心にいる、唯一の知的生物である」と言うのは、
実にバカげている。

 で、こういう視点で、こんどは、民族としての自己中心性を考えてみる。……と、考えるまでも
なく、民族としての自己中心性は、実にバカげているのが、わかる。こんな小さな地球上で、大
和民族だの、韓民族だの、さらには、白人だの黒人だのと言っているほうが、おかしい。

 さらに、個人の自己中心性となると、バカげていて、話にならない。

 そこで話をもとにもどす。

 宇宙的視点から見ると、細菌とアメーバの知的レベルが、私たち人間には、同じに見えるよ
うに、人間とサルの間には、知的レベルの差は、まったくない。人間は、「自分たちはサルとは
違う」と思っているかもしれないが、まさにそれこそ、人間が、人間としてもっている自己中心性
にすぎない。

 人間としての完成度は、人間が、他の動物たちと、どの程度までの同調性、協調性、調和性
をもっているかで決まる。

たとえば森に一本の道を通すときでも、どの程度まで、そこに住む、ほかの動物たちの立場で
ものを考えることができるかで、その完成度が決まる。「ほかの動物たちのことは、知ったこと
か!」では、人間としての完成度は、きわめて低いということになる。

 さらに話を一歩進めると、こうなる。

 私たち人間は、バカである。アホである。どうしようもないほど、未熟で、未完成である。「万
物の霊長類」などというのは、とんでもない、うぬぼれ。その実体は、まさに畜生。ケダモノ。

 そういう視点で、私たちが自らを、謙虚な目で、見なおしてみる。たとえば人間としての、欠
陥、欠点、弱点、盲点、そして問題点を、洗いなおしてみる。少なくとも、私たち人間は、(完成
された動物)ではない。そういう視点で、自分を見つめてみる。

 つまりは、それこそが、人間としての自己中心性を打破するための、第一歩ということにな
る。

【追記】

 『無知の知』という言葉がある。ソクラテス自身が述べた言葉という説もあるし、ソクラテスに
まつわる話という説もある。どちらにせよ、「私は何も知らないということを知ること」を、無知の
知という。

 ソクラテスは、「まず自分が何も知らない」ということを自覚することが、知ることの出発点だと
言った。

 実際、そのとおりで、ものごとというのは、知れば知るほど、その先に、さらに大きな未知の
分野があることを知る。あるいは新しいことを知ったりすると、「どうして今まで、こんなことも知
らなかったのだろう」と、自分がいやになることもある。

 少し前だが、こんなことがあった。

 子ども(年長児)たちの前で、カレンダーを見せながら、「これは、カーレンジャーといいます」
と教えたら、子どもたちが、こう言って、騒いだ。「先生、それはカーレンジャーではなく、カレン
ダーだよ」と。

 で、私は、「君たちは、子どものクセに、カーレンダーも知らないのか。テレビを見ているんだ
ろ?」と言うと、一人の子どもが、さらにこう言った。「先生は、先生のくせに、カレンダーも知ら
ないのオ?」と。

 私はま顔だったが、冗談のつもりだった。しかし子どもたちは、真剣だった。その真剣さの中
に、私はソクラテスが言ったところの、「無知」を感じた。

 しかしこうした「無知」は、何も、子どもの世界だけの話ではない。私たちおとなだって、無数
の「無知」に囲まれている。ただ、それに気づかないでいるだけである。そしてその状態は、庭
に遊ぶ犬と変らない。

 そう、私たち人間は、「人間である」という幻想に、あまりにも、溺れすぎているのではない
か。利口で賢く、すぐれた生物である、と。

 しかし実際には、人間は、日光の山々に群れる、あのサルたちと、それほど、ちがわない?
 「ちがう」と思っているのは、実は、人間たちだけで、多分、サルたちは、ちがわないと思って
いる。

 同じように人間も、仮に自分たちより、さらにすぐれた人間なり、知的生物に会ったとしても、
自分とは、それほど、ちがわないと思うだろう。自分が無知であることにすら、気づいていない
からである。

 何とも話がこみいってきたが、要するに、「私は愚かだ」という視点から、ものを見ればよいと
いうこと。いつも自分は、「バカだ」「アホだ」と思えばよいということ。それが、結局は、自分を知
ることの第一歩ということになる。
(はやし浩司 ソクラテス 無知の知)


●未熟な言語、日本語

 私は、このところ、日本語に、大きな幻滅をいだき始めている。「ひょっとしたら、私たちは、と
んでもない言語を使っているのではないか」と。

 昔、だれだったか、私にこう言った。「日本語は、すぐれた言語である」と。

 しかし、本当に、そうだろうか。たしかに「今」というこの時点においては、日本語というのは、
少なくとも英語よりも、微妙な表現ができるように思う。(そう思うのは、私の英語力の限界かも
しれないが……。)

 が、その一方で、私は、最近の若い人たちの書いた文章を読んでいると、大きな不安にから
れる。とくにインターネットの世界が、そうである。ときどき意味不明の言葉に接する。「ときど
き」というよりは、「しばしば」と言ったほうが、正しいかもしれない。

 たった一世代しかちがわないのに、どうしてこんな現象が起きるのか?

 実は私も、その反対の立場で、若いころ、年配の人たちの書いた文章が、読めなかったこと
がある。「します」を、「しませう」と書いている人もいた。「考える」を、「考へる」と書いている人
もいた。そういう文章に出会うたびに、大きな違和感を覚えた。

 しかしこれは、文化の蓄積という意味では、たいへんな損失である。

 たとえば今、私たちは、明治時代や大正時代の人が書いた文章を、そのまま理解できない。
文体そのものが変ってしまっている。さらに江戸時代の人が書いた文章となると、辞書なしで
は、理解できない。

 言いかえると、私が今、書いているこうした文章も、つぎの世代に人には、おかしな文章に見
えるかもしれないということ。さらに50年とか、100年もすると、そのときの人たちは、私の文
章を読むのに、辞書を使うようになるかもしれない。

 つまりその時点で、今、私がこうして書いている文章は、まるで外国語のように、遠くの世界
へ、追いやられることになる。もちろんその文章に含まれる、私の知識や経験も、である。

 この点、中国語はすぐれている。ある中国人がこう言った。「私たちは、1000年前、2000
年前に書かれた中国だって、理解できる」と。「本当ですか?」と念を押すと、「本当だ」と。

 もっとも、中国語というのは、微妙な言い回しができない言語である。「私は思う」を、「我想」
というが、日本語のように、「思うかしら」「思ってね」「思っちゃった」「思うよオ」などという微妙な
表現ができない。(これも、私の中国語力の限界かもしれないが……。)

 しかし言葉というのは、現時点において、他人と思想や信条を交換するためだけのものでは
ない。時間を超えて、過去から未来へ、思想や信条を伝えるという意味も含まれる。むしろ、こ
ちらのほうが、重要である。

 そういうことを考えあわせると、言葉が、これほどまでに変化してよいものかと考える。さらに
方言となると、日本語ほど、これだけ狭い範囲で、方言のある言語も少ないのでは……? 地
域によっては、同じ町の中でも、その使う言葉がちがうところがある。つまりその変化したり、ち
がっている部分が、冒頭に書いた、「とんでもない言語」ということになる。

 そこでやがていつか、こんな操作が必要になるかもしれない。

 たとえば一度、日本語に書いた原稿を、保存するため、英語なら英語に翻訳する。ちょうど
書いた原稿を、CDか、DVDに焼いて保存するようにである。

 そして500年後とか、1000年後に、その文章が必要なときは、その英語をもう一度、日本
語に翻訳して使う。こんなに急速に日本語が変化しているのをみると、決して笑いごとでは、す
まされないような気がする。ある意味で、これは深刻な問題である。

 ……と書いて、今の若い人たちに警告。

 どんどん日本語を変えていくのは、若い人たちの勝手かもしれないが、しかし同時に、あなた
がたが年をとったとき、反対の立場で、同じ現象が起きるということ。それだけは、覚悟してお
いたほうがよい。
(はやし浩司 日本語の限界)
(040407)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(141)

【近況・あれこれ】

●交通事故

 山荘からの帰り道、交通事故を目撃した。国道から、半僧坊(はんそうぼう)へ曲がる道のと
ころで、細い道をふさぐように、大型トラックが停止していた。

 瞬間その前を見ると、一人の女性が、そこに倒れていた。体を、毛布のようなものでくるまれ
ていた。私たちは道路に立った一人の男に誘導されて、その場を離れた。

 このあたりでは、いつ起きてもおかしくない事故だった。そのトラックもそうだったかどうかは、
知らないが、このあたりの自動車は、ほとんど信号を守らない。信号が赤になっても、左右に
車がいなければ、猛スピードで交差点を横切ったりする。アクセルを踏んで、交差点を強引に
曲がろうとする。

 私も何度か、ヒヤリとさせられた。ヘタに信号を守ろうものなら、うしろからクラクションを鳴ら
される。追い抜かれる。そういう土地がらである。

私「浜松では、信号が青になっても、すぐ車を出してはいけない。ひと呼吸おいてから、左右を
確かめたあと、車を出す」
ワイフ「おかしなことになったわね」
私「そうだね……」と。

 立派な警察署もできた。KOBANも、つぎつぎと近代的なビルに建てなおされた。しかし私
は、この30年間、警察官が交差点に立って、車の交通指導をしている姿を見たことがない。

 全国、どこでも、そうなのだろうか。それとも、この静岡県の浜松市だけなのだろうか。ちなみ
に、この静岡県は、交通事故、全国ワーストワン。その静岡県の中でも、この浜松市は、ワー
ストワン。

 翌朝、新聞を見ると、はねられたのは、市内のK高校に通う、高校三年生に女の子とわかっ
た。新聞報道によれば、「胸を強く打ち、まもなく死亡」とあった。

 あの道路に寝ていた女性が死んだ。髪の毛が大きく乱れていたので、年配の女性かと思っ
たが、高校生だった。「部活の帰りで、今日(4・7)は、始業式だった」(新聞)と。

 何とも痛ましい事故である。おかしな胸騒ぎがおさまったころ、私の心の中には、怒りが充満
し始めた。まさに起こるべきして、起きた事故。

 その事故を目撃したあと、200メートルも進むと、救急車とすれ違った。救急車は、反対車線
を走っていたが、その救急車に、道をあけたのは、私たちの車だけだった。救急車の前を走っ
ていた軽トラックは、まさに悠然(ゆうぜん)と、そのまま走りつづけていた。

 さらに5、600メートル進み、角を曲がったところでのこと。何と、警察官が、4、5人立ってい
るではないか。私は窓をあけ、うしろ方面を指さしながら、大声で叫んだ。

 「交通事故ですよ! 事故ですよ!」と。

 私たちは走っていたので、それだけ叫ぶのが精一杯だった。が、それらの警察官は、「わか
ってます」というようなことを言って、手を払った。私は何度もうしろを振りかえった。しかし警察
官たちは、立ち話をしたままだった。どこにも、緊張感は、なかった!

 大型トラックの運転手よ!
 軽トラックの運転手よ!
 警察官たちよ!

 女子高校生は、死んだ! わかるか、この事実の重大さが! バカヤロー!


●Sさんからの相談

 K市に住む、Sさん(女性、50歳くらい)から、こんな相談のメールが入った。

 「ほとんど、行き来はないのですが、70歳の叔父の様子が、このところ、おかしい。叔父のめ
んどうをみている叔母がたいへんそうで、どうしたらいいですか」と。

 メールには、こうあった。「昔から几帳面な人とは聞いていましたが、叔父は、朝は、必ず5時
起き。それから雨戸をあけ、朝食の用意をします。どれも、5分単位で、時刻が決まっていて、
それが夏でも、冬でも、同じです」

 「驚いたのは、庭でかぶる帽子の置いてある場所すら、決まっていることです。10年前と、ま
ったく同じ位置なのです。それも、どこかボロボロになった帽子です。会って話をすると、気む
ずかしい面はありますが、ふつうの人という感じです。どこがおかしいのでしょうか」と。

 私は、「老人のことは、わかりません」と返事を書いた。

 しかし子どもの世界でも、同じようなことは、よくある。たとえば毎朝、同じズボンでないと、幼
稚園へ行かないとか、その幼稚園でも、同じ席でないと、座らないとか。

 子どものばあい、こうした(がんこさ)は、あまり好ましいものではない。心のどこかに問題の
ある子どもとみる。たとえば自閉傾向(自閉症ではない)を示す子どもは、ものごとに、ふつうで
ない(がんこさ)を見せることが多い。

 ふつうこうした(がんこさ)を見せたら、相手にせず、その子どもがいいようにしてやる。説教し
たり、叱ったりしてはいけない。かえって症状をこじらせてしまう。

 で、その老人も、同じように考えてよいのでは……? よくわからないが、このところ、老人
も、子どもと同じと思うことが多くなった。だからといって、同一レベルで考えることはできない
が、しかし共通点は多い。

 そのSさんには、こんな返事を書いた。

 「老人のことは、よくわかりません。もともとそういうタイプの人だったと考えてよいのではない
でしょうか。ただ青年期や壮年期には、自己意識で自分をコントロールしていただけだと思いま
す。

 だから外の世界では、あまり目立たなかった。

 それが定年退職して、その必要がなくなり、またもとの自分に戻ったのではないでしょうか。

 よくわかりません。どうしたらいいのか、またどこへ相談したらいいのかも、わかりません。何
しろ、私自身、そうした老人を、よく知りません。ごめんなさい」と。

 そこで、このSさんの話を参考に、あなた自身の心の中をのぞいてみるとよい。あなたの中に
は、(あなた)がいる。その(あなた)は、子どものときのまま。今は、多分、壮年期で、そうした
(あなた)が、顔を出すことは、あまりない。

 しかしその(あなた)は、やがて、また、外に出てくる。年をとり、自己意識が弱くなり、ごまかし
がきかなくなると、また、外に出てくる。自分の中の(自分)というのは、そういうもの。

 たとえば子どものころ、わがままだった人は、年をとり、自分で自分をコントロールできなくな
ると、また、わがままになる。青年期や壮年期に、そうしたわがままが見た目には消えるのは、
その時期は、まだ自己意識が強く、そういう自分を、コントロールしているからにすぎない。「わ
がままにしていると、人に嫌われるぞ」と。

 そういう意味でも、人間がもっている性質などというものは、そんなに簡単には変らない。まさ
に『三つ子の魂、100まで』となる。言いかえると、幼児期の(心づくり)を、決して安易に考えて
はいけない。……ということになる。


●自分の中の(自分)

 子どもは、満4・5歳から5・5歳にかけて、幼児期から、少年少女期への移行期を迎える。ど
こか赤ちゃんの面影を残していた子どもも、この時期を過ぎると、今度は、反対に、少年ぽさ、
少女ぽさを感じさせるようになる。

そしてそのころ、子どもは、自分の「核」をもつ。自分の中の(自分)といってもよい。人格の
「核」である。

 言いかえると、この時期に子どもの方向性は決まるということになる。そしてその方向性は、
それ以後、変えようとして、変えられるものではない。この時期を過ぎたら、その子どもは、そう
いう子どもと認めた上で、子どもの未来を、その上に組み立てるしかない。

 たとえばこの時期を過ぎて、静かな子どもは、ずっと静かなままだし、運動が得意な子ども
は、ずっと得意なままで大きくなる。

 これは子どもの話だが、実は、あなた自身の中の(あなた)も、このころできたと考えてよい。
私はそのころできた、(あなた)を、「基本的性質」と呼んでいる。ひょっとしたら、心理学の世界
にも、同じような考え方があるかもしれない。

 人間は、この「基本的性質」の上に、今度は、自分の意識で、「自己的性質」(この言葉は私
が考えたもの)を作りあげる。そしてこの自己的性質が、基本性質に干渉したり、あるいは突
発的に、基本的性質が、前面に出てきたりすることはある。

 この自己的性質を鍛錬(たんれん)することによって、見た目には、基本的性質を変えること
は可能である。しかしそれはあくまでも、「見た目」。

 一つの例をあげて、考えてみよう。

 たとえばあなたが短気で、カッとなりやすい性質だったとしよう。そしてひとたびカッとなると、
興奮状態になり、自暴自棄になりやすい性質だったとしよう。

 そういう基本的性質は、ここにも書いたように、満5・5歳くらいまでに決まる。

 が、そういう性質は、自分や他人を不愉快にすることを、あなたは学ぶ。そこで「そうであって
はいけない」と、自分で自分をコントロールするようになる。その「そうであってはいけない」「な
おそう」と考える部分が、自己意識ということになる。

 いろいろな活動や、いろいろな経験をとおして、あなたは「なおそう」とする。そしてその結果、
あなたは自分で自分をコントロールする術(すべ)を身につける。自分で作りあげたこの部分
が、「自己的性質」ということになる。

 で、青年期や壮年期には、この自己意識が優勢となり、あなたは、あなたの中に潜む、邪悪
な自分を抑えこむことができる。しかし、基本的性質が消えるわけではない。基本的性質という
のは、そういうもので、生涯にわたって、あなたの中の「核」として、あなたの中に残る。

 よく「頭の中ではわかっているのですが、ついその場になると、カーッとして……」という母親
がいる。子育ての場で、しばしば母親が口にする言葉である。

 このカーッとしたときなどに、基本的性質が前面に出てくることがある。あるいは、自己意識
が混乱したとき、弱くなったとき、不安や心配が、自己意識をゆるがしたようなとき、前面に出
てくることがある。

 ともかくも、この基本的性質は、そんなに簡単には、なおらない。なおらないというより、消え
ない。

 そしてやがて、自己意識が老齢とともに弱くなってくると、再び、相対的に、基本的性質が、前
面に出てくるようになる。よく老人になってから、短気になる人がいる。しかしそれは老人になっ
たことが理由で、短気になるのではない。もともと短気な人だったということになる。

 だから一見すると、老齢になればなるほど、幼児がえり的な症状を示すことがある。精神医
学の世界でも、概して、そうとらえている。しかしそれは「かえる」のではない。基本的性質が、
自己的性質というカバーをはずして、前面に出てくると考えるのが正しいのではないか。

 こうした例は、多い。

 私にこのことを気づかせてくれた事例に、こんなのがある。

 A氏は68歳のときに、心筋梗塞で倒れた。幸い、症状が軽く、またその後の治療で、畑仕事
ができるほどまでに回復した。

 しかし、である。そのころから、おかしな症状が現れた。A氏は、かたときも、妻のそばを離れ
ようとしなくなったのである。

 まさに四六時中、いっしょ。A氏に言わせると、「いつなんどき、つぎの発作が起きるかもしれ
ない。こわくて、妻のそばを離れることができない」と言う。しかしその症状を見ていて、私は気
がついた。

 あるとき、いっしょにお茶を飲んでいたときのことである。妻が、隣の家に、何かの用事で行
こうとしたその瞬間、そのA氏が、混乱状態になってしまったのである。

 その様子は、母子分離不安で見せる、幼児の姿そのものであった。

 もちろん私はA氏の幼児期のことは知らない。しかしA氏は、父親を戦争でなくし、母親の手
だけで、育てられた人である。そのためA氏は、幼いころ、一時期、戦争もあって、親戚の家に
預けられて育った。

 そういう生育環境から、A氏が、幼児期に、母子分離不安になったとしても、おかしくはない。

 そのA氏を見ていたとき、、私は、ここに書いた、「自己的性質」という言葉を思いついた。

 「人間というのは、基本的性質の上に、自己意識で、自己的性質を組みたてるだけだ」と。

 もちろんこの意見は、私のオリジナルな意見である。しかしそう考えると、はじめて、幼児から
老人までの、心の変化を、矛盾なく、連続的に説明することができる。またその途中に見せる、
さまざまな人間の心の症状も、説明することができる。

 さてあなたは、どんな基本的性質をもっているだろうか。そしてその基本的性質の上に、あな
たはいったい、どのような自己的性質を組み立てているだろうか。一度、そういう視点から、自
分をながめてみると、おもしろいのでは……?


●リッチな町

 私が住む、この浜松市は、リッチな町だと思う。今日も、最近開発された、近くの住宅街の中
を歩いてみた。そして驚いた。

 ある一角だが、しかしどの家も、豪華というより、超豪華。驚くほど、豪華。そういう家々が、
ずらりと並んでいる。

 浜松市は、工業の町として、栄えた町である。HONDAやSUZUKI、YAMAHAやKAWAIな
どの大企業は、みな、この町で生まれ育った。ほかにも、大企業をめざしてがんばっている会
社が、いくつかある。

 だからこうした住宅街があったところで、何ら、おかしくはない。しかしそれにしても……! 
土地は、ゆうに、150〜200坪はある。そういう土地の上に、住宅の専門誌から飛び出たよう
な家々ばかり。

 ワイフが、「こんなふうになっているなんて、知らなかった!」と。

 そのあたりは、昔は、佐鳴湖から抜ける、竹ヤブになっていたところである。このあたりに住
み始めたころ、よく散歩で通ったところでもある。そんなところが、今は、大邸宅地になってい
る。

 帰る道すがら、通りにあった不動産屋で、土地の値段を聞く。「いくらくらいですか?」と聞く
と、「場所にもよりますが、坪、30万から40万円くらいですかね」とのこと。

 バブルのころは、坪100万円以下の土地は、なかった。ざっと計算しても、約3分の1になっ
たということか。それでも、高い?

 「今の土地と家を売って、ここに移り住もうか」と言うと、ワイフが、「いいわね」と。「どこか、外
国の住宅団地に入り込んだみたいだね」と言うと、「そうね」と。ワイフも、少なからず、ショック
を受けたようだ。どこか呆然(ぼうぜん)とした様子で、あたりを見回していた。

 もっとも、このあたりは、浜松市内でも、今、最高級住宅地として売りに出されている。地名
は、「OH団地」。20年前までは、畑とヤブだけの、どうしようもない荒地だったのだが……。


●毎月44万枚!

 有料マガジン「まぐまぐプレミア」を発刊して、今日で1か月になります。読者数は、15人。

 発刊直後、Y・BB社の個人情報漏洩(ろうえい)問題が起きました。2人の読者から、「有料
マガジンを購読したいが、(個人情報の漏洩が)心配で……」というメールをいただきました(浜
松市のOさん、仙台のSさん)。

 で、読者数は、15人。この世界も、なかなか、きびしいです。「あんたのマガジンね、お金を
出してまで読みたくないわ。量も多すぎるし……」と、私のワイフまで、そう言っています。ナル
ホド!

 一方、無料マガジン(Eマガ、メルマガ)のほうは、今日(4・7)で、読者の数が、1351人にな
りました。読者のみなさん、ありがとうございます。ときどき「どうしてマガジンを出しているのだ
ろう」と思うときもあるのですが、みなさんのおかげで、今日までつづけることができました。

 そのせいか、今(4・7)、有料マガジンを出して、1か月たったのですが、再び、Eマガのほう
に、力を入れるようになってきました。内容は、有料版とほとんど同じです。そんなわけで、有
料版を読んでくださっている方には、どこか申しない気持ちになってきました。

 もっとも有料版には、HTML版(カラー・写真つき)を、付録としてつけています。どうかこれか
らも、お楽しみください。

 本当のことを言えば、みなさんにも、有料版を、購読してほしいと思っています。この1年半、
本は出版していません。そのエネルギーを、マガジンに注いできました。(どこが泣きごとみな
いですね?)

何かしらムダなことをしているのかもしれないという思いは、いつもあります。あるいは、はかな
い抵抗? よくわかりませんが、ここまできた以上、あとは迷わないで、前に進むだけです。

 その先には、きっと何かがあるはず。そう信じて、前に進みます。

 しかしね、みなさん。

 1351人というのは、すごいと思います。(自分でこんなことを言ってはいけませんが……。)
毎回、A4サイズの原稿用紙で、25枚平均の分量のマガジンを、配信しています。それで計算
すると、

 25(枚)x1351(人)=約3万4000(枚)!

 つまり毎回、3万4000枚も、印刷して、配信していることになります。月に13回発行するとし
て、何と、月になおすと、44万枚も配信していることになります。44万枚ですよ!

 私は職業柄、すぐ、こういう計算をしてしまいます。テキストを毎回、印刷機で印刷しているか
らです。44万枚といえば、2500枚入りのダンボールケースで、176箱ということになります。
176箱ですよ!

 つまりそれだけの枚数のマガジンを、瞬時に、しかもペーパーレスで、配信していることにな
ります。私はそれを、「すごい」と思うのです。考えてみれば、出版社で、本を出版して、書店で
売るなどということが、どこかバカげてみえるようになってきました。今は、もうそういう時代で
は、ないのかもしれません。

 いろいろ考えさせられます。

 しかし正直に告白すれば、15人という数字に、少なからず、ショックを受けたのも事実です。
「私のしてきたことは、こんな程度のことだったのか」と、です。

 が、私は負けません。私の目的は、「成功することではない。失敗にめげず、前に進むこと」
です。私はその15人の方のために、全力を尽くします。

 読者のみなさん、これからも、よろしくお願いします。読者の数が、毎回、2人、3人……とふ
えていくのは、本当に大きな励みになります。みなさんのお近くで、このマガジンに興味をもって
くださいそうな人が、いらっしゃれば、どうかよろしくお伝えください。

 これからも、がんばって、マガジンを配信していきます。どうか、どうか、よろしくお願いしま
す。


●子どもの読解、理解力

 子どもの読解、理解力のテスト法として、よく知られているのに、田中ビネー知能検査法があ
る。これは簡単な文章を読んで聞かせ、どこがどのようにおかしいかを、子どもに言い当てさ
せるテスト法である。

 著作権の問題もあるので、ここでは、そのまま紹介することができない。そこでいくつか、類
似した問題を、ここでは考えてみる。もしあなたの子どもが、6歳〜12歳なら、一度、家庭で、
利用してみてほしい。(ただし無断、転用、転載は禁止。)

 田中ビネー知能検査法では、7歳で、正解率は、約50%。11歳で、約95%とみる。

【テスト法】

 軽く子どもの前で問題を読み、どのような反応を示すかをみる。「あれ、おかしいよ」というよう
な反応をみせたら、「どこが?」と聞く。そのとき、子どもの言っていることが、的を得ているよう
なら、正解とする。

 問題の内容を説明したり、正解を押しつけてはいけない。子どもに、テストと意識させないよう
にするのがコツ。

++++++++++++++++

【テスト1】

 お姉さんは、今、10歳です。私より、2歳、年上です。でも、あと5年すると、私のほうが、年
上になります。

【テスト2】

 犬のケンは、ネコのタマより、体が大きいです。ニワトリのコッコは、ネコのタマより、体は小さ
いですが、犬のケンよりは、大きいです。

【テスト3】

 公園の中を、二人のおじいさんが、歩いていました。一人は、男の人でしたが、もう一人は、
女の人でした。

【テスト4】

 魚屋さんへ、お母さんといっしょに、買い物に行きました。私は、たまごを3個買いましたが、
お母さんは、何も買いませんでした。

【テスト5】

 朝起きてから、お父さんと、魚釣りに行きました。お父さんは、ラケットをもっていきました。ぼ
くは、ボールをもって行きました。

【テスト6】

 りんごが、5個ありました。そこへお兄さんがきたので、ぼくと、二人で分けました。お兄さん
が、3個。ぼくも、3個もらいました。

【テスト7】

 お母さんのお姉さんが、ぼくの家にあそびにきました。「おじさんは、何歳?」と聞くと、お姉さ
んは、笑いながら、「40歳だよ」と言いました。

【テスト8】

 今日は、日曜日です。で、明日の土曜日までに、ぼくとお兄さんは、近くの図書館へ、本を返
しに行かねばなりません。

【テスト9】

 おばあさんが、杖(つえ)をもって歩いていました。右手には、買い物袋、左手には、バッグを
さげていました。

【テスト10】

 A子さんの家は、山の上にあります。私の家は、山の下にあります。私の家から、A子さんの
家へ行くときは、下り坂で楽ですが、帰りがたいへんです。

++++++++++++++++++

 このテストでは、子どもの読解、理解力を知る。もしこうしたテストで、正解率が低いようであ
れば、日常的な会話に問題がないかを、反省する。

 頭ごなしの言い方、過干渉など。子どもとの会話の中に、「なぜ」「どうして」をふやすとよい。

【追記】

 こうした論理性のあるなしは、何も、子どもだけの問題ではない。先日も、こんなことを言う、
女性(50歳くらい)がいた。

 「祖父は、心筋梗塞で、なくなりました。二回目の発作が起きたとき、私の手をしっかりと握っ
て、『あとを頼む』と言いました。そしてそのまま眠るようになくなりました」と。

 その女性は、祖父のその言葉を盾に、「祖父の残した財産は、すべて私のもの」と主張して
いたが、その女性の言った言葉は、おかしい。

 あなたは、そのおかしさが、わかるだろうか。

 私が知るところでは、心筋梗塞という病気は、ふっつの病気ではない。「焼けひばしを、心臓
に突き刺されるような痛みを感ずる」(体験者)ということだそうだ。つまりふつうの痛さではな
い。

 その心筋梗塞の発作が起きているときに、「しっかり手を握って……」ということはありえな
い? 私はそう思った。(あるいは、本当に、その祖父は、そう言ったのかもしれないが……。)

 たまたま昨日(4・7)、小泉首相の靖国参拝が、憲法違反であるという裁判所の判断がくださ
れた。靖国参拝が、宗教的行為と認定されたわけである。

 それに対して、小泉首相は、「私は、そうは思わない。これからも靖国参拝はする」と言明して
いる。

 靖国参拝が憲法違反であるかどうかは別として、つまり、さておいて、この小泉首相の発言
は、自ら、三権分立の大原則を否定していることになる。「私は、そうは思わない」では、すまさ
れない。

 このように、私たちの身のまわりには、サラッと聞くとおかしくない話でも、よく考えてみると、
「?」という話は多い。こうした能力を判定する力が、ここでいう読解、理解力ということになる。


●手のこんだ、悪質メール

 メールを送信してもいないのに、「Mail delivery system」(送信者:配送システム)から、「Re. 
Undelivered Mail returned to Sender」(件名:あて先不明で、返送)で、メールが返送されてく
る。偽装メールである。

 見ると、添付ファイル付!

 さっそく、OE(アウトルック・エキスプレス)の、フィルタリング機能を使って、「送信者禁止処
理」をして、そのまま削除。

 しかし軽い不安が、心を横切る。「もし、本当に、あて先不明のメールだったら、どうしよう」「こ
れから先、すべて削除してしまったら、本当にあて先不明のとき、それがわからなくなってしま
う」と。

 つまり「送信者禁止処理」をすると、私から出した、本当にあて先不明のメールも、そのまま、
削除されてしまうことになる。だから、あて先不明で、メールが返送されてきても、それがわから
なくなる心配がある。

 そこでテスト。

 「送信者禁止処理」はそのままにしておいて、わざと、あて先をまちがえたメールを、何通か、
出してみる。私のアドレスあてのメールである。アドレスの中の一文字を変えてみたり、抜いて
みたりした。

 もしこれらのメールまで、「送信者禁止処理」にひかかれば、ここで心配していることが、本当
に起こることになる。

 で、「送信」。しばらくして、今度は、「送受信」。

 すると、プロバイダーから、「あて先不明で返送」の連絡が、入った。つまりプロバイダーから
の返送については、正常になされたことになる。

 と、いうことは、やはり、メールも出していないのに、「あて先不明の返送連絡」という先のメー
ルは、偽装メールということになる。

 どこのだれが、こうした手のこんだいやがらせをしているのか知らないが、それにしても、悪
質だ。

プロバイダーのウィルスチェックサービスに、ひかからないというのは、恐らく添付ファイルの中
に、ウィルスを忍ばせているのだろう。あるいは、最近では、メールをプレビュー画面に表示し
ただけで、感染するウィルスもあるという。

 私は、改めて、自分にこう言って聞かせた。

 あやしげなメールは、何も考えず、即、削除。また削除。さらにあやしげなメールは、即、「送
信者禁止処理」にして、削除。また削除、と。

 あとで冷や汗をタラタラとかくよりは、そのほうが、ずっとよい。みなさんも、こういう悪質メー
ルには、くれぐれも、ご用心!

 なお、メールを送信したあとは、念のため、数秒おいて、「送受信」をもう一度、クリックするよ
うにするとよい。そうすれば、本当にあて先不明のメールであれば、その時点で、即、返送され
てくる。

 10分とか、1時間もおいて、「あて先不明」で返送されてくるようであれば、ここでいう偽装メ
ールと考えてよいのでは……。(まちがっているかもしれないが、疑ってみてよい。)

【追記1】

 パソコンは、便利だし、インターネットは、まさにこの世界を、変えつつある。第二の産業革命
に、たとえる人もいるが、あながち、まちがってはいないと思う。

 しかし今は、黎明期(れいめいき)。失敗も多い。試行錯誤もある。中には、失敗が理由で、
「もう、パソコンは、こりごり」と、投げ出してしまう人もいる。

 私も、こうして何も考えずに、あやしげなメールを削除できるようになったのは、ごく最近のこ
とではないか。

 私の掲示板やチャット・ルームに、いたずら書きをするバカは、あとを絶たない。いくら注意書
きをしても、効果がない。

さらにこうした悪質、偽装メールを送りつけてくるバカも、あとを断たない。だから、要するに無
視すること。相手にしないこと。一見、利口そうな連中だが、脳ミソは、昆虫のそれより、低劣。

 しかしいつか、こういう連中は、自分の愚かさに気づくときがあるのだろうか。時間をムダにし
たことに、気づくときがあるのだろうか。

 生きたくても生きられない人は多い。刻々と流れる時間を、金の砂時計が落ちるように感じて
いる人は多い。しかしそういうバカには、それが、わからない。かわいそうな、そして、どこまで
も、あわれな連中である。

【追記2】

 念のため調べてみたら、これは、多分「W32.Netsky.Q」という名前のウィルスということがわか
った。WINDOWを、UPDATEしていないパソコンでは、メールをプレビュー画面に表示しただ
けで、感染することもあるという。

 対策としては、(1)WINDOWをUPDATEしておく。(2)あやしげなメールは、その場で、即削
除するしかないようだ。現に、私はプロバイダー(サーバー)のウィルスチェエクサービスに加入
し、かつ、パソコンごとに、アンチウィルス対策をしているが、それでも、こうしたメールが、届
く。

 いったい、いつまで、こうした意味のないイタチごっこは、つづくのか。
(040407)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(142)

●意識のちがい

 タクシーの運転手が、どこかノロノロ走っている前の車を見ながら、こう言った。「俺たちは、
道路でメシ食ってるんだ。ああいう運転は困るんだよ」と。

 一方、ある男性が、強引な走り方をするタクシーを見ながら、こう言った。「タクシーの運転手
ら、道路で仕事をさせてもらっているんだから、もっと遠慮がちに運転しろよ」と。

 同じ「運転」でも、立場がちがうと、その見方も、180度ちがう。こういう例は、少なくない。

 たとえば先の戦争で、300万人もの日本人が死んだ。それについて、「そうして国のために
死んでいった人たちの死を、ムダにしてはいけない」と考える人。こういう考え方は、右翼的思
想の基本となる。

 一方、「300万人もの人たちが戦争の犠牲になった。そういう戦争を二度と起こしてはいけな
い」と考える人。こういう考え方は、左翼思想の基本となる。

 つまり、意識というのは、そういうもので、大きくちがうように見えるかもしれないが、たがい
に、中身は、それほど、ちがわない。

●意識の変化

 こうした意識は、絶対的なものでは、ない。その人自身の思想の変化、環境の変化によって
も、変りうる。

 たとえば今、アメリカが、イラクで戦争をしている。昨日も、海兵隊員が、10数人、死んだ。

 こういうニュースを聞くと、私のばあい、鮮烈な衝撃が、走るようになった。恐らく3、4年前の
私には、予想もできなかった衝撃である。

 私の二男の妻は、アメリカ人である。孫もアメリカ人である。二男も、アメリカ国籍を、今、申
請している。そのうちアメリカ人になる。

 3、4年前までの「アメリカ」「アメリカ人」と、今の「アメリカ」「アメリカ人」は、私にとっては、明
らかにちがう。

 たとえば今、世界で一番、危機的な状況にあるのは、実は、日朝関係である。「つぎの紛争
地域」として、世界の政治学者たちは、この極東地域を、あげる。

 もちろん戦争を望むものではないが、しかし仮に、日朝戦争になり、あるいは、米朝戦争にな
っても、私は、孫のセイジには、このアジアまで、来てほしくない。もし戦争に来るというなら、私
は、孫のセイジに、こう言うだろう。

 「わざわざ極東まで、来なくてもいい。ぼくらのほうで、何とかするから」と。

 多分、こうした意識のちがいというのは、日本だけに住み、日本人だけの家族をもっている人
には、理解できないかもしれない。つまり今、自分でも気がつかなかったが、私自身の意識も、
明らかに変化してきている。

●絶対的な意識はない
 
絶対的な意識というのは、ない。普遍的な意識というのも、ない。わずか130年前には、この
日本では、「薩摩だの」「長州だの」と言っていた。「幕府」だの、「朝廷」だのと言っていた。

 しかし時代が変った今、こうした「国」のなごりは、せいぜい高校野球に残っているくらでしか
ない。「静岡県代表」「東北勢」「九州男児」などという言葉が使われる。

 わずか130年前には、日本人も、その地域のために、命までかけた。しかし今、「県」のため
に、命までかける人はいない。戦争をする人はいない。

 言いかえると、今、「日本」だの、「中国」だのと言っているほうが、おかしい。いつかやがて、
あのジョン・レノンが、『イマジン』の中で歌ったように、世界は一つになる。そうなったとき、人
間の意識は、これまた一つ上のレベルまでいくことになる。

 そこで私たちが、未来の子どもたちのためになずべきことは、この意識のレベルをあげるこ
と。決して、今の意識に安住してはいけない。今の意識を絶対視してはいけない。

 ……と書くと、決まって、「君には、愛国心はないのか」と言ってくる人がいる。とんでもない。
私にも愛国心はある。

 しかしその愛国心というのは、「国」という体制を愛する愛国心ではない。郷土を愛し、文化を
愛し、子どもたちの未来を愛するという愛国心である。あえて言えば、愛郷心、愛人心、愛日本
人心ということになる。が、日本の政府は、さかんに、愛「国」心という言葉を使う。

 しかし仮にK国が日本を攻めてくるようなことがあれば、私だって、そのK国と戦う。しかしそ
れは日本の体制を守るためではない。日本の郷土を守り、家族を守り、そして子どもたちの未
来を守るためである。いくら強要されても、私には、「天皇陛下、バンザーイ!」などと言って死
ぬことはできない。できないもは、できないのであって、どうしようもない。

●さあ、意識を高めよう!

 さあ、みんなで、力をあわせて、意識を高めよう。できるだけ広い視野で、高い視野で、自分
や地域や、そしてこの日本を見よう。そして考えよう。

 いつか世界の人が日本という国をみたとき、彼らが本当に尊敬するのは、私たち日本人がも
つ、広くて高い意識である。「日本や、日本人は、こんなにすばらしい国だったのか」と。

 しかしそれは一部の、文化人や、哲学者がする仕事ではない。私たち一人ひとりの庶民が、
すべきことである。その底辺から、私たち自身の意識をもちあげる。

隣のおじさんや、おばさんが、堂々と、正解平和を口にし、人間の尊厳を口にしたとき、日本
は、そして日本人は、はじめて、世界に誇る意識をもつことになる。

 まずいのは、今の意識に安住し、それを絶対視することである。かつてアメリカのCNNが、
「日本人に、ワレワレ意識がある間は、日本人は、決して、世界のリーダーにはなれない」と酷
評したことがある。その「ワレワレ意識」も、その一つかもしれない。

 耳の痛い言葉である。が、大切なことは、その「痛さ」を、さらに広くて、高い意識で、克服する
ことである。繰りかえすが、決して、今の意識に安住してはいけない。
(040408)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【参考1】

かつてジョン・レノンは、「イマジン」の中で、こう歌った。

♪「天国はない。国はない。宗教はない。
  貪欲さや飢えもない。殺しあうことも
  死ぬこともない……
  そんな世界を想像してみよう……」と。

少し前まで、この日本でも、薩摩だの長州だのと言っていた。
皇族だの、貴族だの、士族だのとも言っていた。
しかし今、そんなことを言う人は、だれもいない。

それと同じように、やがて、ジョン・レノンが夢見たような
世界が、やってくるだろう。今すぐには無理だとしても、
必ず、やってくるだろう。

みんなと一緒に、力をあわせて、そういう世界をめざそう。
あきらめてはいけない。立ち止まっているわけにもいかない。
大切なことは、その目標に向かって進むこと。
決して後退しないこと。

ただひたすら、その目標に向かって進むこと。

+++++++++++++++++

イマジン(訳1)

♪天国はないこと想像してみよう
その気になれば簡単なこと
ぼくたちの下には地獄はなく
頭の上にあるのは空だけ
みんなが今日のために生きていると想像してみよう。

♪国なんかないと思ってみよう
むずかしいことではない
殺しあうこともなければ、そのために死ぬこともなくない。
宗教もない
平和な人生を想像してみよう

♪財産がないことを想像してみよう
君にできるかどうかわからないけど
貪欲さや飢えの必要もなく
すべての人たちが兄弟で
みんなが全世界を分けもっていると想像してみよう

♪人はぼくを、夢見る人と言うかもしれない
けれどもぼくはひとりではない。
いつの日か、君たちもぼくに加わるだろう。
そして世界はひとつになるだろう。
(ジョン・レノン、「イマジン」より)

(注:「Imagine」を、多くの翻訳家にならって、「想像する」と訳したが、本当は「if」の意味に近い
のでは……? そういうふうに訳すと、つぎのようになる。同じ歌詞でも、訳し方によって、その
ニュアンスが、微妙に違ってくる。

イマジン(訳2)

♪もし天国がないと仮定してみよう、
そう仮定することは簡単だけどね、
足元には、地獄はないよ。
ぼくたちの上にあるのは、空だけ。
すべての人々が、「今」のために生きていると
仮定してみよう……。

♪もし国というものがないと仮定してみよう。
そう仮定することはむずかしいことではないけどね。
そうすれば、殺しあうことも、そのために死ぬこともない。
宗教もない。もし平和な生活があれば……。

♪もし所有するものがないことを仮定してみよう。
君にできるかどうかはわからないけど、
貪欲になることも、空腹になることもないよ。
人々はみんな兄弟さ、
もし世界中の人たちが、この世界を共有したらね。

♪君はぼくを、夢見る人と言うかもしれない。
しかしぼくはひとりではないよ。
いつか君たちもぼくに加わるだろうと思うよ・
そしてそのとき、世界はひとつになるだろう。

ついでながら、ジョン・レノンの「Imagine」の原詩を
ここに載せておく。あなたはこの詩をどのように訳すだろうか。

Imagine

Imagine there's no heaven
It's easy if you try
No hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today…

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
No religion too
Imagine life in peace…

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world…

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one.

【参考2】

日本では、「国を愛する」ことが、世界の常識のように思っている人が多い。しかし、たとえば中
国や北朝鮮などの一部の全体主義国家をのぞいて、これはウソ。

日本では、「愛国心」と、そこに「国」という文字を入れる。しかし欧米人は、アメリカ人も、オー
ストラリア人も、「国」など、考えていない。たとえば英語で、愛国心は、「patriotism」という。こ
の単語は、ラテン語の「patriota(英語のpatriot)、さらにギリシャ語の「patrio」に由来する。

 「patris」というのは、「父なる大地」という意味である。つまり、「patriotism」というのは、日
本では、まさに日本流に、「愛国主義」と訳すが、もともとは「父なる大地を愛する主義」という
意味である。念のため、いくつかの派生語を並べておくので、参考にしてほしい。

●patriot……父なる大地を愛する人(日本では愛国者と訳す)
●patriotic……父なる大地を愛すること(日本では愛国的と訳す)
●Patriots' Day……一七七五年、四月一九日、Lexingtonでの戦いを記念した記念日。こ
の戦いを境に、アメリカは英国との独立戦争に勝つ。日本では、「愛国記念日」と訳す。

欧米で、「愛国心」というときは、日本でいう「愛国心」というよりは、「愛郷心」に近い。あるいは
愛郷心そのものをいう。少なくとも、彼らは、体制を意味する「国」など、考えていない。ここに日
本人と欧米人の、大きなズレがある。

(040406)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(143)

【父親VS母親】

●母親の役割

 絶対的なさらけ出し、絶対的な受け入れ、絶対的な安心感。この三つが、母子関係の基本で
す。「絶対的」というのは、「疑いすらいだかない」という意味です。

 母親は、自分の体を痛めて、子どもを出産します。そして出産したあとも、乳を与えるという
行為で、子どもの「命」を、はぐくみまず。子どもの側からみれば、父親はいなくても育つという
ことになります。しかし母親がいなければ、生きていくことすらできません。

 ここに母子関係の、特殊性があります。

●父子関係

 一方、父子関係は、あくまでも、(精液、ひとしずくの関係)です。父親が出産にかかわる仕事
といえば、それだけです。

が、女性のほうはといえば、妊娠し、そのあと、出産、育児へと進みます。この時点で、女性が
男性に、あえて求めるものがあるとすれば、「より優秀な種」ということになります。

 これは女性の中でも、本能的な部分で働く作用と考えてよいでしょう。肉体的、知的な意味
で、よりすぐれた子どもを産みたいという、無意識の願望が、男性を選ぶ基準となります。

 もちろん「愛」があって、はじめて女性は男性の(ひとしずく)を受け入れることになります。「結
婚」という環境を整えてから、出産することになります。しかしその原点にあるのは、やはりより
優秀な子孫を、後世に残すという願望です。

 が、男性のほうは、その(ひとしずく)を女性の体内に射精することで、基本的には、こと出産
に関しては、男性の役割は、終えることになります。

●絶対的な母子関係VS不安定な父子関係

 自分と母親の関係を疑う子どもは、いません。その関係は出産、授乳という過程をへて、子
どもの脳にしっかりと、焼きつけられるからです。

 しかしそれにくらべて、父子関係は、きわめて不安定なものです。

 フロイトもこの点に着目し、「血統空想」という言葉を使って、それを説明しています。つまり
「母親との関係を疑う子どもはいない。しかし父親との関係を疑う子どもはいる」と。

 「私は、ひょっとしたら、あの父親の子どもではない。私の父親は、もっとすぐれた人だったか
もしれない」と、自分の血統を空想することを、「血統空想」といいます。つまりそれだけ、父子
関係は、不安定なものだということです。

●母親の役割

 心理学の世界では、「基本的信頼関係」という言葉を使って、母子関係を説明します。この信
頼関係が、そのあとのその子どもの人間関係に、大きな影響を与えるからです。だから「基本
的」という言葉を、使います。

 この基本的信頼関係を基本に、子どもは、園の先生、友人と、それを応用する形で、自分の
住む世界を広げていきます。

 わかりやすく言えば、この時期に、「心を開ける子ども」と、「そうでない子ども」が、分かれる
ということです。心を開ける子どもは、そののち、どんな人とでも、スムーズな人間関係を結ぶ
ことができます。そうでなければ、そうでない。

 子どもは、母親に対して、全幅に心を開き、一方、母親は、子どもを全幅に受け入れる…
…。そういう関係が基本となって、子どもは、心を開くことを覚えます。よりよい人間関係を結
ぶ、その基盤をつくるということです。

 「私は何をしても、許される」「ぼくは、どんなことをしても、わかってもらえる」という安心感が、
子どもの心をつくる基盤になるということです。

 一つの例として、少し汚い話で恐縮ですが、(ウンチ)を考えてみます。

 母親というのは、赤ん坊のウンチは、まさに自分のウンチでもあるわけです。ですから、赤ん
坊のウンチを、汚いとか、臭いとか思うことは、まずありません。つまりその時点で、母親は、
赤ん坊のすべてを受け入れていることになります。

 この基本的信頼関係の結び方に失敗すると、その子どもは、生涯にわたって、(負の遺産)
を、背負うことになります。これを心理学の世界では、「基本的不信関係」といいます。

 「何をしても、心配だ」「どんなことをしても、不安だ」となるわけです。

 もちろんよりよい人間関係を結ぶことができなくなります。他人に心を開かない、許さない。あ
るいは開けない、許せないという、そういう状態が、ゆがんだ人間関係に発展することもありま
す。

 心理学の世界では、このタイプの人を、攻撃型(暴力的に相手を屈服させようとする)、依存
型(だれか他人に依存しようとする)、同情型(か弱い自分を演出し、他人の同情を自分に集め
る)、服従型(徹底的に特定の人に服従する)に分けて考えています。

どのタイプであるにせよ、結局は、他人とうまく人間関係が結べないため、その代用的な方法
として、こうした「型」になると考えられます。

 もちろん、そのあと、もろもろの情緒問題、情緒障害、さらには精神障害の遠因となることも
あります。

 何でもないことのようですが、母と子が、たがいに自分をさらけ出しあいながら、ベタベタしあ
うというのは、それだけも、子どもの心の発育には、重要なことだということです。

●父親の役割

 この絶対的な母子関係に比較して、何度も書いてきましたように、父子関係は、不安定なも
のです。中には、母子関係にとってかわろうとする父親も、いないわけではありません。あるい
は、母親的な父親もいます。

 しかし結論から先に言えば、父親は、母親の役割にとってかわることはできません。どんなに
がんばっても、男性は、妊娠、出産、そして子どもに授乳することはできません。そのちがいを
乗り越えてまで、父親は母親になることはできません。が、だからといって、父親の役割がない
わけではありません。

 父親には、二つの重要な役割があります。(1)母子関係の是正と、(2)社会規範の教育、で
す。

 母子関係は、特殊なものです。しかしその関係だけで育つと、子どもは、その密着性から、の
がれ出られなくなります。ベタベタの人間関係が、子どもの心の発育に、深刻な影響を与えてし
まうこともあります。よく知られた例に、マザーコンプレックスがあります。

こうした母子関係を、是正していくのが、父親の第一の役割です。わかりやすく言えば、ともす
ればベタベタの人間関係になりやすい母子関係に、クサビを打ちこんでいくというのが、父親
の役割ということになります。

 つぎに、人間は、社会とのかかわりを常にもちながら、生きています。つまりそこには、倫理、
道徳、ルール、規範、それに法律があります。こうした一連の「人間としての決まり」を教えてい
くのが、父親の第二の役割ということになります。

 (しなければならないこと)、(してはいけないこと)、これらを父親は、子どもに教えていきま
す。人間がまだ原始人に近い動物であったころには、刈りのし方であるとか、漁のし方を教え
るのも、父親の重要な役目だったかもしれません。

●役割を認識、分担する

 「母親、父親、平等論」を説く人は少なくありません。

 しかしここにも書いたように、どんなにがんばっても、父親は、子どもを産むことはできませ
ん。また人間が社会的動物である以上、社会とのかかわりを断って、人間は生きていくことも
できません。

 そこに父親と、母親の役割のちがいがあります。が、だからといって、平等ではないと言って
いるのではありません。また、「平等」というのは、「同一」という意味ではありません。「たがい
の立場や役割を、高い次元で、認識し、尊重しあう」ことを、「平等」と、言います。

 つまりたがいに高い次元で、認めあい、尊重しあうということです。父親が母親の役割にとっ
てかわろうとすることも、反対に、母親の役割を、父親の押しつけたりすることも、「平等」とは
言いません。

 もちろん社会生活も複雑になり、母子家庭、父子家庭もふえてきました。女性の社会進出も
目だってふえてきました。「母親だから……」「父親だから……」という、『ダカラ論』だけでもの
を考えることも、むずかしくなってきました。

 こうした状況の中で、父親の役割、母親の役割というのも、どこか焦点がぼけてきたのも事
実です。(だからといって、そういった状況が、まちがっていると言っているのでは、ありませ
ん。どうか、誤解のないようにお願いします。)

 しかし心のどこかで、ここに書いたこと、つまり父親の役割、母親の役割を、理解するのと、
そうでないのとでは、子どもへの接し方も、大きく変わってくるはずです。

 そのヒントというか、一つの心がまえとして、ここで父親の役割、母親の役割を考えてみまし
た。何かの参考にしていただければ、うれしく思います。
(はやし浩司 父親の役割 母親の役割 血統空想)

【追記1】

 母子の間でつくる「基本的信頼関係」が、いかに重要なものであるかは、今さら、改めてここ
に書くまでもありません。

 すべてがすべてではありませんが、乳幼児期に母子との間で、この基本的信頼関係を結ぶ
ことに失敗した子どもは、あとあと、問題行動を起こしやすくなるということは、今では、常識で
す。もちろん情緒障害や精神障害の原因となることもあります。

 よく知られている例に、回避性障害(人との接触を拒む)や摂食障害などがあります。

 「障害」とまではいかなくても、たとえば恐怖症、分離不安、心身症、神経症などの原因となる
こともあります。

 そういう意味でも、子どもが乳幼児期の母子関係には、ことさら慎重でなければなりません。
穏やかで、静かな子育てを旨(むね)とします。子どもが恐怖心を覚えるほどまで、子どもを叱
ったりしてはいけません。叱ったり、説教するとしても、この「基本的信頼関係」の範囲内でしま
す。またそれを揺るがすような叱り方をしてはいけません。

 で、今、あなたの子どもは、いかがでしょうか。あなたの子どもが、あなたの前で、全幅に心を
開いていれば、それでよし。そうでなければ、子育てのあり方を、もう一度、反省してみてくださ
い。

【追記2】

 そこで今度は、あなた自身は、どうかということをながめてみてください。あなたは他人に対し
て、心を開くことができるでしょうか。

 あるいは反対に、心を開くことができず、自分を偽ったり、飾ったりしていないでしょうか。外
の世界で、他人と交わると、疲れやすいという人は、自分自身の中の「基本的信頼関係」を疑
ってみてください。

 ひょっとしたら、あなたは不幸にして、不幸な乳幼児期を過ごした可能性があります。

 しかし、です。

 問題は、そうした不幸な過去があったことではありません。問題は、そうした不幸な過去があ
ったことに気づかず、その過去に振り回されることです。そしていつも、同じ、失敗をすることで
す。

 実は私も、若いころ、他人に対して、心を開くことができず、苦しみました。これについては、
また別の機会に書くことにしますが、恵まれた環境の中で、親の暖かい愛に包まれ、何一つ不
自由なく育った人のほうが、少ないのです。

 あなたがもしそうであるかといって、過去をのろったり、親をうらんだりしてはいけません。大
切なことは、自分自身の中の、心の欠陥に気づき、それを克服することです。少し時間はかか
りますが、自分で気づけば、必ず、この問題は、克服できます。
(040409)

+++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(144)

【近況・あれこれ】

●老齢によるボケ

 小便をしたあと、ズボンのチャックをあげ忘れても、ボケではない。しかし小便をする前に、チ
ャックをさげ忘れたら、ボケである。

 この話を、ワイフに言って聞かせると、ワイフがこう言った。

「部屋に入ったとき、ドアを閉め忘れても、ボケではない。しかし部屋に入るとき、ドアを開け忘
れたら、ボケよね」と。

 ナルホド! なかなかうまいことを言う。

 で、そのボケだが、50歳を過ぎると、がぜん、深刻な問題となってくる。そこで一つのバロメ
ーターになると思うが、こんなことが言える。

 同年齢の皆が、自分と同じように愚かに見えるようであれば、ボケではない。しかし同年齢の
皆が、自分と同じように賢く見えるようであれば、ボケである。

 この時期、人によっては、急速にボケ症状が進む。話し方が、かったるくなる。反応が鈍くな
る。繊細な話ができなくなる。

 しかしそれは相対的な変化で、仮に、自分も、同じように皆とボケ始めていたら、それはわか
らない。つまり、皆が、自分と同じように賢く見える。

 哲学の世界でも、「自分を知る」ことが、一つの大きなテーマになっている。ギリシャの哲学
者、キロンも、『汝自身を知れ』という有名な言葉を残している。

 そこで自分を知るための第一歩が、「自分の愚かさを知る」ということになる。決して、自分が
正しいとか、賢明であるとか、最上であると思ってはいけない。「私はバカである」という大前提
で生きる。

当然のことながら、この世界には、私たちが知っていることより、知らないことのほうが、はるか
に多い。そこで、こんなことも言える。

 「私はボケてきた。バカだ」と思ったら、ボケではない。しかし「私は賢くなった。何でも知って
いる」と思ったら、ボケである。

 要するに、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、自分がボケ始めたとしても、それに気
づくことは、まずない。だから自分の身のまわりの、相対的変化を見ながら、自分のボケを知
るしかない。

 私のばあい、こんなことが言える。

 数年前に書いた文章、さらに10年前に書いた文章を、ときどき読みかえす。そのとき、以前
書いた文章のほうが、つまらなく感じたら、私は、まだボケていない。しかし以前書いた文章の
ほうが、おもしろく感じたら、私は、ボケ始めた、と。

 内容というよりは、サエや鋭さをいう。

 で、その実感だが、少し前までは、「以前は、どうしてこんなヘタクソな文章を書いたのだろう」
と思うことが、しばしばあった。しかしこのところ、それがどうやら、逆転してきたようだ。「以前
書いていた文章のほうが、おもしろい」と思うことが、ときどきある。つまり、かなりボケが進み
始めたとみてよい?

 こういう例は、ほかにもある。

 かつて名映画監督として一世を風靡(ふうび)した人に、KS氏という人がいる。私はKS氏の
つくる映画が好きだった。だから、すべてを見た。

 しかしKS氏のつくる映画は、晩年になればなるほど、つまらなくなってきた。堅苦しくなってき
たというか、「これが映画だ」という気負いばかり、強くなったように感じた。もうそのころになる
と、無名時代の、あの燃えるような楽しさは、なかった。

 同じことは、作家の世界でも、よく起こる。同じように、直木賞作家に、IT氏という人がいる。し
ばらく金沢市にも住んでいたことがあり、強い親しみを感じていた。

 で、そのIT氏は、もう70歳を過ぎているが、毎月のように新刊書を発売している。で、昔は、I
T氏の本は、よく買った。しかしここ10年、マンネリ化したというか、たいてい立ち読みだけです
まし、どうしても買う気が起きない。

 KS氏は、すぐれた映画監督であった。IT氏も、すぐれた作家である。それはまちがいない
が、しかし老齢には、そういう問題も含まれる。

 このところ、恩師のT先生などと、ボケについて、よく話しあう。T先生は、80歳を過ぎている
から、私より、ことは、深刻である。

 「あのM先生(学士院賞受賞者)は、このところ、奥さんの顔もわからなくなりました」「あのS
先生も、このところボケが急速に進み、テニスにも来なくなりました」と。

 しかしそれがT先生にわかるということは、T先生は、まだボケていないということになる。「自
分もボケ始めている」と感ずるときは、まだボケていないということ。だからT先生への返事に
は、こう書いた。

 「先生は、まだだいじょうぶですよ」と。

 知力も、体力と同じように、50歳を過ぎると、急速に衰えてくる。30代、40代の若い人に
は、理解できないことかもしれないが、だれでもそうなる。例外はない。その一つが、ボケという
ことになる。


●ボケ症状

 義理の姉の母親は、今年、88歳になる。その母親が、5、6年前から、ボケ始めたという。義
理の姉は、「まだらボケ」と呼んでいる。実際に、そういう呼び名があるそうだ。その日の体調に
応じて、頭の働きがまあまあ、ふつうなときと、そうでないときが、まだらに現れる。

 困るのは、自分でモノをしまい忘れたくせに、義理の姉たちに向って、「盗んだ」「隠した」と騒
ぐことだそうだ。その当初は、近所の人たちにも、そう言いふらされたりして、義理の姉も、かな
り苦労したようだ。

 しかしこういう例は、少なくない。

 家族内どうしでのことならまだしも、近隣の人たちと、トラブルを起こすこともある。完全にボ
ケてしまえば、それなりに外の人にも、判断できる。しかしそうでないと、外の人には、それが
わからない。

 最近でも、こんな話を聞いた。

 Y氏(82歳男性)の趣味は、盆栽。庭中に、盆栽を作って、ところ狭しとそれを並べている。

 が、である。このところ、「近所のXが、またオレの盆栽を盗んだ」「Yが、こっそり、盆栽をもっ
ていった」などと、口走るようになった。

 どうやら昔もっていた盆栽を思い出しては、そう言うらしい。

 で、最初のころは、家族へのグチのようなものだったが、このところ、そのX氏や、Y氏に、手
紙を書くようになったという。「お前が、ワシの盆栽を盗んだ。返せ!」と。

 これには、X氏もY氏も、大激怒。「ドロボーと決めつけるとは、何ごとか!」と。

 こうした例は、多い。ひょっとしたら、あなたの周辺にも、こういう例は、多いはず。

 で、ボケについて調べてみると、行動面での変化をとらえて、その初期状態を知るという方法
が、一般的である。

( )モノをしまい忘れる。
( )電気製品が、使えなくなくなる。
( )名前が思い出せなくなる。
( )生活がだらしなくなる。
( )同じことを聞きかえしたりする。

 しかし精神面での変化については、あまり問題とされていない?

 で、あちこちのサイトを調べてみたら、老人性の痴呆症の中に、「ピック病」というのがあるの
が、わかった。聞きなれない言葉だったので、興味をもった。三宅貴夫氏の文献から、症状
を、列挙してみる。

( )当初は性格の変化が目立つ。几帳面な人がずぼらになり、下着が汚れても気にしなくなっ
たり、風呂に入るのを嫌がったりするようになる。
(  )仕事もいいかげんにしたり、約束を破っても気にしなくなることがある。しかし一人での生
活は難しくなる。
(  )病気が進行してくると物忘れや判断力の低下など、痴呆の症状が目立つようになる。
(  )本人は体力はあり、暴力もあり、ひととおりの理屈を言うので、対応はアルツハイマー病
以上に難しい。(医師:三宅貴夫)

 ピック病というのは、アルツハイマー病には似ているが、脳のある部分だけがしっかりとして
いる病気のことか。「ひととりの理屈を言うので、対応はアルツハイマー病以上に難しい」とあ
る。
 
 ボケにも、いろいろあるようだ。これから先、少しずつ、老人(私)のボケについて、書いてみ
たい。私のボケの進行状態を、マガジンで実況中継をするというのも、おもしろいかもしれな
い。

 「みなさん、今月は、要介護2になりました。お元気ですか?」と。ハハハ。


●子どもの不登校

 千葉県C市にお住まいの、DEさんより、子どもの不登校についての相談があった。

++++++++++++++++++
 
幼稚園の年長の秋頃から幼稚園に行けなくなりました。体操スクールでも突然、跳び箱が怖く
なり、無理やり連れて行ったりしてしまったので、吐くようになってしまい、卒園式だけいきまし
た。(親が一緒だといけるようなので……。)

小学校も入学式は、普通に行きました。翌日朝になって、通学班の6年生の男の子が、おむ
かえにきてくれたら、行かないと泣き出しました。主人がまだ出勤前だったので、主人が、無理
やり車で連れって行こうとしたので、私は、幼稚園の時のようにしては、いけないと思いそれ
は、それは、しないでと、お願いしました。

それでも、初日から休ませては、いけないかなと思い、ランドセルも、帽子もいいから、お母さ
んと一緒に学校に行こうと誘い、とにかく連れて行きました。

最初は、先生が、保健室にいたらといわれたのですが、子どもが廊下をうろうろしていたら、教
室を見てくると言い、家に帰ってランドセルを、取りに帰ると言いだしました。それで、そのまま
教室に入っていきました。でも、ひとりでは、教室には入られず、ずっと廊下から見ていました。

それから、毎日学校に一緒にいます。これから、ずっと、一緒について、行かなければ、いけな
いのでしょうか? どうして、うちのこだけがという思いと、ついていてあげなくては、との思い
や、これが、何時までとの不安が、夜も眠れず、ご飯も食べられず、なんとか、日々過ごしてい
ると言う状態です。

このさき、いままでの子育てが、まちがっていたのの、どこをどのように、母親として、自分のど
こを変えていったらいいのか、わかりません。どのように、していったら、いいでしょうか?(千
葉県C市、DEさん、母親より)

+++++++++++++++++++++

 子どもの不登校については、何度も書いてきました。どうか私のサイトの、「テーマ別子育て
論」をご覧ください。トップページの中段あたりに、それがあります。その中から、「不登校」もし
くは、「学校恐怖症」を選んで、ご覧になってください。

 またヤフーもしくは、グーグルの検索機能を使って、「はやし浩司 不登校」もしくは、「はやし
浩司 学校恐怖症」を検索してみてください。いくつかの記事にヒットするはずです。(ちなみ
に、自分で「はやし浩司 学校恐怖症」検索してみましたら、ヤフーで、9件、ヒットしました。)

+++++++++++++++++++++

 決して、DEさんを責めているのではない。DEさんは、今、子どものことで、たいへん苦しんで
いる。悩んでいる。それはわかるが、こうした問題は、「下」から見る。

 DEさんは、今、「自分の子どもは最悪の状態」と思っている。それもわかる。しかし決して、最
悪ではない。

 DEさんという母親がいっしょだと、学校へ行くということ。また教室の中でも、すわっておられ
るということ。同じ不登校(?)でも、症状は、軽い。先生も、そのあたりの指導については、よく
心得ていると思うので、先生に任せたらよい。

 少しずつ、心をほぐしていけば、やがて今の症状は、ウソのように消える。ここはあせらず、
あくまでも子どもの立場になって考える。「いつまでもいっしょにいてあげるわよ」という、やさし
い心が伝わったとき、あなたの子どもは、安心する。

 この問題は、その「安心感」が、第一。

 DEさんには、子どもに対して、何かしら、大きなわだかまりがあるかもしれない。その(わだ
かまり)が姿を変えて、心配先行型、不安先行型の子育てになっていると考えられる。

 今も、そういう状態にあると考えてよい。子どものよい面を見るのではなく、悪い面だけを見
て、その上に、自分の不安や心配を、塗り重ねている。そして心のどこかで、(ふつうの子ども)
(標準的な子ども)を思い描き、その子どもに、無理に当てはめようとしている。

 こうした育児姿勢では、DEさんの、悩みは、いつまでたっても消えない。解決しない。「もっと
よくなるはず……」「さらに……」と、子どもを追い立てる。そしてそのたびに、DEさんは大きな
焦燥感を覚える。

 なぜDEさんは、子どもに向かって、こう言わないのか。

「あなたはがんばっているのよ」
「今日は学校へ、よく行ったわね」
「明日も、いっしょに行ってあげるよ」
「どんなことがあっても、ママは、あなたの味方よ」
「ママが、あなたを守ってあげるからね」
「ママも、あなたと勉強ができて、楽しいわ」と。

 繰りかえすが、今の症状は、同じ不登校の中でも、きわめて軽い。大切なことは、(今の状
態)を守り、これ以上、こじらせないこと。無理をすれば、「まだ前の症状のほうが、軽かった」と
いうことを繰りかえして、さらに症状は、重くなる。

 子どもが半日、学校へ行けるようになったら、「無理をしなくていいのよ。2時間で、おうちへ
帰ろうね」と言ってあげればよい。給食まで食べられるようになったら、「無理をしなくていいの
よ。午前中で、おうちに帰ろうね」と言ってあげればよい。

 そういう親側の心のゆとりというか、やさしさが、子どもの心を軽くする。

 この問題は、数か月単位でみること。「数か月前とくらべて、どうだ」と。

 まだ入学して、たったの数日(4月11日現在)!、なのに、もう「それから、毎日学校に一緒
にいます。これから、ずっと、一緒について、行かなければ、いけないのでしょうか? どうし
て、うちのこだけがという思いと、ついていてあげなくては、との思いや、これが、何時までとの
不安が、夜も眠れず、ご飯も食べられず、なんとか、日々過ごしていると言う状態です」とは!

 DEさん、少し、短気すぎませんか? 結論を急ぎすぎていませんか? あるいは妄想ばかり
ふくらませていませんか?

 お子さんは、心の緊張感がとれないで苦しんでいます。

 なぜ、心の緊張感がとれないか? つまりは、DEさん、あなた自身が、心を開いていないか
らです。つまるところ、これはあなたの子どもの問題ではなく、あなた自身の問題ということで
す。わかりますか?

 かなりきびしいことを書いてしまいましたが、数か月後の今ごろは、「そんなこともあったわ
ね」で終わるはずです。そういうたがいの明るい笑顔を想像しながら、ここは、どうか、「今」を
前向きに考えてください。

 何でもない問題ですよ! 不登校なんて!
(040410)


●パラグライダーに挑戦?

 I町の、R山に、パラグライダーのクラブがある。今日(4・10)、ワイフと二人で、そこへ行って
きた。

 4月中旬というのに、初夏を思わせる陽気。全国的に、気温は、平年より4〜5度も高かった
そうだ。あとでテレビのニュースを見て、それを知った。

 山頂へ着くと、4、5人の男性が、そこにいた。空には、二機というか、二枚というか、二つの
パラグライダーが、飛んでいた。私は、無我夢中で、写真をとりつづけた。うれしかった。

 私は、「飛ぶもの」は、みんな、好き。大好き。鳥も好きだし、飛行機も好き。模型の飛行機
も、大好き。「いつか、自分で空を飛んでみたい」と思っていた。そこで、今日は、ただひたす
ら、観察。

 山頂は、ゆるやかな斜面になっていた。広さは、テニスコートの4倍くらいか。代表の、K氏
が、たいへん親切な人で、あれこれ話しかけてくれた。

「こわくないですよ」
「気持ちいいですよ」
「安全ですよ」と。

 しかしパラシュートのような飛行機で、空を飛ぶ。どこか心もとない。で、何人かが、丘の上か
ら離陸していくのを、見送る。そのつど、言いようのない興奮というか、感動を覚える。それに
胸の動悸。自分が飛ぶわけでもないのに、ドキドキする。

 一人、今日が初飛行という人がいた。S郡のM町から来た人だという。どこか平然としてい
る。

「こわいですか?」と声をかけると、「いいや」と、そっけない返事。「緊張してますか?」と声をか
けると、また「いいや」と。

「そんなものかなあ……」と思いつつ、写真をとりつづける。「ひょっとしたら、この人の最後の
写真になるかもしれない」と、まあ、心のどこかで、とんでもないことを思う。

 で、私はといえば、さかんに「あなたも飛びなさいよ」と声をかけられる。で、私は、「保険に入
ってから」「遺書を書いてから」と、どこか冗談で、冗談と言い切れないような冗談を、連発す
る。

 しかし空を飛びたい。ワイフまで、「あなた、飛んでみたら?」と。すっかり、その気になってい
るようだ。つまり私が、近く、体験してみるとでも、思っているようだ。

私「お前こそ、飛んでみろ」
ワ「いやよ、私は。高所恐怖症だから」
私「だったら、そういうこと言うな」
ワ「あなた、飛びたいのでしょう?」
私「……うん」と。

 山の上には、1時間半ほど、いただろうか。M町からきた男性が、初飛行するというその瞬
間、私たちは、車で、下へおりた。下で、その男性を迎えるつもりだった。

 が、体験飛行用のパラグライダーは、いわゆる滑空専用。気流に乗って、上昇するようには
できていないという。わかりやすく言えば、パラシュートのようなもの。

 私たちが着陸点に着くと、その男性は、もう地面の上で、ベルトをはずしているところだった。

私「こわかったですか?」
男「ゼンゼン」
私「どんな感じでしたか?」
男「気持ちよかったア」と。

 そこで私は決心した。この夏には、パラグライダーに乗ってみる。死んでもよい。本望だ。一
度は、鳥のように、空を飛んでみたい。ああああ。

 今、改めて、そう決心した。

 なおこの日とった写真は、私のサイトの、「お楽しみスライド・ショー」の中に収録しておいた。
興味のある人は、見てほしい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(145)

【近況・あれこれ】

●DEPRESSION(落ちこみ)

 サウンド・オブ・ミュージクという映画の中に、「私の好きなもの(My favorite things)」という歌
がある。

 ある雷の落ちる夜、マリアが、大佐の子どもたちをなぐさめるために、子どもたちに、ベッドの
上で歌って聞かせる歌である。

「♪バラの上の雨粒、子猫のヒゲ
 ピカピカのやかんに、暖かい、手袋……」と。

 落ちこんでいるときは、楽しいこと、楽しい思い出を、頭の中にえがくのが、よい。最初は、脳
ミソが、抵抗するかもしれない。どこかすなおになれないかもしれない。しかししばらく、「私の好
きなもの」を思い描いていると、少し時間差をおいて、気分が楽になる。

 これは心の中の、不思議な現象と考えてよい。

 で、私のばあい、何かのことで落ちこんでいたりすると、ある特定のことで、悶々と悩んだりす
る。ささいなことである。まったくこちら側に非がなくても、どういうわけか、悩んでしまう。

 食欲が減退したり、ため息が多くなる。気分が晴れず、身の置き場がないように感ずることも
ある。ときどきワイフをぐいと抱きしめてみたりするが、(あるいは、反対に抱いてもらうのかも
しれないが……)、どうも居心地がよくない。

 そういうときは、奥の手を使う。

 「私の好きなもの」を、頭の中で思い描く。

★今までで、一番、楽しかったこと。
★今までで、一番、美しいと思った場所
★今までで、一番、おいしいと思った食べ物。
★今まで、一番、自分が輝いていたときのこと。
★今、自分が、一番、したいこと。

こういうことを、順に、頭の中で、思い描いていく。すると、そのときは、すぐには気分が晴れなく
ても、何かのことで、つぎの仕事や家事をしたりすると、そのあと、ふいと心が軽くなる。

 そういう意味では、人間の心は、単純なものだ。落ちこんでいるときの(自分)から見ると、そ
うでないときの自分が、信じられない。しかしそうでないときの(自分)から見ると、落ちこんでい
るときの(自分)が、信じられない。

 脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、どうしても、その時点において、そのときの脳の状
態を基準にして、ものを考えてしまう。

 しかし落ちこんでいるときの(自分)は、病気。心の病気。ちょうど、風邪で体が熱を出してい
るようなもの。その(熱)があるからといって、その熱が、永遠につづくわけではない。決して、そ
のように考えてはいけない。

 ……ということは、よくわかっているが、しかし風邪をひくときには、ひく。落ちこむときには、
落ちこむ。

 だから、そういうときの救済方法を、あらかじめ、こうして考えておくことは、決して、ムダでは
ない。その一つが、「私の好きなもの」ということになる。

 そうそう私は、映画、「サウンド・オブ・ミュージック」が、大好きだった。何度も見た。ビデオ版
もDVD版も、もっている。少し前まで、レーザーディスク版ももっていた。

音楽もすばらしかったが、私は、生まれてはじめて、日本を離れた夢のような世界に、この映
画を通して触れることができた。

 それにもう一つ、理由がある。

 あの映画の中に出てくる、長女役の女性(リーズル役、シャーミアン・カー)が、大好きだっ
た。この話は、だれにも話していない、私の秘密だった。(ここではじめて、秘密を暴露する。)

 ついでにインターネットで検索すると、その映画から35年後の7人の(子どもたち)の写真が
載っていた。私はうれしくて、それをすべてコピーした。(インターネットは、本当にすばらし
い!)

 で、レーズル役のジャーミン・カーは、すっかり、私と同年代ぽく変身していた。(当然だが…
…。)しかしこれは、あくまでも、余談。


●高コレステロール

 健康診断の結果、「高コレステロール」が指摘された。血圧は、上が105、下が65。だから、
「?」と思われるような結果である。

 実は、私の母方は、皆、血圧が低い。そのせいかどうかは知らないが、伯父、伯母たちは、
みな、よく水を飲む。本当に、よく飲む。

 私も、これから夏場になると、昼間だけでも、1日、2リットルは飲む。多いときは、3〜4リット
ルは飲む。

 今日(4・11)も、昼食に、近くの中華レストランで、ギョーザとライスを食べた。その食事の間
だけでも、私は、1リットル以上の水を飲んだ。ワイフが、「よく、それだけ飲めるわね」と、驚い
ていた。自分にとっては、ふつうの量なのだが……。

 で、検査の前というのは、お茶や水を飲むのが、限定される。「前日の夜9時から、食べる
な。お茶を飲むな」と指示される。それでどうしても、血が濃くなる。それでいつも高コレステロ
ールが指摘される。……のではないかと、自分では、勝手にそう思っている。

言うまでもなく、コレステロールの量は、血液、1デシリットル当たりの量をいう。血液が、水分で
薄くなれば、当然、コレステロール値も、低くなるのではないのか?

 もしこのあたりのことで、詳しい人がいたら、どうか教えてほしい。私のように、日ごろ、水分
を多くとっているものは、その水分を減らすと、コレステロール値は、その分、高くなるのではな
いのかということ。私は肉類は、ほとんど、食べない。サシミだったら、毎日でもかまわないとい
うほど、魚好き。
 
 しかし注意したほうが、よいことは確か。慢性的に高コレステロールになると、動脈硬化が進
み、心筋梗塞や、脳梗塞を引き起こすこともあるという。祖父は脳梗塞、父は心筋梗塞で死ん
でいる。遺伝的には、私も、あぶない。

 で、夕食の献立は、ざるソバ。それだけ。今日から、とりあえず、食事療法をすることにした。

 が、「腹」というのは、不思議なものだ。ある程度の空腹感を通りこしてしまうと、その空腹感
がなくなってしまう。夕食から数時間たっているが、今は、その空腹感が、ほとんどない。つい
先ほどまで、グーグーとおなかが鳴っていたのだが……。


●イラクの人質

 数日前、イラクで、日本人3人が、人質になった。今日(4・11)、その3人が解放されるかも
しれない。そんなニュースが、昼から、いっせいに、流されている。

 このマガジンが、みなさんの目に届くころには、その結果がわかっていると思うが、家族の気
持ちを思うと、本当につらい。私も、一度だが、似たような経験をしたことがある。

 二男が、アメリカから帰国する日、いつまで待っても、成田から連絡が入らない。もうとっくの
昔に、成田に着いていておかしくない時刻だった。

 そこで成田のD航空のカウンターに連絡すると、「夜9時以後は、問い合わせはできない」と
のこと。そこでしかたないので、今度は、ヒューストン空港(テキサス州)へ。が、そこでの返事
は、「その方は、搭乗予定でしたが、乗客名簿にはありません」と。

 そんなはずはない!

 そこで今度は、国内便のカウンターに電話。二男は、そこで飛行機に乗り換えているはずで
ある。が、国内便にも乗っていないことがわかった。二男の自宅に電話をしても、電話がつな
がらない。留守番電話が応答するのみ。

 そうなると、もう頭の中は、パニック状態! そこでさらに、二男が飛行機に乗りこんだはず
のリトルロック空港(アーカンソー州)に電話。乗客名簿を調べてもらう。そしてその答も、同じ。
「その方は、搭乗予定でしたが、乗客名簿にはありません」と。

 こうして電話をあちこちにかけつづけること、数時間。時刻は、真夜中の2時を過ぎていた。

 で、やっとのことで、リトルロックの国内線の予約カウンターと連絡がとれ、「その方は、飛行
機便を変更されました」と。つまり二男は、予定の飛行機には乗らず、一日ずらして、その日の
飛行機に乗ることがわかった。

 が、その直後、二男から電話。「パパ、日付を一日、まちがえてしまった。今日、これから帰る
から」と。

 アメリカと日本とでは、時差が一日ある。それで、帰国日を、一日、まちがえてしまったとい
う。実に二男らしい、ミスである。

私「で、これから○○便に乗るのか?」
二男「どうして、それを知っているの? たった今、予約したばかりだよ」
私「あのな、ぼくは、英語のプロだよ。お前の身に何かあれば、どんなことをしてでも、助けに行
くよ」と。

 少しかっこういいことを言ってしまったが、そのとき、私ははじめて、胸をなでおろした。

 しかしあのときのハラハラは、今でも忘れない。つまり、その何十倍も濃い、ハラハラを、人
質となった3人の家族は、感じている。テレビ画面からは、その憔悴(しょうすい)しきった様子
が、よくわかる。

 だから私は、あえて言う。

 どんな崇高な理念があるかは知らないが、こうした不安を、家族に与える可能性があるなら、
若者たちよ、イラクへは行くな! 「死ぬ覚悟はできている」と、言うのは、君たちの勝手かもし
れないが、親や家族は、そんなふうには、簡単に、割り切ることはできない。

 親孝行をしろとは言わないが、不要な心配はかけるな。病気や事故なら、しかたない。が、そ
うでないなら、行くな。とくに今回のように、人質になる危険性があるようなところへは、行くな。
君たちの無謀な行動で、日本中が、そして家族が、とんでもない迷惑をしている。心配をさせら
れている。

 はからずも、一人の母親はこう言った。「(無事帰ってきたら)、バカって顔をひっぱたいたあ
と、思いっきり、抱きしめてやりたい」と。それが親の気持だ! 日本人の気持ちだ!

 私は、家族の人たちが、涙ながらに無事を祈っている姿をテレビでかいま見たとき、別の心
で、そんなことを考えていた。

+++++++++++++++++++++

ついでに、以前、こんな原稿を書きました。

+++++++++++++++++++++

●不安の構造

 生きることには不安はつきものか。若いころは若いころで、自分の将来に大きな不安感をも
つ。結婚してからも、そして子どもをもってからも、この不安はつきることがない。それはちょう
ど健康と病気のような関係ではないか。

健康だと思っていても、どこかに病気、あるいはそのタネのようなものがある。本当に健康だと
思える日のほうが、少ない。言いかえると、その不安があるからこそ、人はその不安と戦うこと
で、生きる力を得る。

もしまったく不安のない状態に落とされたら、その人は生きる気力さえなくしてしまうかもしれな
い。いや、不安と戦うたびに、人は強くなる。とくに子育てにおいては、そうだ。こんなことがあっ
た。

 アメリカにいる二男からある日、こんなメールが英語で、届いた。「一六輪の大型トラックが、
ぼくの車にバックアップしてきて、ぼくの車はめちゃめちゃになってしまった(My car was 
backed-up by a 16-wheel truck.)」と。

「バックアップ」の意味を、私は「追突」ととらえた。私は大事故を想像し、すぐ電話を入れたが、
つながらない。ますます不安になり、アメリカ人の友人にも、様子を調べるよう依頼した。

当時ガールフレンドもいたので、そちらにも電話した。が、アメリカは真夜中のことで、思うよう
に連絡がとれない。気ばかりがあせって、頭の中はパニック状態になった。

 で、(アメリカの)翌朝、電話がやっとつながった。話を聞くと、「ガソリンスタンドで停車してい
たら、前にいた大型トラックがバックしてきて、自分の車の前部にぶつかった」ということだっ
た。

「バックアップ」の意味が違っていた。私はひとまず安心したが、それ以後、どういうわけか、二
男の運転のことでは心配にならなくなった。それまでの私は、「交通事故を起こすのではない
か」と、毎日のように、そればかりを心配していた。が、その事件以来、そういう心配をしなくな
った。

ほかに以前は、二男が日本とアメリカを往復するたびに、飛行機事故を心配したが、一度、二
男が乗るべき飛行機に乗らず、しかも乗客名簿に名前がないことを知って、おお騒ぎしたこと
がある。そのときも、二男はただ飛行機に乗り遅れただけということがわかって、安心したが、
以後、二男の飛行機では心配しなくなった。……などなど。

 親というのは、子どものことで心配させられるたびに、そしてその心配を克服するたびに、大
きく成長(?)するものらしい。「あきらめる」ということかもしれない。つまりそういう形で、人生
の一部、一部を、子どもに手渡しながら、子離れしていく。

 さて今、私は老後のことを考えると、不安でならない。あと一〇年は戦えるとしても、その先の
設計図がまったくわからない。へたをすると、それ以後は収入さえなくなるかもしれない。しか
し、だ。そういう不安があるから、今こうして、仕事をする。懸命に仕事をする。

安楽に暮らせる年金が手に入るとわかったら、恐らくこうまでは仕事をしないだろう。不安であ
ることが悪いことばかりではないようだ。

++++++++++++++++++

●老人のボケ

 家族の人たちには、それがわかる。しかし一歩、離れた他人には、それがわからない。

 私の近所で、こんなことがあった。

 あるときAさん(52歳女性)のところへ、近所に住むB氏(80歳男性)から、手紙が届いた。
読むと。「お前は、うちの盆栽を盗んだ。証拠が見たかったら、来い」と。

 実際には、支離滅裂な文面だった。Aさんが見せてくれた手紙の内容は、おおむね、こんな
ようなものだった。

「盗人、盆栽、告発状
 貴殿の汚れた手、
 天はすべてお見通し。
 
 今週までに返せ。
 証拠、見せてやる。警察、
 通報済みのはず。

 貴殿の悪行、地をはう、虫。
 盆栽、返せてくだされ」

 驚いて、AさんがB氏のところへ。ところが、どこかB氏は、にこやか(??)。玄関のチャイム
を鳴らすと、明るい声で、「今、開けます」と。

 しかしAさんは、怒った。「ドロボーとは、何ですか。私がいつ、あなたの盆栽を盗みましたか。
証拠があるのですか!」と。

 が、B氏は、「証拠はない」と。あっさりと、それを認めた。が、それでもAさんの怒りは、おさま
らなかった。B氏と30分ほど、大声でやりあったという。近くにB氏の妻もいたというが、その妻
は、昔からほとんど、人前ではしゃべらない人だった。

 Aさんが、「奥さん、何とか言ってください」と促しても、B氏の妻は、ただ「ウンウン」と、うなず
いているだけ……。

 実は、こういうケースは、たいへん多い。ボケるのは、本人の勝手だが、その結果、まわりの
人たちに、いらぬ迷惑をかけてしまう。もっとも、はっきりと、だれの目にもボケているのがわか
るようなボケ方なら、よい。そういうボケなら、まだわかりやすい。が、そうでないときに、困る。

 実際、そういうボケもあるそうだ。結構、言うことなすこと、まともなくせに、どこか、言動かお
かしくなる。理屈も、一応、通っている。道理も、わかっているような様子を見せる。しかしどこ
か、おかしい。

 こういうボケは、始末が悪いらしい。私も、何度か、そういう人たちにからまれたことがある。
一見、まともで、まともでない人たちである。

 本来なら、家族の人が、こういうことを、あらかじめ近所の人に知らさなければならない。しか
しこういうケースにかぎって、家族の人は、それを隠そうとする。だからそれを知らない、まわり
の人たちが、不愉快な思いをさせられる。ばあいによっては、キズつく。

 ところで、こんなボケ診断テストがあるそうだ。ある本で読んだが、そのまま使えないので、私
の方で、少し改変して、類似問題を考えてみた。

【あなたのボケは、だいじょうぶ?】

 一本のつり橋がある。ところどころ、板が抜けている。一度に、2人しか渡れない。しかも20
分後には、上流から土石流が流れてきて、橋は、つぶれる。

 時刻は、夜。真夜中。星はない。あたりはまっくら。手元にあるのは、懐中電灯、一個だけ。
懐中電灯がなければ、橋を渡ることができない。

 A氏はスポーツ選手。橋を渡るのに、1分。B氏は、腰を痛めている。橋を渡るのに、5分。C
氏は、足が不自由。橋を渡るのに、8分。Dさんは、女性。高所恐怖症。橋を渡るのに、4分か
かる。

 さあ、この4人は、どうやって、橋を渡ればよいか。繰りかえすが、懐中電灯は、一個しかな
い。

+++++++++++++++

 さあ、あなたはこの問題を、何分で解けただろうか。一度、読み終わった瞬間、(1)解きかた
の方向性が思い浮かべば、あなたの頭は、まだ健康。しかし(2)数回読んでも、その解き方が
わからないようであれば、あなたの頭は、かなりサビついていることを示す。

 解き方の方向性さえわかれば、あとは、その方向性に沿って、この問題を解けばよい。

【考え方】

 スポーツ選手のA氏に、懐中電灯をもって、そのつど、往復してもらう。A氏が、ポイントであ
る。

まずA氏とB氏が橋を渡る。所要時間は、5分。B氏が渡ったら、A氏が、もどる。もどったら、A
氏は、今度は、C氏と橋を渡る。これを繰りかえして、3回目に、A氏は、Dさんと、いっしょに橋
を渡る。

 計算すると、5+1+8+1+4=18(分)ということになる。この方法で、橋を渡れば、20分
以内に、4人は、無事、橋を渡ることができる。

+++++++++++++++++

 私は、こうして毎日、エッセーを書いているせいなのか、やはり「文章」が気になる。

 私が最初、B氏がAさんに出したという手紙を見たとき、「B氏は、まともな人ではない」と、直
感した。「支離滅裂」という言葉を使ったが、手紙の内容は、まさに支離滅裂!

 ふつう文章というのは、書いたあと、何度も読みかえす。とくに、こうした重要な手紙では、そ
うである。

 そのとき、つまり読みかえしたとき、自分が書いた文章の中におかしなところがあれば、それ
に気づくはず。その「気づく力」が、知力ということになる。言いかえると、その(おかしさ)に気づ
かないというのであれば、脳ミソは、かなりサビついているとみてよい。

 今、少子高齢化の問題が、世間で騒がれている。その高齢化には、こうした問題も、含まれ
ている。つまりボケの問題である。そしてその「ボケ」というと、そのボケた人だけの問題と考え
がちである。しかしそれだけでは、足りない。

今、全国で、全世界で、Aさんが直面しているような問題で、不愉快な思いをしている人は、多
いはず。決して、無視できない。

 そのB氏だが、なぜ、B氏は、B氏のようになってしまったのか?

 Aさんは、こう言う。

 「B氏は、近所づきあい、人づきあいを、まったくというほどしません。隣のCさんに聞くと、一
年のうちでも、訪問者が一人いるかいないかという程度らしいです。一人息子は、今、結婚し
て、大阪に住んでいますが、数年に一度くらいしか帰ってこないとのこと。あとは、奥さんの友
人が、2、3か月に一度くらい、遊びにくる程度とのことです」と。

 人づきあいをしないから、B氏のようになるというわけでもない。ボケたから、人づきあいをし
なくなったとも考えられる。が、しかし(人づきあい)が、ボケと、どこか関連性があるのは、事実
のようである。子どもの引きこもりと同じように、今、老人の引きこもりも、大きな社会問題にな
りつつある。

 そんなわけで、少し性急な結論かもしれないが、ボケを防止するためには、他人と積極的に
かかわっていく。それはとても重要なことのように思う。(新しい発見、ゲット!)

 そこであなたのボケ予兆診断。これは、Aさんから、B氏について聞いた話をヒントにして、ま
とめたもの。

【他人とのかかわり度診断】

( )この数か月、あなたの家へ、友人として、あなたをたずねてきた訪問者は、ゼロ。(セール
スや、御用聞きなどは、除く。)
( )この数か月、だれかの家へ、友人として、訪問したことは、ゼロ。(仕事で訪問するのは、
除く。)
( )近所や、町内の仕事など、ここ数か月から一年以上、したことがない。近所の清掃など、
奉仕活動をしたことがない。
( )属しているスポーツクラブ、地域活動、役職などは、まったくない。いつも家の中で、ひと
り、ぼんやりしていることが多い。
( )趣味は、ひとりでできるものばかり。買い物、やむをえぬ冠婚葬祭などをのぞいて、外出す
ることは、ほとんどない。

 ここに書いた症状に近い人は、かなり注意したほうがよい。

++++++++++++++++

 そこで私のこと。この数年間、休んでいましたが、この5月から、再び「子育て教室」を開講す
ることにしました。

今までは、あくまでも「子育て相談」でしたが、これからは、私の脳ミソのボケ防止のためです。
どこか、利用させてもらうようで、悪いのですが、よろしくお願いします。

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【子育て・月末会】

●みなさんの問題や、お子さんの問題を、いっしょに考えさせて
  いただきます。合わせて、最前線の育児論を!

      日時、4月30日(金曜日)
         5月31日(月曜日)
         6月30日(水曜日)
(以後、毎月、月末、予定。土日、祭日に重なるときは、その前日)

  場所……浜松市伝馬町311 TKビル3階、BW教室
  日時……10:00〜11:30AM
  費用……3回分、3000円、当日払い可能(3回分、まとめてお願いします。)

 申し込みは、前々日までに、電話053−452−8039まで、伝言を
 残してください。

 最小人数、5人。4人以下のときは、キャンセルし、前日までに、みなさんに
 連絡します。(希望者が5人以上になった、4月末から、もちます。)

 なお7月以降は、みなさんの動向を見ながら、決めさせてください。
 勝手なお願いですみません。

 BW教室への地図などは、インターネットでご請求ください。
 またBW教室には、駐車場がありませんので、車でおいでの方は、
 どうか、近くの駐車場(有料)へ、車を駐車してください。

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●友へ

 息子を、あちこち案内してくれて、ありがとう。ウィルペラ・パウンド(南オーストラリア州にある
峡谷)まで、つれていってくれたとか、ありがとう。ぼくが「どんなところだった?」と聞いたら、息
子は、こう言いました。「どんなところだったかってエ……? あまりにも壮大で、日本語では表
現できないヨ〜」と。かなり感動したようです。ありがとう。

 その峡谷が、フリンダーズ連峰がどんなところか知りたくて、それでインターネットで検索して
みました。が、驚きました。

 あのフリンダーズ連峰というのは、昔の君の家の近くから見えた連峰だったのですね。連峰
の先が、切り立った崖になっていました。その特徴のある崖を見たとき、「ああ、あの山だった
んだ」と思いました。

 ぼくは、君の牧場にとめてもらうたびに、近くの丘の上に立ち、その連峰の方も、よく見ていま
した。そのとき、君が、「あれがフリンダーズ連峰だ」と言ったのを、遠い記憶の中で覚えていま
す。

 ……ぼくが、丘の上に立って、四方を見たとき、南西の方角と、南東の方角に、それぞれ
別々の雷雲がありました。その間は、真っ青な空でした。それぞれの雷雲が、数100キロは離
れていて、その下に、チカチカと、稲妻が走るのが見えました。

 ぼくは、その景色を見たとき、オーストラリアの広大さというか、それに感動しました。日本人
は、よく「自然」という言葉を使います。「自然を大切にしよう」とです。しかしオーストラリアの自
然とくらべたら、日本の自然は、箱庭のようなものです。息子にも、それがよくわかったことと思
います。

 それはともかくも、ぼくが、三男の身になって、フリンダーズ連峰へ行ったような気分になりま
した。

 また息子を、君の古い家に連れて行ってくれたとか。息子が「廃墟になっていた」と言いまし
た。それを聞いて、ぼくは、さみしかった。何とも表現しようがないほど、さみしかった。

 ぼくは、君の家で、幸福な家庭というのがどういうものか、それを生まれてはじめて知りまし
た。君も知っているように、ぼくの少年時代は、みじめなものでした。戦後の混乱期というだけ
ではなく、暖かさ、まったく感じられない家庭でした。

 しかし君の家には、心底、愛しあう両親と、5人の子どもがいた。君はおかしく思うかもしれな
いが、今でも、ぼくのは、その5人の声が、すべて聞こえます。もちろん君の両親の声もです。

 いつだったか、キツネ刈りに行くとき、君のお父さんが、スコットランド民謡の『ロッホ・ローモ
ンド』を歌ってくれました。ぼくも、いっしょに、大声で歌いました。

 君の昔の家のことを思うと、ぼくはいつもあの歌を思いだします。

 そしてぼくは心の中で、「ぼくも、いつか、こういう家庭を、自分でつくるんだ」と、心に誓いまし
た。で、それ以後のぼくは、いつも、君の家庭を思い浮かべながら、自分の家庭づくりに心が
けてきたように思います。

 遠い昔ですが、今も、あのころのぼくが、さん然と、心の中で輝いています。

 先ほど、電話をしてみましたが、お留守のようだったので、留守番電話に伝言を入れておき
ました。で、改めて、こうして手紙を書くことにしました。

 無事、君が、ボーダータウン(南オーストラリア州の町)に帰っていることを、願います。ぼくら
は、もうあまり若くはないから、無理をしないほうが、よいですね。では、奥さんや、息子さん、お
嬢さんに、よろしくお伝えください。

 また近く、手紙を書きます。本当に、このたびは、ありがとう。心から感謝しています。

 ヒロシ


●被害妄想

 被害妄想のウラにあるもの。それはその人自身の、弱点と考えてよい。その弱点が反映され
て、その人の被害妄想につながる。私はこれを勝手に、『バック・ミラー現象』と呼んでいる。

 たとえば昔から、『泥棒の家は、戸締まりが厳重』という。なぜ厳重かと言えば、自分が泥棒
をしているから。そのため他人もみな、泥棒に見える。だから自分の家の戸締まりを厳重にす
る。つまり人は、自分の弱点をカバーする形で、妄想をもちやすい。もう少しわかりやすい例で
考えてみよう。

 たとえば年がら年中、浮気ばかりしている男がいる。そういう男にかぎって、妻の浮気を心配
する。交友関係を疑う。あるいは、自分の娘の帰宅時刻が少し遅れただけで、大騒ぎする。娘
を叱る。

 こんな例もある。

 近所に、X氏という人が住んでいる。そのX氏は、新築後まもない家の窓ガラスを、すべて不
透明な型ガラスにかえた。「隣人が、自分の家をのぞくから」というのが、その理由だった。

 しかし実際には、隣人の家々をのぞいていたのは、そのX氏自身だった。つまり自分が、い
つも、他人の家をのぞいていたから、自分ものぞかれていると思った。だから、型ガラスにかえ
た。

 こうした被害妄想の背景にあるのは、結局は、自分自身の「弱点」である。その弱点を、ちょ
うどバック・ミラーに映すようにして、人は、被害妄想をもちやすい。だから私は、『バック・ミラー
現象』と呼んでいる。

 そこで教訓。

 何かのことで被害妄想を感じたら、それは、あなた自身の弱点でないかと疑ってみるとよい。
これはあなた自身の弱点を知るためにも、有効な方法である。と、同時に、それに気がつけ
ば、その被害妄想から抜け出ることができる。

 以上、私が、今朝、発見したことである。ハハハ!

 
●大学教授が、手カガミで……

 今朝(4・12)、とんでもないニュースが、飛びこんできた。何でも、W大学の現役教授が、手
カガミで、女子高校生のスカートの中をのぞいていたというのだ。現行犯逮捕だという。弁解の
余地はない。

 しかしこの事件は、別の意味で、考えさせられる。その教授は、NHKテレビなどでも、経済評
論家として、よく顔を出す。民放では、レギュラー番組を、数本もっている。国立K大学の教授
も、経験している。分別も、理性も、知性も、すべて兼ね備えた人物である。もちろん地位も、
名声も。

 そういう人物が、ハレンチ行為!

 それはその人物の精神的な欠陥によるものか。それとも、それほどまでに、本能というの
は、やっかいなものなのか。

 正直に告白する。

 私も、もう少し若いころは、女性のスカートの中を、のぞいて見たいと思ったことがある。それ
は「男」にとっては、ごく自然な性欲だと思う。女性のスカートの下というのは、男にとっては、特
別な意味がある。

 しかし「想像する」ことと、「実行する」ことは、まったく、別問題である。それはたとえて言うな
ら、銀行強盗に似ている。簡単にお金が手に入るなら、銀行強盗でもしてみたい。しかし、実際
に、それを行動に移すとなると、二つも三つも、つぎのステップを踏まねばならない。

 同じように、女性のスカートに中を、のぞいてみたいと思っても、それを実行に移すには、や
はり二つも、三つもステップを踏まねばならない。

 しかし、だ。さらにその教授には、前科があった。一度、同じような行為をして、逮捕されてい
た。罰金刑を受けていた。この人物は、二つ、三つのステップどころか、四つも、五つも、先へ
と、ステップを踏んだことになる。

 問題は、ここである。

 仮に私が罰金刑を受けるようなことをしていたら、私は、恥ずかしくて、とても、テレビには、
顔を出せないだろうと思う。どこかで、だれかが、私を笑っていると思うと、とても、できない。

 罰金刑を受けたとき、担当の警察官なり、裁判官なり、そういう人たちと、顔を合わせている
はずである。そういう人たちを頭の中で想像するだけでも、ゾーッとする。

 が、その人物は、堂々とテレビに出て、経済評論家として、意見を述べていた。つまり、ここ
に、その人物の、精神的欠陥性がある。本来なら、「私は、それにふさわしい人間ではありま
せん。とてもテレビには、出られません」「教授として、ふさわしい人間ではありません。学生
に、ものを教える人間ではありません」と、人前に出ることを、辞退すべきであった。

 ともかくも、この事件には、いろいろ考えさせられる。どういうわけか、考えさせられる。

 が、問題は、ここで終わるわけではない。

 多分、こうしたことをしながらも、その教授は、しばらく身をひそめたあと、再び、マスコミに登
場するにちがいない。その人物自身が、そうするというよりは、マスコミがかつぎ出す。その人
物がその程度の人物なら、日本のマスコミは、さらにそれ以下と考えてよい。スカートの下どこ
ろか、女性を裸にしてしまうことさえ、朝飯前である。

 モラルも何も、あったものではない。ないことは、すでに、無数の場面で証明済みである。

 5、6年前、イスラム教の戒律のきびしいトルコで、全裸になって、踊ったお笑いタレントがい
た。この事件は、国際的にも、たいへんなヒンシュクを買ったが、そのタレントは、1、2年をお
いて、またテレビに出るようになった。今でも、活躍している。むしろそのときの事件を、逆手に
とって、利用している。日本のマスコミの世界というのは、そういう世界である。

 それはさておき、東京という、関東の、一地方都市の文化が、日本中を支配している。このお
かしさに、日本人も、もうそろそろ気づいてよい時期にきているのではないだろうか。

【追記】

 もう一つ、この事件で、こんなことに、気づいた。

 その教授は、逮捕された。そのこと自体は、その教授にとっては、きわめて不幸なことであ
る。

 しかし私が驚いたのは、その教授を、かばったり、擁護したりする意見が、まったく出てこな
かったこと。W大学のある学生は、こう言った。「なさけないですね。経済は見とおすことはでき
ても、女の子のパンツの中は見とおせなかったのですかね」(報道)と。

 一人くらい、「あの先生の意見は、すばらしい。経済理論は、まちがっていない。今まで、世話
になりました」と言う学生がいるかと思ったが、だれもいなかった。

 その教授は、ここにも書いたように、地位と名誉を、自分のほしいがままにした。しかしだか
らとって、まわりの人々は、その教授に、心まで許してはいなかった。

 このことは、あのテレビドラマの『おしん』についても言える。日本中が、『おしん』を見ながら
泣いた。しかしヤオハン・ジャパンが、倒産したとき、それで涙を流した人は、まったくいなかっ
た。ヤオハン・ジャパンのW社長の母親の「Kさん」が、その「おしん」のモデルであった。

 その教授は、経済評論家として、さまざまなテレビ番組に出て、そのつど、自分の意見を述
べてきた。しかしそうした行為のむなしさというか、意味のなさを、私は、今回の試験をとおし
て、まざまざと見せつけれた。


●私の中の二重人格性

 たとえば、通りを歩いていたとする。そのとき、だれかがカサを振りまわし、そのカサが、私の
体にバンと当たったとする。

 これはあくまでも例である。

 そのとき、私の中で、二人の「私」が、それぞれ顔を出す。そして、こう言いあう。

A「何て、不注意なヤツだ。許さない。怒鳴り散らしてやれ!」
B「相手も、悪意があってしたのではない。黙って見すごしてやろう」と。

 こういうケースのとき、どちらの「私」が優性になるかは、そのとき次第である。気分次第と言
ってもよい。Aの私が優性になって、怒鳴り散らすときもある。Bの私が優性になって、そのまま
笑って過ごすこともある。

 いいかげんといえば、そういうことになる。しかし、問題は、そのあとである。

 たとえばAの私のように、怒鳴り散らしたとする。しかしその直後から、私は、はげしい自己嫌
悪感に襲われる。そういうことをする、私を、もう一方の私が責める。「どうして、お前は、もっ
と、ものごとを穏やかに解決できないのか!」と。

 しかし反対にBの私のように、その場をがまんして、やりすごしたとする。そのときも、もう一
人の私が、顔を出し、私を責める。「なんて、お前は、情けないヤツだ。臆病者。意気地なし。こ
れから先も、ことなかれ主義で、お前は生きていくのか!」と。

 こうした現象は、私だけのものか。それとも、みなに、共通して起こることなのか。ワイフに言
わせると、そうした現象は、どうやら私だけのものらしい。ワイフは、こう言う。

 「そんなの争ってもしかたないでしょ。Bのあなたが、正しいに、決まっているでしょ」と。

 私のワイフは、本当に気が長い。性格も、穏やか。結婚して以来、30年以上になるが、大声
で人と争っているのを、見たことがない。

 そこで私は、こういう現象。つまり私の中の、「Aの私」と、「Bの私」が争う現象を、私の中の
二重人格性がなせるわざではないかと、気づいた。たしかに私の中には、二人の「私」がいる。

 攻撃的で、挑戦的な私。それに穏やかで、心のやさしい私。どちらか一人なら、私は、そのつ
ど、こうまで迷ったり、悩んだりしない。しかしいつも、中途半端(ちゅうとはんぱ)。そのため結
局は、そのあと悶々と悩んでしまう。

 では、なぜ、私がこうした二重人格性をもってしまったかということ。はげしい気性の私。それ
におだやかで、心やさしい私。

 そこでずらりと、生徒たちを見渡してみる。生徒たちの中には、私に似た子どもがいるのか。
それともいないのか。

 あえて言うなら、かんしゃく発作のある子ども(あるいは乳幼児期にそうであった子ども)に、
私に似た子どもがいる。ふだんは静かで、穏やか。しかし何かのことでキレると、突然人が変
わったかのように、大声を出して叫んだり、暴れたりする。

 私も、幼児のころ、記憶は確かではないが、そのかんしゃく発作があったかもしれない。泣い
たあと、その興奮から抜け出られず、よくしゃっくりをしたのを覚えている。泣いたあと、しゃっく
りが出るほどまで興奮する子どもは、それほど多くない。

 (注……私の3人の息子たちは、ワイフに似て、たいへん性格が穏やか。幼児のころから、
大声で泣き叫んだり、暴れたりしたのを、見たことがない。兄弟どうしで、暴力を振るったのも、
見たことがない。そのため、あとでしゃっくりが出るほど、興奮したこともない。

 そういう息子たちを今、思い浮かべてみると、やはり私だけが、特殊だったということが、わ
かる。)

 私の二重人格性は、どうやら、そういうところから、生まれたのかもしれない。(もちろん、ほ
かにも、いろいろ原因は考えられるが……。)

 カーッとなって、興奮する。そして見境なく、怒鳴ったり、叫んだりする。そういう繰りかえしの
中で、Aの私ができた。しかしこのAの私は、本来の私ではない。もともとの私は、私の息子た
ちのように、性格がおだやか。遺伝という視点で考えると、そうなる。)

 で、さらに問題はつづく。

 こういう二重人格性があると、ときとばあいによっては、心がバラバラになってしまうというこ
と。どちらか一方なら、そういうふうにバラバラになることもないのだろう。自分の中の二人が、
葛藤することによって、わけがわからなくなってしまう。

 それがここに書いた、二人の「私」である。

 私は、今でも、そういう自分と戦っている。もちろん、やさしくて、心穏やかな私が、本物の私
であり、本来の私である。そういう自分をベースにして、もう一人の私と戦っている。

 考えてみれば、おかしなことではないか。50歳もすぎたというのに、いまだにそんなことで、
戦っているとは! しかし言いかえると、こうした「私」は、実は、乳幼児期にできたことがわか
る。中学生や、小学生のときではない。もっと前である。すでに幼児のときには、私はそうなっ
ていた……。

 だからいきおい、結論ということになるが、つまり子育てエッセーとしてまとめると、こうなる。

 「子どもの興奮性は、とにかく抑えろ。子ども、なかんずく、乳幼児は、不必要に興奮させては
ならない」と。

 こうした二重人格性をもつと、苦労するのは、結局は、その子ども自身ということになる。どこ
かまとまりのないエッセーになってしまったが、この先は、また別のところで考えてみたい。
(はやし浩司 かんしゃく発作 興奮性 二重人格性)
(040414)

【追記】かんしゃく発作は、家庭教育の失敗が原因で起こる。子どもの心を無視した一方的な
押しつけ、過干渉、威圧的な育児姿勢など。

 よくデパートや大型店で、幼い子どもが、ギャーギャーと泣きわめきながら、母親のあとを追
いかけたり、床に寝転んだまま暴れたりするのを見かける。あれがかんしゃく発作である。

 子どもがかんしゃく発作を起こしたら、子どもを叱るのではなく、家庭教育のあり方を、反省す
る。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(146)

【近況・アラカルト】

●自営業
 
 ふつう(「ふつう」という言葉は、慎重に使わなければならないが……)、自営業というのは、家
族経営である。家族、なかんずく夫婦は、たがいに助けあって、仕事を支えあう。しかしその自
営業でありながら、まったく夫の仕事を手伝わない妻というのもいる。

 Yさん(65歳、女性)は、夫と、従業員5人の町工場を経営してきたが、手伝う仕事と言えば、
家計簿をつける程度。会社の帳簿はもちろん、結婚してから30年になるが、ただの一度も、
自分の手を油で汚したことがないという。

 Kさん(52歳、女性)もそうだ。夫は、K市の北で、司法書士の仕事をしているが、電話番すら
したことがないという。ときどき夫が、酒の勢いを借りて、「仕事を手伝ってほしい」と言うのだ
が、「はい」と返事をするのはそのときだけ。事務所の掃除すら、夫に言われないとしないとい
う。

 そうでない女性には、信じられないような話かもしれないが、実際には、そういう妻も、いる。

 こうした女性に共通するのは、どこかゆがんだ職業観。「仕事をするのは、男。女は家事だけ
していればいい」と、おかしな割り切り方をする? よくわからないが、どこか、やはりふつうで
はない。

 しかし夫婦というのは、そういうものか。何10年もいっしょに住んでいると、それぞれが独得
のパターンをつくる。一つとして同じ形はないし、それゆえに「ふつうの夫婦」というのもない。と
くに自営業の夫婦は、そうだ。

 ところで先日、NHKテレビを見ていたら、チンドン屋の夫を、半世紀以上にわたって支えてき
た妻が紹介されていた。妻自身は、俳句が趣味で、同人誌を出している。しかし夫が仕事に出
ると、自分では、そのうしろで、チラシを配って歩くという。私はその番組を見ながら、「いい夫
婦だなあ」と思った。そういう夫婦も、いる。

 ……やはり、ここで言えることは、「ふつう」というのを、無理にあてはめてはいけないというこ
とか。人は、みな、それぞれ? そういう前提で、夫婦を考え、家族を考え、自営業であれば、
自営業を考える。くだらないことのようだが、ふと、今、そんなことを考えた。


●フリップ・フロップ理論
 
 ぐうたらな夫。自分勝手な子どもたち。そういうとき妻は、「もう、どうにでもなれ!」と思う。思
うが、しかし投げ出すわけにはいかない。離婚できれば、それがよい。話は簡単。子どもを連
れて、家を出ればよい。しかしそれもできない。世間体もある。見栄もある。実家の両親にも心
配をかけたくない。何よりも大きな問題は、経済。お金。だから、がまんする。だから、苦しい…
…。

 今、こうした状態で、板ばさみになっている妻(夫)は、多い。

 しかし人間の心というのは、不安定な状態には、長くは耐えられない。そこでどちらか一方に
ころんで、安定しようとする。(あきらめて現状を受け入れるか)、さもなくば(離婚して清算する
か)、そのどちらかに、ころぼうとする。

こういうのを、心理学では、『フリップ・フロップ理論』という。もともとは、有神論者が、無神論者
に。無神論者が、有神論者に変化するときの、はげしい葛藤を意味する。(フラフラした状態)
を、「フリップ・フロップ」という。私は、勝手に「コロリ理論」を訳している。

 たとえばことさら大声をあげて、神の存在を説く人ほど、コロリと、無神論者になったりする。
心理的に不安定な人ほど、よく騒ぐということ。反対に、本物の有神論者や、無神論者は、静
かに、落ちついている。

が、コロリといっても、そこには、過程(プロセス)がある。その過程が、これまた苦しい。

 総じてみれば、人間の悩みや苦しみは、その中途半端な状態から生まれる。子どもの受験
期を例にあげて、もう少しわかりやすい例で考えてみよう。

 受験期を迎えると、たいていの親は、狂乱状態になる。子どもが長男、長女のときは、とくに
そうだ。二人目、三人目となると、多少の余裕もできる。しかしそれでも、「多少の余裕」にすぎ
ない。

 このとき、ほとんどの親は、「少しでもランクの上の学校を」と思う。C中学に入学できそうだ
と、「何とかB中学に」。そのB中学に入学できそうだと、「何とかA中学に」と。

 もちろんその反対のケースも、ある。B中学があぶなくなってくると、「何とか、B中学に」。C中
学もあぶなくなってくると、「せめて、C中学に」と。

 こうしてたいていの親は、はげしい葛藤(かっとう)を経験する。しかしこうした中途半端な状
態は、親の心理を、緊張させる。その緊張状態にあるところへ、不安や心配が入りこむと、親
の心理は、一気に、不安定になる。

 が、この状態は、長くはつづかない。つづけばつづくほど、精神の消耗がはげしくなる。それ
こそ、身も心も、もたない。そこで親は、どちらか一方に、ころぼうとする。いや、実際には、こ
ろばされる。

 やがて受験競争も終盤になってくると、子どもの方向性が見えてくる。「何とか……」「まだ、
何とかなる……」という思いが、「いろいろやっては、みたけれど、あなたは、やっぱり、この程
度だったのね」という思いに変る。

 そしてあきらめる。受け入れる。そして我が身を振りかえりながら、「考えてみれば、何のこと
はない。私だって、ふつうの親だ」と思い知らされる。

 こうして親は、コロリと人がかわったように、現状に納得するようになる。だから『フリップ・フロ
ップ理論』という。この理論は、私がオーストラリアにいるころ、大学の講義で知った理論であ
る。(そのため、日本では、まだ紹介されていないと思う。インターネットで検索してみたが、こ
の言葉のあるサイトは、見つからなかった。)

 なお、もう少し詳しくこの理論を説明しておくと、こうなる。

 ここにも書いたように、本物の有神論者や、無神論者は、静かに落ちついている。多少のこ
とでは、ビクともしない。動揺もしない。

 しかし中には、ワーワーと騒ぐ、有神論者や無神論者がいる。たとえばだれかが、神の存在
を否定したりすると、「君は、何てこと言う!」と、猛烈にそれに反発したりする。

 一見、強固な有神論者に見えるかもしれないが、それだけ心の中は、不安定。このタイプの
人にかぎって、何かのきっかけで、コロリと、無神論者になったりする。

 で、この理論を応用すると、こうなる。

 子どもの受験競争で、ワーワー騒ぐ親ほど、何かのきっかけで、今度は、受験競争否定論者
になるということ。子どもの受験期が終わったりすると、「受験なんて、無意味です」「私は、子ど
もに、勉強しろなんて言ったことはありません」などと、ことさら口に出して言うようになる。

 それが悪いというのではない。これも、親の一つの心理ということ。


●日米関係

 数日前の世論調査(Y新聞・04・04月)を見ると、日本国憲法改正に賛成している人が、5
0%近くもいることがわかった。

 賛成であるにせよ、反対であるにせよ、どちらにせよ、つまり、常識的に考えても、今の憲法
は、いろいろな意味で、現実にそぐわなくなってきている。そういう意味では、今の憲法あまりに
も、理想的すぎる? もう少し、広い視野で、憲法を考えてみよう。

 日本は、敗戦の日まで、世界に向けて、さんざん戦争をしかけていた。当時のナチス・ドイツ
に並んで、もっとも好戦的な国だった。

 しかしアメリカ軍に、こっぴどく叩かれて、敗戦。とたんに、日本は、平和国家(?)に変身し
た。まさに180度の大変身である。が、そのとたん、平和国家? 「もう、戦争はしません」と、
世界に向けて宣言した。

 日本は、それでよいとしても、日本を取り囲む、まわりの国は、それをよしとしなかった。とくに
スターリン・ソ連、毛沢東・中国、李承晩・韓国、金日成・朝鮮などなど。こういった国々は、当
然のことながら、日本への報復を考えた。今も、考えている。

 が、戦後の日本の平和を守ったのは、平和憲法ではない。(そういうふうに主張している人
も、多いが……。)

日本の平和を守ったのは、皮肉なことに、日本に駐留する、アメリカ軍である。このアメリカ軍
がいるため、ほかの国々は、日本に対して手も足も出せなかった。もし、アメリカ軍が駐留して
いなかったら、あのドイツのように、日本は、今ごろは、こなごなに解体されていたことだろう。

 この点について、「今の平和憲法が、戦後の日本の平和を守った」と考える人がいる。しかし
いくら、日本が「もう戦争はしません」と宣言したところで、向こうから戦争をしかけてきたら、ど
うするのか。そのときでも、日本は、「戦争はしません」と、のんきなことを言っていられるだろう
か。

 日本を攻撃しようとする国にとっては、日本の平和憲法は、ただの紙切れでしかない。むしろ
それがあるほういが、つごうがよい。その国は、日本に対して、やりたい放題のことができる。
日本は、反撃することさえできない。

 一方、今のアメリカには、日本は、なくてはならない国である。膨大な貿易赤字で暴落しそう
なドルを、懸命に買い支えているのが、この日本だからである。もし日本が、アメリカのドルを
買い支えなかったら、今のアメリカは、そのまま奈落の底に落ちていく。

 日本は、貿易でせっこらせっこらと稼いで、そのお金で、アメリカのドルを買い支えている。言
うなれば、日本は、アメリカにとっては、大切な金庫番ということになる。そのため日本のこと
を、「アメリカの第51番目の州である」とヤユする人もいる。不愉快な言い方だが、しかし、現
実を見るかぎり、それほど、まちがっていない。

 で、今、日本は、K国問題をかかえ、戦後最大の危機に直面している。そのK国は、「日本向
け」と称して、核兵器を増産している。パキスタンのカーン博士は、「3個の核爆弾を見た」と、
証言している。

が、日本の味方は、アメリカをのぞいて、だれもいない。仮に日朝戦争ということになれば、韓
国はもちろんのこと、中国も、ロシアも、K国に加担するだろう。日本が、今、置かれている立
場は、それほどまでにきびしい。

 で、こういう状態のとき、どこのどの国が、K国の無謀な野心にブレーキをかけてくれるのか。
かけることができるのか。……ということになると、やはりアメリカしかいない。悲しいかな、今
の日本は、アメリカに頭をさげるしかないのである。

 政治は、どこまでも「現実」の問題である。とくに国際政治は、そうである。日本だけが、「私た
ちは戦争をしません」と叫んだところで、意味はない。

この極東においてさえ、徴兵制がない国は、日本だけ。「いい子にしていれば、外国が攻めてく
ることはないはず」と考えるのは、あまりにも甘い。甘いことは、実は、私たち日本人が、一番、
よく知っている。

かつての日本は、そういう甘い考え方をしている国々を、つぎつぎと占領していった。(だからと
いって、徴兵制に賛成しているのではない。どうか誤解のないように!)

 しかしもう戦後、60年近くになる。日本もいつまでも、自分たちの過去に恥じて、小さくなって
いる必要は、ない。言うべきことを言い、すべきことをする。多少の火の粉をかぶるかもしれな
いが、それはしかたのないことである。

 平和主義には、二つある。「殺されても文句を言いません」という平和主義。「いざとなった
ら、平和を守るために、戦うことも辞さない」という平和主義。私自身は、「いざとなったら、平和
を守るために、戦うことも辞さない」という平和主義を支持する。

 平和というのは、前向きに戦ってこそ、守ることができる。「戦争はいやです」と、逃げ回るの
は、平和主義でも何でもない。ただの臆病(おくびょう)という。卑怯(ひきょう)という。

 憲法改正。右翼思想的に考えれば、天皇中心の国家づくりということになる。それにそって、
憲法第9条を改正する。憲法改正に賛成する人たちの意見は、おおむね、そのような方向に
そっていると考えてよい。

 ……ということで、この話は、ここまで。どうも私は、「天皇制」についての話は苦手。子どもの
ころから、「天皇!」と呼び捨てにしただけで、父親に、なぐられた。伯父にも、なぐられた。そう
いう経験がある。だから今でも、この問題を論ずるときは、心のどこかでツンとした緊張感を覚
える。

 
●英会話教師
 
 2か月ほど前、東京の英会話教室の講師(アメリカ人)が、生徒の学生(女子大生)と、性的
な関係をもって、その英会話教室を解雇されるという事件があった。

 そこでその英会話講師は、「解雇は不当だ」と、英会話教室の経営者を訴えた。「仕事が終
わってからは、何をしようと、それは、私の勝手だ」と。

 これから私の意見を書く前に、あなたなら、この事件をどう考えるか、少しだけ考えてみてほ
しい。

 英会話教室の経営者の処分が正しいか。それとも、解雇された講師の言い分が、正しいか。

 あえて私は、ここでは私の判断を書かないようにする。しかし、これから書くことは、いわば同
業者の世界では、常識である。その常識を書く。

 まず第一。日本へ来る、英会話講師というのは、一応、向こうで、その種のテストを受けるこ
とになっている。いわば資格試験だが、資格試験と言えるほど、むずかしいものではない。大
卒程度の学歴があれば、だれでも合格できる。「外国における、英語講師認定講師」というよう
な資格である。教員免許とは、まったくちがう。そういう資格試験だから、当然のことながら、そ
の中には、「?」のつくガイジン講師も多い。

 で、こうしたガイジン講師の世界では、「日本の女性とは、やり放題」が常識になっている。1
5年ほど前、「イエロータクシー」という言葉が使われたが、まさにイエロー(黄色い)タクシー。
「日本の女の子は、簡単に、のせてくれる」と。

 女の子だけではない。家庭の主婦だって、似たようなもの。日本で英語を教えるようになって
5年目の、ある知人の、K氏(アメリカ人、52歳)はこう言った。私が、「ガールフレンドとは、う
まくいっているのか?」と聞いたときのこと。「ヒロシ、どのガールフレンドだい?」と。

 彼は、自宅のマンションで、3〜6人ずつのグループをつくって、家庭の主婦たちに英会話を
教えている。

 そのK氏が、「ぼくのことではない。ぼくも人から聞いた話だ」と断った上で、くどきの奥義(お
うぎ)を教えてくれた。

 「あいさつのとき、アメリカ流に、体を合わせて、相手の女性のほおに、軽く自分のほおをくっ
つけてみる。あるいはやはりアメリカ流に、ソファに腰かけたとき、それとなく腰をくっつけて座
ってみる。

 そのとき、何ら抵抗する様子を見せなかった女性は、1か月でモノにできる」と。
 
 こういう現実を、世の夫諸君たちは、どれほど、知っているだろうか。もっとも、そういう性的
関係を楽しむために、英会話を学ぶ女性も多い。だから、私のような人間が、とやかく言っても
はじまらない。男も、女も、しょせん、スケベ心は同じ。それぞれがそれぞれの方法で、人生を
楽しめばよい。

 それに幸いなことに(?)、日本には、道徳規範もなければ、宗教的制約もない。「エンコー
(援助交際)」という売春にしても、今では、珍しくもなんともない。今では、その先へと進んでい
る。そういう日本である。

 いわゆる不良ガイジン講師をクビにした、経営者。それはヨークわかる。しかし「何で、そんな
ことで!」と、開きなおるガイジン講師。それもヨークわかる。その間には、どこかおかしい、ど
こか狂っている、日本の現代の世相がからんでいる。

 さてあなたは、どちらの言い分が、正しいと思うか。


●バカは相手にしない

 バカなことをする人を、バカという。それはわかる。しかしそのバカな人が、あなたに対して、
バカなことをしたら、どうするか。

 方法は、簡単。無視すればよい。バカを相手にすると、自分も、そのバカにまきこまれてしま
う。そして気がついたときには、自分も、そのバカな人になってしまう。

 だから、無視。ただひたすら、無視。

 以前、自治会長に、こんな話を聞いたことがある。信じられないような話だが、事実である。

 町内の一角に、農地を宅地開発した小さな団地がある。その団地には、寄り添うようにして、
30軒ほどの家が並んでいる。その中の一軒の人が、夜な夜な、隣近所の家々に、石を投げる
というのである。

 理由はよくわからないが、車の駐車のし方が悪いとか、夜中に雨戸の開け閉めをしたとか、
木の枯れ葉が落ちてきたとか、そういうささいなことが理由で、そうするらしい。

 で、最初に、道路をはさんでその家の反対側にある家の人が、家を出ていってしまった。警
察にも相談したが、「証拠がない」「現行犯でないと……」ということで、話にならなかったとい
う。

 つぎに、その隣人も、家を出ていってしまった。カベにペンキを塗られたり、あるいは、生ゴミ
の袋を、窓にぶつけられたりしたからだ。

 実際、こういう少し頭の「?」な人が、近所にいると、本当に困る。これは別の人の話だが、こ
んな話を聞いたことがある。

その人は、道路の車が、異常に気になるらしい。近所の人が、ふいの用事で、車を道路にとめ
たりすると、それをいちいち写真にとって、警察に「告発」している、と。

 それにはちゃんと、「告発状」と書いてある。「法律違反だから、処罰せよ」と。

 工事のために、トラックがとまるのも、ダメ。その人は、すぐパトカーを呼ぶという。その話をし
てくれた人は、こう言った。「まともな人なら、喧嘩もしますが、どこか『?』な人だから、相手にし
たくありません」と。

 こういう「?」な人というのは、ある一定の確率で、現れる。しかし決して、少ない数ではない。
100人に一人とか、200人に一人とか……。程度の差もあるが、その程度の軽い人まで含め
ると、もっと多いかもしれない。

 しかしこういうバカな人は、相手にしない。石を投げられた人も、最初のころは、本気で、その
人を相手にしてしまった。そしてそういうトラブルがこじれにこじれて、結局は、家を出るハメ
に、なってしまった。

残念ながら、道理のわかる人が、道理のわからない人を相手にするときは、たいへん。道理の
わからない人よりも、はるかにエネルギーを消耗する。それにこの日本には、そういう被害者
を救済する手段も、方法もない。裁判で争うという方法もあるというが、実際には、それもわず
らわしい。

 そこで無視する。というのも、こういうバカな人は、必ず、自ら墓穴を掘る。ひとり芝居をしてい
るうちに、馬脚を現し、自分でころぶ。理由が、ある。

 人間の脳ミソというのは、それほど、器用にはできていない。一方で、バカなことをしながら、
他方で、善人ぶったり、常識人ぶることはできない。できなくはないが、やがてそのバカが優勢
になる。そしてまさに一事が万事といった状態になる。そして自滅していく。

 バカな人は、あらゆる場面で、バカなことをするようになる。そしてすぐに、だれからも相手に
されなくなる。先の近所の人の家に向って石を投げていた人も、廃品回収業らしき仕事をして
いたが、やがて仕事に行きづまってしまったという。

 そしてお決まりの自己破産。担当した不動産屋の社長は、こう言った。「一度、自宅を売ろう
としたのですが、権利関係がメチャメチャで、売るに売れませんでした」と。

 これらの話は、あなたには直接、関係のないことかもしれない。しかしこれだけは言える。

 こうしたバカな人が、生きづらい世界を用意するのも、私たちの役目だということ。あるいは
バカな人が、自分でそのバカに気づくように仕向けていく。そのためにも、あなたの周辺から、
常識豊かな世界をつくりあげていく。そういう力が集まったとき、この日本は、もっと住みやすい
国になる。


●人質、3人、無事、救出!

 4月15日。イラクの武装グループに捕らわれていた、日本人3人が、無事解放された。その
日の夜9時ごろのことだった。

 「よかった」と思うと同時に、何かしら、割り切れないものを感じた。当初、人質となった家族
は、テレビ画面に向って、こう叫んでいた。

「私たちを見捨てないでください」
「助けてください」と。それはわかる。しかし一人の男性は、こう言った。

 「政府は、全力で救出すると言った。だったら即時、自衛隊をイラクから撤退させろ。それもし
ないで、何が全力だ!」と。彼の家族は、バリバリの共産党一家だという(週刊S誌)。

 しかしこれは、いくらなんでも、少し、言い過ぎではないのか。人質の安否を心配するとはい
え、3人は、度重なる渡航自粛勧告を無視して、イラクに入った人たちである。今朝のY新聞に
よれば、「アラビヤ語はおろか、英語も、満足に話せないような人たち」(ある知人の弁)だった
という。

 そのせいか、マスコミの反応は、きわめて冷ややか。「よかった」と書きながら、どこかで「バ
カヤロー」と言っているような論調である。ある国会議員は、こう言った。「遊泳禁止の旗の立っ
ているところで、泳いで溺れたようなもの」(Y新聞)と。私の心情も、それに近い。

 率直に言えば、「甘い」の一言。こんな話もある。

 オーストラリアの友人が、こんなことを書いてきた。

 「ときどき、日本の若者が、自転車で、オーストラリアを横断するとか、一周するとか言ってや
ってくる。ヒロシ、君の力で、そういう無謀なことをやめるように、日本の若者たちに言ってくれ
ないか」と。

 その友人は、向こうで、ロータリークラブの理事などをしている。そしてそういう救出要請の連
絡が入るたびに、みなで救出に駆りだされるという。迷惑するという※。

 「それに、紫外線情報が出されている最中に、炎天下で自転車に乗っている。クレージー(狂
っている)」とも。オーストラリアでは、紫外線による皮膚がんの患者が、毎年10%前後の勢い
でふえている。

 冒険したい気持ちも、わかる。野心もあるだろう。しかしどこか、ピントがズレている。人質と
なった一人の若者は、劣化ウラン弾の取材のために、イラクに渡ったという。もう一人の女性
は、まずしい子どもたちの教育のために、イラクに渡ったという。

戦争が始まる前から、そういう活動をしていたという実績があるなら、まだ話はわかる。が、ど
こか、戦争にこじつけたような活動? 一見、理由があるようで、ない。私には、「?」な行為と
しか、思えない(失礼!)。

 今朝(16日)、あちこちのテレビを見たが、家族の人たちは、さかんに「ありがとうございまし
た」「よかったです」とは言っていた。しかしまだ私は、「みなさんに、ご迷惑と心配をかけて、す
みませんでした」という声を聞いていない(4・15日夜現在)。

 考えてみれば、これもおかしなことだと思うのだが……。

【追記】3人は、チャーター機(チャーター機!)で、ドバイへ向ったあと、政府専用機で、A外務
副大臣といっしょに帰国するという。しかしその費用は、だれが負担するのか。また日本政府
は、そこまでしなければならないのか。ただただ疑問。

 また3人のうち、女性のTさんと、写真家のK氏は、記者団の質問に答えて、「これからも活動
をつづけます」と明言したという。Tさんは、こうも言った。「どうしてもイラクが嫌いになれませ
ん」と。

これに対して、小泉首相は怒った。「みんな、寝食を忘れて救出活動をした。自覚してほしい」
と。私も同じ意見。その言葉を聞いて、私も、「もう、いいかげんにしろ!」と、思わずつぶやい
たが、それが、おおかたの日本人の気持ちではないのか。

(※)自転車で走っている間に、途中で動けなくなったり、自転車が故障したりするケース。病気
になって倒れるケースもあるという。さらにじゅうぶんな準備もしないでやってくるというケースも
あるという。紫外線などにより、外出自粛令が出ているようなときでも、日本の若者たちだけ
は、平気で自転車に乗っているという。友人は、それを「クレージー」という。

 
●年金、この不公平!

 官民の年金の不公平さについては、いまさら、言うまでもない。しかし、金額だけの問題では
ない。こんな事実も指摘されている(「文藝春秋」04・5月号・伊藤惇夫氏)。

 公務員には、「転籍特権」という、特権がある。

 たとえば公務員のばあい、それを受給していた夫が死亡したようなとき、その遺族が、ひきつ
づき、その年金の4分の3程度を、「遺族年金」として受給することができる。

 わかりやすく言えば、夫が死んだあとも、妻は、遺族年金を受け取ることができるということ。
が、それだけではない。さらに妻が死んでも、子どもが18歳未満のときは、今度はその子ど
も、もしくは、父母が、その遺族年金を受け取ることができる。

 そんなわけで、「官民格差は、死んでからも、生きている」(伊藤惇夫氏)と。

 もちろん、一般企業のサラリーマンや、自営業者には、こんな転籍特権はない。本人が死ん
だら、それでおしまい! ゼロ! 遺族は、1円も、もらえない。

 だれでもおかしいと思う。おかしいと思うが、何もできない。日本には、そういうしくみが、でき
あがってしまっている。官僚主義国家という「しくみ」である。

 こうしたしくみの中で、もっとも、「?」なのは、あの「審議会」という「会」。

 ほとんどの審議会は、担当の役人が、開く。方法は簡単。まず、イエスマンや、その道のド素
人だけを集める。人選に関する基準など、どこにもない。その指針もない。座長には、たいてい
著名人を起用する。

 審議会はたいてい数回程度で終わる。重要案件でさえも、10回を超えることは、まずない。

 シナリオは、最初から、役人によって用意されている。たいていは、「資料」という形で、委員
に配布される。あとは、それに添って、審議していくだけ。一応、議論という形をとるということも
あるが、ほとんどのばあい、一人の委員の発言は、一回、5〜10分程度。ふつうは議論にな
る前に、審議打ち切り。

 (議論になりそうな案件については、委員の数を多くする。こうして各自の発言時間を少なくす
る。)

 こうした審議会に多く参加してきたことのある、M東大元教授ですら、こう言っている。「テレビ
タレントやスポーツ選手ばかりを集めて、何が、審議会だ」と。もともと議論らしい議論ができる
連中ではない。

 で、こうした審議会から出される「答申」は、抽象的であればあるほど、よい。わけのわからな
いものであれば、あるほど、役人にとっては、よい。自分たちのつごうのよいよいに、どのよう
にでも解釈できる。

 で、あとは、役人たちは、その答申に従って、やりたい放題。まさにやりたい放題。

 ……これが、日本の官僚主義の基本になっている。そしてその結果が、今の日本である。年
金の官民不公平などは、氷山の一角の、そのまた一角にすぎない。

私「まさに、日本は、官僚主義国家。最終的には、『天皇』という最高権威をもちだすことで、民
を従わせる。この図式は、奈良時代の昔から、まったく変わっていない」
ワイフ「じゃあ、この日本を変えるには、どうしたらいいの?」
私「無理だろうね。与党の党首も、野党の党首も、皆、元中央官僚。主だった県の県知事も、
副知事も、皆、元中央官僚。大都市の市長も、皆、元中央官僚。そんな日本を変えるとなる
と、それこそフランス革命のような革命でも起こさないかぎり、無理」

ワイフ「役人の権限を小さくするとか、そういうことはできないの?」
私「それこそ、絶対に無理。国家公務員や地方公務員だけでも、今の今でさえ、ふえつづけて
いる。その数、450万人。日本には、このほか、準公務員と呼ばれる人たちが、その数倍は、
いる」
ワイフ「給料はどうなっているの?」

私「いまだかって、地方自治体ですら、その手当て額を公表したことがない。しかし予算から逆
算すると、公務員は、一人あたり、800〜1000万円の年収(伊藤惇夫氏)ということになるそ
うだ」
ワイフ「すごい、高額ね」
私「そうだよ。大企業でさえ、平均して、650万円程度だからね」

 ひょっとしたら、この文章を読んでいるあなたも、公務員かもしれない。あなたの家族の中
に、1、2人に公務員がいるかもしれない。私は、何も、そういう一人一人の公務員が悪いと言
っているのではない。

 ただ、こんなバカな政治をつづけていたら、遅かれ早かれ、日本は、本当にダメになってしま
うということ。今の「あなた」は、それでとりあえずは、よいとしても、あなたの子どもは、どうす
る? あなたの孫はどうする? そういう視点で、日本の未来を考えてみてほしい。

ワイフ「公務員の人たちって、死んでからも、年金がもらえるなんて、知らなかった……」
私「そうだね。ぼくも、驚いた。そういうような、つまり、自分たちにとって、どこかつごうの悪い情
報は、絶対に公表しないからね……」
ワイフ「でも、ずるいわ。議会は何をしているのかしら? 日本は民主主義国家なんでしょ」
私「一応ね。しかし議会の議員は、もっと手厚く保護されている。いろいろな恩恵にもあやかっ
ている。だから、官僚主義社会を批判できない。批判したとたん、その世界から、はじき飛ばさ
れてしまう」と。

 私の親しい知人のS市(50歳)は、ある都市で、ある役職のある仕事をしている。そのS氏
が、こう言った。

 「林さん、市議会の議員たちね、自分で作文できる人は、まずいないよ。議会での質問書も、
それに対する答弁書も、みんな、ぼくたちが書いてやっているんだよ。ぼくたちに嫌われたら、
議場に立つことすらできないよ」と。

 日本のみなさんは、こういう現実を、いったい、どこまで知っているのだろうか。
(040417)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(147)

●武士道

トム・クルーズの『ラスト・サムライ』がヒットしたこともある。NHKの『新撰組』もそうだ。そのせ
いか、今、日本は、武士道一色といってもよい。お茶の水女子大教授の、FM氏などは、「日本
が誇るべき民族精神である」(「文言春秋」04・05)などと、賞賛している。

 しかし武士道とは、いったい何なのか。たとえば今、話題の、『新撰組』。

 あの新撰組が、京都の町に現れたとき、京都の町は、恐怖のどん底に叩き落された。新撰
組は、我がもの顔に刀を振り回し、自分たちの意に沿わない者を容赦なく殺していった。

そういう連中が、いかに恐ろしい存在であったは、数年前に佐賀県で起きた『バス・ハイジャッ
ク事件』を思い出してみればわかる。あのときは、刃渡り40センチ足らずの包丁をもった少年
に、日本中が震えた。

 そこで武士道。

 江戸時代には、士農工商という、明確な身分制度がしかれていた。この身分制度でいう、
「士」が、武士ということになる。つまりは、刀をもった、為政者。日本人全体としてみれば、数
パーセントに満たない人たちであった。

 大半の日本人は、その武士の圧制、暴力の影におびえながら、細々と生活をしていた。つま
り江戸時代という時代は、世界の歴史の中でも、類をみないほど、暗黒かつ恐怖政治の時代
であった。私たちがいう武士とは、そういう時代の「武士」であったことを、忘れてはならない。

 こんな話を、15年ほど前、山村に住む90歳(当時)くらいの女性に聞いた。

 明治時代の終わりごろ。江戸時代が終わって、20〜30年近くもたっていたというが、そのと
きですら、まだ、旧武士たちは士族と呼ばれ、刀をさして歩いていたという。

 その人が歩いてくると、遠くからカチャカチャと、鞘(さや)が、当たる音がしたという。すると、
皆は、道の脇により、頭を地面にこすりつけるようにして、ひざまづいたという。

 「私が子どものころはそうだったよ」と、その女性は笑っていたが、武士道には、そういう側面
がある。

 私たち日本人は、こういう話を聞くと、自分の視点を、武士の目の中に置いて、考えがちであ
る。「頭をさげた平民」ではなく、「頭をさげさせた武士」の目を通して、日本を見る。

 これは日本人独特の、オメデタさと考えてよい(失礼!)。今でも、つまり2004年の今でも、
「私の先祖は、旧M藩の家老でした」「私の先祖は、官軍の指揮官でした」などと、自慢する人
は多い。残りのほとんどの先祖は、町民や農民であったことについては、目をつぶる。

 「私の先祖は、武家だった」と主張するのは、その人の勝手。またそれを誇りに思うのも、そ
の人の勝手。しかしそれがどうしたというのか? あるいは、そんなことは、そもそも、誇るべき
ことなのか。

 江戸時代が終わって、140年近くもたったいるのに、いまだに、そういうことを言うというの
は、つまりは、それくらい、あの江戸時代という時代が、恐怖政治の時代であったということを
意味する。民衆は、骨のズイまで、魂を抜かれた。一つの例をあげよう。

+++++++++++++++++

●新居の関所

 浜名湖の南西にある新居町には、新居関所がある。関所の中でも唯一現存する関所という
ことだが、それほど大きさを感じさせない関所である。

江戸時代という時代のスケールがそのまま反映されていると考えてよいが、驚くのは、その「き
びしさ」。

関所破りがいかに重罪であったかは、かかげられた史料を読めばわかる。つかまれば死罪だ
が、その関所破りを助けたもの、さらには、その家族も同程度の罪が科せられた。

新居の関所破りをして、伊豆でつかまった男は、死体を塩漬けにして新居までもどされ、そこで
さらにはりつけに処せられたという記録も残っている。移動の自由がいかにきびしく制限されて
いたかが、この事実ひとつをとっても、よくわかる。が、さらに驚いたことがある。

 あちこちに史料と並んで、その史料館のだれかによるコメントが書き添えてある。その中の
随所で、「江戸時代は自由であった」「意外と自由であった」「庶民は自由を楽しんでいた」とい
うような記述があったことである。

当然といえば当然だが、こうした関所に対する批判的な記事はいっさいなかった。私と女房
は、読んでいて、あまりのチグハグさに思わず笑いだしてしまった。「江戸時代が自由な時代だ
ったア?」と。

 もともと自由など知らない人たちだから、こうしたきゅうくつな時代にいても、それをきゅうくつ
とは思わなかっただろうということは、私にもわかる。あの北朝鮮の人たちだって、「私たちは
自由だ」(報道)と言っている。あの人たちはあの人たちで、「自分たちの国は民主主義国家
だ」と主張している。(北朝鮮の正式国名は、朝鮮人民民主主義国家。)

現在の私たちが、「江戸時代は庶民文化が花を開いた自由な時代であった」(パネルのコメン
ト)と言うことは、「北朝鮮が自由な国だ」というのと同じくらい、おかしなことである。

私たちが知りたいのは、江戸時代がいかに暗黒かつ恐怖政治の時代であったかということ。
新居の関所はその象徴ということになる。たまたま館員の人に説明を受けたが、「番頭は、岡
崎藩の家老級の人だった」とか、「新居町だけが舟渡しを許された」とか、どこか誇らしげであ
ったのが気になる。

関所がそれくらい身分の高い人(?)によって守られ、新居町が特権にあずかっていたというこ
とだが、批判の対象にこそなれ、何ら自慢すべきことではない。

 たいへん否定的なことを書いたが、皆さんも一度はあの関所を訪れてみるとよい。(そういう
意味では、たいへん存在価値のある遺跡である。それはまちがいない。)そしてその関所をと
おして、江戸時代がどういう時代であったかを、ほんの少しでもよいから肌で感じてみるとよ
い。

何度もいうが、歴史は歴史だからそれなりの評価はしなければならない。しかし決して美化して
はいけない。美化すればするほど、時代は過去へと逆行する。そういえば関所の中には、これ
また美しい人形が八体ほど並べられていたが、まるで歌舞伎役者のように美しかった。

私がここでいう、それこそまさに美化の象徴と考えてよい。

++++++++++++++++++++

もう一つ、こんなエッセーを書いたことがある。
(中日新聞、投稿済み)

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「偉い」を廃語にしよう
●子どもには「尊敬される人になれ」と教えよう
日本語で「偉い人」と言うようなとき、英語では、「尊敬される人(respected man)」と言う。よく似
たような言葉だが、この二つの言葉の間には。越えがたいほど大きな谷間がある。

日本で「偉い人」と言うときは。地位や肩書きのある人をいう。そうでない人は、あまり偉い人と
は言わない。一方英語では、地位や肩書きというのは、ほとんど問題にしない。

 そこである日私は中学生たちに聞いてみた。「信長や秀吉は偉い人か」と。すると皆が、こう
言った。「信長は偉い人だが、秀吉はイメージが悪い」と。で、さらに「どうして?」と聞くと、「信
長は天下を統一したから」と。

中学校で使う教科書にもこうある。「信長は古い体制や社会を打ちこわし、……関所を廃止し
て、楽市、楽座を出して、自由な商業ができるようにしました」(帝国書院版)と。これだけ読む
と、信長があたかも自由社会の創始者であったかのような錯覚すら覚える。しかし……?   
 

実際のところ、それから始まる江戸時代は、世界の歴史の中でも類を見ないほどの暗黒かつ
恐怖政治の時代であった。一部の権力者に富と権力が集中する一方、一般庶民は極貧の生
活を強いられた。もちろん反対勢力は容赦なく弾圧された。

由比正雪らが起こしたとされる「慶安の変」でも、事件の所在があいまいなまま、その刑は関係
者はもちろんのこと、親類縁者すべてに及んだ。坂本ひさ江氏は、「(そのため)安部川近くの
小川は血で染まり、ききょう川と呼ばれた」(中日新聞コラム)と書いている。

家康にしても、その後三〇〇年をかけて徹底的に美化される一方、彼に都合の悪い事実は、
これまた徹底的に消された。私たちがもっている「家康像」は、あくまでもその結果でしかない。

 ……と書くと、「封建時代は昔の話だ」と言う人がいる。しかし本当にそうか? そこであなた
自身に問いかけてみてほしい。あなたはどういう人を偉い人と思っているか、と。もしあなたが
地位や肩書きのある人を偉い人と思っているなら、あなたは封建時代の亡霊を、いまだに心
のどこかで引きずっていることになる。

そこで提言。

「偉い」という語を、廃語にしよう。この言葉が残っている限り、偉い人をめざす出世主義がは
びこり、それを支える庶民の隷属意識は消えない。民間でならまだしも、政治にそれが利用さ
れると、とんでもないことになる。

少し前、幼稚園児を前にして、「私、日本で一番偉い人」と言った首相すらいた。そういう意識
がある間は、日本の民主主義は完成しない。

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●武士道とは

 武士道を信奉する人たちのバイブルとなっているのが、新瀬戸稲造が書いた、『武士道』(明
治32年)である。新瀬戸稲造といえば、5000円札の肖像画にもなっているから、知らない人
はいない。明治時代の終わりごろ活躍した人物で、ほかにも『随想録』(明治40年)に書いたり
している。

 もともとは、幕末の南部藩(岩手県)の武士の子弟として生まれ、札幌農学校を卒業したあ
と、アメリカにも留学している。

 その武士道でもっとも重んじるのが、「名誉」ということになる。新瀬戸稲造も、『武士道』の中
で、こう書いている。

 「武士は、命よりも高価であると考えられることが起きれば、極度の平静と迅速をもって、命
をすてる」と。

 要するに、名誉のためには、死をも覚悟せよ、と。

 新瀬戸稲造が、いつの時代の武士を念頭に置いたのかはしらないが、幕末の武士たちは、
堕落し放題。権威と権力の座に安住し、その中身と言えば、完全にサラリーマン化していた。
サラリーマン化が悪いと言っているのではない。「名誉のために、死をも覚悟した」というのは、
あまりにも大げさ。

 もっともこの心は、やがて日本の軍国主義の精神的根幹にもなっていった。「死して虜囚(り
ょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」とういう、あれである。しかしその言葉の裏で、いかに多
くの日本人が、犠牲になったことか。あるいはいかに多くの外国人が、犠牲になったことか。

 もっとも愛国主義が最初にあり、それから生まれた名誉のために死ぬというのであれば、ま
だ納得できる。正義、あるいは、自由や平等のために死ぬというのであれば、まだ納得でき
る。しかし武士道でいう『名誉』とは、まさに主君もしくは、「家」に対する、忠誠心をいった。

 ほかにも、武士道には、「義」「勇」「仁」という三つの柱があり、さらに「礼節」「誠実」「名誉」
「忠義」「孝行」「克己」の、人が守るべき、徳目として、並べられている。「名誉」それに、それか
ら生まれる「恥」の概念も、こうした徳目から、生まれた。

 もちろんある側面においては、武士道は魅力的であり、それなりに納得できる部分もある。し
かし武士道が、封建時代というあの時代の「負の遺産」を支えたもの事実。「影の部分」と言っ
てもよい。もっとわかりやすく言えば、武士道がもつ「負の側面」に目を閉じたまま、武士道を、
一方的に礼さんするのは、たいへん危険なことでもある。

 たとえばここでいう「義」「仁」にしても、つきつめれば、「仁義の世界」。つまり、現代風に言え
ば、ヤクザの世界ということになる。

 また、名誉についても、『武士は食わねど、高楊枝(ようじ)』(武士というのは、食べるものが
なくて空腹でも、満腹のフリをして、名誉を守った)という、諺(ことわざ)も、ある。

 果たしてそういうメンツや見栄にこだわることも、武士道なのだろうか。武士道を礼さんする
人は、武士道を知らなければ、「人の正義」はないようなことを言う。しかしこの私などは、武士
道とはまったく無縁。しかしそんな私でも、礼節もあれば、名誉もある。誠実、忠義、孝行、克
己についても、自分なりに考えている。

 たしかに、今の世相は、混乱している。それはわかる。しかしそれは当然のことではないか。

 日本は、江戸時代という封建主義時代。明治、大正、昭和という軍国主義時代。そして戦後
の官僚主義時代。こういった時代を、それぞれ経験しながら、そのつど、過去の清算をしてこ
なかった。反省もしなかった。

 だから、今の若い人たちを中心に、「わけのわからない世界」になってきた。

 それはわかるが、で、こうした世相に対する考え方は、二つある。

 一つは、過去にもどるという考え方。よくても悪くても、そこには、一つの「主義」がある。最近
もてはやされている武士道も、その一つかもしれない。

 もう一つは、新しい主義を、創造していくという考え方。当然のことながら、私は、この後者の
考え方を、支持する。またそのために、こうしてモノを書いている。それについては、これからも
追々書いていくが、ともかくも、今の段階では、そういうことになる。

 最後に、忘れてならないのは、私の先祖も、あなたの先祖も、その武士階級にしいたげられ
た、町民や農民であったこと。もし仮に今でもあの封建時代がつづいていたとしたら、私やあな
たも、今でも、ほぼまちがいなく、町民や農民であるということ。

 そういう私やあなたが、武士のまねごとをして、どうなるというのか? 武士でもない私やあな
たが、武士道を説いて、どうなるのか。そのあたりを、じっくりと考えなおしてみてほしい。

今でこそ、偉人としてたたえるが、新瀬戸稲造にしても、武士という特権階級に生まれ育った人
物である。アメリカから帰ってきたあとも、京都帝国大学教授、第一高等学校校長、東京女子
大の初代学長、国際連盟事務局次長などを歴任している。まさにエリート中のエリート。時の
権力や権威をほしいままに手に入れた人物である。その事実を、忘れてはならない。
(はやし浩司 武士道 新瀬戸 義 勇 仁 仁義の世界 仁義)

【恥・名誉論】

 懸命に生きる。それがすべて。
 恥なんて、考えるな。そんなもの、クソ食らえ!
 あなたは、あなた。どこまでいっても、
 あなたは、あなた。

 懸命に生きる。それがすべて、
 名誉なんて、考えるな。そんなもの、クソ食らえ!
 あなたは、あなた。どこまでいっても、
 あなたは、あなた。

 恥や名誉があるとするなら、
 それは、自分に対してのもの。
 懸命に生きなかったことを恥じろ。
 懸命に生きたことを、名誉に思え。

 これからに私たちは、そういう生き方をしよう。
(040418)

【追記】

 現在の今でも、こうした武士道の片鱗(へんりん)は、ヤクザの世界に見ることができる。そこ
は、まさに仁義の世界。

 ここにも書いたように、武士道の世界にも、それなりのよさもある。それは否定しない。しかし
同時に、あの封建時代がもっていた、負の側面にも、目を向けねばならない。武士がいう、武
士道とやらの陰で、いかに多くの民衆が、しいたげられたことか。恐怖におののいたことか。一
部の特権階級を守るために、犠牲になったことか。

 決して、武士道を、無批判なまま美化してはいけない。それが私の考えである。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(148)

【近況・あれこれ】

●老人百様

 ほとんどの老人たちは、美しく老いる。そういう老人たちを見ながら、「私もああなりたい」「あ
あいうふうに余生を送りたい」と思う。

 しかし中には、そうでない老人もいる。

 巨億の資産をもちながら、一方で、ささいな土地の権利を争っている老人がいる。あるいは
近所に人が、道路に車を駐車しただけで、それを写真にとって、警察へ送っている老人もい
る。ささいな見栄やメンツにこだわって、世間体ばかり気にしている老人もいる。みな、80歳を
過ぎた老人たちである。

 そういう老人たちを見ると、「生きるということはどういうことなのか」と、そこまで考えさせられ
る。「残り少ない人生を、どう考えているのだろうか」とか、「死ぬことで、宇宙もろとも、すべてを
なくす人が、なぜそんなことをするのだろうか」とか、いろいろ考えさせられる。私には、そういっ
た老人たちが、どうにもこうにも、理解できない。

 「残り少ない人生だから、もう妥協したくない」と考えるのだろうか。あるいは老人になればな
るほど、ますますガンコになるのだろうか。

 今夜もワイフと、そんなことを話しあう。

ワイフ「近所の、Hさんね、夫婦で歩いているところを見たことがないわ」
私「そう言えば、そうだな。二人とも、今年、80歳になるんじゃないかな?」
ワ「そういう夫婦もいるのね」

 Hさん夫婦は、この近くに住んで、もう25年になる。退職する前は、ずっと共働きだった。そ
れはわかるが、その25年の間、夫婦で買い物でも何でも、いっしょに歩いているところを、私
たちは見たことがない。

私「そうだな……。そう言えば、見たことないなア……。昔の人は、みな、そうだったみたい…
…」
ワ「でも、そんな夫婦生活、私なら、耐えられないわ」
私「しかし、夫婦には、形はないからね。どんな夫婦でも、夫婦だよ。自分たちのスタンダード
(基準)を、押しつけてはいけないよ」と。

 実際には、そういう夫婦もいる。

 少し話が脱線したが、老後になればなるほど、その生きザマも先鋭化する。極端になる。そう
いうことはある。もっとも、それまでにボケれば、それまで。

 では、どうするか。

 釈迦も『精進(しょうじん)』という言葉を使った。つまり死ぬまで、とにかく前向きに生きるとい
うこと。立ち止まってはいけない。休んでもいけない。いつも考え、そして行動する。そういう生
きザマそのものに中に、生きる意味がある。

 こうした、つまりあまり手本にならない老人たちの特徴といえば、いろいろある。まず、(1)世
間とのかかわりが、少ない。どこか家の中に引きこもり、好き勝手なことをしているといったふ
う。近所の清掃活動すら、しない。

 つぎに(2)5年単位、10年単位でみたとき、進歩や変化がない。どこか、生きザマそのもの
が、停滞している。ものの考え方や行動が、保守的。「私は完成された人間」というような、おご
りすら、感ずる。何かにつけて、過去の栄光や肩書きをひけらかす。

 もう一つは、(3)「何とかなる」式の、生き方をしているということ。全体としてみると、不幸に
向って、まっしぐらに進んでいるのに、1年先はおろか、自分の明日すら、見ようとしていないこ
と。生きザマが、どこか無責任。

 私たちはいつも、前に向って、何かに挑戦していく。開拓していく。戦っていく。新しいことを学
び、そして知る。まさに「精進」ということになるが、心豊かな老後は、そういう生きザマの中から
生まれてくる。

 老人がおちいりやすい罪悪に、10個ある。

(停滞)……今日は、昨日と同じ。明日も、今日と同じ。
(復古)……何でも過去がよかったと言う。
(固執)……がんこになる。他人の意見に耳を傾けなくなる。
(孤立)……他人との関わりをもたない。
(依存)……だれかに依存しようとする。そのために画策する。
(服従)……「老いては、子に従え」式の生きザマを正当化する。
(保守)……過去を繰りかえそうとする。
(怠惰)……ことさら体の不調を理由に、だらしなくなる。
(反復)……同じことを繰りかえす。
(失望)……夢や希望をもたない。未来への展望をもたない。

 老化は、だれにもやってくる。例外はない。しかし忘れてならないのは、人は、50歳を過ぎる
と、自分の「老い」を感ずるようになる。しかしそれから先、老後は、何と、35年近くもあるとい
うこと。(35年だぞ!)

 その老後は、あなたの少年少女期と、青年時代を加えたりよりも、長いということ。その長い
期間を、どう過ごすか。どう生きるか。これはだれにとっても、きわめて重要な問題である。
(はやし浩司 老人 老人問題)

【追記】

 昔、若いころ、私は東京のG社という出版社で、雑誌の編集を手伝っていた。そのとき世話に
なったのが、S氏という編集長だった。

 S氏は、G社を退職したあと、G社の子会社の出版社の社長を勤めた。が、その直後、「洗面
器いっぱいの血を吐いて」(S氏)倒れた。

 がんである。

 手術で、何とか一命をとりとめたが、それからのS氏の生きザマがすごかった。そのときすで
に55歳を超えていたが、運転免許を取り、車を買った。で、これはあとから奥さんに聞いた話
だが、S氏は、一年間に、何と10万キロ以上も日本中を走り回ったという。

 北海道のハシから、九州のハシまで、約2000キロだから、その50倍ということになる。

 S氏が、何を思い、何を考えて、そうしたのか、私は知らない。しかしその「10万キロ」という
数字に、私はS氏の生きることに対する執念のようなものを感じた。


●風R亭

 私とワイフは、山荘に名前をつけた。「風R亭」という名前である。どこか料亭風の名前であ
る。いや、本当は、「風R庵」もしくは、「風R荘」としようとも考えたが、どういうわけか、「風R亭」
とした。「庵」は、寺の名前みたい。「荘」は、老人ホームみたい。それで「亭」にした。それに
「亭」のほうが、どこかやさしい。

 で、世の中には、おもしろいもので、同じ名前のレストランというか、料亭が、たくさんある。今
朝も、インターネットで検索してみたのだが、何と、250件近くもヒットした。「同じように考える
人もいるんだなあ」と、ヘンに驚いた。

 で、その「風R亭」。実は、その名前のレストランが、この近くにもある。以前から、そのレスト
ランの前を通るたびに、「いつか、ここで食事をしよう」と考えていた。が、とうとうその日がやっ
てきた。

 朝起きると、ワイフが、こう言った。「今日は、浜名湖で船に乗ってみない? 帰りにあの風R
というレストランで、食事してみない?」と。

 私は、すぐ返事した。「いいよ」と。

 実は、私には、秘めた目的があった。私の山荘と同じ名前のレストランだから、マッチや小物
など、そういったもので、同じ名前が印刷されたものがあるはず。パンフレットでもよい。それを
もらって帰る、と。

 が、そのレストランは、行ってみると、どこかパッとしないレストランだった。座敷はあったが、
「土日は、座敷の部屋は使えません」とのこと。しかたないので、手前のテーブル席へ。サービ
スもあまりよくない。

 まわりを見渡しても、もらって帰るようなものもない。横を見ると、「風R」と印刷された、ナプキ
ンがあるだけ。私はそのナプキンを、何枚か取ると、ワイフに渡した。

私「これ、山荘に飾っておこうか」
ワ「……」と。

 ワイフは、どこか不満顔。明らかに私の行為を、批判しているような目つきである。

私「山荘に客が来たら。出してあげればいい」
ワ「どこかで盗んできたのが、まるわかりよ」
私「盗んできたわけではないよ」
ワ「同じようなものよ」
私「それも、そうだな」
ワ「それに、浜松の人だったら、このレストランの名前を、みんな、知っているわ」
私「それも、そうだな」と。

 結局、そのナプキンは、家に帰ってから、ゴミ箱に捨てた。どうも、気分が重かった。それに
そんなナプキンでもてなされても、客人が喜ぶはずがない。私が「やっぱり捨てるよ」と言うと、
ワイフは、うれしそうに笑った。それで捨てた。


●安楽死

 犬のクッキーが、17歳になった。たいへんな高齢である。人間にたとえると、9倍して、153
歳! (犬の年齢は、9倍するという。)

 目も、ほとんど見えない。耳も聞こえない。ウンチは、庭のいたるところで、少量ずつ、する。
歩くのがやっという感じで、一日の大半は、眠ってばかりいる。

 その話をすると、オーストラリアの友人も、アメリカ人の友人も、「ヒロシ、安楽死をさせてや
れ」と言う。

 彼ら牧畜民族は、すぐそういう発想で、ものを考える。私たち日本人とは、かなりちがう。

 昔、オーストラリアの友人の牧場で休暇を過ごしていたときのこと。何の気になしに、散歩をし
ながら家の裏手にある林の中に入っていった。が、そこで私は、ゾーッとしたまま、足が立ちす
くんでしまった。

 見ると、死んだ子羊が、木にぶらさげてあった。皮をはがれ、ところどころ、肉がむき出しにな
っていた。その子羊は、その家族の食用の子羊だった。

 つまり彼らは、そういうことが平気でできる。だから、発想がちがう。家畜を殺すということに
ついて、特別の罪悪感は、ない。もう一人のアメリカ人の友人も、馬を飼っているが、けがなど
で歩けなくなると、殺すという。しかも銃で、ズドンと。

 「日本人は、そんなことできないよ」と言うと、ワイフは、「でも、殺してあげたほうが、結局は、
その犬にとっても、幸福なのかもね」と。恐ろしいことを考える。残念ながら、私には、そういう
発想はない。

 「犬だって、自然に死ぬのがいいよ。あわてて殺さなくても、そのときがきたら、静かに死ぬ
よ。点滴や手術までして、生かしてやろうとは、ぼくも思わないけど……」と。

 考えてみれば、彼ら白人は、ブタの丸焼きを平気で食べる。私も一度、それを見たことがあ
るが、見たとたん、食欲が、どこかへ吹っ飛んでしまった。気味が悪かった。その話をすると、
ワイフは、こう言った。

 「白人って、目のついた魚を食べることができないでしょ。それと同じじゃ、ない?」と。そうか
もしれない。そうでないかもしれない。つまり、意識というのは、それぞれ、みな、ちがうというこ
と。日本人だけの意識で、ものを考えてはいけない。反対に、白人だけの意識だけで、ものを
考えてはいけない。

 その人がもっている意識などというのは、あくまでも、その人だけのもの。そういう前提で考え
る。

 しかし私のばあいは、そのときがきたら、安楽死でもかまわない。私自身は、最後の最後ま
で生きたいと思うが、へたに長生きをすれば、家族のみんなに、迷惑をかけてしまう。そういう
長生きだけは、したくない。

 だから……。とってつけたような結論になるが、今、精一杯、懸命に生きていく。そのとき、後
悔しなくてもよいように……。


●高齢者の虐待

 医療経済研究機構が、厚生省の委託を受けて調査したところ、全国1万6800か所の介護
サービス、病院で、1991事例もの、『高齢者虐待』の実態が、明るみになったという(03年11
月〜04年1月期)。

 わかりやすく言えば、氷山の一角とはいえ、10か所の施設につき、約1例の老人虐待があっ
たということになる。

 この調査によると、虐待された高齢者の平均年齢は、81・6歳。うち76%は、女性。
 虐待する加害者は、息子で、32%。息子の配偶者が、21%。娘、16%とつづく。夫が虐待
するケースもある(12%)。

 息子が虐待する背景には、息子の未婚化、リストラなどによる経済的負担があるという。

 これもわかりやすく言えば、息子が、実の母親を虐待するケースが、突出して多いということ
になる。

 で、その虐待にも、いろいろある。

(1)殴る蹴るなどの、身体的虐待
(2)ののしる、無視するなどの、心理的虐待
(3)食事を与えない、介護や世話をしないなどの、放棄、放任
(4)財産を勝手に使うなどの、経済的虐待など。

 何ともすさまじい親子関係が思い浮かんでくるが、決して、他人ごとではない。こうした虐待
は、これから先、ふえることはあっても、減ることは決してない。最近の若者のうち、「将来親の
めんどうをみる」と考えている人は、5人に1人もいない(総理府、内閣府の調査)。

 しかし考えてみれば、おかしなことではないか。今の若者たちほど、恵まれた環境の中で育っ
ている世代はいない。飽食とぜいたく、まさにそれらをほしいがままにしている。本来なら、親に
感謝して、何らおかしくない世代である。

 が、どこかでその歯車が、狂う。狂って、それがやがて高齢者虐待へと進む。

 私は、その原因の一つとして、子どもの受験競争をあげる。

 話はぐんと生々しくなるが、親は子どもに向かって、「勉強しなさい」「成績はどうだったの」「こ
んなことでは、A高校にはいれないでしょう」と叱る。

 しかしその言葉は、まさに「虐待」以外の何ものでもない。言葉の虐待である。

 親は、子どものためと思ってそう言う。(本当は、自分の不安や心配を解消するためにそう言
うのだが……。)子どもの側で考えてみれば、それがわかる。

 子どもは、学校で苦しんで家へ帰ってくる。しかしその家は、決して安住と、やすらぎの場では
ない。心もいやされない。むしろ、家にいると、不安や心配が、増幅される。これはもう、立派な
虐待と考えてよい。

 しかし親には、その自覚がない。ここにも書いたように、「子どものため」という確信をいだい
ている。それはもう、狂信的とさえ言ってもよい。子どもの心は、その受験期をさかいに、急速
に親から離れていく。しかも決定的と言えるほどまでに、離れていく。

 その結果だが……。

 あなたの身のまわりを、ゆっくりと見回してみてほしい。あなたの周辺には、心の暖かい人も
いれば、そうでない人もいる。概してみれば、子どものころ、受験競争と無縁でいた人ほど、
今、心の暖かい人であることを、あなたは知るはず。

 一方、ガリガリの受験勉強に追われた人ほど、そうでないことを知るはず。

 私も、一時期、約20年に渡って、幼稚園の年中児から大学受験をめざした高校3年生まで、
連続して教えたことがある。そういう子どもたちを通してみたとき、子どもの心がその受験期に
またがって、大きく変化するのを、まさに肌で感じることができた。

 この時期、つまり受験期を迎えると、子どもの心は急速に変化する。ものの考え方が、ドライ
で、合理的になる。はっきり言えば、冷たくなる。まさに「親の恩も、遺産次第」というような考え
方を、平気でするようになる。

 こうした受験競争がすべての原因だとは思わないが、しかし無縁であるとは、もっと言えな
い。つまり高齢者虐待の原因として、じゅうぶん考えてよい原因の一つと考えてよい。

 さて、みなさんは、どうか。それでも、あなたは子どもに向かって、「勉強しなさい」と言うだろう
か。……言うことができるだろうか。あなた自身の老後も念頭に置きながら、もう少し長い目
で、あなたの子育てをみてみてほしい。
(はやし浩司 老人虐待 高齢者虐待)

++++++++++++++++++++++

少し古い原稿ですが、以前、中日新聞に
こんな原稿を載せてもらったことがあり
ます。

++++++++++++++++++++++

●抑圧は悪魔を生む

 イギリスの諺(ことわざ)に、『抑圧は悪魔を生む』というのがある。

心の抑圧状態が続くと、ものの考え方が悪魔的になることを言ったものだが、この諺ほど、子
どもの心にあてはまる諺はない。きびしい勉強の強要など、子どもの能力をこえた過負担が続
くと、子どものものの考え方は、まさに悪魔的になる。こんな子ども(小四男児)がいた。

 その子どもは静かで、穏やかな子どもだった。人の目をたいへん気にする子どもで、いつも
他人の顔色をうかがっているようなところは、あるにはあった。しかしそれを除けば、ごくふつう
の子どもだった。が、ある日私はその子どものノートを見て、びっくりした。

何とそこには、血が飛び散ってもがき苦しむ人間の姿が、いっぱい描かれていた! 「命」と
か、「殺」とかいう文字もあった。しかも描かれた顔はどれも、口が大きく裂け、そこからは血が
タラタラと流れていた。ほかに首のない死体や爆弾など。原因は父親だった。

神経質な人で、毎日、二時間以上の学習を、その子どもに義務づけていた。そしてその日のノ
ルマになっているワークブックがしていないと、夜中でもその子どもをベッドの中から引きずり
出して、それをさせていた。

 神戸で起きた「淳君殺害事件」は、まだ記憶に新しいが、しかしそれを思わせるような残虐事
件は、現場ではいくらでもある。

その直後のことだが、浜松市内のある小学校で、こんな事件があった。一人の子ども(小二男
児)が、飼っていたウサギを、すべり台の上から落として殺してしまったというのだ。

この事件は時期が時期だけに、先生たちの間ではもちろんのこと、親たちの間でも大きな問題
になった。ほかに先生の湯飲み茶碗に、スプレーの殺虫剤を入れた子ども(中学生)もいた。
牛乳ビンに虫を入れ、それを投げつけて遊んでいた子ども(中学生)もいた。ネコやウサギをお
もしろ半分に殺す子どもとなると、いくらでもいる。ほかに、つかまえた虫の頭をもぎとって遊ん
でいた子ども(幼児)や、飼っていたハトに花火をつけて、殺してしまった子ども(小三男児)もい
た。

 親のきびしい過負担や過干渉が日常的に続くと、子どもは自分で考えるという力をなくし、い
わゆる常識はずれの子どもになりやすい。異常な自尊心や嫉妬心をもつこともある。

そういう症状の子どもが皆、過負担や過干渉でそうなったとは言えない。しかし過負担や過干
渉が原因でないとは、もっと言えない。子どもは自分の中にたまった欲求不満を何らかの形で
発散させようとする。いじめや家庭内暴力の原因も、結局は、これによって説明できる。

一般論として、はげしい受験勉強を通り抜けた子どもほど心が冷たくなることは、よく知られて
いる。合理的で打算的になる。

ウソだと思うなら、あなたの周囲を見回してみればよい。あなたの周囲には、心が温かい人も
いれば、そうでない人もいる。しかし学歴とは無縁の世界に生きている人ほど、心が温かいと
いうことを、あなたは知っている。子どもに「勉強しろ」と怒鳴りつけるのはしかたないとしても、
それから生ずる抑圧感が一方で、子どもの心をゆがめる。それを忘れてはならない。
(040419)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【追記】

 受験競争は、たしかに子どもの心を破壊する。それは事実だが、破壊された子ども、あるい
はそのままおとなになった(おとな)が、それに気づくことは、まず、ない。

 この問題は、脳のCPU(中央演算装置)にからむ問題だからである。

 が、本当の問題は、実は、受験競争にあるのではない。本当の問題は、「では、なぜ、親たち
は、子どもの受験競争に狂奔するか」にある。

 なぜか? 理由など、もう改めて言うまでもない。

 日本は、明治以後、日本独特の学歴社会をつくりあげた。学歴のある人は、とことん得をし、
そうでない人は、とことん損をした。こうした不公平を、親たちは、自分たちの日常生活を通し
て、いやというほど、思い知らされている。だから親たちは、こう言う。

 「何だ、かんだと言ってもですねえ……(学歴は、必要です)」と。

 つまり子どもの受験競争に狂奔する親とて、その犠牲者にすぎない。

 しかし、こんな愚劣な社会は、もう私たちの世代で、終わりにしよう。意識を変え、制度を変
え、そして子どもたちを包む社会を変えよう。

 決してむずかしいことではない。おかしいものは、おかしいと思う。おかしいことは、「おかし
い」と言う。そういう日常的な常識で、ものを考え、行動していけばよい。それで日本は、変る。

 少し頭が熱くなったので、この話は、また別の機会に考えてみたい。しかしこれだけは言え
る。

 あなたが老人になって、いよいよというとき、あなたの息子や娘に虐待されてからでは、遅い
ということ。そのとき、気づいたのでは、遅いということ。今ここで、心豊かな親子関係とは、ど
んな関係をいうのか、それを改めて、考えなおしてみよう。
(040420)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

お元気ですか?

子育て・月末会をもちたいと思っています。
以前は、毎週、そののち、毎月開いていましたが、
久しぶりに、というより、5、6年ぶりに再開して
みることにしました。

もし、よろしかったら、おいでください。

以下のように、ご案内申しあげます。

++++++++++++++++++++++

【子育て・月末会】

●みなさんの問題や、お子さんの問題を、いっしょに考えさせて
  いただきます。合わせて、最前線の育児論を!

         5月31日(月曜日)
         6月30日(水曜日)
(以後、毎月、月末、予定。土日、祭日に重なるときは、その前日。)

  場所……浜松市伝馬町311 TKビル3階、BW教室
  日時……10:00〜11:30AM
  費用……2回分、2000円、当日払い可能(2回分、まとめてお願いします。)

 申し込みは、前々日までに、電話053−452−8039まで、伝言を
 残してください。必ず、あなた様の電話番号を、お残しください。

 最小人数、5人。4人以下のときは、キャンセルし、当日までに、みなさんに
 連絡します。(希望者が5人以上になった、4月末から、もちます。)

 なお7月以降は、みなさんの動向を見ながら、決めさせてください。
 勝手なお願いですみません。

 BW教室への地図などは、下のアドレスをクリックしてください。(静岡新聞社
 公式ガイドブックより)

 またBW教室には、駐車場がありませんので、車でおいでの方は、
 どうか、近くの駐車場(有料)へ、車を駐車してください。

(BW教室)

 では、多数の、ご参加をお待ちしています。

 なお定員は、12人に限らせていただきます。ご了承ください。

【内容】できるだけ、みなさんのご質問にお答えするという方法で、
進めていきたいと考えています。

はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(149)

【近況・あれこれ】

●受験競争の弊害

 精神の完成度は、内面化の充実度で決まる。わかりやすく言えば、いかに、他人の立場で、
他人の心情でものを考えられるかということ。つまり他人への、協調性、共鳴性、同調性、調
和性などによって決まる。

 言いかえると、「利己」から、「利他」への度合によって決まるということになる。

 そういう意味では、依存性の強い人、自分勝手な人、自己中心的な人というのは、それだけ
精神の完成度が、低いということになる。さらに言いかえると、このあたりを正確に知ることに
より、その人の精神の完成度を知ることができる。

 子どもも、同じに考えてよい。

 子どもは、成長とともに、肉体的な完成を遂げる。これを「外面化」という。しかしこれは遺伝
子と、発育環境の問題。

 それに対して、ここでいう「内面化」というのは、まさに教育の問題ということになる。が、ここ
でいくつかの問題にぶつかる。

 一つは、内面化を阻害する要因。わかりやすく言えば、精神の完成を、かえってはばんでし
まう要因があること。

 二つ目に、この内面化に重要な働きをするのが親ということになるが、その親に、内面化の
自覚がないこと。

 内面化をはばむ要因に、たとえば受験競争がある。この受験競争は、どこまでも個人的なも
のであるという点で、「利己的」なものと考えてよい。子どもにかぎらず、利己的であればあるほ
ど、当然、「利他」から離れる。そしてその結果として、その子どもの内面化が遅れる。

 ……と決めてかかるのも、危険なことかもしれないが、子どもの受験競争には、そういう側面
がある。ないとは、絶対に、言えない。たまに、自己開発、自己鍛錬のために、受験競争をす
る子どももいるのはいる。しかしそういう子どもは、例外。

(よく受験塾のパンフなどには、受験競争を美化したり、賛歌したりする言葉が書かれている。
『受験によってみがかれる、君の知性』『栄光への道』『努力こそが、勝利者に、君を導く』など。
それはここでいう例外的な子どもに焦点をあて、受験競争のもつ悪弊を、自己正当化している
だけ。

 その証拠に、それだけのきびしさを求める受験塾の経営者や講師が、それだけ人格的に高
邁な人たちかというと、それは疑わしい。疑わしいことは、あなた自身が一番、よく知っている。
こうした受験競争を賛美する美辞麗句に、決して、だまされてはいけない。)

 実際、受験競争を経験すると、子どもの心は、大きく変化する。

(1)利己的になる。(「自分さえよければ」というふうに、考える。)
(2)打算的になる。(点数だけで、ものを見るようになる。)
(3)功利的、合理的になる。(ものの考え方が、ドライになる。)
(4)独善的になる。(学んだことが、すべて正しく、それ以外は、無価値と考える。)
(5)追従的、迎合的になる。(よい点を取るには、どうすればよいかだけを考える。)
(6)見栄え、外面を気にする。(中身ではなく、ブランドを求めるようになる。)
(7)人間性の喪失。(弱者、敗者を、劣者として位置づける。)

 こうして弊害をあげたら、キリがない。

 が、最大の悲劇は、子どもを受験競争にかりたてながら、親に、その自覚がないこと。親自
身が、子どものころ、受験競争をするとことを、絶対的な善であると、徹底的にたたきこまれて
いる。それ以外の考え方をしたこともなしい、そのため、それ以外の考え方をすることができな
い。

 もっと言えば、親自身が、利己的、打算的、功利的、合理的。さらに独善的、追従的。迎合
的。

 そういう意味では、日本人の精神的骨格は、きわめて未熟で、未完成であるとみてよい。い
や、ひょっとしたら、昔の日本人のほうが、まだ、完成度が高かったのかもしれない。今でも、
農村地域へ行くと、牧歌的なぬくもりを、人の心の中に感ずることができる。

 一方、はげしい受験競争を経験したような、都会に住むエリートと呼ばれる人たちは、どこか
心が冷たい。いつも、他人を利用することだけしか、考えていない? またそうでないと、都会
では、生きていかれない? 

これも、こう決めてかかるのは、危険なことかもしれない。しかしこうした印象をもつのは、私だ
けではない。私のワイフも含め、みな、そう言っている。

 子どもを受験競争にかりたてるのは、この日本では、しかたのないこと。避けてはとおれない
こと。それに今の日本から、受験競争を取りのぞいたら、教育のそのものが、崩壊してしまう。
しかし心のどこかで、こうした弊害を知りながら、かりたてるのと、そうでないとのとでは、大きな
違いが出てくる。

 一度、私がいう「弊害」を、あなた自身の問題として、あなたの心に問いかけてみてほしい。


●「私は私」という意識
 
東京の小学校の男性教諭が、中学3年の男子生徒に現金をわたし、わいせつな行為をしたと
して警視庁に逮捕された(TBS・iNEWS)。

児童買春の疑いで逮捕されたのは、東京・杉並区の小学校に勤務するNM容疑者(32)。NM
容疑者は 去年10月、新宿公園で知り合った当時15歳の中学3年の男子生徒を渋谷区のま
んが喫茶に誘い、現金1万円を渡して下半身を触るなどの、わいせつな行為をした疑いがもた
れているという。
 
 NM容疑者は小学5年生のクラスを受け持ち、教育熱心な先生という評判だった。
 
 大学で性教育についての卒業論文を書いたのをきっかけに、男性に興味を持つようになった
という成田容疑者。新宿公園のことはインターネットで 知ったという。
 
  一方、「新宿公園で待っていれば、買ってくれる人が声をかけてくる」。男子生徒はインター
ネットでこうした書き込みを見て、小づかいいほしさに新宿公園に行っていたという。
 
 「一人でご飯とか食べていると、声はかけられますね。『暇なら一緒にどこか行かない?』と
か、『ホテル行かない?』とか」(公園の近所の男性)
 
 NM容疑者と男子生徒のわいせつ行為は、去年の8月以降5回に及び、NM容疑者はわい
せつ行為をデジタルカメラで撮影し、ディスクに保存していたという。
 
 NM容疑者は「男子生徒には申しわけないことをした。教え子に顔向けができない」と供述し
ているが、警視庁は、別の男子高校生らともわいせつ行為をしていたとみて、捜査していると
いう。(以上、TBS・iNEWSより)

 この事件で、私は、同性愛について、語るつもりはない。教師のハレンチ行為について、語る
つもりもない。

 こうしたおとなの行為で、キズつくのは、子ども。それはそれとして、私はこの事件を知ったと
き、「意識のズレというのは、こういうものか」と、思い知らされた。

 その男性教師は、中学生の男子に対して、お金を渡して、ワイセツ行為をしたという。どうい
う方法で、どういうことをしたかについては書いてないが、おおよその見当はつく。しかし、その
男子高校生は、男性教師とは、「同性」である。私が、どうにもこうにも、理解できないところ
は、ここである。

 私は、同じ「男」の中でも、「濃い男」である。この言い方は、私が発明した言い方だが、男に
もいろいろある。同性にまったく興味を示さない男もいれば、同性に興味を示す男もいる。同性
にはまったく興味を示さない男を、「濃い男」という。同性に興味を示す男を、「薄い男」という。
要するに、私は、「男にはまったく興味のない男」。

 そういう私から見ると、男子の下半身など、見たくもない。さわりたくもない。まったく興味がな
い。その男性教師は、デジタルカメラで、撮影したというが、私のばあい、「どうして?」と思うだ
けで、つぎの言葉が出てこない。

 一方、私は女性には、興味がある。あるものはあるのであって、どうしようもない。最近でこそ
元気がなくなってきたが、しかし今でも、ないわけではない。女性の体は、この年齢になっても、
魅力的に見える。すばらしい。

 問題は、ここである。

 その男性教師にしてみれば、男子生徒の下半身は、私にとっての女性の体と同じくらい、魅
力的に見えるらしいということ。私が女性の裸体を見たとき、ムラムラと感ずるような情欲を、
その男性教師は、男子中学生の下半身を見たときに感じたらしい。「らしい」というところまでは
わかるが、そこまで。その先が、理解できない。どうしてか? どうしてこんなちがいが生まれる
のか?

 言いかえると、私がもっている意識にしても、一つ立場がちがえば、180度変化することだっ
て、考えられる。その意識は、絶対的なものでもなければ、普遍的なものでもない。正常か、正
常でないかという判断すら、できなくなる。

 考えてみれば、男のばあい、射精する前と、射精するあととでは、女性、とくに女性の体に対
する思いは、まったくちがう。射精する前は、女性の体を、狂おしいほどに、いとおしく思う。し
かし射精したとたん、「どうしてこんなものに興味をもったのだろう」と思う。

 こうして考えていくと、意識とは何か。ますますわからなくなる。

 そこで先の男性教師の話。その男性教師は、男子中学生のそれを、デジタルカメラで撮影し
たという。実は、私は、ここでもわからない。もしそれほどまでに見たかったら、自分のそれを、
カガミか何かに映して見ればよいのではないのか、と。

 あのフロイトは、私たち人間の行動の原点には、「性的エネルギー」があると説いた。つまり
その性的エネルギーが、さまざまなバリエーションをもって、私たちの生活のあらゆる部分に作
用している、と。男性のスポーツ選手が、スポーツでがんばるのも、女性が化粧をするのも、心
の奥深いところで、その性的エネルギーの命令を受けているからである。

 となると、今、私がもっている意識のほとんどは、「?」となってしまう。男性教師は、教職を棒
に振るという危険までおかして、(実際、棒に振ってしまったが……)、男子中学生のそれをデ
ジタルカメラに収めた。それは、ものすごいエネルギーと言ってもよい。

 で、そういうエネルギーが私にもないかというと、実は、ある。こうして毎日、パソコンを相手に
原稿を書いているのも、心の奥深いところで、何かしらの性的エネルギーの命令を受けている
ためかもしれない。

 事実、男性の読者から、感想文をもらうより、女性の読者から、感想文をもらうほうが、うれし
い。これは隠しようがない、事実である。が、その意識も、ここに書いたように、絶対的なもので
もなければ、普遍的なものでもない。何かのきっかけで、180度、変ることだって、ありえる。

 ……と考えていくと、ますますわからなくなってしまう。意識とは何か、と。あるいは、私は、私
でない、もっと深遠なる意識によって、動かされているだけかもしれない。もっと言えば、「私は
私」と思っているのは、表面的な「私」でしかなくて、「私」でないかもしれない。その男性教師だ
って、そうだ。

 恐らく、「私は、男子中学生のそれが見たい」と思って、デジタルカメラで、写真をとった。その
ときその男性教師は、「私は私」と思って、そうしたにちがいない。しかし本当のところは、その
男性教師の意思というよりは、その男性教師の中の、性的エネルギーに命令されて、行動した
だけかもしれない?

 話が繰りかえしになってきたので、この話は、ここまで。私は、このハレンチ事件をインターネ
ットで知ったとき、意識とは何か。それを改めて考えさせられた。ホント!
(はやし浩司 意識 意思 性的エネルギー)

【追記】
 私たちは、「私は私」と思って行動している。しかしその「私」が、私ではなく、心の奥底に潜
む、別の「私」に命令されているとしたら……。

 たとえば若い女性が、化粧をして、ミニスカートをはいたとする。そのときその若い女性は、
自分の意思で、自分で考えてそうしていると思うかもしれない。

 しかし実際には、その女性は、さらに心の奥底に潜む、「性的エネルギー」の命令に従って、
そうしているだけかもしれない。ただ自分では、それに気づかないだけ。

 こうした例は、多い。つまり私たちが、「自分の意思」と思っていることでも、そうではないこと
も多いということ。そういう意味で、「意識」とは何か、それをつきつめていくと、わけがわからな
くなる。

 
●見苦しい老人たち

 こんな話を聞いた。

 Aさん(50歳)のグループは、ボランティア活動として、炊事が満足にできない老人たちのた
めに、昼の弁当を届けている。

 料金は、一食、500円。それを、老人たちに、毎日、配達している。利益など、まったくない。
配達の労費を考えるなら、赤字。

 そのAさんが、毎日、弁当を届けている人に、Xさん(83歳)と、Xさんの妹(76歳)がいる。X
さんと、Xさんの妹は、いろいろな理由があって、今は、同居している。

 が、Xさんと、Xさんの妹は、毎日のように、「私の弁当の残りを食べた」「いや、食べていな
い」「どこへやった?」「知らない」と、喧嘩ばかりをしているという。

 言い忘れたが、その500円の料金(二人分で1000円)は、Xさんの息子(53歳)が、負担し
ている。

 Aさんは、こう言う。「本当に、見苦しいですね」と。「ただで食べているんだから、文句を言っ
てはいけないと思うのです。でも、そういう感謝の念は、まったくないみたいですね」とも。

 この話をワイフにすると、ワイフも、こう言った。「もう先が長くないのだから、穏やかに生きる
ことはできないのかしら?」と。

 しかしそういう状態になればなるほど、老人によっては、我欲が強く現れるようになる。理由
は私にもわからないが、そうなる。巨億の資産をもちながら、わずかな土地の権利のことで、
裁判で争っている老人がいる。近所の人が、車を道路に一時的にとめるたびに、警察に電話
をかけて、パトカーを呼んでいる老人もいる。

ワイフ「歳をとればとるほど、その人の地が表に出てくるということかしら?」
私「ぼくも、そう思う。自分の中の悪い面を隠そうという意欲や気力が弱くなってくる。だから、
悪い面ばかりが外に出てくるようになる」
ワ「死ねば、すべてをなくすということが、わからないのかしら?」
私「そういう老人は、そうは思っていない。死後の世界を、しっかりと信じている」と。

 この一例だけではないが、老人が、人生の先輩だとか、経験者だとかいうのは、まちがい。
ウソ。幻想。もちろん大半の老人は、すばらしい人たちである。しかし老人になればなるほど、
Xさんや、Xさんの妹のように、むしろ見苦しくなっていく人も、少なくない。

 もっとも、それは本人たちの問題だから、部外者の私たちが、とやかく言う必要はない。本人
がそれでよいのなら、それでよい。

 しかし人生も晩年になって、弁当の残りを取りあって争うなどということが、本当にあるべき老
後なのかどうかということになると、だれも、そうは思わない。だれだって、静かで、穏やかで、
心豊かな晩年を送りたいと思うはず。死が近づけば、なおさらそうだ。

 で、そのちがいは、どこにあるかというと、私は、(前向きに生きる人)と、(そうでない人)のち
がいではないかと思う。「思う」というだけで、確信はないが、そう思う。これは老人にかぎらない
ことだが、人は、うしろ向きに生き始めたとたん、その生きザマは、見苦しくなる。

 わずかな財産にこだわったり、過去の名誉や地位にぶらさがり、それをいばって見せたりす
るなど。

 それに生きザマがうしろ向きになったとたん、その時点から、時間ばかりを浪費するようにな
る。はっきり言えば、いくら長生きしても、ムダ……という状態になる(失礼!)。「明日は、今日
よりも悪くなる」ということを繰りかえしながら、不幸に向かって、まっしぐらに進んでいく。

 で、Aさんは、ある日、見るに見かねて、Xさんにこう言ったという。「また明日、お弁当を届け
てあげますから、どうか喧嘩をしないでください」と。するとそれに答えて、Xさんは、つぎつぎ
と、Xさんの妹の悪口を言い始めたという。

 「でも、私が何も言わなかったら、K(=Xさんの妹)は、私の分まで、食べてしまう」「残ったの
を捨ててしまう」「この前も、冷蔵庫にしまっておいたおかずを、自分で食べてしまった」「妹は、
太りすぎだということがわかっていない」「胃が痛いと言って、夜中に泣かれるのは、困る」と。

 あまりにも低劣な話なので、Aさんは、思わず、耳をふさいでしまったという。そして私には、こ
う言った。「歳をとっても、ああはなりたくないです」と。

 最近、「じょうずに歳をとる」という言葉を、あちこちで耳にする。最初、その言葉を聞いたとき
は、私にはその意味が、よくわからなかった。が、このところ、少しずつだが、私にもわかるよう
になってきた。と、同時に、それがこれからの私にとっては、重要なテーマになるだろうというこ
とを知った。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(150)

【日本人論】

●復古主義

 当然と言えば、当然だが、ある文芸作家(MS氏、雑誌「B」)が、こう言った。「学校での、国
語教育の時間をふやせ」と。「最近の子どもたちは、ロクに満足な作文も書けない」と。

 しかしこの論法は、おかしい。その第一。何でもかんでも、問題があれば、「すぐ学校で」とい
う発想。授業時間をふやせば、それで子どもたちの作文力が向上するというものでもあるま
い。

 こうした考え方は、学校万能主義、学校神話の信奉者が、好んでする発想である。

 つぎに、最近の子どもたちの国語力が低下しているのは、国語(日本語)そのものが、質的
に変化しているからである。テレビや携帯電話。さらにはパソコンの影響も大きい。加えて日本
語そのものがもつ、欠陥もある。この日本では、わずか100年前に書かれた文章ですら、辞
書や翻訳なしでは、読むことができない。

 三つ目に、言葉というのは、民衆が決めるもの。一部の学者や、作家が、決めるものではな
い。もっとわかりやすく言えば、成り行きに任せるしかない。

 で、私は、その文芸作家の人が書いた原稿を改めて、読みなおしてみた。が、「作家」という
には、お粗末な文章。くどくて、しかも読みづらい。「こんな文章でも、作家なの?」というような
文章である。

 ということで、では、どうすればよいのか。

 私は、子どもの国語力は、親の会話能力によって決まると、かねてより、主張してきた。それ
について書いたのが、つぎの原稿である(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++++++

子どもの国語力が決まるとき

●幼児期に、どう指導したらいいの?

 以前……と言っても、もう二五年近くも前のことだが、私は国語力が基本的に劣っていると思
われる子どもたちに集まってもらい、その子どもたちがほかの子どもたちと、どこがどう違うか
を調べたことがある。結果、次の三つの特徴があるのがわかった。

(1)使う言葉がだらしない……ある男の子(小二)は、「ぼくジャン、行くジャン、学校ジャン」と
いうような話し方をしていた。「ジャン」を取ると、「ぼく、行く、学校」となる。たまたま『戦国自衛
隊』という映画を見てきた中学生がいたので、「どんな映画だった?」と聞くと、その子どもはこ
う言った。

「先生、スゴイ、スゴイ! バババ……戦車……バンバン。ヘリコプター、バリバリ」と。何度か
聞きなおしてみたが、映画の内容は、まったくわからなかった。

(2)使う言葉の数が少ない……ある女の子(小四)は、家の中でも「ウン、ダメ、ウウン」だけで
会話が終わるとか。何を聞いても、「まあまあ」と言う、など。母「学校はどうだったの?」、娘「ま
あまあ」、母「テストはどうだったの?」、娘「まあまあ」と。

(3)正しい言葉で話せない……そこでいろいろと正しい言い方で話させようとしてみたが、どの
子どもも外国語でも話すかのように、照れてしまった。それはちょうど日本語を習う外国人のよ
うにたどたどしかった。私「山の上に、白い雲がありますと、言ってごらん」、子「山ア……、上に
イ〜、白い……へへへへ」と。

 原因はすぐわかった。たまたま子どもを迎えにきていた母親がいたので、その母親にそのこ
とを告げると、その母親はこう言った。「ダメネエ、うちの子ったら、ダメネエ。ホントにモウ、ダ
メネエ、ダメネエ」と。原因は母親だった!

●国語能力は幼児期に決まる
 子どもの国語能力は、家庭環境で決まる。なかんずく母親の言葉能力によって決まる。毎
日、「帽子、帽子、ハンカチ、ハンカチ! バス、バス、ほらバス!」というような話し方をしてい
て、どうして子どもに国語能力が身につくというのだろうか。

こういうケースでは、たとえめんどうでも、「帽子をかぶりましたか。ハンカチを持っていますか。
もうすぐバスが来ます」と言ってあげねばならない。……と書くと、決まってこう言う親がいる。
「うちの子はだいじょうぶ。毎晩、本を読んであげているから」と。

 言葉というのは、自分で使ってみて、はじめて身につく。毎日、ドイツ語の放送を聞いている
からといって、ドイツ語が話せるようにはならない。また年中児ともなると、それこそ立て板に水
のように、本をスラスラと読む子どもが現れる。しかしたいていは文字を音にかえているだけ。
内容はまったく理解していない。

なお文字を覚えたての子どもは、黙読では文を理解できない。一度文字を音にかえ、その音を
自分の耳で聞いて、その音で理解する。音読は左脳がつかさどる。一方黙読は文字を「形」と
して認識するため、一度右脳を経由する。音読と黙読とでは、脳の中でも使う部分が違う。そ
んなわけである程度文字を読めるようになったら、黙読の練習をするとよい。具体的には「口
を閉じて読んでごらん」と、口を閉じさせて本を読ませる。

●幼児教育は大学教育より奥が深い

 今回はたいへん実用的なことを書いたが、幼児教育はそれだけ大切だということをわかって
もらいたいために、書いた。相手が幼児だから、幼稚なことを教えるのが幼児教育だと思って
いる人は多い。私が「幼稚園児を教えています」と言ったときのこと。ある男(五四歳)はこう言
った。「そんなの誰にだってできるでしょう」と。

しかし、この国語力も含めて、あらゆる「力」の基本と方向性は、幼児期に決まる。そういう意
味では、幼児教育は大学教育より重要だし、奥が深い。それを少しはわかってほしかった。

+++++++++++++++++++++

 もう一つ、つけ加えるなら、こうも言える。

 その文芸家は、「最近の子どもの国語力の低下は、文部科学省と日教組がグルになって、
『ゆとり教育』をしたのが原因」(同・雑誌)と書いている。

 もしそうなら、自分自身は、明治時代に文体で、あるいは江戸時代や平安時代の文体で、文
章を書けばよい。自分自身も、大きな流れの中で、昭和の文体で、文章を書いている。明治の
文豪たちが、その文芸家の書いた文章を読んだら、きっと、同じことを言うにちがいない。

 「最近の文芸家たちの文章は、なっていない!」と。

 たしかに最近の子どもたちが使う日本語は、メチャメチャ。しかしそう思うのは、「私」であっ
て、「子どもたち」ではない。子どもたちにとっては、子どもたちの使う日本語のほうが、使い勝
手がよいのだ。

 私たちの価値観を、一方的に押しつけても意味はない。なぜなら、私たち旧世代は、やが
て、先に死ぬ。戦っても、勝ち目はない。

 で、これからの日本語は、さらに短文化する。漢字も少なくなる。感覚的な表現が、ふえてく
る。新語、造語も多くなる。たとえば、こうなる。

++++++++++++++++

 困るよな。言葉。押しつけられても。
 ジジ臭い文書。読みたくないよな。
 わかりやすく書けよ。でないと、読まない。
 文芸家の価値観。それは文芸家のもの。
 その気持ち、わかるけど。
 でもさ、日本語、みんなのものだし。
 上の人が決めても、意味ないよな。
 学校での国語の時間、ふやしても、
 変らないよ。
 だいたい、本なんて、読まないもん。

++++++++++++++++

 日本語というのは、もともと今のモンゴルあたりがルーツだという。そのあたりで生まれた言
語が、朝鮮半島を経て、日本に入ってきた。入ってきたというより、日本に渡ってきた朝鮮民族
とともに、日本にもたらされた。そのためモンゴル語、朝鮮語、それに日本語は、たいへんよく
似ている。

 たとえば朝鮮語で、「私は、はやし浩司です」は、「ナヌ(私)エ(は)、はやし浩司イムニダ(で
す)」となる。「は」も「です」も、音こそちがえ、語法は同じである。

 そこへ中国語が入ってきた。漢字である。今、私たちが使っている、ひらがなにせよ、カタカ
ナにせよ、その漢字の簡略版にすぎない。

 だから日本語という日本語は、もともと、ないに等しい。悲しいかな、これが事実であり、それ
ゆえに、日本語という日本語に、それほど、こだわる必要はない。自由に使って、自由に改良
して、自由に話せばよい。「日本語は、こうでなければならない」と考えるほうが、おかしい。

 ただ残念なのは、そうした変化の流れの中で、やがてすぐ、私がこうして今書いている文章で
すら、理解されなくなるだろうということ。100年後の人たちでさえ、私の文章を読むとき、辞書
を使うようになるだろう。つまり、私の文章の「命」は、この先、10年とか、20年程度しかないと
いうこと。

 考えてみれば、これほど、さみしいことはない。(もっとも、100年後まで残さなければならな
いような文章でもないから、私はかまわないが……。)

 つぎの世代の人たちが、私の文章を読み、その上で、ものを考え、また新しい文章を書いて
くれればよい。つまりこうして、何らかの形で、私の思想のかげろうのようなものが、つぎの世
代に伝わっていけばよい。

 私が今、こうして書いている文章だって、私を取り巻く多くの人たちから受けついだ、「かげろ
う」のかたまりのようなものではないか。だからあまり、ぜいたくは言わない。大切なことは、文
章ではなく、中身。中身ではなく、つぎの世代の人たちが、私たちの経験や知識を踏み台にし
て、よりよい人生をい送ること。

 言うまでもなく、文章は、そのための一手段でしかない。

 しかし、まあ、あえて言うなら、子どもの国語力を伸ばしたかったら、そしてその基礎をつくり
たかったら、親、とくに母親が、子どもの前では、正しい日本語で話すこと。「ほらほら、カバ
ン!」ではなく、「あなたはカバンをもっていますか」と。そういう会話力が、子どもの国語力の基
礎となるということ。
(はやし浩司 子どもの国語力 国語 会話能力)

+++++++++++++++++

以前、こんなことを書きました。

+++++++++++++++++

日本の教科書検定

●まっちがってはいない。しかしすべてでもない。
オーストラリアにも、教科書の検定らしきものはある。しかしそれは民間団体によるもので、強
制力はない。しかもその範囲は、暴力描写と性描写の二つの方面だけ。特に「歴史」について
は、検定してはならないことになっている(南豪州)。

 私は1967年、ユネスコの交換学生として、韓国に渡った。プサン港へ着いたときには、ブラ
スバンドで迎えられたが、歓迎されたのは、その日一日だけ。あとはどこへ行っても、日本攻
撃の矢面に立たされた。

私たちを直接指導してくれたのが、金素雲氏であったこともある。韓国を代表する歴史学者で
ある。

私はやがて、「日本の教科書はまちがってはいない。しかしすべてを教えていない」と実感し
た。たとえば金氏は、こんなことを話してくれた。

「奈良は、韓国から見て、奈落の果てにある都市という意味で、奈良となった。昔は奈落と書い
て、『ナラ』と発音した」と。今でも韓国語で「ナラ」と言えば、「国」を意味する。もし氏の言うこと
が正しいとするなら、日本の古都は、韓国人によって創建された都市ということになる。

 もちろんこれは一つの説に過ぎない。偶然の一致ということもある。しかし一歩、日本を出る
と、この種の話はゴロゴロしている。

事実、欧米では、「東洋学」と言えば、中国を意味し、その一部に韓国学があり、そのまた一部
に日本学がある。そして全体として、東洋史として教えられている。(フランスなどでは、日本語
学科は、朝鮮学部の中の一つに組みこまれている。)

 さらに、日本語では、「I」のことを、「ボク」という。「YOU」のことを、「キミ」という。

 これについても、もともとは、「朴氏朝鮮」の「朴(ボク)」、「金氏朝鮮」の「金(キミ)」が、ルー
ツだという説もある。日本へ渡ってきた朝鮮民族が、「私は、ボク氏だ」「あなたは、キミ氏か」と
言っている間に、「ぼく」「きみ」という言葉が生まれたという。

 話は変わるが、小学生たちにこんな調査をしてみた。「日本人は、アジア人か、それとも欧米
人か」と聞いたときのこと。大半の子どもが、「中間」「アジア人に近い、欧米人」と答えた。

中には「欧米人」と答えたのもいた。しかし「アジア人」と答えた子どもは一人もいなかった(約
五〇名について調査)。先日もテレビの討論番組を見ていたら、こんなシーンがあった。アフリ
カの留学生が、「君たちはアジア人だ」と言ったときのこと。一人の小学生が、「ぼくたちはアジ
ア人ではない。日本人だ!」と。

そこでそのアフリカ人が、「君たちの肌は黄色ではないか」とたたきかけると、その小学生はこ
う言った。「ぼくの肌は黄色ではない。肌色だ!」と。

二〇〇一年の春も、日本の教科書について、アジア各国から非難の声があがった。韓国から
は特使まで来た。いろいろいきさつはあるが、日本が日本史にこだわっている限り、日本が島
国意識から抜け出ることはない。

+++++++++++++++++

もう一作、こんな原稿を書いたことも
あります。
少し過激な内容ですが……。

+++++++++++++++++

人間の誇りとは……

●私はユネスコの交換学生だった

 一九六七年の夏。私たちはユネスコの交換学生として、九州の博多からプサンへと渡った。
日韓の間にまだ国交のない時代で、私たちはプサン港へ着くと、ブラスバンドで迎えられた。
が、歓迎されたのはその日、一日だけ。あとはどこへ行っても、日本攻撃の矢面に立たされ
た。

私たちを直接指導してくれたのが、金素雲氏だったこともある。韓国を代表する文化学者であ
る。私たちは氏の指導を受けるうち、日本の教科書はまちがってはいないが、しかしすべてを
教えていないことを実感した。そしてそんなある日、氏はこんなことを話してくれた。

●奈良は韓国人が建てた?

 「日本の奈良は、韓国人がつくった都だよ」と。「奈良」というのは、「韓国から見て奈落の果て
にある国」という意味で、「奈良」になった、と。

昔は「奈落」と書いていたが、「奈良」という文字に変えた、とも。

現在の今でも、韓国語で「ナラ」と言えば、「国」を意味する。もちろんこれは一つの説に過ぎな
い。偶然の一致ということもある。しかし結論から先に言えば、日本史が日本史にこだわってい
る限り、日本史はいつまでたっても、世界の、あるいはアジアの異端児でしかない。

日本も、もう少しワクを広げて、東洋史という観点から日本史を見る必要があるのではないの
か。ちなみにフランスでは、日本学科は、韓国学部の一部に組み込まれている。またオースト
ラリアでもアメリカでも東洋学部というときは、基本的には中国研究をさし、日本はその一部で
しかない。

●藤木Sの捏造事件

 一方こんなこともある。藤木Sという、これまたえらいインチキな考古学者がいた。彼が発掘し
たという石器のほとんどが捏造(ねつぞう)によるものだというから、すごい。しかも、だ。そうい
うインチキをインチキと見抜けず、高校の教科書すら書き換えてしまった人たちがいるというか
ら、これまたすごい。

たまたまその事件が発覚したとき、ユネスコの交換学生の同窓会がソウルであった(一九九九
年終わり)。日本側のOBはともかくも、韓国側のOBは、ほとんどが今、大企業の社長や国会
議員をしている。

その会に主席した友人のM氏は帰ってきてから私の家に寄り、こう話してくれた。「韓国人は
皆、笑っていたよ。中国や韓国より古い歴史が日本にあるわけがないとね」と。当時の韓国の
マスコミは、この捏造事件を大きく取りあげ、「そら見ろ」と言わんばかりに、日本をはげしく攻
撃した。M氏は、「これで日本の信用は地に落ちた」と嘆いていた。

●常識と非常識

 私はしかしこの捏造事件を別の目で見ていた。一見金素雲氏が話してくれた奈良の話と、こ
の捏造事件はまったく異質のように見える。

奈良の話は、日本人にしてみれば、信じたくもない風説に過ぎない。いや、一度、私が金素雲
氏に、「証拠があるか?」と問いただすと、「証拠は仁徳天皇の墓の中にあるでしょう」と笑った
のを思えている。

しかし確たる証拠がない以上、やはり風説に過ぎない。これに対して、石器捏造事件のほう
は、日本人にしてみれば、信じたい話だった。「石器」という証拠が出てきたのだから、これは
たまらない。事実、石器発掘を村おこしに利用して、祭りまで始めた自治体がある。

が、よく考えてみると、これら二つの話は、その底流でつながっているのがわかる。金素雲氏
の話してくれたことは、日本以外の、いわば世界の常識。一方、石器捏造は、日本でしか通用
しない世界の非常識。世界の常識に背を向ける態度も、同じく世界の非常識にしがみつく態度
も、基本的には同じとみてよい。

●お前は日本人のくせに!

 ……こう書くと、「お前は日本人のくせに、日本の歴史を否定するのか」と言う人がいる。事
実、手紙でそう言ってきた人がいる。「あんたはそれでも日本人か!」と。

しかし私は何も日本の歴史を否定しているわけではない。また日本人かどうかと聞かれれば、
私は一〇〇%、日本人だ。日本の政治や体制はいつも批判しているが、この日本という国土、
文化、人々は、ふつうの人以上に愛している。

このことと、事実は事実として認めるということは別である。えてしてゆがんだ民族意識は、ゆ
がんだ歴史観に基づく。そしてゆがんだ民族主義は、国が進むべき方向そのものをゆがめ
る。これは危険な思想といってもよい。

仮に百歩譲って、「日本民族は、誇り高い大和民族である」と主張したところで、少なくとも中国
の人には通用しない。何といっても、中国には黄帝(司馬遷の「史記」)の時代から五五〇〇年
の歴史がある。日本の文字はもちろんのこと、文化のほとんどは、その中国からきたものだ。

その中国の人たちが、「中国人こそ、アジアでは最高の民族である」と主張して、日本人を「下」
に見るようなことがあったら、あなたはそれに納得するだろうか。民族主義というのは、もともと
そういうレベルのものでしかない。

●驚天動地の発見!

 さて日本人も、そろそろ事実を受け入れるべき時期にきているのではないだろうか。これは
私の意見というより、日本が今進みつつある大きな流れといってもよい。

たとえば二〇〇二年のはじめ、日本の天皇ですらはじめて皇室と韓国の関係にふれ、「ゆか
り」という言葉を使った。「天皇家と韓国は、歴史的に関係がある」という意味で、天皇は、そう
言った。これに対して韓国の金大統領(当時)は、「勇気ある発言」(報道)とたたえた(一月)。

さらに同じ月、研究者をして「驚天動地」(毎日新聞大見出し)させるような発見が奈良県明日
香村でなされた。明日香村のキトラ古墳で、獣頭人身像(頭が獣で、体が人間)の絵が見つか
ったというのだ。詳しい話はさておき、毎日新聞はさらに大きな文字で、こう書いている。

「百済王族か、弓削(ゆげ)皇子か」と。京都女子大学の猪熊兼勝教授は、「天文図、四神、十
二支の時と方角という貴人に使われる『ローヤルマーク』をいくつも重ねている」とコメントを寄
せている。

これはどうやらふつうの発掘ではないようだ。それはそれとして、が、ここでもし、「百済王族
か、弓削(ゆげ)皇子か」の部分を、「百済王族イコール、弓削(ゆげ)皇子」と解釈したらどうな
るか。弓削皇子は、天武天皇の皇子である。もっと言えば、天武天皇自身が、百済王族の一
族ということになる。だから毎日新聞は、「研究者ら驚天動地」という大見出しを載せた。

●人間を原点に

 話はぐんと現実的になるが、私は日本人のルーツが、中国や韓国にあったとしても、驚かな
い。まただからといって、それで日本人のルーツが否定されたとも思わない。

先日愛知万博の会議に出たとき、東大の松井孝典教授(宇宙学)は、こう言った。「宇宙から
見たら、地球には人間など見えないのだ。あるのは人間を含めた生物圏だけだ」(二〇〇〇年
一月一六日、東京)と。

これは宇宙というマクロの世界から見た人間観だが、ミクロの世界から見ても同じことが言え
る。今どき東京あたりで、「私は遠州人だ」とか「私は薩摩人だ」とか言っても、笑いものになる
だけだ。いわんや「私は松前藩の末裔だ」とか「旧前田藩の子孫だ」とか言っても、笑いものに
なるだけ。

日本人は皆、同じ。アジア人は皆、同じ。人間は皆、同じ。ちがうと考えるほうがおかしい。私た
ちが生きる誇りをもつとしたら、日本人であるからとか、アジア人であるからということではなく、
人間であることによる。もっと言えば、パスカルが「パンセ」の中で書いたように、「考える」こと
による。松井教授の言葉を借りるなら、「知的生命体」(同会議)であることによる。

●非常識と常識

 いつか日本の歴史も東洋史の中に組み込まれ、日本や日本人のルーツが明るみに出る日
がくるだろう。そのとき、現在という「過去」を振り返り、今、ここで私が書いていることが正しい
と証明されるだろう。そしてそのとき、多くの人はこう言うに違いない。

「なぜ日本の考古学者は、藤木Sの捏造という非常識にしがみついたのか。なぜ日本の歴史
学者は、東洋史という常識に背を向けたのか」と。

繰り返すが一見異質とも思われるこれら二つの事実は、その底流で深く結びついている。(20
02・1・23)

++++++++++++++++++++

 この原稿は、私がちょうど2年前に書いたもの。今、読みかえしてみると、「かなり過激なこと
を書いたな」と思わないわけでもない。

 しかしものごとは、常識で考えるべきではないのか。世界の歴史学者は、みな、こう言ってい
る。「日本が、日本史にこだわっているかぎり、日本は、いつまでたっても、アジアの孤児でしか
ないだろう。日本も、日本史を、東洋史の中の一部としてみるべきではないのか」と。

 日本や、日本人だけが、特別な民族だと思いたいという気持はよくわかる。世界の、どの民
族だって、多かれ、少なかれ、そう思っている。しかしそういう思いにこだわればこだわるほど、
日本や日本人は、世界の孤児になってしまう。

 それでよいのか。それとも、それとも、それではよくないのか。程度の問題もあるかもしれな
い。だから白黒はっきりする必要もないかもしれない。

「まあ、そういう意見もあるのか」程度にとらえてもらってもよい。私自身、それほど、深刻にこ
の問題を考えているわけではない。あとは、読者のみなさんの判断ということになる。
(はやし浩司 日本人 日本語 民族)
(040421)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【アメリカに住む、二男より……】

●人質となった、日本人

日本人3人の誘拐のニュースをずっと見てきたのだが、「どうして?」と思うことが多々ある。特
に、政府の対応の仕方、3人の親族の対応の仕方にはどうしても理解ができない。「自業自
得」という言葉や、考え方自体理解に苦しむのだけれど、どうしてみんな大きなものの見方がで
きないのだろうか? 

残虐な犯罪者からやっと開放された3人に、「世界を百回って謝れ」などというのはどういうこと
なんだろうか? 「世界に感謝させます。」とはどうことなんだろうか? 世界がいったい何をし
たのだろうか?

彼らが解放されたのは「世界」でも小泉のおかげでもなんでもない。イスラム教リーダーが、誘
拐した犯罪者を説得できたから開放されたのではないのだろうか? 

自分の身を危険にさらして自由社会のために貢献しようとしたのは彼ら3人や、自衛隊、世界
各国の民間、軍人、などイラクにいる僕たち民主主義的国家の人間なんじゃないのか?

そんなことは全く無視して、「自業自得」とは何なのか? 今のところテロリストが日本を攻撃し
ていないから、テロリストを怒らせるようなことはするな、という魂胆なんだと思うけれど、これが
暴走族や暴力団がいまだに日本に公然と存在する理由だと思う。 

「どうしたらとりあえず自分の身の危険を守れるか。」という発想はやめて、「何をするのが正し
いのか?」という考え方をするべきだと思う。テロリストなんてのを暴力団と同じように、野放し
にして、「自分にさえ危害を加えなければいいや。」なんて認めてしまったら、やがては世界全
体が重苦しく、不自由で、結局は自分の生活の質が低下することになる。

スペインの列車爆破事件で殺された300人には、「テロリストが人を殺すのはあたりまえでしょ
う。馬鹿なスペイン人、自業自得、お気の毒様。」といっているのと同じだ。 

「世界中を混乱に導いた」(親族)のはテロリストの方じゃないのか? 外国人はイラクから出て
行け!といっているのはイラク人ではなくて、イラク人にまぎれて存在する一部のイスラム教原
理主義者や、テロリストたちがいっていることであって、大半のイラク人はイラクに平和と繁栄
のために努力している人たちを歓迎していることを忘れるべきではない。 

3人は誰にも謝る必要はないし、世界のおかげでもない。3人に意志があるのならこのままイラ
クに残って、正しいと信じる活動をやり遂げるように、心から切望する。

++++++++++++++++++

【二男へ】

 かなり情報不足のようだね。

 彼らは、正しいことをしたのではないよ。「独善的なボランティ活動」(Y新聞)をしたにすぎない
よ。

 日本政府は、14〜6回にわたって、渡航自粛の勧告を出しているよ。それを無視して、ヨル
ダンからイラクに入った。おかげで、日本は、えらい迷惑をすることになってしまった。

 人質の家族からは、「イラクから自衛隊を撤退させろ」と怒鳴られるしまつ。本当かどうかは
知らないが、外務省の役人たちは、「寝食を忘れて救出活動をした」そうだ。かかった費用が、
20億円程度だったという話も、伝わってきている(週刊「S」)。

 最初は、ぼくたちも、人質の心配をした。しかしね、時間がたつと、「どうもそうではないので
はないのか」という考え方に変ってきた。ある国会議員は、「遊泳禁止の旗が出ている海で、泳
ぐようなもの」と表現していたが、そんな感じがしてきた。

 だから今(4・21)は、「自己責任」という言葉が、さかんに使われている。この人質の問題
は、K国による拉致(らち)事件とは、まったく異質のものだよ。それに人質となった一人の青年
は、アメリカ軍による劣化ウラン弾を糾弾するため、その証拠集めに、イラクへ入ったというこ
とらしい(週刊「S」)。アラビア語はもちろん、英語も、満足に話せなかったという話も、伝わって
きている。

 彼らの行動は、カルト教団に走った、狂信的な若者の姿に、どこか似ていると、思わないか。
つまり、これがおおかたの日本人の意見だと思うよ。

 もう二人、同じ時期、日本人のカメラマンが人質になったよ。その中の一人は、こう言った。

 「ひどいめには、あわなかった。最初、人質にされるとき、相手のイラク人が、『アイ・アム。ソ
ーリー』(すまん)と言った」と。

 お前にはわかると思うが、これはつくり話だよ。こんなとき、英語では、絶対に、「アイ・アム・
ソーリー」とは、言わないよね。エレベーターに乗るとき、中にいる人に、「アイ・アム・ソーリー」
と言う人は、いないだろ。それと同じだね。つまり、完全なジャパニーズ・イングリッシュ!

(ぼくも、一度、英語で失敗したことがある。日本では、どこかの店に入っていくとき、「ごめんく
ださい」と言うだろ。だからあるとき、オーストラリアの店に入るとき、「アイ・アム・ソーリー!」と
言いながら、入ってしまった。頭の中で、直訳したんだね。

 そしたらその店の人が、おかしな顔をして、「君は、私たちに、どんな悪いことをしたのか?」
って、言ったよ。)

 今回の事件は、どこかスッキリしない。全体としてみれば、無謀で、思慮のない若者たちが、
ひとりよがりな独善で引き起こした事件のように思う。「甘い」というよりは、「世界をなめてい
る」といった感じ。一人の若者は、こう言ったという。

 「イラクのために活動しているのだから、人質になるとは思っていなかった」と。

 今は、日本の自衛隊が、命がけで、復興支援活動をしている。そういう人たちの思いも理解
するなら、こうした独善的な思想にかぶれた若者は、イラクへは行くべきではないよ。たぶん、
ほとんどの日本人も、ぼくと、同じ意見だと思うよ。今日、何冊か、週刊誌を買って、送っておく
よ。

パパより

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最前線の子育て論byはやし浩司(151)

【インターネット・あれこれ】

●パスワードは、「9」「9」「5」

 5月末から、ホームページの一部を、非公開にした。トップページから、パスワード「9」「9」
「5」で、今までのトップページに進んでもらえるようにした。

 こうすることで、今まで遠慮して公表できなかったページも、読者のみなさんに、読んでもらえ
るようになった。

 http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

 の最上段に、「ENTER」コーナーを、新設した。ここをクリックすると、つづいて、パスワード
の入力画面になる。ここで「995」を入力してほしい。興味のある方は、どうぞ。


●「9」「9」「5」の意味

 「995」には、特別の意味はない。たいていの人は、自分のパスワードを決めるとき、生年月
日や、電話番号、住所などを、利用するという。しかしこうしたパスワードは、悪意をもった人の
手にかかると、あっという間に解読されてしまう。

 注意したいのは、メールアドレス。メールアドレスの「zzzz@xxx.xx.xx」の「zzzz」部分。こ
の部分とパスワードの共用、もしくは類似したパスワードを使う人が多い。

たとえば私が知っている人のメールアドレスは、「akiko610@xxx」。その人のパスワードは、
「akiko610」。これではまるで、パスワードを公開しているようなもの。だから本来なら、メール
アドレスも、非公開にしたほうがよい。あるいは、絶対に、メールアドレスとパスワードを、同じ
にしてはいけない。

 「995」は、こうして決めた。

 まずパスワードの解読は、だれしも「1」から始める。それで最後の「9」にした。

 つぎにだれしも、2つ目のパスワードは、異なった数字と思う。だからつづけて「9」にした。

 三つ目は、まん中の「5」にした。「1」と「9」のまん中の数字である。

 以上、勝手な推測と偏見で、「995」にした。このパスワードは、随時、変更していくつもり。

●実名

 この世界では、だれかのことを書くにしても、その人の実名を記載してはいけない。よほどの
公人、もしくは、有名人なら、話は別だが、それ以外の人については、実名を記載してはいけ
ない。使うとしても、伏せ字にする。とくにその人に対して、批判めいた文章を残すときは、記載
してはいけない。

 私もときどき、K国の金XXのことを、批判して書く。私は政治家でも、政治評論かでもない。
そんな私にでさえ、ハングル文字で書かれた、脅迫文のようなものが届いたことがある。注意
するに、こしたことはない。

 ホームページやマガジンでは、もちろんのこと、メールのやり取りの中でも、実名は書かない
ほうがよい。掲示板や、チャットでも、そうだ。どこでだれが読んでいるかわからない。どこへ転
送されるかも、わからない。そしてそれが原因で、思わぬトラブルに巻きこまれることがある。
(私は、幸いなことに、まだそういうことは一度もないが……。)

 インターネット上では、実名は、決して書かないと、心に決めておくとよい。


●相手は、相手の心の状態で、文を読む

 インターネットのこわいところは、文の中に、感情を織り込めないこと。たとえばこちらが軽い
気持ちで、「あんたも、バカね」と書いたとする。ほとんど冗談のつもりで書いたとする。

 しかし相手は、相手の心情で、その文を読む。そしてそのとき、たまたま相手の人の虫の居
所が悪かったりすると、「バカとは何だ!」となる。

 こうした誤解を避けるためにも、相手を批判したり、批評したりするメールは、出さないように
する。もしそういうことを言いたいのであれば、電話で話す。直接会って話す。

 そういう意味では、「文」というのは、こわい。何年もかけてつくりあげた人間関係を、一夜にし
て破壊するということも、ないわけではない。私も、ずいぶんと前の話だが、こんな経験をした。

 その女性は、何度かメールを交換したあと、こんなことを書いてきた。

 「先生も、なかなか言うねエ」と。

 私は、この文を読んで、ハタと考えこんでしまった。「この女性は、私をバカにしているのか。
それとも、親しさの表れとして、そう言っているのか」と。

 で、この文を、さまざまな角度から、読みなおしてみた。

(1)相手の女性が、私の指導者であるとき……たとえば恩師の先生がそう言ったとする。する
と、それほど、気にならない。むしろ、「先生、生意気なことを言ってすみません」となる。

(2)相手の女性が、私に敵意を抱いているとき……たとえば論争相手など。そういう人から、
「なかなか言うねエ」と言われれば、頭にカチンとくる。「何、生意気言ってるんだ!」となる。

(3)相手の女性に、好意をもっているとき。相手の女性も、私に好意をもっているのが、わかっ
ているとき……恋人とか、愛人とかいうのであれば、多分、私は、ハハハと笑ってすますだろ
う。

(4)相手が、私より「下」と、私が感じているとき……内心では愚かな人だと、私が判断してい
るような人から、「なかなか言うねエ」と言われれば、「あんたなんかに、何がわかるんだ」と思
いつつ、やはり無視する。二度と返事を書かない。

 しかし実際には、その女性は、若い女性だった。だからその女性との間に、ものすごい距離
感を覚えた。まるで幼児に、子育ての真髄(しんずい)を話すような距離感である。だから、無
視した。が、どういうわけか、そのあと、不快感だけが、ペタリと胸に張りついてしまった。

 理由がわからなかった。(今でも、よくわからないが……。)

 結局は、そうした思いというのは、相手の心情がわからないことによる。もし直接会って話を
していれば、そういうことは、なかったかもしれない。その場の雰囲気で、相手の心情を読むこ
とができる。

 が、「文」では、それができない。つまり今度は、こちらの心情で、その文を読んでしまう。そし
てそこから、無数の妄想が生まれ、それが頭の中を混乱させる。

 で、そのあと何度かまたメールを交換するうち、誤解は解けた。今でも、ときどき、メールを交
換している。が、しかしあの段階で、もう少し、その女性を誤解していたら、私は、怒って、絶交
してしまっていたかもしれない。

 そこでこれは、あくまでも、自分自身に対する教訓だが、こう言って聞かせるようにしている。

 インターネットでメールを交換するときは、絶対に、相手を批判したり、批評したりするような
内容は書かない、と。書くとしても、相手のよい面だけをみて、相手をほめるようなことを書く。
仮に、批評したり、批判するときでも、きわめて慎重に、かつ、相手に誤解を与えないように、
書く。

 しかしこれはインターネットを楽しむためには、とても重要なことだと思う。


●インターネットは、クールに!

 この世界では、ほんのささいな油断が、大事故につながるということが、よくある。ウィルスで
ある。

 だから「?」なメールは、即、削除。また削除。何も考えず、即、削除。「だれからだろう?」「ひ
ょっとしたら?」という、へたな好奇心は、もたないほうがよい。心を鬼にして、削除する。

 先日も書いたが、最近では、ウィルス入りのメールも巧妙化している。サーバー(プロバイダ
ー)からの、連絡を装ってくるのもある。(実は、今朝も届いた。メールを送信してもいないの
に、「あて先不明」のメールが返送されてきた。こういうのは、絶対に、あやしい!)

 こうしたメールは、即、「送信者禁止処理」にする。つぎからのメールは、着信と同時に、ゴミ
箱送り。こうすれば、失敗(ミス)を防げる。

 ほかにも私は、いろいろ気をつけている。

(1)サーバー(プロバイダー)のウィルス・チェック・サービスを受けている。
(2)パソコンを使い分けている。(メール用、ワープロ用、HP用など)
(3)それぞれのパソコンで、独自にウィルス・チェックをしている。
(4)無線ルーターをつけ、通信を暗号化している。

 重要な保存文書は、そのつど、CDに保存している。最終的には、いつでもリカバリーができ
る態勢を整えている。

 と言っても、メールアドレスもHPも公開しているため、ウィルスの攻撃を、私はよく受ける。多
いときは、一日に、10件近く受けるときがある。しかしこうした防御策のおかげか、ここ3、4年
は、ウィルスの感染を防いでいる。

(3、4年前に、一度、息子が、不注意で、あるメールのプロパティを開いてしまった。それで感
染してしまったことがある。「プロパティを開く程度なら、感染しない」と、息子は誤解していた。
あやしげなメールのプロパティなど、絶対にのぞいてはいけない。)

 さらに最近では、本文をプレビュー画面に表示しただけで、感染するというウィルスもあると
か……! だから件名(Re:)だけ読んで、あやしげなメールは、やはり即、削除するのがよ
い。繰りかえすが、心を鬼にして、そうする。


●マガジン

 私のマガジンについて、「量が多すぎる」という苦情がよく届く。さらに最近では、「むずかしす
ぎる」という苦情も、届くようになった。

 反省! ただただ反省!

 そこでどうしたらよいかを、考える。

 一つの方法としては、それぞれのエッセーの前に、簡単なあらすじをつけるというのがある。
昔、『リーダーズ・ダイジェスト』という雑誌が、この手法を使っていた。さっそくだが、しばらく、こ
の方法を応用してみる。

 それに自分でもわかっているが、最近は、実用的な記事が少なくなった。

 こうしたマガジンでは、実用的なものほど、好まれるようだ。たとえば実用的な記事をたくさん
載せると、つづく号で、読者がふえる。しかしそうでないときは、ふえない。それがはっきりと、
数字となって、はね返ってくる。

 読者のみなさんも、忙しいのだ。何かの役にたつ記事ならよいが、私のエッセーなど、お呼び
ではない。よくわかっている。

 だから次号からは、もっと実用的な内容の記事を多くしたい。本当にいつも、私のマガジンを
購読してくださり、ありがとうございます。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(152)

●生きることを考える

++++++++++++++++

食べなければ、損なのか?
食べたら、損なのか?
食べ放題の店で、料理を食べながら、
私は、そんなことを考えた。

しかしこの問題は、「生きる」ことにも
関連している。

残り少ない人生を、どう生きるか。
私はそんなことまで考えた。

++++++++++++++++

●貪欲さ

 今日(4・21)、東名高速道路のインター近くにできた、「ED」というレストランへ行った。食べ
放題の店である。平日のランチは、999円(税込み)!

 大きな店で、座席数は、数百はある。私とワイフは、店員さんに案内されて、奥のほうの禁煙
席についた。そして、内心で「食べるぞ!」と思いながら、料理の並ぶカウンターに向った。

 料理は、寿司、焼肉のほか、中華料理、サラダ、ケーキなど。スパゲッティも、ラーメンも、カ
レーライスもある。それにイカ、ホタテなどの海鮮料理。どれも食べ放題。料理の前に立ったと
たん、私は、「安い!」と、感じた。「料金が安い」という意味である。

 私は、寿司を、5〜6個。それにサラダと、小さなケーキを選んだ。ふだんの昼食なら、この程
度で、満腹になる。回転寿司屋の寿司を食べることもあるが、たいてい5皿で、腹はいっぱい
になる。

 先にテーブルについて待っていると、ワイフも、同じようなものを選んでもってきた。

私「999円なんて、安いね」
ワイフ「ホント。そんな値段でやっていかれるのかしら」
私「ぼくたちは量が少ないけど、高校生たちがやってきたら、赤字だよ」
ワイフ「そうねえ……。高校生は、たくさん食べるからね」と。

 土日でも、1450円という。ふつう食べ放題の店というのは、料理の質は、あまりよくない。し
かしそのEDという店は、そうでない。私たちは食べなかったが、肉も、ちゃんとした肉を使って
いる。

 私が、「20年前のぼくだったら、むしゃむしゃと、肉を食べただろうね」と言うと、ワイフも、「あ
のころのあなたは、たくさん食べたからね」と。

 が、こうした食べ放題の店に入ると、心のどこかに、「たくさん食べなければ損」という、いやし
い根性が生まれる。しかし考えてみれば、これはおかしな根性だ。

 「たくさん食べなければ損」というのは、金銭上の問題である。しかし健康上の問題を考える
なら、ほどほどのところで、やめたほうがよい。たくさん食べたところで、よいことは何もない。コ
レステロール値があがるだけ。病気になるだけ。

 しかし人間というのは、おかしなものだ。ふつうなら、つまりふだんの昼食なら、ある程度のと
ころでやめるのだが、やはり、「もっと食べておこう」という心理が、どうしても働いてしまう。「ま
だ、999円分も食べていないぞ」とか、そんなふうに考えてしまう。

 そこで私は席を立って、今度は、サラダをどっさりともってきた。「サラダなら、太らないから…
…」と。多分、ワイフも同じように思ったらしい。私が席にもどると、自分でも、何かを取りに行っ
た。

 いろいろなことを考えた。

 「世界には、食べるものがなくて困っている国もあるのに……」とか、「この飽食は何か!」と
か。

 そんなとき、一人、丸々と太った女性が、目についた。私のななめうしろの席に、すわってい
た。あごと胸がそのままつながり、腹に、大きな袋をぶらさげているような感じの女性だった。
年齢は、30歳くらいだった。黒いTシャツを着ていたが、そのTシャツが今にもはじけて、破れ
そうな感じがした。

 その女性は、わき目もふらず、いや、ときどき、チラチラと周囲の人たちに視線をなげかけな
がら、まさに一心不乱に食べつづけていた。

 ものすごい食欲である。「食欲」というよりは、胃の中に、食べ物を押しこんでいるといったふ
う。かきこんでいるといったふう。私が見ていたとき、ちょうどショートケーキ、3、4個を食べて
いたが、一個を丸ごと口に入れ、パクパクとそのままのみこんでいた。

 再び、私は、同じことを考えた。「食べなければ損なのか。それとも食べれば損なのか」と。

 食べ物は、モノとはちがう。いくら安いからといっても、たくさん食べれば、体をこわす。しかし
その女性は、明かに、「食べなければ損」と考えている様子だった。

 一度、ワイフに、「あの女性を見ろ」と、目で合図を送った。同時に、あきれた表情をしてみせ
た。ワイフも、同じように感じたらしい。フーッとため息をついたあと、視線を下に落した。

●おしん

 人は生きるために、食べる。それはわかる。そして食べるために、働く。それもわかる。が、
ここで大きな問題にぶつかる。

 生きるために働く人間が、いつの間にか、働くために生きるようになる。一つの例をあげて、
考えてみよう。

 今から20年ほど前、NHKの朝の連続ドラマに、『おしん』という番組があった。たいへんな人
気で、ほぼ日本中の人たちが、その番組を見た。決して、大げさな言い方ではない。まさに国
民的番組と言ってよいほどの番組だった。

(おしん……1983〜4年にかけて、NHKの朝の連続ドラマとして、放映された。平均視聴率
は、52・6%。最高視聴率は、62・9%。テレビ視聴率調べサイト調査)

 そのおしんは、最初、生きるために働く。懸命に働く。が、いつしか、そのまま今度は、働くた
めに生きるようになる。自分の店をどんどん大きくする。あちこちに支店を出す。さらに商売を
大きく、広げる。

 そのおしんは、5年ほど前に倒産した、Yジャパンの社長の、W氏の母親のKさんが、モデル
だったという。

 もしおしんが、生きるために働くのであれば、ああまで商売を広げる必要はなかった。一度、
近所の商店主たちが、おしんの店に抗議に押し寄せるシーンがあった。大量仕入れによる、
安売り攻勢。おしんの店の周辺の商店は、つぎつぎとつぶれていった。ドラマ『おしん』は、貧し
い女性の物語から、いつしかサクセス・ストリーへと変貌していった。

 私が、当時、その番組を見ていて、不思議に思ったのは、その番組のことではない。私の実
家も、近くに大型のショッピングセンターができてからというもの、斜陽の一途。いつ店を閉め
てもおかしくないという状態に追いこまれた。

 しかし、である。私の母も、『おしん』の大ファン。その時刻になると、テレビの前にすわって、
おしんの活躍ぶりに、一喜一憂していた。ときに、涙までこぼしていた。で、ある日、私は母にこ
う言ったのを覚えている。

 「どうしてあんな、おしんを応援するのか? うちも、ああいう人の食いものになって、苦労して
いるんだろ?」と。すると母は、こう言った。「あのショッピングセンターと、おしんは、関係ない」
と。

 こうしたオメデタサは、日本人独得のものと言ってもよい。長くつづいた封建時代、そしてそれ
につづく官僚政治の中で、骨のズイまで、魂を抜かれている。自分の置かれた世界を、上から
客観的に見ることができない。心のどこかで「おかしい」と思っても、自ら、それを否定してしま
う。そして別の心で、「あわよくば、自分も……」と思ってしまう。

 話をもどすが、おしんは、あるときまでは、生きるために働いた。しかしそのあるとき、自分に
ブレーキをかけなかった。かけないまま、さらにその先まで、突っ走ってしまった。つまり、貪欲
(どんよく)になった。

●貪欲(どんよく)

 食べ放題のレストランで見たあの女性と、『おしん』の中のおしんは、よく似ている。

 生きるために食べる。それが原点であるにもかかわらず、食べなければ損とばかり、食べ物
を口の中にかきこむ女性。

生きるために働く。それが原点であるにもかかわらず、稼がなければ損とばかり、どんどんと
稼ぎつづけるおしん。

 共通点は、その貪欲さである。が、この問題は、そのまま私自身の問題といってもよい。「私
は貪欲でないか?」と問われたとき、自信をもって、「ノー」と言うことは、私にはできない。現
に、そのレストランでは、いつもの二倍程度の量の食事を食べてしまった。

 さらに、私は今、ただわけもわからず、こうして毎日、原稿を書きつづけている。「懸命に生き
ている」といえば、まだ聞こえはよいが、その中身といえば、「貪欲さ」そのものといってもよい。
それに今、こうしておしんを批判したが、もし私にも、そういうチャンスがあれば、おしんと同じこ
とをしていたかもしれない。お金は、嫌いではない。

 となると、人間の貪欲さとは何か? それがよいことなのか、悪いことなのかという判断はさ
ておき、そもそも貪欲さとは、何なのか?

 つづきを書く前に、ヤオハンジャパンのW氏について、数年前、こんな原稿を書いたことがあ
る。それをそのまま掲載する。内容は、一部ダブルが、許してほしい。

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「おしん」と「マトリックス」

●私の実家は閉店状態に……

 昔、NHKドラマに「おしん」というのがあった。一人の女性が、小さな八百屋から身を起こし、
全国規模のチェーン店を経営するまでになったという、あのサクセス物語である。

九七年に約二〇〇〇億円の負債をかかえて倒産した、ヤオハンジャパンの社長、W氏の母親
のカツさんがモデルだとされている。それはともかくも、一時期、日本中が「おしん」に沸いた。
泣いた。私の実家の母も、おめでたいというか、その一人だった。ちょうどそのころ、私の実家
の近くに系列の大型スーパーができ、私の実家は小さな自転車屋だったが、そのためその影
響をモロに受けた。はっきり言えば、閉店状態に追い込まれた。

●生きるために働くが原点

 人間は生きる。生きるために食べる。食べるために働く。「生きる」ことが主とするなら、「働
く」ことは従だ。しかしいつの間にか、働くことが主になり、生きることが従になってしまった。そ
れはちょうど映画「マトリックス」の世界に似ている。

生きることが本来、母体(マトリックス)であるはずなのに、働くという仮想現実の世界のほう
を、母体だと錯覚してしまう。一つの例が単身赴任という制度だ。

もう三〇年も前のことだが、メルボルン大学の法学院で当時の副学部長だったブレナン教授
が、私にこう聞いた。「日本には単身赴任(短期出張)という制度があるそうだが、法的規制は
何もないのか」と。そこで私が「ない」と答えると、まわりにいた学生までもが、「家族がバラバラ
にされて何が仕事か!」と騒いだ。教育の世界とて例外ではない。

●たまごっちというゲーム

あの「たまごっち」というわけのわからないゲームが全盛期のころのこと。あの電子の生き物
(?)が死んだだけでおお泣きする子どもはいくらでもいた。私が「何も死んでいないのだよ」と
説明しても、このタイプの子どもにはわからない。

一度私がそのゲームを貸してもらい、操作を誤ってそのたまごっちを殺して(?)しまったことが
ある。そのときもそうだ。そのときも子ども(小三女児)も、「先生が殺した!」とやはり泣き出し
てしまった。いや、子どもだけではない。

当時東京には、死んだたまごっちを供養する寺まで現れた。ウソや冗談でしているのではな
い。マジメだ。本気だ。中には北海道からかけつけて、涙ながらに供養している女性(二〇歳く
らい)もいた(NHK「電脳の果て」九七年一二月二八日放送)。

●たかがゲームと言えるか?

常識のある人は、こういう現象を笑う。中には「たかがゲームの世界のこと」と言う人もいる。し
かし本当にそうか? その少しあと、ミイラ化した死体を、「生きている」とがんばったカルト教
団が現れた。

この教団の教祖はその後逮捕され、今も裁判は継続中だが、もともと生きていない「電子の生
物」を死んだと思い込む子どもと、「ミイラ化した死体」を生きていると思い込む信者は、どこが
違うのか。方向性こそ逆だが、その思考回路は同じとみてよい。あるいはどこが違うというの
か。仮想現実の世界にハマると、人はとんでもないことをし始める。

●仮想現実の世界

さてこの日本でも、そして世界でも、生きるために働くのではなく、働くために生きている人はい
くらでもいる。しかし仮想現実は仮想現実。いくらその仮想現実で、地位や名誉、肩書きを得た
としても、それはもともと仮想の世界でのこと。生きるということは、もっと別のこと。生きる価値
というのは、もっと別のことである。

地位や名誉、肩書きはあとからついてくるもの。ついてこなくてもかまわない。そういうものをま
っ先に求めたら、その人は見苦しくなる。

●そんな必要があったのか

あのおしんにしても、自分が生きるためだけなら、何もああまで店の数をふやす必要はなかっ
た。その息子のW氏にしても、全盛期には世界一六カ国、グループで年商五〇〇〇億円もの
売り上げを記録したという。が、そんな必要があったのだろうか。

私の父などは、自分で勝手にテリトリーを決め、「ここから先の町内は、M自転車屋さんの管轄
だから自転車は売らない」などと言って、自分の商売にブレーキをかけていた。仮にその町内
で自転車が売れたりすると、夜中にこっそりと自転車を届けたりしていた。相手の自転車屋に
気をつかったためである。

しかしそうした誠意など、大型スーパーの前ではひとたまりもなかった。彼らのやり方は、まさ
にめちゃめちゃ。それまでに祖父や父がつくりあげてきた因習や文化を、まるでブルドーザー
で地面を踏みならすようにぶち壊してしまった。

●私の父は負け組み?

晩年の父は二、三日ごとに酒に溺れ、よく母や祖父母に怒鳴り散らしていた。仮想現実の世界
の人から見れば、W氏は勝ち組、父は負け組ということになるが、そういう基準で人を判断す
ることのほうが、まちがっている。

父は生きるために自転車屋を営んだ。働くための本分を忘れなかった。人間性ということを考
えるなら、私の父は生涯、一片の肩書きもなく貧乏だったが、W氏にまさることはあっても、劣
ることは何もない。

おしんもある時期までは生きるために働いたが、その時期を過ぎると、あたかも餓鬼のように
富と財産を追い求め始めた。つまりその時点で、おしんは働くために生きるようになった。

●進学塾の商魂

 もちろん働くのがムダと言っているのではない。おしんはおしんだし、現代でいう成功者という
のは彼女のようなタイプの人間をいう。が、問題はその中身だ。

これも一つの例だが、二〇〇二年度から、このH市でも新しく一つの中高一貫校が誕生した。
公立の学校である。その説明会には、定員の約六〇倍もの親や子どもが集まった。そして入
学試験は約六倍という狭き門になった。親たちのフィーバーぶりは、ふつうではなかった。ヒス
テリー状態になる親も続出した。

で、その入試も何とか終わったが、その直後、今度は地元に本部を置くS進学塾が、そのため
の特別講座の説明会を開いた(二〇〇二年二月)。入試が終わってから一か月もたっていな
かった。商売熱心というべきか、私はその対応の早さに驚いた。

私も進学塾の世界はかいま見ているから、彼らがどういう発想で、またどういうしくみでそうした
講座を開くようになったかがよくわかる。わかるが、そのS進学塾のしていることはもう「生きる
ために働く」というレベルを超えている。あるいはそうまでして、彼らはお金がほしいのだろう
か。

現代でいうところの成功者というのは、そういうことが平気でできる人のことを言うもだろうが、
そうだとするなら「成功」とは何かということになってしまう。あの「おしん」の中でも、おしんの店
の安売り攻勢にネをあげた周囲の商店街の人たちが、抗議に押しかけるというシーンがあっ
た。

●自分を見失う人たち

 お金はともかくも、名誉や地位や肩書き。そんなものにどれほどの意味があるというのか。生
きるためには便利な道具だが、それに毒されたとき、人は仮想現実の世界にハマる。自分を
見失う。

日本では、あるいは世界では、W氏のような人物を高く評価する。しかしそのW氏のサクセス
物語の裏で、いかに多くの、そして善良な商店主たちが泣いたことか。私の父もその一人だ
が、その証拠として、あのヤオハンジャパンが倒産したとき、一部の関係者は別として、W氏に
同情して涙をこぼした人はいなかった。

●仮想現実の世界にハマる人たち

 仮想現実の世界にハマると、ハマったことすらわからなくなる。たとえば政治家。ある政治家
が土建業者から一〇〇〇万円のワイロをもらったとする。そのときそのワイロを贈った業者
は、その政治家という「人間」に贈ったのではない。政治家という肩書きに贈ったに過ぎない。
しかし政治家にはそれがわからない。自分という人間が、そうされるにふさわしい人間だから
贈ってもらったと思う。

政治家だけではない。こうした例は身近にもある。たとえばA氏が取り引き先の会社のB氏を
接待したとする。A氏が接待するのは、B氏という人に対してではなく、B氏の会社に対してであ
る。が、B氏にはそれがわからない。B氏自身も仮想現実の世界に住んでいるから、その世界
での評価イコール、自分の評価と錯覚する。

しかし仮想現実は仮想現実。仮にB氏が会社をやめたら、B氏は接待などされるだろうか。た
ぶんA氏はB氏など相手にしないだろう。こうした例は私たちの身の回りにはいくらでもある。

●子育ての世界も同じ

 長い前置きになったが、実は子育てについても、同じことが言える。多くの親は、子育ての本
分を忘れ、仮想現実の中で子育てをしている。

子どもの人間性を見る前に、あるいは人間性を育てる前に、受験だの進学だの、有名高校だ
の有名大学だの、そんなことばかりにこだわっている。ある母親はこう言った。「そうは言っても
現実ですから……」と。つまり現実に受験競争があり、学歴社会があるから、人間性の教育な
どと言っているヒマはない、と。

しかしそれこそまさに映画「マトリックス」の世界。仮想現実の世界に住みながら、そちらのほう
を「現実」と錯覚してしまう。が、それだけならまだしも、そういう仮想現実の世界にハマることに
よって、大切なものを大切でないと思い込み、大切でないものを大切と思い込んでしまう。そし
て結果として、親子関係を破壊し、子どもの人間性まで破壊してしまう。もう少しわかりやすい
例で考えてみよう。

●人間的な感動の消えた世界

 先ほど私の祖父のことを少し書いたが、その祖父の前で英語の単語を読んで聞かせたとき
のこと。私が中学一年生のときだった。「おじいちゃん、これはバイシクルといって、自転車とい
う意味だよ」と。すると祖父はすっとんきょうな声をあげて、「おお、浩司が英語を読んだぞ! 
英語を読んだぞ!」と喜んでみせてくれた。

が、今、その感動が消えた。子どもがはじめて英語のテストを持ち帰ったりすると、親はこう言
う。「何よ、この点数は。平均点は何点だったの? クラスで何番くらいだったの? これではA
高校は無理ね」と。「あんたを子どものときから高い月謝を払って、英語教室へ通わせたけど、
ムダだったわね」と言う親すらいる。

こういう親の教育観は、子どもからやる気を奪う。奪うだけならまだしも、親子の信頼関係、さら
には親のきずなまでこなごなに破壊する。

 仮想現実の世界に住むということはそういうことをいう。親にしてみれば、学歴社会があり、
そのための受験競争がある世界が、「現実の世界」なのだ。もともと「生きるための武器として
子どもに与える教育」が、いつの間にか、「子どもから生きる力をうばう教育」になってしまって
いる。本末転倒というか、マトリック(母体)と、仮想現実の世界が入れ替わってしまっている!

●休息を求めて疲れる

 仮想現実の世界に生きると、生きることそのものが変質する。「今」という時を、いつも未来の
ために犠牲にする生き方も、その一つだ。幼稚園は小学校入学のため。小学校は中学校や
高校の入学のため。さらに高校は大学入試のため、大学は就職のため、と。

こうした生き方、つまりいつも未来のために現在を犠牲にする生き方は、結局は自分の人生を
ムダにすることになる。たとえばイギリスの格言に、『休息を求めて疲れる』というのがある。愚
かな生き方の代名詞にもなっている格言である。「楽になろう、楽になろうとがんばっているうち
に、疲れてしまう」と。あるいは「やっと楽になったら、人生も終わっていた」と。

●あなた自身はどうか 

 こうした生き方をしている人は、それが「ふつう」と思い込んでいるから、自分の生きざまを知
ることはない。しかし客観的に自分を見る方法がないわけではない。

 たとえばあなた自身は、次の二つのうちのどちらだろうか。

あなたが今、二週間という休暇を与えられたとする。そのとき、(1)休暇は休暇として。そのと
きを楽しむことができる。(2)休みが数日もつづくと、かえって落ち着かなくなる。休暇中も、休
暇が終わってからの仕事のことばかり考える。

あるいはもしあなたが母親なら、つぎの二つのうちのどちらだろうか。あなたの子どもの学校
が、三日間、休みになったとする。そのとき、(1)子どもは子どもで、休みは思う存分、遊べば
よい。(2)子どもが休みに休むのは、その休みが終わったあと、またしっかり勉強するため
だ。
 (1)のような生き方は、この日本では珍しくない。「仕事中毒」とも言われているが、その本質
は、「今を生きることができない」ところにある。いつも「今」を未来のために犠牲にする。だから
未来の見えない「今」は、不安でならない。だから「今」をとらえて生きることができない。

●日本人の結果主義

 もっともこうした日本人独特の生き方は、日本の歴史や風土と深く結びついている。たとえば
仏教という宗教にしても、常に結果主義である。「結果がよければそれでよい」と。

実際に、「死に際の様子で、その人の生涯がわかる」と教えている教団がある。この結果主義
もつきつめれば、「結果」という「未来」に視点を置いた考え方といってもよい。日本人が仏教を
取り入れたときから、日本人は「今」を生きることを放棄したと考えてもおかしくない。

●なぜ今、しないのか?

 こうした生き方は一度それがパターンになると、それこそ死ぬまでつづく。そしてそのパターン
に入ってしまうと、そのパターンに入っていることすら気づくことがなくなる。脳のCPU(中央演
算装置)が狂っているからである。

たとえば私の知人にこんな人がいる。何でもその人はもうすぐ定年退職を迎えるというのだ
が、その人の夢は、ひとりで、四国八八か所を巡礼して回ることだそうだ。私はその話を女房
から聞いたとき、即座にこう思った。「ならば、なぜ、今しないのか」と。

●「未来」のために「今」を犠牲にする

 その人の命が、そのときまであるとは限らない。健康だって、あやしいものだ。あるいはその
人は退職しても、巡礼はしないのでは。退職と同時に、その気力が消える可能性のほうが大き
い。私も学生時代、試験週間になるたびに、「試験が終わったら映画を見に行こう」とか、「旅
行をしよう」と思った。思ったが、いざ試験が終わるとその気持ちは消えた。抑圧された緊張感
の中では、えてして夢だけがひとり歩き始める。

 したいことがあったら、「今」する。しかし仮想現実の世界にいる人には、その「今」という感覚
すらない。「今」はいつも「未来」という、これまた存在しない「時」のために犠牲になって当然と
考える。

●今を生きる

 こうした生き方とは正反対に、「今を生きる」という生き方がある。ロビン・ウィリアムズ主演の
映画に同名のがあった。「今を偽らないように生きよう」と教える教師と、進学指導中心の学校
教育。そのはざまで一人の高校生が自殺に追い込まれるという映画である。

 あなたのまわりを見てほしい。あなたのまわりには、どこにも、過去も、未来もない。あるの
は、「今」という現実だけだ。過去があるとしても、それはあなたの脳にきざまれた思い出に過
ぎない。未来があるとしても、それはあなたの空想の世界でのことでしかない。

だったら大切なことは、過去や未来にとらわれることなく、思う存分「今」というこの「時」を生き
ることではないのか。未来などというものは、あくまでもその結果としてやってくる。

●再起をかけるW氏

聞くところによると、W氏は再起をかけて全国で講演活動をしているという(夕刊フジ)。これま
たおめでたい人というか、W氏はいまだにその仮想現実の世界にしがみついている。

ふつうの人なら、仮想現実のむなしさに気がつき、少しは賢くなるはずだが……。いや、実際
にはそれに気づかない人は多い。退職後も現役時代の肩書きを引きずって生きている人はい
くらでもいる。私のいとこの父親がそうだ。昔、会うといきなり私にこう言った。

「君は幼稚園の教師をしているというが、どうせ学生運動か何かをしていて、ロクな仕事につけ
なかったのだろう」と。

彼は退職前は県のある出先機関の「長」をしていた。が、仕事にロクな仕事も、ロクでない仕事
もない。要は稼いだお金でどう生きるか、だ。が、この日本では、職業によって、人を判断す
る。稼いだお金にも色をつける。が、こんな話もある。

●リチャード・マクドナルド

マクドナルドという、世界的に知られたハンバーガーチェーン店がある。あの創始者は、リチャ
ード・マクドナルドという人物だが、そのマクドナルド氏自身は、一九五五年にレストランの権利
を、レイ・クロウという人に、それほど高くない値段で売り渡している。(リチャード・マクドナルド
氏は、九八年の七月に満八九歳で他界。)

そのことについて、テレビのレポーターが、「(権利を)売り渡して損をしたと思いませんか」と聞
いたときのこと。当のマクドナルド氏はこう答えている。

 「もしあのままレストランを経営していたら、私は今ごろはニューヨークかどこかのオフィスで、
弁護士と会計士に囲まれていやな生活をしていることでしょう。こうして(農業を営みながら)、
のんびり暮らしているほうが、どれほど幸せなことか」と。マクドナルド氏は生きる本分を忘れな
かった人ということになる。

●残る職業による身分制度

私が母に「幼稚園で働く」と言ったときのこと。母は、電話口の向こうで、「浩ちゃん、あんたは
道をまちがえたア!」と言って、泣き崩れてしまった。

当時の世相からすれば、母が言ったことは、きわめて常識的な意見だった。しかし私は道をま
ちがえたわけではない。私は自分のしたいこと、自分の本分とすることをした。

一方、これとは対照的に、この日本では、「大学の教授」というだけで、何でもかんでもありがた
がる風潮がある。私のような人間を必要以上に卑下する一方、そういう人間を必要以上にあ
がめる。

今でも一番えらいのが大学の教授。つぎに高校、中学の教師と続き、小学校の教師は最下
位。さらに幼稚園の教師は番外、と。こうした派序列は、何かの会議に出てみるとわかる。

一度、ある出版社の主宰する座談会に出たことがあるが、担当者の態度が、私と私の横に座
った教授とでは、まるで違ったのには驚いた。私に向っては、なれなれしく「林さん……」と言い
ながら、振り向いたその顔で、教授にはペコペコする。こうした風潮は、出版界や報道関係で
は、とくに強い。

●マスコミの世界

実際この世界では、地位や肩書きがものを言う。少し前、私が愛知万博(EXPO・二〇〇五)
の懇談会のメンバーをしていると話したときもそうだ。「どうしてあなたが……?」と、思わず口
をすべらせた新聞社の記者(四〇歳くらい)がいた。

私には、「どうしてあんたなんかが……」と聞こえた。つまりその記者自身も、すでに仮想現実
の世界に住んでいる。人間を見るという視点そのものがない。私のような地位や肩書きのない
人間を、いつもそういう目で見ている。自分も自分の世界をそういう目でしか見ていない。だか
らそう言った。が、このタイプの人たちは、まさに働くために生きているようなもの。そういう形で
自分の人生をムダにしながら、ムダにしているとさえ気づかない。

●人間を見る教育を

 教育のシステムそのものが、実のところ人間を育てるしくみになっていない。手元には関東地
域の中高一貫校、約六〇校近くの入学案内書があるが、そのどれもが例外なく、卒業後の進
学大学校名を明記している。

中には別紙の形で印刷した紙がはさんであるのもあるが、それが実に偽善ぽい。それらの案
内書をながめていると、まるでこれらの学校が、予備校か何かのようですらある。子どもを育て
るというのではなく、教育そのものが子どもを仮想現実の世界に押し込めようとしているような
印象すら受ける。

●仮想現実の世界に気づく

 ともかくも、私たちは今、何がマトリックス(母体)で、何が仮想現実なのか、もう一度自分のま
わりを静かに見てみる必要があるのではないだろうか。でないと、いらぬお節介かもしれない
が、結局は自分の人生をむだにすることになる。子どもの教育について言うなら、子どもたち
のためにも生きにくい世界を作ってしまう。しめくくりに、こんな話がある。

 先日、六〇歳になった姉と電話で話したときのこと。姉がこう言った。何でも最近、姉の夫の
友人たちがポツポツと死んでいくというのだ。それについて、「どの人も、仕事だけが人生のよ
うな人ばかりだった。あの人たちは何のために生きてきたのかねえ」と。

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●再び、貪欲(どんよく)

 ここにも書いたように、私だって、お金は嫌いではない。あれば、あるほど、よい。お金がなけ
れば、幸福にはなれない。そういう現実を、いやというほど思い知らされている。

 しかしあまりあるお金が、その人を幸福にするかといえば、それはない。くりかえすと、『お金
がなければ、人は不幸になる。しかしお金があっても、幸福になれるとは、かぎらない』というこ
とになる。

 そのお金と、食事を、ここで並べて考えてみた。

 食べるものがなければ、人は、死ぬ。しかしたくさん食べれば、長生きできるということはな
い。かえって病気になる。早く死ぬ。おいしいものを食べれば、それなりに楽しい。一つ口に入
れながら、別の心で、「もう一つ、食べたい」と思う。そういうことは、よくある。

 性欲もそうだ。私だって、いつも、いろいろな女性とのセックスを、夢想する。「教育にたずさ
わっている者だから、そういうことは考えないはず」と思ってもらっては困る。教師は、決して、
聖人ではない。そのため教職は、決して、聖職ではない。

 今まで、無数の教師をみてきたが、これは確たる結論である。

 が、こうした欲望というのは、溺れてよいことは、何もない。むさぼることによって、自分を見
失ってしまう。が、どこからどこまでが、「適切な世界」で、その先が、「貪欲の世界」なのかとい
うことになると、その判断がむずかしい。

 たとえその限界がわかったとしても、今度は、自分にブレーキをかけなければならない。それ
もまたむずかしい。おいしいものを見れば、つい食べたくなる。その上、いくら食べても、値段
は同じということになれば、なおさらだ。

 お金だってそうだ。あればあるほど、よい生活ができる。大きな車に乗って、大きな家に住む
ことができる。それこそ人間の欲望には、際限がない。

 が、やはり、どこかで自分にブレーキをかける。かけながら、ほどほどのところで、納得し、あ
きらめる。そして自分なりの、充足感というか、幸福感を求める。

 それについても、以前、こんな原稿を書いた。これは私の持論の一つである、「家族主義」に
ついて書いたもの。少しここでのテーマからは、脱線するが、許してほしい。

私は「私たちが求める究極の幸福というのは、そんなに遠くにあるのではない。私たちの身の
まわりで、私たちに見つけてもらうのを、静かに待っている」ということを訴えたくて、この原稿を
書いた(小生の本『子育てストレスが、子どもをつぶす』で、発表済み

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家族の心が犠牲になるとき 

●子どもの心を忘れる親

 アメリカでは、学校の先生が、親に「お宅の子どもを一年、落第させましょう」と言うと、親はそ
れに喜んで従う。「喜んで」だ。ウソでも誇張でもない。

あるいは自分の子どもの学力が落ちているとわかると、親のほうから学校へ落第を頼みに行く
というケースも多い。アメリカの親たちは、「そのほうが子どものためになる」と考える。

が、この日本ではそうはいかない。子どもが軽い不登校を起こしただけで、たいていの親は半
狂乱になる。先日もある母親から電話でこんな相談があった。

何でも学校の先生から、その母親の娘(小二)が、養護学級をすすめられているというのだ。そ
の母親は電話口の向こうで、オイオイと泣き崩れていたが、なぜか? なぜ日本ではそうなの
か? 

●明治以来の出世主義

 日本では「立派な社会人」「社会で役立つ人」が、教育の柱になっている。一方、アメリカで
は、「よき家庭人」あるいは「よき市民」が、教育の柱になっている。

オーストラリアでもそうだ。カナダやフランスでもそうだ。

が、日本では明治以来、出世主義がもてはやされ、その一方で、家族がないがしろにされてき
た。今でも男たちは「仕事がある」と言えば、すべてが免除される。子どもでも「勉強する」「宿
題がある」と言えば、すべてが免除される。

●家事をしない夫たち

 二〇〇〇年に内閣府が調査したところによると、炊事、洗濯、掃除などの家事は、九割近く
を妻が担当していることがわかった。家族全体で担当しているのは一〇%程度。夫が担当して
いるケースは、わずか一%でしかなかったという。

子どものしつけや親の世話でも、六割が妻の仕事で、夫が担当しているケースは、三%(たっ
たの三%!)前後にとどまった。

その一方で七割以上の人が、「男性の家庭、地域参加をもっと求める必要がある」と考えてい
ることもわかったという。
内閣総理府の担当官は、次のようにコメントを述べている。

「今の二〇代の男性は比較的家事に参加しているようだが、四〇代、五〇代には、リンゴの皮
すらむいたことがない人がいる。男性の意識改革をしないと、社会は変わらない。男性が老後
に困らないためにも、積極的に(意識改革の)運動を進めていきたい」(毎日新聞)と(※1)。

 仕事第一主義が悪いわけではないが、その背景には、日本独特の出世主義社会があり、そ
れを支える身分意識がある。そのため日本人はコースからはずれることを、何よりも恐れる。
それが冒頭にあげた、アメリカと日本の違いというわけである。

言いかえると、この日本では、家族を中心にものを考えるという姿勢が、ほとんど育っていな
い。たいていの日本人は家族を平気で犠牲にしながら、それにすら気づかないでいる……。

●家族主義

 かたい話になってしまったが、ボームという人が書いた童話に、『オズの魔法使い』というの
がある。カンザスの田舎に住むドロシーという女の子が、犬のトトとともに、虹の向こうにあると
いう「幸福」を求めて冒険するという物話である。

あの物語を通して、ドロシーは、幸福というのは、結局は自分の家庭の中にあることを知る。ア
メリカを代表する物語だが、しかしそれがそのまま欧米人の幸福観の基本になっている。

たとえば少し前、メル・ギブソンが主演する『パトリオット』という映画があった。あの映画では家
族のために戦う一人の父親がテーマになっていた。(日本では「パトリオット」を「愛国者」と訳す
が、もともと「パトリオット」というのは、ラテン語の「パトリオータ」つまり、「父なる大地を愛する」
という意味の単語に由来する。)

「家族のためなら、命がけで戦う」というのが、欧米人の共通の理念にもなっている。家族を大
切にするということには、そういう意味も含まれる。そしてそれが回りまわって、彼らのいう愛国
心(※2)になっている。

●変わる日本人の価値観

 それはさておき、そろそろ私たち日本人も、旧態の価値観を変えるべき時期にきているので
はないのか。今のままだと、いつまでたっても「日本異質論」は消えない。が、悲観すべきこと
ばかりではない。

九九年の春、文部省がした調査では、「もっとも大切にすべきもの」として、四〇%の日本人
が、「家族」をあげた。同じ年の終わり、中日新聞社がした調査では、それが四五%になった。
たった一年足らずの間に、五ポイントもふえたことになる。これはまさに、日本人にとっては革
命とも言えるべき大変化である。

そこであなたもどうだろう、今日から子どもにはこう言ってみたら。「家族を大切にしよう」「家族
は助けあい、理解しあい、励ましあい、教えあい、守りあおう」と。この一言が、あなたの子育て
を変え、日本を変え、日本の教育を変える。

※1……これを受けて、文部科学省が中心になって、全国六か所程度で、都道府県県教育委
員会を通して、男性の意識改革のモデル事業を委託。成果を全国的に普及させる予定だとい
う(二〇〇一年一一月)。

※2……英語で愛国心は、「patriotism」という。しかしこの単語は、もともと「愛郷心」という意味
である。しかし日本では、「国(体制)」を愛することを愛国心という。つまり日本人が考える愛国
心と、欧米人が考える愛国心は、その基本において、まったく異質なものであることに注意して
ほしい。

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●終わりに……

 こうした人間が、「性(さが)」としてもつ貪欲さ。それと戦うためには、いくつかの方法がある。

 一つは、自分なりの健康論をもつ。自分なりの価値観や幸福観を確立する。健康論はともか
くも、価値観や幸福観は、こうした貪欲さと戦うための、強力な武器となる。「本当に大切なもの
は何か」「どうすれば本当の幸福を自分のものにすることができるか」と。

 それをいつも考えながら、追求していく。その結果として、自分の貪欲さに、ブレーキをかける
ことができる。

……しかし、ここで私は、ハタと、こんなことに気づいた。同じようなテーマを最前面にかかげて
活動している、宗教教団がある。10年ほど前には、いろいろ問題を起こし、話題になった。名
前も、ズバリ『幸福のK』。つまりここから先のことを書くと、私も、彼らと同じことをすることにな
る?

 だいたいにおいて、自分でさえ、本当に大切なものが何かわかっていないのに、それを他人
に向って、とやかく言うほうがおかしい。幸福も同じ。

 だからここから先は、私たちそれぞれ、一人ひとりの問題ということになる。私は私で、自分
の欲望と戦う。あなたはあなたで、自分の欲望と戦う。そして私は私で、自分なりの価値観や
幸福観を確立する。あなたはあなたで、自分なりの価値観や幸福観を確立する。どこまでいっ
ても、これは個人的な問題ということになる。

 で、最後に一言。

 私は、その「ED」という食べ放題の店から出るとき、ワイフに、こう言った。「もう、この店に
は、ニ度と来たくないね」と。

 私はその店の中で食事をしている間、ずっと、自分の中に隠れていた醜悪な「私」を、見せつ
けられているように感じた。「食べなければ損」と考えて食べる。それはまさに醜悪な私そのも
のだった。それにもう一つ。

 あの黒いTシャツの女性だが、とても食事を楽しんでいるようには見えなかった。欲望に命令
されるまま、その人自身の意思というよりは、別の意思によって、動かされているように感じ
た。

 その姿は、まさに、畜舎でエサを一心不乱に食べる、あの家畜そのものだった。だから私
は、ワイフに再びこう言った。

 「値段は安いけど、もうここへは来たくないね。一度で、こりごり」と。ワイフも、同じような印象
をもったらしい。どこか暗い表情をしながら、「私も、いやだわ」と。

 料金は安ければ安いほどよい。しかし、私も、あと何年生きられるかわからない。平均寿命
で計算すると、あと26年。日数にすると、26x365=9490日。

 その中でも、病気の心配をしなくて、食事をとれる日は、どれだけだろうか。9490日という
が、私には、貴重な9490日だ。「まだ、9490日もある」と考える人もいるかもしれないが、私
には、そうは思えない。

その一日一日を、見苦しい生き方で、ムダにしたくない。食事だって、そうだ。家畜がエサをむ
さぼるような食事だけは、もうたくさん。ごめん。したくない。
(040422)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(153)

【近況・あれこれ】

●「防犯xxx」(P社製)を買う

 今度、P社から、「防犯XXX」というソフトが発売になった。

 以前、雑誌で紹介されていたこともあり、迷わず、購入。

 これは防犯用のソフトで、インターネット用カメラと接続して使う。たとえばだれかが部屋に入
ってきたりすると、自動的に動きを感知して、それを記録する。あるいは必要なら、インターネッ
トを通して、どこかへその画像を、転送する。

 数年前だが、あるパソコンソフトメーカーの社長と、昼食をともにしたことがある。そのときそ
の社長が、どんなソフトが求められているかというようなことを、私に聞いた。

 私は、こう言った。

 「これからは、どの家にも、使わないパソコンがゴロゴロするようになる。そういう使っていな
いパソコンを利用して、防犯装置を考えたらいい」と。

 私がそのとき考えた防犯装置は、こんなものだ。

 たとえばいろいろな端末機を接続できるようにする。窓の開閉や、人の動きや会話など。そう
いった変化を、その端末機が感知する。記憶する。あるいはインターネットを通して、その情報
を転送する。

 もちろんこれは私の思いつき。その社長は、おもしろそうに私の話を聞いてくれた。

 で、それから数年。今回「防犯XXX」を発売したのは、P社。もともとは、アメリカ製のソフトを、
日本語版にしたものらしい。だから、私がアイディアを出した社長の会社とは、関係ない。

 しかしいつか、心の中で想像したソフトと、出会うのは、楽しい。うれしい。だから迷わず、購
入した。

 もっとも、購入したからといって、すぐ使うわけではない。本当のところ、あまり必要もない。こ
うしたソフトは、いわば「おとなのおもちゃ」のようなもの。しばらく遊んで、それで楽しければ、そ
れでじゅうぶん。満足。私自身は、ボケ防止のためと思っている。

 そうそう、頭脳というのは、肉体と同じで、使わないと、どんどんとサビついていくそうだ。こうし
たソフトの購入は、そのための経費。値段は、4800円。1000円の割引チケットがあったの
で、3800円。それでボケが防止できるなら、安いものだ。

が、ワイフが「何に使うの?」と。

 「あのね、これがあると、たとえば留守のとき、誰かが無断へ家の中や庭へ入ってきたとき、
それをカメラでパチパチと、とってくれるの」と。

 するとワイフが、珍しく、するどいことを言った。「でもね、パソコンも盗まれたらどうするの?」
と。

 ナルホド! そこまでは考えなかった。しかしこの「防犯xxx」は、とった写真を、即座にインタ
ーネットで、転送してくれる。それに今どき、古いパソコンを盗んでいく、バカな泥棒はいない。
そう言って説明すると、ワイフも、感心していた。

 「すごく頭がいいのね」と。

 我が家は、一見、ボロ家だが、中身は、超ハイテク。ハハハ!


●スライド・ショー

 今度ホームページに、新しくスライド・ショー・コーナーをもうけた。

 私のホームページのトップページ、右上に、そのコーナーがある。興味のある人は、どうか見
てほしい。

 見たい写真の上でクリックすると、写真が、どんどん、スライド方式で、変化していく。何かしら
すごいテクニックを使っているように思う人もいるかもしれないが、このテクニックは、ホームペ
ージの制作ソフトの付録でついていたもの。(私は、「N・2003」を使っている。)

 しかし写真というのは、メモリーをものすごく消費する。写真を、100枚くらい載せると、1〜
1・5MBくらいは、消費する。

 今は、合計で、160MB分まで、ホームページで使えるようになっているが、実際には、そん
なに使えない。一つのサーバーで、現在、48MBのホームページを制作しているが、ソフトの
たちあげ(30分)から、更新(15分)、それに保存(3時間15分)が終わるまでに、たっぷりと4
時間はかかる。

 とくにソフトの保存に時間がかかる。現在、3時間と15分!

 だから実際には、50MB前後が限度。

 しかしおもしろい。楽しい。そのため4月は、カメラをもって、あちこちを歩いた。繰り返しにな
って恐縮だが、興味のある方は、どうか見てほしい。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/

 さて、5月は、何に挑戦してみようか? 今、パソコン雑誌をながめているところ。


●M社の危機

 自動車会社のM社が、倒産の危機に立たされている。従業員数が、数万人というから、日本
経済にとっては、たいへんな問題である。

 そのM社。実は、私にも、こんないやな思い出がある。

 以前、ワイフは、そのM社製の、「MJ」という車に乗っていた。燃費がよいということで、その
車にした。新車で買った。

 が、家にもってきてもらったときから、車輪の内側がさびていた。「?」と思ったが、「車という
のは、そういうものです」という説明を受けて、何となく納得した。

 しかしそれ以後、故障つづき。最初に、窓の開閉ができなくなった。つぎに、その開閉をする
レバーがはずれてしまった。アンテナも簡単に折れてしまった。燃費がよいということだった
が、そういうこともなかった。

 で、何となくだましだまし乗っていたが、最後に、こんな事件が起きた。

 いつものように、ある大きな坂をおりて、四つ角にさしかかったときのこと。突然、ワイフが、
「ハンドルがきかない!」と叫んだ。横にすわっていた私が、ハンドルをもつと、何かにカチンと
ひかかったような感じで、びくとも動かない。

 ワイフは、とっさの判断で、ゆっくりとスピードを落として、そのままカーブをしながら、前進。反
対側の歩道に乗りあげた。

 恐ろしかった。ハンドルがきかない車が、かくも恐ろしいものだったとは、そのときまで知らな
かった。

 で、そのあと、何とか、ハンドルは動くようになったので、そのまま家へ。そしてその翌朝一番
に、M社の販売店へ。その朝のうちに、その車を売ってしまった。

 M社の店員は、「そんなはずはありません」「何かの運転ミスではないですか」の一点張り。
話にならなかった。

 それから約10年後。M社の車の欠陥が、つぎつぎと暴露され始めた。そしてその中には、ハ
ンドルがきかなかったことが原因ではないかと疑われるような死傷事故も、数多く含まれている
ことを知った。

記憶は確かではないが、同じような故障が、当時、30〜40件近く報告されていたのではなか
ったか。私とワイフはそのニュースを聞いたとき、「やっぱりねエ」と、言いあったのを覚えてい
る。恐らく、こうした報告は、氷山の一角。M社は、そうした報告を、隠しつづけた。

 で、今回の危機。

 私とワイフは、そのニュースを見ながら、再び、「やっぱりねエ」「やっぱりしかたないねエ」と。

 私たちは、M社の車が好きだった。デザインがよかった。しかし、その事件以来、M社の車に
は、見向きもしなくなった。そればかりではない。ことあるごとに、「M社の車はやめたほうがい
い」と、みなに話した。

 その結果が、今の危機だと思う。もしあの事件が、東名高速道路かどこかを走っていたとき
に起きたとしたら……。私たちは確実に死んでいた。それを思うと、今回のM社の危機は、起
こるべきして起きた危機だと思う。M社の従業員の人たちには、お気の毒だが、経営者が悪か
った……。


●9490日の人生

日本人の平均寿命を、83歳(男性)とすると、私はあと26年、生きられることになる。私は、現
在、56歳。

その26年に、365日をかけると、9490日という数字が出てくる。あくまでも、運がよければと
いう話だが、つまりこの計算によれば、私は、あと9390日、生きられるということになる。

 この数字には、いろいろな意味が含まれる。

 話が、ぐんと現実的になるが、一日、1万円で生きるとして、9490万円。「9490万円も!」
と、驚いてみたり、「うん、それだけでいいのか?」と、考えこんでみたりする。

 驚くのは、「どうやって、そんなお金を稼いだらいいのか」という思いがあるから。また、「それ
だけでいいの?」と考えこむのは、世の中には、数十億とか、数百億とかいう資産がある人も
いるということ。つづいて、「そんなにあって、どうするのかなあ?」と思ったりする。

 つぎにこの9490日という数字を知ると、「それだけしかないのか?」という思いと、「まだ、そ
んなにあるの!」という思いが、複雑に交錯する。

 もっとも、その9490日のうち、後半部は、生きているだけで精一杯という状態になるかもし
れない。病気にもなるだろうし、頭もボケてくるだろう……。収入も、ぐんと減る。体力も弱くな
り、活動も、鈍ってくる。

 一番不安なのは、失業と、それにたとえばワイフが先に死んだりするようなこと。そういう意味
では、あまり長生きしたくない。ワイフより、長い生きしたくない。

 そういう視点で、ざっと計算してみると、私の人生は、よいところ、あと3〜5000日? 問題
は、その3〜5000日を、どう生きるか、だ。

 まあ、あとになってやり残したことを後悔しないように、今、がんばるしかない。今日できること
は、今日する。今できることは、今、する。懸命にする。そのあとのことは、あとに任せればよ
い。それしかない。

 そう言えば、今日、山荘へ行く途中で、K氏に会った。山荘の石垣を、5年もかけて、組んでく
れた人である。

 が、一度、数年前に、脳梗塞で倒れた。で、また最近、再び倒れた。見ると、左半身をかばう
ように、力なく通りを歩いていた。「こんにちは!」と、車から声をかけたが、そのあとの言葉が
つづかなかった。

 K氏は、顔つきまで変っていた。かつての精悍(せいかん)さは、もうなかった。顔中の筋肉
が、下へたれさがっているかのように見えた。

 人は、ある時期を頂点にして、あとはその坂をころげ落ちるようにして、年をとっていく。ただ
そのときは、気がつかない。自分が頂点にいるときというのは、その状態が、いつまでもつづく
と思う。

 が、やはりころげ落ちていく。「こんなはずはない」「まだ、何とかなる」と思ううちにころげ落ち
ていく。懸命に生きようとがんばればがんばるほど、皮肉なことに、ころげ落ちていく。

 9490日。

 それは私にとっては、どんな人生になるのだろうか。常識的な見方をすれば、まさに下り坂の
人生にちがいない。これから登り坂を歩くことなど、期待していない。それに登り坂を登りたいと
も思わない。そのチャンスも、もうないだろう。

 ただ願わくは、ずっとこのまま、死ぬまで、自分の道を歩いてみたい。目の前に広がる草をか
きわけながら、一歩ずつ、前に歩いてみたい。その先に何があるかわからない。あるいは何も
ないかもしれない。しかし歩ける間に、歩いてみたい。

 この数年、体力はもちろんのこと、知力や気力が、自分でもわかるほど、衰えてきた。以前の
ような好奇心も、もうない。生きザマが、どこかうしろ向きになってきた。保守的になってきた。
「これではいけない」と思うのだが、こればかりは、どうしようもない。

 で、結局は、この繰りかえしになる。「私は、今を、懸命に生きるしかない」と。「あとあと悔い
の残る人生だけは、すごしたくない」と。

 マガジンの読者の中には、私と同年代の人はいるのだろうか。いつもメールをくれる人は、私
より20〜30歳も若い人たちばかり。だからこんなジジ臭い話は、不愉快かもしれない。ここま
で。

 しかし、はやし浩司は、負けない。負けないぞ!

 明日も懸命に生きてやる。負けるものか! ……と力んだところで、今夜は、おやすみなさ
い!

【追記】

この4月は、遊んだぞ!

 富幕山(とんまくざん)にも登ったし、三岳山(みたけざん)、竜が獅山(りゅうがしざん)にも登
った。浜名湖の遊覧船にも乗ったし、浜北市や豊橋市にも遊びに行った。佐鳴湖畔や浜名湖
畔も、散策した。藤枝の蓮華寺湖にも行ってきた。浜北市の園芸センターにも行ったし、森林
公園にも行ってきた。

 明日は、4月25日。日曜日。朝起きたら、またどこかへ遊びに行くつもり。ハハハ。遊んで、
遊んで、遊びまくってやる!

【追記】

 昨夜(4・24)、オリンピック予選ということで、日本対北朝鮮の、女子サッカーを見た。結果
は、3−0で、日本の勝ち。よかった。どういうわけか、胸の中がスーッとした。

 しかしそれにしても、北朝鮮の選手がしたミスは、かわいそう。そのミスが、オウンゴールとな
り、日本は1点を得点。あの1点で、試合の流れは変ってしまった? 北朝鮮側のサポーター
たちの元気も、そのときを境に、急になくなったように思う。

 あの選手は、北朝鮮へ帰ったら、処刑されるかも。処刑されないまでも、収容所送り? それ
を思うと、かわいそう。

 で、これからワイフと、豊田町の藤棚を見に行くつもり。天気は、あいにくと小寒い、曇り空。

 でかける前というのは、いつも、「今日はやめようか」と思う。しかし行動をし始めると、そのま
ま止まらない。勝手に足が動き出す。そして帰ってくるころには、「今日は、楽しかったね」とな
る。人間の心なんて、いいかげんなものだ。
(040425)


●熊野(ゆや)の長藤(豊田町)

 4月25日は、豊田町にあるという、熊野(ゆや)の長藤を見に行ってきた。「長藤」というの
は、長い花をつける藤という意味である。

 浜松駅から10分ほど。料金は、おとな190円(片道)。豊田駅からは、シャトルバスが運行さ
れていた。料金は、片道100円。

 おりて100メートル近く歩くと、その長藤のある寺に着いた。「熊野」と書いて、「ゆや」と読
む。当日は日曜日ということもあって、身動きもままにならないほど、混雑していた。藤の花を
見るというよりは、人ごみを見るために行ったようなもの。

 藤棚のまわりを10分ほど歩いたあと、そそくさと、岐路につく。が、そのとき、昔懐かしい、チ
ンドン屋!

 リーダー格の男の口上(こうじょう)を聞いているうちに、私の子どものころを思い出した。私
は、チンドン屋がくると、いつまでもそのあとについて、歩いていた。そんな思い出が、ふと、脳
裏をかすめた。

 まあ、しかし、思ったより……というか、期待していたより、ずっと小さな寺だった。藤の花を
見ながら、俳句でも……という心境には、とてもなれなかった。

 (写真は、私のホームページの、「お楽しみスライドショー」に収録。興味のある人は、そちら
を見てほしい。)

『人ごみに、まぎれてなごむ 孤独かな』(はやし浩司)


●賛助会へのお礼

 今年も、3人の人から、賛助会への協力があった。金沢のTさん。長野県のUさん。それに愛
知県のYさん。ありがとうございました。この場を借りて、お礼申しあげます。

 もっとも、だれに頼まれるわけでもなく、自分でこうして勝手にマガジンを発行しているわけだ
から、賛助会というのも、おかしい。読んでくれる人がいるというだけでも、感謝しなければなら
ない。

 しかし目的がないわけではない。

 現在、賛助会の積み立て金が、3万円と少しになった。(一円も、まだ使っていない!)このお
金が、14、5万円になったら、新しいパソコンを買うつもり。先はまだ遠いが、がんばる。

 今、ほしいのは、F社製の、PEN4(ペンチアム4という意味)、120G(ギガ)というマシーン。
インターネットで値段を調べたら、28万円だって! もっとも、お金がたまるころには、さらに性
能のよいパソコンが売りに出されていることだろう。

 今年は、今のパソコンでがまんするしかない。ちなみに今、この原稿を書いているパソコン
は、F社のFMV。17インチワイド画面のもの。いろいろなパソコンを使ってみたが、やはりF社
のパソコンが、もっとも、性能が安定しているように思う。ただ、キーボードが、どこかたよりな
い。これはノートパソコンのことだが……。

 私のパソコン評……。

 N社……。いろいろクセがあって、使いにくい。昨年、ノートを一台買ったが、故障つづき。窓
口に相談すると、修正プログラムをダウンロードしてほしいとのこと。で、そのあとは、快調に動
くようになった。しかし私のワイフのようなユーザーだったら、「ダウンロードしてくれ」と言われた
だけで、パニック状態になってしまうはず。

 T社……。T社のノートパソコンは、2台使ってみたが、どうも、かわいげがない。事務機器と
いう感じ。いくら使っても、愛着がわかない。パソコンは、ただ単なる事務機器ではない。電気
製品でもない。T社は、そういう基本的なことがわかっていないようだ。

 P社……。1台買ったが、「P社のノートパソコンは、やめたほうがよい」というのが、率直な意
見。私が買ったのは、CDユニットが、着脱できる「L・NOTE」というもの。が、買ってから半年く
らいの間、我が家と修理工場を、3往復もした。

 意外とすばらしいのは、ソーテックのパソコン。最近、三男に買ってやったが、あそこまです
ばらしいとは期待していなかった。値段も安いが、性能もよい。今度、ノートパソコンを買うとし
たら、ソーテックと決めている。(実名を出して、すみません。これは宣伝です。)

 S社のパソコンと、M社のパソコンは、使ったことがないので、わからない。本当は、S社のパ
ソコンもほしい。しかしS社のパソコンは、どこか排他的。一度S社のパソコンにしたら、周辺機
器など、S社のものばかりでそろえなければならない。そういう感じがする。(「そういうことはあ
りません」と、パソコンショップの店員さんは、言うが……。)

 だからときどき迷ったが、結局は、S社のパソコンは、買ったことがない。M社のパソコンは、
どうもパッとしない。はじめから、選択肢の中に、入っていない。

 ……ということで、賛助会の話から、大きく脱線。賛助会のほうを、みなさん、どうかよろしく!


●K国の爆発事故

 K国のR市というところで、きわめて大規模な爆発事故が起きた。半径500メートルの範囲
の民家が、爆風などで全壊したというから、ただごとではない。

 悲惨だったのは、近くの小学校が直撃されたこと。死者の大半は、その学校に通う子どもた
ちだったという。韓国系のメディアの「朝鮮日報」は、「下校の準備をしているところを、襲われ
た」と報じている。

 原因は、これから追々解明されていくだろう。今のところ事故説が有力だが、テロ説も流れて
いるという。同じく「朝鮮日報」は、「現在、北朝鮮当局が龍川、新義州一帯に対し一般人の出
入りを統制するなど、反政府勢力の摘発および逮捕作業を展開していると伝えられている。今
回の爆発事故とかかわりがあるようだ」と伝えている。

 単なる事故なら、こうした措置は必要ないはず? 香港の「星島日報」は「24日、金正日総
書記が乗車した専用列車が龍川駅を通過した時間は、事故の発生する9時間前ではなく30
分前だ」と報道している。

 何がなんだか、さっぱりわけがわからない国、それが今のK国である。つまり金XXが、R市を
通り過ぎたのは、9時間前ではなく、30分前だというのだ。もしそうなら、がぜん、金XXの暗殺
をねらったテロの可能性が高くなる。

 一見、一枚岩に見えるK国だが、内部は、どうやらガタガタのようだ。

●あらゆる力をもつものは、すべてを恐れる。(コルネイユ「シナー四幕二場」)
●羊が何匹いるかは、狼(おおかみ)には、関係なし。(ヴェルギリウス「農耕詩」)
●独裁とは、一為政者が、その権力を人々の利益のためではなく、彼自身の個人的な目的の
ために、彼自身の利益、彼自身の欲望のために用いることである。(ロック「市民政治論」)


 『あらゆる力をもつものは、すべてを恐れる』……これからも金XXは、毎日、何かにおびえ、
ビクビクしながら暮らさなければならないのだろうか。

 その点、私なんか、本当に気が楽で、よいと思う。もともと何もないから、失うものもない。こ
の自由感覚こそ、私の最大かつ最高の財産である。

【追記】

 この事件(事故ではなく、事件)に関して、韓国日報は、つぎのように追加報道している(4・2
5)。

「金正日総書記が北京に出発した19日、龍川郡の国家保衛部の前で『打倒』と書かれた不穏
な反政府文書が発見され騒動となり、龍川現地ではこれを巡り、『誰かがテロを起こしたはず』
という噂が拡散している。  
 
 また、別の消息筋は、『そのため金総書記が帰路に龍川駅に寄らず、新義州から車で平壤
(ピョンヤン)に移動したという話も聞いた』と話した」と。

 この事件は、ますます謎めいてきた。そんな感じがする。
 

●ホームページの宣伝

 自分でホームページを作っている人も多いだろうと思う。神奈川県に住む、K氏より、「どうす
れば、もっと多くの人に自分のホームページを見てもらえるか」という質問をもらった。

 一つの方法として、グーグル、ヤフーなどの各検索エンジン会社に、自分のサイトを登録する
という方法がある。

+++++++++++++++++++++

【Kさんへ】

メール、ありがとうございました。

いつもマガジンのご購読、ありがとうございます。

ご質問の件ですが、いわゆるホームページの宣伝と
いうことになります。

方法は、たくさんあります。

(1)まず、この世界には、7〜8つの検索エンジン会社
というのがあります。

よく知られているのが、ヤフー、グーグル、インフォシーク、
BIGLOBEなどです。

それぞれの検索エンジン会社に、自分のサイトを登録します。

方法は簡単です。

たとえばインフォシーク社の場合ですが、

http://www.infoseek.co.jp/Topic/14/189

をクリックしてみてください。
一番下のところに、作業バーがあります。
そこに「サイト登録」というコーナーがあります。

このサイト登録で、Kさんのホームページを
登録します。

こうすれば、インフォシークで、たとえば「K」を
検索すると、KさんのHP(ホームページ)に、ヒット
できるようになります。

ヤフーで登録するとよいのですが、審査基準が
きびしいので、なかなか登録してくれません。

同じようにして、BIGLOBE、GOOGLEなども
登録します。

お金を出せば(1〜2万円程度)、すべての検索エンジン会社に
代理登録してくれる会社もあります。

つぎはBIGLOBE社のサイト登録コーナーです。

http://search.biglobe.ne.jp/

この一番下にも、「サイト登録コーナー」があります。

ここでKさんのサイトを登録します。

このとき、つぎのようなコツがあります。

登録するとき、検索キーワードを入力するところがあります。

そこへは、「神奈川県 H市 K 花作りなどなど」
相手が検索しそうなキーワードを、できるだけたくさん入力
しておきます。

こうすると、たとえばだれかが、「神奈川県 K」などと
キーワード検索すると、Kさんのホームページがヒットできるように
なります。

グーグルは、一番人気のある検索エンジンです。

http://www.google.co.jp/intl/ja/about.html

ここをクリックすると、右の上から三番目に、やはり
サイト登録があります。

ここで登録します。

有料で代理登録してくれるところもありますが、
インチキ臭いのも多いので、慎重になさってください。

(というのも、こうして
自分でやればタダですが、そういうのでお金を
とるわけです。ご注意!)

こうして検索エンジンに、自分のサイトを登録していきます。
こうすると、より広く、KさんのHPが、紹介されることになります。

これをHPデビューといいます。つまりHPをいよいよ世間に
公開するということです。

なお、ヤフーのサイト登録はここです(↓)

http://add.yahoo.co.jp/docs/include.html

しかしヤフーは、ここにも書いたように、
審査基準がたいへんきびしく、
まず登録してくれないものと思ってください。
大企業とか、各種研究機関とか、そういうところで
ないと無理なようです。

しかし、やってみる価値はあります。

こうしてこまめに、自分のサイトを、あちこちの
検索エンジン会社に登録していきます。

ここに紹介したのは、日本を代表する会社ばかりですので
安心して登録してください。

以上が、検索エンジン会社への登録です。
なおインフォシーク社は、有料(1万円前後)で、代理登録
してくれるサービスもしています。

一度、検討してみられたら、どうでしょうか。

今日は、これで失礼します。

++++++++++++++++++++

【マガジン読者のみなさんへ】

 実のところ、私は、自分のホームページを広く公開していることについて、心のどこかで迷っ
ている。

 この世界では、原稿の盗用は日常茶飯事。それにすべてが、無料、無料、すべて無料。中に
は、心ない読者もいる。悪意をもった読者もいる。無料なのはよいのだが、そういう読者をどう
するかという問題がある。

 そんなわけで、多くの人に読んでもらえるのはうれしいが、しかし、このところ、「それではまず
いのでは……」と思い始めている。

 そこで、この5月の中旬から、ホームページの一部を、非公開にすることにした。が、ご心配
なく。マガジン読者の方は、これからも私のホームページを今までどおり、読んでもらえるように
した。

 今までのトップページから、(ENTER)→(9・9・5)のパスワードを入れて、先に進んでほし
い。会員専用のトップページが現れる。もし何度も私のサイトへきてもらえるようなら、そのペー
ジを「お気に入り」に登録してほしい。
(040426)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(154)

【今週の幼児教室】

 今週は、「声を出す」をテーマに指導した。
 まず大声を出させる。思いっきり、大声を出させる。幼児の指導は、すべて、ここから始ま
る。

 私は、子どもたちに声を出させるために、いくつかの(口おばけ)を使う。画用紙で作った、口
の形の模型である。これを動かして声を出させていると、子どもたちは、つられて声を出すよう
になる。

 いくつかのコツがある。

 少し声を出したら、すかさずほめる。「いい声だ」「すばらしい声だ」と。それに、笑いをまぜ
る。

 これを繰りかえしていると、やがて、子どもたちは、大声でしゃべるようになる。

 子どもの世界では、伸ばすのはたいへん。しかしおさえるのは、簡単。「大きな声を出させる」
のは、たいへん。「小さな声にする」のは、簡単。

 が、声を出そうとしない子どもも、いる。年中児で、10人中、2〜3人はいる。いろいろな理由
と原因がある。心の問題が、からんでいることもある。

 しかしそういう子どもでも、ゲラゲラと笑わせることで、心を開放させると、「なおる」。数か月
単位の時間がかかることもあるが、やがて声を出すようになる。私たちの世界では、「なおす」
という言葉は、安易に使えない。それ以前の問題として、その子どもを診断したり、診断名をつ
けることは、タブー中のタブー。

 自閉症児にしても、かん黙児にしても、わかっていても、それを親に告げることはできない。
あくまでも知らぬフリをして、指導する。

 しかしいつも笑わせていると、ふとしたきっかけで、それが「なおって」しまうことがある。声を
出せなかった子どもが、声を出す。声を出せる子どもにしてみれば、何でもないことかもしれな
いが、それはたいへんなこと、である。

 昔、こんなことがあった。

 幼稚園で働いているころのこと。いつものように、園庭で、運動の指導をしていると、廊下に
並んだ先生たち数人が、私たちのほうを見ながら、「あの子が、しゃべっている!」「しゃべって
いる!」と叫んでいるではないか。

 見ると、S君(年長児)だった。このことはあとから聞いたことだが、S君は、入園してからとい
うもの、幼稚園では一言も話さなかった。しかしどういうわけか、私の前ではしゃべった。

 私は運動の指導をするときも、それができるようにしようなどとは、考えたことがない。まず、
子どもを楽しませる。ついでに笑わせる。子どもといっしょになって、ヘマをしてみせる。それを
繰りかえす。

で、私は気がつかなかったが、つまりS君がそういう子どもということには気づかなかったが、S
君は、私の前では、しゃべった!

子どもを笑わせるということには、そういう不思議な力がある。どういう脳の作用によるものか
は知らないが、そういう力がある。

 英語の教育格言にも、『楽しく学ぶ子どもは、よく学ぶ』というのがある。英語では、「Happy 
learners learn best」という。これはまさに子どもを指導するときの、大原則ということになる。

【追記】

 ただし一つだけ、この方法には、限界がある。

 もともと多動性のある子どもや、多弁性のある子ども、さらにイメージが脳の中で乱舞する子
どものばあい、この指導法は、あまり適さない。

 子どもによっては、ノリまくって、教室の秩序を乱してしまうことがある。ばあいによっては、破
壊する。

 この指導方法は、どこか内閉している子ども、萎縮したり、自閉している子どもに、効果があ
る。自信をなくした子どもや、勉強嫌いの子どもには、とくに適している。おおざっぱな言い方を
すれば、そういうことになる。


●英語教育の限界

 私は、1972年の終わりには、幼児向けの英語教室を開いた。このH市でも、私が最初だっ
た。

 そして80年ごろには、毎年、英語検定試験で、コンスタントに合格者を出すまでになった。

 ある年は、3級合格者(小4、1人)、4級合格者(小3、3人)を出したこともある。もともと10
人足らずの小さな教室だった。それに当時は、小学3年生の4級合格者は、全国でも10人い
るかいないかという時代だった。あるとき私は、こう思った。

 「全国の合格者の3分の1は、うちの生徒だ」と。これは決して、ウソではない。誇張でもな
い。

 しかしそのうち、限界を感ずるようになった。

 子どもに英語を教えることで、一番苦労するのは、どうすれば、そこに見える(カベ)を破るこ
とができるかということ。

 子どもに英語を教えていると、最初のころは、伸びる。が、やがて、(覚える量)と、(忘れる
量)が、ほぼ同じになる。こういう状態になると、いくら教えても、子どもは、伸びない。同じこと
を最初から、繰りかえすこともある。

 これが、私がいう(カベ)である。

 そこで学習量をふやしたり、時間数をふやしたりする。しかし相手は、子ども。子ども自身が
それを望んでいればよいが、そうでないときには、かえって子どもの、負担になってしまう。無
理をすれば、勉強をいやがるようになる。

 そこで受験勉強では、たとえば目標の進学校をもたせたり、おどしたり、叱ったりする。しかし
子どものばあいは、そうはいかない。どこか、腫(は)れもに触れるような、教え方になる。

 それにもう一つ。

 教え方を誤ると、どこか暗記の学習のようになってしまう。まさにオウムがえしの暗記。そこで
私はある時期、毎週、いろいろな国の人を呼んできて、その国の話をしてもらったり、言葉を教
えてもらったりしたことがある。

 が、親たちは、それをあまり喜ばなかった。まだ旧態依然の「勉強観」の残っている時代だっ
た。そうした指導を、親たちは、「遊び」と考えた。この世界では、親の意向に反しては、仕事は
できない。

 そのうち、外人講師が、このH市にも、どんと現れるようになった。今から17、8年くらい前の
ことではなかったか。当時の親たちは、「講師が外人」というだけで、その教室に飛びついてい
った。と、同時に、私の英語教室は、そのまま閉鎖状態に追いこまれた。

 私は今でも、細々と、本当に細々と、英語を教えている。月曜日の一時間だけで、生徒数
は、5人。しかしこの子どもたちが、すばらしい。性格もよいが、伸びやかで、明るい。一時間の
間、笑ってばかりいる。

 しかし、ここが重要なのだ。

 いつか子どもたちは、別の機会に、べつの場所で、英語に触れることがあるだろう。そういう
とき、「英語」と聞いただけで、その楽しさが、心の中に充満する。つまりそういう思い出が、そ
のとき子どもたちを前向きに引っぱっていく。

 私が今、すべきことは、そういう「思い出」を、できるだけたくさんつくってあげること。

英語の指導を、ほぼ30年以上もしてきた私の、それが今、ここで言える結論のようなものでは
ないかと思う。


●仙台市にお住まいの、YDさん(母親、34歳)より

 仙台市にお住まいの、YDさんより、こんな相談をいただきました。少し考えてみます。

++++++++++++++

私の今、抱えている育児の悩みです。
二女(MK)のことです。

二女は、幼稚園にこの4月、年少児として、入園しました。
が、園の生活に、まったく馴染めないのです。

まあ、そのうちになれるだろう・・・という感じではないのはということは、
こどもの様子を見ていて、すぐ分かりました。

まったくしゃべらず、笑わず、返事さえ・・・
飲まず食わずで、そのうちに寝てしまうそうです。
(昼寝の習慣はここ1年位ありませんでした。)

園を出ると、みるみる元気のでる、いつもの二女です。

先生方も最初は、「そのうちなれますよ。」とおっしゃっていましたが、
今朝は、「どうしていいか分からない」と言っていました。

彼女にとって幼稚園は、ストレスでしかないのではと・・。
あの小さな体で孤独に耐えているかと思うと、苦しくなります。

普段の性格は非常に元気、明るくイタズラっ子、
人見知りは少し激しいかと思います。

このまま園に通わせながら、時が経てば、
慣れるものであれば、私も少し辛いですが、行かせたいところです。

そのうち慣れるという問題でないのであれば、
すぐにでも辞めさせてラクにしてあげたいと思っています。

アドバイスをお願いします。ちなみに、上に小2の女の子。下に2歳の
男の子がいます。

++++++++++++++

 一番、気になるのは、「まあ、そのうちになれるだろう・・・という感じではないのはということ
は、こどもの様子を見ていてすぐ分かりました。まったくしゃべらず、笑わず、返事さえ・・・。飲
まず食わずで、そのうちに寝てしまうそうです」というところです。

 これだけでは様子がよくわかりませんが、先生でさえ、「どうしていいか分からない」と言って
おられるところから判断すると、(かん黙症)が、疑われます。園を離れて、家の中では、「非常
に元気、明るくイタズラっ子」というところも、そうです。

 一度、お近くの保健所、もしくは保険センターで、育児相談を受けてみられてはどうでしょう
か。

 こうした問題は、まず、一番心配な問題から、順に、消去法で解決していきます。(かん黙症)
でなければ、(集団恐怖症)(学校恐怖症)(対人恐怖症)……と。さらには(母子分離不安)(赤
ちゃんがえり)(心身症)……と、です。

 少なくとも、YDさんが考えておられるように、ただ単なるストレスだけの問題ではないように思
います。

 本来なら、お母さんがそばについてあげて、慎重に、ただひたすら慎重に、薄いガラス箱を扱
うかのように、少しずつ、集団に慣れさせるのがよいです。この時期の子どもは、約3分の1
が、強引な指導や無理な指導になじめず、それぞれ、独特の症状を示します。

 母親から離れることができない。集団を拒否する。なじめない。かたまる。無言を守る。がん
こになる。かたくなになる、など。こうした症状は、この時期、ごく当たり前の症状で、それほど
心配しなくてもよいです。それこそ先生がおっしゃったように、「そのうち慣れる問題」です。

 さらにYDさんのばあい、下に2歳の男の子がいるということで、(赤ちゃんがえり)がこじれた
ことによる、情緒不安症状も考えられます。どこかで親に対して、はげしい欲求不安を感じたの
かもしれません。

 この時期にかぎらず、子どもの心は、本当にデリケートです。とくに親の愛情問題がからんだ
ときは、そうです。決して、安易に考えてはいけません。つまりそれだけ、ていねいに、かつ慎
重に考えてください。

 いただいたメールの範囲、また私の立場では、これ以上のことは、何も言えませんが、以上
のことを参考に、ドクター、園の先生などと、つまり直接、お嬢さんを見てくれる人と相談しなが
ら、YDさんが、最終的に判断なさるのがよいかと思います。

 あまりお力になれなくてすみません。なお、いただいたメールを、小生のマガジンに使わせて
いただきたいので、よろしくお願いします。不都合な点があれば、至急お知らせください。訂正
いたします。

 メール、ありがとうございました。



●反戦主義

 憎しみや、悲しみを、武器にかえてはいけない。
 憎しみや、悲しみがあれば、それを思想にかえる。心にかえる。

 怒りや、うらみを、喧嘩にかえてはいけない。
 怒りや、うらみがあれば、それを思想にかえる。心にかえる。

 相手にぶつかるな。自分にぶつかれ。
 相手に求めるな、自分に求めろ。
 憎しみや、悲しみは、つぎの憎しみや、悲しみを呼ぶだけ。
 怒りや、うらみは、つぎの怒りや、うらみを呼ぶだけ。

 憎しみや、悲しみを感じたら、考えろ。考えて、文にせよ。
 怒りや、うらみを感じたら、考えろ。考えて、文にせよ。

 相手にすべき敵は、その相手ではない。
 相手にすべき敵は、私たち自身。私たちの中の、私たち自身。
 私たちの敵は、そこにいる敵ではない。
 私たちの敵は、争いそのもの。喧嘩そのもの。
 私たちの敵は、戦争そのもの。

 もし私たちに、私たちを守る最大のシールドがあるとするなら、
 それは、私たちがつくりあげた、思想そのもの。
 その思想が、私を守り、あなたを守る。

 思想が、あなたの憎しみや、悲しみに勝ったとき、
 思想が、あなたの怒りや、うらみに勝ったとき、
 あなたの心の中に、かすかなあわれみが生まれる。
 そのかすかなあわれみが、かぎりなくあなたを大きくする。
そしてかぎりなく、相手を小さくする。

 そのときあなたは、こう知るだろう。
 何て、バカな敵を相手にしていたのだろう、と。
 と、同時に、あなたは、憎しみや、悲しみや、
 そして、怒りや、うらみから、解放される。


●K国での爆発事件(2)

 4月22日に、K国R市で起きた、列車爆発事件には、謎が多い。

 4月27日(今日)、現場の写真などがやっと公表されるようになった。一応、「事故」ということ
になっている。死者も、160人程度ということになっている。しかし現場に居合わせた華僑たち
は、「笑わせるな」(「朝鮮日報」)と語ったという。

 160人程度のはずがないというのである。

 そんな最中、首都P市では、恒例の軍事パレードが行われたという。ふつうなら……という言
い方は、K国についてはできないが、ふつうなら、軍事パレードどころではないはず。テレビの
報道によれば、P市の市民たちには爆発事故のことは知らされていないという。そのせいか、
パレードでフォークダンスを楽しむ男女は、底抜けに明るい表情をしていた。

 最大の謎は、ここである。

 なぜ、こういう時期に、金XXは、軍事パレードを強行したか。

 実は、パレードをしなければならない、内部事情があったからではないのか。

 金XXは、4月の中旬、中国を訪問している。そしてその帰りに、R市を列車で通過している。
公式の報道によれば、爆発事故の9時間前に通過していることになっている。しかし実際に
は、そうではなく、爆発事故の30分前に通過していたという説がある。

 金XXは、爆発事故の1時間前に、中国の国境近くで目撃されている。さらに朝鮮日報の報道
によると、となりのS駅で、1時間ほど、S市の高官と会談をしているという。

 となると、まさに爆発事故は、金XXがR市を通過するときに起きたということになる。つまり、
今回の事故は、事故ではなく、事件。金XXをねらったテロ事件の可能性が、ぐんと高くなる。

 そこであの爆発事故(事件でもよい)のあと、K国は、必死になって、事故そのものをもみ消
そうとした。3日後から、国際赤十字の係官が現地を訪れているが、「死傷者が見当たらない」
と報告している。

 その2日間で、K国は、死傷者たちをきれいに片づけてしまった(?)。驚くべき、行動力であ
る。

 同じく朝鮮日報によると、その爆発事故の直後から、R市の市民たちは、外出と移動などを
禁止されたという。同時に、徹底した反政府分子の取り締まりが始まったという。

 こういう最中、4月25日、軍事パレードの日がやってきた。

 さあ、あなたなら、軍事パレードを中止するだろうか。それとも、強行するだろうか。金XXの立
場で考えてみてほしい。

 あの爆発事故が、ただ単なる事故なら、パレードを中止する。そして救援活動をしながら、国
の長としての度量を、国内に誇示する。

 しかしあの爆発事故が、金XXをねらったテロだとするなら、あなたはパレードを中止するだろ
うか。もし中止すれば、テロに屈したことになる。だから軍事パレードを強行するしかない。

 言いかえると、軍事パレードを強行したということ自体、あの爆発事故が、ただの事故ではな
いことを示す。

 これはあくまでも私の憶測である。しかし国際情勢も、自分がもつ常識を手がかりにすると、
すんなりと理解できるときがある。この事件も、そうだ。

 追々、この爆発事故は、真相が解明されることだろう。この記事がマガジンに載るのは、5月
の終わり。そのころには、何らかの結論が出ているかもしれない。そのとき、ここに私が書いた
ことが正しかったのか、まちがっていたのか、それがわかるはず。

 そのときのために、こうして今、私の憶測を、記録しておく。いよいよ金XX、危うし!
(2004年4月27日)


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(155)

●孤独と安

 孤独さんと、不安さん。いつも、あなたは、私のそばにいる。

 ああ。それとも私は、もう敗北を認めるときにきているのか?
 戦うことをやめて、あなたを受け入れる時期にきているのか?

 こんにちは、孤独さん。
 こんにちは、不安さん。

 また、おいでになりましたね。
 あなたのおかげで、私は、いつも自分を振りかえる。
 そして、そこに本当の私を発見する。

 ビクビクしながら、恐れながら、かろうじて生きていくのは、
 もうたくさん。もうこりごり。もういやだ。

 しかしね、孤独さん。そして不安さん。
そう、あなたがやってくるたびに、私は、
 何が大切で、何が大切でないかを、知る。

 私は、もう、あと何十年も生かしてほしいとは願わない。
 しかしたった一年でもよい。一か月でもよい。
 これが私だという、そんな人生を、思う存分、私は生きてみたい。
 何のために生きてきたのか、それがわかる人生を、生きてみたい。

 孤独さん、不安さん、あなたが、それを私に、教えてくれる。

+++++++++++++++++

●孤独と不安 

 私は、今まで、孤独や不安というのは、戦うべきものと考えてきた。しかし、どうあがいたとこ
ろで、この孤独や不安とは、戦えない。戦えるはずもない。

 それは人間が、この宇宙で、知性や理性とひきかえに与えられた、原罪のようなものではな
いか。

 今夜も、NHKのニュースを見終わったあと、バラエティ番組の一つを見た。見たというより、
たまたま見てしまった。

その中で、二人の若い女性と、一人の男性が、「ふった」「ふられた」「取った」「取られた」の、
愛憎劇を展開していた。

 私はその男女を見ながら、「人間も、サルみたいだなあ」とか、反対に、「サルと人間は、どこ
がちがうのだろう」と考えた。

 ただ一つだけ、うらやましく思ったのは、その男女が、孤独や不安とは、無縁の世界に住んで
いるように見えたこと。そうした軽薄な愛憎劇を繰りかえしながら、その愛憎劇に、自分たちの
人生のすべてをかけていたこと。

 まさにアホのような男性。どこからどう見ても、アホのような男性。一片の知性も、理性も感じ
させなかった。そんな男性を取りあって、二人の女性が、「友情を裏切った」「裏切っていない」
と、やりあう。

 「バカだなあ」と思うと同時に、そこまでバカになりきれる、その男女が、うらやましかった。

 いやいや、「うらやましく思った」というのは、まちがい。もしここに神様がいて、私に、もう一
度、青春時代にもどしてやるといっても、そんなアホな男女にもどるくらいなら、お断り。今のま
ま、年をとって、死んだほうが、ずっとよい。

 くだらない人生だったら、何百回生きたところで、そして何百年生きたところで、同じ。……と
いうのは、言い過ぎ。それはわかっている。今の今でさえ、懸命に生きようとしている人はいくら
でもいる。

 それにどんな人にも、それぞれ、生きる目的や意義がある。そしてそうした目的や意義は、そ
の人自身が決めること。他人の私が、とやかく言ってはいけない。

 ここでも、私はその若い男女をさして、「アホだなあ」と思った。しかしその私が、若いころどう
だったかというと、それほどちがわなかったような気がする。私も、いつもそのバカなことをして
いた。そうした男女を、笑う資格など、どこにもない。

 若さの特権。それは、自分たちの老後が見えないこと。孤独や不安があるとしても、その孤
独や不安は、質的に、私たちのもつそれとは異なる。しかし、もし、人間に、孤独や不安がなか
ったら、人間は、いつまでたっても、生きている喜びを知ることはないだろう。

 孤独や不安は、いやなものだ。が、戦って、戦えるような相手ではない。大切なことは、その
孤独や不安と、どううまくつきあうかということ。あるいはそれを避けながら、どううまく生きるか
ということ。

 今朝、それを発見した。

+++++++++++++++++++++

 これに関連して、
 以前、こんな原稿を書きました。
 二作、添付します。

+++++++++++++++++++++

『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり』

●密度の濃い人生

 時間はみな、平等に与えられる。しかしその時間をどう、使うかは、個人の問題。使い方によ
っては、濃い人生にも、薄い人生にもなる。

 濃い人生とは、前向きに、いつも新しい分野に挑戦し、ほどよい緊張感のある人生をいう。

薄い人生というのは、毎日無難に、同じことを繰り返しながら、ただその日を生きているだけと
いう人生をいう。人生が濃ければ濃いほど、記憶に残り、そしてその人に充実感を与える。

 そういう意味で、懸命に、無我夢中で生きている人は、それだけで美しい。しかし生きる目的
も希望もなく、自分のささいな過去にぶらさがり、なくすことだけを恐れて悶々と生きている人
は、それだけで見苦しい。こんな人がいる。

 先日、三〇年ぶりに会ったのだが、しばらく話してみると、私は「?」と思ってしまった。同じよ
うに三〇年間を生きてきたはずなのに、私の心を打つものが何もない。話を聞くと、仕事から
帰ってくると、毎日見るのは、テレビの野球中継だけ。休みはたいてい魚釣りか、ランニング。
「雨の日は?」と聞くと、「パチンコ屋で一日過ごす」と。

「静かに考えることはあるの?」と聞くと、「何、それ?」と。そういう人生からは、何も生まれな
い。

 一方、八〇歳を過ぎても、乳幼児の医療費の無料化運動をすすめている女性がいる。「あな
たをそこまで動かしているものは何ですか」と聞くと、その女性は恥ずかしそうに笑いながら、こ
う言った。

「ずっと、保育士をしていましたから。乳幼児を守るのは、私の役目です」と。そういう女性は美
しい。輝いている。

 前向きに挑戦するということは、いつも新しい分野を開拓するということ。同じことを同じよう
に繰り返し、心のどこかでマンネリを感じたら、そのときは自分を変えるとき。あのマーク・トー
ウェン(「トム・ソーヤ」の著者、一八三五〜一九一〇)も、こう書いている。

「人と同じことをしていると感じたら、自分が変わるとき」と。

 ここまでの話なら、ひょっとしたら、今では常識のようなもの。そこでここではもう一歩、話を進
める。

●どうすればよいのか

 ここで「前向きに挑戦していく」と書いた。問題は、何に向かって挑戦していくか、だ。私は「無
我夢中で」と書いたが、大切なのは、その中味。

私もある時期、無我夢中で、お金儲けに没頭したときがある。しかしそういう時代というのは、
今、思い返しても、何も残っていない。私はたしかに新しい分野に挑戦しながら、朝から夜ま
で、仕事をした。しかし何も残っていない。

 それとは対照的に、私は学生時代、奨学金を得て、オーストラリアへ渡った。あの人口三〇
〇万人のメルボルン市ですら、日本人の留学生は私一人だけ。そういう時代だった。そんなあ
る日、だれにだったかは忘れたが、私はこんな手紙を書いたことがある。

「ここでの一日は、金沢で学生だったときの一年のように長く感ずる」と。

決してオーバーなことを書いたのではない。私は本当にそう感じたから、そう書いた。そういう
時期というのは、今、振りかえっても、私にとっては、たいへん密度の濃い時代だったということ
になる。

 となると、密度の濃さを決めるのは、何かということになる。これについては、私はまだ結論
出せない。が、あくまでもひとつの仮説として、こんなことを考えてみた。

(1)懸命に、目標に向かって生きる。無我夢中で没頭する。これは必要条件。
(2)いかに自分らしく生きるかということ。自分をしっかりとつかみながら生きる。
(3)「考える」こと。自分を離れたところに、価値を見出しても意味がない。自分の中に、広い世
界を求め、自分の中の未開拓の分野に挑戦していく。

 とくに(3)の部分が重要。派手な活動や、パフォーマンスをするからといって、密度が濃いと
いうことにはならない。密度の濃い、薄いはあくまでも「心の中」という、内面世界の問題。

他人が認めるとか、認めないとかいうことは、関係ない。認められないからといって、落胆する
こともないし、認められたからといって、ヌカ喜びをしてはいけない。あくまでも「私は私」。そうい
う生き方を前向きに貫くことこそ、自分の人生を濃くすることになる。

 ここに書いたように、これはまだ仮説。この問題はテーマとして心の中に残し、これから先、
ゆっくりと考え、自分なりの結論を出してみたい。
(02−10−5)

(追記)

 もしあなたが今の人生の密度を、二倍にすれば、あなたはほかの人より、ニ倍の人生を生き
ることができる。一〇倍にすれば、一〇倍の人生を生きることができる。仮にあと一年の人生
と宣告されても、その密度を一〇〇倍にすれば、ほかのひとの一〇〇年分を生きることができ
る。

極端な例だが、論語の中にも、こんな言葉がある。『朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すと
も可なり』と。朝に、人生の真髄を把握したならば、その日の夕方に死んでも、悔いはないとい
うこと。

私がここに書いた、「人生の密度」という言葉には、そういう意味も含まれる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


●密度の濃い人生(2)

 私の家の近くに、小さな空き地があって、そこは近くの老人たちの、かっこうの集会場になっ
ている。風のないうららかな日には、どこからやってくるのかは知らないが、いつも七〜八人の
老人がいる。

 が、こうした老人を観察してみると、おもしろいことに気づく。その空き地の一角には、小さな
畑があるが、その畑の世話や、ゴミを集めたりしているのは、女たちのみ。

男たちはいつも、イスに座って、何やら話し込んでいるだけ。私はいつもその前を通って仕事
に行くが、いまだかって、男たちが何かの仕事をしている姿をみかけたことがない。悪しき文化
的性差(ジェンダー)が、こんなところにも生きている!

 その老人たちを見ると、つまりはそれは私の近未来の姿でもあるわけだが、「のどかだな」と
思う部分と、「これでいいのかな」と思う部分が、複雑に交錯する。「のどかだな」と思う部分は、
「私もそうしていたい」と思う部分だ。

しかし「これでいいのかな」と思う部分は、「私は老人になっても、ああはなりたくない」と思う部
分だ。私はこう考える。

 人生の密度ということを考えるなら、毎日、のんびりと、同じことを繰り返しているだけなら、そ
れは「薄い人生」ということになる。言葉は悪いが、ただ死を待つだけの人生。そういう人生だ
ったら、一〇年生きても、二〇年生きても、へたをすれば、たった一日を生きたくらいの価値に
しかならない。

しかし「濃い人生」を送れば、一日を、ほかの人の何倍も長く生きることができる。仮に密度を
一〇倍にすれば、たった一年を、一〇年分にして生きることができる。人生の長さというのは、
「時間の長さ」では決まらない。

 そういう視点で、あの老人たちのことを考えると、あの老人たちは、何と自分の時間をムダに
していることか、ということになる。私は今、満五五歳になるところだが、そんな私でも、つまら
ないことで時間をムダにしたりすると、「しまった!」と思うことがある。

いわんや、七〇歳や八〇歳の老人たちをや! 私にはまだ知りたいことが山のようにある。い
や、本当のところ、その「山」があるのかないのかということもわからない。が、あるらしいという
ことだけはわかる。

いつも一つの山を越えると、その向こうにまた別の山があった。今もある。だからこれからもそ
れが繰り返されるだろう。で、死ぬまでにゴールへたどりつけるという自信はないが、できるだ
け先へ進んでみたい。そのために私に残された時間は、あまりにも少ない。

 そう、今、私にとって一番こわいのは、自分の頭がボケること。頭がボケたら、自分で考えら
れなくなる。無責任な人は、ボケれば、気が楽になってよいと言うが、私はそうは思わない。ボ
ケるということは、思想的には「死」を意味する。そうなればなったで、私はもう真理に近づくこと
はできない。つまり私の人生は、そこで終わる。

 実際、自分が老人になってみないとわからないが、今の私は、こう思う。あくまでも今の私が
こう思うだけだが、つまり「私は年をとっても、最後の最後まで、今の道を歩みつづけたい。だ
から空き地に集まって、一日を何かをするでもなし、しないでもなしというふうにして過ごす人生
だけは、絶対に、送りたくない」と。
(02−10−5)

+++++++++++++++++++

【追記】

 この2作の原稿を書いて、1年半になる。今、読みなおしてみると、「そうだな」という部分と、
「そうばかりは言えないな」という部分があることを知る。

 順に考えてみる。

 一番気になったのは、「二倍の人生を生きたから、密度が濃くなる」という部分。論理的に考
えればそうだが、しかしだからといって、その分、自分の人生が長くなったと感ずることはない
だろうということ。

 やはり1年は、1年。10年は、10年。時の流れは、だれにでも平等にやってくる。

 ここにも書いたように、その原稿を書いてから、1年半になる。そういう私が、この1年半の
間、密度の濃い人生を送ったかというと、それはない。その実感が、ほとんどない。

 相も変らず、だらしない人生を送ってきたような感じがする。何かをしてきたようで、「何かをし
た」という実感が、ない。

 なぜだろう。なぜか。

 方法がまちがっていたのだろうか。生き方がおかしかったのだろうか。それとも私の考え方
のどこかに、問題があったのだろうか。

 この原稿の中で、空き地で遊ぶ老人たちのことを、きびしく批判した。

 しかし考えてみれば、それが私の人生のゴールでもないのか。毎日、仲間と雑談をしながら、
のんびりと暮らす。どうしてそれが悪いことなのか、と。あるいはひょっとしたら、そうした老人た
ちとて、本当にそれを望んで、そうしているのではないのかもしれない。もっと別のことを、した
いのかもしれない。

 が、できない。だれにも相手にされない。体力もない。気力も弱い。だからしかたないから、そ
ういうところで、自分の時間を浪費しているのかもしれない。

 いろいろ考える。が、どれも、シャボン玉のように、現れては、はじけて消える。

 私の考え方には、どこか欠陥があるのかもしれない。このつづきは、もう少し、時間をおい
て、考えてみたい。


●無益な人生

 私は、何のために生きてきたのか?
 何のために、五十数年も生きてきたのか?
 身のまわりの、ほんの小さな問題すら、
 解決できないでいる。

 いまだに、名誉を求め、地位を求め、
 肩書きを求め、財産を求めて、右往左往している?

 私の人生は、どこにある。どこにあった?
 孤独と、不安。いつも、それが私の心から離れない。

 健康のこと。仕事のこと。家族のこと。
 日本のこと。世界のこと。そして地球のこと。

 私はただ、ひたすら、自分の人生をムダにしてきただけ?
 ただひたすら、そのときを、ごまかして生きてきただけ?

 足は地につかず。時は、一瞬たりとも、つかめない。
 享楽と、刹那(せつな)の喜びに身をまかす。
 その繰りかえし。その連続。今日は昨日と同じ。
 そして明日は、今日と同じ……。

 そんな人生に、どんな意味があるというのか。
 そんな人生を、あと何十年、繰りかえしたからといって、
 それが、どうだというのか。

(はやし浩司 孤独論 不安論 孤独 不安)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(156)

●皮膚がん

 昨年の夏ごろから、風呂で頭を洗っているとき、ときどきガリッと、指にひかかるところが、髪
の毛の中にできた。

 痛くも、かゆくもない。指先でさわってみると、何かの傷口のようだった。さらにさわってみる
と、どこか痛かゆい。それで、また何となく、ガリガリと、その部分を洗っていた。

 で、それからほぼ、一年。今でも、その傷口らしきものがある。大きさは変わらない。しかしこ
ういう(モノ)は、一度気になりだすと、どんどんと気になる。「もしや……」という思いが、心をふ
さぐ。

 皮膚がん。こういう地球環境だから、今、その種のがんが、ふえているという。紫外線、放射
線などなど。私が子どものころには、「日焼けコンテスト」というようなものがあって、まっくろに
日焼けすることが奨励された。

 今から考えると、とんでもないコンテストである。そのせいかどうかは知らないが、私の大学
の同窓生には、脳腫瘍になったのが、2人もいる。90人中の2人だから、少なくはない。

 ワイフに見てもらうと、「黒いわね。腫れているわね。かたいわね」と。

 ワイフは、昔から、バカ正直。「何ともないわよ」とか、そういう安心させるようなことは言わな
い。とたん、ゾーッ。

 がんが、なぜこわいか? それは自分であって、自分でないからではないか。成人病にせ
よ、けがにせよ、そこには、自分の「意志」がからむ。そのため、自分の「意志」で、戦うことが
できる。

 しかしがんは、そうではない。勝手に私の体の中に住みついて、勝手に私の体を破壊する。

 昼ごろ、明るい太陽光のもとで、ワイフにみてもらう。ワイフは、大きな虫眼鏡をもってきて、
「何ともないわよ」と。

 今さら、遅い!

 カガミを二枚操作して、その傷口を自分で見る。大きさは、米粒くらい。色は赤茶色。周囲は
やや黒い。懸命にがんの三大特徴を頭の中で、反復する。

 出血。不定形な形。増殖。

 出血はないようだ。形は丸い。去年から、さほど大きくなったとは思えない。そう自分に言って
きかせる。しかしその不安感は、どうしようもない。

 で、仕事をしているときは、その傷口のことは忘れた。が、仕事が終わって、家に帰ると、再
び、あの不安。足元をすくわれるような不安。とたん、心臓の鼓動が高まる。

 「もし、がんだったら、どうしよう?」と声をかけると、ワイフは、また、「何でもないわよ」と。

 足にできたがんだったら、足ごと切り取るという方法がある。しかし頭では、頭を切り落とすと
いうわけにはいかない。それに仮にがんだとしたら、ここ数年はがんばれるが、それ以後は、
どうなるかわからない。長い闘病生活に入ることになるかもしれない。

 仕事はどうする? 収入はどうなる? ……いろいろ考えていると、頭の中は、パニック状
態。

 夜、床についてから、真っ暗な天井を見あげながら、また考える。アドレナリンの分泌が始ま
ったようだ。心臓がドキドキし、呼吸が荒くなる。頭はさえる一方。時計をみると、11時半。床に
ついてから、1時間も、そうしていたことになる。

 一度、起きる。野菜ジュースを飲む。「私が70歳とか、80歳なら、あきらめもつくかもしれな
い。あだ56歳ではないか。どうやってあきらめればいいのだ」と、そんなことまで考える。

 翌朝も、同じようだった。起きてから時計を見ると、8時を過ぎていた。

ワイフ「眠れたの?」
私「あんまり……」
ワイフ「心配だったら、T先生にみてもらう?」
私「そうしようか……」と。

 朝食は、食べなかった。食欲がなかった。書斎へ入って、ぼんやりと何冊かの本に目を通
す。頭に入らない。

 メールで届いたいくつかの相談に、回答を書く。一人は、福岡市のAさんからのもの。子ども
のかん黙症についてだった。もう一つは、東京のBさんからのもの。不登校に関するものだっ
た。

 返事を書きながら、「みんな、がんばっているんだなあ」と、そんなことを思う。しかしどこか事
務的。回答を書きながらも、心が入らない。

 時計を見ると、8時30分。いつも行くT医院は、8時30分からだ。内科医院ということになっ
ているが、T医師は、何でもよく知っている。私は、内科のことはもちろん、ありとあらゆる種類
の病気の相談にのってもらっている。

 居間におりていって、ワイフに「行こうか?」と声をかけると、「ウン」と。だまってそのまま従っ
てくれた。

 外は、久しぶりの雨。はげしい雨が、庭をたたきつけていた。駐車場へ走った。ワイフが、そ
れにつづいた。

私「皮膚がんだったら、やっかいだね」
ワイフ「何でもないわよ」
私「頭の中に、ホクロはできないよ」
ワイフ「できるわよ。どこにだって、できるわよ」と。

 T医院へ行く道すがら、意味のない会話がつづく。

 で、その結果……?

 やはり、いつもの私のとり越し苦労だった。T医師は、私の頭をしばらく見たあと、「何でもな
いと思います」と。棚から、皮膚病の図鑑のようなものを見せ、「林さん、あんたのは、これに近
いです。何でもありません」と。

 たまたまその医院へ来ていた別のドクターも、途中で加わり、「ははあ、これね、石鹸でもつ
けてよく洗えば、なおりますよ」と。ドクターらしからぬことを、言う。

 とたん、胸のつかえが、スーッとおりて、そのまま消えた。

 待合室に出ると、ワイフがそこにいた。「何でもないって……」と私が言うと、「ほら、ごらん」
と。そう答えて、ワイフも笑った。

 「これであと10年は生きられる」と私。そう言いながら、医院を去った。

++++++++++++++++++++

【心気症】

 病気がやたらと気になる症状を、心気症という。「検査や診断で、異常が認められないと医師
が告げても、必要以上に、違和変調にこだわり、重大な病気を心配すること」(鈴木淳三氏)を
いう。神経症の一つとされる。

 この心気症は、被害妄想と、深くからんでいる。病気のことだけを考えるのではなく、その病
気を中心に、四方八方に、いろいろ考えてしまう。「仕事はどうなる」「家族はどうなる」「治療費
はどうする」と。さらに「葬式はどうしたらいい」「親類への連絡はどうしたらいい」とまで。

 こうして頭の中は、パニック状態になる。深刻な問題が、怒涛(どとう)のように、押し寄せてく
る。問題が、一つや二つではないから、解決方法が見つからない。仮に一つの問題が解決し
ても、つぎからつぎへと、問題がやってくる。

 もちろん死への恐怖心もある。この世から消えてなくなるというのは、恐怖そのものである。
心が平静なときは、そうした恐怖も、理性の中で処理できるが、不安になっていると、それもで
きない。

 どういう脳みその作用によるものかは知らないが、不安になると、理性の働きが、ぐんと鈍く
なる。弱くなる。たとえば日ごろは、神や仏にすがることはしたくないと思っていても、そういう状
態になると、突然、神や仏を信じたくなる。すがりたくなる。あるいは神や仏を信じてこなかった
自分が、くやまれる。「今から信じたのでは、遅いし……」とも。

 その病気で死ぬ確率が、仮に10%だったとする。すると、自分がその10%の中に、落ちこ
んでいくように感ずる。ものごとをすべて、悪いほうに、悪いほうに考えていく。「そういえば、こ
のところ、食欲がない」「そういえば、このところ、首が痛い」と。

 あとは急速な生理的な変化。アドレナリンの分泌が始まる。心臓の動機、発汗、食欲不振、
息切れなどなど。

 もちろん心理的にも大きな影響が現れる。深い絶望感と、焦燥感(あせり)。そして怒り。「自
分は何をしてきたのだろう」という悔恨の念などなど。ふつうの不安神経症とちがう点は、そこ
に生死の問題がからむこと。そのため、心気症で味わう絶望感は、絶対的な絶望感といっても
よい。つまり救いようがない絶望感ということ。

 しかしこうした心気症は、個人差がきわめて大きい。私のワイフなんか、「がんになったら、な
おせばいいのよ」と平然としている。その平然さは、恐らく自分ががんになっても変わらないと
思う。要するに、私は気が小さく、ワイフは、気が大きいということ?

 が、いつか、私も、大病を宣告されるときがやってくる。必ず、やってくる。それは絶対に避け
られない。となると、いつ宣告されても、動じないだけの自分をつくっておかねばならない。

 それは可能なのか。あるいはそのために、今、私は何をしたらよいのか。実のところ、皆目、
見当もつかない。ただここで言えることは、そういうときになっても、悔いのないような生き方
を、今、この時点でしておくということ。

 絶対的な絶望感の中では、悔恨の念のほど、苦しいものはない。

 ついでに神経症としては、つぎのようなものがあるという(同、鈴木淳三氏)。

(1)パニック障害をともなう、不安神経症(妄想から、嘔吐、めまい、冷や汗、呼吸困難、不安
発作をともなう。)
(2)恐怖症(危険でないのに、説明のつかない恐怖感を覚える。)
(3)強迫神経症(自分の意思に反して、何かの考えが浮かんだり、そうせざるをえない感覚に
とらわれる。)
(4)心気症(重大な病気と思いこんで、悶々とする。)
(5)ヒステリー(目が見えなくなったり、声が出なくなったりする。臓器の機能不全を起こしたり、
両手両足のマヒなど。)
(6)離人神経症(自分が自分でない感じがして、外界の存在さえも疑う。)
(7)抑うつ神経症(罪の意識、自殺願望、食欲低下など。軽いうつ状態になる。)

 私には、これら(1)から(7)まで、「そういうこともあるなあ」と思えるほど、よく理解できる。軽
重のちがいはあるのだろうが、日常的に、よく経験する。

 精神病と神経症のちがいは、精神病の多くは、病識(自分が病気であるという意識)が、ない
こと。神経症の多くは、病識があること。自分でも、「おかしい」とわかること。

 ワイフは、「あなたは、がんノイローゼよ」と言う。そうかもしれない。そうでないかもしれない。
ともかくも、私のばあいも、そういうとき、「私は、おかしい」とわかる。だからもう一人の私が、
懸命に、それを否定しようとする。こうした葛藤が、やがてはげしくなり、頭の中は、パニック状
態になる。「前にもあったではないか」「何でもないよ」「お前は、心配性だなあ」と。

 みなさんには、そういう経験はないだろうか? あれば私の状態を、よく理解してもらえると思
う。
(はやし浩司 心気症 病気 神経症 がんノイローゼ 不安神経症 強迫神経症)
(040427)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(157)

日本人の隷属性

●K国の美談

 こんな話を読んだ。詳しい内容は、忘れたが、おおむね、こんな話だ。

 K国のある高官の妻が、病気になった。金XXに忠実な男だった。その話を聞いた金XXが、
その高官にこう言った。

 「私の病院へ、あなたの妻を連れてきなさい。特別にみてもらえるよう、はからってあげる」
と。

 医療事情の悪いK国にあっても、高級幹部だけは、特別あつかい。その中でも、金XXだけ
は、さらに超特別あつかい。金XXの健康管理をする、「長寿研究所(病院)」には、金XXのた
めだけに、何と2000人近い、ドクターが待機していると言われている。

 その話を聞いた高官は、涙を流して喜び、金XXに対して、さらなる忠誠を誓ったという。この
話は、K国では、将軍様の美談としてもてはやされている。

●おかしい?

 この話は、どこかおかしい? 今回、K国のR市で列車爆発事故があったが、R市の医療事
情は、「劣悪」(国際赤十字の係官)だそうだ。そういう国にあって、金XXや高級幹部だけは、
最新の医療技術を使った特別の治療を受けられるという。

 まず、ここがおかしい。

 しかしその高官は、妻が、特別なあつかいを受けることについて、「涙を流して喜んだ」とい
う。

 こうした隷属性は、日本人にも、よく観察される。

 たとえばこの日本では、公務員だけは、あらゆる面で、特別なあつかいを受けている。どう特
別かということは、今さら言うまでもない。そういう「あつかい」が、今では、「矛盾」となって露呈
しつつある。

 そういう矛盾を見たとき、日本人の多くは、「おかしい」、だから「それを改めよう」とは思わな
い。そう思う前に、「あわよくば、私も」とか、「せめて、私の息子や娘も」と考える。そして自分の
夫や妻が公務員であることを喜び、ついで自分の息子や娘を公務員にしようと考える。

 これが私がいう、「隷属性」である。

●長くつづいた圧制

 日本人の、こうした独特の隷属性は、たとえば「長いものには巻かれろ」式のものの考え方と
なって、反映されている。「お上(かみ)には、さからわない」という意識も、強い。だから目の前
に、不公平や、不公正を見せつけられても、それがおかしいと思う前に、「自分もその恩恵に、
あやかりたい」と思う。そう思って、不公平や、不公正を、容認してしまう。

 K国の高官の話は、まさにそれにあたる。

 しかしやはり、おかしいものは、おかしい。そういうおかしいものに出会ったら、その時点で、
「おかしい」と声をあげる。それが民主主義の原点であり、その声なくして、民主主義は、ありえ
ない。

 ただとても残念なことは、たしかにこの日本は、民主主義国家ということになっている。しかし
それはある意味で、「形」だけ。私たちの意識の中には、いまだに、あの封建時代、さらには、
それにつづく官僚主義国家の亡霊が、しっかりと住みついている。

 まず、そういう意識に気がつくこと。そしてそれを改めていくこと。それをしないで、日本の民
主主義は、完成しない。

 K国では、徹底した洗脳教育のもと。K国の人たちは、生まれると同時から、骨のズイまで、
魂を抜かれる。そしてその結果、「おかしい?」と思う心まで、奪われてしまう。つまりは、その
結果が、今の私たち日本人の意識ということになる。

 皮肉なことに、本当に皮肉なことに、今のK国の人たちを見ていると、日本人の私たちが何で
あるのか、また何であったのか、それがよくわかる。この問題は、決して、他国の問題ではない
のである。

●ついでに……

 K国での爆発事故に関して、各国の救援体制が整いつつある(4・29)。しかし肝心のK国
は、自分の国の惨状を見せようとしない。その結果、「外貨稼ぎのために、被害者の子どもた
ちを利用している」(ドイツ人医師のフォラツェン氏)という声すら、聞こえてくる。

「北朝鮮は再び人間の生命には関心がないことを立証した。火傷で苦しんでいる子どもたちが
外貨稼ぎのための人質になっている」(同氏)と。

 おまけに昨日(4・28)、アメリカのワシントン・ポスト紙は、「K国は、核兵器を8個、すでに開
発済みである」という情報を、リークした。別の情報によれば、「北朝鮮が否定している 高濃縮
ウラン計画によって、2007年までにさらに6個の核兵器を製造できる」(中日新聞)とも。

 もちろんこれらの核兵器は、「日本向け」(K国高官)のもの。やがてK国は、アメリカとの間に
相互不可侵条約を結んだあと、これらの核兵器で日本を脅しながら、金をまきあげる魂胆と考
えてよい。そのためK国にしても、そうは簡単に、核兵器を手放すことはないだろう。

 となると、日本にとって、一番好ましい図式は、金XX体制の崩壊だが、しかし韓国が、それを
望んでいない。今の韓国は、そういう意味では、安保闘争の嵐が吹き荒れた、1970年前後の
日本に似ている。どこか方向音痴? 現実感そのものを、喪失している?

 そのためか、米韓関係は、その裏で、急速に悪化している。すでに38度線という最前線か
ら、アメリカ軍は、撤退を完了している。つい先日、アメリカ兵が守っていた、最後の歩哨所も、
アメリカは、韓国軍に移譲した。米韓関係の崩壊は、もはや時間の問題とみてよい。

 まさに今、日本は、国際外交の正念場を迎えつつある。

 K国の核兵器を、どうするか? 中国はまったく、アテにならない。韓国にしても、今のN政権
は、表向きはともかくも、内部では、核兵器を容認している。「K国が核兵器をもてば、統一後、
韓国にも有利に働く」と主張した高官がいた。ロシアもアテにならない。

 日本にとっての唯一の友人は、アメリカ。しかしそのアメリカも、仮にブッシュ政権が倒れるよ
うなことになると、あとは、どうなるかわからない。つぎの民主党の大統領は、「日本とK国の問
題は、日本の問題」と、逃げてしまうかもしれない。

 そうなったとき、日本は、どうする? 今度は、日本は、あのK国と、K国の核兵器と、単独で
立ち向かわねばならない。悲しいかな、それが今の日本が置かれた、まさに「現実的な立場」
なのである。
(040429)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(158)

【近況・あれこれ】

●笑い話

 小学2年生のA子さんが、こう言った。「私、きのう、ペロペロチーを食べた」と。私には、「ペロ
ペロチンチン」と聞こえた。ゾッとして、「何だってエ?」と聞きかえすと、「ペロペロチー、パスタ
よ」と。
 
 イタリア料理に、ペペロンチーノというサラダ料理が、ある。どうやらそれを聞きまちがえたら
しい。

 また、今日は、こんなことも。

 やはり小学2年生のG君が、私の机のところにきて、小さな声で、こう言った。

 「先生、ぼくのチンチンね、さわっていると、長くのびるよ」と。

 で、私が、「あのね、そういう話は、ぼくではなくて、君のママに言いなさい」と話すと、「だっ
て、ぼくのママ、チンチンの話をすると、怒るもん」と。

私「だったら、ぼくにも、そんな話をしてはだめだ」
子「先生のは、のびるの?」
私「あのね、そういう話は、みんなの前でしてはいけないの」
子「ぼくのは、どうしてのびるの?」
私「だから、そういう話は、ママとしなさい」と。

 あるいは、一人の男の子(年中児)が、何かの拍子に、こう言った。「ぼく、ドクター・エロを見
た!」と。

 私の聞きまちがいかと思って、数度、聞きなおしてみた。が、何度も「ドクター・エロ」と言う。ど
うやらその子どもは、新幹線の診断車の、「ドクター・イエロー」とまちがえて、そう発音している
ことがわかった。しかしそれにしてもドキッとした。

 ときとして、子どもは、とんでもない言葉を使う。あるいは、おとなの私ですら、はっとするよう
なことを言うことがある。

 つい先日も、年長児の男の子が、私にこう言った。私が、「その積み木を使って、家をつくっ
てごらん」と話しかけたときのこと。その子どもは、すかさず、こう言った。「ぼくは、人に言われ
て、何かをするのは、いやだ!」と。

 幼児教育をして30年になるが、はじめて聞いた言葉である。で、この話を、家に帰ってから
ワイフに話すと、ワイフもかなり感心した。「へえ、年長児でも、そんなこと言う子がいるのねえ」
と。

 私の印象では、その子の兄の言い方をまねしただけではないかと思う。3歳年上の兄がい
る。それはともかくも、私もその言葉に、感心した。

【追記】

 私も、学生時代、深刻なまちがいをしたことがある。

 郷里のG県では、「すわりなさい」「すわる」というのを、方言で、「おちゃんこしなさい」「おちゃ
んこ」と言う。この静岡県でも、そう言う。

 しかし、だ。石川県の金沢市では、それがとんでもない意味になる。どう(とんでもない意味)
かは、金沢市の人なら、みな知っている。つまり女性器のヒワイ語である。

 あろうことか、私は、その言葉を、みなの前で使ってしまった。一人の女の子(小学生)が、ど
こかの広い場所で、走り回っていたので、私は、こう言ってしまった。「そこの女の子、どうか、
おちゃんこしてください!」と。

 そのあとのことは、みなさんの想像に任せる。


●ガリガリの勉強

 日本人の悪しき誤解というか、多くの日本人は、「勉強というのは、ガリガリするものだ」と思
っている。……ということを、気づかされたのは、台湾から来ていた子ども(小1)を教えたとき
のことだった。その子どもの母親は、台湾人だった。父親は、日本人だった。

 その母親は、何かにつけて、過激(?)だった。

 私は子どもを教えるとき、子どもを楽しませることを、何よりも大切にしている。1時間勉強ら
しきことをして、30分、勉強すればよい。あるいは10分でもよい。ほかの時間は、パズルやゲ
ームを楽しむ。「勉強は楽しい」という思いが、やがて子どもを前向きに伸ばしていく。

 が、その母親は、そうではなかった。私がゲームらしきことをするたびに、顔をしかめた。自
分の子どもが、少しでも気をゆるめたりすると、やはり顔をしかめた。そしてこんな事件が起き
た。

 あるとき、20問くらいの計算問題をしたことがある。そのとき、その子どもが、2、3番目にで
きた。で、見ると、1、2問はちがっていたが、私は大きな丸をつけて、「よくできたね」とほめて
あげた。

 が、母親には、それが納得できなかったらしい。レッスンが終わって、たまたま駐車場へ行く
と、そこでその母親は、子どもをはげしく叱っていた。

 「どうして、もっと早くできないの!」
 「この答、ちがっているでしょ!」
 「こんな簡単な問題ができないの!」と。

 そして私を見つけると、こう言った。

 「この答、ちがう。どうして丸、つけるか?」
 「うちの子、9+8の問題ができない。どうしてか? 中国では、みんな、できるあるね」と。

 そこで私が、「一生懸命やったから、丸をつけました。繰りあがりのある足し算は、日本では、
もう少し、先でやることになっています」と。

 すると母親は、突然激怒して、こう言った。「みんな、遊んでばかりいる。どうしてあれが、勉
強かア!」と。

多分、その母親は、高校受験をひかえた子どもが、黙々とするような勉強を、「勉強」と思って
いるらしかった。しかしそんな勉強など、小学生に期待するほうがおかしい。またそんなことを
無理に強要すれば、子どもを勉強嫌いにしてしまう。この時期、一度、勉強嫌いにしてしまう
と、あとがない。

 ……と、その母親の悪口を書いてしまったが、実は、この話は、フィクション。いくつかの経験
をまぜて、この話をつくった。しかしこういう例は、多い。本当に多い。昔ながらの勉強観を、そ
のまま今の子どもに押しつけようとする。もう10年以上も前のことだが、実際に、こんなことが
あった。

 ある日、その子ども(年中児)の祖母から、電話がかかってきた。そしてこう言った。

 「先生、どうしてうちの孫の書いた字に、丸なんか、つけるのですかア! 書き順や、書き方
がめちゃめちゃでしょ。ハネもありません!」と。

 私が「一生懸命、本人が書いたから、丸をつけました」と答えると、さらに「最初に、しっかりと
教えなければ、クセがついて、あとでなおすのに苦労します。いいかげんな丸はつけないでほ
しい!」と。

 この話は実際にあった話。しかも10年くらい前までは、毎年、何例かあった。

 こういう親や、祖父母に出会うと、息苦しささえ覚える。息がつまる。もっと正直に言えば、そう
いう親の子どもは、教えたくない。私のしていることが、子どもを責める道具になっている!

 ガリガリの勉強をするかどうかは、その子ども自身が決めること。私ではない。親でもない。
あくまでも本人である。私たちがせいぜいできることと言えば、その一歩手前まで、子どもをひ
っぱってくこと。しかしそこが限界。

 イギリスの教育格言にも、こんなのがある。『馬を水場までつれていくことはできる。しかし馬
に水を飲ますことはできない』と。水を飲むかどうかを、最終的に決めるのは、あくまでも、子ど
も自身ということになる。


●昔の偉人

 ときどき夢の中に、昔の偉人が出てくる。最初にそれを経験したのは、東洋医学の本を書い
ていたときのこと。毎日、毎晩、私は一冊の本を書くために、悪戦苦闘していた。そのときのこ
と。

 話せば長くなるが、漢方の神様と言われた、扁鵲(へんじゃく)という中国の伝説上の医家
が、夢の中によく出てきた。一時は、私にその扁鵲※が乗り移ったかのように感じたことがあ
る。

 もちろん、これは私の、ただ単なる思い過ごしである。深い潜在意識の中で、私の無意識が
勝手につくりあげた幻覚である。

 それ以後も、よく昔の偉人が、夢の中に出てくる。が、おもしろいことに、その扁鵲をのぞい
て、めったに、同じ人は出てこないということ。

 最近では、芥川竜之介や、森鴎外が出てきたことがある。日本人にかぎらない。つい先日
は、何と、あのブッシュ大統領が出てきた。夢の内容は忘れてしまったが、何かの話をしたの
は、記憶のどこかに残っている。

 こういった夢は、いわば、脳みその遊びのようなもの。深い意味もないし、またその意味を考
えても、ムダ。自分が霊能者と信じているような人だったら、あれこれもっともらしい意味を考え
るのだろう。が、残念ながら、私は「霊」などというものは、信じていない。まったく信じていな
い。

 だいたいにおいて、私の夢に出てくる偉人というのは、いつも、かつてどこかで見た顔ばか
り。芥川竜之介にしても、夢の中の竜之介は、いつかどこかで見た竜之介の写真のまま。森鴎
外も、そうだ。つまりそういうイメージが、脳の中のどこかに残っていて、それがそのまま夢に出
てくる。

 もし芥川竜之介の、うしろ姿とか、上から見た姿が出てくるというのであれば、「霊」のさせる
わざかもしれないが、そういうことはない。

 ……そうして考えてみると、扁鵲の夢は、不思議な夢ということになる。扁鵲の写真などある
はずもない。簡単なイラストを見たことがあるだけ。しかし夢の中の扁鵲は、たしかに人間の扁
鵲だった。それに中国語を話していた!

 しかしこれも多分、頭の中で、私がいくつかのイメージを合成してつくったものだろう。詳しくは
覚えていないが、理屈で考えれば、そういうことになる。

(※扁鵲・へんじゃく……紀元前500年ごろの、中国の伝説上の医家。ハリ治療の神様と言わ
れている。不思議な超能力をもっていて、人間の体を透視することができたという。司馬遷の
『扁鵲伝』にも登場する。)


●犬のクッキー

 犬のクッキーが、いよいよボケてきた。年齢は、17歳になる。目はほとんど見えない。耳もほ
とんど聞こえない。歩くときは、いつもヨボヨボしている。ほとんど一日中、眠っている。

 困ったのは、大小便を、チビチビと垂れ流すこと。庭のいたるところで、それをする。目に下
には、多分悪性のものだと思うが、大きなコブまでできた。病院へ連れて行こうかとも思った
が、17歳という年齢もあり、あきらめた。なおる見込みはない。

 そのクッキーを見ていると、ペットを飼うことの重大さを、改めて思い知らされる。ペットといっ
ても、17年もいっしょにいると、家族のようになる。私はともかくも、ワイフや息子たちには、そ
うだ。

 数年前、10年ほど生きた文鳥が死んだときも、そうだった。何とも言えない、悲しみが襲っ
た。そして自分たちの年齢を考えながら、「もう文鳥を飼うのをやめよう」と、たがいに言いあっ
た。そのときまで、私は高校2年のときから、欠かさず、文鳥を飼っていた。一羽が死ぬと、つ
ぎの文鳥を買ってきて、またヒナから育てた。

 ただ犬は、庭の中で、放し飼いにしている。犬小屋も、庭のすみにある。そこでふと、こんなこ
とを考えた。

 「家の中で飼っていたら、今ごろは、たいへんだろうな」と。家のあちこちで、大小便を、垂れ
流されたら、困る。「そのときは、どうするだろう?」とも。

 ワイフは、「静かに死なせてあげよう」と言う。私もそう思う。ペットを飼ったものの責任という
か、最後の最後まで、見届けなければならない。それは常識だが、問題は、どの程度まで、人
間の責任かということ。

 人によっては、入院させる人もいる。手術を受けさせる人もいる。まさか殺す人はいないと思
うが、しかし欧米では、ペットがそういう状態になると、安楽死させるという。そこで子どもたちに
聞いてみた。

「君たちの家で、犬を飼っている人はいるか?」と聞くと、何人かの子ども(小4)が、手をあげ
た。

 「犬を飼っていて、病気になったら、どうする?」と聞くと、「病院へ行くよ」と。そこで「年をとっ
て、死ぬときはどうする?」と聞くと、「まだ生きている」「朝、死んでいた」などと言う子どもがい
た。

 一人、「家の中で飼っていたけど、年をとったので、家の外で飼っている」と言う子どもがい
た。「なるほどなあ……」と思いつつ、再び、クッキーのことを考えた。

 かわいそうな犬だ。私の家へ来たときから、今にいたるまで、私たち人間に、心を許したこと
がない。もともと保健所で処分される寸前の犬だった。それを私たちが、もらい受けてきた。

 人間にたとえるなら、育児拒否、冷淡、無視を経験している。その上、放棄、虐待。私たちが
もらいに行くまで、鳥かごのような小さなオリに、2週間も入れられていた。心に大きなキズを負
っている。今でも、私たちが見ていると、エサを食べない。愛想はよいが、番犬にはならない。
だれにでも、シッポを振って、コビを売る。たった一匹、友だちの犬がいたが、この4、5年、会
っていない。

 死期は近いように思うが、私には、何ともしようがない。今朝も見ると、朝日の陽光を浴びな
がら、庭のすみで、静かに眠っていた。そっと静かにしておいてやる以外、私たちには、何もで
きない。

 朝食を食べているとき、そのクッキーを見ながら、「クッキーとハナが死んだら、もうペットを飼
うのは、やめよう」と、ワイフが言った。私は、それに同意した。


●債権回収

 おかしなハガキが届いた。「金を払え。さもなければ、お前の財産を差し押さえる」という内容
のもの。

 よく読むと、要するに、「お前はスケベサイトを見たが、その料金が未払いになっている。そこ
で一両日中に、電話をしろ。さもなければ、債権回収機構にこの債権を回し、強制執行をする」
というもの。

 住所は、どこかのマンションの一室らしい。「債権の金額は、電話をしたら教える」とある。あ
との欄には、バーコードが、もっともらしく印刷してある。

 私の専門は、民事訴訟法。この私をだませるわけがない。バカめ!

 債権を回収するためには、いくつもの手続きを経る。仮執行宣言つきの支払命令を裁判所
経由で発行し、一定期間を経て、それをもとに、強制執行の手続きをとる。が、それでも簡単
に、強制執行できるわけではない。

 それにこうした手続きは、相手方に対しては、内容証明つきの郵便で、送付することになって
いる。一枚のハガキですむような話ではない。もしそんなことができたとしたら、日本の法秩序
は、崩壊する。

 それにしても、こうした悪質なサギが、今、多すぎる。それだけ、ワルが多いということか。で、
その対処方法としては、無視するのが一番よい。へたに電話でもしようものなら、今度は、電
話番号が相手にわかってしまい、何をされるか、わかったものではない。

(相手は、私の電話番号を知りたいがため、「電話しろ」と書いている!)

 こうしたあやしげな相手は、無視。ただひたすら、無視。それでも何か言ってくるようであれ
ば、どこかの苦情処理センターに通報すればよい。まあ、それにしても、手の込んだハガキで
ある。「これは、今、横行している、インチキ請求ではない」とまで、書いてある。印刷代だって、
バカにならないだろうに……。ご苦労様!

 そうそう、最近、こんなこともあった。

 私の家には、Y社製の太陽光温水器がとりつけてある。その温水器について、数年前、定期
点検と言いながら、二人の男がやってきた。

 あたかもその会社から派遣されてきたようなフリをして、お金をとる業者は、あとを断たない。
あれこれ話をしていると、その中の一人が、こう言った。

 「本当に、いやな世の中ですね。私たち、まじめに仕事をしているものは、本当に迷惑してい
ます。インチキな業者が多いですから……」と。

 つまり自分たちは正真正銘の正社員というわけである。身分証明書も見せた。
 
 で、「?」と思いながらも、点検をしてもらうと、「取り付け口のパッキングを交換したほうがい
いです」と。言われるまま、交換してもらうと、2万5000円。

 たいした作業ではない。30分足らずですんだ。

 が、最近、またやってきた。今度は、「屋根の上の温水器は、地震対策上、好ましくないの
で、すえかえてください」と。

 そこで数年前の定期点検にやってきた二人の男の話をすると、「わが社は、そういうことはし
ていません」と。私が「その男たちは身分証明書を見せた」と話すと、「そんな身分証明書は、
ニセモノです」と。

 私「定期点検はしていないのですか?」
 男「していません。そう言って、わが社の名前を使って、勝手に工事をしているものがいます。
どうか注意してください」
 私「あなたたちは、だいじょうぶですか?」
 男「私たちは、Y社の社員です。名刺を置いておきますから、電話して確かめてください。今
度、県のほうの指導で、屋根の上の温水器を、別の安全な場所に、すえかえるように言われて
います」と。

 ますますわけがわからなくなってしまった。が、私の家の温水器は、屋根の上といっても、駐
車場の屋根の上。地震対策上、問題はない。それを話すと、「そうですね。では、結構です」と
言って、立ち去っていった。

 で、そのあとすぐに名刺にあった会社に電話をすると、「現在、この電話番号は、使われてい
ません」と。そこでY社の電話番号を調べて、電話をすると、担当者がこう言った。「うちでは、
そういう社員は派遣していません。どうか気をつけてください」と。


●一事が万事

 昔から、『一事が万事』という。

 人間の脳みそは、それほど器用には、できていない。今日は悪人で、明日は善人というわけ
にはいかない。あるいはAさんに対しては善人で、Bさんに対しては悪人というわけにはいかな
い。

 若いころなら、気力もあるから、そのときどきで、自分をごまかすということもできる。そのとき
に応じて、善人を演じてみせたりすることはできる。しかし年をとると、その気力が薄れてくる。
ありのままの自分が、そのまま外に出てきてしまう。

 そういうわけで、善人は、どこでも善人。悪人は、どこでも悪人。まさに一事が万事ということ
になる。

 今日も、ワイフと車で走っているとき、横から、信号を無視して一台の車が飛び出してきた。
角がコンビニの駐車場になっていた。その車は、その駐車場をななめに横切って、私たちの車
のすぐうしろに、ついた。

 「ずるい」と感じたが、今度はその車は、猛スピードで、私たちを追い越していった。ワイフ
は、「よっぽど急いでいるのね」と言ったが、その道路は、追い越し禁止になっていた。

 音もすごかった。マフラーをはずしているらしく、バリバリ……と。が、それだけではなかった。

 運転している男は、(あとで、外国人風の男とわかったが)、窓から火がついたままのタバコ
を、外へ捨てた。ワイフは、「火がついている!」と言った。タバコは、道路で、パッと火花を飛
ばした。

 まさに一事が万事という感じの男だった。最後に、交差点を左に曲がって、同じように猛スピ
ードで走り去っていった。

私「ああいう人は、生活のあらゆる場面で、ああなんだよな」
ワイフ「そうよね」と。

 だから私たちが、もし善人であろうとするなら、今のこの瞬間から、そして今、していることか
ら、自分の行動に注意する。人が見ているとか、見ていないとか、そういうことは関係ない。

 またどんなささいなことでも、そこに自分の「善意」を貫く。そういう姿勢が、やがて、積み重な
り、私たちの人格となっていく。

 まさに日々の積み重ねが月となり、月々の積み重ねが、年となり、やがてその人の人格とな
っていく。

 私がいう『一事が万事』というのは、そういう意味である。


●どうか、私のアドレスを消去してください

 今日(4・29)、ウィルスの猛攻撃を受けている。数分おきに、同じアドレスから、NET−SKY
ウィルス(W32/Netsky・D−mm)が、6個ずつ、たばになって送られてくる。

 幸いなことに、プロバイダー(サーバー)で、二重のウィルスチェックサービスを受けているの
で、パソコンに侵入することはない。ただそのたびに、プロバイダーから、「ウィルスを検知しま
した」という連絡が入る。これがたてつづけに、つぎからつぎへと、「削除ずみ、アイテム」に放り
こまれる。

 しかしそれにしても、しつこい。

 パソコンショップの友人に連絡すると、こう教えてくれた。

(1)だれかのパソコンに、ウィルスが入った。
(2)そのだれかが、それに気づいていない。
(3)そのだれかは、インターネットを常時接続している。
(4)かつそのだれかは、数分おきに、送受信を自動でするよう設定している。
(5)そのウィルスは、手当たり次第にアドレスを盗んで、ウィルス入りのメールを、あちこちにバ
ラまいている、と。

 そのだれかのパソコンの中に、どうやら私のアドレスがあるらしい。それで私のところへ、ウィ
ルス入りのメールを、雨あられのように送ってくる。

 こうして考えてみると、他人のアドレスを、自分のパソコンの中に残しておくのも、考えもので
ある。もし私のパソコンにウィルスが入ったら、みんなに迷惑をかけることになってしまう。

 さっそく、このところ連絡をとっていない人たちのアドレスを、削除する。いや、その前に数え
たら、その数が、300近くにもなっていた。返信すると同時に、相手のアドレスを保存すること
になっていた。

 で、削除、また削除。こうして、40〜50くらいにまで、軽量化することができた。

 そこでみなさんにも、お願い。もしみなさんのアドレスの中に、私のアドレスがあれば、どうか
消しておいてほしい。これは万が一のための防衛策である。

 で、これからのこととして、今まで、メールアドレスを公開してきたが、これからは、できるだけ
非公開とする。掲示板も私書箱も、同様にできるだけ非公開にする。さらに私のホームページ
も、できるだけ非公開にする。

 考えてみれば、今まで、私は、あまりにも無防備すぎた。今回のウィルス攻撃は、そのことを
私に教えてくれた。

 しかし、それにしても、しつこい。いつになったら、その人は、自分のパソコンの中にウィルス
が侵入していることに気づくのだろうか。パソコンショップのその友人は、こう言った。「それまで
あきらめるしかないですね」と。
(040430)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(159)

●子どもをよい子にする、三大鉄則

 子どもを、よい子にする、三大鉄則。

【1】親子の信頼関係
【2】子どもの生活力
【3】善なる心の育成

 親子の信頼関係は、母子関係の中ではぐくまれる。母子の間の(さらけ出し)(受け入れ)が
基本となり、その上で、信頼関係が築かれる。

 子どもの生活力は、子どもを使うこと。日常生活の中で、使って使って、使いまくること。そう
いう(生活)を通して、身につく。

 善なる心の育成は、つまりは親がその見本を見せる。しかし見せるだけでは足りない。親自
身が、それを実践し、その中に、子どもを巻きこんでいく。

++++++++++++++++++++++

今までに書いた原稿の中から、【1】'2】【3】に
関するものを、いくつか選んでみました。
参考にしていただければ、うれしいです。

++++++++++++++++++++++

【1】信頼性

 たがいの信頼関係は、よきにつけ、悪しきにつけ、「一貫性」で決まる。親子とて例外ではな
い。親は子どもの前では、いつも一貫性を守る。これが親子の信頼関係を築く、基本である。

 たとえば子どもがあなたに何かを働きかけてきたとする。スキンシップを求めてきたり、反対
にわがままを言ったりするなど。そのときあなたがすべきことは、いつも同じような調子で、同じ
ようなパターンで、答えてあげること。こうしたあなたの一貫性を見ながら、子どもは、あなたと
安定的な人間関係を結ぶことができる。こうした安定的な人間関係が、ここでいう信頼関係の
基本となる。

 この親子の信頼関係(とくに母と子の信頼関係)を、「基本的信頼関係」と呼ぶ。この基本的
信頼件関係があって、子どもは、外の世界に、そのワクを広げていくことができる。

 子どもの世界は、つぎの三つの世界で、できている。親子を中心とする、家庭での世界。これ
を第一世界という。園や学校での世界。これを第二世界という。そしてそれ以外の、友だちとの
世界。これを第三世界という。

 子どもは家庭でつくりあげた信頼関係を、第二世界、つづいて第三世界へと、応用していく。
しかし家庭での信頼関係を築くことに失敗した子どもは、第二世界、第三世界での信頼関係を
築くことにも失敗しやすい。つまり家庭での信頼関係が、その後の信頼関係の基本となる。だ
から「基本的信頼関係」という。

 が、一方、その一貫性がないと、子どもは、その信頼関係を築けなくなる。たとえば親側の情
緒不安や、親の気分の状態によって、そのつど子どもへの接し方が異なるようなばあい、子ど
もは、親との間に、信頼関係を結べなくなる。つまり「不安定」を基本にした、人間関係になる。
これを「基本的信頼関係」に対して、「基本的不信関係」という。

 乳幼児期に、子どもは一度、親と基本的不信関係になると、その弊害は、さまざまな分野で
現れてくる。俗にいう、ひねくれ症状、いじけ症状、つっぱり症状、ひがみ症状、ねたみ症状な
どは、こうした基本的不信関係から生まれる。第二世界、第三世界においても、良好な人間関
係が結べなくなるため、その不信関係は、さまざまな問題行動となって現れる。

 つまるところ、信頼関係というのは、「安心してつきあえる関係」ということになる。「安心して」
というのは、「心を開く」ということ。さらに「心を開く」ということは、「自分をさらけ出せる環境」を
いう。そういう環境を、子どものまわりに用意するのは、親の役目ということになる。義務といっ
てもよい。そこで家庭では、こんなことに注意したらよい。

●「親の情緒不安、百害あって、一利なし」と覚えておく。
●子どもへの接し方は、いつもパターンを決めておき、そのパターンに応じて、同じように接す
る。
●きびしいにせよ、甘いにせよ、一貫性をもたせる。ときにきびしくなり、ときに甘くなるというの
は、避ける。

+++++++++++++++++++++

 よくても悪くても、親は、子どもに対して、一貫性をもつ。子どもの適応力には、ものすごいも
のがある。そういう一貫性があれば、子どもは、その親に、よくても、悪くても、適応していく。

 ときどき、封建主義的であったにもかかわらず、「私の父は、すばらしい人でした」と言う人が
いる。A氏(六〇歳男性)が、そうだ。「父には、徳川家康のような威厳がありました」と。

 こういうケースでは、えてして古い世代のものの考え方を肯定するために、その人はそう言
う。しかしその人が、「私の父は、すばらしい人でした」と言うのは、その父親が封建主義的で
あったことではなく、封建主義的な生き方であるにせよ、そこに一貫性があったからにほかなら
ない。

 子育てでまずいのは、その一貫性がないこと。言いかえると、子どもを育てるということは、い
かにしてその一貫性を貫くかということになる。さらに言いかえると、親がフラフラしていて、どう
して子どもが育つかということになる。

++++++++++++++++++

【2】子どもの心

 「家庭教育」というと、「知識教育」だけを考える人は、多い。ほとんどが、そうではないか。し
かしそれと同じくらい、あるいはそれ以上に大切なのは、「情操教育」である。わかりやすく言え
ば、「心を育てる教育」ということ。

 ……と、書くと、「そんなのは、何でもないこと」と思う人は多い。が、それはとんでもない誤解
である。今、生まれても泣かない子ども(サイレント・ベービー)や、表情のない子どもが、ふえ
ている。年中児で、約二〇%の子どもが、大声で笑うことができない。感情が乏しい子どもとな
ると、何割かがそうであるというほど、多い。

 そこでつぎのようなポイントをみて、あなたの子どもの「心」が、正しく発達しているかどうか、
判断してみてほしい。

●すなおな感情……うれしいときには、うれしく思う。悲しいときには悲しく思う。たとえばペット
が死んだようなとき、悲しく思う、など。こうしたすなおな感情が消えると、うれしいはずと思うよ
うなときでも、反応を示さなかったり、悲しいはずだと思うようなときでも、悲しまなかったりす
る。以前、父親の葬式のとき、葬式に来た人と、楽しそうにはしゃいでいた子ども(小一男児)
がいた。

●すなおな感情表現……こうした感情の動きにあわせて、こまやかな表情ができる。うれしい
ときには、うれしそうな顔をする。悲しいときには、悲しそうな顔をする。そうした微妙な表情が、
だれの目にもわかるほど、すなおに表情で表現する。それができないと、仮面をかぶったりす
るようになる。さらにひどくなると、親が見ても、何を考えているかわからない子どもになる。

●豊かな表情……つぎに、その感情表現が豊かであるかどうかということ。たとえば父親が仕
事から帰ってきたようなとき、「ワーイ!」と歓声をあげて、父親に抱きつくなど。ただしギャーギ
ャーと大声を出して騒ぐなど、必要以上に興奮するというのは、豊かな表情とは言わない。今、
その表情の乏しい子どもがふえている。

●ゆがみのない心……ひねくれる、つっぱる、いじける、すねる、ひがむなどの、いわゆる「心
のゆがみ」がないことをいう。心がゆがむ、そのほとんどの原因は、愛情問題と考えてよい。幼
児のばあい、とくに注意しなければならないのが、「嫉妬(しっと)」。たとえば下の子どもが生ま
れたようなとき、上の子どもの心のケアをしっかりとすること。「あなたはお兄(姉)ちゃんでしょ」
式の押しつけは、してはいけない。

●大きくて、明るい声……心の伸びやかさは、そのまま声の調子となって、外に表れる。大き
い声で、ハリがあり、腹に力を入れ、息をしっかりと出し、口を大きく動かして話ができれば、よ
し。幼稚園や保育園、あるいは学校から帰ってきたようなとき、明るい声で、「ただいま!」と言
えるようであれば、問題ない。

●自分を飾らない心……正直な心をということになる。子どものばあい、とくに注意したのが、
いい子ぶること。「お母さんが、料理をしています。あなたはどうしますか?」などと質問すると、
ふだんは、ほとんど手伝いなどしていないにもかかわらず、「手伝います」などと、心にもないこ
とを言う。しかし、そういう姿勢は、子どもの姿としては、決して望ましいことではない。イヤだっ
たら、正直に、「イヤ!」とはっきり言う。そういう姿勢を大切にする。伸ばす。

●迎合しない姿勢……へつらう、こびを売る、相手に取り入るなど。この時期、愛想がよいと
か、あるいは愛想がよすぎるというのは、決して望ましいことではない。愛想のよい子どもは、
それだけ自分の心をごまかしていることになる。こういう姿勢が定着すると、やがて心が二面
性をもつようになる。まわりの人からみても、いわゆる何を考えているか、わかりにくくなる。

●心を開く……心を開いている子どもは、親切にしたり、やさしくしたりすると、その親切ややさ
しさが、そのままスーッと子どもの心の中に、しみこんでいくのがわかる。そうでない子どもは、
そうでない。そういった親切ややさしさが、はねかえされるような感じになる。ふつう子どもは、
抱いてみるとそれがわかる。心を開いている子どもは、抱いた人に対して、体の力を抜き、身
を任せる。そうでない子どもは、抱く側の印象としては、体をこわばらせるため、何かしら丸太
を抱いているような感じになる。

●年齢にふさわしい人格……その年齢に比して、子どもっぽい(幼稚っぽい)というのは、好ま
しいことではない。人格の「核」形成の遅れた子どもは、その分、子どもぽいしぐさや様子が残
る。全体の中で比較して判断するが、親の溺愛や過干渉が日常化すると、人格の核形成が遅
れる。

●考える姿勢……何かテーマを出したとき、ペラペラと調子よく答えるのは、決して望ましい姿
ではない。多くの人は、「知識」と、「思考」を混同している。とくにこの日本では、昔から、物知り
の子どもほど、頭のよい子と評価する傾向が強い。しかし知識が多いからといって、頭のよい
子ということにはならない。頭のよい子というのは、深く考えて、新しい考えに、自分でたどりつ
くことができる子どもをいう。子どもが何か考えるしぐさを見せたら、静かにそれを見守るように
して、それをさらに伸ばす。

●受容的な態度……何か新しい考えを示したとき、すなおにそれを受け入れる姿勢を見せれ
ばよし。そうでなく、かたくなに、それを拒否したり、がんこに否定するようであれば、注意する。
とくにこの時期、カラにこもり、がんこになる様子を見せたら、注意する。頭から叱るのではな
く、子どもの立場で、心をほぐすように、話して聞かせるのがよい。

●融通がきく思考……いつまでも伸びつづける子どもは、それだけ頭がやわらかい。臨機応
変に、ものごとに対処したり、つぎつぎと新しい考えを生み出す。たとえば親どうしが会話をして
いても、まわりのものから、新しい遊びを発明したりするなど。そうでない子どもは、「退屈〜
ウ」「早く帰ろう〜ウ」とか言って、親を困らすことが多い。

●自然な動作……心がゆがみ、それが恒常化すると、動作そのものが、どこかぎこちなくな
る。さらに言動がおかしくなることもある。動作が緩慢になったり、不自然な反応を示すこともあ
る。

●強い意志……意味もなく、かたくなに固執するのを、がんこという。しかしそれなりの理由や
目的があり、それに従って自分の行動を律することを、「根性」という。子どもにその根性を感じ
たら、そっとしておく。根性は、いろいろな意味で、子ども自身を伸ばす。

●忍耐力……好きなことをいつまでもしているのは、忍耐力とは言わない。たとえばテレビゲ
ームならテレビゲームなど。幼児教育においては、忍耐力というのは、「いやなことをする力」
のことを言う。ためしに台所のシンクにたまった、生ゴミを子どもに始末させてみてほしい。風
呂場の排水口にたまった毛玉でもよい。そのとき、「ハイ」と言って、平気でできれば、かなり忍
耐力のある子どもということになる。

●親像……ぬいぐるみを与えてみれば、子どもの中に、親像が育っているかどうかを、判断で
きる。もしそのとき、さもいとおしそうに、ぬいぐるみを抱いたり、頬を寄せるようであれば、親
像が育っているとみる。そうでない子どもは、無関心であったり、反対に足で蹴ったりする。ち
なみに、約80%の幼児は、「ぬいぐるみ、大好き」と答え、残りの約20%の子どもは、無関心
であったり、足で蹴っ飛ばしたりする。当然のことながら、親の良質な愛情に恵まれた子どもほ
ど、心が温かくなり、ここでいう親像が育つ。

+++++++++++++++++

【3】不誠実な男

 六月に、クーラーを設置した。そのとき、Tという男がやってきた。見るからに不誠実そうな男
だった。心の中というより、体中、ゴミだらけといった感じの男だった。

 で、ものすごい、ひどい工事。配管のパテは、まったく詰めてなかった。土台のネジは、八本
必要だったのに、四本のみ。強くドリルで締めすぎたためか、ネジ山はつぶれ、ネジはきいて
いなかった。

 また外壁をはう配管は、上から下まで、何と六センチ前後、横にズレていた。まだある。クー
ラーを設置するとき、乱暴に扱ったため、クロスの壁がかなりこすれて、削れていた。

 一事が万事。最近になって、クーラーの室外機が、ゴミ取り専用のマンホールの真上にある
ことがわかった。しかも、一台のクーラーは、どうやら家の筋交(すじか)いを、まともにぶち抜
いているらしい(これは未確認)。

 配管の費用は、四メートルまでは、無料ということだったが、請求書は、七メートル。実際に
測ってみたら、六メートル弱しかなかった。つまり一メートル分、過剰請求!……などなど。

 ズルい人間は、年齢とともに、あらゆる面でズルくなる。一つだけということはない。全体に、
そうなる。まさに日々の積み重ねが、人格となるというわけである。

 このTという男は、改めて、私に大きな教訓を与えてくれた。

 善人も悪人も、それほど大きな違いはない。ほんの小さな、日々の積み重ねが、善人を善人
にする。悪人を悪人にする。その小さなことというのは、決してむずかしいことではない。ウソを
つかないとか、約束を守るとか、あるいは人に迷惑をかけないとか、そういうことである。

 そして日々の積み重ねが、やがてその人の人格をつくる。いや、日々というより、この瞬間、
瞬間の積み重ねといってよい。「今」のこの瞬間である。

 それは最初は、「勇気がいる」と言えるほど、覚悟が必要。しかし思い切って、近所の道路に
散っているゴミを拾ってみる。思い切って、倒れた自転車を起こしてやってみる。最初は、どこ
か、「やってやっている」という思いにかられるかもしれない。が、やがてそれが自然にできるよ
うになったとき、その積み重ねが、その人の人格となる。

 そのTという男は、どんな人生を歩んできたのか。年齢は私と同じくらいか。恐らく、日々の生
活の中で、ズルいことばかりしているのだろう。が、それ以上に彼にとって不幸なことは、もうこ
の年齢になると、軌道修正はできないということ。そういうズルい生き方が、体質として、彼の
中にしみこんでしまっている。だから、「一事が、万事」。

 で、また考えてみる。私はどうなのか、と。

 私はもともとそのTという男に、負けないくらい、ズルい男だった(?)。生まれ故郷の言葉で
は、「こすい子ども」だった(?)。戦後の混乱期に生まれた子どもは、みな、多かれ少なかれ、
そうだった。

 今でも、そうした体質が、たしかに残っている。ときどき、そういう自分と、戦わねばならない。
とくに困るのが、サイフを拾ったとき。一応、持ち主や、交番に届けるが、そのとき、「もらっちゃ
え」と叫んでいる自分が、どこかにいるのを知る。だから今では、サイフを拾うのも、こわい。だ
から、それらしきものが落ちていても、できるだけ目を閉じて、通り過ぎるようにしている。

 そしてここからが子育て論ということになる。

 私たちは親として、教師として、子どもの前に立つ。そのとき大切なことは、親や教師の心
は、そのまま、長い時間をかけて、そっくりそのまま子どもに伝わってしまうということ。親子、あ
るいは教育というのは、そういうもので、そこに親子であること、教育のすばらしさがあると同時
に、きびしさがある。

 そう、昔、息子たちと歩いているとき、そのサイフを拾ったことがある。私たちは、みんなで、
そのサイフの持ち主に届けた。そういった積み重ねが、子どもの心をつくる。おかげで、という
か、私の三人の息子たちは、みな、バカ正直と言えるほど、バカ正直な子どもたちになってくれ
た。今、ふと、「よかった……」と思った。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(160)

【近況・あれこれ】

●Fさん(栃木県)からの相談

 Fさん(二児の母親)は、現在、実の父母と同居している。夫は、サラリーマン。

 Fさんの実父母、とくに実父は、たいへん封建的な人と思われる。Fさんは、子どものころか
ら、その父親によくたたかれたり、殴られたりした。何かのことで、口答えすると、「親に向かっ
て何だ、その口のきき方は!」と。

 Fさんは、そういう親が、いやだった。だから自分が親になったときは、そういう親だけにはな
りたくないと思っていた。

 が、現在、Fさんは、今、自分が受けた子育てと同じことを、自分の子どもに繰りかえしている
という。子育てをしていてイライラすると、つい子どもを怒鳴ったり、たたいたりする。そこで夫に
こう言われた。

 「お前のしていることは、お前の父親が、お前にしたことと同じだ」と。

 Fさんは、「どうしたらいいか」と悩んでいる。

+++++++++++++++++

【Fさんへ】

 親は、自分が受けた子育てを、無意識のうちにも、繰りかえします。これを「世代伝播」とか、
「世代連鎖」といいます。

 子育ては本能ではなく、学習によるものだからです。しかもその学習したものは、脳の奥深
く、しっかりと刻みこまれます。表層の意識で、そもそもコントロールできるようなものではないと
いうことです。

 だから今、Fさんが、自分が受けた子育てを、あなたの子どもに繰りかえしているからといっ
て、何ら不思議はありません。しかも皮肉なことに、あなたが「いやだった」と思ったことほど、
繰りかえします。子育てというのは、もともと、そういうものです。

 しかし問題は、そういう問題があることではなく、(だれにだって、そういう問題はあります)、
そういう問題があることに気づかず、その問題に、振り回されることです。そして同じ失敗を繰
りかえすことです。

 あなたの父親だって、恐らく、そのまた父親(あなたの祖父)から、そういう子育てを受けてい
るはずです。それをあなたの父親は、あなたに繰りかえした。そして今、あなたはそれをあなた
の子どもに繰りかえしている……。子育てというのは、もともとそういうものです。

 そこで大切なことは、まずあなた自身が、(それ)に気づくことです。まずいのは、それに気づ
かないまま、同じ失敗を繰りかえすことです。そしてつぎに、あなたの子どもに、それを伝えてし
まうことです。

 あなたの子どもも、いつか親になったとき、あなたが今、あなたの子どもにしていることと同じ
ことを、繰りかえすようになります。子育てというのは、もともとそういうものです。

 ただひとつ、Fさんのメールを読んでいて、こんなことに気づきました。

 こうして「世代伝播」を受けた部分と、Fさん自身の育児疲れからくる、育児ノイローゼ的な部
分が、今のFさんの中に、混在しているのではないかということです。

 この二つの問題は、どうか分けて考えてみてください。

 実父母の同居からくるストレス、下の子どもの問題からくるストレス、仕事のことや、夫との問
題など。いろいろあると思います。

 つまりこうした問題は問題として、自分の心の中で、より分ける必要があります。子どもをた
たくからといって、すべて、「世代伝播」の問題と考えないほうがよいかもしれません。現実に、
日本人のばあい、約50%の母親が、子どもに体罰を加えています。うち70%は、虐待に近い
行為をしていることも、わかっています。

 で、その「世代伝播」の部分については、すでにFさんは、問題のほとんどを解決なさっている
と思います。この問題は、それに気づけば、それでよいのです。あとは時間が解決してくれま
す。つまりFさんは、すでに、自分の過去に気づき、「世代伝播」に気づき、なおかつ、「それで
はいけない」と気づいています。

 あとはそういう自分を信じて、そして「時」のもつ不思議な力を信じて、前向きに子育てをして
いけばよいでしょう。ここにも書いたように、あとは「時間」が解決してくれます。


●17キロを歩く

 いろいろ事情と、いきさつがあって、今日(5・1)、何と、17キロも歩いた。あとでニュースで
聞いたら、今日は、気温も、27度もあったという。道理で暑かった。

 最初の3分の1くらいの距離は、意気揚々と歩いた。気持ちよかった。しかし途中で、二度ほ
ど、ダウンしかけた。しかしこういう日にかぎって、お金はなし。ワイフも、家にいない。おまけに
携帯電話もなし。

 しかたないので、歯をくいしばって、本当に、歯をくいしばって、17キロを、歩いた。(直線距
離で17キロだが、実際には、20キロ近くもあったのでは……?)

 汗はそれほど出なかった。しかしその分、脱水状態になった? 自動販売機を通りすぎるた
びに、「あああ」と思った。

 が、こういうとき、寺というのは、ありがたい。途中、大きな寺に入って、水を飲む。少し休む。
昔の人も、多分、こうした寺で、水を求め、体を休めたにちがいない。

 こんなことがあった。

 小さなガムをかんでいたが、途中で、そのガムをかむのが、苦痛になった。口から、水分が
どんどん蒸発していくように感じた。それで手の中に出したのだが、今度は、手の熱で、ベトベ
トになってしまった。

 指先で何度も丸めなおしたが、そのガムをどうしようかと、あれこれ悩んだ。道路へ捨てるの
は、簡単だが、もしそれをすれば、この30年間守ってきた規範が、破れる。私は少なくとも、こ
の30年間、ゴミを道路へ捨てたことがない。

 しかたないので、道端の草をちぎって、それにガムを包んだ。しかし17キロである。気温は2
7度。日ざしも強い。どこか気が遠くなる。

 で、人間というのはおかしなもので、……というより、そういうふうになるのが自然なのかもし
れないが、疲労感がひどくなると、同時に、倫理感が薄れる? 「めんどうだから、捨ててしま
え」という気分が強くなる。

 が、私はがんばった。ゴミ箱が見つかるまで、そのガムを手に握って歩いた。が、今どき、ゴ
ミ箱などおいてある家はない。1キロ、2キロ、3キロと歩くが、ない。寺の中にもなかった。

 やっと公民館までたどりついたときのこと。我が家から3、4キロのところだった。その横に、
自動販売機があり、その横に、ゴミ箱があった!

 私はそのゴミ箱に、草で包んだガムを捨てた。ほっとした。「30年間守ってきた規範を破らな
くてよかった」と思った。

 それから今度は、家まで、歩数を数え始めた。左手で、10歩単位。右手で、100歩単位で
数えた。つまり10歩くと、左手の指を一本曲げ、それが100歩になると、右手の指を一本曲げ
た。

 こうして歩いてみると、1000歩など、あっという間だ。2、3キロで1000歩になる計算にな
る。ということは、今日、私は、2〜3万歩、歩いたことになる。しっかりと計算したわけではない
が、そういうことになる。(計算は、不正確!)

 家に帰ると、そのまま夕方まで、ふとんの上に。しかし体中が、熱くほてって、よく眠れなかっ
た。私は、歩いたせいだと思ったが、本当は、気温が高かったせいだ。そのことは、あとでニュ
ースを見て知った。

 夕方ワイフが帰宅。「今日は、○○町から、ここまで歩いたよ」と言うと、驚いていた。

 よい運動になったが、明日は、どうなることやら。多分、足が痛くて、起きあがれないかも…
…? 


●三男の苦闘

 オーストラリアへ着いた直後は、「もう、日本へ、帰りたい」と言っていた、三男。「勉強は、き
つい」と言っていた、三男。

 オーストラリア人の友人に相談すると、「そのうち、友だちができれば、変るよ」と。

 オーストラリアの語学校は、アメリカにくらべて、厳格。宿題も多く、できが悪いと、容赦なく、
落第させられる。それは前から感じていたが、こうまできびしいとは……!

 語学校のレベルは、きわめて初級のレベル1から、大学入学許可にあたる、レベル6まであ
る。三男は、いきなりレベル5のクラスに入れられた。

 「レベルを落としてもらえよ」と私が言うと、「ボニー(学長)が、許してくれないよ」と。ボニーさ
んは、私の友人のいとこにあたる。いろいろ便宜をはかってくれているようだ。

 で、それから5週間。三男の様子が、変ってきた。「パパ、結構、オーストラリアって、楽しい
ね」と、言い出した。「この分なら、一年くらいは、いられそうだよ」と。

 昨日は、ホームステイ先の人に、グライダー場までつれていってもらったらしい。「ほとんどひ
とりで、操縦できた」と喜んでいた。

 で、その成績表が、FAXで届いた。三男が成績を送ってくるときは、よくできたときだ。昔から
そうで、悪い成績は、絶対に、私に見せない。

【私から、三男へ】

FAXを受け取った。
よくがんばった。すばらしい。
「できない」と言っていたから、よほどひどいと思ったが
  これならオーストラリアの大学でさえ入れそうだね。

  尊敬するよ

  お金はだいじょうぶか。
  ではね。

  KIMさんによろしく。


【三男より、私へ】

うん。なんだかんだ、いい点数取れてしまった。

 送ったのはコミュニケーションの最後のテストで、トータルでは81%だったよ。
他の科目はまだ結果もらってないけど、多分75%前後だと思う。
 また結果、来たら送るね。


【私から、三男へ】

自分の能力を信じなさい。
「私はできる」と思いなさい。
  お前は、幼児のときから一級の
  能力をもっていた。

  ところで、ぼくの頭に、小さな腫瘍ができた。
  皮膚がんかもしれないと思って、
  先週、病院で検査をしてもらった。

  で、心配しなくてもいいというのが
  結論だった。

  今日の夕方見たら、消えていた。

  しかしね、いやな気分だった。

  お前も、無意味な日焼けは避けるように。
  とくに飛行機は、高々度を飛ぶから
  太陽の放射線をもろに受ける。

  だからできるだけ、防御したほうがよい。

  そのうち、放射能防御服でも着て操縦桿を
  握るようになるのかもよ……。

  しかし、地方の小さな空港で、遊覧飛行を
  するパイロットの仕事も、すばらしいね。

  夢があって……。

  先のことは、あとで考えればいいが……、

  いいか、E(三男)、
  幸福というのは、つまりぼくたちが求める幸福というのは、
  そんなに遠くにあるのではないよ。

  お前のすぐそばにあって、お前に見つけてもらうのを、
  静かに待っているんだよ。

  オーストラリア人なら、それを知っているはず。
  そういうのをよく見てくるといい。
そういうのを学んでくるんだよ。

  国際線のパイロットが上で、民間のチャーター機の機長は
  下という、くだらない考え方はしないようにね。

日本人のいやなところは、どうしてもそういう視点で
人を見るというところ。

しかしこれほど、愚かな人間の見方もない。


【三男より、私へ】

国際線が上で、それ以外は下だなんて考えてないさ。

ウィルピーナパウンドへ行ったとき、遊覧飛行したんだけど、
そこで働いてたパイロットは、朝、どっからともなく飛んできて、
ほったて小屋で準備して、自分でガソリン入れて、ガイドまで全部たった一人でやってた。

そういうの見てて、ほんとにすごいパイロットとは、こういう人のことを言うんだなぁと思った。

もしJALに就職できなかったら、浜名湖遊覧飛行でもやるよ。

ではまた!


【追伸】

 その三男のホームステイ先の女性が、こんな詩を送ってきてくれた。

 その女性は、退職するまで、ずっと、高校の英語の教師をしていたという。その詩を、そのま
まここに掲載する。


++++++++++++++++

A musical night
Guitar and two friends singing
Such a joy to hear

Music and laughter
Living just for the moment
Nothing else needed

We three happily
Comfortably together
The music joins us

A flying lesson
Some curry rice yum yum
Then we have music

Hiroshi's young son
Has been so very much fun
Well done, Hiroshi

音楽の夕べ
ギターの調べと、二人の友
何と楽しいひとときよ

音楽と笑い
この瞬間に生きる
ほかに何が必要なのか

私たち3人は、
ここちよくいっしょ
それに音楽が入る

飛行訓練
おししいカレーライス
それに音楽

ヒロシの若い息子は
そんなにも楽しい。
じょうずに育てたね、ヒロシ!

+++++++++++++++++++++++++++++

Dear Ms Ingrid Kxxxxx


My wife and I would like to appreciate your warm hospitality and thank you very much for 
what you have done to my son.

At first especially immediately after he arrived at Adelaide, he said, "Dad, this is not the 
place where I can stay for one year, for there is nothing!". He has been a town boy and he 
has been such a boy who seeks a kind of stimulations every time.

As you may know. I have three sons and one of them is a country boy who hate city-life. 
But As for Eiichi he is such a boy who don't like country life. Isn't it funny to know this 
though I have given them the same education in their childhood days?

私の妻と私は、あなたの息子への暖かいもてなしに感謝しています。

当初、アデレードへ着いたとき、息子は、「とても、こんなところには、一年もいられないよ。何も
ないよ」と言っていました。彼は、もともと都会型人間です。そして子どものときから、いつも何
かの刺激を求めていました。

ご存知のように、私には、3人の息子がいます。その中の一人は、カントリーボーイで、都会生
活を嫌っています。しかし英市は、都会型です。同じように育てても、こうまでちがうとは、おもし
ろいですね。
Now he says, "Dad, people are wonderful here and I have been enjoying my life now.", which 
has made my wife and me very happy. You see the most beautiful present given by sons is 
just know that they are happy.

さて、今、彼が言うには、「人々はすばらしい。生活を楽しんでいる」と。その言葉は、私の妻と
私を、たいへん幸福にします。息子たちからの最高のプレゼントは何かと言われれば、息子た
ちが幸福だということを知ることですね。

Thank you very much for the haiku, a kind of Japanese poem. I shall put it in my web-site 
very soon. Thank you again.

There is one problem about him. He has his own credit card (Master Card), but at this 
moment he cannot withdraw the cash since he set down a limitation of withdrawal (
Sorry I don't know a proper English word for this case) and I am sure he has given you and 
Kim unnecessary troubles. I said to him several times that I would send the money through 
a bank but he said just "OK". It is really against our house -policy to borrow money or 
things from anyone. As for me I have never borrowed any money in these 30 years long.

俳句をありがとう。私はその俳句を、近く、私のホームページに載せておきます。

彼について、問題があります。彼はクレジットカードの限度額を設定してしまいました。そのた
め、現在、カードからお金を引き出せない状態にあります。みなさんにご迷惑をおかけしている
と思いますが、どうかお許しください。

人からお金を借りるというのは、私の家の家訓に反します。私自身も、この30年間、人からお
金を借りたことがありません。

Sorry about this, and also my wife and I thank you very much for this matter.

どうも申し訳ないと思っています。私の妻と私は、このことについて、たいへん感謝しています。

Eiichi, my son is a very happy boy and has been so since when he was a very young boy. He 
is a very honest and bright boy I am sure. You may trust him and we hope you do so.

英市は、たいへん明るい子どもです。彼は正直で、聡明です。どうか彼を信頼してやってくださ
い。

Thank you very much again and we hope you have now a wonderful Sunday!

ありがとうございます。今日は、あなたにとって、すばらしい日曜日であることを望んでいます。

  Akiko and Hiroshi

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(161)

【近況・あれこれ】

●二男のエッセーから(4・24、2004)

この世の中には不思議なことが沢山ある。

例えば、なぜ公衆トイレは、男女に分かれているのか。

別に裸になるわけではないし、個室があるのだから、どうして男女に分ける必要があるのか。

もし用足し以外の理由で、男女別のプライベートな個室が必要になるのだったら、男/女で分け
るのではなくて、用足し/プライベートという二つの機能を分けた空間を、それぞれ作ればいい
と思う。 

 他の例えとしては、僕が思うには、最近の女性の水着は女性用の下着とほとんど同じなの
に、どうしてだれも下着だけ着て泳ぎに行く人はいないのだろうか。

よく週末に高校生の女の子らが水着を着て、クラブかなにかの資金集めに町の真ん中で洗車
のサービスをしたりしているけれど、どうしてあれは恥ずかしくないのだろうか? 僕は小さいこ
ろから、これが不思議でならない。 

 ところで昨日、昼食を終えて会社に帰ってきたときに、会社の社長のC・Mと駐車場ですれ違
った。会ったことがなかったのでそのまま、すどうりしてきてしまったが、後で彼が家のビルに来
ていたことを知って、一言挨拶したかったな、とがっかりした。


【はやし浩司から二男へ】

 人間がつくりあげた文化というのは、こまかい(約束ごと)の集まりだよ。無数の(約束ごこと)
が、それぞれ複雑にからんで、文化をつくる。

 「有機的」といういい方は、どこかあいまいな言い方だが、しかし「生きている」という意味で、
文化は有機的にからんでいる。だから一面だけを見て、つまりそれが矛盾しているからといっ
て、それを否定してはいけない。

 トイレを例にあげて、考えてみよう。

 お前は、男女別のトイレしか知らないが、オーストラリアの列車では、おとな用と子ども用に分
かれている。足の長さが問題になるからね。

 それから日本では、公衆トイレのドアは、みな、閉まっている。しかしアメリカでは、使用してい
ないトイレは、開けておく慣わしになっている。

 少し前まで、イギリスでもオーストラリアでも、公衆トイレには、ドアはなかった。通路を歩くと、
みなが用を足している姿が、外から丸見えだった。

 この日本でも、トイレができたのは、江戸時代も、終わりになってからではないのかな。平安
時代には、天皇ですらも、廊下から庭先に向けて、小便をしていた。女性たちは、部屋の中に
置かれた、(おまる)の中で、それをしていた。

 ぼくが子どものころでさえね、女性は、服(着物)を上にまくって、立ったままお尻を便器のほ
うに向けて、小便をしていたよ。そういう光景をよく見たし、何ら違和感もなかった。

 しかし無数の(約束ごと)が集合化してくると、そこに文化が生まれる。あるいはそれがときに
は、それが偏見になったり、誤解を生んだりする。セックスという言葉は、肉体的なちがいをさ
す言葉だが、ジェンダーというのは、そういった文化的な背景から生まれたちがいを意味する
言葉だよ。

 そういうジェンダー(文化的性差)も、生まれた。

 それが正しいとか、正しくないとかいう判断は、こういうケースのばあい、ほとんど、意味がな
い。男性がするネクタイにせよ、女性がはくスカートにせよ、「それはおかしい」と思うのは、そ
の人の勝手かもしれないが、否定してはいけない。

 もちろん個人的な立場で、それを批判するのは自由だけどね……。

 というのも、こうした文化というのは、ここにも書いたように、それぞれが、たがいに複雑に、
かつ有機的にからんでいる。そしてその結果として、今、ぼくたちがここに見る文化というもの
をつくりあげた。

 一つを否定すると、つまりは、別の多くの面で、さらに大きな問題が起きてくる。たとえば、「公
衆トイレの男女別はおかしい」と主張して、お前が、女性トイレに入ったとすると、どうなるか。
その結果は、お前にだって、想像できると思うよ。アメリカだったら、銃で射殺されるかもしれな
い……。

 とくにトイレの問題は、そこに「男」と「女」という問題がからんでくる。この問題は、人間の種族
保存本能とからんでくるだけに、やっかいな問題といってもよい。もしそこまで否定してしまう
と、結婚という制度そのものまで、おかしくなってしまう。

 子どもにせよ、「他人の子どもも、自分の子どもも、子どもは子ども。人類の共通の財産」な
どと考えられなくもないが、そこまで自分の魂を、昇華する(もちあげる)ことができるようになる
までには、まだまだ時間がかかる。

 同じように、「男も女も、同じ。同じ、トイレを使えばいい」と考えられるようになるまでには、ま
だまだ時間もかかる。あらゆるジェンダーにまつわる問題が解決されてからのことだろうと、ぼ
くは、思う。

 しかしね、ぼくは最近、こうした不完全で、矛盾だらけの文化に、どこか愛着を感ずるようにな
ってきたよ。おもしろいというか、楽しいというか。

 たとえば映画『タイタニック』にしても、ジャックとローズがいたからこそ、おもしろい映画になっ
た。もしあの映画の中に、ジャックとローズがいなければ、あの映画は、ただの、本当にただ
の、船の沈没映画でしかなかった。ちがうだろうか。

 つまりね、そのジャックとローズが、「男」と「女」というわけ。そしてその先に、公衆トイレがあ
るというわけ。

 高校生が、アルバイトで、車を洗う。水着を着ている。お前は、それをおかしいと思う。ぼくも、
同じような疑問をもつことは多い。たとえば下着のシャツでホテルの中を歩くことはできない。し
かしそのシャツに色をつけ、ガラを描き、Tシャツとしたとたん、ホテルの中を歩くことができる。

 同じ、シャツなのにね。

 つまりこれが、ぼくがいう、(無数の約束ごと)の一つというわけ。

 もちろんだからといって、こうした(約束ごと)は、普遍的なものでもなければ、絶対的なもので
はない。時代とともに、変りえるものだし、どんどん変っても、少しもおかしくない。国によって
も、ちがう。お前が言うように、「用足し/プライベートという二つの機能を分けた空間」にしても
よい。

 お前が、建築家なら、そういう提案をして、世に問うてみればよい。あとの判断は、大衆に任
せるしかないけどね。

 しかしね、ぼくには、こんな苦い経験がある。

 あるときね、男子トイレの大便ボックスに入っていたときのことだよ。ぼくが、金沢大学で学生
だったときのことだよ。

 そのボックスは、隣の女子用トイレと共同になっていた。つまりその一つだけが、女子用トイ
レに食いこむ形で、そこにあった。

 そのボックスにかがんでいるとね、その前のボックスに、一人の女子学生が入ってきた。トイ
レの壁の下のほうに、数センチ程度のすきまがあった。

 ぼくは、音を出すのはまずいと感じて、そのまま静かにしていた。何となく、遠慮したのだと思
う。

 ところがだよ、その女子学生は、うしろのボックスにぼくがいるとも知らず、ブリブリブー、グシ
ャグシャと、大便をし始めた。

 その臭いことと言ったらなかった。猛烈な悪臭が、壁の下のすき間から、容赦なく、ぼくのボッ
クスのほうに流れこんできた。ものすごい悪臭だった!

 その女子学生は、それから用を足して、出て行った。ぼくは、そのとき、「あんな臭いのをする
のは、どんなヤツだ」と思って、急いで、自分の用を足し、外へ出てみた。

 ぼくは、その女子学生を見て、ア然としたね。

 急いで廊下に出てみると、その女子学生はすました表情で、廊下を向こうに歩いていくところ
だった。

 で、なぜ唖然としたかって……? ははは。実は、その女子学生は、ぼくが好意をもってい
た、文学部のMさんだったからだよ。英文科の学生でね。ぼくが、デートを申し込む、寸前の女
性だった。

 いいかな、ここが文化なんだよ。ぼくは、その日以来、そのMさんには、別の印象をもってし
まった。顔を見るたびに、あの悪臭を思い出し、どうしてもそれ以上のアクションを起こすことが
できなくなってしまった。

 やっぱりね、公衆トイレは、男女別々のほうがいいよ。わかるかな、この気持ち。

 しかし問題意識をもつことは、とても重要だよ。またお前のエッセーに、あれこれコメントをつ
けてみるよ。

 そうそう社長には、あいさつをしたほうがいいよ。下から見ると、雲の上の人に見えるかもし
れないが、上から見ると、そういうふうに見られるのが、いやなものだよ。そういう気持は、今の
お前にはわからないかもしれないけど……。

 「ハロー、いつもお世話になっています」くらいは、言えばいいのさ。

 ではね。こちらは、明日から、凧祭り。にぎやかになるよ。

 Have a nice day!


●連休(5月3日)

 この4月29日から始まった大型連休中、海外へでかける人は、40万人もいるそうだ。成田
空港や関西新空港は、ラッシュアワー並みの混雑とか。

 私たちは、毎年そうだが、こうした連休中は、家の中で、じっと静かにしている。どこへ行って
も混雑しているし、それにすべてのものの値段が、割高。そういえば、連休というのは、私のと
っては、嵐のようなものかもしれない。

 私の家から、30分足らずのところでは、「花博」が開かれている。開会してから、もう1か月
以上になるというのに、私たち夫婦は、まだ行っていない。「いつでも行ける」という思いがある
からかもしれない。

 いや、「人ごみ」と、「花を見る」という行為は、どこか矛盾するのでは……? 今年で、山荘ラ
イフも、18年目に入った。いらぬお節介かもしれないが、本当に花を楽しみたいと思うなら、野
や山を、静かに歩いてみたほうがよいのでは……。

 しかし一応、浜松人だから、一度は、花博には行かねばならないと思っている。が、どうにも
こうにも、あの人ごみだけは、好きになれない。ゾロゾロと人が歩いているのを見ただけで、頭
痛が起きることもある。さてさて、どうしようか?

 連日、地方のテレビ局では、「今日は、入場者が4万人でした」「今日は、今までで、最高の5
万人でした」「50万人を達成しました」「連休中に、100万人、達成したい」などと、数字ばかり
を報道している。

 どこか進学塾の合格発表のようで、不愉快。もともと「心」など入っていないから、「数」ばかり
を、気にする?

 その連休、今日は、5月3日。時刻は御前7時を回ったところ。空は曇り。天気予報では、雨
が降るかもしれないという。

 そのせいか、今朝の私の頭は、休眠状態。どこかぼんやりとしていて、うまく働かない。こうい
う無意味な文章ばかりが、頭の中に浮かんでくる。が、休んでいるわけにはいかない。10時の
電車で、友人が遊びにくることになっている。その前に部屋の掃除をし、少し買い物をして、駅
まで迎えにいかねばならない。

 もうそろそろワイフが、起きてくるころだ。みなさん、おはようございます! これから居間でお
茶でも飲んで、頭をスッキリとさせてくる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(162)

【人格の完成度】

●強者のジコチュー、弱者のジコチュー

 その人の人格の完成度は、利己から、利他への移動度で測る。わかりやすく言えば、いか
に、他人への同調性、同情性、協調性、共鳴性、和合性などができるかによって、その人の人
格の完成度を知ることができる。

 いいかえると、自分勝手で、ジコチューな人は、それだけものの考え方が、利己的で、人格の
完成度が低いということになる。

 ……というようなことは、何度も書いてきた。そこでここでは、その先について、考えてみた
い。

●学歴と人格の完成度

 当然のことながら、学歴と、人格の完成度は、一致しない。……しないというより、関係ない。

 ここにも書いたように、人格の完成度は、いかにその人が利他的であるかによって、知る。
他人の悲しみや苦しみを理解し、その他人の立場になって、同情したり、共鳴したりできるか
によって、知る。それが自然な形で、できる人を、人格の完成度の高い人という。

 たとえばガムシャラに、勉強をして、よい大学に入ったとか、同じくガムシャラに、仕事をして、
社会的な名声や地位を得たからといって、その人の人格の完成度は高いということにはならな
い。

 むしろ、実際には、その逆のことが多い。

 多くの親は、そして教育にたずさわる人は、「勉強ができる子どもイコール、人格的にもすぐ
れた子ども」と考えやすい。しかしこれはまったくの、誤解。ウソ。偏見。幻想。

●二種類のジコチュー

 自分のことしか考えられないという人は、多い。自分勝手で、わがまま。世間では、こういうタ
イプの人を、やや軽蔑の念をこめて、「ジコチュー(自己中心的な人)」という。

 このジコチューにも、二種類、ある。強者のジコチューと、弱者のジコチューである。

 先に書いた、自分のことだけを考えて成功したような人は、強者のジコチューということにな
る。これに対して、弱者のジコチューというのもある。

 先日、ある女性(年齢、不詳)から、突然、電話がかかってきた。「講演会を聞いたものです」
とだけしか、その女性は、言わなかった。

 が、電話を受け取ると、ただ一方的に話すのみ。

「うちの子が勉強しません」
「受験が迫っています」
「夫が、私を叱ります」
「私は子どものころ、勉強ができなくて、よく母に叱られました」と。

 で、あれこれひと通り話すと、あいさつも何もないまま、プツンと電話を切ってしまう。

 そして、翌日も、同じような電話をかけてくる。そして同じような内容の繰りかえし。

 要するにその女性は、「何とかしてくれ」「何とかしてほしい」と言っている。たいへん依存心の
強い人ということになる。そして一見、子どもの将来を心配しているようなフリをしている。が、
その実、自分のことしか考えていない。

 私の迷惑など、計算外といったふう。こういうジコチューを、弱者のジコチューという。

●弱者のジコチュー

 昔から、困った人があがく姿を、「藁(わら)にもすがる」という。つまりその時点で、その困っ
た人は、ここでいう弱者のジコチューになる。

 生活が行きづまった人。
 大病をわずらった人。
 大きな問題をかかえた人。
 経済的に追いつめられた人、ほか。

 このタイプの人は、当然のことながら、自分のことしか考えない。……考えられない。自分の
ことを考えるだけで、精一杯。他人のことや、他人の立場や心情を考える余裕など、ない。

 先日も、ある学校の先生(中学2年担任)のところに、一人の母親から、電話がかかってきた
という。時計を見ると、夜中の1時。「うちの娘が家出をしてしまいましたア。いっしょに、さがし
てくださア〜い!」と。

 その先生は、「時間外のことは知らない」と言いたかったが、断るわけにもいかなかった。夜
が明けるまで、その母親といっしょに、その子どもをさがしたという。

 その母親にしてみれば、自分の娘のことを心配するだけで、精一杯。先生の都合や、迷惑な
ど、考える余裕すらなかったということになる。

●ジコチュー診断

 いかにすれば、「利己」から、「利他」へ、脱却できるか? 自分自身を転換できるか?子育
ての場では、それは教育や指導によるものということになる。が、これは子どもだけの問題で
はない。おとなや親の問題ということにもなる。

 そこで大切なのは、その人自身の努力である。

 まず、自分が、ジコチューであることに気づく。強者のジコチューであるにせよ、弱者のジコチ
ューであるにせよ、それに気づく。すべてはここからはじまる。

 が、多くのばあい、つまりほとんどの人は、自分が自己中心的でありながら、それに気づかな
い。そこでまず、自己診断テスト。

( )他人と会話をしていても、いつも自分のことばかり話す傾向が強い。
( )他人の不幸話や、失敗話を聞くと、優越感を覚えたり、ときに楽しく思う。
( )自分が損をするようなことは、しない。犠牲になることも好まない。
( )無料奉仕、ボランティア活動、町内の仕事など、ほとんど、したことがない。
( )自分の権利を主張することが多く、侵害されると、猛烈に反発する。
( )友人が少なく、人との交流も、ほとんどしない。いつも孤独で、さみしい。

 ここに書いたようなことがいくつか当てはまれば、かなりのジコチューとみてよい。

●ジコチューを知る

 ジコチューの問題は、これはあらゆる心の問題と共通しているが、それに気づけば、そのほ
とんどが解決したとみる。

 その気づく方法の一つとして、他人を観察してみるという方法もある。

 幸いなことに、私は、毎日、多くの子どもたちに接している。親たちにも接している。そういう
環境の中で、「この子どもは、ジコチューだな」「この親は、ジコチューだ」と気づくことが多い。

 概して言えば、子どもの受験勉強に狂奔する親というのは、ジコチューとみてよい。自分のこ
としか、考えていない。自分の子どものことしか、考えていない。そしてその結果として、受験競
争を勝ち抜いた子どもほど、ジコチューになりやすい。

受験競争というのは、もともとそういうものだが、しかしつまり、子どもの受験勉強に狂奔する
親というのは、それだけ人格の完成度が低い人ということになる。

 そういう視点でみていくと、あなたのまわりにも、ジコチューな人と、そうでない人がいるのが
わかるはず。電話で話しても、一方的に自分のことばかり話すだけ。他人の苦労話や不幸な
話を聞いても、型どおりの返事だけ。心に響かない……。

●演技としての同情

 話は少し脱線するが、人間は、経験をつむことによって、人格者を演ずることができるように
なる。一つの例が、ニュース番組の中の、ニュースキャスターたちである。

 悲しい事故の報道をしながら、どこか暗くて、つらい表情をしてみせる。「犠牲者は、病院で手
当てを受けていますが、中には、重症の方もいるようです……」と。

 しかしつぎの瞬間、今度は、ニュースが変わると、同時に、がらりと明るい表情になり、「で
は、今夜のプロ野球の結果です。あのM選手が、満塁ホームランを打ちました!」と話す。

 人間の心はそれほど、器用にできていない。わずか数分(あるいは数秒)のうちに、悲しい気
持ちが楽しい気持ちになったり、あるいはその反対になったりすることなど、ありえない。つまり
ニュースキャスターたちは、そのつど、ニュースの内容に応じて、演技しているだけということに
なる。

 こうした演技は、日常的に経験する。が、それだけではない。

 演技を重ねていると、それが仮面になり、さらにその人の中に、別の人格を形成することが
ある。心理学では、こうした現象を、「反動形成」という。

 たとえば「私は教師だ」「聖職者だ」と自分に言ってきかせていると、いつの間にか、自分の中
に、(私でない私)をつくりあげてしまう。それにふさわしい人間になろうと思っているうちに、自
分の中に、架空の自分をつくりあげてしまう。

 しかし仮面は仮面。一見、人格者風の人間にはなるが、もちろん、ホンモノではない。

 利己から利他へ移行するためには、その人自身が、苦労を重ね、悲しみや苦しみを経験し
なければならない。私の恩師のT先生は、それを、「心のポケット」と呼んだ。

●心のポケット

 相手に同調するにせよ、同情するにせよ、それができるようになるためには、自分自身も、
同じような経験をしていなければならない。

 たとえば自分の子どもを、交通事故か何かでなくした人がいたとする。その人は、深い悲しみ
を味わうわけだが、その悲しみは、その経験のない人には、理解できない。同じような経験をし
た人だけが、その人の悲しみを理解できる。

 一つの悲しみや苦しみを経験すると、同じような悲しみや苦しみをもった他人の心を、理解で
きるようになる。

 これを「心のポケット」という。

 この心のポケットの多い人、深い人、そういう人ほど、他人の悲しみや苦しみを、自分のもの
として、受け入れることができる。

 が、だれしも、こうした悲しみや苦しみを、経験するわけではない。ほとんどの人は、できるだ
けそれを避けようとする。悩みや苦労もなく、平和に、のんびりと暮らしたいと願っている。

 となると、ここで一つの矛盾が生まれる。

●矛盾

 わかりやすく言えば、人は、悲しみや苦しみを経験してはじめて、他人に悲しみや苦しみを理
解できるようになる。そしてその同情性や、同調性が、自分を利己から利他へと導く。

 その利他が大きくなればなるほど、人格の完成度が高くなる。

 しかし、その一方で、人間は、悲しみや苦しみを、避けたいと思っている。またそのために努
力している。

 ということは、生活が豊かになり、生活の質が高くなればなるほど、悲しみや苦しみを経験す
ることがすくなくなる。そしてそれと同時に、人格の完成度は低くなるということになる。

 もっとわかりやすく言えば、苦労が多ければ多いほど、人格の完成度が高くなるということだ
が、苦労を望んで求める人などいない。あるいは苦労をした人が、すべて人格者になるという
わけではない。中には、むしろ邪悪な人になっていくケースもある。

 こうした矛盾を、どう考えたらよいのか。それに心のポケットといっても、不幸には、定型がな
い。まさに千差万別。「同じような苦労」といっても、それはどこか似ているというだけで、苦労
の内容は、みなちがう。

 この問題については、また別の機会に考えてみる。今は、「矛盾」とだけにしておく。が、ヒント
がないわけではない。

●愛と慈悲

 キリスト教には、「愛」という言葉がある。仏教には、「慈悲」という言葉がある。

 その愛にせよ、慈悲にせよ、その中身といえば、突きつめれば、結局は、いかにすれば相手
の立場で、悲しみや苦しみを共有できるかによって、決まる。他人への同調性、同情性、協調
性、共鳴性、和合性こそが、まさに愛であり、慈悲ということになる。

 言いかえると、キリスト教にせよ、仏教にせよ、こういった宗教は、愛や慈悲という言葉を使っ
て、その人の人格の完成をもとめているということになる。

 こうした宗教では、自らは、悲しみや苦しみを経験することなく、人の心の中に、心のポケット
をつくろうとする。私自身は、信仰者ではないから、それ以上のことはわからない。

 そこで改めて、私なりのやり方を、考えてみる。私のばあい、宗教にその方法を求めるという
のは、最後の最後にしたい。

●ジコチューとの戦い

 そこで考えてみると、自分のジコチューと戦うためには、いくつかの方法があることがわか
る。

 最初に思いつくのは、自己犠牲と、周囲への貢献。無料奉仕活動や、ボランティア活動がそ
れにあたる。とくに、悲しみや苦しみを背負った人の立場で、ものを考え、行動する。そしてそ
の悲しみや、苦しみを、自分のものとして共有する。

 ……といっても、もちろん、それは簡単なことではない。このこと自体が、生きることのテーマ
そのものといってもよい。

 が、それだけでは足りない。

 精神の完成のためには、毎日の、たえまない研鑽(けんさん)が必要である。いつも前向きに
戦っていく。自分をみがいていく。

 というのも、精神の完成度は、立ち止まったとたん、その時点から後退し始める。それは流
れる水のようなものではないか。よだんだとたん、水は腐り始める。「私は完成された人間だ」
と思ったとたん、愚劣な人間になっていく人は、少なくない。

 そのためには、いつも考える。考えて考えて、前に進む。そうすることによって、脳の中を流
れる水を、腐らせないですむ。釈迦は、そういう姿勢を、『精進(しょうじん)』という言葉を使って
説明した。

 そう言えば、キリスト教にも、(ゴール)という言葉はない。「10年、教会に通ったから、もうあ
なたは教会には、こなくていい」というような話は、聞いたことがない。信者は、それこそ死ぬま
で、たとえば日曜日には、教会へ通ったりする。

 キリスト教でも、やはり毎日の研鑽を、信者に教えているのかもしれない。(こんな軽率な意
見を書くと、その道の専門家の人に、叱られるかもしれないが……。)

●人生の目標 

 こうして考えていくと、どこまで「利他」を達成できるかが、人生の目標ということになる。ひょっ
としたら、私たちが生きている意味や、目的も、そのあたりにあるのかもしれない。

(とうとう、シッポをつかんだぞ!)

 かなり不謹慎な言い方をしたが、今、私は、心の中で、そう叫んだ。「私たちはなぜ、今、ここ
に生きているのか」「生きる目的は何なのか」「何を求めて生きているのか」という、人間がかか
える最大の課題についての(シッポ)である。

 私は、その(シッポ)をつかんだような気がする。

 もちろんまだ、その(シッポ)をつかんだだけというだけで、その方法もよくわかっていない。そ
れにそれを実践するというのは、まったくの別の問題。

 さらにその先には、何があるか、私にも、皆目見当もつかない。またそういう状態になったと
き、私の心境や思想がどうなるか、それもわからない。しかし方向性だけは見えたような気が
する。

 とりあえずは、日々の生活の中で、「利己」から「利他」への転換を、少しずつ始める。今は、
それしかない。

 何とも中途半端なエッセーになってしまった。先ほど、このエッセーを読みかえしてみたが、
文章も稚拙で、矛盾だらけ。マガジンに掲載するのをやめようかとも思ったが、この数日間、ほ
とんど原稿を書いていないということもあって、あえて掲載してみることにした。

 改めて、つまり少し時間をおいて、この問題については、考えてみたい。

 なおこのあとに、以前書いた原稿を3作(中日新聞発表済み)を添付すいておく。参考にして
ほしい。

++++++++++++++++++++

子どもに生きる意味を教えるとき 

●高校野球に学ぶこと

 懸命に生きるから、人は美しい。輝く。その価値があるかないかの判断は、あとからすれば
よい。生きる意味や目的も、そのあとに考えればよい。たとえば高校野球。

私たちがなぜあの高校野球に感動するかといえば、そこに子どもたちの懸命さを感ずるからで
はないのか。たかがボールのゲームと笑ってはいけない。私たちがしている「仕事」だって、意
味があるようで、それほどない。「私のしていることは、ボールのゲームとは違う」と自信をもっ
て言える人は、この世の中に一体、どれだけいるだろうか。

●人はなぜ生まれ、そして死ぬのか

 私は学生時代、シドニーのキングスクロスで、ミュージカルの『ヘアー』を見た。幻想的なミュ
ージカルだった。あの中で主人公のクロードが、こんな歌を歌う。「♪私たちはなぜ生まれ、な
ぜ死ぬのか、(それを知るために)どこへ行けばいいのか」と。

それから三〇年あまり。私もこの問題について、ずっと考えてきた。そしてその結果というわけ
ではないが、トルストイの『戦争と平和』の中に、私はその答のヒントを見いだした。

 生のむなしさを感ずるあまり、現実から逃避し、結局は滅びるアンドレイ公爵。一方、人生の
目的は生きることそのものにあるとして、人生を前向きにとらえ、最終的には幸福になるピエー
ル。そのピエールはこう言う。『(人間の最高の幸福を手に入れるためには)、ただひたすら進
むこと。生きること。愛すること。信ずること』(第五編四節)と。

つまり懸命に生きること自体に意味がある、と。もっと言えば、人生の意味などというものは、
生きてみなければわからない。映画『フォレスト・ガンプ』の中でも、フォレストの母は、こう言っ
ている。『人生はチョコレートの箱のようなもの。食べてみるまで、(その味は)わからないのよ』
と。

●懸命に生きることに価値がある

 そこでもう一度、高校野球にもどる。一球一球に全神経を集中させる。投げるピッチャーも、
それを迎え撃つバッターも真剣だ。応援団は狂ったように、声援を繰り返す。みんな必死だ。
命がけだ。ピッチャーの顔が汗でキラリと光ったその瞬間、ボールが投げられ、そしてそれが
宙を飛ぶ。

その直後、カキーンという澄んだ音が、場内にこだまする。一瞬時間が止まる。が、そのあと喜
びの歓声と悲しみの絶叫が、同時に場内を埋めつくす……。

 私はそれが人生だと思う。そして無数の人たちの懸命な人生が、これまた複雑にからみあっ
て、人間の社会をつくる。つまりそこに人間の生きる意味がある。

いや、あえて言うなら、懸命に生きるからこそ、人生は光を放つ。生きる価値をもつ。言いかえ
ると、そうでない人に、人生の意味はわからない。夢も希望もない。情熱も闘志もない。毎日、
ただ流されるまま、その日その日を、無難に過ごしている人には、人生の意味はわからない。

さらに言いかえると、「私たちはなぜ生まれ、なぜ死ぬのか」と、子どもたちに問われたとき、私
たちが子どもたちに教えることがあるとするなら、懸命に生きる、その生きざまでしかない。あ
の高校野球で、もし、選手たちが雑談をし、菓子をほおばりながら、適当に試合をしていたら、
高校野球としての意味はない。感動もない。見るほうも、つまらない。そういうものはいくら繰り
返しても、ただのヒマつぶし。人生もそれと同じ。

そういう人生からは、結局は何も生まれない。高校野球は、それを私たちに教えてくれる。

++++++++++++++++++++

子育てのすばらしさを教えられるとき

●子をもって知る至上の愛    

 子育てをしていて、すばらしいと思うことが、しばしばある。その一つが、至上の愛を教えられ
ること。ある母親は自分の息子(三歳)が、生死の境をさまよったとき、「私の命はどうなっても
いい。息子の命を救ってほしい」と祈ったという。こうした「自分の命すら惜しくない」という至上
の愛は、人は、子どもをもってはじめて知る。

●自分の中の命の流れ

 次に子育てをしていると、自分の中に、親の血が流れていることを感ずることがある。「自分
の中に父がいる」という思いである。

私は夜行列車の窓にうつる自分の顔を見て、そう感じたことがある。その顔が父に似ていたか
らだ。そして一方、息子たちの姿を見ていると、やはりどこかに父の面影があるのを知って驚く
ことがある。

先日も息子が疲れてソファの上で横になっていたとき、ふとその肩に手をかけた。そこに死ん
だ父がいるような気がしたからだ。いや、姿、形だけではない。ものの考え方や感じ方もそう
だ。私は「私は私」「私の人生は私のものであって、誰のものでもない」と思って生きてきた。し
かしその「私」の中に、父がいて、そして祖父がいる。自分の中に大きな、命の流れのようなも
のがあり、それが、息子たちにも流れているのを、私は知る。

つまり子育てをしていると、自分も大きな流れの中にいるのを知る。自分を超えた、いわば生
命の流れのようなものだ。

●神の愛と仏の慈悲

 もう一つ。私のような生き方をしている者にとっては、「死」は恐怖以外の何ものでもない。死
はすべての自由を奪う。死はどうにもこうにも処理できないものという意味で、「死は不条理な
り」とも言う。そういう意味で私は孤独だ。

いくら楽しそうに生活していても、いつも孤独がそこにいて、私をあざ笑う。すがれる神や仏が
いたら、どんなに気が楽になることか。が、私にはそれができない。しかし子育てをしていると、
その孤独感がふとやわらぐことがある。自分の子どものできの悪さを見せつけられるたびに、
「許して忘れる」。

これを繰り返していると、「人を愛することの深さ」を教えられる。いや、高徳な宗教者や信仰者
なら、深い愛を、万人に施すことができるかもしれない。が、私のような凡人にはできない。で
きないが、子どもに対してならできる。いわば神の愛、仏の慈悲を、たとえミニチュア版である
にせよ、子育ての場で実践できる。それが孤独な心をいやしてくれる。

●神や仏の使者

 たかが子育てと笑うなかれ。親が子どもを育てると、おごるなかれ。子育てとは、子どもを大
きくすることだと誤解するなかれ。子育ての中には、ひょっとしたら人間の生きることにまつわ
る、矛盾や疑問を解く鍵が隠されている。それを知るか知らないかは、その人の問題意識の
深さにもよる。

が、ほんの少しだけ、自分の心に問いかけてみれば、それでよい。それでわかる。子どもとい
うのは、ただの子どもではない。あなたに命の尊さを教え、愛の深さを教え、そして生きる喜び
を教えてくれる。いや、それだけではない。子どもはあなたの命を、未来永劫にわたって、伝え
てくれる。

つまりあなたに「生きる意味」そのものを教えてくれる。子どもはそういう意味で、まさに神や仏
からの使者と言うべきか。いや、あなたがそれに気づいたとき、あなた自身も神や仏からの使
者だと知る。そう、何がすばらしいかといって、それを教えられることぐらい、子育てですばらし
いことはない。

+++++++++++++++++++++

●真理

 イエス・キリストは、こう言っている。『真理を知らん。而(しこう)して真理は、汝らに、自由を得
さすべし』(新約聖書・ヨハネ伝八章三二節)と。「真理を知れば、そのときこそ、あなたは自由
になれる」と。

 私が、「私」にこだわるかぎり、その人は、真の自由を手に入れることはできない。たとえば
「私の財産」「私の名誉」「私の地位」「私の……」と。こういうものにこだわればこだわるほど、
体にクサリが巻きつく。実が重くなる。動けなくなる。

 「死の恐怖」は、まさに「喪失の恐怖」と言ってもよい。なぜ人が死をこわがるかといえば、そ
れは死によって、すべてのものを失うからである。

いくら、自由を求めても、死の前では、ひとたまりもない。死は人から、あらゆる自由をうばう。
この私とて、「私は自由だ!」といくら叫んでも、死を乗り越えて自由になることはできない。は
っきり言えば、死ぬのがこわい。

が、もし、失うものがないとしたら、どうだろうか。死をこわがるだろうか。たとえば無一文の人
は、どろぼうをこわがらない。もともと失うものがないからだ。

が、へたに財産があると、そうはいかない。外出しても、泥棒は入らないだろうか、ちゃんと戸
締りしただろうかと、そればかりが気になる。そして本当に泥棒が入ったりすると、失ったもの
に対して、怒りや悲しみを覚える。泥棒を憎んだりする。「死」もこれと同じように考えることはで
きないだろうか。つまり、もし私から「私」をとってしまえば、私がいないのだから、死をこわがら
なくてもすむ?

 そこでイエス・キリストの言葉を、この問題に重ねてみる。イエス・キリストは、「真理」と「自由」
を、明らかに対比させている。つまり真理を解くカギが、自由にあると言っている。言いかえる
と、真の自由を求めるのが、真理ということになる。

もっと言えば、真理が何であるか、その謎を解くカギが、実は「自由」にある。さらにもっと言え
ば、究極の自由を求めることが、真理に到達する道である。では、どうすればよいのか。

 一つのヒントとして、私はこんな経験をした。話を先に進める前に、その経験について書いた
原稿を、ここに転載する(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++++++

●無条件の愛

真の自由「無条件の愛」

 私のような生き方をしているものにとっては、死は、恐怖以外の何ものでもない。「私は自由
だ」といくら叫んでも、そこには限界がある。死は、私からあらゆる自由を奪う。が、もしその恐
怖から逃れることができたら、私は真の自由を手にすることになる。

 しかし、それは可能なのか…?  その方法はあるのか…? 

 一つのヒントだが、もし私から「私」をなくしてしまえば、ひょっとしたら私は、死の恐怖から、自
分を解放することができるかもしれない。自分の子育ての中で、私はこんな経験をした。

 息子の一人が、アメリカ人の女性と結婚することになったときのこと。息子とこんな会話をし
た。

息子「アメリカで就職したい」
私「いいだろ」
息子「結婚式はアメリカでしたい。アメリカでは、花嫁の居住地で式をあげる習わしになってい
る。式には来てくれるか」
私「いいだろ」
息子「洗礼を受けて、クリスチャンになる」
私「いいだろ」と。

 その一つずつの段階で、私は「私の息子」というときの「私の」という意識を、グイグイと押し殺
さなければならなかった。苦しかった。つらかった。しかし次の会話のときは、さすがに私も声
が震えた。

息子「アメリカ国籍を取る」
私「日本人をやめる、ということか…」
息子「そう」
私「…いいだろ」と。

 私は息子に妥協したのではない。息子をあきらめたのでもない。息子を信じ、愛するがゆえ
に、一人の人間として息子を許し、受け入れた。英語には「無条件の愛」という言葉がある。私
が感じたのは、まさにその愛だった。しかしその愛を実感したとき、同時に私は、自分の心が
抜けるほど軽くなったのを知った。

 「私」を取り去るということは、自分を捨てることではない。生きることをやめることでもない。
「私」を取り去るということは、つまり身の回りの、ありとあらゆる人やものを、許し、愛し、受け
入れるということ。

「私」があるから、死が怖い。が、「私」がなければ、死を怖がる理由などない。一文無しの人
は、泥棒を恐れない。それと同じ理屈だ。死がやってきたとき、「ああ、おいでになりましたか。
では一緒に参りましょう」と言うことができる。そしてそれができれば、私は死を克服したことに
なる。真の自由を手に入れたことになる。その境地に達することができるようになるかどうか
は、今のところ自信はない。ないが、しかし一つの目標にはなる。息子がそれを、私に教えてく
れた。

+++++++++++++++++

 問題は、いかにすれば、私から「私」をとるか、だ。それには、いろいろな攻め方がある。一つ
は、自分自身の限界を認める。一つは、とことん犠牲的になる。一つは、思索を深める。

(自分自身の限界)私たち人間とて、そして私自身とて、自然の一部にすぎない。自然を離れ
て、私たちは人間ではありえない。野に遊ぶ鳥や動物と、どこも違わない。違うはずもない。そ
ういう事実に、謙虚に耳を傾け、それに従うことが、自分自身の限界を認めることである。私た
ちは、自然を超えて、人間ではありえない。まさに自然の一部にすぎない。

(犠牲的である)犠牲的であるということは、所有意識、我欲、さらには人間が本来的にもって
いる、貪欲、ねたみ、闘争心、支配欲、物欲からの解放を意味する。要するに「私の……」とい
う意識からの決別ということになる。「私の財産」「私の名誉」「私の地位」など。「私の子ども」も
それに含まれる。

(思索を深める)「私」が、外に向かった意識であるとするなら、「己(おのれ)」は、中に向かっ
た意識ということになる。心という内面世界に向かった意識といってもよい。この己は、だれに
も奪えない。だれにも侵略されない。「私の世界」は、不安定で、不確実なものだが、「己の世
界」は、絶対的なものである。その己の世界を追求する。それが思索である。

 私から「私」をとるというのは、ひょっとしたら人生の最終目標かもしれない。今は「……しれな
い」というような、あいまいな言い方しかできないが、どうやらこのあたりに、真理の謎を解くカ
ギがあるような気がする。それは財宝探しにたとえて言うなら、もろもろの賢者が残してくれた
地図をたよりに、やっとその財宝があるらしい山を見つけたようなものだ。

財宝は、その先? いや、本当にその山のどこかに財宝が隠されているかどうかさえ、わから
ない。そこには、ひょっとしたら、ないかもしれない。「山」といっても広い。大きい。残念なこと
に、それ以上の手がかりは、今のところ、ない。

 今はこの程度しか書けないが、あのベートーベンも、こう言っている。『できるかぎり善を行
え。自由を愛せよ。たとえ王座の前でも、断じて、真理を裏切ってはならぬ』(「手記」)と。彼の
言葉を、ここに書いたことに重ねあわせてみても、私の言っていることは、それほどまちがって
はいないのではないかと思う。このつづきは、これからゆっくりと考えてみたい。
(02−12−15)

●「真理を燈火とし、真理をよりどころとせよ。ほかのものを、よりどころとするなかれ」(釈迦
「大般涅槃経」)。
(040505)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(163)

【近況あれ・これ】

++++++++++++++++++++++++

このところ、どうも、国際問題が、気にかかる。
若いころから、興味があった。それもあるが、
これは私の趣味(?)のようなものかも?

こういうマガジンでは、政治の話は、タブーと
いうことになっている。しかしどうしても、いろ
いろと考えてしまう。

++++++++++++++++++++++++

●イラクのアメリカ

 東京のコンサルティング会社のM氏から、マガジンが届く。いわく、「アメリカは、イラクで墓穴
を掘っている……」と。

 長引く内戦状態。高まる反米感情。加えて、このところ、アメリカ兵によるイラク人への虐待
問題が、明るみになってきた(5・5)。アメリカは今まさに、あの忌まわしいベトナム戦争と同じ
ように、ドロ沼に足を踏み入れようとしている。

 それはわかる。しかし私は、どうしても、「墓穴」という言葉を使えない。理由はいくつか、あ
る。

 結果的に、イラクで、大量破壊兵器は発見されなかったが、しかしその大量破壊兵器を、ま
がりなりにも、押さえこんできたのは、アメリカである。EUやロシアではない。この状態は、この
日本を含む極東についても、同じである。

 北朝鮮の大量破壊兵器開発を、今まさに、まがりなりにも押さえこんでいるのは、アメリカで
ある。中国やロシアではない。日本でもない。

 もしアメリカがずるいとか、卑怯(ひきょう)だというのなら、そのアメリカの上にのって、好き勝
手なことをしているのは、この日本ではないのか。日本は、その中東に、原油の80%〜90%
を依存している。

 もっとわかりやすく言えば、戦後、アメリカが築きあげてきた、(自由主義貿易体制)の上で、
経済的繁栄を謳歌(おうか)してきたのは、この日本である。それを忘れてはいけない。

 仮に「墓穴」ということになれば、それはそのまま日本の「墓穴」ということになる。仮にアメリ
カが、「私はもう知りません。イラクも、北朝鮮も、どうぞご勝手に」と言い出したとしたら、そのと
き、世界は、日本は、どうするつもりなのか。


●平和ボケ

 名前は出せないが、先日、経済界のトップクラスの人(59歳・男性)が、こんなことを言った。

 「韓国の人たちが何を考えているのか、まったく理解できない。反米なのは、よくわかるが、ど
うして反米なのか。韓国の独立を守るため、アメリカ兵は、3万人以上も死んでいる。現に今
も、3万人以上ものアメリカ兵が、北朝鮮との国境を守っている」と。

 日本にも、そういう時代があった。60年安保、70年安保の時代がそうだった。仮に、もし、そ
の当時、日本にアメリカ軍が駐留していなかったら、日本は、スターリン・ソ連、毛沢東・中国、
李承晩・韓国、金日成・北朝鮮に、繰りかえし、侵略されていただろう。

 日本は、そういう報復をされてもしかたないことを、戦前、してしまった!

 「今の韓国は、日本の60年代、70年代に似ていますね。どこか独善的になってしまい、自分
たちの置かれた立場が、よくわかっていませんね」と私がいうと、その男性は、「まったくその通
りです」と言って、笑った。

 が、今、極東の状況は、大きく変わりつつある。

 その第一。韓国から、アメリカ軍の撤退。つぎに沖縄からの、アメリカ軍の撤退。

 その沖縄については、こんな裏話が、伝わってきている。

 今年(04)のはじめ、パウエル国務長官が、日本を訪問(2・22〜23)したときのこと。その
ときパウエル国務長官は、日本ではアメリカ軍は、歓迎されていると思っていたらしい。自分も
歓迎されると思っていたらしい。だから、沖縄を先に訪問した。

 が、それに対して、沖縄のI知事は、歓迎どころか、いきなり、「アメリカは、沖縄から出て行
け!」と言ってしまった。これに対して、パウエル国務長官は、不愉快を通りこして、激怒した。
「日本を守ってやっているのは、このアメリカではないか!」と。

(このI知事の言動は、知事としては、まったくふさわしくない行為といってもよい。一知事の立
場でありながら、日本国政府を通りこして、アメリカ政府に抗議した。

沖縄の置かれた複雑な立場も理解できないわけではないが、10年一律のごとく、反米、反日
を唱えつづけるのも、どうかと思う。不満があるなら、日本政府に対してすればよい。アメリカで
はない。I知事は、ただの県知事ではないのか。)

 そのあとK外務大臣は、懸命にパウエル国務長官をなだめたというが、ときすでに遅し。表向
きは、「沖縄の負担軽減」(日米外相会談の詳報)という言葉を使っているが、アメリカは、沖縄
からの撤退を、さっさと決めてしまった。「われわれは、望まれない地域には、兵を置かない」
と。

 「日本は、平和を愛する民族です」などと言うのは、その人の勝手。しかしわけのわからない
国が生まれて、その日本を攻めてきたとき、日本はどうするのか。そのときでも、日本は、「平
和を守ります」などと、のんきなことを言っておられるのだろうか。

 かつての日本が、その(わけのわからない国)だった。それを忘れてはいけない。


●アメリカ人

 中国には、中国人がいる。ロシアには、ロシア人がいる。ヨーロッパには、ヨーロッパ人がい
る。しかしアメリカには、アメリカ人は、いない。

 そんなことは、アメリカを旅行してみれば、すぐわかること。アメリカ合衆国の正式統計によれ
ば、人種構成は、つぎのようになっている(04)。

白人                 ……77%
黒人                 ……11%
アジア系が               ……4%
アメリカとアラスカの原住民族が   ……1・5% 
ハワイなどの太平洋諸島原住民族が  ……0・3%
その他   4%

 南部のテキサス州などに行ってみると、約40%が、ヒスパニックと呼ばれる人たちである。ま
さに「アメリカは人種のるつぼ」といった感じがする。もちろんその中には、日系人も、多数含ま
れている。

 この人種の多様性こそが、アメリカの特徴であると同時に、世界戦略の原動力となっている。

 そんなわけで、よく「アメリカ人は……」と言う人の意見を聞いたりすると、私は、ふと、こう思
ってしまう。

 「どういう人をさして、アメリカ人と言うのか……?」と。それは「日本人は……」と言うときの日
本人とは、まるで異質のものである。「中国人は……」と言うときの中国人とは、まるで異質の
ものである。

 私の二男のワイフは、アメリカ人だが、スペイン人、イギリス人、フランス人などなどの血が流
れているという。遠くは、アメリカインディアンの血もまざっているという。そんなわけで、私の孫
はアメリカ人だが、私という日本人の孫でもある。

 いつか世界も、人種単位、国単位でものを考えるおかしさに、気づくときがやってくるだろう。
民族単位、宗教単位でものを考えるおかしさに、気づくときがやってくるだろう。つまりそのとき
こそ、世界がひとつになるときであり、平和になるときである。

 今すぐは無理だとしても、私たちが、100年後、500年後に目ざすべき世界は、そういう世
界をいう。

 アメリカという国は、今まさに、その国内で、それを実験している国ということになる。いろいろ
と問題の多い国かもしれないが、アメリカという国を、そういう目で見ることも必要ではないの
か。
(はやし浩司 アメリカ 人種)

 
●独善と我流

 子育てでいちばん、こわいのは、独善と我流。「私がいちばん、正しい」「私の子どものこと
は、私がいちばんよく知っている」と豪語する親ほど、実は、子育てで失敗しやすい。

 理由がある。

 子どもたちを包む世界は、今、急速に多様化し、変化しつつある。その多様性や変化を、知
りつくした親など、ぜったいにいない。たいていの親は、一世代前、あるいは数世代前の子育
てを踏襲(とうしゅう)し、それを繰りかえしている。

 で、独善的な親や、我流を強引に子どもに押しつける親は、自分の価値観の中だけで子育
てをする。

 その価値観を子どもが、受け入れることは、まずない。やがて親子の間にキレツが入り、そ
れが断絶へと進む。仮に子どもが受け入れたとしても、子どもは、今度は、ハキのない、ひ弱
な子どもになってしまう。

 そういう状態を、私たちの世界では、「失敗」という。

 こうした失敗を防ぐためには、親自身が、いつも前向きに生きていかねばならない。新しい世
界に目を向け、それに挑戦していかねばならない。新しい情報を手に入れ、自分を変えると同
時に、それを自分の中で、消化していかねばならない。

 もしそれがいやだというのなら、子育てを放棄し、教育を放棄することだ。無責任な親に徹す
ることだ。「あなたはあなたで、勝手に生きていきなさい。私は知りません」と。

 そういう子育てを、私たちの世界では、「放任」という。親の過干渉、過関心で、子どもをダメ
にするよりは、ずっと、よい。

 その独善と我流を防ぐ、もっともよい方法は、風通しをよくすること。いつもいろいろな会合に
出て、いろいろな人に会うこと。そして自分や自分の子育てを、客観的にみること。まずいの
は、自分だけの価値観の世界に閉じこもること。こういうのを「カプセル化」という。

 子育ては、一度カプセル化すると、何につけても、極端になりやすい。過保護にしても、過干
渉にしても、極端な過保護や過干渉になってしまう。そして気がついたときには、袋小路に入る
どころか、にっちもさっちもいかなくなってしまう。

 が、その段階でも、親はそれに気づかない。「あの子は、生まれつきああです」「あの子の問
題は、生まれつきのもので」と言ったりする。

 その独善と我流を防ぐためには、さらにどうするか? それには「はやし浩司のマガジン」を
読むのが、よい。(これはコマーシャル。)


●失礼な若者たち

 ある日、突然、こんなメールが届く。

 「私は、保育士をめざす学生です。あちこちホームページを見ていたら、はやしさんのホーム
ページに行き当たりました。つきまして、『ママ診断』など、いくつかの原稿を、私の卒論に引用
させていただきたいのですが、よろしく。神奈川県K市、三浦」と。

 それだけ。それ以上の住所もない。名前も名字だけ!

 こうした依頼は、原則として、断ることにしている。(当然ではないか!)だいたいにおいて、
「ママ診断など」と、「……など」と書いてあるところが恐ろしい。へたに承諾すれば、それを拡
大解釈することによって、私のホームページすべてを、自由に、引用できることになる。

【学生諸君へ!】

 引用の許可を求めるときは、(1)自分の住所と名前くらい、明記しなさい。(2)引用か所と、
引用目的を明記しなさい。(3)引用先の内容を、もっと明確にしなさい。商用目的に使われた
ら、困るでしょう。(4)それに、他人にものを頼むときは、もう少し、ていねいな文章を書きなさ
い。

 こんなことは、研究者の間では常識。しかしそんな常識もない学生に、自分の大切な原稿を
引用(=利用)されたのでは、たまらない。

 それにしても、いくらインターネットの時代になったとはいえ、こうも安易に、原稿が、引用され
たり、転載されてよいものか。私は、こう返事を書いた。

 「引用、転載は、明確にお断りします。もし無断で引用、転載されたばあいには、すみやかに
法的措置を取らせていただきますので、あらかじめご承知おきください」と。

 なぜ私が、引用、転載を断るか……。その理由を書いてやろうと思ったが、やめた。相手の
学生は、私という人間を、どうせその程度の人間にしか見ていない。もし私に地位や肩書きが
あれば、その学生もそんな失礼なメールなど、よこさなかったはず。

 それがよくわかったから、理由を書くのをやめた。しかしそれにしても、今、この種の失礼なメ
ールが、多すぎる。いやだね。ホント!


●くだらない意地

 この5月の大型連休の間、約40万人もの旅行客が、海外へでかけた。40万人、である!

 そういう時代なのに、あのK国は、拉致被害者の家族を、日本へ返さないと、まだがんばって
いる? その数、たったの10人足らず。電話をかけさせたり、手紙のやりとりくらい、自由にさ
せてくれたらよいと思うのだが、それすらもさせてくれない。

 むずかしい話ではない。連休の間、日本人が海外旅行するように、そういう被害者を、日本
へ旅行させればよい。「まあ、日本へ行きたかったら、行ってきなさい」と。

 一方、在日朝鮮人の人たちは、あのM号という船で、日本とK国の間を、自由に(?)行った
りきたりしている。しかもそのたびに、船の中、外で、K国の旗を振り、踊りまで踊っている。少
し前までは、拡声器で、大音響の音楽まで流していた。

 K国の中でそういうことをするのなら、まだしも、日本の港で、そういうことをする。日本人の神
経を逆なでするようなことを、よくするものだと思う。

 これはたとえて言うなら、葬式か何かで、うちひしがれている家族の前で、楽しそうに祝杯を
あげるようなものではないか。しかも加害者が被害者の目の前で、それをするから、たまらな
い。「拉致被害者を返せ!」と叫ぶ、抗議集団。その波止場のビルの屋上で、旗を振り、歌を
歌う在日朝鮮人の人たち。私には、こうした光景が、どうにもこうにも、理解できない。

 それとも私の感覚が、おかしいのか?

 ついでに……。
 
この原稿を書いている今日、たまたまK国の首都のピョンヤンで、韓国とK国の、南北閣僚級
の会談が開かれている。「将官(星)級の会談」を迫る韓国。「米韓軍事演習の中止」を求める
K国。

 米韓軍事演習の中止は、そのまま米韓同盟の崩壊を意味する。韓国が、それをのむはずは
ない。のんだとたん、米軍は、韓国から撤退する。

 が、どうして韓国は、将官(星)級の会談を求めるのか。会談くらい何でもないと、考えがちだ
が、それは正しくない。そのウラには、もう少し、複雑な事情が隠されている。

 東シナ海での軍事衝突を避けるためというのが、韓国側の言い分である。なぜばら、言いか
えると、東シナ海は、K国が韓国に戦争をしかけることができる、ゆいいつの場所だからであ
る。

 東シナ海には、二本の境界線がある。国連側(韓国側)の引いた境界線と、K国側の引いた
境界線である。ともに、自分の引いた境界線こそが正当であると、ゆずらない。いつかK国が
韓国に戦争をしかけるとしたら、この東シナ海しかない。

 韓国も、それを熟知している。だからこそ、つまり戦争を避けたいからこそ、韓国はK国に、
将官(星)級会談を求めている。K国側にしてみれば、将官(星)級会談を認めることは、韓国
への戦争カードを失うことになる。

 簡単なシミュレーションをしてみよう。

 XX年Y月Z日。午前3時。K国のカニ漁船が、韓国側のいう国境を越えて、操業する。それに
対して韓国側が、国境侵犯で、警備艇を派遣。K国の漁船を見つけて、威嚇射撃。

 これに反発して、K国側の哨戒(しょうかい)艇出動。反撃。双方に死者が出る。そこで韓国
側、同じく哨戒艇派遣。銃撃戦。K国側、航空機を出して、反撃。韓国側も反撃。

 こうして第二次朝鮮戦争、勃発。2万門もの、K国側の長距離砲が、いっせいにうなりをあげ
る。その砲弾は、雨あられのように、韓国のソウルの町に降りそそぐ。

 国境があいまいということは、そのどちらにとっても、相手側に戦争の口実を与えてしまう。
「お前のほうが、先に攻撃してきたではないか!」と。

 韓国側が主張する、将官(星)級会談には、それを防ぐという役目がある。

 では、K国は、南北会談で、何を求めているのかということになる。

 ズバリ言えば、援助。それ以外、何もない。仮にK国が、韓国人の出入りを認めれば、K国
は、そのまま崩壊する。「開放すれば、金XX政権は、3日、もたないだろう」というのが、大方の
見方である。

 ……話をもどす。

 それにしても、どうしてこうまでK国は、ヒネクレているのかと思う。私が金XXなら、さっさと、
拉致被害者の家族を返す。一時、ごうごうたる非難がわき起こるかもしれないが、それはし方
ないこと。時間がくれば、やがて落ちつく。

 決してむずかしい話ではない。日本のばあい、この連休だけで、約40万人もの旅行客が、
海外へでかけた。日本にとっては、「今」は、そういう時代である。

「たった」という言い方は、こういうケースではしてはいけないのかもしれないが、しかしたったの
10人ではないか。金XXよ、もしあなたにも温かい血が流れているなら、拉致被害者の家族
を、日本へ、返したらよい。いつまでも、くだらない意地を張って、あなたはいったい、どうする
つもりなのか。

【追記】

 5月7日現在、南北の将官級会談は、実現することになった。「会談を開いたら、穀物、40万
トンを支援する」と韓国側は、かねてから言っていた。

 また拉致被害者家族の、日本への帰国については、中国が強力な指導力を発揮したよう
だ。このところ、急速に事態が動き出している。(よかった!)


●友人のホームページ

 昨年の終わり、友人が、自分のホームページを開いた。あれこれその方法を、私に開き方を
聞いてきたので、簡単な試作品を作って、送ってやった。それには、私が買っただけで使って
いなかった、ホームページ作成用のソフトも、つけてやった。

 その友人は、最近、「ホームページづくりが、私の生きがいになりつつある」と、メールで書い
てきた。うれしかった。本当にうれしかった。

 で、さらに最近、「もっと、私のホームページをみんなに読んでもらうには、どうしたらいいか」
と聞いてきた。その気持ちは、よくわかった。私もそうだった。

 で、方法はいくつかある。最初にやるべきことは、グーグル、ヤフーなどのサーチ会社に、自
分のホームページを登録することである。インフォシーク社などは、有料だが、登録サービス
を、代行してくれる。

 ……と、ここまでは、以前にも書いた。

 そこで私は、ふと、本当にふとだが、私のマガジンでその友人のホームページを紹介してや
ろうかと思った。中には、その友人のホームページを見る人もいるかもしれない。が、しかし言
うなれば、どこかインチキな方法。一時的には、読者がふえても、あくまでも一時的。

 マガジンにせよ、ホームページにせよ、コツコツと、少しずつ読者がふえていくところに、楽し
さがある。喜びがある。生きがいもそこから生まれる。しかも自分でそれをしてはじめて、その
生きがいを自分のものにすることができる。

 中には、ずるいマガジンがあって、「購読してくれた人の中から、抽選で100人に、総額100
万円の賞品をあげます」と、歌うものもある。(こうした手法は、この資本主義社会では、当たり
前のことかもしれないが……。)

 しかし私はそういう方法は、やはりずるいと思う。思うから、その友人のホームページを紹介
するのを、やめた。

 しかし実際、マガジンにせよ、ホームページにせよ、読者がふえるというのは、大きな励みに
なる。あまり気にしてはいけないとは思うが、やはり気になる。たとえばこの2週間、大型連休
中ということもあって、マガジンの読者は、ほとんどふえなかった。

 そのせいかどうかは知らないが、毎朝、パソコンに向っても、原稿を書く気が、ほとんど起き
なかった。脳ミソが空転するだけで、考えがまとまらなかった。しかし今朝(5・7)、久しぶりに、
読者が3人、ふえた。とたん、ムラムラと、書く気がわいてきた。

 ものを書くというのは、そういうものか。サッカー選手が、よく、「応援してくれた、サポーターの
みなさんのおかげです」と言うのに、似ている。サポーターあってのサッカー。読者のみなさん
あっての、もの書きである。私である。

 一度、その友人の了解を求めた上で、近く、その友人のホームページを紹介するかもしれな
い。どうか、そのときは、みなさん、こぞって、アクセスしてやってほしい。


●30年、一世代

 「世」という漢字は、もともと「十十十」、つまり「三十」を意味するという。ちょうど30年で、一世
代を繰りかえすことから、そういう字を使うようになったという。

 たとえば30年後、あなたの子どもは、あなたの年齢になり、あなたの子どもと同じ年齢の子
どもをもつようになる。反対に30年前には、あなたの両親が、今のあなたの年齢で、あなたは
今のあなたの子どもの年齢だった……。

 しかし私は、この30年という数字を、別の意味で、とらえている。

 私もこの浜松市に住むようになって、今年で、33年になる。ちょうど一世代分、この町で生き
たことになる。先日もそのことについて、ワイフと、こんな話をした。

 「この30年間で、ぼくたちのまわりは、すっかり変ったね」と。

 そう、この30年間で、大きく変わった。小さな店を経営していた商店主が、全国規模の大会
社の社長になったというようなケースがある一方で、浜松市でも一、二を争っていた資産家が、
落ちぶれて、見る影もなくなってしまったというようなケースもある。

 まさに栄枯盛衰。仏教的無常観を借りるなら、『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
※』(平家物語)ということになる。

 で、そういう世間を見ながら、かろうじてふんばっている我が身を知り、「こんな自分も、いつ
までつづくのか?」と、ふと、思う。

 ただ、だからといって、生きていることが、虚しいとか、そういうことを言っているのではない。
成功した人がどうとか、失敗した人がどうとか言っているのではない。人は、人それぞれだし、
私は私だ。

 が、30年も生きてみると、世の移り変わりというものが、実感として、自分の心の中でわかる
ようになる。そしてふと立ち止まったようなとき、「あのときの、あの人は何だったのかなあ」と、
思う。

 しかしそれは、そのまま私自身の未来の姿でもある。いつかだれかが、ふと、私のことを思い
出しながら、「はやし浩司って、何だったのかなあ」と思うかもしれない。何もかもあいまいな世
界だが、はっきりしていることもある。

それは、つぎの30年後には、私はこの世から消えていなくなっているということ。ワイフの父親
も、もう死んでいるし、私の父親も死んでいる。それと同じになる。

 「世」という漢字は、もともと「十十十」、つまり「三十」を意味するという。

 今、つくずくと、「なるほどなア」と思う。

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※祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声
諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色
盛者必衰(しょうじゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
たけき者も遂(つい)には滅びぬ
偏に風の前の塵(ちり)に同じ

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【追記】

 仏教的無常観……つまり、何をしてもムダ、何をしても意味がない、という無常観は、正しくな
い。当時は、そういう世相であったかもしれないが、それをそのまま受け入れると、たいへんな
ことになる。まさに(生きること)を、否定してしまうことになりかねない。

 私はこのことを、中学生のときに、感じたことがある。

 私は、中学生のころ、自分で空を飛んでみたかった。それ以前からそうだったが、毎日、どう
すれば、自分で空を飛べるか、そればかりを考えていた。

 小学4年生くらいのときには、板を切って、翼(はね)を作ったこともある。で、あれこれいろい
ろ実験を繰りかえしていた。一度は、それを背中につけて、一階の屋根の上から、飛び降りた
こともある。

……というより、そんなわけで、中学生になるころには、飛行機が飛ぶ原理を、ほぼ完ぺきに
近いほど、知りつくしていた。

 そんな中、一人、たいへん冷めた男がいた。いつも私がすることを、遠巻きにして、ニヤニヤ
と笑って見ているような男だった。今、ここで具体的にどんなことがあったかを、書くことはでき
ない。よく覚えていない。しかしその冷めた目つきだけは、今でも忘れない。

 軽蔑の眼(まなこ)というか、いつもそういう眼で、私を見ていた。

 つまり自分では、何もしないで、他人のすることを、あれこれ、批判、批評ばかりしていた。
「そんなことしても、ムダだ」とか、「意味がない」とか。

 仏教的無常観というのは、それに似ている。仏教的無常観を信ずる人は、その人の勝手だ
が、しかしだからといって、この世の中で、懸命に生きている人を否定するための道具に、そ
れを使ってはいけない。

 先日も、こんなことを言った人(男性、60歳くらい)がいた。

 「林君、どうせ有名になっても、意味はないよね。死んで10年もすれば、たいてい忘れられ
る。総理大臣だって、そうだ。今の若い人は、30年前の総理大臣の名前すら、覚えていないだ
ろ」と。

 たしかにそうだが、しかしだからといって、懸命に生きること、それを否定しては、いけない。
ちなみにその人は、どこからどう見ても、ただの平凡な男だった。

 仏教的無常観をもつ人は、どこか、独特の優越感を覚えることが多い。「冷めた考え方」とい
うのは、そういう考え方をいう。

 失敗してもようではないか。つまずいてもよいではないか。有名になれなくてもよいではない
か。大切なことは、その人が、いかに充実した人生を、満足に送ることができるか、だ。

 仏教にも、いろいろな側面がある。しかし私は、仏教がもつ、(あるいは宗教全般がそうかも
しれないが)、現世逃避的なものの考え方には、どうしても、ついていけない。ここでいう仏教的
無常観も、その一つである。

 私なら、平家物語を、こう書く。

++++++++++++++++++

祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声
夢と希望の、明るい音色。
沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色
我らが目的は、失敗にめげず、前に進むこと
懸命に生きる、人の美しさ
未来に向かって、ひたすら生きる
その命、人から人へと、永遠につづく
そこに、人が生きる意味がある。価値がある。


●S幼稚園での講演

 今日、浜松市の東にある、S幼稚園で講演をさせてもらった。S幼稚園では、二度目である。

 テーマは、「子育て診断・ママ診断」。二度目ということで、各論を話させてもらった。

 園長が、たいへんサバサバした方で、フィーリングがあうというか、おかげで気持ちよく講演
をすることができた。

 で、帰りに、通りにある回転寿司屋で、寿司を食べた。講演に行く前から、「ようし、今日は、
寿司を食べるぞ」と心に誓った。

 どうして食べ物にこだわるかって? 私は講演の前には、食事をしないことにしている。血圧
が低いせいか、食べ物が胃袋に入ると、とたんに眠くなってしまう。そんな状態では、講演はで
きない。

 だから講演をする前から、講演したあとに食べるものを、あれこれいろいろ考える。またそれ
が楽しみで、講演をする。「講演が終わったら、寿司を食べるぞ」と。

 一度、家に帰ったが、そこでものすごい睡魔に襲われた。しかし仮眠している時間はない。そ
のまま自転車で、仕事に。

 そうそう今度、新しい自転車を買った。2万9000円。B社製の、自転車。まだ乗りなれていな
いので、どこか乗りにくいところもあるが、そのうちなれるだろう。

 ……などなど、くだらない話は、ここまで。明日は土曜日! 思いっきり、遊ぶぞ!


●浜名湖花博

 よかった。楽しかった。……それが率直な感想。

 この種の博覧会にありがちな、荒っぽさが、なかった。すみずみまで、キメのこまかな気くば
りが、感じられた。

 当初、つまり会場に入るまで、私は、「人ごみの中で、花など見て、楽しめるものか」と思っ
た。花というのは、静かな環境で、つまり自然の中で見てこそ、その美しさがわかる。

 が、意外だった。本当に意外だった。主催者が、まさにやる気でやった博覧会。つくる気でつ
くった博覧会。それが「浜名湖花博」。……と、私は、そう感じた。

 会場をあちこち回るうち、うれしくなった。私とワイフは、いつしか子どものようにはしゃぎなが
ら、会場のあちこちを回った。

 入場料は、2900円(当日券)。そんなわけで、入場券を買ったときは、「高いな……」と思っ
たが、少し歩き始めたとたん、「安いな……」という思いに変った。

 立体映画も見た。球体映画も見た。野外演奏会も楽しんだ。世界の庭あり、墓あり……。

 以前、つくば博に行ったことがあるが、あの博覧会は、最悪。お金だけは、ふんだんにかけて
あったが、見るところがなかった。つまり「心」が入っていなかった。

 しかし浜名湖花博には、「心」が入っていた。それがよくわかった。

 もっともこの浜松市は、フラワーパーク、フルーツパークなどで、実績をつんでいる。その上で
の、花博である。「私も行ってみよう」と思っている人は、じゅうぶん、期待して行ってよい。

 ……とほめてばかりいてはいけないので、苦言も。

 食べ物の料金が高すぎる! ソフトクリームが、一個、300円とか、500円。あとの食べ物
の料金も、それ並。細いパンのようなピザ風食べ物(チュニジア)が、1000円! 各国のみや
げもの屋も並んでいたが、どれも値段が、ぞっとするほど、高かった。

 それに展示、即売コーナーで、写真(カメラ付携帯電話)をとっていたら、60歳くらいの店員
(女性)が、「写真をとらないでください」と言った。「?」と思いながらも、それに従ったが、その
「?」は、会場を出るまで、心に残った。
(040508)

●弁当は、各自、持参したほうがよいのでは……。休憩コーナーは、ふんだんに設けてあるの
で、場所の心配はない。私たちは大型連休中の土曜日にでかけたが、休憩コーナー(屋根つ
き)は、どこもガラガラといったふうで、すいていた。

●トイレの数も、問題なかった。中心部のトイレでは、女性たちが、10〜20人の列をつくって
いるところもあった。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(164)

【日本の農業+教育事情】

++++++++++++++++++

横浜に住む友人のM氏が、山荘に泊まりながら、こんな話をしてくれた。
それに私見も加えながら、メモとして、ここに記録する。

M氏は、日本でも最大手の食品会社の部長という重職を経て、
今は、東京にあるT社の事業開発室の室長をしている。
東京都内に流通する果物の60%は、彼の管轄下にあるという。

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●山荘で

 山荘の周辺は、少し前までは、豊かなミカン畑に包まれていた。しかしここ5〜10年のあい
だ、減反につづく減反で、そのミカン畑が、どんどんと姿を消した。

 理由は、この静岡県のばあい、(1)産地競争に負けた、(2)ミカンの消費量が減少した、
(3)農業従業者が高齢化した、それに(4)外国からの輸入ミカンとの価格競争に負けた。加え
て、この静岡県の人たちには、「どうしても農業をしなければならない」という切実感がない。

とくにこの浜松市は、農業都市というよりは、工業都市。それなりに栄えている。「農業がだめ
なら、工場で働けばいい」という考え方をする。

 産地競争というのは、この静岡県は、愛媛県、熊本県との競争のことをいう。ミカンは暖かい
地方から先に、出荷される。静岡県のミカンは、季節がら、どうしても出荷が遅れる。遅れた分
だけ、価格がさがる。だからどうしても価格競争に負ける。

 ミカンの消費量が減ったのは、それだけミカンを食べなくなったということ。「皮をむくのがめ
んどう」と言う人さえいる。皮をむくことで、「手が汚れる(?)からいやだ」という人さえいる。

 農業従事者の高齢化の問題もある。ミカン栽培は、基本的には、重労働。ほとんどのミカン
畑は中間山地にある。斜面の登りおりが、高齢化した農業従事者には、きつい。

 最後に、このところ、外国からの輸入が急増している。あのオーストラリアからでさえ、温州
(うんしゅう)ミカンを輸入しているという。

 そこで、静岡県のミカン産業は、どうしたらよいのかということになる。

●外国との競争

 オーストラリアでのミカン栽培は、そもそも規模がちがう。大農園で、大規模に栽培する。しか
も労働者は、中国人やベトナム人を使っている。もともと日本にミカンに勝ち目はない。

 本来なら日本も、その時期には、外国人労働者を入れて、生産費用を安くすべきだった。し
かし日本の農業、なかんずく農林省のグローバル化が遅れた。遅れたばかりか、むしろ、逆に
グローバル化に背を向けた。が、それだけではない。

 現在の農業は、まさに補助金づけ。それはそれで必要な制度だったかもしれないが、この半
世紀で、日本の農家は、自立するきびしさを、忘れてしまった。

このあたりの農家の人たちでさえ、顔をあわせると、どうすれば補助金を手に入れることがで
きるか、そればかりを話しあっている。

 ここでは省略するが、農家の補助金づけには、目にあまるものがある。農協(JA)という機関
が、その補助金の、たれ流し機関になっていると言っても、過言ではない。が、それ以上に、も
う一つ、深刻な問題がある。

 実は農業に従事する人たちの、レベルの問題がある。M氏は、「おおっぴらには言えない
が、しかしレベルが低すぎる」(失礼!)と。それを話す前に、こんなことがあった。

●レベルのちがい?

 私が学生で、オーストラリアにいたころ、私は、休暇になると、友人の牧場に招待された。そ
こでのこと。友人の父親は、夕食後、私たちに、チェロを演奏して聞かせてくれた。彼の妻、つ
まり友人の母親は、アデレード大学の学士号を取得していた。

 私は、「農業をする人は、そのレベルの人だ」という、偏見と誤解をもっていた。だから、この
友人の両親の「質」の高さには驚いた。接客マナーは、日本の領事館の外交官より、なめらか
で、優雅だった!

 これには、本当に、驚いた!

 つまりこうした学識の高さというのが、オーストラリアの農業を支えている。が、とても残念なこ
とだが、日本には、それがない。(最近、若い農業経営者の中には、質の高い人がふえてきて
いるが……。)

 一方、この日本では、M氏の話によれば、戦前には、大学の農学部門にも、きわめてすぐれ
た研究者がいたという。しかし戦後、経済優先の社会風潮の中で、農学部門には目もくれず、
優秀な人材ほど、ほかの部門に流れてしまった。

 このことは、大卒の就職先についても、言える。

 私が学生のころでさえ、地方に残った若者たちは、負け組と考えられていた。その中でも、農
業を継いだ若者たちは、さらに負け組と考えられていた。たいへん失礼な言い方だとは思う
が、事実は事実。当時は、だれもが、そう考えていた。M氏は、さらにつづけてこう言った。

 「農繁期には、中国や東南アジアから、季節労働者を呼び、仕事を手伝ってもらえばよい。農
業を大規模化するため、産業化、工業化すればよい。

しかしそういうグローバルなものの見方や、経営的な考え方をすることができる人が、この世界
には、いない。それがこの日本の農業の、最大の問題だ」と。

●おかしな身分制度

 ところで江戸時代には、士農工商という身分制度があった。江戸時代の昔には、農業従事者
は、武士についで2番目の地位にあったという。それがどういうものであったかは、ただ頭の中
で想像するだけしかない。しかしまったく想像できないかといえば、そうでもない。

 私が、子どものころでさえ、「?」と思ったことがある。

私の実家は、自転車屋。士農工商の中でも、一番、下ということになる。それについて私は、
子どもながら、「どうして商人が、農家の人より下」と思ったのを覚えている。

 もちろん仕事に上下はない。あるはずもない。ないのだが、しかし私が子どものころには、は
っきりとした意識として、それがあった。「農業をする人は、商業をする人よりも、下」と。

 こうした社会的な偏見というか、意識の中で、日本の農業は、国際化の波に乗り遅れてしま
った。今の日本の農業は、国からそのつどカンフル注射を受けながら、かろうじて生きながらえ
ているといった感じになってしまった。それが実情である。

●職業観の是正 

 もう一つ、話が脱線するが、今でも、おかしな職業観をもっている人は、少なくない。私も、そ
うした職業観に、いやというほど、苦しめられた。

 私が「幼稚園で働いている」と話したとき、高校時代の担任のT氏は、こう言った。「林、お前
だけは、わけのわからない仕事をしているな」と。

 近所のS氏も、酒の勢いを借りて、私にこう言ったことがある。「君は、学生運動か何かをして
いて、どうせロクな仕事にありつけなかったのだろう」と。

 私の母でさえ、「幼稚園の先生になる」と話したとき、「浩ちゃん、あんたは道を誤ったア」と、
電話口の向こうで、泣き崩れてしまった。

 そういう時代だったし、今でも、そうした亡霊は、この日本にはびこっている。いないとは言わ
せない。つまりそういう亡霊が、私が子どものころには、もっと強くはびこっていた。農業従事者
を「下」に見たのは、そういう亡霊のなせるわざだった。

 が、もう、そういう時代ではない。またそういう時代であってはいけない。大卒のバリバリの学
士が、ミカン畑を経営しても、何もおかしくない。仕事で山から帰ってきたあと、ワイングラスを
片手に、モーツアルトの曲を聞いても、何もおかしくない。

●結論

 私は、M氏の話に耳を傾けながら、これは農業だけの問題ではない。静岡県だけの問題で
もない。日本人が、広くかかえる問題であると知った。もちろん教育の問題とも、関連してい
る。さらにその先では、日本独特の学歴社会とも結びついている。

 が、今、日本は、大きな歴史的転機(ターニング・ポイント)を迎えつつある。それはまさに「革
命」と言ってよいほどの、転機である。

 出世主義の崩壊。権威の崩壊。それにかわって、実力主義の台頭。

 そこであなた自身は、どうか、一度、あなた自身の心に、こう問いかけてみてほしい。

 「おかしな職業による上下意識をもっていないか」と。

 もしそうなら、さらに自分自身にこう問いかけてみてほしい。

 「本当に、その意識は正しいものであり、絶対的なものか」と。その問いかけが、日本中に広
がったとき、日本は、確実に変る。
(040509)

【追記】

 その人がもつ職業観というのは、恐らく思春期までにつくられるのではないか。職業観という
よりは、職業の上下観である。

 この日本には、(上の仕事)と、(下の仕事)がある。どの仕事が(上)で、どの仕事が(下)と
は書けないが、日本人のあなたなら、それをよく知っているはず。

 こうした職業の上下観は、一度、その人の中でつくられると、それを変えるのは、容易なこと
ではない。心境の大きな変化がないかぎり、そのまま一生の間、つづく。

 もっともこの問題は、あくまでも個人的なものだから、その人がそれでよいと言うのなら、それ
までのこと。しかしだからといって、その価値観を、つぎの世代に押しつけてはいけない。

 さてここでクエスチョン。

 もしあなたの子どもが、あなたが(下)と思っている仕事をしたいと言い出したら、そのとき、あ
なたは何と言うだろうか。そのことを、少しだけ、あなたの頭の中で、想像してみてほしい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(165)

【近況あれ・これ】

●一日で、35人!

 現在、電子マガジンとして、Eマガ(Eマガ社版)と、メルマガ(BIGLOBE社版)から、2誌を発
行している。

 記事の内容は、ほとんど同じだが、メルマガのほうは、1週間先までしか、発行の予約ができ
ない。しかも1回に配信できる分量が少ない。そのためいつも、2つに分けて配信している。

(Eマガのほうは、一か月先まで、配信予約できる。それに配信できる分量も、メルマガの2倍
程度もある。それでどうしても、Eマガのほうを、優先してしまう。)

 時間にすれば、1分足らずの作業ですむが、(実際には、30秒前後)、毎回、2つに分けて配
信するというもの、長くつづけていると、めんどうに感ずる。

 それで、メルマガのほうは、ときどき、配信をサボっている。読者が、あまりふえなかったとい
うこともある。

 が、……である!

 04年5月9日は、私にとって、記念すべき日になった。この日、メルマガのほうは、たった一
日で、読者の数が、ナ、何と、35人もふえたのである。35人だぞ!

 こんなことは、電子マガジンを発行して2年以上になるが、はじめてのことである。

 ふつう、私のマガジンのばあい、1回発行すると、読者が2〜4人、ふえる。が、5人ふえるこ
とは、めったにない。今までの最高記録は、7人である。

 しかしこのところ、低調。まったくの低調。Eマガについて言うなら、この1か月近く、ほとんど
ふえなかった。(この1か月で、やっと10人前後。発行回数は、13、4回。)

 だから「35」という数字は、私にとっては、ありえない数字ということになる。「何があったのだ
ろう?」とワイフに聞くと、「どこかで、だれかが宣伝してくれたんじゃないのオ……?」と。

 そうかもしれない。そうでないのかもしれない。

 ただEマガのほうが、ここにも書いたように、頭打ちというか、低調になってきていたので、う
れしかった。と、同時に、こう心に決めた。

 これからも、メルマガ(BIGLOBE社版)を、がんばって発行していくぞ、と。

【メルマガ読者のみなさんへ……】

 5月8日から、9日にかけてマガジンの購読申し込みをしてくださった皆さんへ、どうも、ありが
とうございました。本当に、うれしかったです。


●二男のメモより

+++++++++++++++++

二男のHPに掲載されているメモを、
ここに転載します。

+++++++++++++++++

こんな国(アメリカ)に来てもうかれこれ7年目になる。

僕の年からして、もう人生の3分の1程の時間をここで過ごしてきたわけだ。よく自分でもなに
やってるんだろうと思う。

慣れる、というのは実に危険なことだと思う。刑務所に長くいると、逆に社会へ戻るのがいやに
なるそうだけれど、僕もそんな感じなんだろうか。もともと長居はしたくなかったのだけど、今は
日本へ帰っても、やってけないな、っていう不安がある。 

 日本人ほど海外に出たがる人間はいないと統計が示しているけれども、ぼくはそのうちの一
人で、とにかく日本から離れたかった。なぜだろう・・。

前にも書いたような気がするけど、僕は、日本にいたとき、夜の電車にゴトゴト揺られながら、
真っ黒な景色と、何処までも続くネオンの光、窓越しに見える自分の顔をみるのがとてつもなく
いやだった。

果てしなくさびしくなって、北海道へ電車で一人旅したときは、とにかくこれがいやというほど身
にしみて分かった。きっとあの電車の蛍光灯のせいだと思う。

窓の外、隅から隅へ不気味に立ち並ぶビルの中、残業で働くサラリーマンの姿がチラッと見え
たりして、その無機質な何かが、鳥肌が立つほどいやだった。ああ、ぼくもいつかああなるの
かなって。 

 僕や、大勢の日本人が時々衝動的に日本から離れたいと思うのは、きっと日本中どこも同じ
で、その「同じ」さが皆をウンザリさせるんだと思う。みんななにか感動するものに飢えていて、
自分の人生をアドベンチャー豊かなものにしようと日々「一生懸命」活動する。 

 日本人のバイタリティー、生命力、というのはほんとに、すごいと思う。どこの大学へ行っても
かならず、超やる気満々の日本人の女の子たちが必死になっている姿が、すぐ目につく。

大半のアメリカ人の生活ほどつまらないものはない。毎日全く同じことの繰り返し。これといっ
て新しいことに挑戦する人はまずいないし、みんな適当で、大学のフラタニティー(サークルみ
たいの)にしても別になにもクリエイティブなことはしない。ただ暇つぶしに集まって、酒を飲むく
らい。

とにかく、アメリカの生活は物質的で感動がない。「感動する」っていう言葉自体日本語で訳さ
れるような、movedっていう意味あいとは全く違う。「心に印象づけられる。」っていう程度だと
思う。 

 こんな生活にもなれてしまって、日本のあの、運動会の感覚、文化祭最終夜のあの、燃え尽
きるような感動。そういったものが懐かしく感じる。他人とのつながりが痛いほど感じられる人
間くささ、日本人くささ、というのがたいていの場合この国には存在しない。 

 だから、僕はここでなにやってるんだろう、とよく思う。人生を無駄にしているような気さえす
る。大半のところは、この国のせいではなくて、僕自身の問題だと思う。早くここから脱出する
べきなんだろうか? 

 こんな思いから、最近また曲をつくってみた。Hogge-Podgeのセクション(Sound Clips)にMP3
を今度乗せておきたい。よかったらチェックしてみてください。

【二男のHP】

http://dstoday.com/

++++++++++++++++++++++

【はやし浩司から二男へ……】

 賢い人は、そのものの価値を、なくす前に気づくよ。愚かな人は、そのものの価値を、なくして
から気づくよ。

 仕事? 労働? 退屈? 無意味さ? ……朝起きて、しなければならない仕事があるという
のは、それだけでも、すばらしいことだよ。その上、健康だったら、さらにすばらしいことだよ。

 ぼくも、過去において、何度も、失業の恐怖を味わったことがある。今の生活も、基本的に
は、その恐怖の上に成りたっている。

 もしぼく一人だけなら、そのまま崩れてしまったかもしれない。しかしね、ぼくには、家族がい
た。お前たちも、まだ小さかったからね。だから、歯を何度も、くいしばった。

 そうそう浜松へ来たころは、仕事がなくて、こんなことをしたこともあるよ。

 工業団地へでかけていってね、電柱に、「翻訳します」という張り紙を張って歩いたこともある
よ。晃子(ワイフ)と、二人で、ね。

 それで結構、仕事が舞いこんできて、当時としては、よい収入になったよ。

 「窓の外、隅から隅へ不気味に立ち並ぶビルの中、残業で働くサラリーマンの姿がチラッと見
えたりして、その無機質な何かが、鳥肌が立つほどいやだった」と、お前は書いている。

 その気持ちは、よくわかる。ぼくも、若いとき、そう思ったことが、ある。しかしね、仕事がない
人たちから見ると、それは、とてもうらやましい光景に見えるものだよ。「どうして、ぼくだけ、あ
あいうふうに、仕事ができないのだろう」とね。

 要するに、ものの見方の問題ということかな。同じ、一つのことを見ても、見方がちがうと、そ
れに対する考え方も、180度、変ってくるということ。で、そこで大切なのは、賢い人の見方とい
うことになる。

 『平凡は美徳』と、よく言うけど、日々、何ごともなく過ぎていくというのは、それ自体、人生の
目的でもあり、目標でもあるよ。もしお前が、今、今の生活の中に、その(平凡さ)を感じたら、
それをしっかりと握って、手放してはダメだよ。

 いやね、その価値は、それがなくなったときにわかるよ。

 が、それでは満足できなかったら、どうするかって?

 方法は簡単だよ。これは昔、浜松でも、一、二を争う、電気通信会社の社長が、話してくれた
ことだけどね。台湾へ、通訳としていっしょに行ったときのことだよ。その社長が、こう話してくれ
た。

 「まず、生活のベースをつくれ。それができたら、暴れろ」と。

 つまりね、平凡は平凡として大切にしたあと、その上で、自分のできる範囲で、好き勝手なこ
とをしろ、とね。わかりやすく言うと、ぼくのような自由業の人間はだよ、まず固定給をしっかり
と、どこからか手に入れる。

 それができたら、今度は、臨時収入を考えて、暴れろ、と。固定給だけの生活はつまらない
し、しかし臨時収入だけに頼っている生活は、不安定だ。その社長は、そう教えてくれた。

 今のお前に、この話が役立つかどうかはわからないが、しかし参考にはなると思う。たまたま
お前は、作曲のことも書いているが、そうした才能を、決して眠らせてはだめだよ。何らかの方
法で、追求しなよ。

 ぼくも、ヒマがあると、いつも文を書いていた。あまりお金にはならなかったけれど、生きがい
にはなった。そういうふうに、いつか、自分を支えてくれる。

 まあ、心が疲れたら、いつでも日本へ遊びにおいで。歓迎するよ! デニーズ、誠司によろし
くね。誠司は、どんどんと少年らしくなっている。賢そうな子どもで、安心したよ。これから事故
が多くなる年齢にさしかかるから、注意しなよ。

 ではね……。
(040511)

+++++++++++++++++++++

 二男に送りたいと思い、過去に書いた原稿の
中から、二つを選んでみた。

+++++++++++++++++++++

家族主義と幸福論 
●幸福の原点は家庭にある

ボームが書いた物語に「オズの魔法使い」がある。カンザスの田舎に住む、ドロシーという女の
子と、犬のトトが虹のかなたにある幸せを求めて、冒険するという物語である。こんなことがあ
った。 
 オーストラリアにいたころ、仲間に「君たちはこの国(カントリー)が、インドネシア軍に襲われ
たらどうするか」と聞いたときのこと。皆はこう答えた。「逃げる」と。「おやじの故郷のスコットラ
ンドへ帰る」と言ったのもいた。

何という愛国心! 私があきれていると、一人の学生がこう言った。「ヒロシ、オーストラリア人
が手をつないで一列に並んでもすきまができるんだよ。どうしてこの国を守れるか」と。  
英語でカントリーというときは、「国」というよりは、「土地」を意味する。そこで質問を変えて、「で
は、君たちの家族がインドネシア軍に襲われたらどうするか」と聞くと、皆血相を変えてこう言っ
た。

「そのときは、命がけで戦う」と。これだけではないが、私はいつしか欧米人の考え方の基本
に、「家族」があることを知った。愛国心もそこから生まれる。

たとえばメル・ギブソンの映画に『パトリオット』というのがあった。日本語に訳する「愛国者」と
いうことになるが、もともとパトリオットという語は、ラテン語のパトリス、つまり「父なる大地」とい
う語に由来する。

つまり欧米で、「ペイトリアチズム(愛国心)」というときは、「父なる土地を愛する」あるいは、
「同胞を愛する」を意味する。その映画の中でも、国というよりは家族のために戦う一人の父親
が、テーマになっていた。 
 家族主義というと、よく小市民的な生き方を想像する人がいる。しかしそれは誤解。冒頭にあ
げたオズの魔法使いの中でも、人間が求めている幸福は、そんな遠くにあるのではない。あな
たのすぐそばで、あなたに見つけてもらうのを、息を潜めて待っている…。ドロシーは長い冒険
の末、それを教えられる。 
 明治の昔から、日本人は「出世」という言葉をもてはやした。結果として、仕事第一主義が生
まれ、その陰で家族が犠牲になるのは当然と考えられていた。

発展途上の国としてやむをえなかったのかもしれないが、しかし今、多くの人がそうした生き方
に疑問をもち始めている。九九年の終わりに中日新聞社がした調査でも、四五%の日本人が
「もっとも大切にすべきもの」として「家族」をあげた。日本人は今、確実に変わりつつある。

+++++++++++++++++++
 運命と生きる希望 
●希望をなくしたら死ぬ?

不幸は、やってくるときには、次々と、それこそ怒涛のようにやってくる。容赦ない。まるで運命
がその人をのろっているかのようにさえ見える。Y氏(四五歳)がそうだ。

会社をリストラされ、そのわすかの資金で開いた事業も、数か月で失敗。半年間ほど自分の持
ち家でがんばったが、やがて裁判所から差し押さえ。そうこうしていたら、今度は妻が重い病気
に。検査に行ったら、即入院を命じられた。

家には二四歳になる自閉症の息子がいる。長女(二一歳)は高校を卒業すると同時に、暴走
族風の男と同棲生活。ときどき帰ってきては、遊興費を無心する……。 
二〇〇〇年、日本での自殺者が三万人を超えた。何を隠そう、この私だって、その予備軍の
一人。最後のがけっぷちでかろうじて、ふんばっている。いや、自殺する人の気持ちが、痛い
ほどよくわかる。

昔、学生時代、友人とこんな会話をしたことがある。金沢の野田山にある墓地を一緒に歩いて
いたときのこと。私がふと、「希望をなくしたら人はどうする。死ぬのか?」と語りかけた。すると
その友人はこう言った。

「林君、死ぬことだって希望だよ。死ねば楽になれると思うことは、立派な希望だよ」と。 
Y氏はこう言う。「どこがまちがっていたのでしょうね」と。しかしその実、Y氏は何もまちがってい
ない。Y氏はY氏なりに、懸命に生きてきた。ただ人生というのは、社会という大きな歯車の中
で動く。その歯車が狂うことだってある。そしてそのしわ寄せが、Y氏のような人に集中すること
もある。

運命というものがあるのかどうか、私にはわからない。わからないが、しかし最後のところでふ
んばるかどうかということは、その人自身が決める。決して運命ではない。 
私は「自殺するのも希望だ」と言った友人の言葉を、それからずっと考えてきた。が、今言える
ことは、「彼はまちがっていた」ということ。生きているという事実そのものが、希望なのだ。

私のことだが、不運が重なるたびに、その先に新しい人生があることを知る。平凡は美徳であ
り、何ごともなく過ぎていくのは、それなりにすばらしいことだ。しかしそういう人生から学んだも
のは、ほとんどない。 
どうにもならない問題をかかえるたびに、私はこう叫ぶ。「さあ、運命よ、来たければ来い。お前
なんかにつぶされてたまるか!」と。

生きている以上、カラ元気でも何でも、前に進むしかないのだ。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(166)

●子育ての基本、4か条

 子育ての基本は、(1)子どもには、心を開く。(2)子どもには、誠実である。(3)ほどよい親を
心がける。(4)温かい無視を大切にする。

 順に考えてみよう。

(1)子どもには、心を開く。

 心を開くということは、ありのままを、いつも自然に、すなおにさらけ出すということ。ごまかし
たり、隠したり、偽ったり、飾ったりしないこと。思ったことを言い、話す。遠慮や、距離を感じた
ら、要注意。

 親子の信頼関係は、このたがいの(さらけ出し)と、(受け入れ)の上に、成りたつ。

 言いかえると、親には、自分をさらけ出すことについて、それだけの責任と、自覚がなければ
ならない、ということになる。つまり親であるということは、それだけにきびしい。決して「親であ
る……」という立場に、甘えてはいけない。

 で、あなたはありのままの自分を、子どもの前でさらけ出すことについて、自信があるだろう
か。もしそうなら、それでよし。しかしそうでないなら、子どもを教育しようと考える前に、自分を
育てることを考えたらよい。

(2)子どもには、誠実である。

 「誠実」には、二つの方向性がある。(自分に対して誠実である)という、内に向う方向性と、
(子どもに対して誠実である)という、外に向う方向性である。

 子どもに対して誠実というのは、ウソをつかない。約束を守る。この二つで、こと足りる。しか
し本当にむずかしいのは、自分に対する誠実。子どもに合わせて、へつらったり、愛想をよくし
たりしない。ごまかしたり、偽ったりしない。機嫌をとったり、機嫌をうかがったりしない。

(3)ほどよい親を心がける。

 必要なことをする。それは親として、当然のこと。親には親の、義務がある。しかしやりすぎな
い。

 子育てがじょうずな親というのは、その限度をしっかりとわきまえている親をいう。イギリスの
哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七
〇)は、こう言っている。

 「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、
決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられ
る」と。

(4)温かい無視を大切にする。

 「温かい無視」……この言葉は、どこかの野生動物保護団体の人たちが、好んで使っている
言葉である。野生の動物は、温かい愛情で包みながら、無視しながら保護するのがよい、と。
しかしこの言葉は、そのまま子育てについても、言える。

子育ての目標は、子どもを自立させること。すべては、ここから始まり、ここに終わる。

 まずいのは、親の過保護、過干渉、溺愛、そして過関心。こうした育児姿勢が日常化すると、
その分だけ、子どもの自立は遅れる。それだけではない。こうした育児姿勢から、さまざまな問
題が、その弊害となって現れる。

 だから、暖かい無視。親の暖かい愛情で子どもを包みながらも、無視するところでは、無視
する。子どもにやらせるところはやらせ、知らぬ顔をする。

 たとえば、靴下をはかせるときでも、片方だけはかせて、もう一方は、自分ではかせる。半分
まではかせて、残りは、自分ではかせる、など。その間、親は知らぬ顔をして、本でも読んでい
ればよい。

 私も幼児を指導するときは、見本を見せたあと、そのあと、またもとの状態にもどして、幼児
自身にやらせるようにしている。たとえばあと片づけなど。一応しまい方を見せるが、そのあ
と、またもとの状態にして、子ども自身にそれをさせる。

 この4つの基本は、いわば子育ての「柱」のようなもの。子育てをしていて迷ったら、この4つ
の基本、つまり4か条を思い出してほしい。

【追記】

 親も、今、いいかげんな生き方をしていると、やがて子どもの前で、ボロを出すようになる。

 そのときあなたは、親として、それに耐えられるだろうか? 親というより、人間として、それに
耐えられるだろうか? 堂々と胸を張って、「まだまだ、あなたなんかに、負けないよ」と言える
だろうか?

 先日も、浜名湖花博(浜名湖の北で開かれている、花をテーマにした、博覧会)へ行ったとき
のこと。私たちは帰りのシャトルバスを待っていたのだが、その列の間に、堂々と割りこんでき
た人たちがいた。

祖母(60歳くらい)と、それにつづく、母(35歳くらい)と、その子ども(男の子、7歳くらい)たち
であった。

 手口はこうだ。

 列をつくって並んでいるとき、ロープにそって、Uの字に向きを変えるところがあった。そのU
の字のところで、まず祖母らしき女性が、インコースをぐいと強引にまわり、私たちを追い抜くよ
うな形で、前に出た。

四人一列になっていたので、一度で、12人分ほど、前に出たことになる。そのとき、そのすぐう
しろにいた人は、アウトコースを大回りしていたので、それに気づかなかったらしい。(私のすぐ
前だったら、私は注意しただろうと思う。)

 しばらくすると、その祖母のところへ、母親らしき女性と、息子らしき子どもが、ロープを乗り
越えて、列に加わった。その瞬間、「私たちは家族です」というような様子を、わざとしてみせ
た。

 私はその光景を見ながら、ワイフにこう言った。

 「こうした行為は、子どもの脳ミソの中にしっかりと刻みこまれる。そしていつか、その子ども
が、祖母や母親のした行為を批判するようになる。祖母や母親を、軽蔑するようになるかもし
れない」と。

 もっとも、批判したり軽蔑するようになれば、まだよいほうかもしれない。子ども自身が、いつ
か同じようなことをするようになる可能性も高い。そうなれば、損をするのは、その子ども自身
だ。

 「人生は長いようで、短いし……。小ずるいことばかり繰りかえしていると、どんどんと真理か
ら遠ざかってしまう。しかし一度、遠ざかると、もとにもどるのは、たいへん。つまり貴重な時間
を、ムダにすることになる」と。

 私はバスの中で、ワイフに、そんなことを話した。


●見苦しい母親

 あなたにとって、母親というのは、すばらしい存在だろうか。もしそうなら、それでよし。また、
ほとんどの人にとっては、そうであろう。

 しかしそうでない母親をもつ人も、少なくない。

 少し前、母親懇談会で、こんな話をしてくれる人(45歳、女性)がいた。

 その女性には、80歳近い母親がいるのだが、少しボケてきたこともあり、このところ、行動が
少しおかしくなってきたという。

 とくにゴミに関して、おかしな行動をするという。

 その母親は、昔からの、醤油(しょうゆ)などのビン物の販売業を営んでいるのだが、割れた
ビンなどを、あちこちに捨ててくるという。

 「近くに、ハバ2メートルくらいの用水が流れているところがあるのですが、その中に、よく捨て
ます。私が『お母さん、そういうところへ捨ててはダメだよ』と言うのですが、まったく私の言うこ
とを聞きません」と。

 が、その母親の小ずるさは、老齢になってから始まったものではない。その女性は、こう言っ
た。「私の母は、若いときから、そういうことが平気でできる人でした」と。そしてこんなエピソー
ドを話してくれた。

 「どこかのバス旅行にでかけたときのこと。みなでお弁当を食べたのですが、母は、そのクズ
類を袋に入れて、クルクルと丸めて、近くの植木の中にぐいと押しこみました。そして手を抜い
たときには、そのクズ類の入った袋は、消えていました。

 それは手品か魔法のようでした。今でのあのとき感じた驚きを忘れることができません」と。

 そういう母親をもった娘は不幸だが、そういう醜態をさらけ出す、母親はもっと不幸である。そ
の人の人生そのものの総決算が、そうした(結果)に集約されてしまう。もっとはっきり言えば、
何のための人生だったのか。何のために生きてきたのか。自ら自分の人生を否定してしまうこ
とになる。

 が、この話は、これで終わるわけではない。

 その実家は、その女性の弟(43歳)が、あとを継いでいる。その弟まで、同じような行為を平
気でするという。

 「電車の駅まで、距離にして1キロ近くあるのですが、よく自転車を盗んで、駅から、それに乗
って帰ってきます。いつも近くのスーパーの駐車場に乗り捨てるのですね。私も、そういう弟の
姿を、何度か、みかけたことがあります」と。

 こうした小ずるさは、親から子へと、伝播(でんぱ)しやすい。ふつう親が小ずるいと、子ども
も、小ずるくなる。そしてそれが長い年月をかけて、つもりにつもって、その人の人間性をゆが
める。

 最後にその女性は、こう言った。

 「私は母のようになりたくありません。しかしなりたくない、なりたくないと思えば思うほど、いつ
かどこかで同じことをするのではないかと、自分がこわくなります。私の体の中にも、母の体質
が、しっかりとしみこんでいるのですね」と。

 だから……という書き方は、少しおかしいかもしれないが、だからあなたも、今日から、今の、
この瞬間から、生(き)まじめに生きたほうがよい。むずかしいことではない。

 ルールを守る。約束を守る。人に迷惑をかけない。ウソをつかない。そういう日々の積み重
ねが、やがて月となり、年となり、それがあなたの人格をつくる。それはあなた自身のためであ
ると同時に、あなたの子どものためでもある。

 そう、何が不幸かといって、見苦しい親をもった子どもほど、不幸なものはない。


●娘の非行

 静岡県F市のKMさんから、こんな相談が届いた。

「こんにちは。はじめてメールを出します。

去年、F市での先生の講演を聞いたものです。

相談というのは、小学6年生の娘のことです。ほかに、中学3年生の兄と、小学4年生の弟が
います。

その小学6年生の娘には、盗癖があります。部屋の中に、買い与えたものでないものが、よく
あります。たいていは小物ですが、ときどきベッドの上に、無造作に置いてあることもあります。

そこで『どこで手に入れたの!』と問いつめるのですが、ウソにウソを塗りかためるようなことば
かりを言います。本人が白状するまでに、1時間とか、それくらいの時間がかかることがありま
す。

私といっしょに買い物に行っても、その間に、さっと万引きをしたりします。

それを知ったとき、体中からガクガクと力が抜けていくのを感じました。私はそのつど、何度
も、繰りかえし、『それは悪いこと。してはいけないこと』と言って聞かせるのですが、まったく効
果がありません。

 そのときは涙をこぼしながら、『ごめんなさい』とか、『もうしない』とか言うのですが、しばらくす
ると、また同じことを繰りかえします。

 昨日も、娘の机の中を見たら、女の子がほしがるような小物が、どっさりと出てきました。もう
私は、どうしたらいいか、わかりません」と。

【心身症としての盗癖】

 ストレスが日常的につづくと、子どもには、さまざまな変調症状が現れる。その一つが心身症
であり、さらにその一つが、行為障害である。KMさんの子どもがもつ、盗癖も、それに含まれ
る。

 万引きのほか、親のお金を盗んで使う、親の通帳から引き出して使う、家の金庫から盗んで
使うなどがある。

 行為障害の特徴は、それが「障害」と呼ばれることからもわかるように、本人自身の意思で
はコントロールできないということ。その行為をコントロールしようとする力よりも、それをするこ
とによって得られる快感を求める力のほうが、優勢になる。

 似たような行為障害に、ムダ買い、虚言癖、収集癖、非行、集団非行などがある。

 こうした行為障害、もしくはそれに似た行為が見られたら、鉄則はただ一つ。「今の状態を、
それ以上悪くしないことだけを考えて、様子をみる」(重要)。

 KMさんのケースもそうだが、こういう子どもの行為に直面すると、たいていの親は、あわて
る。そしてそのときを最悪の状態と思い、子どもをきびしく叱ったり、説教したりする。

 しかしその状態が最悪と考えてはいけない。その下には、さらに別の底がある。これを私は
「二番底」と呼んでいる。KMさんのケースで考えるなら、今は万引き程度ですんでいるが、この
状態をこじらせると、家出、外泊、集団非行へと進んでいく可能性は、じゅうぶんある。

 さらに二番底の下には、三番底がある。KMさんを少しおどして恐縮だが、小学6年生の女
の子というのは、扱い方をまちがえると、さらにその三番底へ落ちていく。非行から、不純性
交、妊娠、中絶……と。

 一度、その悪循環のクサリにからまれると、「まだ前のほうがよかった……」ということを、繰
りかえしながら、すべてが悪いほうに向い始める。

 今のKMさんには、耳を疑うような言葉かもしれないが、私は、あえてこう言いたい。

 「万引きなんて、何でもないですよ。一、二度、補導されるようなことがあるかもしれません
が、そのときは、頭をさげて謝れば、それですみますよ。これは若い人の熱病のようなもの。み
んな経験しますよ」と。

【もっと大きな問題】

 実は、こうした子どもの行為障害の裏には、もっと大きな問題が隠されている。……と、み
る。

 KMさんのケースでは、すでに親子の間に、修復しがたいほどの、キレツが入り始めている。
その可能性はじゅうぶん、ある。子どもへの不信感。不安、心配。そういったものが、混然とな
って、今の子どもの症状をつくっている。

 子どもは、上下に兄弟がいる、そのまん中の子どもということになる。公式な調査によって
も、まん中の子どもは、いつも、愛情に飢えた状態になっていることが知られている。親は「平
等にかわいがっています」と言うが、本当にそうか。一度、このあたりを冷静に考えてみてほし
い。

 つぎに、KMさんは、子どもを長い時間をかけて説教するというが、その説教というのは、子
どもの将来や、子どもの心を考えた説教かどうかということを、反省してみてほしい。ひょっとし
たら、KMさんは、自分の不安や心配を、ダイレクトに子どもにぶつけているだけではないの
か。

 さらに疑ってみてほしいのは、KMさんと、その子どもとの相性の問題である。ひょっとした
ら。まん中の子どもが生まれたときから、何か、大きなわだかまりがあったかもしれない。

 経済問題、夫婦問題など。何かにつけて、不安先行型、心配先行型の子育てを重ねてきた
可能性もある。もっとはっきり言えば、KMさんは、その子どもを信じてこなかった。今も信じて
いない。

 私の息子たちも、みな、ワイフのサイフや、ときには金庫のカギを盗んで、金庫をあけ、お金
を使っていた。息子たちが中学生や高校生にかけてのことだった。

 しかし私は、1、2度、叱った記憶はあるが、それ以上、叱ったことがない……というか、あと
は無視。お金の管理をしっかりすることで、対処した。

 理由は、簡単。私自身も、そうして子どものころ、親のお金を盗んで使ったことがあるから
だ。つまりKMさんには、どこかそういうおおらかさが欠けるように思う。あるいは、さらにひょっ
としたら、KMさんは、本物の母親を知らないのかもしれない。だから今、娘という(女の子)の
子育てに、てこずっている可能性が高い。

 KMさん、あなた自身の母親は、心豊かで、いつもあなたをおおらかに包んでいただろうか。
あるいは反対に、あなたとあなたの母親は、いつも、断絶状態になかっただろうか。

 私がここでいう「もっと大きな問題」というのは、そういう意味である。

【では、どうするか】

 一点だけ気になるのは、詳しく書かれていないのでよくわからないが、収集癖もあるのではな
いかということ。万引きをしたり、お金を盗んで買ってくるものが、いつも同じものであれば、こ
の収集癖を疑ってみたらよい。

 つまり(万引き)が主なのか、それとも、(ほしいものがあるから万引きする)が主なのか、とい
う点である。

 収集癖の特徴は、無意味なものを、繰りかえし買い求めたり、集めたりすること。値段には関
係なく、高価なものもあれば、安いものもある。同じものを、何十個も買い求めることが多い。

 もしそうなら、性格がかなり内閉、もしくは自閉し始めているとみてよい。二番底としては、引
きこもり、家庭内暴力が考えられる。

 どちらにせよ、「今の状態を、今以上に悪化させないことだけを考えて、半年、一年単位で様
子をみること」(重要)。

 あせってなおそうと思って、なおるものではないし、あせればあせるほど、逆効果。あなたの
子どもは、あなたが望む方向とは別の方向に、どんどんと進んでしまう。叱るとしても、子ども
がウソをつくまで、追いこんではいけない。ときには、あるいはほとんどのばあい、そのウソを
信じたフリをして、その場をすます。

 それともう一つ。

 いくら疑っても、子どもの部屋へ、勝手に入ってはいけない。いわんや机の中を勝手に見て
はいけない。子どもの自尊心をキズつけることになる。小学6年生という年齢は、そういう年齢
である。

 子どもというのは、悪いこと(サブカルチャ)も経験しながら、成長する。悪いことをさせろとい
うのではない。しかし大切なことは、悪いことをさせないことではなく、悪いことをしたら、そのつ
ど、それを削っていくということ。

 そういう大らかさが、子どもを大きくする。

 あなたも、もう子どもなんかにかまっていないで、もう少しおおらかに生きてみたらどうだろう
か。少し過干渉、過関心になっていないかを反省してみたらよい。神経質、育児ノイローゼにな
っていないかを、反省してみたらよい。
(040511)

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 いくつか、参考になりそうな原稿を張りつけておきます。

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●ストレス
 
人間関係ほど、わずらわしいものはない。もし人が、そのわずらわしさから解放されたら、どん
なにこの世は、住みやすいことか。いうまでもなく、我々が「ストレス」と呼ぶものは、その(わず
らわしさ)から、生まれる。

このストレスに対する反応は、二種類ある。攻撃型と、防御型である。これは恐らく、人間が、
原始動物の時代からもっていた、反応ではないか。ためしに地面を這う、ミミズの頭を、棒か何
かで、つついてみるとよい。ミミズは、頭をひっこめる。

同じように、人間も、最初の段階で、攻撃すべきなのか、防御すべきなのか、選択を迫られる。
具体的には、副腎髄質からアドレナリンが分泌され、心拍を速くし、脳や筋肉の活動が高ま
る。俗に言う、ドキドキした状態になる。

ある程度のストレスは、生活に活力を与える。しかしそのストレッサー(ストレスの原因)が、そ
の人の処理能力を超えたようなときは、免疫細胞と言われる細胞が、特殊な物質(サイトカイ
ン)を放出して、脳内ストレスを引き起こすとされる。そのため副腎機能の更新ばかりではなく、
「食欲不振、性機能の低下、免疫機能の低下、低体温、胃潰瘍などのさまざまな反応」(新井
康允氏)が引き起こされるという。その反応は「うつ病患者のそれに似ている」(同)とも言われ
ている。

そこで人間は、自分の心を調整するため、(1)攻撃、(2)防衛のほか、つぎの3つの心理的反
応を示す。(3)同情(弱々しい自分をことさら強調して、同情を求めようとする)、(4)依存(ベタ
ベタと甘えたり、幼児ぽくして、相手の関心をひく)、(5)服従(集団の長などに、徹底的に服従
することで、居心地のよい世界をつくる)、ほか。。

(1)攻撃というのは、自分の周囲に攻撃的に接することにより、居心地のよい世界をつくろうと
するもの。具体的には、つっぱる子どもが、それに当たる。「ウッセー、テメエ、この野郎!」と、
相手に恐怖心をもたせたりする。(自虐的に、自分を攻撃するタイプもある。たとえば運動を猛
練習したり、ガリ勉になったりする。)

(2)防衛というのは、自分の周囲にカラをつくり、その中に閉じこもることをいう。がんこになっ
たり、さらには、行動が自閉的になったりする。症状がひどくなると、他人との接触を避けるよう
になったり、引きこもったり(回避性障害)、家庭内暴力に発展することもある。

大切なことは、こうした心の変化を、できるだけその前兆段階でとらえ、適切に対処するという
こと。無理をすれば、「まだ、前のほうがよかった」ということを繰り返しながら、症状は、一気に
悪化する。症状としては、心身症※がある。

こうした心身症による症状がみられたら、家庭は、心をいやす場所と考えて、(1)暖かい無視
と、(2)「求めてきたときが与え時」と考えて対処する。「暖かい無視」という言葉は、自然動物
愛護団体の人が使っている言葉だが、子どもの側から見て、「監視されていない」という状態を
いう。また「求めてきたときが与え時」というのは、子どもが自分の心をいやすために、何か親
に向かって求めてきたら、それにはていねいに答えてあげることをいう。

++++++++++++++++++++

心身症診断シート

 心理的な要因が原因で、精神的、身体的な面で起こる機能的障害を、心身症という。脳の機
能が変調したために起こる症状と考えると、わかりやすい。ふつう子どもの心身症は、@精神
面、A身体面、B行動面の三つの分野に分けて考える。

 精神面の心身症……精神面で起こる心身症には、恐怖症(ものごとを恐れる。高所恐怖症、
赤面恐怖症、閉所恐怖症、対人恐怖症など)、強迫症状(ささいなことを気にして、こわがる)、
不安症状(理由もなく思い悩む)、抑うつ症状(ふさぎ込んだり、落ち込んだりする)、不安発作
(心配なことがあると過剰に反応する)など。混乱してわけのわからないことを言ったり、グズグ
ズするタイプと、大声をあげて暴れるタイプに分けて考える。ほかに感情面での心身症として、
赤ちゃんがえり、幼児退行(しぐさが幼稚っぽくなる)、かんしゃく、拒否症、嫌悪症(動物嫌悪、
人物嫌悪など)、嫉妬、激怒などがある。

 身体面の心身症……夜驚症(夜中に突然暴れ、混乱状態になる)、夢中遊行(ねぼけてフラ
フラとさまよい歩く)、夜尿症、頻尿症(頻繁にトイレへ行く)、遺尿(その意識がないまま尿もら
す)、睡眠障害(寝つかない、早朝起床、寝言、悪夢)、嘔吐、下痢、原因不明の慢性的な疾患
(発熱、ぜん息、頭痛、腹痛、便秘、ものもらい、眼病など)、貧乏ゆすり、口臭、脱毛症、じん
ましん、アレルギー、自家中毒(数日おきに嘔吐を繰り返す)、口乾、チックなど。指しゃぶり、
爪かみ、髪いじり、歯ぎしり、唇をなめる、つば吐き、ものいじり、ものをなめる、手洗いグセ
(潔癖症)、臭いかぎ(疑惑症)、緘黙、吃音(どもる)、あがり症、失語症、無表情、無感動、涙
もろい、ため息なども、これに含まれる。一般的には精神面での心身症に先だって、身体面で
の心身症が現われることが多い。

 行動面の心身症……心身症が行動面におよぶと、さまざまな不適応症状となって現われる。
不登校もその一つだが、その前の段階として、無気力、怠学、無関心、無感動、食欲不振、過
食、拒食、異食、小食、偏食、好き嫌い、引きこもり、拒食などが断続的に起こることが多い。
生活習慣が極端にだらしなくなることもある。忘れ物をしたり、乱れた服装で出歩いたりするな
ど。ほかに反抗、盗み、破壊的行為、残虐性、帰宅拒否、虚言、収集クセ、かみつき、緩慢行
動(のろい)、行動拒否、自慰、早熟、肛門刺激、異物挿入、火遊び、散らかし、いじわる、いじ
めなど。

こうして書き出したら、キリがない。要するに心と身体は、密接に関連しあっているということ。
「うちの子どもは、どこかふつうでない」と感じたら、この心身症を疑ってみる。

ただし一言。こうした症状が現われたときには、子どもの立場で考える。子どもを叱ってはいけ
ない。叱っても意味がないばかりか、叱れば叱るほど、逆効果。心身症は、ますますひどくな
る。原因は、過関心、過干渉、過剰期待など、いろいろある。

+++++++++++++++++++++++

●子どもの友だち

Q このところ、うちの子が、よくない友だちと交際を始めています。交際をやめさせたいのです
が、どう接したら、いいでしょうか?(小六男)

A イギリスの教育格言に、『友を責めるな、行為を責めよ』というのがある。これは子どもが、
よくない友だちとつきあい始めても、相手の子どもを責めてはいけない。責めるとしても、行為
のどこがどう悪いかにとどめるという意味。

コツは、「○○君は、悪い子。遊んではダメ」などと、相手の名前を出さないこと。言うとしても、
「乱暴な言葉を使うのは悪いこと」「夜、騒ぐと近所の人が迷惑をする」と、行為だけにとどめ
る。そして子ども自身が、自分で考えて判断し、その子どもから遠ざかるようにしむける。
 こういうケースで、友を責めると、子どもに「親を取るか、友を取るか」の二者択一を迫ること
になる。そのとき子どもがあなたを取れば、それでよし。そうでなければ、あなたとの間に、深
刻なキレツを入れることになる。さらに友というのは、子どもの人格そのもの。友を否定すると
いうことは、子どもの人格を否定することになる。

 またこういうケースでは、親は、そのときのその状態が最悪と思うかもしれないが、あつかい
方をまちがえると、子どもは、「まだ以前のほうが、症状が軽かった…」ということを繰り返しな
がら、さらに二番底、三番底へと落ちていく。

よくあるケースは、(門限を破る)→(親に叱られる)→(外泊するようになる)→(また親に叱ら
れる)→(家出する)→(さらに親に叱られる)→(集団非行)と。
が、それでもうまくいかなかったら…。そういうときは、思いきって引いてみる。相手の子ども
を、ほめてみる。「あの○○君、おもしろい子ね。好きよ。今度、このお菓子、もっていってあげ
てね」と。

 あなたの言ったことは、あなたの子どもを介して、必ず相手の子どもに伝わる。それを耳にし
たとき、相手の子どもは、あなたの期待に答えようと、よい子を演ずるようになる。相手の子ど
もを、いわば遠隔操作するわけだが、これは子育ての中でも、高等技術に属する。あとはそれ
をうまく利用しながら、あなたの子どもを導く。

 なおこれはあくまでも一般論だが、少年少女期に、サブカルチャ(非行などの下位文化)を経
験した子どもほど、おとなになってから常識豊かな人間になることがわかっている。むしろこの
時期、無菌状態のまま、よい子(?)で育った子どもほど、あとあと、おとなになってから問題を
起こすことが多い。

だから、親としてはつらいところかもしれないが、言うべきことは言いながらも、今の状態をそ
れ以上悪くしないことだけを考えて、様子をみる。あせりは禁物。短気を起こして、子どもを叱
ったり、おどしたりすればするほど、子どもは、二番底、三番底へと落ちていく。

+++++++++++++++++++++

●逃げ場を大切に

 どんな動物にも最後の逃げ場というものがある。

動物はこの逃げ場に逃げ込むことによって、身の安全を確保し、そして心をいやす。人間の子
どもも、同じ。

親がこの逃げ場を平気で侵すようになると、子どもの情緒は不安定になる。最悪のばあいに
は、家出ということにもなりかねない。

そんなわけで子どもにとって逃げ場は、神聖不可侵な場所と心得て、子どもが逃げ場へ逃げ
たら、追いかけてそこを荒らすようなことはしてはならない。説教をしたり、叱ったりしてもいけ
ない。

子どもにとって逃げ場は、たいていは自分の部屋だが、そこで安全を確保できないとわかる
と、子どもは別の場所に、逃げ場を求めるようになる。A君(小二)は、親に叱られると、トイレ
に逃げ込んでいた。B君(小四)は、近くの公園に隠れていた。C君(年長児)は、犬小屋の中
に入って、時間を過ごしていた。電話ボックスの中や、屋根の上に逃げた子どももいた。

 さらに親がこの逃げ場を荒らすようになると、先ほども書いたように、「家出」ということにな
る。このタイプの子どもは、もてるものをすべてもって、家から一方向に、どんどん遠ざかってい
くという特徴がある。カバン、人形、おもちゃなど。

D君(小一)は、おさげの中に、野菜まで入れて、家出した。これに対して、目的のある家出は、
必要なものだけをもって家出するので、区別できる。が、もし目的のわからない家出を繰り返
すというようであれば、家庭環境のあり方を猛省しなければならない。過干渉、過関心、威圧
的な子育て、無理、強制などがないかを反省する。激しい家庭騒動が原因になることもある。

 が、中には、子どもの部屋は言うに及ばず、机の中、さらにはバッグの中まで、無断で調べ
る人がいる。しかしこういう行為は、子どものプライバシーを踏みにじることになるから注意す
る。できれば、子どもの部屋へ入るときでも、子どもの許可を求めてからにする。たとえ相手が
幼児でも、そうする。そういう姿勢が、子どもの中に、「私は私。あなたはあなた」というものの
考え方を育てる。

 話は変わるが、九八年の春、ナイフによる殺傷事件が続いたとき、「生徒(中学生)の持ちも
のを検査せよ」という意見があった。しかしいやしくも教育者を名乗る教師が、子どものカバン
の中など、のぞけるものではない。

私など結婚して以来、女房のバッグの中すらのぞいたことがない。たとえ許可があっても、サイ
フを取り出すこともできない。私はそういうことをするのが、ゾッとするほど、いやだ。

 もしこのことがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。あるいはあなたが子ども
のころを思い出してみればよい。あなたにも最後の逃げ場というものがあったはずだ。またプ
ライバシーを侵されて、不愉快な思いをしたこともあったはずだ。

それはもう、理屈を超えた、人間的な不快感と言ってもよい。自分自身の魂をキズつけられる
かのような不快感だ。それがわかったら、あなたは子どもに対して、それをしてはいけない。た
とえ親子でも、それをしてはいけない。子どもの尊厳を守るために。
(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育てポイント
 
●叱っても、威圧しない
 『威圧で閉じる、子どもの耳』と覚えておく。威圧すれば、子どもの耳は閉じてしまい、一度、
その状態になると、あとは叱っても意味がない。

よく親や先生に叱られて、しおらしくしている子どもがいる。しかし反省しているからそうしている
のではなく、こわいから、そうしているだけ。中には、叱られじょうずな子どもがいる。先生が何
か叱りそうになると、パッと土下座して、「すみません」と、床に頭をこすりつけるなど。多分、親
の前でもそうしているのだろう。が、このタイプの子どもほど、何も反省していない。その場をの
がれたいがため、そしているだけ。

 子どもを叱るときは、恐怖心を与えてはいけない。言うべきことを淡々と言い、あとは時間を
まつ。


●「核」攻撃はしない
 子どもを叱るときでも、その子どもの人格の根幹、つまり「核」にふれるような攻撃はしてはい
けない。「あなたはやっぱりダメな子ね」「あんたなんか、いないほうがよい」など。

 子どもにもよるが、核に近ければ近いほど、子どもはキズつく。親は、励ましたり、自覚させる
ためにそう言っているだけと思っているかもしれないが、受け止める子どものほうは、そうでは
ない。私も子どものころ、「勉強しなければ、自転車屋を継げ」とよく言われた。しかしその言葉
ほど、私を追いつめる言葉はなかった。つまりそれが私にとっては、「核攻撃」だった。


●恐怖感は禁物
 恐怖感、とくに極度の恐怖感は、子どもの心をゆがめる。はげしい夫婦げんか、暴力、虐
待、育児拒否など。親は「たった一度」と思うかもしれないが、そのたった一度で、大きな心の
キズを負う子どもは、いくらでもいる。

 ある女の子(二歳)は、はげしく母親に叱られたのが原因で、一人二役のひとりごとを言うよう
になってしまった。母親は「気味が悪い」と言ったが、その女の子は、精神そのものが、分裂し
てしまった。

 また別の男の子(四歳児)は、お湯をこぼしたことを、祖父にはげしく叱られた。それが原因
で、その男の子は、自閉症を誘発してしまった。

 こうしたケースで共通しているのは、「恐怖」である。親や祖父は「叱っただけ」と思うかもしれ
ないが、子どもは、それを「恐怖」ととらえる。あくまでも子どもの立場で考える。


●引き金を引かない
 インフルエンザは、インフルエンザの菌が原因で起こる。同じように、心の病気は、ショックが
原因で起こる。だれでも、その条件さえ整えば、風邪をひく。同じように、どんな子どもでも、ショ
ックを与えると、心の病気を引き起こす。つまり心の病気にかからない子どもは、いない。そう
いう前提で、子どもの心は考える。

 先生に叱られたのが原因で、チックや夜尿症になる子どもは、いくらでもいる。迷子を経験し
たあと、分離不安になってしまう子どもも多い。そんなわけで子どもに与えるショックには、注意
する。とくに満四・五歳前の子どもには、注意する。

 ほとんどの親は、ショックを与えながら、その与えたことにすら気づかないでいる。よくある例
は、泣き叫ぶ子どもを無理に車に押し込め、学校へつれていくケース。親は「不登校児になっ
たらたいへん!」と思ってそうするが、そのたった一度のショックこそが、子どもを本物の不登
校児にしてしまう。そしてそのあと、「A君が悪い」「先生が悪い」と言い出す。(もちろんそうでな
いケースも多いが……。)

 どんな子どもにも、心の問題は潜んでいる。問題のない子どもは、いない。だから引き金は
引かない。


●親の情緒不安定は、百害のもと
 何が悪いかといって、親の情緒不安ほど、悪いものはない。長い時間をかけて、子どもにさ
まざまな影響を与える。もっとも、親自身が、それに気づいていれば、まだよい。大半の親は、
自分がそうであることに気がつかないまま、それを繰り返す。

 子どもの側からみて、とらえどころのない親の心は、子どもの心を、かぎりなく不安にする。そ
の不安がつづくと、子どもは心のよりどころをなくす。「よりどころ」というのは、絶対的な安心感
を得られる場所のこと。「絶対的」というのは、疑いをいだかないという意味。子どもは、この絶
対的な安心感のある場所があってはじめて、やさしく、おだやかな心をはぐくむことができる。

 もしあなたが自分自身の不安定さを感じたら、基本的には、子育てから遠ざかるのがよい。
「今の私は、おかしい」と感じたら、なおさらである。これは子育ての問題というよりは、親自身
の問題ということになる。 


●家庭教育は、心づくり
 子ども(幼児)にものを教えるときは、何をどう教えたかではなく、また何をどう覚えたかでは
なく、何をどう楽しんだかを考えながら、する。そういう意味で、子どもの家庭教育は、すべて、
「心づくり」と考える。「楽しい」「楽しかった」という思いが、やがて子どもを伸ばす原動力とな
り、子どもを前向きにひっぱっていく。

 よく子育ては、「北風と太陽」にたとえられる。北風というのは、威圧、強制、無理などが日常
化した育て方をいう。一方、太陽というのが、ここでいう「心づくり」をいう。家庭学習では、太陽
がよいに決まっている。

 こう書くと、「それではまにあいません」という親がいる。「心づくりをしていると、遅れてしまう」
と言うのである。しかしそれも子どもの「力」のうち。そういうおおらかさが子どもを伸ばす。子ど
もの学習には、ある程度の無理はつきものだが、コツは、無理を加えるにしても、そのおおら
かさを、食いつぶしてしまわないこと。ほどほどのところで、あきらめ、ほどほどのところでやめ
る。

 子どもがあなたと勉強らしきことをしたあと、「ああ、楽しかった」と言えば、それでよし。そうで
なければ、勉強のやり方そのものを、反省する。


●神経疲労に注意
 子どもは、神経疲労には、たいへんもろい。それこそ、昼間、一〇分程度神経をつかわせた
だけで、ヘトヘトに疲れてしまう。五分でも、疲れる子どもは、疲れる。病院で診察を受けただ
けで疲れる子ども、おけいこ塾の見学に行っただけで疲れる子ども、先生にきつく叱られただ
けで疲れる子どもなど。決して、安易に考えてはいけない。

 子どもは神経疲れを起こすと、わけもなくぐずったり(マイナス型)、暴言を吐いたり、暴れたり
する(プラス型)。吐く息が臭くなったり、腹痛や下痢などを繰り返す子どももいる。どちらにせ
よ、そういう形で、自分の中にたまったストレスを発散させようとする。だからそれを悪いことと
決めてかかって、子どもをおさえつけるようなことはしてはいけない。

 もし子どもが神経疲れの症状を見せたら、ひとり、のんびりとくつろげるような環境を用意す
る。あれこれ気をつかうのは、かえって逆効果になるので注意する。あとはスキンシップを多く
して、CA分、MG分の多い食生活に心がける。


●あきらめることを恐れない
 子どもというのは、親が何かをすれば伸びるというものではない。しかし何もしなくても、伸び
る。しかし親があせればあせるほど、実際には、逆効果。かえって伸びる芽をつんでしまうこと
もある。しかし親には、それがわからない。「まだ何とかなる」「うちの子はやればできるはず」
と、子どもを追いたてる。で、結局、行き着くところまで、行く。また行かないと、親も気がつかな
い。

 こわいのは、子どもには、二番底、三番底があるということ。たとえば進学希望校にしても、B
中学からC中学へレベルを落としたとする。そのとき、親は、C中学へレベルを落としたことで、
子どもを責める。しかしこの状態で、子どもを責めれば、今度は、D中学、E中学へと落ちてい
く。実際、こういうケースは、多い。

 が、親が、「まあ、こんなものだ」とあきらめたとたん、その時点を起点として、子どもは伸び
始める。だから、子どもの勉強では、あきらめることを恐れてはいけない。もちろんだからとい
って、子どもに好き勝手なことをさせろとか、子育てを忘れろということではない。「あきらめる」
ということは、「受け入れる」ということ。つまりその度量の広さこそが、親の「愛」の深さというこ
とになる。
(02−12−26)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(167)

【近ごろ、あれこれ】

●親がボロを出すとき

 その人の人間的な進歩は、18、9歳で、止まるのではないか。それ以後は、進歩というより、
雑学、雑念の世界に入る。俗化する。言いかえると、この時期までに、その人の人間的な完成
度は決まる。……と考えてよい。

 だから親の立場で考えると、子どもが18、9歳になるまでは、親は、子どもに対して、人間的
な優位性を保つことができる。経験や知識も、子どもよりは多い。

 しかし子どもがその18、9歳を過ぎると、親子の差は、急速に縮まってくる。そして子どもが、
30歳ともなると、親子の差は、ほとんどなくなる。

 ……と、こうして年齢という(数字)で、ものごとを定義づけてはいけない。もちろんそれには個
人差がある。すばらしい人間性をもった親もいれば、そうでない親もいる。すばらしい人間性を
もった子どももいれば、そうでない子どももいる。

 しかし概してみると、私がここに書いたことは、それほど、まちがっていないと思う。

 つまり、親もいつまでも、「親だから……」という、『ダカラ論』の上に安住していてはいけない
ということ。親は親で、18、9歳を過ぎても、さらに前向きに伸びていかねばならない。

 まずいのは、親自身が、人間的に低劣であるケース。不誠実で、インチキばかりしている。人
の目を盗んでは、小ズルイことばかりしている。計算高く、ケチ。人のために働くことを、損と考
えている。
 
 そういう親をもった子どもは、不幸である。仮にその親を乗り越えるとしても、そうでない親を
もつ子どもの、何倍、何十倍もの、努力をしなければならない。子どもの側にも、親の体質が、
しっかりとしみついているからである。

 実は、私も、子どものころは、本当に小ズルイ人間だった。当時は戦後の混乱期。そういう時
代だったとはいえ、しかしそういった小ズルさは、いつの間にか、私のおかれた環境の中で、
身につけたものだと思う。

 これ以上は、親の悪口になるので、ここには書けないが、しかし、私は、子どものころ、その
場に合わせて、平気でウソをついた。ゴマかした。言い逃れた。そしてそれによって自分の欲
望を満足させても、何ら良心がとがめなかった。

 そういう私が、私自身の中の(私)に気づき、それと戦うために、いかに苦労をしたか。苦しん
だか。この56歳という年齢になっても、いまだにそれと戦っている自分を知ると、本当にいや
になる。業(ごう)の深さというか、根の深さを、今、つくづくと、思い知らされる。

 親は、親という立場で子育てをするが、決して、親であるという立場に安住してはいけない。
いつかあなたの子どもも、あなたを、一人の人間として見、そして判断するときがやってくる。早
ければあなたが、40歳のときにやってくる。遅くても、あなたが50歳、60歳のときにやってく
る。

 そのときあなたが、子どもの評価に耐えられる人間になっているかどうかは、今の、あなた自
身の生きザマによる。あなたの子どもが、あなたを乗り越えて、人間的にすぐれた人になったと
しても、あるいは、あなたの人間性を見ぬいて、あなたを軽蔑するようになったとしても、あなた
はそのとき、自分の愚かさを思い知らされることになる。

 ある意味で、親になることは、簡単なこと。しかし親であるということは、本当に、きびしい。

 私もそのきびしさが、やっとわかる年齢になってきた。みなさんも、いつか、そういうときがくる
ことを、念頭に置きながら、今の自分を、もう一度、見つめなおしてみたらよい。

【追記】

 親が子どもに残すものは、いくつかある。

 財産や、名誉や、環境や、健康など。しかしその中でも、年齢とともに、比重をましてくるの
は、「生きザマ」である。

 今、あなたが子どもの前で、どう生きているか……。その生きザマである。

 遠い昔だが、こんなことがあった。あなたは、この話を聞いて、どう思うだろうか。事実をその
まま書くわけにはいかないので、少し内容を変えるが、大筋では、こんな話だ。

 そのときその子ども(男児)は、小学2年生だったと思う。父親は、市内で、いくつかのショッピ
ングセンターを経営していた。青年商工会議所でも、重要な役職についていた。

 その子どもが、ある日、こんなことを言った。

 浜名湖の北に、Pという遊園地があるが、そこへ入るとき、「いつも、ただで入っているよ」と。

 そこで私が、「どうやって、ただで入るの?」と聞くと、その子どもはこう言った。「ほかの親の
うしろに並んで、その親の子どもになりすまして、スーッと中へ入るんだ」と。

 すかさず私が、「そんなことをすると、お父さんやお母さんに、叱られるよ」と言うと、その子ど
もは、さらにこう言った。

 「だって、お母さんが、そうしろって、言っているもん」と。

 Pという遊園地では、当時、おとな2人につき、幼児一人分の入場料は、無料だった。彼の親
自身は、別の子ども(妹、5歳)を連れて入っていたが、そういう規則を、その母子は、うまく利
用していた。

 聞くところによると、今、そのときのその子どもは、父親のあとをついで、幅広く、商業の世界
で活躍しているという。その活躍ぶりを耳にするたびに、「そういうものかなあ?」と思ってみた
り、「それでいいのかなあ?」と思ってみたりする。

 あなたなら、この話を、どう考えるだろうか。
 

●小泉首相が、K国へ行く?
 
 K国が、会談の中で、「小泉首相が、ピョンヤンまで迎えにくるなら、拉致被害者の家族を返
してやる」と言ったらしい。あちこちから、そういう情報が漏れてきている(5・11)。

 よくもまあ、ここまで、人の弱みにつけこめるものだ!

 話は変わるが、人間関係をうまく結べない子どもは、つぎの4つのパターンに分類できる。

(1)攻撃タイプ(周囲をおどしながら、自分にとって、居心地のよい世界をつくる。)
(2)同情タイプ(弱々しい自分を演じながら、同情を集めて居心地のよい世界をつくる。)
(3)服従タイプ(だれかに徹底的に服従することによって、居心地のよい世界をつくる。)
(4)依存タイプ(ベタベタと人に甘えることによって、居心地のよい世界をつくる。)

 これについては、何度も書いてきたので、ここではその先を書いてみたい。

 この中で(1)攻撃タイプの子どもというのは、いわゆる、つっぱりタイプの子どもを頭の中に
思い浮かべるとよい。

 「ウッセー、このヤロー、バカヤロー」と、周囲のものを威嚇する。威圧する。暴力を振るった
り、乱暴な行為を繰りかえしたりする。つまり周囲のものたちに、恐怖感を与えることによって、
自分にとっては、居心地のよい世界をつくろうとする。

 だからこのタイプの子どもに向かって、「そんなことをすれば、あなたが嫌われる。あなたが
損をするんだよ」と話しても、意味はない。ムダ。その子どもにしてみれば、そのほうが、居心
地がよいのだ。

 同じように、そうした症状が、「国」という単位で、現れることがある。それが今のK国である。

 国内経済はメチャメチャ。しかしそれは日本の責任でもなければ、アメリカの責任でもない。
100%、先軍政治とやらをつき進む、国内政治の失敗。金XX体制の失政。

 K国は、その失敗や失政をおおいかくすために、ありもしないアメリカの脅威をかきたて、国
内を引き締めている。一方、外の世界に向かっては、核兵器開発で、世界をおどしながら、援
助を引き出そうとしている。

 その姿は、まさに攻撃型の子どもそのもの。もっとはっきり言えば、つっぱり少年そのもの。

 国際社会の場で、他国とのつきあいがうまく結べない。そこで世界を脅しながら、自分にとっ
て、居心地のよい世界をつくろうとする。本当のところは、K国のような、わけのわからない国な
ど、だれも相手にしたくない。韓国にしても、南北統一など、今の段階では、とんでもない話。頼
まれても、南北統一はごめん。それが韓国の本音と考えてよい。

 が、K国は、世界に相手にしてもらいたい。何とかして、相手にしてもらいたい。そこで核兵器
ということになる。日本についていえば、拉致問題ということになる。拉致問題をちらつかせれ
ば、日本の政治家は、喜んで飛んでくる……。

 それが今回の、「小泉首相が来るなら……」という話になったらしい。

 しかしこの種の問題で、一国の首相が、わざわざK国へ行くというのもどうかと思う。その前
に、この種の問題で、一国の首相を呼びつけるK国も、K国だ。前から常識ハズレな国だとは
思っていたが、ここまで常識からハズれているとは……!

 この先のことは、小泉首相が自分で考え、判断するだろう。小泉首相は、「バカバカしい」と一
蹴(いっしゅう)することもできる。「どうせまともな国ではないのだから、適当につきあっておけ
ばいい」と考えて、被害者家族を迎えにいくこともできる。

 どちらにせよ、やっかいな国だ。本当にやっかいな国だ。

 ところで明日(5・12)から、K国の6か国会議ための、準備作業部会がペキンで始まる。み
んな困り果てて会議に出ようとしているのに、肝心のK国だけは、どこか一人前。「自分の国
が、それだけすばらしいから、世界が相手にしてくれている」と思いこんでいるらしい。そのオメ
デタサは、今回の、「小泉首相が来れば……」という発想に、共通している。……と私は思う
が、みなさんは、どう考えるだろうか。

 しかしそれにしても、金XXは、どこまで心がいじけているのだろう? ホント!


●皇太子妃、M子さんの病気

 今日(5・11)、皇太子のH宮殿下が、テレビ画面に向かって、こう言った。「M子は、疲れき
っています」と。

 私はH宮殿下の勇気に、感動した。ああいった世界で、つまり宮内庁の意向を無視して、皇
族が自分の意見を述べるということは、今まで、ありえないことだった。しかしH宮殿下は、その
慣例を破った!

 すばらしい。おみごと。よく言った!

 何でも天皇家の人たちは、笑みのつくりかた、手の振り方まで、宮内庁の職員たちに指示さ
れているそうだ。何かの雑誌で、昔、そう読んだことがある。しかしそうした生活が、いかに窮
屈なものであるか、それを想像するのは、それほど、むずかしいことではない。

 私の経験を書く。

 ときどき、見知らぬ人に招かれて、見知らぬ土地で、講演をすることがある。たいていは日帰
りだが、ときどき、講演先で一泊することもある。

 そういう講演先でのこと。

 いくら回数を重ねたといっても、1回、講演すると、かなり疲れる。全神経をすり減らす。だか
ら講演のあとというのは、食欲そのものがまったくわいてこない。どういう生理的作用によるも
のかは知らないが、私のばあいは、そうなる。

 で、その状態で、主催者の方と会食となると、さらに疲れる。あれこれ質問されると、それこそ
頭が、爆発しそうになる。反対に、意識がもうろうとしてくることもある。

 主催者の方は、そういうときあれこれ気をつかってくれる。それはわかるが、本音を言えば、
はやく宿に入って、風呂に入りたい。だれにも会いたくない。

 もちろん知りあいの人がいれば、話は別。料理を食べながら、雑談を楽しむことができる。し
かし初対面の人ばかりだと、そうはいかない。気が抜けない分だけ、疲れる。

 で、少し前、M県のN町で、講演をさせてもらったことがある。その主催者の方が、たいへん
理解のある方で、またそうした経験も豊富な方で、私の気持ちを、よく理解してくれた。

 「講演が終わったら、宿でひとりになりたいです」と一言、伝えると、「よくわかっています」と言
って、それに従ってくれた。

 おかげで私は、講演のあと、宿で、ひとり食事をしたり、温泉に入ったりして、好き勝手なこと
をすることができた。しかもシーズンがはずれていたため、旅行客も少なく、心底、のんびりと
することができた。つまり、楽しかった。

 が、しかし、もし、私が行く先々で、つぎつぎと新しい人に歓迎され、紹介されたとしたら、私は
どうなるか……。そんなことはありえないことなので、心配することもないことだが、しかし、天
皇家の人たちは、日常的に、そういう状況に置かれている。

 そこで私はある日、ワイフにこう言ったことがある。「ぼくだったら、ああいう生活には、1日た
りとも、耐えられないだろうね」と。

 私は今回の、皇太子妃のM子さんの病気には、そういう問題がからんでいるように思う。もっ
とも、それだけが原因というわけではない。ごくふつうの生活をしている、ごくふつうの人だっ
て、M子さんと、同じような病気になることはある。しかし、それでもやはり、そういう問題がから
んでいると思う。

 だいたいにおいて、今の私のように、思ったことや、考えたことを、そのまま口にしたり、書い
たりすることもできない。もしM子さんが、自分のエッセーの中で、「K国の金XX」などと書いた
としたら、それだけで、戦争になってしまうかもしれない。

 私は今回のM子さんの病気について、H宮殿下は、「M子は、疲れきっています」と言った。し
かしこの言葉を裏から読むと、宮内庁が、M子さんを、そこまで疲れさせたということになる。
宮内庁は、このH宮殿下の言葉を、真剣に受けとめ、反省すべき点は、おおいに反省すべき
である。

 昔、今の皇后陛下の父君である、正田英三郎氏※に会うたびに、正田氏は、いつも私にこう
言っていた。

 「xxxxxxxxxxxxxx」と。

 その言葉のもつ意味は、大きくて、深い。
注※……正田氏は、日豪経済委員会の委員長で、私の留学の世話人になってくれた。留学の
前後に、何度か、会って、食事をごちそうになったことがある。


●シャツを買う

 近くの衣料品店で、シャツを何枚か、買う。

 が、このところ、自分に合うシャツをさがすのが、むずかしい。私は身長166センチ。実のと
ころ、このところ少し猫背になってきたから、もう166センチはないかもしれない。165センチ
……? 164センチ……?

 一方、最近の若いひとたちは、背が高くなった。高くなったというより、足がのびた。ついでに
腕ものびた。

 そのせいだろうと思うが、Mサイズのシャツを買うと、どれもそでが長すぎて、着られない。そ
うかといって、Sサイズだと、体のほうに、合わない。

 どうしたらよいのか?

 ワイフに相談すると、Mサイズを買って、腕のところを少し切って、短くすればよい、と。しかし
シャツをそんなふうにして着る人は、いるのだろうか。

 ……と考えながら、店の中に入った。とたん、妙案!

 半そでのシャツを買えばよい。それならMサイズのままでよい。簡単なことである。ハハハ。

 たまたま、というか、今日は、平年より、5、6度も気温が高かったそうだ。このことはあとで、
家に帰ってから知ったが、迷わず、私は半そでのシャツにした。

 そう言えば、季節は、もう初夏。早いものだ。そでをどうしようかと悩んでいた自分が、バカに
思えた。

 店から出て車にもどると、さっそく、シャツを着がえてみた。どこか新品臭い、プンとした臭い
にまざって、さわやかな夏の気配をそこに感じた。今日の空は、真っ青に晴れていた。頭をシ
ャツにとおしたとき、その青い空が、目の前いっぱいに広がった。気持ちよかった。

 Good Sumnmer Time!


●スズメ

 毎年、今ごろになると、スズメが、子連れで庭にやってくる。体の大きさは、親鳥と、ほとんど
違わない。ただどこか、小ぶり。それにクチバシの下が、白い。

 その小スズメ。羽をふるわせて、親鳥にエサをねだる。そのしぐさがかわいい。ときどきは自
分でも地面をつついてみるが、本気で食べる気はないようだ。親鳥が近くにいると、そのそば
まで行っては、羽をふるわせる。私は、しばし、時間が流れるのを忘れて、その光景に見入
る。

 庭にエサをまくようになって、何年になるだろうか? ほとんど毎週、近くのペットショップで鳥
のエサを買っている。たいていはハトのエサだが、毎年、この時期は、粟玉のエサを買うように
している。とくに注意しているのは、正月明けから、2、3月まで。この時期は、野鳥の食べるエ
サが、極端に少なくなる。

 が、今朝、おもしろい光景を目にした。

 スズメのばあい、2月から3月にかけて、発情期にはいる。メスが、尾羽を上に立てて、オス
を挑発するようになる。人間にたとえて言うなら、女性がお尻を出して、男性に、そのお尻を見
せるような行為ということになる。

 で、それぞれのオス、メスが、ペアになり、交尾し、子づくりの時期へとはいっていく。それまで
は集団行動をしていたスズメも、このころになると、単独行動をするようになる。庭でエサを食
べたあと、一目散に、それぞれの巣へと、飛び去っていく。

 が、今日は、5月12日。よく晴れた水曜日。

 庭を見ていると、何組かの親鳥たちが、それぞれ小スズメを連れて、庭へやってきていた。そ
の風景は、昨日と同じだったが、一羽だけ、尾羽を上に立てたメスがいた。「?」と思ってその
メスを見ていると、何と、エサを与えているオスのそばに寄って、さかんにそのオスを挑発して
いるではないか。

 だいたいにおいて、今は、もう発情期の季節ではない。いや、スズメは、春から夏にかけて、
何度も子づくりをするというから、決してありえない行為ではない。しかし子育てに夢中になって
いるオスのところに寄ってきて、挑発するとは!

 近くにワイフがいたので、「おい、見ろや!」と声をかけてみた。

私「きっと、結婚できなかったメスだよ」
ワイフ「でも、だからといって、子育てをしているオスを誘惑しようなんてエ……!」
私「でも、オスのほうは、知らぬ顔をしているよ」
ワ「当然でしょ」

私「横にいるのが、奥さんらしいけど、平気な様子だよ」
ワ「嫉妬しないのかしら?」
私「しないみたいだね。きっと、夫を信じているんだよね」
ワ「フーン」と。

 スズメの世界には、スズメの世界なりに、いろいろなドラマがあるのだろう。しょせん、動物の
世界は、オスとメスの世界。スズメとて例外ではない。人間とて例外ではない。そんなことを考
えながら、私はその場を離れた。


●心の無知

 Mさん(63歳、女性)は息子の妻、つまり嫁の心の問題で悩んでいる。(悩んでいるといって
も、自分の立場で、悩んでいるだけだが……。)

 その妻(つまり嫁)は、先端恐怖症。先のとがったものを見ただけで、全身を言いようのない
恐怖感を襲うという。包丁や、ナイフなど。しかし最近は、それにとどまらず、カーテンや、のれ
んの端を見ても、気分がおかしくなるという。

 それについて、Mさんは、こう言う。

 「そんな問題は、気の問題でしょう。何でもないのです。本人が、気にしているだけです」と。

 そこで私が、「そんな簡単な問題ではないと思います。本人は、本当にこわがっているので
す」と言うと、「私は何でもありません」「私の知っている人、みんな、何でもありません」と。

 つまり自分や他人が、そうだからといって、息子の妻(嫁)の心の問題を、簡単に片づけよう
としている。

 これだけ情報が豊かな時代になったとはいえ、まだ、Mさんのような無知な人は多い。自分
の(心)を中心に、他人の(心)を考えてしまう。

 そこで少し話題を変えた。

 N氏(45歳)には、少し変ったクセがある。電話魔というか、夜な夜な、見知らぬ人に、電話を
かけている。奥さんと離婚してから、少し様子がおかしくなった。

 相手は、電話帳から、ランダムに選んだ人たちである。

 何かを話すというのではない。ただ自分の置かれた境遇や、自分がもっている心配ごとを一
方的に話すだけ。その電話は、相手の人が、怒って電話を切るまでつづくという。

 そのことについて、Mさんに話すと、Mさんは、ケタケタと笑った。そこで私が、「きっと、N氏
は、さみしいのです。だからそういう電話をするのです」と話すと、やはり、こう言った。

 「あのN氏が、さみしいだってエ? だってN氏のように、離婚した人はいくらでもいるでしょう」
と。

 Mさんには、心の病気というものがどういうものか、まったく理解できないようだった。つまり
心の病気というのは、そういうもの。理解できない人には、まったく理解できない。そういう前提
で、心の問題について人と話すときは、考える必要があるということ。

 もっとも、嫁や、他人の話ならまだよい。子どもの心の問題ですら、まったく理解できない親
は、少なくない。何か子どもに問題が起きたとしても、「そんなのは気のせいよ」と、片づけてし
まう親もいる。

 そういう親は、困る。本当に困る。Mさんと話していて、そんなことを感じた。


●今朝のニュース

 朝、起きると、まず、パソコンの電源を入れる。IE(インターネット・エクスプロラー)を開いて、
世界のニュースを見る。

 それが私の一日のはじまりである。

 いくつかのヘッドラインが目に飛びこんできた。

 イラク人虐待、年金問題、フィリッピンのアロヨ大統領の再選確実、そしてエイズ問題。

 アメリカ軍、イギリス軍によるイラク人虐待問題が、日増しに大きくなってきている。中には、
イラク人を、意味もなく射殺した例も含まれているようだ。どうやらこのあたりが分岐点で、この
ままこの問題が大きくなるようであれば、アメリカ軍に対する信頼は崩壊し、ついで権威も崩壊
する。同時に、ブッシュ大統領の再選も、ツユと消える。

 今朝のニュースによれば、あの橋本元首相も、計2年5か月もの間、国民年金を納めていな
かったという。どの代議士も、うっかりしていたと弁解しているが、この問題は、年金制度がも
つ構造的問題と考えてよい。公務員たちの年金だけ、特別あつかいしすぎた。その結果、年金
制度そのものが、複雑になりすぎてしまった。さらにその結果が、今である。やはり年金制度
は、一元化すべきである。官僚や公務員の人たちは、猛反対するだろうが……。

 フィリッピンでは、映画俳優が、政治家になるらしい。今のアロヨ大統領の前の大統領もそう
だった。今度の選挙で、アロヨ大統領と選挙で戦った、フェルナンド・ポー・ジュニア氏(64)も、
そうだ。

 日本も似たようなものだから、偉そうなことは言えないが、それにしても、レベルが低い(?)。
映画の中で、いくら正義の使者を演じたとしても、それは演技。ウソ。インチキ。そういうものに
踊らされて、大統領候補にするとは! 

 最後にエイズ問題。

 「世界保健機関(WHO)は11日、2004年版の「世界保健報告」を発表し、25年前には未
知の病だったエイズウイルス(HIV)による死者が、累計で2000万人を超えたことを明らかに
した」という(中日インターネット新聞)。

 報告にもあるように、これは「現在は危機的な瞬間」(WHO)ということになる。

 さらに記事によると、「現在の感染者は3400万人から4600万人と推計され、03年には30
0万人が死亡、500万人が新たに感染者となった。途上国には治療を受けなければ近い将
来、死亡するとみられる感染者が600万人いるが、03年末までに治療を受けたのは40万人
にすぎないという」と。

 簡単な数式を作って計算してみたところ、毎年、200〜300万人ずつ感染者がふえるとする
と、10年後には、感染者はほぼ1億。死者の累計は、5000万人となる。

 さらにその10年後には、感染者は、3億。死者の累計は、1億5000万人となる。

 この日本とて、例外ではない。このままのハイペースで、感染者がふえると、10年後には、
感染者は若者を中心に、15万人になるという※。

 エイズがこわいのは、エイズそのものもさることながら、その治療費が高額なこと。近くのIセ
ンターに勤めるY医師(感染症の権威)は、こう話してくれた。「ふつうのサラリーマンの給料で
は、とても払いきれない額です」と。

 昨年書いた、原稿を、参考までに、ここに添付しておく。

++++++++++++++++++

※エイズ感染者が、若者を中心に、もうすぐ2万人!

「国内のエイズ感染者の数は、3年後の2006年には、2万2000人になる。発症した患者
は、5000人に達する」と。

厚生労働省の研究班の報告である。班長の橋本氏は、「国内のHIV感染者は、欧米に比べて
急激に伸びている。危機感をもって対策を強化すべきだ」と。

最近の高校生や大学生のおおかたの意見は、「エイズはこわくない」になりつつある。「感染し
ても、発症しない」「薬で抑えることができる」などと言う子どももいる。

 しかしエイズのこわさは、病気そのものもさることながら、それだけではない。浜松市内のIセ
ンターで感染症の治療にあたっているY医師は、こう話してくれた。「エイズのこわさは、実は治
療費の問題にあります」と。治療費が、高額だというのだ。

「どれくらいですか?」と聞くと、「ふつうのサラリーマンの給料では、とても払いきれない額で
す」とのこと。それを生涯にわたって、払いつづけねばならない。

 しかし2006年で、エイズ感染者がとまるわけではない。このままいけば、2015〜20年に
は、何と、15万人になるという推計もある。15万人! 決して他人の問題ではない。これはあ
なたの子どもの問題である。

 こうした問題を防ぐ唯一の方法は、あなたの子どもを、自ら考える子どもにすること。何が大
切で、そうでないか、それを静かに考える子どもにすること。そして子ども自身を、常識豊かな
子どもにすること。倫理だの道徳だの、あるいは宗教だの、そういうものを、頭から、押しつけ
はいけない。

……そのために、私の、はやし浩司のマガジンを読むこと……というのは、自己宣伝過ぎる
が、本当にそう思う。

【追記】

 15万人という数字を、決して、あなどってはいけない。若者を中心に考えるなら、20歳から3
0歳までを、1000万人として、何と、100人に1人か2人ということになる。

 あなたの子どもだけが無事という保証は、もうどこにもない。

 享楽的で、ハレンチなテレビ文化に、もっと、私たちは、正面から、反旗をひるがえすべきと
きにきているのではないだろうか。

 昨日も、こんなニュースが、新聞に載っていた。

 ある給湯器メーカーのテレビコマーシャルだったというが、こういうものだ。

 母子がいっしょに風呂に入っている。そこへ夫が、同僚(男性)といっしょに風呂に入ってき
て、騒動になるというコマーシャル。

 「風呂が人と人のコミュニケーションの場になる」というのが、制作者の意図だったらしいが、
今、テレビ文化は、ここまで狂っている。

 数年前だが、こんなコマーシャルもあった。ある缶コーヒーメーカー(U社)のコマーシャルだっ
たが、こういうものだ。

 一人の若い女性が、防犯カメラの前で、いろいろなポーズをとって、缶コーヒーを飲む。その
様子を中年の男が、どこかスケベそうな顔をして、画面上で見ている。

 問題は、そのあと。

 その女性は、飲んだ空き缶を、カメラの上に置いて、そのまま立ち去る……。

 こうしたコマーシャルが制作されるときには、会議に会議が重ねられる。メーカーとプロダクシ
ョン側との打ちあわせや了解が、相互にかわされる。30秒足らずのコマーシャルに、会社の
命運をかけることも珍しくない。

 そういうプロセスを経ても、まだこういうコマーシャルができるということは、体質そのものが、
腐っていることを示す。だれ一人、その過程で、異議を唱えなかったのだろうか?

 母子が風呂に入っているとき、そこへ他人の男が入ってくるという、無神経さ。男どうしが裸
に入って風呂に入ってくるという、異常さ。何からなにまで、おかしい。

 さらに、空き缶は空き缶専用のゴミ箱に入れる。当然のマナーではないか。もっとも、そこら
のできそこないの若者なら、平気で、そのあたりに置いて、その場を立ち去るのだろうが……。

【追記2】

 子どもに関する問題が起きると、学校教育万能主義者たちは、「学校で教育を!」と言う。

 しかし学校教育は、もうパンク状態。何からなにまで、学校に押しつけるという姿勢は、もうや
めよう。すでに限界を超えている。

 こうした問題は、まず家庭の中で考え、そして親が自ら、子どもを指導する。 

【追記3】

 テレビ文化の低劣化について、よく視聴率の問題が、取りざたされる。しかし本当の理由と原
因は、番組を制作するプロデューサーと、その下請けで働く、プロダクションにある。

 レベルが低いというより、その忙しさを見ていると、「この人たちには、考える時間があるのだ
ろうか?」という疑問が、先に立つ。私の印象としては、彼らには、考える時間もなければ、そ
の習慣もない。もっとはっきり言えば、ノーブレインの状態。

 そういう人たちが、その場の思いつきだけで、番組を制作し、そのまま全国に垂れ流してい
く。私たち視聴者も、その恐ろしさに、もうそろそろ気づくべきときにきているのではないだろう
か。

 情報と思考。この二つは、分けて考えたらよい。

 情報、つまり知恵や知識が多いからといって、その人は賢い人ということにはならない。もの
知りで、ペラペラと調子よいことを言うからといって、その人が、賢いということにはならない。

 賢い人というのは、自分で考え、自分で判断する人のことをいう。倫理や道徳、さらには哲学
を自分で創造していく人のことをいう。

 子育てでは、そういう子どもをめざそう。

●われ思う。ゆえにわれあり。(デカルト「方法序説」)
●思考が人間の偉大さをなす。(パスカル「パンセ」)

+++++++++++++++++++++

●裏切り

 100の善意も、1の裏切りで、ツユと消える。

 ……ということは、教育の世界では、よくあること。しかしそんなことでめげていたのでは、こ
の仕事は、勤まらない。

 裏切られても、裏切られても、それを乗りこえて、前に進む。しかし、それは口で言うほど、簡
単なことではない。

 私のばあい、そのつど、二人の自分が、心の中で対立する。一人の自分は、「無視して、前
に進め」と私に教える。

 もう一人の自分は、「もう、アホなお人好しはやめろ」と教える。

 どちらの自分が、本当の自分か、わからなくなるときがある。いや、本当のことをいうと、収入
を得るための仕事だから、そのつど、自分に妥協しているだけかもしれない。もし収入がなけ
れば、こんなバカな(失礼!)仕事など、しない。

 どうしてこの私が、他人の子どもの問題や、子育てのことで、悩まなければならないのか。わ
かりやすく言えば、自分の収入をさておいて、他人の収入を心配しなければならないのか。

 そこで私のばあい、いくつかの砦(とりで)を、心の中に設定している。

 その一つ。最初から、裏切られることを、ある程度、予想しながら、教える。これを私たちの
世界では、「10%のニヒリズム」という。つまりいくら教育に全力投球しても、最後の10%は、
自分のためにとっておく。

 へたに全力投球すれば、身も心も、やがてズタズタにされてしまう。

 つぎに、裏切られたら、そのことをすぐに忘れる。いつまでも考えていると、心が腐る。だから
忘れる。が、そのとき、一つの鉄則がある。

 その人とは、二度とつきあわない。これは私のプライドのようなもの。電話がかかってきても、
無視。メールが届いても、無視。とにかく無視する。お金がほしいからといって、仕事がほしい
からといって、絶対に、へつらったりしない。やせても、枯れても、はやし浩司は、はやし浩司!

 私を裏切った人に頭をさげるくらいなら、のたれ死んだほうがまし。

 しかしこういう仕事をしている手前、こうした裏切りは、日常茶飯事。具体的にどうこうという話
は、ここには書けないが、しかしないわけではない。

 この世界、良心や誠意の通じない人は、いくらでもいる。それはたとえて言うなら、自分の家
から出た粗大ゴミを、トラックか何かで運んで、山の中に捨てるようなもの。そういう人が、ある
一定の割合で、必ずいる。

 そういう人もいるという前提で、この仕事はする。それしかない。悲しいかな、それが現実であ
る。

【追記】

 H市の郊外の小学校で教師をしている、E先生(小1担任・女性)が、こんな話をしてくれた。

 ……うちの学校では、小学1年生については、父母の参観は、原則として、自由にしてもらっ
ています。親たちに、「自由に学校に来て、子どもたちの様子を見てください」と話しています。

 で、そのため、その時期になると、毎日、2〜4人の父母が、学校へ来て、1、2時間、参観し
て帰っていきます。

 が、その中に、Nさんという母親がいました。最初、私は、教育熱心な、いい母親だと思って
いました。が、やがてそのNさんが、こんなことを陰で言っているのを知りました。

 「あのXさんの息子さんね、あんなにできが悪いのに、S小学校を受験したんですってね。身
のほど知らずって、Xさんのような人を言うのね」と。

 つまりNさんは、自分の子どもの勉強ぶりを知るために参観に来ていたのではなく、他人のプ
ライバシー(=子どもの能力)を知るために、参観(=スパイ)に来ていたというわけです。

 そこでそれとなくNさんに、「毎日の参観は必要ないと思います……」と、どこか遠まわしに話
したのですが、この言葉にNさんは激怒。そのまま校長室へ行き、校長に、「この学校の教育
方針はどうなっているのですか! 参観に来ていいというから来てみれば、今度は、来なくてい
いとは、どういうことですか!」と。

 で、それからは、「学校へ、自由においでください」という父母への案内は、学校としても、自
粛するようになりました、と……。

 こういうのを、私たちの世界では、「裏切り」という。

【追記】

 私の教室(BW教室)は、原則として、参観自由。公開している。

 しかし問題がないわけではない。その第一は、子どもの能力、問題が、そのまま筒抜けにな
ってしまうこと。

 そのため、私は独特の教え方をする。

 子どもたちを楽しませることだけを考え、子どものプライバシーが、外に出ないように心がけ
る。

 長い時間をかけて私がつくりあげた、独特の教え方である。

 子どもたちが笑う。つづけて親たちが笑う。そういう雰囲気の中で、子どもたちを伸ばし、親た
ちをなごませる。


●女子中学生の会話から……

 女子中学生のKさんと、Mさんが、コソコソと何やら話しあっている。その会話の中に出てき
た単語を、ここに収録する。……と、紙に書いてメモし始めたら、ケタケタ笑いながら、私に、い
ろいろ教えてくれた。

 コクル……告白する。
 デニル……デニーズ(レストラン)に行く。
 マクル……マクドナルドに行く。
 カリパク……借りたあと、返さないで、もっていること。
 パクル……盗む。
 シュラバ……自分のまずいところを見られること。
 フタマタ……浮気のこと。二人の異性とつきあうこと。
 チクル……告げ口をする。
 パシリ……下っ端のこと。子分的な人のこと。
 アリガチ……ありえること。
 シカト……無視する。
 ラブな人……好きな人。
 A(エイ)……手を握るつぎの段階。(つぎに、B、Cへと進む。)
 マッチョ……筋肉質の人。
 
 もっとも、知らなかったのは、私だけ。若いお父さん、お母さんなら、ここに書いた程度のこと
は、常識として知っているだろう。

 「私、あいつにコクられて、いやだった。だって、フタマタよ。それをXXのヤツ、チクってね。あ
とは、シュラバ。私には、ラブな人、ちゃんといるのよ。私、マッチョは嫌い。腹筋が、8つに分
かれている男なんて、サイテー。頭にきたから、デニルしてね。あとは、シカト……」というよう
な、使い方をする。

 あなたも、一度、息子(娘)の前で、そういう話し方をしてみたら、どうだろう。子どもに尊敬さ
れるかも……!


●離婚の危機

 50歳〜60歳は、熟年離婚の年齢。私の友人たちも、すでに何組か、離婚している。

 たいていは、奥さんのほうから、離婚をつきつけられている。しかも夫のほうにとっては、まさ
に寝耳に水。「別れましょう」「どうしてだ?」となる。

 つまり、夫と妻の意識は、長い時間をかけて、かなりズレてくるようだ。たとえば仕事に対する
意識。

 男は、「仕事さえ、きちんとしていれば、男として一人前。妻や家族は、それで満足しているは
ず。感謝しているはず」と考える。

 しかしそういう男の姿勢の中で、妻は、不満をためる。長い時間をかけて、ためる。そしてあ
る日、妻のほうが先に決心する。「離婚」と。

 もちろん浮気が原因のこともある。たいていは、夫側の浮気がバレて、離婚となるらしい。
(妻側の浮気が、夫にバレることは、まずないそうだ。つまりそれだけ妻側は、慎重にことを進
めるらしい……? あるいは夫のほうが、鈍感。無関心。あるいは純朴? ハハハ)

 ……というほど、この問題は、単純な問題ではない。それぞれの夫婦が、それぞれの問題や
悩みをかかえて離婚する。ある友人は、ある日、突然、妻にこう言われたそうだ。

 「私の人生は、何だったのよ! 私の人生を返して!」と。

 会社人間の夫。出世だけを目標に、がむしゃらにがんばってきた夫。転勤につづく、転勤。そ
の夫に仕え、生涯をともにした妻。しかしある日気がついてみると、そこには、何もなかった…
…?

 その一方で、私の姉は、いつもこう言っている。

 「夫婦なんてものはね、60歳を過ぎてから、その味がわかるものよ。子育てが終わって、や
っと自由になるのが、60歳よ。夫婦で旅行をしたり、趣味をいっしょにしたり。好きなことができ
るようになるのよ。あんたも、あともう少しだから、がんばりなさい」と。

 私個人としては、姉の言葉を信じたいが……。今朝は、朝食をいっしょに食べながら、久しぶ
りに、ワイフの顔をまじまじと見た。

 
●やる気が起きない

 このところ、原稿を書くのが、おっくうなってきた。書斎のパソコンの前にすわっても、ぼんや
りと過ごす時間が多くなった。

 「どうして毎日、こんな原稿を書くのだろう」「書いて、何になるのだろう」「無料マガジンなど出
して、何になるのだろう」と、そんなあいまいな考えが、浮かんでは、また消える。

 いろいろあって、少し、心が疲れているせいかもしれない。心も体力と同じで、疲れるときに
は、疲れる。東洋医学でも、そう教えている。

 「原稿を書くのは、おまえ自身のためだ」と、何度も、自分に言ってきかせる。しかしこのとこ
ろ、そのエネルギーも、かなり弱くなってきた。ああ、どうしたらいいのだ!

 そろそろ無料マガジンを出すのも、限界にきつつあるようだ。どうしようか? こんな弱音を吐
いたら、読者のみなさんに、いらぬ心配をかけてしまうかもしれない。

 しかし、はやし浩司は、がんばる! 負けるものか!
(04−05−14)


●二男のメモ(二男のHPからの転載)

ビザの更新がいま普段の4倍以上の時間がかかるらしい。この秋、ぼくの条件付グリーンカー
ドを無条件に更新しないといけないのだけど、専門のAttorneyに聞いたら、今までどおり、執行
する90日前までは、更新手続きができないらしい。 

 最近移民や外国人としてここへ働きに来ている人たちの悪夢ニュースが目立つ。何十年もこ
の国で合法で働きに来ていたメキシコ人が、移民局の更新手続きに手間取って、家族や知人
をおいて国外退去になったりする例だ。こういう人たちは、いまさら「外国人」などと呼ばれる立
場ではない。

この国で生き、この国以外に生きる場所はない。たまたま法律上の身分が「外国人」だからと
いって、国外退去になるのはおかしいと思うし、この点はブッシュ大統領も認めている。(再選
のためだろうけど。) 

 9・11以降、この国は僕たち外国人にとって住みにくい国になっているは確かだ。現在、3
0%以上の科学者や技術者はみな海外国籍をもっている。アメリカ人の科学離れが進んでい
るせいもあるが、こうした数字が、ビザの不自由な発行のもと、いま減少傾向にあるというリポ
ートをこの前、目にした。 

 これからはやはりインド、中国を中心とした世界になっていくのだろうか。

【はやし浩司から二男へ……】

 事情は、この日本でも同じだよ。

 日本人と結婚しても、すぐ日本国籍を取れるわけではない。法務局へ何度も、何度も足を運
んでも、それでも10年単位の時間がかかる。仮にお前たちが日本にやってきて、奥さんや子
どもが日本国籍を取ろうとしても、簡単には取れない。

 しかしね、この日本では、国籍は取れないというだけで、生活には、支障がないよ。ここがア
メリカと日本のちがいということになるのかもしれないね。日本という国は、そういう意味では、
外国人には、住みやすい国ということになるのかも……?

 しかしこの浜松市にも、外国人が、多くなったよ。本当に多い。裏にある団地などは、もう何
割かが、外国人というほど、外国人ばかりだよ。ほとんどは、南米からの人たちだが、彼らは
陽気だね。

 夜な夜な、パーティを開いて、騒いでいるよ。

 ああいう人たちを見ると、日本人が本来的にもつ、(まじめさ)が、バカに見えるね。いやにな
るね。「ぼくたちは、何を信じて生きてきたのか」「何を恐れて、アクセクと生きているのか」と、
ね。

 そう、この日本では、自由になったと思った瞬間から、社会から、はじき飛ばされてしまう。自
由イコール、風来坊の国だから……。

 しかしそういう考え方も、少しずつ、変ってきた。これからもまだ変っていくだろうね。意外と、
今の日本のほうが、アメリカよりも、開放的かもしれないよ。よくわからないけど、そんな印象を
もち始めている。

 ではね。バ〜イ!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(168)

【血液型考】

●血液型による性格判断

 いまだに血液型におる性格判断が、堂々と行われている。NHKの番組の中でも、一人の女
性アナウンサーが、こう言った。「私は、O型だから、もともとおっとり型人間です」(04年5月・
朝のワイドショー)と。おかしなことだ。

 私が25歳くらいのときのこと。今から、30年以上も前のことになる。私は、東京に住む、ある
ドクターから、本の代筆の依頼を受けた。本の題名は、ズバリ、「血液型、性格判断」。

 そこでそのあと、私は毎日、図書館通いを始めた。資料集めである。

 そのときのこと。私はこんなことを知った。ここから先は、当時の記憶によるもので、不正確
かもしれない。

(1)血液型性格判断は、戦後、日本のどこかの医師が、最初それを、冗談で口にした。それに
尾ひれがついて、あっという間に、日本中に広がってしまった。

 根拠など、どこにもない。統計学的な調査がされたわけでもない。冗談というより、迷信。迷
信というより、口からのでまかせ。

私は当時、こう考えた。血液は、脳に酸素を送るためのもの。しかしその人の性質や性格は、
脳細胞が決めるもの。血液の型など、関係ない、と。

 血液型といっても、100種類以上ある。ABO式血液型というのは、その中の一つにすぎな
い。つまりいくら書けと言われても、理性をねじることはできない。書ける原稿と、書けない原稿
がある。私はそのドクターにこう言った。「血液型による性格判断はウソというような本なら書け
る。しかし血液型による、性格判断についての本は書けない」と。

 実際には、その代筆の話は、そのままうやむやになってしまった。

 で、それから30年。この日本では、血液型による性格判断は、むしろ常識のようになってし
まった。上はおじいちゃん、おばあちゃんから、下は、幼児まで……。

 しかし、こんなことは常識で考えればよい。

 乾電池をかえたくらいで、ラジオの音質が変わるようなことはあるだろうか。電源をかえたくら
いで、パソコンの性能が変わるようなことはあるだろうか。が、そんなことはありえない。

 それと同じように、血液型で、人間の性質や性格が変わるようなことはありえない。だから、
もうこんなバカな方法による性格判断はやめよう。私は毎日、子どもを見ている。しかし血液型
で子どもを見たことはない。また子どもの性質にせよ、性格にせよ、血液型でちがうはずもない
し、また血液型など、何の手がかりにもならない。

●反論 

 おもしろいのは、「O型の人は、顔が丸く……、A型の人は、あごがとがっていて……」という
意見もあるということ。「O」とか「A」とか、英語のアルファベットの形に似せて、顔の形まで、決
めつけている。(ウソだと思うなら、インターネットで、「血液型 性格 判断」を検索してみれば
よい。)

 で、最近では、あまりにも、この血液型性格判断が、広く流布してしまったため、「そうでなな
い」ということを立証するための研究(?)も、さかんになされている。(これもインターネットで検
索してみれば、わかる。)

 しかし頭ごなしに否定ばかりしていてはいけないので、もう少し具体的に考えてみよう。

●当たる確率は、50%!

 血液型によって性格判断ができるためには、つぎの二方向性がなければならない。

(1)血液型による性格分類
(2)性格による血液型判定

 つまり。まず血液型によって、どのような性格をもつかが、分類されなければならない。たとえ
ば、A型の人は、きちょうめん。B型の人は、ずぼら。O型の人は、おおらか。AB型の人は、神
経質とか。

 つぎに、今度は反対に、その人の性格を見ながら、その人の血液型が特定できねばならな
い。「あなたは、きちょうめんだから、A型」「あなたはずぼらだから、B型」と。

 この二方向性が一致したとき、はじめて、「血液型による性格判断は正しい」と実証されたこ
とになる。

 そこでまず、(1)血液型による性格分類だが、そもそも「性格」とは何か、その定義がむずか
しい。

 つぎに、血液型による性格の分類、つまりこれを心理学の世界では、ステレオタイプ化という
が、それがむずかしい。「オーストラリア人は、陽気」「パキスタン人は、押しが強い」というの
が、それにあたる。

さらに「きちょうめんとは何か」「ずぼらとは何か」と、それぞれの性格についての、定義もされ
なければならない。

 こうした性格というのは、同じ故人でも、日々の生活の中でも、めまぐるしく変化する。そのと
きの疲労度や、対象物によっても変化する。もちろん接する相手によっても、変化する。環境
によっても、変化する。会社での仕事では、たいへんきちょうめんな人が、家に帰ってからは、
ずぼらになるというケースは、少なくない。

 かりにこの性格分類ができたとしても、(2)今度はその人の性格を見ながら、反対に、その
人の血液型が判定できねばならない。

 「あなたは、おおらかな性格だから、O型」「当たり!」と。

 しかしここで確率の問題がからんでくる。

 つなみに日本人の血液型は、つぎのようになっている。

 A型 ……38・1%
 B型 ……21・8%
 O型 ……30・7%
 AB型……9・4%

 つまり、「あなたはA型か、O型ね」と言えば、確率からして、約7割(68・9%)は、当たること
になる。しかし、それだけではない。人間の心には、大きな落とし穴がある。

●自己成就的予言(self-fulfilling prophecy)

 だれかがあなたに向って、「あなたはO型だから、おおらかね」と言ったとする。するとあなた
は、血液型による性格判断を信ずるあまり、何かにつけて、おおらかであろうとする。

 つまり、だれかに言われたような性格を、自らつくりあげてしまう。そして自ら、「やはり血液型
による性格判断は正しい」と、思いこんでしまう。これを心理学の世界では、「「自己成就的予
言(self-fulfilling prophecy)」という。

 わかりやすく言えば、予言の内容にそって、その内容を自ら、つくりだしてしまうこと。

 たとえばある人が、占い師に、「20XX年の7月に、あなたは交通事故にあう」と言われたとす
る。

 そのとき、理性のある人は、「そんなバカなことがあるか」と自分に言って聞かせ、それを無
視する。しかし中には、それができない人がいる。そして「7月に交通事故にあう」と信ずるあま
り、その7月に、自ら交通事故を起こしてしまう。こういうケースは、カルトの世界では、よく観察
される。

 よく知られた事例としては、あのO真理教による、アルマゲドン(世界終末)事件がある。あの
教団は、「世界が終末を迎える」と信ずるあまり、自分たちで、あちこちにサリンという猛毒をま
き、その終末を演出しようとした。

 わかりやすく言えば、中には、迷信にあわせて、その迷信にそった事実を、自らつくってしまう
人もいるということ。そしてその自らつくった事実をもとに、さらにその迷信を肯定してしまう。血
液型による性格判断も、その一つと考えてよい。

●結論

 概して言えば、血液型による性格判断を信ずる人というのは、迷信を信じやすい人と考えて
よい。

 手相、姓名判断、占い、まじないなど。その中の一つとして、血液型による性格判断がある。

 しかしこうした方向性というのは、自己意識が確立し始める、小学3、4年生あたりからはっき
りしてくる。この時期に、迷信を信じやすい子どもと、そうでない子どもに分かれる。それまでの
子どもでも、よく観察すれば、その方向性を知ることができる。

 そこで大切なことは、この時期までに、いかにして子どもの中に、論理性を育てていくかという
こと。「なぜ?」「どうして?」の会話を繰りかえしながら、おかしいものは、おかしいと思う心を育
てていく。

 ここから先は、それぞれの親の判断ということになるが、少なくとも、論理的なものの考え方
を育てるためには、この時期までの子どもには、いわゆる迷信は、話さないほうがよい。子ども
がそれらしきことを口にしたときは、「そんなバカなことはない」と、きっぱりと言い切る。そういう
姿勢が、子どもの中の方向性を、修正する。

 ただし、「夢」と、「迷信」は区別して考える。「サンタクロースがクリスマスに、プレゼントをもっ
てくる」というのは、夢。「西の空に、カラスを見たら、人が死ぬ」というのは、迷信ということにな
る。

 子どもの夢は夢として、大切に考える。

【追記】

 私の父親は、M会という、どこかカルト的な教団の信者だった。一方、私の母は、今でもそう
だが、迷信のかたまりのような人だ。

 そんなわけで、私は子どものころ、ある時期までは、迷信をよく信じた。しかし今から思うと、
そういう意味では、そういう両親をもったがゆえに、かえって迷信に反発したのかもしれない。
私の父親や母親は、私にとっては、いわゆる反面教師になった?

 小学3、4年を境に、私はむしろ、そうした迷信を、ことごとく否定するようになった。その結果
が、今の私ということになる。

 よく覚えているのは、父親がメンバーになっていたM会での会合のときのこと。だれかが、
「親の因果は子にたたり……」というような話をしていた。それについて、その男が、突然私に
向って、「そこのぼうや、君は、どう思うかね?」と聞いた。

 私は、そのとき、父親につれられて、その会の末席で、座ってその話を聞いていた。私が小
学3年生か、4年生のときのことだった。

 私はとっさの判断で、「そんなバカなことはない」と、思わず口走ってしまった。

 そのあとのことはよく覚えていないが、その男が、どこか怒ったような口調で、何やら話しつづ
けたことだけは、記憶のどこかに残っている。

 たしかにこの世界には、理屈だけでは、説明できないことや、理解できないことは多い。しか
しそれらは、人間の能力の限界によるものであって、決して、超自然的な力によるものではな
い。言いかえると、迷信を口にする人は、自らの能力の限界を認め、理性の敗北を認める人と
いってよい。

 だから……。結論へと飛躍するが、血液型による性格判断は、もうやめよう。本来なら、こん
なことは、論ずることだけでも、時間のムダ。しかし一度は、結論を出しておきたかった。だか
らここに書いた。
(040513)

【追記2】

 こんなおもしろい話を聞いた。何かのビデオ映画の中での会話だが、一人の男が、こう言っ
た。

 天国はあるかというテーマについて……。

 「ある宇宙飛行士が、宇宙に行ってみたが、天国はどこにもなかったと言った。それに答え
て、ある脳外科医がこう言った。『私は、ある哲学者の脳ミソを開いてみたことがあるが、思想
らしきものは、どこにもなかった』と」

 つまりその宇宙飛行士は、宇宙へ出てみたが、天国はなかった。だから天国はないと言っ
た。

 それに答えて、「見えないから、ない」ということにはならないという意味で、脳外科医はこう言
った。

 「ある哲学者の脳ミソを開いてみたが、思想らしきものはなかった」と。つまり、「だからといっ
て、その哲学者には、思想がないとは言えない。それと同じように、天国はないとは言えない」
と。

 一見、おもしろい論理だが、この話は、どこかおかしい。私も、瞬間、「なかなかうまいこと言う
な」と感心した。

 が、宇宙飛行士が、宇宙へ出てみたが、天国はなかったというのは、事実。一方、脳ミソの
中に、思想らしきものがなかったというのは、事実ではない。つまり事実を、事実でないものと
対比させて、その事実をねじまげている。

 脳ミソの中には、思想がつまっている。無数の神経細胞から、それぞれこれまた無数のシナ
プスがのび、それらが複雑に交叉しながら、その人の思想を形成している。もしそうしたシナプ
スを解読する方法が見つかれば、脳ミソを開いた段階で、その人の思想を読み取ることができ
るようになるかもしれない。

 脳ミソの中には、事実として、思想がある。宇宙に天国があるかいなかという話とは、まったく
別の話なのである。

 こうした一見論理的な非論理は、日常会話の中でも、よく経験する。

 ある人が、私にこう言った。

 「林君は、霊の存在を否定するが、しかし電波はどうなのかね。テレビ電波なら、テレビ電波
でもいい。林君は、その電波を見ることができるかね。見ることができないだろ。が、だからと
いって、電波を否定しないよね。同じように、今、見えないからといって、霊の存在を否定しては
いけないよ」と。

 この論理も、事実を、事実でないものと対比させて、その事実をねじまげている。あるいはそ
の反対でもよい。事実でないものを、事実と対比させて、事実でないものを、あたかも事実であ
るかのように話している。

 もしこんな論理がまかりとおるなら、こんなことも言える。

 「テレビ電波は、人間の目では見ることはできない。しかし存在する。同じように、人間の運、
不運も、人間の目では見ることはできないからといって、否定してはいけない」と。

 いろいろに応用(?)できるようだ。
(040513)

●迷信は、下劣な魂の持ち主たちに可能な、ゆいいつの宗教である。(ジューベル「パンセ」)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(170)

【現場・あれこれ】

●どこまでが、園の責任?
 
 園内で起きた事故については、保育園や幼稚園の責任である。それはわかる。が、その範
囲は、どこまでか?

 バスの送迎がある。このバスの送迎では、子どもを、バスに乗せたときから、そしてバスから
おろしたときまでが、園の責任ということになる。

 が、そうは、簡単ではない。

 待ちあわせ場所に、園児がいないときは、先生は、その子どもを待っていなければならない。
ばあいによっては、家まで迎えに行かねばならない。

 反対に、バスから子どもをおろしたところに親がいなければ、親が来るまで、そこで待ってい
なければならない。何でもないことのように思う人がいるかもしれないが、それがけっこう、重労
働。神経もつかう。それに常習の人は、いつも決まっている。

 さらに、こんなこともある。

 今、ふえているのが、帰宅拒否の子どもたち。バスで帰る時刻になると、どこかへ身を隠して
しまう。そこで先生たちが手分けをしてさがす。が、簡単には見つからない。

 で、最後は、親を呼んで、「何とかしてほしい」と懇願するが、そういう親にかぎって、どこかい
いかげん。無責任。無関心。

 幼児教育といいながら、「教育」どころではない。それが今の、保育園や幼稚園の実情と考え
てよい。

 この状態は、学校教育でも、同じ。みながみな、きちんとした家庭(こういう言い方は、あまり
好きではないが……)の子どもというわけではない。中には、「離婚」「騒動」「崩壊」「放棄」とい
う問題をかかえた家庭もある。ある生活指導の教師(女性、K小学校)は、こう言った。

 「生活指導の先生は、それこそ死ぬの生きるのという問題をかかえて、毎晩帰宅するのは、
夜の10時です。授業中だけが、体を休めるときです」と。夜中に、家出した子どもをさがすた
め、駆りだされることもあるという。

 で、こういうケースも含めて、どこまでが、学校の責任ということになるのか。あるいは、どこ
から先が、学校の責任ではないということになるのか。

 私はカナダのように、子どもたちが一歩でも、教室を離れたら、(学校ではない。教室だ)、そ
れはもう教師の責任ではないという制度を、確立すべきときにきていると思う。それはちょうど、
日本の医療制度に似ている。患者が診察室を一歩離れたら、それはもうドクターの責任ではな
い。

 今の日本の制度のように、何からなにまで、学校……というのは、どう考えてもおかしい。

 ちなみに、欧米では、子どもたちが教室を移動しながら、授業を受けるシステムになってい
る。だからそれぞれの教室が、先生の部屋であり、教室ということになる。日本のように職員室
などというものは、ない。

 さらに中学校でも、授業と授業の間の休み時間は、5分前後しかない(オーストラリア、ニュー
ジーランド、カナダ、アメリカほか)。「日本では、10分もある」と話すと、ニュージーランドからの
留学生(大学生)は、「本当ですか?」と驚いていた。

 時間をムダにしないためというよりは、子どもどうしのトラブルを、さけるためにそうしているら
しい。時間がない分だけ、子どもたちはあわただしく、教室を移動しなければならない。


●親たちの依存性

 学校教育に対して、ほとんどの親は、信仰に近い幻想をいだいている。学校神話とはよく言
ったものだ。

 それはわかるが、その幻想が、かえって親たちの自立心を奪ってしまっている。何か問題が
起こるたびに、「学校で何とかしてほしい」と考える。

 英語教育は学校で……。性教育は学校で……。交通教育やエイズ教育は学校で……。しつ
けや道徳は学校で……。人間教育は学校で……。その上、個性を伸ばせ、才能を伸ばせ…
…、と。

 学校教育で効果があることといえば、集団教育と専門教育。この二つだけ。あとの教育は、
本来、家庭でしたほうがよい。また家庭ですべきことは多い。

 どうしてこんなわかりきったことが、日本の親たちには、わからないのか? 幼稚園や保育園
でさえ、子どもが「行きたくない」などと言おうものなら、「そら、不登校だ」と、親たちは、おおあ
わてする。

 幼稚園や保育園など、行きたくなければ行かなくてもよい。どうしてこんなわかりきったこと
が、日本の親たちには、わからないのか?

 まだある。

 たいていの親は、園や学校の先生を、神様か何かのように思っている。こんな事件が、実際
にあった。

 先日、私に抗議のメールをくれた人がいた。愛知県I市のTさん(女性)という人だった。Tさん
は、メールでこう書いてきた。

 「あなた(=私のこと)は、学校の先生を擁護ばかりしているが、こんなひどい教師がいること
も忘れないでほしい」と。いわく……。

 「うちの子ども(小2男児)が、学校帰りに、ある子どもにいじめられた。ズボンにドロをかけら
れた。そのことについて、私が、学校の先生に、抗議に行くと、その先生は、『放課後のことま
では、目が届かない』と言った。

 そしてあろうことか、その翌日、その先生は、みなの前で、『T君のズボンにドロをかけたのは
だれだ!』と公言してしまった。

 おかげでうちの子が、いじめにあっているのが、みなにわかってしまった。

 そこでさらに校長先生のところに行くと、その校長先生までが、『放課後のことまで責任をとれ
と言われても困る』と。こういう無責任な学校もあることを、忘れないでほしい」と。

 そこで私も、Tさんに、「やはりこのケースでは、学校の先生や校長先生の言い分のほうが、
正しいと思う」と書くと、返事でこう書いてきた。

 「あなたのような無責任な評論家がいることが、私には信じられない」と。

 この話は、後日談がある。

 その少しあと、近くのK小学校で講演をさせてもらった。で、その学校の校長にこの話をする
と、その校長も、こう言った。

 「教室で、T君をいじめたのはだれか聞いた先生の措置は、適切な行為だと私も思う。そうい
うばあい、私でも、そう聞いたでしょう」と。

 反対の立場で考えてみよう。こういうケースで、先生が、放課後のことまで神経を張りめぐら
すのは、不可能と言ってもよい。現場では、つぎからつぎへと、問題が起きてくる。「T君をいじ
めたのはだれだ」と聞くことすらできないというのであれば、子どもの指導は、もうできない。

 それにこのTさんは、学校の対応を批判しながら、その一方で、学校に対して、ぬぐいがたい
ほどの依存心をもっているのがわかる。「何とかしてくれるのが、学校」と考えている。つまりT
さん自身が、学校に対して、信仰に近い幻想をもっている。

 しかしそれでは問題は解決しない。だいたい常識で考えてみればよい。たいていの親は、た
った1人か2人の子どものことで、四苦八苦している。そういう子どもを、30人も押しつけて、
「しっかりめんどうをみろ」は、ない。

 まず、親自身が、その自覚をもつこと。「子どもを育てるのは私」という自覚である。そしてそ
の上で、学校でしてもらうこと。学校でできること。学校でしなければならないことを、分けて考
える。

 過剰な依存心は、過剰な期待をうみ、それがここに書いたTさんのような親を、つくる。

 ついでに言うなら、子どもというのは、キズだらけになりながら、成長する。親としてはつらいと
ころだが、そのつらさに耐えるのも、親の役目ということになる。

私が子どものころには、こうしたトラブルは、まさに日常茶飯事だった。しかしそれはあくまで
も、子どもの世界でのこと。親や先生が、顔や口を出すことは、まず、なかった。

 
●情報は、ただ

教育の世界には、「情報は、ただ」という考え方が、いまだに根強く残っている。学校の先生に
相談したり、質問したりするのは、ただと考えている人は、多い。

 たしかにそうかもしれないが、ある程度の礼儀、ある程度の節度というのは、やはり必要では
ないのか。

 今は、もうやめたので、私のことを書く。

 去年(03)の春まで、私は、ほぼ10年にわたって、電話による相談を受けていた。口コミで、
広がり、最後のころは、毎日のように電話がかかってきた。そしてそのため、日によっては、午
前中のほとんどが、それでつぶれてしまった。

 もちろん夕食時も、夜中も、おかまいなし。電話による相談というのは、そういうもの。

 ワイフは、「居留守を使えばいい」とよく言ったが、ウソをつくのは、もっといやだった。

 で、そういう相談で、名前を言う人は、ほとんどいなかった。住所を口にする人は、さらにいな
かった。内容が内容だから、私もあえて聞かなかった。

 だからといって、今、そうした活動がムダだったと思っているのではない。私自身のために
も、勉強になった。

 しかし中には、礼儀もなければ、節度もない人もいた。ごく一部の人だったかもしれないが、
いるには、いた。

たとえば毎日、ほぼ2週間にわたって、1、2時間の長電話をかけてきた人もいた。最後に、
「忙しいから、今日はごめんなさい」と電話を切ろうとすると、「ちゃんと最後まで責任を取れ」と
怒鳴られたこともある。

 そういう世界である。

 そしてそれが今は、インターネットになった。ただインターネットは、電話とちがい、私のほう
で、時間をコントロールできる。だから電話のようなことはないが、しかし、似たようなケース
は、ないわけではない。

 返事が、たった数日遅れただけで、怒ってきた人がいる。
 自分で辞書を調べれば、簡単にわかるようなことを、毎日のように聞いてきた人もいる。
 私のマガジンの趣旨と目的を説明してほしいと言ってきた人もいる。
 「お前の教育観はおかしい」と言ってきた人や、「親孝行を否定するとは何ごとか」「ウソを書く
な」とか言ってきた人もいる。

 そういう人たちに感ずるのは、ここに書いた、「情報はただ」という意識である。別に、それで
お金がほしいというのではない。請求しているのでもない。ただ頭から、「相談に答えるのは、
あなたの役目」というような言い方をされると、心のどこかで反発してしまう。(これは私の人間
性の限界のようなものかもしれない……。)

 そういう意味で、ある程度の礼儀、ある程度の節度というのは、やはり必要だと、私は思う。

 たとえばメールで、だれかに相談するについても、自分の名前や住所くらい、明記するのは、
当たり前のことではないだろうか。私は、だれかに相談するときは、いつもそうしている。

 ……と書いて、やはり問題が問題だから、しかたないのかなと思う。子育てや子どものことと
いうのは、高度にプライベートな問題である。だから私の立場では、「できるだけ……」という言
い方しかできない。

 いや、私はともかくも、学校の先生に何かを相談するときは、心のどこかで、ある程度の礼
儀、ある程度の節度を心得るべきだと、私は、思う。できれば時間外や、先生の自宅への電
話、日曜日などの電話は、ひかえるべきではないのか。

それとも私が書いていることは、まちがっているだろうか? 本当のところは、よくわからない。
 
 ただ最近の私の心境としては、こうしてみなさんの役に立てれば、それでよいのではないかと
いうこと。どうせあと何十年も生きられるわけではないし、頭の働きだって、そのうち、ダメにな
る。ボケる。

 今、こうしてまあまあ健康で、ものを考えられるだけでも、喜ばねばならない。そういうふうに
考えれば、相手の人が、名前や住所を言わないことなど、何でもない。

ハハハと、ここは笑ってごまかそう。


●閉鎖性

 学校というより、学校の先生たちは、どこか閉鎖的? こんな話を聞いた。

 今、どこの学校でもそうだが、ある学年のあるクラスだけが、特別の授業をするのは、禁止に
なっている。「禁止」である。

 そのクラスだけが、特別の授業をすれば、相対的に、ほかのクラスの授業レベルがさがる
(?)。平等を原則とする学校教育にあっては、これはまずい(?)。

 同じように、ある学年だけ、あるいはある学校だけが、特別の授業をすることも、事実上、禁
止されている。

 さらに総合的な学習においても、どこか、ことなかれ主義がはびこっているという。つまりそれ
だけめんどうなため、どうしても、「下にならえ!」式の雰囲気になってしまうという。

 新しいことを先進的にやっていくというのは、それだけたいへんなことかもしれない。

 で、こんなこともある。

 その総合的な学習で、講師を、外部の人に頼むことも、事実上、不可能だという。たとえばあ
る学校が、自分たちのホームページをつくろうとした。

 それについて、たまたま生徒の親の中に、ソフトウエア会社の社長がいた。そこでその担任
の先生が、その社長に頼もうとしたら、校長がこう言ったという。

 「そんなこともできないのかとバカにされるから、頼んではいけない。学校には、20人以上の
教師がいるのに、そんなこともできないのかと言われる」と。「それに、外の世界で、『学校の仕
事をしたと、宣伝に使われては困る』」と。

 学校の先生たちは、「外の世界」という言葉を使う。おかしな言葉だが、いまだにそういう言葉
を使う先生は、少なくない。

 しかしこうした閉鎖性があるかぎり、学校教育に、外の世界の風が通ることはない。これも学
校教育がかかえる問題の一つと、考えてよい。
(040514)


●こわれる子どもの心

もう少し、その常識について、考えてみる。

この浜松市は、子どもの受験という意味では、無風地帯だった。「受験競争」があるとしても、
中学二年から、三年にかけてであった。早い人(子ども)でも、中学一年からだった。

 しかし数年前、市内の進学高校のひとつが、中高一貫校になってから、その様子は、一変し
た。当初、競争倍率は、六〇倍近くになった。とたん、雰囲気が変わった。

 受験競争が、低学年化した。小学五年前後から、親たちは、受験競争を意識するようになっ
た。それまで主に小学五、六年から生徒を集めていた大手、中堅の進学塾が、のきなみ小学
三年から、生徒を募集するようになった。

 それだけではない。

 市内の私立中学校、さらに以前からあった、S附属小学校への受験競争が、激化した。具体
的には、競争倍率が、少子化の流れとは逆行して、高くなった。

 こうした受験競争の低年齢化で、子どもたちの様子も、一変した。本当に一変した。と、同時
に、親たちの様子も一変した。(本当は、親たちが変わったから、子どもが変ったのかもしれな
いが、私には、先に、子どもが変ったように見える。)

 難解なワークブックをかかえる子どもが、ふえた。勢いづいた進学塾は、東京の私立中学校
の入試問題をもってきて、子どもの指導をするようになった。とたん、親たちは、パニック状
態!

 もともとできるはずもない問題集である。そういうものをかかえて、子どもも、親も、「それが受
験勉強だ」と思いこむようになった。私のところへも、別の進学塾の問題集をもってきて、「先生
のところで、指導してほしい」と言ってきた、親がいた。さらに、どこかの進学塾で、テストを受け
たらしい。その結果、「成績が悪かった。何とかしてほしい」と言ってきた親もいた。

 常識で考えれば、とんでもない非常識なのだが、親には、それがわからない。パニック状態と
いうのは、そういう状態をいう。

 本当に、おかしな世界になってしまった。

 親は気がついていないかもしれないが、小学生のうちから、受験競争で、子どもを追えば、ど
うなるか? 心のかわいた、冷たい子どもになってしまう! 親にしてみれば、「いい学校へ入
ってくれさえすれば……」と思う。その気持ちはわからないでもない。これだけ保護格差という
か、不公平が蔓延(まんえん)した国になると、学歴のもつ意味は大きい。

 遠い昔だが、爪先で、ポンと月謝袋をはじいて、「おい、先生、あんたのほしいのは、これだ
ろ!」と、私に月謝を渡した高校生がいた。

 彼は市内でも、一番という進学校に通う子どもだった。彼にしても、中学生になったばかりの
ころは、まだ心の暖かい子どもだった。楽しい子どもだった。しかし二年、三年と受験勉強を経
験するうちに、子どもも、そういう子どもになる。

 日本の教育水準は、高い? ……とんでもない! 学力の低下は著しい。しかしそれ以上
に、日本人は、心の教育を忘れてしまった。それはちょうど、友情や、愛情の大切さを説く前
に、援助交際の仕方を教えてしまうようなもの。一件、華々しい社会だが、その下では、人間の
ドス黒い欲望が、ウズを巻いている!

 ……今さら、こんなことを私が言ってもはじまらない。今の日本は、そういう子どもや、そういう
子どもたちがおとなになった人の上に、成りたっている。先日も、ある経営者が、同乗したタク
シーの中で、こう言った。「弱肉強食は、当たり前でしょ。力のあるものが、それなりにいい生活
をする。やる気のないものは、貧乏になればいいのです」と。

 彼は、大都市の中心部で、コンピュータのソフト会社を経営している。しかし私たちが求めて
いる社会は、本当に、そういう社会なのか。そうであってよいのか。最後に、こんな話も。

 東京都のM市に住む、友人がこんな話をしてくれた。

 何でもある母親が、小学生の息子を、公園へ連れていったという。そしてその公園で、寝泊り
するホームレスの人たちを見せながら、こう言ったという。

 「あんたも、しっかり勉強しなければ、ああいう人たちになるのよ」と。

 その友人は、笑い話のひとつとして、その話をしたが、この話を笑って聞ける人は、今、この
日本に、いったいどれだけいるだろうか。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(171)
 
【短編・男のお尻】

●男のお尻

 悪夢だった。いや、悪夢の始まりだった。

 電車に乗ったとき、運よく、出入り口のそばの横の座席が一つ、あいた。よかった。そう思っ
て、そちらに背を向けたとたん、横の男が、少し腰を浮かした。

 太った男だった。年齢は30歳を、少し過ぎていただろうか。が、気がついたときには遅かっ
た。男は、2人がけのシートの、約3分の2まではいかないが、それに近い場所を、占領した。

 私は隣にあいた、その狭い場所に、腰を埋めた。とたん、男のお尻を、自分のお尻に感じ
た。きゅうくつだった。

 こういうときはどうすべきか。私は、数度、頭の中で、思いをめぐらせた。がまんすべきか。そ
れとも席を立つべきか……。

 とりあえずは、私は、自分の体を少しそらせて、足を前に出した。少し腰が楽になった。で、そ
の状態で横を少し見ると、男は、眠ったフリ。たしかにフリだった。

 「そんな簡単に、眠るはずはない」と、私は思った。私がすわる直前まで、その男は、あたりを
キョロキョロと見まわしていたはず。

 「きっと男は、横に女性が座るのを期待していたかもしれない。だから先に、腰を動かして、
場所を大きくとった。いや、それとも……?」と。

 私がすわろうとしたのを、感じて、意地悪したのかもしれない。「お前なんか、すわるな!」と。

 しかし腰を少し前に出しても、男のお尻はそこに感じた。いやな気分だ。

 私は、男の中でも、「濃い男」。同性愛者的な趣味は、まったくない。二手を同性触れられた
だけでも、ぞっとする。一方、女性なら、だれでもうれしい。(多分?)

 私は、その男が、同性愛者ではないかと、つぎに思った。相手の男だって、私のお尻をそこ
に感じているはず。しかし平然としている。平気なのだろうか。なぜだろう。なぜか。

 やがて私はその男のお尻が、熱くなっているのを感じた。それがズボンをとおして、伝わって
きた。そこで私は、こう思った。「こういう熱気というのは、相対的なもの。きっと相手の男は、私
のお尻を冷たく感じているはず」と。

 私は腰をさらに前に出して、お尻とお尻の接着面積を、できるだけ少なくしようとした。が、電
車が前後の揺れるたびに、男のお尻が、グイグイと、容赦なく、私のお尻に当たる。

 私は目を閉じた。そして懸命に、「これは女性のお尻だ。若い女性のお尻だ」と、自分に言っ
て聞かせた。「若い女性のお尻だと思えばいい。そうすれば気にならないはず」と。

が、効果はなかった。どういうわけか、それが男のお尻とわかった。もじゃもじゃと毛の生えた、
男のお尻。きっとヘソから、お尻のうしろまで、びっしりと毛が生えているに、ちがいない。

 「男も女も、同じお尻なのに……」と私は思った。そのちがいは、何か。

 男の横顔をふと見る。私が女性なら、ぜったいに嫌いになるタイプの男だった。どこかしまり
のない、不健康な青白い肌をしていた。「こいつは、同性の私とお尻をすりあわせても、何も感
じないのか。いや、そんなはずはない」と、また思った。

 電車は混んでいた。通路に立っている人もいた。私の目の前にも、数人、立っていた。こうい
う電車で、すわる場所があるというだけでも、感謝しなければならない。それはわかるが、しか
しこの不気味さは、いったい、どこからくるのか。

 「少し、横へ体を寄せてくれませんか」と言いかけたが、やめた。その男には、先住権というも
のがある。私は、その狭いすきまに、割りこんですわった。文句を言える立場ではない。

 男のお尻がますます熱くなった。……そう感じた。

 「私は56歳だ。この男は、私のようなジジイに興味があるのだろうか」と思った。「いや、わか
らないぞ。そういう趣味の男もいるという話を聞いたことがある。この世界では、年齢は関係な
い」と。(多分?)

 しかしそれにしても、不愉快だった。正確には、不快だった。オーストラリアでもアメリカでも、
エレベータに乗ったときなど、他人と肌を触れあう程度の状態になれば、満員という。それ以上
の人が乗りこもうとすると、待ったがかかる。その点、日本人は甘い。平気で、肌をこすりあわ
せる。

 男は相変わらず、無関心な様子だった。「きっと満員電車に乗りなれているのだ」と思った。
「しかしそれにしても、無神経な男だ……」と、つぎに思った。

 私は決意した。今度、電車が止まったら、それを理由らしくして、席を立とう、と。

 が、そういうときにかぎって、1分という時間が長い。それに私が乗った電車は、快速電車。
止まる駅の数が少ない。

 ジリジリと男の熱いお尻を感ずる。においまで伝わってきそうな感じ。電車が揺れる。男のお
尻が、私のお尻をこする。あああ。が、そのとき、ドシンと、電車が前後にゆれた。同時に、男
のお尻が、ズシリと、私のお尻にのしかかってきた。

あああ……と思ったとき、私は思わず、立ちあがってしまった。がまんするにも、限度がある。
そしてそのはずみを借りて、通路を通って、私は、前のほうに歩きだした。

 が、運は、私を見捨てなかった。私がスタスタと前に歩こうとしたその瞬間、目の前の一人の
男が、席を立った。私は、すかさず、その席にすわった。

 私は、ほっとした。緊張していた、お尻の筋肉をゆるめた。が、おかしなことに、その男のお
尻のぬくもりは、まだそこにあった。消えなかった。

 ついでに追伸。それからもう5、6時間にもなるというのに、今、この原稿を書いている最中で
も、あの男のお尻の感触がまだ残っている。本当にいやな気分だ。

 ワイフにちょっと前、「男のお尻と女のお尻は、どこがちがうのかね?」と聞くと、ワイフはこう
言った。

 「同じでしょう」と。

 しかし私にとっては、そうではない。絶対にそうではない。男のお尻は、どこまでも不気味。し
かし女のお尻は、美しい。いとおしい。

 「男のお尻は気持ち悪いけど、女のお尻は気持ち悪くないよ」と私が言うと、ワイフは、「女の
お尻なら、だれでもいいの? 80歳のおばあさんでも?」と聞いた。

 私はそれに答えてこう言った。「30歳の男よりは、80歳のおばあさんのほうが、まだまし」
と。(多分?)

 ……こう書くからといって、私は何も同性愛を否定しているのではない。同性愛の人を差別し
ているのでもない。人それぞれだし、その人たちがそれでよいのなら、私はかまわない。しかし
ただ少なくとも私は、ここに書いたとおりの人間だということ。

 気持ち悪いものは悪いのであって、これだけは、どうしようもない。
(040515)

【追記】

 電車で、私の横にすわった男が、同性愛者だったかどうかという話は、別にして、同性愛につ
いて、一言。

 よく同性愛の人たちが、「同性愛の権利を認めろ」と、意見を書いたりする。

 その気持はよくわかる。しかしその一方で、私のような人間もいることを忘れないでほしい。
つまり「同性愛でない人間の権利も、同性愛の人たちは、同じように認めてほしい」ということ。

 同性愛に偏見をもつことは、許されない。しかし世の中には、同性愛に、生理的な嫌悪感を
覚える人間もいるということ。

 それはひょっとしたら、人間が生物として根源的な部分でもっている嫌悪感かもしれない。も
し人間社会で、同性愛者が多数派をしめるようになったら、その時点で、人類は、絶滅すること
になる。

 「生存」は、生存本能となり、あらゆる生きる力の源泉になっている。食欲、性欲も、そのバリ
エーションの一つにすぎない。同性愛に対する嫌悪感というのは、そういう源泉から、発生して
いる可能性がある。

 いやいや、やはりこれは私の偏見かもしれない。

 どうして隣にすわった人が、男性だったら、いやで、女性だったら、いいのか。理屈で考えれ
ば、同じ、(お尻)ではないか。

 私は、毎晩、ワイフと、お尻をこすりつけあいながら寝ている。しかしそういうワイフのお尻
に、嫌悪感を覚えたことはない。なぜだろうか。なぜか。

 考えてみれば、これは実におかしなことだ。本当におかしなことだ。多分、性科学者なら、あ
る一定の答を用意しているかもしれない。一度、じっくりとどこかで調べてみようと思う。

【追記2】

 ところで私は、このところ、「楽天日記」という無料HPサービスで使って、日記を書いている。
(興味のある人は、私のHPのトップページより、「楽天日記」を開いてほしい。)

 その楽天日記でおもしろいのは、その日記を読んでくれた人を、追跡できるということ。実際
には、読んでくれた人のアドレスが、記録として、残る。

 そこでどんな人が、私の日記を読んでくれているのか、先ほど、逆アクセスをして、相手の方
のHPを開いてみた。

★N女王さん(仮名)……風俗嬢をしながら、3人の子育てでがんばっている女性。「どうして風
俗嬢が悪いのか」と、日記の中で書いている。
★山本カオリさん(仮名)……この数年間、セックスレス夫婦で通している、若い妻。日記は、
そのセックスレスの様子を報告したもの。
★PINK・モルモットさん(仮名)……自分のセミ・ヌード写真や下着での写真を、自分で撮影し
て掲載している女性、などなど。

もちろんプロフィールを開いても、名前や住所はない。しかし今、女性たちが、こうして自分を、
堂々と主張し始めている。私は、そこにある種のおもしろさを感ずる。一つ昔には、考えられな
かった現象である。

 そのうち、自分の住所や名前、顔写真を公表する女性も出てくるかもしれない。インターネッ
トの時代になって、日本人の性意識が、急速に変化しつつあるのを感ずる。「変化」というより、
「革命」に近いかもしれない。

 で、私も変った? いや、変らなければならないと思っている。私がもっている意識、常識、価
値観……そういったものを、一度、洗いなおしてみよう。

 私のHPを訪れてくれた人たちのHPを見ながら、そんなことを考えた。(ただし、同性愛だけ
は、ごめん!)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(172)

●固定観念

 その人がもっている、意識、常識(コモンセンス)、価値観などというものは、恐らく思春期か
ら青年期にかけて、つくりあげられるものではないか。

 あのアインスタインも、同じようなことを言っている。

 『常識とは、その人が18歳までに作った考え方』と。

 こうした(つくりあげられた意識、常識、価値観)は、それ自体、便利なものである。まとめて
固定観念というが、それはたとえて言うなら、電車が走るレールのようなもの。そのレールの上
に乗っていれば、少なくとも、道に迷うことはない。

 しかしそれと引きかえに、つまりレールの上を走ることによって、もっと別の意識や、常識、価
値観があることを見落としてしまう。そしてときには、そのレールに乗って、とんでもない世界に
入ってしまう。

 そこでアインスタインは、さらにこう言った。

『自分の目でものを見ることができる人は、ほとんど、いない。自分の心で聞くことができる人
も、ほとんど、いない(Few are those who can see with their own eyes and hear with their 
own hearts.)』と。

 つまり私たちは、日常的に、自分の目で見て、耳でものを聞いていると思っているかもしれな
いが、それは思いこみにすぎない。本当のところは、何もわかっていない、と。

 が、ここで二つの問題にぶつかる。

 一つは、そうしたレールの上に乗った意識、常識、価値観を、どうやって自分で気づくかとい
うこと。

 もう一つは、レールからはずれるのはよいとしても、どうやって、別のレールを自分で用意す
るかということ。

 どちらにしても、たいへんな問題である。

 少し前、こんな原稿を書いた。改めて、この問題について考えてみたい。

++++++++++++++++++

●常識

 幼稚園児に絵を描かせる。すると、たいていの子どもは、赤い色か、オレンジ色の太陽を描
く。

私「太陽は、本当に赤いの?」
子「そうだよ」
私「本当に、そう? 見たことある?」
子「あるよ。赤だよ」と。

 年長児のほとんどは、赤い太陽を描く。年中児だと、少し乱れるが、たいてい赤い太陽を描
く。ここ五〜六年、白い太陽や、黄色い太陽を描く子どもがふえてきた。しかしそれでも、大半
の子どもは、赤い太陽を描く。

 そこで小学二年生の子どもたちと、こんな会話をしてみた。

私「太陽は、赤いと、小さい子たちが言うけど、君たちは、どう思う?」
子「いいんじゃ、ない……」
私「でも、本当は、赤くないよ」
子「赤いよ。ぼく、見たことがあるよ」

私「本当に赤かったの?」
子「赤だよ」
私「アメリカでは、黄色だよ。中国では、白色だよ」
子(みんな)「ウソーッ!」と。

 「白」は、もともと、太陽を表す「日」という漢字から生まれた。だから中国では、「太陽は白い」
ということになっている。

 ……つまり、こうして子どもたちの常識、きわめて日本的な常識が作られていく。そしてその
常識は、一度、作られると、変えるのは、容易ではない。

私「白い太陽じゃ、おかしいの?」
子「おかしいよ。白い太陽なんて……」
私「でも、一度、白い太陽を描いてみてごらん」
子「やっぱり、おかしいよ」と。

 私がもっている常識。あなたがもっている常識。私が、その常識を、はじめて意識して疑った
のは、オーストラリアに留学したときだ。

 最初に案内された部屋は、ベッドが北向き(頭が北を向いていたという意味で北向き)に置い
てあった。

 私は、日本でも、とくに迷信深い家で、生まれ育った。母が、そうだった。だからふとんを敷い
ても、枕を北側に置いただけで、母に叱られた。「死に枕だ!」と。

 そういう私がまず、ベッドを見て、驚いた。もっともすぐ、オーストラリアでは、南と北が、日本
の感覚とは逆、と気がついた。向こうでは、北が暖かいということになっている。が、今でもあの
とき感じたショックを忘れない。

 あるいは、こんなことも。あるとき、イギリス人の家庭に食事に誘われたときのこと。テーブル
に塩をこぼしたが、「不吉なこと」と、その場で言われてしまった。その人は、その塩を、右手で
つまむと、左の肩越しに、うしろへ捨てていた。「日本では、神聖な象徴として、塩をまくことが
あるのですが……」と、その人に言うと、その人は、仰天したような顔をして、驚いた。

 さらにメルボルンのボタニカル・ガーデン(植物園)では、トイレの柵がわりに、竹が植えられ
ていた。日本では神聖な木ということになっているのに! 

またギリシャ人は、何かあるたびに、相手にプップッと、ツバをかけていた。何でもそうすると、
魔よけになるのだそうだ。

 その人がもっている常識などというのは、実にいいかげんなもの。もちろん私のもっている常
識も、あなたがもっている常識も、だ。例外は、ない。大切なことは、そうした常識を、いつも疑
ってみること。決して、「絶対」と思ってはいけない。

 あのアインスタインは、こう言っている。『常識とは、その人が18歳までに作った考え方』と。

 人が自由になる道は、決して一つではない。そしてその方法も、決して一つではない。自由に
なるための一つの方法として、あなたの中にある「常識」を疑ってみる。ときには、ぶちこわして
みる。意外と私たちは、「常識」というクサリで、体も心も、がんじがらめになっている。それが、
それでわかる。

 その一つのヒントとして、太陽の色について、考えてみた。

【固定観念を疑う】

 人間の行動は、すべて固定観念のかたまりと思ってよい。髪型から服装まで。歩き方から話
し方まで。

 行動面はそれでよいとしても、問題は、精神面である。

 このことを強く感じたのは、私がある友人に、「ぼくは、自転車通勤をしている」と話したときの
ことである。彼は、F県で、公認会計士をしている。彼は、こう言った。

 「そんな恥ずかしいこと、よくできるな。ぼくら、もし自転車に乗っていたら、それだけで、近所
の人に、バカにされてしまうよ」と。

 もちろん、私は、平気である。恥ずかしいなどと思ったことは、一度も、ない。しかし彼の世界
では、運転手つきの高級乗用車に乗ってはじめて、一人前に扱われるらしい?

 こんなこともあった。

 ガソリンスタンドを経営している、K氏と話していたときのこと。K氏は、こう言った。

 「林さんは、時間どおりの仕事をしていますが、もし今の私にそれをしろと言われたら、私は、
気が狂ってしまいますよ」と。

 K氏は、こう言った。つまり、私の仕事のように、午前X時から、午前X時Y分までというよう
な、三〇分きざみの仕事など、できない、と。つまりこまかいスケジュールにそった仕事は、で
きない、と。

 私はその話を聞きながら、「私は反対に、来るかこないかわからないような客を待って、一日
中、ぼんやりしているような仕事はできない」と思った。

 こうした私のもつ常識が、ある人と大衝突したことがある。ある雑誌社で、編集部の部長をし
ている人が、私にこう言った。「林さん、私たちは、あなたのような生き方をしている人を、認め
るわけにはいかないのだよ。それを認めるとね、私たちは、自己否定をしなければならない。
私たちは、何のために生きてきたのかとね」と。

 彼がこの話を言うまでには、いろいろないきさつがある。

 彼らの世界では、「人間は、ひとりでは生きていかれない」が、一つの合言葉になっている。
組織あっての人間、というのが、彼らの常識でもある。だから彼らは、フリーターという職業を
認めない。フリーターがしているような仕事は、仕事と認めない。

 しかし私は、この35年間、フリーターとして生きてきた。それは彼らにとっては、驚きであると
同時に、脅威でもある。彼らにしてみれば、私という人間は、成功しないまでも、決して、ふつう
の生活をしてはならない人間なのである。

 つまり彼らは、常日ごろから、私たちのような人間を、否定しながら生きてきた。だから私の
ような人間が、彼らの正面に立つと、今度は、彼らが自らを否定しなければならなくなる。彼
は、それを言った。

 固定観念とは、何か。考えれば考えるほど、その奥が深いのがわかる。しかしこの固定観念
というカベを破らないかぎり、私たちは、精神の自由を手に入れることはできない。本文の中に
も書いたように、私たちは、ごく日常的に、「固定観念」というクサリで、身も心も、がんじがらめ
になっているからである。


+++++++++++++++++

●再び固定観念

 一度、レールの上に乗ってしまえば、あとは楽である。人生観もそれで決まる。目標もそれで
決まる。人生観や目標が決まれば、あとはそれに従って生きていけばよい。

 子どもの描く絵のように、「太陽は、赤。海は、青。空は水色。顔は、肌色」と決めておけば、
生きることもずっと楽になる。

 こうしたレールについて、自分で自分のレールを敷くばあいもある。しかしそのほとんどは、
自分で敷いたものというよりは、他人が敷いたもの。個人を超えた、大きな流れの中で、他人
が敷いたレールであることが多い。

 ある男性(52歳)は、こう言った。「ぼくは、戦後の人間としては、ごく当たり前のように、会社
人間として、自分の人生を、すべて会社のために捧げてきた。しかしそういう自分に気づいた
のは、自分が、うつ病で倒れ、会社をリストラされたときだった。それまでは、気づかなかった」
と。

 その男性は、戦後の高度成長期の中で、会社人間として生きるのが正しいという価値観を身
につけてしまった。しかしそれは自分でつかんだ価値観というより、そういう時代の流れの中
で、与えられた価値観ということになる。

 こうした例は、多い。仕事について、考えてみる。

(1)都会の大企業ほど、よい会社という常識
(2)企業にも、一流、二流、三流と、ランクがあるという常識
(3)男は仕事、女は家庭という常識
(4)仕事のため、出世のためには、家庭は犠牲になってもよいという常識、など。

 こうした流れの中で、とくに大きく変わったのが、公務員に対する考え方である。たとえば私
が学生のころ、つまりたった35年前には、公務員になるのは、どちらかというと負け組。その
中でも、学校の教師になるのは、さらに負け組だった。

 これは私の意識というよりは、ほとんどの学生が共通してもっていた意識である。(もちろんこ
うした事実を裏づける資料は、ない。しかしウソだと思うなら、私の年代の人に、そう聞いてみ
ることだ。)

 で、一度、レールの上に乗ってしまうと、そのレールから踏み出したり、レールをかえたりする
ことは、簡単なことではない。自分にとってつごうのよい意見だけを聞き、つごうの悪い意見に
は、耳を傾けなくなる。

 自分にとって耳ざわりのよい意見を聞きながら、ますます自分の意見を補強する。反対に、
耳ざわりの悪い意見については、少しでも問題点があると、ことさらそれを大げさに騒いで、否
定したりする。

 こうしてますます自分の固定観念に、しがみつく。見るべきものを見なくなり、聞くべきものを、
聞かなくなる。そこでアインスタインは、こう言った。

 『自分の目でものを見ることができる人は、ほとんど、いない。自分の心で聞くことができる人
も、ほとんど、いない』と。

●固定観念をいつも疑う

 私たちの頭の中には、無数の固定観念がある。固定観念が悪いというのではない。そういっ
た固定観念の中には、「おかしい?」と思うものある。そういった固定観念を疑ってみる。

 「おかしいものは、おかしい」と思う。それだけのことである。

 たまたま昨夜のことだが、ワイフとこんなことを話しあった。少し脱線するかもしれないが、こ
んなことだ。

 私は、小さな教室で、幼児を教えている。週一回、一時間だけの教室である。そんな教室だ
が、子どもにとっては、フルタイムの幼稚園で受ける影響よりは、私の教室で受ける影響のほ
うが、はるかに大きい。

 決して、オーバーなことを言っているのではない。私は幼稚園での幼児教育も、知りつくして
いる。その上で、そう言う。

 が、私の教室は、国や県、市からの補助は1円もない。法人格もない。だから1年間子どもが
学んだとしても、履歴には残らない。形式じみた入園式も卒園式もない。あるのは、週一回、一
時間という「中身」だけ。

 しかし世間では、私の教室のような存在を、認めない。価値も認めない。が、それでも私は、
こうした教室の意義を、自分で、はっきりと確認している。だから私は、ワイフにこう言った。

 「世間では、形のあるものには、皆、頭をさげる。しかし形のないものには、頭をさげない。こ
れは日本人という民族が、形ばかりを見てきたためではないか」と。

 わかりやすく言えば、外見ばかりを気にして、中身を見ない。つまりこれも、私がここでいう固
定観念の一つということになる。

ワイフ「私たちは、結婚式をしていないわ。私は、そんなもの、どうでもいいと思った」
私「そうだな。あのころは、そう思った。結婚式というのは、形にすぎない。中身を置き去りにし
たまま、形ばかりにこだわる人は多い」
ワ「しかしこの日本では、結婚式をして、婚姻届を提出してはじめて、結婚したことになるわ」
私「結婚が先か、婚姻届が先かという問題は、中身が先が、外見が先かという問題につながる
よね」と。

 こうして考えてみると、固定観念を疑うということは、もう一度、自分自身を中身から見るとい
うことになる。人間の原点にかえるというふうに、考えてもよい。ともかくも、もう一度、自分自身
を見つめなおしてみる。

 これはたいへんむずかしいことかもしれない。ほとんどの人は、「私のことは、私が一番よく
知っている」と思いこんでいる。しかしこの世界に、本当に自分のことを知っている人など、どれ
だけいるというのだろうか。

 が、ヒントがないわけではない。

 私たちの心の中には、この数十万年という気が遠くなるほどの年月をかけて蓄積された常識
というものがある。

(ここでいう常識というのは、固定観念としての常識とは区別する。鳥は水にもぐらない。魚は
陸にあがらない。そんなことをすれば、死んでしまうことを、鳥や魚は知っているからだ。そうい
う常識を言う。「太陽は赤い」というのは、ここでいう常識ではない。)

その常識に耳を傾けてみればよい。もっとわかりやすく言えば、「おかしいものは、おかしい」と
思う。それだけでよい。

 おかしいものは、おかしいと思う。それを繰りかえす。その先のことは、私にもわからないが、
しかしこれだけは言える。

 人間は、その常識のおかげで、過去、何十万年も生きてきたということ。これからもその常識
を大切にすれば、何十万年も生きられるということ。大切なのは、中身。決して形ではない。そ
れがわからなければ、野に飛ぶ鳥や、野に遊ぶ動物を見ればよい。彼らは、結婚式など、しな
い。婚姻届など、出さない。

 いつもそうした原点に視点を置いて、ものを考える。それが私の身にまとわりつく固定観念を
うちくだく、ゆいいつの方法である。
(040516)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(173)

【近況・あれこれ】

●草を刈る

 5月16日、日曜日。雨のあいまをぬって、山荘周辺の草を刈る。

 草刈り機に、混合油を注いで、思いっきり、ヒモを引く。とたん、バリバリと気持ちよく動き出し
た。

 私は草刈りは嫌いではない。草刈り機で、バッサバッサと、大きな草を切り倒していると、爽
快(そうかい)な気分になる。

 本当は草刈りを、5月の連休前にしなければならなかった。しかし客がきたり、雨だったりし
て、その時間がとれなかった。それで今日になった。

 しかしこの時期は、注意しなければならないこともある。毒ヘビと、ハチである。

 ゴーグル(メガネ)や、長靴は、常識。厚手の作業ズボンと、長そでの、これまた厚手の作業
シャツを着る。それに手ぬぐいを首に巻く。

 作業を始める前は、どこか肌寒かったが、10分もすると、顔中から汗がヒタヒタと落ち始め
た。それに呼吸も、荒くなった。私は、下半身はじょうぶだが、上半身が弱い。あまり鍛えてい
ない。

 山荘の周辺は、斜面になっていて、足場が悪い。それに雨あがりで、足がすべる。それを必
死にこらえての作業である。さらに10分もすると、心臓が爆発しそうになった。そこで、休憩!

 見るとワイフが、焼却炉でゴミを燃やしていた。「それは私の仕事だ」と言いかけたが、声が
出ない。ウーロン茶を飲んで、また作業、開始。

 バリバリ、ザクザク、ガリガリ……。「ガリガリ」というのは、草刈機の歯が、石に当たる音。ハ
ハハ。

 作業が終わって居間にもどると、ワイフがシャツとパンツを用意してくれていた。「扇風機がい
るね」と声をかけながら、素っ裸で、扇風機に当たる。この解放感が何とも言えない。

 「寒いくらいだ」と私が言うと、「風邪をひくわよ」と。

 夕方、自宅にもどる。楽しい一日だった。

 そうそう今日、山荘で、映画音楽を聞いた。「ブレイブ・ハート」の音楽を作曲演奏した人と、
「タイタニック」の音楽を作曲演奏した人は、同じ人だった。「どうも似ている」と思ってジャケット
を見たら、同じ、ジェームズ何とかという人の名前になっていた。

 ところで「ブレイブ・ハート」の、あの音楽。日本の「♪与作は、……」というメロデーにそっく
り。いや、同じ? くだらないことだが、いつもそう思いながら、あの曲を聞いている。


●雑誌の発行部数は、インチキ!

 雑誌には、「公称発行部数」というのがある。つまりは、その雑誌社が自分で公称する発行
部数をいう。

 しかしこの公称発行部数ほど、いいかげんなものはない。私もかつて雑誌の世界を、渡り歩
いたことがあるが、「100%、インチキ」と断言して、まちがいない。

 10万部もない月刊雑誌でも、公称発行部数を、30万部とか40万部とか、言っていた。

 地方のミニコミ誌ですら、数倍から、5〜10倍程度のサバを読むことも珍しくない。あるいは
ミニコミ誌のばあい、年末や年始など、ときどき発行部数を、いつもより、2倍とか3倍程度、ふ
やすことがある。そういう発行部数をもって、公称発行部数ということもある。

 なぜ、そうするか? 理由など、書くまでもない。公称発行部数が多ければ多いほど、広告宣
伝費を高く請求できる。

 こうしたインチキを見破る方法としては、印刷会社による、印刷証明書を見せてもらう方法が
ある。しかし実際には、そこまで請求する人はいない。また請求しても、意味はない。数字な
ど、たがいの相談で、いくらでもごまかせる。

 そこで最近、日本雑誌協会(通称「雑協」)が、従来の「公称部数」から実数に基づく年間の
「平均印刷部数」に変えることにした。この秋(04)から、実施するという。

 雑協によると、「加盟各社の平均印刷部数の公表の可否については調査中だが、約8割が
同意する見とおし」という。「平均印刷部数」は、出版社の了解が得られた雑誌についてだけ、
印刷工業会が集約し、雑協にデータを渡す。

 しかしそれにしても、今まで、野放しになりすぎていた。「おかしい」とは、私も、すでに30年前
に感じていた。それを今ごろ……?

 私が知っているミニコミ誌のばあい、10倍どころか、20倍近い、サバを読んでいた。実際の
発行部数は、毎月2000部程度。しかし公称発行部数は、3万部とか4万部になっていた。

 みなさんも、雑誌などに広告を載せるときは、じゅうぶん、注意したほうがよい。でないと、結
局は、お金をドブへ捨てることになる。

【追記】

 その点、インターネットは、ごまかしがきかない。まったく、きかない。厳格というより、バカ正
直。マガジンの発行部数などは、1部単位まで、正確に表示される。そういう意味では、すっき
りとしていて、気持よい。
(040516)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(174)

【近況・あれこれ】

●クッキーが死んだ

 17年間、いっしょに住んだ、犬のクッキーが、死んだ。

 昨夜、2時ごろ、ちょうどネコが泣くような声で、「ヒーヒー」と泣いた。私には、「痛いヨ〜」と言
っているように聞こえた。

 それで巣箱に、クッキーを入れて、タオルをかけてやった。その巣箱を、ワイフと二人で、家
の中に運んだ。

 ふたたび、明け方の4時ごろ泣いた。それからも少し泣いたが、声はだんだん弱くなった。

 私は目をさますとき、「バッファリンをのませてよろう。エサに混ぜてやればいい」と考えてい
た。が、巣箱まで行ってみると、クッキーは、口をあけて死んでいた。

 最後の最後まで、私たちに心を開くことがなかった、かわいそうな犬。それがクッキーだっ
た。保険所で処分される寸前の犬を、私たちがもらい受けてきた。

もう一人、その犬がほしいという女性がいた。当時、60歳をすぎた女性だった。「死んだ犬、そ
っくりなので、どうしてもほしい」と、その女性は言った。

 それについて、私が、ワイフに、「あのとき、あの女性に、クッキーをあげていれば、クッキー
は、もっと幸福だったかもしれないね」と言うと、ワイフは、だまっていた。

 庭のすみに、長男と、ワイフと、私の三人で、深くて大きな穴をほった。ヤギのユキが死んだ
ときも、文鳥やインコが死んだときも、庭先で野鳥が死んだときも、私たちは、それをそうして
庭先に埋めてきた。

 埋め終わると、線香を立て、みんなで合掌した。もう一匹の犬のハナも、そこにすわらせた。

 居間に帰って、みんななでぼんやりと庭を見ていると、ハナだけが、あちこちを忙しそうに動
きまわっていた。ワイフが、「クッキーをさがしているのね」と言った。本当に、そんな様子だっ
た。

 「犬は、ぼくたちが思っているほど、バカではないよ。友だちの死もわかっているのかもしれな
いよ」と、私。

 今日は、5月17日。月曜日。空には低い雲が重くたれこめ、今にも雨が降り出しそうな気
配。私は、お茶を飲み終えると、書斎に入った。そしてこの文を書いた。


●布教活動

 玄関のチャイムが鳴った。「昔、お世話になりました、Kです」と、その声は言った。「?」と思
いながら、玄関のカギをはずすと、二人の女性が立っていた。見たとたん、ピンときた。どこか
の宗教団体の信者たちである。

 「何ですか?」と言うと、「少し、お時間をいただけませんか」と。すかさず、私が「今、忙しいの
で、お断りします」と答えると、「1時間ほどでけっこうです」と。

 1時間! ギョッ!

私「ですから、忙しいのでお断りします」
女「では、明日はいかがですか?」
私「明日も、あさっても忙しいです」
女「夜はいかがですか?」
私「夜も、お断りします」と。

 こうした押し問答が、しばらくつづく。相手も、なかなか用件を言わない。私も聞かない。聞き
たくもない。

 ……とまあ、よくあることなので、この話は、ここまで。しかしこのところ、こうした信仰への勧
誘というか、布教活動が、よく目につくようになった。カルト教団も不況なのだろうか。信者集め
に、やっきになっているといった感じ。

 しかし誤解してはいけないことがある。カルト教団があるから、信者がいるのではない。そう
いう信仰を求める人たちがいるから、その結果として、カルト教団がある。だからカルト教団を
たたいても、意味はない。

 かえって、それを信じていた人たちを、不安にしてしまう。これをこの世界では、「ハシゴをは
ずす」という。つまりハシゴをはずすのは、簡単なこと。はずしたあと、その信者たちは、どうな
るか。それを考えてあげなくてはならない。

 二人の女性は、穏やかな笑みを崩さなかった。さも「私たちはあなたより、人間ができていま
す」というような、顔をしていた。たしかにそうかもしれないが、しかし、どこか不気味。つかみど
ころがない。得体が知れない。

 最後は、いつものように、私のほうが怒って、幕。

 「これから仕事ですから、ここで失礼します」と。が、今日は、ついでにもう一言、こう言った。
「二度と来ないでください。あなたがたがハッピーなら、それでいいではないですか。私もハッピ
ーです。ですから、もう私たちのことは、かまわないでください」と。

 あとは一方的に、玄関の戸をしめ、カギをかった。

 どうしてかわからないが、ああいう人たちと話をしていると、心臓がドキドキする。落ちつかな
い。何というか、理性の通じない人たちである。一見、道理をもっているように見えるが、その
道理が通じない。そういう不快感が、私をして、そうさせるのではないか。よくわからないが…
…。


●一枚の写真

 居間に一枚の写真が、飾ってある。

 ワイフと二男の写真である。ワイフが、ピンクの服を着て、そのうしろに、どこか恥ずかしそう
な顔をして、二男が立っている。体の半分くらいをワイフのうしろに隠し、顔だけを外に出してい
る。

 私が一番、好きな写真である。

 写真といっても、スキャナーで、コピーし、プリントアウトしたもの。オリジナルの写真は、二男
の手元にある。そのため、つまりコピーのため、このところ、急速に色あせてきた。今は、かろ
うじて、色を保っているといった感じ。

 が、今日、教室で、こんなことがあった。

 ある母親と話しているとき、そこへその母親の子ども(年長女児)がやってきた。そしてうれし
そうな顔をして、その母親のうしろに立ち、私の顔をのぞいた。

 その瞬間、つまりその光景と、あの写真がダブった。その女の子も、体の半分くらいを母親
のうしろに隠し、顔だけを外に出した。

 とたん、目頭が、ジンと熱くなった。そして大粒の涙が、ポロリと出てきた。

 涙もろくなった……。そう、このところ、何かにつけて、涙が出てくる。音楽を聞いても、美しい
山々を見ても、涙が出てくる。年齢のせいなのだろうか。あるいは、自分を支える気力が、弱く
なったせいなのだろうか。

 ところで、その人の老人度をはかる一つのバロメーターとして、(展望性)と、(回顧性)がある
という。

 未来に向かって、前向きに考えていくのが、展望性。反対に、過去に向って、あれこれなつか
しむのが、回顧性。私の年齢というのは、展望性が弱くなり、回顧性が強くなる。そしてその二
つが、ちょうど交差する年齢だという。

 私はその母親に、「ハハハ、うちの二男を思いだしました。同じような写真が、うちの居間に
張ってありましてね」と笑って見せた。

こうした涙は、ワイフには、見せたことがあるが、他人には、はじめてのことだった。私はバツ
の悪さをごまかすため、その子どもに、こう言った。

 「今のうちにね、うんと、甘えれるだけ、甘えておきなよ」と。

 その瞬間、私は、私を超えた、命の流れのようなものを感じた。私から二男、そしてその私を
超えて、その母親からその子どもへ、と。私たちは、それぞれ、別の人間として生きている。し
かしその実、その裏では、私たちは、みな、その命の流れの中で、つながっている……。

 その子どもは、私の言葉に答えて、うれしそうに笑った。私も笑った。母親も笑った。そしてそ
の笑いをとらえて、私は、こう逃げた。

 「また、今度、会おうね」と。子どもはまた笑って、そのまま母親の手を引きながら、外へ出て
行った。


●命の流れ

 ときどき、その年齢の子どもをみながら、「自分がその年齢のときは、何をしていたのだろう」
と思うことがある。

 小学1年生の子どもを見たとき。小学3年生の子どもを見たとき。

 しかし記憶の中の私は、遠い霧の中にいて、どうもよく見えない。そこで何かしているはずな
のに、それがよくわからない。

 しかしたしかに私にも、小学1年生のときがあった。3年生のときも、あった。で、ふと、現実
にもどり、この子どもたちにとっても、そうなのか、と思う。

 いつかやがて、この子どもたちも、今という時代を振りかえる。そして今の私が、50年前、4
0年前を思いだすように、今という時代を思いだす。しかしそれは遠い霧の中にある……。

 わかりやすく言えば、私は、その霧の中の人間にすぎない。いや、それが悪いというのでは、
ない。こうして人は、自分の人生を生き、つぎの世代の子どもたちは、それを繰りかえす。子ど
もたちは、「私は私」と思っているかもしれないが、かつての私がそうであったように、もっと大
きな流れの中で、おたがいの命を、繰りかえしているだけ。

 もっとわかりやすく言えば、今の子どもたちは、私の過去を生きている。そして今の私は、子
どもたちの未来を生きている。そこに私は、命の深遠さというか、個人を超えた、大きな、命の
流れのようなものを感ずる。

【追記】

 いつか私の教えた生徒が、おとなになり、私が今書いている文章を読み、自分のそのときの
現在と、霧の中の過去を結びつけるようなことがあれば、すばらしいことだと思う。

 つまり子どもが、いつかおとなになり、私が、こうして書いている文章を読む。そのとき、その
子どもが、「林は、私たちが子どもだったときのことを書いている」と思う。つまりその時点で、
私の書いた文章が、ちょうどその子どもの現在と過去をつなげる橋のように、役立つかもしれ
ない。

 「あのときの林は、こんなことを考えていたのか!」と。

 その今は、西暦2004年5月18日。午前5時ごろ。あなたはこのとき、いつ、どこで何をして
いただろうか。


●国民年金保険料の未納問題

 このところ(5月18日現在)、国会議員による国民年金保険料未納問題が、国会をゆるがし
ている。未納していた国会議員が、つぎつぎと出てきて、釈明をしたり、役職にあるものは、そ
の役職を退いたりしている。

 おかしな現象だ。

 さらに言わなくてもよいのに、テレビのニュースキャスターまでもが、「私にも未納の時期があ
りました」と告白して、何日か、テレビに出るのをひかえたりしている。

 こういうのを、善意の押し売りという。もっとはっきり言えば、偽善者という。

 私は善人ですということを証明(?)するために、罪にもならない罪をわざと告白して、自分が
善人であることを、ことさらおおげさに強調したりする。

 他人のことを書く前に、私自身のことを書く。

 私は20代のころから、ワイフと、「国民保険料なんか、払うな」「払います」と、いつもけんか
ばかりしていた。私のワイフは、ああいうクソまじめな性格だから、払わずには、おられない。

 しかし私はすでにそのころから、今の国民年金は、パンクすることを知っていた。だからいつ
もこう言っていた。

 「いいか、二人で2万円も毎月払っていてもだよ、将来、それだけのお金が返ってくるかどう
かわからない。それなら今、毎月2万円ずつ、積み立てておいたほうが、よっぽど得だよ」と。

 その結果が、今である。

 だいたいにおいて、年金を、自分で積み立てるという制度そのものが、おかしい。もしそうな
ら、何のための「国」かということになる。それにこの年金制度は、不公平だらけ。ざっとみて
も、役人は、民間のサラリーマンより、2倍。自営業者より、4倍は、手厚く保護されている。

 よく政府は、「払った額の約2、3倍は、年金を多くもらえます」などと、宣伝している。しかしこ
れはまっかなウソ。とんでもないウソ。

 私たち夫婦が20代のころ、二人で、2万円程度の年金を払っていた。しかし当時の2万円
と、今の2万円とでは、価値がちがう。当時は、大卒の初任給は、6万円前後。今、仮に当時
の2倍の4万円もらっても、当時の1万円の価値もない。

 現在、二人で、3万円以上も払っている。息子たちの分まで含めると、6万円以上になる。

 仮に将来、12万円の年金をもらっても、(数字の上では、たしかに2倍になるが)、そのとき、
お金の価値が半分になっていたら、どうするのか。4分の1になっていたら、どうするのか。そう
なる可能性はきわめて高い。

 役人の年金だけは、物価にスライドして、上昇する。物価が2倍になれば、2倍になる。しかし
国民年金は、額が減らされることはあっても、ふやされることは、絶対にない。

 そういう国民年金である。

 ことさら「払っています」と、いばるような性質のものではない。一方、「払っていませんでした」
と、わざわざ告白しなければならないような性質のものではない。私は非国民と非難されよう
が、あえてこう言う。

 「みんな、国民年金にだまされるな!」と。ちなみに私たち夫婦は、ワイフのそういう性格もあ
って、一度たりとも欠かすことなく、この35年間、ずっと保険料を支払っている。本当は払いた
くないが、払っている。

 もしそのニュースキャスターが、「私は、若いころ、ハレンチ罪で罰金刑を受けたことがありま
す」などと告白したというのであれば、話は別。そのニュースキャスターは、罪を告白したことに
なる。

 しかしそういうことは、絶対に言わないだろう。保険料未納という、どこかどうでもよいような罪
を告白しながら、さも自分は善人ですと売り出している。そのキャスターなどは、年俸が1億円
から2億円、あるいはそれ以上ある。もともと年金など、はした金のはした金。

 彼が言うべきことは、こうだ。

 「私は年金など、アテにしていません。そんなはした金、もらってもしかたないでしょう。私は、
一本の原稿を書けば、40〜60万円。一回の講演だけで、100〜150万円もらいます。だか
ら保険料など、払ったことはありません」と。

 みなさんも、どうか、そういう偽善者の偽善に、気づいてほしい。そういうインチキに、気づい
てほしい。つまり今の年金制度問題は、すべて、そうしたインチキの上に成りたっている。

 年金の一元化など、そんなのは常識ではないか。それとも、この日本では、役人の価値は、
一般庶民よりも、4倍の価値があるとでもいうのだろうか。アハハハ。本当にアハハハ。

【追記】

 昨日(5・17)のテレビ報道(NHK)によれば、今回の年金制度改革について、一度白紙にも
どして議論しなおすべきと答えた人が、66%前後もいるという。当然だ!

 で、そのニュースを見ながら、ワイフがこう言った。「あら、賛成している人も、20%もいるの
ね?」と。

 その20%という人が、どういう人たちか、賢明なあなたなら、それがわかるはず。


【追記・だれが悪い?】

 こんな話がある。

 ある橋のふもとに、狂暴な暴漢が出没するようになった。夜、橋を歩いている人を襲っては、
お金をまきあげたり、乱暴をはたらいていた。

 そんなある夜のこと。一人の女性が、その橋を渡ることになった。その女性は、このところ夫
にかまってもらえず、欲求不満ぎみ。その夜も、その橋の反対側にある男の家で、不倫をし
て、家に帰るところだった。

 橋のふもとに出没する暴漢のことは知っていた。そこでその女性は、不倫相手の男に、こう
頼んだ。「どうか、家まで私を送ってください」と。しかしその男は、その女性と外をいっしょに歩
いているところを、人に見られたくなかった。とくに女性の夫に見られたくなかった。見られた
ら、女性の夫に殺されてしまうかもしれない。

 しかたないので、その女性は、ひとりで橋を渡って、家に帰ることにした。が、その夜は、そこ
に暴漢がいた!

 女性は、その暴漢に襲われ、そして、殺されてしまった……!

 この話を読んで、あなたは、だれが一番、悪いと思うか。つまりその女性の死にたいして、だ
れが一番責任があると思うか。

 いろいろ意見はあるだろう。

 女性をかまわなくなった夫が悪いと言う人。不倫した女性が悪いと言う人。女性をエスコート
しなかった男が悪いという人。

 しかし一番、悪いのは、その女性を襲った、暴漢そのものである。単純に考えれば、そうな
る。あとの話は、問題の中身を複雑にしているだけ。

 実際には、これに似た話は多い。ものごとの本質を考えていくと、意外とその本質は単純とい
うケースである。一見、複雑に見えるのは、だれかが意図的に複雑にしているからにすぎな
い。

 今回の年金問題にしても、どうしてこんなことでこじれるかといえば、官僚が、自分たちのよい
ように、例外の上に、例外をつくりすぎたためである。特権の上に特権をつくりすがいたからで
ある。そしてそれがだれの目にも、不公平とわかるまでになってしまった。

 あとは、その不公平を、何とかごまかして守ろうとする官僚たち。そしてそれではいけないと
がんばる庶民たち。原因のすべては、そこにある。

 考えてみれば、単純な問題ではないか。

 本当に悪いのは、だれか。不倫をした女性でもなければ、その相手でもない。女性をかまわ
なかった、夫でもない。悪いのは、暴漢である。


●コタツの中の蚊

 5月中旬というのに、もう蚊が飛んでいる!
 
 どこからこの書斎に入ったのか? 窓はあけてない。少しあいているが、網戸になっている。

 ときどき、ブーンと飛んできては、どこかへ消えていく。あたりを見ても、殺虫剤はない。しか
たないので、そのまま手で追いはらう。

 が、そうして半時間ほど。ちょうど蚊のことを忘れかけたころ、その蚊がどこにいるか、わかっ
た。

 蚊は、何と、コタツのふとんの中にいるらしい。足のあちこちがかゆくなってきた。ときどき、
足のすね毛に当たる羽の感触がわかる。

 この時期、まだ、ときどき寒いときがある。そのため、まだコタツのフトンをはずしていない。
蚊は、いつの間にか、これまたどうやって入ったかわからないが、そのフトンの中にいるらし
い。

 「かなり頭のいい蚊だ」と、私は思った。

 世間一般の人は、昆虫や動物は、頭が悪いと思っている。たしかにそうだが、人間とて、そ
れほど、頭がよいわけではない。知識や情報はもっているが、思考力となると、ひょっとした
ら、昆虫や動物と、そうはちがわないのでは……?

 ウソだと思うなら、一度音声だけを切って、あのテレビのバラエティ番組なるものを見てみる
ことだ。ああした番組に出て、ギャーギャーと意味もないことを口にして、騒いでいる連中は、そ
こらのサルとは、ちがわない……というより、動物園で群れるサルより低劣に見える。

 しかしそれんにしても、足がかゆい。この原稿を書き終えたら、何とかしようと思っているが、
それまで、がまん。

 私は今から殺虫剤をもってきて、フトンの中に、シューシューと吹きこむつもり。蚊の命も、そ
れまで。今はせいぜい、私の血を楽しむがよい。必ず、仕かえししてやる!

 ちょうど、のどがかわいてきた。お茶もない。本当は、口実にすぎないが、私は一度、居間ま
でおりていくことにした。お茶をもってくるついでに、殺虫剤をもってくることにした。

(この間、数分ほど……。)

 居間の棚の上に、スプレー式の殺虫剤があった。階段をのぼってくるとき、それをよく振っ
た。あまり量が残っていないようだが、それでじゅうぶん。

 私は、フトンの一部を上にめくると、そこへノズルをつっこんで、レバーを引いた。とたん、シュ
ーッと殺虫剤が、フトンの中に入っていった。

 しかしこの爽快感はどうして、起こるのか? 快感に近い。私は、蚊を殺すときだけは、容赦
しない。殺しても、殺したという罪悪感が、まるでない。

 が、そうして殺虫剤を吹きこんだだけで、かゆみも消えたようになる。これはおかしな現象
だ。本当におかしな現象だ。人間の心理には、そういう作用があるのか。

つまりこの作用は、どこかの独裁者が、政敵や不穏活動家を、粛清したあとに感ずる快感に
似ているということになる。(多分?)となると、私にも、その独裁者の素質は、じゅうぶん、ある
ということになる。

 蚊は、もう死んだだろう。

 私はやけにつるつるになった床に足をすべらすと、このエッセーのつづきを書いた。と、その
とき、肝心のお茶をもってくるのを忘れたのを知った。あああ。


●ブッシュ大統領の命運

 イラクの捕虜収容所での虐待について、どうやらブッシュ大統領が、それを承認していたらし
いという事実が明るみになってきた。

 中日新聞は、つぎのように伝える。

 「……司法省は、CIAに対し、捕虜に睡眠を与えなかったり、緊張を強いたりする尋問を許可
するとの覚書も残していたという。

また、米裁判所の権限がおよばないキューバのグアンタナモ米軍基地(租借地)に、アルカイ
ダやアフガニスタン旧政権のタリバンの捕虜を送り込むことを検討したと報じた。
 パウエル国務長官はこうした承認に反対し、大統領に『米政策の転換であり、国際社会から
非難を浴びる』と反対したが、ほとんど受け入れられなかったという」と。

 今の時点で、先のことを予想するのは危険だが、(というのも、まだ5か月もあるので)、この
事実で、ブッシュ大統領の命運は、つきたと考えてよい。今のままでは、秋の選挙で、ブッシュ
大統領が、大統領に再選されることは、もうありえない。とても残念なことだが……。

 問題は、この日本だが、仮に民主党のケリー氏が大統領になれば、日本は、大きなうしろ盾
を失うことになる。かねてよりケリー氏は、「米朝間で、相互不可侵条約を結んでもよい」と主張
している。

 もし米朝間で条約が結ばれれば、それがどんな形であるにせよ、仮に日本とK国とが戦争と
いうことになっても、日本は単独で、K国と対峙しなければならなくなる。

 日本には、その覚悟があるのか?
 日本には、その準備ができているのか?

 アメリカ軍は、すでに韓国からの、事実上の撤退を開始している。沖縄からの撤退も、もうス
ケジュールにあがっている。ケリー大統領になれば、この動きは、さらに加速されるだろう。そ
うなったとき、(そうなるのは、まちがいないが……)、この日本は、どうするつもりなのか?

 小泉首相は、6月22日に、K国を再度訪問するという。表向きは、拉致問題の解決だが、そ
の中身は、底がわからないほど、大きく、深い。世間の人たちは、「これで問題解決」と喜んで
いるが、仮に交渉でつまずくようなことにでもなれば、そのまま戦争という事態にもなりかねな
い。まさに一触即発の状態と言ってもよい。

(この原稿は、6月18日号に掲載予定なので、そのころまでには、もっと輪郭が、はっきりして
くることと思う。)

 このところ、日本外交にとっては、すべてのことが、裏目、裏目に出てくる。何をしても、うまく
いかない。それはたとえて言うなら、もがけばもがくほど、足元の砂が崩れて、その穴の中に落
ちていく感じ。

 こういうときは、時の流れに静かに身をまかせて、国際情勢の動きを静観するのがよい。し
かしそれもままならない?

 では、どう考えたらよいのか?

 日本が望むように、相手を動かすのではなく、相手が望まないような状態になるよう、日本が
世界に働きかければよい。その点、K国の外交には、学ぶべき点が多い。

 米韓関係は、今や風前のともし火。アメリカは、韓国に、イラク派兵を要請したが、あれこれ
理由をつけて、ノラリクラリ。そこで昨日(5・17)、アメリカは、在韓米軍を、そのままイラクへ
移動することを決めた。その数、3500名以上。事実上の、韓国からの撤退である。

 これに対して、韓国経済は、敏感に反応した。株価は急落。土日をはさんで、一日で、6%前
後の、大暴落となった。「ブラックマンデー再来か」「最近の株価暴落基調は、通貨危機以来最
大規模」と、韓国の朝鮮日報は、書いている。

 理由は、アメリカ軍の撤退というよりは、撤退にともなう、社会不安。そして外資の逃避であ
る。昨日は、たった一日で、3兆ウオンの外資が、韓国から逃避したという。日本円にすれば、
3000億円程度だが、韓国の経済規模にすれば、かなり大きな痛手。

 つまりこうした状態になることが、K国の望むところである。そこで今日(5・18)、K国は、韓
国に向って、矢継(つ)ぎばやに、「韓国の、イラク派兵に反対する声明」を発表している。

 朝鮮日報は、「北朝鮮は各種の社会団体名義の談話を相次いで発表、派兵撤回を繰り返し
促している」と題して、つぎのように書いている。 
 
 「18日、朝鮮中央放送によれば、朝鮮社会民主党中央委員会は17日、スポークスマン談話
を通じて『南朝鮮当局がイラクに派兵するのは、全朝鮮民族と世界の平和愛好人民の志向と
念願に逆行する行為』とし、派兵撤回を要求した」と。

 つまり(韓国の派兵に反対する)→(アメリカがますます韓国から離反する)→(K国にとって、
有利)、ということになる。あのK国が、「民族の平和」を口にするところが、どこか白々しい。
  
 実は、その点、今回の小泉首相のK国の再訪問することについて、一番、ショックを受けたの
が、韓国政府ではないか。表向きは、「大歓迎」と歌っているが、それはあくまでも表向き。内
心は、崖から、まっさかさまに、谷底に落とされたような気分と言ってもよい。

 というのも、今のノ政権は、日朝関係を、悪化させることによって、自分だけは、いい子ぶって
きた。自分の存在感を、内外にアピールしていた。つまり日本とK国の関係が悪くなればなる
ほど、韓国は、K国に対して存在感をアピールできるばかりではなく、とりあえずは、K国の攻
撃的野望を、韓国から日本へ、そらすことができる。

 だからK国を援助しながら、自分だけは、いい子でいようとした。

 が、そこへ日本が割って入ってきた。援助といっても、日本がK国に考えている援助は、規模
が違う。韓国がK国に対してしているような、1億円とか、トラック30台とか、そんなものではな
い。3000億円とか、7000億円とか、その程度の規模である。

 韓国としては、「そこまでしてもらっては困る」というのが、本音ではないのか。「大歓迎」と口
ではいいながら、K国が、経済的に立ちなおるようなことになれば、それこそ韓国にとっては、
一大事!

 実は、小泉首相というよりは、小泉政権は、そのあたりまで、読んでいるのではないかもしれ
ない。つまりこの秋のアメリカ大統領選挙では、ブッシュ大統領が敗れる。そうなれば、民主党
のケリー氏が大統領になる。

 日本の置かれた立場は、一挙に不安定化する。

 そこで今、日朝関係を、日本主導型にしたあと、K国の攻撃的野心を、日本から韓国にそら
す。そうなれば、反米、親北主義のノ政権を、窮地に立たせることができる。つまりもう少し、韓
国をして、現実に目を向けさせることができる。

 しかしもし、それが失敗すれば……。それこそ、日本は、たいへんなことになる。
 
 ……とまあ、私のようなものが、こんなことを心配しても、はじまらない。今朝、ワイフも、そう
言った。

 「あなたが心配しても、どうにもならないでしょう。考えるだけ、ムダよ」と。

 そう、それはわかっている。だがだからこそ、つまり私のような立場だからこそ、好き勝手なこ
とが書ける。一片でも地位や肩書きがあったら、こんなことは書けない。学校の教師でも、書け
ない。市議会の議員ですら、書けない。

 「だから私は、自由なのだ!」と叫んだところで、この話は、おしまい。実のところ、このとこ
ろ、どうせだれにも相手にされないことが、よくわかってきた。だからこうした国際問題について
書くのが、たいへんおっくうになってきた。ホント!


●生きる意味

 昨夜、犬のクッキーが死んだ。そのときは、それほどさみしいとは思わなかったが、今朝にな
って、クッキーの死が、ズシリと胸に響くようになった。

 晩年のクッキーは、いてもいなくても、わからないような存在だった。庭を走り回ることもなか
った。毎日、ほとんどの時間を、寝てすごしていた。名前を呼んでも、耳は聞こえない。目も見
えない。

 生ゴミ用に作った穴にも、よく落ちた。そんなクッキーである。

 それについて、ワイフに、「クッキーが生きてきた目的は何だったのかね?」と聞くと、ワイフ
は、こう言った。

 「クッキーはね、一度、死んでいたのよ」と。

 ワイフが話したことは、こんなことだった。

 二匹目の犬のハナが私の家にやってきたときのこと。すでにそのとき、クッキーは、毎日、寝
てばかりいた。いつ死んでもおかしくない状態だった。エサもほとんど食べなかった。

 しかし子犬でハナがやってきたとき、クッキーの様子は、一変した。まさに母親になって、ハナ
のめんどうを見始めた。

 動きも活発になった。エサも食べるようになった。そしてヒマを見つけては、ハナとじゃれあう
ようになった。

 そのことを思い出しながら、ワイフは、「クッキーには、クッキーの仕事があったのね」と。

 しかし、それだけではなかった。つまり、クッキーは、人間のペットとして、どこか意味のない
人生を送った。……と私は考えていた。クッキーの死の重さをどこかで感じながら、今朝まで、
そう考えていた。

 が、二男のホームページを見て、それがまちがっていたことを知った。二男は、自分のホー
ムページの中で、こう書いている。

+++++++++++++++++

【二男より】

家のクッキー(犬)がついに死んだそうだ。悲しい、という気持ちよりも、ありがとう、という気持
ちのほうが大きい。

僕が小さいときに買われてきた子犬だったが、中学、高校とほぼ毎日のように散歩に連れて
回った。家ではクッキーを散歩に連れて行くのは僕だけだったので、僕とクッキーは親密な仲
だったのだけれど、僕にとってクッキーはペット以上の存在だった。

親しい友人が少なかったせいもあって、クッキーはいつも僕の友達の代わりだった。学校で嫌
なことがあったときにはいつもより長い時間歩いて回った。 

K郎という近所に住む親友と夕暮れにいつも彼の犬のシェンをつれて2人、2匹で北の大平台
の開拓地へ毎日のように探検にいった。

僕の少年時代を象徴するような毎日の日課だった。時には2時間以上散歩することもあった。
いつも真っ暗になってから家に帰った。広い平野を歩き回ったり、まだだれも上ったことのない
ような崖を上ったり、建築中の建物や橋の内部を探検したりした。 

彼と話したことや、あのころ夢中になっていたことなど忘れがたい体験が、クッキーが死んだ
今、あらためて、いかに意味のあることだったのか思い知らされるようだ。

+++++++++++++++++ 

 二男には二男の思いがあったようだ。私は、それに気づかなかった。そう言えば、二男が心
のやさしい青年になったのは、そのクッキーのおかげだったかもしれない。今から思うと、そう
いう感じがする。

 私も、あなたも、そして私たちを包む、ありとあらゆる生き物も、それぞれがみな、生きる意味
と目的をもっている。生きる意味や目的のない生き物はいない。

 それに気づくかどうかということは別にして、「生きる」ということは、そういうことではないだろ
うか。

 クッキーの死を今、一度思いやりながら、改めて、自分の生きる意味と目的を考える。


●皇太子の発言

 今、日本の皇太子は、ヨーロッパを歴訪中。そしてその前、つまり皇太子が、日本をたつ前、
皇太子は、こう言った。「雅子は、まわりの人たちから、人格を否定されるようなことを言われ
た」と。

 そのためか、今、日本中が、大騒ぎ!

 宮内庁の官僚たちは、どうも、ことの本質がわかっていないようだ。「皇太子の真意をたしか
めてから……」と、さかんに発言している。しかしそういう(確かめる行為)そのものが、またま
た皇太子を苦しめることになる。官僚たちは、自分の立場を守ることしか考えていない。

 何も言わないで、だまって、反省する。どうして宮内庁の官僚たちは、そういうことができない
のか。私たちは、だれも、一人とて、宮内庁の官僚たちの意見など求めていない。


●立ち読み

 夕食後、1時間も休みがあると、私は、そのまま本屋へ行き、かたっ端から、本を立ち読みす
ることにしている。ほとんどは、雑誌。

 で、1時間もあれば、月刊雑誌だと、数冊。週刊誌だと、やはり数冊分は、読んでしまう。これ
は私の特技のようなもの。以前は、「現代」「諸君」という雑誌は、毎月欠かさず買っていた。週
刊誌は、「新潮」「文春」のほか、パソコン雑誌など、毎週2、3冊は買っていた。しかし今は、立
ち読みが多くなった。職業がら、書籍購入費は多い。毎月、3〜4万円は、使っている。

 今日も、その立ち読みをしてきた。

 まず、女性週刊誌。どの週刊誌も、雅子妃の記事をトップにぶつけていた。雅子妃の病気、
動向など。中には、「皇室離脱」という文字を載せている週刊誌もあったが、それには、驚い
た。マスコミも、かなり自由に天皇制の問題を論ずるようになってきたようだ。

 つぎに旅行雑誌。温泉や旅館の紹介。その旅館での料理など。「行きたいなア」と思いつつ、
どこか心が重い。「温泉に入って、のんびりと……」という、思いは、あまり起きてこなかった。

 そのあと、週刊誌を何冊かと、「現代」と「諸君」をざっと読みあさった。以前は、「SxxxO」とい
う月刊雑誌をよく買ったが、どこか右翼的? 左翼的なのも好きではないが、右翼的な記事
は、さらに私の肌にあわない。私は、自称、リベラリスト。

 こうした立ち読みによる情報収集は、とても重要なこと。いろいろな雑誌などに目を通すこと
によって、社会の動きや、その中での、自分の位置を知ることができる。そういう私が一番、恐
れるのは、偏向(へんこう)。

 昨日も、どこかの宗教団体の人たちが、私の家にやってきた。見るからに低劣、ノーブレイン
(失礼!)な人たちだった。そういう人たちが、私に説教し始めるから、たまらない。怒れるより
も先に、笑えてきた。

 彼らの話を聞きながら、「どうしてこうまで、人間は、一つの世界に固執できるのだろか」と、
むしろ、そちらのほうに興味をもった。が、同時にそれは、私がもっとも気をつけなければなら
ないことでもある。

 そのあと、一般書籍の販売コーナーを歩いてみた。相変わらず、新刊書が並んでいた。「売
れるのかなあ?」と思って、何冊かに目を通してみた。しかしあまり読みたい本は、なかった。
が、その中でも、一冊だけ、「彩色幕末時代の京都」という本が目にとまった。

 幕末にとられた京都の街や、その周辺の写真集である。それに淡い彩色がほどこしてあっ
た。

 その写真集を見ながら、「昔は昔で、懸命に生きていた人がいたのだなあ」と、へんに感心し
た。どこをどう見てそう感じたというわけではない。全体として、そう感じた。古い家々。粗末な
建物など。写真に写っている人たちは、みな素朴な表情をしていた。そういうものを見て、そう
感じた。

 もう一冊は、こんな長〜イ、タイトルの本。「自分を幸福にするより、他人を幸福にするほう
が、楽」(仮称)と。

 「なるほどな」と思いつつ、「本当にわかっていて、そう言っているのかな」と思った。著者は、
30代半ばの若い人のようだった。ペラペラと本をめくってみたが、軽いタッチの本で、あえて読
みたいとは思わなかった。

 いつかある出版社の編集長が、こう言ったのを覚えている。本のタイトルは、11文字がよ
い、と。「自分を幸福にするより、他人を幸福にするほうが、楽」という本では、句点を含める
と、24文字になる。そういうことを計算しながら、「少し長すぎる」と、思った。どうでもよいことだ
が……。

 あとは、子ども用の知恵ワークブックを一冊購入して、その本屋を出た。

 そうそう言い忘れたが、ただで立ち読みしようなどとは、考えてはいけない。たとえ安い本で
も、一冊は買うこと。これは立ち読みするものの、エチケットのようなものではないか。本屋に
対するエチケットというよりは、本を書いている人へのエチケットと考えたほうがよい。


●母親からの質問

 「最近、うちの子、どうでしょう?」という質問ほど、困るものはない。そう聞かれたら、教師
は、どう答えればよいのか。

 親は、そういう質問を、いわばあいさつがわりにしてくる。深い意味があって、聞いてくるので
はない。
 
 そこで私のばあい、すかさず、「おうちでは、どうですか?」と、聞きかえすことにしている。つ
まりそう聞きかえすことによって、その親が、どういった問題で、どの程度まで聞きたがってい
るか、さぐりを入れる。

 まちがっても、質問に答えて、「はあ、自閉症の傾向があります」「ADHD児の心配がありま
す」などと、言ってはいけない。それこそ、たいへんな問題になってしまう。

 同じように困るのが、きわめて漠然(ばくぜん)とした質問。

 「英語教育は必要でしょうか」「受験勉強はいつから始めたほうがいいでしょうか」など。とっさ
の立ち話のようにして、それをしてくる。ほかに、こんなのもある。

 「うちの子は、算数が苦手です。どうしたらいいでしょうか」
 「足し算の計算が遅いです。はやくできるようにするには、どうしたらいいでしょうか」と。

 が、中には、ムッとするような質問もある。

 「うちの子を、小学校へ入ったら、先生(=私)の教室か、K式算数教室のどちらかへ入れよ
うと思うのですが、どちらがいいですか」と。

 さらには、「体操教室で、指導の先生と相性があわないようです。どうしたらいいでしょうか」と
か、「K式算数教室では、ふつうだと思うのですが、この教室(=私の教室)では、どうもできが
よくありません。どうしてでしょうか」というのもある。

 最近、S市で小学生を相手に、算数教室を開いている、友人から、こんな話を聞いた。その
友人は、かなり怒っていた。

 ある母親、いわく。「私は、娘に、XX教室(=友人の教室)なんかやめて、進学塾へ行ったほ
うがいいと言っているのですが、娘は、どうしてもYY先生(=友人)のほうがいいと言っていま
す。どうしたらいいでしょうか?」と。

 この言葉には30年以上のキャリアをもつ友人でさえ、激怒した。「なんかとは何ですか! 失
礼でしょう!」と言って、電話を切ったという。そしてそのあとすぐ、その子どもには、私の教室
をやめてもらったという。

 ……少し頭が熱くなったようだ。

 しかし「現実」というのは、そういうもの。決して、美しい世界ではない。きれいな世界でもな
い。もちろん完成された世界でもない。その底流では、人間の、ドロドロとした欲望がウズを巻
いている。

 実は、今日もあった。何が、どうあったかは、ここには書けない。しかし、これだけは、ここに
書ける。

 今、この世界から、礼儀というものが、なくなりつつある。携帯電話からインターネットの時代
になって、さらにそれが加速されたように思う。言いたいことをズケズケと、単刀直入に話すの
が、当たり前のようになってきている。

 しかし私のような、どこか旧世代の人間には、どうにもこうにも、そうした風潮についていけな
い。リズムがあわない。実際、そういう言い方をされると、話してやろうと思ったことでも、のど
の奥で、ひかかって、止まってしまう。

 だからあとは、笑ってすます。「そうですねえ……」「私には、よくわかりませんので……」「ご
めんなさい……」と。こういういいかげんさも、ときとばあいには、必要なのかもしれない。


●子どもの内面化

 いかに、どの程度まで、相手の立場に立って、ものを考えることができるか……。それでその
子どもの人格の完成度を知ることができる。

 昨日、幼児(年長児)の作文指導をしていて、こんなことに気づいた。

+++++++++++++++

【用意するもの】

 A4大の紙と鉛筆

【導入】

 こんな話をして、子どもに聞かせる。

 「ヒロシ君が歩いていると、大きな池がありました。ヒロシ君は、その池のそばに行きました。
いつもお母さんが、『池のそばに行ってはダメ』と言っていましたが、ヒロシ君は、その言いつけ
を守りませんでした。

 ヒロシ君が、池のそばで遊んでいると、池の中から、大きなワニが出てきました。ヒロシ君
は、あやうく、そのワニに食べられてしまうところでした。

 あぶなかった!

 そこでヒロシ君は、こんなことを考えました。あとから来た人たちが、ワニに食べられないよう
に、池のそばに、立て札を立ててあげよう、と。それを読めば、みんな、池に近づかないように
なります。

 さて、ヒロシ君は、その立て札には、何と書けばいいでしょうか。その紙に書いてください」

【注意】

 書けない文字(ひらがななど)は、その場で教える。しかし文字だけ。
 どんな書き方をしても、黙っている。意味がわかれば、よしとする。
 書き終わるまで、何も言ってはいけない。ルールは、いっさい、無視。
 
++++++++++++++

 昨日も、12人の幼児について、立て札を書いてもらった。この時期、まだひらがなをよく書け
ない子どももいる。そういうときは、子どもの求めに応じて、文字の書き方を教える。

 で、何となく書き始めた子どもが、6人。書き方がわからず、もじもじしている子どもが、6人。

 5分前後で、一度、子どもたちの書いたものに目を通す。

 「池に入るな」
 「ワニがいる」
 「こちらへ来るな」などと書く子どもが、多い。

 そういう文章を読みながら、「どうして池に入ってはいけないの? 理由も書いてよ」「ワニが
いたら、どうなの? エサをあげろということかな?」などと、問いかけをしながら、子どもを誘導
していく。

 10分ほどしたところで、一人だけ、「この池にはワニがいます。あぶないから、近寄ってはい
けません」と書いた子どもがいた。

 作文力、表現力のある子どもということになる。が、私は、もう一つのことに気づいた。

 それが内面化、つまり精神の完成度である。

 「いかに、どの程度まで、相手の立場に立って、ものを考えることができるか」で、その子ども
の精神の完成度を知ることができる。

 このテスト問題は、一見、作文力の問題に見えるが、実際には、このテストを通して、その内
面化の完成度を知ることができる。この時期、まだ子どもたちは、たいへん自己中心的なもの
の考え方をする。

 「おかあさん、おとうさんへ、ワニがいました」と書いた子どもがいた。「この近くへ来るな。池
がある」と書いた子どももいた。

 しかしやがて年齢とともに、そういう自己中心性から離れて、やがて相手の立場でものを考え
ることができるようになる。一度、自分の視点を相手の立場の中に置くわけである。そして相手
の視点から、ものを考えて、立て札を書く。

 (もちろん内面化が遅れたり、完成しないまま、おとなになる人も少なくないが……。)

 私はこの指導をしながら、つまりは作文指導というのは、読む側の人の立場で書くことを指導
することだと知った。わかりやすく言えば、作文指導というのは、内面化の指導でもある、と。

 新しい指導法、ゲット!
(はやし浩司 作文指導 内面化 幼児の作文力)
(040519)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(175)

【インターネット・あれこれ】

●アクセス・カウンター

 ほとんどのホームページには、アクセスカウンターというのがついている。それによって、何
人の人が、そのホームページを見たかが、わかるようになっている。

 私も自分のホームページを開いたとき、その数日後には、アクセスカウンターをつけた。

 が、最初、どのページにそれをつけるかで、悩んだ。

 ふつうは、みなさん、トップページにつける。だれかが、そのホームページを開いたとたん、
(プラス1)がカウントされる。

 しかし私は、そのアクセスカウンターを、目次のページにつけた。目次につけておけば、ある
程度、私のホームページをしっかりと見てくれた人の数だけが、カウントされる。しかしトップペ
ージにつけておくと、さっと来て、さっと出て行ったような人までカウントされてしまう。

 で、それから3年。毎年、ちょうど1万人前後の人が、その目次まで来てくれる。が、今でも、
ときどき、ふと迷う。

 「目次を素どおりして、あちこちを読んでくれる人もいるかもしれない」と。つまりそういう人の
数は、カウントされない。「やはり、トップページにつけるべきだったのか?」と。

 ところが、である。

 最近、R社の無料ホームページ・サービスで開いているホームページだが、そのホームペー
ジが、どこかのバカによって、攻撃されている。「攻撃」といっても、いたずらに近いものだが、
そのホームページのアクセス数だけが、異常に、ふえていく。一時間に、10〜40回とか。真夜
中でも、勝手にふえていく。

 R社のホームページでは、アクセスした人を、逆追跡できるようになっている。つまりだれが、
私のホームページを見たかが、ある程度、わかるしくみになっている。

 パソコン会社のN社に問いあわせると、「そういう攻撃もあります」とのこと。つまり一つのホー
ムページに、繰りかえしアクセスすることによって、そのホームページの機能を、じゃましようと
するものらしい。(専門的には、よくわからないが……。)

 となると、やはりアクセスカウンターは、トップページ以外のところにつけたほうが、よいという
ことになる。こうした意味のないアクセスは、無視することができる。

 中には、各ページごとにアクセスカウンターをつける人もいるという。が、ここでまたまた、ハタ
と考えてしまう。

 たとえば私は、ここで、「毎年、1万人前後の人がアクセスしてくれる」と書いた。しかしその「1
万人」という数字に、少しも実感がともなわない。「1万人かア?」と思ってみたり、「1万人ね
エ?」と思ってみたりする。

 やがて、こうした数字など、どうでもよいことを知った。はっきり言えば、意味がない。「多いほ
どいい」という人もいるが、では、どの程度を多いというのか。どの程度を、少ないというのか。
その尺度さえない。

 テレビや新聞とは、その点、大きくちがう。アクセス数が、仮に数十万件になったとしても、そ
れほど私の知名度があがるとは、思われない。またそれによる利益も、ほとんどない。

 現に今、アクセス数が、3万件を超えたが、利益という利益は、まったくない。質問や相談件
数は、目だって多くなったが、そういう意味では、かえって忙しくなっただけかも?

 だから当初は、毎日のようにアクセスカウンターをのぞいていたが、今は、もう見ない。見て
も、数字を頭に残さない。はっきり言えば、もうどうでもよい。

 しかし私のホームページなどに、執拗にアクセスを繰りかえして、それがどうだというのか。今
日も、どこかのバカが、バカなことをしている。ごくろうさま!

【追記】

 インターネットの世界は、もともとそういう世界であることを知った上で、つきあうしかない。

 電子と光の世界。分子の世界ではない。私も最初は、そうしたいたずらや攻撃があるたび
に、不愉快な気分になった。相手を見つけて、たたきのめしたい気分になった。しかし今は、無
視。ただひたすら無視。

 メールについて言えば、即、削除。そして忘れる。ホームページのカウンター数については、
道路を走る車の数のようなもの。ときどき見ることはあっても、その場で忘れる。記憶に残さな
い。

 ウィルスについては、万全の対策を講ずるしかない。しかし今では、対策さえしっかりとしてお
けば、まず侵入されることはない。大切なことは、「?」なメールは、即、フィルター(送信者禁止
処理)をかけたあと、削除。また削除。ただひたすら削除。あとは忘れる。


●息子たちの所在

 まず、おかしな電話がかかってくる。「○○さん(=私の息子の一人)は、いますか?」と。

 電話の内容はそれだけ。そういうとき、私やワイフは、一応、「どちらさんですか?」と聞く。す
ると相手は、また「○○さんは、いますか?」と。

 そこで私やワイフは、「今、こちらには住んでいませんけど……」と答える。が、そこで電話は
切れる。

 おかしいというより、まったくもって、不可解。目的がわからない。失礼といえば、これほど、失
礼な電話もない。が、なぜ、相手は、そんな電話をかけてくるのか?

 が、実は、ちゃんと、目的がある。

 それからたいてい2、3週間もすると、今度は、「債権回収機構」と名乗る、あやしげな団体
(?)から、ハガキや手紙が届く。

 「○○氏(=私の息子の一人)の、債権を回収します。つきましては、至急090−xxxxxまで
電話されたし。電話がないばあいには、貴殿の給与などを、強制的に差し押さえます」と。

 もうおわかりのことと思う。

 先の電話は、私の息子が、実在の人物かどうか確かめるためのもの。恐らく何かの名簿か
ら、名前を拾っているのだろう。

 つぎに、その息子が現在、同居していないことを確かめる。同居していれば、こうしたインチ
キは、すぐバレる。電話で、「いますか?」と聞いてくるのは、そのためと考えてよい。

 が、同居していないとなれば、親は、そのハガキや手紙を読んで、あわてる。「息子が、どこ
かで借金でもしたのか! たいへんだア!」と。

 が、それこそ、相手の思うツボ。あわてた親は、そのインチキ会社に電話をかける。「何の借
金ですか?」と。親がそう聞くと、たとえば、「インターネットの有料サイトにアクセスしたが、その
料金が未払いになっている。金額は2万xxxx円。至急、YY銀行のzzzzまで、振り込んでほし
い」と答えたりする。

今どきの若者で、スケベサイトを見ていない若者はいない。この手法は、オレオレ詐欺と、よく
似ている。額も、それほど、たいしたことない。「それくらいの額なら……」と、親も振り込んでし
まう。

 しかし、である。だいたい現在の民事訴訟法では、こうした債権の回収法は、認められていな
い。もちろん強制執行などありえない。絶対にありえない。するにしても、間に裁判所や簡易裁
判所が入って、いくつかの法的手続きを経る。

 しかしよくもまあ、こういう新手のサギを、つぎからつぎへと考える人がいるものだ。驚くと同
時に、あきれる。ホント!

 そこでみなさんへ!

 こうしたおかしなハガキや手紙が届いたら、一応、つぎのことは確かめたほうがよい。(確か
めるまでもないが……。)

( )所在地(住所)がしっかりと明記してあるか。(たいていは、マンション名か、「?」な住所に
なっているはず。)
( )電話番号はどうか。(たいていは、携帯電話番号になっているはず。)
( )債権額が、具体的に、XX万円と、明記してあるか。(たいていは金額が書いてない。電話
をかけてきたら、教えると書いてある。)
( )債務となった原因(理由)が書いてあるか。(何にもとづく債務か、たいてはそれが書いてな
い。これも電話をかけてきたら、教えると書いてある。)
( )代表者名が書いてあるか。(ふつうは書いてない。あっても架空名か偽名。)
( )裁判所の介入が明記してあるか。(書いてあるわけがない。裁判所からのものであれば、
裁判所からの配達証明付き郵便になっているはず。)

 これらの項目について当てはまれば、100%インチキと判断して、無視する。その電話番号
に電話したりしない。電話をすると、番号が相手にわかってしまい、かえってやっかいなことに
なる。

 一応証拠として、そうしたハガキや手紙は、保存しておく。あとはひたすら無視。

 そこでワイフとこう話しあった。「これから先、そういう電話がかかってきたら、『そういう名前
の人は、うちの家族にいません』と答えることにしよう」と。どうやら、それが正解のようである。

【追記・強制執行】

 ついでに、強制執行に至るまでには、つぎのような手続きと、過程を経る。

(1)債権者は債務者に対して、裁判所に、支払い命令書(これを「支払い命令」という)を出して
もらう。

(2)受け取った側(債務者側)は、2週間以内に、裁判所に対して、異義があれば、異義の申し
立てをする。

(3)その異義申し立てがなければ、債権者は、30日以内に、仮執行宣言を、裁判所に出して
もらう。相手方(債務者)が異義を申し立てれば、審理(裁判もしくは調停)へと進む。

(4)この仮執行宣言をしたあと、相手方(債務者)は、さらに2週間以内に、異義があれば、異
義の申し立てをする。

(5)異義がなければ、仮執行宣言は確定され、本裁判の判決と同じ効力をもつようになる。

(6)強制執行が執行されるのは、そのあとのことである。これらの命令書は、すべて配達証明
付郵便で、かつ、裁判所を経由する。

 わかりやすく書くと、つぎのようになる。

(支払い命令)→2週間→(仮執行宣言付支払い命令)→2週間→(仮執行宣言の確定)

 個人(債権者)が相手(債務者)に対して、ハガキや手紙で、債権回収の通告状を出し、それ
をもとに裁判所が、強制執行するなどということは、ありえない。

 こうした詐欺は、相手に恐怖心をもたせるということで、詐欺の中でも、悪質。そういう督促状
は、無視して、堂々としていればよい。所在を明らかにせず、債権額も原因も明らかにせず、
かつ連絡先に携帯電話番号を使うのは、インチキ会社が、逃げ足をはやくするためである。

 もし弁護氏名で督促状が来たら、(そういうことはありえないが……)、地元の弁護士会に相
談するとよい。ほとんどは、偽名か無断借用。そう考えてよい。


●新聞VSインターネット

 以前、こんな人がいた。パソコンショップで働く店員で、年齢は、30歳くらいだった。いわく、
「ぼくは、新聞をとっていません」と。そこで私が「ニュースは?」と聞くと、「みんな、インターネッ
トで読んでいます」と。

 もう6年ほど前のことである。

 私はその話を聞いて、奇異な感じがした。「毎日、新聞を読まない」という行為そのものが、
信じられなかった。

 しかし、である。それから6年。その私も、新聞を読む時間が、ぐんと少なくなった。ほとんど
のニュースは、インターネットで手に入れている。あとで新聞を読むこともあるが、それはとくに
関心をもったニュースだけである。あのときの、あの店員ほどではないが、しかしその店員に
近づきつつある。

 私も、そのうち、新聞を読まなくなるかもしれない。

 で、インターネットの先進国のアメリカはどうかというと、新聞は、一応、健在である。がんばっ
ている。(あくまでも私の個人的な印象だが……。)

 しかし日本のような新聞配達システムはない。あちこちに自動販売機があり、みなは、そこで
新聞を買っている。といっても、新聞を読まない人も、多い。以前とくらべれば、はるかの多い
のでは……? 具体的な根拠はないが、そう感ずる。

 この日本でも、事情は、同じ。

 私の地元のC新聞にせよ、S新聞にせよ、ここ5、6年前から、発行部数は、頭打ちの状態に
なったあと、急速に減少傾向にあると聞いている。そのうち新聞を購読する人は、インターネッ
トをしていない人だけという時代になるのかもしれない。

 私も、まず起きると、新聞を開く前に、まず、パソコンに電源を入れる。メールなどにひと通り
目を通したあと、IE(インターネット・エクスプローラー)で、あちこちのニュースを読む。今では、
こうしたニュースを無料で提供している会社が、数多く、ある。たしかに新聞を読まなくなった。

 いや、それ以上に、テレビを見なくなった。10年ほど前は、毎朝、1〜2時間はテレビを見て
いたような気もするが、今は、見ない。夜も、似たようなものだ。

 これから先、インターネットの普及で、私たちの生活は、どんどんと変っていくだろう。ここに
書いた、新聞やテレビの世界は、とくにそうだ。

 で、あえて提言するなら、こういうことになる。

 あちこちの新聞社では、生き残りをかけた、壮絶なまで読者拡大キャンペーンを展開してい
る。その気持ちはわからないでもないが、未来的に考えれば、新聞に勝ち目はない。

 森林資源のムダ。印刷のムダ。時間のムダ……とつづく。一方、インターネットは、紙を使わ
ない。印刷しなくてもよい。それに瞬時。

 だから「生き残ろう」と思うのではなく、つまりインターネットに対抗しようと思うのではなく、「イ
ンターネットでは、何ができないか」を模索したほうがよい。テレビも同じ。その(できない部分)
を、新聞やテレビが補う。分野は狭いかもしれないが、生き残るためには、それしかないので
は……?


●記録が残る

 インターネットの利点は、ほかにもたくさんある。

 自分でしてみて気づいたのは、まず、地域感覚がないということ。30年ほど前、あるパソコン
ソフト開発会社が、北海道の札幌市で生まれた。北海道である。

 H社という会社で、今でいうカルクのハシリのようなものを開発していた。私は、それを買っ
て、自分で使ってみた。当時、この浜松市でも、パソコンをもっている人は少なく、東京の大手
の出版社の編集長が、わざわざ見にきたほどである。

 が、まだ「北海道」という地域に、みなが、どこか違和感を覚えていた。「どうして北海道の会
社が?」という雰囲気だった。

 が、今は、もうない。北海道だろうが九州だろうが、インターネット上では、どこも同じ。もちろ
んハンディキャップもない。「東京でなければ……」という理由は、もうない。東京にこだわらな
ければならない理由も、ない。

 つぎに自分の記録を、長く残せる。

 雑誌や新聞はもちろんのこと、本にしても、それほど命は長くない。長くても数年もすれば、
忘れ去られてしまう。

 しかしインターネットでは、その気にさえなれば、自分が生きているかぎり、記録として残すこ
とができる。とくにホームページのほうでは、そうだ。

 もちろん、ぼう大な情報に埋もれてしまうということは、ある。しかし細く、長く、残すことはでき
る。

 ほかにもいろいろ利点はあるが、私のばあい、とくにこの二つの利点が、魅力的である。地
方都市の浜松市に住んでいると、不便なことは多い。たとえばこの浜松市には、全国的な出版
社は、一社もない。全国的な雑誌社や新聞社もない。

 が、インターネットでは、全国に向けて、自分の意見や考えを発信できる。その気にさえなれ
ば、全世界に向けてでさえ、できる。バンザーイ!

【終わりに……】

 インターネットには、いろいろ問題点もある。しかし私は、こうした問題点は、文明の黎明期
(れいめいき)によくありがちな、混乱のようなものではないかと思っている。

 やがてすぐ、こうした問題点は、解決されるだろう。そしてそれ以上に、インターネットは、もっ
と大きな可能性を秘めている。私はその可能性のほうを、信じている。明日にでも、ひょっとし
たら、今日まで、だれも思いつかなかったようなことが、起きるかもしれない。

 そうした未来に対して、ワクワクするか、ビクビクするかは、人それぞれだろうが、私は、ワク
ワクしている。
(040519)
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(176)

【子どもの人権】

●電話機を横取りした母親

 「子どもの人権」と、言葉で言ってもわかりにくい。しかし、親子の場合、外から、観察している
と、(それ)がわかることがある。こんなことがあった。

 ある家に電話がかかってきた。その電話を、その家の子ども(5歳、男児)が受けた。電話
は、母親の兄、つまり伯父からのものだった。

 その子どもは、時間にすれば30秒足らずだが、伯父とあれこれ話し始めた。多分「どうだ?
 元気か? またうちに遊びにおいでよ」「うん、わかった。今度、行くからね……」というような
会話をしていたのだと思う。

 そこでその子どもの母親が、やってきた。電話のベルの音は聞いていたが、そのとき何かの
ことで、手が放せなかった。で、電話機のところへくると、息子が、だれかと話しているのがわ
かった……。

 そのときの状況を、あなたも頭の中で思い浮かべてみてほしい。あなたの子どもが、今、だ
れかとどこか楽しそうに電話で話をしている。そこへあなたがやってきた。そういう状況である。

(1)そのとき、あなたは、子どもが電話をしているのを、静かに見守るだろうか。
(2)あるいは、様子を見て、電話をかわってもらうだろうか。
(3)子どもに横から、小さな声で、「だれから?」と聞くだろうか。

 たいていの親は、(1)〜(3)の範囲での行動をする。しかし、である。その母親は、ウムを言
わせず、子どもから受話器をさっと横取りし、そのまま受話器に耳をつけた!

 そして瞬間、相手がその声から、自分の兄(=子どもの伯父)とわかると、「あら、兄さん? 
元気?」と。

 そのときの模様を、そのときの男性、つまり伯父は、こう言った。「突然、子どもの声から、妹
の声にかわったので、びっくりしました」と。

 もうおわかりのことかと思う。

(4)親によっては、強引に受話器を奪い、今度は、自分で話し始める、というのもある。

 そういう親もいる。そしてそういう親は、子どもの人権をまったく認めていないことが、わかる。
こうした行為を通して、わかる。

 ここまでひどくないにしても(失礼!)、似たようなケースは多い。

 一般的には、「私の子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語する親ほど、あぶない。
たしかにある一面はそうかもしれないが、そういう傲慢さの中で、見失うものも、多い。が、それ
だけではすまない。

 子どもの人権を無視すれば、その親自身が、いつかそのシッペ返しを受けることになる。こう
した人権、それにまつわる人権意識は、相互的なものだからである。

 あなたがいつか老人になって、立場が逆になったときのことを、少しだけ、思い浮かべてみれ
ばよい。そのとき、逆の立場で、あなたは子どもに、同じことをされるかもしれない。

 あるいは、こんなことも考えられる。

 あなたが子どもの人権を無視すれば、今度は、あなたの子どもが、あなたの孫に対して、そ
うする可能性は極めて高くなる。そのとき、あなたが、つまりあなたの子どもが、あなたの孫に
対して、同じような行為をしているのを見て、「しまった!」と思っても、そのときは、もう遅い。

 こうした意識は、親から子へと、そのまま伝播(でんぱ)する。……しやすい。

●子どもの人権を守る

 子どもの人権を守るということは、いつも、子どもを、あなたと同じ、一人の人間としてみるこ
とをいう。

 たとえばあなたが、今、だれかと電話をしていたとする。そのとき、あなたの親がそこへやっ
てきて、ウムを言わせず、受話器をさっと横取りしたとする。そのとき、あなたは、それに耐えら
れるだろうか。つまりそういう親の行為を、あなたは許すことができるだろうか。

 実は、こうした人権無視の行為は、決して少なくない。日本人の親たちは、ある意味で、日常
的に、子どもの人権を無視している?

 子どもの意思や方向性などおかまいなしに、英語教室や体操教室へ入れてしまう親。反対
に、子どもの意思や先生とのつながりなど、おかまいなしに、そうした教室をやめさせてしまう
親。

 塾からもらってきた成績表を見ながら、「こんなことでは、A中学へ入れないでしょ!」と怒鳴
る親。疲れて休んでいる子どもに向かって、「宿題をしなさい」と叱る親。

 親に反抗したとき、「この家から、出て行け」と叫ぶ親。結婚して、別居するようになった子ど
もに向かって、「親を捨てるのか。親不孝もの!」と叱る親。

 子どもに向かって、「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」と恩を着せる
親。

 親に口ごたえしただけで、「あんたは、だれのおかげでピアノがひけるようになったか、それ
がわかっているの! お母さんが、高い月謝を払って、音楽教室へ連れていってやったから
よ」と叱る親、などなど。

 こうした親たちに共通するのは、悪玉親意識だが、その悪玉親意識の背後にあるのが、「子
どもは私のモノ」という、「モノ意識」である。つまり子どもを、一人の人間として見とめていない。
それが転じて、こうした行動や言葉になる。

 総じてみれば、日本の歴史を振りかえっても、日本人は、子どもの人権を認めるような子育
てをしていない。そういう土壌そのものが、ない。たいていの日本人は、ひょっとしたら、この文
章を読んでいるあなたも、それに気づいていない。

 子育てというのはそういうもので、一つの風土の中で、代々と繰りかえされる。つまり、あなた
自身も、自分が受けた子育てを、そのまま繰りかえしている。だから自分の子育てが見えな
い。

 もう少し、別の角度から、この問題を考えてみよう。

●庭のスズメたち

 私は子どものころから、鳥が好きだった。鳥というより、(飛ぶもの)は、何でも好きだった。

 そのせいか、高校1年の終わりから、ごく最近まで、欠かすことなく、ずっと手乗り文鳥を飼っ
ていた。またその間にも、ハトを飼ったり、インコを飼ったりした。ハトも、一時は、15羽前後に
もなった。文鳥も、20羽くらいになった。

 しかし、そういった鳥を飼うのは、たいへんなこと。小屋も大きなものになる。エサの量も、バ
カにならない。少し油断すると、エサや水を切らしてしまう。鳥を殺してしまう。

 家の中で飼うのとはちがって、外で飼うと、世話もたいへん。冬になると、ビニールをかけて
やったり、またその時期になると、小屋の中に、さらに巣箱を用意してやらねばならなかった。
が、ハトは、ネコに。文鳥は、ヘビに、それぞれ全滅させられてしまった。

 それを機会に、ハトや文鳥を飼うのはやめた。

 そして今は、庭に、鳥のエサをまくようにしている。ハトには、ハト用のエサを。スズメなどの小
鳥には、小鳥用のエサをまいている。

 とくに正月から2月にかけての、エサの枯渇期には、ほとんど毎日、欠かさず、エサをまいて
いる。それに5月前後の、子育て期にも。

 しかしときどきエサをまくのを忘れる。エサを買い忘れることもある。しかし小屋で飼っている
ときとちがい、実に気楽なもの。庭へやってきて、エサがないと知ると、どこか残念そうな雰囲
気で、飛び去っていく小鳥たちを見ても、それほど、気がとがめない。

 が、(鳥)というものをみたとき、小屋の中の鳥は、どこか穏やか。静か。やさしい。しかし庭
へエサを食べにくる鳥は、どこか野生的(当然だが!)。騒々しい。たくましい。

 私は、あるとき、子育ても、それに似ていると思った。つまり、子育てにも、小屋の中で、エサ
や水も与え、安全が確保された中で、子育てするような子育てがある。一方、庭で、まあ、必要
なときだけめんどうをみて、あとは、鳥たち自身のもつ生命力に任せて、子育てするような子育
てもある。

 小屋の中で育てるような子育てというのは、子どもに必要なことは、すべて親のほうで用意し
てやるような子育てをいう。庭の中で育てるような子育てというのは、必要なことはするが、そ
れ以上のことはしない子育てをいう。

 どちらがよいか悪いかと、そういうことではない。本来、子育てというのは、必要なことはする
が、それ以上のことはしない子育てをいう。小屋の中で、鳥を育てるということ自体、不自然。
まちがっている。一見、鳥にとって、住み心地のよい世界に見えるかもしれないが、鳥自身にと
ってはどうかというと、それはわからない。

 つまり、私は日本型の子育ては、全体としてみると、小屋の中で育てる子育てに似ていると
言っている。そしてそれは、結局は、子どもの人格や人権を踏みにじった子育てになっていると
言っている。

●子どもの人権を守るということ

 何でもかんでも、子どものために、お膳立てをしてやる……というのは、一見、子どものため
になっているようで、なっていない。子どもを大切にしているようで、していない。

 子どもを育てるということは、子どもを自立させること。それが子育ての最終目標であり、子
育ては、子どもが自立したとき、完成する。

 そういう視点に立つなら、子どもに依存心をもたせたり、そのため、子どもを自立できないひ
弱な子どもにしてしまったというのであれば、まさに子育ての失敗ということになる。よく子ども
が受験に失敗したり、非行に走ったりすると、「子育てで失敗しました」と言う親がいる。しかし
そんなのは、失敗でも何でもない。

 「子育ての失敗」という言葉は、子どもを、自立できない子どもにしたときに使う。ベタベタの
依存性をもたせ、ひ弱な子どもにしたときに使う。

 では、どうするか、という問題になるが、その前に、どうしても考えておかねばならないことが
ある。

 それは子育てというより、あなた自身のことである。つまりあなた自身は、どういう子育てを受
けているかという問題である。

 実は、この問題は、先にも書いたように、親から子どもへと、伝播しやすい。言いかえると、あ
なた自身が、小屋の中でエサを与えられような環境で育てられていたばあい、あなたは、無意
識のうちにも、それを今、繰りかえしている可能性がある。

 もっと、はっきり言えば、あなた自身が、自立できない親である可能性が高いということ。もし
そうなら、子どもの自立など、望むべきもない。

 そんなわけで、子どもの自立は、結局は、親の自立ということになる。……といっても、この話
を書き始めたら、先が長くなってしまうので、ここまでにする。だから今は、前提として、あなた
自身が、自立した親であると考えて、話を進める。

 子どもの人権を守るということは、子どもを一人の人間として認めること。これは先に書いた
が、では一人の人間とは何かということになると、自立した人間ということになる。一見、バラバ
ラな話に聞こえるかもしれないが、人権を認められてはじめて、子どもは自立することができ
る。一方、自立した人間というのは、人権をしっかりと認められた人間をいう。

 そのことを、イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受賞者でもあるバートランド・ラッセ
ル(一八七二〜一九七〇)は、端的に、つぎのように言っている。

 「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、
決して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられ
る」と。

 「必要なことはする。しかし限度を超えていけない」と。つまり、それが子どもの人権を守る方
法であり、同時に、子どもを自立させる方法である、と。

 日本では、「親子の縁は絶対」とか、「親子の縁は切れない」とか言って、親子関係を、ほか
の人間関係と切り離して、特別視する傾向が、たいへん強い。しかし親子といっても、つきつめ
れば、純然たる人間関係で成りたっている。たまたまその子どもが、その親から生まれたとい
うだけにすぎない。しかも生まれてみたら、そこにその親がいたというに、すぎない。

 きびしいことを言うようだが、親は、親であるという立場に、決して甘えてはいけないというこ
と。と、同時に、子どもに向かって、「あなたは私の子どもだから」という、『ダカラ論』を、安易に
振りまわしてはいけないということ。

 それをすればするほど、あなたは、子どもの人権を、踏みにじることになる。子どもを自立で
きない、ひ弱な子どもにしてしまう。それがわからなければ、冒頭に書いた話を思い出してみる
とよい。

 あなたは、子どもが受けた電話を、さっと横取りするようなことはしていないだろうか。子ども
の人権を、踏みにじるようなことをしていないだろうか。もしそうなら、なぜそういうことが平気で
できるのか、少しだけ、反省してみたらよい。でないと、あなたの子どもは、自立できない子ども
になってしまう。子育てで、失敗することになってしまう。
(040520)

++++++++++++++++

以前、書いた原稿より

++++++++++++++++

●子どもを一人の人間としてみる
 
子どもを一人の人間としてみるかどうか。その違いは、子育てのし方そのものの違いとなって
あらわれる。

 子どもを半人前の、つまり未熟で未完成な人間とみる人……子どもに対する親意識が強くな
り、命令口調が多くなる。反対に、子どもを甘やかす、子どもに楽をさせることが、親の愛と誤
解する。子どもの人格を無視する。

ある女性(六五歳)は孫(五歳)にこう言っていた。「おばあちゃんが、このお菓子を買ってあげ
たとわかると、パパやママに叱られるから、パパやママには内緒だよ」と。あるいは最近遊びに
こなくなった孫(小四女児)に、こう電話していた女性もいた。「遊びにおいでよ。お小遣いもあ
げるし、ほしいものを買ってあげるから」と。

 子どもを大切にするということは、子どもを一人の人間、もっといえば一人の人格者と認める
こと。たしかに子どもは未熟で未完成だが、それを除けば、おとなとどこも違はない。そういう
視点で、子どもをみる。育てる。

 こうした見方の違いは、あらゆる面に影響を与える。ここでいう命令は、そのまま命令と服従
の関係になる。命令が多くなればなるほど、子どもは服従的になり、その服従的になった分だ
け、子どもの自立は遅れる。

また甘やかしはそのまま、子どもをスポイルする。日本的に言えば、子どもをドラ息子、ドラ娘
にする。が、それだけではない。

子どもを子どもあつかいすればするほど、その分、人格の核形成が遅れる。「この子はこういう
子だ」というつかみどろころのことを、「核」というが、そのつかみどころ.がわかりにくくなる。教
える側からすると、「何を考えているかわからない子」という感じになる。

そして全体として幼児性が持続し、いつまでもどこか幼稚ぽくなる。わかりやすく言えば、おとな
になりきれないまま、おとなになる。このことはたとえば同年齢の高校生をくらべてみるとわか
る。たとえばフランス人の高校生と、日本人の高校生は、まるでおとなと子どもほどの違いがあ
る。

 昔から日本では、「女、子ども」という言い方をして、女性と子どもは別格にあつかってきた。
「別格」と言えば、聞こえはよいが実際には、人格を否定してきた。

女性は戦後、その地位を確立したが、子どもだけはそのまま取り残された。が、問題はここで
終わるわけではない。こうして子どもあつかいを受けた子どもも、やがておとなになり、親にな
る。そして今度は自分が受けた子育てと同じことを、つぎの世代で繰り返す。こうしていつまで
も世代連鎖はつづく……。

 この連鎖を断ち切るかどうかは、つまるところそれぞれの親の問題ということになる。もっと
言えば、切るかどうかはあなたの問題。今のままでよいと思うなら、それはそれでよいし、そう
であってはいけないと思うなら、切ればよい。しかしこれだけは言える。

日本型の子育て観は、決して世界の標準ではないということ。少なくとも、子どもを自立させる
という意味では、いろいろと問題がある。それがわかってほしかった。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(177)

●考えてから書く

消しゴム中毒の子どもは、少なくない。ざっとみても、10人のうち、3〜4人はいる(小学校の
高学年児)。

 このタイプの子どもは、(考えてから、書く)のではなく、(一応、書いてみてから、考える)とい
った、様子を見せる。

 そういうクセが身についてしまっている。

 だから1時間も勉強すると、机の上や下は、消しゴムのカスだらけ。山のようになることもあ
る。

 もちろん時間のロスも大きい。テストなどのように、時間が限られている勉強では、決定的に
不利。当然のことである!

 仮に、1分間の間に、2〜3回、消しゴムを使ったとする。一回に、5秒前後使ったとして計算
すると、50分のテストの間、何と、約10〜15分間は、消しゴムを使うことになる。(これでも少
ないほうだが……。)

 50−15=35分。つまりみなが、50分かかってするテストを、35分でしなければならないこ
とになる。

 こうした消しグセは、小学校へ入学する前後に身につく。そして一度、身につくと、以後、なお
すのが不可能。親や先生が見ているところでは、多少、使うのをひかえたりするが、しかしいつ
も、子どもを監視しているわけにはいかない。

 だから幼児期は、原則として、消しゴムは使わせないようにする。

 が、消しゴムの弊害は、それだけではない。

 消しゴムは、子どもから(考える力)そのものを、うばう。

 そこで消しゴムをよく使う子どもを観察してみると、(考えてから書く)のではなく、一応、適当
にまず、何かを書いてみて、それを見ながら、「こうかな?」「これでいいのかな?」とながめて
いるのが、わかる。

 つまり考えていない。

 その証拠というわけではないが、消しグセのある子どもから、消しゴムを取りあげてみると、
それがわかる。ちょうど麻薬の禁断症状に似た症状を示す。イライラしたり、ソワソワしたりし
て、勉強が、手につかないといったふうになる。

 そこであなたの子どもは、どうか?

 それを知るためには、1時間程度、子どもが勉強したあとをみればよい。机の上や下が、消
しゴムのカスだらけになっていれば、ここでいう消しゴム中毒を疑ってみる。

 あるいは、こんなテスト法がある。一度、家庭で、試してみるとよい。

(小学2〜3年レベル)

 下のような問題を、紙に書いて、「四角の中には、どんな記号(+−)を書けば、いいかな?」
と聞いてみてほしい。

 5□1□3□2=5

 このとき子どもが、どんな方法で考えるかを観察してみるとよい。(考えてから書く)クセのあ
る子どもは、頭の中で、あれこれ計算したあと、最後にサッと答を書く。(正解は、(+)(−)
(+)。)

 反対に、(書いてみてから考える)クセのある子どもは、適当に(+)(−)の記号を書いてみ
て、それを見ながら、「ちがうかな?」「こうかな?」というようなことを、口にする。

 もし後者のようなら、消しゴムをできるだけ使わせないようにする。……といっても、先にも書
いたように、一度身についた消しグセをなおすのは、容易なことではない。私の経験では、不
可能とさえ思っている。

 クセというのは、そういうもの。

 だから繰りかえす。幼児期には、消しゴムは、できるだけ使わせないほうがよい。はっきり言
えば、不要。

 もちろん手紙など、だれかに見てもらうものについては、きれいに、かつていねいに書かねば
ならない。そのときは、消しゴムを、使う。しかしそれはあくまでも、例外の場合と考えて指導す
る。
(はやし浩司 消しゴム 消しグセ)
(040521)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(178)

●消しゴム人生

 「消せば、なおる」という人生観がある。少しそれとはニュアンスがちがうかもしれないが、
昔、こんなことを言った日本の首相がいた。政界のある長老が死んだとき、「これでわたしのこ
と(=過去の弱み)を知る人物が、いなくなった。(だから、私の天下だ。)」と。

 私は、この「消せば、なおる」という人生観が、好きではない。子どもを教えていて、それを感
ずることがある。

 たとえばある子どもが、懸命に、ある問題に取り組んでいたとする。で、しばらく待っても、反
応がない。そこで私のほうが、声をかける。「○○君、それをもってきてくれないか?」と。

 そういうとき、それまで自分が書いた内容や答を、さっと消してしまう子どもがいる。消したあ
と、それをもってくる。

私「どうして、消したの?」
子「できなかったから……」
私「でも、どこまで考えたか、先生は、それが見たいんだよ。消してしまったら、それがわからな
くなってしまうよ」
子「先生が、怒るから……」
私「そんなことで、怒らないよ」と。

 日本語には、「白紙にもどす」という言い方がある。「もう一度、スタートからやりなおす」という
意味で、そう言う。時と場合によっては、それも必要だろう。しかしこと人生については、「白紙
にもどす」ということは、ありえない。

 ……と、ここまで書いて、私は、ハタとこの先を書けなくなってしまった。「本当にそうだろうか」
という思いと、「いや、人生でも、それは可能かもしれない」という思いが、複雑に交錯したため
である。

 私は今まで、「人生については、白紙にもどすということは、ありえない」と考えていた。それ
はある意味で、卑怯(ひきょう)な生き方だと思っていた。無責任な生き方をする人ほど、自分
の過去を安易に消してしまう、と。

 それに自分が残した人生など、消そうと思っても、消えるものではない。どんなめちゃめちゃ
で、ボロボロの人生であっても、それが「私」。「消す」ということは、そういう自分を否定すること
になる。消すくらいなら、まだめちゃめちゃで、ボロボロの人生のほうが、まし。

 その「消す」ことの最終的な方法が、「自殺」ということになる。もっとわかりやすく言えば、「消
せば、なおる」という人生観は、やがて、どこかで、「自殺」という考え方に結びつく? 少し考え
すぎかもしれないが、無関係とも思われない。

 そこで今、なぜ、私が、ハタとこの先を書けなくなってしまったかといえば、心のどこかで、自
殺に対する考え方が、少し変ってきたためかもしれない。もっとも、自殺したからといって、人生
が白紙にもどるわけではない。過去が消せるわけでもない。

(いや、過去を認識する私がいなくなるわけだから、少なくとも私については、過去は消える?)

 軽く、消しゴムについて書くつもりだったが、話が、どんどんと複雑になってしまった。だから、
この話は、ここまで。

 ただ一言。「消せば、なおる」という人生観は、好きではないということ。どうしてかわからない
が、好きではない。


●死後の世界

 死んだら、どうなるか? 私にもわからない。「死後の世界はある」と説く人もいるが、私自身
は、見たことがない。だから、信じない。

 死後の世界は、死んでからのお楽しみ。あればあるで、もうけもの。しかし今は、「ない」という
前提で生きている。あるかないかわからないものを前提にして、生きることはできない。

 それはたとえて言うなら、宝くじのようなもの。宝くじで当たるのをアテにして、借金をする人は
いない。家を建てる人はいない。それと同じ。

 ……というところまでは、以前にも書いた。ここでは、もう少し、先まで考えてみたい。

 理屈で考えれば、死後の世界など、あるはずもない。そのことは、脳梗塞か何かになった人
を見れば、わかる。脳の一部がダメージを受けて、運動能力はもちろん、人格そのものが変化
した人さえ、いる。

 その中でも、T氏(80歳・男性)は、記憶や判断力に合わせて、方向判断、位置判断ができな
くなってしまった。自分の家の中にいても、迷子になってしまうという。

 私はそのT氏を見ているとき、では「脳ミソが、前頭葉から順に、毎日少しずつ機能を停止し
たら、どうなるか」と考えたことがある。死というのは、短時間で、脳ミソが機能を停止すること
を意味する。しかし、毎日少しずつだったら、どうなるか、と。

 そのときは、「私」は、少しずつ、死後の世界に入ることになる。そして最後に、脳ミソ全体の
機能が停止したとき、「私」は、死後の世界に入ることになる。

 そこでT氏のばあい、方向判断と位置判断ができなくなってしまった。つまりその部分は、す
でに死んでしまったことになる。となると、その部分は、どこへ消えてしまったのかということに
なる。

 ……と考えていくと、「やはり死後の世界などない」ということになる。もっとはっきり言えば、
「ある」と思うのは、それを信じたい人たちの、思いこみにすぎない?

 「ある」と信ずれば、人は、死の恐怖から逃れることができる。「ある」と信ずれば、あとに残さ
れた人は、別離の孤独から逃れることができる。だからたがいに「ある」と信じて、支えあう。

 その死の恐怖や、別離の孤独を克服する方法がないのであれば、やはり死後の世界を信ず
るしかない。いや、方法はあるのかもしれないが、その方法を知るのは、容易なことではない。

 私もときどき、こう思う。「浩司、もうよせ。いくらお前ごときがあがいても、死を克服するなどと
いうことはありえない。真の自由を、手に入れることなど、ありえない」と。

 それはわかっている。だが、今、ここであきらめるわけにはいかない。まだ元気だし、頭も健
康(?)だ。だからもう少し、がんばってみる。だから今のところ、結論は、こうなる。

 「死後の世界はないという前提で、もう少し生きてみる。死後の世界は、あればあったで、もう
けもの。死んだときのお楽しみ」と。

【追記】

 私が死んだら、死後の世界にオキテを破って、霊界から、「霊界電子マガジン」を発行してや
る。そのため地獄に落ちても、かまわない。そういうオキテを作るほうが、まちがっている。そう
いう不条理と、とことん戦ってやる。

 しかし霊界マガジンは、決して、不可能ではない。

 今すぐ、私の脳ミソを、巨大なコンピュータか何かに、そっくりそのままコピーしてしまえばよ
い。そうすれば、私が死んだあとも、私にかわって、そのコンピュータが、私にかわって、ものを
考え、文章を書き、そしてマガジンを発行する。

 そのマガジンは、まさに「霊界電子マガジン」ということになる。考えるだけでも、楽しいではな
いか。やってみる価値は、ある。


【二男のつぶやき】

最近いろいろおもしろいことを耳にする。「君は日本人だから、野球がうまいんだろう。」とか、
「君は日本人だから、世界1バグの少ないプログラムを書くんだろう?」とかだ。そんなことは今
まで一度も聞いたことがないようなことを、よく聞かれる。 

 よく、「君は日本語がはなせるのか?」と聞かれることもある。昔は「こうやって英語が話せる
ことの10倍以上、上手にはなせる。」なんて返していたけど、このごろは「はなせるつもりだけ
ど……」なんて、頼りない答え方をしている。 

 時々、KZ宅へ夕食を共にする以外、日本語で会話をする機会がなくなってしまった。そのせ
いかどうか知らないけど、このごろ自分でも何言ってるのか、分からないような日本語を、しゃ
べっているような気がする。使わないと忘れる、というのは、とくに僕にとって真実だと思う。 

 あれだけ得意だった数学や物理学も、いまや基本的なことすらほとんど忘れてしまった。どう
せ続かないとは思うけれども、このごろ大学の時の教科書を開いて、忘れてしまったことを片っ
端から読みあさるようにしている。

ウォルフランっていう僕の好きな数学者が運営している(のかな?)サイトへも、よくいったりもし
ている。 

 でも、ぼくのアイデンティティーって、いったいどうなってしまったんだろうか? アーカンソー的
静岡県民? 日本人として、とかアジア人としての個性を忘れてはいけない、ってよく言われた
けど、いったいそれってどういうことなんだろう。

ぼくは誠司に「日本人として生きる意味」なんてことを教えられるか自身がない。どうせいつか
日本に住むこともあるだろうから、その時、誠司に周りから学んでもらえばいいのだろうか。 


【二男(宗市)へ……】

 言葉というのは、そして習慣というのは、そうは簡単には、忘れないよ。子どものころの記憶
は、おとなになってからの、数十万倍、あるいはそれ以上の密度をもって、記憶されるそうだ。
(数字では表現できないれどね……。)

 いつか日本へ帰ってきたら、数分、あるいは数時間で、もとにもどれるよ。ぼくも、今、ここで
美濃町弁を話せといわれてもできないけれど、美濃へ帰ったとたん、美濃町弁になるよ。美濃
を離れて、もう40年になるのに、ね。

 反対に、オーストラリア人の顔をみると、オーストラリア英語が、スラスラと出てくる。これも不
思議な現象だね。

 そういうものだよ。

 アイデンティティーの問題は、いろいろある。お前の言っているのは、民族的アイデンティティ
ーのことだろうと思う。しかし今は、もうあまりこだわらないで、前に進んだらいいよ。その結果、
何かが生まれたら、それがお前のアイデンティティーということになるよ。

 ぼくも、地域社会の中で、つまりこの浜松市という異郷の土地で、かなり苦労をした。しかしそ
ういうとき、晃子(ワイフ)から、別のアイデンティティーをもらった。ちょうど今のお前のように、
ね。

 で、そのうち、高校野球なんかでも、岐阜県出身のチームと、静岡県出身のチームが戦った
りしたようなとき、いつの間にか、静岡県のチームを応援するようになった。自分で、「ああ、ぼ
くは、静岡県人だ」と思うようになった。

 ぼくらは、人間。地球人。そういう視点でものを考えたらいいと思うけど、なかなかむずかしい
ね。この問題は……。

 まあ、あまり気負わないで、気楽に考えたらいいと思う。今では、世界は、本当に狭くなった。
そのうち英市がパイロットにでもなったら、あいつの飛行機に乗せてもらおうよ。機長の家族
は、みんなただで乗せてもらえるそうだ。(本当かどうかわからないが、英市は、そう言ってい
る。)

 そうなれば、もっと自由に、行き来できるしね。ぼくも、英市の操縦する飛行機なら、こわくな
いと思う。晃子も、そう言っている。「死んでも、本望だ」とね。ハハハ。

 誠司も、その年齢になったら、夏休みとか、そういうときに、日本へ送ってきな。めんどうをみ
るよ。

 TAKE IT EASY!

 こちらは、昨日、台風が去って、晴天。気持ちよく、晴れている。

 そうそう、『世にも不思議な留学記』の総集編ができたから、また見てよ。

http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/page195.html

だよ。

 ぼくの青春時代、そのもの。この年齢になるとわかると思うけど、青春時代は、決して、その
人の出発点ではないよ。その人の人生のゴールだよ。今、この『留学記』を読むと、本当に、そ
う思う。

 いつもすぐそこにあって、ぼくの心の中で、灯台のように、輝き、そして道を照らしてくれる。進
むべき道を、教えてくれる。それが青春時代だよ。

 では、奥さんのデニーズ、誠司によろしく。誠司のクロースアップの写真を、もっと、サイトに
載せてほしい。よろしくね。

パパより


●プラスのストローク
 
 子どもには、いつもプラスのストローク(前向きな賞賛、激励)を、かけていく。「あなたはすば
らしい」「どんどんすばらしくなる」「あなたはすばらしい人になる」と。

 とくに乳幼児期は、このプラスのストロークを大切にする。この時期、子どもは、ややうぬぼれ
気味のほうが、よい。「私はすばらしい」「ぼくはできる」という前向きな姿勢が、自らを伸ばす原
動力となる。

 まずいには、マイナスのストローク。「何をしても、あなたはダメね」式のマイナスのストローク
は、子どもの伸びる芽をつんでしまう。

 しかし、では、プラスのストロークばかりでよいかというと、そうでもない。

 で、最近、ある母親から、こんな相談を受けた。

 「うちの娘(小1)のことですが、負けず嫌いで、何かのことでつまずいたりすると、すぐメソメソ
泣き出します。学校でも、算数教室でもそうです。

 勉強は、よくできるのですが、自分で『できない』と思いこむと、とたんパニック状態になってし
まいます。どうしたらいいでしょうか」と。

 このタイプの子どもは、もともと完ぺき主義の子どもとみる。そのため、乱暴な人づきあいが
できない。優等生で、その上、頭もよい。が、その分、繊細(せんさい)な感覚をもっている。

 だから何かのことで、つまずいたりすると、それを脳の中で適切に処理できず、ここでいうよう
なパニック状態になる。たいていは、さめざめと声を震わせて泣く。

 で、なぜそうなるかということだが、ここでいうプラスのストロークしか知らない子どもほど、そ
うなりやすい。

 ここにも書いたように、もともと、できのよい子どもである。そのため、親も、ますますその子
どもに、プラスのストロークをかける。「あなたはすばらしいね」と。

 こうした親の言葉や環境の中で、このタイプの子どもは、自分はどうあるべきかを学んでい
く。またどうすれば、自分が、(いい子)でいられるかを、学んでいく。またそうすることが、自分
の立場をよくすることも知っている。居心地も、よい。

 だから逆に、マイナスのストロークに弱い。そしてそのマイナスのストロークを、自分の中で感
じてしまう。パニック状態になる前に、「できない……」「わからない……」というような、ひとり言
を繰りかえす。そのあと、突然、パニック状態になる。

 では、どうするか?

 一般的には、無視するという形で、対処する。泣いても、涙を出しても、無視する。あ程度は
説得したり、なだめたりしても、そのあとは、子ども自身に任す。いわゆる暖かい無視を繰りか
えす。教える側や、親が、あわててはいけない。「だいじょうぶだよ」という、やさしい声をかけ
て、すます。

 人間の社会は、完ぺきな社会とは、とても言いがたい。不完全な部分も多い。そういう世界に
なれさせていくのも、親の役目。親としてはつらいところかもしれないが、親は、ぐいとがまんす
る。子どもを決して、無菌状態にしてはいけない。また無菌状態が、よいというわけではない。

 一般的に、たくましい子どもというときには、精神面でタフな子どもをいう。くじけない、めげな
い、いじけない。そういう子どもを、たくましい子どもという。子どもは、キズまるけになりながら、
たくましくなっていく。キズつくことを、必要以上に恐れてはいけない。


●『世にも不思議な留学記』について

 青春時代は、人生のはじまりではない。
 青春時代は、人生の目標、そのもの。そのあとの人生は、その青春時代の燃えカスのような
もの。

 人は、その青春時代の燃えカスを、一つ一つ集めながら、そのあとの人生を生きていく。少な
くとも私にとっては、あのオーストラリアでの一年間は、そういう時代だった。

 留学して、ちょうど3か月目のときだったと思う。私はある朝、ベッドの中で目をさましたとき、
「まだ3か月しかたっていないのか」と、驚いたことがある。それまでの毎日は、一日を、日本に
いたころの1年分に感じた。

 これは決して、大げさな言い方ではない。本当にそう感じた。そして同時に、「まだこんな日々
が、9か月もつづくのか」と、驚いた。うれしかった。

 青春時代は、まさに人生の灯台、そのもの。私は日本へ帰ってきてから、いくつかのどん底
を経験した。

 しかしそのつど、私は、あの時代を思い出だすことで、誇り高く、それを乗り切ることができ
た。あの青春時代が、私の足元を照らし、行くべき道をさし示してくれた。

 今でも、ふとんの中で目を閉じると、あのころの自分に、そのままもどることができる。あの時
代は、私にとっては、遠い過去ではなく、つい昨日のこと。つい先日のこと。

 苦しいとき、悲しいとき、私は、いつも、オーストラリアのブッシュソングを口ずさむ。とたん、
胸の中に、熱いものがよみがえってくる。私にとって、あの時代は、そういう時代である。

 私は、『世にも不思議な留学記』を、サイトに載せた。あちこち少し、編集した。写真も載せ
た。

 しかし考えてみると、私は、この『留学記』を載せるために、サイトを開いた。さらに、この『留
学記』を書くために、今まで、無数の原稿を書いてきた。今から思うと、そんな感じがする。

 私にとっては、もっとも貴重な原稿である。つまりこの『留学記』は、私の青春時代そのもので
あると同時に、私自身そのものといっても過言ではない。

 青春時代は、決して、人生のはじまりではない。私たちは青春時代から巣立ち、いつか必
ず、その青春時代へともどっていく。そんな私の心を、この原稿の中に感じとってもらえれば、
うれしい。

【番外編】

●ジル

 私のガールフレンドだったジル(本名、ジリアン)については、私は、最終回のみで、触れた。
それにはいろいろ理由がある。

今のワイフにしても、あまり聞きたくない話かもしれない。私のワイフは、私の読者の中でも、も
っとも熱心な読者の一人である。その読者を、不愉快にはさせたくない。実際、結婚するとき、
私はジルの写真を、捨てた。どこかに残っていた写真も、ワイフが、私が知らない間に、すべて
捨てた。

 そんなわけで、ジルの写真は、一枚も、残っていない。つきあったのは、留学生活の後半の3
か月の間だけだった。しかしその3か月は、私の生涯に匹敵(ひってき)するほど、長く、そして
切ない3か月だった。

 そのジルは、もうこの世には生きていない。ひょっとしたら、生きているかもしれないが、今と
なっては、確かめる方法は、もうない。本文の中にも書いたように、ジルは、私がオーストラリア
を去ったあと、西ドイツの兄のところに身を寄せた。そしてそこで知りあったギリシア人と結婚し
て、アテネ近郊の小さな町に渡った。

 私が知っているのは、そこまで。ときどき手紙が来たが、ある日を境に、音信は切れた。私
も、返事を書かなかった。ジルは、不知の病といわれた、白血病をかかえていた。

●出会い

 目の大きな女性だった。それによくしゃべった。しかし何よりも強く印象に残ったのは、いつ
も、ノーブラだったこと。薄いシャツをとおして、胸の形や、そして乳首の形が、よくわかった。

 それが私のジルの第一印象だった。

 どこでどう、出会ったかは、よく覚えていない。しかし、多分、ノートンという酒場(パブ)ではな
かったか。ジルの部屋は、そこから歩いて10メートル足らずのところにあった。

そのときジルは、デニス君のガールフレンドで、いつもデニス君のそばにいた。もしどこかで出
会ったとしたら、やはり、ノートン酒場だったということになる。ジルは、テーィーチャーズ・カレッ
ジ(教師専門学校)の学生だった。

 が、その夜のことは、よく覚えている。

 みなが何かのパーティから帰ろうとしたとき、ジルが私にこう言った。

 「ヒロシ、私の部屋にこない。私を抱いてみたいのでしょう?」と。

 私はその言葉に驚いた。その言葉というより、私の心を見抜いたような言い方に驚いた。私
はいつも、ジルの、裸に近い服装に、男として、強い衝撃を受けていた。

 ジルは、マクレゴーというスコットランド系の名前をもっていたが、実際には、強いアイルランド
なまりの英語を話す、アイルランド系の女性だった。赤毛で、ほかの白人よりも、肌が白かっ
た。

●デニス君

 私がジルの部屋に入ると、ジルは、インドの線香に火をつけた。当時は、ヒッピー運動がさか
んだった。ジルも、その運動に同調していた。部屋の中央には、カラフルな、それでいて形の崩
れた衣服が、ズラりとつりさげられていた。

 ソファがわりにベッドの上にすわっていると、ジルもその横にすわり、私のひざの上に手を置
いた。

 そのとき、ドアをノックする音が聞こえた。

 「ヒロシ、いるのはわかっている。ぼくといっしょに帰るんだ」と。

 デニスの声だった。

 ジルが、ドアに向った。そしてドアをあけた。今となっては、どんな会話をしたかは覚えていな
い。二人は、何やら大声で、怒鳴りあっていた。ときどき、デニスが、私のほうを見て、こう言っ
た。「ヒロシ、帰るんだ」と。

 が、最後にデニスが、外に向って、歩き出した。そのとき、ジルがこう叫んだ。「デニス、もどっ
て!」と。

 私にとっては、あっという間のできごとだった。私は、デニスを裏切ったバツの悪さを感じて、
その場を離れようとした。すると、ジルは、こう言った。

 「ヒロシ、私を抱きたくないの。抱いてもいいのよ。でも、一つだけ、教えて。デニスに、新しい
ガールフレンドができたの?」と。

 私は、何も知らないというようなことを言って、部屋を出たと思う。実際、何も知らなかった。

●ガールフレンド

 私には、一人、ガールフレンドがいた。ローズメアリーという名前の女性だった。

 あのオーストラリアでは、ガールフレンドがいないと、一人前にあつかわれない。行動がきゅ
うくつになる。ほとんどのパーティは、「BYO」となっていた。つまり、「自分のもの(女性、酒)
は、自分でもってこい」と。「Bring Your Own」の頭文字をとって、「BYO」という。

 そんなわけで、何かパーティがあると、急ごしらえのガールフレンドをつくる。この事情は、女
性にとっても同じで、ボーイフレンドのいない女性は、たいていすなおに、それに応じてくれた。

 ローズメアリーは、そのタイプのガールフレンドだった。好きとか、嫌いとか、そういうことは考
えたことはなかった。よくデートはしたが、それはいわば、ヒマつぶしのようなものでしかなかっ
た。

 そのローズメアリー、私は「ローズ」と呼んでいたが、そのローズとは比較にならないほど、ジ
ルは美しかった。スラリとした体。それに人一倍、長い足をもっていた。

 そんなジルだったから、何か口実をつくって、再びジルの部屋を訪れたのは、私にとっては、
自然な成りゆきだったかもしれない。

 私は、上から見ても、下からみても、ぶかっこうな男だった。背も低い。足も短い。その上、度
の強いめがねをかけていた。女性には、もてなかった。日本でもそうだったから、オーストラリ
アでは、なおさらだった。私は、オーストラリアでは、「男」と見られる男ではなかった。

●どこかで自信をなくした?

今となっては、どうでもよいことだが、私は、女性が苦手だった。中学へ入るまで、女の子と遊
んだことすら、ない。

 当時は、女の子といっしょにいるところを見られただけで、「女たらし」と、バカにされた。

 この状態は、高校を卒業するまで、それほど、変らなかった。

 が、オーストラリアでは、まったくちがっていた。大学構内でも、男と女が、平気で抱きあって、
キスをしたりしていた。道路でも、カフェ、でも、

 今でこそ、ありふれた光景かもしれないが、当時、私の母校の大学でさえ、そんなことをして
いる学生は、ひとりもいなかった。本当に、いなかった。

 私は、三枚目で、人を笑わすことはじょうずだったが、それだけ。今は、結婚して、ワイフがい
るが、そのワイフにさえ、ときどきこう聞くときがある。「どうして、お前はぼくと結婚したのか?」
と。私は、「私など、好きになる女性はいない」と思って、そう聞く。

そういう状態で、オーストラリアへ渡った。女性など、縁がない上に、縁がない。それがさらに、
縁がなくなった。

 『留学記』の中で、N子のことを書いたが、そのN子にしても、今から思うと、N子にしてみれ
ば、私との交際など、遊びでしかなかったのではと思う。が、私は、真剣だった。N子が、「あな
たには、ついていけない」と言ったのは、私が思うほど、N子は、私のことを思っていなかっただ
けということになる。

 私には、そういうオメデタサが、いつもある。

 が、ジルのときは、それが最初から、わかっていた。ジルのような、白人社会でも、飛びぬけ
て美しい女性が、私など、好きになるわけがない。それが、最初からわかっていた。だから心
のどこかで、「遊びは、遊び」と割り切って考えていた。また遊ばれても、しかたないと割り切っ
て考えていた。

●デート

 ジルとは、よくデートした。気がよくあった。しかしそれは、いつも、デニスの目を盗んでのデー
トだった。(つづく……)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(170)

●国歌と国旗

 どうしてこの日本では、いつも、国歌と国旗が問題になるのか。おかしなことだが、しかし、問
題になるということ自体、問題である。

 日本の国歌と国旗に対して、大きなわだかまりをもっている人がいるのは、事実。理由はい
ろいろある。が、国歌はともかくも、国旗については、もう日本人も、それを受け入れるべき時
期にきているのではないのか。

 ほかに今の国旗にかわる、国旗は、考えられない。日本の国旗は、白地に赤丸。それでよ
い。反対に、どうしてそれでは、いけないのか?

 問題は、国歌である。今の小泉首相は、『君が代』の「君」は、「国民をいう」と説明した。が、
その説明には、無理がある。『君が代』でいう「君」は、まさしく天皇をいう。

 そこでもう一度、原点に立ちかえって、考えなおしてみよう。

 だれが、どうして、『君が代』を、国歌にしたのか。

 だれが、どうして、『君が代』という国歌に、反対するのか。

 しかしこうした議論をおしすすめていくと、議論そのものが、混沌(こんとん)としてくる。日本で
は、「愛国心」というと、どうしても、そこに「国」、つまり体制の問題がからんでくる。そしてその
体制というのは、戦前からつづいている、天皇制の問題とからんでくる。

 現に今、憲法改正があれこれ議論されているが、その一つの目的が、天皇を、今の「象徴と
しての天皇」から、「もっと力をもった天皇」にすることだそうだ。『君が代』という国歌に反対す
る人は、そのあたりに、大きくこだわっている。

 だったら、もっと、みんなが納得するような形で、合理的に問題を解決する方法を、さがせば
よい。今のように、「君が代を認めない人は、愛国心がない人」「君が代を認める人は、愛国心
がある人」というように、ものごとと短絡的に決めて考えるのも、おかしい。

 君が代を認めない人の中にも、人一倍、日本の文化や伝統を愛している人は、いくらでもい
る。いざとなったら、みなのために敵と戦うと思っている人は、いくらでもいる。

 反対に、君が代を認めるからといって、そうでない人も、いくらでもいる。

 どちらにせよ、みなが、気持ちよく国歌を歌えないというのは、私たち日本人にとっても、たい
へん不幸なことである。『君が代』を国歌として押しつける人はともかくも、押しつけられるほう
は、つらいだろう。少数派とはいえ、そういう人たちの気持ちを無視することもできない。

 私は、愛郷心、愛文化心、愛日本人心というのは、もっと別のものだと思う。国旗や国歌が、
その象徴であるとしても、では、国歌を歌わないからといって、愛郷心がないということにはなら
ない。

 反対に、国歌を歌ったからといって、愛郷心、愛文化心、愛日本人心が育つというものでもな
い。

 まわりくどい言い方だが、こんな議論を、いつまでもしていてもしかたない。議論の内容を、整
理してみよう。

(1)どうして『君が代』が、国歌でなければならないのか。
(2)どうして『君が代』が、国歌であってはいけないのか。
(3)みなが、もっと納得して、これが国歌だという国歌を決めることはできないのか。
(4)その折衷案として、第二国歌をつくるという考え方は、できないのか。

 方法は、いくらでもある。現に私がオーストラリアにいたころ、オーストラリアの国歌は、イギリ
スの国歌、『ゴッド・セイブ・ザ・クィーン』だった。しかし同時に、『ウォルチィング・マチィルダ』を
第二国歌として、みなが、広くそれを歌っていた。

 しかしそのあと、オーストラリアは、国民から公募して、今の『アドバンス・オーストラリア』を、
国歌として選んだ。

 合理的に考えるということは、そういうことをいう。

 ……と書くと、すぐそのスジの人たちは、「では、林、お前は、日本の国歌を否定するのか!」
と言う。

 となると、議論に、さらに、こんな内容を加えねばならない。

(5)どうして『君が代』に、こうまで、みなは、こだわるのか。
(6)「みなで合理的に考えよう」と提案することが、どうして『君が代』を否定することになるの
か。

 たいへんデリケートな問題だとは、私も思う。思うが、神経質になりすぎるのも、よくない。た
がいにもっと、心を開いて考えれば、この問題は、ひょっとしたら、何でもない問題かもしれな
い。

 ちなみに、最近、こんな事件が起きた。TBSのiニュースは、「日の丸・君が代を批判した、元
教員宅を家宅捜索」と題して、こう伝えている。その記事を、そのまま、転載する。

 「警視庁は、東京都立I高校の元教員の自宅を、威力業務妨害の疑いで家宅捜索しました。

 この問題は今年3月に行われたI高校の卒業式で、日の丸・君が代の厳格化を進める都の
教育委員会を批判的に伝えた雑誌記事のコピーを、出席者に配布するなどして、式の開始が
数分遅れたものです」(TBS・iニュース)と。

 つまり「卒業式を数分間、妨害した罪で、元教員の自宅を、家宅捜索した」(04・5月)という
のだ。

 少なくとも、今は、日本の国歌は、『君が代』になっている。だったら、今は、『君が代』を国歌
として歌えばよい。歌うしかない。みなが決めたことは、みなで、守る。それが民主主義の原
則。

 反対運動をするにしても、何も、卒業式という場で、それをすることはない。別の場所で、別
の方法ですればよい。言論の場で、自分の意見を言うという方法もある。だいたいにおいて、
卒業式というのは、その目的がちがう。

 一方、そんな程度の軽罪で、元教員宅を、家宅捜索するほうも、するほうだ。何らかの処分
は必要だとしても、そこまでする必要はあるのか。また家宅捜索までして、何をさがそうとした
のか。

 こんなことで家宅捜索がされるようなら、これからは、交通事故を起こしても、家宅捜索され
るかもしれない。その可能性がないとは、言えない。が、もしそうなれば、それこそ、まさに恐怖
政治。

 国旗や国歌の問題がからむと、どうしてこうまで、ものごとがこじれてしまうのか。たがいに、
もっと心を開いて、オープンに議論すればよい……と、私は思うのだが……。

 TAKE IT EASY!


●不幸の形

 昔、どうしようもないほど、勉強が苦手な子ども(男子)がいた。いつも成績は、最下位。H市
内でも、一番と言われた進学中学校にいたので、私は、ある日、恐る恐る、その子どもに、こう
聞いてみた。

 「君は、今の中学校へ入ったことを、後悔していないか?」と。

 すると、その子どもは、こう言った。

 「ううん、今の学校でよかった。後悔していない。楽しいよ」と。

 私は、この言葉に驚いた。しばらく自分の考えをまとめることができなかった。が、やがて、わ
かった。その子どもにしてみれば、そう言うしかなかった。

 自分の幸福、不幸というのは、他人のそれと比較してみてはじめて、わかる。その子どもにし
ても、その学校しか知らない。そこでの生活しか知らない。そういう子どもに向かって、「後悔し
ていないか?」という質問は、そもそも、意味がない。

 話は、ぐんと変わるが、たまたま今夜、ワイフと、こんな話をした。

 「ぼくたちは、今、幸福なのか、不幸なのか、本当のところは、よくわからない。しかし不幸な
人を見ると、自分たちが幸福だと、わかる。

 たとえば今、かろうじてではあるかもしれないけれど、ぼくたちは、一応健康だ。しかし、その
実感は、あまりない。が、病気で苦しんでいる人を見ると、自分の健康のありがたさが、よくわ
かる。感謝の念も、そこから生まれる」と。

 さらに、こんな話もした。

 「仮に幸福であるとしても、それがどうしたという問題もある。そういう時期が、5年つづいて
も、10年つづいても、さらに100年つづいても、200年つづいても、その人は、決して、満足し
ないだろう」と。

 私が言いたかったことは、こんなことだ。

 幸福感というものは、あくまでもその人、個人的なもの。幸福かどうかは、つまり、自分が不
幸になってはじめてわかること。その期間の長さではない。期間の長さでは、決まらない。

 たとえば毎日、おいしいごちそうを食べたとする。しかしそれが長くつづくと、それが当たり前
になってしまう。そうなると、おいしいごちそうを食べていることがわからなくなってしまう。

 が、ある日、何らかの理由で、そのごちそうが食べられなくなったとする。とたん、それまでの
自分が、幸福だったことを知る。

 つまり自分が幸福であるかどうかは、自分が不幸な状態になってはじめてわかる。つまりい
つも、どこかに、自分自身を相対的に見る目をもたないと、結局は、幸福を幸福であると認識
できないままになってしまう。

 が、だれしも、不幸にはなりたくない。今の生活のどこかに幸福感を覚えたら、できるだけそ
れを長くつづけたいと思う。

 では、どうしたらよいのか?

 ひとつの方法としては、他人の生活をのぞくという方法がある。しかしのぞくだけではいけな
い。その人の立場で、その人の気持になって、のぞいてみる。あるいは助ける。あるいはその
不幸を共有する。

 その一つが、ボランティア活動ということになる。

 ここまでワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

 「私の知っている人で、自分のことしかしない人がいるわ。何かのことで動くといっても、いつ
もどこかで打算、つまり損得の計算を考えているような人よ」と。

 そういう意味でも、利己的な人には、本来、幸福というものが、どういうものかわからない。人
は、利他的になってはじめて、幸福というものが、どういうものかわかる。……というのは、少し
飛躍した考え方かもしれないが、結論としては、まちがっていない。

 さらに他人の不幸を共有することによって、自分の幸福を、実感できることもある。このこと
は、反対の立場で考えてみればよい。

 私も、いくつかの深刻な問題をかかえている。何がどう深刻かということはさておき、そういう
問題に、ズカズカと、土足であがりこんでくる人がいる。

 さも先輩づらして。さも知ったかぶりをして。さも人生の経験者のようなフリをして……。何か
を助けてくれるわけでもないのに、あれこれ口を出してくる。

 しかしそういう人物というのは、不愉快、きわまりない。こちらの事情や、苦しみなど、まったく
理解できない。理解しようともしない。世間一般的な常識(?)を、平気でぶつけてくる。押しつ
けてくる。

 こういう人には、自分自身の幸福もわからない。いや、むしろ他人の不幸は笑い話。酒の肴
(さかな)。自分の優越感を確認するために、他人の不幸を利用する。だから幸福な期間が、1
00年つづいても、200年つづいても、それを実感できない。できないばかりか、最後に不幸に
なったとき、それまでの人生、すべてを、不幸と思うようになる。

 またボランティア活動といっても、偽善的な活動ではいけない。どこかのタレントが、その知名
度にものを言わせて、どこかの貧しい国の子どもたちを救済するというのは、ここでいうボラン
ティア活動ではない。「売名」のにおいを感じたら、100%、偽善者とみてよい。

 「私」を知ることは、本当にむずかしい。冒頭にあげた中学生にしても、「私は私」と思ってい
た。そしてその「私」は、それでよいと思っていた。いかにまわりの者が、「不幸だろうな」と思っ
ても、彼には、関係ない。

 その彼が、「私」を知るためには、別のところで、別の中学生として、別の生活をしてみる必
要がある。つまり、自分というものを、客観的に比較してみる。

 その中学生を思い出しながら、幸福とは何か、そんなことを考えた。

【補足】

 何ともわかりにくい文章を書いてしまった。私が、書きたかったことは、こうだ。

 幸福の追求と、幸福の認識は、別の問題だということ。だれしも幸福になりたいと思ってい
る。しかしその幸福には、実感がともなわない。たいていの人は、幸福を失ってはじめて、それ
までの自分が幸福だと知る。

 だから幸福を追求するときは、同時に、その幸福を、どこかで認識しなければならない。その
一つの方法が、「利他」であると、私は書いた。

 少し前、利他的であればあるほど、その人の精神の完成度は高いということになると、私は、
書いた。

 しかし「利他」には、まだほかの意味があるようだ。それがここに書いた、「幸福の認識」であ
る。

 新しい思想、ゲット! やったア! ハハハ!


●幸福の形

 不幸な人は、まさに千差万別。しかも不幸の糸が、無数にからんでいて、その形さえ、よくわ
からない。それに不幸な人は、何とかその不幸から逃れようと、もがく。しかしもがけばもがくほ
ど、足元に糸がからんで、そこから抜け出られなくなる。

 一方、幸福な人は、みな、同じ。よく似ている。どこもちがわない。

 ……となると、幸福とは何か? 不幸とは何か? ……と考えていくと、何がなんだかわから
なくなってしまう。そもそも、「幸福」「不幸」という言葉で、その人の生活を総括することがまち
がっているのか、ということになる。

 実際、幸福感ほど、実感しにくい感覚も、ない。

 よくアメリカ人の子どもが、こんな遊びをする。だれかが、「幸福とは(Happiness is)……?」と
話しかけると、つづいて、ほかの子どもたちが、てんでバラバラなことを言い始める。

 「先のとがった、トウ・シューズ!」
 「スマイル!」
 「サンタクロースが飛ぶ、青い空!」と。

 そう、幸福感というのは、それだけつかみにくい感覚なのかもしれない。

 こういう点をとらえて、あるフランスの哲学者は、『平凡は美徳』という言葉を残した。「平凡で
あること自体、幸福なのだ」と。しかし平凡だけでは、その人は、そのときの幸福感を実感でき
ない。

 そこでもう少し、幸福の内容を、分析してみよう。

(1)満足感(満ち足りた状態)
(2)充足感(満たされた状態)
(3)達成感(やり遂げた状態)
(4)平穏感(心、穏やかな状態)
(5)親密感(他者との心の通いあい)
(6)利他感(他人を喜ばせたという感覚)

(1)から(6)まで、思いつくままあげてみたが、それぞれが、これまた複雑にからみあってい
る。

 だから幸福というのは、何か、それがますますわからなくなる。ただ、人は、不幸になってはじ
めて、幸福というものを、実感できる。それはたとえていうなら、病気になってはじめて健康の
ありがたさがわかるようなもの。死の恐怖を味わってはじめて、生きる喜びがわかるようなも
の。

 しかし、どうすれば、幸福の実感を、自分のものとすることができるのか? ……と考えていく
と、この問題は、「なぜ私たちは生きているのか」という問題に、どこかで結びついているのが
わかる。

 あああ、あと少しでわかりそうな気がするが、どうしても、その先がわからない……。というこ
とで、このつづきは、もう少し、時間をおいてから考えることにする。

 たまたま今は、日曜日。目の前の山々は、深い霧に包まれている。初夏の小雨が、煙のよう
に、地面を濡らしている。時折、白いモヤが、どっと空に向かって、立ちのぼる。

 静寂のひととき。先ほどワイフがかけた、『ブレイブ・ハート』の主題曲が、静かに聞こえてく
る。それを聞きながら、刻一刻と変化する山の景色に見とれる。

 ただ一つ、はっきりしていることがある。

 それは今、私はここに生きているということ。いろいろ問題はあるが、今の私は、幸福だとい
うこと。

 ……このつづきは、またあとで……。

+++++++++++++++++

「平凡は美徳」という言葉で、
私の原稿を検索していたら、少し
前に書いた原稿が見つかった。
それをここに掲載する。

+++++++++++++++++

●運命と生きる希望 
不幸は、やってくるときには、次々と、それこそ怒涛のようにやってくる。容赦ない。まるで運命
がその人をのろっているかのようにさえ見える。Y氏(四五歳)がそうだ。

会社をリストラされ、そのわすかの資金で開いた事業も、数か月で失敗。半年間ほど自分の持
ち家でがんばったが、やがて裁判所から差し押さえ。そうこうしていたら、今度は妻が重い病気
に。検査に行ったら、即入院を命じられた。

家には二四歳になる自閉症の息子がいる。長女(二一歳)は高校を卒業すると同時に、暴走
族風の男と同棲生活。ときどき帰ってきては、遊興費を無心する……。 
二〇〇〇年、日本での自殺者が三万人を超えた。何を隠そう、この私だって、その予備軍の
一人。最後のがけっぷちでかろうじて、ふんばっている。いや、自殺する人の気持ちが、痛い
ほどよくわかる。

昔、学生時代、友人とこんな会話をしたことがある。金沢の野田山にある墓地を一緒に歩いて
いたときのこと。私がふと、「希望をなくしたら人はどうする。死ぬのか?」と語りかけた。すると
その友人はこう言った。

「林君、死ぬことだって希望だよ。死ねば楽になれると思うことは、立派な希望だよ」と。 
Y氏はこう言う。「どこがまちがっていたのでしょうね」と。しかしその実、Y氏は何もまちがってい
ない。Y氏はY氏なりに、懸命に生きてきた。ただ人生というのは、社会という大きな歯車の中
で動く。その歯車が狂うことだってある。そしてそのしわ寄せが、Y氏のような人に集中すること
もある。

運命というものがあるのかどうか、私にはわからない。わからないが、しかし最後のところでふ
んばるかどうかということは、その人自身が決める。決して運命ではない。 
私は「自殺するのも希望だ」と言った友人の言葉を、それからずっと考えてきた。が、今言える
ことは、「彼はまちがっていた」ということ。生きているという事実そのものが、希望なのだ。

私のことだが、不運が重なるたびに、その先に新しい人生があることを知る。平凡は美徳であ
り、何ごともなく過ぎていくのは、それなりにすばらしいことだ。しかしそういう人生から学んだも
のは、ほとんどない。 
どうにもならない問題をかかえるたびに、私はこう叫ぶ。「さあ、運命よ、来たければ来い。お前
なんかにつぶされてたまるか!」と。

生きている以上、カラ元気でも何でも、前に進むしかないのだ。

 ドストエフスキーは、こう書いている。

Man is fond of counting his troubles but he does not count his joys. If he counted them up 
as he ought to, he would see that every lot has enough happiness provided for it. 

 人は、自分の不幸を数える。しかし自分の幸福は数えない。もし彼が自分の幸福を数えるな
ら、どんな運命にも、それに与えられた幸福があることを知るだろう。

(F・M・ドストエフスキー)

+++++++++++++++++++++++

もちろん、平凡であることが悪いといっているので
はない。「平凡」とういうより、「ふつうである」こ
とには、すばらしい価値が隠されている。

とくに子どもについては、そうだ。

つぎの原稿は、中日新聞に載せてもらった原稿である。
この原稿は、好評だったことを記憶している。

++++++++++++++++++++++++

●生きる源流に視点を

 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思い
なおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。

とくに二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中
学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてた
が、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』とよく言った。戦前の教科書に載ってい
た話らしい。人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種
はつきないものだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」
というのではない。下から見る。

「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。朝起きると、子ども
がそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分は自分で勝手なこと
をしている……。

一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生活の中に、すばらしい価値が隠され
ている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、『許して忘れる』の連続。この本のどこかに書いたように、フ
ォ・ギブ(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・た
め」とも訳せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英
語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。こ
の言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。

大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、その真の親にたどりつく。楽な子育てとい
うのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を越え、谷を越える。そして一つ山を越え
るごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。

が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談を
してきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授
業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。こういう相談を受
けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

+++++++++++++++++

【幸福論】

 そういう意味では、幸福論は、健康論に似ている。健康であるときは、それが当たり前になっ
てしまう。が、病気になったとたん、健康のありがたさが、わかる。

 同じように、幸福なときというのは、それを実感するのがむずかしい。あるいは幾多の不幸を
経て、人は、幸福というものが、どういうものかわかるようになる。

 同じように、さらに、人生についても、同様のことが言える。

 若い人たちからみれば、20年後、30年後は、永遠の先の未来かもしれない。しかし年をと
った人からみると、20年前、30年前など、つい先日のできごとにすぎない。

 そうなったとき、人生の重みというか、はたまた、はかなさというか、そういったものが、ズシリ
と胸に響く。ふと振りかえると、「あの人はもういない」「この人ももういない」となる。

 いないだけではない。「あの人がいなくなって、もう10年になる!」「この人がいなくなって、も
う20年になる!」となる。

 死んだ人は、静かだ。本当に静かだ。

 そう思いながら、自分の未来を、思いやる。あと10年か。それとも20年か。

 そんな時間など、あっという間に過ぎてしまうだろう。

 ……となると、今、こうして生きているだけでも、感謝しなければならない。それが幸福だとい
うのなら、幸福とは、そういうものかもしれない。いつもすぐそばにあるのだが、それに気づくこ
とは、むずかしい。いや、ほんの少し油断をすれば、すぐ、どこかへ行ってしまう。

 問題のない人など、いない。私とて、問題だらけ。しかしそれを不幸とするかどうかは、その
人の心がまえ一つかもしれない。本来は何でもない問題なのかもしれない。が、人は、そのし
がらみの中で、もがき、苦しむ。そしてそれを不幸としてしまう?

 私にとって、最大の不幸は、やはり、「死」だと思う。こればかりは、何とも、しかたない。どうし
ようもない。

 ただ今、ここで言えるのは、そうした「死」がやってきたときでも、悔いが残らないように、精一
杯、今を、懸命に生きるということ。だからとって、それで死を克服できるとは思わないが、「や
るだけのことはやった」という思いだけは、そのとき、大切にしたい。

 幸福とは何か? ……何とも中途半端な結論になってしまったが、このつづきは、別の機会
にまた考えてみたい。このあたりが、どうも私の限界のように思う。
(040523)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(171)

【近況・あれこれ】

●拉致問題のウラで……

【国際政治】

 私のような立場だからこそ、好き勝手なことが自由に言える。ホント。

 もしこの私に、一片でも、肩書きや地位があったら、あるいは公的な役職があったら、とて
も、こんなことは書けない。書いたとたん、クビが飛ぶ。ハハハ。

 昨日(5・22)、日本の小泉首相が、あのK国へ行った。そして5人の、拉致被害者の家族
を、日本へ連れて帰った。

 今朝(5・23)のテレビ討論会をみていると、「時期が早すぎた」「準備不足だった」「日本は、
取られ損だ」という意見が続出した。「不明者の問題が解決していない」「小泉首相はいいかげ
んだ」という意見。さらに、「(小泉首相は)バカにされただけ」という意見まで出た。

 しかしね、みなさん。国際政治は、表だけを見てはいけません。

 何か、あるはず。何か、ウラがあるはず。そういう視点を忘れてはいけません。

 謎の第一。なぜ、小泉首相は、こうまで、あせったのか。急いだのか。わざわざK国まででか
けていったのか?

 もともと右翼的な色彩の強い、小泉首相。その小泉首相が、なぜ、K国へ行ったのか? す
べての謎は、ここに集中する。

 が、ヒントがないわけではない。

 今日(5・23)、アメリカのニューヨークタイムズは、こんな衝撃的なニュースを、世界に向け
て、発信した。

 「K国が、01年のはじめ、リビアに対して、ウラン(六フッ化ウラン)を約1・7トンも、秘密裏に
提供していた。その証拠を、国際原子力機関(IAEA)が発見した」と。

 もしこの情報が、事実とするなら、K国は、原爆製造に必要な原料を、リビアに輸出していた
ことになる。どの程度精製されていたかも問題だが、ニューヨークタイムズは、「ウランが北朝
鮮から供給された証拠が見つかった」と報じている。

 これは、はっきり言って、とんでもないニュースである。

 K国が核兵器をもっているかもしれないという情報は、あちこちにある。しかしそれらは、K国
内部の、いわば伝聞情報、もしくは推測情報にすぎない。

 が、これは「証拠のある情報」である。

 ここにも書いたように、どの程度、精製されていたかも重要だが、もしそれが高度に精製され
たウランだったとするなら、もう、6か国協議などしても、意味はない。世界がもっとも恐れてい
たことを、あのK国は、先手、先手でしていたことになる。

【急いだ小泉首相】

 恐らく、小泉首相は、この情報を、すでに知っていたのではないか。だから急いだ。急いで、
とりあえず、5人の家族を、連れて帰った。

 それはたとえて言うなら、どこかのスーパーの倒産情報を先に手に入れて、業者が、商品の
回収に走るようなもの。このことは、逆に考えてみると、わかる。

 5月22日に、小泉首相は、K国に行った。23日に、K国がリビアに、核物質を輸出していた
ことが報道された。

 逆だったら、どうなるか?

 5月22日に、K国が、核物質を輸出していたことがわかったら、小泉首相は、K国へ行った
だろうか。仮に行ったとしても、「人道援助」なる、「見返り金」を払うことができただろうか。

 だから小泉首相は、急いだ。急いで、とりあえず、5人を連れて帰った。いろいろ批判もある
だろうが、小泉首相としては、「この機会を逃したら、被害者家族は帰ってこられない」と読ん
だ。

 が、実は、この小泉首相のK国際訪問のウラには、隠された意図がある。

【韓国との関係】

 ノ政権になってから、韓国は、K国の矛先を、日本に向けようとしてきた。わかりやすく言え
ば、日本とK国の関係を悪化させることで、自分だけは、いい子でいようとした。

 韓国が、K国に向って、さかんに「同胞」という言葉を使う背景には、そういう意図がある。つ
まり「同胞だから、まさかソウルには、核兵器を使うようなことはしないでしょうね」と。

 韓国にしてみれば、仮にK国が核兵器を使うとしても、それはソウルではなく、東京であって
ほしい。

 だから日本とK国が、拉致問題でギクシャクしても、韓国は、いっさい、助け船を出さなかっ
た。日本とK国が敵対すればするほど、韓国にとっては、つごうがよい。

 が、今回の小泉首相のK国際訪問は、まさに日本にしてもれば、逆転のツーベースヒット。ホ
ームランとまではいかないが、こうした韓国の隠された意図を、こなごなにする威力はあった。

 韓国は、表向き、今回の再訪問を、「歓迎」とか「評価する」とは言っている。が、内心は、お
だやかではないはず。小泉首相が、日朝ピョンヤン宣言の遵守をうたえばうたうほど、韓国の
立場は悪くなる。

ワイフ「じゃあ、どうして、日本は、ピョンヤン宣言にこだわるの?」
私「そこが、小泉外交の、うまいところだ」
ワ「……?」

私「いいか。あの中で、日本は、戦後補償をする。経済制裁はしませんと、うたっている。しかし
それには、条件がある。ミサイルや核実験をしない、とね。いいかえると、K国が、ミサイルや
核実験をしたら、日本は、それを理由に、戦後補償をしなくてもすむ。

 あのK国が、核実験はともかくも、ミサイル実験をしないと思うかい? すでにあのピョンヤン
宣言のあと、何度もミサイル実験をほのめかしている。日本としては、何としても、K国に、現金
を渡すようなことだけは、したくない」と。

ワ「じゃあ、中国のねらいは、何?」
私「ズバリ、ジャパン・マネーだろうね。K国が現金をもてば、K国は、中国から、大量の武器や
弾薬を買う。今までのツケも払ってもらえるしね。しかしそれは、アメリカが許さない」
ワ「韓国は、どうなるの?」
私「先週(5月中旬)、アメリカ軍が撤退すると発表しただけで、株価は、ブラックマンデーの暴
落に匹敵するほど、大暴落。おまけに、外資も、数千億ドル、韓国から逃げた。

 韓国も、そろそろ現実に気づくべきだよ。反米、親北路線もいいけれど、国際経済は、そうい
う韓国を認めていない。今の韓国政治は、かつての日本の社会党政権のように、どこか現実
離れしている」と。

【南北統一を望まない日本】

 一方、韓国とK国が平和統一すれば、それこそ、日本にとっては、たいへんなことになる。日
本のとなりに、核兵器をもった、強大な反日国家が誕生することになる。その兵力は、200万
人。

 いくら日本の国力があるといっても、本気で攻撃されたら、ひとたまりもない。数日で、日本
は、韓国K国の連合軍に、占領される。

 しかしこんなことは、日本の政治家は、表立っては、言えない。(私のように無責任な立場に
る人間だけが、言える。私は、だれにも、相手にされていない。ハハハ)

 こういう中、アメリカ軍は、韓国からの撤退を決めこんだ。民主党のケリー大統領になれば、
日本からも、アメリカ軍は撤退するだろう。

 ブッシュ政権の命は短い。

 となると、日本は日本で、K国との関係をつくっておかねばならない。今のブッシュ政権ととも
に、心中するわけにはいかない。つまり小泉政権は、すでにポスト・ブッシュをにらんで行動し
始めたとみるべきではないのか。

 一応、表面的には、日朝ピョンヤン宣言を盾にとって、平和外交をつづける。「日本は、K国
にとって、敵ではありませんよ」というジェスチャだけは、見せておかねばならない。

 それが今回の、小泉首相のK国への再訪問ということになる。

【小泉首相の外交政策は、100点満点】

 私は、戦後、はじめて、外交らしい外交をする首相を見た。点数をつけるのは、あまり好きで
はないが、私は、小泉首相の外交手腕には、100点をつける。

 実にうまい。攻略的。しかも今回は、一石二鳥どころか、三鳥に近い。

 K国の攻撃先を、うまくかわした。拉致被害者を、5人、日本に連れて帰った。K国との関係
を、うまくつくった。少なくとも、K国は、日本に対しては、核攻撃しにくい雰囲気をつくった。

 公明党のK代表が、「あらゆる分野で確実に前進」と評価しているが、それはあながちまちが
ってはいない。

【今後のこと】

 日本は、米25万トンのほか、10億円程度の医薬品を、K国に届ける。しかし私は、このまま
スンナリと、ことが運ぶとは思っていない。

 K国は、リビアに核物質を輸出していた!

 日本にとっては、あまり大きなニュースではないかもしれないが、ブッシュ政権のもならず、ロ
シアや中国に与えた衝撃の大きさは、はかり知れない。

 アメリカは、K国の核問題を、国連の安保理に付託する方向に、これから進むだろう。となる
と、当然、「国際的な制裁」ということになる。

 が、日本は、立場上、制裁するにしても、最後の最後の国になりたい。かねてより、K国は、
日本に対して、「制裁したら、宣戦布告とみなす」と発言している。もともと常識の通らない国だ
から、単なるコケおどしとは、みないほうがよい。

 が、今回の、再訪問は、それに対しても、ある程度のブレーキとして働く。「日本は、ピョンヤ
ン宣言があるから、制裁できません」と、最後の最後までがんばることができる。

 本当は、制裁して、金XX体制を崩壊にもっていきたい。しかし日本は先頭には立ちたくない。
卑怯(ひきょう)と思われようが、しかし日本の東京に、核兵器が投下されるよりは、よい。それ
に日本の自衛隊には、日本を守りきるだけの力は、ない。

 だから表面的には、アメリカや他の国々に、しぶしぶと追従する形をとりながら、制裁措置に
加わるしかない。

 が、ここで一つ、大きな問題がある。

 仮にブッシュ大統領の再選があやうくなるとすると、当のブッシュ大統領が、この極東地域
に、新たなる緊張状態をつくる可能性がある。たとえばアメリカが、6か国協議を、ボイコットす
ることも考えられる。

 そうなると、米朝の関係は、急速に悪化する。不要な緊張状態が、不要な戦争を引き起こす
可能性もないとは言えない。

 ともあれ、今回の小泉首相の、K国再訪問は、表だけを見て判断してはいけない。そのウラ
では、恐らくブッシュ大統領と、こんな会話があったにちがいない。

小泉「リビアへの核物質を輸出していたという件ですが、発表を、23日まで延ばしていただけ
ませんか」
ブッシュ「いいでしょう。23日まで待ちましょう」
小泉「その間に、何とか、被害者を連れて帰ります」
ブッシュ「見返りとして与えるものは、少なくしなさいよ」
小泉「はい。わかっています。食料と医薬品だけです。日本が与えなければ、韓国や中国が与
えるものばかりです」と。
(04年05月23日記)


●情報と思考

 もの知りだから、賢いということにはならない。つまり情報と思考は、まったく異質のもの。

 が、多くの人には、それがわからない。もの知りイコール、賢いと考えている。もっと言えば、
情報量の多い人イコール、賢い人と考えている。

 たとえばここに一台のパソコンがある。そのパソコンに、一枚のメディア・カードを入れる。容
量は128MB。

 128MBといえば、文字情報に換算すれば、このカード一枚に、A4サイズの原稿で、約8〜
9万枚も記録できることになる。(1バイト1文字で計算すると、128000000文字。これを15
00字/1枚で割ると、8万6000枚となる。)

 それだけの情報をもっているからといって、そのカードが賢いかといえば、それはない。思考
力は、ゼロ。まったくのゼロ。

 パソコンについても、同じ。一台のパソコンがもつ情報量や、その処理能力は、人間の能力
とは比較にならない。それこそ人間が1年かかってするような計算でも、瞬時に、それをしてし
まう。しかし思考能力があるかと言えば、やはりゼロ。まったくのゼロ。

 さて、ここに一人の子どもがいる。

 いつもペラペラと、調子のよいことをしゃべっている。たいへんなもの知りで、そのため、学校
での成績も、悪くない。親も、「うちの子は、頭がいい」と思っている。しかし子どものばあいも、
だからといって、思考能力がすぐれているかといえば、それはない。

 その子どもがもつ情報量と、思考能力は、まったく異質のもの。いわんや、その子どもの人
間性となると、まったくの上に、さらにまったくをつけるほど、関係ない。

 が、親たちには、それがわからない。「教育」というと、もの知りな子どもにすることだと考えて
いる。この日本では、もの知りな子どもほど、スイスイと受験勉強を通り抜けることができる。そ
れもあって、知識、つまり情報をいかにして身につけるかが、教育ということになっている。

 実は、ここに日本の教育がかかえる、最大の欠陥がある。悲劇と言ってもよい。

 一般論として、全体主義的な国家では、ものを考える子どもを、嫌う。ものを考える子ども
は、かえってその国家にとっては、危険ですら、ある。

 そこで全体主義的な国家では、むしろ、ものを考えない、従順に体制に従う子どもをつくろう
とする。戦前の日本が、まさにそういう国であった。

 ところが戦後、日本が、それを反省し、教育のあり方を改めたかというと、それもない。世代
から世代へと、代々、同じ教育が繰りかえされてしまった。つまりその結果が、今に見る、日本
の教育システムということになる。

 今、各学校で、もの知りから、思考力のある子どもへの教育転換が試みられている。入試の
あり方も、変ってきた。私たちはこうした流れを、支持することはあっても、決して、後退させて
はならない。
(はやし浩司 情報 知識 思考力)


●ツッパル子ども

 「ウッセー!」と言って、教室へ入るやいなや、机を足で蹴とばす。先生が、「静かにしなさ
い!」と注意すると、即座に、「このヤロー、ナンカ、文句あるのかア!」と。すごんだ言い方で、
はねかえす。

 鋭い目つき、独特の歩き方。それにツッパリ児特有のしぐさ、様子。

 このタイプの子どもに、「そんなことをすれば、あなたがみなに、嫌われるだけだよ」「君自身
が、損をするだけだよ」と、諭(さと)しても意味はない。

 その子どもにとっては、そのほうが、居心地がよいのだ。

 一般論として、人と良好な人間関係を結べない子どもは、(1)攻撃型、(2)同情型、(3)依存
型、(4)服従型のうちの、どれかになることが知られている。

 このタイプの子どもは、他人との人間関係をうまく結べないことを、別の形で、補おうとする。
わざと病弱な様子をしてみせたり(同情型)、だれかにベタベタと甘えてみたり(依存型)、ある
いは集団の中で、一人のボスに徹底的に服従する(服従型)など。

 ツッパル子どもは、このうちの(1)の攻撃型にあてはまる。攻撃的になることにより、周囲を
威嚇(いかく)し、自分にとって、居心地のよい世界をつくろうとする。

 意図的な行為というよりは、無意識。また長い時間をかけてそうなるため、本人には、その自
覚がない。

 だから、この攻撃型の子どもにしても、周囲のものたちが、「嫌われるよ」と諭しても意味がな
い。おとなしく静かになればなったで、その子ども自身が、自分の居場所をなくしてしまう。その
子どもにしてみれば、自分の存在そのものを、否定することになってしまう。

 これは子どもという個人の話だが、「国」もまた、一つの人格を形成することが知られている。
独裁国家と言われる国ほどそうで、国全体が、その独裁者の人格を、そのまま反映することが
ある。

 たとえばとなりのK国だが、数日前(5・22)、日本の小泉首相が、再訪問して、金XXにこう言
ったという。「核やミサイルを放棄したほうが、K国にとっては、はるかに利益になる」と。

 つまり「核やミサイルを作って、周囲の国々をおどしても、かえってあなたが嫌われるだけ」
「あなたが損をするだけ」と。

 しかしこういう言葉は、金XXには、通じない。K国は、核やミサイルをもつことで、自分の存在
を誇示している。もし核やミサイルを放棄すれば、K国は、自分の存在そのものを、否定するこ
とになる。 

 では、どうするか?

 これはツッパリ児のばあいだが、ツッパリ児は、ツッパリ児で、みなの心を代弁しているような
ところがある。ツッパルことによって、暗黙のうちにも、周囲の仲間たちの、支持を集めてい
る。またそれを心のどこかで感ずるから、ますますみなの前で、ツッパッてみせる。俗に言う、
「イキがる」というのは、そういう状態をいう。

 K国についても、同じ。

 K国は、今では、アジアの中でも、最貧国。経済は壊滅(かいめつ)状態。食料もエネルギー
もない。個人にたとえるなら、家庭崩壊もしくは破産といった状態。そういう国の独裁者だから、
心がすさんでいるとしても、おかしくない。

 で、K国はK国ながらに、精一杯、虚勢を張って生きている。朝鮮民族としての誇りもある。だ
から、「お米をください」「石油をください」と、頭をさげるわけにもいかない。そこでK国は、核や
ミサイルで世界をおどしながら、それらを手に入れる……。

 核やミサイルをもっているかぎり、世界は、見た目には、頭をさげる。存在感がある。世界か
ら要人を、自分の国に呼びつけることもできる。まわりの国々が、ビビればビビるほど、自分に
とっては、居心地のよい世界となる。

 それに世界の中には、超大国に不満をもっている国々は、いくらでもある。K国のこうした姿
勢を、「よし」とする国もないわけではない。K国は、そういう国々の支持を、どこかで感じている
のかもしれない。

 で、子どもがツッパッてしまったばあいには、熱病にでもかかったと思って、その時期を、あき
らめるしかない。「暖かい無視」という言葉があるが、愛情の灯を消さないようにして、無視す
る。叱ったり、説教して、意味はない。今の状態を、これ以上悪くしないことだけを考えながら、
その時期が過ぎるのを待つ。

 こういうケースでは、親があせればあせるほど、そして何かをすればするほど、子どもを、ま
すます悪い状態に追いやってしまう。だから、今の状態を、それ以上悪くしないことだけを考え
る。あとは、子ども自身がもつ、自律心をうまく利用する。

 が、K国は、どうするか?

 何といっても、核やミサイルをもっている。いつ何どき、カーッとなって、発射ボタンを押すかも
しれない。子どもに対してのような、「暖かい無視」というやり方は、K国には、どうやら通用しな
いようだ。
 
 やはりここは……。(この先のことは、恐らく小泉政権以下、外務省の人たちが考えているこ
とと、同じだと思う。)子どものツッパリとちがって、本当に、やっかいな問題。考えるだけでも、
気が重くなる。ホント!


●ワイフとの会話

 庭へ生ゴミを出しに行ったあと、ワイフが、こう言いながら、居間に入ってきた。

 「あなた、今夜の風は、ロマンチックよ」と。

 そこで一句。

 『ロマンチックよと、ワイフ、言う。
  思わず確かめる、ズボンのチャック』(はやし浩司)

 それを口にすると、ワイフが、「どういう意味よ?」と。

 「身の危険を感じたから……。思わずチャックがしまっているかどうか、確かめた」と。

 さわやかな、初夏の冷気。ワイフは、それを言ったらしい。すると、横にすわって、「私、どこ
かへ、行きたいワ……」と。

私「行きたい? じゃあ、つぎの三つから、選びな」
ワイフ「何よ?」
私「トイレ、オルガスムス、人生」
ワイフ「何よ、その人生って?」
私「人生を、生きたいという意味だよ」と。

 やがて、話は、ワイフの友だちのことについて。

ワイフ「今日、Kさんを見かけたけど、脳梗塞が、一段と悪くなったみたい」
私「どうして?」
ワイフ「歩き方が、さらにヨボヨボになったわ」
私「脳梗塞って、再発するのかな?」
ワイフ「そうみたい」と。

 Kさん(男性・57歳)は、昔、子ども会の仕事をいっしょにした人である。ある朝、起きたら、脳
梗塞になっていた。何でも心臓にたまったカスが、脳の血管をつまらせたということだった。
が、それからもう10年以上になる。

 脳梗塞のこわいところは、これはあくまでもKさんのケースだが、いろいろな障害に合わせ
て、性格まで、変ってしまうこと。それまでは冗談好きで、人笑わせ名人だった。

 が、その脳梗塞をしてからというもの、怒りっぽく、神経質になってしまった。私に対してでさえ
そうなのだから、奥さんには、もっと、そうだろう。

 私もヒマさえあれば、ワイフを笑わせてばかりいる。それが日課になってしまった。ワイフと会
話をしていると、どうしてもまじめになれない。すべてが、ギャグになってしまう。

私「先日ね、近所の奥さんがね、林さんの奥さん、おじいさんを連れて歩いていましたよって、
言ってたよ」
ワイフ「おじいさん?」
私「そう。話をよく聞いたら、そのおじいさんって、ぼくのことだった……」
ワイフ「ジジイぽくなったから、きっと、見まちがえられたのね。ハハハ」

私「だから、ぼくは、こう言ってやった。
ワイフ「何て?」
私「いや、ぼくは、いつもダックスフンドを連れて散歩していますと、ね」
ワイフ「私のこと?」
私「そう。足が短いからね。ハハハ」と。

 私も脳梗塞になったら、こういう冗談が言えなくなるかもしれない。今のうちに、たくさん言って
おこう。人生は。楽しむにかぎる。

 もう一句、こんな俳句を考えた。

 『若いときは、チャックをさげ、
今はあげる、ロマンチックな夜』(はやし浩司)

【脳梗塞】

 脳梗塞というより、林家の持病は、脳内出血。祖父母も含めて、親類のほとんどは、この病
気で、死んでいる。父は、心筋梗塞だったが……。

 つまりみんな、血管系の病気で、死んでいるということ。

 で、私も、最近、コレステロールが気になってきた。食べ物にも、注意している。とくに注意し
ているのが、肥満と便秘。肥満はともかくも、便秘と脳内出血とは、どう関係しているのか。多
分、関係ないと思うが、私は、勝手にそう思いこんでいる。

 腹の中が、ポテポテと重ぼったいと、何となく、頭まで重くなる。

 そこで私は、毎日、アロエジュースと、生ニンニクの唐辛子漬けを、飲んだり食べたりしてい
る。アロエジュースは、アロエのトゲを取ったものを、低脂肪ヨーグルトとミキサーでつぶして飲
んでいる。

 生ニンニクの唐辛子漬けは、血液をサラサラにする効果があるとか……。いつか、昼のテレ
ビで、そんなことを言っていた。で、ためしに食べてみたら、たしかに調子よい。それで、毎日、
1〜2個、食べるようになった。(においの始末に、苦労しているが……。よく生徒に、「先生の
口は、くさい」と言われる。)

 あと、総合ビタミン剤、カルシウム剤、ビタミンC剤は、朝食のあとに。寝る前は、ハンゲコウ
ボク湯を少量、舌の上でとかしてのんでいる。これはガン予防のため。

 言い忘れたが、アロエジュースは、腸の健康にはよいように思う。昔、松下先生(世話になっ
た、A幼稚園の理事長)が、すすめてくれた。以来、欠かさず、のんでいる。


●子どもの依存性

 子どもの依存性、とくに、母と子の間の依存性について、母親は、それを軽く考える傾向があ
る。

 たとえば子どもが、レッスンのとき、チラチラと、参観に来ている母親のほうを見たとする。す
るとそのとき、母親の中には、目や手で、何かを合図する人がいる。「がんばってね」「よくやっ
ているわ」と。

 そういう前向きなストロークなら、まだよい。が、中には、瞬間、目で子どもを叱ったり、不愉
快な表情をしてみせる母親もいる。しかしこういう行為は、子どもの心理に、深刻な影響を与え
る。

 そこで私は、母親のほうを見ないで、つまり母親のほうには、視線を向けないまま、こう注意
する。

 「お母さん、子どもがお母さんのほうを見たら、視線をはずしてくださいよ。子どもと目を合わ
せてはいけませんよ」と。

 こうした母子のパイプは、一度、できると、それを断ち切るのは容易ではない。子どもは、い
つも母親の目を気にするようになる。ほかの面でのことなら、まだしも、子どもの(学習の動機
づけ)という面では、決して、好ましいものではない。

 こうした子どもの依存性は、たとえば、こんなことでもわかる。

 赤ちゃんがえりを起こして、情緒が不安定になった子どもがいる。症状は、複雑(complex)で
あることが多い。いわゆる赤ちゃんぽくなる子どものほうが、むしろ少ない。症状がこじれて、
自閉症ぽくなったり、かん黙児ぽくなったりすることもある。

 そういう子どもでたいへん興味深いのは、その教室に、母親がいないだけで、症状が消える
ということ。母親が、何かのことで、教室を出たとたん、(子どもは、それをどこかで感じるのだ
ろうが……)、声を出したり、笑ったりし始める。

 が、再び、母親が教室へもどってきたとたん、以前の症状に、もどってしまう。このとき、さら
に興味深いのは、子どもが、それを見ているのではないということ。母親が出ていったり、入っ
てきたりするのを、子どもは、体のどこかで感じとっている。あるいは雰囲気でわかるのかもし
れない。

 こういうケースは、この世界では、珍しくない。

 子どもにとっては、母親は、絶対的なものである。それはそのとおりだが、その(絶対さ)が、
かえって逆効果になることもある。大切なことは、母親自身が、その(絶対さ)に気づき、自ら、
ブレーキをかけていくということ。

 でないと、ここでいう依存性が、子どもについてしまう。その極端な例が、「冬彦さん(テレビド
ラマ『ずっとあなたが好きだった』の主人公。マザコン)」ということになる。

 それについては、また別の機会に書くことにするが、母親も、ベタベタの母子関係に、決し
て、甘えてはいけない。その一つとして、ここでいう依存性の問題がある。

 子どもが母親にもつ、依存性を、決して、安易に考えてはいけない。

【余談】

 原始的な母系社会では、こうした子どもがもつ母親へ依存性を、そのまま利用して、母親中
心型の社会を、つくりあげる。

 日本も、極東の島国の中で、独特の母系社会をつくりあげた。子どもが、「産んでいただきま
した」「育てていただきました」と言うときは、母親に対してである。決して、父親に対してではな
い。

 森進一の歌う、『おふくろさん』にしても、母親の歌である。同じように、『オヤジさん』※という
歌があってもよさそうなものだが、そういう歌はない。久保田聡の作曲した、『かあさんの歌』と
いう歌にしてもそうだ。

 日本では、母親をたたえる歌は多い。しかし父親をたたえる歌は、少ない。こんなところに
も、日本型母系社会の特徴が現れているとみる。

注※……『おやじ』をテーマにした歌謡曲は、いくつかある。
   
++++++++++++++++++++

日本人がもつ依存性について、2年前に、
こんな原稿を書いた。
少し過激な意見だが、参考にしてもらえれ
ば、うれしい。

++++++++++++++++++++

野口英世の母親

●母シカの手紙

 二〇〇四年に新千円札が発行されるという。それに、野口英世の肖像がのるという。そうい
う人物の母親を批判するのも、勇気がいることだが、しかし……。

 野口英世が、アメリカで研究生活をしているとき、母シカは、野口英世にあてて、こんな手紙
を書いている。

 「おまイの しせにわ みなたまけました……(中略)……はやくきてくたされ いつくるトおせ
てくたされ わてもねむられません」

(お前の、出世には、みな、たまげています。……(中略)……早く帰ってきてください。いつ帰っ
てくるか、教えてください。私は、夜も眠られません。)(一九一二年・明治四五年・一月二三日)
(福島県耶麻郡猪苗代町・「野口英世記念館パンフレット」より)

 この母シカの手紙について、「野口英世の母が書いた手紙はあまりにも有名で、母が子を思
う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙として広く知られています」(新鶴村役場・企画開発課パ
ンフ)というのが、おおかたの見方である。

母シカは、同じ手紙の中で、「わたしも、こころぼそくありまする。どうかはやくかえってくだされ
……かえってくだされ」と懇願している。

 これに対して、野口英世は、一九一二年二月二二日に返事を書いている。「シカの家の窮状
や帰国の要請に対して、英世としてはすぐにも帰国したいが、世界の野口となって日本やアメリ
カを代表している立場にあるのでそれもかなわないが、家の窮状を解決することなどを切々と
書いています」(福島県耶麻郡猪苗代町・野口英世記念館)と。

 ここが重要なところだから、もう一度、野口英世と母シカのやり取りを整理してみよう。

 アメリカで研究生活をしている野口英世に、母シカは、(1)そのさみしさに耐えかねて、手紙
を書いた。内容は、(2)生活の窮状を訴え、(3)早く帰ってきてくれと懇願するものであった。

 それに対して野口英世は返事を書いて、(1)「日本とアメリカを代表する立場だから、すぐに
は帰れない」、(2)「帰ったら、窮状を打開するため、何とかする」と、答えている。

しかし、だ。いくらそういう時代だったとはいえ、またそういう状況だったとはいえ、親が子ども
に、こんな手紙など書くものだろうか。それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよ
い。

あなたのところにある日、あなたの母親から手紙が届いた。それには切々と、家の窮状を訴
え、ついで「帰ってきてくれ」と書いてあったとする。もしあなたがこんな手紙を手にしたら、どう
するだろうか。あなたはきっと自分の研究も、落ちついてできなくなってしまうかもしれない。

●ベタベタの依存心

 日本人は子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもに恩を着せてしまう。「産んでやった」
「育ててやった」と。一方、子どもは子どもで、やはり無意識のうちにも、「産んでもらった」「育て
てもらった」と、恩を着せられる。

たがいにベタベタの依存心で、もちつもたれつの関係になる。そういう子育てを評して、あるア
メリカ人の教育家は、こう言った。「日本人ほど、子どもに依存心をもたせることに無頓着な民
族はいない」と。

 そこでもう一度、母シカの手紙を読んでみよう。母シカは、「いつ帰ってくるか、教えてくださ
い。私は夜も眠られない。心細いので、早く帰ってきてください。早く帰ってきてください」と。

 この手紙から感ずる母シカは、人生の先輩者である親というより、子離れできない、未熟な
親でしかない。親としての尊厳もなければ、自覚もない。母シカがそのとき、病気か何かで伏せ
っていたのならまだしも、母シカがそうであったという記録はどこにもない。

事実、野口英世記念館には、野口英世がそのあと帰国後にとった写真が飾ってあるが、いっ
しょに写っている母シカは、どこから見ても元気そうである。

 ……と書くと、猛反発を買うかもしれない。先にも書いたように、「母が子を思う気持ちがにじ
み出た素晴らしい手紙」というのが、日本の通説になっているからである。いや、私も昔、学生
のころ、この話を何かの本で読んだときには、涙をこぼした。

しかし今、自分が親になってみると、この考え方は変わった。それを話す前に、自分のことを書
いておく。

●私のこと

 だからといって、私は、親を思う子どもの心を否定するものではない。その一つが、「孝行論」
である。

 私はその「孝行」を否定するものだない。ただこの日本では、あまりにも安易に孝行論を肯定
しすぎているのではないか。そのため、「子どもが親の犠牲になるのは、当たり前」と、みなが
考える。

 その社会的重圧感は、相当なものである。

 たとえば私は二三、四歳のときから、収入の約半分を、岐阜県の実家に仕送りしてきた。今
のワイフといっしょに生活するようになったころも、毎月三万円の仕送りを欠かしたことがない。
大卒の初任給が六〜七万円という時代だった。

が、それだけではない。母は私のところへ遊びにきては、そのつど私からお金を受け取ってい
った。長男が生まれたときも、母は私たちの住むアパートにやってきて、当時のお金で二〇万
円近くをもって帰った。

母にしてみれば、それは子どもとしての、当然の行為だった。(だからといって、母を責めてい
るのではない。それが当時の常識だったし、私もその常識にしばられて、だれに命令されるわ
けでもなく、自らそうしていた。)

しかしそれは同時に、私にとっては、過大な負担だった。私が二七歳ごろのときから、実家で
の法事の費用なども、すべて私が負担するようになった。ハンパな額ではない。土地柄、そう
いう行事だけは、派手にする。

たいていは近所の料亭を借りきってする。その額が、二〇〜三〇万円。そのたびに、私は貯
金通帳がカラになったのを覚えている。

 そういう母の、……というより、当時の常識は、いったい、どこからきたのか。これについては
また別のところで考えることにして、私はそれから生ずる、経済的重圧感というよりは、社会的
重圧感に、いやというほど、苦しめられた。

 「子どもは親のめんどうをみるのは当たり前」「子どもは先祖を供養するのは当たり前」「親は
絶対」「親に心配かける子どもは、親不孝者」などなど。

私の母が、私に直接、それを求めたということはない。ないが、間接的にいつも私はその重圧
感を感じていた。たとえば当時のおとなたちは、日常的につぎのような話し方をしていた。

「あそこの息子は、親不孝の、ひどい息子だ。正月に遊びにきても、親に小遣いすら渡さなか
った」
「あそこの息子は、親孝行のいい息子だ。今度、親の家を建て替えてやったそうだ」と。それ
は、今から思えば、まるで真綿で首をジワジワとしめるようなやり方だった。

 こういう自分の経験から、私は、自分が親になった今、自分の息子たちにだけは、私が感じ
た重圧感だけは感じさせたくないと思うようになった。よく「林は、親孝行を否定するのか」とか
言う人がいある。「あなたはそれでも日本人ですか」と言ってきた女性もいた。しかしこれは誤
解である。誤解であることをわかってほしかったから、私の過去を正直に書いた。
 
●本当にすばらしい手紙?

 で、野口英世の母シカについて。私の常識がおかしいのか、どんな角度から母シカの手紙を
読んでも、私はその手紙が、「母が子を思う気持ちがにじみ出た素晴らしい手紙」とは、思えな
い。そればかりか、親ならこんなことを書くべきではないとさえ、思い始めている。そこでもう一
度、母シカの気持ちを察してみることにする。

 母シカは野口英世を、それこそ女手ひとつで懸命に育てた。当時は、私が子どものころより
もはるかに、封建意識の強い時代だった。しかも福島県の山村である。恐らく母シカは、「子ど
もが親のめんどうをみるのは当たり前」と、無意識であるにせよ、強くそれを思っていたに違い
ない。

だから親もとを離れて、アメリカで暮らす野口英世そのものを理解できなかったのだろう。文字
の読み書きもできなかったというから、野口英世の仕事がどういうものかさえ、理解できなかっ
たかもしれない。

一方、野口英世は野口英世で、それを裏返す形で、「子どもが親のめんどうをみるのは当たり
前」と感じていたに違いない。野口英世が母シカにあてた手紙は、まさにそうした板ばさみの状
態の中から生まれたと考えられる。

 どうも、奥歯にものがはさまったような言い方になってしまった。本当のところ、こうした評論
のし方は、私のやり方ではない。しかし野口英世という、日本を代表する偉人の、その母親を
批判するということは、慎重の上にも、慎重でなければならない。

現に今、その母シカをたたえる団体まで存在している。母シカを批判するということは、そうした
人たちの神経を逆なですることにもなる。だからここでは、私は結論として、つぎのようにしか、
書けない。

 私が母シカなら、野口英世には、こう書いた。「帰ってくるな。どんなことがあっても、帰ってく
るな。仕事を成就するまでは帰ってくるな。家の心配などしなくてもいい。親孝行など考えなくて
もいい。私は私で元気でやるから、心配するな」と。

それが無理なら、「元気か?」と様子を聞くだけの手紙でもよかった。あるいはあなたなら、ど
んな手紙を書くだろうか。一度母シカの気持ちになって考えてみてほしい。

【追記】(04年05月25日)

 母シカの手紙を改めて読みなおすと、「そういうものかなあ?」と思う気持ちが、起きないわけ
ではない。

 しかしこの手紙は、あなた自身のマザコン度診断テストにも、使えるのではないか。

 もう一度、母シカの手紙を読んでみよう。

「おまイの しせにわ みなたまけました……(中略)……はやくきてくたされ いつくるトおせてく
たされ わてもねむられません」

 この手紙を読んで、(1)すばらしい母親だと思う人もいれば、(2)こんな手紙を、外国でがん
ばっている息子に書くべきではないと思う人もいる。

 実は私の二男も、今、アメリカに住んでいる。アメリカで、アメリカ人の女性と結婚している。こ
ういう時代とはいえ、それでも、毎年、どんどん私とは疎遠になっていくのを感ずる。

 が、私は、母シカが書いたような手紙は、書かない。書けない。いくら苦しくても、またつらくて
も、最後の最後まで、私なら、こう書くだろう。

 「私のことは心配するな。みんな、元気でやっているよ」と。

 実は、最近、逆の立場で、こんなことを知った。

 二男は、高校を卒業すると同時に、アメリカへ渡った。そのときのこと。今になって、二男はこ
う言う。

 「アメリカへ着いたころは、言葉もわからなく、つらくて毎日、泣いて暮らした。しかしパパやマ
マにそれを言うと、パパやママが、心配すると思って、話せなかった。手紙では、『元気でやっ
ている』とウソを書いた」と。

 私は二男のその言葉を聞いたとき、二男には、ひどいことをしたと後悔すると同時に、「親子
というのは、そういうものだなあ」と思った。

 さて、みなさんは、どう思うだろうか。それでも母シカは、すばらしい母親だと思うだろうか。そ
れとも、私がここに書いたように、子離れできない、未熟な母親とみるだろうか。

 当時の貧しい時代という背景もある。いろいろと事情もあったのだろう。だから今という時代
の中で、母シカを判断することはできない。しかし一つのテーマにはなると思う。一度、あなた
の夫(妻)と、野口英世の母シカについて、話しあってみたら、どうだろうか。

 野口英世の母親、シカは、本当にすばらしい母親だったのかどうか、と。


●体の不調
 
 この数日、どうも体の調子がよくない。体全体が、だるく、頭も重い。ときどきソファに横にな
るが、それが楽だというふうでもない。眠たいはずなのだが、横になっても、眠れない。

 運動は、している。食事にも気をつけている。どこといって、悪いところはない。ふだんより、
ストレスは少ない。いろいろ原因をさがしてみるが、思い当たることがない。

 もちろん、頭の活動も、鈍くなっている。あれこれ考えてみるが、脳の表面的なところで、思考
がそのまま、上すべりしてしまう。何かを考えようとすると、「まあ、いいじゃないか」という、投げ
やりな結論が、先に出てきてしまう。

 そう、この数日、疲れている。マガジン用の原稿を書かねばと思うのだが、その原稿を書くの
が、つらい。

 「こんなことをして何になるのか?」「書いてもムダ」「どうせ、だれも読んでいない」と、否定的
な思いが、つぎからつぎへと、わき起きてくる。一応、1000号までマガジンを発行すると心に
決めているが、今の状態では、1000号なんて、とても無理。500号が、よいところ。

 ワイフに相談すると、ワイフまでが、「500号でやめたら……」と。そう言えば、数日前も、「量
が多すぎる」「内容がむずかしい」「もっと読みやすくしてほしい」という苦情が届いた。東京に住
む、Kさんという方(女性)だった。

 どうしようか?……と考えているうちに、数時間がたってしまった。

 ここ数日、ゆっくり休んで考えなおしてみよう。明日になっても、まだ原稿を書いているような
ら、今しばらく、マガジンの発行はつづく。そうでなければ、しばらく休刊。それにしても、ここ数
日、少し、疲れた。ホント。

【陰の声】

 グダグダ言っているなら、さっさと、マガジンなんて、やめてしまえ! ハハハ。……と思いな
おして、今日もがんばりました。
(040526)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(172)

【子どもの指導】

 子どもを指導するときは、当然のことながら、子どもの心理を知らなければならない。そこで
家庭でも応用できる心理操作法をいくつか、思いつくまま、あげてみる。

●服従心理

 子どもには、元来、服従心理がある。「だれかに従って、その命令どおり動いてみたい」という
心理である。

 が、これには、コツがある。

 相手を服従させるためには、「納得」が必要である。

 たとえば学校の先生が、子どもに一冊の本を渡して、「これを読んでごらん」と言ったとする。
そのとき、その子どもは、その場の雰囲気を感じながら、「はい」と言って、それに従う。

 しかし見知らぬ大学生が、子どもに一冊の本を渡して、「これを読んでごらん」と言っても、そ
の子どもは、それには従わない。

 そこで子どもに何かをさせるときは、それなりのお膳立てをしなければならない。そのお膳立
てが、そのときの雰囲気ということになる。

 子どもを納得させるものとして、ここでいう(1)雰囲のほか、(2)権威づけ(先生の命令なら聞
くが、そうでない人の命令には、従わない)、(3)理由づけ(合理的な理由や、自分にとって必
要なことなら従う)、(4)同調性(その人の意見に、同調するときは従う)などがある。子どもの
側からみて、納得できる状態ということになる。

 こうしたお膳立てをうまくしながら、子どもを指導する。

 しかし、すでに親の言うことを聞かないというのであれば、親自身がもつ権威は、すでに失墜
しているとみる。(権威で子どもをしばるのは、もちろんよくないが……。)

 まずい例としては、(1)親が寝そべってテレビを見ながら、「夕刊を取ってきて!」と言う。(2)
夫婦げんかばかりしている親が、子どもに向かって、「友だちと仲よくしなさい」と言う。(3)交通
ルールなど、自分では社会的ルールを平気で破っておきながら、子どもに向かっては、「約束
を守りなさい」などと言うなど。

 親の身勝手は、親の権威を破壊する。

 ただしこうした服従心理は、年齢によって、かなり異なるし、個人差もある。ふつう自我の発
達とともに、自己意識が育ってくる。そうなると、子どもは、自分自身の中の服従心理と戦うよう
になる。服従的な態度がよいというわけではない。あくまでも、子どもを見ながら、判断する。


●動機づけ

 子どもの指導は、動機づけのよしあしで、そのあとのほとんどが決まると言ってもよい。動機
づけがうまくいくと、そのあとの、学習などが、うまくいく。しかし失敗すると、親も子どもも、その
何倍もの苦労をすることになる。

 とくに乳幼児期の動機づけは、慎重にする。この時期、一度動機づけで失敗すると、(逃げ
る)→(やらない)→(ますます嫌いになる)の悪循環を繰りかえすようになる。

 たとえば本読み。

 まず、親が何度も子どもをひざに抱き、子どもに本を読んで聞かせる。そういう(温もり)が、
子どもを、本好きにする。「本は楽しい」「本はおもしろい」という思いが、子どもを前向きに引っ
張っていく。

 まずいのは、いきなり本を与えて、「読みなさい!」と命令するような行為。「まだ読めない
の!」「ここまで読まなければ、夕食はなし!」などという、無理、強制、条件。一時的な効果は
あっても、あくまでも一時的。

 ついでに、読書はあらゆる学習の基礎となる。「本が嫌い」というのは、あらゆる分野に悪い
影響を与える。たとえば理科、社会という科目にしても、小中学生のころは、理科的なことが書
いてある国語、社会科的なことが書いてある国語と理解すると、わかりやすい。

 乳幼児期は、本読みの動機づけを、とくに大切にする。


●手本

 自分では本を読んだこともない親が、子どもに向かって、「本を読みなさい」は、ない。こうした
身勝手は、子育てにはつきもの。

 たとえば何か大きな事件が、近くで起きたとする。どこかの子ども自身が、事件を起こすこと
もある。そういうとき、たいていの親は、「うちの子はだいじょうぶかしら?」と心配する。事件に
もいろいろあるが、この日本では、基本的にはルールさえしっかりと守っていれば、事件に巻き
こまれることは、まず、ない。

 そのルールだが、親が、子どもの目の前で、破るだけ破っておいて、子どもには、「守りなさ
い」は、ない。

 こんな例がある。

 ある中学生が、友だちから、CDを借りた。が、しばらく、それを返さなかった。で、それを学校
の先生から連絡を受けた父親は、その中学生を、スリッパの裏で、はり倒した。

 その中学生の顔には、ちょうどスリッパの形のアザができた。

 それを見て、私がその父親に、「何もそこまでしなくても……!」と言うと、その父親は、こう言
った。「オレは、まちがったことが大嫌いだ。人からものを借りて返さないなどということは、許さ
ない。そういうまちがった根性は、今のうちにたたきのめしてやる!」と。

 では、その父親が、そこまで自分にきびしい人だったかというと、それは疑わしい。国産車だ
が、最高級の車に乗っていた。しかしタバコの灰や、吸殻は、すべて窓の外に捨てていた。本
業は、土建業だが、業者の中では、「スルイ男」と呼ばれていた。「小ずるい男」という意味で、
そう呼ばれていた。

 最近、私は、ときどき、こんなふうに思う。

 よく赤信号になってから、交差点を猛スピードで走りぬけていく車がある。その中には、ときど
き、母親が運転し、横に子どもを乗せているケースもある。そういうのを見ると、「いいのかな
あ?」と。

 親は、多分、「これくらいのことならいいだろう」と思って、そうしているのだろう。しかし一事は
万事。そういう母親というのは、生活のあらゆる面で、そういう小ズルイことをしているにちがい
ない。で、母親は、それでいいとしても、そういう母親の姿を、日常的に見て育った子どもは、ど
うなるのか? 実のところそれを考えると、ぞっとする。

 子どもに向かって、「宿題をしなさい」「勉強をしなさい」と言うくらいなら、まず、親がそれをし
てみせる。それは子育ての基本といってもよい。子どもに向かって、「人に迷惑をかけてはいけ
ない」「悪いことをしてはいけない」と言うくらいなら、まず、親が、ルールを守ってみる。

 ……と、きびしいことを書いてしまったが、よい手本を見せるのが、子育ての基本ということに
なる。

 ……ここまで書いたとき、もう一つ、こんな話を思い出した。

 学生時代、B君というオーストラリアの友人と、ドライブをしていたときのこと。乗っていた車
が、州境(ざかい)までやってきた。

 そのとき私は、パンか何かを食べていた。それをB君が見て、「ヒロシ、パンを捨てろ」と。

 当時、オーストラリアでは、州を越えるときは、すべての食べものを、そこで捨てることになっ
ていた。病害虫の移動を、させないためだった。そのための、巨大なゴミ箱が、そこに置いてあ
った。

 私は、「いいじゃないか、パンぐらい……」というようなことを言ったと思う。しかしB君は、一歩
もゆずらなかった。「南オーストラリア州で買った食べものは、ビクトリア州へは、持ちこめない
ことになっている。ここで捨てろ!」と。

 かなりの間、押し問答がつづいた。「捨てろ!」「いいじゃないか!」と。

 私は、B君の杓子定規(しゃくしじょうぎ)なものの考え方に、あきれた。州境といっても、大平
原のど真中。人が立って見ているわけではない。途中で、検査されるわけでもない。しかしB君
は、「捨てろ!」と。

 しかしそれから35年。今、B君は、私のもっとも信頼のおける友人になっている。と、同時
に、私は、B君に対しては、とくにきちんと、どんな約束でも、それを守るようにしている。人間
関係というのは、そういうもの。

 親子関係といっても、つきつめれば、そこは純然たる人間関係。長い時間をかけて、親子と
いうワクを超えた関係になる。そういうことも考えながら、今のあなたのあり方を、少しだけ反省
してみるとよい。10年や20年ではない。30年、40年先には、どうなるか、と。

 ついでながら、欧米では、子育ての基本は、「心を開いて、誠実に」(Open your heart and 
be honest.)だそうだ。何かのビデオ映画の中で、だれかがそう言っていた。子どもには、心を
開いて、誠実に接する。それがあなたの子どもを、よい子にする、と。

 何か大きな事件が起きるたびに、「心配だ」と思うなら、一度、あなた自身の子育てのあり方
を反省してみるとよい。ふつう「心配だ」と思うということは、すでに、あなたの子育ては、危険な
状態に入っているとみてよい。

+++++++++++++++++++

 同じく30年ほど前。結婚していたにもかかわらず、女遊びばかりしている男がいた。私を「友
だち」と呼んでいたが、そのあと、私は、何度も裏切られた。お金を貸したこともあるが、一円も
返してくれなかった。

 で、そういう男を信じた、私が愚かだった。妻でさえ裏切るような男である。私のような友人
(?)を裏切ることなど、何でもない。朝飯前。

 そんな男が、今から10年ほど前、また私に接近してきた。何かビジネスをいっしょにしよう。
ついては、私にも、出資をしないかというような話だった。しかし私には、なつかしさは、まったく
起きなかった。もちろんそのビジネスは、断わった。

 オーストラリア人のB君とくらべると、その男は、私にとっては、正反対の位置にいた。いくら
誠実そうなことを言っても、私は、まったく信用しなかった。もちろん、その男との関係は、その
ときだけ。それで、おしまい。以後、私のほうからは、その男とは、連絡をとっていない。

 親子関係も、同じように考えてよいのではないだろうか。

【追記】

 ウソはつかない。約束は守る。たったそれだけのこと。簡単なことである。そういう日々の積
み重ねが、月となり、年となり、やがてその人の人格になる。


●同調作用
  
 人間は、太古の昔、群れをなして共同生活をしていた? この傾向が、今でも、人間の中に
残っている。それが同調作用と呼ばれる現象である。

 たとえばAさんが、「あの店の料理はおいしい」と言ったとする。それに合わせて、Bさんも、
「そうよ」と言ったとする。するとその場にいたCさんまでもが、実際には、その店に行ったこと
がないにもかかわらず、「そうみたいねえ」と、相づちを打つ。

 こうした同調作用は、子どもの世界にもある。

 以前、ポケモンが全盛期のころ、子どもたちはみな、狂ったようにポケモンの歌を歌い、ポケ
モングッズを、ほしがった。私がピカチューの絵をまねて描いてみせただけで、教室全体が異
様な興奮状態になってしまったこともある。

 こうした同調作用は、まさに両刃の剣。うまく使えば、子どもを望ましい方向に導くことができ
る。そうでなければ、そうでない。

 そこで大切なのは、そのバランスということになる。同調作用が強過ぎてもいけないし、しかし
まったくないというのも、困る。

 そこで一つのポイントは、服従性。服従的な同調性が見られたら、家庭教育のあり方を、か
なり深刻に反省する。

 一般論から言えば、自我の発達の遅れた子どもほど、自尊心が弱く、自己主張も弱い。親の
過干渉で、内閉したり、萎縮した子どももそうである。このタイプの子どもは、いわゆる人の顔
色を見て行動するようになる。さらにひどくなると、だれかの指示や命令がないと、行動しなくな
る。

 が、そうでなければ、同調作用は同調作用として、適当に理解する。「みんなとうまくやろう
ね」程度のアドバイスは、悪くない。大切なことは、譲るべきところは、譲る。しかし重要なことに
ついては、その信念を貫くということ。

 そういうメリハリのきいた子どもにすることである。
 
【追記】

 その同調作用について、S県のSY子さん(母親)から、今朝(5・28)、こんな相談のメールを
もらった。

 「息子(5歳児)のことだが、私は私という子育てをしている。しかし隣人の女の子の家に行く
と、目移りがするほど、おもちゃがいっぱいある。

 そういうのを見て、うちの息子も、ほしいと言う。このままでは、仲間はずれにされてしまうか
もしれない。どの程度まで。親は許すべきか」と。

 こうした相談は、少なくない。「テレビゲームには、反対。しかしそのため、うちの子は、友だち
から、のけ者にされている」「うちの子どもだけ、テレビゲームをもっていない。そのため、いつ
も友だちの家に、入りびたりになっている」と。

 親として、どこまでほかの子どもたちに同調(迎合?)させたらよいかという問題である。

 しかしここで注意しなければならないことは、(同調)と、(迎合)は、もともと異質のものである
ということ。

 もう少し具体的に考えてみよう。

 私はもともとかなりいいかげんな人間だから、適当にその場をごまかしながら生きるのが、う
まい。しかしだからとって、信念(あまりそういうものは、ないかもしれないが……)をまげてま
で、相手に合わせるようなことはしない。

 この(適当につきあう部分)が、同調ということになる。しかし(自分の信念までまげてつきあう
部分)が、迎合ということになる。

 子どもをみるばあいも、それが同調なのか、迎合なのかを見極める必要がある。

 みなが祭に行くから行く……というのは、同調である。しかしみなが、酒を飲むから、飲むとい
うのは、迎合である。「飲んではいけない」と思ったら、そこで自分にブレーキをかける。

 このブレーキをかける部分が、自己規範ということになる。この自己規範を育てるのが、家庭
教育ということになる。

 そこでテレビゲーム。

 以前、子どもにテレビゲームを与えるべきかどうかで、真剣に悩んでいた祖母がいた。さらに
どんなゲームソフトを与えるべきかでも、悩んでいた。「今のままでは、うちの孫は、のけ者にな
ってしまう」と。その祖母は、おかしいほど、真剣に心配していた。

 しかしこうした問題は、適当に考えればよい。「これが家庭教育」と、構えるような問題ではな
い。その時期がきて、予算に余裕があれば、買ってあげればよい。ムダと思うなら、買わなけ
ればよい。

 買ってあげたから、子どもの心がゆがむとかそういうことはない。買わなかったから、のけ者
にされて、心がゆがむとか、そういうこともない。絶対にない。

 大切なことは、その子どもが、(してはいけないことをしないかどうか)(すべきことはするかど
うか)である。

 えてして、多くの親たちは、表面的な、どうでもよい問題に振りまわされる。そして本来考える
べき、重要な問題を見落としてしまう。この子どももがもつ同調作用にも、似たような問題が含
まれる。

【追記2】

 日本人がもつ同調作用というのは、一種独特のものがある。「みんなと渡れば、こわくない」と
か、「長いものには、巻かれろ」とか言う。「出るクギは、たたかれる」というのもある。

 こうした同調作用は、若い母親には、とくに強い。子育てにまつわる不安や心配が、それに
拍車をかける。

 どうして、そうなのか?

 基本的には、それだけ自分がないということになる。ないから、周囲に振りまわされる。

 が、若い母親を責めても意味はない。ほとんどの親は、その準備もないまま、結婚し、親にな
る。あたふたとしているうちに、数年が過ぎ、子どもも、数歳になる。自分がないからといって、
それは仕方のないことかもしれない。

 実際、この日本では、「私は私」という生きザマを貫くのは、むずかしい。自由があるようで、
ない。その自由は、まさに(しくまれた自由)(尾崎豊)でしかない。

 「コースに乗っていれば安心」「コースからはずれたら、心配」と、だれしも考える。S県のSY
子さんの悩みも、そのあたりから生まれている。

 では、どうするか?

 子育てをしながら、大切なことは、自分自身の生きザマを確立すること。「自分はどうあるべ
きなのか」「どう生きたらよいのか」、それを模索すること。

 「テレビゲームを買ってあげるべきかどうか」と悩むことは、一見、子どもの問題に見えるかも
しれないが、実は、それはその親自身の生きザマの問題でもある。

 「テレビゲームは、子どもの脳に悪影響を与える」という情報を手に入れたら、買わないこと。
心を鬼にして、買わないこと。しかし「のけ者にされそうだ」と感じたら、買ってやること。しかし
そのときでも、テレビゲームをさせる時間と場所を、子どもとよく話しあうこと。……などなど。

 こうして親は、試行錯誤を繰りかえしながら、自分の生きザマを確立していく。つまりこういう
親の生きザマが、子どもの中に、「私は私」という自己意識を育てる。そしてそれが同調はして
も、迎合はしないという子どもを育てる。

 テレビゲームを買ってあげればよいかどうかというような、単純な問題では、決してない。

 これから先、子どもは、(どんな子どもでも)、無数の問題をかかえるようになる。問題のない
子どもなど、絶対にいない。問題のない子育てなど、絶対にない。

 問題があることが、問題ではない。大切なことは、問題があるという前提で、子育てをするこ
と。立ち向かうこと。そういう姿勢が、あなたを育て、同時に、あなたの子どもを育てる。

【追記3】

 ここまで書いて、先ほど、ワイフとこんなことを話しあった。

 近所に、定年退職をした老夫婦が住んでいる。近所づきあいは、まったくといってよいほど、
ない。訪問客も、年に数人あるかないかということだそうだ(隣人談)。

 その夫婦について、ワイフが、「あの人たちは、何のために生きているのかねエ?」と。

 実は、ここではその老夫婦のことを論ずるのが目的ではない。私やあなたの生活にしても、
その老夫婦とそれほど、ちがわないということ。基本的には、同じ。

 ただ生きる目的はある。子育て真っ最中のあなたなら、子育てをすることが、その目的という
ことになる。私は、ワイフにこう言った。

 「ぼくだって、家族がいると思うから、がんばる。もし家族がいなかったら、今ごろは、ホーム
レスになっているか、寝こんでいるかの、どちらかだ。

昨日も、歩くだけもでも、つらかった。体が重かった。しかし『ここで負けてはダメだ』 と歯をくし
ばって、自転車に乗った。運動に出かけた。家族がいるということは、そういうことだ。

 ただし、では家族がいて、子育てをすることが、生きる意義かというと、ぼくは、そうは思わな
い。目的と、意義は、ちがう。別のもの。

 あの老夫婦には、生きる目的は、もうない。問題は、生きる意義だが、それも、ないように思
う。ただ生きているだけというか、死に向って、まっしぐらに進んでいるだけ。そういう人生から
は、何も生まれない。

 同じように、ぼくたちも気をつけないと、あの老夫婦と同じことをしてしまう。目的と意義を混同
してはいけない」と。

 ……といっても、生きる意義を見出すことは、簡単なことではない。「私たちは何のために生
きているか?」という問題である。

 もちろん子育てをすることが、生きる意義ではない。子育てをすることは、目的にはなるが、
しかし意義ではない。また意義にしては、いけない。それはあなた自身のこととして考えてみれ
ば、わかるはず。

 あなたの親が、あなたに向って、こう言ったとしたら、あなたはそれに耐えられるだろうか。

 「私は、あなたを育てるために、自分の人生のすべてを賭(か)けました。私の生きる意義
は、あなたを育てることでした」と。

 多分そのとき、あなたは、きっとこう答えるにちがいない。「私のことはいいから、お父さん、お
母さん、どうか、あなたの人生を生きてください」と。

 親は子そだてをしながら、その一方で、自分の生きる意義を模索する。それも子育てに隠さ
れた目的の一つかもしれない。
(040528)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

子育て随筆byはやし浩司(173)

【小泉首相のK国、再訪問】

 前回、私は、小泉首相のK国、再訪問について、「国際外交としては、100点」と書いた。

 しかし今週(5月27日現在)、あちこちの週刊誌を読むと、その評価は、かなりきびしいこと
がわかった。「失敗」「取られ損」など。週刊朝日でさえ、拉致被害者に焦点をあて、「引き裂か
れた明暗」と題して、「制裁カードを放棄した日本」「訪朝の切り札使い、この程度?」などと書
いている。

 しかし私は、あえて、以下のように、反論する。

+++++++++++++++++++

●日本は、戦争をしてはいけない!

 勇ましい好戦論ばかりが、目だつ。日本が、戦争するなら、あるいはその覚悟があるのなら、
それもよいだろう。さらにあるいは、あなたが自分の子どもを、戦場に送り出す覚悟と準備がで
きているのなら、それもよいだろう。

 しかしK国など、相手にしてはいけない。また、もともと本気で相手にしなければならないよう
な、国ではない。その価値もない。

 すべての議論は、ここから始まる。

 繰りかえすが、K国は、頭のおかしな独裁者を頂点に置く、独裁国家。そんな国を相手にし
て、正論だの、正義などを、ふりかざしても意味はない。つまらない。つまり日本は、K国などと
戦争をしてはいけない。またするだけの価値もない。

 経済は壊滅状態。毎年、各国から、食料援助を受けて、かろうじて生き延びている。そんな、
かわいそうな国である。あわれな国である。仮に、そんな国に、侮辱されても、日本は、気にし
てはいけない。相手にしてはいけない。K国が、日本をバカにしたら、「ああ、そうですか」と、引
きさがればよい。

 世界は、すでにK国など、相手にしていない。アジアでも最貧国。どうしようもないほど、貧し
い国である。

 みなさんも、見たことがあるだろう。日本から出た中古自転車を山積みにして、日本から出て
行く、K国の船を! どの船も、ボロボロの老朽船ばかり。

 先日も、近くの公民館で、明らかにK国製と思われる雑貨(サイフやベルトなど)を売ってい
た。どれも見るに耐えないというか、粗悪品ばかり。私も一本、1000円というベルトを買った
が、縫い目は、模様だけ。ノリでくっつけただけのベルトだった。

●核兵器しかないK国

 そのK国は、精一杯虚勢を張って、いばっている。逆に考えてみよう。

 もしK国に、核兵器がなかったら、K国は、どうなる? K国は、どこからも相手にされなくなる
だろう。日本だって、相手にしない。

 今、かろうじてK国が、世界の関心を集めているのは、また集めることができているのは、核
兵器をもっているからにほかならない。。

 この核兵器があるから、日本をはじめ、韓国やアメリカは、食料援助をしている。つまりK国
にとって、核兵器は、自分の存在感を世界に知らしめる手段になっている。

 だから、K国は、その大前提として、核兵器を手放すようなことは、最後の最後まで、しない。
するわけがない。

 もちろん核兵器のターゲットは、ソウルでも、ワシントンでもない。東京である。

 ここを忘れてはいけない。絶対に忘れてはいけない。

●アメリカ頼み

 国際政治は、どこまでも現実的でなければならない。「現実」だけをみて、判断する。安易な
感情論こそ、いましめられるべきである。

 そういう視点で、日本の外を見てみよう。

 仮に日朝戦争ということになれば、中国はもちろん、韓国も、K国を助ける。ロシアは一応中
立のフリをするが、やはりK国を助ける。少なくとも、日本を助けることは、絶対にしない。

 そういう中、日本の味方となってくれるのは、アメリカしかいない。月刊誌「S」は、「日本の自
衛隊は、アメリカの下請け」と、酷評しているが、事実、そのとおり。そのとおりだから、これは
どうしようもない。

日本の自衛隊に、戦闘能力などないことは、あなたが一番、よく知っているはず。悲しいかな、
今の自衛隊員の中で、実戦経験のある自衛官は、ゼロである。

 私の友人や知人の中には、現職の自衛官もいる。元自衛官もいる。彼らがみな異口同音
に、こう言っている。「自衛官といっても、サラリーマンです」と。サラリーマンが悪いと言ってい
るのではない。それが現実だということ。

 その上、K国の軍事情報は、すべてアメリカからもたらされている。さらに戦争となったときの
ことを考えてみればよい。

 日本は、K国まで入っていって、相手を抑えることさえできない。戦闘機にしても、対地攻撃能
力はないし、第一、自衛隊は、「自衛」が原則。憲法によっても、その反撃能力は、大きく制約
されている。

 K国が日本にめがけて、つぎつぎとミサイルを撃ちこんできても、日本は反撃することさえで
きない。反撃すれば、今度は、韓国を敵に回すことになる。

 だったら、日本は、アメリカにすがるしかない。アメリカの核の傘の下に身を隠し、そのアメリ
カの核で、K国の核攻撃を、抑制するしかない。「下請け」ということには、そういう意味も含ま
れる。

●拉致問題

 日本の拉致問題を、一番、喜んでいたのは、実は韓国と中国ではなかったのか。日朝関係
が、険悪化すればするほど、韓国にとっても、中国にとっても、つごうがよい。自分たちだけ
は、「いい子」でいられる。

 だから韓国も中国も、この拉致問題については、まったく協力しなかった。中国にいたって
は、「6か国協議では、拉致問題は別にやれ」と主張していた。韓国は、中国に意見に追従し
た。

 しかし日本の国内世論は、拉致問題の解決を、再優先にした。その心情はわかるが、しかし
ことの重大さという観点からは、核兵器と拉致問題は、比較にならない。仮に東京のど真ん中
に、核兵器が落とされれば、瞬時に、数10万人から100万人の死者が出るといわれている。

 核兵器でなくても、生物兵器でも、化学兵器でも、被害は、それほど、かわらない。おおかた
の専門家は、ミサイル一発で、20万人の死者と計算している。20万人だぞ!

 日本政府としては、何としても拉致問題を解決した上で、つぎのステップ、つまり日朝友好状
態へ進まねばならなかった。

●日朝問題

 日本にとって最善の策は、金XX率いるK国を、自滅に追い込むこと。自己崩壊でもよい。国
内で、クーデターのようなものが起きてもよい。あるいはK国の国民が、いっせいに、中国や韓
国へなだれこむような状態でもよい。

 一方、最悪な状態というには、日本がK国に、核兵器でおどされながら、現金を手渡すこと。
金XX体制を支えるだけではなく、K国は、そのお金で、さらに大量の兵器を、中国やロシアか
ら買いこむことになる。

 K国は、後者をねらっている。中国も、それをねらっている。アジアから日本が消えれば、そ
れこそ、アジアは、中国のもの。

 同じく、韓国は、将来的にはすでに中国の経済圏の中で生き残ることを、もくろんでいる。K
国問題が片づけば、アメリカを追いだしたあと、中国との関係を深める。一説によれば、中国と
の軍事同盟すらも、もくろんでいると言われている。もともと朝鮮半島は、漢の時代から、中国
とのつながりが深い。

 が、もう一つの方法もある。

 それは日本とK国が、仲よしになることである。今のような対立関係をやめ、友好関係にもち
こむ。そして金XXの心を、溶かしていく。それが可能なら、もちろんこれにまさる方法はない。

●日本の主導権
 
 そんな中、拉致問題をきっかけとして、日本の対K国外交は、袋小路に入ってしまった。身動
きがとれなくなってしまった。

 K国は、相変わらず、ミサイル開発をつづけている。核兵器の開発も進めている。こうした
中、K国の核兵器について、6か国協議がつづけられている。

 しかし中国も韓国も、どこかいいかげん。何となくアメリカに歩調を合わせているといった感じ
でしかない。「核兵器は、日本に向けてのもの」というK国の説明を、そのまま鵜のみにしてしま
っている。

 韓国のノ政権にいたっては、「核兵器は、南北統一後、かえって好都合」というふうに考えて
いる。韓国が、さかんに「同胞」という言葉を使う背景には、そういう意図が隠されている。

 そこで韓国は、(中国もそうだが……)、日本やアメリカの意向にさからって、K国を、援助し
つづけている。

 今年度も、韓国は、20万トンの肥料のほか、40万トンの食料援助をするという。中国も、同
程度するという。何も、K国を助けるなということではないが、日本のK国外交は、そのため後
手後手に回ってしまった。

●小泉外交

 小泉首相は、K国を再訪問した。それについて、「メンツをつぶされた」「日本の権威が失墜し
た」と言う人もいる。

 しかし冒頭にも書いたように、メンツや権威など、この際、意味がない。K国は、日本が本気
で相手にしなければならないような国ではない。

 何よりも大切なことは、日本の東京で、核兵器を使わせないこと。もしそれがいやなら、つま
りメンツをつぶされるのがいやなら、日本も核武装するしかない。日本が味わっている脅威と
同じものを、K国に味あわせるしかない。

 しかしそれも愚かなこと。

 日本は核武装してはいけない。核武装すれば、今度はさらに強大な中国を、相手にしなけれ
ばならなくなる。その脅威は、K国どころではなくなる。

 そこで小泉首相は、K国を再訪問した。

●100点という理由

 国際外交は、表面的な部分だけを見て、判断してはいけない。たとえば小泉首相は、何度
も、「日本はピョンヤン宣言を守る」と言明している。

 このピョンヤン宣言の中で重要なことは、「日本の戦後補償と、K国にミサイル開発の凍結」
を、取り引きの材料とした点である。

 わかりやすく言えば、「K国がミサイル開発を凍結しているかぎり、日本はK国に、制裁措置
は取らない。戦後補償の交渉に応ずる」というものである。

 しかしK国が、ミサイル開発をしているのは、明々白々。アメリカも日本も、その情報をしっか
りとつかんでいる。

 つまり小泉首相は、とぼけ作戦を展開している。K国がミサイル開発をしているのを、百も承
知の上で、「戦後補償の交渉をする」と。しかもその戦後補償というのは、韓国の例をみるまで
もなく、分割払いが柱となる。つまり日本が、その分割払いをつづける間は、K国の無謀な野
心を、抑えこむことができる。

 日本が、こういう出方をすると、K国は、つぎの手を失う。失ったまま、どうしてよいかわからな
くなる。

K国は、表向きは、ミサイル開発をしていないことになっている。「開発をしている」と言えば、戦
後補償を日本から取れなくなる。つまり、タヌキとキツネの化かしあいということになるが、その
化かしあいで、日本が失うものは、何もない。

●困った韓国、中国

 まがりなりにも、日朝の国交正常化交渉が始まれば、それについて韓国や中国は、何も言え
なくなる。表向きは、「歓迎」としか言いようがない。現に韓国も、中国も、そう言っている。

 しかし内心は、穏やかではないはず。

 まず韓国だが、アメリカ軍は、すでに撤退の方向に動き出してしまっている。そういうとき、K
国が、ジャパン・マネーをつかんだら、どうなるか。韓国は「親北」などと、まあ、のんきなことを
言っておれなくなる。

 韓国とて、ある意味で、ジェスチャだけ。本気でK国を助ける気持ちはない。が、そういう韓国
の意図が見破られれば、核ミサイルは、東京ではなく、今度は、ソウルに向けられることにな
る。

 中国は失うものはないが、日本の経済力をたたきつぶすというもくろみは、ツユと消える。日
本がいるかぎり、中国は、国際舞台には、まだ当分は出られない。

●金XXとの会談の中で……

 金XXの前で、土下座までしてみせた金○外交の例もある。日本の外交は、まさにその土下
座外交に象徴されるように、いつも隷属的なものであった。

 しかし今回の小泉首相はちがった。その流れの中で、こんな会話がなされたにちがいない。

小泉「核兵器を廃棄しなさい」
金「これは米朝の問題だ」
小泉「ああ、そうですか。ではそうしてください」と。

 今までの国際外交は、日本は頭をさげ、「そこを何とか……」と言って、相手に懇願するのが
常だった。しかし小泉首相は、あっさりと、「そうですか」と認めて、それ以上の話しあいをしな
かった。会談の時間が、予想外に短かったというのは、そういう理由によるのでは……?

 その意図とするところは、「国連の安全保障理事会、付託もやむなし」という、き然とした態度
である。

 こうした会談で、一番、ビビったのは、金XX本人ではないのか。肩すかしをくらってしまった。
私はそのときの金XXの狼狽(ろうばい)ぶりが、目に見えるように想像できる。

 つまり金XXは、小泉首相が、泣き言を言うと思っていた。「それは困る」と、泣きつくと思って
いた。そしてその泣き言を利用する形で、より多くの援助を手に入れようとしていた。が、それ
があっさりと、蹴られてしまった。

 私が「戦後はじめて、外交らしい外交を、小泉外交に見た」と書いたのは、そういう理由によ
る。あっぱれ、小泉首相!

●つぎの一手

 日本は、K国の、ゆがんだ野心を封じこめたことになる。「日本のお金はほしい」「しかし何も
できない」という状態に、追いこんだ。

 つまり日本は、「ジャパン・マネーがほしければ、日本の言うことを聞け」という主導権をにぎ
った。

 が、ここで「本当にお金を渡してしまったら、どうなるか?」と心配する人もいるかもしれない。
しかし心配は、無用。

 日本は、決して、現金を渡さない。日本は、「米朝交渉がつづくかぎり、お金は渡せない」とい
う立場を貫くことができる。「あなたに、お金を渡したいが、アメリカが許してくれません」と。

 で、さらにお金を渡す段階になったとしても、今度は、ミサイル開発の事実を、何らかの形で
公表することもできる。「ピョンヤン宣言を破ったのは、K国だ」と。

 あのピョンヤン宣言は、実に巧妙な策略に満ちている。一見、日本に不利に見えるが、「ミサ
イル開発をしたら、日本は、1円も払わなくてもいい」というふうにも解釈できる。K国は、中国を
通して打診してきた補償額は、4兆円! 現金で、4兆円だぞ! 国家税収の10分の1! 日
本人一人あたり、約3万円! とんでもない額である。それを払わなくてすむ。

 ……というわけで、八方ふさがりになっていた日朝関係を、小泉首相は逆転させてしまった。
だから私は、少し甘いかもしれないが、「100点」と評価した。

 みなさんは、私の意見を、どう思うだろうか。

 私は好き勝手なことを書くことができる、自由人。そういう立場で、自由な評論をしてみた。

 なお小泉首相は、金XXとの会談の席で、25万トンの食料援助を申し出た。で、その中身だ
が、だれだって、その食料とは、「お米」のことだと思った。K国側も、そう思ったことだろう。日
本では、米しか、余剰生産物はない。

 しかし日本へ帰ってきてから、その中身というのは、「トウモロコシと小麦」と決まった。私は、
金XXが、じだんだ踏んで悔しがっている姿が、目に浮かぶ。

 が、金XXは、何も文句は言えない。10人の拉致被害者の消息を、何も日本側に伝えなかっ
た。これは、そのし返しともとれる。が、これが国際外交である。まさに国際外交である。

だいたいにおいて、日本人を拉致しておいて、「その消息すら教えない」というのは、おかしいと
いうより、狂っている。

●拉致問題

 もともとK国による拉致事件は、日本政府の怠慢が原因である。そういう事件が起きていると
いう情報をつかみながらも、1997年ごろまで、何ら手を打ったなかった。

 「K国が、そんなことをするはずがない」という、ノー天気なK国擁護論さえあった。だから日本
政府が、今回の拉致事件に、全面的な責任を負うのは、当然のこと。どんなに苦労をしても、
またお金がかかっても、被害者には、しっかりと補償すべきである。

 日本政府の責任というよりは、私たち一人ひとりの責任である。

 今朝(5・28)もYMさんの小学生時代の写真が、Y新聞に載っていた。それを見てワイフが、
「こんな子どもが誘拐されたなんて……」と言っていた。

 もしそれがあなたの子どもだったら、どうする? この問題は、そういう視点から考えなけれ
ばならない。

 いろいろ意見はあるだろうが、そういう犯罪を、国ぐるみで実行する独裁者を、許してはいけ
ない。そういう意味でも、私たちは、K国の金XX体制を、崩壊に導かねばならない。それは周
辺の国々のためでもあるが、同時に、K国の人たちのためでもある。

 表向きはともかくも、こうした拉致問題で、一番心を痛めているのは、日本に住む、在日朝鮮
人の人たちではないのか。

 また、私は、はからずも、今回の一連のK国問題を考えているとき、そのK国に、戦前の日本
をかいま見ることができた。今のK国は、戦前の日本以上に日本的な国と言ってもよい。戦前
の日本をおおっていた亡霊が、そのまま今度は、K国に乗り移ったかのようにさえ見える。

 そういうことも考えると、今回の拉致事件の遠因をつくったのは、ほかならぬ、私たち日本人
自身ということにもなる。一方的にK国を責めるのではなく、同時に、私たち自身も反省すべき
ところは反省する。謙虚になるべきところは、謙虚になる。

 勇ましい好戦論、あるいは好戦的意見は、たしかに耳には、聞こえはよいが、決して、そうし
た好戦論に振りまわされてはいけない。

 繰りかえすが、日本は、戦争をしてはいけない。
(040528)


最前線の子育て論byはやし浩司(174〜)以後は……●

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(174)

【近況・あれこれ】

●布教活動

 今日も、やってきた。二人でやってきた。どこかの教団の信者たちである。

 最初、「久しぶりです、林さん」と、その男は言った。どこかで見たような記憶はあるが、名前
は思い出せない。ボケたと思われるのがいやだから、こちらも調子を合わせて、「はあ、お久し
ぶりです」と、言いかえした。が、それがまずかった。

 突然、相手は、20年来の友人のような口調になった。

 「いえね、このあたりを回っていたら、林さんの表札が見えたものですから」
 「はあ……」と。

 横に立っていた女は、経典らしき本が入った布製のバッグを、私のほうに見えるようにかか
げている。何かのおまじないを、私にかけているみたいだった。

 そのときカルト教団と、わかった。

 ……という話は別にして、私は内心で、つまり彼らの話を聞きながら、「ヒマだなあ……」と
か、「こちらは忙しいのに……」とか、思ったりした。

 自分が信じたければ信ずればよい。しかし他人に、とやかく言うのは、どうか。私の世界で
は、そういうのを、いらぬ節介という。私は私で、懸命に生きている。未熟で未完成かもしれな
いが、私は私だ。

 どうやって帰ってもらうか、そのきっかけをつかみかねていると、ワイフが、助け舟を出してく
れた。うしろから、「もうそろそろ時間よ」と。

 「あのう、すみませんが、これから仕事に行かねばなりませんから……」と。

 時間は多少、余裕があったが、あれこれ準備をしなければならなかった。すると女のほうが、
こう言った。「今夜、また来ていいですか」と。

「今夜ですか?」
「1時間ほど、時間をいただければうれしいです」
「しかし私のほうは、興味ありませんから……」と。

 いろいろな教団の信者となり、こうした布教活動をしている人も多いことと思う。「自分たちの
正義や善を、世界に広めたい」という思いはわからないわけでもない。私も、同じように、思っ
ている。

 しかし最後の選択権は、その人自身に任すべきである。他人の家までおしかけていって、布
教活動をしてはいけない。それは失礼というもの。「私たちは正しい」と言うのは、その人の勝
手。

 しかしそう言うということは、「あなたはまちがっている」と言うに等しい。そういう失敬さが、そ
ういう人たちにはわかっていない。

 それにしても、最近、この種の勧誘が多くなった。それだけ世相が不安定になってきたという
ことか。

 私の家も、そろそろこんな張り紙をしようかと考えている。

 『人、来たりて、うれしからずや。されど、神様、仏様は、お断り!』と。


●山荘にて……(5月29日)

 昼ごろになって、山々の景色に、どこか青味がかかってきた。輪郭のはっきりしない白い雲
が、その上をおおっている。

 それに先ほどまで、ホトトギスが、鳴いていたが、今は、もう鳴いていない。まるでスピーカー
から流しているかのように、「トーキョートッキョ、キョカキョク」と、澄んだ声で鳴いていた。

 それにかわって、今はウグイスの声。時刻は午前11時30分。さわやかな風の音。いや、ど
こか湿り気を帯びてきた。午後からは雨だというが、このところ気象庁の天気予報は、はずれ
っぱなし。

 30年来つきあった友人のI氏が、今度、出版社を定年退職した。私と同年齢だとばかり思っ
ていたが、私より4歳も年上だった。昨日から電話をしなければと思いつつ、忘れてしまった。

 一度、I氏と奥さんを、この山荘に呼んでやりたい。いろいろ世話になった人は多いが、I氏
は、本当に私のことを考えてくれていた。そのありがたさが、I氏が退職してみると、よくわかる。
胸にしみる。

 ……たった今、ワイフが、散歩からもどってきた。先ほどまで、「おなかがすいた」と言ってい
たが、横を見ると、弁当は手つかずのまま。「何だ、食べなかったのか?」と声をかけると、「ど
うかなってしまった」と。

 と、言いつつ、弁当のフタをあけ始めた。「お前が食べ出したら、すこし分けてもらおうと考え
ていた」と言うと、「だって、あなたはパンを食べたでしょう」と。

 のどかな昼下がり。少し蒸し暑くなってきた。天気が崩れないうちに、除草剤をまかねばなら
ない。では、山荘からのレポートは、ここまで。
(040529)
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(175)

【赤ちゃんがえりの裏にあるもの】

●嫉妬

 嫉妬は、原始的な感情とみてよい。人間が、まだ下等な原始的な生物であった時代から、も
っていた。

 そのことは、犬や、ネコを見ればわかる。小鳥や、ネズミを見ればわかる。

それだけに、扱い方をまちがえると、やっかい。その人の本性まで、狂わす。

 京都府に住んでいる、YRさん(母親)から、こんな相談のメールをもらった。「長女(5歳)の、
弟(3歳)いじめに、悩んでいる」と。

++++++++++++++++++++++

「姉が、プロレスのように、弟を、立っているうしろから強く押して倒す。頭をつかんで、引き起こ
し、もう一度強く押して倒す。倒れている弟のおなかを、踏みつけているんです!

先生も書かれていましたね。嫉妬している子は、殺す寸前の事まですると……。まさか、殺そう
だなんて恐ろしい気持ちはなかったと思いますが、そんなような感じでした」と。

++++++++++++++++++++++

 下の弟が生まれたとき、長女は、1歳9か月。まだ人見知り、あと追いの習慣が残る時期で
ある。子どもの側から見て、まだ、母親の愛情を、全幅に自分のものにしたい時期でもあった。
が、そこに、弟が、生まれた!

 メールを読むと、弟が生まれる以前から、心身症による情緒不安定症状が見られたようだ。
そして弟が生まれる前後から、かんしゃく発作も始まった。つまりこの時期、すでに、愛情不足
による、欲求不満が始まっていたとみる。

 このとき、たいていの親は、「ちゃんと、めんどうをみていました」「ふつうの親程度のことはし
ていました」と言う。さらに「下の子が生まれてからは、平等にかわいがっていました」と言う。

 しかし子どもの心というのは、あくまでも子どもの視点に置いて、みなければならない。かんし
ゃく発作にしても、それが起きたという、その時点で、すでに家庭教育は失敗したとみる。(きび
しい言い方だが、そう考えて、家庭教育のあり方を、猛省する。)

 さらに上の子にしてみれば、「平等」そのものが、不満なのだ。それはたとえて言うなら、夫が
ある日、突然、愛人を家の中に連れてくるようなもの。「お前と、愛人と、平等にかわいがって
やる」などと言われて、あなたは、それに納得するだろうか。

 それまで(100)あった愛情が、下の子が生まれて、(50)に減らされる……。そこで子ども
は、それまでの親の愛情を取りもどそうと、よく知られた症状として、赤ちゃんがえりを起こす。

 この赤ちゃんがえりについては、たびたび書いてきたので、ここでは省略する。

 症状としては、ネチネチした言い方や、おもらしを始めたり、母親のおっぱいを求めたりする
ようになる、マイナス型(退行型)、下の子どもに攻撃的になる、プラス型に分けて考える。

 そのほか、心身症に似た症状(腹痛、慢性的な発熱、嘔吐)や、情緒障害(かん黙、自閉傾
向、回避性障害、食欲不振)などの症状を併発する子どももいる。

 YRさんの長女のケースでは、ここでいう攻撃型と、かなりはげしい情緒不安定症状が混在し
ているように思われる。「まさか……」と、YRさんは書いているが、(その寸前までのことはす
る)というには、常識。

 印象に残っているケースとしては、弟を逆さづりにして、頭から落としていたケース。自転車
で、下の子に、体当たりしていたケースなどがある。

 長女が、二女をいじめるというケースは、たいへん多い。昔から『年の近い姉妹は、仇(かた
き)どうし』と言うが、それも、そのひとつと考えてよい。

 この攻撃型の子どもの特徴は、(1)親の前では、むしろできのよい兄や姉を演ずるというこ
と。(2)とっさの場面で、その内心を知ることができる。YRさんのケースでも、「私が何かのこと
で、弟を叱ったりすると、姉は、手をたたいて、喜びます」と書いている。それがここでいう(とっ
さの場面)ということになる。

「親に嫌われたのでは、もとも子もない」という、心理が働くためである。つまり仮面をかぶる。
さらにそれが進むと、心と表情が、遊離し始める。子どもの心理としては、きわめて危険な状態
に入ったとみる。

 こうした症状が見られたら、その程度にもよるが、もう一度、全幅(100%)の愛情を、上の
子に、もどす。もどした上で、半年単位で、少しずつ、愛情を抜いていく。(たいていは、すでに
この段階で、情緒はかなり不安定になっている。ささいなことで、緊張状態になったり、興奮し
たりしやすくなっている。)

 心のキズは、そんなに簡単には、いやされない。

 ……というような話は、実は、表面的な話でしかない。こうした赤ちゃんがえりの裏には、もう
一つ、深刻な問題が隠されている・

●母子間の基本的信頼関係

 全体としてみれば、子どもの赤ちゃんがえりは、起きた段階で、家庭教育は失敗したとみる。

 この失敗を避けるためには、下の子を妊娠したときから、上の子教育を始める。「ある日、突
然、下の子が生まれた」という状態にすると、まずい。

 が、この段階で、赤ちゃんがえりを起こす子どももいるが、そうでない子どももいる。みながみ
な、赤ちゃんがえりを、起こすわけではない。重度の赤ちゃんがえりを起こす子どもは、全体の
10〜20%前後とみる。40〜50%の子どもは、多かれ少なかれ、どこか情緒が不安定にな
る。

 (注意……「情緒が不安定」というのは、心の緊張状態がとれないことをいう。ささいなことで、
泣いたりぐずったりする。カッと激怒するのも、含まれる。)

 しかしとくに上の子教育をしなくても、スンナリと弟や妹を、受けいれる子どもも、全体の約40
〜50%はいる。そのちがいは何か?

 ここで登場するのが、私が何度も書いている、(母子間の基本的信頼関係)である。

 この信頼関係がしっかりとできていれば、その後の子どもの情緒は、きわめて安定する。そう
でなければ、そうでない。

 その信頼関係は、(全幅のさらけ出し)と、(全幅の受け入れ)の上に成りたつ。わかりやすく
言えば、たがいに、全幅に心を開きあうということ。子どもの側からすれば、絶対的な安心感と
いうことになる。「絶対的」というのは、「疑いをいだかない」という意味である。

 その(全幅のさらけ出し)と、(全幅の受け入れ)が、親子の間で、たがいにあってはじめて、
基本的信頼関係が生まれる。この信頼関係は、その後の、子どもの心の発育の基本になると
いう意味で、「基本的」という。

 この段階で、基本的信頼関係を結ぶことに失敗した子どもは、その後、人間関係がうまく結
べなくなる。他人に対して、攻撃的になったり、服従的、依存的になったりする。仮面をかぶる
のも、その一つ。

 育児拒否、冷淡、無視がよくないことは言うまでもない。さらに親側にその気がなくても、誤解
によって、結果として、育児拒否や冷淡、無視になることもある。あくまでも子どもが、それをど
うとるかという問題である。

 生後直後から、子どもが求めてきたら、ていねいに、こまめに愛情表現を繰りかえす。もちろ
んベタベタの親子関係がよいわけではない。この時期は、『求めてきたときが、与えどき』と覚
えておくとよい。

 0歳からの新生児、乳児を、大声をあげて叱ったり、怒鳴ったりするのは、もってのほか。し
つけと称して、体罰を加えるのは、さらに、とんでもない! 子ども、なかんずく赤ちゃんの行為
には、一つとして、ムダなことはないと思う。

 何かの行為をしたら、親の判断を押しつけるのではなく、その理由や原因をさぐる。こうした
謙虚な気持ちが、子どもの情緒を安定させる。

 たとえば子どもの夜鳴きにしても、親は、ただひたすらそれに耐える。耐えて、耐えて、耐え
ぬく。まさに根くらべということになる。

 実は、この段階で、試されているのは、(親の愛情)ということになる。実は、この問題こそ
が、赤ちゃんがえりの裏に隠された、深刻な問題なのである。

●試される親の愛情

 実は、私の孫(誠司、現在、満1歳9か月)は、生後まもなくから、夜泣きがひどかった。ふつ
うの夜泣きではない。起きているときは、ほとんど、泣いていた。

 予定より、2、3週間、早く生まれたこともある。

 毎日のように嫁(アメリカ人)が、メールで助けを求めてきた。そのこともあって、二男も嫁も、
完全な睡眠不足。何しろ、4、5時間ごとに目をさまし、そのまま寝つくまで、泣きつづけたのだ
から、たまらない。

 そこで嫁は、あちこちの育児相談会や、ドクターの講習会にでかけた。

 で、こうした状態が、半年近くつづいた。

 が、ある日、私のワイフが、二男と嫁に、こうアドバイスした。「日本式に、子どもを間にはさん
で、川の字になって寝たら……」と。

 アメリカでは、生後直後から、赤ん坊でも、別のところに寝さかす。ワイフは、それ以前から、
「それはいけない」と言っていた。その結果だが、つまり川の字になって寝るようになったとた
ん、夜泣きは、やんだ。

 この孫の夜泣きのことで、私は、いくつかのことに気づいた。ひとつは、二男と嫁の、その忍
耐力の強さである。孫は毎晩、泣いたが、一度だって、二男も嫁も、声を荒げたり、叱ったりし
たことはなかったという。

 孫が寝つくまで、抱いたという。もともと二男は、静かな性格の子どもだった。嫁も、きわめて
静かな性格の女性である。さらにアメリカでは、子どもに向かって大声を張りあげるだけでも、
虐待とみなされるという。

 しかしこうした忍耐力を支えたのは、実は、二男夫婦がそれだけ忍耐強かったということだけ
ではない。彼らの子育てを支えたのは、二男夫婦の、たがいの愛情だった。

 こういうことを親の私の立場で言うのも、おかしなことだが、私は、あそこまで愛しあっている
夫婦を、見たことがない。食事だって、たがいに手をつなぎあって食べていた。本当のことを言
えば、二男には、日本人の女性と結婚してほしかった。しかしそういう二人の様子を見たとき、
私は、ワイフにこう言った。

 「あれでは、ダメだよ。反対したら、二男は、家を出るよ。結婚できなければ、二人は自殺して
しまうよ」と。まさにそういう雰囲気だった。

●赤ちゃんがえりの裏にあるもの

 上の子が、赤ちゃんがえりを起こしたら、まず(1)夫婦の愛情はどうだったか。(2)母子の間
の基本的信頼関係がしっかりとできているかを、疑ってみたらよい。

 この問題は、実は、根が深い。

 さらに(3)あなた自身の親子関係は、どうであったかを反省してみるとよい。

 こうした母子間の基本的信頼関係は、代々と、母から子へと、伝播(でんぱ)しやすい。親自
身が、その親との間の信頼関係ができていないと、今度は、自分の子どもに対して、その信頼
関係を結ぶことに失敗する。……しやすい。

 (心を開いて、受け入れる)というのは、そういうもの。

 もう少し、具体的に考えてみよう。

 仮に、あなた自身が、不幸にして不幸な家庭に育ったとしよう。家庭不和、夫婦げんか、経済
問題、親の暴力や虐待など、そういうものを日常的に経験したとしよう。

 あなた自身は、それに気づいていないかもしれないが、あなたの心は、そのため、大きく、キ
ズついている。が、それだけではない。あなたは、あなたの親に対して、安心して、心を開くこと
ができなかった。

 親に対してでさえ、心を開くことができなかったというのは、きわめて不幸な状態と考えてよ
い。というのも、先にも書いたように、それが基本となって、あなたは、今度は、だれとも心を開
けなくなってしまう。

 これを「基本的信頼関係」というのに対して、心理学の世界では、「基本的不信関係」という。

 子どもの世界でも、妙に愛想がよかったり、先生や仲間にへつらったりする子どもは、そうい
う意味では、不幸にして、不幸な家庭に育った子どもとみてよい。(反対に、愛情豊かな家庭に
育ち、この基本的信頼関係がしっかりとできている子どもは、ドッシリと、静かに落ちついてい
る。)

 この基本的不信関係がこわいところは、それが母子の間だけの関係に、とどまらないこと。

 ここにも書いたように、先生や仲間とも信頼関係が結べなくなる。さらに、結婚してからも、夫
や妻との間でも、結べなくなる。そしてここが最大の問題だが、自分の子どもとの間にさえ、結
べなくなる。

 そしてこの状態を、代々と繰りかえす。

●失敗の連鎖

 赤ちゃんがえりの原因に、あなた自身の親(とくに母親)との関係があるとは、断言できない。
しかし疑ってみる必要はある。

 というのも、もしそうであれば、あなたは無意識のまま、つまり自分では気づかないまま、それ
を今、自分の子どもに対して、繰りかえしている可能性がある。そしてそれが、結果として、子
どもの側からみれば、拒否的態度、無視、冷淡となっている可能性がある。

 それが子どもの情緒を不安定にし、さらにその結果として、子どものかんしゃく発作、さらに
は、ここで問題になっている赤ちゃんがえりにつながっている可能性がある。

 しかしこの問題は、気づくだけでよい。すぐになおるということはないにしても、気づくだけで、
あとは、時間が解決してくれる。

 いつか書いたように、問題のない子どもはいない。問題のない親はいない。どんな人も、それ
ぞれ、何らかの問題をかかえている。

 問題は、あなた自身も、問題のある家庭に育ったということではなく、そういう問題があること
に気づかず、その失敗を繰りかえすことである。

 ここでいう母子の間の基本的信頼関係を結ぶことに失敗した親は、今度は、自分の子どもと
の間の信頼関係を結ぶことに失敗する。そしてその子どもが大きくなり、親となったとき、さらに
その子ども(あなたの孫)との間の信頼関係を結ぶことに失敗する。

 こうして(失敗の連鎖)は、代々と繰りかえされることになる。

【YRさんへ】

 メール、ありがとうございました。

 世間一般では、子どもの赤ちゃんがえりを、軽く考える傾向があります。しかし子どもの心に
与える影響の大きさを考えるなら、この時期、きわめて深刻な問題の一つと考えてよいでしょ
う。

 そしてその「根」は、想像以上に、深い。YRさんのメールを勝手に引用して恐縮ですが、あな
たもこう書いておられます。

+++++++++++++++++

「先生もお気づきかと思いますが、私は親像のない親です。私の生まれ育った家庭は、とんで
もないものでした。

見た目は、旧家(この言葉大嫌いです)の本家です。家族は、それだけを自慢みたいにして…
…。とても恥ずかしいです。父はサラリーマン。母と祖母、兄と私の5人家族でした。(実際は借
金だらけの仲の悪い、殺伐とした家庭なのに!)

 大人3人がそれぞれ仲が悪く、ののしりあっているのをみて育ちました。父の飲酒、浮気。い
ろいろありました。小学生の頃、母に頼まれ浮気相手に、「うちの父との交際をやめてください」
と、電話をさせられたこともあります。

祖父の借金を返しているとかで、母のいつもの口グセは、「うちには、お金がない」でした。

私たち兄弟は、もっぱら祖母の手によって育てられました。だから私たちの幼いころのことを母
に聞いても、母は、「あまり覚えていない」と。何も教えてもらえません。

私たち兄弟は、よく母に鼻血がでるまで叩かれ、蹴られてました。宿題をしてないとプリントを
破られたこともあります。

 毎回、マガジンを読ませていただき、たいへん力になっています。どうか私のように助けられ
ている読者もいることを、忘れないでください。これからも、がんばってマガジンを出してくださ
い」と。
 
+++++++++++++++++++++

 しかしYRさんは、すでに、自分の過去を冷静に見る目をもっておられる。「私は親像のない
親」とも書いておられる。ここが一番重要であり、大切な点です。

 つぎに大切なことは、よい親でいようと気負わないこと。さらに自分の足りなさを嘆き、それを
悪いことだと決めつけないことです。

 親が気負うと、その親はもちろんのこと、子どもも疲れます。私も、幼児を教えながら、あると
きそれに気づきました。そこで今では、気がついてみると、親たちがいる前でも、平気で子ども
を叱ったり、注意したりしています。

 たまたま昨日も、生徒(年長児)が、私の教室で、あちこちの戸だなを開けてみていたので、
こう言ってやりました。「おい、KK(呼び捨て)、よその家の戸だなを勝手に開けるな」と。

 するとその子どもが、「どうして、いかんよオ?」と言いかえしましたので、「あのな、よその人
のカバンだとか、バッグ、それにパンツの中は、のぞいてはいけないの。戸だなも同じだ」と。

 親はすぐ横に立っていましたが、笑っていました。

 気負わないというのは、そういうことを言います。そのおかげというか、私は、幼児を教えてい
て、体力的には疲れることがありますが、神経を使って疲れるということは、なくなりました。「い
い教師でいよう」という、そういう思いは、もうないということです。

 あなたも、あなたで、ありのままで生きていけばよいのです。(もちろん、ありのままをさらけ出
してもよいだけの、自分にならないといけませんが……。)子どもがあまり好きでなかったら、
「私は好きではない」と自分に、納得すればよいのです。その上で、親子として、自分たちの関
係をながめるのではなく、友として、自分たちの関係をながめます。

 長女の方の赤ちゃんがえりの遠因には、あなたの過去があることは、あなた自身がもうお気
づきのことです。つまりあなたの長女は、長女として、どこかでさみしい思いをしたのでしょう。

 そこで今、あなたが大切にすべきことは、「だから愛情をとりもどそう」と考えることではなく、
あなた自身が、お子さんたちに、心を開くことです。ありのままのあなたを、さらけ出すことで
す。それを日本語では、「本音(ほんね)で生きる」と言います。

 そう、本音で生きます。

 ……といっても、これは簡単なことではありません。あなたがこれから先、何年もかけて、努
力することです。あなたが自分で、「心を開けるようになった」と感ずるまでに、10年とか20年
とか、かかるかもしれません。しかしあきらめてはいけません。

 そのために、まず、あなたがあなた自身を知る。仮面をかぶったり、よい人ぶったり、人に好
かれようなどと思っている部分があれば、それは(あなた)ではありません。本当の(あなた)
は、何であるかを知ります。

 それがわかったら、少しずつ、自分をさらけ出していきます。居直ります。あとは何年もかけ
て、それを繰りかえしていきます。

 ためしに、あなたの夫や子どもに、それをしてみてはどうでしょうか。

 したいこと、してほしいこと、思っていること、率直に言えばよいのです。たとえば、臼井氏の
描いた、『クレヨンしんちゃん』を読んでみたらどうでしょうか。あの中の母親のみさえさんは、実
にすがすがしい生きかたをしています。今のあなたには、よい参考になると思います。

 (ただしテレビのアニメは、参考になりません。コミック本の、v1〜10くらいまでをお薦めしま
す。v11〜以後は、どこか作為的で、参考にはなりません。)

 その上で、あなたの長女の問題です。

 こういうケースでは、一度、すべての愛情を、長女にもどすしかありません。とくに、「お姉さん
だから」という『ダカラ論』には、注意してください。この時期の子どもに、『ダカラ論』をぶつけて
も意味がありません。

 「あなたも、弟が生まれて、さみしかったのね。つらかったのね」
 「あなたも、よくがんばったわね」
 「お母さんも、あなたの気持ちがよくわからなかった。ごめんね」と。

 こういう言葉が、あなたの心を溶かし、あなたの子どもの心を溶かします。下の子には、今し
ばらくがまんしてもらいます。(下の子は、それを受け入れると思います。最初からそうなら、そ
うで、問題はないのです。)

 乱暴がひどいようであれば、上の子との添い寝、手つなぎ、抱っこ、いっしょの入浴などを濃
密に繰りかえします。とくに子どものほうから求めてきたときには、ていねいに、かついとわず、
それに答えてあげます。

 たとえば「ママ……」とすり寄ってきたときは、子どもが満足するまで、ぐいと抱いてあげます。
力いっぱい抱いて、子どもに安心感を与えるようにするのがコツです。

 そういう安心感を子どもが覚えたとき、その安心感の中から、やさしさが生まれます。そして
そのやさしさが、今度は、弟のほうに向かいます。

 あとはCA、MGの多い食生活(海産物中心の献立)に、注意を払います。それだけでも、子
どもの心は、かなり安定するはずです。

 YRさんのメールを読んでいて、ほかにも気づいたことがあります。

 私の父も、あなたに似たような経験をしています。

 もともと祖父には、好きな女性がいたようです。しかし遊んでいるうちに、私の父が生まれてし
まった。そこで祖父は、その責任をとる形で、祖母と結婚した……。

 が、祖父は、祖母のことはかまわず、毎日、その愛人の家に入り浸(びた)りになっていたよ
うです。そこで私の父の仕事は、つまり父が、子どものころのことですが、毎日、その愛人宅の
家まで行って、石を投げることだったそうです。

 しかしこの話を知ったころは、人に話すのも恥ずかしいような話でしたが、そのうち、笑い話
になりました。(今では、こうして平気で、自分のエッセーの中に書けるようになりました。笑い
話として……。ハハハ)

 そういうものです。人には、それぞれ、無数のドラマがあります。そのドラマが、人間の世界
を、うるおい豊かにします。YRさん、あなたももう少し年をとると、あなたの過去やあなた自身
を、すなおに話せるようになります。そしてあなたの過去を、笑い話にすることができます。

 そうなったとき、あなたはだれにも心を開き、あなたの過去を清算することができます。

 あなたの子どもたちが求めている「親」は、そういう親です。たがいに、何でも話せる親です。
それともあなたの長女は、あなたにこんなことを言っているでしょうか。

 「ママ、私はさみしい。どうして弟ばかり、かわいがるの!」と。

 そういうことが言えなくて、あなたの長女は、苦しんでいるのです。そういう長女の気持ちを、
どうか、どうか、わかってあげてください。

 かなりきびしいことばかりを書きましたが、私もYRさんの言葉に、励まされました。このとこ
ろ、原稿を書くのも、おっくうになっていました。マガジンを出しても出しても、よい反応はなし。
反対に、「量が多すぎる」などと、届くのは、苦情ばかり。(ホント!)

 正直言って、そんなわけで、マガジンの発行回数を少なくしようと考えていた矢先のことでし
た。少なくとも、とくにこの数日間、原稿を書きたいという意欲が、ほとんど起きませんでした。
ありがとうございました。

 YRさんのような読者の方がいらっしゃることを、これからも信じて、がんばります。

 これからもいろいろ迷うことはありますが、よろしくお願いします。一応500号を目標にがん
ばります。そのあと1000号に向かうかどうかは、今のところ、自信がありません。(500号で
やめたら、私の敗北です。ですから多分、1000号に向かうと思いますが……。)また500号
に近くなったら、報告します。
(040529)
(はやし浩司 赤ちゃんがえり 赤ちゃん返り 子どもの嫉妬 親の気負い 乱暴な上のの子)
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(176)

●いろいろな問題

【K市在住の、TUさんよりの相談】

突然のメールでご迷惑をおかけします。

1年前ほど、息子の通う学校で、先生の講演を聴く機会がありました。相談に乗って頂けない
かと思い、思い切ってメールしました。

息子は今小学2年生です。その息子の勉強の勧め方と、日々の関わり方で、少し困っていま
す。

最近になり、宿題が増えてきました。内容も量も、1年生のときより増えてきました。どうも、宿
題をごまかして適当にやろうとしているようです。

そのことで、先日ひどく叱ってしまいました。叱り方が感情的になってしまい、息子もかなりショ
ックだったようで、勉強のことになると辛くなるようです。「そんな、言いかたをしないで!」と言
います。

息子も人の話を聞けない子で、授業中でも、勝手に騒いでしまうことがあるようです。そのこと
もあり、ついきつく注意することが多いです。

このままいくと、勉強についていけなくなるのではと不安です。勉強も私が見るより、塾へ行か
せたほうがいいのではと思ってしまいます。

このままでは親子関係にも亀裂が入ってしまうのではないかと不安です。あと、人の話が聞け
ない子への効果的な関わり方でアドバイスがあったら頂けないでしょうか?

+++++++++++++++++++++++

 多くの母親たちが、同じような問題をかかえ、悩んでいる。そういう意味では、典型的な悩み
の一つ(失礼!)ということになる。

 順に整理してみよう。

(1)家では、あまり勉強しない。
(2)適当にごまかすようになった。
(3)叱り方が過激になってきた。
(4)授業中の態度が、よくない。
(5)勉強についていけなくなるのではと、心配。
(6)塾へ入れるのは、どうか?
(7)親子関係がこわれるのではないかと、不安。

 
●家では、あまり勉強しない。

 子どもが受験期になると、親は、言いようのない不安にかられる。

 もともと子育てというのは、そういうもの。親は、無意識なまま、自分が受けた子育てを、その
まま繰りかえす。

 将来への不安、選別されるという恐怖。自分自身が子どものころ感じた(心)を、自分の子ど
もを通して、再現する。TUさんも、子どものころ、そういう不安や恐怖を感じた。……というより
も、そういう不安や恐怖を、TUさんの親たちから、植えつけられた。

 それが今、TUさんの心の中で、再現されつつある。そしてそれが「うちの子は、あまり勉強し
ない。どうしたいいのか」という心配になって、現れてくる。

 そこでTUさんも、「なぜ、自分が、そういう不安にかられるのか?」と、自分自身に、問いかけ
てみるとよい。

 理由はいくつかある。

 その第一は、日本全体がもつ、学歴社会。さらには、江戸時代からつづく、身分意識。さらに
は日本人独特の、集団意識。それらが混然一体となって、「コースからはずれると、こわい」と
いう恐怖感をつくりあげる。

TUさんが今、感じている不安感の原点は、そこにある。

 もっともそれに自分で気づくのは、簡単なことではない。TUさんにかぎらず、こういった意識と
いうのは、心の奥深いところに巣をつくっている。そのため、なかなか、姿を現さない。姿をつ
かめない。

 さらに、「学校での勉強は絶対」という、学校神話もある。

 しかしならば、自分にもう一度、問いかけてみることだ。

 「どうして中学1年で、一次方程式を学ぶのか。学ばねばならないのか」「どうして中学2年
で、二次方程式を学ぶのか。学ばねばならないのか」と。

 あなたはこうした素朴な質問に、答えることができるだろうか。あるいはあなたの子どもが、
あなたにそう聞いたとしたら、あなたは、何と答えるだろうか。

 アメリカでは、公立の小学校でも、学校の先生と親たちが、相談して、勝手にカリキュラムま
で決めている、そういう(自由)を見せつけられると、「では、日本の教育は何か?」となる。「私
たちは、どうしてこうまで学校の勉強にこだわらなければならないのか?」となる。

(入学する学年まで、アメリカでは、学校ごとに、自由に決めているぞ! 「うちの小学校では、
満4歳から入学させる」と、PTAが決めれば、それでもOK! アーカンソー州ほか。)

 TUさんは、その前提として、「学校での勉強はできなければならないもの」と思いこんでいる。
私は、それを「学校神話」と呼んでいる。

 TUさんは、(家で勉強しない)→(遅れてしまう)→(受験競争に負けてしまう)と、心配してい
る。TUさんの気持ちを、こう決めてかかるのは、失礼なことかもしれないが、おおかた、まちが
っていないと思う。

 そこで登場するのが、学歴社会。

 この日本では、学歴のある人は、その恩恵を、たっぷりと受けることができる。とくに、公的な
資格に保護された特権階級、官僚、公務員の世界に、それをみることができる。ここ10年で、
エリート意識が急速に崩壊しつつあるとはいえ、なくなったわけではない。残っている。

 そういった不公平を、親たちは、日常的に、いやというほど、見せつけられている。

 本来なら、そういった不公平があれば、それと戦わねばならないのだが、そこは、日本人。私
たちには、独特の、隷属意識がある。「おかしいから、なおそう」と思う前に、「あわよくば、自分
も……」「せめて自分の子どもも……」と考える。

 だから日本の社会は、少しもよくならない。いつまでも繰りかえし、繰りかえし、つづく。

 そこで、TUさんは、「あまり勉強しない」と悩んでいる。

 しかし、本当にそうだろうか? もし仮にTUさんの息子が、学校から帰ってきて、毎日、1時
間、勉強したら、TUさんは、それで満足するだろうか。今度は、TUさんは、「せめて2時間…
…」と思うようになるかもしれない。親の欲望には、際限がない。こんな例もある。

 先日も、「やっとうちの子が学校へ行くようになりました。しかし午前中で帰ってきてしまいま
す。何とか、給食までみなと、いっしょに食べさせたいのですが、どうしたらいいか」と相談して
きた、親がいた。

 私は、それについて、こう返事を書いた。

 「午前中、2時間だけで帰ってきなさい。『3時間目。4時間目はしなくても、いいのよ』と言って
あげなさい。そのとき、ついでに、『よくがんばったわね』と言ってあげなさい。

もしあなたの子どもが給食まで食べるようになったら、あなたはきっとこう言うはずです。『何と
か、午後の勉強も受けさせたい。どうしたらいいか』と。しかしそれこそ、親の身勝手というもの
です。いつまでたっても、あなたの子どもの心は休まることはないでしょう」と。

 学校という強制キャンプで、5〜6時間もしぼられてきた子どもが、その上で、さらに家での宿
題である。それがいかに重労働であるか、それがあなたにわからないはずがない。一度、そう
いう視点で、TUさん自身のこことして考えてみるとよい。つまり「私なら、それができるか?」
と。さらには、「私は、子どものころ、どうだったか?」と。

 もしそうなら、つまりTUさんが、子どものころ、勉強好きで、学校の宿題をきちんとし、親の言
いつけをハイハイと守っていたとしたら、TUさんは、今ごろは、すばらしい学歴をもち、特権的
な階級で、気楽な生活をしているはず(失礼!)。それならば、何も、問題は、ないはず。あな
たの子どもも、そうなる。

 かなり、きついことを書いたようだが、この問題はいつも、「自分ならできるか?」「自分が子
どものときは、どうだったか?」という視点で、考えてみるとよい。


●適当にごまかすようになった。

 小学校の低学年の子どもで、一日、30分前後、家で、勉強すれば、すばらしいこと。15分で
もよい。大学受験生がするような、受験勉強的な勉強を、小学2年生の子どもに期待しても、
無理。ヤボ。不可能。

 さらに子どもは、9〜10歳前後から、親離れを始める。この時期、幼児がえりを起こしたり、
反対に、おとなのまねをして見せたりしながら、子どもは、おとなになる準備を始める。子ども
あつかいをすると怒るくせに、ときどき母親のおっぱいに触れたがったりする。これを私は、
「揺りもどし現象」と、勝手に呼んでいる。

 女の子では、父親との入浴をいやがったり、裸を見られたりするのを、いやがるようになる。
男の子も、性意識に、このころ急速に芽生えようになる。

 同時に、子どもどうしの世界が、大きくふくらんでくる。それまでは、家庭を中心とした世界
が、子どもの世界だったのが、学校を中心とした第二世界。さらに、友だちを中心とした、第三
世界へと進む。(ゲームの世界もあり、私はこれを「第四世界」と呼んでいる。)

 当然、親子の関係も、その分だけ希薄になる。

 が、親が、子離れをするようになるのは、子どもが、中学生から、高校生にかけてのこと。こ
の時期、親は、「どうしたら子離れできるのか」と悩む一方で、子離れできない自分にいらだつ
ことも多い。TUさんの悩みも、そのあたりにある。

 子どもが適当にごまかしたら、親も、適当にだまされたフリをして、自分の心をごまかす。

 いいかげんであることが悪いというのではない。子どもは、(おとなもそうだが)、このいいか
げな部分で、羽をのばす。羽を休める。

 まずいのは、ギスギス。『親の神経質、百害のもと』と覚えておくとよい。過関心、過干渉も、
それに含まれる。


●叱り方が過激になってきた。

 それだけ親のほうの心が、緊張状態に、置かれているということ。

 よく誤解されるが、情緒不安定な状態を、情緒不安定というのではない。心が緊張状態にあ
る。あるいは心から緊張状態がとれないことを、情緒不安という。

 この緊張状態の中に、不安や、心配ごとが入ると、それを解消しようと、心は一挙に不安定
になる。感情が不安定になるのは、あくまでも、その結果でしかない。

 だから第一に考えるべきことは、どうすれば、その緊張状態から、自分を解放するかと言うこ
と。

 いろいろ方法はある。(1)逃避型(その問題から逃げる)、(2)受容型(あきらめる)、(3)戦
闘型(その問題と戦う)、(4)防衛型(それに対抗するための思想を高める)、など。

 それぞれの方法を、バランスよく、自分の心の中で調合しながら、心の緊張感を取りのぞく。

 逃避するのが、悪いわけではない。たまには、子育てを忘れる。忘れて、好き勝手なことをす
る。子どもというのは不思議なもので、親がカリカリしたからといって、伸びるものではない。反
対に、何もしなくても、伸びる。

 つぎに「うちの子は、こんなものだ」とあきらめる。あなたがごくふつうの女性であるように(失
礼!)、あなたの子どもも、またふつうの子ども(失礼!)。

 ふつうであることが悪いわけではない。この(ふつうの価値)は、それをなくしたとき、はじめて
わかる。賢明な親は、それをなくす前に気づく。愚かな親は、それをなくしてから気づく。

 つぎに大切なことは、自分の心や思想を、理論武装すること。視野を高め、教養を広くする。
夜のバラエティ番組を、夫といっしょにゲラゲラと笑って見ているような家庭では、困る(失
礼!)。

 当然のことながら、自分の心の奥で巣をつくっている、旧来型の学歴信仰、学校神話などと
も、戦う。しかしこのばあいは、それに対抗しうるだけの、理論武装をしなければならない。

 コマーシャルになって恐縮だが、そのためにも、どうか、どうか、はやし浩司のマガジンを購
読してほしい。


●授業中の態度が、よくない。

 いろいろなケースが疑われる。心配なケースとしては、ADHD(集中力欠如型多動性)の問
題もある。

 しかし今、(イメージが乱舞する子ども)が、ふえているのも事実。乳幼児期に、テレビを見す
ぎた子どもほど、そうなるという研究結果もある。10年ほど前から、右脳教育という言葉が、さ
かんに使われるようになったが、乳幼児への不自然な右脳教育は、できるだけ慎重であった
ほうがよい。テレビは、その右脳ばかりを刺激する。

 ほかに、環境ホルモン(内分泌かく乱化学物質)による、脳の微細障害説、食生活のアンバ
ランスによる脳間伝達物質の過剰分泌説なども、とりあげられている(シシリー宣言※)。

 といっても、小学校に入学してから、それに気づいても遅い。

 この時期に大切なことは、(今の症状をよりこじらせない)ことだけを考えて対処する。そして
その一方で、子ども自身がもつ、自己意識を、うまく育て、それを利用する。わかりやすく言う
と、自分で考えて、行動させるようにする。

 たとえばADHDにしても、小学3、4年を境にして、見た目には、急速にその症状が落ちつい
てくる。子ども自身が、自分をコントロールするようになるからである。

 もし学校での騒々しさが目立ったら、こんこんと、繰りかえし、言って聞かせるのがよい。あと
は、しばらく時間を待つ。

●勉強についていけなくなるのではと、心配。

 この不安は、だれにでもある。が、これは日本人独特の意識といってもよい。つまり、その
「根」は、深い。

 日本人は、集団からはずれるということを、極端にこわがる。恐れる。それはたとえて言うな
ら、動物社会における、(群れ意識)に似ている。「みんなと同じことをしていれば安心」というの
が、それ。

 が、この(群れ意識)には、二面性がある。

 一つは、(群れからはずれたら、不安)という意識。もうひとつは、(群れからはずれるものを、
許さない)という意識。この二つが、相互から相、重なって、日本人独特の群れ意識をつくる。

 言いかえると、自分自身の中の群れ意識と戦うためには、(自分の確立)と同時に、(他人の
確立を許す)という意識を、自分の中に育てなければならない。

 恐らく、こうした群れ意識というのは、その中に、どっぷりとつかっている人には、わからな
い。こうした群れ意識というのは、一度、自分自身が、その群れから離れてみてわかる。ある
いは、群れの中にいる人たちに、排斥されてみてわかる。

 少し話がおおげさになってきたが、日本人独特の、(遅れる意識)というのは、そういう群れ意
識の中から生まれている。

 そういう群れ意識を理解して上で、もう一度、あなた自身に問いかけてみてほしい。

 「学校に遅れる」「勉強に遅れる」というのは、どういう意味なのか、と。

 どうして日本人は、遅れることを、こうまでこわがるのか? どうして、遅れたら、それがいけ
ないのか? どうして、遅れてもよいと、居なおることができないのか?

 あわてて大学を出て、あわてて会社に入社して、その結果、あわてて人生を送って、それでよ
いのだろうか?

 今までの日本人は、国策として、そういう日本人に育てられてきた。戦前の「国のため」意識
が、「社会のため」意識にすりかえられた。「社会で役だつ人」「立派な社会人」意識になった。
その結果、いわゆる会社人間、企業人間が生まれた。私の同世代の中には、会社の発展の
ために、命をかけて仕事をしてきた人は、いくらでもいる。

 それが悪いというのではない。今の日本の繁栄は、こうした人たちの努力と犠牲(失礼!)の
上に成りたっている。

 しかし、今、同時に、それではいけないという考え方も、浮かびあがってきている。TUさんは、
恐らく、そのハザマで、もがき苦しんでいる。

●塾へ入れるのは、どうか?

 私も基本的には、その塾を経営している。塾というよりは、小さな教室である。

 で、こういう質問をもらうと、私は、どこまで自分を殺さなければならないかという問題にぶつ
かる。迷う。それにつらい。そういう意味では、TUさんの質問は、少なくとも、私には、「?」であ
る。私は何と答えたらよいのか。

 まさか「うちの教室へおいでなさい」とも書けないし、「塾へは行かないほうがいい」とも、書け
ない。

同じように、以前、電話で、こう言ってきた母親がいた。「うちの子を、K式算数教室か、あなた
の教室に入れようかと迷っていますが、どちらがいいですか」と。

 で、私はこう言ってやった。「うちは、10問出しますが、K式のほうは、9問(ク・モン)しか出し
ませんから……」と。いつか仲間のI先生が、教えてくれた言い方である。

 それに日本人は、学校だけが、勉強の場だと思っている。しかしこれほど、島国的な発想も
ない。

ドイツでも、イタリアでも、そしてカナダでも、課外授業のほうが主流になってきている。アメリカ
では、日本の塾のように、学校設立そのものが自由化されている。もちろんアメリカにも塾はあ
る。「ラーニング・センター」と、ふつう、そう呼ばれている。さらにEU諸国(ヨーロッパ)では、大
学の単位は、全土で、ほぼ、共通化された。

 どこの国のどこの大学で勉強しても、同じという状態になった。

 こういう事実を、いったい、どれだけの日本人が知っているのか? 文部科学省が発表す
る、大本営発表だけを鵜呑みにしてはいけない。官僚たちは、権限と管轄にしがみつき、自分
たちに都合の悪い情報を、決して公開しない。

 が、ひょっとしたら、TUさんは、私を、それ以上の人間とみて、こういう質問をしてきたのかも
しれない。一人の塾教師としてではなく、それを超えた人間として……?

 そうだとよいが、そういうことは、あまり期待していない。

 だから、この質問には、あえて答えない。いつか、別のところで、一つのテーマとして、考えて
みたい。

●親子関係がこわれるのではないかと、不安。

 親子関係でも、こわれるときには、こわれる。しかもそれをこわすのは、子ども。しかもその
子どもは、親の生きザマを見て、こわす。

 だから親は親で、き然として生きる。それしかない。「あんたなんかに嫌われても、かまわな
い」「あんたは、あんたで、勝手に生きなさい」と。

 親の側が、「こわれるのでは?」と心配すればするほど、立場が逆転する。親のほうが、子ど
もの機嫌をとったり、子どもにコビを売ったりするようになる。

 しかしそれこそ、本末転倒。それについては、参考になる原稿を、このあとに添付しておく。

 要するに、親は親。子どもは子ども。どこか溺愛タイプの母親ほど、子どもに嫌われるのを、
こわがる。しかし親に嫌われて困るのは、子ども。それを忘れてはいけない。

 つまりこの問題も、日本人独特の子育て観と深くからんでいる。

 日本人は、自分の子どもを、一人の人間としてではなく、いわばペットとして育てる(失
礼!)。そしてベタベタの依存関係をつくりながら、それを親子の太い絆(パイプ)と誤解する。
たがいに犠牲になることを、美徳と考える。

 しかし親子というのは、皮肉なもの。親というのは、子どもに嫌われないようにすればするほ
ど、嫌われる。嫌われても構わないという生き方をすればするほど、かえって尊敬される。子ど
もは、長い時間をかけて、親の心の裏側まで、見抜いていまう。

 それがわからなければ、反対の立場で考えてみればよい。

 あなたが尊敬できる親というのは、あなたの歓心を買い、ベタベタと機嫌をとってくる親だろう
か。それとも、「私は私」と、き然とした生き方をしている親だろうか。

 つまり親も、いつか、対等の人間として、その生きザマを、子どもに問われるときがやってく
る。必ず、やってくる。そのとき、それに耐えられるような親になっているか、どうか。そういう立
場になったときの視点で、ものを考えてみればよい。

 親子の関係など、気にしないこと。あるいは「こわれるもの」「こわれて当然」と考えること。10
年後、20年後のことはわからないが、そのとき、親子の関係がこわれていなかったら、もうけ
もの。そう考えて、居なおる。

 もう、子どもは小学2年生なのだから、あなたはあなたの人生を、前向きに生きればよい。母
ではなく、妻ではなく、女ではなく、一人の人間として……。母親は、子どもを妊娠し、出産す
る。そういう意味では、母親は、子どもに対しては、犠牲的な存在かもしれない。しかし、母親
も、一人の人間として、自分の人生まで、犠牲にしてはいけない。

●ではどうするか?

 否定的なことばかり書いていてもしかたないので、「では、どうしたらいいか」ということについ
て考えてみる。

(1)家では、あまり勉強しない。

 この時期は、まだ「勉強は楽しい」という意識を育てる。無理、強制、条件(〜〜したら、小遣
いをあげる)、比較(A君は、何点だったのと聞く)は、禁物。

 これから先、子どもは、過酷なまでの受験競争を経験する。そういうとき最後のキメテとなる
のが、忍耐力。

 まだこの時期は、その忍耐力を養うことを考える。まにあう。

 なお子どもの忍耐力は、(いやなことをする力)をいう。テレビゲームやサッカーを、一日中し
ているからといって、忍耐力のある子どもにはならない。子どもを忍耐力のある子どもにするに
は、子どもを家事の中に巻きこみながら、使う。『子どもは使えば、使うほど、いい子』と覚えて
おくとよい。

 そういう力、つまり(いやなことをする力)があってはじめて、将来、あの苦しい受験勉強を通
り抜けることができるようになる。

(2)適当にごまかすようになった。

 親は、子どもを最後の最後まで、信ずる。それが親。だまされたとわかっていても、とぼけ
る。そしてあとは許して、忘れる。

 仮にあなたの子どもが、あなたのサイフからお金を盗んで使っていたとしても、一応は叱りな
がらも、子どもを信ずる。「だれだって、それくらいのことはする」「うちの子だって、そういう経験
をしながら、おとになる」と。

 そして仮にそのお金で、あなたの誕生日プレゼントを買ってきたとしても、一応、あなたは喜
んだフリをする。

 もしお金を盗まれるのがいやだったら、管理をしっかりとすればよい。そういう方法で、対処
する。

 それともTUさん、あなた自身は、どうか? あなたは何もごまかしていないか? 交通ルール
だって、しっかりと守っているか。交差点で、黄信号になったら、しっかりと車を止めているか。
ショッピングセンターでは、いつも、駐車場に車を止めているか。

 さらに友だちとの約束は、しっかりと守っているか。人に誠実か。借りたお金を、いつもきちん
と返しているか。

 もしそうなら、それでよし。あなたの子どもの心がゆがむことは、絶対にない。が、そうでない
なら、つまりあなた自身が、どこか小ズルイ人であるなら、それはあなたの子どもの問題ではな
い。あなた自身の問題である。

 あなたはひょっとしたら、自分のいやな面を見せつけられるようで、子どもが、ズルイことをす
るのが許せないのとちがうだろうか(失礼!)。人間というのは、自分がもついやな面をだれか
に見せつけられると、カッとなりやすい。もしそうなら、やはり、これはあなた自身の問題という
ことになる。

(3)叱り方が過激になってきた。

 育児ノイローゼの初期症状も疑ってみる。心の緊張感をとるように、努力する。

 こうした緊張感は、あなた自身にとっても、また子どもにとっても、よくない。しかしこうした問
題は、何とかしようともがけばもがくほど、アリがアリ地獄に落ちるように、かえって深みにはま
ってしまう。

 では、どうするか。

 あなたも、一人の人間として、自分の進むべき道を模索する。そうでなくても、これから先、子
どもの問題は、つぎからつぎへと起きてくる。だから子育てとは別に、つまり子育てを離れた世
界で、自分の生きザマを確立する。

 そのときコツがある。できるだけ、自分の中の「利他」の割合を大きくする。そしてその一方
で、「利己」の割合を、小さくする。「利己」が大きければ大きいほど、かえって袋小路に入って
しまう。つまり何かの方法で、他人のために働くようにする。具体的には、ボランティア活動が
ある。

 ボランティア活動をすすんでする人たちの、あの内からわきでるような神々しさ、あなたも感じ
てみるとよい。それがその人の、人間的な大きさということになる。

 また、子どもの耳は、長い。(英語で『子どもの耳は長い』というときは、別の意味で使うが…
…。)叱っても、その音が脳に届くまでには、時間がかかる。言うべきことは言いながらも、あと
は、子どもの判断に任せる。

(4)授業中の態度が、よくない。

 子ども自身は、「よくない」とか、「悪い」とか、思っていない。もう少し年齢が大きくなるのを待
つ。もう少しすると、先に書いた自己意識が育ってくるので、それをうまく利用する。

 あとは、学校の先生には、低姿勢でのぞむこと。「うちの子が、みなさんに迷惑をかけしてい
るようで、すみません」と。

(5)勉強についていけなくなるのではと、心配。

 現実問題として、中学一年生で、掛け算の九九が、満足にできない子どもは、全体の1〜2
0%はいるとみる。

 国立の大学に通う大学院生(文科系)でも、小学校で習う、分数の足し算、引き算ができない
学生は、30〜40%(※2)もいる。

 悲しいかな、これが日本の教育の現実である。いいかえると、今は、そういう時代だというこ
と。オールマイティな頭でっかちの子どもより、一芸に秀でた子どものほうが、生きやすいという
こと、。またこれから先、そういう時代になるということ。

 定年退職したあとも、大卒の学歴をぶらさげて生きている人は多い。しかしこれからは、もう
そういう時代ではない。

 たまたまTUさんの子どもは、小学2年生ということだから、この年齢あたりが、その分かれ道
ということになる。

 アカデミックな学習態度を身につけて、いわゆる日本の学歴社会に順応していくか、あるいは
それに背を向けて、サブカルチャの道を進むか。

 もし勉強に遅れが目立ってきたら(こういう言い方は、本当に不愉快だが……)、「勉強をさせ
る」のではなく、あなた自身が、自分で勉強するつもりで、子どもをその雰囲気の中に巻きこん
でいく。そういう姿勢が、子どもを勉強好きにする。

(6)塾へ入れるのは、どうか?

 私の教室(BW教室)を、すすめる。一度、検討されたし。

(7)親子関係がこわれるのではないかと、不安

 そういう不安があるなら、もうすでにこわれ始めている。人間関係というのは、そういうもの。

 よく若い男が、女に、「お前を信じているからな」と言うことがある。しかしそう言うということ
は、すでに相手を疑っているということになる。

 本当に相手を信じていたら、そういう言葉は出てこない。同じように、「親子関係が、こわれる
かもしれない?」と不安になっているようなら、すでにこわれ始めているとみる。

 「母親の役目はここまで。あとは父親の役目」と、割り切ることはできないのか。いつまでも母
性世界だけで、子どもを育ててはいけない。とくに、相手は、男児。それともあなたは、自分の
子どもを、マザコンタイプの冬彦さんにしたいのか?

 今、若い男性でも、そして結婚してからの夫でも、このタイプの男が多い。多すぎる。

 結婚してからも、何か自分のことでニュースがあったりすると、妻に話す前に、実家の母親に
電話したりする。当の本人は、そうすることが、親孝行の息子と誤解している。そしてお決まり
の、美化論。親を美化することによって、自分のマザコンぶりを、正当化しようとする。

 「私の母は、立派な人だ。だから私が、こうして尽くすのは、当たり前。子どもの義務」と。

 なぜこれほどまでに、この日本で、マザコンタイプの男がふえてしまったか? その原因の一
つに、TUさんが今、感じているような不安がある。そしてその不安の根源は、日本の文化その
ものに深く根ざしている。

【TUさんへ】

 かなりきびしいことを書きました。自分でも、わかっています。

 しかしこの問題は、TUさんだけの問題ではありません。広く、ほとんどの母親たちが、共通し
て悩んでいる問題です。

 私の返事は、本文の中に書いておきました。しかしこれだけは忘れないでください。

 今、あなたの子どもは、あなたに考えるテーマを投げかけているのです。子育ての問題。教
育の問題。日本の社会や文化の問題など。

そこで大切なことは、こうしたテーマについて、あなた自身が考え、自らの結論を出すということ
です。

 本文の中で、「あなた自身はどうだったか」と書きましたが、それはまさしく(あなた)自身を知
るきっかけとなるはずです。

 そういう視点、つまりあなたが子どもを育てるのではない。あなたの子どもが、あなたという人
を育てるために、そこにいる。そういう視点で、子どもをみます。

 あなたが「私は親だ」と思っている間は、決してあなたの子どもは、あなたに対して心を開くこ
とはないでしょう。あなたに何も教えないでしょう。しかしあなたがほんの少しだけ、子どもと対
等の立場にたち、謙虚になれば、あなたの子どもは、あなたに心を開くことになります。

 メールを読むかぎり、あなたは、どこか権威主義的な、親意識の強い方だと思います。もしそ
うならなおさら、つまらない親意識など捨てて、子どもに、こう話してみてはどうでしょうか。

 「ママも、子どものころ、勉強なんて、大嫌いだった。おもしろくないもんね」「学校の宿題なん
てね、適当にやればいいのよ。あなたは学校でがんばって、疲れているんだから、家の中で
は、休めばいいのよ。ごくろうさま」と。

 あなたの子どもは、目を白黒させて驚くかもしれません。しかしそのあと、あなたの子どもは、
心を開いて、いろいろ言うでしょう。

 いいですか、親子の絆(きずな)というのは、そういうものです。心を開きあわないで、どうして
絆を太くすることができるでしょうか。

 この絆の問題については、また追々、私のマガジンのほうで書いていきます。まだマガジンを
購読なさってくださっておられないようなので、ぜひ、ご購読ください。いつまで、このエネルギー
がつづくかわかりませんので、早い者勝ちです。今なら、無料。お得です。ホント!

 では、今日は、これで失礼します。メールの引用、転載など、ご了解いただければうれしく思
います。

 なおこの原稿は、マガジンの6月30日号のほうで、掲載するつもりです。そのときまでにまた
推敲に推敲を重ねておきますので、またそちらのほうを、お読みいただければうれしく思いま
す。ご都合の悪い部分などあれば、至急、お知らせください。よろしくお願いします。
(はやし浩司 子どもの勉強 子供の勉強 子どもの学習 子供の学習 勉強をしない子ども 
勉強をしない子供 家庭での勉強)

++++++++++++++++++++++++++

※「シシリー宣言」

一九九五年一一月、イタリアのシシリー島のエリゼに集まった一八名の学者が、緊急宣言を
行った。これがシシリー宣言である。

その内容は「衝撃的なもの」(グリーンピース・JAPAN)なものであった。いわく、

「これら(環境の中に日常的に存在する)化学物質による影響は、生殖系だけではなく、行動
的、および身体的異常、さらには精神にも及ぶ。これは、知的能力および社会的適応性の低
下、環境の要求に対する反応性の障害となってあらわれる可能性がある」と。

つまり環境ホルモンが、人間の行動にまで影響を与えるというのだ。が、これで驚いていては
いけない。シシリー宣言は、さらにこう続ける。

「環境ホルモンは、脳の発達を阻害する。神経行動に異常を起こす。衝動的な暴力・自殺を引
き起こす。奇妙な行動を引き起こす。多動症を引き起こす。IQが低下する。人類は50年間の
間に5ポイントIQが低下した。人類の生殖能力と脳が侵されたら滅ぶしかない」と。

ここでいう「社会性適応性の低下」というのは、具体的には、「不登校やいじめ、校内暴力、非
行、犯罪のことをさす」(「シシリー宣言」・グリーンピース・JAPAN)のだそうだ。

 この事実を裏づけるかのように、マウスによる実験だが、ビスワエノールAのように、環境ホ
ルモンの中には、母親の胎盤、さらに胎児の脳関門という二重の防御を突破して、胎児の脳
に侵入するものもあるという。つまりこれらの環境ホルモンが、「脳そのものの発達を損傷す
る」(船瀬俊介氏「環境ドラッグ」より)という。

※2学力

 京都大学経済研究所の西村和雄教授(経済計画学)の調査によれば、次のようであったとい
う。

調査は一九九九年と二〇〇〇年の四月に実施。トップレベルの国立五大学で経済学などを研
究する大学院生約一三〇人に、中学、高校レベルの問題を解かせた。

結果、二五点満点で平均は、一六・八五点。同じ問題を、学部の学生にも解かせたが、ある国
立大学の文学部一年生で、二二・九四点。多くの大学の学部生が、大学院生より好成績をと
ったという。

++++++++++++++++++++

●『肥料のやりすぎは、根を枯らす』

 昔から日本では、『肥料のやりすぎは、根を枯らす』という。子育ては、まさにそうだが、問題
は、その基準がはっきりしないということ。

 概してみれば、日本の子育ては、「やりすぎ」。多くの親たちは、「子どもに楽をさせること」
「子どもにいい思いをさせること」が、親子のパイプを太くすることだと誤解している。またそれ
が親の深い証(あかし)と思い込んでいる。しかもそういうことを、伝統的にというか、無意識の
まま、してしまう。

 たとえば子どもに、数万円もするテレビゲームを買い与える愚かさを知れ!
 たとえば休みごとに、ドライブにつれていき、レストランで食事をすることの愚かさを知れ!
 たとえば日々の献立、休日の過ごし方が、子ども中心になっていることの愚かさを知れ!
 たとえば誕生日だ、クリスマスだのと、子どもを喜ばすことしか考えない、愚かさを知れ!
 たとえば子育て新聞まで発行して、自分の子どもをタレント化していることの愚かさを知れ!
 たとえば子どもが望みもしないのに、それ英会話、それバイオリン、それスイミングと、お金
ばかりかけることの愚かさを知れ!
 
 こうした生活が日常化すると、子どもは世界が自分を中心に動いていると錯覚するようにな
る。そして自分の本分を忘れ、やがて親子の立場が逆転する。本末が、転倒(てんとう)する。
たまには、高価なものを買うこともあるだろう。たまには、レストランへ連れていくこともあるだろ
う。しかしそれは、「たまには……」のことである。その本分だけは忘れてはいけない。

 こうして、日本の親たちは、子どもがまだ乳幼児期のときに、やり過ぎるほどやり過ぎてしま
う。結果、子どもはドラ息子、ドラ娘になる。あるアメリカ人の教育家はこう言った。

「ヒロシ、日本の子どもたちは、一〇〇%、スポイルされているね」と。「スポイル」というのは、
「ドラ息子化している」という意味。

 子どもというのは。皮肉なもので、使えば使うほど、よい子になる。忍耐力も強くなり、生活力
も身につく。さらに人の苦労もわかるようになるから、その分、親の苦労も理解できるようにな
る。親子のパイプもそれで太くなる。そこでテスト。

 あなたの子どもの前で、重い荷物をもって、苦しそうに歩いてみてほしい。そのときあなたの
子どもが、「ママ、助けてあげる」と走りよってくれば、それでよし。

しかしそれを見て見ぬフリしたり、テレビゲームに夢中になっているようであれば、あなたは家
庭教育のあり方を、かなり反省したほうがよい。子どもをかわいがるということは、どういうこと
なのか。子どもを育てるということがどういうことなのか。それをもう一度、原点に返って考えな
おしてみたほうがよい。
(040530)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(177)

【近況・あれこれ】

●矛盾の発見

 自分に甘い人は、他人にきびしい。それはわかるが、そういう言い方をするとき、ここで大き
な疑問にぶつかる。

 「自分の子どもは、自分なのか。それとも他人なのか」という疑問である。

 いくつかの例で、考えてみよう。

(1)ある父親は、約5000万円という大金を積んで、息子(現在、大学生)を、私大の医学部へ
入学させた。この父親は、甘いのか。それともきびしいのか。

(2)ある母親は、息子(中3)が万引きで補導されたあと、あちこちを走りまわり、一晩で、その
事件そのものをもみ消してしまった。この母親は、甘いのか。それともきびしいのか。

 これらのケースでは、親は、自分の子どもに、甘いということになる。デレデレに甘い。つまり
自分の息子イコール、自分と考えている。

 それはわかるが、では、つぎのようなケースでは、どうだろうか。

(3)ある母親は、自分の息子(小2)が、宿題をしなかったことについて激怒し、夜中にふとん
の中から、その子どもを引きずり出し、その子どもに宿題をさせた。子どもは、涙を目にいっぱ
い浮かべながら、その宿題をした。この母親は、甘いのか。それともきびしいのか。

 この親は、一見、きびしい親に見える。しかしその子どもが、他人の子どもなら、そこまできび
しくするだろうかという疑問がある。

 そこでもう一度、疑問の内容を整理してみよう。

(1)もし、自分の子どもを自分と考えるなら、この宿題をさせた母親は、たいへん自分にきびし
い親ということになる。しかし自分に対して、そこまできびしい人はいるだろうか。

(2)もし、自分の子どもを他人の子どもと考えるなら、この宿題をさせた母親は、たいへん他人
にきびしい親ということになる。しかし他人に対して、そこまできびしい人はいるだろうか。

 ……こうして考えていくと、親は、自分の子どもに対しては、独特の反応を示すのがわかる。
自分であって、自分でない。他人であって、他人でないという反応である。少し話が飛躍して、
わかりにくいかもしれないが、別のケースで考えてみよう。

(4)ある子ども(中3・男子)が、進学予備校の模擬試験で、悪い成績をとってきた。点数もさが
ったが、それ以上に、順位もさがった。このままでは、志望校をワンランク、さげなければなら
ないかもしれない。

 それを知った母親が、その子どもを、激怒した。「何よ、この点数は! こんなことでは、A高
校へは入れないでしょ! 今夜から、毎晩、3時間、勉強しなさい!」と。

 その母親は、たいへんきびしい母親ということになる。しかしそれは、子どもという、別の自分
に対してきびしいのか。それとも、子どもという、他人に対してきびしいのか。

 もちろんその母親は、自分が感じている不安や心配を、そのまま子どもにぶつけているだ
け。それはわかるが、なぜ、そういう行動に出るのか。

 それがたとえばその母親の親友なら、その母親は、そういう言い方はしないだろう。多分、こ
う言うにちがいない。「あなたは、よくやったわ。がっかりしないでね。つぎでがんばればいいの
よ」と。

 それがたとえばその母親の夫なら、その母親は、そういう言い方をしないだろう。多分、こう
言うにちがいない。「あなたは、よくやっているわ。いいのよ、それで。あとのことは、私のほう
で、何とかするから」と。

 (あるいは、ひょっとしたら、夫に対して、怒鳴り散らすかもしれない。「こんな給料では、生活
できないわ!」と。)

 本来なら、こういうケースでは、母親は、自分の息子に対して、こう言うべきである。「成績が
悪くても、がっかりしてはだめよ。勉強だけが、人生ではないのよ。またつぎでがんばればいい
んだから。今夜は、ゆっくりと休みなさい」と。

 なぜ、母親は、そう言わないのか。言うことができないのか。

 ……と、少し話がわかりにくくなってきた。自分でも、この先のことは、よくわからない。

 実は、私は、この(自分であって自分でない)、しかし(他人であって他人でない)という部分こ
そが、親が子育ての場で引き起こす、悲喜劇の原因ではないかと思い始めている。つまりこの
あたりの親の心理を、うまく分析できれば、子育てにまつわる親の悩みや苦しみを、解消でき
るのではないか、と。

 ワイフに相談すると、「親子は特殊だからね」と。

 それはわかる。しかしその特殊性とは何か。その手がかりが、このあたりにあるように思う。
自分の子どもは、自分なのか。それとも他人なのか。

 この疑問は、疑問として、いつかまた別の機会に考えてみたい。(ごめん!)


●私のクローン

 私の細胞を一個取り出し、それで、新しい人間、つまりクローン人間を作ったとする。そのと
き、そのクローン人間は、私なのか。それとも他人なのか。

 もちろんそのクローン人間は、他人である。

 ところで、以前、私の二男が、こんな話をしてくれたことがある。『スタートレック』という映画の
中で、たびたび(転送装置)というのが、登場する。

 人が円形の台の上に乗ると、天井から光の束が、シャワーのようにおりてくる。とたん、その
台の上の人は、別のところに転送される。

 その転送装置について、二男が、こう言った。二男が、高校生のときだった。

 「パパ、転送された人間はね、もとの人間ではないのだよ。もとの人間は、転送される瞬間
に、殺されているんだよ」と。

 もう少しかみくだいて、説明してみよう。

 あなたが台の上に乗ったとする。そして転送のスイッチを入れたとする。その瞬間、その装置
は、あなたという人間を、分子レベルまで、こなごなに分解する。

分解された分子は、たとえば電気的信号となり、転送先の場所に送られる。そしてその転送先
で、再び、人間として組み立てられる。

 つまり見た目には、瞬時にして、あなたは、転送されたことになる。しかし元の人間は、転送
される前に殺されたことになる。転送後のあなたは、まったく別のあなたということになる。

つまり転送装置というのは、(瞬時にあなたを殺し)、(瞬時にまったく別の、あなたと同じ人間
をつくる)装置ということになる。

 転送装置なる装置の機能を、ロジカル(論理的)に考えていくと、そうなる。

 ということは、3回、転送されれば、その転送された人は、元の人間のコピーの、そのまたコ
ピーのコピーということになる。

 しかし他人から見れば、そのコピーの、そのまたコピーのコピーであっても、あなたはあなた
ということになる。元のあなたと顔や姿だけではなく、ものの考え方も同じ。すべて同じ。だか
ら、あなたはあなたということになる。

 そこでクエスチョン。

 もしこの瞬間に、だれかが、あなたのクローン人間を、作ったとする。脳みその中の情報は、
何かにコピーして、新しいクローン人間に、すべてそのまま移植すればよい。そうすれば、顔や
姿だけではなく、性質も思想も、まったくあなたと同じになる。

 となると、そこに立っている、クローン人間は、あなたか。それともあなたではないのかという
ことになる。

 実は、これはSFの話ではない。親子の話である。『スタートレック』の転送装置のように、瞬
時というわけではないが、親子の関係は、それに似ている。あるいはあなたの子どもは、あな
たのクローン人間ということもできる。

 となると、自分の子どもは、私なのか、それとも私でないのかという問題になる。クローン人間
は、私ではないということになれば、自分の子どもだって、私ではない。つまり他人ということに
なる。しかし……。

 親子の関係をいろいろつきつめていくと、おもしろいことに気づく。あまり意味がないかもしれ
ないが、蒸し暑い夜には、楽しい。そんなことを考えていると、やがて眠くなる。あなたも、今夜
あたり、ふとんの中で、そんなことを考えてみては、どうだろうか。


●ハナとの散歩

 蒸し暑い夕方だった。風は強く、鉛色の雲が、低く、空をおおっている。
 私は、ハナと散歩に出かけた。とたん、向かい風。坂を一気に、かけおりる。

 中田島砂丘までは、自転車で15分ほど。途中、東海道線の踏み切りを越え、
 国道一号線に出る。そこから少し西へ少し走って、左に折れる。とたん、潮風。

 時は、5月の終わり。少し前、玉ねぎの収穫をしていた畑は、今は、ジャガイモ畑。
 うねの上に、濃い緑の葉が、きれいに並んでいた。遠くで、犬のほえる声。

 松林に自転車を置き、そこからは歩く。サクサクと、やわらかい砂の感触。
 石段を登ると、目の前に広がる、丸みをおびた太平洋。それを見て、ハナを放す。

 ハナは、ポインター種。歩くことを知らない。一目散に走って、視界から消える。
 目をすえる。カラスが飛び去る。少しすると、砂丘の間から、ハナが頭を出す。

 私は、海辺まで歩いて、また戻る。初夏の生暖かい風に混ざって、冷たい海の感触。
 汗が風となって、飛び散るのがわかる。しばし、そのさわやかさに、身を任す。

 上を見あげる。雲の間に、ほんの少しだが、水色の空。が、それも見る見るうちに、
 かき消される。デジタルカメラで、あわてて写真をとる。そして海の写真も……。

 私は、砂山に座って、ハナを待つ。年のせいか、ハナは、前より疲れやすくなった?
 しばらく走っては、もどってくる。そして苦しそうに、あえぐ。舌を出してあえぐ。

 「もう、帰ろうか」と声をかける。が、ハナは、またどこかへと走り去る。私は、
 砂山に、もう一度、腰を落す。そして待つ。「気が済むまで、遊ばせよう」と。

 時は、5月の終わり。日曜日。明日は朝から、懇談会。「じゅうぶん、休んだか」と、
 自分に問う。ああ、今日も、どこか焦点のぼやけた一日を過ごしてしまった。
 ふと、ため息をつきながら、砂浜をあとにする。ハナと並んで、家路につく。
(040530)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(178)

【近ごろ・あれこれ】

●やる気

 私の家の前には、小さいが、こんもりとした森がある。

 その森には、二羽のキジバトが、つがいで住んでいる。このあたりに住む、野生のキジバトで
ある。

 このキジバトに、エサをやるようになって、もう20年以上になる。毎日というわけではないが、
ときどき、エサを庭にまいていやっている。

 そのキジバトだが、平和な鳥だ。スズメやヒヨドリとも、仲がよい。ツグミや、モズとも仲がよ
い。ただカラスがくると、どこかへ逃げていく。

 で、そのキジバトで、今朝、こんなことに気づいた。

 ほかのキジバトが、私の庭へやってくると、どこで見ているのか、すかさずやってきて、その
侵入者のキジバトを、追いはらう。いわゆる縄張り争いというのである。

 その縄張り争いを見ていたときのこと。

 明らかに侵入者のキジバトのほうが、力があると思われるようなときでも、その森に住んでい
る先住者のキジバトのほうが、追いだしてしまうのである。なぜか?

 つまり先住者のキジバトは、侵入者のキジバトが庭に入ってくると、本気で、それに立ち向お
うとする。一方、侵入者のキジバトは、どこか「ちょっと来てみただけ」という雰囲気である。

 つまり追いはらうキジバトは、真剣。一方、追いはらわれるキジバトは、どこか遊び。このちが
いが、どうやら勝敗を決めるらしいということ。

 私は、それを見ながら、人間の社会も、それと同じと思った。

 つまり真剣に生きるものが、最後には勝つ。

 わかりきったことだが、キジバトの世界を見ていて、改めて、それを確認した。

 たまたま日本のサッカーの代表チームが、明日の対イギリス戦にそなえて、練習している風
景が、テレビで報道された。

 私はそれを見ながら、「サッカー選手たちも、こうした対外試合を通して、さらに技術が磨か
れるのだな」と思った。国際試合ともなると、選手も真剣になる。その真剣さが、さらに技術を
磨く、と。

 心のどこかで、キジバトと、サッカーがダブった。


●行動パターン

 人間には、思考パターンというものがある。

 ある一定の思考方法を繰りかえしていると、いつしか、その思考パターンにそって、ものを考
えるようになる。

 わかりやすい例では、行動パターンがある。

 犬のハナのことだが、夏になったので、小屋の位置をかえてやった。そのときのこと。私がハ
ナを呼ぶと、ハナは、実におかしな歩き方をして、私のところにやってくる。

 まっすぐ私のところに走ってくればよいものを、庭のキーウィの木々の間を、「S」字型に、くね
くねと、わざと大回りをしてやってくる。

 最初は、「?」と思ったが、それまでハナの小屋は、別のところにあった。そこに小屋があった
ときは、そのコースが、最短距離だった。つまりハナは、小屋の位置がかわっても、以前と同じ
行動パターンを繰りかえして、私のところにやってきたことになる。

 一度、この思考パターンができると、それをかえるのは、容易なことではない。

 たとえば私は何か問題が起きると、すぐ文章を書いて解決しようと考える。多分、暴力団の
男は、暴力を使って解決しようとするだろう。それと同じである。

 言いかえると、私たちの脳ミソの中には、こうした思考パターンが無数に入っている。それが
悪いというのではない。それがあるから、大半の行動は、スムーズに進む。流れる。もしそれ
がなかったら、そのつど、いちいち、迷わなければならない。

 が、問題は、こうした思考パターンにとらわれすぎるあまり、新しい考えを拒絶してしまうよう
なケースである。脳ミソそのものが、硬直しているとみる。

 それは避けなければならない。つまりそのためにも、いつも頭を使い、柔軟にしておかねばな
らない。

 犬のハナを見ていて、今日、それに気づいた。


●佐鳴湖

 私の住んでいる地区に、佐鳴湖という湖がある。「さなるこ」と読む。

 宇宙からとった衛星写真にも写るほどだから、小さくはない。縦4キロ、幅2キロの、さつまい
ものような形をした湖である。

 私は、よく犬のハナをつれて、その佐鳴湖へ散歩に行く。

 水質は悪いらしいが、見た目には、美しい湖である。四季折々の変化も、すばらしい。それに
ここ20年、植樹と改良工事が重ねられ、どこかの国のリゾート観光地のようになった。

 考えてみれば、私は、その佐鳴湖のほとりに住んで、もう27年になる。ある時期は、毎日、
佐鳴湖の南側の道路をとおって、仕事にかよっていた。これといって特徴のない湖で、こうして
佐鳴湖について書きながらも、ほかに書くことがない。

 あえて言えば、学生のボートの練習場になっているということ。昔は、この佐鳴湖でも、魚がと
れたということ。それにこの佐鳴湖から、浜名湖まで、水路をとおって、船で行けたということ。
その途中には、無数の養鰻場があった。

 そう、このあたりには、ウナギを養殖する養鰻場が、たくさんあった。学校の教科書にも、「浜
名湖のウナギ」と、よく書かれている。

 しかし実際には、今では、その姿を、ほとんど消した。このあたりで食べるウナギも、その大
半が、台湾や中国から来たものだという。もちろん佐鳴湖や浜名湖では、ウナギはとれない。
かりにとれたとしても、浜名湖のウナギはともかくも、佐鳴湖のウナギを食べる人はいない。

 佐鳴湖の水質は、全国でも、ワースト・ツー。霞ヶ浦湖とワースト・ワンを争っている。佐鳴湖
の水は、「水」というより、汚水に近い。 

 しかしその地区の住人の一人として、佐鳴湖をもう一度、あえてかばう。

 佐鳴湖は、見た目には、本当に、美しい湖である。天気のよい日には、青い空をそのまま反
射して、美しく光る。ウソではない。本当だ。

だからあなたも、街のどこかで弁当を買って、一度、その佐鳴湖のほとりで食べてみるとよい。
弁当の味が、数倍、よくなる。私のワイフも、そう言っている。

 ちなみにおすすめスポットは、佐鳴湖の西岸、中ほどの休憩所。いつもきれいに清掃されて
いて、気持ちよい。


●遊離

 表情と心(情意)が、一致する。何でもないことのようだが、つまりそれが自然な形でできる子
どもにとっては、何でもないことのようだが、そうでない子どもには、そうでない。

 うれしいはずなのに、それが表情となって出てこない。悲しいはずなのに、それが表情となっ
て出てこない。

 心が変調し始めると、子どもは、いわゆる(何を考えているかわからない)といったタイプの子
どもになる。教える側からすると、心がつかめなくなる。

 静かで、おとなしい。表情も、ほとんど、変えない。たいていは、どこかニンマリと笑ったような
表情になる。怒ったり、笑ったりすることもない。大声で騒いだり、意見を言うこともない。

 かん黙症の子どもと違うところは、気が向いたようなときは、口を動かして、声らしきものを出
すということ。たいていは蚊が鳴くような小さな声だが、まったくの無口というわけではない。(か
ん黙症の子どもも、同じような表情をするときがある。)

 さらに変調すると、表情と心(情意)が、まったくチグハグになる。心理学では、これを「遊離」
という。

 怒っているはずなのに、ニヤニヤと笑ったり、ことさら穏やかな表情をしたりする。しかしこう
なると、その心が、まったくつかめなくなる。

 能力的には、問題ないことが多い。ペーパーワークなどをさせると、ごくふつうの子どもとし
て、それができたりする。

 で、こうした遊離が起きると、その分だけ、情報を心の中で整理したり、処理したりできなくな
る。ストレスが加わったりすると、そのストレスを処理できなくなり、そのため、ますます心をゆ
がめたりする。

 M君(年長児)という子どもが、印象に残っている。

 いろいろ刺激を与えてみるが、じっと私のほうを見ているだけで、反応がない。穏やかな顔を
しているだけ。どこかニンマリと笑っているといったふう。みなが、ドッと大声で笑うようなときで
も、どこか別の心で笑っているような感じになる。クスクスと笑うようなことはあるが、その程
度。

 しかし問題は、子どもがそうであるということもさることながら、親にその理解がないというこ
と。その日も、そうだった。たまたまM君の母親が、参観にきていたが、そういうM君を見ると、
M君の手を強引に引っ張って、そのまま教室から出ていってしまった。

 こうしたケースは、よくあることだが、M君が、とくに印象に残っているのには、理由がある。

 あとでM君の父親から、電話がかかってきた。いわく、「お前は、うちの息子を萎縮させてしま
った。ついては、責任をとってもらう」と。

 原因は、……というより、保育園や幼稚園へ入園したとき、それがきっかけでそうなることが
多い。対人恐怖症の一つと考えられる。つまりそういうふうに、自分の周囲にカラをつくること
で、外界の世界との接触を避けようとする。

 これを心理学の世界では、「防衛機制」という。かん黙症の子どもの心理も、同じように説明
されるが、ほかに、下の子どもが生まれたことが原因で、そうなることもある。愛情不足が欲求
不満となり、それが遠因となって、ここに示したような症状を示すこともある。家庭不和、騒動、
無視、冷淡、育児拒否など。

 Sさんという女の子(小学生)は、ほとんどといってよいほど、表情がなかった。あとで聞くと、
それが原因とは断定できないが、Sさんは、生後まもなくから、保育所に預けられて、育てられ
たという。

 先のM君のばあいは、母親の威圧的な育児姿勢が原因ではないかと思っている。少なくと
も、M君の母親は、愛情豊かな、心のおだやかな人ではなかった。神経質で、いつもピリピリし
ていた。

 そういう環境の中で、M君は、自分の周辺にカラをつくったのではないか。……もう15年以
上も前のことだが、今、思い出してみると、そんな気がする。

 (子どもの心は、複雑で、こうした一面的な見方が、正しいとは思っていないが……。)

 そこであなたの子どもは、どうだろうか。表情と心(情意)は、一致しているだろうか。あなたの
前で、うれしいときは、満面にうれしそうな表情を浮かべるだろうか。言いたいことを言い、した
いことをしているだろうか。

 もしそうなら、それでよし。

 しかしどうも、うちの子は、何を考えているかわからない……というのであれば、子どもを叱る
のではなく、心のどこかに問題があると考えて、冷静に対処する。

【追記】(気うつ症の子ども)

 遊離というほどではないが、子どもが仮面をかぶり、そのため、その心がわかりにくくなること
がある。

 いわゆる(いい子ぶる)というのが、それ。

 学校でも、いい子でとおす。がんばる。先生にもほめられる。本人も、必要以上に、がんば
る。……がんばってしまう。

 そして結果として、お決まりのオーバーヒート。

 原因は、人間関係がうまく結べないことによる。本来なら、そのつど自分の心を解放するの
がよい。言いたいことを言う。したいことをする。そのほうがよい。

 しかしこのタイプの子どもは、それができず、内へこもってしまう。そしてそれが気うつ症とな
って、外に現れる。

 無気力、倦怠感、脱力感など。その前兆として、元気がなくなったり、食欲をなくしたりする。
腹痛を訴えたり、吐く息が臭くなったり、ため息をもらすようになったりする。

 大切なことは、そういう前兆が現れた段階で、できるだけ早くそれに気づくこと。家庭の中で、
ゆるめる部分は、ゆるめる。生活態度がだらしなくなることもあり、子どもを叱ったりする親が
いるが、逆効果なことは、言うまでもない。

 このタイプの子どものこわいところは、あるところまではがんばれるだけ、がんばってしまうと
いうこと。そしてある日、突然、プツンしてしまうこと。よく知られた(?)例に、『あしたのジョー』
がある。そうなってしまう。

 もしあなたが、自分の子どもについて、「外では無理をしている」と感じたら、家の中では、思
いっきり、手綱(たづな)をゆるめる。コツは、子どもを暖かく無視する。
(040601)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(179)

【平等とは……】

●アメリカの実情
 
 SKさん(二児の母親)から、こんなメールをもらった。改めて、「平等とは何か?」、それを考
えさせられた。

++++++++++++++++++++

日本の学校、アメリカの学校。自由と平等。いろいろとらえ方があって、
どっちがいいって簡単にはいえないことだと思います。どちらもにも
利点、不利点があるでしょうから。

私は小学3年から中学2年までアメリカはN州で
生活しました。英語ができない状態で、現地校に放りこままれ、
たくましく大きくなりました。中2で帰国する時には、日本語が
あやしくなっていました。(言語発たちの、大事な時期ですね。)

当時はレーガン大統領の時代。アメリカがいろんな意味でキラキラ
していて、夢があった頃だと思います。でも、経済的に苦しくなり
つつあって、教育費は年々カットされました。先生方がしょっちゅう
授業をボイコットをしていたのを覚えています。

先生のお話にもあったように、あちらでは、町が変われば学校の
あり方が違う。PTAが多くの権限をもち、あらゆる教育内容に
発言するんですよね。

5年間の生活で、最初の2年間を過ごした町では、あまり教育熱心な
町ではなく、ブルーカラーの人、アイリッシュがとても多いところでした。
そちらの町では、学校の予算が削られて、小学校は3年生でおわり、
4、5、6、7が middle school、8学年以降が high schoolあつかいでした。

で、途中で引越、残りの3年を過ごした町はとても教育熱心な町でした。
このRMという町には、6年生以降、8年生まで学校生活を経験
しました。

7年生からは、あらゆる科目が5段階にレベル分けをされていました。
ホームルームは一緒でも、時間割はみな、ちがっています。習う科目と
レベルが、みな、違うんです。

で、全教科レベルが高いところで学習している生徒は、目の前に
「飛び級」がちらついてくる。一番下のところに降ろされている子は
「ドロップアウト」が見えてくる。

どのクラスも、要求されている学習レベルが明確だから、「ドロップアウト」
するべき瞬間が誰の目にも明らかなんですよね。子どもにとっても。
「進級する」のも同じ。

同じ学年で、同じ English教材で学習をしていても、トップレベルのクラスで
扱う新出単語が30個ならば、下のレベルでは、20個だったりするわけです。

私が過ごしていた町では、トップレベルのクラスに入っている子たちは
特別なクラブ活動に参加していました。 Enrichmentと呼ばれたり、
Class for the gifted and talented という名称がつけられていたりしました。

こうやって、エリート意識を、小中学生の頃から植えつけて、切磋琢磨させて
いるんです。毎朝、1時間早めにきて、ディベイト、学校新聞作り、
株と経営、地元学校対抗クイズ大会の練習など、するのです。

で、これらの活動に参加しているお子さんたち、たいていのご父兄が
PTAに中心的に活動していて、学習内容、学習レベルを細かに
チェックしているのです。ご父兄も、お医者さんやら弁護士さんやら
いわゆる「エリート」のお仕事に従事されている方ばかりです。

アメリカの、そういうPTAで幅を利かせている方々というのは、
先生を巻きこんで、自分の子どもたちが、もっともいい教育が受けられる
道を歩めるようにアクションを起こしていくんですよね。

飛び級しかり、Enrichment のような活動しかり。(これはどの町の
学校にもあるシステムだと思います。規模の大小、ありますが。)

大学進学に必要なSAT(Scholastic Assessment Test、
アメリカ大学学部課程への入学適性を審査する学力診断テスト)、
あれも、何度も受ければハイスコアが確実に
見えてくるシステムのテストです。Enrichmentの活動に参加している子たちは
中学2のときから毎年のようにSATを受ける権利がもらえているのです。
そうなれば最終的にハイスコアを提出しやすいですよね。

私も、全教科、トップレベルのクラスにいれてもらっていたので、
Enrichment を通して、たくさんの面白い経験をさせてもらいました。
(校外学習など、いろんなプログラムが準備されているのです。)
私の場合は「英語が第二言語である」というところが、giftedであると
理解されていたようです。

アメリカでは喜んでドロップアウトする。ドロップアウトを受け入れる
授業編成とカリキュラムが組まれているからだと私は理解しています。
でも、もし Enrichmentのようなプログラムからはずされるとなると、
半狂乱になる親はいたと思います。とくに一度英才教育をうけた子どもたち
には、とても酷なことでしょう。

よく私の母がつぶやいていました。「個々人の能力に応じた教育の機会を
与えるのが、アメリカの平等。能力の幅をできるだけ感じさせないように
して、みんなに同じ機会を与えようとするのが、日本の平等。」

どっちが、平等なんでしょうか? 

日本でいうところの、「コース」っていうのは、一体何ものなんでしょう。
人々が過去に歩いて作った道、のことですよね。昔からある道に
安心しているから、その上を歩くんですよね。疑いもしないで……。

学校の先生さまにお任せして、文科省のてがける教科書さえこなして
いればいい、っていう、日本の親の、甘えがあるんですよね。
日本の親は、学校現場に参加していかない。むしろ、「学校に任せて
おけばいい」と、子どもの教育を放棄していく。だから、突然の「ドロップアウト」
宣言に、半狂乱になるんだと思うんですよね。

もちろん、本当は、突然ではないのでしょうけれど。なんとなく先生と
学校と教科書(文科省)にお任せしているから、突然の通たちに
「反応」できないんですよね。

アメリカのように学校、教科書に信頼がないから、PTAが決めていく。
だからフリースクールが増えていく。そうなると団体行動、社会活動を
学ぶ機会は、ここで大幅に縮小していきます。そういう意味では、
アメリカの学校現場が、健全かどうかというのも疑わしいと思うんです。

コースから外れることへの不安。その不安が、子どもたちの学習内容に
つながっていくエネルギーに代わっていくといいと思います。学習内容
3割削減後、すこし振り子が戻ってきたように。

親と子ども、子どもと学校、先生と子ども、先生と親。
もっと信頼関係のパイプが太く、安心できるものになりますように。

++++++++++++++++++++

【SKさんへ……】

●日本とアメリカ

 去年、アメリカのS州立大学(アーカンソー州)へ行ったときのこと。何とそこには、15歳の大
学生がいました。

 アメリカでは、そこまでできるのですね。アメリカでは、珍しいことではありません。

 が、当の教授や学生たちは、みな、「かわいそうだ」と。

 その15歳の少年は、大学にはいるものの、友だちができないからだそうです。もちろん勉強
するだけの、学生生活(?)。一人の大学生は、こう言いました。「それぞれの年齢で、もっとふ
さわしいことを楽しむべきだ」と。

 いろいろ意見は、あるようです。

 そうそうもう一人、その大学で講師をしている人の息子(12歳)ですが、学校へは行かず、自
宅で、父親と勉強している子どももいました。住所と名前を教えてもらったので、一度会いたい
と連絡をしたのですが、たがいに時間がとれなくて、そのまま私は、日本へ帰ってきてしまいま
した。

 それについても、一人の大学生は、「かわいそうだ」と言いました。

 アメリカでは、学校へ行かず、自宅で勉強できるホームスクール制度というのが、発達してい
ます。開拓時代からの名残というか、伝統というか……。もともと広大な国なものですから、「学
校」に対する考え方や概念も、日本とは、かなりちがうようですね。

 現在、推定で、ホームスクーラーの数は、200万人を超えたとされています。いろいろと事情
があって、そういう制度が発達したのでしょうが、その子どもについて、「子どもの意思を無視し
てまで、学校へ行かせないというのは、かわいそうだ」と。

 STさんが、ご指摘の「平等」についての考え方には、正直言って、少なからず、ショックを受
けました。

 「個々人の能力に応じた教育の機会を与えるのが、アメリカの平等。能力の幅をできるだけ
感じさせないようにして、みんなに同じ機会を与えようとするのが、日本の平等」という部分で
す。

 もともと日本とアメリカとでは、教育の視点がちがうようですね。日本では、「国あっての民。そ
のための教育」と考えるようです。

 一方、アメリカでは、あの開拓時代から、教育(子どものための学校)は、自分たちが作るの
だというふうに考えるようです。「民あっての、教育であり、国」という考え方なのではないでしょ
うか。

 さらにこの日本では、明治時代以後、いわゆる『従順でもの言わぬ民』づくりが、教育の基本
であったことも事実です。もちろん教育は、だれの目にも必要だったし、日本の社会を変えると
いう意味では、重要な機能を果たしました。

 (最近になって、「現在の日本の繁栄は、そうした明治時代の人たちが築いた基礎があった
からだ」と主張する人がいます。しかしその途中で、日本全土が、空襲で焼け野原になったこと
も、忘れてはなりません。

 そういう人たちは、敗戦直後、日本が焼け野原になったときは、何と言っていたのでしょうか。
日本人は、いつも結果だけをみて、過去を判断します。仏教というより、チベット密教的な宗教
観が、根底にあるからではないかと思っています。)

 だから日本では、教育は、いつも、国(上)から与えられるもの、一方、アメリカでは、教育
は、いつも、民(民衆)のほうから作りあげていくものと考えるようです。しかしこのちがいは、大
きいですね。

 私も、アメリカでは、ごくふつうの公立小学校が、勝手に、入学学年と卒業学年を定めている
のを知り、驚きました。「うちは満4歳児から入学させ、小学3年生で卒業させる」と、です。「州
政府から、指導はないのですか」と、私が聞くと、「一応、学習6領域についての指導はある。し
かしその基準は、きわめてゆるやかなものだ」(P小学校校長)とのこと。

 知れば知るほど、ウーンと、考えさせられることばかりです。

 話は変りますが、意識というのは、そういうものなのですね。日本で生まれ、日本で育つと、
いつの間にか、教育とは、学校とは、そういうものだと教えこまれてしまう。そして、その上で、
意識というか常識まで、作られてしまう。

 立場は逆になりますが、先日もテレビを見ていたら、隣のK国の大学生たちが、こう言ってい
ました。

 「私たちは、自由です。平等です。今は経済的に苦しいときですが、すばらしい国に生まれ
て、幸福です」と。

 本気でそう思っているのか、それとも、何かの圧力があって、そう言わせられているのかは知
りませんが、そのときも、やはり、ウーンと、考えさせられてしまいました。

 そこで、改めて平等論です。
 
●平等

 「能力の差」を認めるのが、平等なのか。「能力の差」をわかりにくくするのが、平等なのか。

 しかしこの問題は、すべての教師が、学校という教育現場で、日夜悩んでいることでもあるよ
うです。

 能力があり、勉強ができる子どもについては、もっと伸ばしてやりたいと考える。しかしその一
方で、勉強が苦手で、できない子どもについては、できるだけ本人が、それを苦しまないように
してあげたいと考える。

 能力のある子どもについては、伸ばしてあげるのが、平等。能力のない子どもについては、
できるだけ本人がキズつかないようにしてあげるのが、平等、と。

 具体的には、私のばあいは、能力のある子どもは、どんどんと飛び級をさせています。本人
の知的好奇心を、満足させてあげる。(決して、エリート意識をもたせるということではありませ
ん。中には、不必要なエリート意識をもってしまう子どもも、いるにはいます。勉強ができない仲
間をバカにしたりする、など。)

 そして勉強ができなくて苦しんでいる子どもには、復習を中心とした学習に切りかえる。ときに
励まし、ときにほめ、ときになぐさめてあげたりする。

 日本の教育法がよいとか、アメリカの教育法がよいとかいうのではないですね。教育を支え
る背景そのものが、ちがいます。

 日本では、学歴が、ものをいう。最近でこそ、かなり様子が変ってきましたが、それでもものを
いいます。こうした学歴を、会社を定年退職してからも、ぶらさげていばっている人は、いくらで
もいます。

 一方、アメリカでは、学歴というよりも、プロ根性。プロ意識。大学生でも、学歴をもつために
勉強するというよりは、その道のプロになるために勉強するという意識が強い……?

 昨年も、アメリカの大学を訪れた、東大のある教授が、こう言って驚いていました。

 「休み時間になると、学生たちが列をつくって、教授室の前に並ぶんですね。みな、質問だ
の、相談だのを、教授にするためです。日本では見たことがない光景だけに、驚きました」と。

 勉強する意識というか、目的そのものがちがう。だから当然のことながら、「平等」に対する考
え方も、ちがいます。それにつけ加えるなら、平等であるから、よいということにもならないので
はないでしょうか。

 みんながリーダーになっても困るし、かたやみんなが、従属者になっても、困る。社会をつくる
ためには、たがいの役割をそれぞれが自覚し、ある種の調和を保たねばならなりません。それ
にだれしも、リーダーになることを望んでいるわけではない。またリーダーになったからといっ
て、幸福になれるというものでもないですし……。

 ただ親の心としては、こういうことは言えます。

 自分の子どもが優秀(?)であるときには、アメリカ型の平等のほうが、よいと考える。一方、
自分の子どもがそうでない(?)ときは、日本型の平等のほうが、よいと考える。このことは、子
どもの自身にとっても、そうではないでしょうか。

 自分の能力を伸ばしきれず悶々としている子どもは、いくらでもいます。そういう子どもにとっ
ては、(親にとってもそうですが)、日本の教育は矛盾だらけです。

 一方、がんばってもがんばっても、学校の勉強についていくだけでも精一杯という子どもも、
いくらでもいます。そういう子どもにとっては、(親にとってもそうですが)、日本の教育は矛盾だ
らけです。

 そこそこにふつうの子ども(?)だけが、そこそこに満足する。それが日本のでいう「コース」の
本質ではないかと、私は思っています。もちろんその背景には、日本人独得の集団意識、さら
には、長くつづいた封建時代とそれにつづく、学歴社会があります。

 日本人は、みなとちがったことをすることを、極端に恐れます。あるいは自分自身も、自分と
ちがったことをしている人を、排斥しようとしたりします。こうした意識が、コース意識となってい
るわけです。

●これからの日本

 ご指摘のように、日本は、今、多くの問題をかかえています。なおすべきところも多いと思い
ます。

 アメリカも、そうです。アメリカの教育が、すべてよいわけではありません。アメリカはアメリカ
で、多くの問題をかかえています。

 しかし日本にせよ、アメリカにせよ、教育の原点は、一つです。子どものために、子どもの立
場で、子どもの未来を考えて、組みたてる、です。そのためにどうあるべきかを考えます。

 子どもを決して、国家の道具にしたり、国家につごうのよいように、作ってはいけないというこ
とです。国がどうあるべきかは、子どもたちが、将来、子どもたち自身が決めることです。また
そういう「自由」は、最後の「砦(とりで)」として残しておいてあげる。それが子どもを育てる私た
ちの責務であるように思います。

 そういう点では、今の日本の教育には、改善すべき点は、多いと思います。が、先にも書い
たように、日本に生まれ、日本で育っていると、それがわからない。が、アメリカの教育をのぞ
いてみると、それがわかる。そういう意味で、SKさんからいただきました情報は、本当に役に
たちました。ありがとうございました。

 これからもよろしくご指導ください。重ねて、お礼申しあげます。
(はやし浩司 アメリカの学校 アメリカ 小学校)
(040601)


【KSさんからの追伸】

はやし先生

KSです。いろいろ、こちらも考える機会をいただいて、
また、自分の経験してきた学校生活を整理することも
できまして、感謝しております。

さて、どうぞ、マガジンに掲載してください。また
一緒に考えてくれるリーダーが、ふえてくれるのを
楽しみにしております。

【はやし浩司よりKSさんへ(2)】

 昨夜、ビデオショップの宣伝につられて、『Kxxx Bxxx』という、和製、アメリカ映画を見まし
た。

一人の若いアメリカ人女性が、自分の夫や子どもを殺されたことを復讐するため、単身、日本
へ乗りこんできて、日本刀で、バサバサとギャングを切りまくるという映画です。

 評価はいろいろあるでしょうが、私にとっては、見るに耐えないというか、ダ作の中でも、超ダ
作。何とか批評をしたいと思って、ほとんど終わりまで見ましたが、最後は、あきれて、カセット
を取りだしてしまいました。

 突発的にキレて、相手のクビを切り落とすシーンなどもありましたが、娯楽と言うよりは、意味
のない、サツバツとした殺戮(さつりく)映画。おまけに構成は、バラバラ。

 おかしな理由づけのために、4年前のシーンに、突然もどったり。冒頭の二人の女性の格闘
シーンの最中では、子どもが学校から帰ってきて、格闘は中断。そのあと、結局は、その子ど
もの前で、母親をナイフで、刺し殺してしまったり……。

 まあ、はっきり言って、メチャメチャ。

 私は、その映画を見ながら、「日本の映画も、この程度なのかな」と思ってみたり、「これで完
全に、韓国映画、インド映画に敗れた」と思いました。あるいは、「どういう人たちが、こんな映
画をおもしろいと思って見るのかなあ?」とも。

 そう、韓国映画の充実ぶりは、すごいですね。あちこちの大学にも、演劇科があり、いわゆる
アメリカ流の(自然な演技)を、指導しています。

 かたや日本は、どうか? 一部の文化的権威者(たいていは、マスコミで売れている著名人)
が、頂点に君臨し、「これが映画です」というような映画ばかり作っている。この「Kxxx Bxxx」
も、その一つかもしれません。

この映画は、まさに日本の(映画文化)を、象徴していると思いませんか。

 いまだに、日本を、外国から見ると、「奇異な国」という感じがします。「どこか、おかしい」「ど
こか、ふつうでない」という感じです。外国から見ると、どうもわけがわからない。日本人の表情
が見えてこないというか、人間性が伝わってこないというか……。

 その(おかしさ)(ふつうでなさ)に、いつ私たち日本人が気づくかということです。でないと、い
つまでたっても、日本人は、「異質な民族」として、世界のスミに追いやられてしまうのではない
でしょうか。

 「Kxxx Bxxx」を見ていて、それを強く感じました。

【追伸】

●飛び級について

私は、私の生徒について、よく飛び級をさせる。子ども本人に、その能力があり、やる気があ
り、そのとき、どんどん伸びている状態のときは、飛び級をさせる。

 今までに、小学5年生の子ども(OI君)を、高校1年生のクラスで教えたことがある。小学4年
生子ども(NK君)を、中学3年生のクラスで教えたこともある。現在の今でも、2〜4年、飛び級
している子どもは、10人近くいる。

 その飛び級をさせるとき、いつも悩むのは、その子どもの能力というより、つぎの2点である。

(1)精神力は、じゅうぶんあるか?
(2)人格は、どうか?

 飛び級というのは、子ども自身が納得していないばあいは、してはいけない。子ども自身が、
それを望んでいれば、よし。そうでなければ、飛び級しても、長つづきしない。私や親だけの意
向で決めてはいけないということ。

 子ども自身が納得しているばあいには、それが精神力となって発揮される。

 反対に、精神力がじゅうぶんでないと、何かのことで、つまずいたようなとき、それが挫折感と
なって、子どもにはねかえってくる。

 飛び級のこわいところは、ここにある。

 飛び級したあと、学力の伸びが停滞するときがある。そういうとき、教える側は、「またもとの
学年にもどしたい」と考える。しかしもどすのは、簡単ではない。親が、猛烈に反発する。子ども
自身も、大きく、キズつく。

 だから精神力がじゅうぶんでない子どもは、安易に飛び級させてはいけない。

 つぎに飛び級をさせると、中には、おかしなエリート意識をもつ子どもがいる。エリート意識を
もつ一方で、おかしな優越感をもつ。そしてほかの子どもをバカにしたり、軽んじたりする。

 そういう子どもに接すると、人間的な嫌悪感を覚える。で、私はそういう子どもの、横柄な態
度をいましめるのだが、それで自分を改める子どもは、まず、いない。そのときは、「ごめん」と
か、「わかった」とか言うが、またしばらくすると、「お前は、ぼくより年上なのに、こんなこともで
きないのか! バカだなあ」などと、平気で言ったりする。

 「勉強さえできれば、優秀」と思いこんでいる子どもについては、いくら勉強がよくできても、そ
んなわけで、飛び級させることに、どうしても慎重にならざるをえない。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(180)

●母親、4タイプ

 親が、子どもに感ずる愛には、3種類ある。(1)本能的な愛、(2)代償的愛、(3)真の愛。

 本能的な愛というのは、母親が本能として感ずる愛のことをいう。たとえば赤ん坊を抱いたと
き、母親は、いたたまれないほどの、いとおしさを感ずる。それが本能的な愛。

 代償的な愛というのは、親自身の心のすきま(情緒的不安定、未熟、精神的未完成)を埋め
るために、子どもを利用することをいう。身勝手で、自己本位な愛。

 真の愛というのは、人間として子どもを愛することをいう。無条件の愛ともいう。見かえりを求
めない、献身的な愛をいう、

 本能的愛は別にして、(2)の代償的愛、(3)の真の愛のあるなしで、母親は、つぎの4タイプ
に分けられる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
               |   代償的愛    |   真の愛
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(1)溺愛型ママ       |  ○(ある)    |  ○(ある)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(2)真の母親型ママ     |  ×(ない)    |  ○(ある)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(3)ストーカー型ママ    |  ○(ある)    |  ×(ない)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
(4)フレンド型ママ     |  ×(ない)    |  ×(ない)
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

(1)溺愛型ママ

 溺愛型ママには、愛情がないわけではない。子どもへのあふれんばかりの愛情はある。しか
し同時に、自分の情緒的未熟性や、精神的欠陥により、その愛に溺れてしまう。そして子ども
を自分の思いどおりにしたいという欲求に、ブレーキをかけられなくなってしまう。

(2)真の母親型ママ

 子どもを一人の人間として見ながら、子どもを愛する。もともと人を愛することには、強烈な孤
独がともなう。その孤独に耐えるのが、真の愛ということになる。

 たとえばあなたの夫(あるいは妻)に、すばらしい愛人ができたとする。あなたの夫(妻)は、
その愛人と生活を始めたいと言い、またそのほうが夫(妻)も幸福になれると、あなたも思う。
そういうとき、あなたはあなたは、どう判断するだろうか。あなたはあなたの夫(妻)を愛するが
ゆえに、あなたの夫(妻)と別れることができるだろうか。

 「あなたの本当の幸福のために、私は引きさがります。どうかその女性(男性)と、幸福になっ
てください」と。

 ここに書いたのは、少し極端な例かもしれないが、親子の間では、似たような状況に追いこま
れることがある。そのとき、あなたは、どうするだろうか?

(3)ストーカー型ママ

 このタイプの母親をもつと、子どもにとっては、まさに悲劇でしかない。子どもそのものが、母
親の奴隷となってしまう。これは極端な例だが、息子が外国へ行っている間に、息子の財産を
食いつぶしてしまった母親さえいる。「親が、(先祖を守るために)、息子の貯金を使って、何が
悪い!」と。

 あるいは結婚して家を出た一人娘に対して、「地獄へ落ちろ。死んでからも、お前をのろって
やる」と脅迫していた母親もいる。

 これらは現実にあった話である。そうでない母親をもっている人には、信じられない話かもし
れない。が、現実には、そういう母親もいる。「母親だから、そういうことはしないはず」と考える
のは、あまりにも、甘い。

(4)フレンド型ママ

 子どもに愛情を感じない母親は、7〜10%はいる。「どうしても、自分の子どもを好きになれ
ない」「弟はかわいいと思うが、兄が、好きになれない」など。だから子どもを愛せないからとい
って、決して自分を責めてはいけない。

 「私は私」「あなたはあなた」と割りきることで、むしろサバサバとした子育てができる。子ども
を、子どもとしてみるのではなく、友としてみる。親子という関係にこだわることはない。

 子どもにとっては決して望ましいタイプの母親とは言えない。が、かえってそういう母親をもっ
たがため、たくましく、自立していく子どもも多い。もちろん子どもの心のどこかに、(空白部分)
ができることは考えられる。しかしそれは子ども自身の努力によって、決して克服できない空白
ではない。

 もしあなたが、このタイプの母親なら、「私は、まあ、こんなものだ」と割りきって、子育てをす
ればよい。気負うことはない。サバサバと子育てをすればよい。
(040601)
(はやし浩司 母親4タイプ 四タイプ 代償的愛 真の愛)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(181)

●問題のない家族

 例外なく、問題の家族は、いない。金持ちも、貧乏人もない。地位や肩書きの、あるなしも、
関係ない。どんな家族も、それこそすべて、何らかの問題をかかえている。それも、それぞれ
の家族にとっては、深刻な問題ばかり。

 一見、他人の家族には問題がないように見える。しかしそれは、そう見えるだけ。だれも、自
分の家族の問題を話さない。話す必要もない。意図的に隠すことも多い。だから、外からはわ
からない。見えない。

 ほとんどの人は、自分の家族の中で問題が起きたりすると、「どうして私だけが……」と思う。
自分の運命や境遇を、のろったり、うらんだりする。

 ある母親の子どもは、20歳を過ぎてから、うつ病を発症し、そのまま家の中に引きこもってし
まった。
 
 その子どものことで、病院へ行き、その待合室で待っていたとき、その母親は、こう思ったと
いう。「どうして、うちの子だけが……」と。

 そう思うのは、ごく自然なこと。そこでそういうときは、まず、二つのことを頭に置く。

 一つは、問題があるという前提で、生きるということ。生きることには、問題はつきもの。もし
今、あなたが「うちには問題がない」とい思っているなら、それこそつかの間の休息。ゆっくり
と、それを楽しめばよい。

 もう一つは、仮にその問題で悩んでいるとしても、それが最悪ではないということ。さらにその
下には、二番底、三番底がある。そしてあなたが上から落ちてくるのを、「おいで、おいで」と言
いながら、待っている。

 そういう意味で、人生というのは、薄い氷の上を、恐る恐る、歩くのに似ている。ちょっと油断
すると、すぐ氷は割れて、私たちはその下へと落ちていく……。

 子どもの問題とて、例外ではない。子どものできがよければよいで、悪ければ悪いで、親は
そのつど、悩んだり、苦しんだりする。これは子育てのまつわる宿命のようなもの。子育てをす
る以上、親は、その宿命から逃れることはできない。

 では、どうするか?

【人生は、下から見る。子どもは、下から見る】

 「下を見ろ」というのではない。下から、見る。もっと言えば、「生きている」という原点に視点を
置いてみる。「ああ、生きているではないか」と。

 その視点から見ると、ほとんどの問題は、そのまま解決する。

【すべてを、あきらめ、あとは許して、忘れる】

 「そんなはずはない」「まだ何とかなる」と思っている間は、安穏たる日々はやってこない。子
どもも、伸びない。しかし反対に、「まあ、うちの子は、こんなもの」と思ったとたん、気が楽にな
る。子どもの表情も、明るくなる。

 そしてここが子どもの不思議なところだが、親が、そうあきらめたとたん、子どもというのは、
伸び始める。

【他人の子どもに、やさしく】

 自分の子どものことで悩むというのには、実は二面性がある。一つは、自分の子どもに問題
があることを悩む。それはそのとおり。

 が、もう一つの面がある。それは「問題のある子どもを認めない」という自分自身の中に潜
む、邪悪な一面である。

 わかりやすい例で考えてみよう。

 ことさら子どもの学歴にこだわる親がいる。だから子どもの成績(でき、ふでき)に、異常なま
でに神経質になる。

 では、なぜそうなるかといえば、そういう親にかぎって、日ごろから、他人を学歴で判断してい
ると思ってよい。あるいは学歴のない人を、下に見ていると思ってよい。

 人というのは、自分がもつコンプレックス(劣等感)を、裏がえす形で、それに気づかないま
ま、その問題に振りまわされやすい。私がここでいう、(もう一つの面)というのは、それをいう。

 だから、自分の子どものことで悩むのはしかたないとしても、本当にそれと戦うためには、もう
一つの面とも、戦わねばならない。「どうしてうちの子は勉強ができないのか」「こんなことでは、
いい中学へ入れなくなってしまう」と悩んだら、同時に、自分の中に潜む、邪悪な面とも戦う。

 が、これがむずかしい。自分の中に、そういう邪悪な一面があることに気づくだけもむずかし
い。

 で、どうするかといえば、日ごろから、他人や他人の子どもに、暖かくするということ。やさしく
するということ。問題のある人や子どもを理解し、そういった人たちを、自分の中に受け入れて
いくということ。

 その結果として、その邪悪な一面を、自分の中から消すことができる。そしてそれがあなたの
かかえる問題を、根本から、解決する。

【補足】

 ここに書いた話は、わかりにくい話なので、もう少し補足しておく。

 親がかかえる問題には、(表の問題)と、(裏の問題)がある。私は、このことを、ある老人の
話を聞いたときに知った。

 その老人(女性、82歳)は、そのとき体も弱くなり、介護なしでは、トイレにも行けないような
状態になっていた。

 そこでその娘が、その老人を、自分の家に引き取ろうとした。が、その老人は、がんとしてそ
れを拒否した。

 「私は、どんなことがあっても、この家を出ない!」と。

 みなは、住み慣れた家だから、その老人はそう言うのだと思っていた。私も、そう思ってい
た。が、その娘にあたる女性は、私にこう話してくれた。

 「母が、今の家を出たがらない本当の理由が、別にあるのです。実は、母は、若いときから、
その町から出て行く人を、心底、軽蔑し、いつもあざ笑っていました。それで自分が、今度は反
対に、そうなるのを、いやがっているのです」「本当のところは、だれも、笑ってはいないので
す。つまり母は、自分がつくった妄想に、とりつかれているだけです」と。

 こうした例は、子育ての場でも、よく経験する。それが先に書いた、学歴の話である。

 ある母親は、いつも他人を、その出身高校で判断していた。(このH市では、学歴で人を判断
する傾向が強い。)「あの人は、C高校なんですってね」「あの人は、A高校を出たのに、あの程
度の人なんですね」と。

 自分自身は、市内でもナンバー2と言われているB高校を卒業していた。

 で、自分の娘がいよいよ高校受験となったときのこと。が、娘には、その力がなかった。だか
ら毎晩のように、「勉強しなさい!」「ウルサイ!」の大乱闘を繰りかえしていた。

 子どものことで何か問題を感じたら、その問題もさることながら、私がここでいう(もう一つの
面)についても、考えてみるとよい。「なぜ、その問題で悩むのか」と。

 先にも書いたように、(もう一つの面)というのは、なかなか姿を現さない。しかし一度、その正
体を知れば、あとは時間が解決してくれる。

 そういう冷めた見方も、ときには、必要ということである。
(040602)
(はやし浩司 子どもの問題 家族の問題)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(182) 

【近ごろ、あれこれ】

●YS−11

 今度、D社という出版社から、「世界の航空機100年物語」という雑誌が発売になった。雑誌
というよりは、おまけの金属製(ダイキャスト製)の模型のほうが主体になっている。そんな雑誌
である。

 今日は、その第二回の発売日。一回目は、イギリスとフランスが協同で開発した、コンコル
ド。もちろん、それは買った。で、二回目の今日は、YS−11。戦後日本がはじめて開発した、
国産旅客機である。

 はじめてそのYS−11に乗ったのは、八丈島から羽田までだった。私が24歳くらいのときだ
った。なつかしいというより、大好きな旅客機。

機体の形は、ごくありふれたものだが、エンジンや尾翼、それにエンジン音が、独特。ブーイン
というジェット音にまざって、金属的なビリビリという音。あのエンジン音が、たまらない。ジェット
エンジンでプロペラを回す、ターボプロップという方式の推進装置を使っていた。

 朝、食事が終わると、ワイフに、「あとで本屋へ行ってみないか?」と声をかけると、その雰囲
気を察知して、「今度は、何?」と。

私「YS−11だよ」
ワ「何、それ?」
私「ほら、八丈島から羽田まで、乗っただろ。あれだよ」
ワ「フーン」

私「今度は、旅客機のケツーズだ」
ワ「何よ、それ?」
私「しり・―ズではなく、けつ・−ズだ」
ワ「あなたらしいわ」と。

 ワイフは、飛行機には、まったく興味がない。いつか「戦闘機はみんな、同じに見える」と言っ
たことがある。いわんや、旅客機など、区別できるはずもない。

 が、今回、この旅客機シリーズを集めようと思ったのは、息子が、パイロットになると言いだし
たからである。……というのは、口実かもしれない。本当は、私がほしい。そういう私の気持の
上に、たまたま息子の話が、乗っただけ……。

 ともかくも、これから本屋へ行って、それを買ってくる。ワイフのしたくができるまでの、短い時
間に、この日記を書いた。もうそろそろ、ワイフのしたくが終わるころ。では、また、あとで…
…。


●買い物グセ

 夏場になると、がぜん多くなるのが、体をクネクネ、ダラダラさせる子ども。原因は、いろいろ
ある。

 クーラーなどによる、冷房のかけすぎ。睡眠不足。それに、甘いものの食べすぎ。

 この時期、どうしても、アイスやかき氷が多くなる。ジュースや、清涼飲料水などなど。糖分の
とりすぎが遠因となって、カルシウム、マグネシウム、カリウムなどの不足を引き起こす。

 だいたいにおいて、世の母親たちよ、ものごとは、常識で考えてみようではないか。

 体重12キロの子どもに、缶ジュース一本を与えるということは、体重60キロのおとなが、5
本飲む量に等しい。それだけ多量のジュースを一方で、与えておきながら、「どうしてうちの子
は、小食なのでしょうか」は、ない!

 ……というような話をすると、ほとんどの親は、自分の愚行(失礼!)に気づく。そして、こう言
う。「では、今日から、改めます」と。

 しかし、問題は、この先。

 しばらくの間は、母親も注意する。しかし数週間から1か月、2か月もすると、また、もとにもど
ってしまう。もとの食生活にもどって、また子どもに、甘い食べ物を与えてしまう。

 思考回路がそうできているからである。つまり、この思考回路、それにもとづく行動パターン
を変えるのは、容易なことではない。

 買いものに行くと、また同じ、ジュースだのアイスを買い始めてしまう……。

 では、どうするか。

 こうした思考回路を変えるためには、ショックを与えなければならない。「ショック」である。

 話は、かなり脱線するが、昔は、チンドン屋というのがいた。新しい店ができると、そこの経営
者がチンドン屋を雇い、そのチンドン屋が、そのあたりをぐるぐると回った。

 私たち子どもは、それがおもしろくて、いつまでも、そのチンドン屋について歩いた。

 つまりそうすることで、もちろんその店の宣伝にもなるが、そのあたりに住む人たちの、行動
パターンを変えることができる。たとえば人というのは、一度、ある店に行き始めると、その行
動パターンを変えるのは、容易なことではない。

 「お酒……」といえば、「A酒屋」と。
 「お米……」といえば、「B米屋」と。

 そこで新しくできた店は、そのあたりの人たちがもつ、そういう意識、つまり行動パターンを変
えなければならない。それがチンドン屋というわけである。

 たしかにあのチンドン屋は、ショックを与えるという意味では、効果がある。派手な服装に、派
手な鳴り物。それに踊り。チンチン、ドンドンと音に合わせて、踊りながら回る。そのあたりの人
たちは、それを見て、自分の行動パターンを変える……。

 では、どうするか?

 あなたには、あなたの買い物グセがある。その買い物グセをなおすには、どうするか。

 もうおわかりかと思うが、その行動パターンを変えるためには、自らにショックを与えればよ
いということになる。ショックを与えて、自分の行動パターンを変える。

【一つの方法】

 今すぐ、冷蔵庫の中にある、甘い食品(アイス、ジュース、プリンなど)を、すべて袋につめて、
捨てる。「もったいない」と思ったら、なおさら、心を鬼にして、捨てる。

 この「もったいない」という思いが、ショックとなって、あなたの意識、行動パターンが変わる。

 こういうとき、「つぎから、買うのをひかえればいい」とか、「もったいないから、食べてしまお
う」と考えてはいけない。そういうケチな根性をもつと、またすぐ、もとの買い物グセにもどってし
まう。


●フィッシング詐欺

 ある日、突然、架空の請求書が送られてくる。たいていはハガキだが、最近は、どこかの銀
行からのハガキを装ってくるものもある。印刷も、このところ高級化している。

 もちろんインターネットのメールでくることもある。

 「貴殿の債務が未払いになっているので、至急、2日以内に、連絡されたし」と。

 「2日以内」というのは、「それ以後は、逃走する」ということか。警察の手が回る前に、逃げよ
うという魂胆である。

 また「連絡されたし」というのは、こちらのメールアドレスを確認したり、電話番号を知るため
である。

 こういうのを、この世界では、フィシング詐欺という。魚釣りのように、善良な人を、「釣る」とこ
ろから、そう呼ばれている。

 で、こうした詐欺にひかかる人は、約3%(週刊「A」パソコン雑誌・アメリカでの調査)だそう
だ。つまり1000通出して、約30人の人が、それにひかかるという。

 「強制執行する」とか、「財産を差し押さえる」とかあるので、事情を知らない人は、あわてて
連絡をしてしまう。そしてあとは、先方が言うままに、お金を所定の銀行に振り込んでしまう。

 被害額はよくわからないが、10〜30万円前後だと言われている。それ以下のときもあるし、
それ以上のときもある。

 で、こうして計算してみると、ハガキ一枚のコスト(印刷代+郵送料ほか)が、100円かかると
して、1000通で、10万円。3%の人が、こうした詐欺にひかかるとして、10万円x30=300
万円。ワルは、差し引き、290万円を手にすることになる。

 ワルには、たまらない額らしい。1万通出せば、ナ、何と、2900万円のもうけ!

 そこで善良なる私たちは、どう自らを守ったらよいのか。

 その一。こうした請求書(督促状、催促状、支払命令書)などは、無視する。一応、保管はし
ても、そのハガキに書いてある電話番号に、絶対に連絡をしてはいけない。電話をしたとた
ん、相手に、あなたの電話番号がわかってしまう。あなたがお金を払うまで、あなたに、執拗
に、電話をかけてくる。

 同じように、最近、多いのが、スパムメールと呼ばれるメール。【未承認広告】というのも、そ
れ。

 一応、善良な会社を装っていることが多いが、本当に善良な会社なら、こうした宣伝方法を
使わない。

 で、メールを読むと、「次回から、このメールを不要な方は、xxx@xxxxx・xxまで返信してほし
い」とある。

 しかしこれも決して、返信してはいけない。相手は、あなたのはるか上をいく、ワルである。そ
んなことで、あなたのアドレスを削除するような連中ではない。そんな誠意など、ひとかけらも持
ちあわせていない。

 へたに返信したりすると、あなたのアドレスが生きていることがわかり、さらに別のところで、
別のワルに利用されたりする。

 さらに最近では、差し出しアドレスをつぎつぎと変えてくるスパムメールも、登場している。いく
らアドレスにフィルター※をかけても、つぎつぎと同じようなメールが届く。

 要するに、こうしたメールやハガキは、無視する。最初、なれないうちは、心のどこかに不快
感が残るものだが、やがてそれも消える。大切なことは、無視して、相手にしないこと。

 しかし本当にいやになる。どうしてこういうワルが多いのか。しかもつぎつぎと、新しい方法を
考えて、やってくる。
(※フィルター……着信と同時に、そのアドレスからのメールを削除する機能。)


●全体主義と中央集権意識

 全体主義イコール、中央集権国家と考えてよい。

 日本は、奈良時代の昔から、中央集権国家をつくってきた。この方式は、一つの「国」として
統治するには、効率的で便利だが、もちろん弊害もある。

 もっとも日本に生まれ育ち、日本の中だけで暮らしていると、それがわからない。私がそれを
知ったのは、私が学生として、オーストラリアへ渡ったときのことだった。

 こんなことがあった。

 オーストラリアには、『ウオルチング・マチルダ』という、よく知られた歌がある。以前は、第二
国歌としても、歌われていた。

 その歌について、ある日、南オーストラリア州に住む友人の父親が、こう言った。

「ヒロシ、それはNSW州の歌だよ。ここでは歌わない」と。

 もともと、オーストラリアの各州は、別々の国だった。それがいつか、一つの国、つまりオース
トラリアになった。そういういきさつもあって、今でも、州ごとの独立精神は、旺盛である。私が
オーストラリアにいたころは、鉄道ですら、州によって、その線路の幅が異なっていた。

 アメリカも事情が、似ている。

 こうした違いにふれてはじめて、日本のことがわかる。……わかるようになる。

 私も、この浜松市という、地方都市に住んで、35年になる。若いころは、ほとんどの仕事を、
東京という舞台でしていた。しかしその浜松市。東京への隷属性は、まさに特筆すべきものが
ある。

 地理的には、名古屋に近いし、名古屋の経済圏にあっても、何らおかしくない。しかし浜松の
人の目は、すべて(ホント!)、東京に向いている。こんなことがあった。

 昔、近くに、幼児教室ができた。「東京の幼児教室で使っている教材を、そのまま使ってい
る」というのが、うたい文句だった。派手な新聞広告。4色刷りの案内書。それについて、ある
母親が、私のところにやってきて、こう言った。

 「あのEという幼児教室では、東京の幼児教室で使っている教材を使っているんですってね
え。先生(=私)のところで、使っていただけませんか」と。

 バカめ!

 その教材(G社のMくん)を作ったのは、この私だ!

 しかもその幼児教室では、その教材の説明書に書いてある、私の名前をわざわざ、消して使
っていた! よくあることである。

 かく言う私も、あるとき、自分の中の隷属性に気づいたことがある。隷属性というよりは、自
分の限界かもしれない。

 私はある時期、毎週のように母親教室を開いていた。しかしその母親たち。雑誌や週刊誌に
書いてある記事は、信用する。しかし現場の教師たちの意見には、ほとんど耳を傾けない。私
の意見など、まさに論外。

 当時は、まだそういう時代だった。

 で、私は気がついた。「こうした母親たちを説得するためには、中央で、意見を発表するしか
ない」と。

 だから20代、30代のころは、東京を中心に、ものを書いたり、教材の制作をしたりした。

 ……という過去を振りかえりながら、今でも、こう思う。

 中央集権的な意識をもてばもつほど、結局は、自己否定につながる。世の親たちは、そして
日本人は、いつになったら、それに気づくのか、と。まあ、それが無理としても、もう少し、地方
がもつ価値というか、それに気づいたらよいと思う。

 読者の中には、東京に住む人も多いから、こう書くと反発する人もいるかもしれない。しかし
何も、東京だけが、日本の都市ではない。日本の文化でもない。私たちは、まず、それに気が
つくべきではないのか。


●マガジン読者

 このところ(6月上旬)、電子マガジンの読者が、ほとんどふえない。

 そろそろ、私のマガジンもあきられてきたようだ。

 そのせいか、書く意欲が、どんどん減退している。しかたのないことだ。で、それに反比例し
て、楽天の日記や、友人が発行しているマガジンへの投稿がふえてきた。

 中には、熱心に読んでくれている人もいるようだ。ときどき、励ましのメールが、届く。が、そ
れ以上に、苦情のメールも多い。「量が多すぎる」「読みづらい」「前に読んだ原稿と同じのは載
せないでほしい」と。

 新しいマガジンを発行して、再出発をしようかとも考えている。あるいは、本を書く仕事にもど
ろうかとも……。

 2年以上つづけてきたマガジンだが、どうやらこのあたりが、限界かもしれない?

 このところ、いろいろ考える。近く、自分なりの結論を出すつもり。何か、よいアイデアはない
ものか?


●ウソつきのサイン

 昔から、ウソをつく人(子ども)は、独特のジェスチャをすることが知られている。いくつかを思
いつくまま、あげてみる。

(1)視線を合わせない

 こちらに視線を合わせない。視線をそらす。反対にこちらの様子をうかがう。

(2)手や手先を、もじもじと動かす

 手先が、もじもじする。落ちつかない様子を示す。そわそわするのも、その一つ。

(3)不必要な返事を繰りかえす

 その場をのがれようと、あいまいな返事をしたり、不必要な返事をしたりする。

(4)声に元気がなく、張りがない

 自信のない様子を示し、声に元気がなくなる。声が小さくなることもある。

(5)語尾をごまかす

 語尾を、「うん」とか、「まあまあ」とか言って、ごまかす。あいまいな表現が多くなる。

 反対に、私たちが相手に好印象を与えようとするときは、ここに書いたことと逆のことをすれ
ばよいということになる。

+++++++++++++++++++

子どものウソ(中日新聞投稿済み)

+++++++++++++++++++

●ウソと空想的虚言

 幼児教育では、ウソをウソと自覚しながらつく虚言と、空想的虚言(妄想)は、区別して考え
る。

虚言というのは、自己防衛や自己正当化のためにつくウソだが、その様子から、それがウソと
わかる。……わかりやすい。

母「誰かな? ここにあったお菓子を食べたのは?」
子「ぼくじゃないよ」
母「じゃあ、手を見せてごらん。手にお菓子のカスが残っているはずよ」
子「残っていない。ぼく、ちゃんとなめたから」と。

 これに対して、空想的虚言は、現実と空想の間に垣根がない。自分の頭の中に虚構の世界
をつくりあげ、それがあたかも現実のできごとであるかのように、ウソをつく。本人もウソをウソ
と自覚しない。まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャーシャーとつく。

こんなことがあった。

ある夜遅く、一人の母親から電話がかかってきた。そしていきなりこう怒鳴った。「今日、うちの
子が、腕に大きなアザを作ってきました。先生が手でつねったそうですね。どうしてそんなことを
するのですか!」と。

そこで私が、「知りません」と言うと、「相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもら
っては困ります。正直に言いなさい!」と。

 翌日、園へ行くと、園長のところに一通の手紙が届いていた。その母親が朝早く届けたもの
だ。読むと、「はやし先生が、うちの子どもに体罰を加えている。よく監視しておいてほしい。な
お、この手紙のことは、はやし先生には内密に」と。

そこで私がその子どもをつかまえて、それとなく腕のアザのことを聞くと、こう言った。「ママが、
つねったから」と。私は何がなんだか、さっぱりわけがわからなくなってしまった。そこでどういう
状況でつねられたかを聞くと、その子どもは、こと細かに、そのときの様子を説明し始めた。

 英語に、『子どもが空中の楼閣を想像するのは構わないが、その楼閣に住まわせてはならな
い』という格言がある。空想するのは自由だが、空想の世界にハマるようであれば注意せよと
いう意味である。

が、実際の指導で難しいのは、子どもというより、親自身にその自覚がないこと。このタイプの
子どもは、親の前や外の世界では、信じられないほど、よい子を演ずる。柔和な笑みを絶やさ
ず、むしろできのよい子という印象を与える。これを幼児教育の世界では、「仮面をかぶる」と
いう。

教える側から見ると、心に膜がかかったかのようになり、何を考えているかわからない子どもと
いった感じになる。が、親にはそれもわからない。別のケースだが、私がそれをある父親に指
摘すると、「君は、自分の生徒を疑うのか! 何という教師だ!」と、反対に叱られてしまった。

 原因は、強圧的(頭からガミガミ言う)、閉塞的(息が抜けない)、権威主義的(押しつけ)な子
育て。こういう環境が日常化すると、子どもは虚構の世界をつくりやすくなる。

姉妹でも同じような症状を示した子どももいたので、遺伝的な要素(?)も無視できない。が、原
因の第一は、家庭環境にあるとみる。子どもの心を解放させることを第一に考え、「なぜ、どう
して?」の会話をやさしく繰り返しながら、ウソをていねいにつぶす。

頭から叱れば叱るほど、心は遊離し、妄想の世界に子どもを追いやることになる。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(183)

●S県での、小学6年生による、傷害致死事件

 数日前、S県のある小学校で、小学6年生の女子が、同級生の子どもをカッターナイフで切り
つけ、その子どもを殺してしまうという事件が発生した。

 たいへんショッキングな事件で、連日、マスコミは、この事件を報道しつづけている。たまたま
昨日(6・4)、隣のT町の小学校で、講演をしたが、そこでも、話題といえば、この話ばかり。

 で、その事件を受けて、文部科学省は、全国の小中学校に対して、改めて、「命の大切さを
教える指導」を、徹底したという。

 が、この通達は、どこか、的ハズレ(失礼!)。今回の事件は、その子どもが、命の大切さを
知らなかったから起こした事件とは、言えない。反対に、それを知っていたからといって、防げ
た事件とも、言えない。問題の「根」は、もう少し深いところにあるのではないか。

 私は、こう考える。

 人間のあらゆる行動は、行動命令とそれを抑制する、抑制命令の二つによって、コントロー
ルされる。しかしその行動の原動力となる、人間の意思も、実は、この二つによって、コントロ
ールされる。

 たとえば自分にとって不愉快な場面に遭遇(そうぐう)したとき、「怒って、相手を怒鳴ってやろ
う」と考える一方で、「よせよせ、そんなヤツ相手にしても、ムダ」と考えることがある。

 「怒鳴ってやろう」と考えるのが、ここでいう行動命令ということになる。そして「よせよせ」と、
自分をたしなめるのが、抑制命令ということになる。

 今、何らかの理由で、その抑制命令がきかない子どもがふえている。カッとなると、興奮状態
になり、突発的な行動に走ったりする。その動きが鋭いことから、まさに、「キレる」という状態
になる。

 今回のS県での事件を見ていると、(あくまでもマスコミによる報道の範囲内での話だが…
…)、犯行を犯した女子は、その抑制命令が、うまく機能しなかったのではないかと思う。

 その原因については、これから追々、究明されていくだろう。社会不安がその背景にあるとも
考えられるし、さらに環境ホルモン(内分泌かく乱化学物質)による、脳の微細障害説を唱える
学者もいる。さらに脳間伝達物質(セロトニン)の異常分泌説を唱える学者(岩手大学、大沢教
授ほか)もいる。

 昨日(6・5)の報道によれば、その少女は、何かの自己紹介で、映画『バトルロワイヤル』が
好きと書いていたという。ああした愚劣な暴力映画を、子どもたちの世界で野放しにしておいた
私たちにも、責任がないとは言えない。

 子どもの心を落ちつかせるためには、とりあえず、食生活に注意を払ってみたらよい。

 以前、「キレる」ことに関連して、こんな原稿を書いた。

+++++++++++++++++++++++++++

●躁状態における錯乱状態 

 子どもたち(小三児)を並べて、順に答案に丸をつけていたときのこと。それまでF君は、まっ
たく目立たないほど、静かだった。が、あと一人でF君というそのとき、F君が突然、暴れ出し
た。突然というより、激変に近いものだった。

ギャーという声を出したかと思うと、周囲にあった机とイスを足でけって、ひっくり返した。瞬間
私は彼の目を見たが、それは恐ろしいほど冷たく、すごんでいた……。

 キレる状態は、心理学の世界では、「躁(そう)状態における精神錯乱」(長崎大・中根允文氏
ほか)と位置づけられている。

躁うつ病を定型化したのはクレペリン(ドイツの医学者・一八五六〜一九二六)だが、一般的に
は躁状態とうつ状態はペアで考えられている。周期性をもって交互に、あるいはケースによっ
ては、重複して起こることが多い。

それはそれとして、このキレた状態になると、子どもは突発的に凶暴になったり、大声でわめ
いたりする。(これに対して若い人の間では、ただ単に、激怒した状態、あるいは怒りが充満し
た状態を、「キレる」と言うことが多い。ここでは区別して考える。)

●心の緊張状態が原因

 よく子どもの情緒が不安定になると、その不安定の状態そのものを問題にする人がいる。し
かしそれはあくまでも表面的な症状にすぎない。

情緒が不安定な子どもは、その根底に心の緊張状態があるとみる。その緊張状態の中に、不
安が入り込むと、その不安を解消しようと、一挙に緊張感が高まり、情緒が不安定になる。

先のF君のケースでも、「問題が解けなかった」という思いが、彼を緊張させた。そういう緊張状
態のところに、「先生に何かを言われるのではないか」という不安が入りこんで、一挙に情緒が
不安定になった。

言いかえると、このタイプの子どもは、いつも心が緊張状態にある。気を抜かない。気を許さな
い。周囲に気をつかうなど。表情にだまされてはいけない。柔和でおだやかな表情をしながら、
その裏で心をゆがめる子どもは少なくない。

これを心理学の世界では、「遊離」と呼んでいる。一度こういう状態になると、「何を考えている
かわからない子ども」といった感じになる。 

●すなおな子ども論

 従順で、おとなしい子どもを、すなおな子どもと考えている人は多い。しかしそれは誤解。教
育、なかんずく幼児教育の世界では、心(情意)と表情が一致している子どもを、すなおな子ど
もという。

うれしいときには、うれしそうな表情をする。悲しいときには悲しそうな表情をする。不愉快なと
きは、不愉快そうな顔をする。そういう子どもをすなおな子どもという。

しかし心と表情が遊離すると、それがチグハグになる。ブランコを横取りされても、ニコニコ笑
ってみせたり、いやなことがあっても、黙ってそれに従ったりするなど。中に従順な子どもを、
「よくできた子ども」と考える人もいるが、それも誤解。

この時期、よくできた子どもというのは、いない。つまり「いい子」ぶっているだけ。このタイプの
子どもは大きなストレスを心の中でため、ためた分だけ、別のところで心をゆがめる。よく知ら
れた例としては、家庭内暴力を起こす子どもがいる。このタイプの子どもは、外の世界では借
りてきたネコの子のようにおとなしい。

●おだやかな生活を旨とする

 キレるタイプの子どもは、不安状態の中に子どもを追い込まないように、穏やかな生活を何
よりも大切にする。乱暴な指導になじまない。あとは情緒が不安定な子どもに準じて、(1)濃厚
なスキンシップをふやし、(2)食生活の面で、子どもの心を落ちつかせる。カルシウム、マグネ
シウム分の多い食生活に心がけ、リン酸食品をひかえる(※)。

リン酸は、せっかく摂取したカルシウムをリン酸カルシウムとして、体外へ排出してしまう。もち
ろんストレスの原因(ストレッサー)があれば、それを除去し、心の負担を軽くすることも忘れて
はならない。

※……今ではリン酸(塩)はあらゆる食品に含まれている。たとえば、ハム、ソーセージ(弾力
性を出し、歯ごたえをよくするため)、アイスクリーム(ねっとりとした粘り気を出し、溶けても流
れず、味にまる味をつけるため)、インスタントラーメン(やわらかくした上、グニャグニャせず、
歯ごたえをよくするため)、プリン(味にまる味をつけ、色を保つため)、コーラ飲料(風味をおだ
やかにし、特有の味を出すため)、粉末飲料(お湯や水で溶いたりこねたりするとき、水によく
溶けるようにするため)など(以上、川島四郎氏)。

●人工的に調合するのは、不必要

ついでながら、W・ダフティという学者はこう言っている。「自然が必要にして十分な食物を生み
出しているのだから、われわれの食物をすべて人工的に調合しようなどということは、不必要
なことである」と。

つまりフード・ビジネスが、精製された砂糖や炭水化物にさまざまな添加物を加えた食品(ジャ
ンク・フード)をつくりあげ、それが人間を台なしにしているというのだ。「(ジャンクフードは)疲
労、神経のイライラ、抑うつ、不安、甘いものへの依存性、アルコール処理不能、アレルギーな
どの原因になっている」とも。

+++++++++++++++++++++

3年ほど前に、こんな原稿を書いた。

東京都や、日本を代表する文化人として、東京都や
フランス政府から表彰されているBT氏を批判するのも
勇気がいることだが、しかしみなさん、もう一度、
本当にああいう人たちを、文化人と呼んでいいのか、
自分に問いかけてみよう。

+++++++++++++++++++++ 

●映画『バトルロワイヤル』

暴力番組を考えるとき  

●まき散らされたゴミ

 ある朝、清掃した海辺に一台のトラックがやってきた。そしてそのトラックが、あたり一面にゴ
ミをまき散らした……。

 『バトル・ロワイヤル』という映画が封切られたとき、私はそんな印象をもった。どこかの島で、
生徒どうしが殺しあうという映画である。

これに対して映倫は、「R15指定」、つまり、一五歳未満の子どもの入場を規制した。が、主演
のB氏は、「入り口でチン毛検査でもするのか」(テレビ報道)とかみついた。監督のF氏も、「戦
前の軍部以下だ」「表現の自由への干渉」(週刊誌)と抗議した。しかし本当にそうか?

 アメリカでは暴力性の強い映画や番組、性的描写の露骨な映画や番組については、民間団
体による自主規制を行っている。

【G】   一般映画
【PG】  両親の指導で見る映画
【PG13】一三歳以下には不適切な映画で、両親の指導で見る映画
【R】   一七歳以下は、おとなか保護者が同伴で見る映画
【NC17】一七歳以下は、見るのが禁止されている映画、と。

 アメリカでは、こうした規制が一九六八年から始まっている。が、この日本では野放し。先日
もビデオショップに行ったら、こんな会話をしている親子がいた。

子(小三くらいの男児)「お母さん、これ見てもいい?」
母「お母さんは見ないからね」
子「ううん、ぼく、ひとりで見るから……」
母「……」と。

見ると、殺人をテーマにしたホラー映画だった。

●野放しの暴力ゲーム

 映画だけではない。あるパソコンゲームのカタログにはこうあった。「アメリカで発売禁止のソ
フトが、いよいよ日本に上陸!」(SF社)と。銃器を使って、逃げまどう住人を、見境なく撃ち殺
すというゲームである。

 もちろんこうした審査を、国がすることは許されない。民間団体がしなければならない。が、そ
のため強制力はない。つまりそれに従うかどうかは、そのまた先にある、一般の人の理性と良
識ということになる。

が、この日本では、これがどうもあやしい。映倫の自主規制はことごとく空洞化している。言い
かえると、日本にはそれを支えるだけの周囲文化が、まだ育っていない。先のB氏のような人
が、フランス政府や東京都から、日本や東京都を代表する「文化人」として、表彰されている!

 海辺に散乱するゴミ。しかしそれも遠くから見ると、砂浜に咲いた花のように見える。そういう
ものを見て、今の子どもたちは、「美しい」と言う。しかし……、果たして……?

(参考)
●テレビづけの子どもたち

「ファミリス」の調査によれば、小学三、四年生で四五・七%の子どもが、また小学五、六年生
で五九・三%の子どもが、それぞれ毎日二時間以上もテレビをみているという。

さらに小学三、四年生で七一%の子どもが、また小学五、六年生で八三・三%の子どもが、そ
れぞれ毎日一時間以上もテレビゲームをしているという(静岡県内一〇〇名の児童について
調査・二〇〇一年)。

さらに二時間以上テレビゲームをしている子どもも、三、四年生で一九・三%、五、六年生で四
一・七%! 

これらのデータから、約六〜七割前後の子どもが、毎日三時間程度、テレビを見たり、テレビ
ゲームをしていることがわかる。

+++++++++++++++++++++

【終わりに……】

 同類の映画に、和製、アメリカ映画の『Kill Bill』がある。意味のない、まったく意味のない、
人を殺すだけの殺戮(さつりく)映画である。

 突発的に、キレ、突発的に、バサバサと人の首を切り落とす。手や足を切り落とす。そんな映
画である。冒頭に、「この映画を、FK監督(バトルロワイヤルの制作監督者)に捧げる」という
ような字幕が流れる。

 私も、美しいパッケージにだまされて(?)、そのビデオを借りてしまった。見てしまった。

 あえて、批評しよう。

(1)子どもの前での殺戮(さつりく)

 二人の女性が、家の中で、殺しあう。そこへその中の一人の女性の娘が、学校から帰ってく
る。で、二人は、殺しあいを停止する。実にわざとらしい演技。

 が、結局は、二人はまた殺しあう。最後に、一人の女性が、娘の母をナイフで殺す。

(2)暴力団の首を切り落とす

 一人の暴力団の親分が、新しい女親分を批判する。そういう会合の席で、突然、その女親分
が、キレて、テーブルの上におどり出たかと思うと、刀を振りまわし、その親分の首を、ばさっと
切り落とす。クビがゴロゴロと、テーブルの上で、ころがる。

(3)無駄な殺戮

 主人公が、ハットリ・ハンゾウという男に刀をつくってもらい、その刀で、暴力団と戦う。相手
は、数百人(?)。バッサバッサと、その相手を切り倒す。意味のない、まったく意味のない殺
戮、また殺戮。しかもどのシーンも、残虐(ざんぎゃく)!

 たしか舞台は、東京。季節は、夏とは言わないが、少なくとも、冬ではない。主人公の女性が
バイクに乗って、料亭へ乗りこむところまでは、冬ではない。しかし部屋を出ると、そこは雪景
色。最後は、その雪景色の日本庭園で、二人の女性が死闘を繰りかえす……。

(4)不自然な構成

 残虐シーンの連続もさることながら、ときどき、そういう殺戮を正当化するために、4年前のシ
ーンにもどる。途中、アニメで、ごまかす。

 「どうしてそこまで殺しあうのか?」という、疑問が、そのつど、現れては消える。構成が、実に
不自然。

 さらに、植物人間となって、病院で寝ている女性を、強姦(ごうかん)しようとするシーンさえ出
てくる。何とも、おぞましい発想。ぞっとするほど、おぞましい発想。人間が、人として、最後の
最後までしてはならない行為。それをつぎつぎと、見せつけられる。

 が、この映画には、『バトルロワイヤル』のように、映倫のアミはかかっていない。しかしこん
な映画を、子どもが見たら、その子どもは、どんな印象をもつだろうか。どんな死生観をもつだ
ろうか。

 学生時代、オーストラリアで、『風林火山』という映画を見た。日本の領事館主催の映写会だ
った。

 半数が日本人だったが、残りの半数は、オーストラリア人だった。オーストラリア人の子ども
たちも、何割かいた。

 その映写会でのこと。

 サムライが、目に矢を受けて倒れるシーンがあった。その瞬間、会場に、ギャーという悲鳴が
走った。オーストラリア人の親たちは、あわてて子どもの目を押さえた。そのままあたりは、騒
然となってしまった。映写会は、中止!

 日本では何でもない映画なのかもしれないが、オーストラリアではそうではない。そういう常識
のちがいというか、どうすれば、日本も、そうした常識をつくることができるだろうか。いろいろと
考えさせられる。

 しかし……。一度、こわれた常識を取りもどすのは、容易ではない。今回のS県で起きた、小
学生による小学生の殺害事件の背景には、こうしたこわれた常識がある。それが原因のすべ
てとは言わないが、関係ないとは、もっと言えない。私たちも、反省すべき点は、おおいに反省
しなければならない。

【母親たちへ……】

 子どもの心を守るのは、結局は、私たち一人ひとりの親であるということ。国でもない。映倫
でも、テレビ局でもない。私たち一人ひとりである。

 これはあくまでも、提案だが、こんなことに注意してみたら、どうだろうか。

(1)低劣番組(文化)の追放

 見るからに低劣なテレビタレントたちが、今夜も、夜の番組をにぎわしている。まずその低劣
性に、まず気がつこうではないか。

 一見、価値ある情報を流しているように見えるときもあるが、一度、「それを知ったからといっ
て、どうなのか?」という視点でながめてみてはどうだろうか。

(2)私たちの中にひそむ、隷属性に気づこう

 この浜松でも、「東京からきた」というだけで、何でもありがたがる傾向が、たいへん強い。こ
うした隷属性というか、劣等感に、まず気がつこうではないか。

 私も、ああしたタレントの世界を知らないわけではない。しかし彼らは、いつも、こう言ってい
る。「東京で有名になって、地方で稼げ」と。それが合言葉にもなっている。

 少し知名度があがると、地方へやってきては、お金を稼ぐ。

(3)「東京」という、関東地方の一地方都市文化

 日本では、東京という関東地方の一地方都市文化が、日本中の文化を牛耳(ぎゅうじ)ってい
る。このおかしさに、私たちは、まず気がつこうではないか。

 「中には……」という言い方はしたくない。しかしその大半は、私たちが手本としなければなら
ないような文化ではない。低劣で低俗。日本人が本来的にもっているはずの、温もりすら感じさ
せない。それに、まず気がつこうではないか。

 ただ一方的に、まさに洪水のように、東京から地方へ、巨大なマスコミのネットワークを通し
て、おかしな文化(?)が流れこんでくる。この異常性に、まず気がつこうではないか。

 少し頭が熱くなったが、こうした中央集権意識は、奈良時代の昔から日本人が、心の中に、
もっているもの。徹底的に、植えこまれたもの。

それを改めるのは、容易ではない。それはわかっているが、しかしこのまま何もしないでいると
いうのも、これまたおかしなことではないのか。
(040605)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(184)

【近ごろ、あれこれ】

●ワイフとの会話

 少し前、こんな話を書いた。

++++++++++++++++++

小学2年生のG君が、私の机のところにきて、小さな声で、こう言った。

 「先生、ぼくのチンチンね、さわっていると、長くのびるよ」と。

 で、私が、「あのね、そういう話は、ぼくではなくて、君のママに言いなさい」と話すと、「だっ
て、ぼくのママ、チンチンの話をすると、怒るもん」と。

私「だったら、ぼくにも、そんな話をしてはだめだ」
子「先生のは、のびるの?」
私「あのね、そういう話は、みんなの前でしてはいけないの」
子「ぼくのは、どうしてのびるの?」
私「だから、そういう話は、ママとしなさい」と。

++++++++++++++++++

 この話をワイフにするとき、私は、ワイフにこう言った。

 「その子どもに、『先生のは、のびるの?』と聞かれたとき、ぼくは思わず、『先生のは、もうの
びきって、シワシワだらけだ』と言いそうになった」と。

 するとワイフは、「そうよ。ちぢんでしまって、もう使いものにならないって、言えばよかったの
よ」と。

私「そんなことないよ。使えるよ」
ワ「本当かしら?」
私「xxxxxxxxxx(省略)xxxxxxxxxxxxxxx」
ワ「……でもね、あなた、いつも、私の前でそういう話ばかりしているから、気をつけなさいよ。
子どもの前で、思わず、ポロリとそういう話をしたら、どうするの」
私「わかっている」と。

 男も、女も、50歳をすぎると、急に、色気がなくなるものです。ハイ!


●酒は害?

韓国のサムスン電子本社と各地方工場には、「焼酎1本、またはビール4本を飲む、脳神経細
胞30億個のうち10万個が、一度に破壊されます」という張り紙が、張られているという(「朝鮮
日報」)。

 ビール4本で、10万個! この計算によれば、ビールを12万本飲むと、脳細胞は、すべて
破壊されることになる。12万本というと、毎日約4本、100年間飲んだ量に等しい。

 脳細胞とは、何か? 脳の神経細胞のこと? それともシナプスのこと? もし神経細胞とい
うことなら、30億個ではなく、100億個というのが、定説。そのあたりが、少しあいまいだが、し
かし実際、酒は、脳に、悪影響を与えるらしいということは、経験的にもわかる。

 私の知人の中にも、かなりの酒飲みがいる。毎日、清酒1本のほか、ビールを4、5本くらい
なら、水がわりに飲んでしまう。で、そういう人たちに共通している点は、話す言葉がはっきりし
ないということ。「アウ〜」とか、「エ〜」とか、そういう話し方が多い。

 が、それ以上に気になるのは、微妙な言い回しができないということ。あるいは繊細な感覚が
なることもある。話す内容そのものが、どこか大ざっぱになる。

知人「林君、ウ〜、どうかね、このところ? 君のうわさを、あまり聞かないよオ〜」
私「いろいろ調子が悪くって……」
知人「ウ〜、そうかね。ウマア、元気でいるのが、一番だよ。人間はわア〜」と。

 若いときは、それほど感じないかもしれないが、50歳をすぎると、こうした違いが、はっきりと
わかるようになる。

 しかし一企業が、社員に向って、そういう張り紙をするところが、実に韓国らしい。いらぬお節
介と、反発している社員も多いはず。何も、脳細胞に影響を与えるのは、酒だけではないだろ
うし……。


●相談メール

 毎日、多くの方から、子育て相談についてのメールをもらう。私のHPの読者の方からや、マ
ガジン読者の方から、など。

 このところ多いのは、携帯電話からの相談。アドレスから、携帯電話からとわかる。

 で、携帯電話の特質というか、文面が、きわめて、簡潔。あいさつも、何もない。いきなり、「う
ちの子は、こうこう、こうです。何かいいアドバイスを!」と書いてくる。そのほとんどは、件名の
ところは空白になっている。名前も、名字だけ。

 返事を書きたいのだが、こちらから返信できる文字数にも、限界がある。そこで、どう返事を
書いたらよいものかと迷っているうちに、つぎのメールが、入ってくる。「昨日、メールをしたもの
ですが、返事は、どうなっていますか?」と。

 さらに迷っていると、今度は、叱りのメール。「返事をちゃんと、ください!」と。

 いくら気軽に情報が交換できるようになったとはいえ、この世界にも、やはりルールというも
のがある。礼儀というものがある。最低でも、自分の名前くらいは、しっかりと書いてほしいと願
うのは、私だけなのか。

一方、携帯電話では、文面を短くしなければならない。それは、わかる。それにそういう相談を
してくる人に、悪い人はいない。みんな、子育てのことで、頭がいっぱいなのだ。しかしそれを
受け取るほうは、そういった文面を見ながら、ちがった印象をもつ。

たとえば礼儀など、ほとんど気にしない私だが、それでも、ときどき、ムッとする。いや、ほとん
どの母親は、こうしたルールと礼儀をわきまえている。しかし中には、そうでない人がいる。そ
のそうでない人が、私をかぎりなく、不愉快にする。

 たった今も、一通のメールを、そのまま削除したところ。子どもの情緒不安についての相談だ
った。私は、削除しながら、ふと、心のどこかで、こう思った。「母親自身が、自分の自己中心
性を改めないかぎり、子どもの問題は解決しないだろうな」と。

 
●音楽

 「日本の歌」という、唱歌集を、CDで聞く。どれも、よい歌だ。日本人の私たちの心には、ぐっ
とくる。

 で、それが終わったあと、今度は、モーツアルトを聞く。とたん、メロディーの洪水? それま
で聞いていた唱歌が、まるで幼稚に思えてくる。「一体、この落差は何か!」と。そう思わず、つ
ぶやいてしまう。

 だからといって、モーツアルトが上で、日本の唱歌が下とか、そんなことを言っているのでは
ない。むしろ私には、日本の唱歌のほうが、心にひびく。ときに、涙まで流す。しかしふと、こう
思った。

 「1つの唱歌の全小節を合わせても、モーツアルトの交響楽の1小節にもならないだろうな」
と。

 事実、そのとおりだから、しかたない。争いようがない。

 そこで改めて考えてみる。なぜ、簡単な日本の唱歌が、私の心にひびき、メロディーの洪水
のようなモーツアルトの交響楽は、それほどまでにひびかないのか、と。つまり心の反応という
のは、どこで、どう決まるのか、と。

 日本の唱歌には、思い出がぎっしりとつまっている。どの曲を聞いても、そのつど、それを聞
いたときの情景が、そのまま脳裏に浮かんでくる。

 一方、モーツアルトの交響楽には、それがない。……どうやら、そのあたりに、心の反応のち
がいを説明する、カギがあるようだ。

 そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「唱歌は、みんなでいっしょに歌えるけど、
モーツアルトは歌えないから……」と。

 なるほど、鋭い意見である。……と、感心したところで、この話は、おしまい。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(185)

●夏の夜のロマン、UFO

【息子からのメール】

まず、息子(二男、アメリカ在住のメールを紹介する。

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父が、月にやアポロ計画に関する不自然な点に関する情報を載せたサイトのアドレスを僕にく
れた。なかなか面白い情報だと思った。

20世紀のはじめにロウェル、ジオバー二、といった天文学者が始めて精密な火星の表面を記
録したとき、表面に見える沢山の筋は火星人が建設した巨大な運河の跡だと考えられてい
た。星の並び方に星座をみたり、月にウサギが見えるのと同じように、人間は無秩序の中にあ
る偶然の秩序を想像豊かに説明してきた。 

僕は子供のころ、月が地球とまったく同じように自転しているのは、実に不自然だなと思ったの
を覚えている。自然ならちょっとずつずれるはずだと思ったし、月の裏が地球から見えないの
は宇宙人か誰かが微調整している結果だとも思った。 

大学で物理学が専攻だったこともあって、そういった多くの「なぜ」に証拠と説明のしかたを学
んだ。(とりあえず月が地球と同じスピードで自転するのは、地球の潮汐力が共鳴現象を起こ
しているから。)

この前書いたとおり、僕は分からないことがあっても、それがロマンにつながるようなことはもう
ほとんどない。大学で、何か未知なことがあってもそれが僕が期待すること(宇宙人が地球に
来ているとか)である可能性が、どれだけ少ないかということを学んだせいだと思う。 

++++++++++++++++++++

【はやし浩司より】

 二男は、UFOというものを、まったく、100%、信じていない。ときどき、UFOの話をもちかけ
るが、いつもどこか、喧嘩ごしのようになってしまう。

 要するに、何を基準にして話すかだが、私とワイフは、ある夜、巨大なUFOを目撃している。
私たちは、まず、そこから話を始める。

 以下は、このマガジンでも、何度もとりあげた、記事(中日新聞に掲載済み)の原稿である。
まず、それを読んでほしい。

++++++++++++++++++++

●UFO

 ワイフとUFOを見たときの話は、もう一度、ここに転載する。繰り返すが、私たちがあの夜見
たものは、絶対に飛行機とか、そういうものではない。それに「この世のもの」でもない。飛び去
るとき、あたかも透明になるかのように、つまりそのまま夜空に溶け込むかのようにして消えて
いった。飛行機のように、遠ざかりながら消えたのではない。

 私はワイフとその夜、散歩をしていた。そのことはこの原稿に書いたとおりである。その原稿
につけ加えるなら、現れるときも、考えてみれば不可解な現れ方だった。この点については、
ワイフも同意見である。

つまり最初、私もワイフも、丸い窓らしきものが並んで飛んでいるのに気づいた。そのときは、
黒い輪郭(りんかく)には気づかなかった。が、しばらくすると、その窓を取り囲むように、ブーメ
ラン型の黒いシルエットが浮かびあがってきた。そのときは、夜空に目が慣れてきたために、
そう見えたのだと思ったが、今から思うと、空から浮かびあがってきたのかもしれない。つぎの
原稿が、その夜のことを書いたものである。

++++++++++++++++++
 
●見たぞ、UFO!

 見たものは見た。巨大なUFO、だ。ハバが1、2キロはあった。しかも私とワイフの二人で、
それを見た。見たことはまちがいないのだが、何しろ30年近くも前のことで、「ひょっとしたら…
…」という迷いはある。が、その後、何回となくワイフと確かめあったが、いつも結論は同じ。「ま
ちがいなく、あれはUFOだった」。

 その夜、私たちは、いつものようにアパートの近くを散歩していた。時刻は真夜中の一二時を
過ぎていた。そのときだ。何の気なしに空を見あげると、淡いだいだい色の丸いものが、並ん
で飛んでいるのがわかった。

私は最初、それをヨタカか何かの鳥が並んで飛んでいるのだと思った。そう思って、その数を
ゆっくりと数えはじめた。あとで聞くとワイフも同じことをしていたという。が、それを五、六個ま
で数えたとき、私は背筋が凍りつくのを覚えた。その丸いものを囲むように、夜空よりさらに黒
い、「く」の字型の物体がそこに現れたからだ。

私がヨタカだと思ったのは、その物体の窓らしきものだった。「ああ」と声を出すと、その物体は
突然速度をあげ、反対の方向に、音もなく飛び去っていった。

 翌朝一番に浜松の航空自衛隊に電話をした。その物体が基地のほうから飛んできたから
だ。が、どの部所に電話をかけても、「そういう報告はありません」と。もちろん私もそれがUFO
とは思っていなかった。私の知っていたUFOは、いわゆるアダムスキー型のもので、UFOに、
まさかそれほどまでに巨大なものがあるとは思ってもみなかった。

が、このことを矢追純一氏(現在、UFO研究家)に話すと、矢追氏は袋いっぱいのUFOの写真
を届けてくれた。当時私はアルバイトで、日本テレビの「11PM」という番組の企画を手伝って
いた。矢追氏はその番組のディレクターをしていた。あのユリ・ゲラーを日本へ連れてきた人で
もある。

私とワイフは、その中の一枚の写真に釘づけになった。私たちが見たのと、まったく同じ形のU
FOがあったからだ。

 宇宙人がいるかいないかということになれば、私はいると思う。人間だけが宇宙の生物と考
えるのは、人間だけが地球上の生物と考えるくらい、おかしなことだ。そしてその宇宙人(多
分、そうなのだろうが……)が、UFOに乗って地球へやってきても、おかしくはない。

もしあの夜見たものが、目の錯覚だとか、飛行機の見まちがいだとか言う人がいたら、私はそ
の人と闘う。闘っても意味がないが、闘う。私はウソを書いてまで、このコラムを汚したくない
し、第一ウソということになれば、私はワイフの信頼を失うことになる。

 ……とまあ、教育コラムの中で、とんでもないことを書いてしまった。この話をすると、「君は
教育評論家を名乗っているのだから、そういう話はしないほうがよい。君の資質が疑われる」と
言う人もいる。

しかし私はそういうふうにワクで判断されるのが、好きではない。文を書くといっても、教育評論
だけではない。小説もエッセイも実用書も書く。ノンフィクションも得意な分野だ。東洋医学に関
する本も三冊書いたし、宗教論に関する本も五冊書いた。うち四冊は中国語にも翻訳されてい
る。

そんなわけで私は、いつも「教育」というカベを超えた教育論を考えている。たとえばこの世界
では、UFOについて語るのはタブーになっている。だからこそあえて、私はそれについて書い
てみた。

+++++++++++++++++++++

【後日談】

 この記事を新聞で発表してから、ほぼ1年後のこと。ある会場で講演を終えると、ロビーに一
人の男性が、この記事をもって、立っていた。市内で、鍼灸医院を経営する、B氏という名前の
男性だった。

 B氏は、こう言った。

 「私も弟と二人で、同じものを、見ました」と。

 そのあと、B氏とは、何度も会っている。そしてたがいに見たものを、何度も話しあっている。
そのB氏も、こう言った。「現れ方も、消え方も、とても、この世のものとは、思われませんでし
た」と。

 飛行機が遠ざかって消えていくような消え方ではない。それは私たちが見たUFOもそうだっ
たが、空に溶けこむようにして、消えていったという。「溶けこむように」だ。

 「飛行機だったら、遠くへ飛んでいき、だんだん見えなくなって消えていきますよね。しかし私
が見たUFOは、グニャグニャと形を崩し、そのまま夜空に溶けるこむようにして、上昇しながら
消えていきました」と。

 たしかB氏は、「粘土か、煙のようになって消えていった」というようなことを言ったと思う。あと
でワイフもこう言った。「私たちが見たUFOも、そのままの形で、消えていった。星がまわりに
見えたから、雲に隠れたというふうでも、なかった」と。

 大きさは、B氏も「わからなかった」と言いながら、最低でもハバが、500メートルはあったと
言った。飛行機のような小さなものではない。まさに空をおおうほど、大きかったという。

 で、そのあとB氏の弟は、そのショックで、人生観が180度変ってしまい、インドへ仏教の修
行にでかけてしまったという。

 で、宇宙人はいるのか、いないのか?

 私は、一つの手がかりは、月にあるのではないかと思っている。つぎの原稿は、1年と少し前
に書いた原稿である。

++++++++++++++++++++++

●謎のオニール橋

 このところ毎晩、眠る前に、「月の先住者」(ドン・ウィルソン著・たま出版)を読んでいる。かな
り前に買った本だが、それが結構、おもしろい。なかなかよく書けている。要するに、月には、
謎が多いということ。そしてその謎を集約していくと、月は、巨大なUFOということになる、とい
う。

 私が子どものころには、月の危難の海というところに、オニール橋というのがあった。オニー
ル(ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の科学部長であったJ・J・オニール)という科学者が
発見したから、「オニール橋」というようになった(一九五三年七月)。

どこかの科学博覧会に行ったら、その想像図まで展示してあった。一つの峰からつぎの峰にま
たがるような、端から橋まで、二〇キロもあるような橋だったという。

 が、そんな橋が、月の上にあること自体、おかしなことだった。しかもそんな橋が、それまで発
見されなかったことも、おかしなことだった。それまでに、無数の天文学者が、望遠鏡で月をの
ぞいていたはずである。

 しかし、最大の謎は、その後まもなく、そのオニール橋が、その場所から消えたということ。な
ぜか。その本によれば、あくまでも、その本によればの話だが、それは巨大なUFOだったとい
う。(ありえる!)

 そこでインターネットを使って、オニール橋を調べてみた。ヤフーの検索エンジンを使って、
「月 オニール」で検索してみると、いくつか出てきた。結局、オニール橋は、一部の研究者の
「見まちがい」ということで、公式には処理されているようだ。(残念!)

 私自身は、信じているとかいないとかいうレベルを超えて、UFOの存在は、確信している。ワ
イフと私は、巨大なUFOを目撃している。私たちが見たのは、幅が数キロもあるような巨大な
ものだった。だからオニール橋が、巨大なUFOだったとしても、驚かない。

 しかしこういうのを、私たちの世界では、「ロマン」という。つまり、「夢物語」。だからといって、
どうということもないし、また何ができるということでもない。またそれを基盤に、何かをすること
もない。ただの夢物語。

しかし心地よい夢を誘うには、この種の話が、一番。おもしろい。楽しい。それはちょうど、子ど
もたちが、かぐや姫の話を聞いて、夜の空に、ファンタジックな夢をはせるのと同じようなもので
はないか。

 興味のある人は、その本を読んでみるとよい。しかしあまりハマらないように! UFOの情報
は、インターネットで簡単に手に入るが、そのほとんどのサイトは、どこかの狂信的なグループ
(カルト)が、運営している。じゅうぶん注意されたし。

++++++++++++++++++++

【はやし浩司から、息子へ……】

 大前提として、ぼくは、お前には、ウソをつかない。ウソを書くつもりはない。またウソまでつい
て、お前を惑わすようなことはしない。したくない。それとも、ぼくは、今まで、お前の父親とし
て、ウソをついたことがあるだろうか? 約束を守らなかったようなことがあるだろうか?

 そういう前提で話す。

 お前は、すぐ否定するが、あの夜、何か得体の知れないものを、晃子(ワイフ)と見たもの
は、事実だ。翌朝一番に、自衛隊に電話をしたのも、事実だ。少しあとになって、B氏がやって
きて、「同じものを見た」と話してくれたのも、事実だ。

ウソは書かない。ウソをついても、評判を落すことはあっても、ぼくには、得になることは、何も
ない。

 つまりお前と、視点が180度ちがうという理由は、ここにある。ぼくたちは、「見た」という前提
で、話を始める。見ていないお前に、それを信じろというほうが、むずかしいのかもしれないが
……。

 いつかゆっくりと話す機会があったら、話したい。

 ぼくは若いころ、東洋医学の研究に没頭した。本も何冊か書いた。うち一冊は、25年にもな
るが、医学部や、鍼灸学校の教科書として、いまだに使われている。

 その研究をしていたころ、実のおかしな記述に、あちこちで出会っている。東洋医学の原点
(原書)が、人間によって書かれたのではないのではないかという疑いをもつのに、じゅうぶん
なほど、おかしな記述だ。

 それはちょうど、旧約聖書の生い立ちに似ている。いつか、それについて、お前に話してやろ
う。この事実は、恐らく、ぼくしか知らないことだし、ほかにそういう面で、研究している人を、知
らない。

 いつか死ぬまでに、お前だけには、このことを話しておきたい。また日本へ帰ってきたときで
もよいし、もう少し、お前が、宇宙に対して、心を開いてくれてからでもよい。ほかのだれにも、
話すつもりはない。

 こうした事実は、「ぼくが死んだら、そのままぼくとともに消えるもの」と、半分は、もうあきらめ
ている。いつか、文章にすることがあるかもしれないが、今のところ、ない。どうせ、だれも信じ
てくれないし、東洋医学には、心底、幻滅している。

 東洋医学に幻滅したというのではない。日本の東洋医学研究のあり方に、幻滅している。話
せば長くなるが……。

 まあ、しかし、お前が言うように、これはロマンだ。先のB氏だが、そのあと、何度も会ってい
る。うちへも、たびたび遊びに来ている。

 しかしね、おかしなことだが、いつも会話が、途中で切れてしまう。話がつづかない。それもそ
うだろう。たがいに見たのは瞬間だった。たがいにその瞬間について話すだけ。だからどうして
も、ロマンになってしまう。何か、具体的な証拠があるわけではないからね。

 そうそう私と晃子が見たUFOと、B氏兄弟が見たUFOは、別のものだよ。

 一度、会って、正確に見た方向を、地図を広げて確認してみたが、おもしろいことに、ぼくた
ちが見たUFOは、まっすぐ、正確に西から東へ飛んできたものとわかった。

 一方、B氏兄弟が見たUFOは、これまた正確に、まっすぐ東から西へ飛んできたものだとわ
かった。見た日も、ちがっていたけどね。

 今でもときどき、晃子と寝るとき、あの夜のことを思い出す。そして「あれは何だったのか?」
「もう一度、見てみたいね」と、話している。そうして話しているうちに、いつも眠ってしまう。

 そうそう最後に、先日送った、「惑星の謎」の写真だけど、NASAが公表する写真は、そのほ
とんどが、修正済みのものばかりだよ。そういう前提で、写真を見なければいけないよ。どうい
うわけか知らないけど、ね。

 じゃあ、お前も、夜、散歩するようなことがあれば、空を見あげてみるといいよ。

 おやすみ。 そちらは、朝だね。

HAVE A NICE DAY!
(040606)

【追記】

 今夜(6・6)、ワイフとまた、そのUFOの話になった。

ワ「散歩から帰ってきたときだから、時刻は、12時前だったと思う」
私「ぼくは、12時を過ぎていたと思う。そのあと自衛隊に電話しようと思ったけど、毎夜中じゃ
あ、できないと思って、しなかった」
ワ「あれは、不思議だったわ」
私「ホント!」

ワ「だけど、あんなところを、通るものなのかしら? 自衛隊の基地でも見にきたのかしら?」
私「理由は、わからない。観光旅行かもしれないな。そのあと、『く』の字型UFOは、あとこちで
目撃されているよ」
ワ「窓が光っていたわ」
私「光ってはいないよ。ぼんやりとした、淡いだいだい色だった……」

ワ「私には、白っぽく見えたわ。消えかかった、蛍光灯のような感じだった。白といっても、グレ
ーに近かった」
私「窓だと思うけど、まん丸だった」
ワ「そう、まん丸だったわ。車のライトのように……。きちんと並んでいた。飛行機の窓のように
ね」

私「飛行機じゃ、ないよ。まったく音がしなかったよ」
ワ「そう、音がしなかった。静かだったわ」
私「飛行機だったら、わかるよ。浜松市の上空は、飛行機の航路になっている」
ワ「私は、窓を、一生懸命、数えていたわ。6個くらいまで数えたわ」
私「ぼくも、そんなものだった。見にくかったから、最初は、目をこらして一生懸命、数えていた」

ワ「窓は、『く』の字に並んでいたわ。2個くらい、少しずれていた」
私「でも、『く』というよりは、『へ』の字に近かった。手前半分より、向こう側半分のほうが、長か
ったような気がする」
ワ「そうだわ。『く』ではなく、『へ』の字だわ」
私「だから、手前の5、6個につづいて、折れ曲がった向こう側には、ズラズラと窓が並んでい
た感じがした」
ワ「そうだったわ」と。

 そして結論は、いつも同じ。「不思議だったわ」「不思議だった」と。

 私は原稿の中で、幅が1、2キロと書いたが、本当のところは、よくわからない。夜だったし、
それにそれが飛んでいる高度もわからなかった。私の印象では、いつも飛んでいる飛行機の
高度を飛んでいるように見えた。

 100メートルとか、200メートルとかいうような、そんな低い高さではない。最低でも、500メ
ートルとか、それくらいはあったのでは……? つまりそういうところから、「幅が1、2キロはあ
った」と書いた。

 いや、ひょっとしたら、もっと大きかったかもしれない。幅が20キロとか30キロとか……。
今、ここで断言できることは、あのジャンボジェット機とは、比較にならないほど、巨大だったと
いうこと。私が見たUFOを、巨大タンカーだとするなら、ジャンボジェット機は、一人乗りの釣り
舟のようなもの。それくらいのちがいは、感じた。

 だから私たちが見たUFOは、絶対に飛行機などではない! 絶対に!

【追記】

 しかし世に中には、不思議なことがあるもの。私も人並みに、いろいろと不思議なできごとを
経験しているが、しかしあの夜以上に、不思議な経験をしたことがない。ワイフもそう言ってい
る。

 もしあれがUFOだとするなら、(まちがいなくUFOだが)、宇宙人は、確実にいる。またそうい
う前提で、ものごとを考えるべきではないのか。

 どこに住んでいるかは知らない。どこから来たのか、またその目的が何であるかも、知らな
い。しかし時折、彼らは、こうして地球を訪れて、何かをしている。私も、よく、じょうだんまじり
に、「観光旅行だ」と言うが、内心では、観光旅行にちがいないと思っている。宇宙人の御一行
様が、巨大なバスに乗って、地球へやってくる。

 「夜に観光旅行するのか?」と思う人がいるかもしれないが、彼らの視力からすれば、夜で
も、昼のように明るく見えるのかも。反対に、昼間は、明る過ぎて、目を痛めるということもあ
る。それに太陽から降りそそぐ、紫外線や放射線を、避けているのかもしれない。

 いろいろ考えられる。考えられるが、地球人を基準にして、ものを考えてはいけない。彼らの
もつ知力にしても、人間より、数千年とか、数万年単位で、進化しているはず。技術も、そうだ。
私が見たUFOにしても、まるで空に溶けこむようにして、消えている。とてもこの世の乗り物と
は、思われない消え方である。

 では、なぜその宇宙人は、堂々と姿を、私たちの前に現さないのかということになる。

 理由はいくつか考えられる。

(1)宇宙人と人間の間に、あまりにも差がありすぎる。
(2)貪欲な人間に、その技術なり知識が利用されるのを恐れている。
(3)人間そのものが、彼らによって作られた。彼らの遺伝子を組み込まれている。
(4)すでに、あちこちで、人間の形をして、現れている。

 まあ、近々、姿を現すのではないかと、私は思っている。私たちが見たUFOも、その一つとい
うことになる。

 では、眠くなったので、この話は、ここまで。またいつか……。

 以上、あの夜、私とワイフは、何かを見た。それが真実であることを、再度、ここで確認しな
がら……。
(040606)
(はやし浩司 UFO)

++++++++++++++++++++

【壮大なロマン】

●人間は、宇宙人によって、作られた?

 私は、人間は、宇宙人によって、つくられた生き物ではないかと思っている。

 「作られた」というよりは、彼らの遺伝子の一部を、組み込まれたのではないかと、思ってい
る。それまでの人間は、きわめてサルに近い、下等動物であった。

 たとえば人間の脳ミソをみたばあい、大脳皮質と呼ばれる部分だけが、ほかの動物とくらべ
ても、特異に発達している。そこには、100〜140億個とも言われる、とほうもない数の神経
細胞が集まっているという。

 長い時間をかけて、人間の脳は、ここまで進化したとも考えられる。しかし黄河文明にせよ、
メソポタミア文明にせよ、それらは、今からたった7500年前に生まれたにすぎない。たった7
500年だぞ! 

地球の歴史の中では、まさに瞬時に、変化したと言うにふさわしい。 

それ以前はというと、石器時代。さらにそれ以前はというと、人間の歴史は、まったくの暗闇に
包まれてしまう。

 私は、今から7500年前。つまり紀元前、5500年ごろ、人間自体に、何か、きわめて大きな
変化があったのではないかと思っている。そのころを境に、人間は、突然に、賢くなった(?)。

●古代神話

 中国の歴史は、黄帝という帝王で始まる。司馬遷も、『史記』を、その黄帝で書き始めてい
る。それと同じころ、メソポタミアでは、旧約聖書の母体となる、『アッシリア物語』が、生まれて
いる。ノアの箱舟に似た話も、その物語の中にある。

 この黄帝という帝王は、中国に残る伝説によれば、処女懐胎によって、生まれたという。この
話は、どこか、イエスキリストの話に似ている。イエスキリストも、処女懐胎によって生まれてい
る。

 この時期、この地球で、ほぼ同時に、二つの文明が生まれたことになる。黄河文明と、メソポ
タミア文明である。

 共通点はいくつかある。

 黄河流域で使われたという甲骨文字と、メソポタミアに残る楔形(くさびがた)文字は、よく似
ている。さらに、メソポタミア文明では、彩色土器が使われていたが、それときわめてよく似た
土器が、中国の仰韶(ヤンシャオ)地方というところでも、見つかっている。

 メソポタミアのシュメール人と、中国のヤンシャオ人。この二つの民族は、どこかで、つながっ
ている? そしてともに、その周囲の文明とはかけ離れた文明を、築いた。一説によると、シュ
メール人たちは、何の目的かは知らないが、乾電池まで使っていたという。

 もちろん、ここに書いたことは、神話とまではいかないが、それに近い話である。黄河文明に
しても、ヤンシャオ人が作った文明とは、証明されていない。私が勝手に、黄河文明イコール、
ヤンシャオ人と結びつけているだけである。

 ただ、「帝」を表す甲骨文字と、「神」を表す楔形文字は、形のみならず、意味、発音まで、ほ
ぼ、同じである。中国でいう帝王も、メソポタミアでいう神も、どこか、遠い星からやってきたとさ
れる。

●壮大なロマン

 私は、ある時期、シュメール人や、ヤンシャオ人について、いろいろ調べたことがある。今で
も、大きな図書館へ行くと、新しい資料はないかと、必ず、さがす。

 が、いつも、そのあたりで、ストップ。本来なら、中国やイラクへでかけ、いろいろ調べてから、
こうしてものを書くべきだが、それだけの熱意はない。資金もない。それに、時間もない。

 まあ、そうかな?……と思いつつ、あるいは、そうでないのかもしれないな?……と思いつ
つ、35年近くを過ごしてきた。

 しかしこうした壮大なロマンをもつことは、悪いことではない。あちこちに、そういった類(たぐ
い)の、「古代〜〜展」があったりすると、「ひょっとしたら……」と思いつつ、でかける。何か、目
標や目的があるだけでも、そうした展示品を見る目もちがってくる。

 「やっぱり、ぼくの自説は正しいぞ」と思ってみたり、「やっぱり、ぼくの自説はまちがっている
かもしれない」などと、思ってみたりする。

 私は考古学者ではない。多分、この原稿を読んでいるあなたも、そうだ。だから、夢、つまり
ロマンをもつことは許される。まさに壮大なロマンである。

 とくに、眠られぬ夜には、こうしたロマンは、役にたつ。あれこれ頭の中で考えていると、いつ
の間にか、眠ってしまう。あなたも、私がここに書いたことを参考に、古代シュメール人や、中
国のヤンシャオ人に、興味をもってみたらどうだろうか。

 彼らには、私たちの心をとらえてはなさない、何か大きな、不思議な魅力がある。
(040607)

+++++++++++++++++++++

ああ、またUFOのことを書いてしまった!
ワイフにさえ、「この話はよくない」と、クギを
刺されている。

頭のおかしな人たちと、まちがえられるからだ。
(私は、おかしいかもしれない? ゾーッ!)

冒頭に書いたように、息子にさえ、そう思われて
いる。「パパとママは、おかしいよ」と言われた
こともある。

ただとても残念なのは、UFOが、幽霊や心霊現象
などと同列におかれていることだ。いわゆるオカルト
(科学では証明できない神秘的超自然現象)の一つと
して、考えられている。

しかしUFOは、決して、オカルトではない。……と
自分では思っている。科学的に説明できるからだ。

ときどき自分でもわけがわからなくなるときがある。
そういうときは、あの夜見た、巨大なUFOを、
何度も自分の心の中で確認する。「あれは、幻想ではない」
「たしかに、見たぞ!」と。

みなさんは、どう考えるだろうか。

以上、真夏の夜の、大ロマン。おしまい!
おやすみなさい!
 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(186)

【親子の問題】

●親子でつくる三角関係

 本来、父親と母親は一体化し、「親」世界を形成する。

 その親世界に対して、子どもは、一対一の関係を形成する。

 しかしその親子関係が、三角関係化するときがある。父親と、母親の関係、つまり夫婦関係
が崩壊し、父親と子ども、母親と子どもの関係が、別々の関係として、機能し始める。これを親
子の三角関係化(ボーエン)という。

 わかりやすく説明しよう。

 たとえば母親が、自分の子どもを、自分の味方として、取り込もうとしたとする。

「あなたのお父さんは、だらしない人よ」
「私は、あんなお父さんと結婚するつもりはなかったけれど、お父さんが強引だったのよ」
「お父さんの給料が、もう少しいいといいのにね。お母さんたちが、苦労するのは、あのお父さ
んのせいなのよ」
「お父さんは、会社では、ただの書類整理係よ。あなたは、あんなふうにならないでね」と。

 こういう状況になると、子どもは、母親の意見に従わざるをえなくなる。この時期、子どもは、
母親なしでは、生きてはいかれない。

 つまりこの段階で、子どもは、母親と自分の関係と、父親と自分の関係を、それぞれ独立し
たものと考えるようになる。これがここでいう「三角関係化」(ボーエン)という。

 こうした三角関係化が進むと、子どもにとっては、家族そのものが、自立するための弊害に
なってしまう。つまり、子どもの「個人化」が遅れる。ばあいによっては、自立そのものが、でき
なくなってしまう。

●個人化

 子どもの成育には、家族はなくてならないものだが、しかしある時期がくると、子どもは、その
家族から独立して、その家族から抜け出ようとする。これを「個人化」(ボーエン)という。

 が、家族そのものが、この個人化をはばむことがある。

 ある男性(50歳、当時)は、こんなことで苦しんでいた。

 その男性は、実母の葬儀に、出なかった。その数年前のことである。それについて、親戚の
伯父、伯母のみならず、近所の人たちまでが、「親不孝者!」「恩知らず!」と、その男性を、
ののしった。

 しかしその男性には、だれにも話せない事情があった。その男性は、こう言った。「私は、父
の子どもではないのです。祖父と母の間にできた子どもです。父や私をだましつづけた母を、
私は許すことができませんでした」と。

 つまりその男性は、家族というワクの中で、それを足かせとして、悶々と苦しみ、悩んでいた
ことになる。

 もちろんこれは50歳という(おとな)の話であり、そのまま子どもの世界に当てはめることは
できない。ここでいう個人化とは、少しニュアンスがちがうかもしれない。しかしどんな問題であ
るにせよ、それが子どもの足かせとなったとき、子どもは、その問題で、苦しんだり、悩んだり
するようになる。

 そのとき、子どもの自立が、はばまれる。

●個人化をはばむもの 

 日本人は、元来、子どもを、(モノ)もしくは、(財産)と考える傾向が強い。そのため、無意識
にうちにも、子どもが自立し、独立していくことを、親が、はばもうとすることがある。独立心の
旺盛な子どもを、「鬼の子」と考える地方もある。

 たとえば、親のそばを離れ、独立して生活することを、この日本では、「親を捨てる」という。そ
ういう意味でも、日本は、まさに依存型社会ということになる。

 親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子。かわいい子イコール、よい子とした。

 そしてそれに呼応する形で、親は、子どもに甘え、依存する。

 ある母親は、私にこう言った。「息子は、横浜の嫁に取られてしまいました。親なんて、さみし
いもんですわ」と。

 その母親は、自分の息子が結婚して、横浜に住むようになったことを、「嫁に取られた」と言
う。そういう発想そのものが、ここでいう依存性によるものと考えてよい。もちろんその母親は、
それに気づいていない。

 が、こうした依存性を、子どもの側が感じたとき、子どもは、それを罪悪感として、とらえる。
自分で自分を責めてしまう。実は、これが個性化をはばむ最大の原因となる。

 「私は、親を捨てた。だから私はできそこないの人間だ」と。

●子どもの世界でも……

 家族は、子どもの成育にとっては、きわめて重要なものである。それについて、疑いをもつ人
はいない。

 しかしその家族が、今度は、子どもの成育に、足かせとなることもある。親の過干渉、過保
護、過関心、それに溺愛など。

 これらの問題については、たびたび書いてきたので、ここでは、もう少しその先を考えてみた
い。

 問題は、子ども自身が、自立することそのものに、罪悪感を覚えてしまうケースである。たと
えばこんな例で考えてみよう。

 ある子どもは、幼児期から、「勉強しなさい」「もっと勉強しなさい」と追い立てられた。英語教
室や算数教室にも通った。(実際には、通わされた。)そしていつしか、勉強ができる子どもイコ
ール、優秀な子ども。勉強ができない子どもイコール、できそこないという価値観を身につけて
しまった。

 それは親の価値観でもあった。こうした価値観は、親がとくに意識しなくても、そっくりそのま
ま子どもに植えつけられる。

 で、こういうケースでは、その子どもにそれなりに能力があれば、それほど大きな問題にはな
らない。しかしその子どもには、その能力がなかった。小学3、4年を境に、学力がどんどんと
落ちていった。

 親はますますその子どもに勉強を強いた。それはまさに、虐待に近い、しごきだった。塾はも
ちろんのこと、家庭教師をつけ、土日は、父親が特訓(?)をした。

 いつしかその子どもは、自信をなくし、自らに(ダメ人間)のレッテルを張るようになってしまっ
た。

●現実検証能力 

 自分の周囲を、客観的に判断し、行動する能力のことを、現実検証能力という。この能力に
欠けると、子どもでも、常識はずれなことを、平気でするようになる。

 薬のトローチを、お菓子がわりに食べてしまった子ども(小学生)
 電気のコンセントに粘土をつめてしまった子ども(年長児)
 バケツで色水をつくり、それを友だちにベランダの上からかけていた子ども(年長児)
 友だちの誕生日プレゼントに、酒かすを箱に入れて送った子ども(小学生)
 先生の飲むコップに、殺虫剤をまぜた子ども(中学生)などがいた。

 おとなでも、こんなおとながいた。

 贈答用にしまっておいた、洋酒のビンをあけてのんでしまった男性
 旅先で、帰りの旅費まで、つかいこんでしまった男性
 ゴミを捨てにいって、途中で近所の家の間に捨ててきてしまった男性
 毎日、マヨネーズの入ったサラダばかりを隠れて食べていた女性
 自宅のカーテンに、マッチで火をつけていた男性などなど。

 そうでない人には、信じられないようなことかもしれないが、生活の中で、現実感をなくすと、
おとなでも、こうした常識ハズレな行為を平気で繰りかえすようになる。わかりやすく言うと、自
分でしてよいことと悪いことの判断がつかなくなってしまう。

 一般的には、親子の三角関係化が進むと、この現実検証能力が弱くなると言われている(ボ
ーエン)。

●三角関係化を避けるために

 よきにつけ、あしきにつけ、父親と母親は、子どもの前では、一貫性をもつようにすること。足
並みの乱れは、家庭教育に混乱を生じさせるのみならず、ここでいう三角関係化をおし進め
る。

 もちろん、父親には父親の役目、母親には母親の役目がある。それはそれとして、たがいに
高度な次元で、尊敬し、認めあう。その上で、子どもの前では、一貫性を保つようにする。この
一貫性が、子どもの心を、はぐくむ。

++++++++++++++

以前、こんな原稿を書いた。
中日新聞に発表済みの原稿である。

++++++++++++++

●夫婦は一枚岩

 そうでなくても難しいのが、子育て。夫婦の心がバラバラで、どうして子育てができるのか。そ
の中でもタブー中のタブーが、互いの悪口。

ある母親は、娘(年長児)にいつもこう言っていた。「お父さんの給料が少ないでしょう。だから
お母さんは、苦労しているのよ」と。

あるいは「お父さんは学歴がなくて、会社でも相手にされないのよ。あなたはそうならないでね」
と。母親としては娘を味方にしたいと思ってそう言うが、やがて娘の心は、母親から離れる。離
れるだけならまだしも、母親の指示に従わなくなる。

 この文を読んでいる人が母親なら、まず父親を立てる。そして船頭役は父親にしてもらう。賢
い母親ならそうする。この文を読んでいる人が父親なら、まず母親を立てる。そして船頭役は
母親にしてもらう。つまり互いに高い次元に、相手を置く。

たとえば何か重要な決断を迫られたようなときには、「お父さんに聞いてからにしましょうね」
(反対に「お母さんに聞いてからにしよう」)と言うなど。仮に意見の対立があっても、子どもの前
ではしない。

父、子どもに向かって、「テレビを見ながら、ご飯を食べてはダメだ」
母「いいじゃあないの、テレビぐらい」と。

こういう会話はまずい。こういうケースでは、父親が言ったことに対して、母親はこう援護する。
「お父さんがそう言っているから、そうしなさい」と。そして母親としての意見があるなら、子ども
のいないところで調整する。

子どもが学校の先生の悪口を言ったときも、そうだ。「あなたたちが悪いからでしょう」と、まず
子どもをたしなめる。相づちを打ってもいけない。もし先生に問題があるなら、子どものいない
ところで、また子どもとは関係のない世界で、処理する。これは家庭教育の大原則。

 ある著名な教授がいる。数十万部を超えるベストセラーもある。彼は自分の著書の中で、こう
書いている。「子どもには夫婦喧嘩を見せろ。意見の対立を教えるのに、よい機会だ」と。

しかし夫婦で哲学論争でもするならともかくも、夫婦喧嘩のような見苦しいものは、子どもに見
せてはならない。夫婦喧嘩などというのは、たいていは見るに耐えないものばかり。

その教授はほかに、「子どもとの絆を深めるために、遊園地などでは、わざと迷子にしてみると
よい」とか、「家庭のありがたさをわからせるために、二、三日、子どもを家から追い出してみる
とよい」とか書いている。とんでもない暴論である。わざと迷子にすれば、それで親子の信頼関
係は消える。それにもしあなたの子どもが半日、行方不明になったら、あなたはどうするだろう
か。あなたは捜索願いだって出すかもしれない。

 子どもは親を見ながら、自分の夫婦像をつくる。家庭像をつくる。さらに人間像までつくる。そ
ういう意味で、もし親が子どもに見せるものがあるとするなら、夫婦が仲よく話しあう様であり、
いたわりあう様である。助けあい、喜びあい、なぐさめあう様である。

古いことを言うようだが、そういう「様(さま)」が、子どもの中に染み込んでいてはじめて、子ど
もは自分で、よい夫婦関係を築き、よい家庭をもつことができる。

欧米では、子どもを「よき家庭人」にすることを、家庭教育の最大の目標にしている。その第一
歩が、『夫婦は一枚岩』、ということになる。

++++++++++++++++++

●あなたの子どもは、だいじょうぶ?

あなたの子どもの現実検証能力は、だいじょうぶだろうか。少し、自己診断してみよう。つぎの
ような項目に、いくつか当てはまれば、子どもの問題としてではなく、あなたの問題として、家庭
教育のあり方を、かなり謙虚に反省してみるとよい。

( )何度注意しても、そのつど、常識ハズレなことをして、親を困らせる。
( )小遣いでも、その場で、あればあるだけ、使ってしまう。
( )あと先のことを考えないで、行動してしまうようなところがある。
( )いちいち親が指示しないと行動できないようなところがある。指示には従順に従う。
( )何をしでかすか不安なときがあり、子どもから目を離すことができない。

 参考までに、私の持論である、「子育て自由論」を、ここに添付しておく。


++++++++++++++++++

己こそ、己のよるべ

 法句経の一節に、『己こそ、己のよるべ。己をおきて、誰によるべぞ』というのがある。法句経
というのは、釈迦の生誕地に残る、原始経典の一つだと思えばよい。

釈迦は、「自分こそが、自分が頼るところ。その自分をさておいて、誰に頼るべきか」と。つまり
「自分のことは自分でせよ」と教えている。

 この釈迦の言葉を一語で言いかえると、「自由」ということになる。自由というのは、もともと
「自らに由る」という意味である。つまり自由というのは、「自分で考え、自分で行動し、自分で
責任をとる」ことをいう。好き勝手なことを気ままにすることを、自由とは言わない。子育ての基
本は、この「自由」にある。

 子どもを自立させるためには、子どもを自由にする。が、いわゆる過干渉ママと呼ばれるタイ
プの母親は、それを許さない。先生が子どもに話しかけても、すぐ横から割り込んでくる。

私、子どもに向かって、「きのうは、どこへ行ったのかな」
母、横から、「おばあちゃんの家でしょ。おばあちゃんの家。そうでしょ。だったら、そう言いなさ
い」
私、再び、子どもに向かって、「楽しかったかな」
母、再び割り込んできて、「楽しかったわよね。そうでしょ。だったら、そう言いなさい」と。

 このタイプの母親は、子どもに対して、根強い不信感をもっている。その不信感が姿を変え
て、過干渉となる。大きなわだかまりが、過干渉の原因となることもある。

ある母親は今の夫といやいや結婚した。だから子どもが何か失敗するたびに、「いつになった
ら、あなたは、ちゃんとできるようになるの!」と、はげしく叱っていた。

 次に過保護ママと呼ばれるタイプの母親は、子どもに自分で結論を出させない。あるいは自
分で行動させない。いろいろな過保護があるが、子どもに大きな影響を与えるのが、精神面で
の過保護。「乱暴な子とは遊ばせたくない」ということで、親の庇護(ひご)のもとだけで子育てを
するなど。

子どもは精神的に未熟になり、ひ弱になる。俗にいう「温室育ち」というタイプの子どもになる。
外へ出すと、すぐ風邪をひく。

 さらに溺愛タイプの母親は、子どもに責任をとらせない。自分と子どもの間に垣根がない。自
分イコール、子どもというような考え方をする。ある母親はこう言った。「子ども同士が喧嘩をし
ているのを見ると、自分もその中に飛び込んでいって、相手の子どもを殴り飛ばしたい衝動に
かられます」と。

また別の母親は、自分の息子(中二)が傷害事件をひき起こし補導されたときのこと。警察で
最後の最後まで、相手の子どものほうが悪いと言って、一歩も譲らなかった。たまたまその場
に居あわせた人が、「母親は錯乱状態になり、ワーワーと泣き叫んだり、机を叩いたりして、手
がつけられなかった」と話してくれた。

 己のことは己によらせる。一見冷たい子育てに見えるかもしれないが、子育ての基本は、子
どもを自立させること。その原点をふみはずして、子育てはありえない。
(040607)
(はやし浩司 現実検証能力 ボーエン 個人化 三角関係 三角関係化)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(187)

●今日のレッスンから……

 今日は「地図」をテーマに、学習を進めた。

私「これは何ですか?」
幼児たち「チズ!」
私「何? チーズ? チーズじゃないよ。チズだよ」
幼児たち「チズ」「チズ」「チズだ!」と。

 しばらくレッスンを進めたあと、警察、病院、消防署などの話をする。

私「警察にはだれがいるの?」
幼児たち「おまわりさん!」
私「おまわりさんって、何をするの?」
幼児たち「ドロボーをつかまえる」「悪い人をこらしめる」と。

 年長児のクラスでは、もう少し、話を先に進める。

私「これは銀行だけど、銀行って、何をするところ?」と。

 すると子どもたちは、てんでバラバラなことを言い始めた。それがおもしろかった。

子「お金を取るところ」
私「お金を取ってしまうの?」
子「そう。ぼくのお年玉、全部、取られてしまった」

子「お金をくれるところ」
私「へえ、お金をくれるの?」
子「そうだよ。くれるよ。ママは、いつも銀行で、お金をもらっているよ」と。

子「夜、家にお金を置いておくと、ドロボーにとられるから、預けておくところ」
私「銀行に預けておけば、安心なの?」
子「そうだよ」と。

 この時期(年長児)で、自分の住所をしっかり言える子どもは、約半数。電話番号も、ほぼ半
数。「迷子になったとき困るから、しっかりと言えるようにしておこうね」と言うと、みな、「ハー
イ!」と言ってくれた。

 今月は、先週は、「家族」。今週は、「地図」。来週は、「善悪」……とつづく。一週たりとも、同
じレッスンをしない。それが私の教室の売り物。興味のある人は、どうぞ!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【スペイン在住のIさんより】

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スペイン在住のIさんより、こんなメールが届きました。

転載許可(※承諾求め)をいただけましたので、紹介し
ます。

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皆様 お元気ですか。

久しくご無沙汰しています。筆不精で、最近、メールを出していないので、

近況報告方々、メールを書いています。

Y子(娘)はYear 8(中学2年レベル)がもうすぐ終わりで、

期末試験の勉強に追われています。

科目別ですと、historyではフランス革命を勉強しています。日本語でも

難しいテーマを、英語で勉強するのですから、本人も大変です。

Englishはシェークスピアと日本でも話題になったHoles(日本名:穴)

が教科書で、毎日、宿題が結構出るので、日本の通信教育のワークまでなかなか手が回

らないので、日本に戻った時、苦労しそうです。

Y子は最近、コンピューターのマイクロソフトのメッセンジャーで友達と毎日、

チャット(英語、スペイン語、その略語が氾濫していて、

ちょっと大人には解読不能)をするのが日課でかなり、はまっています。

私は友達になったスペイン語の先生と油絵を描きながら、スペイン語を

習っています。

最近(2週間前)、ポール・マッカートニーのコンサートが近くのサッカー場で

あり、家族3人で行ってきました。久しぶりのロック・コンサートで、

盛りあがりました。幸代には初めてのロック・コンサートでしたが、クラスの友達も

大勢、見に来ていました。

ウィングス時代のJetで始まり、半分くらいはビートルズ時代の歌で、

Long and winding road や Hey.Judeなど、感激しました。

コンサートはいわゆるスペイン時間で、始まったのが夜の10時15分で終わったの

は夜中の1時過ぎでした。これはスペインでは普通です。

スペインはとにかく、日本に比べ、2〜3時間くらいすべて遅いのです。

今では我が家の夕飯もいつも9時から9時30分くらいです。

郷に入れば、郷に従えです。

早いもので、スペインに来て、もうすぐ3年になります。

6月末で幸代の学校が夏休みに入りますので、私と幸代は7月の中旬に日本に

一時帰国する予定です。

いろいろ予定があるので、会えるかどうか、わかりませんが、

時間があれば、お会いしましょう。

皆様の近況も、メールで教えてくださいね。

ではまた。

スペイン IYより

++++++++++++++++++

【IYさんへ】

●日本では……

 日本では、K国による拉致事件が、一応一段落したという感じです。まざ全面解決というわけ
ではありませんが……。

 先週、九州で、小学6年生の子どもが、同級生を殺傷するという事件が発生しました。今、親
たちの間では、この話で、もちきりです。

 スペインにも、似たような事件がありますか? 同じ事件でも、あまりにも殺伐(さつばつ)とし
ていて、つかみどころがありません。

週刊誌や新聞などの情報によると、その小学生は、映画『バトルロワイヤル』の熱心なファンだ
ったとか。自分でも、それに似せた小説まで書いて、HPで紹介していたといいます。

 ああいう映画を一方で野放しにしておいて、こういう事件が起きるたびに、「なぜ?」「どうし
て?」を繰りかえす。日本人も、もうそろそろそういうおかしさに、気づくべきときにきているので
はないでしょうか。

 私の立場では、本当に腹立たしい感じです。というのも、その映画については、公開当初、原
稿を書き、「こういうものは子どもに見せてはいけない」と、中日新聞にコラムを書いていたりし
たからです。

 当の映画監督のFY氏や、主演のBT氏らは、「戦前の言論統制と同じだ」(写真週刊誌)と、
息巻いていましたが……。

 それ以後も、この種の意味のない殺戮(さつりく)映画が、つぎつぎと、公開されています。先
週も、美しいパッケージにだまされて、「Kill Bill」という映画を見てしまいました。残虐シーンだ
けの、まったく意味のない映画でした。

 ああいう映画を見て育つ子どもは、いったい、どうなるのでしょうか?

●浜名湖花博へどうぞ

 暗い話はさておき、この浜松では、今、浜名湖花博という博覧会が開かれています。私とワイ
フも一度行ってみましたが、思ったより……というか、主催者のきめのこまかい配慮が随所に
見られる、本当にすばらしい博覧会でした。

 たまたま来年、愛知県で、「愛・地球博」(あいち=あい・ち・きゅうはく)が開かれます。こちら
は閣議了承された、国際博ですが、ひょっとしたら、規模こそ小さいですが、愛知万博よりも楽
しめるのではないかと思っています。

 お金をかければよいというものでもないでしょうし……。夏には夏の花が展示されるとか。浜
松へお帰りの際には、ぜひ、訪れてみてください。

 ここ数日、浜松は、雨もようです。すでに梅雨入りしたとか。外から帰ってきたりすると、家の
中が、ムッとするほどカビ臭く感ずることがあります。ムシムシします。今のところ気温はそれ
ほど高くないので、扇風機だけで、何とかしのいでいます。

 日本はあいかわらず不景気ですが、そんなことをある先生に話しましたら、叱られてしまいま
した。「林君は、何でも悲観的に考えすぎるよ」とです。

 いわく、(少し難解な文章ですが、そのまま引用します。)

「日本は貿易で毎年数兆円から10数兆円の黒字を出し、これまで累積した海外投資から数兆
円の所得収支を得〈利息〉、バブル期以降に急増した海外旅行に約5兆円を費やし〈サービス
収支の赤字〉、途上国に1兆円強の政府援助(ODA)を行ない、〈移転収支の赤字〉、最終的
に10兆円前後の黒字を再び海外投資して、海外純資産をさらに増やし続けている国である。 

現時点でも日本は世界最大の経常収支黒字国であり、EU全体に匹敵する世界最大の海外
純資産を蓄積している国である。 海外純資産の累積が増大して、これより得る利息〈所得収
支〉が徐々に増え、現在では毎年7兆円にも達している。国民一人当たりで6万円のもなる」
(科学技術振興事業団・科学技術振興機構「報告書」より・2003年)と。 

 この報告書を読んでいると、何となく、うれしくなりますね。わかりやすく言えば、日本は国内
景気はともかくも、海外では、巨大な金融国家として、利息を集めまくっているというのです。そ
の額、一人当たり、毎年6万円!

 利息が、6万円です。私の家族は5人ですから、30万円。……しかしそういうお金は、いった
い、どこへ消えていくのでしょうね?

 日本政府が、金融機関だけを、特別に保護している理由は、こんなところにあるのかもしれ
ません。ともあれ、日本の景気は上向いているということですが、私には、その実感は、あまり
ありません。

 気になっているのは、先日駅前のEデパートへ行ってみたら、一つ数万円もするサイフが、並
び始めたということです。バブル期には、Mデパート(その後、倒産)では、その種のものが、ズ
ラリと並んでいました。

 またこの日本では、ミニバブルというか、そういう現象が、一部の人たちの間で起き始めてい
るように思います。波にのった企業経営者や、一部の特権階級の人たち。それに特殊な利権
とつながり、特殊な仕事をしている人たちです。

 そういう人たちのところには、「こんなに儲けていいのだろうか」と、思うほど、お金が集まって
いるようです。うらやましいかぎりですね。ホント!

●本題

 さて、本題。

 お嬢さんの生活を知って、私のまわりの子どもたちの生活と、あまりにもちがっているので、
正直言って、驚きました。国際的というか、日本の外では、それが当たり前なのですね。

 いろいろな言葉にまざって、いろいろな文化が飛びかう……。想像するだけでも、楽しくなりま
す。お嬢さんは、まちがいなく、国際人になりますね。あるいはもう立派な、国際人!

 夜の生活というか、このあたりに住む南米の人たちも、夜な夜な、パーティを開いて騒いでい
ます。先日、どこかの会場で講演をしたら、市議会議員の人が、さかんに苦情を言っていまし
た。「うるさくて、たまらない」とです。

 しかし「時間」に対する感覚そのものがちがうのだから、しかたないかもしれません。が、それ
にしても、夜中の1時すぎまで、コンサートとは!! 私も以前、ブエノスアイレエス(アルゼンチ
ンの首都)へ行ったとき、みなが、ゾロゾロと、夜中の1時、2時まで、通りを歩いていたのに
は、驚きました。日本でいう、午後7時とか、8時の感じでした。

 ポール・マッカートニーの「Hey Jude」は、こちらでもDVD版になって、発売になっていま
す。静かなソロで始まり、最後は、合唱団、オーケストラをバックに大合唱というものです。聞い
ているうちに、どんどん盛りあがってきます。すばらしいですね、あの曲は。何度聞いても、あき
ません。

 で、私のほうは、今度、浜松に、舟木xxという、歌手が来るので、ワイフと聞きに行こうかどう
かと迷っている最中です。私の世代には、たまらない歌手です。「死ぬまでに一度は、聞いてお
かねば……」と思っています。(かなりスケールがちがうようです!)

 今は、スズメたちも子育てが一段落したときです。山へ行くと、ホトトギスが鳴いています。ビ
ワの実もたくさんできましたが、昨日行ってみたら、カラスにきれいに食べられてしまっていまし
た。今週から来週にかけては、アジサイが満開になります。日本は、そういう季節です。

 もうすぐすると、ヒグラシが鳴き始めます。それが鳴くと、本格的な夏です。今年の夏は暑くな
るだろうというのが、気象庁の予報です。

 どうか、お体を大切に。今日は、これで失礼します。

 自宅の電話番号を書いておきます。もし時間があれば、連絡してください。
       44x−xxxx、です。

                         はやし浩司

++++++++++++++++++++++

【追記】

 浜松にも、たくさんの外国人が住むようになりました。一方、それ以上の数の日本人が、海外
で生活をするようになりました。

 こういう時代になってみると、「国とは何か」と、改めて考えさせられます。

 私の三男も、今、オーストラリアにいますが、同居している学生は、韓国人です。いっしょに旅
行したりしているようです。いろいろ世話にもなっているようで、そういう関係を知ると、「日本
人」だの、「韓国人」だのと言っているほうが、おかしく思われてきます。

 世界の人は、みんな友人なのです。それはちょうど、横浜に住んでいる人も、神戸に住んで
いる人も、みんな日本人と言うのに似ています。会ったことがない人でも、これから先、死ぬま
で会うこともない人でも、日本人は日本人なのです。

 そういう中、スペインに住み、日本人学校に通い、フランスの歴史を勉強する……。私は、率
直に、それをすばらしいことだと思います。

 で、私たちも、やがて老後は、どこか外国で……と考えています。ワイフは、「元気なうちに決
心しないといけない」とさかんに、言っています。私もそう思うのですが、なかなかふんぎりがつ
きません。IYさんの話を読みながら、頭の中で、想像して楽しむのが、精一杯というところで
す。

 では、またどうかメールをください。みんな、楽しみにしています。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(188)

【子どもの虚言癖】

++++++++++++++++++

兵庫県にお住まいの、HGさんより、
子どもの虚言癖についての相談があった。
子どもの虚言癖についての相談は多い。
以前のもらった相談と重ねて、この
問題を考えてみたい。

++++++++++++++++++

はじめまして。小学校2年生の男子(長男)についての相談です。 
子供の嘘について相談します。 

息子のばあい、空想の世界を言っているような嘘ではなく、
「自分の非を絶対に認めない」嘘です。 

先日担任の先生からお電話があり、こんなことがあったそうです。 

(1)何かの試合の後、「○○君のせいで負けたんだ」と発言。直接その子に言ったようではな
かったが、言われた子は泣き出してしまった。 担任が注意しようとすると、「僕、言っていない」
の一点張り。しかし、先生も周囲にいた複数のクラスメートが、言ったことを聞いている。 

(2)工作の材料にバルサの板のようなものを4枚、持ってきた子がいた。気がつくと3枚しかな
く、探していたところ、いつのまにかうちの子が1枚持っており、「自分が持ってきたものだ」と言
い張る。 

そこで本当に家から持ってきたものなのかどうか、先生から問い合わせという形で、電話があ
りました。

 しかし、当日家から持っていた形跡はなく、問いつめると 

子:「家の近所で拾った」 
私:「どこで拾ったか、連れて行って」 
子:「わかんない。通学路で拾った」 
私:「通学路のどのあたり?」 
子:「○○の坂を上がって、右に曲がったところ」 
私:「○○君は教室まで4枚、あったって」 
子:「・・・」 

という感じで、つじつまを合わせようと必死。最後に私が「○○君が持っていたのが欲しくなっち
ゃったんだ?」と聞くと、小さくコクリ。最後まで「自分が取ってしまった」とは言いませんでした。 

また、休日においても、先日お友達と野球場に行った際、お友達(4生)と弟(5歳)との3人で、
高いところから通路へ石投げに興じてしまいました。そこへ野球場を管理するおじさんから「そ
んなことしちゃいかん!」と一喝。

私は現場を見ていなかったので、「何やったの!?」と聞くと、またしても「僕、何にもやってい
ない」の一点張り。(お友達は「自分もやったが、○○(うちの子)も一緒にやった」と言いまし
た)。しばらくして父親が登場(草野球の試合をしていました)、「おまえもやったんだろ?」と威
厳ある態度で聞くと小さくコクリ、でした。  
石投げについては、私の聞き方がまずかったかな? (嘘を言うことが可能な質問)とも思いま
すが、平然と周知の事実について頑なに嘘を突き通すことについて、子供の心の中がどうなっ
ているのかわからなくなりそうです。

小学校1年の頃までは嘘を言うと、なんとなく顔や態度に出るのであまり気にはしていませんで
したが、最近はそれがなくなり「絶対正しい!」という自信さえ漂わせています。 

生きていくうえでは嘘は必要なものでもありますが、それより以前に自分に打ちかって、正直に
言うことや誠実であることの大切さをわかってもらうには、今後、どう対応していったら良いので
しょうか? 

どうぞよろしくお願いします。 
(兵庫県A市在住、HGより)

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【HGさんへ】

 以前、書いた原稿を、まずここに掲載しておきます。

++++++++++++++++++

子どものウソ

Q 何かにつけてウソをよく言います。それもシャーシャーと言って、平然としています。(小二
男)

A 子どものウソは、つぎの三つに分けて考える。(1)空想的虚言(妄想)、(2)行為障害によ
る虚言、それに(3)虚言。

空想的虚言というのは、脳の中に虚構の世界をつくりあげ、それをあたかも現実であるかのよ
うに錯覚してつく、ウソのことをいう。行為障害による虚言は、神経症による症状のひとつとして
考える。習慣的な万引きや、不要なものを集めるなどの、随伴症状をともなうことが多い。

これらのウソは、自己正当化のためにつくウソ(いわゆる虚言)とは区別して考える。

ふつうウソというのは、自己防衛(言いわけ、言い逃れ)、あるいは自己顕示(誇示、吹聴、自
慢、見栄)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚がある。

母「だれ、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさい」、子
「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから…」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「ゆうべ幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのが、それ。  

その思い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言
という。こんなことがあった。

 ある日一人の母親から、電話がかかってきた。ものすごい剣幕である。「先生は、うちの子の
手をつねって、アザをつくったというじゃありませんか。どうしてそういうことをするのですか!」
と。私にはまったく身に覚えがなかった。そこで「知りません」と言うと、「相手が子どもだと思っ
て、いいかげんなことを言ってもらっては困ります!」と。

 結局、その子は、だれかにつけられたアザを、私のせいのにしたらしい。

イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせては
ならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界
にハマるようであれば、注意せよという意味である。

このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなく、現実の世界に空想をもちこんだり、反
対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世界をつくりあ
げると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式のウソを、シャ
ーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、特徴である。

どんなウソであるにせよ、子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」だけを
繰り返しながら、最後は、「もうウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、
はげしく叱れば叱るほど、子どもはますますウソの世界に入っていく。

++++++++++++++++++++++++

 ここまでは、いわば一般論。雑誌の性格上、この程度までしか書けない。つぎにもう少し、踏
みこんで考えてみる。

 子どものウソで、重要なポイントは、子ども自身に、ウソという自覚があるかどうかということ。
さらにそのウソが、人格的な障害をともなうものかどうかということ。たとえばもっとも心配なウ
ソに、人格の分離がある。

 子どものばあい、何らかの強烈な恐怖体験が原因となって、人格が分離することがある。た
とえばある女の子(二歳)は、それまでになくはげしく母親に叱られたのが原因で、一人二役(と
きには、三人役)の独り言を言うようになったしまった。それを見た母親が、「気味が悪い」とい
って、相談してきた。

 このタイプの子どものウソは、まったくつかみどころがないのが特徴。ウソというより、まったく
別人になって、別の人格をもったウソをつく。私の知っている女の子(小三、オーストラリア人)
がいる。「私は、イタリアの女王」と言うのだ。そこで私が「イタリアには、女王はいない」と説明
すると、ものごしまで女王ぽくなり、「私はやがて宮殿に迎えいれられる」というようなことを繰り
かえした。

 つぎに心の中に、別の部屋をつくり、その中に閉じこもってしまうようなウソもある。これを心
理学では、「隔離」という。記憶そのものまで、架空の記憶をつくってしまう。そしてそのウソを繰
りかえすうちに、何が本当で、何がウソなのか、本人さえもわからなくなってしまう。親に虐待さ
れながらも、「この体のキズは、ころんでけがをしてできたものだ」と言っていた、子ども(小学
男児)がいた。

 つぎに空想的虚言があるが、こうしたウソの特徴は、本人にその自覚がないということ。その
ためウソを指摘しても、あまり意味がない。あるいはそれを指摘すると、極度の混乱状態にな
ることが多い。

私が経験したケースに、中学一年生の女の子がいた。あることでその子どものウソを追及して
いたら、突然、その女の子は、金切り声をあげて、「そんなことを言ったら、死んでやる!」と叫
び始めた。

 で、こうした子どもの虚言癖に気づいたら、どうするか、である。

 ある母親は、メールでこう言ってきた。「こういう虚言癖は、できるだけ早くなおしたい。だから
子どもを、きびしく指導する」と。その子どもは、小学一年生の男の子だった。

 しかしこうした虚言癖は、小学一年生では、もう手のほどこしようがない。なおすとか、なおさ
ないというレベルの話ではない。反対になおそうと思えば思うほど、その子どもは、ますます虚
構の世界に入りこんでしまう。症状としては、さらに複雑になる。

 小学一年生といえば、すでに自意識が芽生え、少年期へ突入している。あなたの記憶がそ
のころから始まっていることからわかるように、子ども自身も、そのころ人格の「核」をつくり始
める。その核をいじるのは、たいへん危険なことでもある。へたをすれば、自我そのものをつ
ぶしてしまうことにも、なりかねない。

そのためこの時期できることは、せいぜい、今の状態をより悪くしない程度。あるいは、ウソを
つく環境を、できるだけ子どもから遠ざけることでしかない。仮に子どもがウソをついても、相手
にしないとか、あるいは無視する。やがて子ども自身が、自分で自分をコントロールするように
なる。年齢的には、小学三,四年生とみる。その時期を待つ。

 ところで私も、もともとウソつきである。風土的なもの、環境的なものもあるが、私はやはり母
の影響ではないかと思う。それはともかくも、私はある時期、そういう自分がつくづくいやになっ
たことがある。ウソをつくということは、自分を偽ることである。自分を偽るということは、時間を
ムダにすることである。だからあるときから、ウソをつかないと心に決めた。

 で、ウソはぐんと少なくなったが、しかし私の体質が変わったわけではない。今でも、私は自
分の体のどこかにその体質を感ずる。かろうじて私が私なのは、そういう体質を押さえこむ気
力が、まだ残っているからにほかならない。もしその気力が弱くなれば……。ゾーッ!

 そんなわけで小学一年生ともなれば、そういう体質を変えることはできない。相談してきた母
親には悪いが、虚言癖というのはそういうもの。その子ども自身がおとなになり、ウソで相手を
キズつけたり、キズつけられたりしながら、ウソがもつ原罪感に自分で気がつくしかない。また
親としては、そういうときのために、子どもの心の中に、そういう方向性をつくることでしかない。
それがどんなウソであるにせよ……。
(030605)

【補足】
 以前、こんな原稿(中日新聞掲載済み)を書いた。内容が重複するが、参考までに……。

+++++++++++++++++

子どもがウソをつくとき

●ウソにもいろいろ

 ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにして
つくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。

 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇
示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚
がある。母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」、子「ぼくじゃないよ」、母「手を見せなさ
い」、子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思
い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言とい
う。こんなことがあった。

●空想の世界に生きる子ども

 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長男児)
が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではあり
ませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」
と。ものすごい剣幕だった。

が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそうい
うウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困りま
す!」と。

 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中
で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。が、そのあ
とA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らかの理由で母親の注意をそ
らすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。こんなこともあった。

●「お前は自分の生徒を疑うのか!」

 ある日、一人の女の子(小四)が、私のところへきてこう言った。「集金のお金を、バスの中で
落とした」と。そこでカバンの中をもう一度調べさせると、集金の袋と一緒に入っていたはずの
明細書だけはカバンの中に残っていた。明細書だけ残して、お金だけを落とすということは、常
識では考えられなかった。そこでその落としたときの様子をたずねると、その女の子は無表情
のまま、やはりことこまかに話をつなげた。

「バスが急にとまったとき体が前に倒れて、それでそのときカバンがほとんど逆さまになり、お
金を落とした」と。しかし落としたときの様子を覚えているというのもおかしい。落としたなら落と
したで、そのとき拾えばよかった……?

 で、この話はそれで終わったが、その数日後、その女の子の妹(小二)からこんな話を聞い
た。何でもその女の子が、親に隠れて高価な人形を買ったというのだ。値段を聞くと、落とした
という金額とほぼ一致していた。が、この事件だけではなかった。そのほかにもおかしなことが
たびたび続いた。「宿題ができなかった」と言ったときも、「忘れ物をした」と言ったときも、その
つど、どこかつじつまが合わなかった。

そこで私は意を決して、その女の子の家に行き、父親にその女の子の問題を伝えることにし
た。が、私の話を半分も聞かないうちに父親は激怒して、こう叫んだ。「君は、自分の生徒を疑
うのか!」と。そのときはじめてその女の子が、奥の部屋に隠れて立っているのがわかった。
「まずい」と思ったが、目と目があったその瞬間、その女の子はニヤリと笑った。

ほかに私の印象に残っているケースでは、「私はイタリアの女王!」と言い張って、一歩も引き
さがらなかった、オーストラリア人の女の子(六歳)がいた。「イタリアには女王はいないよ」とい
くら話しても、その女の子は「私は女王!」と言いつづけていた。

●空中の楼閣に住まわすな

 イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせて
はならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世
界にハマるようであれば、注意せよという意味である。

このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこ
んだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世
界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式の
ウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。

●ウソは、静かに問いつめる

 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「も
うウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子
どもはますますウソがうまくなる。

 問題は空想的虚言だが、このタイプの子どもは、親の前や外の世界では、むしろ「できのい
い子」という印象を与えることが多い。ただ子どもらしいハツラツとした表情が消え、教える側か
ら見ると、心のどこかに膜がかかっているようになる。いわゆる「何を考えているかわからない
子ども」といった感じになる。

 こうした空想的虚言を子どもの中に感じたら、子どもの心を開放させることを第一に考える。
原因の第一は、強圧的な家庭環境にあると考えて、親子関係のあり方そのものを反省する。
とくにこのタイプの子どものばあい、強く叱れば叱るほど、虚構の世界に子どもをやってしまう
ことになるから注意する。

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【FGさんからの相談より】

 ある日学校の保健室の先生から呼び出し。小学二年生になった息子を迎えにいくと、私に抱
きついて泣きじゃくる。

 理由を聞こうとすると、保健室の先生が、「昨夜から何も食べていないとのこと。昨夜もおな
かが痛く、嘔吐もしたとのこと……」と。

 しかし息子は、元気だった。昨夜の夕食もしっかりと食べたし、嘔吐もなかった。

 こうしたウソは、息子が三歳くらいのときから始まった。このままでは、仲間からウソつきと呼
ばれるようになるのではないかと、心配。どうしたらいいでしょうか。(神奈川県K市在住、FGよ
り)

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 ほかにもいくつかの事例が書いてあったが、問いただせば、ウソと本人が自覚する程度のウ
ソということらしい。それまでは、虚構の世界に、自らハマってしまうよう。

 このタイプの子どもは、自分にとって都合の悪いことが起こると、それを自ら、脳の中に別の
世界をつくり、自分をその中に押しこんでしまう。そしてある程度、何回もそれを反復するうち、
現実と虚構の世界の区別がつかなくなってしまう。

いわば偽の記憶(フォールスメモリー)をつくることによって、現実から逃避、もしくは現実的な
問題を回避しようとする。これを心理学の世界では、防衛機制という。つまり現実の世界で、心
が不安定になるのを避けるために、その不安定さを避けるために、自分の心を防衛するという
わけである。

 原因は……、理由は……、引き金は……、ということを、今さら問題にしても意味はない。幼
児期の子どもには、こうしたウソをつく子どもは珍しくない。ざっとみても、年長児のうち、一〇
〜二〇人に一人には、この傾向がある。やや病的かなと思われるレベルまで進む子どもでも、
私の経験では、三〇〜四〇人に一人。日常的に空想の世界にハマってしまうようであれば、問
題だが、そんなわけで、ときどき……ということであれば、つぎのように対処する。

(1)その場では、言うべきことを言いながらも、決して、追いつめない。子どもを窮地に立たせ
れば立たせるほど、立ちなおりができなくなる。完ぺき主義の親ほど、注意する。

(2)小学三、四年生を境に、自己意識が急速に発達し、子ども自身が自分で自分をコントロー
ルするようになるので、その時期を目標に、つまりそういう自己意識で自らコントロールできる
ような布石だけはしておく。ウソをつけば、友だちに嫌われるとわかれば、またそういう経験を
実際にするうちに、自分で自分をコントロールするようになる。

 子ども(幼児、小学校の低学年児)のばあい、ウソを強く叱ると、「ウソをついたこと」を反省す
る前に、恐怖を覚えてしまい、つぎのとき、さらにウソの世界が拡大してしまうことになる。ウソ
は相手にしない。ウソは無視するという方法が、好ましい。しかし子どもが病的なウソをつくよう
になると、ほとんどの親はあわててしまい、「将来はどうなる?」「このままではうちの子は…
…?」と、深刻にに騒ぐ。

 しかし心配無用。人間は、どこまでも社会的な動物である。その社会でもまれることにより、
また、自己意識が発達することにより、自ら自分を修復する能力をもっている。大切なことは、
この自己修復能力を、大切にすること。この相談のFGさんのケースでも、ここ数年のうちに、
子どものウソは、急速に収まっていく。要は、今、あわてて症状をこじらせないこと。
(はやし浩司 虚言 ウソ 嘘 空想的虚言 虚言癖 子どもの嘘 子どものウソ)

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【HGさんへ(2)】

 いただきましたメールによれば、やや病的な虚言癖があると思われます。(叱る)→(ますま
すウソがうまくなる)→(ますます強く叱る)の悪循環の中で、ウソがウソと自覚できる範囲を超
えて、虚構の世界にまで、子どもを追いこんでしまっているような感じがします。

 どこか育児姿勢が、過干渉ぎみ、もしくは過関心ぎみになっていないかを、反省してみてくだ
さい。今の状態では、はげしく説教したり、道理をわからせようと無理をしても、それをすれば
するほど、逆効果です。

 こういうときは、つまりウソとわかった段階で、無視するのが一番です。子どもに白状させるま
で、子どもを追いこんでも意味がありません。また追いこんではいけません。(あるいはあなた
自身が、お子さんに、根強い不信感をもっているのかもしれません。あるいはあなた自身が、
子どもに心を開いていない可能性もあります。不安先行型、心配先行型の子育てをしていませ
んか。頭から、ウソと決めてかかっている、など。)

 あなたはおとななのですから、そして親なのですから、一歩、退いて子どもを包むようにして
みる必要があります。子どもに対して、対等意識が強すぎると思います。相手は、子どもです。
未熟で未完成で、その上、未経験です。

 (それとも、あなた自身は、ウソをつかない、聖人のような人でしょうか?)

 子どもは、よくウソをつきます。そういうとき大切なことは、それを叱ることではなく、相手にし
ないことです。もちろん重要なことで、ウソを言うなら、それについては叱らねばなりません。
が、ほとんどのばあい、その段階では、すでに、症状はかなりこじれているとみます。

 大切なことは、子どもの虚言癖をなおそうとしないこと。簡単には、なおりません。大切なこと
は、今の状態をより悪くしないことだけを考えて、数か月単位で、様子をみることです。

 まずいのは、無理になおそうとすることです。ウソをつくことを責めるのではなく、なぜウソを
つくのか。ウソをつかねばならないのか。またそこまでなぜ、あなたが子どもを追いつめるの
か。それを謙虚に反省すべきです。

 きびしいことを書きましたが、この問題は、一見、子どもの問題のように見えますが、実は、
あなたという親の問題です。もっとはっきり言えば、あなたの育児姿勢そのものに問題があり、
そしてそれが結果として、今の状態をつくりだしているということです。

 ですから、つぎのことを守ってください。

(1)一応、冷静に、子どもの話を聞き、おかしいと思うことは言う。しかし証拠をつきつけて叱っ
たり、追いつめてはいけません。
(2)言うべきことは言いながらも、あるところで、さっと引きさがります。こうした虚言癖のある子
どものばあい、とことん追いつめるのは、タブーです。
(3)あとは暖かい無視を大切に。子どものウソは、相手にしないこと。叱っても、恐らく今の段
階では、(叱られじょうず)になっているので、意味はありません。
(4)あとは半年単位で様子をみますが、子どもの心を開放させることも忘れないように。母子
の間の信頼関係が、かなり不安定な状態にあるとみます。
(5)もう少し年齢が大きくなると、自己意識が育ってきます。その自己意識を、大切に伸ばしま
す。自分で考え、自分で行動する力を養います。

 以上ですが、あくまでもここに書いたことは参考意見です。学校の先生とも緊密に連絡をと
り、ていねいに対処してください。

 今が最悪の状態ではなく、この状態をさらにこじらせると、もっとやっかいな状態になります。
そのためにも、今の状態を、これ以上悪くしないことだけを考えて、対処します。どうかくれぐれ
も、ご注意ください。
(040607)

【追伸】

 話せば長くなりますが、あなた(母親)と、子どもの間の関係についても、冷静に反省してみて
ください。

 あなたはあなたの子どもを、生まれたときから、全幅に信頼していたかという問題です。もし
そうなら、それでよし。そうでなければ、あなた自身が、もっと子どもを信頼して、心を開かなけ
ればなりません。

 ある母親は、自分の子どもが母親のサイフから、お金を盗んで使っていたことについて、一
応は叱りながらも、内心では、「だれでも一度はするものよ」と、笑ってすませたといいます。

 そういう(笑ってすます)ような度量は、結局は、親子の信頼関係から生まれます。あなたも、
そういう度量がもてるように、努力してみてください。

 あんたのウソなんか、私には通用しませんよ。ハハハ、バカめ!、と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(189)

++++++++++++++++++

あなたは子どもに「勉強しなさい」と
言っていませんか?

++++++++++++++++++

●子どもの挫折(ざせつ)

 子どものときから、「勉強しなさい」「いい大学へ入りなさい」と教えられてきた子どもが、その
いい大学へ入れなかったら、その子どもは、どうなるのか?

 こんな例がある。

 私の知人(東京都在住)から聞いた話だが、こんな親がいたそうだ。

 ある母親の子ども(小3男児)が、勉強をするのをいやがった。そこでその母親は、近くの公
園に、自分の子どもを連れていき、そのあたりに寝泊りするホームレスの人を見せながら、こう
言ったという。

 「あんたも、しっかり勉強しなければ、ああいう人になるのよ」と。

 しかしこういう言い方は、まさに両刃の剣。その母親は、子どもの自覚をうながすために、そ
う言ったのだろう。しかしもし、その子どもが、その勉強で挫折するようなことがあったら、その
子どもは、どうなるのか?

 もう少しわかりやすい例で説明しよう。

 進学塾のパンフレットには、こうある。

 「努力すれば、報われる。栄光の道は、君の手の中にある」と。

 結構な歌い文句だが、それで目的の大学に合格できればよし。しかしそうでなかったら、(大
半の子どもは、そうなるが……)、その子どもは、どうなるのか?

 子どもの前に夢や希望をぶらさげ、その一方で、子どもに恐怖心をもたせ、子どもを自分が
もつ価値観に向けて誘導する。よく使われる手法だが、この手法は、まさに邪道。一時的な効
果はあっても、まさに一時的。それだけではない。深刻な後遺症が、そのあと残る。

 仮にそれでうまくいったとしても、その子どもは、おかしなエリート意識をもつだけ。人間の価
値を、学歴だけで判断するようになる。もっとも、それで損をするのは、本人自身。会社を定年
退職したあとも、おかしなエリート意識にしがみつき、学歴をぶらさげて歩いている人は、いくら
でもいる。つまり、その分だけ、自分の姿を見失う。

 問題は、それで、うまくいかなかったばあいである。

 挫折感などという甘いものではない。自分を自ら否定することによって、自らに、「ダメ人間」
のレッテルを張ってしまう。自信喪失から、現実検証能力、つまり、常識力をなくす子どもも、少
なくない。もちろんその時点で、親子関係は、崩壊する。

 その点、進学塾の教師と生徒の関係は、時限的なもの。合否の結果が出た段階で、自然に
消滅する。だからここでいう「崩壊」という状態にはならない。まさに金の切れ目が、縁の切れ
目。不合格の子どもは、そのまま闇へと葬り去る一方、合格した生徒や生徒数は、翌年の生
徒集めの道具に使う。

 最初から、そういうドライな人間関係で成りたっている。

 では、どうするか。

 子どもを勉強で追いたてるのは、必要最小限に。もともと親の欲望には、際限がない。少しで
きるようになれば、「もっと」「もっと」と子どもを追いたてる。「やればもっと、できるはず」と。

 あなたがごくふつうの人であると同じように(失礼!)、あなたの子どもも、ごくふつうの子ども
(失礼!)。ふつうであることが悪いのではない。そのふつうの価値を、まず認める。認めてあ
げる。すべては、ここからスタートする。

 子どもにその力があれば、それを伸ばす。それは当然のこと。親の義務といってもよい。そ
のためには、子どもの力を知る。何が子どもを苦しめるかといって、親の過剰期待、無理、強
制ほど、子どもを苦しめるものはない。

 ……という話は別にして、子どもの勉強をみるときは、いつも失敗したときを考えながら、み
る。たとえば入試にしても、ほとんどの親は、合格することだけを考えて、子どもを追いたてる。

が、それ以上に大切なことは、不合格になったとき、どうやって子どもを支えるかということ。そ
のための心の準備を、親もしておくということ。

 悲しいかな、日本人というのは、弱者や敗者に対する心のケアには、たいへん無頓着な民族
である。まさに「切り捨て御免」の国である。これについては、また別のところで考えるとして、と
もかくも、親子の間では、そうであってはいけないということ。

 日本では、「がんばれ!」「がんばれ!」と、子どもを追いたてる。しかし英語には、そういう言
葉そのものが、ない。同じような状況のとき、英語では、「Take it easy!(気を楽にしなさ
い!)」と言う。

 子どもを指導するときの、一つの参考にはなる。
(040608)


●切り捨て御免

 開拓時代からの伝統かもしれない。アメリカでは、教会を中心とした、互助精神が、きわめて
よく発達している。「きわめて」というのは、あくまでも日本と比較しての話だが、二男(アメリカ
在住)が少し前、こんな話をしてくれた。

 私が「もし、お前が失業したら、お前たちの生活はどうなるのか?」と聞いたときのこと。二男
は、こう言った。「教会のみんなが助けてくれる。そのために、ぼくたちは今、そういうふうに困
っている人を、みんなで助けている」と。

 具体的には、生活のめんどうまでみるのだそうだ。

 弱者にどれだけやさしい社会かで、文明の高さは決まる。モノや金ではない。立派なビルや
道路ではない。心の豊かさで、決まる。

 が、かたやこの日本では、おかしな封建思想が、いまだに大手を振って、大道を歩いてい
る。その一つが、「切り捨て御免」。

 映画『ラストサムライ』に中で、こんなシーンがあった。

 武士たちが戦場から帰ってきたとき、村人たちは、その武士たちを、立ったまま、頭をさげて
迎えていた。しかしあれはウソ。

 明治のはじめでさえ、田舎のほうでは、農民や町民は、士族(旧武士階級)の人たちとは、頭
をあげて、視線を合わせることなど、絶対にできなかったという。

私はその話を、当時生きていた人たちから、直接聞いたことがある。「刀の鞘(さや)が、遠くか
らカチャカチャと聞こえてきただけで、みんな、道端により、そこで地面に頭をつけて通りすぎる
のを待ちました」と。

 武士にたてついたら、最後。その場で、クビを切り落とされても、文句は言えない。それを昔
は、「切り捨て御免」といった。もっとも、江戸時代といっても、300年もつづいた。江戸時代の
終わりごろには、さすがにそういうことはなかったというが、しかし武士階級がもつ傲慢(ごうま
ん)さが、消えたというわけではない。

 こう書くからといって、私は何も、武士道を否定しているのではない。しかし安易な美化論に
は、はげしい嫌悪感を覚える。封建時代がどういう時代であったかという反省もないまま、武士
道だけを一方的に美化するのは、危険なことでもある。

 たとえばここでいう「切り捨て御免」にしても、そうした精神は、日本の社会の随所に残ってい
る。

 私が子どものころには、まだ職業による身分差別が、色濃く残っていた。今でも広く差別問題
が議論されているが、そうした「差別」は、ごく当たり前のことだった。職業だけではない。

 外国から来た人、身体に障害のある人などなど。そういう人たちは、日本の社会から排斥さ
れていた。が、それだけではない。事業に失敗した人、貧しい人、そういう人たちですら、日常
的に、差別されていた。

 こうした差別意識、そしてそれにつづく、弱者、敗者への差別意識は、まさに封建時代の負
の遺産といってもよい。そしてそれが今でも、日本字独特の(冷たさ)となって、残っている。

 もちろん子育てとて、例外ではない。

 少し話はそれるが、以前、その(冷たさ)をテーマに、こんな原稿(中日新聞投稿済み)を書い
たことがある。

+++++++++++++++++

子育てには、本当にお金がかかりますね。
どうしてこんなにかかるのでしょうか?
しかたないと思う前に、ちょっとだけ
みんなで考えてみましょう。

+++++++++++++++++

●大学生の親、貧乏ざかり

 少子化? 当然だ! 

都会へ今、大学生を一人出すと、毎月の仕送りだけで、月平均11万7000円(九九年東京地
区私大教職員組合調べ)。もちろん学費は別。が、それだけではすまない。

アパートを借りるだけでも、敷金だの礼金だの、あるいは保証金だので、初回に40〜50万円
はかかる。それに冷蔵庫、洗濯機などなど。パソコンは必需品だし、インターネットも常識。…
…となると、携帯電話のほかに電話も必要。入学式のスーツ一式は、これまた常識。世間は
子どもをもつ親から、一体、いくらふんだくったら気がすむのだ! 

 そんなわけで昔は、「子ども育ち盛り、親、貧乏盛り」と言ったが、今は、「子ども大学生、親、
貧乏盛り」と言う。大学生を二人かかえたら、たいていの家計はパンクする。

 一方、アメリカでもオーストラリアでも、親のスネをかじって大学へ通う子どもなど、さがさなけ
ればならないほど、少ない。たいていは奨学金を得て、大学へ通う。企業も税法上の控除制度
があり、「どうせ税金に取られるなら」と、奨学金をどんどん提供する。

しかも、だ。日本の対GNP比における、国の教育費は、世界と比較してもダントツに少ない。
欧米各国が、7〜9%(スウェーデン9・0、カナダ8・2、アメリカ6・8%)。日本はこの十年間、
毎年4・5%前後で推移している。大学進学率が高いにもかかわらず、対GNP比で少ないとい
うことは、それだけ親の負担が大きいということ。

日本政府は、あのN銀行という一銀行の救済のためだけに、4兆円近い大金を使った。それだ
けのお金があれば、全国200万人の大学生に、一人当たり200万円ずつの奨学金を渡せ
る!

 が、日本人はこういう現実を見せつけられても、だれも文句を言わない。教育というのはそう
いうものだと、思い込まされている。いや、その前に日本人の「お上」への隷属意識は、世界に
名だたるもの。戦国時代の昔から、そういう意識を徹底的に叩(たた)き込まれている。

いまだに封建時代の圧制暴君たちが、美化され、大河ドラマとして放映されている! 日本人
のこの後進性は、一体どこからくるのか。親は親で、教育といいながら、その教育を、あくまで
も個人的利益の追求の場と位置づけている。

 世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と考え
ている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、だれも同情しない。こういう冷淡さ
が積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。

 日本の教育制度は、欧米に比べて、30年はおくれている。その意識となると、50年はおくれ
ている。かつてジョン・レノンが来日したとき、彼はこう言った。「こんなところで、子どもを育てた
くない!」と。

「こんなところ」というのは、この日本のことをいう。彼には彼なりの思いがいろいろあって、そう
言ったのだろう。が、それからほぼ三十年。この状態はいまだに変わっていない。もしジョン・レ
ノンが生きていたら、きっとこう叫ぶに違いない。「こんなところで、孫を育てたくない」と。

 私も三人の子どもをもっているが、そのまた子ども、つまりこれから生まれてくるであろう孫の
ことを思うと、気が重くなる。日本の少子化は、あくまでもその結果でしかない。

++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私が一番言いたかったことは、つぎの部分。

……世間は世間で、「あなたの子どもが得をするのだから、その負担はあなたがすべきだ」と
考えている。だから隣人が子どもの学費で四苦八苦していても、だれも同情しない。こういう冷
淡さが積もりに積もって、その負担は結局は、子どもをもつ親のところに集中する。

 日本人は、元来、やさしい民族かもしれない。そこまでは否定しない。しかし社会のしくみとな
ると、そうではない。冷たい。とくに弱者、敗者には、冷たい。私はその(冷たさ)こそが、まさに
封建時代の負の遺産だと思う。

 そのことは、たとえば隣のK国をみればわかる。K国では、せっかく世界が食糧援助をして
も、まず幹部や軍人たちがそれを横取りしてしまうという。日本の封建時代の武士階級も、似
たようなものだった。つまり今の今でも、日本は、その(冷たさ)を、引きずっている。その一つ
が、子育ての世界にも残っているということ。

 勝てば官軍。負ければ賊軍。そういう思想が、回りまわって、日本独特の冷たい社会をつくっ
た。そしてそれが、子育ての場にも、残っている……というのは、少し考えすぎだろうか。

【学費は親の負担?】

 明治のはじめ、今にみる学校制度ができた。
 そのとき、上級学校(中等学校)へ進学できるのは、士族、華族、豪商の子弟など、ごくかぎ
られた子どもたちだけであった。ふつうの子どもたちは、義務教育の尋常(じんじょう)小学校を
出るだけで、精一杯。

 その先の上級学校(高等学校、帝国大学)となると、学費も高額になった。ふつうの家庭の子
どもでは、教科書一冊買えなかったという記録も、残っている。

 つまり時の明治政府は、旧幕府時代の身分制度を、学歴制度に置きかえて、士族、華族の
特権を守った。

 もちろん、だれの目にも教育は必要だった。それに日本が、他のアジア諸国にくらべて、より
はやく先進国の仲間入りができたのは、日本の教育制度のおかげだった。それはだれも否定
しない。

 しかしこうした流れの中で、つまり学歴制度が、もともと差別を目的としたものであったため
に、「学費は親が負担すべきもの」という日本的な常識が、できあがっしまった。わかりやすく言
えば、当時の日本、つまり明治時代においては、学費の出せる人と、そうでない人で、人間を
選別していたということになる。

 アメリカの学生ともなると、親のスネをかじって大学へ通っている子どもなど、さがさなければ
見つからないほど、少ない。ほとんどは奨学金を得て通っているか、あるいは自分で借金をし
て通っている。

 さらに今では、(30年前もそうだったが……)、入学後の転学は自由。入学後も、転校は自
由。アメリカの学生たちは、「お金を出して、よりよい知識を買う」と意識を、はっきりともってい
る。

 こうしたもろもろのちがいが、集合されて、今に見る、日本とアメリカの大きなちがいを作っ
た。

 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(190)

【近ごろ・あれこれ】

●韓国からの、アメリカ軍撤退

++++++++++++++++++++

韓国からアメリカ軍が、撤退することに
なりました。

1970年当時、ソウルから、板門店まで行く
途中は、アメリカの兵隊しかいませんでした。

しかし今、大きく事情が変わりました。

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 6月7日。大きな衝撃が、韓国を走った。アメリカは、アメリカ軍を、1万2000人程度、韓国
から撤退すると発表した。

数週間前、アメリカが、アメリカ兵を、約3000人、韓国からイラクへ移動させると発表しただけ
で、その日の韓国の株価は大暴落。外資が韓国に不安を感じて、いちはやく、逃げ出してしま
った。その額、3000億円とも5000億円とも言われている(朝鮮日報)。が、今回は、1万20
00人!

 現在アメリカ軍は、3万7000人ほど駐留しているから、3割以上が、撤退することになる。3
8度線のみならず、板門店からアメリカ兵が消えて、もう久しい。この1万2000人は、戦闘能
力のある精鋭部隊とみてよい。残りの2万5000人も、順次、撤退ということになるのだろう。

その背景には何があったのか。何があるのか。

 現在のノ・ムヒョン大統領は、反米(+反日)をかかげ、その一方で、親北を唱えて当選した
大統領である。選挙演説中には、聴衆の前で、アメリカ国旗を破ってみせるようなことまでして
みせた。

 そしてそのノ大統領は、当選すると同時にアメリカへ政府特使を送り、韓国からのアメリカ兵
の撤退を願い出た。が、ここで異変が起きた。

 韓国はここで、アメリカが、韓国に、それを思いとどまるよう説得するものと考えていたらし
い。「まあ、そんなこと言わないで、アメリカ兵を置かせてくださいよ」と。

 ところがアメリカは、その特使に、「はい、わかりました。そうします」「私たちは、望まれない
地域には、兵は置きません」と、あっさりと、そう答えた。

 しかし今の韓国から、アメリカが撤退したら、韓国は、どうなる? それこそまさに、K国の思
うツボ。ノ大統領が就任してからというもの、韓国は、こんな私にさえ、「?」「?」「?」のつづく
国際政治をつづけている。その結果が、「今」である。

 韓国と日本の間を行ったり来たりしている、友人のK君(57歳)も、「韓国が、何を考えている
か、ぼくにも、さっぱりわからない」と言っている。「アメリカが築きあげた自由貿易体制というレ
ールの上で、自国の経済を走らせているのに、反米とは!」と。

 その韓国。再び、経済苦にあえいでいる。小売業の売り上げは、15か月連続して減少。個
人負債額も、50兆円程度になってしまった(朝鮮日報)。日本をライバル視するのは当然とし
ても、日本と韓国とでは、経済基盤というか、規模がまるでちがう。アメリカあっての韓国。日本
あっての韓国である。

 さあて、韓国、どうする? 韓国の国防部は、こうしたアメリカの決定に対して、「撤退には、も
う少し時間をあけてほしい」と懇願したという。「出て行け」と言ったり、「出て行くな」と言ったり
……。いったい、韓国は、どうなってしまったのか。私にもさっぱり、わからない。

【ノ大統領の密約】

 ノ大統領と、K国の金XXの間には、驚くべき密約ができているという説がある。「国家機密」
(朝鮮日報)とかで、その内容は、極秘中の極秘。しかしそれは、まさに、「驚くべき内容」(同)
ということらしい。

 その密約については、いろいろ、憶測が飛びかっている。ノ大統領がK国訪問するとか、ノ大
統領と金XXが同伴でアメリカ合衆国訪問するとか、など(同)。

 しかし私は、もっと、「驚くべき内容」と思う。

 たとえば核開発を容認したまま、南北が共和制を敷いたのち、統一。そしてともに中国と軍
事同盟を結んだあと、中国の経済圏に入る、とか。

 一見、突飛もない考えに見えるかもしれないが、考えられなくはない。こうした発言は、すでに
ノ政権の周辺から、そのつど、外部に漏れてきている。

 ゆいいつの望みは、こうした韓国の流れに対して、韓国の保守層の巻きかえしが始まったと
いうこと。先週、韓国各地で、大都市での首長選挙が行われた。その結果、23地区の首長選
挙のうち、20地区で、野党のハンナラ党が圧勝した※。

日本で言えば、急進的な革新政党が政権をとり、その革新政党に対して、保守的な党が勢力
を挽回したようなものである。

 韓国の人たちも、少しは、現実を見始めたということか。

【イラク派兵、中止の動き】

 こうした中、ノ政権率いるウリ党幹部の中から、韓国軍をイラクへ派兵することについて、中
止の動きが出ている(6月8日現在)。

 「イラクへ派兵する予定だったが、中止する」と。

 朝鮮日報は、つぎのように伝える。

 「ヨルリン・ウリ党(開かれたわが党の意/ウリ党)議員の57.6%が、『国会が議決したイラ
ク派兵案を撤回するか、再検討しなければならない』と考えているという調査結果が出た。

実際に、57人の与党議員が派兵再検討のための決議案に署名しており、一部は市民団体と
組んで、派兵を原点から再検討する集いの結成を進めている」(6・8)と。

 このマガジンがみなさんの目にとまるときには、その結果がすでに出ていると思う。しかしここ
で中止すれば、米韓関係は、完全に崩壊する。が、それだけではすまない。

 韓国は、国際社会から、完全に孤立する。米韓関係の崩壊は、そのまま日韓関係の崩壊を
も意味する。経済面、交流面への影響には、はかり知れないものがある。そうでなくても最悪
の不況下。そのまま韓国の経済は、奈落の底へと落ちていく。

 こうした現実離れした政策、つまり国際公約を公然と否定するような動きは、それこそまさに
K国の思うツボ。

 私には、ノ大統領の考えていることが、ますますわからなくなってしまった。

(内部情報によれば、ノ大統領は、イラク派兵中止をちらつかせ、アメリカ軍の撤退を思いとど
まらせようとしているという。

 しかしこの手法は、まさにK国がよく使う手法。朝鮮半島では通用する手法かもしれないが、
国際社会、なかんずく、アメリカには通用しない。アメリカは、それを「脅し」ととる。

 経済オンチ、国際感覚オンチが指摘されるノ大統領だが、ここまでオンチだったとは……!
 今の状況で、アメリカを脅せば、アメリカがどう反応するか。ノ大統領は、そんなこともわから
ないのだろうか。……というのが、私の率直な感想。)
 
【注※、以下、朝鮮日報の記事より転載】

今月(6月)5日に行われた地方自治団体長と地方議員の再・補欠選挙では、、ヨルリン・ウリ
党(開かれたわが党の意/ウリ党)が完敗した。

 4つの広域自治団体長選挙に負けたほか、基礎自治団体長選挙では19選挙区のうち、忠
清(チュンチョン)道の3選挙区でのみ勝利を収めた。

これは、今年4月15日の総選挙での圧勝から50日余経った今、国民が大統領と与党につけ
た成績といえる。

【韓国の経済苦境】

 現在の韓国の経済危機の最大の原因は、何といっても、個人の負債額が大きすぎるというこ
と。

 全体の家計負債を世帯数で割った1世帯あたりの家計負債は、2945万ウォンもある。日本
円になおすと、約300万円! 韓国全体でみると、約50兆円にもなる(04年)。

 この負債額が、消費マインドを冷やし、ついで、景気回復の大きな足かせになっている。

 で、今、資金のある人は、その資金をドルや円にかえて、どんどんと海外へ逃避させている。
先月、それに対して、韓国政府は、アミをかけ、外貨の持ちだしに制限をもうけた。

 こういう状況の中で、アメリカ軍が撤退したら、韓国は、どうなるか。韓国が、赤化するのはか
まわないが、それは同時に、自分たちの生活レベルも、K国並に落とすことを意味する。

 どうしてノ大統領よ、そんなことがわからないのか! 反米、反日もわかる。しかしアメリカあ
っての韓国。日本あっての韓国。いつまでも60年前、50年前の怨念をひきずっていて、それ
でよいのか?

+++++++++++++++++++++

●元人質が、国を提訴(?)

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助けてあげたのに、逆に訴えられる?
そんな事件が起きました。

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イラクで拘束された、WB氏が、国を提訴した。 それについて、TBSは、つぎのように伝える。
 「イラクで武装勢力に身柄を拘束され、 解放されたNGOメンバー、WBさんが、国に対して5
00万円の損害賠償を求める訴えを 起こしました。

 WBさんは、イラクで4日間にわたって武装勢力に身柄を拘束されましたが、武装勢力側は、
その理由として、日本の自衛隊派遣をあげたということです。
 
 このため、WBさんは、『拘束によって、肉体的・精神的な 苦痛を受けた』として、自衛隊を派
遣した国に対して、500万円の損害賠償を求めています。
 
 また、訴えの中でWBさんは、外務省から請求された帰国の際の航空運賃は、支払い義務
がないことの確認と、自衛隊のイラク派遣中止についても 求めています」(6・8)と。

 このニュースをワイフに伝えると、ワイフでさえ、「へ〜?」を何回も連発した。最後に、「どうな
っているの?」とも。拘束したイラク人を訴えるのではなく、助けた国を訴えた!?(ギョッ!)

 こういうケースで、「国を訴える」ということは、日本人の私たち一人ひとりを訴えることに等し
い。しかも理由が、メチャメチャ。犯罪者があげた理由をもとに、その原因をつくったのは、日
本だ。だから日本政府は、その責任を、取れ、と。

 私はこのニュースを読んだとき、理屈というのは、どうにでもこねられるものだと感じた。WB
氏は、それなりに頭のよい人なのだろう。あるいはその背景には、私たちがおよび知ることが
できない理由が、あるのかもしれない。それにしても……?

WB氏はそのあと、テレビに出てあれこれ意見を述べていたが、どこか心が閉じているように
感じた。「助かって、よかったア!」と、どうして、もっと素直に喜ばないのか。喜べないのか。

私なら、「こわかったですねえ」「助かってよかったア!」「もうイラクなんて、こりごり」と、笑って
そう言うかもしれない。この提訴には、「?」マークを、10個くらい、私は、並べたい。

 だいだいにおいて、WB氏は、渡航自粛勧告が、10数回にも渡って出ている国に、個人の
資格ででかけていったのではなかったのか。

 そこは、まさに戦争状態の国。そこで武装勢力に拘束され、人質となった。

 で、またまた日本政府は、とんでもない迷惑。人質を解放させるために、水面下では、想像を
絶する外交的交渉がなされたにちがいない。お金も使った。

 その結果、助かった。助けた日本政府は、WB氏らを、日本へ、連れて帰った。

 それについて、(1)飛行機運賃は払わない。(2)人質になったのは、日本政府が自衛隊を派
遣したからだ。その責任を取れ、と。

 世の中には、いろいろな考え方をする人がいる。それはわかるが、しかし、ここまでいろいろ
な考え方をする人がいるとは、私も、思ってもみなかった。ホント!
(040608)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(191)

【共同体志向YS個人化】
 
●依存性と孤独

 子どもは、その年齢になると、家族から離れて、独立しようとする。これを心理学では、「個人
化」という。

 その個人化には、孤独感がともなう。いいかえると、孤独感といかにして戦うかが、個人化の
成否を決める。

 ……少し、むずかしい話で、ごめん。

 要するに、ひとり立ちすればするほど、孤独感は強くなるということ。

 一方、家族や仲間、親類の中に身を置けば、それなりに孤独感はいやされる。そこで子ども
は、(おとなもそうだが……)、家族や仲間、親類とのつながりを深めようとする。これを、心理
学では、「共同体志向」と呼ぶ。

 わかりやすく言えば、依存性のこと。

 個人化と共同体志向は、ちょうど、相対立する関係にある。同じように、孤独感と依存性は、
ちょうど、相対立する関係にある。

個人化を進めれば進めるほど、人は孤独感を覚える。その孤独感をいやすために、人は、家
族や仲間、親類とのつながりを求めるようになる。

 大切なことは、そのバランス。極端な個人化は、その子どもをして、どこか偏屈な人間にす
る。

 一方、これまた極端な共同体志向は、ベタベタな人間関係をつくりやすい。その子どもをし
て、自立できない、ひ弱な人間にする。

 もともと日本人は、欧米人とくらべたばあい、共同体志向の強い民族と言われている。親子
でも、ベタベタの人間関係をつくりながら、その温もりの中に、どっかりと身を置き、孤独感をい
やそうとする。

 またまた、むずかしい話で、ごめん。

 結論を先に言えば、子どもを自立させるということは、いかにして孤独に強い子どもにするか
ということにもなる。

 今日は朝から一日、ずっと、この問題について、考えていた。つづきは、電子マガジンのほう
で……。7月12日号のマガジン(無料版)に掲載するつもり。

では、おやすみなさい。

++++++++++++++++++

●共同体志向

 共同体(仲間)の中で、「個」を押し殺して生きていくことは、それ自体は、たいへん居心地が
よいものである。ベタベタの人間関係。その中で、ベタベタに甘えながら生きていく……。

 こうした人間関係は、今でも、田舎のほうへ行くと、よく見られる。

 濃密な近所づきあい。濃密な親戚づきあい。濃密な親子関係など。

 しかしこうした共同体志向が強ければ強いほど、その人は、「個」の確立ができなくなる。わ
かりやすく言えば、「私は私」という生き方ができなくなる。だいたいにおいて、共同体が、それ
を許さない。『出るクギはたたかれる』という諺(ことわざ)は、そういうところから生まれた。

 こうした関係は、よくカルト教団内部で、観察される。

 世間の評判はともかくも、カルト教団内部では、信者どうしは、兄弟以上の兄弟、親子以上の
親子関係になる。親密になる。その居心地のよさこそが、カルト教団の魅力ということにもな
る。

 しかし信者自身は、自分が「個」を犠牲にしているとは、思わない。教祖、もしくは指導者の人
間ロボットになりながらも、「自分は正しいことをしている」と思いこまされる。「思いこまされる」
というよりは、自ら、そう思いこむ。

 濃密な近所づきあい。濃密な親戚づきあい。濃密な親子関係。これを繰りかえす人にも、同
じような傾向が見られる。個性があるようで、どこにもない。みんなと同じような生き方をしなが
ら、そう生きることが正しい道だと思いこんでいる。

 が、それだけではない。

 共同体(仲間)とちがった生き方をする人を、「変わり者」とか言って、排斥する。相手の立場
で、相手の問題を考えようとさえしない。共同体とちがった生き方そのものを、認めない。

 少し前、カナダに住んでいる女性の話を書いた。その女性はカナダ人と結婚して、現在は、
バンクーバー市に住んでいる。

 そういう遠方に住んでいることもあって、母親が倒れたとき、日本へ、すぐに来ることができな
かった。が、その女性に対して、その女性の伯父にあたる人が、「この親不孝者め!」と。カナ
ダから帰ってきた夜、実家に泊まったことについても、「娘なら、徹夜で看病すべきだ」と。

 つまり自分の価値観を一方的に、押しつけてくる。

 こうした傲慢さは、共同体志向の強い人の特徴でもある。背後に大きな共同体をかかえてい
るから、その分だけ、強い。ものの考え方、言い方が、どこか確信的になる。

 一方、共同体志向が弱く、「個」を中心とした生き方をしている人は、どうしても相対的に弱い
立場に立たされる。「生きていくのは、私」「私は、ひとりで生きている」という状態に立たされ
る。

 日本人は、元来、この共同体志向がきわめて強い民族である。なぜそうなったかということに
ついては、いろいろ議論もあるだろう。しかし今、結果として、そうである。

 私が子どものころには、さらに強かった。

 私の父母にしても、親戚にしても、たがいに濃密な、(つまりベタベタな)人間関係をつくり、そ
れが無数のクモの糸のように、複雑にからんでいた。何かにつけ、叔父、叔母がそこにいて、
それにさらに無数の縁者が、からんでいた。

 近所づきあいが、さらにその上に、からんでいた。

 こういう世界で、「個」を追求することなど、夢のまた夢。共同体志向の強い人たちは、そこに
一種、独特の世界を構成する。そしてその世界が、地球の中心であるかのような錯覚をする。

 こうした共同体志向の強い人のものの考え方をまとめると、こうなる。

(1)自己中心性(自分が正しいと思いこむ)
(2)独尊性(自分の住む世界が、世界の中心と錯覚する)
(3)排他性(共同体にそぐわない人間を、排斥する)
(4)相互監視性(相互に、こまかく監視し、干渉する。世間体という言葉をよく使う)
(5)相互隷属性(封建的な上下意識が強く、上下関係を作りやすい)
(6)異常な依存性(他人や、共同体内部の人間に依存性をもつ)
(7)仮面性(共同体を個に優先させるため、仮面をかぶりやすい)
(8)無責任性(他人に甘く、また自分にも甘い。ナーナーの人間関係をつくる)
(9)冠婚葬祭中心型社会(ことさら冠婚葬祭を重要視する)
(10)カルト性(自分の考え方は絶対正しいと思いこむ)

 共同体志向が強ければ強いほど、共同体の利益、関係を重要視する。そのため、自ら「個」
を押し殺す。あるいは自分をだましたり、ごまかしたりする。いわゆる仮面をかぶることが多く
なり、共同体の中では、いい人ぶる。善人ぶる。波風をたてるよりは、円満な人間関係を大切
にする。

 こうした社会は、それを受け入れる人には、たいへん住み心地のよい世界である。

 それなりにまじめ(?)に生活をし、それなりに良好な関係を保っていれば、自分もよい人と見
られる。それなりに尊敬もされる。が、最大のメリットは、その中で、生きることにまつわる、「孤
独」をいやすことができる。

●個人化

 こうした共同体志向に対して、子どもは成長とともに、共同体から離れ、個人として生きたい
という願望が生まれる。これを心理学の世界でも、「個人化」という。

 家族という束縛から、自らを解放し、その影響力のおよばない、遠くへ行きたいという願望
が、それである。
 
 私も、日本の大学を卒業して、オーストラリアへ渡るとき、留学先をどこの大学にしたいかを
たずねられたとき、こう答えた。「日本から一番、遠いところにある大学を望みます」と。

 こうした感覚は私だけのものかと思っていたら、最近、私の息子が同じことを口にしたのに
は、驚いた。「パパ、ぼくは日本から一番遠いところにある大学で、英語の勉強したい」と。

 個人化というときは、つぎの項目を、意味する。

(1)家族からの解放
(2)地域社会からの解放
(3)伝統、文化からの解放

 個人化するときは、当然のことながら、そのつど、自分の中の共同体志向性と戦わねばなら
ない。しかしそれは、同時に、孤独との戦いを意味する。

●孤独との戦い

 孤独とは、究極の地獄と考えてよい。

 イエス・キリスト自身も、その孤独に苦しんだ。マザーテレサは、つぎのように書いている。こ
の中でいう「空腹(ハンガー)」とは、孤独のことである。

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread 
and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this 
loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and 
it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to 
be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles 
Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger. 

 キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物として
のパンを求める空腹を意味したのではなかった。彼は、愛されることの空腹を意味した。キリ
スト自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも愛されず、だれに
も求められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつ
け、それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、
もっともきびしい、つまりは、真の空腹ということになる。

 あのアリストテレスでさえ、「世界中のあらゆるものを手に入れたとしても、だれも、孤独
(friendless condition)は選ばないだろう(No one would choose a friendless existence on 
condition of having all the other things in the world. )」と述べている。

 孤独を、安易に考えてはいけない。「生きるということは、まさに孤独の闘い」と言っても、言
い過ぎではない。と、同時に、それは個人化が、いかにけわしい道であるかを意味する。

 もっとも若いときは、その孤独の意味すらわからない。健康で、死への恐怖もない。毎日がス
リルと興奮の連続。そんな感じですぎていく。孤独を感ずることがあるとするなら、何かのことで
つまずき、ふと立ち止まったようなときだ。

 「私は私」という生きザマを貫くことは、同時に、その孤独を背負うことを意味する。その孤独
に耐えた人だけが、「私は私」という生きザマを貫くことができる。そうでない人は、「私は私」と
いう生きザマを放棄し、共同体志向の中で、身をいやすことになる。

 ……というふうに、簡単には図式化できない部分もあるが、しかしこの言い方は、おおむねま
ちがっていないと思う。問題は、どうすれば、「私は私」という生きザマを貫きながら、それにま
つわる孤独と戦うことができるかということになる。

 そのヒントとして、マザーテレサは、「愛」があると、書いている。

●ムラ意識としての、共同体志向

 敵をつくらない。あたりさわりのない人生。与えられた範囲で、静かに、仮面をかぶりながら
生きていく。親類の中や、近隣社会で、冠婚葬祭があれば、ほどよくそれとつきあい、うしろ指
をさされたり、嫌われることだけは、避ける。

 こうした生きザマが、いかに居心地のよいものであるかは、それを知っている人は知ってい
る。ほどほどの幸福感。ほどほどの満足感。そして充足感。何よりも、すばらしいのは、その中
にどっぷりとつかっていると、孤独感そのものが、いやされる。

 多くの日本人は、そして日本の若者たちは、個人化をめざし、その中でもがき苦しむうちに、
やがて共同体の中に組み込まれていく。自ら、それを求めていくこともある。

 ある男性は、若いころは、きわめて個人化志向の強い人だった。そういう男性でも、ほぼ10
年単位で会ううちに、彼が、どんどんと変化していくのを感じた。

 丸くなったというか、穏やかになったというか……? それをこの日本では、円熟という。しか
しその分だけ、若いころのあの燃えるような情熱は、消えうせていた。いくら何かを話しかけて
も、「敵をつくらない」という、どこか奥歯にものをはさんだような、ものの言い方をする。

 が、それは、同時に、私という人間を警戒していることを示す。「林を味方にすれば、すべて
の人を敵に回すぞ」と。

 もちろんそういうことはないのだが、共同体志向の強い人にすれば、私のような生き方をして
いる人間は、要注意人間ということになる(?)。……らしい。

 私もそれがわかるから、最近は、居なおって生きている。もっとはっきり言えば、相手にしな
い。「どうせ、そういう人たちには、私の生きザマなど理解できないだろう」とか、「あの人たち
は、あの人なりに、ハッピーなのだから、そっとしておいてやろう」とか、そんなふうに考える。

 多くの人は、共同体志向と、個人化のはざまでもがき、苦しみながら、そしてその間を行った
り来たりしながら、やがては、共同体志向を強めていくものなのか。こう決めてかかるのは危険
なことかもしれないが、そのカギを握るのが、私は、孤独だと思う。

 ずいぶんと荒っぽい意見を書いてしまったようだが、この先は、もう少し時間をおいて考えて
みたい。書いている私自身が、「そうかな?」とか、「そうとは言い切れないのでは?」と思いな
がら書いているのだから、どうしようもない。

 どこか無責任な意見を、どうか許してほしい。みなさんは、私の意見をどう思うだろうか。私
は、その(どう思うか)という部分が、あなたの個人化の表れだと思うのだが……。
(040610)
(はやし浩司 個人化 共同体志向 孤独 孤独論)

【追記】

 共同体志向性の強い人は、私のような生きザマを認めない。認めること自体、自分たちの敗
北を認めることになる(……らしい)。

 たとえばA氏(65歳くらい)という男性がいる。ときどき、私が書いた本や原稿を盗み読みし
て、「林は、偉そうなことばかり書いている」と批評する。部分的な記述をとらえて、私を攻撃し
てくることもある。「林は、お前のことを、こんなふうに書いている」と、別の人に、つげ口をする
こともある。

 が、そのA氏自身はどうかというと、自分では、何もしない。もちろん自分の意見を発表しな
い。いつも小さな穴にひっこんでいて、まわりの様子をうかがっているだけ。静かに、穏やか
に、敵をつくらないように生きることが、(完成された人間)の生き方だと思っているようなところ
がある。

 そのA氏だが、私に、いろいろなことを言った。

 「林君、総理大臣なんかなっても、意味はないよ。30年もすれば、名前だって忘れられるよ」
 「人間は、ひとりでは生きていかれないよ」と。

 ことさら冠婚葬祭にはこだわっていて、「その人の人生は、その人の葬式をみればわかる」と
言ったこともある。そのせいかどうかは知らないが、私にも、こう言った。

 「林君、ぼくは、君には何も望まないが、ぼくが先に死んだら、線香の一本だけでいいから、
頼むよな」と。

 (どうして日本人は、こうまで葬式にこだわるのか? ……今、ふと、そんな疑問が生じた。こ
の問題は、また別のところで考えてみたい。※)

 私自身は、A氏のような生き方には興味はないし、そういう生き方がすばらしいとは思わな
い。A氏は、Aさんの住んでいる地域で、それなりにハッピーな生活をしているのだから、私が、
とやかく言う必要はない。また言ってはならない。それがわかるから、私は相手にしない。

 が、どうして反対に、私のような生き方を認めてくれないのかということになる。私のことなど
かまわないで、放っておいてほしいと思うのだが、いつもあれこれちょっかいを出してくる。

 そう、A氏は、あたかも私が失敗するのを、楽しみにしているかのようなところがある。私が失
敗したとき、「それみろ!」と言うのを、どこかで心待ちにしているような雰囲気さえある。「林の
ような生き方が、うまくいくはずがない。やっぱり、林は、ああなった」と。

 ああ、いやだ! A氏よ、もう私の書く文章なんか気にしないでほしい! 

【※補記】

 結果にこだわる生き方は、チベットの山岳密教に、色濃く残っている。日本に伝わる大乗仏
教は、釈迦仏教というより、この山岳密教の影響を強く受けている。三蔵法師は、そのチベット
までしか行っていない? もう少しがんばって、ガンダーラを回って、インドまで行っていてくれ
たら、こういうことはなかったのに、と、私は、そう思っている。

 「今」を懸命に生きる。結果は、そのあとをついてくる。どういう死に方をしても、それでその人
の人生が、総括されるものではない。

 共同体志向性の強い人は、当然のことながら、(人とのつながり)を最優先する。冠婚葬祭を
重要視するのも、そのため。とくに、葬儀を大切にする。

 もちろん死者をていねいに弔うのは、その人の「生」を大切にするためにも、重要。しかし意
味もない葬儀も、少なくない。儀礼だけの葬儀も、少なくない。しかしそういう葬儀は、かえっ
て、死者を冒涜(ぼうとく)することになるのではないか。

 この先のことは、まだ私にも、よくわからないが……。多分、私自身はどこかの老人ホーム
で、ひとり静かに死ぬことになるのだろう。死体は、そのままホルマリンか何かにつけられて、
大学の死体安置室へ。

 そういう私の死にザマを知ったら、きっとあのA氏は、喜ぶだろうな。ハハハ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
※ 

最前線の子育て論byはやし浩司(192)

【近況・あれこれ】

●三角関係

 お母さんと、子どもの関係は絶対的なもの。

 しかしお父さんと、子どもの関係は、あくまでも(一しずく)! 精液一滴の関係。

 が、お父さんには、お父さんの役目があります。

 お母さんと子どもの、その(絶対的な関係)の修復。それに、社会性の注入です。

 お母さんだけに子育てを任せてしまうと、子どもは、ひとり立ちできない、つまりはひ弱な子ど
もになってしまいます。母性本能といいうのは、それほどまでに強力で、ときに子どもの発育に
は、障害となることもあるということです。

 そこで人間としての社会性を、子どもに注入していくのは、お父さんの役目ということになりま
す。昔風に言えば、狩の仕方や、漁の仕方を教えるというのが、それでしょうか。今風に言え
ば、社会的人間としての、生きザマを見せるということになります。

 そのためにも、お母さんは、いつもお父さんを、子育ての前面に置きます。賢いお母さんな
ら、そうします。お父さんを、子どもの前で、けなしたり、批判したりしてはいけません。

 まずいのは、お父さん、お母さん、それに子どもが三角関係化することです。発達心理学の
世界でも、「三角関係化」といいます。

 子どもが、お母さんとの関係、お父さんとの関係を、別々に、つくるようになります。とくに気を
つけたいのは、父親不在型の家庭環境です。「お父さんなんか、いてもいなくても同じ」とか、
「お父さんは、仕事ばかりで、家に、ほとんどいなかった」というような家庭環境です。

 この三角関係化が進むと、子どもの個性化(独立心)が遅れ、ばあいによっては、親から独
立できなくなってしまいます。40歳、50歳をすぎても、「ママ」「ママ」と言っているおとなは、多
いですね。そうなります。

 お母さんにはお母さんの役目があります。親子の信頼関係を教えていくのが、お母さんの役
目です。この信頼件関係が基本となって、子どもは、他人との信頼関係の結び方を学んでいき
ます。

 ところで、もしあなたが、他人との信頼関係を結ぶのが苦手……というのであれば、一度、あ
なた自身と、あなたの母親の関係は、どうであったかをさぐってみてください。

 この問題は、根が深いですよ。わかりますか? ホント!

 が、だからといって、むずかしく考えないでください。

 子育ての基本は、(1)子どもには心を開き、(2)子どもには、誠実に接する、です。あと二つ
つけ加えるなら、(3)ほどよい親であること。(4)暖かい無視を大切にする、です。

 ね、決して、むずかしいことではないでしょ! むすかしく考えるから、むずかしくなるだけで
す。


●心を開く

 お母さんは、子どもを妊娠して、自分の体内に10か月近く子どもを宿す。子どもが生まれて
からも、乳を与える。

 こうした関係から、お母さんと子どもは、どうしても一体化しやすい。

 一体化するのが悪いのではない。子どもは、その一体化から、親子の信頼関係を学ぶ。そし
てこの信頼関係が基本となって、子どもは、他者との信頼関係の結び方を学ぶ。

 この段階で、信頼関係の結び方に失敗した子どもは、不幸である。ホント!

 他人との人間関係が、どうもうまく結べないという人は、不幸にして、不幸な家庭環境に育っ
た人とみてよい。他人と接すると、疲れる。外の世界で、仮面をかぶる、など。心をうまく開けな
い人とみてよい。

 心を開くというのは、ありのままの自分を、すなおにさらけ出しながら、相手もまた、自分の心
の中に受け入れることをいう。

 さてさて、あなたはそれをしているか? それができるか?

 心を開くことができる人は、ごく自然な形で、それができる。子どもでも、こちらが親切にして
あげたり、やさしくしてあげると、そうした思いが、スーッと心の中に入っていくのがわかる。

 心の開いた子どもとみる。

 そうでない子どもは、そうでない。ひねくれたり、つっぱたり、いじけたりしやすい。

 さあ、あなたも今から、心を開いてみよう。とくに、子どもの前で、開いてみよう。そういうあな
たの姿をみて、あなたの子どもは、あなたに対して、心を開くことを学ぶ。


●子どもには、誠実に

 世の中には、いろいろな親がいる。「親だから……」という『ダカラ論』ほど、あてにならないも
のはない。また「親だから……」という『ダカラ論』を、みなに押しつけてはいけない。

 たとえば、子どもの財産をまきあげた親。子どもを生涯、奴隷のように虐待していた親。さら
によくあるのは、よい親であるという仮面をかぶり、子どもにウソばかりついている親などがい
る。

 こうした親をもった子どもは、不幸である。K氏(45歳)の例で、考えてみよう。

 K氏が今の奥さんと結婚したとき、K氏の母親は、あちこちへ電話をかけ、「息子を、横浜の
嫁に取られてしまった」と、泣いて訴えた。それ以後も、何かあるたびに、K氏に、離婚すること
をすすめた。「あんな嫁とは別れてしまえ」と。

 しかしK氏の母親は、K氏やK氏の奥さんの前では、やさしい母親を演じつづけた。そして
弱々しい母親、貧しく質素な母親を演ずることによって、K氏から生活費を取りあげた。K氏
は、こう言う。

 「私が『お母さん、生活費はあるか?』と聞くと、いつも母は、今にも死にそうな声で、『心配し
なくていい。母さんは、毎日、イモを食べているから……』というような言い方をします。それで
いたたまれなくて、生活費を送るのですが、ハンパな額ではありません。叔父や叔母が死ぬた
びに、香典だけで、40万円とか50万円とかを、請求してきます」と。

 K氏に言わせると、K氏の母親は、「まさにウソのかたまり」だ、そうだ。「一つとて、本当のこ
とがないのです」と。

 そういうK氏の訴えに対して、「どんな親でも、親は親だから、従うべき」「子どもは、親の悪口
を言ってはいけない」という意見もある。実は、K氏の親類は、みなそう言っているという。

 だからK氏は、そういった話をだれにも相談できず、親類たちの重い視線を感じながら、悶々
とした毎日を送っている。

 「良好な親子関係があれば、まだ救われますが、私と母の関係は、私が結婚したときに、す
でに崩壊していました」と。

 この世の中には、誠実でない人もいるだろう。とくにビジネスの世界では、そうかもしれない。
しかしそれは家族というワクの、その外の世界でのこと。家族の中では、(中だけでは)(中だけ
でも)、誠実であること。

 これは人間として守らねばならない、最後の最後の砦(とりで)ということになる。その砦を壊
したら、残るものは、何もない。


●子育てQ&Aコーナーの閉鎖(私のHP)

 長い間、みなさんのご質問に答えてきた、HP上の「子育てQ&Aコーナー」を、このままつづ
けるべきかどうかで、今、悩んでいます。(HP上の、Q&Aコーナーのことです。)

 みなさんからのご質問には、できるだけ時間をみつけて答えてきましたが、その一方で、心な
い人からのメールが、数多く届くのも事実です。

 この1、2週間だけでも、つぎのようなメールが届きました。ありのままを、報告します。

(相談メールに、住所、名前が書いてなかったので、「ご住所と、お名前をお教えください」と返
事を書いたことについて)、「何をお高く、とまってんの!」と。

(同じく、住所、名前が書いてなかったので、「ご住所、お名前がない方からのメールには、安
全上の理由のため、返事を書かないことにしています」と返事を書いたことについて、「おもしろ
い言い方ね。私もマネさせてもらおうっと」と。(このメールをくれた方は、バラエティ番組によく
顔を出す、有名な女性タレントだったと、あとでわかりました。)

(3、4日、返事を書くのが遅れたことについて、英語で)、「Answer enough!」と。意味不明
の(?)英語ですが、「ちゃんと答えろ」ということでしょうか?

(やはり3、4日、返事を書かなかったことについて)、「あなたは『また何かあれば、連絡してく
ださい』と書いくれた。だから、メールを書いたのにどうして返事がもらえないのか。いいかげん
なことを書くな」と。

 ほかにもいろいろあります。「私の悩みを、マガジンのダシにするな」「ネタにするな」「いっさ
い、マガジンへの引用、お断り」など。

 私のHPの読者の、ほとんどの方は、熱心な読者で、よき理解者だと思います。メールの引
用についても、そのつど、了解してもらえます。しかし同時に、こうしたメールが届くののも、事
実です。

 マガジンの読者の方からのご質問には、今、しばらくは、できるだけ時間をみつけて返事を
書くようにしますから、どうか、ご安心ください。それはそれとして、HPの読者の方の質問を、ど
うしたらよいでしょうか?

 で、お願いがあります。

 相談のメールをくださる方は、メールの件名(Re)のところに、必ず、ご住所とお名前をお書
きください。

 また本文の中のどこかに、マガジンの読者ということを、明記してください。明記してあれば、
私も安心して、返事を書くことができます。くれぐれも、よろしくお願いします。

【追記】

 ……と書きましたが、Q&Aコーナーは、今しばらく、このままにしておきます。

 中には、先に書いたような、心ない人もいますが、ほとんどの方は、そうではありません。私
は、そういう方たちに支えられて、こうして毎日、原稿を書いています。

 心ない人からのメールは、無視すればよいのです。

 しかし世の中には、いろいろな人がいるものです。インターネットの時代になって、それがよく
わかるようになりました。今までは、ある範囲の、特定の人とだけ交際してきたような感じがし
ます。が、こういう時代になって、その範囲が、ぐんと広くなったというわけです。
 
 それこそコンピュータウイルスを作るような、一級の犯罪者からのメール(?)も、入ってきま
す。架空請求書を送りつけてくるような、詐欺師からのメールも、入ってきます。今まで、接点す
らもったことがない人たちです。

 そういうことも覚悟して、原稿を書くしかありません。つまりその覚悟がない人は、そもそもホ
ームページなど、開くなということになるのでしょうか。言いかえると、ホームページを開き、Q&
Aコーナーを作ったということは、それを作った私の責任ということになります。

 これから先も、こうしたメールがは入ってくることでしょう。めげないで、がんばります。どうか
また応援してください。よろしくお願いします。


●真夜中の蚊

 昨日もそうだった。そして今夜も……。

 私の寝室は、密閉性のよい部屋で、どこにも、すき間はないはず。しかしそれでも、蚊が入っ
てくる。

 昨日も2匹。今夜も2匹。おかげで、昨日も午前3時ごろ、起こされた。今夜も午前3時ごろ、
起こされた。で、今、時刻は、6月11日の午前4時。この原稿を書いている。

 今朝は、午前中は、市内のA幼稚園で講演があるので、このまま起きてしまおうかと考えてい
る。講演は、午前9時から。

 しかしどうして私ばかりが、刺されるのか? となりで寝ているワイフは、めったに刺されな
い。

 「人間を刺す蚊は、メスよ。だからオスのあなたを刺すのよ」と。

 ワイフは、そう言うが、本当のところは、わからない。私のほうが、体温は低いし、血だって、
まずそう。やはりメスの蚊は、男の血を求めるものなのか?

 が、それにしても、どこから入ってくるのか。蚊を殺虫剤で落としたあと、改めて窓をしめなお
す。

 しかし……。腹を人間の血でパンパンに大きくした蚊を、手のひらの中で、ブチュッとつぶす
ことくらい、気持ちのよいものはない。何と言うか、ニューヨークジャイアンツの松井選手が、ホ
ームランを打ったような快感を覚える。

 私にも、かなりサディステックなところがあるのかもしれない。つぶしたとたん、手足のかゆみ
が消えるから、不思議である。

 明日の夜は、寝るときから蚊取り線香をたいておこうと思っている。

 そうそう、この原稿を書き終えたら、もう一度、寝なおす予定。徹夜は、やはり、体によくな
い。
(040611)


●同窓会

 今日は、ワイフが高校の同窓会に行くという。おまけに、空は、熱帯低気圧に変ったというも
のの、台風くずれの空模様。

 今日は、一日、部屋に閉じこもって、パソコンの相手。こういう日は、マガジン用の原稿を、書
きためるにかぎる。

 ……といっても、テーマが、浮かんでこない。まだどこか眠い。

 昨夜、こんなことがあった。

 ワイフが、「ちょっと見て」と言うから、見ると、一応、それなりのかっこうをして、ワイフがそこ
に立っていた。

私「それじゃ、だめだよ。どこか、チグハグだよ」と。

 昨日、駅前のIデパートへ行って、ワイフは、同窓会用の服を買いそろえていた。しかしシャ
ツ、スカート、カーディガンなど、別々に買ったため、色の組み合わせが、どこかおかしい。

 ワイフが少し、深刻な顔をした。

私「あのね、そういうのは、まとめて買わなくては……。安物ばかりで、組み合わせても、すぐわ
かるよ。まだまにあうから、Jへ行こう」と。

 ショッピングセンターは、夜11時まで営業している。時計を見ると、9時。私とワイフは、車に
とび乗った。

私「同窓会なんだから、それなりのものを着ていかないと……」
ワ「いかにも服を着ていますというような服は、いやだわ」
私「でもさ、見ただけで、全部で、○千円とわかるような服ではだめだよ」
ワ「……」と。

 ワイフは、若いころから、見栄や世間体を、まったく気にしない。いつもサバサバと生きてい
る。見習う点は多いが、しかし私が知っている多くの女性とは、どこかちがう。ときどき私は、こ
う思う。

 「ワイフは、おっぱいがあって、チンチンのない男だ」と。

 もっとも無難な服の買い方は、マネキンが着ている服を、上から下まで、そっくりそのまま買う
こと。プロが、コーディネイトしているから、まちがいがない。あとは値段の問題。

 こうして約一時間。服に合わせて、ついでにバッグも買った。それでしめて全部で、○万円。
家に帰ると、ワイフは、さっそく、買ってきたばかりの服を試着。私は、それを横目で見ながら、
ビデオを見る。

 ウォルト・ディズニーの「HOLES」。★は2つ。よくわかったような、わからない映画だった。私
は、子どものころから、あまり水玉模様が好きではない。地面に無数の穴(HOLES)が、ぼこ
ぼこあいている景色を見たとき、どこかゾッとした。それで星は、2つ。

 昨日の午前中は、A幼稚園で講演。どこかあわただしい一日だった。
(040612)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(193)

【母親、三態】

●独立を許さない親

 子どもが、親から離れ、独立していくのを許さない親がいる。子育てを生きがいにしてきた、
どこか溺愛タイプの父親、母親に、多い。

 最初に申し添えるなら、溺愛は、「愛」ではない。自分の心のすき間を埋めるための、自分勝
手な愛をいう。もともと情緒的に未熟な人、精神的に未完成の人が、何らかのきっかけで、溺
愛に走るケースが、多い。

 ある母親は、自分の一人娘が結婚したあと、その娘にこう言ったという。「あなたを、一生か
かって、のろい殺してやる。親を捨てるとは、どういうこと。あなたが地獄へ落ちるのを楽しみに
している」と。

 この話は、本当にあった話である。ワイフが、その女性に会って、直接、確かめている。そし
て私には、こう言った。「世の中には、いろいろな親がいるのねえ」と。

 が、その子ども自身にとっても、これは不幸なことである。

 親が、子どもを溺愛し、その結果、子どもの自立、独立を許さないのは、親の勝手。親のエ
ゴ。が、そのエゴにからまれ、もがき苦しむ子どもも、少なくない。

 前にも書いたことがあるが、実母の葬式に出なかったことを、いまだに悔やんでいる男性(5
5歳)がいる。実母は、10年ほど前、その男性が45歳のときに、なくなっている。

 いろいろ人には言えない事情があるらしい。それはそれとして、問題は、なぜその男性が、
悔やむかということ。もし私がその母親なら、天国なら天国からでもよいが、その男性にこう言
うだろう。「気にしなくてもいいのよ! あなたはあなたで、幸福になってね」と。

 子どもは、ある年齢に達すると、「家族」というワク、これを心理学の世界では、「家族自我
群」というが、そのワクから、のがれようとする。最初は、抵抗、反抗という形で、それを表現す
る。ときに家族、なかんずく親を否定することもある。

 こうしたを心理学の世界では、「内的促し」という。「内的」というのは、心の世界をいう。肉体
を「外的」というのに対して、精神を「内的」という。子どもは、自立、独立するために、精神の完
成を自ら、求めるようになる。

が、こうした子どもの行為に対して、とくにこの日本では、それを悪いことと決めてかかる傾向
が強い。親に反抗しただけで、「親に向かって、何だ!」と、怒鳴り散らす父親や母親は、多
い。「非行」というレッテルを張ることも珍しくない。

 これを「内的つぶし」という。この言葉は、私が考えたものだが、親自身が、子どもの自立や
独立を、つぶしてしまうことも、珍しくない。そしてさらにその結果として、子どもは、自ら、罪悪
感をもつようになる。先の男性が、その一例である。

 「私は、親の葬儀にも出なかった。私は、できそこないの息子だ」と。

 子どもは、小学3、4年生をさかいに、急速に親離れを始める。生意気になり、親に口答えす
るようになる。反抗もするようになる。しかしそれは、国際的な基準でみるかぎり、ごく自然な
(流れ)であり、そういう流れの中で、子どもは、自立していく。

 もちろん日本には日本の風土、文化というものがある。親子関係も、どこか特殊? いまだ
に「父親に求められるのは、威厳である」と説く人も、少なくない。最近では、家庭教育に武士
道をもちだす人まで、現れた。

しかしそれらは、ほとんどのばあい、どこか不自然な子育て観といってもよい。日本の子どもだ
けは特別と考えるのは、おかしい。日本式の子育てが正しくて、外国の子育てはおかしいと考
えるのは、さらにおかしい。安易にそれを受け入れれば受け入れるほど、あなたは、(自然な
形での子どもの姿)を見失う。


●子どもを支配する親

 「代償的過保護」という言葉がある。

 ふつう、過保護というときは、その背景に、親の深い愛情がある。その愛情が、転じて、親は
子どもを、保護過多、つまり過保護にする。

 が、代償的過保護には、その背景に、親の深い愛情があっても、希薄。子どもを自分の支配
下に置いて、子どもを自分の思いどおりにしたいという過保護を、代償的過保護という。

ただ、この代償的過保護は、見た目には、過保護と、たいへんよく似ている。区別がつかな
い。それにたいていのばあい、子どもに対して代償的過保護を繰りかえしながら、親自身は、
それを親の深い愛情と誤解している。

よくある例は、「子どもはかわいい」「かわいい」を口ぐせにしながら、その一方で、子どもが、自
立したり、独立していくことを、許さない、など。「渡る世間は鬼ばかり」と、子どもを、ほとんど外
出させなかった母親もいる。子どもといっても、30歳を過ぎた子どもである。

 ……というような話は、前にも書いた。

 ここでは、その先を書く。

 こうした代償的過保護のもとで育つと、子どもは、当然のことながら、自立できない、ひ弱な
子どもになる。(反対に、親に猛反発する子どももいる。その割合は、7対3くらい。)

 が、それだけではない。

 子どもは、ある年齢に達すると、急速に親離れを始める。自立のための準備期間に入る。そ
の年齢は、小学3、4年生ごろ、満10歳前後とみる。

 これを発達心理学の世界では、「内的促し」(ボーエン)という。このころから、子どもは、自立
をめざし、内的、つまり精神面での完成をめざすようになる。

 この時期、子どもは、家族的自我群(家族としてのまとまりのある意識)から逃れ、自分を確
立していく。が、ここで誤解してはいけないのは、内的促しをするからといって、その子どもが、
家族を否定するようになるのではないということ。

 子どもは、内的促しをしながら、その一方で、家族との調和をはかる。つまりこうして子ども
は、精神的にバランスのとれた人間へと、成長していく。

 が、代償的過保護のもとで育つと、子どもは、この精神の発達を、阻害(そがい)されることに
なる。そしてその結果、自立できないばかりか、現実検証能力を失う。30歳をすぎても、親の
サイフからお金を盗んで使っていた男性がいた。親といっても、安い給料の、サラリーマンだっ
た。

 自分で、してよいことと、悪いことの区別がつかなくなる。自分ですべきことと、してはいけない
ことの区別がつかなくなる。

 総じて言えば、代償的過保護には、親の過関心と過干渉がともなう。ある女性は、こう言っ
た。「母が兄を見る目つきは、いつもキリで心を突き刺すように、鋭かった」と。親自身の精神
的未熟性がその背景にあるので、問題の解決は、容易ではない。

 なお、子どもの受験勉強に狂奔する親がいる。明けても暮れても、頭の中は、子どもの進学
問題でいっぱい。……というような親は、ここでいう代償的過保護傾向の強い親とみてよい。一
見、子どもの将来を心配しているようだが、その実、自分の不安や心配を、子どもにぶつけて
いるだけ。

 もう少し極端な例としては、ストーカーがいる。嫌われても嫌われても、その男性(女性)をお
いかけまわす。相手が迷惑していることすら、理解できない。つまり自分が置かれた現実を理
解できない。

 少し話がバラバラになってきたので、この話はここまで。

【代償的過保護・自己診断テスト】

( )いつも子どもの行動を知っていないと、落ちつかない。不安。心配。
( )いつも子どもにあれこれ指示を出し、命令している。勝手な行動を許さない。
( )子どものために、自分の人生を犠牲にしていると思うことが多い。
( )子どもの世話をやくのが、親の努めだと思う。めんどうみのよい親がよい親と思う。
( )うちの子は、外の世界では、ひとり立ちして生きていくのは無理だと思う。

 ここに書いたことが、いくつか思い当たれば、あなたは本当に子どもを愛しているか。何か、
おおきなわだかまり(固着、こだわり)をもっていないか。それを反省してみる。それと同時に、
あなた自身も、一人の人間として、ひとり立ちできているかどうかも、反省してみるとよい。


●子どもを否定する親

 Kさん(60歳、女性)は、いつも自分の長男氏(34歳)について、「あの子は、バカで……」と
言っていた。いろいろな母親がいるが、自分の息子を、「バカ」という親は少ない。

 で、ある日、私がそれとなくKさんに、「そんなふうに言ってはいけない。ぼくには、そうは思え
ない」と話すと、Kさんは、こう言った。「あの子は、生まれつき、ああです」と。

 そのKさん。親類の間では、「仏様」と呼ばれていた。もう一人、1歳年下の妹がいたが、子ど
も思いのよい母親と思われていた。人前では、おだやかで、やさしい母親を演じていた。

 しかしその長男氏は、ハキがなく、いつも何かにおびえたように、オドオドしていた。明らか
に、母親の否定的な育児姿勢が、その長男氏の自我を押しつぶしてしまっていた。

 こんなことがあった。

 そのKさんの横に、10坪くらいの空き地があった。花壇や畑になっていた。しかしそこを駐車
場にすれば、車が4、5台、駐車できる。そこで私が、その長男氏に、貸し駐車場にしたらよい
のではと話すと、その長男氏は、こう言った。

 「そんなことを言うと、母さんに叱られる」と。

 30歳をすぎても、母親の威圧(幻惑)に、おびえていた。

私「駐車場にして貸せば、あそこだったら、毎月、10万円くらいの収入が見込める」
長「植木鉢は、どうする?」
私「横へ並べておけばいい」
長「そんなこと言ったら、母さんに叱られる」と。

 強烈な母親のイメージ。長男氏は、その呪縛の中で、もがき苦しんでいた。

 こうした否定的な育児姿勢が日常化すると、子どもは、つぎのような症状を見せるようにな
る。

(1)自信喪失
(2)判断力の低下
(3)自我の喪失
(4)現実検証能力の喪失
(5)強度な依存性(服従性)
(6)基底不安をもちやすい
(7)常識ハズレの行動
(8)萎縮性、自閉傾向など。

 Kさんは、長男に、こんな言い方をしているという。

(客が来たとき、Kさんは、長男氏に、お茶をもってくるように言った。そのときのこと)、「早くも
って来なさい。どうせ、ぐずぐずもってくるんでしょ。ぐずぐずしていると、お客さんが、帰ってしま
うでしょ」と。

(客がくれた、みやげの菓子を長男氏に渡しながら)、「菓子だよ。あんたがもらっても、私には
くれないけど、私は、ちゃんとあんたに、あげているよ」と。

(長男氏が菓子を食べていると)、「いらないと言っているくせに、どうせ全部、食べてしまうので
しょ。あとで腹が痛いというんじゃ、ないよ!」と。

 長女は、私にこう訴えた。「母は、いつも一言、多いのです。その一言が、兄の心をキズつけ
ます。しかし母は、それに気づいていません。が、何よりも不幸なのは、そういうあつかいを受
けながら、兄が、母のその呪縛を解き放つことができないでいることです。ベタベタの依存性が
ついてしまって、兄は、母の指示がないと、ひとりでは何もできなくなってしまっています」と。

 「うちの子は、何をしてもだめだ」「何をしても心配だ」と、もしあなたがそう思っているなら、そ
れはあなたの子どもの問題ではない。あなた自身の問題と考えてよい。

 あなたの中にある、わだかまりやこだわり(固着)をさぐってみたらよい。望まない結婚であっ
たとか、望まない子どもであったとか、など。

 こうしたわだかまりやこだわりが、姿を変えて、否定的な育児姿勢になることは多い。子ども
の側からみて、何が不幸かといって、そういう親をもつことくらい、不幸なことはない。

 もしあなたがそうなら、まずそのわだかまりや、こだわりに気づくこと。気づくだけでよい。少し
時間がかかるが、あとは時間が解決してくれる。

 ついでに一言。

 よく「うちの子は生まれつき……」と言う親がいる。実に不愉快な、しかも卑怯な言い方であ
る。

 あの赤子を見て、「生まれつき……」などとわかる人は、絶対にいない。えてして、親は、自分
の育児の失敗を、「生まれつき」という言葉でごまかす。親として、絶対に口にしてはいけない
言葉である。
(はやし浩司 個人化 幻惑 個人志向 共同体志向 家族自我群 現実検証能力)
(040612)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(194)

【二男のメモより……】

この前、弟に、どうしたら誠司の父親としてふさわしい人間になれるかっていうのは、結局誠司
が僕に教えてくれるんじゃないか、って思うようなことを言ったけれど、近頃僕が誠司に教えて
あげられること、言葉にできるようなことなんてそれほど重要性がないんじゃないかな、と思
う。 

僕が妻と接するとき、夫としてどうあるべきなのか、それは皆父がぼくの母にどうあったかを僕
の人生から学び、それを受け入れたり拒絶したりしながら僕の接し方に反映しているから分か
るんだと思う。しかし、僕は二男として生きる意味が良く分からない。息子とは何なのか? 父
親とどう接していくものなのか? よく分からない。 

ぼくの人生には祖父、祖母といった人物がほとんど存在しない。僕は父が僕の祖父と一緒に
いるのを見たことがないし、僕の父は僕に「父」や「夫」が何であるかを教えてくれたけれども、
「息子」とか「孫」が何であるのかはほとんど空白のままだ。僕は、それが僕の息子として生き
る意味の曖昧さの原因なのだろうかと思う。 

義理の父(ジム)の家へ滞在するとき、ぼくはいつも彼と彼の父の関係から目が離せない。空
を飛ぶのを夢見ていた人間が、あるとき急に空を飛べるようになった感覚だろうか? ロイス
(ジムの父)は高齢で、もうあまり身の回りのことができないのだけれど、会うといつも昔のリト
ルロックの話や、彼が太平洋戦争中に、艦船でペンキ塗りの仕事をしていた話などおなじみの
話ばかりを繰り返す。

ジムはロイスを軽蔑しているようだけれど、好き嫌い、なんてことは僕には関係ない。僕は彼ら
が「関係している」という事実そのものに学ぶべきことがあるような気がする。目のあわせ方、
話の聞きかた、食事中にお茶のお変わりを出すタイミング、そういったような事の中に、「父」と
「子」があって、今の僕にはいったいそれにどういう意味があるのか言葉にはできない。けれど
もそこになにか重大なものがあることは僕の血と魂から感じる。 

僕は、誠司にはぜひ、僕と父との関係の中に何かを見てもらいたい。僕が誠司に僕の父につ
いて話すとき、彼に僕の表情を見て欲しい。僕が父と話をするとき、彼に僕らが何をどう話して
いるのか、テレビゲームをしながらでも耳にして欲しい。つまり、僕が父と関係している、という
事実そのものが彼の人生の一部にあって欲しい。 

父と祖父だけではなくて、あらゆる人と人との関係こそ、彼がこの世で学ぶ一番大切なことだと
思うけど、今日はそんな当たり前のことがふと頭に残った。

【宗市へ……、はやし浩司より】

 お前のエッセーを読んでいたとき、関係ないことかもしれないが、こんなことが頭の中に浮か
んだ。

 すべてを戦争の責任にすることはできないが、半世紀前の日本は、本当に貧しかったよ。そ
れがわからなければ、戦後の日本の、古い写真を見ればよい。

 ラムネ(国産)が、一本、5円の時代のときにね、バヤリースオレンジが、100円だった。それ
がね、店の一番奥の棚の上に、誇らしげに並べてあったよ。

 それを見ながら、ぼくは、「あんなの買う人がいるのだろうか」と思いつつ、「どんな味か、一
度、飲んでみたい」と思った。結局は、一度も飲まなかったけれどね。

 家族旅行などというのは、小学6年生までに、一度だけだよ。たったの一度だけ。しかもね、
行ったところが伊勢。ぼくらは、「お伊勢参り」と呼んでいた。

 旅館といっても、当時の旅館は、おおぜいの人との相部屋。そこで父は酒を飲んで暴れてし
まい、夜中のうちに、岐阜のほうへ帰ってきてしまった。

 悲惨な少年期だったけれど、今から思うと、ぼくの父も、台湾で、アメリカ軍と戦い、腹に貫通
銃創を受けている。九死に一生どころか、千死に一生だね。ははは。それで心に、深いキズを
負っていた。今で言う、PTSDだね。夜中に、よくうなされて、暴れた。

 父親として、誠司の祖父として、じゅうぶんなことをしてあげられないのは、申し訳ないと、い
つも思っている。しかしこうまで時代が変るとは、このぼくでさえ、予想さえしていなかったよ。ホ
ント!

 しかし、まあ、お前の祖父は、お前が生まれる前に死んでいる。祖母にしても、日本とアメリカ
とでは、歴史的な背景もちがうだろう。ぼくたちが、デニーズの家族と同じことができなかったか
らといって、あるいはしていないからといって、それはそれではしかたないことではないかと思っ
ている。(弁解がましいが……。)

 まあ、お前はお前で、元気でやりなさい。いろいろさみしい少年期を送らせたことは、悪かっ
たと思う。まあ、その分、誠司に、心豊かな少年期を送らせるよう、がんばればよい。

 たった今、晃子が高校の同窓会から帰ってきた。何でもない生活に見えるかもしれないけれ
ど、これがぼくにとっては、きわめて大切な生活だよ。明日は英市が、オーストラリアから帰っ
てくる。たった今、「これから飛行機に乗る」という連絡が入った。

 30年前、50年前には、こんな生活は、考えられなかった。夢だった。今の生活は、そんな夢
のような生活だよ。ぼくにとってはね。そう、毎日、その気になれば、腹いっぱい、ごはんが食
べられるだけでも、ぼくには、すばらしい生活だよ。毎週、その気になれば、車で、ドライブがで
きるだけでも、ぼくにはすばらしい生活だよ。

 幸か不幸か、(たぶん、不幸なのだろうが)、お前たちは、そういう貧しさを知らない。その分
だけ、今の価値がわからないのかもしれないね。

 いやね、25年前、自分の家を建てたとき、そこに水洗便所があるのを知ったとき、ぼくは、
毎日、それをみがいていたよ。それまでは、どこでも、ボットン便所だったから……。ときどき
は、そういう視点からも、日本を見て、家族を見てほしいよ。とても悲しいことだが、そのアメリ
カと日本は、60年前には、殺しあっていたんだよ。ぼくらには、少しだけど、そのしこりは、まだ
残っているよ。

 つまりお前が、アメリカ人になると言ったとき、ぼくは、そのしこりを、心の中で、つぶさねばな
らなかった。その苦痛は、多分、お前には理解できないものだろうね。もしぼくの父、つまりお
前の祖父が今、生きていたら、祖父は、お前たちの結婚は、絶対、認めなかっただろうね。が
んこで、生真面目な人だったからね。

 ぼくが子どものころでさえ、「天皇」と呼び捨てにしただけで、頭を殴られたよ。今のお前から
見ればおかしいと思うかもしれないけれど、しかしぼくは、ぼくの父が、なぜそうであったかにつ
いて、今なら、父の気持ちが理解できるよ。

台湾でも、父の友人のほとんどが、アメリカ軍によって殺されている。晃子の父親は、もっと悲
惨だったよ。ラバウル島での戦闘がどういうものであったかは、お前も知っていることと思う。

晃子の父親は、3000人の部隊の一人として、ラバウルに向かい、帰ってきたときには、300
人もいなかったそうだ。日本へ帰ってきてからも、死んだ戦友たちに申しわけなくて、小さくなっ
て生きていたそうだ。

 だから今、二つの気持ちが、ぼくの中にある。メジャーな気持ちとしては、「だから戦争は、く
だらない」という思い。もう一つは、マイナーな気持ちとして、「孫がアメリカ人というのは、どうい
うことだ」という思い。

 すべてを戦争の責任にするわけにはいかないが、今、ぼくたちが、お前たち家族に対して、
祖父らしいこと、祖母らしいことをできないからといって、……この話はやめよう。グチになる。
これからもがんばるよ。よき父親、よき祖父になれるように、ね。

 本当のところ、ぼくたちが見せることができなかった「家族」というものを、デニーズさんの家
族が、お前に見せてくれていることについては、感謝している。喜んでいる。まあ、元気でやり
なさい。

 晃子も、ぼくも、今、望むことは、いつまでもお前たちが、今のまま、幸福であること。

 ではね、バイ! また何かよいものを見つけたら、送るよ!


●山荘にて……

 今夜、つまり6月の12日、土曜日の夜、山荘へやってきた。途中、コンビニで、お弁当を一
個買った。明日の朝食用。

 ほかに「メモリータイム」(K食品)という、300円の音楽CDを1枚、買った。往年のヒット曲
を、2曲ずつ、収録したもの。これは、車の中で聞くため。

 封を切ると、ザ・ライチャス・ブラザーズの「♪アンチェインド・メロディー」が入っていた。映画
『ゴースト』で使われた曲である。封を切るまで、どんな曲が入っているかわからないが、結構、
よいのが入っている。

 車の中では、出かける直前まで見ていたテレビの番組について、ワイフと話しあった。こんな
番組だった。

 子どものころ生き別れた父親や母親を、さがすという番組だった。そこで登場したのが、アメ
リカ人の超能力者。「FBI特別捜査官」ということだった。

 「本当かな?」「ウソだ!」と思いながら、1時間あまり、見てしまった。で、その結果だが、そ
の超能力者(男性、50歳くらい)は、本当に、その父親や母親の居場所を、さがしあててしまっ
た!

 これには驚いた。どこにもトリックがあるようには見えなかった。その超能力者は、依頼者の
手紙の入った封筒を見ただけで、年齢を言い当てたあと、地図で描いて、その居場所を示し
た。
 
 そこでテレビ局のスタッフが、その地図を手がかりに、その場所にでかけてみると、ナ、何と、
さがし求めている人が、そこにいた!!!

 ホント! 「!」を、100個くらい並べても、おかしくないような話だった。

私「トリックがあるはずだよ」
ワ「やらせということ?」
私「だろうね。あんなこと、あるはずがない」と。

 もし、その超能力者の能力が本当なら、私は、今までの常識を、180度、変えなければなら
ない。しかし考えてみれば、おかしな点がないわけではない。

(疑問)仮に居場所がわかったとしても、それを、まさに地図のように表現できるかという問題
がある。

 たとえば空中高くから地表を見るように見たとしよう。宇宙から見た、衛星写真を想像してみ
ればよい。そのとき、地表の無数のものの中から、道や線路、川や用水を、どうやって区別す
るかということ。

地表近くで地面を見れば、細い道でも、運動場のよう広く見える。反対に飛行機が飛ぶ高さか
ら地表を見れば、高速道路でも、糸のようになってしまう。識別できなくなってしまう。いわん
や、細い路地をや。

 ちょうどよい高さに視点を置くというのは、結構、むずかしい。さらに空から見た地図が頭に
浮かんだとしても、たとえばどうして道の角に、円柱形の高い建物があるとか、工事中の建物
があるとか、そんなことまでわかるのだろうか。

 その超能力者は、ガラス張りの家があると言ったが、ガラス張りかどうかは、横から見なけれ
ばわからないはず。

 また人間は、大脳後頭部の視覚野に映された映像を、一次加工、二次加工して、必要な情
報だけを頭の中で、よりわけて見ている。

 もし居場所が、脳の中に、地図のように見えるというのなら、すでにその段階で、情報が、加
工されていることになる。つまり脳の中の信号の流れが、逆なのである。

 わかりやすくもう少し説明しよう。

 目から入った情報は、網膜から視神経を経て、大脳皮質部の視覚野に送られる。そこで情
報は、一次視覚野、二次視覚野、さらに三次視覚野を経て、必要な情報だけが、大脳連合野
に送られる。

 ここから先は、情報によって、どの大脳連合野が担当するかが分かれる。たとえば空間的な
関係は、頭頂葉連合野、ものの形に関する情報は、側頭連合野などが担当する。

たとえば文字は、いわゆる「パターン認識」ということになるから、常識的には、側頭連合野の
担当ということになる。ここでまず文字の形を分析し、認識する。が、それだけでは、まだ文字
として、理解されるわけではない。さらにその段階から、その文字の形に対応する「音」を、記
憶の中から拾いだし、さらにその音をつなげて、言葉として理解する。

画像についても、同じような処理がされる。必要な画像だけを選び、さらにそれが何であるかを
判断しなければならない。同じ緑色のものでも、「この緑っぽいものは、畑。この緑っぽいもの
は、山。しかしこの緑は、屋根の緑」と。その仕事をうけもつのが、大脳の頭頂葉連合野や側
頭連合野である。つまりこの段階で、画像は、二次加工、三次加工される。

 ばくぜんとした画像(模様)が、地図とし認識されるのは、そのあとのことである。

 が、すでに地図として、さがし求める人の居場所がわかるというのであれば、加工された画像
が、逆に、後頭部の視覚野に映しだされたことになる。となると、その情報は、どこからきたの
かということになる。

 ゆいいつ考えられるのは、目の網膜から、視覚野までの間で、別の神経回路を経て、情報が
まぎれこんだことになる。しかしそんなことがあるだろうか。そこには、一本の神経が、電線の
ように走っているだけ。

 あるいはそういう超能力者は、夢を見るようにして、地図を見るのか? それなら話はわかる
が、しかしそれでも、それまで見たことがない地図が、頭の中に浮かんでくることは、ないは
ず。

 だいたいにおいて、地図というのが、クサイ。人間の能力を超えた能力をもっている人が、実
に人間クサイものを、見ている? それがたとえば「北から南へのびる断層がある。その断層
の西に水脈があり、その水脈の上に、その人がいる」というような言い方だったら、まだ話がわ
かる。それが地図とは?

 司会者のM氏にしても、並んでいるタレントにしても、ただ驚いているだけ。ギャーッとか、ワ
ーッとか、意味のない歓声をあげているだけ。思考力ゼロという感じ。ほんの少しでも、大脳生
理学の知識があれば、驚き方も変わっただろうが、もともとそのレベルの番組(失礼!)。

 「私なら、こういうふうに質問してみるのに……」「どうして、そのことを聞きたださないのか」な
どと思いながら、私は、その番組を見た。少なくとも、どのような形で地図が、脳の中に浮かん
でくるかくらいは、聞いてほしかった。

 テレビが与える影響を考えるなら、その程度の質問をするのは、当然ではないのか。

私「ぼくは、やはり、やらせだと思う」
ワ「そうよね。あんなことで、失踪した人の場所がわかるわけがないもの」
私「あのユリ・ゲラーの超能力にしても、当初は、みな、本物だと信じていた」
ワ「そうよね」と。

 山荘へ着くと、まだ6月だというのに、コオロギが、チリチリと鳴いていた。それを聞いてワイ
フが、「もう秋みたい」と言った。町の中では、あれほどムシムシしていたのに、山荘周辺の空
気は、ひんやりとしていた。さわやかだった。

 しかしこちらは、現実。と、同時に、その番組のことは、忘れた。
 
【補記】

 番組の中では、3人の超能力者(男性2人、女性1人)が出ていた。最後に、イギリスのダイ
アナ妃の死因について、3人とも、「殺人だと思う」というようなことを言っていた。

 「?」と思いながら、「いくら公人とはいえ、こんなふうに興味本位に、人の死をとりあげていい
ものかなあ」と思った。「数十億人もいる人間の中から一人を選び、しかもその人の人生の一
瞬をとりあげて、どうしてそんなことがわかるのかなあ?」とも。

 人間の脳みそには、無限の可能性がある。それはわかる。しかしそこまで無限の能力があ
るとは、私には、信じられない。

 が、もし(やらせ=インチキ)だとしたら、これはたいへんな問題である。テレビ局は、日本中
をペテンにかけたことになる。金銭的な実害はないかもしれないが、こうした番組で、多くの子
どもたちが、まじめに考えるのを放棄してしまうかもしれない。

 そうでなくても、今、子どもたちの間では、まじないだの、占いだの、予言だの、超能力だの、
おかしなものが、おおはやり。テレビ局もそのあたりのこと、つまり子どもに与える影響をもう少
し考えて、番組を制作してほしい。

見るからにノーブレインのタレントばかりではなく、良識のある科学者を同席させるとか。こうし
た番組には、そうした配慮も必要ではないのだろうか。

 番組の終わりがけに、「これらは、事実とは関係ありません……」などというテロップが流れた
が、あの程度の注意書きでは、不十分だと思う。


●オーストラリア

 オーストラリアでは、交通ルールが、ますますきびしくなった。制限速度を、たった5キロ、オ
ーバーしただけで、即、罰金だという。交差点でもそうだそうだ。黄信号で交差点に入ると、どこ
かでカメラで監視されていて、即、罰金だという。

 今日、オーストラリアから帰ってきた三男が、そう言った。「日本では、めちゃめちゃだよ。赤
信号でも、信号を無視して、交差点へつっこんでくる車がある」と私が話したら、オーストラリア
では、絶対に考えられないという。

 そう言えば、去年、私の家にホームステイした、オーストラリアの友人も、そう言っていた。「ど
うして日本人は、ロジカルではないのか?」と。話を聞くと、交差点でも、日本では、停止線のと
ころで、きちんと止めるドライバーは、いない」「どうしてか?」と。

 みやげに、タバコを一個、もってきた。もちろん吸うためではない。パッケージを私に見せる
ためである。オーストラリアでは、タバコの値段が、めちゃめちゃ、高いという。一個、8〜10オ
ーストラリアドル(800円)くらいだそうだ。

 そのパッケージの表(横や裏ではなく、表)には、約3分の1ほどをさいて、こう書いてある。
「喫煙は、肺がんを引き起こす(Smoking causes lung cancer)」と。

 そのパッケージを見ながら、日本がいかに遅れているかを、改めて思い知らされる。たとえば
喫煙率にしても、若い女性を中心に、喫煙率は、むしろふえているという。

 ちなみに、日本人の喫煙率は、つぎのようになっている(95年)。

 男性……53・8%
 女性……15・2%

 問題は、中高校生である。毎日、喫煙している子どもの割合は、つぎのようになっている。

 中学生男子……2・6%
 中学生女子……1・0%

 高校生男子……19・4%
 高校生女子…… 6・5%

 全体としては低下傾向にあるが、20歳代の女性については、上昇傾向にあるという。しかし
高校男子の5人に1人が、毎日、タバコを吸っているとは! 町の中を歩くと、JTの巨大な看
板が、あちこちに立っている。偽善のかたまりのようなテレビコマーシャルも、相変わらず流さ
れている。

 そういうのを見ると、「日本も、まだまだだなあ」と思う。

 ついでにタバコを吸うと、肺がんだけではなく、あらゆるがんについて、死亡率が2倍から、数
十倍になることが知られている。

 お金を出して、毒を買うようなもの。どうして国は、もっとタバコを規制しないのか。

 5、6年前、同年齢の友人が、肺がんで死んだ。健康なときは、たいへんなヘビースモーカー
で、1日2箱も吸っていたという。

 が、その死に方が、壮絶だった。毎日、どす黒い血を、1リットル近くも吐いて、死んだという。
そういう恐ろしさを、政府は、厚生省は、もっと国民や子どもたちに、知らせるべきではないの
か。「因果関係がじゅうぶん証明されていない」では、すまない話なのである。

【偽善】

 偽善といえば、JTのコマーシャルほど、偽善なものはない。あのコマーシャルを見るたびに、
「何が、マナーだ」と笑ってしまう。まさに偽善の典型。偽善がどういうものかわからない人は、J
Tのコマーシャルを見ればよい。あれが、まさしく偽善である。

 世の中には、偽善者が実に多い。どこかのカルト教団の指導者、テレビタレント、ニュースキ
ャスター、それに政治家などなど。そう言えば、教師にも、教育評論家にもいる。(私のこと
か?)

 どうすれば、その人の偽善を見抜くことができるか? おもしいテーマなので、今度、別の機
会にじっくりと考えてみたい。

+++++++++++++++++++++

●偽善

 偽善者は、悪人より、タチが悪い。イギリスの格言にも、こんなのがある。『悪魔は、善人の
顔をして、あなたのところへやってくる』と。

 『悪魔は、目的のためには、聖書をも引用する』というのもある。
 『ブタを盗んで、骨を施(ほどこ)す』というのもある。

 ……と言いながら、この世の中、すべてが偽善。偽善でないものをさがすほうが、むずかし
い。あなたにしても、身のまわりに、あらゆるものが、どこかで人間の欲望と利益にからんでい
る。そのからんだところで、善は悪に変身する。

 少し前、JTのコマーシャルにこんなのがあった。

 ある男がタバコを吸おうとすると、そこへ小さな少女が通りかかる。その男は、一瞬手を休
め、その少女が通りすぎるまで、タバコを吸うのをやめる。

 あるいは美しい野原で、一人の男がタバコを吸っている。その男の近くには、灰皿が置いて
ある。男は、真っ青な空の白い飛行機雲を見ながら、タバコを吸う。

 一連のJTのコマーシャルが、まさしく偽善の典型とみてよい。本当に善を訴えるなら、「どう
か、タバコを吸わないでください」「私どものタバコを買わないでください」というような内容のコマ
ーシャルにすればよい。

 JTは、ブタの骨を人に与えながら、ブタを盗んだことを隠している。

 が、JTだけを責めても意味はない。先にも書いたように、私たちの言動、行動すべてが、ど
こかで偽善とからんでいる。たとえば、この私。

 講演などに行くと、結構、善人ぶっている。自分でもおかしいほど、善人ぶることがある。しか
し本当の私は、ときどき、こう思っている。「どうして私のような人間が、こんなところに立ってい
るのだろう」と。

 数日前も、ある幼稚園で講演をした。そのときのこと。あろうことか最前列に座っていた、二
人の女性が、最初からヒソヒソと、内緒話。本人たちは、隠れてそうしているつもりだろうが、演
壇からは、それが実によく見える。目につく。

 そこで私は、その二人をにらみつけながら、語気を強くして話しつづける。が、二人は、話を
やめる気配はない。だから今度は、机を叩きながら、その二人をにらみつづける。

 多分、その二人からは、私の視線が見えないのだろう。その会場は、幼稚園とはいえ、どこ
かの公立中学校の体育館のように広かった。

 こうなってくると、まさに講演は、その二人との戦いといった感じになる。私は自分の怒りを、
声の中にまぶして、その二人にぶつける。(おい、こら、ちゃんと話を聞け!)と。その一方で、
「いい子に育てる、第一の秘訣は、子どもを使うことです!」と叫ぶ。

 裏の意図をもちながら、表では、まったく別の自分を演ずる。これは偽善とは関係のない話
かもしれないが、そういうことは、日常的に、よく経験する。そしてそれが、予期せぬばしょで、
偽善になったりする。

 ただ許せないのは、偽善で、金をもうけたり、名誉や地位を手にしている連中である。とくに
マスコミの世界には、この種の人間が多い。有名であることを利用して、どこかで難民救済運
動のリーダーになったり、国連の人道支援の先頭に立ったりする。

 そういった活動をする前に、つまりそこにいたるまで、何かの積み重ねがあれば話もわかる
が、そういうのは、まったくない。もう20年ほど前のことになるだろうか。

 あるテレビタレントが、アフリカの難民救済運動のキャンペーンに現地へでかけた。そしてそ
こで、難民の子どもを抱いて、写真撮影をした。が、その撮影が終わると、そのテレビタレント
は、消毒薬で、自分の手や服を懸命にふいていたという。

 たまたまその場に居合わせた別のカメラマンが、その模様をカメラに収め、内部告発をしてし
まった。その写真は、当時の週刊誌に載ったので、私のような人間でも知るところとなった。

 たしかにアフリカのようなところで、難民の子どもを抱くのは、勇気のいることである。それは
わかるが、あとで消毒するくらいなら、最初から、子どもなど抱かないことだ。日本へ帰ってきて
から、涙ながらに、救済運動などしないことだ。

 ……と、グチを書いても始まらない。大衆を動かすためには、別のパワーが必要である。少
し前、自分では国民年金のための積立金を払っていなかった女性タレントが、国民年金の何と
かキャンペーンのポスターガールになって、問題になったことがある。

 では、その女性タレントが、偽善者だったかどうかというと、私は、そうは思わない。その女性
タレントにしてみれば、タレントとしての、演技の一つにすぎなかったのかもしれない。

 そんなわけで、偽善かどうかを見抜くことは、むずかしい。ただ注意しなければならないこと
は、偽善者がはびこればはびこるほど、この社会は、住みにくくなるということ。

 そこでこうした偽善者にだまされないために、私たちは、どう心を防御(ぼうぎょ)したらよいの
かということになる。

 方法としては、その人の一貫性をみるというのがある。

(1)その人の過去と現在への、連続性をみる。
(2)その人の活動と、その人の周辺をみる。

 その人が今、そうであることについては、過去からの積み重ねがあるはずである。たとえば
人知れず、難民救済運動をしてきたとか、そういう積み重ねである。有名になったあと、どこか
らの団体から、その仕事(?)をするようになったというのであれば、まず100%、偽善を疑っ
てみてよい。

 つぎに、その活動と、その人の周辺を比較してみる。日ごろは、ドイツ製の大型高級車に乗
り、超の上に超がつくような豪邸に住み、カメラの前では、質素な作業服を着て、難民の救済
を訴えるというのであれば、ます100%、偽善を疑ってみてよい。

 私が冷静な判断力をもてば、そうした偽善者は、自然と姿を消す。まずいのは、ノーブレイン
の状態で、そういう偽善者に操られるまま、操られること。結果として、悪に手を貸すことにな
る。

 昔の人は、よくこう言った。「悪人のエサになるようなことだけは、するな」と。英語の格言に
も、『A liar is worse than a thief.(ウソつきは、泥棒よりタチが悪い)』というのがある。「私は悪
いことをしない」というだけでは、決して、善人にはなれない。

 善人になるためには、悪と積極的に戦わねばならない。


●K国情勢

 サミット(主要国首脳会議)が終わった。その中で、K国の核開発の放棄を重ねて求めた、議
長総括が発表された。それについて、K国は、「我が方に防御的な核抑止力をさらに強化する
ための、十分な理由を与えるだけである」と反発。

 よく言うね。ホント!

 はじめっから、そのつもりだったくせに。

 一方、韓国は、どうやらK国に、金大中を特使として、送ることになりそうだ(6・14)。

 「K国の核問題は、ワレワレが解決する」と、大言壮語して大統領になった、ノ氏。しかし韓国
は、まったく相手にもされなかった。そればかりか、先の金大中は、K国の金XXに、数百億円
もの、みやげ持参で会っていたという。

 アメリカは撤退するし、国内経済は、めちゃめちゃ。今さら「太陽政策はまちがっていました」
とは、とても言えないのだろう。だから、特使?

 反日、反米もけっこうだけれど、ノ大統領も、もう少し、現実を見たらどうなのだろうか?

 イギリスの報道機関が、先のK国リョンチョン市での爆破事件は、金XXの暗殺をねらった暗
殺未遂事件であったことを、報道した。ガムテープつきの、携帯電話の破片が見つかったそう
だ(中日新聞)。

 そこで韓国系の新聞社のあちこちを、ネットで検索してみたが、そのニュースを伝えたのは、
一つもなかった。ガセネタ?

 今月号の月刊「現代」によれば、「暗殺未遂事件だった」そうだ。あるK国高官の話として、そ
れを伝えている。何がどうなっているか、私にはわからないが、こうした一連の動きは、そのま
ま日本の平和と安全保障の問題とからんでくる。「私には関係ありません」と、逃げているわけ
には、いかない。
(6月14日記)(マガジンでは、7月14日号のほうで掲載します。そのころには、情勢が大きく
変化しているかもしれません。)


【今日の教訓】
 
It's not that I'm so smart, it's just that I stay with problems longer. 
私は頭がいいのではない。ただ問題があると、人より、よく考えるだけ。(A・アインスタイン)

If we had no winter, the spring would not be so pleasant; if we did not sometimes taste of 
adversity, prosperity would not be so welcome. 
もし冬がなければ、春の楽しさがわからない。もし逆境にをときどき経験しないなら、繁栄はそ
れほど楽しいものではない。(アン・ブラドストリート)

The only way of finding the limits of the possible is by going beyond them into the impossible. 
可能性の限界を知る唯一の方法は、それを超えて、不可能の世界へ入ることだ。(アーサー・
C・クラーク)
 
You have undertaken to cheat me. I won't sue you, for the law is too slow. I'll ruin you. 
あなたが私をだまそうと企てても、私はあなたを訴えない。法律は、のろまだ。私はあなたを滅
ぼしてやる。(Cornelius Vanderbilt)

It is better to die on your feet than to live on your knees! 
あなたのひざの上で死ぬくらいなら、あなたの足の上で死んだほうがまし。(Emiliano Zapata)

All glory comes from daring to begin. 
始めたいという強い意欲が、成功へ導く。(Eugene F. Ware)

Character cannot be developed in ease and quiet. Only through experience of trial and 
suffering can the soul be strengthened, ambition inspired, and success achieved. 
人格は、決して簡単に、完成されるものではない。試行と苦しみの経験のみが、あなたの魂を
強固なものにし、野心を鼓舞し、成功をもたらす。(Helen Keller)
 
Good timber does not grow with ease. The stronger the wind the stronger the trees. 
よい材木は、簡単には育たない。風が強ければ強いほど、木は強くなる。(J. Willard Marriott)

I restore myself when I'm alone. 
(私は、ひとりぼっちのときだけ、自分をとりもどす。(マリリン・モンロー)

No pressure, no diamonds. 
圧力なければ、ダイアモンドなし。(メアリー・ケイス)

Capitalism is like an island of wealth, surrounded by a sea of poverty. 
資本主義というのは、貧困の海に囲まれた、富の島のようなものだ。(Noam Chomsky)

In skating over thin ice, our safety is in our speed. 
薄い氷の上でスケートをするときは、速度が速いほど、安全だ。( Ralph Waldo Emerson)

If you go in search of honey, you must expect to encounter bees. 
蜂蜜がほしいと願うなら、そこには、ハチがいる。( Thomas Szasz)
(040614)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(195)

●自己同一性(アイデンティティ)

 若いお母さんでも、「アイデンティティ」という言葉を口にする時代になった。すごいことだと、
私は思う。「みんな、勉強しているんだな」と思う。

 そこでもう一度、そのアイデンティティについて、考えてみたい。日本では、「自己同一性」と訳
されている。

【アイデンティティ】

 もともとは、エリクソンが提唱した、精神分析概念をいう。他人とはちがう、本当の自分、ある
いは「自分らしさ」をいう。

 アイデンティティの確立した人は、自己の単一性、連続性、不変性、独自性の感覚があると
いう(「日本語大辞典」)。そしてその結果、「ある特定の対象や集団との間で、是認された役割
と連帯感がもてる」(同)ようになるという。

 順にかみくだいて、考えてみよう。

(1)自己の単一性

 わかりやすさ……簡単に言えば、そういうことになる。「わかりやすい」というのは、「この子
は、こういう子だ」という、つかみどころをいう。教える立場でいうなら、「こういうことをすれば、
この子は喜ぶだろうな」というふうに、予測のたてやすい子どもということになる。

(2)連続性

 いつも同じ調子であること。気分にムラがなく、性格や気質が安定している。感情が変化する
ことがあっても、「なぜそうなるのか」「なぜそうなったのか」ということが、わかりやすい。突然、
わけのわからないことをする……ということがないことをいう。

(3)不変性

 いわゆるシンのしっかりした子ども、ということになる。自分の意見をもち、その意見に従っ
て、行動する。フラつきがなく、目標に向ってがんばることができる。約束も、しっかりと守る。

(4)独自性

 日本的に言えば、個性のこと。集団の中にいても、その子どもらしさが、光ることをいう。他人
と協調しながらも、いつも「私」をもっている。独自性のない子どもは、どこか軟弱。その場、そ
の場で、他人に迎合したり、同調したりする。

 こうしてアイデンティティの問題を考えていくと、いつも、「では、私はどうか?」という問題に行
きつく。

 実のところ、この私は、そのアイデンティティが、軟弱な人間といってよい。ときどき、自分にさ
え、自分がどこにいるかわからなくなることがある。犬にたとえていうなら、だれにでもシッポを
振る。そんな人間である。

 そういう私だから、若いころは、集団とのかかわりが、苦手だった。いや、表面的には社交的
で、だれとでもうまく交際した。愛想もよく、口もじょうずだった。だから私が、「実は、本当のこと
を言うと、ぼくは、集団が苦手だ」などと言うと、みんな、「ウソつけ」とか、「そんなはずはないだ
ろ」とか、言ったりした。

 しかし本当の私は、そうではなかった。自分をさらけ出せない分だけ、集団の中では疲れた。
エリクソンが唱えるところの、単一性、独自性に欠けた。

 なぜ、私がそうなったかといえば、理由はいろいろ考えられる。しかし自分の記憶をいくらた
どっても、満5、6歳を境に、それ以前は闇に包まれてしまう。自分を客観的に見ることができ
ない。そんなわけで、あくまでもこれは私の推察によるものだが、私は、きわめて精神的に貧し
い乳幼児期から幼児期を過ごしたのではないかと思う。

 で、こうしたアイデンティティは、いつも集団とのかかわりの中で、評価される。いくらアイデン
ティティがあっても、集団とうまくかかわれないというのであれば、それはアイデンティティとは言
わない。「ある特定の対象や集団との間で、是認された役割と連帯感がもてる」ということが、
重要になってくる。

 つまりは、個人と集団との調和が、エリクソンの説く、アイデンティティということになる。「私が
すべて。私以外は、みな、無価値」と考えるのは、アイデンティティでもなんでもない。ただの独
善という。

 そのアイデンティティを、子どもの中に育てるためには、どうするか?

【アイデンティティを育てる】

 アイデンティティをどう育てるか……というよりも、どうすれば、アイデンティティを、つぶさない
ですむかと考えるほうが、実際的である。

 というのも、このアイデンティティは、自然な状態では、どの子どもも、みな、平等にもってい
る。それが、親の過干渉、過関心、溺愛、過保護、さらには育児放棄、否定的な育児姿勢の中
で、つぶされてしまう。そういうケースは、少なくない。

 たとえば否定的な育児姿勢を考えてみよう。

 A子さん(年中女児)が、「私は、おとなになったら、花屋さんになりたい」と言ったとする。その
とき大切なことは、「そうね、花屋さんって、すてきな仕事ね」と、親はそれを前向きにとらえてあ
げる。

 そういう育児姿勢の中で、子どもは、自分の役割を、前向きに形成していくことができる。自
分で花の本を読んだり、種を育ててみたりする。

 が、このとき親が、「花屋さんなんて、ダメ」「あなたは算数教室と英語教室に行くのよ」と、そ
れを否定したとする。(否定するつもりはなくても、否定することがあるので注意する。)

 すると子どもは、自分の意思に自信がもてなくなり、ばあいによっては、自己否定したり、さら
に罪悪感をもつようになる。役割混乱から、情緒不安定になることもある。

 よくある例は、親が、子どもの進路を勝手に変えてしまうようなケース。「成績がさがったか
ら、サッカークラブをやめなさい」とか、「受験が近づいたから、バスケットクラブをやめなさい」
とか言うのが、それ。子どもによっては、あたかも山が崩れるかのように、人格そのものを、崩
壊させてしまうことがある。

 が、実際のところ、否定的な育児姿勢といっても、それは日常的なものである。そしてさらに
その背景はといえば、親の子どもへの不信感がある。「うちの子は、何をしてもだめ」という不
信感が、姿を変えて、否定的な育児姿勢になることが多い。

 そしてそれは、言葉によるというよりは、あくまでも「親の姿勢」によるところが大きい。たとえ
ば、こんな会話。

親「そのお弁当箱を洗っておいてよ。いいこと、しっかり洗うのよ。どうせあなたのことだから、
いいかげんな洗い方をするのでしょうけど……」

親「やっぱり、いいかげんな洗い方ね。もう一度、洗いなさい。あれだけしっかり洗いなさいと言
ったのに、どうして、しっかりと洗えないの。ほら、まだごはんの食べカスが残っているでしょ」

親「あんたみたいな子はね、ずるいから、いつか悪いことをして、警察につかまるかもしれない
わよ。そうなったとき、お母さんの言っている意味が、はじめてわかるのよ」と。

 過干渉にしても、過関心にしても、同じように考えてよい。子どもへの不信感が、子どもへの
過干渉になったり、過関心になったりする。ここでいう否定的な育児姿勢になることもある。

【いつも前向きに……】

 エリクソンは、こう説く。

 赤ん坊がおなかをすかして泣いたとき、すかさず母親が乳を与えたとする。すると子どもは、
自分が泣くことで、母親を動かしたことを知る。

 あるいは赤ん坊がおむつをぬらして、同じように泣いたとする。母親はそれを見て、おむつを
かえたとする。すると子どもは、自分が泣くことで、母親を動かしたことを知る。

 こうした一連の行動をとおして、赤ん坊は、自分が求められていることを知る。「自信」という
言葉が適切かどうかは知らないが、子どもは自分に自信をもつようになる。「安心感」と言いか
えてもよい。この自信や安心感が、「核(コア)」を形成する。

 エリクソンは、それをそのまま、「コア・アイデンティティ」と呼んだ。

 が、反対に、赤ん坊が泣いたとき、それをそのつど、否定したらどうなるだろうか。赤ん坊が
おなかをすかして泣いたとき、無視したり、冷淡にあしらったりする。あるいは、「待っていなさ
い!」と叱って、あとまわしにしたりする。

 そうなると、子どもは、自分のしていることに自信がもてなくなる。不安になる。「私はまちがっ
たことをしているのではないか」と思う。この状態が、子どもから、(私らしさ)をうばっていく。

 が、それだけではすまない。

 このコア・アイデンティティは、まさにその人の核(コア)になる。子どもというのは、この核をふ
くらませる形で、年齢とともに成長していく。もっとわかりやすく言えば、母子関係を、やがて、た
とえば、先生との関係、友人との関係へと、応用していく。

 が、最初の段階で、つまり母子との関係で、核(コア)づくりに失敗した子どもは、たとえば、先
生との関係、友人との関係で、良好な人間関係を結べなくなる。ここでいうアイデンティティも、
同じように考えてよい。

 もうおわかりかと思う。

 子どものアイデンティティを育てるためには、いつも子どもを前向きにほめていく。とくに乳幼
児期は、「子どもを、こうしよう」「ああしよう」と考えるのではなく、ありのままを認めながら、「そ
れでいいのだ」と教えていく。

 この時期は、多少、うぬぼれ気味、自信過剰気味のほうが、あとあとその子どもは、伸びる。
「ぼくは、すばらしい人間だ」「私は、何でもできる」と。そういう思いが、ここでいうアイデンティテ
ィを明確にする。そしてそれが、その子どもを、さらに前向きに伸ばしていく。

 最後に私のばあいだが、私は、30歳をすぎるころから、自分さがしを始めたように思う。そ
れまでの私は、私が何であるか、どこにいるか、何を望んでいるかさえ、よくわからなかった。

 が、40歳をすぎるころからは、そのつど、居なおるようになった。たとえば私は、あのパーテ
ィが苦手だった。酒を飲めないこともある。大声で騒ぎながら、意味もないゲームをしたり、歌
を歌ったりする……。苦手というより、苦痛だった。

 だからそのころから、そういったパーティに出るのをやめるようにした。「私は私だ」と。

 それまでの自分は、みなに嫌われたくない。好かれたい。そういう思いを優先させ、がまんし
ていた。が、そのがまんをするのを、やめた。

 この傾向は50歳をすぎてから、さらに強くなった。「私は、もっと私らしく生きるぞ」と思うよう
になった。が、だからといって、自分のアイデンティティを確立したわけではない。今でも、ふと
油断すると、自分がどこにいるかわからなくなるときがある。

 そういう意味で、この問題は、まさに10年単位の問題と考えてよい。もしこの文章を読んでい
るあなたが、同じような問題をかかえているとしたら、10年単位で考えたらよいということ。決し
て、1年や2年で解決する問題ではない。

 ここでいうアイデンティティの問題には、そういう問題も、含まれるということ。

(はやし浩司 アイデンティティ アイデンティティー 自己同一性 コア コアアイデンティティ コ
ア・アイデンティティ エリクソン)
(040615)

【追記】

 今、ふと思ったが、私の年代の人間には、私のようにヘラヘラと、やたらと愛想がよく、だれ
にでもシッポを振る人間が多いのでは……?

 戦後の貧しい時期に育児を経験したためかもしれないが、ひょっとしたら、あのギューギュー
のつめられた、寿司詰め教育にも、その原因があるのではないか、と。

 私の時代には、50人クラスが当たり前だった。中学校のときは、1クラス55人だった。

 いつも先生が、何かをガンガンと叫んでばかりいたような気がする。考えてみれば、それもそ
うで、先生もたいへんだったなあと思うと同時に、ああいう世界では、そもそもアイデンティティ
をもつことすら、許されなかったのではないか。

 あくまでも、今、ふとそう思ったというだけのことだが、近く、この問題についても考えてみた
い。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(196)

【近ごろ・あれこれ】

●巨大なおなら

 年長児たちを教えているときのこと。近くの道路で、工事が始まった。その音と振動が、壁を
震わせて、教室中に、ブリブリブリと響いた。

 すかさずA君が、こう言った。「おならの音みたい!」と。

 それを見て、私は、こう言った。「ほう、君のおならは、こんなすごい音なの?」と。が、A君
は、こう言った。

 「ううん、ぼくじゃない。ママのオ!」と。

 横の席では、母親たちがみな、参観していた。私は反対側に顔をそらし、顔を半分、手で隠し
た。とても、母親たちのほうを見ることができなかった。A君の母親は、背も高く、とても美しい
人だった。

 で、今週のレッスンは、「色」。色の常識について、学習した。

 途中、色のついたセロファンを渡し、それを子どもたちに見せ、「赤と、青で、何色になるか
な?」と。子どもたちは、それに答えて、「ムラサキ!」と。

 あとは、白黒の線だけで描いた、「春」「夏」「秋」「冬」の絵を渡し、それに色を塗らせた。

 色使いになれている子どもは、自然な感じで色を塗る。そうでない子どもは、そうでない。中
に、色覚障害の子どもいる。見て見ぬフリをして、その場はやりすごす。

 こういうケースでも、「どうしてうちの子は、葉っぱを茶色に塗るのでしょうか?」という親から
の質問がないかぎり、こちらからそれを指摘することは、ない。また指摘してはならない。

 私がすべきことは、子どもたちを楽しませること。すべては、ここから始まり、ここに終わる。
子どもたちが笑い、親たちが笑えば、それでよい。


●ニックネーム

 ところで私のニックネームは、「ビ・ダン・シ(美男子)」「コウ・ダン・シ(好男子)」「ニマイメ(二
枚目)」「チョウソク・ノ・コウダンシ(長足の好男子)」。

 いつだったか、私のことを、「ジジイ」とか、「クソジジイ」とか呼んでいた子どもがいた。それで
「もっと悪い言葉を教えてあげようか」と言うと、子どもたちが「教えて」「教えて」と言った。

 それで「ビ・ダン・シ」と教えてやった。

 以来、子どもたちは、私のことを「ビ・ダン・シ」と呼ぶようになった。あとの言葉も同じように教
えた。

 が、ある日、一人の子ども(小1)がこう言った。

 「パパに、聞いたら、『ビダンシ』って、いい意味だってエ。かっこいい人のことを、ビダンシっ
て、言うんだってエ」と。

 そこで私は、こう言った。

 「それはね、君のお父さんが、そういう言葉を使ってほしくないから、そういうウソを言っている
んだよ」と。

 子どもは、どちらを信じてよいかわからないような様子をしてみせたが、しかしその子どもは、
今でも、私をうれしそうに、「ビダンシ!」「ビダンシ!」と呼んでいる。

 私は、そのつど、怒ったフリをして、子どもにこう言う。

 「そういう悪い言葉を使ってはダメだア!」と。


●睡眠障害

 このところ、毎晩、夜中に、2、3回、目がさめる。たいていは何かの夢を見ていて、それで、
目がさめる。

 あるいはさめるときに、夢を見るのかもしれない。どちらにせよ、床についてから、朝までぐっ
すり……ということが、できなくなってしまった。

 どこに原因があるのか?

 自分でもわかっていることが、いくつかある。

 その一つは、床につく直前まで、原稿を書いているイコール、頭を使っている。これがよくな
い。床につく前は、最低でも1、2時間は、頭を休めなければならない。それはよくわかっている
が、原稿を書きながら、どうしても夜更かしをしてしまう……。

 つぎにこのところ、精神状態が、あまりよくない。更年期特有の症状かもしれない。初老性の
うつ病かもしれない。何かにつけて、気が滅入る。それにグチっぽくなった。

 一応、睡眠薬はもっているが、ほとんど、使ったことがない。「ほとんど」というのは、たまに、
一錠を、5分の1から、8分の1程度に、割ってのんでいる。

丸々1錠ものんだら、(一度、あるが……)、あとがたいへん。朝起きてからも、夢なのか、現実
なのか、区別がつかなくなってしまう。(医者からは、1回で2錠のむように、言われているが…
…。)

 昨夜は、そんなわけで早めに床についたが、枕元で、CD(ジョン・デンバーのカントリー・ウエ
スタン)を聞いて寝たのがよくなかった。途中でボリュームを落そうと考えたが、それもめんどう
で、がまんして聞いてしまった。おかでげ、夜中に、軽い頭痛。

 ワイフに、ひたいに湿布薬を張ってもらう。それに、またまた蚊の出現。いったい、どこから侵
入してくるのだ!

 その点、山荘はよい。山の中にあるだけに、安心して眠れる。じゃまはない。蚊もいない。た
いていは朝まで、一眠り。……ということを考えながら、今日も始まった。がんばろう。みなさ
ん、おはようございます。


●子離れ

 小学3、4年生を境に、子どもは、急速に親離れを始める。しかし徐々に、親離れするわけで
はない。

 最初は、どこか遠慮がちに、生意気になってみせたり、おとなのまねをしてみせたりする。や
がて、その比重が大きくなり、結果として、親離れをする。

 ときには、幼児にもどり、母親のおっぱいをもとめたりすることがある。が、それでいてときに
は、母親が幼児あつかいをすると、それに反発してみせたりする。これを私は、「揺りもどし」と
呼んでいる。
 
 つまり子どもは、ときに幼児にもどり、ときにおとなのまねをしながら、親離れをしていく。

 一方、親は、子どもを育てる。それは事実だが、同時にいつも、いかにすれば子離れできる
かを考えて行動しなければならない。

 過関心、過保護、過干渉、溺愛は、子どもの自立にとって、害にこそなれ、よいことは何もな
い。さらに悪いのは、神経質な子育て。

 この時期、親、とくに母親は、異常なまでに神経質になる。「異常なまでに」だ。他人の子ども
とのささいなちがいや、差に、おおげさに反応したりする。園や学校の先生の言動を、ことさら
問題にして、大騒ぎすることもある。

 いろいろな例がある。

 「うちの学校の先生は、子どもがしたテストを、丸めて、子どもに投げて返している。人間性を
無視した、許せない行為だ」

 「音楽会のとき、トイレで時間をとられ、演奏中だからという理由で、会場へ入れてくれなかっ
た。うちの子の演奏を見ることができなかった。あまりにもひどい」
 
「席決めのとき、好きな子どうし並んでいいと先生は言ったが、友だちのない子どもへの配慮に
欠ける。許せない」

 「並べ方の悪かった子どもの靴を、先生は、玄関先へすべてほうりなげてしまった。感情的な
行為で、許せない」など。

 少し冷静になれば、何でもないことばかりである。しかし親には、それがわからない。

 が、これだけは覚えておくとよい。

 親が神経質になっても、よいことは何もない。子どものためにならないことは、もちろんのこ
と、その親自身を見苦しくする。さらに思い出そのものを、見苦しくする。

 子どもは親離れする。同時に親も子離れをする。そしてその親離れ、子離れは、親によって
は、つらく、さみしいものである。そのつらさや、さみしさに耐えるのも、親の努めということにな
る。決して、子どものかわいさに溺れてはいけない。
(はやし浩司 子離れ 親離れ)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(197)

●際限

 A君(小2)の母親が、私の部屋にやってきて、こう言った。「先生、うちの子は、学校の宿題
をしません。私が『やったの?』と聞くと、『やった』と言って、ウソをつきます。どうしたらいいでし
ょうか」と。

 私はA君の母親と、10分ほど、話をした。

 A君の母親は、どこか不満足そうな顔をして、部屋から出て行った。

 すると今度は、B君(小2)の母親が、私の部屋にやってきて、こう言った。「先生、うちの子
は、ときどき、学校をずる休みします。『頭が痛い』とか、『おなかが痛い』などと言ってウソをつ
きます。そこで病院へつれていくのですが、いつも何ともありません。どうしたらいいでしょうか」
と。

 私はB君の母親と、20分ほど、話をした。

 B君の母親は、どこか不満足そうな顔をして、部屋から出て行った。

 すると今度は、C君(小2)の母親が、私の部屋にやってきて、こう言った。「先生、うちの子
は、学校の給食を食べません。給食の時間になると、気持ち悪いと言っては、保健室で横にな
っています。どうしたらいいでしょうか」と。

 私はC君の母親と、30分ほど、話をした。
 
 C君の母親は、どこか不満足そうな顔をして、部屋から出て行った。

 すると今度は、D君(小2)の母親が、私の部屋にやってきて、こう言った。「先生、うちの子
は、ときどき学校へ行くのをいやがります。先週も、朝になって突然、『学校へ行きたくない』と
言い出しました。しかたないので、車で学校まで送っていきました。校門のところまで、担任の
先生に迎えにきてもらってはじめて、校舎の中に入っていきました。どうしたらいいでしょうか」
と。

 私はD君の母親と、40分ほど、話をした。

 D君の母親は、どこか不満足そうな顔をして、部屋から出て行った。

 すると今度は、E君(小2)の母親が、私の部屋にやってきて、こう言った。「先生、うちの子
は、給食の時間までは、何とか、勉強しますが、給食を食べると、いつもそのまま保健室へ直
行です。たいていは、1時間ほど休んで、そのまま家に帰ってきてしまいます。どうしたらいいで
しょうか」と。

 私はE君の母親と、50分ほど、話をした。

 E君の母親は、どこか不満足そうな顔をして、部屋から出て行った。

 すると今度は、F君(小2)の母親が、私の部屋にやってきて、こう言った。「先生、うちの子
は、やっと何とか、学校へ行くようになりましたが、一週間のうち、2、3日は、休んでしまいま
す。家にいるときは元気そうなので、『学校へ行こうよ』と話すと、そのときは、『うん』などと言っ
たりします。しかし朝になると、『行きたくない』と言います。どうしたらいいでしょうか」と。

 私はF君の母親と、1時間ほど、話をした。

 F君の母親は、どこか不満足そうな顔をして、部屋から出て行った。

 すると今度は、G君(小2)の母親が、私の部屋にやってきて、こう言った。「先生、うちの子
は、不登校児になって、もう3か月になります。このまま学校へ行かなくなってしまうのではない
かと、心配でなりません。どうしたらいいでしょうか」と。

 私はG君の母親と、2時間ほど、話をした。
 
 G君の母親は、どこか不満足そうな顔をして、部屋から出て行った。

 ほとんどの親は、自分の子どもに何か問題が起きると、それを(なおそう)と考える。その気
持ちはわからないでもないが、しかし無理をすれば、症状は、さらに悪化する。その危険性は、
いつも50%、ある。

 が、親には、それがわからない。わからないから、無理をする。無理をするから、症状は悪化
する。「まだ以前のほうが症状が軽かった」という状態を繰りかえしながら、さらに悪化する。あ
とは、底なしの悪循環!

 だから、もしあなたの子どもに、何か、問題が起きたら、なおそうと考えるのではなく、今の状
態をより悪くしないことだけを考えて、半年単位で様子をみる。とくに心の問題は、そうする。そ
の(ゆとり)が、子どもの心の回復を早める。

 最後に一言。どこに「際限」を置くか。その置きどころによって、子どもの見方が大きく、変わ
ってくる。

 つまるところ、結論は、そういうことになる。


●落ちこむとき

 ここ数日間、たしかに落ちこんでいる。気分がふさいでいる。生きザマが、うしろ向き。グチが
多くなった。依存性も強くなり、ものごとを何でも悪いほうへ、悪いほうへと考えてしまう。

 そこで今の状態を、できるだけ正確に、記録しておきたい。

 こういうときというのは、まず、何をしても、ムダなように思ってしまう。「今まで何をしてきたの
だろう」「これから、どうすればいいのだろう」と。

 そういうところへ、ささいな事件がいくつか重なる。ふだんなら、その場で考えて、その場で忘
れる。日々のルーティーン(日常行為)を繰りかえしながら、つぎの行動に移る。が、落ちこむ
と、そういう事件が、ピッタリと脳ミソに張りついてしまう。

 気になる。悩む。ついでに腐る。

 しばらくそれがつづくと、頭が重くなる。額(ひたい)に手をあてると、前頭がいつもより熱いの
がわかる。(あるいは四肢の先が冷えるのかもしれない……。)

 ものの考え方が、短気になる。結論ばかり求めるようになる。もう少し具体的に、説明してみ
よう。たとえば……。

 今、R社の無料サービスを利用して、ホームページを出している。日記中心の気楽なホーム
ページである。そこへある日突然、相談の書き込みがある。

 内容は、いきなり子育て相談。その人の名前だけで、住所はない。「子どもがどうのこうの。こ
ういうときはどうしたらいいか?」と。

 そこで私のほうとしては、もう少し情報がほしい。それに相手が、どこのだれかわからないま
ま返事を書くというのは、不安でならない。返事を書くにしても、30分とか、1時間はかかる。私
には、貴重な1時間である。

 私は、こう書く。「ご住所を教えていただけませんか? ご住所とお名前のわからないかたに
は、原則として、相談はお断りしています」と。

 すると相手から、こんなメールが届く。「何を、お高くとまってんの!」と。実際、あった話であ
る。

 そんなとき私は、「私のしていることは、この程度か」と、つくづく思い知らされる。が、ここで終
わるわけではない。

 今度は別の母親から、「うちの子が自閉症です。指導してください」と。メールにして、15行く
らい。もちろん名前だけで、住所はない。

 そこで先のメールのこともあり、返事を書きそびれていると、その数日後には、今度は、督促
のメール。

 「先日、うちの子の自閉症のことで、相談したものです。相談にのっていただけるかどうか、
返事くらいくださってもいいじゃありませんか」と。

 気分がよいときは、そのまま無視するか、少しとぼけて、別の返事を書いたりする。しかし落
ちこんでいるときは、そうはいかない。「もう子育て相談なんか、やめてしまおう」とか、ついで
に、「マガジンの発行など、やめてしまおう」とか、そんなところまで考えてしまう。

 ひとつの例として、子育て相談のことを書いたが、職場でも、同じようなことが起きる。一つや
二つならよいが、三つ、四つと重なると、処理しきれなくなる。頭の中がパニック状態になる。そ
してしばらくすると、つまり疲れてくると、それに比例して、気分が落ちこんでくる。

 そういうときは、たしかに短気になる。ものごとをめんどうに思うということは、短気になるとい
うことか。

 そこでこういうときは、ワイフに相談する。ワイフは、いつも私を客観的に見ている。いわく、

 「子育て相談を受けるのは、もうやめたら? 今どき無料で、だれもそんなこと、してないわ
よ」と。

 ワイフの意見は、いつも簡単、明瞭(めいりょう)。その簡単、明瞭するぎるところが、かえって
気になる。

 で、こういうときは、どうしたらよいか。

(1)結論は出さないこと。
(2)気分転換をはかること。
(3)趣味をすること。

 いつもの解決法である。で、今は、その(1)(2)(3)を頭の中で復唱しながら、好き勝手なこ
とをしている。雑誌を読んだり、模型をながめたり、熱帯魚の水槽を洗ったり。そうそう昨夜
は、ドーナツを、食べきれないほど、どっさりと買ってきた。

【読者のみなさんへ】

 ほとんどの方は、よい人ばかりです。わかっています。どうか心配なさらないでください。今の
状態からすると、あと1日もすると、もとの(はやし浩司)にもどると思います。これから朝食で
す。

 ただ……。このところ、多くの方から、子育て相談をいただきながら、そのほとんどに、返事
を書けない状態がつづいています。そのためかえって、相談を寄せてくださる方に、申し訳なく
思っています。

そんなわけで、子育て相談については、HPのほうから、そのコーナーを削除することにしまし
た(6月18日)。

 さてさて、これから、ドーナツに、ベジマイト(オーストラリアのジャム?)をつけて、食べてきま
す。

 おはようございます! 


●愛国心

 教育基本法について、自民党と公明党が、中間報告を提出した。

 「教育基本法改正に関する協議会」は、6月16日、教育基本法についての、中間報告をまと
めた。それによると、

(1)焦点の「愛国心育成」については、自公両党の主張を併記して、調整を参議院選挙後にも
ちこした。

 自民党は、愛国心育成に関して、「郷土と国を愛し」と主張した。しかしS価学会を支持母体と
する公明党は、「郷土と国を大切にし」と主張した。創価学会としては、「愛」という言葉を使うわ
けにはいかならしい。「愛」というのは、彼らが言うところの「邪宗」が使う言葉である。

(2)宗教教育については、「宗教に対する寛容の態度が大事」などとする現行法の理念をその
まま踏襲することになった。

 これは公明党の意向に沿ったものだという。

 そのうち日本中の子どもが、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えながら、授業に入るようになる
かもしれない。
(はやし浩司 教育基本法 愛国心)


●愛国心

 しかし一般庶民の一人して、私はこう思う。

 愛国心などというものは、もっと自発的なもので、国から押しつけられるものではない。いわ
んや、教育で教えられるものでもない。

 たとえば現在の政治家たちをみてみよう。どの政治家も、いざ戦争となったら、イの一番に、
後方へ、真っ先に逃げるような政治家ばかりである。命がけで、国民の前に立って、戦うよう
な、そんな雰囲気のある政治家は、悲しいかな、一人もいない。

 私たちは、そういう雰囲気を、彼らの言動を通して、日常的に、感じ取っている。

 たとえば今度の国会でも、国民年金が一つの大きな焦点になった。しかし国会議員たちは、
みな、月額50万円〜60万円の年金を手にすることができる。

 そういう大特権を一方でしっかりと握りながら、政治家たちは、国民の負担を大きくし、年金
額を減らした。が、それだけならまだしも、与党の党首、野党の党首以下、国民年金の保険料
を払っていなかった議員が、続出!

 私たちは、そういう政治家の姿を見て、「何が、愛国心だ」と笑ってしまう。もし愛国心とやらを
人に説くなら、まず自分たちが、率先して、年金の不公平を是正してみせることだ。

 愛国心などというものは、国が国として示す、高い理念や理想を見ながら、庶民の間から、自
発的に生まれてくるもの。自由、平等、正義だ。K国のような独裁国家ならいざ知らず、自分た
ちは好き勝手なことを、し放題しておきながら、庶民や子どもたちに向かって、「国を愛せ」は、
ない。

 が、自民党のみなさん、公明党のみなさん、どうぞ、ご心配なく。

 私たち庶民は、何も政治家に言われなくても、そのときがきたら、ちゃんと敵と戦う。国を愛す
る。国のために、死ぬ。

 ただ誤解しないでほしいのは、その戦闘で、敵に追いつめられ、最後のときを迎えるとき、私
が歌うのは、『君が代』ではない。『ふるさと』だ。敵につっこんで死ぬときは、『天皇陛下、バン
ザーイ!』ではない。『妻よ、息子たちよ、さようなら!』だ。

 私にとっての愛国心とは、そういうものをいう。

 どうぞ、どうぞ、ご心配なく!

++++++++++++++++++

●ふるさと


うさぎ追いし 彼の山
こぶな釣りし 彼の川
夢は今も めぐりて
忘れがたき ふるさと 


如何にいます 父母
つつがなしや 友がき
雨に風に つけても
思いいずる ふるさと 


志を 果たして
いつの日にか 帰らん
山は青き ふるさと
水は清き ふるさと

(作詞 高野辰之 作曲 岡野貞一)


●若いころ

 若いころ、外国へ行くたびに……というか、外国に住んでいて、悲しいことやつらいことがある
たびに、私は、あの『♪ふるさと』を、口ずさんだ。

 すばらしい歌だ。いろいろ意見はあるようだが、もし私が、「日本で一番すばらしい曲は?」と
聞かれれば、私はまよわず、この『♪ふるさと』をあげる。

 この歌のすばらしいところは、3拍子であること。歌い方によっては、軽快なワルツにもなる
し、少しゆっくりと6拍子で歌えば、心温まるのどかな歌にもなる。そのときどきの心の状態に
合わせて、楽しくも、またしんみりと歌うことができる。

 そう、この歌を歌いながら、私は、何度、涙を流したことか。なぐさめられ、励まされたことか。
日本を思い、心を休めたことか。

 ほかにもすばらしい歌として、『♪赤とんぼ』をあげる人も多い。人それぞれだが、先日、アメ
リカに住む二男が送ってくれたビデオ(CD)を見ていたら、こんなシーンがあった。

 アメリカ人になりきろうとがんばっている二男だが、孫の誠司に、ギターを弾きながら、『♪ふ
るさと』を歌って聞かせていた。

 私はそのシーンを見たとき、あたかも自分が外国にいるような錯覚にとらわれた。そして昔、
外国で自分が流した涙と同じものを流した。

 それは頬をも溶かすほど、熱い涙だった。

 だから改めて、言う。

自民党のみなさん、公明党のみなさん、どうか、ご心配なく。

 私たち庶民は、何も政治家に言われなくても、そのときがきたら、ちゃんと敵と戦う。国を愛す
る。国のために、死ぬ。

 その覚悟は、できている!
(はやし浩司 愛国心 教育基本法 ふるさと)


●平和教育

 人格の完成度は、その人が、いかに「利他」的であるかによって決まる。「利己」と「利他」を
比較してみたばあい、利他の割合のより大きい人を、より人格のすぐれた人とみる。

 同じように国家としての完成度は、いかに相手の国の立場でものを考えることができるかで
決まる。経済しかり、文化しかり、そして平和しかり。

 自国の平和を唱えるなら、相手国の平和を保障してこそ、はじめてその国は、真の平和を達
成することができる。もし子どもたちの世界に、平和教育というものがあるとするなら、いかに
すれば、相手国の平和を守ることができるか。それを考えられる子どもにすることが、真の平
和教育ということになる。

 私たちは過去において、相手の国の人たちに脅威を与えていなかったか。
 私たちは現在において、相手の国の人たちに脅威を与えていないか。
 私たちは将来において、相手の国の人たちに脅威を与えるようなことはないか。

 つまるところ、平和教育というのは、反省の教育ということになる。反省に始まり、反省に終
わる。とくにこの日本は、戦前、アジアの国々に対して、好き勝手なことをしてきた。満州の植
民地政策、真珠湾の奇襲攻撃、それにアジア各国への侵略戦争など。

 もともと自らを反省して、責任をとるのが苦手な民族である。それはわかるが、日本人のこの
無責任体質は、いったい、どうしたものか。

 たまたま先週と今週、2週にわたって、「歴史はxxxx動いた」(NHK)という番組を見た。日露
戦争を特集していた。その特集の中でも、「どうやって○○高地を占領したか」「どうやってロシ
ア艦隊を撃滅したか」という話は出てくるが、現地の人たちに、どう迷惑をかけたかという話
は、いっさい、出てこなかった。中国の人たちにしてみれば、まさに天から降ってきたような災
難である。

 私は、その番組を見ながら、ふと、こう考えた。

 「もし、今のK国が、日本を、ロシアと取りあって、戦争をしたら、どうなるのか」と。

「K国は、50万人の兵隊を、関東地方に進めた。それを迎え撃つロシア軍は、10万人。K国
は箱根から小田原を占領し、ロシア軍が船を休める横須賀へと迫った……、と。

 そしてそのときの模様を、いつか、50年後なら50年後でもよいが、K国の国営放送局の司
会者が、『そのとき歴史は変わりました』と、ニンマリと笑いながら、得意げに言ったとしたら、ど
うなるのか。日本人は、そういう番組を、K国の人たちといっしょに、楽しむことができるだろう
か」と。

 日露戦争にしても、まったく、ムダな戦争だった。意味のない戦争だった。死んだのは、何十
万人という日本人、ロシア人、それに中国人たちだ。そういうムダな戦争をしながら、いまだに
「勝った」だの、「負けた」だのと言っている。この日本人のオメデタサは、いったい、どこからく
るのか。

 日本は、歴史の中で、外国にしいたげられた経験がない。それはそれで幸運なことだったと
思うが、だからこそ、しいたげられた人の立場で、ものを考えることができない。そもそも、そう
いう人の立場を、理解することさえできない。

 そういう意味でも、日本人がもつ平和論というのは、実に不安定なものである。中には、「日
本の朝鮮併合は正しかった。日本は、鉄道を敷き、道路を建設してやった」と説く人さえいる。

 もしこんな論理がまかりとおるなら、逆に、K国に反対のことをされても、日本人は、文句を言
わないことだ。ある日突然、K国の大軍が押し寄せてきて、日本を占領しても、文句を言わない
ことだ。

 ……という視点を、相手の国において考える。それが私がここでいう、平和教育の原点という
ことになる。「日本の平和さえ守られれば、それでいい」という考え方は、平和論でもなんでもな
い。またそんな視点に立った平和論など、いくら説いても意味はない。

 日本の平和を守るためには、日本が相手の国に対して、何をしたか。何をしているか。そし
て何をするだろうか。それをまず反省しなければならない。そして相手の国の立場で、何をす
べきか。そして何をしてはいけないかを、考える。

 あのネール(インド元首相)は、こう書いている。

 『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合した世
界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。

 考えてみれば、「平和」の概念ほど、漠然(ばくぜん)とした概念はない。どういう状態を平和と
いうか、それすら、よくわからない。が、今、平穏だから、平和というのなら、それはまちがって
いる。今、身のまわりで、戦争が起きていないから、平和というのなら、それもまちがっている。

こうした平和というのは、つぎの戦争のための準備期間でしかない。休息期間でしかない。私
たちが、恵まれた社会で、安穏としたとたん、世界の別のところでは、別のだれかによって、つ
ぎの戦争が画策されている。

 過去において、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えていたか。
 今、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えているか。
 さらの将来、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えるだろうか。

 そういうことをいつも、前向きに考えていく。またそれを子どもたちに教えていく。それが平和
教育である。
(はやし浩司 平和教育 平和 平和論)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司






 はやし浩司 林浩司 林浩 子供の悩み 幼児教育論 育児論 子育て論 はやし浩司 林浩司 教育評論家 評論家 子供の心理 幼
児の心理 幼児心理 幼児心理学 子供の心理 子育て問題 はやし浩司 子育ての悩み 子供の心 育児相談 育児問題 はやし浩司
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大学法文学部卒 はやし浩司 教育評論家 幼児教育評論家 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法
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 はやし浩司・林浩二(司) 林浩司 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 Hiroshi
Hayashi / 1970 IH student/International House / Melbourne Univ. writer/essayist/law student/Japan/born in 1947/武義高校 林
こうじ はやしこうじ 静岡県 浜松市 幼児教育 岐阜県美濃市生まれ 金沢大学法文学部卒 教育評論家 ハローワールド(雑誌)・よ
くできました(教材) スモッカの知恵の木 ジャックと英語の木 (CAI) 教材研究  はやし浩司 教材作成 教材制作 総合目録 はやし
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はやし浩司 タイプ別育児論 赤ちゃんがえり 赤ちゃん言葉 悪筆 頭のいい子ども 頭をよくする あと片づけ 家出 いじめ 子供の依
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叱り方 しつけ 自閉症 受験ノイローゼ 小食 心的外傷後ストレス障害 情緒不安 自立心 集中力 就眠のしつけ 神経質な子ども 
神経症 スキンシップ 巣立ち はやし浩司 タイプ別育児論 すなおな子ども 性教育 先生とのトラブル 善悪 祖父母との同居 大学
教育 体罰 多動児男児の女性化 断絶 チック 長男・二男 直観像素質 溺愛 動機づけ 子供の同性愛 トラブル 仲間はずれ 生
意気な子ども 二番目の子 はやし浩司 タイプ別育児論 伸び悩む子ども 伸びる子ども 発語障害 反抗 反抗期(第一反抗期) 非
行 敏捷(びんしょう)性 ファーバー方式 父性と母性 不登校 ぶりっ子(優等生?) 分離不安 平和教育 勉強が苦手 勉強部屋 ホ
ームスクール はやし浩司 タイプ別育児論 本嫌いの子ども マザーコンプレックス夢想する子ども 燃え尽き 問題児 子供のやる気 
やる気のない子ども 遊離(子どもの仮面) 指しゃぶり 欲求不満 よく泣く子ども 横を見る子ども わがままな子ども ワークブック 忘
れ物が多い子ども 乱舞する子ども 赤ちゃんがえり 赤ちゃん帰り 赤ちゃん返り 家庭内暴力 子供の虚言癖 はやし浩司 タイプ別
育児論はじめての登園 ADHD・アメリカの資料より 学校拒否症(不登校)・アメリカ医学会の報告(以上 はやし浩司のタイプ別育児論
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て論 幼児教育論 幼児教育 子育て問題 育児問題 はやし浩司 林浩司