はやし浩司

最前線の育児論(501〜600)
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はやし浩司
最前線の育児論(500〜550)

最前線の子育て論byはやし浩司(500)

●冗談? ジョーク?

 K国の国営放送提供の科学番組(?)なるものを見た(12・27)。たいへん、おもしろかっ
た。その番組の中でのこと。

 「髪の毛の長い人は、バカになる。それは脳ミソに行き渡るべき栄養素が、髪の毛のほうに
回ってしまうからである」

 「K国のP市周辺には、太古の昔、ブドウを食べて暮らしていた原人が住んでいた。その原人
が進化して、現在のK国人になった」

 「大麻の種には、良質の油がある。その油を抽出するために、K国は、大麻の栽培を奨励し
ている」などなど。

 番組の内容を思い出しながら書いているので、不正確だが、しかし私はこの番組を見なが
ら、思わず、吹きだしてしまった(失礼!)。「これは冗談か、それともジョークか」と。(冗談もジ
ョークも同じようなものだが……。)

 しかしあの国には、国営放送局しかないはず。それに意見を述べている人たちも、見た感じ
は、大まじめ。日本のバラエティ番組に感ずるような、あのいいかげんさは、感じられなかった
(?)。とくに髪の毛の長い人は、バカになるという意見には、笑った。「じゃあ、女性は、みんな
バカなのかねえ?」と。

 あまりにも幼稚な知的レベル。うわさには聞いていたが、ここまで低レベルとは!!

 ……と考えたが、こうした幼稚性は、この日本にも、ないわけではない。「髪の毛の長い人は
バカになる」という説は、「血液型による性格判定」の話に通ずる。「原人」の話は、「藤Kの、石
器ねつ造」の話に通ずる。また「大麻の種から油」の話は、少し飛躍するが、その反対側にあ
る化学万能主義につながる。環境ホルモンにくらべれば、大麻の油など、何でもない。さらに最
近の占いブームなどを見ていると、K国の科学性(2)を、笑うことはとてもできない。

で、その中でもよい例が、超能力をテーマにした番組。

 ときどき超能力犯罪捜査官というのが、テレビに出てくる。アメリカのFxx捜査官とか何とか、
もっともらしい肩書きをもっている人もいる。失踪者や事件に巻きこまれた人のもちものなどを
見て、その人がどこにいるかを当てたりする。まことしやかに、地図を描いて見せたり、事件の
概要を説明したりする。

 私もときどき見て、トリックを見破ってやろうと考えるが、今のところ、見破ることができない。
実に巧みというか、うまいというか?

 そういう番組を見ていると、「髪の毛の長い人は、バカになる」という番組のほうが、ずっとわ
かりやすい。罪がない。プラス、もしろい。子どもたちですら、ハハハと笑ってすますことができ
る。

 で、そうした超能力者(?)たちの能力だが、私が見たところ、1人とて、最後まできちんと失
踪者を発見した人や、事件を解決した人はいない。話せば長くなるので、ここでは省略する
が、最後はいつも、「?」のまま終わる。当然である。

 もしそんなことで、失踪者の居場所や事件の概要がわかるようなら、私たちが今ここで生きて
いること自体、意味がなくなってしまう。そうした番組を見る私たちに必要なことは、そういうあ
やしげな超能力に驚くことではなく、そのウラを検証することである。つまり、それが科学であ
る。理性である。知性である。

 ……こういうことを書くと、猛反発が起きるかもしれない。すでにそうした超能力を信じている
人は多い。宗教教団のような団体を作って活動している人もいる。もちろん宗教団体もある。

 私にはこれ以上のことはわからないが、K国の科学番組を見て、ハハハと笑うことなら、だれ
にだってできる。しかしもっと重要なことは、他人を笑ったら、自分の中にもそれがないか、そ
れを疑ってみることである。

 先日も、「アメリカ人の大学生のほとんどは、日本がどこにあるかさえ知らない」と笑っていた
人がいた。ならば聞くが、日本人の大学生で、ブルネイ・ダルサラーム国がどこにあるか知って
いる大学生は、いったい、何%いるのか……ということになる。日本の三重県ほどの小さな国
だが、日本のすぐ近くにある。日本とのつながりも、深い。

 K国のその番組は、実に楽しい番組だった。久々に声を出して笑った。が、そのあと、その番
組には、いろいろと考えさせられた。昔からこの日本でも、こう言うではないか。『人のフリみ
て、我がフリ直せ』と。ナルホド!


●運命について

 私やあなたには、無数の糸がからんでいる。国という糸、社会という糸、地域や家族という
糸、親類や友人という糸、環境という糸、能力や知能という糸、そして最後に、「人間という
糸」。

 私たちはいくらもがいても、その糸からすべて解放されるということはない。ないばかりか、い
つの間にか、その糸の中で、自分の進む道がつくられていく。もし運命というものがあるとすれ
ば、その糸が決める道が、運命ということになる。

 私は、そういう意味では、運命を否定しない。が、いくらそういう運命があったとしても、その
運命と戦って生きていくところに、その人の生きる意味がある。価値がある。そしてそこから無
数のドラマが生まれる。

 さらに言えば、最後の最後のところで、ふんばる。そこに人間の生きる尊さがある。美しさが
ある。

 仮に逆境に包まれたとしても、その運命をのろうことはない。運命を避けたり、嫌ったりするこ
ともない。

 運命は笑って受け入れる。楽しんで受け入れる。「喜んで」というわけにはいかないかもしれ
ないが、悲しむ必要はない。運命は、そこにあって、いつもあなたに何かを教える。教えるため
に、そこにある。ムダな運命はない。ムダにする必要はない。

 だれしも平和でのどかな生活を望む。しかしそういう生活からは、何も生まれない。感動も生
まれない。トンネルを抜けて、日の明るさがわかるように、きびしい冬を経験して、春の暖かさ
がわかるように、苦しみや悲しみがあって、(だれも、それを望むわけではないが)、幸福の意
味がわかる。が、それだけではない。

 神は愛といった。仏は慈悲といった。そうした人間が求める究極の真理にしても、逆境の中
でこそ、人は、それを知ることができる。

 ときとして運命は、過酷な試練をあなたに強いる。つぎからつぎへと、そして容赦なく強いる。
糸にたとえるなら、振りきっても、振りきっても、糸のほうから、からんでくる。が、その運命から
逃れることはできない。逃れようとすればするほど、向こうからからんでくる。運命というのはそ
ういうもの。

 だったら、どうするか。

 運命を乗り越える最大の武器は、現実主義。徹底した現実主義。あるがままを受け入れて、
そこを原点として、前向きに考えていく。うらんだり、後悔しても、意味はない。逃避したり、ごま
かしても、意味はない。将来を悲観したり、心配しても、意味はない。運命に向かって、まっすぐ
に向かっていく。


●無知・無理解

 心の病気と無縁な人は、少なくない。(うらやましい!)幸運な人である。しかしそういう人は、
心の病気がどういうものか、理解できない。当然と言えば当然だが、そのとき、自分がそうであ
るからという理由だけで、相手の病気を考えてしまうことがある。それがかえって、相手の病気
をこじらせてしまう。

 わかりやすい例で説明しよう。

 子どもの世界には、学校恐怖症というのがある。対人恐怖症や、集団恐怖症がこじれて、そ
うなる。不登校の原因の一つとされる。(詳しくは、「はやし浩司 学校恐怖症」で。)

 前兆期、パニック期を経て、不登校期へ突入する。

 たいていの親は、自分の子どもが不登校児になったりすると、その初期の段階(パニック期)
で、狂乱状態になる。不安と心配、それらが混然一体となって、親を襲う。それはよく理解でき
る。が、このとき重要なのは、心の病気というのは、短くて半年単位、あるいは1年単位で、推
移するということ。それを忘れてはいけない。学校恐怖症にしても、うつ病に準じて考える。

 が、心の病気になった人は、それが理解できない。「気はもちようだ」と安易に考える傾向が
強い。だから子どもに少しでも変化が見られたりすると、そこで無理をする。数年前だが、こん
なことがあった。

 ある母親から、「うちの子が学校へ行かなくなりましたア!」と電話があった。それまでのいき
さつを聞くと、どうやら学校恐怖症である。

 そこで私は、「最低でも3か月、何も言ってはいけない。子どものしたいように、させなさい」と
アドバイスした。が、母親にしてみれば、1か月でも長い。1週間でも長い。その1週間もする
と、電話がかかってきた。

 「今日、学校へ連れていってみましたが、ダメでした。階段の踊り場で、大の字になって、泣き
叫んで、抵抗しました」と。

 つまりこうして症状は、どんどんとこじれていく。数か月ですんだかもしれない不登校が、半年
とか、1年にのびていく。

 もっとも、こうした私のアドバイスに耳を傾けてくれる親は、まだよいほう。中には、まったく耳
を貸さない親もいる。あるいは、自ら、耳を閉ざしてしまう。ある小学校の校長が、こんな話をし
てくれた。

 「それとなく子育て教室を用意するのですが、聞きにきてほしい親ほど、来てくれません」と。

 親が無知であり、無理解なのは、しかたないとしても、その影響は、確実に、子どもにおよ
ぶ。子どもが被害者になることもある。かん黙症の子どもを、「声を出しなさい!」と叱りつづけ
ていた母親がいた。多動性のある子どもを、ヒモで柱にしばりつけていた母親もいた。気うつ症
になっているにもかかわらず、無理な勉強を強いていた父親もいた。

 無知、無理解は、それ自体が、「悪」である。これからの子育ては、そういう前提で考えたらよ
い。


●年賀状

 年賀状の文面を考えていたら、ハタと、筆が止まってしまった。何ごとも気負いすぎるのは、
よくない。その気負いばかりが、先にくる。なぜか?

 理由は、いくつかある。

(1)年賀状という性質上、明るいテーマで書かねばならない。その気負い。
(2)年賀状という性質上、ハバ広い人に読んでもらえる内容にしなければならない。その気負
い。
(3)一枚、50円。これほどまでに高価な原稿用紙はない。ムダなことは書きたくない。その気
負い。

 詩を書こうと思ったが、気負いが強いと、それも頭の中に、浮かんでこない。舞台の上でセリ
フを忘れてしまった俳優のような気分? 

 どうしよう?

 そこで頭の中に飛来するのは、ありきたりの、つまり当たり障りのない文章、文面。……とな
ると、年賀状など、書いても意味がない? 虚礼、儀礼、虚飾、きれいごと、仮面。

 「そうでありたくない」という気持ちが、ますます、気を重くする。本当のことを言えば、新年な
ど、めでたくも、何ともない。歳はとりたくないし、まあ、来年(2005年)も、現状維持ができれ
ば、御の字。2005年が、今年よりよくなるなどということは、もとから期待していない。(少し、
暗いかな?)

 まあ、しかし、これも、世の習慣。世界の人が、「ハッピー・ニュー・イヤー!」と祝っている最
中、自分だけ、それに背を向けるというのも、どうか?

 で、年賀状を書くことにした。今まで、こうして健康で、無事、生きてこられたことに感謝して…
…。今日は、とうとう12月30日になってしまった! ワイフは「どうせ遅れたんだから、正月で
もいいんじゃナ〜イ?」とのんきなことを言っている。それにしても、どうして私は、こうまで年賀
状にこだわるのか。これも初老性のうつの症状の一つなのか?

【補記】

 年末になると、「喪中により、新年のあいさつは、ご辞退申しあげます」とか何とかという、ハ
ガキが届く。

 世にムダなものは多いが、あのハガキほど、ムダなものはない。バカげた慣習のナンバーワ
ンと言ってもよい。

 出したくなかったら、出さなくてよい。出したかったら、出せばよい。年賀状というのは、そうい
うもの。そこまで気をつかわなくてもよい。気をつかうほうが、おかしい。たかがハガキではない
か。

 たとえば今、私のワイフが死んだら、私はもう生きている希望をなくすだろう。悲しみにくれ
て、他人のことなど、考えないだろう。いわんや、年賀状の心配など、絶対にしない。喪中の最
中に年賀状がきたからといって、失敬などとは、絶対に思わない。

 中には、親や義理の親が死んで、せいせいしている人もいるはず。「バンザーイ!」と叫んで
いる人だって、いるはず。それをしおらしく、「喪中により……」とは!

 ……というのは、言いすぎかもしれないが、人間は、もっと自然体で生きればよい。そのとき
どきの自分の気持ちに、すなおになって生きればよい。それがまちがっていると言うなら、そう
いうことを言う人のほうが、まちがっている。

 今回も、「この人からは、喪中の知らせが届いているから、年賀状は出せないわね」とか何と
か、横からワイフが、あれこれ言う。正直言って、うるさい。どうしてこんなことにまで気を使っ
て、年賀状を出さねばならないのか。たかが儀礼のハガキのために……!

 ところで悩みに悩みぬいた年賀状だが、書き始めたら、3時間ですんでしまった。

 ナーンダ、と思っている。


●去年のしめ飾り

 まず、去年(2004年の1月末はじめ)に書いた原稿を読んでほしい。まあ、何とも、しみった
れた話だが、そこは許してほしい。

+++++++++++++++++

 毎年、どんどん小さくなっていく、鏡餅。今年は、今日まで、そこにあるのにさえ気づかなかっ
た。ワイフが、その上のミカンをとりさげたとき、「ああ?」と思ったほど。

 「いつ、それを買ったの?」と聞くと、ワイフは、「これね、実は、去年の鏡餅」と。

 ギョッ!

 「去年?」
 「そう、冷蔵庫に入れておいたら、そのまま残ったの……」
 「腐ってないか?」
 「多分ね……」と。

 昔は、つまり息子たちが小さいころは、毎年、餅つきまでして、鏡餅を作った。が、今は、スー
パーで買ってきて、そなえる。そこまではわかるが、しかし去年の鏡餅を使うとは!

 我が家も、だらしなくなったものだ。

 「だったらサ、しめ飾りも、しまって、来年も使ったら?」と私。

 このところ、しめ飾りも、結構、高額。小さなものでも、1500円前後もする。それに私のとこ
ろでは、自宅、山荘、教室と、3か所も用意しなければならない。結構な出費になる。

 「それはできないわ」とワイフ。
 「どうして?」
 「どうやって、しまっておくの?」
 「袋につめて、戸棚に入れておけばいい」
 「何だか、わびしいわね」
 「鏡餅は、わびしくないのか?」
 「……」と。

 若いころは、正月は、たしかに生きる節目になっていた。しかし今は、違う。新年になるたび
に、「また、年をとったか」という思いだけがつのる。人が「おめでとう」と言うほど、めでたくな
い。

 しかしどうせ毎年同じことを繰りかえすのなら、正月に使うものだって、そのとき使ったあと、
しまっておけばよい。そして来年、また使えばよい。おせち料理を入れる、重箱のように……。
(何ともせこい話で、すみません。)

+++++++++++++++++

 実は、今日(2004年12月30日)、つまり、上の原稿を書いてから、ちょうど、1年、ワイフ
が、そのしめ飾りを、戸棚から、出してきた。

私「まさか……?」
ワイフ「そうよ」
私「でもねエ……」
ワイフ「一年、歳がもどるのよ。若くなるのよ。そう考えればいいじゃなア〜イ」と。

 こうして我が家は、1年1年と、だらしなくなっていく。ただし、鏡餅は、新しいのを買ってくるつ
もり。理由は、簡単。おとといの夜、冷蔵庫の中をたしかめたが、鏡餅はなかった。いくら何で
も、おととしの鏡餅は、飾れない。

 ……と言っても油断はできない。恐る恐る、ワイフに、「鏡餅はどうするの?」と聞くと、「あとで
買ってくるわ」と。

 買うといっても、一番小さいのを、1個だけ。ハハハ。我が家の正月は、簡単なもの。
(04年12月30日記)
(はやし浩司 鏡餅 しめ飾り B原)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●劣等感

 (本来の自分)と、(こうでありたいと思う自分)。この二つがかけ離れたとき、そこから劣等感
が生まれる。

 ふつう劣等感というと、どこかマイナスのイメージが強い。しかし劣等感は、悪いばかりではな
い。その劣等感がバネになって、その人を伸ばすこともある(ユング理論)。

 たとえば体格の小さな男の子が、空手を練習して強くなろうと思ったりするなどが、それ。容
姿のあまりよくない女の子が、猛烈に勉強して、よい成績を取ろうとすることもある。

 このように劣等感を何らかの方法で解消しようとすることを、「解消」もしくは、「補償」という。

 この解消方法には、いろいろある。私のばあいを例をあげて考えてみたい。

 私は高校2年生のとき、生まれてはじめて、女の子とデートした。当時としては、私はかなり
積極的な学生のほうだったと思う。そのときのこと。私は、初夏の暑いときだったが、学生服の
下に、セーターを着こんで、デートにでかけた。何かの本で、「胸の厚い男性は、女性にモテる」
と読んだのが、その理由だった。

 このとき私は、自分の胸が薄く、貧弱であったことを知っていた。それが(本来の私)である。

 が、胸の厚い男になりたかった。それがここでいう(こうでありたいと思う自分)ということにな
る。

 私は自分の胸に(抑圧感)を覚えた。それが劣等感になった。そしてその劣等感を解消する
ために、学生服の下に、セーターを着た。

 つぎに私がよく覚えているのは、デートしながら、歌を歌ってやったことだ。私は中学時代か
ら、コーラス部にいた。私は、体格の貧弱さを、別の能力で、彼女にアピールしたことになる。
もっとも、歌を歌ったときは、そうした意識はなかったと思う。ただ彼女を楽しませるためだった
だけかもしれない。

 ともかくも、これも解消方法の一つということになる。

 こうして考えてみると、劣等感の解消方法には、二つあることがわかる。(1)直接的に解消す
る方法(直接的解消法)と、(2)代償的に解消する方法(代償的解消法)である。セーターを着
たのは、ここでいう直接的解消法ということになる。また歌を歌ったのは、ここでいう代償的解
消法ということになる。

 どんな人にも、劣等感はある。ない人は、ない。問題は、その劣等感があるとかないとかいう
ことではなく、その劣等感とどう戦うかである。

 そこで私はさらに、その方法を、(1)外面をとりつくろう外面的解消法と、(2)内面をとりつくろ
う内面的解消法に分けて考える。

 たとえば鼻の低い女性がそれを解消するため、整形手術をほどこすのが、外面的解消法。
知性や理性をみがいて、内側から自らを光らせることによって、劣等感を克服(カバー)するの
が、内面的解消法ということになる。

 それぞれの人の深刻さの問題もあるから、一概には、どうということはできない。しかし外面
的解消法に頼りすぎると、自分が自分でなくなってしまうという危険性がある。自分を虚飾や虚
栄で飾ったりするようになる。

 これ以上のことは、私にはわからない。しかし子どもたちを指導するときは、それが直接的解
消法であるにせよ、代償的解消法であるにせよ、できるだけ内面的解消法であればあるほ
ど、よいということになる。

 私はそのため、こと、子どもの世界では、一芸論を、訴えている。「その子どもの一芸が、そ
の子どもを側面から支える」と。

(はやし浩司 劣等感 補償 克服 劣等感の克服)

 以前に書いた原稿だが、その一芸論を紹介する。

++++++++++++++++++++++++

●一芸論

子どもの一芸論

 Sさん(中一)もT君(小三)も、勉強はまったくダメだったが、Sさんは、手芸で、T君は、スケ
ートで、それぞれ、自分を光らせていた。中に「勉強、一本!」という子どももいるが、このタイ
プの子どもは、一度勉強でつまずくと、あとは坂をころげ落ちるように、成績がさがる。そういう
ときのため、……というだけではないが、子どもには一芸をもたせる。この一芸が、子どもを側
面から支える。あるいはその一芸が、その子どもの身を立てることもある。

 M君は高校へ入るころから、不登校を繰り返し、やがて学校へはほとんど行かなくなってしま
った。そしてその間、時間をつぶすため、近くの公園でゴルフばかりしていた。が、一〇年後。
ひょっこり私の家にやってきて、こう言って私を驚かせた。「先生、ぼくのほうが先生より、お金
を稼いでいるよね」と。彼はゴルフのプロコーチになっていた。

 この一芸は作るものではなく、見つけるもの。親が無理に作ろうとしても、たいてい失敗する。
Eさん(二歳児)は、風呂に入っても、平気でお湯の中にもぐって遊んでいた。そこで母親が、
「水泳の才能があるのでは」と思い、水泳教室へ入れてみた。案の定、Eさんは水泳ですぐれ
た才能を見せ、中学二年のときには、全国大会に出場するまでに成長した。S君(年長児)も
そうだ。

父親が新車を買ったときのこと。S君は車のスイッチに興味をもち、「これは何だ、これは何だ」
と。そこで母親から私に相談があったので、私はS君にパソコンを買ってあげることを勧めた。
パソコンはスイッチのかたまりのようなものだ。その後S君は、小学三年生のころには、ベーシ
ック言語を、中学一年生のころには、C言語をマスターするまでになった。

 この一芸。親は聖域と考えること。よく「成績がさがったから、(好きな)サッカーをやめさせ
る」と言う親がいる。しかし実際には、サッカーをやめさせればやめさせたで、成績は、もっとさ
がる。一芸というのは、そういうもの。ただし、テレビゲームがうまいとか、カードをたくさん集め
ているというのは、一芸ではない。

ここでいう一芸というのは、集団の中で光り、かつ未来に向かって創造的なものをいう。「創造
的なもの」というのは、努力によって、技や内容が磨かれるものという意味である。そしてここ
が大切だが、子どもの中に一芸を見つけたら、時間とお金をたっぷりとかける。そういう思いっ
きりのよさが、子どもの一芸を伸ばす。「誰が見ても、この分野に関しては、あいつしかいない」
という状態にする。子どもの立場で言うなら、「これだけは絶対に人に負けない」という状態にす
る。

 一芸、つまり才能と言いかえてもいいが、その一芸を見つけるのは、乳幼児期から四、五歳
ごろまでが勝負。この時期、子どもがどんなことに興味をもち、どんなことをするかを静かに観
察する。一見、くだらないことのように見えることでも、その中に、すばらしい才能が隠されてい
ることもある。それを判断するのも、家庭教育の大切な役目の一つである。  

++++++++++++++++++

つぎの2作も、参考になると思いますので
ぜひ、読んでみてください。

++++++++++++++++++

●自己嫌悪

 ある母親から、こんなメールが届いた。「中学二年生になる娘が、いつも自分をいやだとか、
嫌いだとか言います。母親として、どう接したらよいでしょうか」と。神奈川県に住む、Dさんから
のものだった。

 自我意識の否定を、自己嫌悪という。自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶
望感、不安心理など。そういうものが、複雑にからみ、総合されて、自己嫌悪につながる。青春
期には、よく見られる現象である。

 しかしこういった現象が、一過性のものであり、また現れては消えるというような、反復性があ
るものであれば、(それはだれにでもある現象という意味で)、それほど、心配しなくてもよい。

が、その程度を超えて、心身症もしくは気うつ症としての症状を見せるときは、かなり警戒した
ほうがよい。はげしい自己嫌悪が自己否定につながるケースも、ないとは言えない。さらにそ
の状態に、虚脱感、空疎感、無力感が加わると、自殺ということにもなりかねない。とくに、それ
が原因で、子どもがうつ状態になったら、「うつ症」に応じた対処をする。

 一般には、自己嫌悪におちいると、人は、その状態から抜けでようと、さまざまな心理的葛藤
を繰りかえすようになる。ふつうは(「ふつう」という言い方は適切ではないかもしれないが…
…)、自己鍛錬や努力によって、そういう自分を克服しようとする。これを心理学では、「昇華」
という。つまりは自分を高め、その結果として、不愉快な状態を克服しようとする。

 が、それもままならないことがある。そういうとき子どもは、ものごとから逃避的になったら、あ
るいは回避したり、さらには、自分自身を別の世界に隔離したりするようになる。そして結果と
して、自分にとって居心地のよい世界を、自らつくろうとする。

よくあるのは、暴力的、攻撃的になること。自分の周囲に、物理的に優位な立場をつくるケー
ス。たとえば暴走族の集団非行などがある。

 だからたとえば暴走行為を繰りかえす子どもに向かって、「みんなの迷惑になる」「嫌われる」
などと説得しても、意味がない。彼らにしてみれば、「嫌われること」が、自分自身を守るため
の、ステータスになっている。また嫌われることから生まれる不快感など、自己嫌悪(否定)か
ら受ける苦痛とくらべれば、何でもない。

 問題は、自己嫌悪におちいった子どもに、どう対処するかだが、それは程度による。「私は自
分がいや」と、軽口程度に言うケースもあれば、落ちこみがひどく、うつ病的になるケースもあ
る。印象に残っている中学生に、Bさん(中三女子)がいた。

 Bさんは、もともとがんばり屋の子どもだった。それで夏休みに入るころから、一日、五、六時
間の勉強をするようになった。が、ここで家庭問題。父親に愛人がいたのがわかり、別居、離
婚の騒動になってしまった。

Bさんは、進学塾の夏期講習に通ったが、これも裏目に出てしまった。それまで自分がつくって
きた学習リズムが、大きく乱れてしまった。が、何とか、Bさんは、それなりに勉強したが、結果
は、よくなかった。夏休み明けの模擬テストでは、それまでのテストの中でも、最悪の結果とな
ってしまった。

 Bさんに無気力症状が現れたのは、その直後からだった。話しかければそのときは、柔和な
表情をしてみせたが、まったくの上の空。教室にきても、ただぼんやりと空をみつめているだ
け。あとはため息ばかり。このタイプの子どもには、「がんばれ」式の励ましや、「こんなことで
は○○高校に入れない」式の、脅しは禁物。それは常識だが、Bさんの母親には、その常識が
なかった。くる日もくる日も、Bさんを、あれこれ責めた。そしてそれがますますBさんを、絶壁へ
と追いこんだ。

 やがて冬がくるころになると、Bさんは、何も言わなくなってしまった。それまでは、「私は、ダ
メだ」とか、「勉強がおもしろくない」とか言っていたが、それも口にしなくなってしまった。「高校
へ入って、何かしたいことがないのか。高校では、自分のしたいことをしればいい」と、私が言
っても、「何もない」「何もしたくない」と。そしてそのころ、両親は、離婚した。

 このBさんのケースでは、自己嫌悪は、気うつ症による症状の一つということになる。言いか
えると、自己嫌悪にはじまる、自己矛盾、劣等感、自己否定、自信喪失、挫折感、絶望感、不
安心理などの一連の心理状態は、気うつ症の初期症状、もしくは気うつ症による症状そのもの
ということになる。あるいは、気うつ症に準じて考える。

 軽いばあいなら、休息と息抜き。家庭の中で、だれにも干渉されない時間と場所を用意す
る。しかし重いばあいなら、それなりの覚悟をする。「覚悟」というのは、安易になおそうと考え
ないことをいう。

心の問題は、外から見えないだけに、親は安易に考える傾向がある。が、そんな簡単な問題
ではない。症状も、一進一退を繰りかえしながら、一年単位の時間的スパンで、推移する。ふ
つうは(これも適切ではないかもしれないが……)、こうした心の問題については、(1)今の状
態を、今より悪くしないことだけを考えて対処する。(2)今の状態が最悪ではなく、さらに二番
底、三番底があることを警戒する。そしてここにも書いたように、(3)一年単位で様子をみる。
「去年の今ごろと比べて……」というような考え方をするとよい。つまりそのときどきの症状に応
じて、親は一喜一憂してはいけない。

 また自己嫌悪のはげしい子どもは、自我の発達が未熟な分だけ、依存性が強いとみる。満
たされない自己意識が、自分を嫌悪するという方向に向けられる。たとえば鉄棒にせよ、みな
はスイスイとできるのに、自分は、いくら練習してもできないというようなときである。

本来なら、さらに練習を重ねて、失敗を克服するが、そこへ身体的限界、精神的限界が加わ
り、それも思うようにできない。さらにみなに、笑われた。バカにされたという「嫌子(けんし)」
(自分をマイナス方向にひっぱる要素)が、その子どもをして、自己嫌悪に陥れる。

 以上のように自己嫌悪の中身は、複雑で、またその程度によっても、対処法は決して一様で
はない。原因をさぐりながら、その原因に応じた対処法をする。一般論からすれば、「子どもを
前向きにほめる(プラスのストロークをかける)」という方法が好ましいが、中学二年生という年
齢は、第二反抗期に入っていて、かつ自己意識が完成する時期でもある。見えすいた励ましな
どは、かえって逆効果となりやすい。

たとえば学習面でつまずいている子どもに向かって、「勉強なんて大切ではないよ。好きなこと
をすればいいのよ」と言っても、本人はそれに納得しない。

 こうしたケースで、親がせいぜいできることと言えば、子どもに、絶対的な安心を得られる家
庭環境を用意することでしかない。そして何があっても、あとは、「許して忘れる」。その度量の
深さの追求でしかない。こういうタイプの子どもには、一芸論(何か得意な一芸をもたせる)、環
境の変化(思い切って転校を考える)などが有効である。

で、これは最悪のケースで、めったにないことだが、はげしい自己嫌悪から、自暴自棄的な行
動を繰りかえすようになり、「死」を口にするようになったら、かなり警戒したほうがよい。とくに
身辺や近辺で、自殺者が出たようなときには、警戒する。

 しかし本当の原因は、母親自身の育児姿勢にあったとみる。母親が、子どもが乳幼児のこ
ろ、どこかで心配先行型、不安先行型の子育てをし、子どもに対して押しつけがましく接したこ
となど。否定的な態度、拒否的な態度もあったかもしれない。子どもの成長を喜ぶというより
は、「こんなことでは!」式のおどしも、日常化していたのかもしれない。神奈川県のDさんがそ
うであるとは断言できないが、一方で、そういうことをも考える。

えてしてほとんどの親は、子どもに何か問題があると、自分の問題は棚にあげて、「子どもをな
おそう」とする。しかしこういう姿勢がつづく限り、子どもは、心を開かない。親がいくらプラスの
ストロークをかけても、それがムダになってしまう。

 ずいぶんときびしいことを書いたが、一つの参考意見として、考えてみてほしい。なお、繰り
かえすが、全体としては、自己嫌悪は、多かれ少なかれ、思春期のこの時期の子どもに、広く
見られる症状であって、決して珍しいものではない。ひょっとしたらあなた自身も、どこかで経験
しているはずである。もしどうしても子どもの心がつかめなかったら、子どもには、こう言ってみ
るとよい。「実はね、お母さんも、あなたの年齢のときにね……」と。こうした、やさしい語りかけ
(自己開示)が、子どもの心を開く。
(はやし浩司 自我意識の否定 自己嫌悪 自己矛盾 劣等感 自己否定 自信喪失 挫折
感 絶望感 不安心理)


●劣等生、バンザーイ!

 S市教育委員会のK氏と話す。K氏は今、小規模校のある中学校に、養護学級を新設すべ
きかどうかで頭を悩ませている。その相談を受けながら、私はこんな話をした。

【I君の例】

 私は少し前まで、自宅で、中学生と高校生を教えていた。八畳間の小さな教室だから、生徒
数も、せいぜい、一クラス、四〜六人。そういうクラスへ、あるときI君(中一、当時)という子ども
が入ってきた。

 しかしこの生徒は、小学生のとき、勉強ができないということでは、有名な子どもだった。で、
案の定というか、心配したとおり、最初は、六人で始めた教室だったが、その年の夏休みまで
に、三人、その年の終わりまでに二人、I君以外の全員が、私の教室をやめてしまった。「あん
なI君がいる教室など、行かない」というのが、その理由だった。

 で、私は、そのI君を、中学三年の終わりまで教えた。ときどきほかの学年の子どもを交える
ことはあったが、基本的には、最後まで、一人だけの教室だった。

 そのI君は、今でいう、LD児(学習障害児)。教えた先から、すべてを忘れてしまった。たとえ
ば英語の単語にしても、二時間かけて、五個覚えたとする。しかしつぎのレッスンのときには、
すべてを忘れていた。こんな調子だから、数学はもちろんのこと、理科、社会も、さらにできな
かった。

 で、ある日私は、とうとう怒った。I君が、中学三年生になったときのことだった。「あのな、大
工だって、一方で家をつくっても、それをつぎからつぎへと壊されたら、もう家なんか、つくらな
いぞ」と。それに答えて、I君は、ポロポロと涙をこぼした。

 こうして高校入試が近づき、I君は学校の指導をすなおに受け入れ、準養護学校のX高校に
入学した。一月になって、間もないころだった。私はそれを喜んだが、彼が入学できたことを喜
んだのではない。I君から解放されることを喜んだ。

 しかし、だ。それからもI君は、私の教室に来た。その時刻に玄関のチャイムを、ピンポーンと
鳴らす人がいた。見に行くと、そこにI君が、立っていた。そこで私は言った。「あのな、高校受
験は終わったんだよ。もうぼくには、教えることはないよ。だから、ここへは来なくてもいいんだ
よ」と。

 しかし、それでもI君は、私の教室にきた。そしてたったひとりで、勉強(?)をした。しかたない
ので、つまり私は、半ばあきれながら、教えた。で、結果的に、I君は、三月の終わりまで、来
た。

 そのI君は今、家業の植木業を手伝っている。よくお母さんとは、スーパーで顔をあわせる
が、そのつど、お母さんは、I君のことをうれしそうに報告してくれる。ごく最近だが、結婚して、
子どももできたそうだ。そのお母さんは、ある日、こう言った。「まじめだけが、取り柄(え)の子
どもでねエ」と。

 こうした例は無数にある。で、そういう子どもたちを振りかえってみると、改めて教育とは何か
を考えさせられる。

 問題のない子どもは、教えるのは、当然のことながら、楽。しかしそういう子どもというのは、
ただ通りすぎていくだけで、何も残らない。教育が教育であるのは、I君のような、問題のある子
どもを教えるところにある。またそういう子どもほど、人生のカギに強く、残る。ひかかる。そし
てそういう子どもを教えたという思い出が、充実感となって返ってくる。

 私は帰り際、K氏にこう言った。「今、ここで養護学級をつくり、その子どもだけをそこへ入れ
たとしても、子どもは感謝しないばかりか、学校をうらむようになるでしょうね。『自分のため』と
考える前に、『排除された』と感ずる。しかし教える側にとっても、それほど後味の悪い教育もな
い。私たちと違い、経営を心配しなくてもいい公立学校なのだから、もっと別の方法を考えたら
いかがでしょうか」と。

 生きる道は、決して一つではない。コースも、一つではない。同じように、幸福になる道も一つ
ではない。幸福になる道は、無数にある。だから一つの道からはずれたからといって、悲観し
たり、絶望したりする必要はない。劣等生、バンザーイ! 

【追記】

 子どもには、一芸をもたせましょう。その一芸が、子どもを光らせ、伸ばします。ただし一芸
は、つくるものではなく、見つけるもの。そして見つけたら、そこに集中的に、お金と時間をかけ
る。その思いきりのようさが、子どもの一芸を伸ばします。
(はやし浩司 一芸論 劣等性)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(501)

●ドイツ軍と精神病院

昔、ドイツ軍が、ある村にやってきた。
しかしそこは焼け野原。住民は、避難して、だれもいなかった。
が、丘の上の精神病院だけは、別。無傷のまま残っていた。患者も残っていた。

ドイツ軍は、その精神病院を駐屯地にして、そこに滞在することにした。
院長室を司令室にかえ、病室をそのまま、兵舎にかえた。
そのときからドイツ軍と、精神病院の患者との奇妙な共同生活が始まった。

銃を向けても、一向に気にしない患者たち。花をつんできては、銃口にさしこんだりした。
兵隊が怒って、患者を殴っても、その患者はうれしそうに笑っているだけ。
患者たちは自分たちで料理をしていたが、虫の入ったスープを平気で、飲んでいた。

緊張でピリピリしているドイツ軍。平和でのどかな、精神病院の患者たち。
数か月もすると、兵隊と患者たちの間に、奇妙な共存関係が生まれるようになった。
何人かの兵隊たちは、患者の世話をするようになった。いっしょに生活するものもいた。

が、そのとき、ドイツ軍の兵隊たちに移動命令がおりた。前線への移動命令である。
兵隊たちは、その村を離れることになった。しかし、その命令に従わない兵隊が出てきた。
命令を拒否して、そのまま精神病院へ入院する兵隊も、出てきた。

……これは、私が若いころ見た、あるヨーロッパ映画のあらすじである。題名は忘れた。しかし
今でも、その映画のことは、よく覚えている。

その映画は、最初は、ドイツ軍の視点で始まる。そしてその時点では、精神病院の患者たち
が、たいへん奇異に見える。が、映画が進んでいくうちに、やがてどちらが正常で、どちらが正
常でないかが、わからなくなってしまった。人を殺しあう兵隊が正常なのか、それとも争いをま
ったく知らない患者たちが正常なのか、と。

そしていよいよクライマックス。ドイツ軍たちは、その精神病院を離れることになる。が、そこと
きは、私たちの視点は、患者のほうに移っていた。と、同時に、むしろ兵隊たちのほうが、正常
でないように思えてきた。

見ていて、何とも不思議な映画だった。映画を見ているうちに、意識が、180度、変わってしま
った。正常であると思ったほうが、正常でなくなり、正常でないと思ったほうが、正常になった。
そんなふうに変化した。

……どうして今、その映画のことを思い出したのか、よくわからない。わからないが、思い出し
たので、ここに書きとめておくことにした。

(この映画の題名を知っている人はいませんか? 古い、1960年代の映画だと思います。白
黒の、それほど、長い映画ではありませんでした。もう一度、見てみたいです。)


●悪魔

悪魔よ、あんたは、相手をまちがえた。
私にとりつこうとしても、ムダ。
私は、あんたなんか、相手にしない。

いくら私をあんたの世界に引きこもうとしても、
あなたをあざ笑い、あんたをはねとばす。
バカめ、アホめ、あんたは、くだらない悪魔。
だれがあんたなんかの、思いどおりになるものか!


●不幸

不幸は、それを不幸と思ったとき、不幸になる。
不幸は、それを笑い飛ばしたとき、姿を消す。

過去を悔やむな。未来をなげくな。
あるのは、今という、楽しい現実だけ。

運命は、それを恐れたとき悪魔に変身し、
それを笑ったとき、神に変身する。


●大晦日(おおみそか)

2004年も、今日で、おしまい。その今日は2004年12月31日。
古いカレンダーを、壁から取りはずし、新しいカレンダーをしばし、見やる。
新しいカレンダーは、どこか、見にくい。デザインも悪い。字体も古臭い。
そんなわけで、2005年が、どこか暗く沈んで見える。
あとでもう少し、明るいカレンダーに取りかえよう。


●死者、12万人

スマトラ沖地震の津波で、約12万人の人がなくなったという。しかしこの数字は、12月30日の
もの。犠牲者は、まだふえる可能性があるという。史上最大の、自然災害である。

が、12万人と聞いても、ピンとこない。あまりにも現実離れしている。実感が、まるでない。「1
2万人かア?」と思ってみたり、「12万人も!」と驚いたりしてみせる。

インターネット時代になって、数字だけがいつも、ひとり歩きするようになってしまった。メガとか
ギガとか……、そんな数字もある。そのため、数字に鈍感になってしまった?

最初、「死者が1万人」と聞いて驚いた。つぎに「3万人」と聞いて驚いた。それが6万人になり、
10万人になった。今は、12万人! ますますわけがわからなくなってしまった。

ただ昨夜、ワイフと食事をしながら、心のどこかで申し訳ない気持ちになった。「ぼくたちだけ、
こんな平和な生活をしていて、悪いみたいだね」と声をかけると、ワイフも、感慨深そうに、だま
って下を向いて口を動かしていた。

ふつうであることの価値は、それをなくしたときに、わかる。今は、その(ふつうであること)の価
値を確かめるとき。その(ふつうであること)を大切にして、生きたい。

(付記)

今回の、スマトラ沖大地震で、ショックだったのは、まさに地上の楽園で、それが起きたというこ
と。実は、私は、若いころから、いつも、すっと、心のどこかでこう願っていた。

「いつか、遊んで暮らせるだけのお金を手に入れたら、海のきれいな南海の孤島で、のんびり
と暮らしてみたい」と。

その南海の孤島に住んでいた人たちは、それこそ、村ごと全滅したところもあるという。「ふむ
う……」と考えたところで、つぎの言葉が、どうしても出てこない。


●サジを投げる

 12月31日、こんなビッグ・ニュースが飛びこんできた。

 アメリカが、2000年に採択された、「核拡散防止条約(NPT)」を、05年の5月に、反故(ほ
ご)にするかもしれないというのだ。共同通信は、つぎのように伝える。

「2000年の再検討会議で採択された核軍縮措置を、5月にニューヨークで5年ぶりに開かれ
るNPT再検討会議で、死文化させる狙(ねら)いであることがわかった」と。

 とうとうくるところまできてしまった! ……というのが、私の実感。共同通信は、「重大な岐
路」と位置づけている。当然である。わかりやすく説明しよう。

 アメリカなどの核保有国は、自分たちの核軍縮を進めると同時に、非保有国の核兵器の獲
得を禁ずる条約に署名した。つまり「アメリカなどの核保有国は、核兵器を減らします。そのか
わり、核をもっていない国が、核兵器をもつことを、力をあわせて阻止します」と。以来、35年。

 ところがご存知のように、K国のように、堂々と核兵器をもつ国が現われてしまった。本来な
ら、隣国の中国が率先して、K国の核兵器製造を抑制しなければならない。が、その肝心の中
国は、K国の肩をもって、ノラリクラリ。もう一つの隣国の韓国ですら、「K国が核兵器をもつの
には、一理ある」とまで、言い出した。

 こうした事情は、イランにも共通している。パキスタンやインドにも、共通している。せっかくす
ばらしい条約をつくりながら、だれも守ろうとしない。すべてアメリカ任せといった感じ!

 そういうアメリカの立場で言えば、「もう、オレの知ったことか! みんな勝手にやれ!」という
ことになる。その気持ち、ヨ〜ク、わかる。

 が、ここで今一度、冷静に考えてみようではないか。

 もしアメリカが、その核拡散防止条約(NPT)から抜けたら、世界は、どうなるか?

 K国は、核兵器をどんどんと生産するだろう。中国も、韓国も、それを座視するのみ。今まで
の6か国協議の流れをみれば、それがわかる。で、その韓国では、ますます反米ムードが高ま
っている。さらに、ノ政権は、戦前の被植民地時代をとりあげて、反日ムードをかきたててい
る。戦前の親日協力者を、今ごろになって洗い出している。

 その韓国は、アメリカに協力しようとしないばかりか、「核問題は、ワレワレが解決してみせ
る」「アメリカに勝手なことはさせない」(ノ政権)とまで、言い出している。

 私がブッシュ大統領なら、こう言うだろう。「もう、バカくさくて、つきあっておれない。あとのこと
は、知ったことか!」と。

 ……ということで、とうとうアメリカは、サジを投げた! それが、冒頭にあげた、共同通信の
報道である。

 たしかにアメリカのやり方は、強引すぎる。今度のイラク戦争でも、それがわかる。で、何もし
ない世界の傍観者たちは、「アメリカが悪い」「イラクから手を引け」「アメリカはまちがっている」
と、まさに言いたい放題。

 ならば聞くが、もしアメリカがサジを投げ、世界のリーダーであることをやめたら、世界は、ど
うなるのか。アメリカのかわりをだれがするのか。国連にしても、おかしな平等主義に支配され
て、問題が起きるたびに、小田原評定(実行力のともなわない相談)を繰りかえすのみ。

 身近な例では、もしアメリカが韓国や日本から手を引いたら、だれがK国の核兵器開発を止
めることができるのか。中国か? ノー。ロシアか? ノー。フランスやドイツか? ノー。あるい
は国連か? ノーノー。

 アメリカは、年末になって中国に特使を送った。「もういいかげんに、アメリカに協力したらどう
だ!」と。が、中国は、やはりノラリクラリ……。

 さて、繰りかえしになるが、もし核拡散防止条約(NPT)が、反故になったら、世界は、どうな
るか。

 K国は、バンバンザイ! そのワキで、日本も韓国も、K国の核開発を抑える大義名分を失
う。残るは中国だが、K国が、中国の言うことなど、はたして聞くかどうか?

 そのあと、K国は、ゆっくりとこの日本を、おどしにかかる。「金を出せ。さもなければ、東京に
核兵器をぶちこむぞ」と。

 そこで私は、あえて言いたい。韓国のノ大統領に言いたい。「もう少し現実を見てほしい」と。
金大中政権のときも強く感じたが、ノ大統領になってから、ますますそれを強く感ずるようにな
った。ノ大統領の国際政治は、素人の私でもわかるほど、ピントがズレている。ホント!

 政治、なかんずく国際政治は、徹底した現実主義で考えること。「現実」がすべて。そこを原
点にして、考えること。いらぬ節介かもしれないが……。

【補記】

 韓国のノ大統領は、どうしてああまでマイナス思考なのか、私は理解できない。過去の暗い
部分ばかりを、ほじくり出して、それを基本にものを考えている。そんな感じがする。が、今、重
要なことは、そこに巨大な危機が迫っているということ。K国の核兵器という危機である。

 一方で反米を唱え、その一方で、アメリカ軍の撤退を裏切りと位置づける。さらにそのまた一
方で親北を唱え、K国の核兵器を容認する姿勢をたびたび見せている。そういう政治姿勢が、
私には、どうしても理解できない。


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●2005年1月1日

昨夜、兄を、入浴させる。
体を洗ってやっていると、「おじいちゃんに、洗ってもらったことがある」と言った。
おじいちゃんというのは、私たちの祖父である。

私「おじいちゃんに洗ってもらったことがあるの?」
兄「銭湯で洗ってもらった……」
私「子どものころのことだろ?」
兄「そう、子どものころ」と。

私の兄は、かわいそうな運命をもった人だ。いつかそれについて書くことがあると思うが、今
は、書けない。何度も、私が兄を引き取ると申し出たが、母が放さなかった。が、その母も、88
歳。いよいよ体が弱くなった。それで私のところに、来た。

しかし、世間というのは、冷たいもの。そういう兄を、バカと呼び、追いかけまわし、あげくのは
てには、頭を殴った人もいたという。いまだにこの日本では、(ふつうでない人)を差別する風潮
が残っている。

私「明日は新年だから、体をきれいにしておこうね」
兄「うん、明日は新年だから、体をきれいにしておくよ」
私「ときどき、こうしてよく洗わないと、体が臭くなるよ」
兄「臭くなるよ」と。

心のやさしい兄。落ちついているときは、ニコニコ笑って、歌謡曲ばかり口ずさんでいる。風呂
から出ると、気分がよくなったのか、その歌謡曲を歌いだした。

「♪……学園広場に咲いた花を……」と。舟木一夫の「学園広場」である。私も、いっしょに、歌
った。


●1月1日

 今朝は、7時半ごろ起きた。よく眠った。気分はそう快。昨日(12月31日)は、雨が降ってい
たので、あきらめていたが、庭の先を見ると、まっ白な朝の陽光! いく筋もの光の束をつくっ
て、木々の間で揺れていた!

 すばらしい晴天である。上の方を見ると、澄んだ水色の空がそこにあった。

 居間におりていくと、ワイフがいて、長男がいた。「おめでとう」と言いあって、それで新年のあ
いさつは、おしまい。そうそう、昨日の夕方、三男が、東京から帰ってきた。みんなで、年越しソ
バを食べた。そのせいか、食欲は、ゼロ。

 例年だと、山荘で新年を迎えることになっている。が、今年はいろいろ事情があって、浜松市
の自宅で年越し。外出も、ままならない。が、私は、こうしてパソコンを相手に文を書いていれ
ばよい。それで時間はつぶせる。プラス、楽しい。

 そう言えば、この1週間、ほとんど原稿を書いていない。電子マガジンも、何かと遅れがち。
今日あたりは、2月2日号を発行予約しなければならないのだが、まだ、1月28日号も、31日
号も出していない。(マガジンは、いつも1か月前に、発行予約を入れることにしている。この
先、どうなることやら……?)

 しかし私には、夫という役目もある。ワイフをひとりにしておくわけにもいかない。朝食のとき、
「あとで買い物に行こうか?」と声をかけると、「うん」と言った。一応、約束したことは守らねば
ならない。

 しかし……。新型パソコンの購入は、3月まで延期することにした。このところ、何かと、大型
の出費が重なった。不要不急品は、どうしても、あと回しになる。しかたない……。

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●子どものストレス

 心と病気は、密接に関連している。そのよい例が、心身症である。

 心が恒常的にストレスを受けると、体は、さまざまな反応を示す。子どもによく見られる代表
的なものとして、胃潰瘍などの消化性潰瘍(かいよう)、摂食障害(過食、拒食症、食欲不振
症)、過敏性腸症候群、夜驚症、円形脱毛症などがある。
 
 こうした心身症は、大きく、(1)社会的、心理的ストレスが原因による、現実心身症と、(2)親
の冷淡、無視、拒否的育児姿勢などが原因による、性格心身症に分けて考える。福井県に住
んでいるAさん(母親)から、こんな相談があった。

 Aさんの兄夫婦の子ども(10歳男児)についての、相談である。

 「兄嫁が、人前ではおだやかなのですが、子どもを愛せないタイプの女性です。プライドが強
く、自分の思いどおりに子どもが行動しないと、子どもを叱ります。そのため、子どもは、ハキ
がなく。いつもオドオドしています。子どもなのに、もう何度も、胃潰瘍(かいよう)を起こして、病
院の世話になっています」と。

 こういうケースでは、生活環境を変えるのが、一番、よい。しかしそれは同時に、子どもを親
から引き離すことを意味する。しかし目立った虐待でもあれば話は別だが、そうでなければ、
実際には、むずかしい。

 で、つぎの方法としては、母親に、ことの重大さを理解してもらい、心身症について知ってもら
うことである。しかしAさんのメールによれば、「兄嫁は、『この子は、生まれつきそうで、私のせ
いではない』と言っています」とのこと。罪の意識そのものが、ない。

 こういうケースは、多い。親自身が、自分勝手でわがまま。自己中心的で独善的。「うちの子
どものことは、私が一番よく知っている」「私のしていることが一番正しい」と信じきっている。他
人の話を聞かない。言うなれば、自己愛者。完ぺき主義で、他人からの批判を許さない。

 Aさんがそれとなくその兄嫁に、「もう少し子どものしたいようにさせてあげたら」と言ったことも
あるという。しかしとたん、その兄嫁は、Aさんを避けるようになったという。そればかりか、こと
あるごとに、Aさんを嫌うようになったという。

 しかしこうなると、もう処置なし! こうした母親は、やがて底なしの悪循環に入り、行き着くと
ころまで、行く。が、そこで気がつけば、まだ、よいほう。たいていは、そういう状態になっても、
気がつかない。

 最近では、その兄嫁は、こう言っているという。「私は、この子を置いては、先に死ねません」
と。ちょっと聞くと、子ども思いのよい母親に見えるかもしれないが、その実、子どもの人格な
ど、みじんも考えていない。そうなる。

 世にいろいろな親はいるが、では、そういう親にならないためには、どうするか? 方法は、
簡単! 私のマガジンを読むこと! その一語に尽きる!
(はやし浩司 心身症 神経症 現実心身症 性格心身症)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●自分勝手な親

 いつも親の悪口を書くが、決して、親の悪口を書いているのではない。私が親の悪口を書く
のは、私たちという親は、子どもに対してそうであってはいけないということ。そういう意味をこ
めて、そう書く。

私やあなたの親を批判しているのではない。私やあなたが、親として、どうあるべきかについ
て、いつも書く。親であるということは、それだけでも、きびしいこと。そのきびしさを自覚するこ
とが、よい親子関係、ひいては、よい家族をつくる前提となる。

 たとえば、こんなことを言う親がいたとしよう。あなたは、この親を、どう思うだろうか。

 「私は、親孝行のいい息子と、親思いのいい娘をもって、幸せだ。私ほど、幸せな親は、いな
い」と。

 この日本では、よく聞かれる言葉である。ひょっとしたら、あなたも、日常的に、そう言われて
いるかもしれない。しかし、もう一度、この言葉を、よく読んでみてほしい。その親は、「孝行息
子をもって、幸せだ」と言っている。

 で、この言葉をよく読むと、実は、この親は、自分のことしか考えていないのが、わかる。自
分を中心に据えて、そこから子どもを見ている。そのために、子どもがどれだけ苦労している
か、あるいは苦労をさせられているかについては、考えていない。

 さらに、親のためなら、子どもは犠牲になって当然と考えているフシも感じられる。つまりは、
この親は、自分勝手な親ということになる。

 もっとも戦前までの教育を受け、古典的な忠孝論が骨のズイまでしみこんだ人は、こうしたも
のの考え方をしやすい。たいていは親・絶対教の信者で、「親があっての子ども」と考える。だ
から子どもが親のために犠牲になるのは、当然と考える。あるいは犠牲になっていること自体
に気がつかない。

 「私は親孝行の息子(娘)をもって、幸せだ」と言う親は、ふつうこのタイプの親と考えてよい。

 そこで問題は、もしあなたの親が、そうであったら、どうするか。

 私もいろいろなケースに当たってきたが、結論から先に言えば、あきらめて、適当にあしらっ
てつきあうしかないということ。この問題は、親自身の生きザマの問題に関係している。カルト
的ですらある。実際、こうした忠孝論を柱にして活動している、教育団体(?)も少なくない。つ
まりそれを否定しても、意味はないということ。

 否定して引き起こす混乱を考えるなら、妥協してつきあうほうが、よほど楽。摩擦(まさつ)も
少なくてすむ。

 が、しかしあなたはそうであってはいけない。もしあなたが日常的に、あなたの子どもに、「私
はいい息子(娘)をもって幸せだ」と言っているようなら、ここに書いたことを参考に、一度、自
分自身をみつめなおしてみてほしい。あなたは自分勝手な親ではないか、とである。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●不安の構造

 不安の構造の原点にあるのが、母親の喪失感であると説いたのは、あのフロイトである。つ
まり母親を失うことに対する不安が原型となって、その人の不安感をつくるというわけである。

 つまり喪失感と不安感は、いわばペアの関係にあると考えてよい。私たちは、つねに(失うこ
と)に対して、ある種の不安感を覚える。

 財産や名誉、地位にかぎらず、友人や家族などの人間関係。それに健康や命、など。そうい
うものをなくす段階で、そのつど、私たちは大きな不安感を覚える。

 もちろんその不安感には、強弱がある。個人差がある。同じような状況なのに、いつも不安
感に襲われる人もいれば、平気な人もいる。たとえば病気についても、何か、それまでになか
った症状を経験したりすると、極度の不安状態になる人がいる。心気症というのが、それであ
る。

 が、平気な人もいる。私のワイフなどは、その平気な人のほうに属する。「がんになっても、な
おせばいいのよ」と、平然と言ってのける。

 そのちがい、つまりこうした個人差は、いつごろ、どのようにして生まれるのか?

 フロイトは、それは、出産期にあると、説く。つまり出産と同時に、母親から分離する、その瞬
間にある、と。ナルホドと思う部分もあるし、「しかしその時期は、期間的に考えて、もう少し長
いのではないか」と思う部分もある。

 要するに、満ち足りた愛情に包まれ、心豊かな乳幼児期に恵まれれば、こうした不安感を軽
減できるということ。それは母子の間で結ばれる、「基本的信頼関係」とも、関連している。つま
りこの時期の、心の安定感が、その子どもの心の安定性を、生涯にわたって支配する。そうい
うふうに、考えることもできる。

 言うまでもなく、心の安定性は、情緒の安定性ともつながる。言いかえると、情緒の安定性
は、その乳幼児期までに決まるということになる。だからこの時期の母子関係は重要であると
書けば、どこか見えすいた結論になるが、しかし、事実は、その通りだと思う。

 子どもの心がつくられるのは、まさにこの時期、つまり出産直後から、数か月、あるいは1、2
年の間である。
(はやし浩司 不安 不安の構造 喪失感 心の安定性)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
 
●オーストラリアの友人が、やってくる

 2005年のX月に、オーストラリアの友人がやってくる。友人一行と言ってもよい。X月の終わ
りに、京都で行われる、国際医学総会に出席するためである。

 今朝、電話があった。いわく、「みんな、オーストラリアでも超一級のドクターたちだから、ヒロ
シ、病気があるなら、みんなタダでなおしてあげるよ」と。

 が、残念ながら(?)、私には、これといった病気がない。「あるとすれば、頭の病気だ」と答え
ると、その友人は、笑っていた。

私「山荘を開放してあげるから、自由に使えよ」
友「ありがとう」と。

 こういうときオーストラリア人というのは、本当にストレート。そう言った以上、私が全責任を負
うことになる。それを承知の上で、私は、そう言った。

 学会は、5日間。そのあと、愛知万博に見たいと言っていた。浜松に滞在するのは、その前
後ということになる。楽しみだ。これで今年の、一つの目標ができた。

 今回は来ないが、もう1人の友人のM・A君は、現在、オーストラリア医師会の副会長をして
いる。学生時代、いっしょに、オーストラリア大陸を横断したことがある。その友人は来るのだ
ろうか? 今、ふと、そんなことを考えた。

 (しかしケタ違いの金持ちの一行を接待するというのも、気が引ける。神経をつかう。今、そん
な不安感が心の中を横切った。私は、ありのままの自分でいくつもりが……。虚勢を張ったと
ころで、どうせ、勝ち目はない。)


●自分で考える

 生きるということは、考えること。自分の頭で、自分で考えること。大勢に流されるまま生きる
のは、生きるということにはならない。

 昔、こんなことがあった。この話は前にも書いたが、こんな話だ。

ある中学生(男子)に、こう聞いたことがある。「道路で、5000円札を拾った。君なら、そのお
金をどうするか?」と。

 するとその中学生は、シャーシャーというか、ヌケヌケというか、こう言った。「交番へ届けま
す」と。

 そこで私は、叱った。「ウソをつくな。自分を飾るな。お前は、その5000円が、ほしくないの
か?」と。

 するとその中学生は、一瞬キョトンとした顔をして見せたあと、私にこう言った。「じゃあ、先
生、そのお金は、どうすればいいのですか?」と。

 そこで私はこう言った。「ほしかったら、もらっておけ。それが人間だろ!」と。

中学生「そんなことしたら、落とした人が、かわいそうです」
私「かわいそう? どうしてそんな気持ちが、お前にわかるんだ。お前は、お金を落としたことが
あるのか?」
中学生「ないです。でも、拾ったお金は、交番へ届けます」
私「いいか、それは幼稚園児の答だ。その拾ったお金で、好きなものを買えばよい。しかしそこ
で重要なことは、そのあと、あと味の悪さを、しっかりと自覚することだ」と。

 そのあと味の悪さが、それからのその人の行動の規範になる。いやな思いをする。そしてつ
ぎにお金を拾ったとき、そのお金を、交番に届けてみる。すると、今度は、以前とは反対に、す
がすがしい気分になる。

なぜ、あと味が悪かったり、反対に、すがすがしい気分になるか。それを考えながら、自分を追
求していく。「なぜ」「どうして」と。それが「考える」ということになる、と。

 私は、それをその中学生に説明した。

 「いいか、お前は、そういう答を言えば、私が喜ぶとでも思っていたんだろう。しかしぼくは喜
ばない。そんな答は、聞きあきた。大切なことは、自分で考えることだ。悩むことだ。そして自分
の生きザマを、自分で見つけることだ」と。

 自分で考える……。一見簡単なようで、実は、たいへんむずかしい。いや、考えるのがむず
かしいというより、考える習慣そのものが、ない。ないまま、日々の生活に流されている。さらに
多くの人は、ただ単なる情報の交換を、「思考」と誤解している。しかし「知識」は決して、「思
考」ではない。もの知りだからといって、その人の思考が深いということにはならない。

 人間が、なぜ人間であるかといえば、考えるからである。考えて、自分で判断するからであ
る。その力があるからである。そんなわけで、私は、「生きる」ことの根幹に、「思考」を置く。わ
かりやすく言えば、「人間は、考えるから、人間なのである」と。

(付記)

 恐らく考える習慣のない人には、考えるということがどういうことか、わからないと思う。しかし
考える習慣のある人には、(だからといって、私がそうであると言っているのではない。誤解の
ないように!)、考えない人が、よくわかる。「ああ、この人は、ものごとをよく考える人だな」「こ
の人は、あまり考えない人だな」と。

 と、同時に、ものごとを深く考えない人は、どこか、薄っぺらく見える(失礼!)。知識や情報
が、脳ミソの表層部分をかすめているだけといった感じになる。ペラペラとよくしゃべったりする
が、中身がない。そういった感じになる。

 しかしそういうふうになるということは、その人にとっても、とても損なことのように思う。が、そ
う思うのは、はたして私だけだろうか。つまり私には、その人が、せっかくの人生(時間)を、ム
ダにしているようにしか思えないのだが……。


●UFO

 久しぶりに、UFOについての討論番組を見た(12月31日夜)。存在を肯定する人と、否定す
る人が、交互に意見を述べていた。述べていたというより、感情的になって騒いでいた。ともに
そのレベルの人たちだったので、番組自体も、そのレベルのものだった。

 UFOは別として、この宇宙で、人間だけが知的生物であると考えるのは、この地球で、人間
だけが生物であると考えるのと同じくらい、バカげている。人間だけが、この地球で、ゆいいつ
の生物でないのと同じように、人間だけが、この宇宙で、ゆいいつの知的生物ではない。

 ただ、だからといって、宇宙のどこかに住む、人間以外の別の知的生物が地球にやってきて
いると言うのではない。仮にこの1万年の間に、宇宙人が、地球へ100回やってきたとしても、
100年に一度の割合になる。人間と遭遇する確率は、きわめて低い。

あるいはひょっとしたら、人間そのものが、どこかの知的生物によって改良された生物かもし
れない。実際、そういう説を唱える科学者もいる。

 ほかにも可能性は、いろいろ考えられる。

 で、UFOだが、もう何度も書いたが、私とワイフは、そのUFOを目撃している。長さが数キロ
はあったと思われる。巨大なブーメラン型のUFOであった。それについては、以前に何度も書
いたので、ここでは省略する。

 しかし、UFOが、そのほかの超常現象(たとえば幽霊や霊)と、同じレベルで論じられている
のは、とても残念なことである。全体の印象としては、私たち人間は、もう少し、宇宙に対して、
謙虚であるべきではないかということ。この宇宙には、私たちが知っていることよりも、知らない
ことのほうが、はるかに多い。

 で、その討論番組だが、否定派は、ただ一方的に、相手を否定するのみ。相手の意見に耳
を傾けるという謙虚さがまるでなかった。また肯定派は、「?」と思われるような意見を述べるだ
け。これでは討論にはならない。

 この宇宙には、不可解なことが多すぎる。宇宙でなくても、この地球や、月でもよい。たとえば
私のパソコンの中には、月の南極にある、二つのクレーターの写真が収録されている。アメリ
カのNASAが撮影したものだが、この二つのクレーターは、真円形をしている。しかも直径は、
数%以下の誤差で同じである。(光の影で、測定しにくいところもあるが……。)

 火山の噴火でできたにせよ、隕石の衝突でできたにせよ、自然界で、こんなことが偶然に起
こりうるものなのだろうか……?

 だからといって、宇宙人の存在に証明にはならない。UFOの存在の証明にもならない。ただ
私たちは、もう少し、私たちを取り巻く宇宙に対して、謙虚であるべきではないかということ。UF
Oの存在を信ずるか信じないかは、そのつぎの問題である。

(楽天HPのほうで、写真を収録)
http://plaza.rakuten.co.jp/hhayashi/diary/200501020000/


●話題

 A氏(50歳・架空の人物)と話していると、暗い話ばかり。B氏(50歳・架空の人物)と話して
いると、明るい話ばかり。どちらが楽しいか? こんな質問、するまでもない。

 そのA氏、いわく、

「交通事故で、3人、死んだ」
「あの家の人は、今、病院に入っている」
「私は、子どものころ、よく父親に叩かれた」と。

 そのB氏、いわく、

「あの店の焼きそばは、おいしい」
「子どもころ、よくアケビを取って食べた」
「あの家のおやじは、冗談ばかり言っていた」と。

 だからA氏と話していると、雰囲気が暗くなる。暗くなるというより、別れたあと、どうも気分が
晴れない。

 が、B氏と話していると、雰囲気が明るくなる。別れるのが惜しい。また会いたくなる。気分も
軽くなる。

 ……というのは、常識だが、問題は、なぜ、A氏は暗い話をし、B氏は明るい話をするか、で
ある。

 この問題は、実は、その人の脳ミソの機能にも関連している。暗い話題ばかり考えるから、う
つ状態になるのか。それともうつ状態になるから、暗い話をするようになるのか。それはよくわ
からないが、会話には、その人の心の状態が、そのまま反映される。

 暗い話題ばかり好んでするようなら、その人の心の状態は、かなりの、うつの状態にあると考
えてよい。つまりビョーキ。

 そこで私自身はどうかと、考えてみる。

 一つの方法として、1年前とか、2年前に書いた日記を読んでみるというのがある。で、そうい
う視点で、自分の書いた日記を読みなおしてみると、そのときは気がつかなかったが、全体と
して、暗い話題をつづけて書いている時期があったり、反対に、明るい話題をつづけて書いて
いる時期があったりしているのがわかる。

 私の精神状態も、少しずつ、変化しているようである。それがわかる。

 そこで今、私は、こんなことに気をつけ始めている。

 書いているテーマはもちろんのことだが、全体として、私の書いていることが、読者の方に悪
い印象を与えていないかということ。印象というより、読んでくれている人の気分を、悪くしてい
ないかということ。

 せっかく読んでもらうのだから、読者の方に、朗らかな気分になってもらいたい。……というこ
とで、冒頭に書いた、A氏とB氏の問題は、私自身の問題であることに気がついた。

 気をつけます!!!
(050102)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●ジョーク

 04年の終わりに、外国の友人たちから、たくさんのクリスマス・カードをもらった。その中で
も、最高に傑作(?)だったのは、こんなのだ。オーストラリアの友人のR君が、くれた。

 サンタクロースが、どこかの家の煙突に腰をかけて、ウンチをしているというもの。サンタクロ
ースは、ズボンを足首までさげていた。

 友人いわく、「ぼくの人生で、最悪のカードだ」と。そのサンタクロースの横顔が、その友人の
それにそっくりだったので、笑った。腹をかかえて笑った。

 で、私は、こう返事を書いた。

 「オーストラリアのサンタクロースは、ラッキーだ。日本でそんなことをすれば、C&B(チンチ
ンとボール)は、凍りついてしまうだろう。ついでに、Sxxx(ウンチ)も。オーストラリアだからこ
そ、こういうことができる」と。

 しかしそれにしても、愉快なクリスマス・カードだった。


●いらぬ節介

 他人の不幸にズケズケと入りこんできては、何かと節介を焼く。叔父風、叔母風を吹かす。そ
ういう人は、多い。

 しかしそれぞれの家庭には、言うに言われぬ事情というものがある。そういう事情も知らない
まま、いくら親戚でも、他人の家庭事情に節介など、焼いてはいけない。

 N県S町に住む、DBさんから、こんなメールが届いた(1月2日)。

 「今年は、正月にS町の実家に帰りましたが、親戚のだれも、私に会ってくれませんでした。
叔父や叔母だけではなく、いとこにさえ白い目で見られました」と。

 話せば長くなるが、DBさんには、DBさんの事情がある。その事情が、こじれにこじれて、そ
うなった。そのDBさん、いわく。「その中でも中心核にいる叔父のX氏が、私を村八分にしてい
ます。私が、母、つまり叔父の姉を、粗末にしたと言うのです」と。

 その叔父は、DBさんを、「親不孝者!」と、呼んでいるそうである。それにも理由はいろいろ
ある。そしてDBさんには、DBさんの事情があった。DBさんは、こう言う。

 「どうせ言っても理解してもらえそうにないし、言ったところで、どうにもなりません。私も、もう
疲れました。いつもいやな思いで、S町から帰ってきます」と。

 いろいろあるようだ。で、このことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。

 「その人の家庭問題には、たとえ親戚でも、とやかく言ってはいけないわよ。それは常識よ。
相手のほうから相談があれば、話は別だけど……」と。

 私も、同感である。まったく同感である。その人にかわって、その人の問題を背負うならまだ
しも、そうでないないなら、節介を焼いてはいけない。口を出すことくらいなら、だれにでもでき
る。そうした行為は、最小限にすべきである。あるいは、してはならない。

 私はDBさんに、返事を書いた。

 「イギリスの格言に、『2人の人に、(同時に)いい顔はできない』というのがあります。狭い世
界に住んでいる人など、気にしないこと。相手にしないこと。気にしたとたん、あなたも、その狭
い世界に迷いこむことになります。

 あなたの叔父がどんな人か知りませんが、どうしようもないほど、レベルの低い人です。脳ミ
ソにカビが生えているかもしれません。だから相手にしないこと」と。

 口を出すくらいなら、金(マネー)を出せ!
 口を出すくらいなら、重荷を、肩がわりしろ!
 何を偉そうに! バカヤロー!

 DBさんにかわって、私が、そう叫んでやった。ホーッ。

(補記)
 「お節介」が正しいのか、「節介」が正しいのか。「世話を焼く」とは言うが、「節介を焼く」とは
言わない? 日本語大辞典を調べてみたが、「お節介」がどうやら、正しいようだ。また「お節介
をする」と言うようだが、「お節介を焼く」という用例は、見つからなかった。どちらが正しいのだ
ろう。

 よくわからないまま、ここでは、「節介を焼く」とした。日本語って、本当に、むずかしい。この
年齢になっても、いまだに、ときどき、迷う。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

最前線の子育て論byはやし浩司(502)

●1月31日号

 この原稿を書いているのは、1月2日。本来なら、とっくの昔に、1月31日号(マガジン)の発
行予約を入れていなければならない。しかし、この1週間、あれこれと本当に忙しかった。原稿
を書くヒマがなかった。それで今、あわてて、1月31日号の原稿を書いている。

 どうしたものか?  

 ……というのも、内容の浅い原稿など、いくら書いても、意味がない。読んでくれる人に、申し
わけない。そうそうおまけに、このところ、頭の働きが鈍くなったように思う。何を考えても、「ど
うでもいいや」という、どこか投げやりの気持ちばかりが、先に立つ。

 で、今夜も、いくつか相談のメールが届いている。それをテーマにして、いろいろ考えてみた
い。


●テーマ

 その前に……。

相談としていただいたメールを、そのまま引用することはできない。転載するにしても、相手の
方の了解が必要である。しかしこれが結構、たいへん。めんどう(失礼!)。約8割くらいの方
は、「転載してもよい」と了解してくれる。しかし残りの人は、転載を断ってくる。

 (だからといって、転載を許可してくれない人を、責めているのではない。どうか、誤解のない
ように。)

 そこで私は、いただいた相談内容にそって、つまりそれをテーマにして、原稿を書く。それが、
私がいうところの「テーマ」である。たとえば子どもの奇行(そのほとんどは、心身症による諸症
状)についての相談があったとする。そういうときは、心身症をテーマにして、原稿を書く。その
原稿の中で、その人の問題について、それとなく触れる。

 が、それでも、怒ってくる人がいる。少し前だが、「他人の不幸をダシにした」と抗議してきた
人がいた。私は、ただ平身低頭、あやまるしかなかった。そういうことも、たまにある。

 だからこのところ、読者のみなさんからいただいた相談については、テーマとして、取りあげ
ることが多くなった。どうか、ご了解の上、許してほしい。


●家族のきずな「弱くなっている」84%

 読売新聞社が実施した、「家族」に関する全国世論調査(面接方式)が、公表された(0501
02)。それによると、「今、大切なものとして『家族』と答えた人が。9割にのぼったものの、家族
のきずなやまとまりが『弱くなってきている』と思う人は、84%に達した」というのだ。

 読売新聞は、「家族への信頼が根強い反面、家族の多様化や社会環境の劣悪化の中で、
家族のあり方に不安を抱く人が増えているようだ」と分析している。

 1985年にも、同様の調査が行われたというが、それとくらべても、47%より、36ポイント減
で、家族のきずなが弱くなってきていると見る人が大幅にふえているという。

 家族のきずなが弱くなっていると思う要因(複数回答)については、

親の権威の低下……44%、が最も多かった。
少年犯罪の増加、離婚の増加、1人暮らし世帯の増加……いずれも40%だった。

 最近の家族関係の問題点を聞いたところ、「子供のしつけをきちんとできなくなってきている」
と思う人が87%に達したという。

また、「家族のまとめ役になる人がいなくなってきている」と思う人は70%、「家族の中で、お年
寄りを大事にしなくなってきている」と感じる人は64%を占めたという。

 一方、いま大切なものは何か(複数回答)では、「家族」90%がトップだった。いざというとき、
家族は頼りになるかでは、94%が「頼りになる」と回答したという。

仕事と家庭のどちらを優先的に考えるかでは、「家庭」75%が、「仕事」19%を大きく上回っ
た。

同じ質問をした81年の調査と比べ、「家庭」は、13ポイント増加した。

 理想とする家族構成では、「祖父母や孫が同居する大家族」が60%で、最も多く、「親と子供
だけの家族」は、27%だったという。
(以上、読売新聞から抜粋。)

++++++++++++++++++++++++

 もう少しわかりやすく言うと、日本人の90%が、「家族」が大切だと感じている反面、その家
族のあり方に不安をいだいているということになる。家族意識が高くなったが、それをどう形に
するか、その一歩手前で、日本人の多くが、とまどっているということになる。

 言いかえると、日本人は、今まで、あまりにも、「家族」を、ないがしろにしすぎてきた、というこ
とになる。たとえば私が学生時代のころは、あらゆる面において、仕事が第一。「家族か、仕事
か」と問われれば、だれしも迷わず、「仕事」と答えていた。

 問題は、ここにも書いたように、では、どうやってその家族を大切にするか、である。が、残念
なことに、私たちの頭の中には、その方法が、インプットされていない。家族を大切にする生活
がどのようなものであるかということさえ、本当のところ、何もわかっていない。

 ただ単に、毎日を享楽的に生きればよいということでもない。子どもに楽をさせるということで
もない。みながみな、ほしいものを手に入れれば、それでよいということでもない。

 家族を大切にするということは、たがいに助けあい、励ましあい、教えあい、守りあい、支えあ
うことをいう。もっと言えば、一人ひとりが、一個の人間として、たがいに尊重しあい、認めあう
ことをいう。

 ここで読売新聞は、「親の権威」という言葉を使っている。しかし、これこそ、まさに時代錯誤。
親の権威が弱くなったから、家族がバラバラになったのではない。またそれがないから、不安
になっているのでもない。

 権威で家族をまとめる時代は、もうとっくの昔に終わった。しかしその権威にかわるものが、
まだ育っていない。そういう意味では、日本人が今もち始めている家族意識は、未発達の段階
にあるとみてよい。

 この問題は、これからも考えていきたい。


●雑学

 近くのコンビニで、おもしろい本を買った。『お客に言えない、お店のカラクリ』(青春出版社)
という本である。値段は、コンビニ価格の、500円。安い!

 本の宣伝もかねるので、多少の引用は、許してもらえると思う。(もちろん私と青春出版社と
は、関係ない。あるとすれば、昔、私の友人のM氏が、その出版社から出している、『ビッグ・ツ
ゥモロー』という雑誌の、編集長をしていた。それだけ。)

★機内食には使えない食材……イモ。ガスの心配があるからそうだ。
★ホテルの客室の冷蔵庫に水を置かない理由……愉快犯による毒物混入を防ぐため。
★不景気のときほどよくなる福袋の中身……福袋で、在庫処分するため。
★フランス料理に煮込み料理が多いわけ……いつも熱い料理が出せるから。
★乗る飛行機でちがう命の値段……日本の航空会社は、補償金の限度額を撤廃している。つ
まり乗るなら、日本の航空会社の飛行機、などなど。

 「なるほど」と笑ったり、「そう言えば、そうだったのか」と、納得してみたり……。一つだけ、そ
のまま転載したい記事があった。これも、その本の宣伝のためと、許してほしい。(私が買った
本は、いつもベストセラーになるぞ!)

【子どもが生まれるともらえる給付金】(同書、151頁)

(1)出産育児一時金

 健康保険から支給される。
 子ども1人あたり、30万円。
 妊娠4か月を過ぎていれば、流産、死産でも支給される。

(2)出産手当金

 勤めている女性が、妊娠、出産で仕事を休み、給料をもらえなかったときに支給される。
 退職しても、6か月以内に出産すれば、支給の対象になる。
 そのときは、金額は、日給の6割。

(3)育児休業給付金

 男女を問わず、育児休業をとっている間に、給料がまったく支払われないか、休業前の8割
にダウンしたときは、「育児休業基本給付金」が支給される。
支給金額は、休業前の給料の3割。

(4)児童手当

 義務教育就学以前の子どもを養育している人に支給。所得制限がある。
 第1子、第2子は、それぞれ月額5000円。
 第3子以後は、月額1万円。

(はやし浩司 児童手当 育児休業給付金 出産手当金)

【付記】

 その「お店のカラクリ」という本を読んでいて、一つ、思い当たることがあった。

 実は、私の住んでいる地域には、30年ほど前から、大きなショッピングセンターがある。その
店の名前を、「JJ」としておく。

 この一店舗だけでも、このあたりの商圏をじゅうぶんにカバーできるほど。大きい。そのため
地元の商店街は、この30年間で、ほとんどが姿を消した。2、3キロ離れたところにあるライバ
ル店の「NG」も、今や風前のともし火。

 しかし、である。今年になって、その「JJ」をさらに上回る、超大型店の、「JJ2」ができた。都
会のデパートを、3、4個くっつけたほど、大きなショッピングセンターである。「東海第一」と言
われるほど、大きい。

 その「JJ」と、「JJ2」は、距離にして、2キロも離れていない。

 そこで素人の私は、「?」と思った。同じ地域に、2つの巨大ショッピングセンター! 常識で
考えれば、おかしなことである。共倒れの危険性がある。

 しかしその「お店のカラクリ」を読むと、どうも、そうでなないようだ。

 こういうことだ。

 「JJ」は、昔からある大型ショッピングセンター。が、もしその近くに、他の系列の「YY」ができ
たらどうなるか? たがいに価格競争を始め、それこそ共倒れになってしまう。

 そこで、(実際に、そうであるかどうかは、知らないが)、「JJ」は、他の系列のショッピングセ
ンターの参入を防ぐために、あえて、自分の系列の「JJ2」を並べた。つまりこうすれば、この
地域の商圏を、完全に自分の支配下に置くことができる。

 一度、支配下におけば、あとは自由に、価格の設定ができる。競争相手(ライバル)がいない
のだから、これは当然である。(そういえば、「JJ」での価格が、全体に上昇したような感じがす
るぞ! これは私の気のせいか?)

 事実、「JJ」は、「JJ2」を開店するにあたって、他の系列の「IT」と、出店権を取りあって、競
ったという。その結果、「JJ」が勝って、「JJ2」を開店した。

 ここに書いたことはすべて、風聞と、私の憶測によるものだが、こうして考えていくと、「ナルホ
ド!」と合点がいくことが多い。

 しかし同時に、この浜松市は、本当に市民のことを考えているのだろうか、という疑問もわい
てくる。

 その「JJ」と「JJ2」の話は別として、一つの地域が、一つの系列のショッピングセンターの支
配下におかれるのは、まずいのでは? 地域の住民たちが、かえって高価なものを買わせら
れることになる。ほかに店がなければ、そうなる。

 やはり同一地域には、別系列のショッピングセンターを置き、たがいに競争させたほうがよ
い。「JJ」と、「IT」が、たがいに競争したほうがよい。そのほうが、私たち住民にとっては、便利
である。

 ……というようなことまでは、その本には、書いてない。しかし私はその本を読んでいて、そん
なことを考えた。みなさんは、私の意見を、どう思うだろうか。


●兄の介護

 私の家に来たころは、ワイフと私の、2人がかり、しかも24時間体制での介護が必要だっ
た。

 が、その兄も、ここでの生活に少しずつなれ、短い間なら、留守番までしてくれるようになっ
た。まあ、いろいろあるが、ここはがんばるしかない。

 しかし世の中には、心ない人もいるものだ。一人の知人からの年賀状には、こういう添え書き
がしてあった。「これで○○さん(私の実姉)も、楽になってよかったですね」と。私が兄を引き取
ったから、姉が楽になったというのだ。

 私は、その年賀状を、こなごなにして、破って捨てた。ただの野次馬のクセに!

 ……そう言えば、昔、こんなことを言う人がいた。

 「何がいやかといって、あなたは親孝行の娘だねと言われることぐらい、いやなことはない。
私は何も、好きでこのんで、親孝行をしているのではない。見るにみかねて、そうしているだ
け。親孝行の娘だと言われると、何だか、それを請求されているみたいで、いやだ」と。

 その女性(60歳くらい)は、義母(90歳くらい)の介護をしていた。

 どうであるにせよ、つまりその人に同情するにせよ、ほめるにせよ、あるいは批判するにせ
よ、とにかく他人の家庭の問題には、干渉しないこと。それはこの世界を生きる、大原則のよう
に、思う。


●あと3枚

 1月31日号のマガジンを、発行しなければならない。(今日は1月3日。)

 しかし何とか、17枚(A4サイズ、1600字/1枚)までは書いた。毎回、最低でも20枚と決
めている。で、あと3枚。

 刻々と、時間だけは過ぎていく。このあと、年賀状の返事を書いて、夕食の準備もしなければ
ならない。休日は、できるだけ台所に立つようにしている。

 このところ正月ボケと運動不足、それに刺激不足。やはり子育て論というのは、子どもを見て
いて、書けるもの。見ていないと、書けない。この1週間、子どもの顔すら見ていない。

 そこで改めて、子ども(生徒)たちから届いた年賀状を見る。どの年賀状も、手書きで、一生
懸命、書いてある。返事を出さないわけには、いかない。さあ、どうしようか……。

 ……と考えているとき、ふと頭の中を横切ったことがある。保護と依存の問題である。それに
ついて、書いてみる。

+++++++++++++++++

この世の中には、(世話をする人)と、(世話をされる人)がいる。

 むずかしく言えば、保護と依存の関係ということになる。保護する立場の人は、何かにつけ
て、保護を前提として考えてしまう。依存性のある人は、いつもだれかに頼ろうとする。

 こうした関係が長くつづくと、やがてそれが当たり前になってしまう。保護する人も、依存する
人も、そうであることにさえ気がつかなくなってしまう。

 こんな例で考えてみよう。

 「ある橋の上に、少し頭のおかしい男がいた。若い女性を見ると、襲いかかって、レイプす
る。

 で、ある夜、その橋を、1人の若い男と、1人の若い女性が通りかかった。2人は、恋人どうし
だった。

 それを見た、少し頭のおかしい男が若い女性に襲いかかった。女性は、その男につかまっ
た。が、そばにいた、その恋人の男性は、それを見て、逃げてしまった。女性は、その少し頭
のおかしい男に、レイプされてしまった」

 この話を読んで、あなたはどう思うだろうか。多分というより、きっとあなたはこう思うにちがい
ない。「その恋人の男性は、何て、情けないヤツだ。命をかけてでも、その女性を守るべきだっ
た」と。

 だれが悪いかと聞かれれば、あなたは、「若い恋人の男性だ」と答える。

 たしかにそうかもしれない。その若い男性は、恋人を助けるべきだった。(実際には、逃げる
ような男性はいないと思う。)が、こういうケースでは、その少し頭のおかしい男性は、問題にな
らない。若い男性ばかりが、問題になる。

 しかし本当に悪いのは、だれか? 

 似たような問題を出すと、子どもたちなら、「その少し頭のおかしい男」と答える。

 実は、その通りである。本当に悪いのは、その頭のおかしい男である。女性を襲い、レイプし
た、その男である。逃げた男性ではない。

 こうした問題では、無意識のうちに、私たちは、その人の保護と依存の関係を前提にしても
のを考えてしまう。恋人なのだから、相手の女性を保護すべきだった、と。そして頭のおかしい
男のことを忘れてしまい、問題の本質から、目をそらしてしまう。

 保護と依存には、そういう問題も含まれる。もう少し、この問題を、つっこんで考えてみよう。

 たとえば実際に、こんな事件があった。

 ある県のある地方で、まれにみる集中豪雨が起きた。そのためその地域の人たちは、洪水
に見舞われてしまった。で、その洪水について、その地域の人たちは、「洪水が起きたのは、
市の行政の怠慢が原因である」と考えた。町の町長を訴えた。

 それまでにいきさつがいろいろあったのかもしれない。しかしざっとこの話を聞いたとき、私は
「?」と思った(失礼!)。町長はそこまで責任を負わねばならないのかと思ったが、それと同時
に、その地域の住民たちは、そこまで町に依存してよいものか、と。

 このケースでも、目立つのは、その地域の人たちの依存性である。恐らくその依存性がある
ことすら、その地域の人たちは、気づいていないのではないか。「町は、住民を保護すべきであ
る」という考え方が、半ば常識化してしまい、その結果として、自分たちの依存性に気がつかな
くなってしまった?

 そう決めてかかるのは、たいへん失礼なことかもしれない。ここにも書いたように、マスコミの
報道だけではうかがい知ることができない、それまでの、長い、別の事情があったのかもしれ
ない。

 ……と話が複雑になってしまったが、このことは、実は、親子関係についても、言える。

 今、子どもの学費を捻出するために、それこそ爪の灯をともすようにして、家計を切りつめて
生活している親は多い。2つも3つも、パートの仕事をかけもちしている人だっている。

 こういうケースでも、親子の間にあるのは、保護と依存の関係と言ってもよい。親は徹底的に
子どもを保護し、子どもは、これまた徹底的に親に依存する。つまり私が言いたいのは、こうし
た保護と依存の関係は、一度できると、それにすら気づかなくなるということ、それが当然とい
う前提で、ものごとを考えてしまう。

 そこで私は、自分の身のまわりを考えてみる。そしてその身のまわりには、(世話をする人)
と、(世話をされる人)がいるのを知る。その関係は、いつも一方的なもので、世話をする人
は、いつもだれかを世話している。世話をされる人は、いつもだれかに世話をされている。

 大切なことは、世話をする人も、世話をしすぎて、相手に依存心をもたせないことである。こ
れは、実は、子育ての奥義(おうぎ)と言ってもよいのでは……。

 ……ということで、3枚の原稿を書いた。どこかいいかげんな原稿なので、ここまで読んでくれ
た人には、心から感謝したい。これで1月31日号を発行できる。

【お願い】

 みなさんの周辺で、この私のマガジンに興味をもってくださいそうな人がいたら、どうか、この
マガジンの話をしてあげてください。よろしくお願いします。私はあえて、読者のみなさんに、依
存します。

                            はやし浩司

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●音読と黙読は違う

 小学三年生くらいになると、読解力のあるなしが、はっきりしてくる。

たとえば算数の文章題。読解力のない子どもは、問題を読みきれない、読みまちがえる、な
ど。あちこちの数字を集めて、めちゃめちゃな式を書いたりする。親は「どうしてうちの子は、問
題をよく読まないのでしょう」とか、「そそっかしくて困ります」とか言うが、ことはそんな簡単なこ
とではない。

 話は少しそれるが、音読と、黙読とでは、脳の中でも使う部分がまったく違う。音読は、一度
自分の声で文章を読み、その音を聞いて文の内容を理解する。つまり左脳がそれをつかさど
る。一方黙読は文字を図形として認識し、その図形の意味を判断して文の内容を理解する。つ
まり右脳がそれをつかさどる。

音読ができるから黙読ができるとは限らない。ちなみに文字を覚えたての幼児は、黙読では文
を読むことができない。そんなわけで子どもが文字をある程度読むことができるようになった
ら、黙読の練習をさせるとよい。

方法は、「口をとじて本を読んでごらん」と指示する。ある研究団体の調査によれば、黙読にす
ると、小学校の低学年児で、約三〇%程度、読解力が落ちることが」わかっている(国立国語
研究所)。

 ではどうするか。もしあなたの子どもの読解力が心配なら、方法は二つある。一つは、あえて
音読をさせてみる。たとえば先の文章題でも、「声を出して問題を読んでごらん」と言って、問題
を声を出させて読ませてみる。読んだ段階で、たいていの子どもは、「わかった!」と言って、
問題を解くことができる。が、それでも効果があまりないときは、こうする。

問題そのものを、別の紙に書き写させる。子どもは文字(問題)を一度文字で書くことによっ
て、文字の内容を「音」ではなく、「形」として認識するようになる。少し時間はかかるが、黙読が
苦手な子どもには、もっとも効果的な方法である。

 読解力は、すべての科目に影響を与える。文章の読解力を訓練しただけで、国語はもちろん
のこと、算数や理科、社会の成績があがったということはよくある。決して軽くみてはいけない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●計算力は早数えで

 計算力は、早数えで決まる。たとえば子ども(幼児)の前で手をパンパンと叩いてみせてほし
い。

早く数えることができる子どもは、五秒前後の間に、二〇回前後の音を数えることができる。そ
うでない子どもは、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」と数えるため、どうしても遅くなる。

 そこで子どもが一〜三〇前後まで数えられるようになったら、早数えの練習をするとよい。最
初は、「ヒトツ、フタツ、ミッツ……」でも、少し練習すると、「イチ、ニ、サン……」になり、さらに
「イ、ニ、サ……」となる。

さらに練習すると、ものを「ピッ、ピッ、ピッ……」と、信号にかえて数えることができるようにな
る。これを数の信号化という。こうなると、五秒足らずの間に、二〇個くらいのものを、瞬時に
数えることができるようになる。そしてこの力が、やがて、計算力の基礎となる。たとえば、「3
+2」というとき、頭の中で、「ピッ、ピッ、ピッ、と、ピッ、ピッで、5」と計算するなど。

 要するに計算力は、訓練でいくらでも早くなるということ。言いかえると、もし「うちの子は計算
が遅い」と感じたら、計算ドリルをさせるよりも先に、一度、早数えの練習をしてみるとよい。た
だし一言。

 計算力と算数の力は別物である。よく誤解されるが、計算力があるからといって、算数の力
があるということにはならない。たとえば小学一年生でも、神業にように早く、難しい足し算や引
き算をする子どもがいる。

親は「うちの子は頭がいい」と喜ぶが、(喜んで悪いというのではない)、それは少し待ってほし
い。計算力は訓練で伸びるが、算数の力を伸ばすのはそんな簡単なことではない。子どもとい
うのは、「取った、取られた」「ふえた、減った」「多い、少ない」「得をした、損をした」という日常
的な経験を通して、算数の力を養う。またそういう刺激が、子どもをして、算数ができる子ども
にする。そういう日常的な経験も忘れないように!(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.
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●はだし教育を大切に

 以前、動きがたいへんすばやい子ども(年長男児)がいた。ドッチボールをしても、いつも最
後まで残っていた。そこで母親に秘訣を聞くと、こう話してくれた。「乳幼児期は、ほとんど、は
だしで過ごしました。雨の日でもはだしだったので、近所の人に白い目で見られたこともありま
す」と。その子どもは二歳になるときには、うしろ向きにスキップして走ることができたそうだ。

 子どもの敏捷(びんしょう)さを養うには、はだしがよい。子どもというのは足の裏からの刺激
を受けて、その敏捷性を養う。反対に分厚い底の靴に、分厚い靴下をはいて、どうして敏捷性
を養うことができるというのか。

一つの目安として、階段をおりる様子を観察してみればよい。敏捷な子どもは、スタスタとリズ
ミカルに階段をおりることができる。そうでない子どもは、手すりにつかまって一段ずつ、恐る
恐るおりる。階段をリズムカルにおりられない子どもは、年中児で一〇人に一人はいる。

あるいは傾いた土地や、川原の石ころの間を歩かせてみればよい。敏捷な子どもは、ピョンピ
ョンと平気で飛び跳ねるようにして歩くことができる。そうでない子どもはそうでない。もしあなた
の子どもの敏捷性が心配なら、今日からでも遅くないから、はだしにするとよい。あるいはよく
ころぶ(※)とか、動作がどこか遅いというようなときも、はだしにするとよい。

(分厚い靴や分厚い靴下をはきなれた子どもは、はだしをいやがるが、そうであるならなおさ
ら、はだしにしてみる。)

 この敏捷性はあらゆる運動の基本になる。言い換えると、もともと敏捷さがあまりない子ども
に、あれこれ運動をさせてもあまり上達は望めない。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.
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(※……ころびやすい子どものばあい、敏捷性だけでは説明がつかないときもある。そういうと
きは歩く様子をまうしろから観察してみる。X脚になって足が互いにからむようであれば、一度
小児科のドクターに相談してみるとよい。)
 
【付記】

 この私の意見に対して、こう反論してきた人がいた。

 「アメリカ人は、生まれたときから、クツをはく。しかしみな、足が速い。クツをはかせるから、
運動能力が落ちるというのは、あんたの迷信だ」と。

 かわいそうな人である。私は、どこにも、「足が速くなる」とは、書いていない。「敏捷性がよく
なる」、つまり、「動きが機敏になる」と書いている。どうか、誤解のないように!

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●文字の前に運筆練習を

 文字を書くようになったら、(あるいはその少し前から)、子どもには運筆練習をさせるとよ
い。

一時期、幼児教育の世界では、ぬり絵を嫌う時期もあったが、今改めてぬり絵のよい点が見
なおされている。子どもはぬり絵をすることで、運筆能力を発達させる。ためしにあなたの子ど
もに丸(○)を描かせてみるとよい。

運筆能力の発達した子どもは、きれいな(スムーズな)丸を描く。そうでない子どもは多角形に
近い、ぎこちない丸を描く。言うまでもなく、文字は複雑な曲線が組み合わさってできている。そ
の曲線を描く力が、運筆能力ということになる。

またぬり絵でも、運筆能力の発達している子どもは、小さな四角や形を、縦線、横線、あるい
は曲線をうまく使ってぬりつぶすことができる。そうでない子どもは、横線なら横線だけで、無造
作なぬり方をする。

 ところでクレヨンと鉛筆のもち方は基本的に違う。クレヨンは、親指、人差し指、それに中指で
はさむようにしてもつ。鉛筆は、中指の横腹に鉛筆を置き、親指と人差し指で支えてもつ。鉛筆
をもつようになったら、一度、正しい(?)もち方を練習するとよい。

(とくに正しいもち方というのはないが、あまり変則的なもち方をしていると、長く使ったとき、手
がどうしても疲れやすくなる。)ちなみに年長児で約五〇%が鉛筆を正しく(?)もつことができ
る。残りの三〇%はクレヨンをもつようにして鉛筆をもつ。残りの二〇%は、それぞれたいへん
変則的な方法で鉛筆をもつ。

 さらに一言。一度あなた自身が鉛筆をもって線を描いてみてほしい。そのとき指や手、さらに
は腕がどのように変化するかを観察してみてほしい。たとえば横線は手首の運動だけで描くこ
とができる。しかし縦線は、指と手が複雑に連動しあってはじめて描くことができる。さらに曲線
は、もっと複雑な動きが必要となる。何でもないことのように思う人もいるかもしれないが、幼児
にとって曲線や円を描くことはたいへんな作業なのだ。

 「どうもうちの子は文字がへただ」と感じたら、紙と鉛筆をいつも子どものそばに置いてあげ、
自由に絵を描かせるようにするとよい。ぬり絵が効果的なことは、ここに書いたとおりである。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

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●頭をよくする方法

 もう一五年ほど前のことだが、アメリカの「サイエンス」という雑誌に、こんな論文が載った。
「ガムをかむと頭がよくなる」と。

この世界ではもっとも権威ある雑誌である。で、その話を母親たちの席で話すと、「では……」
と言って、それを実行する人が何人か出た。で、その結果だが、たとえばN君は、数年のうちに
本当に頭がよくなってしまった。I君もそうだった。これらの子どもは、年中児のときからかみ始
め、小学一、二年になるころには、はっきりとわかるほどその効果が表れてきた。

N君もI君も、幼稚園児のときは、ほとんど目立たない子どもだった。どこかボーッとしていて、
反応も鈍かった。が、小学二年生のころには、一〇人中、一、二番を争うほど、積極的な子ど
もになっていた。

 で、それからもこの方法を、私は何一〇人(あるいはそれ以上)もの子どもに試してきたが、
とくに次のような子どもに効果がある。どこか知恵の発育が遅れがちで、ぼんやりしているタイ
プの子ども。集中力がなく、とくに学習になると、ぼんやりとしてしまう子どもなど。

 ガムをかむことによって、あごの運動が脳神経によい刺激を与えるらしい。が、それだけでは
ない。この時期まだ昼寝グセが残っている子どもは多い。子どもによっては、昼ごろになると、
急速に集中力をなくしてしまい、ぼんやりとしてしまうことがある。が、ガムをかむことによって、
それをなおすことができる。五、六歳になってもまだ昼寝グセが残っているようなら、一度ガム
をかませてみるとよい。

 なおガムといっても、菓子ガムは避ける。また一つのガムを最低でも三〇分はかむように指
導する。とっかえひっかえガムをかむ子どもがいるが、今度は甘味料のとり過ぎを心配しなけ
ればならない。

息を大きく吸い込んだようなとき、大きなガムをのどにひっかけてしまうようなこともある。走っ
たり、騒いでいるようなときにはガムをかませないなどの指導も大切である。もちろんかんだガ
ムは、紙に包んでゴミ箱に入れるというマナーも守らせるようにしたい。(はやし浩司のサイト:
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●子どもに子どもの育て方を

 子どもに子どもの育て方、つまりあなたから見れば孫の育て方を教えるのが子育て。「あなた
がおとなになり親になったら、こういうふうに子どもを育てるのですよ」「こういうふうに子どもを
叱るのですよ」と。つまり子どもに子育ての見本を見せる。見せるだけでは足りない。しっかりと
体にしみこませておく。

 数年前だが、厚生省が発表した報告書に、こんなのがあった。「子育ては本能ではなく、学習
である」と。

つまり人間というのは(ほかの高度な動物もそうだが)、自分が親に育てられたという経験があ
ってはじめて、自分が親になったとき子育てができる。たとえば一般論として、人工飼育された
動物は、自分では子育てができない。人間はなおさらで、つまり子育てというのは、本能ででき
るのではなく、「学習」によってできるようになる。が、それだけではない。

もしあなたがあなたの子どもに将来、心豊かで温かい家庭を築いてほしいと願っているなら(当
然だが……)、今あなたはここで、心豊かで温かい家庭とはどういうものかを子どもに見せてお
かねばならない。あるいはそういう環境で子どもを包んであげる。さらに「父親とはこういうもの
です」「母親とはこういうものだ」と、その見本を見せておく。そういう経験が体にしみこんでいて
子どもははじめて、自分が親になったとき、自然な形で子育てができるようになる。

 そこで問題はあなた自身はどうだったかということ。あなたは心豊かで温かい家庭で育てら
れただろうか。もしそうならそれでよし。しかしそうでないなら、一度あなたの子育てを見なおし
てみたほうがよい。あなたの子育てはどこかぎこちないはずである。

たとえば極端に甘い親、極端にきびしい親、あるいは家庭をかえりみない親というのは、たい
てい不幸にして不幸な家庭に育った人とみてよい。つまりしっかりとした「親像」が入っていな
い。が、問題はそのことではなく、そのぎこちなさが、親子関係をゆがめ、さらにそのぎこちなさ
を次の世代に伝えてしまうこともある。しかしあなた自身がその「過去」に気づくだけで、それを
防ぐことができる。

まずいのはその「過去」に気づくことなく、それにいつまでも振り回されること。そしてそのぎこち
なさを次の世代に伝えてしまうことである。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~
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●教えるより好きにさせる

 子どもに何かを教えるときは、「教えよう」という気持ちはおさえて、「好きにさせる」ことを考え
てする。あるいは「覚えたか」ではなく、「楽しんだか」を考えてする。

これを動機づけというが、その動機づけがうまくいくと、あとは子ども自身の力で伸びる。要は
そういう力をどのように引き出すかということ。たとえば文字学習についても、文字そのものを
教える前に、文字は楽しい、おもしろいということを子どもにわからせる。

まずいのは、たとえばトメ、ハネ、ハライ、さらには書き順や書体にこだわり、子どもから学習
意欲を奪ってしまうこと。私も少し前、テニススクールに通ったが、そこのコーチは、スタイルば
かりにこだわっていた。(私はストレス解消のため、思いっきりボールを叩きたかっただけだが
……。)おかげで私はすぐやる気をなくしてしまった。

 つぎに大切なことは、動機づけをしたら、あとは時の流れを待つ。イギリスの格言にも、「馬を
水場へ連れていくことはできても、水を飲ませることはできない」というのがある。最終的に「す
る、しない」は、子ども自身が決めるということ。

……と書くと、「それでは遅れてしまう。まにあわない」という人がいる。しかしそれが、子どもの
能力。よく親は「うちの子はやればできるはず」と言うが、「やる、やらない」も能力のうち。「や
ればできるはず」と思ったら、「やってここまで」と思い、あきらめる。このあきらめが親子の間
に風をとおす。親があせればあせるほど、その分だけ、子どもの伸びは鈍化する。いわんや子
どもを前にしてイライラしたら、子どもの勉強からは手を引く。

 好きにさせるということは、子どもに楽しませること。また幼児期や小学校の低学年時には、
あまり勉強を意識せず、「三〇分すわって、それらしきことを五分もすればじょうでき」と思うこ
と。またワークにしてもドリルにしても、半分はお絵かきになってもよい。勉強といっても、何も
作法があるわけではない。床に寝そべってするのもよし、ソファに座ってするのもよし。そのう
ち子ども自身がもっとも能率のよい方法をさがしだす。そういうおおらかさが子どもを伸ばす。
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●笑えば伸びる

 子どもの心を開放させるもっとも効果的な方法は、笑わせること。何かおもしろいことがあっ
たとき、大声でゲラゲラ笑うことができる子どもに、心のゆがんだ子どもはまずいない。

しかし今、大声で笑えない子どもがふえている。年中児で一〇人のうち、一〜二人はいる。皆
が笑っているようなときでも、顔をそむけてクックッと苦しそうに笑うなど。親の威圧的な過干
渉、息の抜けない過関心が日常化すると、子どもの心は萎縮する。

 「ゆがむ」ということは、その子どもであって、その子どもでない部分があることをいう。たとえ
ば分離不安の子どもがいる。親の姿が見えるうちは、静かで穏やかな様子を見せるが、親の
姿が見えなくなったとたん、ギャーッとものすごい声をはりあげて、親のあとを追いかけたりす
る。

そういう子どもを観察してみると、その子ども自身の「意思」というよりは、もっと別の「力」によ
ってそう動かされているのがわかる。それがここでいう「その子どもであって、その子どもでない
部分」ということになる。そういう子どもの心を表す言葉としては、日本語にはつぎのようなもの
がある。ねたむ、ひねくれる、つっぱる、いじける、こだわる、すねるなど。そういった症状が見
られたら、子どもの心はどこかゆがんでいるとみてよい。

 私は幼児を教えるようになってもう三〇年になる。そういう経験の中で、私はいつも子どもを
笑わせることに心がけている。

だいたい一回の学習で、五〇分ほど教えるが、その五〇分間、ずっと笑わせつづけるというこ
ともある。とくに心のどこかに何らかのキズをもっている子どもにはこの方法は、たいへん有効
である。軽い情緒障害なら、数か月でその症状が消えることも多い。が、それだけではない。

子どもは笑うことにより、ものごとを前向きにとらえようとする。学習の動機づけには、たいへん
よい。英語の格言にも、「楽しく学ぶ子どもはよく学ぶ」というのがある。「楽しかった」という思
いが、子どもを伸ばす原動力になる。(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi
/)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(504)

●運動と知力

 正月休みになって、運動量がぐんと、減った。どこか、体がだるい。知力も衰えた。新聞を読
んでも、ただ活字を流し読みしているといった感じ。ぼんやりと見ているだけ。

 ふだんなら、「ああでもない」「こうでもない」と、自分なりの意見が、頭の中にわいてくるものだ
が、それがない。平和と言えば平和。悪く言えば、頭がボケてしまって、使いものにならない。

 あとで、ハナを連れて、中田島(砂丘)まで、散歩に行ってくるつもり。一汗、かく。(1月4日
記)


●人生の位置

 人生というのは、それを生きてみて、はじめて自分の位置がわかる。「位置」というのは、い
わば地図の上で、自分がどこにいるかという、その位置をいう。

 「あのときは、そういう位置にいた」とか、「あのときは、そういう方向に向っていた」と。

 たとえば子育てについても、子育てをしている最中というのは、自分の位置がわからない。
が、それが終わってみると、「ああすれば、よかった」「こうすれば、よかった」と思うことが多
い。つまり自分がどこで、何をしていたかが、よくわかる。

 それが「位置」である。英語で言えば、ポジションということになる。

 で、今、私は、自分の位置が、よくわからない。「これからどうなるのだろう」「どうすればいい
のだろう」「どこへ向っているのだろう」と。

 そういうとき私は、私より、長く生きた人の意見を聞くようにしている。少なくとも、今までは、
そうしてきた。

 しかしここで、ハタと困ってしまった。というのも、今までは、それなりに自分の位置を教えてく
れた人がいたが、このところ、そういう人を見つけるのが、むずかしくなってきた。50歳や60
歳を過ぎると、みな一様に、頭ガボケるよう(失礼!)。進歩するというよりは、この年齢を境
に、退化し始める。

 未知の世界に足を踏み入れたときは、とくにそうである。

 たとえば今、私は、「電子マガジンを1000号まで出す」という目標をかかげている。しかし心
のどこかで、「1000号まで出して、それがどうなのか」という迷いがある。そこでそういう経験を
した人をさがそうとするが、しかしそういう人がいない。そのため、自分の位置がわからない。

 反対に、長くマガジンを出してきた人が、そのマガジンを廃刊したというような話を聞くと、心
底、ゾッとする。何かしら、自分が、たいへんなムダなことをしているように思えてくる。「私も、
ひょっとしたら、時間をムダにしているのではないか」と。ただの道楽で終わってしまうかもしれ
ない。

 ただ、そうであるかといって、自分の位置が、まったくわからないかといえば、そうでもない。
想像はできる。

 今まで、すでにマガジンを520号まで出してきた。折り返し点を過ぎた。1000号までの半分
である。そういう自分を振りかえってみて、今、思うことは、「やはり、ムダではなかった」という
こと。

 一歩、一歩というよりは、一ミリ、一ミリという感じだが、何かに近づいている。そんな実感は、
たしかに、ある。

 ……というのは、一例だが、ともかくも、私は今、自分の位置がよくわからない。多分、この時
代を過ぎてみると、その位置がわかるようになるのだろう。が、今は、わからない。たとえて言う
なら、背丈の高い雑草に囲まれた平原に入りこんだような気分だ。空は雲っていて、太陽の位
置もわからない。

 私は、どこへ向っているのか? どこへ行こうとしているのか?

 車に取りつけられたナビゲーターのように、今、私はどこにいるのか、それを知る方法があれ
ば、ありがたいのだが……。しかしその方法は、あるのか……?


●ボケ兄・奮闘記(1・4)

 今日の午前中は、ボケ兄の病院めぐりで終わってしまった。が、食事の時間だけは、よく覚え
ていて、12時近くになると、「昼ごはんを食べたい」「食べないと、力が出ない」などと言い出し
た。

 病院めぐりを途中で切りあげて、自宅へ。そして急いで食事の用意。

 その昼食を見て、「量が少ない」とか、「入院したときは、リンゴジュースがもらえた」「バナナ
が食べたい」と、まさに言いたい放題。

 あげくのはてには、ご飯(ライス)を指先でさわってみて、「冷たい」「かたいご飯は、胃によくな
い」などなど。

 そのたびに、ワイフが、「待っててね」「もう少しがまんしてね」と。数えたわけではないが、食
事の前から、終わるまで、ワイフは、100回以上は、そう言ったのではないか?

 ワイフいわく、「ゆっくり食べるから、その間に、ご飯(ライス)が冷えてしまうのね。それをかた
いと言うのよ」と。

 昼からは、しばらく自分の部屋で静かにしていたが、やがて居間にもどってきて、「電蓄(ステ
レオセット)の音が出ない……」と。

 見に行くと、私の貸してあげた高級ステレオが、こわれている! どうやらカセットテープをさ
かさまに入れて、無理にフタをしてしまったらしい? あれこれ操作してみたが、ウンともスンと
も動かない。

 ドライバーをもってきてなおすが、二つあるカセットテープのポケットの一つが、こわれてしま
った。

 「もう、ここには、さわってはダメだよ。CDをかけるだけだよ」と言うと、しおらしく「うん、わかっ
た」と。が、部屋を出るとき振りかえると、もうカセットテープをかけようとしている。私の言ったこ
となど、耳の中を、右から左へ抜けていくよう。

 恐らく、耳から入った情報が、ウエルニッケの左脳・聴覚野に格納される前に、どこかへ拡散
されてしまうようである。しかもその情報が、大脳で処理加工されない。そんな印象をもった。

 ボケ兄の二大症状。軽いボケと、わがまま。前者はしかたないとしても、後者には、正直言っ
て、腹が立つ。

 午後5時20分(自分で、夕食時刻と決めている)を過ぎると、とたんに不機嫌になる。台所の
テーブルに座ったまま、動こうともしない。そのくせ、何か仕事を頼むと、「足が痛い(だからで
きない)」「腹がへった(だから動けない)」などと、矢継ぎばやにぶつぶつ、言う。

 そして昼食のときも、そうだったが、まず、ご飯(ライス)だけを先に食べてしまう。そのとき、
おかずだけが残る。つまりご飯だけで一度、満腹状態にしたあと、さらにおかずをそえて、ご飯
を食べる。

 量的には、ボケ兄は、私よりずっと体が小さいのだが、軽く、私の2倍は、食べる。腸の中
で、栄養分が、うまく吸収されないのかも。

 そういうボケ兄をもったとき、人の心は、神と悪魔の間を、行ったり来たりする。「かわいそう
に」と同情してみたり、「バカヤロー!」と怒鳴りつけたくなってみたりする。

 しかし大切なことは、悪魔になってはいけないということ。ボケ兄が、自分の部屋のこもったあ
と、私とワイフは、ボケ兄の行状をあれこれ思い出しては、笑った。

ワイフ「毎回、30分近くかかって、ご飯を食べるでしょう。それでご飯が冷えてしまうのね。それ
で文句を言うのよ」
私「ハハハ」
ワイフ「コンセントをつなぐとき、コンセントを、そのコンセントにつなぐのよ。それでステレオが
ならないと文句を言うのよ」
私「ハハハ」と。

 わかるかな?

 コンセントは、壁のコンセントにつながなければ、電気は流れない。そのコンセントを、そのコ
ンセントにつなぐ。だから電気など、流れるはずがない。だからそのコンセントにステレオのコ
ンセントをつないでも、なるはずがない。

 ハハハ、ハハハ。

 「ボケ兄」と書いたことについて、「自分の兄のことなのに!」と怒る人もいるかもしれない。し
かし実際のところ、私とワイフの2人がかりで、まさに24時間体制で介護をしている。

 まともな神経では、務まらない。「ボケ兄」と呼んだところで、神様も、仏様も、それほど、怒ら
ないだろうと思う。つまりそれくらい、ボケた人には、手間や世話がかかるということ。おかげで
今年の正月は、外出は、なし。初詣もなし。だれが、初詣なんかに、行くものか!

 ……ということで、ここは笑って過ごすしかない。笑って、悪魔を退散させるしかない。

で、たった今、そのボケ兄が、「風呂へ入る」と言い出した。今夜も、体を洗ってやらねばならな
い。しかしどうせするなら、楽しく、明るくしたい。しかたないね。

(付記)

 風呂といっても、スンナリとはいかない。「(湯が)熱い」「冷たい」「寒いから、風邪をひく」と。
洗ってやっても、「乱暴だ」「痛い」と。さらに湯を抜いている最中から、またつぎの湯を入れ始
める。

 まあ、たいへん。しかしここはやはり、笑ってすます。ハハハ。しかし……。いつかすぐ、私も
ああなるのか? それを考えると、ゾッとする。


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●岡山県のUTさんからのメール

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岡山県にお住まいの、UTさんから、こんなメールが届いています。
みなさんの正月は、どんなものでしたか。(1月4日記)

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【UTより、はやし浩司へ】

 あけまして おめでとうございます。
 今年もよろしくお願いいたします。

 年末から、タイ・プーケットの大津波のニュースばかりですね。
 地震や津波、世界中で自然災害が勃発して、穏やかとはかけ離れた新しい年の幕
明けですが・・・

 我が家でも、激しい口論で、お正月が始まりました。
 自分でも情けないです。

口火を切ったのは、だいたいのトラブルメーカーの実家の父でした。

 年末から実家に帰って、実家の掃除の手伝いをしたりして、お正月はのんびりと実
家で過そうと思っていました。

 父は、元旦の夜、一人で酔っ払って、(お酒は父しか飲みません)、お鍋を食べようと家
族が集まって、お箸を握った時に、いきなり現れて、酔った勢いで、支離滅裂なことを話
し始めました。

長女のKちゃんが父に言われたことで、傷ついて泣いていました。
 
 激怒した私が、父と口論になり1時間以上、カニなべはお預け状態で、喧嘩が終わっ
た頃はお鍋の野菜はドロドロでした。

 母は、横から「取りあうな」と何度も無言で合図していました。

前半、ヒステリー状態になった私は、涙ながらに、日頃から溜め込んだ
恨みつらみを、洗いざらい言って、後はボーッと、父の話を聞いていました。

全部まじめに聞いていたのでは、とても体がもちません。

 でも、だんだん父の話しが白熱してくるに従って、頭も平静に戻ってきて、話の内容
があまりにおかしくて、おかしくて、最後には大声で笑ってしまいました。

 それまで、お箸を握ったまま、ただならぬ雰囲気を見守っていた二女のWちゃん(3歳)
も、声を合わせて笑いました。あはははは!!!

 父はお酒におぼれる人ですが、お酒を飲んで暴力を振るうことは今までありません
でした。それだけはいいところです?

おきまりの捨て台詞を吐いて、「わしの目の黒いうちは勝手なことはさせん。俺はUT
家の当主だ。わかったか! お前は女の分際で!」と、のたまって自分の部屋に退室して
しまいました。

 あーあ、今年も反省からのスタートです。いつになったらもっとまともな自分にな
れるのでしょう! ちなみに、うちの父の名前はひろしデス(漢字は全然違うけど)。

 実家からの帰り道の車で、家族の今年の抱負を語りました。私は「人の悪口を言わ
ない」で、小2の長女のKちゃんは、「忘れ物を減らせる」です。

 学年末の懇談会で、担任の先生に「困ったことは、忘れ物が多いことで、忘れたこと
を誇らしげに? 自己申告してきます」と、言われました。

 担任の先生をとても慕っており、本当に忘れることもありますが、甘えもあるよ
うです。

 そうそう、今時の小学校の通知表は「人の言っていることを自分なりに理解でき
る」とか、心の発達とかの記述が具体的で、
昔の自分達の子供の頃の成績表とは全然違うんですね。 

やっぱり、「KK式みたいに機械的に勉強ができることより、読解力のような
もっと内面が評価されるのかー」、っと変に納得しました。(Kちゃんは機械的な計
算はまあまあ得意ですが、読解力とかは、親がみてもあまりないので、当然 "ふつ
う"の評価が多かったです。)

(うーん、やっぱ先生は、よく見てる!)

 あまり目に見える進歩のない私ですが、はやし先生に出会えたおかげで、ちょっと
だけは、改善されつつある?、と思っております。

年頭から、グチグチとすみません。でも、はやし先生に聞いてもらえると悪いことも昇
華できるような気がするんですよ。

 平穏とはいいますが、なーんにもない人生もつまらないものですよね。

 母にまた、「なんで、離婚せんの?」と聞いてしまいましたが、笑いながら「も
し、あんな人でも『生きていて』こそだから腹が立っても、一人ぼっちになるよりは、
まし」と、言っていました。

母は大変自立した人で、子供の世話になるよりは、いつまでも世話をする側にいたいと
いう人です。そんな、母でも独居は嫌なのです。

(特別な父に対する愛情ではありません)

 迷惑をかけられつづけても、ひとりぼっちというのは寂しいものなんですね。
 今の私の年齢では、まだ理解できないことも多いです。

また、新しいことを一杯吸収して。Powerfulなマガジンを発信してくださ
い。1000号まではなにが何でもいい読者でいたいと思います。

お年賀の写真を何か送ろうと思ったのですが適当なものがありませんでした。
機会があれば、送ります。

そんなこんなのいざこざもあり、年始のチャットにも参加できなくって残念でした……。

はやし先生のご一家にとって、いい1年になりますように!

世界中のあらゆる紛争が終わり、本当の平和が訪れますように!!

では、また。(岡山県K市、UTより)

+++++++++++++++++++++++

【UTさんへ】

 いつもメールをありがとうございます。

 大切なことは、それぞれが背負った十字架について、それを重いと思えば、悪魔がとりつき、
笑い飛ばせば、神が味方してくれるということ、ですね。

 神というのは、大脳の辺縁系にある扁桃体のことかもしれません。十字架を前向きにとらえ
れば、扁桃体の中で、エンドロフィンやエンケファリン(ともにモルヒネ様の麻薬物質)が分泌さ
れ、その人を、ここちよくします。

 そうでなければ、そうでない。十字架はストレスとなって、免疫細胞から、サイトカインという悪
玉物質を放出する。そしてそれが精神作用まで狂わせてしまう。

 ……とまあ、素人が勝手に、そう判断しています。

 どうせこの世界には「現実」しかない。過去をうらんでも、未来を悲嘆しても、しかたない。現
実の中で、現実をどうするか、それだけを考えて行動すればよいのです。

 それぞれの人には、無数の糸がからんでいますよね。無数の糸です。いくらもがいても、切
れる糸もあれば、切れない糸もある。その糸にからまれているうちに、自分の人生も決まって
いく。それを「運命」というのでしょうか。

 大切なことは、仮に運命があるとしても、そうした運命と、最後の最後のところでは、戦うとい
うことです。そこに人間が生きる尊さがあるのですね。私はそう思っています。

 UTさんの家にも、いろいろ問題があるようですが、しかしあえて言えば、そんな程度の問題
など、問題ではないように思います。(ごめん!)ですからあまり深刻に考える必要もないです
よね。

 おっしゃるとおり、本当の平和がやってくるといいですね。がんばりましょう。

 去年、一年間を振りかえってみて、UTさんのような、よき友を得たというのは、私にとっても、
ラッキーなことでした。ありがとうございました。これからも、よろしくお願いします。

はやし浩司

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●私の心(?)

 今日(1・4)、いろいろあって、2度も、中田島砂丘へ行った。で、そのつど思うことは、どうし
てあの砂丘は、いつ行っても、閑散としているのかということ。

 日曜日の昼下がりでも、ほどんど、人はいない。たまにサーフィンをしている若者とか、魚釣
りをしている人を見かける。が、それでも、数人とか、10人前後である。やがて100万都市に
なる浜松市に近接する砂丘としては、さみしいかぎりと言うほかはない。

 ……と、書いても、私自身は、喜んでいる。人は少ないほうがよい。そのほうが、解放感があ
る。のんびりできる。

 で、2度目のときは、犬のハナを連れていった。午後の3時ごろだったが、やはり、人は、だ
れもいなかった。私は砂丘へ着くと同時に、ハナから綱をほどいてやった。ハナは、うれしそう
に、あちこちを走り回り始めた。

 しかし、いつもと感じがちがう。どこかちがう。いつもなら、私もいっしょに波打ち際まで走るの
だが、今日はしなかった。視線は、遠くばかりを見ている。「津波が来たら、どうしよう?」と。

 スマトラ沖大地震で起きた津波では、15万人以上が犠牲になったという。連日、そんなニュ
ースばかり。そのことが、頭から、離れなかった。

 私は、「今、ここで津波が襲ってきたらどうしようか?」と、そんなことを考えていた。

(1)ハナのことは構わず、一目散に逃げる。
(2)ハナを連れて、いっしょに逃げる。

 私は、松林の前の塀に腰をかけて、ハナが走り回るのを見ながら、「どちらだろうか?」と考
えた。アメリカ映画などでは、よく、命がけで愛犬を助けるシーンがある。そういうシーンを思い
浮かべならが、「私なら、どうするだろうか?」と。

 もちろん相手が、犬ではなく、ワイフや息子たちなら、迷わず、連れて、いっしょに逃げる。し
かしハナなら、どうするだろうか、と。

 で、私の出した結論は、ハナは捨てて逃げる、である。津波は、ジェット機並のスピードで襲っ
てくるという。時速700キロとか、800キロとか? 沖の向こうに高波が見えたら最後、1分も
たたないうちに、襲ってくる。逃げるヒマさえないかもしれない。

 高波を見たら、一応、「ハナ!」と大声で呼び寄せるだろう。幸いなことに、ハナは、大声で名
前を呼ぶと、私の方に走りよってくる。そのとき、私が走れば、ハナもいっしょに走るはず。走る
速さは、私より、はるかに速い。だからそれほど、心配しなくてもよい。

 しかし考えてみれば、薄情な飼い主ではないか。ハナの飼い主、つまり私は、いざとなった
ら、ハナを捨てて逃げる。しかしそういう私の気持ちを知ってか知らずか、ハナは、ときどき私
がそこにいることをたしかめたあと、また別の方向に走っていく。

 私は、それをかいま見ながら、しかし遠くの水平線ばかりを気にしていた。「高波が来たら、
逃げよう」と。

そういう私の心とは、裏腹ない、のどかな、しかし、北風の強い昼下がりだった。
 
海から帰るとき、私は自転車の上から、ハナにこう語りかけた。

私「あのな、お前のご主人様はナ、薄情なご主人様だぞ。地震で、高波が押し寄せてきたら、
お前のことなどかまわず、逃げるといっているゾ。わかるか? そういうご主人様をもって、お
前も、不幸な犬だな。

 それで死んでも、オレをうらむなよ。しかたないと思って、つまりお前のご主人様のために、死
んでくれ。わかったな?」と。

 それに答えて、ハナは、何も言わなかった。私はそれを、(無言の了解)ととった。ハハハ。

【付記】

 あとでこの話をワイフにすると、ワイフも、こう言った。「そういうときは、ハナのことはいいか
ら、あなたは逃げてね」と。

 反対の立場なら、それと同じことを、私はワイフに言うだろう。「そういうときは、ハナのことは
いいから、お前は、逃げろ」と。こう書くと、愛犬家の人には叱られそうだが、犬のために、自分
の命を落すことはない。

【付記】

 犬の飼い方にも、いろいろあるようだ。いっしょに同じふとんの中で寝る人もいるという。ある
いは、いつもいっしょに、風呂に入っている人もいるという。

 しかし私のばあいは、ハナを、庭で放し飼いにしている。私自身は、家の中で飼ってもよいと
思っているが、ワイフが、いやだという。「猟犬なんだから、できるだけ自然に近い環境のほう
がいいのよ」と。ワイフは、いつもそう言っている。

 そういうわけで、一応、私は、人間と犬の間には、一線を引いている。人間は人間だし、犬
は、犬。いくらハナが好きといっても、ハナと息子たちとは、ちがう。家族の一員であることには
ちがいないが、ハナは、人間のような家族ではない。ペットというふうには考えたことはないが、
しかし「友」でもない。

 そんなわけで、やはり、高波が襲ってくれば、私は、ハナのことはかまわず、一目散に逃げる
だろうと思う。ハナには、悪いが……。



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最前線の子育て論byはやし浩司(505)

●抑圧

 自分の心の奥深くに閉じ込められた(思い)、それを(抑圧)というが、その(抑圧)を知ること
は、たいへんむずかしい。自分自身が無意識のうちに、それを心の奥に閉じこめてしまってい
るからである。

 もしその(抑圧)が、表面に出てきたら、その緊張感から、精神状態は、きわめて不安定にな
る。それをやはり無意識のうちにも知っているからこそ、人は、同じく、無意識のうちにも、それ
を心の中に閉じこめようとする。(抑圧)は、いわば心の防衛機能(防衛機制)の一つということ
になる。

 この(抑圧)が、こわいところは、その無意識の世界で、その人の心をゆがめることがあると
いうこと。

 たとえば母親の異常なまでの過干渉とでき愛、それに代償的過保護(愛情に根ざさない過保
護)のもとで育った男性(30歳くらい)がいる。

 見た目には、穏かでやさしい。親切で柔和。しかし覇気(はき)がない。どこかナヨナヨしてい
る。だれにも反抗しない分だけ、しかし、奇行が目立つ。放火癖、盗癖、落書き癖など。ウソも
平気でつくし、約束も守れない。すべてが、(抑圧)と関係しているとは言えないが、心のゆがみ
は、その男性のように、さまざまな形で現れる。

 その表情とは裏腹に、いわゆる何を考えているかわからないといった表情をしてみせる。

 ……というようなことは極端な例としても、多かれ少なかれ、私たちの心の中には、何らかの
(抑圧)が潜んでいる。それを知ることは、自分を知ることにもなる。

 それは何か?

 一つの方法としては、まず自分自身の(ゆがみ)を知るというのがある。ひがみやすい、いじ
けやすい、つっぱりやすい、ねたみやすい、くじけやすいなど。そういう自分の(ゆがみ)を知っ
たら、それを手がかりに、原因は、どこにあるかをさぐる。

 それが(抑圧)を知る一つの方法ということになる。

 たとえば私は、若いころ、嫉妬しやすいタイプの男だった。好意を寄せている女の子が、ほか
の男と仲よく話しあっている姿を見ただけで、頭の中がパニック状態になったのを覚えている。

 私は、いつも、愛情飢餓の状態にあったと考えられる。つもりつもった欲求不満が、そういう
私をつくったとも考えられる。つまり(嫉妬深い)というのは、その背景に、愛情に対する飢餓感
があったためということになる。

 恐らく、……というよりまちがいなく、すなおな心をもっている人には、私が感じたような飢餓
感は、理解できないだろうと思う。恵まれた環境で、育てられた人である。しかしそういう人は、
この世の中に、一体、何%いるというのか。

 では、どうするか?

 こうした(抑圧)にせよ、ほかのさまざまな心の問題にせよ、それに気づくだけで、問題のほと
んどは、解決したとみる。あとは時間が解決してくれる。心のキズ(トラウマ)が大きければ大き
いほど、時間はかかるが、しかしそれでも時間が解決してくれる。

 あとは、静かに時の流れに身を任せればよい。あせってもしかたないし、私は私。あなたは
あなた。そういう(自分)を切りはなすことは、できない。あきらめて、受け入れ、あとは、静かに
そのときがやってくるのを、待つ。
(はやし浩司 抑圧 心の歪み 心のゆがみ 抑圧感 防衛機制)

(注)

 心理学で「抑圧」というときは、無意識下の抑圧をいう。たとえば目の前に、すてきな女性が
いて、あなたを誘惑したとする。そのとき、「私は誘惑にはのらないぞ」と、自分を抑制すること
は、「抑圧」とは言わない。そこに意識の力が働くからである。

 ここでいう「抑圧」というのは、あくまでも無意識下の意識をいう。だから本人がそれを意識的
に自覚することは、ない。

 
●飲食店、冬の時代

 バブル経済がはじけ、日本中が不況の大嵐に見舞われたときでも、この浜松市だけは、元
気だった。ホンダ、スズキ、ヤマハなどの大会社が、がんばった。

 しかしその陰(かげ)りが見られるようになったのは、5、6年前の正月から。年末のにぎわい
が終わったとたん、飲食店街では、閑古鳥が鳴くようになった。それは見ていて、つらいほどの
さびれようであった。

 ふつう飲食店の平均原価率は、大衆店で40〜42%、中級店で38〜40%だそうだ(「お店
のカラクリ」青春出版社)。

 平均して40%。たとえば1000円の料理なら、400円ほどが、原価(材料費、調理費)という
ことになる。「安ウマ系の店といえども、原価は、半額もかけていない」(同)そうだ。

 が、それでも大不況。原因はいろいろ考えられるが、不況に加えて、店がふえたこと、その
分、客が減ったことなどがあげられる。では、どうすれば生き残ることができるか。私は、ごく平
均的な庶民だが、その庶民の視点で考えると、こうなる。

(1)いかにリピーターをとらえるか

 新しい店が開店すると、もの珍しさで、まず入ってみる。しかし開店当初は、さける。混雑して
いる。そこで開店してから、1〜2週間くらいたってから、行く。「行ってみようか」「行ってみよう」
ということで、行く。

 この1回目で、印象が悪いと、それまで。そのとき、「二度と来ないぞ」と心に誓ってしまうこと
もある。そう誓ったら最後、私たち夫婦のばあいは、二度と行かない。誘われても、行かない。

 この世界には、「6か月なだれの法則」(同書)というのもあるそうだ。つまり開店から6か月目
が勝負、と。6か月目を境に客が、なだれるようにふえれば、よし。そうでなければ、閉店も近
い、と。

(2)気をつかう店は、さける

 食事は気楽に、が、私たち夫婦の最大の関心ごとである。そのため、知人が開いている店に
は、行かない。(知人の店ほど好んで行く人もいるそうだが……。)気をつかうからである。

 食事は、だれにも干渉されず、気楽に食べたい。まわりに知りあいがすわったとたん、窮屈
に感ずることがある。そういう可能性のある店には、行かない。毎日無数の親や子どもたちに
接しているので、食事くらいは、静かに食べたい。そういう思いが強く働く。(性格が暗いせいか
な?)

(3)もうけ主義の店には行かない

 私たち夫婦のばあいは、仕事のこともあって、月曜から金曜日までの5日間の食事のうち、
昼食はほとんど外食。夕食の半分も外食。単純に計算して、15食(3食x5日)のうち、7〜8食
は、外食ですませている。

 そういうこともあって、飲食店を見分ける目は、鋭い。私たちが、「いい店だ」と判断した店
は、そのあと必ず繁盛する。しかし「?」と思った店は、そのあと1〜2年のうちに、必ずつぶれ
る。

 ポイントは、いくつかある。

 プロ意識……安ウマ店は別として、私たちは、プロ意識を尊重する。ごまかして作ったような
料理は、すぐわかる。そういう店には、二度と行かない。

 雰囲気……明るくて清潔であることは、第一条件。値段と(でき)を、即座に判断する。値段
が高くても、それなりのものなら納得する。そうでなければ、怒って、おしまい。気取った店、主
人のレベルの低さを感じさせる店には、行かない。

(一度、外から中をのぞいたら、大きく鼻クソをほじっていたコックがいた。ゾッとして、そのまま
玄関先でUターンをしてしまったことがある。)

 要するに、もうけ主義の店には、行かない。私たちには、それを瞬時に、かぎ分ける。動物的
なカンがある。

 しかし一番困るのが、知人から、その知人が開いた店に招待されること。その店が気に入れ
ばよいが、そうでないときに困る。そのままその知人とは、気まずい関係になってしまう。

先日も、ワイフの知人が、マンションの一階で、喫茶店を開いた。で、やむにやまれず、ワイフ
と2人ででかけた。

 つくりは、最悪。喫茶店というより、安物のスナック風。場所も悪く、値段も高かった。一度で
こりて帰ってきたが、そのあとも何度か、ワイフには、その知人に来るようにと、催促の電話が
かかってくるという。つまりそのたびに、断るのに四苦八苦している。

 そういうこともある。

 そう言えば、寿司屋も、今、たいへんなようだ。これだけ一皿100円の開店寿司店が多くなる
と、「では、今まで、寿司屋で食べていた寿司は、何か」ということになってしまう。私たち夫婦
も、招待されたとき以外は、そういう寿司屋で寿司を食べたことがない。

 で、その寿司屋の寿司は、昔は、玉子焼きで力をみたが、今は、コハダ、あなごで、味をみる
のだそうだ(同書)。最近は、玉子焼きは、中央市場などで仕入れることが多いそうで、味の区
別はできない。が、コハダやあなごは、それだけ仕込みに手間がかかるため、味を知るには、
その店の力を知るためには、よい方法なのだそうだ。

 ついでに回転寿司店では、マグロと、ワサビを見れば、その店のよしあしがわかるとか。ナル
ホド!


●ハイテク監視

 ボケた兄のために、部屋に、ハイテク装置を取りつけた。パソコンに連動して、兄の行動を監
視するようにした。部屋の中で何か、動きを感知すると、自動的でカメラが作動して、パソコン
がそれを記憶する。

 まあ、たったそれだけの装置だが、結構、設定に手間取った。

 何となく、人権無視の感じがしないでもないが、しかし私たちにしても、24時間、兄を監視して
いるわけにはいかない。買い物にも行かねばならない。私の仕事も、近く、始まる。一応、兄の
行動パターンを知っておく必要がある。

 その装置をつけたあと、私とワイフは、あえて外出した。兄には、先端恐怖症があって、気分
が悪いと(?)、その先に火をつけるクセがある。わかりやすく言えば、放火癖。そのため、家
中から、マッチやライターは、すべて始末した。

 で、4時間後、家にもどった。遠くから我が家を見ながら、「火事になっていなくて、よかった」
と。

 で、カメラは、正常に作動していた。

 パソコン上で、再現してみると、結構、兄は、部屋のあちこちを動き回っていることがわかっ
た。詳しくは、それこそ兄の人権にもかかわることなので、ここには書けない。しかしそれを見
たあと、ワイフとこんな会話をした。

私「結構、いたずらしているよな」
ワイフ「ホント! 私たちがいないところでは、平気で歩けるみたい……」
私「まあ、いたずらといっても、害のないいたずらだから、このへんはおおらかに考えてやろう
か」
ワイフ「そうね」と。

 今のところ、家の中をウロウロしているだけ。そのうち徘徊(はいかい)でも始まったら、新し
いハイテク装置を導入するつもり。自動位置表示装置とか、そういうもの。こうなれば、兄のボ
ケと、私の英知の、まさに知恵くらべ。ハハハ。私は負けないぞ!

 数日前から、その兄に、足踏み器で足の運動をさせている。10回踏んだら、丸を1個つけさ
せる。こちらのほうは、まじめに(?)こなしているようだ。このあたりの指導は、私は、プロ。幼
児を教える方法が、そのまま役にたっている。

(付記)

 幼児教育と、老人教育(指導)のちがいは、未来がある、なし、ということか。幼児教育は、つ
まりは未来に向かってするもの。一方老人教育は、過去を維持するためのもの。幼児教育は
そのため、明るい。しかし老人教育は、暗い。(多分? 私には経験がないので、よくわからな
い。)

 しかし老人教育などに、どんな意味があるのか? かりにボケの進行を、1年遅らせることが
できたとしても、その老人にとって、その1年には、どんな意味があるのか? (だからといっ
て、命を粗末にしてよいと言っているのではない。誤解のないように!)

 私は、この分野については、考えたことがないので、よくわからない。しかしこれだけは言え
る。

 老人も、その命を、社会のために還元していくという姿勢がないと、そのうちみなに、嫌われ
るようになるということ。粗大ゴミとして扱われるようになる。わかりやすく言えば、まわりの人に
役立つ老人にならねばならない。自分勝手でわがまま、「私さえよければ」という老人は、これ
からの日本では、嫌われる。

 やがて老後を迎える私にしても、これは切実な問題である。

これからの人生は、自分のためではなく、みなのため。少しずつでもよいから、そういう姿勢を
養っていこう。

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最前線の子育て論byはやし浩司(506)

●十字架

人は、だれしも、十字架を背負う。
背負って、歩く。人が人である以上、
その十字架から逃れることはできない。

しかしその十字架を重いと感じたとき、
その十字架の上に、悪魔が、のしかかる。
十字架を笑い飛ばしたとき、
その十字架の上に、神が、宿る。

過去をのろうな、未来を嘆くな。
あるのは、「現実」という事実だけ。
その現実を受け入れ、あとは忘れる。


●45階

今日、ワイフと、駅前のAタワーに登った。45階建てのビルである。ホームページに載せる写
真を撮りたかった。

 正月の5日ということもあって、この前来たときよりは、人通りもあった。が、それでも閑散とし
ていた。人影は、パラパラといった感じだった。

 私たちはその45階まで、登った。「昇った」と書くべきか。「上った」でもよい。最上階は展望
台になっている。そこでおとな1人、500円の料金を払う。たしか以前は、1200円くらいでは
なかったか? よく覚えていないが……。

 空はよく晴れ、澄んでいた。南は太平洋の水平線。東は、何と、富士山まで見ることができ
た。浜松から富士山が望める日は、一年を通しても、そうは、ない。私は、夢中でデジタルカメ
ラのシャッターを切った。

 しかし何と、殺風景な形式。ゴミが散乱した広大な野原に立たされたような気分。恐ろしく緑
が少ない。統一性もなければ、整然性もない。まさにゴチャゴチャという雰囲気。その景色をし
ばし見ながら、こんなことを考える。

 「この下で、私やあなたが生きている。懸命に生きている」と。

 行きかう自動車が、ビルの間から、見える。目をこらせば、人が歩いているのも見える。「私
はあの人だ」と思ってみたり、「あの人が私だ」と思ってみたりする。

 ワイフは、通路の並べられたイスに座ったまま、動こうともしない。「ここはお前の故郷(ふるさ
と)だから、いろいろな思い出もあるだろうね」と声をかけると、軽くうなずいた。

 言い忘れたが、ワイフは、子どものころ、駅前(南側)の一角に住んでいた。今の新幹線の改
札口のあるあたりに、家があったという。だからそのあたりのことには、詳しい。「ずっと住んで
いたら、今ごろは、大金持ちだったね」と話すと、「強制的に、立ち退(の)かされたから……」
と。

 帰るとき、もう一度、あちこちを、パシャリパシャリと、写真にとった。そして帰路に。エレベー
ターでおりるとき、何人かのホテル客といっしょになった。気取った服を着ていた。外へ出たと
き、「服でも買おうか?」と私が言うと、「寒いから、帰ろう」と。ワイフはポツリと言った。

 冬の冷気が、やけに身にしみた。

 そのとき撮った写真は、(はやし浩司のHP)→(浜松案内)に収録した。


●依存性

 その人の依存性は、無意識のうちにも、言葉となって表れる。たとえばよく知られた例に、(だ
から、何とかしてくれ)言葉がある。

 おなかがすいたときでも、具体的に、「〜〜が食べたい」「食事の用意をしてほしい」とは言わ
ない。「腹、減ったア。(だから何とかしてくれ)」と、言う。あるいは、「寒い。(だから何とかしてく
れ)」「眠い。(だから何とかしてくれ)」「退屈だ。(だから何とかしてくれ)」と。

 もう少し高度になると、こういう言い方をするようになる。

 もう亡くなったが、一人の伯父は、いつも、口ぐせのようにこう言っていた。「ワシも、年をとっ
たからね」と。彼もまた、言外で、「だから、オレを大切にせよ」と言っていた。

 さらにこんなことを言う女性がいた。そのとき50歳くらいだっただろうか。いっしょに食事をし
ているときも、「私は、中学生のとき、胃が悪くて、ずっと入院をしていました」と。

 最初は、その意味がよくわからなかったが、そのうち、わかった。その女性は、「だから、私に
は、へんなものを食べさせるな」と言いたかったのだ。

 こうした依存性は、しかし日本人に広く共通して見られる現象である。いつも心のどこかで、
「だれかが、何とかしてくれるだろう」というような考え方をする。近隣の問題についてもそうだ
し、国際問題についても、そうである。

 その原因をたどれば、長くつづいた、あの封建時代がある。今のK国の人たちのように、日
本人は、自ら考え、自ら立ちあがる力を、骨のズイまで抜かれてしまった! たとえば「自由」
「平等」という意味でさえ、本当のところは、何もわかっていないのではないだろうか。いや、そ
の「自由」は「平等(?)」にしても、本当のところは、自分たちで得たものというよりは、アメリカ
によって、与えられたものにすぎなかった。

 ところでたまたま昨日、こんな会話を耳にした。60〜65歳前後の女性たちの会話である。

女A「おなかがすきましたね……」
女B「もう12時になりますね……」
女C「どうしましょう?」
女D「どうしましょうか……?」と。

 それぞれが、だれかが「食事をしましょう」「レストランへ行きましょう」と言い出すのを待ってい
るといった感じである。しかしそれを口にした人が、食事代を負担しなければならない(?)。だ
から自分では言い出せず、だれかにそれを言わせようとしていた(?)。

 少し考えすぎかもしれないが、私は、会話の雰囲気から、そんな印象をもった。

 こうした依存性は、日本人独特のもので、日本に住んでいると、それがわからない。外国の
家庭などでは、そういう言い方をしても通用しない。へたに、「I am hungry.」(おなかがすいた)
などと言おうものなら、「Then what?」(だから、どうなの?)とやり返される。

 内容が少しダブるが、以前書いた原稿を、2作、添付する。
(050106)

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●依存心

 依存心の強い子どもは、独特の話し方をする。おなかがすいても、「○○を食べたい」とは言
わない。「おなかが、すいたア〜」と言う。言外に、(だから何とかしろ)と、相手に要求する。

 おとなでも、依存心の強い人はいくらでもいる。ある女性(67歳)は、だれかに電話をするた
びに、「私も、年をとったからネエ〜」を口グセにしている。このばあいも、言外に、(だから何と
かしろ)と、相手に要求していることになる。

 依存性の強い人は、いつも心のどこかで、だれかに何かをしてもらうのを、待っている。そう
いう生きざまが、すべての面に渡っているので、独特の考え方をするようになる。つい先日も、
ある女性(60歳)と、北朝鮮について話しあったが、その女性は、こう言った。「そのときになっ
たら、アメリカが何とかしてくれますよ」と。

 自立した人間どうしが、助けあうのは、「助けあい」という。しかし依存心の強い人間どうしが、
助けあうのは、「助けあい」とは言わない。「なぐさめあい」という。

一見、なごやかな世界に見えるかもしれないが、おたがいに心の弱さを、なぐさめあっているだ
け。

総じて言えば、日本人がもつ、独特の「邑(むら)意識」や「邑社会」というのは、その依存性が
結集したものとみてよい。「長いものには巻かれろ」「みんなで渡ればこわくない」「ほかの人と
違ったことをしていると嫌われる」「世間体が悪い」「世間が笑う」など。こうした世界では、好ん
で使われる言葉である。

 こうした依存性の強い人を見分けるのは、それほどむずかしいことではない。

●してもらうのが、当然……「してもらうのが当然」「助けてもらうのが当然」と考える。あるいは
相手を、そういう方向に誘導していく。よい人ぶったり、それを演じたり、あるいは同情を買った
りする。「〜〜してあげたから、〜〜してくれるハズ」「〜〜してあげたから、感謝しているハズ」
と、「ハズ論」で行動することが多い。

●自分では何もしない……自分から、積極的に何かをしていくというよりは、相手が何かをして
くれるのを、待つ。あるいは自分にとって、居心地のよい世界を好んで求める。それ以外の世
界には、同化できない。人間関係も、敵をつくらないことだけを考える。ものごとを、ナーナーで
すまそうとする。

●子育てに反映される……依存性の強い人は、子どもが自分に対して依存性をもつことに、ど
うしても甘くなる。そして依存性が強く、ベタベタと親に甘える子どもを、かわいい子イコール、で
きのよい子と位置づける。

●親孝行を必要以上に美化する……このタイプの人は、自分の依存性(あるいはマザコン
性、ファザコン性)を正当化するため、必要以上に、親孝行を美化する。親に対して犠牲的で
あればあるほど、美徳と考える。しかし脳のCPUがズレているため、自分でそれに気づくこと
は、まずない。だれかが親の批判でもしようものなら、猛烈にそれに反発したりする。

依存性の強い社会は、ある意味で、温もりのある居心地のよい世界かもしれない。しかし今、
日本人に一番欠けている部分は何かと言われれば、「個の確立」。個人が個人として確立して
いない。

あるいは個性的な生き方をすることを、許さない。いまだに戦前、あるいは封建時代の全体主
義的な要素を、あちこちで引きずっている。そしてこうした国民性が、外の世界からみて、日本
や日本人を、実にわかりにくいものにしている。つまりいつまでたっても、日本人が国際人の仲
間に入れない本当の理由は、ここにある。
(03−1−2)

●人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛る。義理人情が支配的なモラルで
ある日本の社会は、かくして甘えの弥慢化した世界であった。(土居健郎「甘えの構造」の一
節)

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●日本人の依存性

 日本人が本来的にもつ依存心は、脳のCPU(中央演算装置)の問題だから、日本人がそれ
に気づくには、自らを一度、日本の外に置かねばならない。それはちょうどキアヌ・リーブズが
主演した映画『マトリックス』の世界に似ている。

その世界にどっぷりと住んでいるから、自分が仮想現実の世界に住んでいることにすら気づか
ない……。

 子どもでもおなかがすいて、何か食べたいときでも、「食べたい」とは言わない。「おなかがす
いたア、(だから何とかしてくれ)」と言う。子どもだけではない。私の叔母などは、もう40歳のと
きから私に、「おばちゃん(自分)も、歳をとったでナ。(だから何とかしてくれ)」と言っていた。

 こうした依存性は国民的なもので、この日本では、おとなも子どもも、男も女も、社会も国民
も、それぞれが相互に依存しあっている。

こうした構造的な国民性を、「甘えの構造」と呼んだ人もいる(土居健郎)。たとえば海外へ移住
した日本人は、すぐリトル東京をつくって、相互に依存しあう。そしてそこで生まれた子ども(二
世)や孫(三世)は、いつまでたっても、自らを「日系人」と呼んでいる。依存性が強い分だけ、
その社会に同化できない。

 もちろん親子関係もそうだ。この日本では親にベタベタと甘える子どもイコール、かわいい子
とし、そのかわいい子イコール、よい子とする。

反対に独立心が旺盛で、親を親とも思わない子どもを、親不孝者とか、鬼っ子と言って嫌う。そ
してそれと同時進行の形で、親は子どもに対して、「産んでやった」「育ててやった」と依存し、
子どもは子どもで「産んでもらった」「育ててもらった」と依存する。

こうした日本人独特の国民性が、いつどのようにしてできたかについては、また別のところで話
すとして、しかし今、その依存性が大きく音をたてて崩れ始めている。

イタリアにいる友人が、こんなメールを送ってくれた。いわく、「ローマにやってくる日本人は、大
きく二つに分けることができる。旗を先頭にゾロゾロとやってくる日本人。年配の人が多い。もう
一つは小さなグループで好き勝手に動き回る日本人。茶髪の若者が多い」と。

 今、この日本は、旧態の価値観から、よりグローバル化した新しい価値観への移行期にある
とみてよい。フランス革命のような派手な革命ではないが、しかし革命というにふさわしいほど
の転換期とみてよい。それがよいのか悪いのか、あるいはどういう社会がつぎにやってくるの
かは別にして、今という時代は、そういう視点でみないと理解できない時代であることも事実の
ようだ。

あなたの親子関係を考える一つのヒントとして、この問題を考えてみてほしい。
(はやし浩司 依存性 依存心 甘えの構造 日本人の依存性 依存 だから何とかしてくれ言
葉)

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最前線の子育て論byはやし浩司(507)

●K国問題

 年(05年)があけて、K国問題が、急にあわただしさを、ましてきた。K国は、自国のウエブサ
イトを通して、つぎのように書いている。

 「今年が韓半島に最も危険な局面が、醸成される恐れがある」(1月5日・ウリ民族キリ)。 
 
 「韓半島情勢が米国の新たな戦争挑発策動により緊迫しており、世界の世論が、05年を朝
鮮半島で最も危険な局面が醸成される恐れがある年と評しているのは、決して偶然ではない」
とも。わかりやすく言えば、「05年に、戦争が起きるぞ!」と。

 その一方で、同日、国際原子力機関(IAEA)のエルバラダイ事務局長は、「K国の核開発疑
惑によって触発された、核危機がますます悪化している」とし、「これを早いうちに解決しなけれ
ばならない」と述べた。 
 
 こうした動きに呼応する形で、K国は、日本に対して、日朝協議の打ち切りを示唆した上、
「戦後補償をしろ」と、言い出した。さらに、「食糧支援の中断は、K国への挑戦」「経済制裁を
すれば、物理的報復をする」とまで、言い出している。

 こうした一連の流れをウラから読むと、こうなる。

(1)K国の核兵器は、実戦段階に入った。(つまり核兵器の開発に成功した。)
(2)K国の経済は、破綻状態。政情不安も高まっている。(つまり、内部崩壊寸前。)

 日本の外交が、まさに正念場を迎えたといってもよい。こういう中、日本のK首相が、Y神社
参拝を取りやめ、伊勢神宮参拝に切りかえたのは、賢明である。(この記事は、1月6日に書
いているので、このあと、どうなるか、わからない。)

 今、ここで韓国や中国を刺激するのは、きわめて危険なことである。そうでなくても、韓国や
中国での反日感情には、ものすごいものがある。ここでどこかに火をつければ、それが発端と
なって、6か国協議は、霧散してしまうかもしれない。今は、そういう状況にある。

 ここでK国が、ゆいいつ生き残れる方法があるとすれば、日本を恫喝(どうかつ、脅す)しなが
ら、莫大な戦後補償金を手に入れることである。その額、驚くなかれ、何と、400億ドル。日本
円で4兆円! (日本の国家税収が、42兆円前後。)中国を通して、日本にそう打診してきて
いる(04年)。

 アメリカ議会の推定額では、50〜100億ドルだったから、その約4倍ということになる。

 人口が日本の約10分の1だから、その額のものすごさが、わかる。つまりK国は、「金を出
せ。さもなくば、東京に核兵器をぶちこむぞ」と。

 一見、ありえない話に聞こえるかもしれないが、K国の金XXにしてみれば、「どうせ崩壊する
なら、日本もろとも」ということになる。仮に失敗しても、朝鮮半島の歴史においては、英雄にな
れる。一か八かのカケに出てくる可能性は、きわめて高い。

 では、日本は、どうするか?

 何度も書いているが、あんなK国など、相手にしてはいけない。どこまでも冷静に、かつ事務
的に、追いつめる。決して感情的になってはいけない。(だからといって、拉致問題を軽く考え
ているわけではない。誤解のないように!)

 私が言いたいのは、拉致問題は拉致問題として、K国に対しては、冷静に対処しなければな
らないということ。もともと、K国は、(まともな国)ではない。そんな国を相手に、本気で対峙す
る必要はない。またしてはならない。

 やがてK国に対して、国際社会が、協調して、経済制裁することになるだろう。アメリカは、今
年(05年)の夏をすぎても、6か国協議に進展がみられなければ、K国の核問題を、国連の安
保理に付託すると言っている。そのとき、K国は、最大のピンチを迎えることになる。

経済制裁をするにも、日本は、国際世論をとりつけ、とくにアメリカと協調して行う。今、この時
点での単独行動は、きわめて危険である。そのために、そのワクを自ら破壊するようなことは
してはならない。すでにK国は、何度も、「日本を6か国協議からはずせ」と主張している。その
口実を与えてはならない。

 今、日本では、K国に対する経済制裁の大合唱が始まっている。国会のみならず、地方議会
まで、経済制裁の勧告議決をしている。

 しかし戦争というのは、一度始めてしまうと、それを収めるのには、その何百倍ものエネルギ
ーが必要となる。今のイラクを見れば、それがわかる。が、それだけではない。もちろん多くの
日本人が死ぬことになる。K国のミサイル一発で、化学兵器や生物兵器なら、20万人。核兵
器なら、200万人が死ぬと推定されている。

 もちろんその時点で、日本の経済は、崩壊。戦後、築きあげてきた経済的繁栄は、終焉(し
ゅうえん)を迎える。そのとき、戦争終結の勧告議決をしても、遅い。

 だから、ああいうおかしな国は、相手にしないこと。どこまでも冷静に、ただひたすら事務的に
対処するのがよい。そういう姿勢が、結局は、日本の繁栄と平和を守ることになる。

(中国の本音)

 中国にしてみれば、東アジアにおいては、日本は、目の上のタンコブ。表面的には、K国の核
兵器開発には反対しつつも、それが(日本向けであるなら)という条件付で、黙認しているフシ
がある。仮に日朝戦争ということになれば、それを利用して、中国は、最大のライバルである日
本を、東アジアから消すことができる。この事情は、韓国も同じ。

 穏健派のT新聞(韓国)ですら、日本の国連常任理事国入り問題を、「日本、大国の復活の
夢見る」と、辛らつに批判している。

 日本は、そういう隠されたワナに、自らハマってはいけない。そのためにも、ここは慎重に!
 冷静に! 拉致連の人たちは、全国を回りながら、さかんに「制裁を!」と訴えている。その
気持ちはよくわかる。しかしそれを受けとめる私たちは、今こそ、冷静でなければならない。
(はやし浩司 戦後補償 制裁問題 制裁)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●カルト(狂信的宗教団体)に気をつけよう!

 人間の脳ミソには、エアーポケットのような部分がある。うっかりとそのポケットに入ってしまう
と、知性や理性が、吹き飛んでしまう。常識まで、吹き飛んでしまう。

 しかし心も、ふつうの状態なら、判断力も、正常に働く。「おかしいものは、おかしい」と判断す
る。しかし不安状態や、大きな心配ごとをかかえたりすると、このエアーポケットの中に、落ちて
しまう。

 私は、今まで、そういう人を何人か見てきた。

 カルトを信仰する人だから、そういう人というのは、それなりに、「?」な人と思いがちである。
しかし実際には、ごくふつうの人。そのごくふつうの人が、ふつうの生活をしていて、何かのきっ
かけで、そういうポケットにハマってしまう。そしてわけのわからないことや、とんでもないことを
しながら、それを疑問にすら、思わなくなってしまう。

 どこのどの団体が、そのカルトであるとは、ここには、書けない。しかしもし今、あなたに常識
があるなら、どこのどの団体が、そのカルトであるか、わかるはず。

 鉄則は、そういうカルトには、近づかないこと。大切なことは、ごくふつうの人間として、ふつう
の生活をしながら、その中で、自分の常識をみがいていくこと。音楽を聞いたり、ドライブに行
ったり、映画を見たりしながら、常識をみがいていくこと。

 おかしな修行をしなければ、真理にたどりつけないとか、そういうことを主張する団体は、た
いていカルトと思って、まちがいない。

 仮に修行というものがあるとするなら、それは日常の生活の中で、ごく日常的にするもの。懸
命に(現実社会)で生きながら、するもの。そしてここが重要だが、自分の頭で、自分で考えな
がら、するもの。そういう習慣が、その人の常識力を高める。

 で、あの世はあるのか。それとも、ないのか。私にはそれがわからない。しかし今は、「ない」
という前提で、私は生きている。死んでみて、あればもうけもの。そういう前提で生きている。あ
るかないか、わからないものをアテにして、今の世の中を生きることは、私には、できない。

 言い忘れたが、カルトは、こうしたあるかないか、わからないものを前提にして、その上で、今
の生き方を決めようとする。しかし、だ。

 もし死んでみて、あの世がなかったとしたら……。それこそ、自分の命をムダにすることにな
るのではないか。

 さあ、あなたも、勇気を出して、常識を信じよう。あなた自身の中の常識を信じよう。そしてそ
の常識をいつもみがき、あとはその常識に従って生きていこう。

 おかしいものは、おかしいと思えばよい。
 すばらしいものは、すばらしいと思えばよい。
 それが常識である。

+++++++++++++++++++++++

子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何一〇万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。

(詩集「はやし浩司・子どもたちへ」より)

+++++++++++++++++++++++++++

●カルト(2)

 私がカルトに興味をもったのは、生徒の母親の1人が、それに入信したからである。詳しくは
書けないが、ある時期を境に、その母親は、おかしなことを言い出した。そしてその時期から、
さかんに私に、入信を勧めるようになった。

 その母親は、ごくふつうの、どこにでもいるような、つまりは見た目には、常識豊かな女性に
見えた。しかしそんな母親でも、一度、カルトに染まると、ふつうでなくなってしまう(?)。

 私なりにその母親を説得してみたが、その当時の私の力では、どうにもならなかった。やがて
その母親は、夫とは別居状態になった。が、離婚はしなかった。その教団では、離婚を、きびし
く戒(いまし)めている。しかし結末は、もっと悲惨だった。その母親の夫、つまりその生徒の父
親は、それからまもなく、くも膜下出血で死んでしまった。夫が、43歳のときのことだった。

 私はその若さから、その背後に、壮絶な家庭内宗教戦争があったことを感じた。
 
 つぎに私がカルトに興味をもったのは、学生時代の友人が、同じ教団に入信したからであ
る。その友人は、同窓会には顔を出さず、ある日突然、同窓会の席へ、聖書を送り届けてき
た。分厚い聖書である。

その教団では、信者どうしのつきあい以外を、きびしく制限している。そのこともあって、(多
分?)、聖書を送り届けてきたのだろう。その友人は、学生時代は、それこそ、ごくふつうの人
だったから、私が受けた衝撃は、大きかった。

 以来、私は、あちこちの場で、こうしたカルトと戦ってきた。そのたびに、そうした教団の人た
ちからは、「今に、お前は、地獄で体を焼かれる」とか、「バチが当たる」とか言って脅された。
近所で、「あの林一家は、みな、頭が狂っている」と言いふらされたこともある。多いときには、
20人前後の大抗議団が、私の家に押し寄せてきたこともある。

 一時は、命の危険を感じたこともあるが、それから約17年。今でも、私とワイフは、平穏無事
な生活を楽しんでいる。彼らが口汚く脅したようなバチは、起きていない。

 そのかわりというか、私は、こうした一連の戦いを通して、「勇気」をもらった。何を書いても、
こわいものがなくなった。

 こうした原稿についても、私は実名で書いている。「はやし浩司」という実名である。それにつ
いて、「何か、いやがらせをされませんか?」と心配してくれる人もいる。実際、グーグルなどの
検索で調べてみると、私のことを悪く書いているサイトもないわけではない。しかしいちいちそ
んなことを気にしていたら、こうした評論活動はできない。

 私にいやがらせをしたら、その何十倍も、お返ししてやる! ……実際には、そういう目的の
ために、原稿を書いたことはないが、その余力は、じゅうぶん、ある。私は、そういう連中は、
相手にしていないだけ。

 で、こうしたカルトと戦い、その餌食(えじき)にならないためには、自分の中の、常識力をみ
がくこと。ごくふつうの人間としての、常識力である。

 それが自分なりの戦い(雑誌社への無数の原稿の寄稿と、5冊の本)で得た、私なりの結論
ということになる。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●ハンガリーのSZさんより

 ハンガリーにお住まいの、SZさんから、メールが届いています。BWクラブのOBです。

 まず、それを紹介します。

【SZより、はやし浩司へ】

はやし 浩司先生へ

明けましておめでとうございます。
こちらの冬はとても寒いです。薄暗い日が多いですが、しばしば、快晴の日があり、
そういうときは、気分も晴れます。

冬休みは、ドイツのパッサウ、レーゲンスグルグ、バンベルグとドナウ川沿いの街
を旅行してきました。情景豊かな美しい街ばかりで、この点は日本と違って、うら
やましいです。隣家や古い建物を意識して新しい建物を造ったり、窓際を飾ったり、 
 
日本では、こういうことは、なかなかできませんね。

さて、4月から、ブタペスト日本人学校が開校します。ハンガリーの小学校の建物を
借りて、運営されます。校庭は、ハンガリー人の子どもたちと一緒に使います。日本
人学校としては、初めてのケースらしいです。

YK子はアメリカンスクールが大好きです。やめることをとても残念がっています。 

しかし、幼児期を海外で暮らす子どもにとって、日本語の習得は大きな問題です。
日本語が、他言語と文法が異なり、(ハンガリー語とは似てる)、難解なためでしょうか。

妹のST子は、英語の幼稚園に通っています。英語の習得のためというより、国際
感覚・意識を自然に身につけることができればと考えています。

しかし、家に帰ってきたら、たくさんの絵本を読んでやるようにしています。
幼児(0〜4歳くらい)にとって、日本語を母国語として、
外国語の同時習得は、簡単なものではないように思います。親の努力が必要かと思います。

外国語の幼稚園ですごした子どものおしゃべりは、
(また、現地のベビーシッターとすごした幼児のおしゃべりは)、
日本語と外国語の混ざったものになりがちです。

幼児の頃から、インターナショナルスクールのみに通っている10歳の子どもと話しま 
した。

が、日本語が、単語を並べるだけといった感じで、おかしいのです。

帰国子女が増えてきて、みなも、この問題がわかってきたようです。
海外で暮らしてきた親族からは、子どもの日本語教育に力を注ぐようにとのアドバイス 
を受けました。

この問題は、私自身、手さぐりの状態で、とにかくわかりません。

ウクライナは隣国ですが、遠い国に感じます。緊張状態が続いています。

また、メールします。
本年も、先生が元気で過ごされますように。

SZより

【SZさんへ、はやし浩司より】

拝復

ワーッという感じで読みました。
ありがとうございました。

うらやましいです!!!!

国際的なにおいがプンプンとして……!!!!

私は若いころ、そういう生活にあこがれていました。
実際には、何かとたいへんでしょうが……。
私のような野次馬では知ることができないご苦労が
あることと思います。

しかしやはりうらやましいです。

日本は、ここ数日、寒い日がつづいています。
冬らしいというか……。

このところ大きなニュースと言えば、
やはりスマトラ沖の大地震による津波です。

それとS空港が、国際空港としては認可されなく
なりそうで、知事たちが、大あわてのようです。

最初に、そういう手続きを踏んでから開港をめざすのが
常識だと思うのですが……。

まず建設ありき、といった行政に、大きな疑問を
感じます。

「作ってしまえば、何とかなるだろう」式の、アマ〜イ
考え方なんですね。

あとは、ええと、こちらは、平和です。

あのウクライナが隣とは、知りませんでした。
日本人で、正確にウクライナがどこにあるか言える
人は少ないと思います。

中学生でも、アメリカがどこにあるかさえ知らない子どもが、
30〜40%はいるのでは? (あるいは、もっと多いかも?
一度、調査してみます。)

「カルフォニアという国がある」と信じている子どもも
多いですよ。ホント!

日本の中だけに住んでいると、そういうことが起きるのですね。

いろいろあります。

メール、ありがとうございました。

こちらでもバイリンガルによる、言葉の混乱が問題になっています。
「だから英語の早期教育には、反対だ!」と、です。
しかしそれは、SZさんのような方の問題で、日本の国内で英語を
学ぶ子どもの問題ではないのです。

レベルも、内容も、まったくちがいますよね。

なお、いただきましたメールですが、
2月4日号のマガジンで使わせてください。

どうかよろしくお願いします。

で、ワーッという気持ちだけは、今も、そのままです。

今年も、よろしくお願いします。

ご家族の、みなさんによろしく!!!!

最後になりましたが、明けまして、おめでとうございます!

はやし浩司
(1月6日記)

*********************************

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(508)

●自閉症の子どもと話す

 昨日(05年1月x日)、自閉症の子どもと話す。1時間ほど、教室の一角で対峙して話す。

 子ども……中学1年生、男子。しかし学校には、ほとんど行っていない。

 軽い知恵遅れと、親の過保護、でき愛、それに過干渉による、性格のゆがみを感ずる。全体
に、オドオドとし、萎縮している感じがした。

私「この本の名前を知っているかな?」
子「ぼくだけが、ゲームをもっていない」
私「ううん、そうじゃなくて、この本の名前を知っているかな?」
子「ぼくだけ、ゲームをもっていないから、みんなからバカにされる」と。

 会話全体が、どうもうまく、かみ合わない。

 横に母親がいた。母親の話では、虫には特別の興味と関心があるという。そこで虫の話をす
る。

私「カブトムシにも、いろいろいるよね」
子「カブトムシにも、いろいろあるよね」
私「アトラスオオカブトって、知っている?」
子「アトラスオオカブト、コーカサスオオカブト、ディディエールシカ……」と。

 その子どものばあい、特徴的なのは、会話がかみあわないことに合わせて、つぎのことが観
察された。つまり自閉症といっても、症状は一様ではない。

(1)自分につごうの悪い話になると、会話をそらせてしまう。
(2)私の指示には、一応返事はするものの、返事だけで、指示を無視する。
(3)自分の関心のあることについては、おかまいなしに、一方的に話しかけてくる。
(4)約束が守れない。判断力、現実検証能力、自己管理能力が劣っている。

 私が母親と話している間も、ソワソワと、どこか落ちつきがない。母親が、「さっき、そちらへ
行ってはだめと言ったでしょ!」と強くたしなめると、また、「ゲームをもっていないのは、ぼくだ
け」と、どこかトンチンカンな返事をする。

 そこで母親が、「そちらへ行ってはだめ」と強く言うと、「わかった」と答えるものの、その直後
には、またそちらへ行ってしまう。

 そして私と母親が話していると、そこへやってきて、「小学校に2年生のとき、友だちにたたか
れた」「ぼくは、走って逃げた」「友だちにたたかれた」「走って逃げた」と、同じ話を何度も繰り
かえす。

 母親が、「少し静かにしていてね」と何度もたしなめるが、ほとんど、効果がない。そこで母親
は、バッグから、小さな虫図鑑の本を渡す。ボロボロになっていた。「これをもたせると、静かに
なります」と、母親は言った。

 30分ほど、母親と話すが、中学生については、私には、指導経験がほとんど、ない。母親は
必死だったが、私としては、どうしようもない。その無力感を覚える。

 別れるとき、母親はこう言った。

 「最初は、自閉症とわからず、無理をしました。子どものころ、叱ってばかりいました。自閉症
とわかっていれば、無理をしなかったでしょう。うちの子には、かわいそうなことをしてしまいまし
た」と。

 その子どもが、オドオドとしているのは、そのためだと、母親は弁解した。
(はやし浩司 自閉症の症状 自閉症 症状)


●現実検証能力

 (自分のおかれた立場)を、客観的に判断する能力のことを、現実検証能力という。しかし実
際には、現実検証能力というのは、してよいことと悪いことの判断、それができるかできないか
を見きわめる能力のことをいう。

 してよいことと悪いことの判断は、その結果として、つまり自分の立場が客観的にわかるよう
になれば、自然にできるようになる。とくに子どもの世界においては、そうである。

 だから一般的には、現実検証能力のない子どもというのは、ものの考え方が自己中心的で、
その分だけ、人格の完成度が低い。わがままで、自分勝手。自己管理能力も低いので、たとえ
ば病院の待合室など、騒いではいけないような場所でも、平気で騒いだりする。

 ……しかし、これは何も、子どもの世界だけの問題ではない。そのままおとなの世界の問題
でもある。

 まず、(私はどういう立場にいるのか)、つづいて(他人から見ると、どういう立場にあるのか)
ということを、客観的に判断していく。つまりそれがあってはじめて、そこから(自己管理)が、で
きるようになる。

 そういう意味では、現実検証能力と自己管理能力は、ペアの関係にあるといってもよい。どち
らか一方が欠けているとわかったら、もう一方を補充する。いろいろな例がある。子どもを例
に、考えてみる。

 こんな子どもがいた。小学3年生の男児だった。

 その子どもの祖父がなくなった。その通夜の席でのこと。その子どもは、たくさんの弔問客が
来たことに興奮して、ワイワイと騒いでいた。それまでかわいがってくれた祖父である。さぞかし
悲しんでいることだろうとみな、思っていた。しかしその子どもは、どこか、楽しそうだった。

 またこんな例も。

 参観授業のとき。その子ども(年長・女児)は、突然、こう叫んだ。「私のママのオッパイは、右
のほうが大きい。左は、小さい!」と。

 こういう例で共通してみられることは、自己管理能力の不足である。してよいこと、悪いこと。
言ってよいこと、悪いことの判断ができない。しかも、場所が場所である。

 原因の多くは、親の過干渉、過関心。子ども自身に、静かに考えるという習慣がない。親が、
いつも子どもをガミガミと叱りつづけているといったふう。親子のリズムが、まるで合っていな
い。

 そこで重要なことは、少し話が飛躍するが、現実検証能力にせよ、自己管理能力にせよ、重
要なことは、自分で考えることということになる。その習慣を、自分で身につける。わかりやすく
言えば、人格の完成度は、自ら考える力によってのみ、求められるということになる。

 人に言われて、完成するものではない。
 人に教えられて、完成するものではない。
 いわんや、おかしな修行をしたり、意味のわからない念仏や題目を唱えて、完成するもので
もない。神様や仏様に祈ったからといって、完成するものでもない。

 自分の力で、自分の頭で、ごくふつうの生活をしながら、その中で考える。その習慣が、その
人を完成させる。仮に信仰するとしても、それは教えによってするものであり、霊力に頼ってす
るものではない。

 ただ、私も含めて、人間の力には、限界がある。未熟で、未完成。まさに、「か弱いアシ」(パ
スカル「パンセ」)でしかない。しかしだからといって、ここであきらめてはいけない。病気にして
も、すべてを治せるわけではない。政治にしても、この世の中から、すべての悲しみや苦しみ
を、なくせるわけではない。

 しかし人間は、やっと自分の足で立ち始めた。歩き始めた。つまりそこに人間が人間である
意味がある。尊さがある。

 かく言う私も、本当のところ、自信がない。あの中村光夫(戦後を代表する哲学者)にしても、
晩年の最後は、奥さんの手引きで、キリスト教に入信したという。そういう例は少なくないし、私
だけが例外ということは、ありえない。むしろ私は、平均的な人とくらべても、精神的に弱い。情
緒も不安定。

 しかし私は、できるところまでがんばってみる。ふんばってみる。

 話が大きく脱線してしまったが、子どもにしても、懸命に考えながら行動している子どもは、美
しい。輝いている。しかし言われるまま、また考えることもないまま、いい子にしている子ども
は、どこか不気味ですらある。

一見、いい子だが、自己管理能力もないし、現実検証能力もない。ときどきとんでもない問題を
起こす子どもというのは、たいていこのタイプの子どもと考えてよい。

 つまりは、子どもを育てるということは、その自ら考える子どもにすることである。考える習慣
のある子どもにすることである。それがひいては、心豊かで、常識のある人間に育てる。
(はやし浩司 現実検証能力 自己管理 自己管理能力)
 
++++++++++++++++++++++++

以前書いた原稿を、少し手なおしして、添付しておきます。
どうか、参考にしてください。

++++++++++++++++++++++++

●「夢」論

 「夢」という言葉は、もともとあいまいな言葉である。「空想」「希望」という意味もある。英語で
は、「ドリーム」というが、日本語と同じように使うときもある。

あのキング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、黒人の公民権運動の指導者)も、「I
 have a dream……(私は夢をもっている……)」という有名な演説を残している(六三年八
月、リンカーン記念堂前で)。

 しかし子どものばあい、「夢」と「現実」は区別する。イギリスの教育格言にも、『子どもが空中
の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせてはいけない』というのがある。つまり
空想するのはよいが、それに子どもがハマるようであれば、注意せよ、と。

 そこで調べてみると、いろいろな思想家も、夢について論じているのがわかる。その中でも近
代思想の基礎をつくった、ジューベル(一七五四〜一八二四、フランスの哲学者)は、『パンセ』
の中で、つぎのように書いている。

 『学識なくして空想(夢)をもつものは、翼をもっているが、足をもっていない』
 『空想(夢)は魂の眠りである』と。

 これを子どもの世界に当てはめて考えてみると、つぎのようになる。

 子どもというのは、満四・五歳前後から急速に、理屈ぽくなる。「なぜ、どうして?」という会話
がふえるのもこのころである。

つまりこの時期をとおして、子どもは、「論理」を学ぶ。A=B、B=C、だからA=Cと。言いかえ
ると、この時期の接し方が、その子どものものの考え方に、大きな影響を与える。この時期に、
ものの考え方が論理的になった子どもは、以後、ずっと論理的なものの考え方をするようにな
るし、そうでない子どもは、そうでない。

 ジューベルがいう「足」というのは、「論理」と考えてよい。日本語でも、現実離れしていること
を、「地に足がついていない」と言う。「現実」と「論理」というのは、車の両輪のようなもの。現実
的なものは、論理的だし、論理的なものは、現実的である。つまりジューベルも、空想するのは
その人の勝手だが、学識のない人がする空想は、論理的ではないと言っている。

 子どもでもそうで、超能力だの、魔術だのと言っている子どもほど、非現実的なものの考え方
をする傾向が強い。少し前だが、教室の窓から、遠くのビルをながめながら、一心にわけのわ
からない呪文を唱えている中学生(男子)がいた。そこで私が、「何をしているのか?」と声をか
けると、「先生、ぼくは超能力で、あのビルを爆破してみたい」と。

 しかしこうした「足のない空想」は、子どもにとっては、危険ですらある。論理がないというだけ
ならまだしも、架空の論理をつくりあげてしまうことがある。

よい例が、今にみるカルト教団である。死んだ人間を生きていると主張し、その死体がミイラ化
しても、まだ生きていると言い張った教団があった。あるいは教祖の髪の毛を煎じて飲んでい
る教団もあった。はたから見れば、実に非論理的な世界だが、それにハマった人には、それが
わからない。いわんや、子どもをや!

 そこでジューベルは、『空想は魂の眠りである』と言い切った。足のない空想にふければふけ
るほど、魂は眠ってしまうということ。それをもう少し常識的に考えると、こうなる。

人間が人間であるのは、考えるからである。パスカル(一六二三〜六二、フランスの哲学者)も
そう言っている。『思考が人間の偉大さをなす』(「パンセ」)と。

わかりやすく言えば、思考するから人間である。「生きる」意味もそこから生まれる。もし人間が
思考することをやめてしまったら、その人、つまりその人、つまり魂は死んだことになる。空想
は、その魂を殺すところまではしないが、眠らせてしまう、と。

 たとえばもし、私が、今ここで、今日のことが不安だからといって、星占いに頼ったら、どうな
るか。何かの事故にあわないようにと、何かのまじないをしたらどうなるか。多分、その時点
で、私は考えることをやめてしまうだろう。が、それは同時に、自分自身への敗北でもある。さ
らにほとんどのことを、占いやまじないに頼るようになれば、自分自身を否定することにもなり
かねない。そのためにも、魂は眠らせてはいけない。そのためにも、足のない空想はしてはい
けない。

 さて、子どもの「夢」に話をもどす。子どもが空想の世界に自分をおき、あれこれまったく違っ
た角度から、自分の世界を見ることは、まちがってはいない。しかしその前提として、「論理」が
なければならない。「学識」でもよい。それがないと、どこからどこまでが現実で、どこから先が
空想なのか、それがわからなくなってしまう。それは子どもの世界としては、たいへんまずい。

ものごとを論理的に考えられなくなるだけではなく、先にも書いたように、自らを空想の世界
へ、追いこんでしまうこともある。そして結果として、わけのわからないことを言いだす。こんな
子ども(小五女児)がいた。

 私がある日、ふと、「頭が痛い」と言うと、「じゃあ、先生、なおしてあげる」と。肩でもたたいてく
れるのかと思っていたら、そうではなく、じっと目を閉じて、手のひらを私にかざし始めた。「そ
れは何?」と聞くと、「だまっていて。だまっていないと、パワーが集中できない」と。

あとで聞くと、そうして手をかざすと、どんな病気でもなおるというのだが、私はそうは思わなか
った。だから、「そんなのだったら、いい」と言うと、「先生は、バチが当たって、もっと頭が痛くな
る」と、今度は私をおどした。

子どもが空想(夢)の世界にハマるようであれば、逆に、「なぜ、どうして」を繰り返しながら、子
どもを現実の世界に引きもどすようにする。その時期は、早ければ早いほど、よい。年齢的に
は、小学一、二年生ごろまでではないか。それ以後は、自意識が強くなり、なおすのがむずか
しくなる。
(02−11−26)

●空想するのは子どもの自由だが、子どもがその世界にハマるようなら注意せよ。

(追記)
 あなたも思いきって、迷信を捨ててみよう。占いや、まじないを、捨ててみよう。勇気を出し
て、捨ててみよう。そんなものに支配されてはいけない。そんなものをあてにしてはいけない。
あなたは、どこまでいっても、あなたなのだ。あなたは自分の人生を、自分で生きるのだ。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
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【迷信】

●非現実的な世界

 占いや、まじないは、タバコのようなものではないか。なければないですむが、しかしそれを
信じている人には、そうでない。それがないと、一日の生活が成りたたないという人も多い。
 
当然だが、その占いや、まじないには、論理がない。論理がないから、反論のしようがない。な
いが、あえて、反論してみる。

【カルト的自己中心性】

 占いやまじないを信ずる人に共通するのは、カルト的自己中心性。自分が世界の中心にい
ると錯覚する。排他的にそれを信ずるから、「カルト的」という。そのため、ほかの人はともかく
も、自分だけは、もろもろの未知のパワーに支配されている、特別な存在と錯覚する。何かの
宗教を信じているにせよ、しないにせよ、神や仏は、自分にだけは特別に関心をもっていると
思い込む。その思い込みが強い分だけ、要するに自分だけは、ほかの人とは違うと錯覚する。

【思考の空洞化】
 
占いやまじないに身を寄せることで、自ら考えることを放棄する。そして一度、自分の頭の中
を、カラッポ(思考の空洞化)にしてしまう。考えることをやめることで、自ら、この状態をつくる。
そして自分の頭の中に、他人の思想を注入する。このタイプの人は、一見、もっともらしいこと
を口にするが、すべて、他人、もしくは指導者の受け売り。英語の言い方を借りるなら、「ノーブ
レイン(脳ミソなし)」の状態になる。

【狂信性】

 占いやまじないを狂信していても、たいていの人は、自分では、狂信している自覚がほとん
ど、ない。狂信性があらわれるのは、それが否定されたとき。あるいは占いやまじないが、自
分にとってはマイナスに向いたとき。人によっては、狂乱状態になることがある。狂信性が強け
れば強いほど、そうなる。

占いやまじないを信ずる人は、それによって利益を受けることよりも、自分にとって不利益なこ
とが起きることを恐れる。占いで「凶」と出ただけで、その日一日を、ビクビクして過ごす人は、
いくらでもいる。

【排他性】

「自分が絶対、正しい」と思い、その返す刀で、相手に向かっては、「あなたはまちがっている」
と言う。そして自分が住むカプセルのカラをますます厚くし、その分だけ、人の話に耳を傾けな
くなる。そして、独自の理論を、勝手にどんどんと組み立ててしまう。

たとえば血液型による性格診断がある。「あなたはA型人間ね。私はO型人間よ」と。いまだに
こんな迷信が、この日本では、大手を振ってまかりとおっている。(もともとは戦後、どこかの医
者が、だじゃれで書いた本が、もとになっている。たいした迷信ではないが、ほとんどの日本人
が信じているから、無視もできない。)で、話を聞くと、実にこまかいところまで、ああでもない、
こうでもないと説明する。

●ある会社の社長のケース 

ある男性(四三歳・会社社長)は、何か重大なことがあると、近くの神社へでかけていき、そこ
で神主にどうすべきかを決めてもらっていた。家族の冠婚葬祭はもちろん、家の改築、車の購
入日など。小さな会社を経営していたが、従業員も、「方向」で選んでいた。「今年は、巽(たつ
み)の方角から、社員を募集する」と。

おもしろかったのは(失礼!)、新車を購入するときも、納入してもらう日のみならず、時刻、さ
らには、車を置く位置まで、自動車のセールスマンに指示していたこと。「一度、南の方まで回
り、そこから、会社の駐車場の北側の端にもってきてほしい」と。

 それは実に窮屈(きゅうくつ)な世界だった。社員たちは、社長の意向に神経をつかった。実
際には、神経をすりへらした。みなで社員旅行をするときもそうだった。日程を決めるのが、た
いへんだった。いくつかのプランを用意して、その中から、社長(実際には神主)に選んでもら
わねばならなかった。「そんなこと、くだらない!」などと言おうものなら、それだけでクビになっ
てしまうような雰囲気だった。が、本当にその「クビ切り事件」が起きた。

 一人の女子従業員が、会社へくるとき、道路で子犬を見つけた。捨て犬だった。そこでその
従業員は、その子犬を会社へもってきた。仕事が終わったら、自分の家に連れて帰るつもりだ
った。

が、このことが社長の逆鱗(げきりん)にふれた。即刻、その女性は、その場で、クビになってし
まった。まったくもって、理不尽なクビ切りだった。社長はこう言った。「昔、ニワトリが会社へ迷
い込んできたことがある。その翌朝、会社は火事になった。だから会社へ動物を連れてくるの
を禁止している。しかしその規則(?)を破ったからクビだ!」と。

 この事件は、裁判ざたになりかけたが、社長が神主に相談すると、神主が「慰謝料を払っ
て、内々の示談ですましなさい」と忠告したという。実際には、その神主は、内緒で、知りあいの
司法書士に相談していた。私にこの話をしてくれたのが、その司法書士だった。「裁判すれば、
大きな社会問題になっていたはずです」と。

 世の中が不安定になり、緊張が高まってくると、こういう迷信があちこちで力をもち始める。一
方、人間の心というのは、不安が大きくなればなるほど、あちこちに穴があく。その穴をねらっ
て、その迷信が心の中に入ってくる。あなたもこうした迷信には、じゅうぶん、注意してほしい。

●日々の運勢占いを信じている人は多いが、それを信ずる前に、どういう人が、どういう根拠
で、その「原文」を書いているか、それをさぐってみるとよい。たいていは、(まちがいなくすべ
て)、どこかのインチキな人間が、思いついたまま、でまかせに書いているだけ。根拠など、ど
こにもない。あるはずもない。相手にしてはいけない。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【迷信論】2

●血液型による性格判断

 いまだに血液型におる性格判断が、堂々と行われている。NHKの番組の中でも、一人の女
性アナウンサーが、こう言った。「私は、O型だから、もともとおっとり型人間です」(04年5月・
朝のワイドショー)と。おかしなことだ。

 私が25歳くらいのときのこと。今から、30年以上も前のことになる。私は、東京に住む、ある
ドクターから、本の代筆の依頼を受けた。本の題名は、ズバリ、「血液型、性格判断」。

 そこでそのあと、私は毎日、図書館通いを始めた。資料集めである。

 そのときのこと。私はこんなことを知った。ここから先は、当時の記憶によるもので、不正確
かもしれない。

(1)血液型性格判断は、戦後、日本のどこかの医師が、最初それを、冗談で口にした。それに
尾ひれがついて、あっという間に、日本中に広がってしまった。

 根拠など、どこにもない。統計学的な調査がされたわけでもない。冗談というより、迷信。迷
信というより、口からのでまかせ。

私は当時、こう考えた。血液は、脳に酸素を送るためのもの。しかしその人の性質や性格は、
脳細胞が決めるもの。血液の型など、関係ない、と。

 血液型といっても、100種類以上ある。ABO式血液型というのは、その中の一つにすぎな
い。つまりいくら書けと言われても、理性をねじることはできない。書ける原稿と、書けない原稿
がある。私はそのドクターにこう言った。「血液型による性格判断はウソというような本なら書け
る。しかし血液型による、性格判断についての本は書けない」と。

 実際には、その代筆の話は、そのままうやむやになってしまった。

 で、それから30年。この日本では、血液型による性格判断は、むしろ常識のようになってし
まった。上はおじいちゃん、おばあちゃんから、下は、幼児まで……。

 しかし、こんなことは常識で考えればよい。

 乾電池をかえたくらいで、ラジオの音質が変わるようなことはあるだろうか。電源をかえたくら
いで、パソコンの性能が変わるようなことはあるだろうか。が、そんなことはありえない。

 それと同じように、血液型で、人間の性質や性格が変わるようなことはありえない。だから、
もうこんなバカな方法による性格判断はやめよう。私は毎日、子どもを見ている。しかし血液型
で子どもを見たことはない。また子どもの性質にせよ、性格にせよ、血液型でちがうはずもない
し、また血液型など、何の手がかりにもならない。

●反論 

 おもしろいのは、「O型の人は、顔が丸く……、A型の人は、あごがとがっていて……」という
意見もあるということ。「O」とか「A」とか、英語のアルファベットの形に似せて、顔の形まで、決
めつけている。(ウソだと思うなら、インターネットで、「血液型 性格 判断」を検索してみれば
よい。)

 で、最近では、あまりにも、この血液型性格判断が、広く流布してしまったため、「そうでなな
い」ということを立証するための研究(?)も、さかんになされている。(これもインターネットで検
索してみれば、わかる。)

 しかし頭ごなしに否定ばかりしていてはいけないので、もう少し具体的に考えてみよう。

●当たる確率は、50%!

 血液型によって性格判断ができるためには、つぎの二方向性がなければならない。

(1)血液型による性格分類
(2)性格による血液型判定

 つまり。まず血液型によって、どのような性格をもつかが、分類されなければならない。たとえ
ば、A型の人は、きちょうめん。B型の人は、ずぼら。O型の人は、おおらか。AB型の人は、神
経質とか。

 つぎに、今度は反対に、その人の性格を見ながら、その人の血液型が特定できねばならな
い。「あなたは、きちょうめんだから、A型」「あなたはずぼらだから、B型」と。

 この二方向性が一致したとき、はじめて、「血液型による性格判断は正しい」と実証されたこ
とになる。

 そこでまず、(1)血液型による性格分類だが、そもそも「性格」とは何か、その定義がむずか
しい。

 つぎに、血液型による性格の分類、つまりこれを心理学の世界では、ステレオタイプ化という
が、それがむずかしい。「オーストラリア人は、陽気」「パキスタン人は、押しが強い」というの
が、それにあたる。

さらに「きちょうめんとは何か」「ずぼらとは何か」と、それぞれの性格についての、定義もされ
なければならない。

 こうした性格というのは、同じ故人でも、日々の生活の中でも、めまぐるしく変化する。そのと
きの疲労度や、対象物によっても変化する。もちろん接する相手によっても、変化する。環境
によっても、変化する。会社での仕事では、たいへんきちょうめんな人が、家に帰ってからは、
ずぼらになるというケースは、少なくない。

 かりにこの性格分類ができたとしても、(2)今度はその人の性格を見ながら、反対に、その
人の血液型が判定できねばならない。

 「あなたは、おおらかな性格だから、O型」「当たり!」と。

 しかしここで確率の問題がからんでくる。

 つなみに日本人の血液型は、つぎのようになっている。

 A型 ……38・1%
 B型 ……21・8%
 O型 ……30・7%
 AB型……9・4%

 つまり、「あなたはA型か、O型ね」と言えば、確率からして、約7割(68・9%)は、当たること
になる。しかし、それだけではない。人間の心には、大きな落とし穴がある。

●自己成就的予言(self-fulfilling prophecy)

 だれかがあなたに向って、「あなたはO型だから、おおらかね」と言ったとする。するとあなた
は、血液型による性格判断を信ずるあまり、何かにつけて、おおらかであろうとする。

 つまり、だれかに言われたような性格を、自らつくりあげてしまう。そして自ら、「やはり血液型
による性格判断は正しい」と、思いこんでしまう。これを心理学の世界では、「自己成就的予言
(self-fulfilling prophecy)」という。

 わかりやすく言えば、予言の内容にそって、その内容を自ら、つくりだしてしまうこと。

 たとえばある人が、占い師に、「20XX年の7月に、あなたは交通事故にあう」と言われたとす
る。

 そのとき、理性のある人は、「そんなバカなことがあるか」と自分に言って聞かせ、それを無
視する。しかし中には、それができない人がいる。そして「7月に交通事故にあう」と信ずるあま
り、その7月に、自ら交通事故を起こしてしまう。こういうケースは、カルトの世界では、よく観察
される。

 よく知られた事例としては、あのO真理教による、アルマゲドン(世界終末)事件がある。あの
教団は、「世界が終末を迎える」と信ずるあまり、自分たちで、あちこちにサリンという猛毒をま
き、その終末を演出しようとした。

 わかりやすく言えば、中には、迷信にあわせて、その迷信にそった事実を、自らつくってしまう
人もいるということ。そしてその自らつくった事実をもとに、さらにその迷信を肯定してしまう。血
液型による性格判断も、その一つと考えてよい。

●結論

 概して言えば、血液型による性格判断を信ずる人というのは、迷信を信じやすい人と考えて
よい。

 手相、姓名判断、占い、まじないなど。その中の一つとして、血液型による性格判断がある。

 しかしこうした方向性というのは、自己意識が確立し始める、小学3、4年生あたりからはっき
りしてくる。この時期に、迷信を信じやすい子どもと、そうでない子どもに分かれる。それまでの
子どもでも、よく観察すれば、その方向性を知ることができる。

 そこで大切なことは、この時期までに、いかにして子どもの中に、論理性を育てていくかという
こと。「なぜ?」「どうして?」の会話を繰りかえしながら、おかしいものは、おかしいと思う心を育
てていく。

 ここから先は、それぞれの親の判断ということになるが、少なくとも、論理的なものの考え方
を育てるためには、この時期までの子どもには、いわゆる迷信は、話さないほうがよい。子ども
がそれらしきことを口にしたときは、「そんなバカなことはない」と、きっぱりと言い切る。そういう
姿勢が、子どもの中の方向性を、修正する。

 ただし、「夢」と、「迷信」は区別して考える。「サンタクロースがクリスマスに、プレゼントをもっ
てくる」というのは、夢。「西の空に、カラスを見たら、人が死ぬ」というのは、迷信ということにな
る。

 子どもの夢は夢として、大切に考える。

【追記】

 私の父親は、M会という、どこかカルト的な教団の信者だった。一方、私の母は、今でもそう
だが、迷信のかたまりのような人だ。

 そんなわけで、私は子どものころ、ある時期までは、迷信を信じていた。しかし今から思うと、
そういう意味では、そういう両親をもったがゆえに、かえって迷信に反発したのかもしれない。
私の父親や母親は、私にとっては、いわゆる反面教師になった?

 小学3、4年を境に、私はむしろ、そうした迷信を、ことごとく否定するようになった。その結果
が、今の私ということになる。

 よく覚えているのは、父親がメンバーになっていたM会での会合のときのこと。だれかが、
「親の因果は子にたたり……」というような話をしていた。それについて、その男が、突然私に
向って、「そこのぼうや、君は、どう思うかね?」と聞いた。

 私は、そのとき、父親につれられて、その会の末席で、座ってその話を聞いていた。私が小
学3年生か、4年生のときのことだった。

 私はとっさの判断で、「そんなバカな!」と、思わず口走ってしまった。

 そのあとのことはよく覚えていないが、その男が、どこか怒ったような口調で、何やら話しつづ
けたことだけは、記憶のどこかに残っている。

 たしかにこの世界には、理屈だけでは、説明できないことや、理解できないことは多い。しか
しそれらは、人間の能力の限界によるものであって、決して、超自然的な力によるものではな
い。言いかえると、迷信を口にする人は、自らの能力の限界を認め、理性の敗北を認める人と
いってよい。

 だから……。結論へと飛躍するが、血液型による性格判断は、もうやめよう。本来なら、こん
なことは、論ずることだけでも、時間のムダ。しかし一度は、結論を出しておきたかった。だか
らここに書いた。
(040513)

【追記2】

 こんなおもしろい話を聞いた。何かのビデオ映画の中での会話だが、一人の男が、こう言っ
た。

 天国はあるかというテーマについて……。

 「ある宇宙飛行士が、宇宙に行ってみたが、天国はどこにもなかったと言った。それに答え
て、ある脳外科医がこう言った。『私は、ある哲学者の脳ミソを開いてみたことがあるが、思想
らしきものは、どこにもなかった』と」

 つまりその宇宙飛行士は、宇宙へ出てみたが、天国はなかった。だから天国はないと言っ
た。

 それに答えて、「見えないから、ない」ということにはならないという意味で、脳外科医はこう言
った。

 「ある哲学者の脳ミソを開いてみたが、思想らしきものはなかった」と。つまり、「だからといっ
て、その哲学者には、思想がないとは言えない。それと同じように、天国はないとは言えない」
と。

 一見、おもしろい論理だが、この話は、どこかおかしい。私も、瞬間、「なかなかうまいこと言う
な」と感心した。

 が、宇宙飛行士が、宇宙へ出てみたが、天国はなかったというのは、事実。一方、脳ミソの
中に、思想らしきものがなかったというのは、事実ではない。つまり事実を、事実でないものと
対比させて、その事実をねじまげている。

 脳ミソの中には、思想がつまっている。無数の神経細胞から、それぞれこれまた無数のシナ
プスがのび、それらが複雑に交叉しながら、その人の思想を形成している。もしそうしたシナプ
スを解読する方法が見つかれば、脳ミソを開いた段階で、その人の思想を読み取ることができ
るようになるかもしれない。

 脳ミソの中には、事実として、思想がある。宇宙に天国があるかいなかという話とは、まったく
別の話なのである。

 こうした一見論理的な非論理は、日常会話の中でも、よく経験する。

 ある人が、私にこう言った。

 「林君は、霊の存在を否定するが、しかし電波はどうなのかね。テレビ電波なら、テレビ電波
でもいい。林君は、その電波を見ることができるかね。見ることができないだろ。が、だからと
いって、電波を否定しないよね。同じように、今、見えないからといって、霊の存在を否定しては
いけないよ」と。

 この論理も、事実を、事実でないものと対比させて、その事実をねじまげている。あるいはそ
の反対でもよい。事実でないものを、事実と対比させて、事実でないものを、あたかも事実であ
るかのように話している。

 もしこんな論理がまかりとおるなら、こんなことも言える。

 「テレビ電波は、人間の目では見ることはできない。しかし存在する。同じように、人間の運、
不運も、人間の目では見ることはできないからといって、否定してはいけない」と。

 いろいろに応用(?)できるようだ。
(040513)

●迷信は、下劣な魂の持ち主たちに可能な、ゆいいつの宗教である。(ジューベル「パンセ」)
(はやし浩司 迷信 迷信論 血液型 血液型性格判断 自己成就的予言 自己成就)

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最前線の子育て論byはやし浩司(509)

【近況・あれこれ】

●株で儲けたぞ!

 2年ぶりに、ネット取り引き再開。2週間前、G社の株を、X000株購入。それがこの2週間
で、24円の値上がり。

 しめて、XX万X000円の儲けなり! ヤッター! 手数料は、往復で、XXXX円。差し引き、X
X万円弱の儲け。これで新型パソコンが買える! ……と思っていたら、まあ、いろいろあっ
て、ワイフが、「お願いだから、少し、家計に回して」と。

 しかたないので、今夜、また近くの書店で、経済誌を片っ端から、立ち読み。しかし立ち読み
だけで帰っては悪いので、店を出るとき、雑誌を一冊、購入。D社発行の「株・データブック」。9
80円。またまた一から、勉強のしなおし。

 この980円を、100倍にするのが、私の役目。


●明日は、息子に助けてもらう

 明日(1月8日)のレッスンでは、息子のEに、手伝ってもらうことにした。「アルバイトでしてく
れないか?」ともちかけたら、スンナリと、「いいよ」と。小遣いとして渡すより、やはり何か、仕
事をしてもらうほうがよい。


●ナ、何と、自治会の副会長に!

 時間的に無理だから……と、何度も断ったが、結局は、自治会の副会長に。この私が…
…! 公民館の建設問題も、山場を迎え、何かとたいへんなとき。この地に住んで、もう28
年。この団地では、古株の1人。

 ワイフが、「できるの?」と心配したが、会長のK氏は、いい人だ。尊敬している。ここは助け
ないわけにはいかない。


●介護申請

 兄のために、介護申請をすることにした。デイサービスとかいろいろある。今日、近くのセンタ
ーを、二つ、訪問してみた。みな、結構、楽しそうだった。雰囲気も明るく、まるで保育園のよ
う。

 デイサービスなら、一日、昼食つきで、600円弱くらいで世話をしてくれるという。

 私たち夫婦も、やがて入所することに。そのための準備か?


●愛知万博

 愛知万博の名古屋パビリオンが、完成に近づいたという。工事の進行状況を見せてくれると
いうので、今度行くことにした。名古屋市役所から、連絡があった。招待を、いつも断ってばか
りいたのでは、悪い。藤井フミヤさんも、がんばっていることだし……。


●デニーズの誕生日

 二男の嫁のデニーズの誕生日。先ほどワイフが電話をしたが、留守。2人で、留守番電話
に、「♪ハッピー・バースデー・ツー・ユー」を合唱。多分、今日あたりは、休暇をとって、どこか
へデートにでかけているのだろう。

 そうそう本屋で、誠司(Sage)のために、何冊か、本を買う。


●仕事

 やはり私は仕事をしていたほうが、気が楽。楽しい。明日から、その仕事。今度の正月は、
頭のボケた兄をかかえ、結局は、どこへも行けなかった。まさに24時間介護。

 で、休みになると、かえって頭の働きがにぶくなる。原稿も書けなくなる。それだけの刺激が
ないからだ。

 やはり子育て論というのは、子どもの声を聞いていないと、書けない。

 それだけではない。子どもに接することで、心を洗ってもらえる。実際、子どもたちといっしょ
に騒いでいると、シャーッと、心の中が洗われていくように感ずることがある。

 子どもたちは、純粋なパワーにあふれている。そのパワーにふれることは、とても大切なこと
のように思う。
(05年1月7日記)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(510)

●今週のBWより

【問答テスト法】

★皆さんは、おうちで、どんなお手伝いをしていますか? お母さんが、いそがしいときは、どん
なお手伝いをしますか。あなたのできるお手伝いを、3つ言えますか。言える人は、手をあげ
て、教えてください。(生活力)


★これからお話をします。その話を聞いて、どこがおかしいか、教えてください。

「おばあさんが、杖(つえ)をついて歩いていました。右手には、カバンをもっていました。そして
左手には、コンビニで買ってきた、テレビをもっていました」
さあ、どこがおかしいか、お話のできる人はいませんか?
(いろいろな意見を聞く。)(常識力)


★少し、むずかしい問題だよ。

「ぼくは、ミカンを、3個もっていました。そしたら、お母さんが、2個くれました。で、そのミカンを
箱に入れておいたら、お兄ちゃんが来て、1個食べてしまいました。ぼくは、今、何個、ミカンを
もっているでしょうか。」

最初に3個だね。つぎにお母さんが2個くれて……。そのあとお兄ちゃんは、何個食べたか
な? (数の力)


★ときどき、パパは、「ダメだよ」と、みなさんに、言うことがありますね。どんなことをすると、み
なさんのパパは、「ダメだよ」と、あなたを叱りますか。また、反対に、どんなときに、みなさん
を、ほめますか。(善悪)


★これからママとお料理をします。今夜は、みんなで焼きそばをつくります。さて、やきそばをつ
くるためには、どんな材料を買ってくればいいでしょうか。どんなものがあれば、焼きそばがで
きますか。それを教えてください。どんなものを入れればいいのかな? (生活感覚)


★3つのコップがあります。それぞれのコップに、色水が入っています。どのコップの水が、い
ちばん、たくさん水がありますか。どれかな? またどのコップの水が、一番、少ないですか。ど
れかな? (推理)


★ここに積み木が積んであります。いくつ積み木がありますか。うしろに隠れている積み木も数
えてくださいね。さてさて、積み木は、いくつですか。(立体図形)


★4つの動物がいます。(ハト)と、(ネズミ)と、(イヌ)と、(サル)です。この4つの動物の中で、
一つだけ、ほかのと違うのは、どれでしょうか。わかる人はいますか? またどうして、その動
物は、ほかの動物とは、ちがうのでしょうか。(常識)


★みっつの筒(つつ)に、ヒモが巻いてあります。どのヒモが、一番、長いでしょうか。またどのヒ
モが一番、短いでしょうか。わかる人はいますか? (推理)


★みなさんのおうちで、してはいけないことがありますね。それをすると、みんなが困ります。み
なさんのおうちでしてはいけないことに、どんなことがありますか。それを話してくれる人はいま
せんか? (善悪判断)


★横断歩道があります。その横断歩道を、渡るとき、みなさんは、どんなことに気をつけていま
すか。またどうやって、横断歩道を、渡ればよいでしょうか。それを話してくれる人はいません
か。
(右を見て、左を見て、もう一度、右を見て、車をしっかりと見て、渡る。)(しつけ)


★もうすぐみなさんは、小学校に入学します。小学校に入学したら、どんなことをしたいです
か。また小学校では、どんなことをするのでしょうか。知っている人がいたら、話してくれません
か。(常識・展望性)


★あなたの仲のよい友だちを、2人、名前を話してください。だれとだれですか。また、いつも、
その友だちと、どんな遊びをしていますか。話してくれる人はいませんか。


★夏の暑い日でした。近所の友だちが、いっしょに、川へ魚をとりに行こうと言いました。友だ
ちは、魚をとる網をもっています。そういうとき、あなたは、どうしますか。また、どうしたらいいで
しょうか。おうちの人に、黙って行きますか。それとも、おうちの人は、そういうとき、あなたに何
と言うでしょうか。(常識)


★秋には、たくさんの果物が、店に並びます。どんな果物が、秋には食べることができますか。
秋に食べることができる果物を、3つ言ってください。(リンゴ、ナシ、ミカン、クリなど。)(常識)


★二つの箱に、5個ずつ、ボールが入っています。5個ずつです。ボールは、全部で、いくつあ
るでしょうか。わかる人は、手をあげてください。(計数)


★友だちの誕生日に招かれました。今日は、AAさんの誕生日です。あなたはAAさんに、会っ
たら、何と言いますか。また何と言ったら、AAさんは、喜びますか。(常識)


★幼稚園で、ブランコにのっていたら、乱暴者のB君が、ブランコを横取りしようとしました。こ
の前、B君は、スベリ台を、反対のぼりをしていました。B君は、みんなのいやがることを平気
でします。さて、ブランコを横取りしようとしたら、あなたは、どうしますか。それを話してくれる人
は、いませんか。(生活力)

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●神性と悪魔性

 どんな人にも、神性と悪魔性がある。これら二つが、同居している。その人が善人か悪人か
ということは、あくまでも、割合の問題と考えてよい。

 神性が強ければ、善人となり、悪魔性が強ければ、悪人となる。根っからの善人というのは
いない。同じように根っからの悪人というのもいない。

 大切なことは、それぞれの人が、自分の中の神性を伸ばし、悪魔性と戦うことである。私の
家で、現在進行中の話を書こう。

 たとえば今、私の家には介護を必要とする兄がいる。その兄を見ていると、自分の心の中
で、二つの相対立した感情が、混在しているのを知る。

 一つは、同情する心。もう一つは、さげすむ心。

 さげすむ心というのは、兄の(わがまま性)による。ただのボケというよりは、わがまま。つぎ
からつぎへと、あれこれと要求してくる。

 夕食の時刻になると、30〜40分前から、台所のテーブルの前に座り始める。何度、ワイフ
が、「あとで呼んであげるから、自分の部屋に行って、待っていてね」と言っても、言うことを聞
かない。

 「腹が減ると、力がでない」
 「いつも、5時に食べている」
 「ここのほうが、暖かい」
 「ぼくは、子どものころから、体が弱かった」と、つぎつぎと、不平、不満を並べる。

 そしてできあがった夕食を食べるときになっても、指先で、ご飯(ライス)をさわってみて、「冷
たいご飯は、食べられない」「歯が痛い」「おかずが、かたい」「かたいご飯を食べると、胃が悪く
なる」と。

 おかしな性癖もある。少し油断すると、ワイフに抱きつこうとするし、タンスからワイフの下着
を出して、ながめていたりする。善悪の判断能力が、ほとんど、ない。約束も守らない。規則も
守らない。言うだけ、ムダ。「わかった」と返事をしたそのすぐあとには、もう約束や規則を破っ
たりする。

 あれこれ気をつかう。本当に気をつかう。それはしかたないとしても、そこで私が、何かを少し
でもきつく叱ったりすると、短気を起こして、皿を割ったり、新聞紙を破り捨てたりする。ウソも
つく。

 「肩が痛い」「足が痛い」と言っては、私たちの部屋の中まで入ってくる。そこで湿布薬を渡す
と、「自分では張れない」「自分で張ると、よじれてしまう」などと言う。一事が万事。強烈な依存
性。まれにみる依存性。

 そういう兄を見ていると、ムラムラと、「勝手にしろ!」「知ったことか!」という気持ちがわいて
くる。これが悪魔性である。

 だから私は、自分では、善人だとは思っていない。昔から善人だとは思っていなかったが、そ
れが兄と同居するようになって、さらにそれが、よくわかった。

 そこで私は、そうした自分の中の悪魔性とどう戦うかを、学びつつある。

 一つは、無視。これをワイフとの暗号で、「24」と呼んでいる。イライラしそうなときには、たが
いに、「24」と声をかけあっている。「ムシ(6x4)24」の「24」である。(わかる?)

 つぎに、こうしたボケ症状に対しては、笑い飛ばすようにしている。「十字架を重く感ずれば、
悪魔がやってくる。十字架を笑えば、神が宿る」と。

 ただつらいのは、私たちの時間がないこと。外出ができないこと。そこで今は、要介護の申請
を、市役所に出しているところ。それが通れば、デイサービスを受けられるようになる。そうな
れば、少しは、自分たちの時間をもてるようになる。

 そして今、私は、こう思う。

 こうした十字架は、必ず、私を成長させる、と。その先に何があるかわからないが、しかしこ
のことは、今まで十字架を背負ったことがない人を見ればわかる。十字架を背負ったことがあ
る人からは、背負ったことがない人が、よくわかる。そしてその間には、超えがたいほど、遠い
距離があるのがわかる。

 私もいろいろな十字架を背負ってきたが、いよいよ、人生も晩年にさしかかってきた。晩年に
は晩年にふさわしい、十字架というものが、あるのかもしれない。あと10年とか、20年もすれ
ば、永遠の闇の中に消える。ぼんやりと、のどかな人生を過ごすのも、一つの人生かもしれな
いが、別の新しい人生を経験をするのも、また別の生き方かもしれない。

 はからずもワイフは、昨夜、私にこう言った。

 「ひとりでさみしく暮らす生活よりも、問題があっても、みなで、にぎやかですごすほうがいいわ
ね」と。

 ワイフは、私より、はるかに善人のようである。感謝! 感激! 感動!

 我が家のドラマは、今もなお、あれこれ進行中! ハハハ! (←これは、カラ元気か?)

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【近況・あれこれ】

●ショッピングセンター

 巨大なショッピングセンターが、近くにできた。「KM」という名前の、全国規模のショッピング
センターである。

 そのショッピングセンターの中を歩きながら、ふと、こんなことを考えた。「ここは、巨大なレス
トランのようだ」と。

 「?」と思われる人もいるかもしれない。

 実は、たいへん汚い話で申しわけないが、私は、並ぶ商品を見ながら、レストランの料理を
連想した。ついで、「便」を連想した。人間が排泄する、あの「便」である。

つまりこういうところで、人々はつぎからつぎへと、モノを買い、そしてそれを使用する。で、その
あとだが、当然のことながら、それらのモノは、ゴミとなって、捨てられる。それが「便みたい」
と。

 ショッピングセンターに並ぶ、無数の商品群を見ていたとき、その商品群が、頭のどこかで、
その(便)と、重なってしまった。「これだけのモノが、ゴミ(=便)になったら、どうなるのだろ
う?」と。

 わかりやすく言えば、人々は、つぎつぎとモノを買い、ゴミを作り出している。ちょうど人々が
食事をして、便を作り出しているように……。

 (汚い話で、ゴメン!)

 レストランで食べるときは、(美しいモノ)だが、体から出るときは、そうでない。同じように、シ
ョッピングセンターに並んでいるときは、(美しいモノ)だが、ゴミとなるときは、そうでない。

 それにもう一つ、驚いたことがある。何と、その店では、自転車が、8000円近くの値段で売
られていたことだ。45年前ですら、1万円という値段でも、安かった。それが、45年たった今、
8000円とは! どうなっているのだろう。

 で、8000円の自転車をさがしてみたが、すぐには見つからなかった。私が見たのは、1万2
000円前後の自転車だった。まあ、ふつうに乗れる自転車だった。とくによい自転車というわ
けでもなかったが、少し前のような、粗悪品というふうでもなかった。

 その店内を歩きながら、いろいろなことを考えた。

 ……メチャメチャに安い商品。その一方で、メチャメチャに高額な商品。今の日本には、その
二つが、共存している。たとえばバッグにしても、1000〜2000円前後のバッグが並んでいる
一方、5万円とか6万円のバッグもある。見た感じは、それほどちがわない。値段だけが、大き
く、ちがう。ブランド品になると、もっと高額。

 どのあたりで、どのように満足して、どのように生きるか。それがこの日本では、たいへんむ
ずかしくなってきた。貧乏な人でも、見かけだけは、それなりの生活を保つことができる。一
方、金持ちの人は、だれにもそうだとわかるほど、リッチな生活をし始めている。そういう意味
で、今、貧富の差が拡大しつつある。勝ち組と負け組みのちがいが、はっきりとしつつある。

 こういう日本で生きていくのも、たいへんなことだ。……と、思いつつ、フーッと、出るのは、た
め息ばかり。これからの子どもたちは、こういう日本で生きていかねばならない。またそういう
(たくましさ)をもたねばならない。

 で、今日の買い物……座椅子、トイレクリーナー一式、子どものおもちゃ数種、日用雑貨な
ど。しめてx000円前後。どれも不要不急品ばかりだが、何となく、雰囲気にのまれて、買って
しまった。ハハハ!

 (こういうものの考え方は、どこかニヒル? 少し落ちこんでいるせいかもしれない。)


●ターミナル・ケア

 最期の最期のケアを、ターミナルケアという。ふつうは、ガンなどのよる、末期症状期のケア
をいう。

 昨夜は、家族で、レストランへでかけた。そこで息子に、こんな話をする。

 「ボケの簡単な診断法があるよ。小便をしたあと、ズボンのチャックをあげ忘れても、ボケで
は、ない。しかし小便する前に、チャックをさげ忘れたらボケだ」と。

 そのあと、みなで、ボケの自己診断テストをする。

私、ワイフに向って、「いいか、これから4つのモノを言うから、覚えろ。行政法、民事訴訟法、
憲法、特許法」
ワイフ「そんなの覚えられるわけないでしょ」
私「ハハハ、お前の頭も、かなりボケてきたな」と。

 そのうち、少し話が深刻になってきた。私が「ボケは、脳ミソでもCPUがボケるから、自分で
は、ボケたことがわからないそうだ」と。

 すると息子が、こんな話をした。先月(04年12月)、アメリカへ行ったとき飛行機の中で見た
映画だという。

 何でも、その患者は、一日に10分間だけ、記憶を取りもどすのだという。そしてその10分
間、生涯で一番楽しかったとき、つまり、自分の恋愛時代を思い出すのだという。

 で、いよいよ末期。最期の最期のところで、その女性は、記憶を取りもどす。そして夫と2人
で、自分たちの恋愛時代を思い出しながら、その女性は安らかに死を迎える……。

 息子は、「同じ映画を、4回も見た」と言っていた。「すばらしい映画だった」と言っていた。私
も、その話を聞いて、胸がジーンとした。

 「でもね、ぼくがボケたら、もう世話をしなくていい。肺炎か何かになっても、病院へ連れてい
かなくてもいい。そのまま死なせてくれ」と。

 息子は、だまってそれを聞いていた。ワイフも、だまってそれを聞いていた。

 ことの善悪もわからないほどボケてしまったら、自分がボケていることさえ、わからなくなる。
そうなったら、つまり自分がそうなったら、生きていることに、どれほどの意味があるのか。

 せっかくの食事だったが、ボケの話になってしまった。

 数日前も、近くにある養護老人ホームを訪れてみた。見学のつもりだった。中をかいま見る
と、講堂のようなところで、老人たちが、カラオケを歌っていた。楽しそうだったが、しかしどこか
わびしい? 「私もああなるのか?」と思いつつ、「ああは、なりたくない」と思った。

 人生の晩年で、底の浅い歌謡曲を歌ったり、わけのわからない踊りを踊ったりする。それが
はたして私たちの、つまりは生きる目標なのか、と。であるとするなら、私たちは、何のため
に、生きているのか。

 真理の探究とは言うが、その探求には、限界がある。能力の限界というよりは、生命の限界
といってもよい。その限界を、このところ、ヒシヒシと感ずるようになった。

 帰るとき、ワイフが、「自治会の副会長の仕事は、やはり、できないわね」と言った。私は、
「そうだね」と答えた。

 時刻は、夜の9時を過ぎていたが、そのまま班長と、自治会長の自宅を回る。みな、よい人
たちだ。事情を話すと、すぐわかってくれた。反対に、「私たちも、林さんに協力しますよ」「この
あたりにも、介護老人をかかえた家庭は多いですから……」と言ってくれた。

 一つだけ、肩の荷がおりたような気がした。これからの人生は、どう生きるかということもさる
ことながら、どう死ぬかというのも、考えなければならない。ワイフがいつも言うように、「朝にな
っていたら、死んでいた」というような死に方が、理想的なのだが……。

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●運動と刺激

 正月休みの間、ほぼ、1週間だったが、その間、私は汗をかくような運動をしなかった。とき
どき遊びのような運動はしたが、その程度。

 しかし昨日から、仕事は、本格稼動。久しぶりに、往復14キロを走った。自転車で、である。

 最初、数100メートルほど走ったところで、足の異変を感じた。太ももの内側に、覚えのな
い、だるさを感じた。久しぶりの運動で、筋肉がなまっていたためらしい。が、1、2キロも走る
と、それは消えた。

 が、N高校のそばの、ダラダラ坂にさしかかったとき、いつものなら、グイグイと登れる坂が、
つらい。足がもたつく。これも、やはり、運動不足か。

 ……たった、1週間で、このザマ!

 正月休みのような休みが、1、2か月もつづいたら、私はどうなるのか。半年とか、1年もつづ
いたら、どうなるのか。それを思ったら、ソーッとした。

 昼過ぎに仕事を終えて、家に帰ってきた。3時間近く、幼児を相手にワイワイと騒いできた。
そのせいか、気分は、そう快。頭の中もスッキリ。

 で、気がついた。運動というのは、頭をスッキリさせるためにも、必要である、と。

 だから、というわけでもないが、体と頭は、毎日、使ったほうがよい。使わないと、すぐサビつ
く。だれしも、楽をしたいと思う。つらい仕事は、避けたいと思う。しかしそれを乗りこえるから、
体にせよ、頭にせよ、健康を保つことができる。

 わかりきったことだが、昨日、それを再認識した。

 
●常識の中の、非常識

 S出版社から出された、「お店のカラクリ」という本を、パラパラと読む。いくつか、おもしろい
記事を書き出してみる。

★デパートなどで、買い物をしていると、よく「宮内庁御用達」というラベルの張った商品を目に
する。しかし実際には、宮内庁の中にある食堂へ、商品を納入しているだけなのに、「宮内庁
御用達」と書くこともあるそうだ。必ずしも、天皇家ご愛用というわけではないそうだ。

★結婚式場を選ぶとき、一番大切なのは、パーティ料理の「質」。それを知るためには、その
式場内部にあるレストランで、カレーライスを食べてみるとよいそうだ。そのカレーライスのでき
がよければ、その式場での料理はよいし、そうでなければ、そうでない、と。

★イタリアンレストランで、ウェイターやウェイトレスが、ワインを勧めるのは、ワインで利益をあ
げるためだそうだ。ふつうイタリアンレストランでは、料理からの利益率は、10%程度だそう
だ。(本当かな? このあたりのイタリアンレストランは、どこも、べらぼうに、値段が高いぞ!)
しかしワインは、3倍商法が原則だという。それで、イタリアンレストランでは、ワインを客に勧
めて、利益をあげるそうだ。だからワインを断る客は、嫌われるとか?

★鉄道の乗車率は、どうやって決めるか? それについても書いてある。ふつう「乗車率10
0%」というと、座席が、すべてうまった状態を想像する。しかし実際には、通路も計算に入って
いるそうだ。その通路を、0・35平方メートルで1人で計算して、すべてを合計して、100%とす
るそうだ。たとえば新幹線でも、通路に人が立つ状態も、それが0・35平方メートルに1人な
ら、100%ということになるそうだ。座席が満席だから、100%ということではないらしい。

★ピアノの教本に、「バイエル」がある。あのバイエルは、実は、外国では、ほとんど知られてい
ないそうだ。(バイエルというのは、ドイツの作曲家のフェルナンド・バイエルのこと。日本では、
バイエルの作曲した教則本が、ピアノの練習曲になっている。日本の女子短大などでは、バイ
エル程度を弾きこなせることが、幼稚園教諭二種免許取得のための、必要条件になってい
る。)しかし外国の音楽教室の教師などには、そのバイエルさえ知らない人も多いという。ヘ〜
エ、と私は、驚いた。

★「表にサンプルのないラーメン屋のラーメンはうまい」というのもある。味にこだわるラーメン
屋は、横並び意識を嫌い、そういうサンプルを、店先には並べないそうだ。また「レンゲがラー
メンにつかっていないラーメン屋を選べ」とも書いてある。レンゲをラーメンの汁につけると、ラ
ーメンが冷えてしまう。だから味にこだわるラーメン屋は、レンゲを、汁にはつけないとか。

(これを読んだとき、「幼児教室も、そうだ」と思った。理由を書くことはできないが、しかし、ナル
ホド!、と。本物志向の幼児教室は、いつも中身だけで勝負する。私の教室がそうだぞ! ハ
ハハ。)

★スーパーなどの特売コーナーの近くの商品は、買ってはいけないそうだ。つまり店は、特売
品で、客をつり、その横に、割高の商品を並べて、元をとろうとする、と。特売品につられてや
ってきた客は、その横に並べてある商品にも、つい、手を出しやすい。店側は、そういう計算を
しながら、店は商品を並べるとか。

★銀行員は胃と肝臓の治療をしない……そうだ。胃や肝臓の治療をする銀行員は、それだ
け、「健康状態に問題あり」と判断され、出世競争から落とされるとか。今の保険制度の中で
は、調べる気にさえなれば、経営者側は、その社員がどんな病気で、どんな治療を受けたかま
でわかるしくみになっているという。だから銀行員の中には、胃や肝臓の病気になっても、保険
を使わず、高額な実費を払って治療を受けている人もいるとか。

(以上、青春出版社、「お店のカラクリ」より。興味のある方は、どうぞ!)

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●家病

 私の父方は、みな、胃腸が弱い。死因はいろいろ。母方は、たいてい脳内出血で死んでい
る。幸いなことに、双方とも、がんには、強い家系らしい。がんで死んだ人は、1人もいない。た
だ60数人いる従兄(いとこ)たちの中には、最近、がんで死ぬ人がチラホラと出てきた。油断
はできない。

 一方、ワイフの家系には、父方も母方も、がんで死んでいる人が多い。

 で、私のばあい、一番心配されるのが、脳内出血。ある日、脳の欠陥がパーッと破れて死
ぬ、という、あれである。あるいは心筋梗塞(こうそく)。もう少し正確には、虚血性心臓病。父
方の祖父は脳梗塞、母方の祖父は脳内出血で、それぞれ死んでいる。

 父は、心筋梗塞(しんきんこうそく)で死んでいる。かなりのヘビースモーカーで、「S」という、
ニコチンタールの多いタバコを、いつも吸っていた。

 その虚血性心臓病だが、それになりやすいタイプというのは、決まっているそうだ。アメリカの
フリードマンの説によれば、(1)精力的な人、(2)時間にうるさい人、(3)攻撃性の強い人、
(4)競争心のはげしい人、(5)精力的な話し方をする人だそうだ。

 フリードマンは、このタイプの人を、「タイプA」とした。(血液型ではないぞ!)

 「A」の「A」は、「Amnition(野心)」「Aggressiveness(攻撃性)」の頭文字だそうだ。

 で、私はこの中の、(1)から(6)まで、すべて当てはまるから、恐ろしい。最近は、少し元気が
なくなってきたので、まあ、それはよいとしても、フリードマンの説によれば、私は、虚血性心臓
病で死ぬ確率が、きわめて高い?

 気をつけよう。

 ところでその(攻撃性)だが、子どもの攻撃性について、この日本では、ほとんど問題にされ
ない。攻撃的イコール、生活力が旺盛ということではない。極端な例だが、こんなことがあっ
た。

 ある日、幼稚園の年長児に、こんな問題を出したことがある。

 「ブランコに乗っていたら、ブランコを、あなたは横取りされそうになりました。そういうとき、あ
なたはどうしますか?」と。

 すると1人の男の子が、サッと手をあげて、こう言った。

 「ぶん殴ってやる。そういうヤツは、どうせ口で言ってもわからない」と。

 私はこの答に驚いたが、それがここでいう(攻撃性)である。幼児のばあい、嫉妬心と、攻撃
心は、あまりいじらないほうがよい。カッと頭に血がのぼると、何をしでかすかわからないという
のは、幼児としては、あるまじき姿と考えてよい。

 ……と、話がそれたが、それぞれの家系には、それぞれの家系特有の病気がある。それを
私は、勝手に、「家病」と呼んでいる。多分、この文を読んでいるあなたの家系にも、それがあ
るはず。ちがうだろうか?
(はやし浩司 フリードマン タイプA 虚血性心臓病 家病)

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●血液型

 血液型による性格判断について、記事を書いた。「血液型による性格判断ほど、ナンセンス
なものはない」というのが、私の書いた記事の趣旨である。

 それについて、「そうとは言い切れないのでは……?」という意見が届いた。M県に住んでい
るX氏である。血液の種類が、人間の性格に影響をおよぼすことは、ありえないことではない、
と。

 そこで私なりに調べてみた。で、わかったことは、たとえば血小板の中に含まれる、血小板M
AO(モノアミン酸化酵素)が、脳の中の神経物質に影響を与えるという説もあるということがわ
かった(深堀元文「心理学のすべて」)。

 しかし「血液型性格論は、赤血球の血液型を判断基準としていて、血小板は関係ありません
し、血小板MAOの働きに関しても、反論が多く提出されています」(同書)とのこと。血液型と血
小板は、まったく関係がないということ。やはり血液型と、その人の性格は、関係ないということ
になる。

 で、結論。もうこういうくだらない俗説を振りまわすのは、やめよう。血液型と性格とは、関係
ない。私も無数の子どもたちを見てきたが、子どもの血液型など、話題にしたこともない。関連
性があるなら、私だって、とっくの昔に気がついているはずである。
(はやし浩司 血小板MAO 血液型 血液型性格判断 性格判断)

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●アロマセラピー

 五感というときは、(1)視覚(見る)、(2)聴覚(聞く)、(3)味覚(味わう)、(4)触覚(触れた感
覚)のほか、もう一つ、(5)嗅覚(かぐ)がある。

 この嗅覚について、昔は、それほど重要視されなかった。大脳の中でも、古い大脳皮質に属
するものと考えられていた。

 が、最近の研究によれば、嗅覚は前頭葉とも関連していることがわかってきた。つまり人間
の人格とも深く関連している、と。前頭葉(前頭連合野)が損傷を受けると、「移り気になり、野
心もなくなり、節度に欠け、人格が以前とまったく変わってしまうこともある」(新井康允)そうだ。

 人間の正しい行動プログラムは、この前頭葉が支配している。その前頭葉に、嗅覚が関連し
ているというわけである。

 この「力」を利用したのが、アロマセラピーということになる。「におい」を利用して、精神活動
を調整しようというのが、それである。

実際、鼻の奥の嗅細胞は、5000万個あり、平均的な人で、2000種類のにおいをかぎわけ
ることができるといわれている。調香師のようなプロになると、1万種類のにおいをかぎわける
ことができるという(深堀元文)。

 私のばあい、どういうわけか、嗅覚だけは、人並み以上に発達している。つまり、鼻がよい。
ワイフとくらべても、数倍から数10倍はよいと思う。(数字で比較することができないが……。)
風向きによっては、数10メートル離れたところでも、タバコのにおいなどを、かぎわけることが
できる。

 ワイフは、よく「あなたはイヌみたい」と言うが、それに近い。

 で、そのことをワイフに話すと、ワイフは、こう言った。「視覚や聴覚については、わかるけど、
嗅覚がよくて、何か得することがあるの?」と。

 実のところ、実益は、あまり、ない。しかしにおいに、敏感なのは事実。そしてそのにおいに、
心が左右されることは、よくある。よいにおいをかぐと、心が休まる。そうでなければ、そうでな
い。そんなわけで、一時は、アロマセラピーに、たいへんこった。庭に、薬草を、何10種類もそ
ろえたことがある。(すべてイヌのハナに、荒らされてしまったが……。)

 こんなことをこういうエッセーで書くのは、不謹慎かもしれないが、私は、若いころは、女性
を、においで選んでいたようなところがある。顔や容姿がいくらよくても、においが合わないとき
は、どうしても、その女性を、好きになれなかった。今でも、そうだ。

街ですれちがったとき、ふと、よいにおいがしたりすると、振りかえって、その女性を見たりす
る。そうでないときは、さっと、体を避けたりする。

 香水のにおいとか、そういうにおいではない。体臭である。その体臭が、香水を超えて、私の
鼻を刺激する。

 ……とまあ、一方的に自分勝手なことばかりを書いたが、では、私自身のにおいはどうかと
いうと、本当のところ、自信がない。老臭に歯槽膿漏(しそう・のうろう)のにおい。それに不潔な
フケのにおいなどなど。若い女性なら、顔をそむけたくなるようなにおいを、プンプンさせている
と思う(多分?)。

 自分ではわからないが……。

 で、この嗅覚は、味覚とも関連があるということもわかってきた。さらに嗅覚は、それ自体が
独立して、記憶されるということもわかってきた。あるにおいをかいだとき、以前に同じようなに
おいをかいだときの記憶が、そのままもどってくるということは、よくある。嗅覚には、そういう力
もある。

 嗅覚を、決して、あなどってはいけない。……ということで、このエッセーは、おしまい。
(はやし浩司 アロマセラピー 嗅覚 五感)

【付記】

 五感はそれぞれが独立した感覚のように考えられているが、脳ミソの中では、一体化してい
ると考えられている。たとえばひどい騒音を耳にすると、嗅覚や味覚が影響を受け、感覚をなく
したりする。

 反対に、美しい音楽を聞きながら食事をすると、味覚が影響を受け、その料理を、よりおいし
く感じたりする。キズか何かがあって、痛みがひどいと、美しい音楽も、騒音に聞こえる、など。

 私は、聴覚はよくないが、たとえばモノ売りの声が聞こえてきたりすると、そのとたん、思考が
停止してしまう。「うるさい!」と思ったとたん、キーボードをたたく指が止まってしまう。

 五感は、脳ミソに、いろいろな形で作用するようである。

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●子どもの指導法

 子どもにいろいろなことを頼むとき、親は、これまたいろいろな言い方をする。ふつう、親が子
どもに、何かをしてほしいときは、つぎのような言い方をする。(参考、渋谷昌三、「心理学用語
辞典」)

(1)命令型
(2)目的語型
(3)不履行非難型
(4)直接依頼型
(5)意向打診型
(6)願望型
(7)提案型
(8)話し手行動型
(9)話し手事情型
(10)受け手事情型(以上、同辞典)

 ほかにも、(11)脅迫型、(12)同情型、(13)依存型、(14)自覚奮起型、(15)恩着せ型な
どが考えられる。順に、具体的に考えてみよう。

 たとえばあなたの子どもが、テストが近いというのに、家の中で、ゴロゴロしていたとする。そ
のとき、あなたは、どのような言い方をするだろうか。

「勉強しなさい!」……命令型
「勉強、勉強」「いい成績を取るのよ」……目的語型
「どうしてあなたは、勉強しないの!」……不履行非難型
「勉強してくれない?」……直接依頼型
「どう、少しは勉強してみたら?」……意向打診型
「あなたがいい成績を取ったら、うれしいわ」……願望型
「どうだろう、いっしょに問題集を開いてみない?」……提案型
「今日、勉強したらよいところに、印を入れておくよ」……話し手行動型
「私立大学だと、学費も高いでしょう。勉強して、国立に入ってね」……話し手事情型
「あなた、だいじょうぶなの? ゴロゴロしていて?」……受け手事情型
「勉強しろ。でなければ、小遣いを減らすぞ」……脅迫型
「いろいろたいへんね。勉強するのも、いやなことね」……同情型
「しっかり勉強してくれないと、お母さんも、困るのよ」……依存型
「そろそろ勉強したほうが、いいと思うよ」……自覚奮起型
「私はあなたのために、パートの仕事をしているのよ。わかる?」……恩着せ型、など。

 そのときの親意識の程度、親子関係によっても、言い方は、さまざまに変化する。同じテスト
といっても、週末のテストと、入試テストとでは、緊張感もちがう。そうしたちがいに応じて、親の
言い方も変化する。

最近の傾向としては、公教育の場では、命令型、脅迫型などは、タブー視されている。かわっ
て、意向打診型、提案型の言い方が、主流になってきている。

 たとえば掃除の時間でも、「みさなん、掃除の時間ですよ」(自覚奮起型)、「力を合わせて、
教室をきれいにしたらどう」(提案型)など。

 一般論として、「その仕事(勉強)に対するコスト(重要度)が大きいときは、(4)の直接依頼
型より、(5)の意向打診型のほうが多くなる」ということだそうだ(同辞典)。

 親の言い方一つで、子どもは、伸びる。反対に、子どものやる気を奪ってしまうこともある。さ
て、あなたは、子どもに対して、日ごろ、どんな言い方をしているだろうか。
(はやし浩司 子どもの指導法 子供の指導法 言い方 指導のし方 指導の仕方)


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●ボランティア活動

 数日前、自転車で夜道を走っていたら、歩道に倒れている男いた。寒い夜だった。見た感じ
では、酔っぱらって、そのまま倒れてしまったようだ。酒臭かった。

 5〜7メートルほど行き過ぎてから、私は自転車を止めた。振りかえった。声をかけるべきか
どうかで、一瞬、迷った。気がつかなかったが、その男の横近くに、もう1人の男の人が立って
いた。「仲間だろうか?」と思った。

 その瞬間、私の心から、その倒れている男への責任感が薄らいだのを感じた。「その人に任
せればいいや」と。これを心理学でも、「責任の分散」という。

 責任を取るべき人が多くなればなるほど、責任感が薄らぐことを意味する。もしそのとき、私
ひとりだけなら、たとえば声をかけたり、ばあいによっては、救急車を呼んだかもしれない。し
かしその男の仲間らしき男の人を見たとき、その気持ちは消えた。

 で、私は、その立っている男の人に声をかけた。「知りあいですか?」と。するとその男の人
は、平気な声で、「ナーニ、酔っぱらっているだけでよ」と言って、笑った。そしてその倒れてい
る男をまたぐようにして、向こうのほうへ歩いていってしまった。

 そのときのこと。私の中に、それまで経験しなかった思いが、わいてきた。

 「このまま、無視して去ったとき、私はどんな責任を負わされるのだろうか」と。

 法律的には、私には、その人を救助する義務はない。無視して去ったところで、責任を問わ
れることはない。しかし、私は、一応、教育評論家である。(自称、そう思っているだけだが…
…。)

 いくら法的には責任がないとはいえ、無視して去るわけにはいかない。そこで声をかけた。

 「だいじょうぶですか?」「ああ……」と。そして私の声につられて、その男は、ヨロヨロと立ち
あがった。

 つまり私が声をかけたのは、その男を心配したからではなく、自分の立場を心配したからで
ある。これを心理学では、「愛他的自己愛」という。つまり自分がかわいいため、一応、他人を
愛するフリをしているだけ。本物のボランティア精神とはちがう。

 本物のボランティア精神というのは、滅私の状態で、相手につくす。これを「向社会的行動」と
いう。私が経験したのは、それとは異質のものである。

 ……ということで、同じボランティア活動でも、「愛他的自己愛」によるものもあれば、「向社会
的行動」によるものもある。よくどこかのテレビタレントが、その売名行為(?)のために、何か
のボランティア活動をしてみせることがある。そういうのは、たいてい「愛他的自己愛」によるも
のと考えてよい。わかりやすく言えば、偽善。

「向社会的行動」によるボランティア活動は、ジミで、だいたいにおいて、日陰の活動。マスコミ
の世界には、流れてこない。(マスコミが、調べて報道するということはあるが……。)

 ボランティア活動について、考えてみた。
(はやし浩司 ボランティア ボランティア活動 向社会的行動 愛他的自己愛 偽善)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi++++++
++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司※

最前線の子育て論byはやし浩司(511)

●撮影

 このところ、1時間でもあいた時間があると、デジタルカメラをもって、写真を撮りにいく。私の
ホームページを飾るためである。

 で、今日は、弁天島温泉まで行ってきた。浜名湖の出口のところにある温泉である。もっと
も、「温泉」というのは、名ばかり。本当は、地下水を沸かして使っていたとか? よくわからな
いが、04年に、世間の話題をさらった。

 そのせいかどうか知らないが、温泉街は、どこか元気がなかった。その街に入る前に、浜名
湖の写真を撮ろうと、車を止める場所をさがした。しかし、ない! あるにはあったが、有料。1
回、400円。それを見て、ワイフが、「これじゃあ、客足が遠のいても、しかたないわね」と。ホ
ント!

 内心で、「二度と来るものか」と思ったが、それが客の心理というものかもしれない。

 ……と悪口ばかりを書いてはいけない。空の青さをそのまま映して、水面は、それ以上に青く
輝いていた。水も、透明度が高く、数メートルの深さのところでも、その下の貝殻が、よく見え
た。「きれいな水ね」と、ワイフが何度も言った。

 帰りに、国道1号線沿いにある、ファーストフードのレストランに入った。祭日(1月10日)だっ
たが、ランチがあった。ハンバーグと白身魚がついて、399円。399円だぞ! 驚いた。ラン
チは、ふつう、どこでも安いが、399円とは! 私は、599円の焼き肉定食を食べた。ハハ
ハ。

 撮った写真は、さっそく、ホームページに載せた。興味のある方は、(はやし浩司のHP)→
(浜松案内)へどうぞ。

 ところで、数字には、不思議なマジックがある。399円というと、「安い」と感ずる。しかし「40
9円」というと、ぐんと高くなったように感ずる。本当は、たった、10円しかちがわないのだが…
…。

 大型店などでは、こうしたマジックを巧みに使って、商品の値段を決めるそうだ。客が、安い
商品につられて、その隣の高額商品を買うようにしむける。

 実は、私たちが、その客だった。ランチと、焼き肉定食につられて、デザートに、みつ豆を頼
んでしまった。小さな器(うつわ)に、ほんの少ししかなかったが、それが299円。結局、合計
で、1600円程度になってしまった。ナルホド! そういうことだったのか!


●仮面(ペルソナ)

 だれしも、いくつかの仮面(ペルソナ)をもっている。その仮面を使い分けながら、生きてい
る。仮面が悪いと決めてかかってはいけない。その仮面をかぶるから、仕事ができる。社会生
活を営むことができる。しかしそれには、一つ、重要な条件がある。

 その仮面を、いつも、意識すること。

 仮面をかぶりながら、仮面をかぶっていると知らなければならない。仮面をかぶりながら、そ
の仮面がわからなくなったら、深刻! ホント! へたをすれば、多重人格者ということになる。

 たとえば私にも、いろいろな仮面がある。第一の仮面は、親たちの前で、幼児教育者として
立つときの仮面。外を出歩くときの仮面。家の中で、客や友人と対面するときの仮面。しかし仮
面をまったく、はずすときがある。

 それはワイフと接しているとき。ワイフと接しているときだけは、仮面をかぶらない。ありのま
まの自分をさらけ出す。私のばあい、それが私の原型。

 その原型の上に、いろいろな仮面をかぶり分ける。が、その仮面が、あまり遊離しすぎるの
も、よくない。遊離すればするほど、当然のことながら、疲れる。自分を飾ったり、偽ったりする
というのは、それ自体、骨の折れること。

 (そう言えば、毎日、1〜2時間もかけて、化粧する女性がいるという。毎日、たいへんだろう
と同情するが、しかし私には、その目的がよくわからない。結婚した女性なら、なおさらだ。だ
れのために化粧をしているのかということにもなる。化粧は、私がここでいう仮面とは、異質の
ものだが……。)

 しかしおかしなもので、若いときはともかくも、年齢をとるにつれて、仮面をかぶることに疲れ
たというより、虚しさを覚えるようになった。その反面、ありのままの自分で生きたいと思うよう
になった。仮面をかぶること自体、貴重な時間をムダにしているように感ずるようになった。

 が、その仮面を取り去るのは、容易ではない。習慣になってしまっている。ときどき、仮面を
かぶっていることにすら気がつかないまま、仮面をかぶってしまうこともある。よい人ぶったり、
人格者ぶったりするのが、それである。

 そういうときは、あとになって、ハッと気づく。そして同時に、「しまった!」と思う。よい人ぶるこ
とくらい、あと味の悪いものは、ない。

私「お前は、本当のぼくを毎日、見ているわけだけど、お前は、ぼくのことをどう思う? つまら
ない人間だと思う?」
ワイフ「まあ、その通りの人だわね」
私「だからさあ、つまらない人間だと思う?」
ワイフ「そういうふうには、思わないわよ」
私「じゃあ、どう思う?」
ワイフ「まあね……。繊細で、小心で、それでいて、アインシュタインみたいな人ね」と。
 
 これからのテーマ。それは仮面を一枚ずつ、はいでいくこと。仮面の皮を薄くしていくこと。あ
りのままの私で、生きていくこと。

 フーム、これは、むずかしいテーマだ。……と、思ったところで、この話は、おしまい。
(はやし浩司 仮面 ペルソナ)


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
 
●子どもの問題

 いろいろな問題をかかえたとき、うっかりと、あまり信用できない人にしゃべってしまい、あと
で、「しまった!」と、後悔することがある。私のばあい、最近でこそ少なくなったが、今でも、な
いわけではない。ときどきある。

 賢くなることは、それほどまでにむずかしいことなのか?

 相談するときは、まず相手に、それだけの(心のポケット)があるかどうかを、判断する。見き
わめる。相手も、かつて同じような状況で、同じような立場で、同じように苦しんだ人なら、その
(心のポケット)があることになる。

 その(心のポケット)のない人に、いくら相談しても、意味はない。相談したところで、得るもの
は、何もない。へたをすれば、よもやま話のネタにされるだけ。……そう決めてかかるのは、失
礼なことかもしれないが、まず、そう思って、まちがいない。

 中には、こちらの不幸を知ってか知らずか、(たいていは知りつつ)、さぐりを入れてくる人が
いる。いかにも同情するようなフリをして、あれこれ聞き出す。さらにいらぬお節介を焼いてくる
人さえいる。こうした傾向は、地方の田舎ほど、強いのでは?

 私がこの浜松市が好きな理由の一つに、そうした干渉が、ほとんどないということがある。も
ともと街道沿いの宿場町として発達した町である。人の出入りが、ほかの地方とくらべても、は
げしい。つまりその分だけ、私のような、よそ者に対して、寛大なのかもしれない。

 話はそれたが、子どもの問題についても、同じことが言える。前にも書いたが、たとえば有名
大学や有名高校へ入った子どもの体験談などというのは、ほとんど、役にたたない。聞いて
も、「ああ、そうですか」という程度で、終わってしまう。

 しかしいろいろな問題をかかえ、それを乗り越えてきた人の話は、参考になる。成功談より、
失敗談のほうが、役にたつ。だからイギリスでは、昔から、『航海のしかたは、難破した者の意
見を聞け』という。

 一方、私たちは私たちで、(心のポケット)を用意しなければならない。それが多い人のこと
を、やさしい人という。心の広い人という。が、ここで大きなジレンマにぶつかる。だれしも苦労
は、できるだけ避けたいと願っている。それにたいていの人は、自分の人生を生きるだけで精
一杯。他人の不幸にかかわりあっているヒマなどない、……というのが本音かもしれない。(心
のポケット)を作るためには、そういうジレンマとも戦わねばならない。

 しかし不幸などというのは、そこらの病気と同じで、いつ何時、襲いかかってくるかわからな
い。病気なら病院で治すということができるが、不幸となると、そうはいかない。不幸には定型
がない。不幸の数だけ、種類がちがう。中身も、深さもちがう。

 そこで子育てをしていて、何かの問題が起きたら、1、2歳、年上の子どもをもつ親に相談し
てみるとよい。たいていのばあい、「うちでもこんなことがありましたよ」というようなアドバイス
で、問題は解決する。

 しかしそれでは解決しない問題もある。そのときの鉄則には、いくつかある。

(1)徹底した現実主義を貫く。
(2)問題の分析し、公的機関へ問い合わせる。
(3)それ以上、状況を悪化させないことだけを考えて、毎日をやり過ごす。

 徹底した現実主義というのは、(現実)だけを直視して、過去を悔やまない。未来を嘆かな
い。私がここにいるのも、あなたがそこにいるのも、(現実)。問題があるのも、(現実)。その
(現実)を受け入れ、あきらめるべきことはあきらめ、納得すべきことは、納得する。

 いくら問題が深刻といっても、しょせん、人間。特殊と思っているのは、あなただけ。同じよう
な例はいくらでもある。そしてその分だけ、それをカバーする機関が必ず、ある。とくに子どもの
世界ではそうで、まず役所の相談窓口に声をかけてみること。大切なことは、決して、ひとりで
は悩まないこと。

 クヨクヨ悩んだところで、問題は解決しない。あとは、今以上に状況を悪化させないことだけを
考えて、とにかくその日、その日をやりすごす。それをつづけていると、やがてそこに一定のリ
ズムが生まれてくる。そのリズムをつかんだら、問題は、問題でなくなる。

 が、それ以上に、重要なことは、(心のポケット)を用意しておくこと。つまりは心理学でいう、
「共鳴性」の問題ということになる。常日ごろから、相手の立場でものを考えるというクセを作っ
ておく。それはいわば、心の貯金のようなものかもしれない。準備? あるいはシミュレーショ
ン? 何でもよいが、いつも相手の立場で、その苦しみや悲しみを共有するクセをつけておく。

 まずいのは、相手の不幸や悲しみを、笑うこと。笑えば笑ったで、自分がその立場に立たさ
れたとき、その何十倍も、自分で苦しむことになる。

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●難破した人の意見を聞く 

 『航海のしかたは、難破した者の意見を聞け』というのは、イギリスの格言。人の話を聞くとき
も、成功した人の話よりも、失敗した人の意見のほうが、役にたつという意味。子育ても、そう。

 何ごともなく、順調で、「子育てがこんなに楽でよいものか」と思っている親も、実際にはいる。
しかしそういう人の話は、ほとんど参考にならない。それはちょうど、スポーツ選手の健康論
が、あまり役にたたないのに似ている。が、親というのは、そういう人の意見のほうに耳を傾け
る。「何か秘訣を聞きだそう」というわけである。

 私のばあいも、いろいろ振り返ってみると、私の教育論について、血や肉となったのは、幼児
を実際、教えたことがない学者の意見ではなく、現場の先生たちの、何気ない言葉だった。とく
に現場で一〇年、二〇年と、たたきあげた人の意見には、「輝き」がある。そういう輝きは、時
間とともに、「重み」をます。

 ……ということだが、もしあなたの子どもで何か問題が起きたら、やや年齢が上の子どもをも
つ親に相談してみるとよい。たいてい「うちもこんなことがありましたよ」というような話を聞い
て、それで解決する。

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同じようなテーマで書いたのが、つぎの原稿です。
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●航海のし方は、難破したことがある人に聞け

 イギリスの格言に、『航海のし方は、難破したことがある人に聞け』というのがある。子どもの
子育ても、同じ。スイスイとT大へ入った子どもの話など、実際には、ほとんど役にたたない。

本当に役だつ話は、子育てで失敗し、苦しんだり悩んだことがある人の話。それもそのはず。
子育てというのは、成功する人よりも、失敗する確率のほうが、はるかに高い。

 しかしどういうわけか、親たちは、スイスイとT大へ入った子どもの話のほうに耳を傾ける。ま
たこういうご時世だが、その種の本だけは、よく売れる。

「こうして私は東大へ入った」とか、など。もちろんムダではないが、しかしそういう成功法を、自
分の子どもに当てはめようとしても、うまくいかない。いくはずもない。あるいは反対に、失敗す
る。

 そこであなたの周囲を見まわしてみてほしい。中には、成功した人もいるかもしれないが、大
半は失敗しているはず。そういう人たちを見ながら、あなたがすべきことは、成功した人から学
ぶのではなく、失敗した人の話に耳を傾けること。またそういう人から、学ぶ。もしあなたが「う
ちの子にかぎって……」とか、「うちはだいじょうぶ……」と、高をくくっているなら、なおさらそう
する。

私の経験では、そういう人ほど、子育てで失敗しやすい。反対に、「私はダメな親」と、子育てで
謙虚な人ほど、失敗が少ない。理由がある。

 子どもというのは、たしかにあなたから生まれる。しかし、あなたの子どもであって、あなたの
子どもでない部分のほうが大きい。もっと言えば、あなたの子どもは、あなたを超えた、もっと
大きな多様性を秘めている。だから「あなたの子どもであって、あなたの子どもでもない」部分
は、あなたがいくらがんばっても、あなたは知ることはできない。

が、その「知ることができない」部分を、いかに多く知っているかで、親の親としての度量が決ま
る。「うちの子のことは、私が一番よく知っている」という親ほど、実は、そう思い込んでいるだけ
で、子どものことを知らない。だから、子どもの姿を見失う。失敗する。一方、「うちの子のこと
がわからない」と、謙虚な態度で子どもの姿を見ようとする親ほど、子どものことを知っている。
だから、子どもの姿を正確にとらえる。失敗が少ない。

 話がそれたが、子育ては、失敗した人の話ほど、価値がある。役にたつ。もしそういう話をし
てくれる人があなたのまわりにいたら、その人を大切にしたらよい。

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●ボケ

 ボケ始めた兄を預かるようになって、我が家の様子は、さまざまに変化した。

 最初は、「風呂くらいは……」「食事くらいは……」「着がえくらいは……」と考えていたが、そ
れらは、つぎつぎと裏切られていく。

 風呂にしても、「少し熱い」と言っては、水を足す。すると今度は、「ぬるくなった」と言っては、
お湯を入れる。これを繰りかえしているうちに、湯船から、湯がどんどんとあふれるようになる。

 そこで体を洗ってあげて、体を流す。ついでに、「風呂から出るんだよ」と言って、フロの栓を
抜く。しかし兄は、「まだ寒い」と言って、またフロに入ろうとする。なかなかフロから出てこない
ので、見に行ったら、フロの栓を抜いたまま、湯だけを入れていた!

 食事にしても、その時刻になると、台所で、座って待っている。「5時に食べる」と言ってがん
ばる。ワイフが、「もう少し待っていてね」と、何度もさとすが、効果がない。そのつど「わかった」
と言うのだが、その数分後には、「おなかがすいて、動けない」「苦しい」などと言う。

 着がえも、しない。先日、フロに入るとき、着ている服を見たら、運動着の下に、セーターを4
枚、その下に下着を3枚も着ていた。それにズボンなどなど。どうりで風船のようにふくらんでい
たはずだ、と、そのときは、笑った。

 が、このところ、行動半径が、少しずつ、広がり始めた。たまたまワイフが、ガス栓の元コック
をしめておいたからよかったものの、おとといは、あやうく我が家で、ガス爆発が起きるところだ
った。

 しかたないので、部屋中に、カギをつけた。とくに注意したのは、薬箱の置いてある部屋。兄
は、薬をつぎからつぎへとのむクセがある。菓子のように、薬をのんでしまう。

 そういう兄を見ていると、同情心と嫌悪感が、同時に心の中に起きてくるのがわかる。「かわ
いそうだ」という思いと、「いいかげんにしてくれ」という思いである。交互にその二つの感情が
顔を出す。そのつど、自分をなぐさめなければならない。

 今朝は、自分の手荷物を箱につめて、「N町(郷里)へ帰りたい」と涙声で言った。しかし近所
でも、いろいろトラブルを起こした。今さら、帰すわけにもいかない。地元の自治会長にも、そう
言われている。

 兄のボケの特徴は、自己管理能力がゼロに等しいこと。数学や、国語的な能力は、小学3〜
4年生程度にはある。しかし善悪の判断ができない。そのため、約束が、まったく守れない。
「約束」という言葉の意味すらわからないのでは?

 その兄がときどき、家出をするようになった。今朝もした。しかたないので、クツや履物をすべ
て、片づけた。それでも出て行くようなら、もう一つ、カギをつけるしかない。さらに警報機も。

 こうなったら、本当に知恵くらべ。どこまでできるかわからないが、その知恵くらべをするしか
ない。

 だれしも、老いとともに、ボケる。あなたも、私も、だ。例外は、ない。それは不可避的な運命
かもしれない。しかしそういう運命を見ていると、「人は何のために生きているのか」ということ
まで考えてしまう。

 まあ、ここは、ほがらかに、ボケぶりを楽しむしかない。ついでに、いろいろと、私自身の勉強
のために、観察させてもらうしかない。がんばります!

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【自然について、考えよう!】

 このところ、毎日のように、地球温暖化のニュースが、報道されています。NHKテレビでも、
特集を組んでいました(05年1月)。

 状況は、かなり深刻なようですね。「このままでは、地球はどうなるのだろう?」と心配しておら
れる方も多いと思います。私もその1人ですが、みなさんは、いかがですか。私のことよりという
より、つぎの世代、つぎのつぎの世代の人たちのことを考えると、クラ〜イ気持ちになってしま
います。

 少し、自然について、考えてみます。

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●ブッシュ・ファイア(山火事)

 1月12日。南オーストラリア州での、ブッシュ・ファイア(山火事)のニュースが入った。さっそ
く、南オーストラリア州の友人に、事情を問い合わせる。その返事が、届いた。

All is well in Bxxxx. A very nasty day yesterday
though. Over 40 degrees with a strong dry wind from the
northwest. Two major fires in SA. One in the hills close to
Adelaide which caused the main road to the Southeast to be
closed. No loss of life there fortunately.

The other fire was really bad. 10 people killed and another
10 not yet accounted for. This fire was on the Eyre
Peninsular a little north of Port Lincoln. About 1000km from
here. Hopefully the Country Fire Service can get the fire
under control today while the weather is a little cooler.
Tomorrow is expected to be hot again.

Bxxx町は、だいじょうぶだ。
昨日(11日)は、ひどい日だった。北西(砂漠)からの
乾いた風とともに、気温が40度を超えた。
南オーストラリア州での二つの火事だが、一つは。アデレードの
近くで起きた。アデレードから、南東への道路が封鎖された。
幸いにも、人命の損傷はなかった。

もう一つは、たいへんひどいものだ。10人が殺され、さらに10人が
不明。ポートリンカーンの少し北の、アイア半島での火事だ。ここからは
1000キロ離れている。
幸いにも、山火事救助隊が、今日は、火事をコントロールしているようだし、
気温も、少し低くなった。明日は、再び、暑くなるといわれている。

++++++++++++++++++

 オーストラリアのブッシュ・ファイアは、日本の山火事とは、スケールが違う。一度で、東京都
の面積分くらいが、燃えてしまう。夏になると、そのブッシュ・ファイアが、よく起こる。

 それにしても、気温、40度とは! 友人は、ドイツ系の白人だから、暑さには、弱いはず。

 外国へ出て、「自然を大切にしましょう」などと言うと、「お前は、アホか」と、言われることがあ
る。彼らにしてみれば、自然は、戦うべき相手であって、守るべき相手ではない。(「野生動物
を守ろう」とか、「野生植物を守ろう」とかいう言い方なら、理解してもらえる。)つまり彼らは、そ
れだけ自然のきびしさを知っている。

 で、このところの地球温暖化で、「自然災害」という言葉が、よく使われるようになってきた。自
然も災害をもたらすというわけである。……となると、「自然を守る」ということは、どういうことな
のか、よくわからなくなる。

 何をもって、自然といい、その自然というのは、どう守ったらよいのか?

 要するに開拓、開発は、最小限にして、現状維持をするということか? 山の中を車で走りな
がら、「自然はいいわね」では、自然保護を子どもに教えたことにはならない。

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少し前に書いた原稿を載せます。
過激な意見です。

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●自然教育について(1)

 「自然を大切にしましょう」「自然はすばらしい」という意見を聞くたびに、私は「日本人は、どう
してこうまでオメデタイのだろう」「どうしてこうまで井の中の蛙(かわず)で、世間(=世界)知ら
ないのだろう」と思ってしまう。

ほとんどの国では、自然は人間に害を与える、戦うべき相手なのだ。ブラジルでもそうだ。彼ら
はあのジャングルを「愛すべき自然」とはとらえていない。彼らにすれば、自然は、「脅威」であ
り、「敵」なのだ。

このことはアラブの砂漠の国へ行くと、もっとはっきりする。そういう国で、「自然を大切にしまし
ょう」「自然はすばらしい」などと言おうものなら、「お前、アホか?」と笑われる。

 日本という国の中では、自然はいつも恵みを与えてくれる存在でしかない。そういう意味で、
たしかに恵まれた国だと言ってもよい。しかしそういう価値観を、世界の人に押しつけてはいけ
ない。そこで発想を変える。

 オーストラリアの学校には、「環境保護」という科目がある。もう少しグローバルな視点から、
地球の環境を考えようという科目である。そして一方、「キャンピング」という科目もある。私が
ある中学校(メルボルン市ウェズリー中学校)に、「その科目は必須(コンパルサリー)科目です
か」と電話で問いあわせると、「そうです」という返事がかえってきた。

このキャンピングという科目を通して、オーストラリアの子どもは、原野の中で生き抜く術(す
べ)を学ぶ。

ここでも、「自然は戦うべき相手」という発想が、その原点にある。

 もちろんだからといって、私は「自然を大切にしなくてもいい」と言っているのではない。しかし
こういうことは言える。だいたい「自然保護」を声高に言う人というのは、都会の人だということ。
自分たちでさんざん自然を破壊しておいて、他人に向かっては、「大切にしましょう」と。破壊し
ないまでも、破壊した状態の中で、便利な生活(?)をさんざん楽しんでいる。

こういう身勝手さは、田舎に住んで、田舎人の視点から見るとわかる。ときどき郊外で、家庭菜
園をしたり、植樹のまねごとをする程度で、「自然を守っています」などとは言ってほしくない。そ
ういう言い方は、本当に、田舎の人を怒らせる。

そうそう本当に自然を大切にしたいのなら、多少の洪水があったくらいで、川の護岸工事など
しないことだ。自然を守るということは、自然をあるがまま受け入れること。それをしないで、
「何が、自然を守る」だ!

 自然を大切にするということは、人間自身も、自然の一部であることを認識することだ。この
ことについては、書くと長くなるので、ここまでにしておくが、自然を守るということは、もっと別の
視点から考えるべきことなのである。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●自然教育について(2)

 世界の中でも、たまたま日本が、緑豊かな国なのは、日本人がそれだけ自然を愛しているか
らではない。日本人がそれを守ったからでもない。

浜松市の駅前に、Aタワーと呼ばれる高層ビルがある。ためしにあのビルに、のぼってみると
よい。45階の展望台から見ると、眼下に浜松市が一望できる。が、皮肉なことに、そこから見
る浜松市は、まるでゴミの山。あそこから浜松市を見て、浜松市が美しい町だと思う人は、まず
いない。

 このことは、東京、大阪、名古屋についても言える。ほうっておいても緑だけは育つという国
であるために、かろうじて緑があるだけ。「緑の破壊力」ということだけを考えるなら、日本人が
もつ破壊力は、恐らく世界一ではないのか。

今では山の中の山道ですら、コンクリートで舗装し、ブロックで、カベを塗り固めている。そうい
う現実を一方で放置しておいて、「何が、自然教育だ」ということになる。

 私たちの自然教育が自然教育であるためには、一方で、日本がかかえる構造的な問題、さ
らには日本人の思考回路そのものと戦わねばならない。構造的な問題というのは、市の土木
予算が、20〜30%(浜松市の土木建設費)もあるということ。

日本人の思考回路というのは、コンクリートで塗り固めることが、「発展」と思い込んでいる誤解
をいう。

たとえばアメリカのミズリー川は、何年かに一度は、大洪水を起こして周辺の家屋を押し流して
いる。2000年※の夏にも大洪水を起こした。しかし当の住人たちは、護岸工事に反対してい
る。

理由の第一は、「自然の景観を破壊する」である。そして行政当局も、護岸工事にお金をかけ
るよりも、そのつど被害を受けた家に補償したほうが安いと計算して、工事をしないでいる。
今、日本人に求められているのは、そういう発想である。

 もし自然教育を望むなら、あなたも明日から、車に乗ることをやめ、自転車に乗ることだ。ク
ーラーをとめ、扇風機で体を冷やすことだ。そして土日は、山の中をゴミを拾って歩くことだ。

少なくとも「教育」で、子どもだけを作り変えようという発想は、あまりにもおとなたちの身勝手と
いうもの。そういう発想では、もう子どもたちを指導することはできない。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

自然教育について(3)

 五月の一時期、野生のジャスミンが咲き誇る。甘い匂いだ。それが終わると野イチゴの季
節。そしてやがて空をホトトギスが飛ぶようになる……。

 浜松市内と引佐町T村での二重生活をするようになって、もう12年になる。週日は市内で仕
事をして、週末はT村ですごす。距離にして車で40分足らずのところだが、この二つの生活は
まるで違う。市内での生活は便利であることが、当たり前。T村での生活は不便であることが、
当たり前。

大雨が降るたびに、水は止まる。冬の渇水期には、もちろん水はかれる。カミナリが落ちるた
びに停電。先日は電柱の分電器の中にアリが巣を作って、それで停電した。道路舗装も浄化
槽の清掃も、自分でする。

こう書くと「田舎生活はたいへんだ」と思う人がいるかもしれない。しかし実際には、T村での生
活の方が楽しい。T村での生活には、いつも「生きている」という実感がともなう。庭に出したベ
ンチにすわって、「テッペンカケタカ」と鳴きながら飛ぶホトトギスを見ていると、生きている喜び
さえ覚える。

 で、私の場合、どうしてこうまで田舎志向型の人間になってしまったかということ。いや、都会
生活はどうにもこうにも、肌に合わない。数時間、街の雑踏の中を歩いただけで、頭が痛くな
る。疲れる。排気ガスに、けばけばしい看板。それに食堂街の悪臭など。いろいろあるが、とも
かくも肌に合わない。

田舎生活を始めて、その傾向はさらに強くなった。女房は「あなたも歳よ…」というが、どうもそ
れだけではないようだ。私は今、自分の「原点」にもどりつつあるように思う。私は子どものこ
ろ、岐阜の山奥で、いつも日が暮れるまで遊んだ。魚をとった。そういう自分に、だ。

 で、今、自然教育という言葉がよく使われる。しかし数百人単位で、ゾロゾロと山間にある合
宿センターにきても、私は自然教育にはならないと思う。かえってそういう体験を嫌う子どもす
ら出てくる。自然教育が自然教育であるためには、子どもの中に「原点」を養わねばならない。
数日間、あるいはそれ以上の間、人の気配を感じない世界で、のんびりと暮らす。好き勝手な
ことをしながら、自活する。そういう体験が体の中に染み込んではじめて、原点となる。

 ……私はヒグラシの声が大好きだ。カナカナカナという鳴き声を聞いていると、眠るのも惜しく
なる。今夜もその声が、近くの森の中を、静かに流れている。
(はやし浩司のサイト:http://www2.wbs.ne.jp/~hhayashi/)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ゆがんだ自然観

 もう30年以上も前のことだが、こんな詩を書いた女の子がいた(大阪市在住)。

「夜空の星は気持ち悪い。ジンマシンのよう。小石の見える川は気持ち悪い。ジンマシンのよ
う」と。

当時、この詩はあちこちで話題になったが、基本的には、この「状態」は今も続いている。小さ
な虫を見ただけで、ほとんどの子どもは逃げ回る。落ち葉をゴミと考えている子どもも多い。自
然教育が声高に叫ばれてはいるが、どうもそれが子どもたちの世界までそれが入ってこない。
 
「自然征服論」を説いたのは、フランシスコ・ベーコンである。それまでのイギリスや世界は、人
間世界と自然を分離して考えることはなかった。人間もあくまでも自然の一部に過ぎなかった。
が、ベーコン以来、人間は自らを自然と分離した。分離して、「自然は征服されるもの」(ベーコ
ン)と考えるようになった。それがイギリスの海洋冒険主義、植民地政策、さらには1740年に
始まった産業革命の原動力となっていった。

 日本も戦前までは、人間と自然を分離して考える人は少なかった。あの長岡半太郎ですら、
「(自然に)抗するものは、容赦なく蹴飛ばされる」(随筆)と書いている。

が、戦後、アメリカ型社会の到来とともに、アメリカに伝わったベーコン流のものの考え方が、
日本を支配した。その顕著な例が、田中角栄氏の「列島改造論」である。日本の自然はどんど
ん破壊された。埼玉県では、この40年間だけでも、30%弱の森林や農地が失われている。

 自然教育を口にすることは簡単だが、その前に私たちがすべきことは、人間と自然を分けて
考えるベーコン流のものの考え方の放棄である。もっと言えば、人間も自然の一部でしかない
という事実の再認識である。

さらにもっと言えば、山の中に道路を一本通すにしても、そこに住む動物や植物の了解を求め
てからする……というのは無理としても、そういう謙虚さをもつことである。少なくとも森の中の
高速道路を走りながら、「ああ、緑は気持ちいいわね。自然を大切にしましょうね」は、ない。

そういう人間の身勝手さは、もう許されない。

++++++++++++++++++++++++++

友人からのメールをもらって、改めて、自然について、考えてみた。

とても恐ろしいことだが、地球規模の環境異変は、ますます加速されているようだ。

ちょうど1年前の今日、書いた原稿をそのまま載せます。状況は何も
変わっていません。多分、来年も、何も変わらないでしょう。

++++++++++++++++++++++++++

●異常気象?

今年の冬も暖かい?

地球温暖化は、進んでいるのか?

30年程前には、オーストラリアのメルボルンは、世界でももっとも住みやすい場所ということに
なっていた。春夏秋冬を通して、一年中、気候が温暖で、かつ、寒暖の差が、あまりなかった。

 しかしここ10年、その気候は、大きく変わった。とくにこの4、5年、夏になると、気温が40度
を超えることも珍しくない。そして今年、つまり今のことだが、メルボルンに住むD君のメールに
よると、「100年来の、記録的な猛暑だ」という。

 日本は、ラッキーな国だ。四方を海に囲まれ、中央には、3000メートル級の山々が連なって
いる。この地形的な特徴のため、気候が、ほかの地域にくらべて、穏やかに保たれている。
が、オーストラリアには、大きな砂漠がある。この砂漠で熱せられた熱波が、メルボルンのよう
な海岸線にある都市を、襲う。

 去年の夏、ヨーロッパ大陸を襲った熱波は、まだ記憶に新しい。フランスなどは、記録的な猛
暑で、何百人という人が、熱射病で死んでいる。日本はその分、冷夏だったが、しかし冷夏と
言い切ってよいのか。50年前の日本の夏は、毎年、そうだった。

 私が子どものころには、夏の盆が過ぎると、突然、冷たい風が吹き始め、川へ入ることすら
できなかった。今とくらべても、夏は、ずっと短かったように思う。が、今では、9月に入っても、
気温が30度を超えることも、珍しくない。数年前には、10月に入っても、30度を超えていた!

 気象庁は、よく、「平年」という言葉を使うが、あれは、過去30年間の平均気温をいう。30年
ごとに、気温が、一度ずつあがっても、「平年並み」ということになってしまう。

 地球の温暖化が進んでいることは、もうだれの目にも疑いようがない。しかもその進行速度
は、学者たちが予想しているよりも、はるかに速い。このまま進めば、西暦2100年を待たず
して、地球の気温は、300度とか、400度になるかもしれない。そんな説も、実際に、ないわけ
ではない。

 こうした地球温暖化を防ぐために、いろいろな会議が開かれている。そしていろいろな方策
が考えられている。人間の英知が、この問題を解決することを、私は願うが、しかし科学者だ
けに任せておくことはできない。私たちは私たちで、しておくべきことがある。

 つまり、心の準備である。

 やがてこの地球上では、人類がかつて経験したことがないような、地獄絵図が繰りひろげら
れることになるかもしれない。気温が300度とか、400度とかになることはないにしても、平均
気温が数度あがっただけで、この日本でさえ、夏には、灼熱(しゃくねつ)地獄になる。仮に日
中の気温が、45〜50度になれば、クーラーさえ、きかなくなる。

 そのとき、私たちは、どういう行動をするだろうか。

 灼熱の暑さで苦しんでいる人を助け、励ますだろうか。それとも、我こそはと、より涼しい場所
を求めて、その場所を奪いあうだろうか。どちらであるにせよ、これだけは言える。

 そういう「最期のとき」が来たとき、(あくまでも仮定の話だが……)、私たちはその最期を、静
かに、迎え入れることができるよう、心の準備をしておかねばならないということ。そのとき、あ
わててジタバタしても、始まらない。なぜなら、今、私たちは、あまりにも好き勝手なことをしすぎ
ている。

 そういう好き勝手なことを、し放題しておきながら、温暖化は困るというのは、あまりにもムシ
がよすぎる。

 一つの方法は、今から、私たちは、できることをする。一つは、地球温暖化に結びつくような
ことはしない。もう一つは、あとで悔いが残らないように、懸命に生きる。懸命に生きて、生き抜
く。そうすれば、仮に最期のときがきても、その最期を、安らかな気持で迎え入れることができ
る。

 何とも暗いエッセーになってしまった。しかし、安心してほしい。

 すでにいくつかの方法が、考えられている。宇宙空間に、亜硫酸ガスをまいて、太陽光線を
遮断するという方法など。どこかSF的だが、そのときがくれば、人間も、必死で、その打開策を
考える。地球の温暖化を、最後の最後のところでくい止める方法は、ないわけではない。

 が、それでも失敗したら……。

 何%かの人類を、宇宙空間へ避難させるという方法もあるし、同じく、地下都市に住むという
方法もある。地球温暖化を前提としたような実験も、世界中で始まっている。

 が、それでも失敗したら……。

 かつて恐竜が絶滅したように、人類も絶滅するかもしれない。しかしそのときでも、わずかな
生命の痕跡(こんせき)は残り、それが次世代の生命として、進化していくかもしれない。たとえ
ばゴキブリ。

 あのゴキブリは、生き残り、一億年後か、二億年後かに、進化して、今の人間のようになるか
もしれない。なって、社会をつくり、文化を発展させるかもしれない。もちろん学校もつくる。そし
て、ある日、ゴキブリの先生が、子どもたちに向かってこう言う。

 「みなさん、これからヒトの骨の発掘調査に行きましょう。もなさんも、ご存知のように、今から
二億年前、この地上には、ヒトと呼ばれる大きな生き物が住んでいました。

 愚かな生物で、殺しあったり、奪いあったりしているうちに、環境を、自ら破壊してしまい、結
局は絶滅してしまいました。

 そのとき私たちの祖先は、ヒトに嫌われ、見つけられると、すぐ殺されました。私たちの祖先
は、ヒトには、嫌われていたのですね。

 さあ、みなさん、ここにあるのが、そのヒトの骨です。大きいでしょう。足の大きさだけでも、皆
さんの数百倍はあります。二億年前には、こんな大きな生物が、この地上を、ノシノシと歩いて
いたのですね」と。

 それを聞いた、ゴキブリの子どもたちは、こう言って、歓声をあげる。

 「ワー、これがそのヒトの骨〜エ? 大きいなア」と。

 すると先生が、またこう言う。

 「そう、それは、ヒトの中でも、バカナヒトザウルスの骨です。発掘調査により、この骨のヒト
は、名前もわかっています。で、その名前は、ええとですね、ハヤシ・ヒロシという名前だったそ
うです」と。

 最後の部分は、冗談だが、しかしこの宇宙では、二億年なんて、一瞬。星がキラリとまばたき
する間にすぎる。かつて恐竜の時代には、私たちの先祖がネズミのような生き物だったことも
考えれば、何も、「命」を、人間だけにこだわることもない。

 つまりそういう視点も、忘れてはならない。これが私がいう、「心の準備」ということになる。

 しかし……。私たちは、よい。一応、それなりに人生を楽しむことができた。しかしこれからの
子どもたちのことを考えると、正直言って、気が重くなる。私たちが好き勝手なことをしたおか
げで、子どもたちが、あるいは私たちの孫たちが、その地獄絵図を見ることになるかもしれな
い。

 何とも申しわけない気持になるのは、私だけか……?
(はやし浩司 自然教育 自然 環境破壊 地球温暖化 バカナヒトザウルス)


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【日本の常識、世界の非常識】

●「子はかすがい」論……たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよく
ある。夫婦のきずなも、それで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならな
い。夫婦関係がこわれかかっているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、
子はまさに「足かせ」でしかない。日本には「子は三界の足かせ」という格言もある。

●「親のうしろ姿」論……生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では
「子は親のうしろ姿を見て育つ」というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がい
る。「親のうしろ姿は見せろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見
せたくなくても、子どもは見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)
恩着せがましい子育て、お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとす
る。

●「親の威厳」論……「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場に
いるものには、居心地のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。
その分だけ上のものの前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというも
のは、百害あって一利なし。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権
威」などというのは、封建時代の遺物と考えてよい。

●「育自」論……よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちが
ってはいないが、子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越
え、谷を越えている間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん
人間として、外の世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係
のないこと。子育てにかこつける必要はない。

●「親孝行」論……安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的
な「孝行」を子どもに求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも
子どもの問題。子どもの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。た
がいにやさしい、思いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲にな
るのも、子どもが親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。あくまでも「尊敬する」「尊
敬される」という関係をめざす。

●「産んでいただきました」論……よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきまし
た」「言葉を教えていただきました」と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そう
いうふうに思わせてしまったその人の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして
恩着せがましい子育てをしながら、無意識のうちにも、子どもにそう思わせてしまう。いわゆる
依存型子育てというのが、それ。

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●「水戸黄門」論……日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっ
ているかといっても、身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=
巨悪)にどっぷりとつかりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわ
からないほどまで、この権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ
伏せさせる前に、その矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いこと
をしようとしたら、どんなことでもできる。それこそ19歳の舞妓を、「仕事のこやし」と称して、手
玉にして遊ぶこともできる。(某歌舞伎役者、日本では人間国宝)

●「釣りバカ日誌」論……男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。そ
の背景にあるのが、「男は仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」
と。しかしこれこそまさに、世界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食
い(パーティ)をするときは、妻の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすと
いうことは、ありえない。そんなことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、
ゆがんだ男性観が、その基本にあるとみる。

●「MSのおふくろさん」論……夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族
は、世界広しといえども、そうはいない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人
だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論には
じゅうぶん注意したほうがよい。マザコン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマ
ザコン性を正当化する傾向がある。

●「かあさんの歌」論……K田聡氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)
は、かっこ(「」)つきになっている。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」
「♪おとうは土間で藁打ち仕事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待
ってるよ」と。しかしこれほど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙
を書くとしたら、「♪村の祭に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買
っておいたよ」「♪おとうは居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村の
みんなと温泉に行ってくるよ」だ。

●「内助の功」論……封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いら
れた。しかしこの言葉ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるま
でもない。しかし問題は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約二
三%の女性が、「それでいい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。

※……全国家庭動向調査(厚生省九八)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」
という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。

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 M進一が歌う『おふくろさん』は、よい歌だ。あの歌を聞きながら、涙を流す人も多い。しかし
……。日本人は、ちょうど野生の鳥でも手なずけるかのようにして、子どもを育てる。これは日
本人独特の子育て法と言ってもよい。

あるアメリカの教育家はそれを評して、「日本の親たちは、子どもに依存心をもたせるのに、あ
まりにも無関心すぎる」と言った。そして結果として、日本では昔から、親にベタベタと甘える子
どもを、かわいい子イコール、「よい子」とし、一方、独立心が旺盛な子どもを、「鬼っ子」として
嫌う。

 こうした日本人の子育て観の根底にあるのが、親子の上下意識。「親が上で、子どもが下」
と。この上下意識は、もともと保護と依存の関係で成り立っている。

親が子どもに対して保護意識、つまり親意識をもてばもつほど、子どもは親に依存するように
なる。こんな子ども(年中男児)がいた。

生活力がまったくないというか、言葉の意味すら通じない子どもである。服の脱ぎ着はもちろん
のこと、トイレで用を足しても、お尻をふくことすらできない。パンツをさげたまま、教室に戻って
きたりする。

あるいは給食の時間になっても、スプーンを自分の袋から取り出すこともできない。できないと
いうより、じっと待っているだけ。多分、家でそうすれば、家族の誰かが助けてくれるのだろう。
そこであれこれ指示をするのだが、それがどこかチグハグになってしまう。こぼしたミルクを服
でふいたり、使ったタオルをそのままゴミ箱へ捨ててしまったりするなど。

 それがよいのか悪いのかという議論はさておき、アメリカ、とくにアングロサクソン系の家庭で
は、子どもが赤ん坊のうちから、親とは寝室を別にする。「親は親、子どもは子ども」という考え
方が徹底している。こんなことがあった。

一度、あるオランダ人の家庭に招待されたときのこと。そのとき母親は本を読んでいたのだ
が、五歳になる娘が、その母親に何かを話しかけてきた。母親はひととおり娘の話に耳を傾け
たあと、しかしこう言った。「私は今、本を読んでいるのよ。じゃましないでね」と。

 子育ての目標をどこに置くかによって育て方も違うが、「子どもをよき家庭人として自立させる
こと」と考えるなら、依存心は、できるだけもたせないほうがよい。

そこであなたの子どもはどうだろうか。

依存心の強い子どもは、特有の言い方をする。「何とかしてくれ言葉」というのが、それである。
たとえばお腹がすいたときも、「食べ物がほしい」とは言わない。「お腹がすいたア〜(だから何
とかしてくれ)」と言う。

ほかに「のどがかわいたア〜(だから何とかしてくれ)」と言う。もう少し依存心が強くなると、こう
いう言い方をする。
私「この問題をやりなおしなさい」
子「ケシで消してからするのですか」
私「そうだ」
子「きれいに消すのですか」
私「そうだ」
子「全部消すのですか」
私「自分で考えなさい」
子「どこを消すのですか」と。

実際私が、小学四年生の男児とした会話である。こういう問答が、いつまでも続く。

 さてM進一の歌に戻る。よい年齢になったおとなが、空を見あげながら、「♪おふくろさんよ…
…」と泣くのは、世界の中でも日本人ぐらいなものではないか。よい歌だが、その背後には、日
本人独特の子育て観が見え隠れする。一度、じっくりと歌ってみてほしい。

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最前線の子育て論byはやし浩司(512)

【雑感・あれこれ】

●1ドルが、2000ウオン!

 K国の通貨が、1ドル、2000ウオンまで下落したという(「朝鮮日報」1月)。ヤミ市場といって
も、実勢の通貨レート。(公式レートもあるにはあるが、それは、K国が勝手に定めた、インチ
キレート。)

 つまり2000ウオンは、1ドルの価値しかないということ。

 K国の一般労働者の月額の平均賃金は、2500ウオンだから、アメリカドルに換算すると、1
ドル25セント。日本円になおすと、130円(1ドル=104円で計算)。たったの130円だぞ! 
平均賃金が、130円。半年前の約半額にさがってしまった!

 K国のヤミ市場では、米10キログラムが、7500ウオン。一般労働者の3か月分の給料で、
やっと10キログラムが買えることになる。冬の必需品の練炭(れんたん)にしても、一個、300
ウオン。練炭を8個買ったら、その月の給料は、パー。K国の貧しさは、想像以上のものらし
い。

 「コメ価格が1キロあたり500ウオンを超えると、下層民は飢え死にするほかない」と、ある脱
北者は答えているという(同)。

 かたやこの日本では、経済制裁の大合唱。もちろんK国に対して、である。しかしあんなK国
を相手にしてはいけない。また本気で相手にすべき国ではない。経済制裁ということになれ
ば、K国は、制裁以上の制裁、つまり地獄の制裁を受けている。

 ここは冷静に。務めて冷静に。事務的に、どこまでも事務的に、追いつめればよい。感情的
になる必要はない。あとは国際協調を大切にしながら、ジワジワとしめあげていく。金XX体制
が崩壊しないかぎり、拉致問題は解決しない。
 

●悪魔性

 人の不幸な話ほど、楽しいものはない。……という悪魔性は、だれにでもあるものか。私の
知っている人に、いつも他人の悪口ばかりを言っている人がいた。そのとき、60歳くらいでは
なかったか。女性だった。

 「あのAさんの父親は、窃盗罪で逮捕されたことがある」
 「Bさんの家の長男は、離婚歴がある」
 「Cさんは、かなりあくどいことをして、金をもうけたそうだ」と。

 一般論として、世間体を気にする人は、相対的な尺度で、自分の位置を決める。隣の人よ
り、収入が多ければ、金持ちであり、隣の人より、収入が少なければ、貧乏である、と。もちろ
ん隣の人が幸福だと、自分は不幸と感じ、反対に、隣の人が不幸だと、自分は幸福と感ずる。

 その結果として、いつも自分より、「下」の人ばかりを見るようになる。そのほうが、居心地が
よいからである。そしてさらにその結果として、ここでいう悪魔性をもつようになる。「他人の不
幸ほど、楽しいものはない」と。

 そこで私や、あなた自身は、どうかということになる。

 たとえばここにたいへん不幸な人がいる。経済的にも家庭的にも、恵まれず、苦労の連続。
おまけにその人自身も、大きな精神的な問題をかかえている。

 そういう話を聞いたときの心理的反応は、つぎの6つのタイプに分類できる。

(1)自己確認タイプ(「自分でなくてよかった」と納得する。)
(2)同情共鳴タイプ(「かわいそうだ」「何とかしてあげたい」と思う。)
(3)嘲笑侮蔑タイプ(「バカだなあ」「相手にしない」と笑ったりする。)
(4)無視排斥タイプ(「私には関係ない」「他人の話」と逃げてしまう。)
(5)学習利用タイプ(「どうしてだろう?」「自分ならどうするか」と考える。)
(6)妄想不安タイプ(「人ごととは思えない」と、悶々と悩んだり、心配したりする。)

 言いかえると、他人の不幸な話を聞いたときの、自分の心の中の反応を知ることで、自分自
身の人格の完成度を知ることができる。言うまでもなく、「人の不幸な話ほど、楽しいものはな
い」と思っている人は、きわめて人格の完成度の低い人ということになる。

 つぎの話を読んで、あなたはどう感ずるだろうか。

【テスト】

 X氏(47歳)は会社をリストラされた。そのとき得た退職金を使って、市内に小さな事務所を
開いた。しかし折からの不況で、半年後には、多額の借金をかかえて閉鎖。そのころ、妻は、
二人の娘(小6と小2)を連れて、家を出た。X氏は、酒に溺れるようになり、スナックで暴力事
件を引き起こし、傷害罪で逮捕。そのショックで、X氏は、緑内障になり、右目の視力を、ほとん
どなくしてしまった。

 この話を読んだとき、あなたの心の中では、どのように感じただろうか。どのような反応が起
きただろうか。上の(1)〜(6)を、人格の完成度の応じて並べなおしてみると、こうなる。上の
位置の人ほど、人格の完成度が、低いということになる。

★嘲笑侮蔑タイプ(「バカだなあ」「相手にしない」と笑ったりする。)
★無視排斥タイプ(「私には関係ない」「他人の話」と逃げてしまう。)
★自己確認タイプ(「自分でなくてよかった」と安心する。)
☆学習利用タイプ(「どうしてだろう?」「自分ならどうするか」と考える。)
☆妄想不安タイプ(「人ごととは思えない」と、悶々と悩んだり、心配したりする。)
☆同情共鳴タイプ(「かわいそうだ」「何とかしてあげたい」と思う。)
☆(神性タイプ)(神々しい包容力で、他人の不幸を共有できる。)

 ここで重要なことは、人格の完成度の低い人からは、高い人がわからない。しかし人格の高
い人からは、低い人がよくわかる。それはちょうど、山登りに似ている。低い位置にいる人に
は、山の上からの景色がわからない。自分がどこにいるかさえわからない。

しかし高い位置にいる人は、低い位置の人がどこにいるか、手に取るようにわる。当然、視野
も広くなる。(だからといって、私がその視野の高い人というわけではない。自分でも、そうなり
たいと願っている。念のため!)

 さらに人格の完成度の低い人は、たいていのばあい、自分の(低さ)にすら、気づくことがな
い。ないばかりか、自分を基準にしてものを考え、「他人もそうだ」と決めてかかる傾向が強
い。
 
 冒頭にあげた女性も、いつも、こう言っていた。

 「他人の心なんて、信用できない」
 「人はみな、タヌキだ」
 「渡る世間は、鬼ばかり」と。

 どこかさみしい人生観になる。

 しかし人格の「格」をあげるということは、むずかしいことではない。ないが、しかし勇気のいる
ことである。たとえば奉仕活動(ボランティア活動)をしたことがない人は、奉仕活動をすること
自体を、「損」と考える。

 子どもの世界でも、こんなことを言った高校生がいた。「生徒会活動をするヤツは、バカだ。
受験勉強ができなくなる」と。幼児でも、「スリッパを並べてくれない?」と声をかけただけで、
「どうして、ぼくがしなければいけないのか!」と言いかえしてくる子どもがいる。

 そうしたレベルの低い人生観を変えることは、簡単なことだ。自ら進んで、奉仕活動をしてみ
ればよい。しかしそこには、大きなカベがある。そのカベを越える力が、勇気ということになる。

最初、これは私の経験だが、そういう自分が、バカに見えてくる。バカらしさを感ずる。それは
たとえて言うなら、他人のあとをついて歩きながら、その他人が捨てるゴミを拾って歩くようなバ
カらしさである。

 そのバカらしさを越えるためには、勇気が必要である。

 こうして私たちは、自分の中の悪魔性と戦っていく。よく誤解されるが、よいことをするから善
人というわけではない。悪いことをしないから、善人というわけでもない。人は、自ら、その悪と
戦って、善人になる。

 実のところ、私の中にも、悪魔性がある。ないとは思わない。ときに、他人の悪口ほど、楽し
いものはないと思うこともある。「あいつはアホだ」「こいつはバカだ」と、ワイフと笑いながら話し
こむこともある。私は、決して、善人ではない。それにもともと、生まれが生まれだから、それほ
どの善人になれるとも思っていない。期待していない。

 しかしこれだけは言える。

 明るく、朗らかに、楽しく人生を生きるためには、自分の中に潜む悪魔性は、敵である。戦う
べき、敵である。その悪魔性に毒されると、人生そのものをムダにする。事実、冒頭にあげた
女性は、見るからに醜悪な顔をしていた。今、その女性を思い出しながら、「私は、ああはなり
たくない」と思っている。
(はやし浩司 悪魔性 人格の完成度 人格 善人論)


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●心を洗う

 幼児と接していると、ときどき「すばらしい!」と実感するときがある。幼児と接することができ
るものだけが覚える、感動と言ってもよい。その「すばらしさ」には、3つある。

(1)心を洗ってもらえる。
(2)生きるエネルギーを与えられる。
(3)命の原点を教えられる。

 ほかにもいろいろあるが、私は、(1)の「心を洗ってもらえる」を、その第一にあげる。

 幼児の世界では、不正、不平等、不公平、不公正、インチキは、いっさい、通用しない。少し
でも、そういう様子を見せると、子どもたちは、すぐ反応する。「先生は、ズルイ!」と。

 そう言われたとたん、私は、ハッと、自分を見なおす。修正する。それが「心を洗う」ということ
になる。昨日(1・12)も、こんなことがあった。

 A君(年中児)が、やっと数字が書けるようになった。そこで私がA君の書いた数字に、大きな
花丸を描いてやった。するとそれを横で見ていたB君が、「どうしてA君のは、花丸で、ぼくの
は、丸だけなの?」と。

 そこで私はあわてて、「ごめん」「ごめん」と言いながら、B君の書いた数字に花丸を描いてや
った。

 毎日というより、すべての瞬間が、そういう(美しさ)に包まれている。幼児の世界は、そういう
意味では、純粋。汚(けが)れを知らない。

 で、私はレッスンの途中で、ふと、こんなことを言ってしまった。

私「おとなになるほど、心が汚くなるんだよ」
子「……?」
私「君たちも、今の心を大切にしなよ」
子「……?」
私「今のまま、おとなになったら、すてきなのにね」と。

 それに引きかえ、おとなの世界は、見苦しさに、満ちあふれている。悲しいほど、満ちあふれ
ている。たとえば教室へ入るとき、クツを並べて脱ぐことを教えると、その瞬間から、幼児たち
は、それができるようになる。ほかのだれかが、雑な脱ぎ方をしたりすると、「いけないよ」と、
注意しあったりする。

 それが小学生、中学生、さらに高校生となっていくにつれて、この習慣が乱れていく。いいか
げんになる。どこかで小ズルさを、身につけてしまう。ほとんどの人は、「幼児は幼稚」と考えて
いる。しかし、これはとんでもない誤解。偏見。

 知識や経験こそ、とぼしいが、それ以外は、幼児といえども、1人の人間。喜怒哀楽の情もあ
れば、嫉妬もする。自尊心もある。名誉も、誇りも感ずる。だから私はときどき、こう思う。

 もし、人間が、すべての人間が、幼児のころの心を忘れずに、それを大切にしておとなになっ
たら、この世の中は、ずっと住みやすくなるのに、と。それを「教育だの」「しつけだの」と言っ
て、子どもの心を、こなごなになるまで破壊してしまう。しかしこれを悲劇と言わずして、何と言
う?

 大切なことは、子どもを教えようとは思わないこと。子どもに、教えを乞うこと。幼児教育とは
何かと聞かれれば、最終的には、そこへ行きつく。

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●ゆとり教育

 10年前までは、中国や韓国では、「日本に追いつけ」「日本を追い越せ」が、重要な合言葉
になっていた。が、今はちがう。「日本を叩きつぶせ」「日本は、もう相手ではない」という雰囲気
に変わってきた。

 そういう日本を取り巻く環境に、あえて背を向ける形で、数年前、日本の文部省は、「ゆとり
教育」なるものを始めた。教科内容も、約3割、削減した。

 たとえばそれまでは、小学6年になると、子どもたちは、算数の時間には、分数の割り算、掛
け算を学んだ。しかし今は、分数の足し算、引き算である。

 さらにずっと昔だが、私が中学3年生のときには、すでに、サイン、コサイン、タンジェントを学
んでいた。これらの教科内容は、現在は、高校で教えられている。

 「ゆとり教育」は、まさに時代逆行の、大愚策であった。そうでなくても子どもたちの学力は低
下し始めていた。ゆとり教育は、それに拍車をかけてしまった。

 今では、中学生でも、掛け算の九九を、使えこなせない子どもは、いくらでもいる。調査のし
方にもよるが、私は、15〜20%の中学生がそうでないかとみている。

 これからの日本が日本であるためには、教育しかない。頭脳の質で、世界をリードするしか
ない。

 もっとも、むずかしいことを教えるから、レベルが高いということにはならない。たとえば今、幼
稚園でも、掛け算の九九を教えているところがある。九九を丸暗記させているだけだが、だか
らといって、その幼稚園の教育レベルが高いということにはならない。

 それはわかる。

 しかし実際には、教育の質そのものが、低下している。教育というよりも、教育力が、低下し
てきている。たとえば20年前だと、小学2年の段階で、掛け算の九九ができなかったりすると、
先生たちは、残り勉強をさせてでも、子どもたちにそれを教えた。掛け算の九九があやしいと、
そのあとのあらゆる学習に影響を与えるからである。

 だから教える先生も必死だったが、それを学ぶ子どもたちも必死だった。

 しかし今は、そういう光景は、ほとんど、見られなくなった。「教えるべきことは、教えます。そ
のあと、覚えるか覚えないかは、子どもの問題です」(たしかに、そうだが……)と。先生自身が
逃げてしまう。

 子どもたちも、掛け算の学習が終わるとそのまま、数週間後には、九九すら忘れてしまう。

 いや、そうでなくても、学校の先生は、いそがしい。教育はもちろん、しつけから、家庭教育指
導まで、ありとあらゆるものを、押しつけられている。ある女性教師は、こう言った。「授業中だ
けが、心を休めることができるときです」と。

 これでは質の高い教育など、望むべきもない。「ゆとり教育」というのは、結局は、先生の負
担軽減のことだったのか? ……ということになる。

 話をもどすが、この日本の教育に一番欠けるものはといえば、緊張感ではないか。教える側
にも、教えられる側にも、その緊張感がない。その緊張感をかろうじて支えているのが、受験
勉強ということになる。いろいろ言われているが、もしこの日本から、受験競争をなくしたら、進
学塾はもちろんのこと、学校教育ですら、崩壊する。

 教育に夢がない。
 教育に目的がない。
 教育に希望がない。

 そういう教育の中で、子どもたち自身も、自分の進むべき道を見失ってしまっている。では、
どうするか?

 私は何度も書いているが、教育を自由化すればよいと考えている。今のように、北海道から
沖縄まで、金太郎アメのような、画一教育をつづけているほうが、おかしい。さらに、何からな
にまで、学校に押しつけて、「しっかりと子どものめんどうをみろ」というのも、おかしい。

 子どもの多様化にあわせて、教育そのものを、自由化する。たとえばドイツやイタリアのよう
に、学校での授業はできるだけ午前中ですませ、午後からは、子どもたちが、それぞれの目的
をもって、クラブに通えるようにすればよい。政府は、そのために費用を、援助する。

 (ドイツでは、クラブの月謝は、1000円程度。子どもをもつ親には、毎月1万5000円ほど
の、チャイルド・マネーが支給されている。単純に計算すれば、1人の子どもは、そのお金で、
放課後、15のクラブに通うことができることになる。)

 大学にしても、単位を共通化すればよい。もちろん、どこの大学で、学位、修士号、博士号が
認められるかは重要だが、それはつぎのステップである。……という方向で、日本の大学教育
も進みつつあるが、その速度を、もっと加速させる。少なくとも、入学後の学部変更、大学から
大学への転籍くらいは、今すぐ、自由化すべきではないだろうか。

 これからの日本で求められるのは、その道に秀(ひい)でた、プロである。そういうプロを育て
るための教育体制をつくる。

 それを追求していけば、自ずと日本の教育の輪郭(りんかく)が見てくる。そしてその輪郭が
見えてくれば、子どもたちの間から、夢や目的や希望が生まれてくる。そしてそれが、学校教
育の活性化につながっていく。


●国際情勢

 日本を取り巻く国際情勢が、今、めまぐるしく変化している(1・14)。

 K国の核問題については、中国とK国のトップ(胡錦濤国家主席とK国の金xx総書記)交渉
で、決着がつきそうな雰囲気になってきた(時事通信1・14)。もちろんこれには、ウラがある。

胡「核開発を放棄しろ」
金「見返りは、何がある?」
胡「日本から、賠償金を取る。それに中国は、議長として、協力する」と。

 すでに金xxは、中国首脳を通して、賠償額を提示してきている。その額、驚くなかれ、400億
ドル! あるいは、それ以上。

 一方、アメリカでは、「韓国と、円満離婚すべき」という意見が台頭してきた(ケイトー(CATO)
研究所のテッド・カーペンター副所長とドグ・ベンド主任研究員)。つまり米韓関係を集結し、ア
メリカ軍は、韓国から撤退すべき、と。

 これはアメリカとしては、当然の意見である。反米国家の韓国を、命をかけてまで守らなけれ
ばならない理由は、アメリカには、ない。しかもノ大統領は、南北を平和統一(共和制統一)をし
たあと、中国の経済圏に参入することをもくろんでいる。

 で、日本は、どうすべきか。どう考えるべきか。

 まず、これから起こりうるシナリオから考えてみよう。

(中国)

 K国に核開発を放棄させたあと、K国は日本から賠償金を取る。それに中国は、側面から協
力する。日朝賠償金交渉は、北京で行われることになるだろう。

K国は、そのお金で、中国から、モノを買う。その上、中国は、最大ライバルの日本を、極東ア
ジアから、叩き落すことができる。中国にしてみれば、これほど、おいしい話はない。

(韓国)

 K国が核兵器と核兵器開発を放棄すれば、韓国は堂々と、K国と共和国樹立交渉をすること
ができるようになる。南北統一は、困る。しかし共和制ならよい。たがいに自由に行き来しなが
ら、K国内に工場をたちあげ、安い労働力をつかって、国際競争力のある製品を生産すること
できる。韓国にとっても、メリットは大きい。

(K国)

 日本からの賠償金で、経済は、息を吹きかえす。アメリカや中国からの援助も、(恐らく形だ
けの援助かもしれないが)、得ることができる。金xx体制は、ますます強固なものとなる。

(アメリカ)

 アメリカの貿易赤字というより、ドルの暴落をかろうじて支えているのは、この日本である。日
本の外貨準備高は、04年度だけで、8000億ドル近くもふえた。つまり日本は、貿易で稼いだ
お金で、アメリカのドルを、せっこらせっこらと、買い支えている。アメリカにとっても、日本は、
日本サマサマである。

もしそのうちの5%の、400億ドルでも、円に換金しただけで、アメリカのドルは、そのまま大暴
落。莫大なドル資産をもっている日本としては、それもまずい。そんなわけで、せっかく稼いだ
お金だが、使うこともできず、日本は、タンス預金しているほかはない。

(本来なら稼いだドルを円にかえ、その円を国内投資に回さねばならない。しかしそんなことを
すれば、ドルの暴落を招いてしまう。つまりは、使うに使えない、タンス預金ということになる。)

 しかしその400億ドルが、K国を経て、中国にシフトしたということなら、アメリカには、害はな
い。アメリカも、そのウラで、中朝のトップ交渉を、支援するかもしれない。

(ロシア)

 ロシアの立場は、基本的には、中国と同じ。ただイラン問題をかかえているので、中国より
は、よりアメリカに協力的。

(日本)

 以上のようなシナリオで、ことが進み始めると、日本にとっては、実に、やっかいなことにな
る。

 仮に南北朝鮮が共和制ということになれば、日本は、巨大な反日国家を、隣国にもつことに
なる。金xxは、「日本を壊滅させる」と、かねてより、繰りかえし、そう言っている。戦争のきっか
けなど、いくらでもねつ造できる。たとえば竹島(独島)を口実に、日本に攻撃をしかけること
も、可能である。

 南北の軍隊をあわせると、陸軍だけで200万人! しかもあの国の人たちは、全員、徴兵制
で鍛えられている。

 が、日本は反撃(防衛)はすることはできても、攻撃はできない。日本は、たとえて言うなら、
盾(たて)だけしかもっていない国。戦争するにしても、日本ほど、組みしやすい国はない。

 中国も、韓国も、K国が、自己崩壊することを望んでいない。K国が混乱することは、そのま
ま中国や韓国に、大被害をもたらす。しかしアメリカや日本にとっては、K国が自己崩壊するシ
ナリオが、一番、望ましい。

 ゆいいつの頼みのツナは、やはり、アメリカということになってしまう。しかし今のブッシュ政権
は、イラク戦争で、すっかり自信をなくしてしまっている。米韓関係は、崩壊寸前。表向きはとも
かくも、K国と一戦を交える元気は、もうアメリカにはない。

 日本は、今、完全にカヤの外に置かれている。中朝交渉のゆくえ、米中交渉のゆくえ、さらに
は韓国とK国の交渉を静かに見守るしかない。日本は、将棋でいったら、持ち駒をすべて使い
果たし、相手の攻撃から身をかわす程度が、精一杯。そんな状況である。

 まあ、しかたないから、何とか、400億ドル(4兆円)を、用意して、そのときに、備えるしかな
い。私は、それですむとは思っていないが……。
(05年1月14日記)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●株の買い方、私流

 インターネットで株を売買できる。瞬時にできる。便利になったものだ。

 その株の売買を、私のような素人(しろうと)がするときの鉄則は、ただ一つ。つまり、「得意
分野の株をねらえ」。

 昔、何かの本で読んだことがある。そして今も、私は、その鉄則を、しっかりと守っている。

 といっても、一民間人の悲しさ。その得意分野があまりない。出版社とか、新聞社とか、そう
いう文芸関係については、それなりに動きを知っているが、それ以外の世界のことは、よく知ら
ない。

 そこで今は、こう考えている。

 「自分が一番興味ある分野の会社の株に、しぼれ」と。

 これは私が考えた鉄則だから、あまり本気にしてもらっては困る。しかし自分が一番関心の
ある会社というのは、そのほかの多くの人たちも、関心があると考えてよい。

 たとえば……。

 私は今、新型パソコンがほしい。(まだ買ってないぞ!) そのパソコンをどれにするかで、悩
んでいるが、今は、ほとんど、M社のパソコンに決めかけている。この数か月、考えに考え抜
いた結果、そうなった。そこでM社の株を買うことにした。

 今朝、M社の株を、xxx万円分、購入した。瞬時に、である。

 私が「いい」と思った。何か月もかけて、「いい」と思った。だからその会社の製品は「いい」と
いうことになる。つまり株は、あがる、というわけである。

 実に簡単。わかりやすい。つまりこうして得意分野を、少しずつ、ふやしていく。それが私の、
若いころからの株の買い方。(いつも、結果的には、損をしているが……。ハハハ!)

 そうそうもう一つ。株は、少し儲けたら、さっと売る。へたな欲を出すと、かえって損をする。こ
れも私が考えた鉄則の一つ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【子育て一口メモ】

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携帯電話HP用に書き改めた、一口メモ集です。
少し前に送った原稿とダブりますが、お許しください。
ここでは、私たちがもっている常識を、少し疑って、
つまり別の角度から、考えなおしてみます。

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●「子はかすがい」論

たしかに子どもがいることで、夫婦が力を合わせるということはよくある。夫婦のきずなも、そ
れで太くなる。しかしその前提として、夫婦は夫婦でなくてはならない。夫婦関係がこわれかか
っているか、あるいはすでにこわれてしまったようなばあいには、子はまさに「足かせ」でしかな
い。日本には「子は三界の足かせ」という格言もある。


●「親のうしろ姿」論

生活や子育てで苦労している姿を、「親のうしろ姿」という。日本では「子は親のうしろ姿を見て
育つ」というが、中には、そのうしろ姿を子どもに見せつける親がいる。「親のうしろ姿は見せ
ろ」と説く評論家もいる。しかしうしろ姿など見せるものではない。(見せたくなくても、子どもは
見てしまうかもしれないが、それでもできるだけ見せてはいけない。)恩着せがましい子育て、
お涙ちょうだい式の子育てをする人ほど、このうしろ姿を見せようとする。


●「親の威厳」論

「親は威厳があることこそ大切」と説く人は多い。たしかに「上」の立場にいるものには、居心地
のよい世界かもしれないが、「下」の立場にいるものは、そうではない。その分だけ上のものの
前では仮面をかぶる。かぶった分だけ、心を閉じる。威厳などというものは、百害あって一利な
し。心をたがいに全幅に開きあってはじめて、「家族」という。「親の権威」などというのは、封建
時代の遺物と考えてよい。


●「育自」論は?

よく、「育児は育自」と説く人がいる。「自分を育てることが育児だ」と。まちがってはいないが、
子育てはそんな甘いものではない。親は子どもを育てながら、幾多の山を越え、谷を越えてい
る間に、いやおうなしに育てられる。育自などしているヒマなどない。もちろん人間として、外の
世界に大きく伸びていくことは大切なことだが、それは本来、子育てとは関係のないこと。子育
てにかこつける必要はない。


●「親孝行」論

安易な孝行論で、子どもをしばってはいけない。いわんや犠牲的、献身的な「孝行」を子どもに
求めてはいけない。強要してはいけない。孝行するかどうかは、あくまでも子どもの問題。子ど
もの勝手。親子といえども、その関係は、一対一の人間関係で決まる。たがいにやさしい、思
いやりのある言葉をかけあうことこそ、大切。親が子どものために犠牲になるのも、子どもが
親のために犠牲になるのも、決して美徳ではない。親子は、あくまでも「尊敬する」「尊敬され
る」という関係をめざす。


●「産んでいただきました」論

よく、「私は親に産んでいただきました」「育てていただきました」「言葉を教えていただきました」
と言う人がいる。それはその人自身の責任というより、そういうふうに思わせてしまったその人
の周囲の、親たちの責任である。日本人は昔から、こうして恩着せがましい子育てをしながら、
無意識のうちにも、子どもにそう思わせてしまう。いわゆる依存型子育てというのが、それ。


●「水戸黄門」論に注意

日本型権威主義の象徴が、あの「水戸黄門」。あの時代、何がまちがっているかといっても、
身分制度(封建制度)ほどまちがっているものはない。その身分制度(=巨悪)にどっぷりとつ
かりながら、正義を説くほうがおかしい。日本人は、その「おかしさ」がわからないほどまで、こ
の権威主義的なものの考え方を好む。葵の紋章を見せつけて、人をひれ伏せさせる前に、そ
の矛盾に、水戸黄門は気づくべきではないのか。仮に水戸黄門が悪いことをしようとしたら、ど
んなことでもできる。ご注意!


●「釣りバカ日誌」論

男どうしで休日を過ごす。それがあのドラマの基本になっている。その背景にあるのが、「男は
仕事、女は家庭」。その延長線上で、「遊ぶときも、女は関係なし」と。しかしこれこそまさに、世
界の非常識。オーストラリアでも、夫たちが仕事の同僚と飲み食い(パーティ)をするときは、妻
の同伴が原則である。いわんや休日を、夫たちだけで過ごすということは、ありえない。そんな
ことをすれば、即、離婚事由。「仕事第一主義社会」が生んだ、ゆがんだ男性観が、その基本
にあるとみる。


●「MSのおふくろさん」論

夜空を見あげて、大のおとなが、「ママー、ママー」と泣く民族は、世界広しといえども、そうはい
ない。あの歌の中に出てくる母親は、たしかにすばらしい人だ。しかしすばらしすぎる。「人の傘
になれ」とその母親は教えたというが、こうした美化論にはじゅうぶん注意したほうがよい。マザ
コン型の人ほど、親を徹底的に美化することで、自分のマザコン性を正当化する傾向がある。


●「かあさんの歌」論

K田聡氏作詞の原詩のほうでは、歌の中央部(三行目と四行目)は、かっこ(「」)つきになって
いる。「♪木枯らし吹いちゃ冷たかろうて。せっせと編んだだよ」「♪おとうは土間で藁打ち仕
事。お前もがんばれよ」「♪根雪もとけりゃもうすぐ春だで。畑が待ってるよ」と。しかしこれほ
ど、恩着せがましく、お涙ちょうだいの歌はない。親が子どもに手紙を書くとしたら、「♪村の祭
に行ったら、手袋を売っていたよ。あんたに似合うと思ったから、買っておいたよ」「♪おとうは
居間で俳句づくり。新聞にもときどき載るよ」「♪春になったら、村のみんなと温泉に行ってくる
よ」だ。


●「内助の功」論

封建時代の出世主義社会では、「内助の功」という言葉が好んで用いられた。しかしこの言葉
ほど、女性を蔑視した言葉もない。どう蔑視しているかは、もう論ずるまでもない。しかし問題
は、女性自身がそれを受け入れているケースが多いということ。約二三%の女性が、「それで
いい」と答えている※。決して男性だけの問題ではないようだ。
※……全国家庭動向調査(厚生省九八)によれば、「夫も家事や育児を平等に負担すべきだ」
という考えに反対した人が、23・3%もいることがわかった。


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●ボケの自覚

 原理的には、ボケの自覚は、ありえないことになる。脳のCPU(中央演算装置)そのものが、
ボケるのだから、これは当然である。自分のボケを判断すること自体が、できない。(「私はボ
ケてきたな」と感ずるようなら、まだボケていないそうだ。)

 それはたとえて言うなら、青いサングラスをずっとかけるようなもの。しばらくかけていると、サ
ングラスをかけていることすら忘れてしまう。青いサングラスを通してでも、赤はそれなりに赤く
見える。黄色は、それなりに黄色に見える。

 ボケのこわいところは、ここにある。

 そこで何か、方法はないものか。自分のボケを自分で客観的に知る方法はないものか。

 一つの方法としては、こんなのがある。これはあくまでも私の方法だが、数年前、あるいは5
〜10年前に書いた文章を読みなおしてみるというのが、それである。文のじょうず、へたという
ことではなく、その向こうにある(鋭さ)を見ながら、自分のボケを知る。

 そういう視点で見ると、ここ半年あまりで書いた文章は、かったるくなってきているような感じ
がする。つっこみも甘い。キレもない。……ということで、思考力が、かなり鈍ってきている?

 だからボケ始めたということにはならないのかもしれない。しかしたしかに頭の活動は衰えて
きているようである。とくに気になるのが、集中力。その集中力がつづかなくなってきた。

 ところで数日前、私は、ある女性(57歳)と話した。10年ぶりくらいではないか。

 その女性は、頭のよい女性だった。料理の専門家で、若いころは、地元のテレビ局でも、結
構、活躍していた。

 断続的にだが、2〜3時間は、話した。しかし、である。よくしゃべる割には、つぎのような特
徴があることに気づいた。

(1)人の話を聞かない。
(2)自分の意見ばかりを言う。
(3)同じことを、ときどき繰りかえす。
(4)話していると、軽い興奮状態になる。
(5)押しつけがましい、説教をたくさんまぜる。

 が、何よりも気になったのは、私が何かを言うと、即座に、ペラペラとそれを否定する点であ
る。考えるというよりは、思いついたことだけを、音声にかえているといったふう。

私「今年の冬は、暖かいそうですね」
女「そんなことないですよ。雪が降りましたよ」
私「どこか暖かいところへ、行きたいですね」
女「どこも、お金ばかり、かかって、たいへんですよ」と。

 よく観察すると、脳ミソの表層部分だけが活動していて、右から左へと、飛来した情報を、流
しているだけ。つまり思考力、ゼロ。そんな感じがした。

 たいへんよく誤解されるが、(情報の量)は、(思考力)とは、まったく異質のものである。もの
をよく知っているから、頭がよいということにはならない。たとえばペラペラとよくしゃべるから、
頭がよいということにはならない。

 まさにその女性が、そうだった。私は、その女性を見ながら、「この女性は、かなり、頭がボケ
始めているな」と思った。そこで軽くテストしてみた。ボクシングで言えば、軽いジャブを出してみ
た。

私「あなたは、よく早とちりすることはありませんか?」
女「私は、ないですねエ……。私は、慎重派ですから」
私「少しがんこになったとか……、そういうことはありませんか?」
女「ありません。私は、だれとでも、うまくやっています。私は、O型ですよ」と。

 かなり重症のようである。

 アルツハイマー型痴呆症のような、機質的なボケは別として、いわゆる加齢とともにやってく
る、機能的なボケ、つまり脳ミソのサビによるボケには、いろいろな症状がともなうようだ。

(1)思考力が低下する。
(2)記銘力、記憶の保持力、想起力が低下する。
(3)情報の整理力が低下する。混乱しやすくなる。
(4)感情が鈍麻し、繊細な感覚を喪失する。
(5)ものごとに固執する、がんこになる。
(6)融通性がきかなくなる、規則性が加速する。
(7)興味の喪失、反復作業が多くなる。
(8)回顧性が強くなり、過去に固執する。

 全体としてみると、人間的なやわらかさがなくなるということになる。おかしなところで、おかし
なこだわりを見せたりする。妄想ももちやすい。思い過ごしも多くなる。

 が、本人自身は、「私はふつうだ」と思いこんでいる。ここにボケの最大の問題がある。つまり
話はもとにもどるが、ボケながら、ボケた人は、自分がボケていることに、気がつかない。これ
には、例外はない。私も、あなたも、だ。

 そしてその返す刀で、周囲の人たちに向って、自分の(まちがい)を、まちがいと気がつかな
いまま、それを押し通そうとする。実際のところ、これが困る。よくある例が、自分でサイフをど
こかへしまい忘れたくせに、「お前が盗んだ」と、相手に食ってかかること。私の義姉も、今、そ
れで悩んでいる。

 「近所で、うちの嫁は、私のお金を盗んで使っていると、言いふらしているのですよ。本当にも
う、いやになってしまう」と。

 では、そのボケを防ぐには、どうしたらよいか。

 私は、やはり、常日ごろから、考える習慣を、養うしかないのではないかと思っている。ちょう
どスポーツをして、体を鍛えるように、頭も、使うことで、鍛える。で、私のばあいは、「書く」とい
うのが、その頭の運動ということになる。

 今のところ、ほかに方法がないので、それをつづけるしかないのでは……。それとあとは、毎
日、数時間でもよいから、幼児と、直接触れあう。そういう形で、脳みそに刺激を与える。

 終わりに一言。ボケは、何も、50代、60代で始まるものではない。40代でも、ひょっとした
ら、30代でも始まる。「私は若いから……」などと油断していると、頭というのは、すぐサビつく。
みなさんも、くれぐれも、ご用心!

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●「末承諾広告」

 スパムメールが、頻繁(ひんぱん)に届く。そのため、OE(アウトルック・エキスプレス)のフィ
ルタリング機能を使って、たとえば件名に、「未承諾」の文字のあるメールなどは、入信と同時
に、即、削除している。

 しかし、である。

 そのフィルタリング機能をすり抜けてくるメールがある。今日も、来た。

 「????」と思ってよく見ると、「未承諾」ではなく、「末承諾」となっていた。「未」と「末」のち
がいである。

 よくまあ、こういう小細工をするものだ。考えるものだ。ホント!

 こういう小細工をする人間だから、あとは、推してはかるべし。そういう人間は、相手にしては
いけない。つきあってはいけない。まさに一事が万事。インチキをインチキで塗りかためたよう
な人間と思って、まず、まちがいない。

 で、このところ、スパムメールも、巧妙になってきた。件名のところに、こうある。

(1)思わせメール……「先日は、ありがとうございました」「お礼申しあげます」
(2)ひっかけメール……「当選、おめでとう。ポイント数が10倍に」
(3)おどしメール……「ウィルス、入っていませんでしたか?」
(4)とぼけメール……「あなた様から、件名のないメールが届いていますが……」
(5)ニセメール……「返事が遅れてすみません。忙しかったものですから」
(6)スケベメール……「会ってくださるだけで、2万円、さしあげます」
(7)苦情メール……「あなたの意見に、異義あり」「異論、反論、オブジェクション」
(8)懇願メール……「どうか、助けてください」「お知恵を貸してください」

 パソコン雑誌などによると、こうしたあやしげなスパムメールは、絶対に、プレビュー画面で開
いてはいけないそうだ。開いただけで、ウィルスに感染することもあるという。しかしそれにして
も、「未」と「末」を置きかえるとは! 

 どうか、みなさんも、お気をつけください。


●IQサプリ

「脳内エxx・IQサプリ」(Fテレビ出版)という本を買ってきた。値段は952円+税。結構、おもし
ろい。今は、ドライブのとき、ワイフと解きあって、楽しんでいる。

 そのまま紹介するわけにはいかないので、(つまり著作権の問題があるので)、何問かを、改
変して、ここに出題してみる。

【問1】

 ある国で、ある国際会議が開かれた。その会議の合い間に、各国の代表たちが食事をし
た。が、そこへ一匹のゴキブリ。それを見た代表たちの中で、一番最初に、「あっ、ゴキブリ
だ!」と叫んだのは、どこの国の人だったか。

【問2】

 鉛筆と5円玉がある。その鉛筆を、5円玉の穴に通してみてほしい。どうすればよいか。鉛筆
は、子どもたちが使う、ごくふつうの太さの鉛筆である。

【問3】

 ふつう人間には、目が2つある。しかし中には、その目を、4つとか、6つももっている人がい
る。その人は、どんな人か。

【問4】

 右折禁止の四つ角がある。その角のところに、おまわりさんが立っていた。が、そこへダンプ
カーの運転手がやってきて、堂々と、右折していった。しかしおまわりさんは、何も言わなかっ
た。なぜか?

+++++++++++++++++

 何問か解いていると、ある一定のパターンが、見えてくる。(意地悪問題)(ひっかけ問題)(こ
じつけ問題)など。本のほうでは(ひらめき力)(洞察力)(言語力)(計算力)などと、どこかもっと
もらしく、グラフ化しているが、つまりは、(頭の遊び)。

 英語にも、(リドゥル)という遊びがある。たとえばこんなのが、ある。

「ジョンは、今、12歳です。今までに、バースディ(誕生日)は、何度あったでしょうか」とか、「1
年のうちには、30日まである月もあれば、31日まである月があります。では、28日、ある月
は、1年のうち、何回、あるでしょうか」というのが、それ。

 答は、「誕生日は、1回」。どんな人も、誕生日(生まれた日)は、1回しかない。

 また1年のうち、28日がある月は、12回。だから答は、「12回」。

 こうした問題は、まず、相手に思考の錯覚を起こすところから始める。人間の脳みそは、一
度、錯覚を起こすと、それから抜け出るのは、容易なことではない。考えようとする前に、錯覚
でつくられた(思いこみ)にまどわされてしまう。まずその(思いこみ)を、否定しなければならな
い。それが思考の混乱につながる。ここにあげた【問1】〜【問4】も、そうした問題である。

 ちなみに、答は……

【問1】日本語で、「ゴキブリ」と言ったのだから、日本人。
【問2】5円玉の穴に目をつけ、その穴を通して、鉛筆を見ればよい。
【問3】おなかに赤ちゃんがいる、妊婦。
【問4】運転手が歩いて、右折した。

 親子の会話に応用してみると、おもしろいのでは……。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

 
最前線の子育て論byはやし浩司(513)

浜松(1)

 1972年の夏には、東京と浜松の間を行き来するようになっていたから、浜松との縁は、今
年(05年)で、もう33年目になる。

 住み始めたのは、その年の秋から。当時は、浜名湖の弁天島にある、友人の別荘の一室を
借りて住んでいた。おかしなことだが、カギはもっていなかった。そのため部屋へ入るときは、
まず塀を乗り越え、台所の横の窓から、中へ入らねばならなかった。外へ出るときは、その反
対のことをして、出なければならなかった。今から思うと、私は、まるで泥棒のようだった。

 冬の間は、その別荘は、空き家になっていた。

 家の前は、楽器メーカーY社の社宅。庭を横切ると、そのまま浜名湖につながっていた。私
は、この別荘に、翌年の春まで住んでいた。だから、当然のことだが、今でも、弁天島へ行く
と、あの家を最初にさがし、あのころの日々を思い出す……。

そしてそれがそのまま、私の浜松の、第一印象になってしまった。

 海があって、緑が豊か。それに青い空。開放的な人たち。それが浜松と!
(05・01・15記)


(浜松2)

 私はもともと田舎人間。都会も嫌いではないが、しかし田舎のほうが、心が落ちつく。心が休
まる。田舎は退屈だという人もいるが、それは田舎での遊び方を知らないからではないか。

 私は子どものころ、毎日、真っ暗になるまで、近くの山の中で遊んでいた。

 だから今でも、山の中を歩いていて、小さなほら穴などを見つけたりすると、「ぼくなら、陣地
をつくるのに……」と思ってしまう。そう、子どものころは、陣地づくりばかりをしていた。

 穴の中につくこともあったが、木の上につくることもあった。寺の床下につくったこともある。

 そこは私だけの特別の空間。だれにもじゃまされない、特別の空間。それが陣地だった。

 ……そうした強い思いが残っていたのだろう。浜松に住むようになってからすぐに、私は、「い
つか、ぼくは、山の中に山小屋を建てる」と、心に誓った。そして読む雑誌といえば、その種の
雑誌ばかり。

 で、その山小屋を建てて、今年で、13年目になる。早いものだ。土地づくりに、それまでに、
6年もかかったから、通算で、19年!

 建てた当初は、毎週のように泊まったり、客を呼んだりしたが、このところは、行っても、数時
間、昼寝をしてくるだけ。「もったいない」と、思うことは、よくある。

 しかしその数時間が、貴重。私は、月曜日から金曜日までを、その数時間のために生きてい
るような気がする。
(05・01・15記)


(浜松3)

 私は岐阜県のM市で生まれた。周囲を、それほど高くはないが、山に囲まれた、小さな町で
ある。

 そのせいか、今でも、海を見ると、ウォーッと声をあげたくなるほど、感動する。実際に、そう
いうような声を出して、砂浜を、思わず駆け出すこともある。

 今は、ハナ(犬)の散歩に、よく中田島砂丘まで行く。時間的には、夕暮れ時の海が好きだ。
西日が、海の向こうに姿を消すころが、美しい。海にしても、一度とて、同じ姿のときはない。

 荒い海、やさしい海、青い海、灰色の海……。

 散歩に疲れると、私はいつも、流木の上に腰をおろす。おろして、ハナが、堪能するまで、ハ
ナを自由に走らせる。

 ハナは、ポインター種の猟犬。走るために生まれてきたような犬である。そのハナの走り方を
見ていると、まるで、馬が走っているように見えるときがある。

 私はハナの走っている姿を見るのも、楽しい。うれしそうに、かつ、軽やかに走る。ハナは、と
きどき私がそこにいることを確かめるためにもどってきては、また数キロ先まで、走っていく。そ
れを繰りかえす。

 そういうとき、私は、時間が止まってしまったかのように、感ずる。ときに真っ暗になるまで、
ぼんやりと、遠くの海を見ていることがある。
(05・01・15記)


(浜松4)

 私が住んでいるのは、浜松市の西、IR町というところ。IR町は、昔は、ひとつの独立した村で
あったと聞いている。

 そのIR町を支配していたのが、TK家。江戸時代初期からの大庄屋と聞いている。事実、こ
のあたりで、TK家を知らない人はいないし、TKの名字をもつ人は多い。

 私はそのTK家直系の、TK氏から、今の土地を買い受けて住むようになった。すぐ近くには、
TK家の墓地がある。墓地といっても、小さな公園程度はある。

 ここに住むようになって、今年(05年)で、28年目になるが、私は、ここがたいへん気に入っ
ている。静かだし、少し高台で、環境もよい。四季折々の変化もそれなりにある。

 そうそう、ここに住み始めたころには、西は弁天島から、東は浜松駅まで、新幹線が途切れ
ることなく走っていくのが見えた。

 今は、もちろん見えない。あたりは、家だらけ。もっとも当時は、吹きさらしの、丘の上。洗濯
物が風に飛ばされたことは、何度もある。それに少し風が吹くと、家の中は、砂だらけになっ
た。それを思うと、今のほうがよいと思うことがある。
(05・01・15記)


(浜松5)

 浜名湖の思い出は、多い。

 若いころは、夏になると、タキヤ漁によく出かけた。船の上から、強いライトをあて、海の底に
いる、かにやエビ、魚などを、大きなモリでつくという遊びである。

 当時は、よくとれた。一晩で、カニを、バケツに、5〜6杯は取った。それに40〜50センチも
ある、コチやウナギなども。

 そのうちこのタキヤ漁も観光化され、とたん、漁獲量が減った。当時とくらべると、今のタキヤ
漁は、子どもの遊びのようなもの。「漁」という名前が恥ずかしいほど。

 しかし一度、その浜名湖で事故を起こしかけたことがあってからは、その浜名湖からは、遠ざ
かった。以後、10年近く、浜名湖の近くへすら、行ったことがない。最近になって、ときどき、ワ
イフと弁当をもって、その弁当を食べにいくようになった。しかしそれでも、あのときの事故を、
忘れたわけではない。

 が、美しい。いつ行っても美しい。それは事実。それが浜名湖。

 浜松が好きな理由の一つに、この浜名湖がある。

 名古屋の方向から浜松へ近づき、三ケ日インターチェンジを過ぎたとたん、青い、どこまでも
青い浜名湖が、目の前にパッと広がる。輝く。とたん、言いようのない解放感を覚える。そして
こう心の中で、叫ぶ。

 「浜松だ!」と。
(05・01・15記)


(浜松6)

 佐鳴湖(さなるこ)という湖がある。水質は悪いらしいが、見た目には、美しい湖である。周囲
の環境も、よく整備されている。散歩したり、弁当を食べたりすることができる。

 この佐鳴湖の東岸、西岸は、今では、浜松市内でも、最高級住宅地ということになっている。
しゃれた家並み、環境……。どれも、住宅雑誌から飛び出したような家ばかり。

散歩をしていると、どこかの国の、住宅地を歩いているかのような錯覚を覚える。

 もっとも、私の家は、その住宅地のはずれにある。1ランクも、2ランクも、下の住宅地(近所
のみなさん、失礼!)。「いつかは……」と思ってがんばった時期もあったが、今は、もうあきら
めた。というより、ここのほうが、気楽。人には、それぞれ、身分相応というものがある?

 この土地のこの家で、死ぬことができたら、御の字。むしろ、感謝している。

 ときどきワイフとこう言いあうことがある。

 「とくにいい生活をしたというわけではないけど、まあ、それほど苦労もなく、今まで生きてこら
れたのは、ラッキーだったね」と。
(05・01・15記)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
最前線の子育て論byはやし浩司(514)

●浜松N高校・中等部の「総合適性検査問題」より(1)

 このところ、中学、高校の入試問題が、大きく様変わりしてきた。その一つ。この浜松市で
も、数年前、公立の、中高一貫校が生まれた。今年(05年)に出題された、入試問題より。

+++++++++++++++++

(もんだい2)

 『インターネットのメールで対話をすると、仲のよい友だちでも、伝えたいことが誤解されて伝
わってしまうことがあるのは、なぜでしょうか。文字だけで対話をするというメールの特徴から、
その理由を答えなさい』

(もんだい5)

 サッカーボールは、5角形と6角形の組み合わせでできている。5角形は、全部で12個ある
というヒントを、会話形式で与えたあと、

 『サッカーボールの6角形は、全部でいくつあるでしょうか。その求め方も考えなさい』

(もんだい7)

 『よくかんで食べると、健康によいことがあります。2つ考え、答えなさい』

+++++++++++++++++

 C新聞社(地元)の正答例は、つぎのようになっている。

(もんだい2)

 メールでは、相手の表情や声、態度などから相手の気持ちや感情を理解することができない
ため。

(もんだい5)

 20個
 (求め方、略)

(もんだい7)

 食べ物の消化がよくなる。
 あごの骨や筋肉が発達する。

++++++++++++++++++

(補足)

●サッカーボールの5角形は12個あるということは、辺の数は、5x12=60
それぞれの6角形は、3辺ずつ5角形に接しているから、60÷3=20
だから6角形の数は、20ということになる。(はやし浩司の解答)

●メールでの会話で誤解が起きるのは、「相手にうまく意思が伝わらない」のではなく、相手
が、相手の心情で、そのメールを読んでしまうからではないのか。この正答例には、ちょっと(ク
エスチョンマーク)。失礼!

+++++++++++++++++++

 今までは、知識(=暗記力)と解き方(=学力)だけが試されてきた。しかしここにみる入試問
題は、いわゆる「常識」と、「思考力」をミックスしたような問題と考えてよい。こうした入試傾向
は、これから先、加速されることはあっても、後退することはない。今までの入試内容は、あま
りにも、おかしかった!

 そのため、どこかおかしな子どもほど(失礼!)、受験には有利なところがあった。いわゆる
勉強しかできない、勉強しかしないような、いわゆる勉強xx(失礼!)な子どもほど、有名高校
から有名大学へと、進学していった。(もちろん、そうでない子どもも、多いが……。)

 大切なことは、子どものときから、自分で考え、自分で判断して、自分で行動して、そして自分
で責任をとる、そういう習慣を養うことである。それができる子どもにすることである。

今回の、N高校・中等部の入試問題は、これからの教育の方向性を示す、まさに良問といえる
のではないだろうか。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(515)

●知的レベル

 兄のボケを見ていると、ときとして、自分自身のボケを思い知らされることがある。つまりボケ
ているか、いないかということは、あくまでも相対的なこと。順に考えてみよう。

 兄に、ミュージックCDを、10枚ほど、購入してやった。若いころから、歌謡曲や演歌が大好
きだった。

 で、そのCDを聞くのはよいのだが、それをうまくケースの中にしまうことができない。できなく
はないが、ときに、反対のほうからケースをあけようとする。無理な力を入れる。とたん、バリン
と、ケースが割れてしまう。

 ケースが割れると、兄は、CDは、もう使えなくなったと誤解するらしい。「CDが割れたア!」と
言って、私のところへやってくる。

 それと同じことだが、私については、こんなことがあった。

 パソコンを、最適化したいと思った。数年前のことである。が、始めるとすぐ、再起動がかか
ってしまう。で、また最初から、やりなおし。……と、何度やっても、同じ。そこで息子に聞くと、
あれこれと教えてくれた。

 私が、「ウィルスが入ったかもしれない」と言うと、息子は、「そんなはずはない。一度、セーフ
モードにしてからすればいい」と教えてくれた。そして専門用語をいくつかまぜ、あれこれと説明
してくれた。

 が、何回、説明を聞いても、頭に残らない。息子は、おかしな横文字ばかり並べる。要する
に、アンチ・ウィルス用のソフトが、どこかで勝手に作動してしまうということ。そのため、最適化
の途中で、再起動が始まってしまうということ、らしい。(今でも、よくわからないが……。)

 私は兄のCDのケースをなおしながら、自分のことを思い出していた。

 つまり、ボケかボケでないかは、相対的なもの。より高次元な思考力をもっている人からみれ
ば、それ以下の人は、どんな人でも、ボケているように見える。

 そんなわけで、「私はボケていない」と思っている人でも、ボケている人は、いくらでもいる。反
対に「ボケている」と思っていても、ある分野では、他人より秀でている部分がないわけではな
い。

 頭のボケには、そういう問題が含まれる。どうでもよいことだが……。

(補足)

 いわゆる「老人性痴呆」には、大きく分けて、2つのタイプがあるといわれている(山下冨美
代)。
 
ひとつは(1)アルツハイマー型痴呆と呼ばれる、痴呆。加齢とともに、神経細胞に、シミ状の老
人斑点が生まれるなどして、神経細胞そのものが、死滅していく。

 主に側頭葉、頭頂葉、前頭葉などがダメージを受けるため、アルツハイマー型痴呆では、人
格など、高度な精神作用が影響を受けるという。

 もう一つは、(2)脳血管性痴呆と呼ばれるもの。脳の血管が何らかの理由によってつまり、
その部分の脳ミソが壊死(えし)することによって、痴呆が始まる。

 壊死する場所、程度に応じて、痴呆の症状もさまざま。たいていはその部分を中心に、壊死
が進行し、病態は、重くなっていくという。

 私の兄のばあいは、どうやら、(2)の脳血管性痴呆のようである。今のところ、症状は落ちつ
いてはいるが……。

 こういうケースで、まだありがたいと思うのは、兄には、凶暴性や、乱暴性がないということ。
ぼんやりとボケているとか、そういう感じである。そのため兄が、何か失敗しても、怒るという感
情が起きるよりも前に、笑ってしまう。

 たとえば数日前も気がつかないでいたら、何と、ズボン下だけでも、3枚もはいていた。「1枚
でいいのに」と言ったら、兄は、「寒いから」と言って、はにかんで見せた。私とワイフは、それを
見て、笑った。

 兄のボケは、まだその段階である。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●結婚幸福度の測定

 結婚の幸福度は、つぎの4つをみて、判定するそうだ(アメリカ・心理学者・ターマン)。

(1)戸外の娯楽(趣味)を、ともにする。
(2)家計の扱いについて、夫婦が一致している。
(3)たがいに配偶者として、尊敬している。
(4)生まれかわっても、同じ配偶者と結婚すると思っている。

 ある調査によると、日本人の妻のばあい、結婚当初は、「結婚の幸福度」は、夫より高いそう
だ。が、3年を過ぎると、その夫よりも低くなるという。そしてそのあと、12〜14年で、たがいに
幸福度は最高になり、その時点をピークに、妻の幸福度は、さがりつづけるという(「心理学用
語」・かんき出版)。

 つまり日本人のばあい、結婚の幸福度は、年齢とともに、変化するということ。

 一方、アメリカ人の夫婦のばあいは、結婚当初から最後まで、この幸福度は、ほとんど変化
しないそうだ(同)。

 さらにこんな調査結果もある(同・詫摩氏調査)。

 つぎのようなばあいには、結婚後の夫婦の幸福度は、日本では、高いという。

(1)婚約が整うまで、スムーズに話が進んだ。
(2)結婚前の交際中に、話し合いがよくできた。
(3)結婚前の交際中に、将来の生活についての不安を感じたことがなかった。
(4)結婚に母親が賛成であった。
(5)両親の結婚生活がうまくいっていた。
(6)現在の生活が、経済的に楽である。(同書、172P)

 なるほどと言えば、なるほど。当然といえば、当然。ここに書いてあることは、経験的にも、納
得できる。言いかえると、ここにあげた、(1)〜(6)までのどれかで、つまずいたりすると、それ
が(しこり)になって、夫婦関係がおかしくなることは、よくある。

 たとえば結婚に当初から、母親が反対していたとすると、ちょっとした夫婦げんかでも、その
まま離婚話になってしまうかもしれない。経済的な問題にしても、「お金では幸福は買えない
が、なければ、不幸は向こうからやってくる」(はやし浩司)。

 円満な夫婦生活には、ある程度の経済的な余裕と安定性が大切であることは、言うまでもな
い。

 ……ということで、私の、夫婦の幸福度を、自己採点してみる。(1問10点で採点)

(1)戸外の娯楽(趣味)を、ともにする。……まあまあ、している。(7点)
(2)家計の扱いについて、夫婦が一致している。……たがいに無頓着。(5点)
(3)たがいに配偶者として、尊敬している。……あまりしていない。(3点)
(4)生まれかわっても、同じ配偶者と結婚すると思っている。……ワイフは、「いやだ」と言って
いる。(0点)

 40点満点で計算してみると、15点ということになる。(少しシビアに採点してみたが……。)

 まあ、どんな夫婦であれ、今の私たちには、今の夫婦関係しかない。よくても悪くても、今の
夫婦関係しかないのだから、満足も、不満足もない。あきらめて、受けいれるしかない。ただ改
善すべき点があるなら、改善していこうと考えている。

 たとえばこれからは、たがいに共通の趣味を大切にしたいし、たがいによい点をみつけて、
尊敬しあいたい。来世でも、いっしょになるということは、あまり考えないでおこう。ワイフも、い
やがるだろうし……。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●プロダクティブ・エイジング(生産的加齢)

私自身の記憶をたどってみる。20代、30代の記憶は、それなりに残っている。しかし40代な
ることからの記憶が、ほとんど、残っていない?

 これはどうしたことか?

 そこでワイフに相談してみると、ワイフも、「そう言えば、ないわね」と。そしてこう言った。「そ
のころは、子育てで夢中で、自分の思い出をつくるヒマなど、なかったからよ」と。

 そのとおり。

 私たち夫婦の思い出は、ほとんどない。が、息子たちとの思い出は、ある。つまり私たちとい
うより、親は、子育てをしながら、子どもとの思い出を、自分自身の思い出として記憶する。わ
かりやすく言えば、子どもの思い出イコール、親の思い出ということになる。

 息子が幼稚園へ入ったとき。息子が小学校に入ったとき。卒業したとき。息子といっしょに、
プールへ行ったとき。旅行したとき。いつもそこには、息子たちがいる。つまりそれが、そのま
ま、そのころの記憶となる。

 しかし肝心の、私や、ワイフとの記憶が、ない! 私は何をしてきたのだろうとさえ思うことが
ある。

 そこで今、子育てがほとんど終わってしまった今、何をしてきたのかと聞かれても、ハタと困っ
てしまう。これといった思い出が、何もないからだ。何かをしてきたはずなのに、思い出という
と、一気に、自分たちの青春時代にまでもどってしまう。

そこでしかたないから、息子たちとの思い出にしがみつこうとするが、その息子たちは、もう巣
立ってしまった。三男にしても、身分はまだ大学生だが、休みになっても、ほとんど、家にはい
ない。アルバイトにしても、東京や横浜でしている。

 ポッカリと、心の中に穴があいたような気分である。

 本来なら、私たちは私たちで、自分たちの思い出をしっかりと作っておくべきだった。それは
たとえて言うなら、明けても暮れても、仕事ばかりしていたようなもの。仕事をしたという記憶は
あるが、それ以外は、ほとんど、ない。あまりよいたとえではないかもしれないが、それに近
い。

 そのころというのは、いつもそこに息子たちがいて、その息子たちのために、毎日生きていた
ような気がする。少年野球の応援に行った。少年野球の付き添いで、キャンプにも行った。登
山もした。旅行にも行った。

しかし私たちが、そうしたいからそうしたというよりは、いつも心のどこかで、ある種の義務感を
覚えたから、そうした。犠牲になったとは思わないが、もう少し、今から思うと、別の生き方も、
あったのではないかと思う。

 たとえば私たち夫婦だけなら、ひょっとしたら、30歳の半ばには、オーストラリアへ移住して
いたかもしれない。移住は無理だとしても、数年間は、オーストラリアで、好き勝手なことをした
かもしれない。

 しかし息子たちのことを考えたとき、それができなくなってしまった。「学校は?」「進学は?」
「勉強は?」と。そんなことを考えているうちに、そうした夢や希望は、しぼんでしまった。

 そこで今、私たち夫婦が第一に考えることは、老後を、晩年ととらえるのではなく、子育てか
ら解放された、第二の人生ととらえること。自分たちらしい、心豊かな老後である。そうした生き
方を、英語では、「サクセスフル・エイジング」というらしい。「楽しい老後」という意味か。

 しかし、たとえば毎日、庭いじりをしながら、孫の世話をして、のんびりと暮らすというのが、本
当に、あるべき老後かというと、どうもそうではないような気がする。「サクセスフル(成功)」と言
葉からは、そういう生活を思い浮かべるが……。

そこで最近では、さらに一歩進んで、「プロダクティブ・エイジング(生産的加齢)」という言葉が
使われるようになった。年齢を考えることなく、老後であっても、さらに前向きに生きるということ
をいう。

 もちろん体力的な衰えや、知力的な衰えについては、どうしようもない。しかしだからといっ
て、ゼロになるわけではない。私は私だし、あなたは、あなた。60代になっても、70代になって
も、そして80代になっても、だ。

 だいたいにおいて、老いるという言葉がおかしい。日本人は、「老人」のイメージを自らつくり
あげてしまい、それに合わせて、自分を作ろうとする。つまり日本人は、老いるのではなく、自
ら老いを、自分の中に作っていく。

 中には、ひとりで部屋にいるときは、スイスイと歩いているクセに、人の目を気にしたとたん、
弱々しい歩き方をする人もいる。「私も、年をとりました」を、口ぐせにしている老人も、多い。

 そこで大切なことは、こうしたまちがったというか、ゆがんだ、老人観を、今、ここでたたきつ
ぶしておくということ。そして死ぬまで、その死を意識することなく、ただひたすらに、前向きに生
きていく。

 それがここでいう「プロダクティブ・エイジング(生産的加齢)」ということになる。

 そうでなくても、やがて、日本人の人口の約25%が、65歳以上という時代になる。4人に1
人が、高齢者という時代である。そういう時代が確実にやってくるのに、私たちは、若い人たち
に甘えているわけには、いかない。

 だからこそ、ますます「プロダクティブ」な生き方が、重要ということになってくる。社会に対し
て、前向きにかかわりあっていく。

 そこで私なりの結論。昔の人の言い方を借りるなら、こうなる。

「今どきの、若いものに負けていられるものか!」と。
(はやし浩司 エイジング プロダクティブ エイジング 生産的な老後)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●早期教育の誤解

 何でも、早ければよいというものではない。こんな実験がある(「心理学用語」かんき出版)。

 A君とB君という、一卵性双生児がいた。その一卵双生児についての、階段登りの実験であ
る(ゲゼルとトンムソン)。

 A君は、生後46週目から、6週間、階段登りの練習をさせた。
 B君は、生後53週目から、2週間だけ、階段登りの練習をさせた。

 ところが、である。

 A君は、訓練後、2週間後になってはじめて階段を登ることができたのに対して、B君は、初
日から、階段登りができたという。

 また早くから練習していたA君は、訓練の最終日になっても、登るのに25秒もかかったが、B
君は、10秒で登れてしまったという。

 つまり早くから階段登りの訓練をしたA君のほうが、上達がおくれたばかりが、かえって、そ
の効果が、減速されてしまったというのだ。

 この実験からもわかるように、幼児には、それぞれの段階において、それぞれの発達特性が
ある。その特性を無視して、無理に早期教育をほどこしても、効果がないばかりか、かえって、
子どもの発達を阻害(そがい)してしまうことがあるということ。

 たとえば私の教室でも、年中児で入ってきた子どもの中には、最初の数か月の間、ほとん
ど、反応を示さない子どもがいる。

 そういうとき親は、あせって、「どうしてでしょう?」「どうしたらいいですか?」と聞いてくる。

 で、私は、こう答える。

 「今は、情報を収集している段階です。その情報が、ある一定段階を超えると、子どもは、自
分で行動するようになりますから、静かに、待っていてください」と。

 この段階で、私が、「ああしなさい」「こうしなさい」と指示を与えると、かえって子どもは混乱し
てしまう。ばあいによっては、自信をなくしたり、学習することに対して、恐怖心をもったりする。

 だから、子どもの中で起きる変化を、じっと待つしかない。

 するとやがて、子どもの中で変化が起きる。学習に対する準備(レディネス)ができてくる。そ
の機会をとらえて、それを引き出してやると、とたんに、その子どもは別人のように、意見を述
べたり、自分で考えたりするようになる。

 わかりやすく言えば、子どもを伸ばすコツは、その好機をうまくとらえること。遅すぎるのもよく
ないが、しかし早すぎるのも、よくない。その見きわめの、じょうずへたが、子どもを伸ばすこと
にもなるし、反対に、伸びる芽をつんでしまうことにもなる。

(補足)

 幼児を教えていると、その幼児が、1週間単位で、ぐんぐんと変化していくときがある。そうい
うとき私は、親に、「今が、チャンスですよ」と声をかけるようにしている。そういうとき、子どもを
ほめたり、励ましたりして、子どもに自信をもたせる。その時期をうまくとらえて、自信をもたせ
てあげると、それまで消極的だった子どもが、別人のように積極的になったりする。

********************************

【お願い】

 最近、いろいろな方から、メールをいただきます。
 その一方で、スパムメールも、ますます巧妙化してきています。

 そこでもし読者の方で、私宛にメールをくださるときは、
 必ず、お名前(フルネーム)と住所を、件名のところにお書きくださるよう、
 お願い申しあげます。

 件名:鈴木です
 件名:お元気ですか、佐藤です。
 件名:先日は、ありがとうございました。埼玉の山田です。

 ……というような、メールは、即、OEのフィルタリング機能を使って、削除させて
いただいています。よろしくご了解の上、お許しください。

 めったなことはないと思っていますが、しかし万が一にも、
ウィルス入りメールだったりすると、結局は、読者の方たちに迷惑をかけてしまいます。

 くれぐれも、よろしく、ご協力くださいますよう、お願い申しあげます。

                    はやし浩司

**********************************

●ボケた兄(2)

 兄のボケについて書いたら、O県に住んでいる女性(63歳)から、こんなメールが届いた。
「林さんところは、まだ、いいほうですよ」と。

 その女性も、実の兄を引きとって、めんどうをみているという。その兄(70歳)には、凶暴性
があるという。少しでも気に入らないことがあると、突発的に暴れたり、大声を出したりするとい
う。

 その上、病院には行きたがらない。薬はのみたがらない。おまけに、頭のほうだけは、まだし
っかりしているので、要介護の申請も、できないでいる、と。「要介護が認定されれば、週4回
のデイサービスを受けられるのですが、今の状態では、それも無理です」「仮に要介護の申請
が通っても、兄はそういう施設へは、行かないでしょう」と。

 さらに深刻な例も、メールで届いている。

 Aさん夫婦は、80歳を過ぎた母親を介護している。が、その母親が、わがままで、困ってい
る、と。

 「ぜいたくばかり言って、私たちを困らせます。朝の味噌汁なんかでも、少しでも冷めている
と、『飲めない』といって、怒りだします。『親に、こんなものを食わせるのか!』とか、『私は赤味
噌しか、食べない!』とか言います。

そこであわてて味噌汁を作りなおすのですが、今度は、『まずい』とか、『口に会わない』とか言
います。そのくせ、近所の人や、親類の人が来ると、遠まわしな言い方で、私たちにひどい扱
いを受けていると、ウソを言うのです。それだけではありません。

 私たちの前では、どこか鬼ババ風なのですが、他人の前では、仏様のような様子をしてみせ
ます。おもしろいと思うのは、私たちの前では、シャキシャキと歩くくせに、他人の前では、急に
ヨボヨボと歩き出すのです。(ふつうは、逆だと思うのですが……。)そういうふうにして、他人の
同情を買おうとするのですね」と。

 老人虐待が、よく話題になる。介護に疲れた家族が、老人を殺すという事件も、ときどきあ
る。実際のところ、老人介護は、重労働。ボケ老人の介護は、さらに重労働。子育ても重労働
だが、ケースによっては、子育ての比ではない。

 そういう老人介護に直面すると、人の心には、二つの感情が生まれる。

 同情と、憎しみ、である。

 この二つの感情の間を行ったり来たりする。「何とかしてあげよう」と思ってみたり、反対に、
「もう、どうにでもなれ」と思ったりする。人間関係にもよる。実の親子や兄弟なら、同情する心
が、より大きいかもしれない。

 しかし義理の父母とか、義理の兄弟となると、そうはいかない。基本となる、愛情そのもの
が、弱い。だから同じ介護をしながらも、それを、より負担に感ずるようになる。私のワイフも、
私と兄の板ばさみになって苦しんでいる。そんな感じがする。

 が、人間というのは、不安定な心理状態には、それほど長くは耐えられない。(不安)→(怒
り)→(不平)→(心配)を繰りかえすうちに、どちらか一方に、ころがろうとする。ころがって、落
ちつこうとする。介護について言えば、(1)介護を放棄するか、(2)介護を受け入れるか、最終
的には、その選択を迫られる。

 ワイフは、こう言う。「あまり考えたくない。毎日、すべきことをするだけよ」と。

 ワイフは、そういうふうに考えて、現状を受け入れたようだ。悩んだところで、どうにかなる問
題ではない。どうせ、だれも、助けてくれない。かといって、兄を、外に追い出すこともできない。

私「ぼくにとっては、身内だけど、お前には他人だから、つらいだろうね」
ワ「しかたないわね。これも、運命の一つよ」と。

 しかしその一方で、こういうときほど、人の温かさが身にしみるもの。近くに住む自治会長の
K氏に、事情を話すと、K氏は、こう言ってくれた。「何かあったら、力になりますよ。遠慮なく言
ってください」と。

そしてK氏は、あれこれと、具体的な方法を教えてくれた。同じような問題をかかえている家族
を、何人か、紹介してくれた。「この人と連絡をとってみなさい。何か、知恵をくれますよ」と。

 そういうK氏のような人を、真の友というのではないか。Kさん、ありがとう!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(516)

●反抗期

 子どもの反抗期は、おおまかに分けると、つぎの3段階に分けることができる。私自身の経
験もまじえて、考えてみる。

【第1期】

 少年期(少女期)から、青年期への移行期で、この時期、子どもは、精神的にきわめて不安
定になる。将来への心配や不安が、心の中に、この時期特有の緊張感をつくる。その緊張感
が原因で、子どもの心は、ささいなことで、動揺しやすくなる。

この時期の子どもは、親に完ぺきさを求める一方、それに答えることができない親に大きな不
満をいだいたり、強く反発したりする。小学校の高学年から、中学校の2、3年にかけての時期
が、これにあたる。

【第2期】

 親からの独立をめざし、親の権威を否定し始めるようになる。「親が、何だ」「親風、吹かす
な」という言葉が、口から出てくる。しかし親の権威を否定するということは、自ら、心のよりどこ
ろを否定することにもなる。そのため、心の状態は、ますます不安定になる。

こうした独立心と並行して、この時期、子どもは、自己の確立を目ざすようになる。家族の束縛
を嫌い、「私は私」という生き方を模索し始める。さらに進むと、この時期の子どもは、「自分さ
がし」という言葉をよく使うようになる。自分らしい生き方を模索するようになる。中学校の2、3
年から高校生にかけての時期をいう。

【第3期】

 精神的に完成期に近づくと、親をも、自分と対等の人間と見ることができるようになる。親子
の上下意識は消え、人間対人間の、つまりは平等な人間関係になる。子どもが大学生から、
おとなにかけての時期と考えてよい。

 子どもは、この反抗期を経て、家族が家族としてもつ、一連の束縛感(家族自我群)からの独
立を果たす。

こうした一連の流れを、正常な流れとするなら、そうでない流れも、当然、考えられる。何らか
の原因で、子ども自身が、じゅうぶんな反抗期を経験しないまま、おとなになるケースである。

 強圧的な家庭環境で、子ども自身が、反抗らしい反抗ができないケース。
 親の権威主義が強すぎて、子ども自身が、その権威におしつぶされてしまうケース。
 家庭環境そのものが、きわめて不安定で、正常な心理的発育が望めないケース。
 異常な過保護、過干渉、過関心で、子どもの性格そのものが萎縮してしまうケース。
 親自身(あるいは子ども自身)の知的レベル、育児レベルが、低すぎるケース。
 親自身(あるいは子ども自身)に、情緒的、精神的問題があるケース、など。

 こういったケースでは、子どもは、反抗期らしい反抗期を経験しないまま、おとなになることが
ある。そして当然のことながら、その影響は、そのあとに現れる。

 じゅうぶんな反抗期を経験しなかった子どもは、一般的には、自立心、自律心にかけ、生活
力も弱く、どこかナヨナヨした生きザマを示すようになる。一見、柔和でやさしく、穏かで、おとな
しいが、生きる力そのものが弱い。よい例が、母親のでき愛が原因で、そうなる、マザコンタイ
プの男性である。(女性でも、マザコンになる人は、少なくない。)

 このタイプの男性(女性)は、反抗期らしい反抗期を経験しないため、自我の確立を不完全な
まま、終わらせてしまう。その結果として、外から見ても、つかみどころのない、つまりは、何を
考えているか、わからないといった性格の人間になりやすい。

 そんなわけで、子どもが親に向かって反抗するようになったら、親は、「うちの子も、いよいよ
巣立ちを始めた」と思いなおして、一歩、うしろへ退くようにするとよい。子どもの反抗を、決して
悪いことと決めてかかってはいけない。頭から、押さえつけたりしてはいけない。その度量の広
さが、あなたの子どもを、たくましい子どもに育てる。
(はやし浩司 子どもの反抗 反抗期)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

++++++++++++++++++++++

【子どもの反抗期】(2)

子どもの反抗期で悩んでいる、東京都のUさんへ、
子どもの反抗期について考えてみました。

つぎの2つの原稿を読んでくださると、きっと心も軽く
なるはずです。どうか、お読みください。

+++++++++++++++++++++++

●「生きていてくれるだけでいい」
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思い
なおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。

特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中
学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてた
が、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っていた。

人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないも
のだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのでは
ない。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生
活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、
すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。もう何度も書いたように、フォ・ギブ
(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・ため」とも訳
せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英
語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。こ
の言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を
越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。

が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談を
してきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授
業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。

こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi++++

●「それ以上、何を望むのですか」
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き
ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな
る。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そし
て互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんで
しまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだでは
ないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。

しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしか
ない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつ
もドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。

私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いている。

「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、そ
れでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
(*浜松市AB幼稚園元園長)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(517)

●世間的自己

 少し前、(自己概念)と(現実自己)について、書いた。「自分は、こうあるべきだという私」を
(自己概念)といい、「現実の私」を(現実自己)という。

 これら二つが近接していれば、その人は、落ちついた状態で、自分の道を進むことができ
る。しかしこれら二つが遊離し、さらに、その間に超えがたいほどの距離感が生まれると、その
人の精神状態は、きわめて不安定になる。劣等感も、そこから生まれる(フロイト)。

 たとえば青年時代というのは、(こうであるべき自分)を描く一方、(そうでない自分)を知り、
その葛藤に(かっとう)に苦しむ時代といってもよい。

 そこで多くの若者は、(そうであるべき自分)に向って、努力する。がんばる。劣等感があれ
ば、それを克服しようとする。しかしその(そうであるべき自分)が、あまりにもかけ離れていて、
手が届かないとわかると、そこで大きな挫折(ざせつ)感を覚える。

 ……というのは、心理学の世界でも常識だが、しかしこれだけでは、青年時代の若者の心理
を、じゅうぶんに説明できない。

 そこで私は、「世間の人の目から見た私」という意味で、(自己概念)と(現実自己)にほかに、
3つ目に、(世間的自己)を付け加える。

 「私は世俗的他人からどのように評価されているか」と、自分自身を客観的に判断すること
を、(世間的自己)という。具体的に考えてみよう。

+++++++++++++++++

 A子さん(19歳)は、子どものころから、音楽家の家で育ち、持ち前の才能を生かして、音楽
学校に進学した。いつかは父親のような音楽家になりたいと考えていた。

 しかしこのところ、大きなスランプ状態に、陥(おち)いっている。自分より経験の浅い後輩よ
り、技術的に、劣っていると感じ始めたからだ。「私がみなに、チヤホヤされるのは、父親のせ
いだ。私自身には、それほどの才能がないのではないか?」と。

 ここで、「父親のような音楽家になりたい」というのは、いわば(自己概念)ということになる。し
かし「それほどの才能がない」というのは、(現実自己)ということになる。

 しかしAさんは、ここでつぎの行動に出る。自分の父親の名前を前面に出し、その娘であるこ
とを、音楽学校の内外で、誇示し始めた。つまり自分を取り囲む、世間的な評価をうまく利用し
て、自分を生かそうと考えた。「私は、あの○○音楽家の娘よ」と。

 これは私がここでいう(世間的自己)である。

+++++++++++++++++++

 少し話がわかりにくくなってきたので、もう少しかみくだいて説明してみよう。

 世の中には、世間体ばかりを気にして生きている人は、少なくない。見栄、メンツに、異常な
までに、こだわる。名誉や地位、肩書きにこだわる人も、同じように考えてよい。自分の生きザ
マがどこにあるかさえわからない。いつも他人の目ばかりを気にしている。

 「私は、世間の人にどう思われているか」「どうすれば、他人に、いい人に思われるか」と。

 そのためこのタイプの人は、自分がよい人間に見られることだけに、細心の注意を払うよう
になる。表と裏を巧みに使い分け、ついで、仮面をかぶるようになる。(しかし本人自身は、そ
の仮面をかぶっていることに、気づいていないことが多い。)

 これは極端なケースだが、こういう人のばあい、その人の心理状態は、(自己概念)と(現実
自己)だけは、説明できなくなる。そもそも(自己)がないからである。

++++++++++++++++++++

 そこで(私)というものを考えてみる。

 (私)には、たしかに、「こうでありたいと願っている私」がいる。しかし「現実の私はこうだとい
うことを知っている私」もいる。で、その一方で、「世間の人の目を意識した私」もいる。

 これが(自己概念)(現実自己)、そして(世間的自己)ということになる。私たちは、この三者
のはざまで、(私)というものを認識する。もちろん程度の差はある。世間を気にしてばかりして
いる人もいれば、世間のことなど、まったく気にしない人もいる。

 しかしこの世間体というのは、一度それを気にし始めると、どこまでも気になる。へたをすれ
ば、底なしの世間体地獄へと落ちていく。世間体には、そういう魔性がある。気がついてみた
ら、自分がどこにもないということにもなりかねない。

 中学生や高校生を見ていると、そういう場面に、よく出あう。

 もう15年ほど前のことだが、ある日、1人の男子高校生が私のところへやってきて、こう聞い
た。

 「先生、東京のM大学(私立)と、H大学(私立)とでは、どっちが、カッコいいでしょうかね。
(結婚式での)披露宴でのこともありますから」と。

 まだ恋人もいないような高校生が、披露宴での見てくれを心配していた。つまりその高校生
は、「何かを学びたい」と思って、受験勉強をしていたわけではない。実際には、勉強など、ほと
んどしていなかった。その一方で、現実の自分に気がついていたわけでもない。

 学力もなかったから、だれでも入れるような、M大学とH大学を選び、そのどちらにするかで
悩んでいた。つまりこれが、(世間的自己)である。

+++++++++++++++++++++++

 これら(自己概念)(現実自己)(世間的自己)の三者は、ちょうど、三角形の関係にある。

 (自己概念)も(自己評価)も、それほど高くないのに、偶然とチャンスに恵まれ、(世間的自
己)だけが、特異に高くなってしまうということは、よくある。ちょっとしたテレビドラマに出ただけ
で、超有名人になった人とか、本やCDが、爆発的に売れた人などが、それにあたる。

 反対に(自己概念)も(自己評価)も、すばらしいのに、不運がつづき、チャンスにも恵まれ
ず、悶々としている人も、少なくない。大半の人が、そうかもしれない。

 さらにここにも書いたように、(自己概念)も(現実自己)も、ほとんどゼロに等しいのに、(世
間的自己)だけで生きている人も、これまた少なくない。

 理想的な形としては、この三角形が、それぞれ接近しているほうがよい。しかしこの三角形が
肥大化し、ゆがんでくると、そこでさまざまなひずみを引き起こす。ここにも書いたように、精神
は、いつも緊張状態におかれ、ささいなことがきかっけで、不安定になったりする。

++++++++++++++++++++++

 そこで大切なことは、つまり親として子どもを見るとき、これら三者が、子どもの心の中で、ど
のようなバランスを保っているかを知ることである。

 たとえば親の高望み、過剰期待は、子どものもつ(自己概念)を、(現実自己)から、遊離させ
てしまうことに、なりかねない。子ども自身の自尊心が強すぎるのも、考えものである。

 子どもは、現実の自分が、理想の自分とあまりにもかけ離れているのを知って、苦しむかもし
れない。

 さらに(世間的自己)となると、ことは深刻である。もう20年ほど前のことだが、毎日、近くの
駅まで、母親の自動車で送り迎えしてもらっている女子高校生がいた。「近所の人に制服を見
られるのがいやだから」というのが、その理由だった。

 今でこそ、こういう極端なケースは少なくなったが、しかしなくなったわけではない。世間体を
気にしている子どもは、いくらでもいる。親となると、もっといる。子どもの能力や方向性など、
まったく、おかまいなし。ブランドだけで、学校を選ぶ。

 しかしそれは不幸の始まり。諸悪の根源、ここにありと断言してもよい。もちろん親子関係
も、そこで破壊される。

 ……と話が脱線しそうになったから、この話は、ここまで。

 そこであなた自身は、どうか。どうだったか。それを考えてみるとよい。

 あなたにはあなたの(自己概念)があるはず。一方で、(現実自己)もあるはず。その両者
は、今、うまく調和しているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかしもしそうでないなら、あな
たは、今、ひょっとしたら、悶々とした毎日を過ごしているかもしれない。

 と、同時に、あなたの(世間的自己)をさぐってみるとよい。「私は世間のことなど、気にしな
い」というのであれば、それでよし。しかしよくても悪くても、世間的自己ばかりを気にしている
と、結局は、疲れるのは、あなた自身ということになる。

 (私)を取りもどすためにも、世間のことなど、気にしないこと。このことは、そのままあなたの
子育てについても、言える。あなたは自分の子どものことだけを考えて、子育てをすればよい。
すべては、子どもから始まり、子どもで終わる。

 コツは、あなたが子どもに抱く(子どもの自己概念)と、子ども自身が抱く(現実自己)を、遊離
させないこと。

その力もない子どもに向かって、「もっと勉強しなさい!」「こんなことで、どうするの!」「AA中
学校へ、入るのよ!」では、結局は、苦しむのは、子ども自身ということになる。
(はやし浩司 現実自己 自己概念 世間的自己 世間体)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【近況・あれこれ】

【サンデー毎日(1・30日号)を読む】

●ノロウィルス

 老人ホームや家庭で、ノロウィルスというウィルスが、流行しているという。しかしノロウィルス
とは、何か? 別名「嘔吐下痢ウィルス」(同誌)ともいうらしい。もともとは、ありふれたウィルス
で、食中毒の原因にもなるウィルスだという。

 そのウィルスが改めて問題になっているのは、ある老人ホームで、ノロウィルスが原因と思わ
れる食中毒が、集団発生したからである。

F市の「F山F寿園」では、入所者のうちの40人以上が、嘔吐、下痢、発熱などの症状を示し
た。うち、7人が、死亡した。しかしこれはほんの始まりにすぎなかった。ノロウィルスの感染者
が、老人ホームを中心に、全国に広がっていることがわかった。

 なぜか?

 サンデー毎日は、こう伝える。「特養ホームへの入所基準が、3年前に改正され、要介護度
の高い人ほど、優先されることになったのと、施設側にとっても、介護報酬が高いとのメリット
から、重度の入居者が、急増しています。……要介護度4〜5の人が、2000年には、49%だ
ったのですが、02年には、56%、今では7割近いはずです」と。

 重度の要介護者が、ふえた。その結果として、体の抵抗力の弱い老人が、集中的に感染し
てしまったというわけである。

 私は、この記事を読んだとき、別のことを考えていた。

 F寿園でなくなった老人たちは、81〜91歳の人たちだったという。逆算すると、私が20歳の
ころに、44〜54歳の人たちだったということになる。ちょうど、今の私の年齢ということにな
る。

 そこで私は、その記事を読みながら、つまり私が20歳のころの、44〜54歳の人たちを、懸
命に思い出そうとしていた。金沢で学生だったころ、下宿先のおじさんや、おばさんが、その年
齢だった。近所の店屋の、おやじさんも、その年齢だった。

 そういう人たちが今、81〜91歳になって、特別養護老人ホームに入っている。……と考えて
いくと、奇妙な気分になった。

 みんな、それぞれの時代を懸命に生きてきた。が、その結果として、最後は、特別養護老人
ホームの世話になって、中には、こうした感染症で命を落していく。

 つまりそれは、私自身の近未来の姿でもある。私もいつか、そういう老人になり、特別養護老
人ホームへ入ることになる。となると、今の私の人生は、何かということになってしまう。さらに、
私は、何のために生きているのかということにもなってしまう。

 まあ、しかし、そんなことを考えていると、クラ〜イ気分になってしまう。この記事を読んで、そ
のクラ〜イ気分になったのは、そのためではないか。ともかくも、今は今で、懸命に生きるしか
ない。同時に、ノロウィルスに注意するしかない。同誌によれば、つぎのような点に気をつけれ
ばよいということだそうだ。

(1)手洗いを繰りかえす
(2)食べものは、85度で1分以上の加熱処理する
(3)生ガキを大量に食べない
(4)高齢者の多い施設を、安易に訪問しないことだ、そうだ。

 
●NHKと朝日新聞社の大戦争!

 NHKの現職プロデューサーのNG氏が、内部告発をした。いわく「EB会長は、知っていた」
と。

 NHKの番組制作に、政治家が圧力を加えたとか、加えなかったとか、そういう論争である。
それに対して、現職のプロデューサーが、「命がけの告白をした」(同誌)と。

 当の政治家のNG氏やAB氏は、事実無根と、朝日新聞社を告発する動きにまで出てきた
(1・18)。NHKも、これに呼応する形で、調査結果なるものを発表し、朝日新聞社に対して、
抗議文まで送った。

 NG氏は、こう告発している。「EB体制になってから、現場への政治の介入が日常茶飯事に
なった」と。同誌には、具体的な例がいくつか書かれている。

 どちらが本当のことを言っているのか。どちらがウソを言っているのか。

 ……という議論は、さておき、NHKがつまらなくなってから、10年になる。いや、20年にな
る? 正義感そのものが、消えた? 国民の側に立って、体制側の不正、不公平を追及した
報道となると、記憶に残っているものが、何もない。いつもどこかでお高くとまっていて、「控え
おろう」式の番組ばかり。報道ばかり。中立公正どころか、アメリカなどへ行ってNHKのテレビ
報道を見ていると、K国のP放送、そっくり。「NHKは、やっぱり、国営放送局だったのだ」と。

 よい例が、相撲(すもう)。NHKと日本相撲協会の癒着(ゆちゃく)ぶりは有名だが、BS放送
のほうでは、毎度、午後1時から6時すぎまで実況中継している。まだ観客席がガラガラのとき
から、である。終わりのほうはともかくも、1時ごろから、相撲の中継を見ている人は、いった
い、何%いるというのか?

 ……というような、例は多い。というわけで、私は、最近、NHKのテレビ番組を、ほとんど、見
ていない。大河ドラマの、「新撰組」にしても、「義経」にしても、その時代の、悪党たち。NHKで
は、そういう連中が、ヒーローになってしまう。

 忘れてはいけないのは、あの新撰組にしても、あの新撰組が現れたことで、京都の庶民たち
は、恐怖のどん底に、叩き落とされてしまったということ。義経も、似たようなものだ。そういう、
つまり「下」からものを見る視点が、NHKから、消えてしまった?

 そこで今回のドロ試合を客観的に判断してみる。が、残念ながら、朝日新聞社にもすなおに
味方できないが、それ以上に、NHKにも、味方できない。東京大学のTK教授は、同誌の中
で、こうコメントを書いている。

 「ウミを出さねば、NHKは、崩壊する」と。

 この意見には、大賛成である。

+++++++++++++++++++++++++++++

大切なことは、NHKの中にも、良識派の人もいるということ。
権威主義と戦っている人もいるということ。私たちはそういう
人を、視聴者としてではなく、自由と平等と平和を守る先駆者
として、支援し、応援していかねばならないということ。

少し前だが、NHKを批判した、こんな原稿を書いたことがある。

+++++++++++++++++++++++++++++

●平和教育

 人格の完成度は、その人が、いかに「利他」的であるかによって決まる。「利己」と「利他」を
比較してみたばあい、利他の割合のより大きい人を、より人格のすぐれた人とみる。

 同じように国家としての完成度は、いかに相手の国の立場でものを考えることができるかで
決まる。経済しかり、文化しかり、そして平和しかり。

 自国の平和を唱えるなら、相手国の平和を保障してこそ、はじめてその国は、真の平和を達
成することができる。もし子どもたちの世界に、平和教育というものがあるとするなら、いかに
すれば、相手国の平和を守ることができるか。それを考えられる子どもにすることが、真の平
和教育ということになる。

 私たちは過去において、相手の国の人たちに脅威を与えていなかったか。
 私たちは現在において、相手の国の人たちに脅威を与えていないか。
 私たちは将来において、相手の国の人たちに脅威を与えるようなことはないか。

 つまるところ、平和教育というのは、反省の教育ということになる。反省に始まり、反省に終
わる。とくにこの日本は、戦前、アジアの国々に対して、好き勝手なことをしてきた。満州の植
民地政策、真珠湾の奇襲攻撃、それにアジア各国への侵略戦争など。

 もともと自らを反省して、責任をとるのが苦手な民族である。それはわかるが、日本人のこの
無責任体質は、いったい、どうしたものか。

 たまたま先週と今週、2週にわたって、「歴史はxxxx動いた」(NHK)という番組を見た。日露
戦争を特集していた。

その特集の中でも、「どうやって○○高地を占領したか」「どうやってロシア艦隊を撃滅したか」
という話は出てくるが、現地の人たちに、どう迷惑をかけたかという話は、いっさい、出てこなか
った。中国の人たちにしてみれば、まさに天から降ってきたような災難である。

 私は、その番組を見ながら、ふと、こう考えた。

 「もし、今のK国が、日本を、ロシアと取りあって、戦争をしたら、どうなるのか?」と。

「K国は、50万人の兵隊を、関東地方に進めた。それを迎え撃つロシア軍は、10万人。K国
は箱根から小田原を占領し、ロシア軍が船を休める横須賀へと迫った……、と。

 そしてそのときの模様を、いつか、50年後なら50年後でもよいが、K国の国営放送局の司
会者が、『そのとき歴史は変わりました』と、ニンマリと笑いながら、得意げに言ったとしたら、ど
うなるのか。日本人は、そういう番組を、K国の人たちといっしょに、楽しむことができるだろう
か」と。

 日露戦争にしても、まったく、ムダな戦争だった。意味のない戦争だった。死んだのは、何十
万人という日本人、ロシア人、それに中国人たちだ。そういうムダな戦争をしながら、いまだに
「勝った」だの、「負けた」だのと言っている。この日本人のオメデタサは、いったい、どこからく
るのか。

 日本は、歴史の中で、外国にしいたげられた経験がない。それはそれで幸運なことだったと
思うが、だからこそ、しいたげられた人の立場で、ものを考えることができない。そもそも、そう
いう人の立場を、理解することさえできない。

 そういう意味でも、日本人がもつ平和論というのは、実に不安定なものである。中には、「日
本の朝鮮併合は正しかった。日本は、鉄道を敷き、道路を建設してやった」と説く人さえいる。

 もしこんな論理がまかりとおるなら、逆に、K国に反対のことをされても、日本人は、文句を言
わないことだ。ある日突然、K国の大軍が押し寄せてきて、日本を占領しても、文句を言わない
ことだ。

 ……という視点を、相手の国において考える。それが私がここでいう、平和教育の原点という
ことになる。「日本の平和さえ守られれば、それでいい」という考え方は、平和論でもなんでもな
い。またそんな視点に立った平和論など、いくら説いても意味はない。

 日本の平和を守るためには、日本が相手の国に対して、何をしたか。何をしているか。そし
て何をするだろうか。それをまず反省しなければならない。そして相手の国の立場で、何をす
べきか。そして何をしてはいけないかを、考える。

 あのネール(インド元首相)は、こう書いている。

 『ある国の平和も、他国がまた平和でなければ、保障されない。この狭い相互に結合した世
界では、戦争も自由も平和も、すべて連帯している』(「一つの世界を目指して」)と。

 考えてみれば、「平和」の概念ほど、漠然(ばくぜん)とした概念はない。どういう状態を平和と
いうか、それすら、よくわからない。が、今、平穏だから、平和というのなら、それはまちがって
いる。今、身のまわりで、戦争が起きていないから、平和というのなら、それもまちがっている。

こうした平和というのは、つぎの戦争のための準備期間でしかない。休息期間でしかない。私
たちが、恵まれた社会で、安穏としたとたん、世界の別のところでは、別のだれかによって、つ
ぎの戦争が画策されている。

 過去において、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えていたか。
 今、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えているか。
 さらの将来、相手の国の人たちが、自分たちについて、どう考えるだろうか。

 そういうことをいつも、前向きに考えていく。またそれを子どもたちに教えていく。それが平和
教育である。
(はやし浩司 平和教育 平和 平和論)

●コレステロール

 サンダー毎日といっしょに、週刊朝日、1月28日号も、購入した。

 表紙には、「コレステロールの下げ過ぎは危険」とある。さっそく、そのページ(22)を読む。

 「コレステロール値が150台にさがった」……検診結果で喜んでいる人は少なくない。だが低
い数値を歓迎してはいられない。200を切ると、発がんリスクが、増加する、高齢者では活力
が低下する、うつが多発するなど、低コレステロールによる健康被害を、専門家は、警告して
いる」と。

 要するに、コレステロール値が低すぎるのもよくないということ。週刊朝日には、健康10か条
が表にしてあった。

(高齢者の健康10か条)

(1)コレステロール値は、やや高めのほうがよい。
(2)牛肉、豚肉、魚をしっかりと食べる。
(3)緑黄色野菜をふんだんに。
(4)マーガリンよりも、バター。
(5)お酒は少量。タバコは吸わない。
(6)医者、専門家の言いなりにならない。
(7)脱水症に注意。夏場には塩分の補給も。
(8)糖分、甘いものは、脳のために必要。
(9)薬による血圧や血糖の下げすぎに注意。
(10)手足と頭を、使いつづける。

(中年の健康10か条)

(1)コレステロール値は、高すぎず、低すぎず。
(2)牛肉、豚肉、卵は、ほどよく。魚はしっかりと食べる。
(3)緑黄色野菜をよくとる。
(4)マーガリンよりも、バター。
(5)お酒は少量なら薬だが、下戸には禁物。サバコは吸わない。
(6)医者、専門家の指導を守る。
(7)過度の精神的、身体的ストレスを避ける。
(8)達成感のある適度なストレスは、有用。
(9)運動をつづける。(早朝、過度は避ける。)
(10)女性のダイエットは、骨粗しょう症のもと
(以上、「週刊朝日」・新東京病院・益澤秀明氏による)

 健康のありがたさは、それを失ったときにわかる。しかし健康というのは、つくるものではな
く、維持するもの。しかし維持しようと心がけたところで、維持できるものではない。

 健康を維持できるかどうかは、健康的な生活習慣を、いかに生活の中で定着させるかによっ
て決まる。どんな運動がよいかではなく、いかにすれば、毎日、運動する習慣を身につけること
ができるかどうか、だ。食事にしても、同じ。

 ……と自分でもわかっているが、それがむずかしい。昨夜も、自転車にまたがると、いきな
り、身を切るような冷気にさらされた。「今夜は、運動をやめようか」と思った。しかし思い切っ
て、ペダルをこいだ。

 大切なことは、そういう自分の(弱さ)と、どう戦うかだ。健康問題は、結局は、そこへ行き着
く。


●タレントのI田と、H川の離縁

 「モデルのH川Rさんとの、9年近い交際に、突然の終止符を打ったI田Jさん。その別れの理
由に迫ってみた」(週刊朝日・28)と。

 もともと、どうということのないタレントどうしの、内輪話。何でも「家を建てたことが、離縁話の
きっかけになったとか、ならなかった」とか。最初の10〜20行だけ目を通して、終わり。

 こういう話には、学ぶべきものが、何もない。一片の哲学も感じない。どうしてこんな記事が、
週刊朝日に載るのだろう?、……と思いつつ、つぎへ。


●中国、恐るべし?

 東芝会長のN氏と、キャノン社長のM氏の対談記事。これはすべて読んだ。タイトルは、「も
う、そっくりさんは、カンペキ」「最先端技術は、見せられない」と。

「模倣品については、(中国は)もう、カンペキなものをつくる技術力をもっている。そのため、日
本が得意とする最先端技術は、中国には渡せない」というのが、その対談の主旨。

 記事の冒頭には、こうある。

 「05年も、日本や世界が最も注目するのは、中国経済の動向だ。電子機器や自動車、衣
料、食品まで、世界の工場となった中国は、日本の景気回復を牽引(けんいん)する。モノづく
りにとって、さらに協調が進むのか、あるいは脅威になるのか。日本を代表する製造業のリー
ダー2人が、語り合った」(同30ページ)と。

 内容は、(1)「いくら先端技術を守るといっても、中国政府が、会社を、丸ごと買収してきた
ら、それを防ぐ手立てはない」、(2)「経済面はともかくも、底辺からわき起こりつつある反日感
情が心配」、(3)「日本の人手不足は、無人化(ロボット化)で対応できる」というもの。

 読んでいて、不安になったり、希望をもったり、あるいは心配になったり……。

 大中国の経済圏に、自らを組みこんでいくか、それとも、大中国の経済圏に自ら背を向け、
独自の道を歩みつづけるか。やがて日本も、その選択に迫られることになる。

共存、共栄という考え方もあるが、中国側は、そんなことは考えていない。中国が念頭に置い
ているのは、「日本をたたきつぶして、のみこむ」、である。

 中国を、決して、甘く見てはいけない。国のスケールもちがうが、底力もちがう。やがて日本と
中国は、経済面、商業面のあらゆる分野で、激突を繰りかえすようになる。現在、日本と韓国
は、いろいろな場面で小競(ぜ)りあいを繰りかえしているが、中国との激突は、そんな程度で
はすまない。

 へたをすれば、アメリカを巻きこんだ、戦争、ということにもなりかねない。

 で、読後感だが、週刊朝日の記事の結論は、どこか、すっきりしない。あいまいなまま。中国
にすでに巨大な資本を投下している、東芝や、キャノンのトップとしては、言えないことも多いの
だろう。記事を読み終えたとき、そんな感じがした。

【付記】

 中国人が共通してもつ、反日感情は、私の息子たちでさえも経験し始めている。空港で話し
かけても、無視されたとか、傲慢な態度だったとか、など。オーストラリアのレストランで意地悪
されたという話も伝わってきている。全体としてみると、国際社会で活躍している中国人ほど、
日本人に対して、敵意をいだいているようである。

 こうした反日感情の原因が、すべて、あの戦争にあると、私は思っていない。

 今から30年ほど前のことだが、何かの調査で、こんなことを知ったことがある。

 日本へやってくる中国の留学生たちが、1、2年の留学期間を終え、帰国するときには、み
な、日本嫌いになって、帰っていくというのだ。中には、「二度と日本へは来たくない」とはき捨
てて出て行く留学生もいたとか。

劣悪な生活環境、アジア人蔑視の偏見など。当時の日本人は、「外国」と言えば、アメリカやヨ
ーロッパを意味した。韓国や中国は、その外国にも入っていなかった。

 そのときの留学生たちが、今の中国をリードしている? どこかでゆがんだ日本観をもたせ
てしまったが、その原因はといえば、私たちがもっていた、ゆがんだ中国人観というより、アジ
ア人観ではなかったのか。とても残念なことだが……。

+++++++++++++++++++++++++++

世にも不思議な留学記の一部を、ここに転載しておきます。

+++++++++++++++++++++++++++

【処刑になったタン君】

●日本人にまちがえられたタン君

 私の一番仲のよかった友人に、タン君というのがいた。マレーシアン中国人で、経済学部に
籍をおいていた。最初、彼は私とはまったく口をきこうとしなかった。

ずっとあとになって理由を聞くと、「ぼくの祖父は、日本兵に殺されたからだ」と教えてくれた。

そのタン君。ある日私にこう言った。「日本は中国の属国だ」と。そこで私が猛烈に反発する
と、「じゃ、お前の名前を、日本語で書いてみろ」と。私が「林浩司」と漢字で書くと、「それ見ろ、
中国語じゃないか」と笑った。

そう、彼はマレーシア国籍をもっていたが、自分では決してマレーシア人とは言わなかった。
「ぼくは中国人だ」といつも言っていた。マレー語もほとんど話さなかった。話さないばかりか、
マレー人そのものを、どこかで軽蔑していた。

 日本人が中国人にまちがえられると、たいていの日本人は怒る。しかし中国人が日本人にま
ちがえられると、もっと怒る。

タン君は、自分が日本人にまちがえられるのを、何よりも嫌った。街を歩いているときもそうだ
った。「お前も日本人か」と聞かれたとき、タン君は、地面を足で蹴飛ばしながら、「ノー(違
う)!」と叫んでいた。

 そのタン君には一人のガールフレンドがいた。しかし彼は決して、彼女を私に紹介しようとし
なかった。一度ベッドの中で一緒にいるところを見かけたが、すぐ毛布で顔を隠してしまった。

が、やがて卒業式が近づいてきた。タン君は成績上位者に与えられる、名誉学士号(オナー・
ディグリー)を取得していた。そのタン君が、ある日、中華街のレストランで、こう話してくれた。
「ヒロシ、ぼくのジェニーは……」と。喉の奥から絞り出すような声だった。

「ジェニーは四二歳だ。人妻だ。しかも子どもがいる。今、夫から訴えられている」と。そう言い
終わったとき、彼は緊張のあまり、手をブルブルと震わした。

●赤軍に、そして処刑

 そのタン君と私は、たまたま東大から来ていたT教授の部屋で、よく徹夜した。教授の部屋は
広く、それにいつも食べ物が豊富にあった。T教授は、『東大闘争』で疲れたとかで、休暇をも
らってメルボルン大学へ来ていた。

教授はその後、東大の総長特別補佐、つまり副総長になられたが、タン君がマレーシアで処
刑されたと聞いたときには、ユネスコの国内委員会の委員もしていた。

この話は確認がとれていないので、もし世界のどこかでタン君が生きているとしたら、それはそ
れですばらしいことだと思う。しかし私に届いた情報にまちがいがなければ、タン君は、マレー
シアで、一九八〇年ごろ処刑されている。タン君は大学を卒業すると同時に、ジェニーとクアラ
ルンプールへ駆け落ちし、そこで兄を手伝ってビジネスを始めた。しばらくは音信があったが、
あるときからプツリと途絶えてしまった。何度か電話をしてみたが、いつも別の人が出て、英語
そのものが通じなかった。

で、これから先は、偶然、見つけた新聞記事によるものだ。その後、タン君は、マレーシアでは
非合法組織である赤軍に身を投じ、逮捕、投獄され、そして処刑されてしまった。遺骨は今、兄
の手でシンガポールの墓地に埋葬されているという。

T教授にその話をすると、教授は、「私なら(ユネスコを通して)何とかできたのに……」と、さか
んにくやしがっておられた。そうそう私は彼に出会ってからというもの、「私は日本人だ」と言う
のをやめた。「私はアジア人だ」と言うようになった。その心は今も私の心の中で生きている。

(つづきは、HPのほうで。どうか、お読みください。)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●ますます巧妙化する、スパムメール(?)

 油断大敵とはいうが、しかし……。

 昨日、こんなメールが、届いた。

 送信者は、「mail-magazine users」
 件名は、「メルマガ通信、緊急連絡 【No.345】」

 「?」と思ったが、見たとたん、開いてしまった! ……と言っても、受けたのは、事務所にあ
る、電話回線でつないだ、古いノートパソコン。(そういう油断もあった。)ADSLの常時接続方
式でなかったのが、幸いした。

 メールを開いたとたん、HTML画面。とたん、自動接続が始まった。その直後、私は、回線を
パソコンから抜いた。あぶなかった! ADSLのほうに接続していたら、確実に、コンピュータ・
ウィルスか、あるいは、スパイウェアが侵入していたにちがいない。しかも最近は、日本語で!

 それにしても……! まあ……! スパムメールにしても、ますます巧妙になってきた。あの
手、この手というより、ありとあらゆる手を使ってくる。

 そこでもう一度、自分に言って聞かせる。「(?)なメールは、即、削除。何も考えず、即、削
除」と。

 みなさんも、どうか、用心してください。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
※ 
+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

最前線の子育て論byはやし浩司(518)

●本物のバカ

 今朝(1月21日)、こんな夢を見た。

 私が図書館で本を読んでいたときのこと。どこかの書店だったかもしれない。そこへ1人の青
年が入ってきた。年齢は、25歳くらいか。

 その青年が、私の座っていた席を、「私の席だから、どけ」と言った。そのとき、私は、たまた
まその席から立つところだった。そこで私は、そのままその青年に席をゆずった。が、どうも、
腹のムシが、収まらない。

 そこで私は、その青年に、「そんな言い方はないだろう」「ここはぼくの席だ」と、怒鳴りつけて
やった。

 こういうのを本物のバカという。

 その青年が、バカというのではない。私自身のことである。

 その夢は、私が見た夢。その青年も、ストーリーも、私が夢の中で、私が勝手に、つくりあげ
たもの。私は、自分でつくった世界の中で、自分に怒っていた!

 だから私は、本物のバカ!

 怒れば、気分は悪い。つまり私は、自分で勝手な想像をして、自分で自分の気分を悪くした。

 ……というのは、夢の世界の話だが、こういう例は、日常でも、よく経験する。

 たとえば親子関係。こんな話がある。

 母親の異常なまでの過干渉で、自分で考える力をなくしてしまった子ども(小4男児)がいた。
子どもが何をしても、「ダメでしょう」「どうしてあなたは、そんなことがわからないの!」と、その
母親は、その子どもを、いつも顔をしかめて、叱っていた。

 このタイプの子どもは、自分で考えて行動することができない。そのため、ときとして、常識ハ
ズレな行為を繰りかえす。その子どもも、そうだった。

 ある日、母親が、歳暮用に買っておいたワインの箱をあけてしまったこともある。それを見
て、いつものように母親は、激怒した。「これは○○さんに、あげるものよ。どうして箱をあけて
しまうの!」と。

 それに答えて、その子どもは、「ちょっと箱の中を見たかっただけ……」と答えたという。

 ……実は、この話は、私が見た夢の内容とよく似ている。

 その母親も、自分の作った世界で、自分のつくった子どもに、腹を立てている。夢の世界と現
実の世界は、ちがうとは言うが、「精神の世界」という観点で考えると、どこもちがわない。

 実は、私たちは、こうした愚かなこと(=バカなこと)を、無意識のまま、日常的に繰りかえして
いる。地域でも、社会でも、そして国という世界でも……。

 夢からさめたとき、私は、自分でこう思った。「私も、本物のバカだな」と。

 そうそう、一言。

 韓国映画に、「冬のxxx」といのが、ある。あの主人公は、マレに見る美男子とかで、今、日本
中の女性(中年を中心とする女性)の多くが、その男優に夢中になっている。記者会見の席な
どで、顔をあわせただけで、涙まで流して喜んでいる女性もいるという。

あれなども、そうだ。「映画」という作られた世界でつくられた虚像とも気がつかないまま、悲し
んだり、喜んだりしている。そういう女性は、夢の中で怒鳴りつけた私とどこがどうちがうという
のか。「本物のバカ」とまでは言わないが、それに近いのでは?

 もっとも、人間の脳ミソの中には、自分であって自分である部分も、たしかにあるが、しかし自
分であって自分でない部分もある。むしろ、そちらのほうが、部分としては、はるかに大きい。

 私が見た夢も、その一つ。

 自分であって自分でない部分が、勝手にそういうわがままな青年を、夢の中で、作った。そし
て自分であった自分である部分の私が、それに対して怒った。そういうふうに考えれば、「私は
本物のバカ」とは、言い切れないのかもしれないのだが……。


●バカになる

 頭の少しボケた兄を見ていて、こんなことに気づいた。

 私のもっていたステレオセットを、兄に、あげた。何枚かのCDを、連続して聞くことができる
装置がついている。MDも聞けるし、当然、カセットテープも聞ける。

 しかし何度、その操作のし方を教えても、すぐ忘れてしまう。ときどき、タイマーのスイッチを不
用意に押してしまうので、ステレオが、まったく作動しなくなってしまうこともある。

 そこで押してはいけないというスイッチに、ガムテープを張ってやるのだが、それも、すぐはが
してしまう。ボケているわりには、短気。気が短い。

 ……脳ミソの中のある部分が、まったく機能していないようだ。

 と、考えていたら、同じ経験を、私自身が、昨夜した。

 中学3年生を教えているとき、このところの介護疲れもあって、ふいにウトウトと眠ってしまっ
た。こんなことは、この20年でも、はじめてのことだった。

 そのとき、小学5年生のK君が、「先生、これ?」と私に質問してきた。見ると、簡単な(?)二
次方程式の問題だった。K君は、飛び級で、そのクラスにいた。

 「うん」と言って、教え始めた。しかし、である。どうも頭の調子がおかしい。考えているはずな
のに、思考がまとまらない。まとまらないばかりか、同じことを、何度も繰りかえし考えてしまう。

 明らかに思考がループ状態に入ったようである。

 「簡単な問題だ」と思えば思うほど、頭の中が混乱してしまう。

 つまり、私は、そのとき、ボケを、疑似体験したことになる。そしてこう思った。「なるほど、ボ
ケた状態というのは、こういう状態をいうのだ」と。

 実は、そんなわけで、ボケは、何もボケた老人だけが経験するものではない。私たちも、程度
の差こそあれ、日常的に経験する。あくまでも、程度の差だ。

 そしてアルツハイマー型痴呆症は別として、こうしたボケは、老人になってから突然、始まるも
のではなく、もっと若いときから、少しずつ、徐々に始まるものである。20代とか、30代とか、
そういうときからである。

 大切なことは、そのボケに、できるだけ早く気づくこと。それはちょうど、体力の衰えと似てい
る。加齢とともに、肉体は、衰える。健康も、衰える。成人病という病気もある。

 毎日、ほんの少しずつの変化だから、それに気がつかない。気がつかないまま、症状だけ
は、1年単位で、どんどんと進行していく。

 その兄だが、昨日、戸棚から、簡単なパズルを取り出して、やらせてみた。木でできた、組あ
わせパズルである。そのパズルをしばらくしたあと、兄は、こう言った。「頭が痛くなった」と。

 本当に痛くなったかどうかは知らないが、たしかに考えるということには、ある種の苦痛がとも
なう。中学生や高校生に、数学の問題を解かせると、同じようなことを言う生徒がいる。

 さて昨夜の私だが、私は、頭は痛くはならなかったが、不快感だけは、ムラムラと起きてき
た。「どうしてこんな簡単な問題が解けないのか?」と。自分の頭を手でかかえながら、自分が
なさけなかった。

 いつかやがて、私の頭は、日常的に、そういう状態になるのだろう。K君とは、時間がきたの
で別れたが、何とも言えないさみしさだけが、胸に残った。


●マガジン読者

 こんなことを書くと、まじめに私の電子マガジンを読んでくれる人を怒らせるかもしれない。し
かしこの1月に入ってから、読者がほとんど、ふえなかった。

 一応、毎週、月曜日、水曜日、金曜日に発行しているが、この一か月で、どんどんと、意欲が
減退していくのが、自分でもよくわかった。

 で、おととい、またまた、ワイフに、こう言ってしまった。「電子マガジンは、もうやめようと思う」
と。パソコンに向っても、指が動かない。もともと私は意思が弱い。

 それに答えて、ワイフは、ああいう人間だから、いつもあっさりと、こう言う。「やめたければ、
いつでもやめたら。だれかが、書いてくれと頼んでいるわけじゃ、ないんだから……」と。

 ナルホド! いつも、私が勝手に書いているだけである。

 2か月ほど前も、1人の仲間が、電子マガジンを、廃刊にした。4、5年かけて、読者数を24
00人くらいにした。それでも廃刊にした。「道楽でつづけるのにも、限界がありますから」と。最
後のメールには、そうあった。

 このあたりが電子マガジンの限界かもしれない。

 物品の販売を目的にしたマガジンとか、エロ・スケベマガシンなどは、しぶとく生き残ってい
る。読者数をふやしている。しかし私が出しているような硬派のマガジンは、そうでない。たしか
に限界がある。

 とくに、お金がほしいとは思わないが、まったく見返りのない世界。それが電子マガジンの世
界と言ってもよい。

 ……ということで、実は、数日前から、もう原稿を書くのをやめた。あとは、どう廃刊にもって
いくかだ……と、考えていたら、今朝(1月21日)、パソコンを開いてみると、Eマガの読者数
が、ナ、何と、5人もふえていた!

 驚いた! うれしかった! と、同時に、またムラムラと意欲がわいてきた。どういうことだろ
う?

 そこで早速、今朝見た夢の話から、書き始めた。とりあえずは、その5人の方に、今朝書い
た原稿を読んでもらいたかった。

 1月21日の朝、読者になってくださった、5人の方へ、ありがとうございました。それに数日前
に励ましのメールをくださった。東京H市のWさん、ありがとうございました。

 Wさんからのメールを、そのまま、転載させていただきます。

++++++++++++++++++++++

【 ご意見をお寄せください。 】:

いつも、楽しみに読ませていただいております。
メルマガの日が来るのが、とても楽しみで仕方ないです。我が家は、社宅なので、周りに子供
が多く、我が家の子供たちは異年齢の子供たちと多く接することができるありがたい環境で育
っています。

子供同士のことで頭を抱えることもしばしばですが
悩んだり、落ち込んだりしたときに、はやしさんの文章を読んではいいヒントをいただいており
ます。

これからも、ずっと楽しみに読ませていただきます。

【 マガジンを読んでくださっていますか? 】:

毎回、欠かさず読んでいる。
【 ホームページをご覧くださっていますか? 】:

よく見る。

【 マガジンは、おもしろいですか? 】:

たいへんおもしろい。
たいへん、役立っている。
林の思想は、標準的。納得できる。

++++++++++++++++++++++

【Wさんへ……】

 何度も、いただいたメールを読みかえしました。
 ありがとうございました。

 はやし浩司

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●夜景をとる

 先日、浜松市の中心部にある、Aタワーに登った。45階建ての、超豪華ビルである。そのと
き、ワイフが、「夜景を見たい」と言った。

 そこで昨夕(1・20)、1時間ほど、休み時間があったので、ワイフと町で合流して、再び、Aタ
ワーに登ってみた。(エレベーターで登ったので、「昇った」と書くべきか?)

 時刻は、午後の6時ごろ。

 エレベーターの中から、外の景色を見ながら、デジカメをセット。夜景モードにした上、タイマ
ーにする。カメラがブレないよう、三脚もとりつけた。

 どこかワクワクする。

 で、45階。入場券を買うのももどかしく感じながら、通路に出た。

 ……ウ〜ン、やはり美しかった。「100万ドルの夜景」とか、「10万ドルの夜景」とか言うが、
「まあ、20万ドルの夜景」! 文句なし。天気もよかった。

 ブラジルのリオには、コッペパンの山というのがある。あの山から見下ろす夜景も、すばらし
かった。まさに真下に夜景が広がっている。そんな感じだった。よく知られた夜景に、香港の夜
景がある。私は、あまり好きではないが……。

 私は、時間をおしんで、バシャリバシャリと、デジカメで写真をとる。その時間の間に、夕食も
とらなければならない。

 「ゆっくり来ればよかったわ」と、ワイフが、何度も言う。ワイフは、こういうロマンチックな景色
に弱い。私も嫌いではないが、多分、ワイフとは感じ方がちがう。私はいつも、そういう景気を
見ると、鳥になったような気分になる。あるいは飛行機のパイロットになったような気分か?

 そのときも、そうだ。どこかの空港に着陸する飛行機を、勝手に想像していた。

 「みなさま、まもなく、当機は、浜松インターナショナル空港に到着いたします……」というあれ
である。そのアナウンスが、聞こえてくるように感じた。

 写真は、楽天のほうで紹介。あとできたら電子マガジンのHTML版のほうで、紹介。乞うご期
待! きれいでしたよ!


●共存依存症

 少し前、「共存依存症」について書いた。相手の男性(もしくは女性)と、共存することについ
て、病的な依存関係をもつことを、共存依存症という。(少しわかりにくいかな?)

 わかりやすい例で説明しよう。話の内容はフィクションで、少し誇張してある。

 内縁の夫は、45歳。内縁の妻は、44歳。夫には定職はなく、夫はパチンコと競馬に明け暮
れる毎日。生計を支えているのは、妻。昼間は、スーパーで店員をし、夜は、近くのスナック
で、働いていた。

しかし夫は、妻に対しては、暴力を平気で振るった。酒ぐせも悪かった。「態度が悪い」「稼ぎが
少ない」と言っては、毎晩、妻を殴る、蹴るの繰りかえし。そのくせ夫自身は、浮気をし放題。借
金もあちこちにあった。

 見るに見かねて、近所の人まで、「あんな男とは、すぐ別れなさい」と、アドバイスをした。しか
しその女性は、いつも柔和な笑みを浮かべながら、こう答えていた。

 「あの人には、私が必要なのです」「私が支えてあげなければ、あの人は、生きていかれない
のです」と。

 周囲の人たちは、その女性に同情しながらも、あまりにも献身的なその女性の態度に驚い
た。

 ……というような話は、昔は、よく聞いた。夫がヤクザ崩れか何かで、妻が、その夫に献身的
に尽くすという話である。(昔は、美談風の語られることが多かったように思うが……。)

 さらに、本当かウソかは知らないが、売春をしながら、夫の遊興費を稼いでいた女性もいたと
いう。

 こうした女性は、(男性の中にも、たまにいるが)、一見、すばらしい女性に見える。夫に対し
て、かぎりなく深い(?)愛情をもっているかのように見える。

 しかし実際には、こうした異常なまでに献身的な行為は、愛情に基づいているのではない。自
分の心のスキマを埋めるために、(妻という立場)を守っているにすぎない。つまり夫に依存す
ることによって、自分の心のスキマを埋めている。

 こういうのを、共存依存症という。「依存症」という言葉からもわかるように、買い物依存症、
パチンコ依存症と同じように考えてよい。つまり何かに依存することで、心のスキマを埋めよう
とするのが、依存症。その対象が、(人)になったのを、共存依存症という。

 が、こういうのは、もともとあるべき、夫婦の姿ではない。少なくとも、正常な人間関係ではな
い。

 ……という話が、今日、ワイフとの会話の中で、話題になった。

私「ぼくは、お前に依存しすぎているよね」
ワイフ「そう言えば、そうね。私もそうだけど、あなたも、ひょっとしたら、共存依存症かもね」
私「いや、お前のほうが、共存依存症だよ。ぼくのようなおかしな夫のそばにいて、離れられな
いから……」
ワイフ「そうかもね。あなたは、かわいそうな人だから、私がいなければ、生きていけそうもない
からね」
私「そう、そこなんだよ。お前は、ぼくに依存しすぎているよ」と。

 夫婦も、長く夫婦でいると、ここでいう共存依存症の関係になるのかもしれない。少し前だ
が、こんなメールをくれた女性(40歳)がいた。

 その女性の両親は、今でも、毎日のように夫婦喧嘩ばかりしているという。年齢は、ともに70
歳近い。(父親は、若いころは、浮気ばかりしていたという。)

 そこでその女性は、若いころから、母親に、「離婚したら」と勧めている。が、最近になって、
その女性の母親は、その女性に、こう言ったという。

 「あんなお父さん(夫)でも、いないよりはいたほうがいい。ひとりで、孤独な生活を送るより、
いい」と。

 そういう考え方もある。共存依存症といえば、共存依存症ということになる。しかし反対に、た
った一人で、たくましく生きている人など、本当にいるのだろうかということにもなる。

 心のスキマにしても、多かれ少なかれ、みな、もっている。そしてそのスキマをたがいに埋め
あいながら、生きている。共存依存症も、度を超せば、それは問題だが、しかし、悪と決めてか
かることもできない。

 ここに書いた、買い物依存症にしても、パチンコ依存症にしても、だれだって、同じような環境
の中で、同じような状況に置かれれば、そうなるかもしれない。だれでも、油断をすれば風邪を
ひくように、だ。

 ただ、その依存症が、極端になってきたら、心のどこかでブレーキをかけなければならない。
そのためにも、まず自分の心の弱さを、自分で知る。それを知らないまま、それに溺れてしま
えば、結局は、自分の人生をムダにすることになる。

 いくら相手に尽くすといっても、その価値もない人のために、自分の価値を犠牲にしてはいけ
ない。わかりやすく言えば、銀行強盗に、専門的な知恵を貸すようなものである。(あまりよい
たとえではないかもしれないが……。)

 たがいに依存するにしても、たがいに高めあうように依存する。励ましあい、慰めあい、教え
あい、守りあうように、だ。共存依存といっても、「共存」そのものが、悪というわけでない。念の
ために……。

(補記)

 夫や妻への献身性というのは、本当に美徳なのだろうか、という問題もある。子どもへの献
身性もある。さらに親に対する献身性の問題も、ある。

 今日も、頭のボケた兄を連れて、近くの回転寿司屋へ行ってきた。その帰り道、兄が、私にこ
う言った。「かたい寿司を食べると、胃に悪い」と。

 そこで私は、兄にこう言った。

「あのな、お前。お前のような、頭のボケたヤツが長生きすると、みんなが迷惑するんだよな。
お前のようなヤツは、何も役にたたないだろ。だからあまり長生きしないで、さっさと死んだほう
が、いいんだよ。わかるか?」と。

 するとあの兄が、ハハハと笑った。冗談が通じたらしい。横で会話を聞いていたワイフも笑っ
た。

 「お前が、オレの兄に、そう言うことは許されないが、ぼくらは、兄弟だからね」と。一応、どこ
か弁解がましいことを、ワイフに言うと、さらにワイフが笑った。

 話はそれたが、献身的であることは、決して美徳ではない。このことは、反対の立場で考えて
みれば、わかる。だれかが、(あなたの親でも、夫もでも、子どもでもよいが)、あなたのために
自分を犠牲にしてまで、尽くしてくれたとしたら、あなたは、それを喜ぶだろうか。

 私なら、こう言う。「私の人生のことはかまわなくていい。お前たちは、お前たちで、自分の人
生を大切に生きろ」と。献身的に尽くされるほうだって、心苦しい。

 が、例外がある。それが夫婦ではないか。私もいつかそのときがきたら、ワイフにだけは、献
身的に尽くすだろうと思う。今はまだ笑い話の段階だが、そのうち、ワイフの尿瓶(しびん)の始
末をしたり、尿取りパッドを交換してやるようになるかもしれない。あるいはウンチのついたお
むつを取りかえてやることになるかもしれない……。

 少しずつだが、そういう覚悟を、心のどこかでし始めている。

 「献身的である」ということには、そういう問題も、含まれる。


●出世城

 浜松市の中心部、今の市役所のちょうど裏あたりに、浜松城がある。別名、「出世城」ともい
う。徳川家康の居城となったことのほか、徳川譜代、歴代の大名たちが城主となったからであ
る。この城から、幕府老中が、6人も、生まれている。

 それで「出世城」という。

 が、徳川家康にとっては、よい思い出ばかりではない。浜松城は、徳川家康が、武田信玄
に、三方ヶ原(みかたがはら)の合戦で大敗し、命、かながら逃げ帰った城としても知られてい
る。そのとき徳川家康は、恐怖のあまりか、馬の上で、クソをもらしたという説も残っている。

 徳川家康と武田信玄、そして織田信長。結果的には、織田信長が天下を取り、つづいて徳川
家康が天下を取っている。その過程で、いつも一つの謎として残るのが、実は、この三方ヶ原
の合戦である。

 徳川家康は、武田信玄が陣を取る見方ヶ原へ、わざわざ駒を進め、そして手痛い敗北を帰
す。そのときまでに武田信玄は、あたかも外堀を埋めるかのように、周辺の天方城(あまがた
じょう)、飯田城(いいだじょう)、それにすぐ近くの二俣城(ふたまたじょう)を落としている。

 武田信玄にしてみれば、用意周到の準備を重ねた上での、浜松城の攻略である。が、武田
信玄は、一気に浜松城を攻めることなく、どこか遠回りにして、つまり浜松城を迂回(うかい)す
る形で、浜松市の北西部の三方ヶ原に陣を構えた。

 そこへ徳川家康の軍勢が、つっこんだ!

 これでは武田信玄のワナに自らはまったようなもの。事実、徳川家康の軍勢、約8000名の
うち、1割の約800人が、その合戦で、命を落としている。当時の合戦としては、大敗北と考え
てよい。

 この徳川家康の行為に対して、いろいろな説がある。血気盛んな徳川家康が、若気のいたり
でつっこんだという説。もう一つは、織田信長への気兼ねをしたという説。もし武田信玄の軍
を、織田信長の住む尾張へみすみす通してしまったら、メンツ丸つぶれ。徳川家康は、それを
恐れたというのが、それ。

 まあ、結果として、ずっと先の話になるが、どうであるにせよ、徳川家康は、やがて天下を自
分の手中に収める。つまり、メデタシ、メデタシということになる。

+++++++++++++++++++++

 その浜松城へ、先日、写真をとりに行ってきた。私のホームページを飾るためである。興味
のある人は、(はやし浩司のホームページ)→(浜松案内)へ進んでみてほしい。この記事は、
その中に載せるために書いたもの。
 

●スケベ

 学校の教師による、ハレンチ事件が、跡を断たない。決して学校の教師を非難しているので
はない。こうした事件が起きるのは、教師の人格の問題というよりは、制度の問題だからであ
る。もうひとつつけ足せば、本能の問題だからである。

 つまり、男も、女も、基本的には、スケベ。スケベであることが悪いと決めてかかってはいけな
い。

 私もスケベだし、この文章を読んでいる、あなただってスケベ。スケベは、生きる力の原動力
にもなっている。

 今日、書店である月刊誌を立ち読みしたら、こんな記事があった。「60歳からのスケベ」とい
うような記事だった。「男も、女も、60歳をすぎたら、おおいにセックスを楽しもう」と。

 スケベであることはよいとしても、人格と性欲は、どこでどのように区別すべきかという問題が
ある。

 私は女性の生理については、よくわからないが、男性というのは、人格と性欲を、区別して考
える。極端な言い方をすれば、男性にとっては、排尿も、射精も、それほど、ちがわない。もっ
と言えば、頭と下半身は、別々の生き物。だから排尿することに、罪悪感を覚えないのと同じよ
うに、射精についても、それほどの罪悪感を覚えない。

 チャンスがあれば、そしてある程度、妥協で着れば、それほど考えなくても、だれとでもセック
スをすることができる。若いときは、とくにそうだ。

 しかし実際にはできないのは、道徳心でスケベ心をコントロールしているからではない。相手
の女性に忠誠を誓っているからでもない。そういうことをするのが、めんどうだからである。そ
れに本当に好きな相手がいると、ほかの女性が目に入らなくなる。

浮気をするから人格者でないとか、浮気をしないから、人格者であるということにはならない。
もちろん自分でも、人格者だなどとは、思っていない。教壇に立つ、ほとんどの男性教師も、
だ。

 そこで私なりに、ここで結論を出しておかねばならない。

 人格と性欲は、どこでどのように区別すべきか、についてである。

 人格というのは、その人の脳ミソの中でも、表層部分で決まる。しかし性欲というのは、根が
深い。人間が、アメーバのような原始生物のような時代のときからもっていた本能である。もと
もと、同じレベルで論じられるような問題ではない。

 そこで私なりの結論は、人格では、性欲をコントロールすることはできない、である。どだい、
ムリな話と言ってよい。だから大切なことは、つまりは、性欲とは、じょうずにつきあうというこ
と。言うなれば、自分の心の中で、野生の馬(うさぎでもよい)を飼っているようなもの。もともと
知性や理性の通ずる相手ではない。

 ところで、女性の性欲は、排卵期にピークに達するという。これは排卵期に、血中のエストロ
ゲンがピークに達するためと考えられている。(男性は、アンドロゲンと呼ばれるホルモンによ
って、性衝動が大きく影響を受けるという。)

 このことからもわかるように、その人の人格は、(その人であって、その人である部分)という
ことになるし、性欲は、(その人であって、その人でない部分)ということになる。

 そこで最初の話にもどるが、教師によるハレンチ事件が起きるたびに、教師の「質」が問題
になるが、そういう視点では、この問題は、解決しない。冒頭にも書いたように、これは制度の
問題である。

 つまり教師と生徒の間に生まれる、スキ。そのスキをつくる制度に、問題がある。つまりは、
制度的な欠陥があるということ。

 たとえばカナダのように、教室外での教師と生徒の接触を、いっさい禁止しているところがあ
る。教師は教師で、教室内でのことについては、全責任を負うが、一歩生徒が教室から出た
ら、何があっても、その責任を問われることはない。

 父母にも生徒にも、教師は、電話番号はもちろん、住所すらも教えてはならないことになって
いる。この方式は、病院における、医師と患者の関係に似ている。

 だからたとえば父母が、教師と連絡をとりたいときは、まず、父母は、学校に電話を入れる。
するとしばらくすると、その教師のほうから、父母のところに電話がかかってくる。

 もちろんこれは性犯罪を防ぐための制度ではない。ないが、いろいろなスキを未然に防ぐた
めの制度と考えてよい。同時に、「教師は、まず教育に専念する」ということができる。見習うべ
きことが多いのでは……。

 人格と性欲。この問題は、教師にとっては、というより、人間にとっては、永遠につづく大問題
かもしれない。


●チュー(キス)

私はときどき、子どもたち(生徒)を、こう言って、おどす。

静かにしていないと、チューするぞ、と。

 「チューイ(注意)のイをとって、チュー」と。

 昨日もそう言った。年中児のクラスだった。するとみな、「イヤー」「気持ちワルイ」と言った。

 そこで私が、「君たちは、ママやパパにチューしてもらっているんだろ」と言うと、「してくれな
い」とか、「してもらったこと、ない」とか言い出した。

 ふつうは、ここで話が終わるはずだった。が、突然、Aさんが、「今朝、パパとママがチューし
ていた」と言い出した。「毎日、会うたびに、チューしている」と。

 ハプニングだった。

 すかさず、「この話はやめ」「静かに!」と、たしなめた。が、ときは、すでに遅し。子どもたち
は、ハチの巣をつついたように、キスの話を始めた。「パパとママね……」とか、「ママがパパに
抱っこしてもらってた」とか、など。

 5、6人の母親たちが、レッスンを参観していた。何人かは、顔を下へ向けていた。

私、「静かに!」「もう、その話はやめなさい!」と。

 このころ、つまり満5歳を超えるあたりから、子どもたちは、急速に「性」への関心をもち始め
る。性器はもちろん、性的行為についても、それらが何か特別な意味をもっていることを知る。

 男児が女児を意識し、女児が男児を意識するようにもなる。「男」と「女」を、区別することがで
きるようにもなる。もちろん父親が男であり、母親が女であることも知る。

 そのため、この時期、重要なことは、その「性」に対して、うしろめたさを持たせないようにする
こと。性について、ゆがんだ意識や、暗いイメージをもたせないようにすること。男と女の差別
意識(ジェンダー)については、もちろん、論外である。

 幼児教育では、「男はすぐれている」「女は賢い」といった教え方は、タブーである。「男は強
い」「女は弱い」も、タブーになりつつある。(実際には、この時期は、いじめられてなくのは男
児、いじめて泣かすのは女児ということになっている。)

子ども「先生は、どうしてチューするの?」
私「チューイ(注意)するのが、いやだからね」
子ども「注意のほうがいいよ」
私「注意しても、どうせ、君たちは、ぼくの言うことなど、聞かないだろ」
子ども「聞く、聞く、ちゃんと、聞く」
私「そう? だったら、チューはしないよ」と。


●老人介護

あちこちの読者の方から、老人介護についての意見が寄せられている。どれも深刻なものば
かり。

 中には、義父と義母、つづけて25年間も介護をしつづけた女性からのものもあった。いわく、
「昨年、義父につづいて、義母が死んでくれたときには、正直言って、ほっとしました」と。

 さらに、週3回の病院通いをしながら、家では、わがままし放題、勝手し放題。実の息子が何
かを口答えしようものなら、「お前など、この家から出て行け。ここはオレのウチだ」と。そんな
老人(男性)もいる。ときどき半ば強制的に入院させるのだが、「病院はいやだ」「飯がまずい」
と言って、たいてい数日で帰ってきてしまうという。

 緑内障もあって、家の中でもよくころぶという。そのたびに、「骨が折れた」「痛い」と、泣き叫
ぶので、救急車を呼ぶことも、しばしば。しかしレントゲン検査では、何ともありません、と。

 もう一人の男性は、軽い脳梗塞を起こした。そのためか、たった5分でも、妻の姿が見えない
と、子どものように大騒ぎして、妻をさがすという。妻がトイレに入ったようなときにも、トイレのド
アのところに立って、妻が出てくるのを待っているという。

 私の兄のばあいも、風呂に入っても、体を洗わない。洗うようにと指導するのだが、やわらか
いタオルで、体をなでるだけ。それも、手の届く範囲だけ。それでは洗ったことにならない。

 そこで私が洗ってやるのだが、洗っている間中、「痛い」「痛い」と。頭を洗えば、「目にせっけ
んが入った」「耳に入った」「目が見えなくなる」「耳が聞こえなくなる」と、大騒ぎ。

 『上げ膳、据え膳』という言葉があるが、老人介護、その中でも、とくにボケ老人の介護は、そ
れ以上。すべてのものを、用意してやらねばならない。

 風呂から出るときは、下着から着る服まで、並べておく。もちろんバスタオルも。あと始末な
ど、ぜったいにしない。つまり自分のことだけしかしない。が、その自分のことをさせるだけで
も、一苦労。その上、文句ばかり言う。

 「風呂から出たら、牛乳を飲む」「寝る前には、養M酒を飲む」「枕がきたない」と。

 いったい、母は、兄に、どんな教育をしてきたというのだ! ……ということになるが、それは
そのまま、私の問題であることにもなる。兄と私は、同じ家庭環境で育っている!

 そうした老人を見ていると、老人とは、いったい、何か、ということになる。

 こんな深刻な(?)、というより、どう理解してよいのかわからない話もある。

 ある女性(76歳くらい)は、懸命に、夫(80歳)の介護をしていた。その女性は、「絶対に死ん
でもらっては困る」を、口ぐせにしていた。

 最初その話を聞いたときは、私は、その女性は、すばらしい女性だと思った。愛情豊かな女
性だと思った。しかし内情は、少しちがっていた。私は、そのことを、その夫が死んだあとに知
った。

 その女性は、ふと、こうもらした。「あの人ががんばって生きてくれたおかげで、孫のマンショ
ンを買ってあげることができました」と。

 つまりその女性は、夫の年金ほしさのために、「死んでもらっては困る」と言っていたのだ。

 人はだれしも、老いる。例外は、ない。しかしその老い方は、人、さまざま。みな、ちがう。憎
まれながらでも、そして嫌われながらでも、家族に包まれて老いる人は、まだ幸福なのかもしれ
ない。

 大半は、家族にも見放され、孤独の中で、悶死していく。私もその予備軍の一人だから、偉
そうなことは言えないが、そうでありたくはないという気持ちは、強い。

 このところ、老人介護について、いろいろ考えさせられる。


●老いを受け入れる

老いをどう受け入れていくか。

 一つの考え方として、「老い」という形を、あえてつくらないほうがよいのではないかというこ
と。日本人という民族は、どうしても、一つの形を用意して、その形の中で、ものを考えるクセが
ある。そしてあえて、自分を、その形の中に押しこめようとする。

 私も、その入り口に立ってみて気がついたが、「私は老いつつある」と考えるほうが、おかしい
のではないのか? 若い人たちにすれば、私たちの年代は、どうしようもなく遠い未来の、いわ
ば、ありえない先の年代のように見えるかもしれない。

 しかし実際には、老いというのは、それほど遠い未来のことではないし、実際、その老いのド
アウェイ(玄関)に立ってみると、「どうして自分が、老人なのか」とさえ思ってしまう。

 話を少しもどすが、「老いの形」があるということに気づいたのは、学生時代に、オーストラリ
アへいったときのこと。老人の姿、生き方はもちろんのこと、生きザマまで、日本人のそれとま
ったく異なっていた。

 たとえば服装にしても、若い人たちより、日本流に言えば、ド派手な色彩の服を着ていた。髪
の毛を紫色に染めている老人すら、いた。当時の日本の常識では、考えられない服装である。
(最近は、日本人も変わってきたが……。)

 私たちは、心のどこかで無意識のうちにも、「老人は、こうあるべきだ」というようなものの考
え方をする。そして老人を見るときも、そういう目でみるし、自分をも、そういう目で見る。

 しかし、これはおかしい。決して、自己正当化するためではないが、どう考えてもおかしい。

 このことは反対に、幼児を見てみてみると、わかる。

 幼児だから、幼稚。つまり未熟で未完成な人間とみる。またそのワクの中で考える。

 しかし幼児だって、人間。一人の人間。決して親のペットではないし、おもちゃでもない。親の
なしえなかった夢や希望をかなえるための、代用品ではない。もちろん老後のめんどうをみてく
れる道具でもない。

 幼児でも、喜怒哀楽の情はある。嫉妬もするし、名誉心もある。経験や知識こそ、とぼしい
が、それをのぞけば、おとなと変わらない。

 同じように、老人も、一人の人間である。こんな話を聞いたことがある。

 若い介護士の男性が、ある女性(90歳くらい)の入浴を手伝っていたときのこと。その女性
が、介護士にこう言って、スーッと涙を流したという。「恥ずかしい……」と。

 人間に「形」はない。年齢による「形」はない。

 老いを考えるとき、まずその形を自分の中につくらないこと。心理学的に言えば、役割形成を
つくらないこと。

 たとえば成長とともに、男の子は男の子らしくなる。女の子は女の子らしくなる。自らそうなる
というよりは、環境の中で、無意識なまま、自然とつくられていく。それを役割形成というが、同
じように、自分の中に、「老人」という「形」をつくってはならない。

 かく言う私も、このところ、こんなふうに考えるようになった。

 「今までは若かったから、生徒を教えるとき、月謝も、X万円でよかった。しかし、年をとったか
ら、仕事をさせてもらえるだけでも、御の字。だから月謝を安くしよう」と。

 しかしすぐ、この考え方は、まちがっていることに気づいた。

 体力や知力は、たしかに落ちた。だからその分だけ、若いときのように、毎日、5〜7時間も
つづけて教えることはできなくなった。今は、せいぜい4〜5時間が限度である。しかし教えてい
る中身は、同じである。むしろ、若いときより、充実してきている。

 だったら、なぜ、月謝を安くしなければならないのか、と。

 私は元気だ。まだ体力もある。経験をつんだ分だけ、指導のし方も、うまくなった。心も広くな
ったように思う。

 わかりやすく言えば、年齢は、もう関係ない。子どもたちに、「ジジイ先生」と呼ばれても、それ
はそれでかまわない。

 ただ体力と知力は、鍛錬(たんれん)していかねばならない。日本学士院賞を取ったような学
者でも、ボケるときには、ボケる。恩師のT先生がそう言っていた。

 体力と知力を、鍛錬することは、これからの時代を生きる私たちの義務のようにも、思う。

 私の兄は、ヒマさえあれば、「寒い」「寒い」と言って、コタツの中で、ふとんをかぶって眠って
いる。が、これでは、体力も、知力も、鍛錬されるはずがない。ボケる一方である。

 で、その私は、どうするか?

 これから楽天の日記を書いたあと、山荘へ行ってくる。そして、落ち葉を集めて、袋につめて
くる。ついでに浜北市方面の写真をとってくる。マガジンに載せるためである。つまりそうして、
私は、自分の心と体をふるいたたせる。

 私にとって、「今の時代」は、そういう時代をいう。「老いを受け入れる」なんて、クソ食らえ!、
だ。


●投影

 不登校児になった子どもが、よく、「○○君が、ぼくをいじめるから」「△△さんは、私を嫌っ
て、意地悪したから」と訴えることがある。

 たしかにそういうケースも、ないわけではない。しかしこうした表面的な言動にまどわされてい
ると、不登校の原因(本質)そのものを、見逃してしまうことになりかねない。

 そこで、たとえば、教師と親が相談して、○○君や△△さんを、その子どもの周辺から、遠ざ
けたとする。が、実際には、それで問題が、解決するわけではない。やがて今度は、「XX君
が、ぼくをいじめる」「YYさんが、私を嫌って、意地悪する」と、訴え始めたりする。

 その原因となる対象のことを、「ターゲット」という。こういうケースでは、そのターゲットは移動
しやすい。もう少しわかりやすい例で説明しよう。

 たとえば子どもは、塾へ行きたくなくなっても、「行きたくない」とは言わない。反対に、「あの先
生は、教え方がへただ」「えこひいきする」「説明をとばす」「怒ってばかりいる」などと、先生の
悪口を言い出す。

 つまり親をして、「そんな塾ならやめなさい」と言うように、しむける。先生をターゲットにしなが
ら、塾へ行きたくないという自分の心を、合理化しようとする。(これを心理学の世界でも、「合
理化」という。)

 で、心理学の世界には、「投影」という言葉がある。これらのケースとは、少しニュアンスがち
がうかもしれないが、こういうことをいう。

 たとえばある人が、AさんならAさんを、ひどく嫌っていたとする。本当は、何も、意地悪などし
ていないのだが、その人は、Aさんが、いつも自分に意地悪ばかりしていると思いこんでしま
う。

 Aさんが、ふとんを、ベランダで、はたいたとする。それはAさんにしてみれば、日常的な行為
なのだが、その人は、そのとき、Aさんが、ゴミをわざと、こちらにはたいたと思いこんでしまう。
「Aさんが、私を嫌っているから、わざとそうした」と。

つまりそういう形で、自分の中にある不快な感情を、Aさんに転嫁する。そしてAさんのささいな
言動(行動や言葉じり)をとらえては、おおげさに問題にしたりする。

 「Aさんは、私を嫌っているから、意地悪するのだ」と。それを「投影」という。

 もともと被害妄想の強い人に、この投影という現象は現れやすい。被害妄想が強いから、投
影するのか、投影するから、被害妄想が強くなるのかは、わからない。わからないが、ふつう、
この二つは、ペアになって現れる。

 不登校児の中にも、似たような投影が見られることが、よくある。

 その子どもは、「BB君がぼくを嫌っている」と言う。「だから、BB君は、ぼくをいじめる」と言
う。しかし実際には、BB君は、その子どものことは何とも思っていない……というケースは、多
い。(いじめたという痕跡すらないこともある。)

 つまり自分が、BB君を嫌いだから、BB君も、自分を嫌っていると思いこんでしまうわけであ
る。そして頭の中で勝手な妄想を、ふくらませてしまう。BB君が、何をしても、それを悪いほう
に、悪いほうに、解釈してしまう。単なる悪ふざけまで、いじめととらえてしまう。

 が、親には、それがわからない。わからないから、「うちの子が不登校児になったのは、あの
BB君のせいだ」と騒ぐ。あるいは「学校の先生の指導が悪いから、不登校児になったのだ」と
言うケースも、少なくない。

 (もちろん、そういうケースもないとは言わない。繰りかえし、念のため。)

もしあなたの子どもが、日ごろから、被害妄想をもちやすいタイプなら、この投影に注意してみ
るとよい。
(はやし浩司 投影 合理化 被害妄想)


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

【近況・あれこれ】

●気力の減退

 このところ、書くということに対する気力が、どんどんと薄れていくのを感ずる。何かを考えよ
うとするのだが、すぐ「どうでもいいや」という、投げやりな気持ちになってしまう。だから文を書
き始めても、長つづきしない。きっと疲れているせいだと思う。

 パソコンの不調が重なったこともある。……とうとうというか、メインのHPが、オーバーヒート
してしまった。ファイルの読み出しに、20〜30分。HTML送信までに、30〜40分。そしてそ
のファイルを保存するのに、4〜5時間近くもかかってしまう。

 つまり今のパソコンでは、限界ということ。それはわかっていたが、今まで、だまし、だまし使
っていた。が、数日前、とうとう、そのファイルの読み出しができなくなってしまった。

 ファイルを復元するためには、プロバイダーに残してある自分のHPのファイルを、パソコンに
ダウンロードすればよい。時間と手間はかかるが、それしかない。

 しかし、だ。それがうまくいかない。何度、トライしても、ダウンロードが、途中で止まってしま
う。こちらでも、パソコンの限界を超えている。

 「新しいパソコンを買うしかないか……」と思っているが、その決心がつかない。実のところ、
言い忘れたが、先週、株を買ったが、その株が暴落してしまった。ちょうどパソコン1台分くらい
のマネーを、損した。それで、どうも気分が重い。

 こういうときは、しばらくパソコンのことを忘れるのが、一番。ついでに原稿書きも、休むのが
一番。


●テレビの取材

 おととい、S第一テレビのO氏という人から、取材の申し入れがあった。「学習机について聞き
たい」と。私は、簡単な取材を考えていた。

 が、その時刻に待ち合わせ場所の教室で待っていると、カメラマン以下、総勢、7〜8人の大
人数! プロデューサーの名刺を見ると、夕方の定時番組の名前が書いてあった。人気番組
の一つである。(内心、ギョッ!)

 ……私は、テレビが苦手。どうも、自分の顔に自信がもてない。出るたびに、あとで後悔す
る。

 しかし「今さら、あとには引けないし……」ということで、プロデューサーの言うままに、レポータ
ーのA氏と対談をする。時間は、30分ほどか? こういう録画では、カットにカットをされて、実
際には、5〜10分ほどに縮められる。

 で、一つの失敗。

 朝、風呂に入ったのがまずかった。番組の収録が始まるころ、鼻水が出るようになった。が、
あろうことか、その日にかぎって、ハンカチを忘れた。指先で、ムズかゆくなった鼻先を少しず
つこすりながら、(何とも、不潔なシーンだと思うが)、相手の質問に答えた。

 ……ところで私の年代の人間には、テレビには、特別な思いがある。しかし今の若い人たち
には、そうでない。私が感じているほど、テレビに、「重さ」を感じていない。だから、そんなに気
を張ることもない。……と、自分に言い聞かせながら、対談を終えた。

 しかし、正直言って、神経をつかった。疲れた。しかし、おもしろかった。ハハハ。


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●掲示板への相談から……

 Fさんという方から、こんな書き込みがありました。まず、それをそのまま転載させていただき
ます。

+++++++++++++++++

朝、子どもを起こして、学校に出すまでが苦労・・・。
放っておけば、いつまでも寝ています。
別に学校なんてつまらないし、部活があるから行くけど
と言う、中2の息子。
疲れたと言って休む事も、月に1回位あります。
夜は11時頃就寝しています。

高校受験もあるし、世の中を舐めきったような態度が許せません。
わがままに育てた私が悪いのでしょうが、このまま本人が自覚するまで待つしかないのでしょう
か?
ちなみに土日の部活には、きちんと起きます。

+++++++++++++++++++

 みんなそんなものではないでしょうか。Fさんの息子さんだけが、特別ということでもないでしょ
うし、またそうであるからといって、特別な子どもというわけでもないでしょう。

 少し前、子どもの反抗期について書きました。もう一度、それをここで書き改めてみます。(前
作の改訂版というところです。)

+++++++++++++++++++

●反抗期

 子どもの反抗期は、おおまかに分けると、つぎの3段階に分けることができる。私自身の経
験もまじえて、考えてみる。

【第1期】

 少年期(少女期)から、青年期への移行期で、この時期、子どもは、精神的にきわめて不安
定になる。将来への心配や不安が、心の中に、この時期特有の緊張感をつくる。その緊張感
が原因で、子どもの心は、ささいなことで、動揺しやすくなる。

この時期の子どもは、親に完ぺきさを求める一方、それに答えることができない親に大きな不
満をいだいたり、強く反発したりする。小学校の高学年から、中学校の2、3年にかけての時期
が、これにあたる。

○競争社会の認識(他人との衝突を繰りかえす。)
○現実の自己と、理想の自己の遊離(そうでありたい自分を、つかめない。)
○将来への不安、心配、失望(選別される恐怖。)
○複雑化する友人関係
○絶対的な親を求める一方、その裏切り(親への絶対意識が崩れる)

【第2期】

 親からの独立をめざし、親の権威を否定し始めるようになる。「親が、何だ!」「親風、吹かす
な!」という言葉が、口から出てくる。しかし親の権威を否定するということは、自ら、心のより
どころを否定することにもなる。そのため、心の状態は、ますます不安定になる。

こうした独立心と並行して、この時期、子どもは、自己の確立を目ざすようになる。家族の束縛
を嫌い、「私は私」という生き方を模索し始める。さらに進むと、この時期の子どもは、「自分さ
がし」という言葉をよく使うようになる。自分らしい生き方を模索するようになる。中学校の2、3
年から高校生にかけての時期をいう。

○独立心、自立心の芽生え(家族自我群からの独立。幻惑からの脱却。)
○干渉への抵抗(自分は自分でありたいという願い。)
○自己の模索(どうすればよいのかと悩む。)

【第3期】

 精神的に完成期に近づくと、親をも、自分と対等の人間と見ることができるようになる。親子
の上下意識は消え、人間対人間の、つまりは平等な人間関係になる。子どもが大学生から、
おとなにかけての時期と考えてよい。

 子どもは、この反抗期を経て、家族が家族としてもつ、一連の束縛感(家族自我群)からの独
立を果たす。

○受容と寛容(あきらめと、受諾。)
○社会性の確立(自分の立場を、決め始める。)
○恋愛期(恋をする。初恋。)
○家族への認識と、家庭づくりの準備(結婚観の模索)

こうした一連の流れを、一般的な流れとするなら、そうでない流れも、当然、考えられる。何ら
かの原因で、子ども自身が、じゅうぶんな反抗期を経験しないまま、おとなになるケースであ
る。

 強圧的な家庭環境で、子ども自身が、反抗らしい反抗ができないケース。
 親の権威主義が強すぎて、子ども自身が、その権威におしつぶされてしまうケース。
 家庭環境そのものが、きわめて不安定で、正常な心理的発育が望めないケース。
 異常な過保護、過干渉、過関心で、子どもの性格そのものが萎縮してしまうケース。
 親自身(あるいは子ども自身)の知的レベル、育児レベルが、低すぎるケース。
 親自身(あるいは子ども自身)に、情緒的、精神的問題があるケース、など。

 こういったケースでは、子どもは、反抗期らしい反抗期を経験しないまま、おとなになることが
ある。そして当然のことながら、その影響は、そのあとに現れる。

 じゅうぶんな反抗期を経験しなかった子どもは、一般的には、自立心、自律心にかけ、生活
力も弱く、どこかナヨナヨした生きザマを示すようになる。一見、柔和でやさしく、穏かで、おとな
しいが、生きる力そのものが弱い。よい例が、母親のでき愛が原因で、そうなる、マザコンタイ
プの男性である。(女性でも、マザコンになる人は、少なくない。)

 このタイプの男性(女性)は、反抗期らしい反抗期を経験しないため、自我の確立を不完全な
まま、終わらせてしまう。その結果として、外から見ても、つかみどころのない、つまりは、何を
考えているか、わからないといった性格の人間になりやすい。

 そんなわけで、子どもが親に向かって反抗するようになったら、親は、「うちの子も、いよいよ
巣立ちを始めた」と思いなおして、一歩、うしろへ退くようにするとよい。子どもの反抗を、決して
悪いことと決めてかかってはいけない。頭から、押さえつけたりしてはいけない。その度量の広
さが、あなたの子どもを、たくましい子どもに育てる。
(はやし浩司 子どもの反抗 反抗期)

++++++++++++++++++++++

【子どもの反抗期】(2)

子どもの反抗期で悩んでいる、みなさんへ、
子どもの反抗期について考えてみました。

つぎの2つの原稿を読んでくださると、きっと心も軽く
なるはずです。どうか、お読みください。

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以下2作は、先日送った原稿と、ダブります。お許しください。

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●「生きていてくれるだけでいい」
      
 ふつうであることには、すばらしい価値がある。その価値に、賢明な人は、なくす前に気づ
き、そうでない人は、なくしてから気づく。青春時代しかり、健康しかり、そして子どものよさも、
またしかり。

 私は不注意で、あやうく二人の息子を、浜名湖でなくしかけたことがある。その二人の息子が
助かったのは、まさに奇跡中の奇跡。たまたま近くで国体の元水泳選手という人が、魚釣りを
していて、息子の一人を助けてくれた。

以来、私は、できの悪い息子を見せつけられるたびに、「生きていてくれるだけでいい」と思い
なおすようにしている。が、そう思うと、すべての問題が解決するから不思議である。

特に二男は、ひどい花粉症で、春先になると決まって毎年、不登校を繰り返した。あるいは中
学三年のときには、受験勉強そのものを放棄してしまった。私も女房も少なからずあわてた
が、そのときも、「生きていてくれるだけでいい」と考えることで、乗り切ることができた。

 昔の人は、いつも、『上見てきりなし、下見てきりなし』と言っていた。

人というのは、上を見れば、いつまでたっても満足することなく、苦労や心配の種はつきないも
のだという意味だが、子育てで行きづまったら、子どもは下から見る。「下を見ろ」というのでは
ない。下から見る。「子どもが生きている」という原点から、子どもを見つめなおすようにする。

朝起きると、子どもがそこにいて、自分もそこにいる。子どもは子どもで勝手なことをし、自分
は自分で勝手なことをしている……。一見、何でもない生活かもしれないが、その何でもない生
活の中に、すばらしい価値が隠されている。つまりものごとは下から見る。それができたとき、
すべての問題が解決する。

 子育てというのは、つまるところ、「許して忘れる」の連続。もう何度も書いたように、フォ・ギブ
(許す)というのは、「与える・ため」とも訳せる。またフォ・ゲット(忘れる)は、「得る・ため」とも訳
せる。

つまり「許して忘れる」というのは、「子どもに愛を与えるために許し、子どもから愛を得るため
に忘れる」ということになる。仏教にも「慈悲」という言葉がある。この言葉を、「as you like」と英
語に訳したアメリカ人がいた。「あなたのよいように」という意味だが、すばらしい訳だと思う。こ
の言葉は、どこか、「許して忘れる」に通ずる。

 人は子どもを生むことで、親になるが、しかし子どもを信じ、子どもを愛することは難しい。さ
らに真の親になるのは、もっと難しい。大半の親は、長くて曲がりくねった道を歩みながら、そ
の真の親にたどりつく。楽な子育てというのはない。ほとんどの親は、苦労に苦労を重ね、山を
越え、谷を越える。そして一つ山を越えるごとに、それまでの自分が小さかったことに気づく。

が、若い親にはそれがわからない。ささいなことに悩んでは、身を焦がす。先日もこんな相談を
してきた母親がいた。東京在住の読者だが、「一歳半の息子を、リトミックに入れたのだが、授
業についていけない。この先、将来が心配でならない。どうしたらよいか」と。

こういう相談を受けるたびに、私は頭をかかえてしまう。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi++++

●「それ以上、何を望むのですか」
   
 親子とは名ばかり。会話もなければ、交流もない。廊下ですれ違っても、互いに顔をそむけ
る。怒りたくても、相手は我が子。できが悪ければ悪いほど、親は深い挫折感を覚える。「私は
ダメな親だ」と思っているうちに、「私はダメな人間だ」と思ってしまうようになる。

が、近所の人には、「おかげでよい大学へ入りました」と喜んでみせる。今、そんな親子がふえ
ている。いや、そういう親はまだ幸せなほうだ。夢も希望もことごとくつぶされると、親は、「生き
ていてくれるだけでいい」とか、あるいは「人様に迷惑さえかけなければいい」とか願うようにな
る。

 「子どものころ、手をつないでピアノ教室へ通ったのが夢みたいです」と言った父親がいた。
「あのころはディズニーランドへ行くと言っただけで、私の体に抱きついてきたものです」と言っ
た父親もいた。

が、どこかでその歯車が狂う。狂って、最初は小さな亀裂だが、やがてそれが大きくなり、そし
て互いの間を断絶する。そうなったとき、大半の親は、「どうして?」と言ったまま、口をつぐんで
しまう。

 法句経にこんな話がのっている。ある日釈迦のところへ一人の男がやってきて、こうたずね
る。「釈迦よ、私はもうすぐ死ぬ。死ぬのがこわい。どうすればこの死の恐怖から逃れることが
できるか」と。それに答えて釈迦は、こう言う。

「明日のないことを嘆くな。今日まで生きてきたことを喜べ、感謝せよ」と。

私も一度、脳腫瘍を疑われて死を覚悟したことがある。そのとき私は、この釈迦の言葉で救わ
れた。そういう言葉を子育てにあてはめるのもどうかと思うが、そういうふうに苦しんでいる親を
みると、私はこう言うことにしている。「今まで子育てをしながら、じゅうぶん人生を楽しんだでは
ないですか。それ以上、何を望むのですか」と。

 子育てもいつか、子どもの巣立ちで終わる。しかしその巣立ちは必ずしも、美しいものばかり
ではない。憎しみあい、ののしりあいながら別れていく親子は、いくらでもいる。

しかしそれでも巣立ちは巣立ち。親は子どもの踏み台になりながらも、じっとそれに耐えるしか
ない。親がせいぜいできることといえば、いつか帰ってくるかもしれない子どものために、いつ
もドアをあけ、部屋を掃除しておくことでしかない。

私の恩師の故松下哲子先生*は手記の中にこう書いている。

「子どもはいつか古里に帰ってくる。そのときは、親はもうこの世にいないかもしれない。が、そ
れでも子どもは古里に帰ってくる。決して帰り道を閉ざしてはいけない」と。

 今、本当に子育てそのものが混迷している。イギリスの哲学者でもあり、ノーベル文学賞受
賞者でもあるバートランド・ラッセル(一八七二〜一九七〇)は、こう書き残している。

「子どもたちに尊敬されると同時に、子どもたちを尊敬し、必要なだけの訓練は施すけれど、決
して程度をこえないことを知っている、そんな両親たちのみが、家族の真の喜びを与えられる」
と。

こういう家庭づくりに成功している親子は、この日本に、今、いったいどれほどいるだろうか。
(*浜松市AB幼稚園元園長)


+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

●親が子育てで行きづまるとき

 ある月刊雑誌の読者投稿コーナーに、こんな投書が載っていた。ショックだった。考えさせら
れた。この手記を書いた人を、笑っているのでも、非難しているのでもない。私たち自身の問
題として、本当の考えさせられた。そういう意味で、紹介させてもらう。

 「思春期の二人の子どもをかかえ、毎日悪戦苦闘しています。幼児期から生き物を愛し、大
切にするということを、体験を通して教えようと、犬、ウサギ、小鳥、魚を飼育してきました。

庭に果樹や野菜、花もたくさん植え、収穫の喜びも伝えてきました。毎日必ず机に向かい、読
み書きする姿も見せてきました。リサイクルして、手作り品や料理もまめにつくって、食卓も部
屋も飾ってきました。

なのに、どうして子どもたちは自己中心的で、頭や体を使うことをめんどうがり、努力もせず、
マイペースなのでしょう。旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地
理が苦手。息子は出不精。娘は繁華街通いの上、流行を追っかけ、浪費ばかり。

二人とも『自然』になんて、まるで興味なし。しつけにはきびしい我が家の子育てに反して、マナ
ーは悪くなるばかり。私の子育ては一体、何だったの? 私はどうしたらいいの? 最近は互
いのコミュニケーションもとれない状態。子どもたちとどう接したらいいの?」(月刊M誌・K県・
五〇歳の女性)と。

 多くの親は子育てをしながら、結局は自分のエゴを子どもに押しつけているだけ。こんな相談
があった。ある母親からのものだが、こう言った。

「うちの子(小三男児)は毎日、通信講座のプリントを三枚学習することにしていますが、二枚ま
でなら何とかやります。が、三枚目になると、時間ばかりかかって、先へ進もうとしません。どう
したらいいでしょうか」と。

もう少し深刻な例だと、こんなのがある。これは不登校児をもつ、ある母親からのものだが、こ
う言った。「昨日は何とか、二時間だけ授業を受けました。が、そのまま保健室へ。何とか給食
の時間まで皆と一緒に授業を受けさせたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と。

 こうしたケースでは、私は「プリントは二枚で終わればいい」「二時間だけ授業を受けて、今日
はがんばったねと子どもをほめて、家へ帰ればいい」と答えるようにしている。仮にこれらの子
どもが、プリントを三枚したり、給食まで食べるようになれば、親は、「四枚やらせたい」「午後
の授業も受けさせたい」と言うようになる。こういう相談も多い。

「何とか、うちの子をC中学へ。それが無理なら、D中学へ」と。そしてその子どもがC中学に合
格できそうとわかってくると、今度は、「何とかB中学へ……」と。要するに親のエゴには際限が
ないということ。そしてそのつど、子どもはそのエゴに、限りなく振り回される……。

+++++++++++++++++++++

●親が子育てでいきづまるとき(2)

 前回の投書に話をもどす。「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉に、この私も一瞬
ドキッとした。しかし考えてみれば、この母親が子どもにしたことは、すべて親のエゴではなかっ
たのか。もっとはっきり言えば、ひとりよがりな子育てを押しつけただけ?

(どうか、この記事を書いた、お母さん、怒らないでください。あなたがなさっているような経験
は、多かれ少なかれ、すべての親たちが経験していることです。決して、Kさんを笑っているの
でも、批判しているのでもありません。あなたが経験なさったことは、すべての親が共通してか
かえる問題。つまり落とし穴のような気がします。)

そのつど子どもの意思や希望を確かめた形跡がどこにもない。親の独善と独断だけが目立
つ。「生き物を愛し、大切にするということを体験を通して教えようと、犬、ウサギ、小鳥、魚を
飼育してきました」「旅行好きの私が国内外をまめに連れ歩いても、当の子どもたちは地理が
苦手。息子は出不精」と。

この母親のしたことは、何とかプリントを三枚させようとしたあの母親と、どこも違いはしない。
あるいはどこが違うというのか。

 一般論として、子育てで失敗する親には、共通のパターンがある。その中でも最大のパター
ンは、(1)「子どもの心に耳を傾けない」。「子どものことは私が一番よく知っている」というのを
大前提に、子どもの世界を親が勝手に決めてしまう。

そして「……のハズ」というハズ論で、子どもの心を決めてしまう。「こうすれば子どもは喜ぶハ
ズ」「ああすれば子どもは親に感謝するハズ」と。そのつど子どもの心を確かめるということをし
ない。ときどき子どもの側から、「NO!」のサインを出しても、そのサインを無視する。あるい
は「あんたはまちがっている」と、それをはねのけてしまう。

このタイプの親は、子どもの心のみならず、ふだんから他人の意見にはほとんど耳を傾けない
から、それがわかる。

私「明日の休みはどう過ごしますか?」
母「夫の仕事が休みだから、近くの緑花木センターへ、息子と娘を連れて行こうと思います」
私「緑花木センター……ですか?」
母「息子はああいう子だからあまり喜ばないかもしれませんが、娘は花が好きですから……」
と。あとでその母親の夫に話を聞くと、「私は家で昼寝をしていたかった……」と言う。息子は、
「おもしろくなかった」と言う。娘でさえ、「疲れただけ」と言う。

 親には三つの役目がある。(1)よきガイドとしての親、(2)よき保護者としての親、そしてBよ
き友としての親の三つの役目である。この母親はすばらしいガイドであり、保護者だったかもし
れないが、(3)の「よき友」としての視点がどこにもない。とくに気になるのは、「しつけにはきび
しい我が家の子育て」というところ。

この母親が見せた「我が家」と、子どもたちが感じたであろう「我が家」の間には、大きなギャッ
プを感ずる。はたしてその「我が家」は、子どもたちにとって、居心地のよい「我が家」であった
のかどうか。あるいは子どもたちはそういう「我が家」を望んでいたのかどうか。結局はこの一
点に、問題のすべてが集約される。

が、もう一つ問題が残る。それはこの段階になっても、その母親自身が、まだ自分のエゴに気
づいていないということ。いまだに「私は正しいことをした」という幻想にしがみついている! 
「私の子育ては、一体何だったの?」という言葉が、それを表している。

+++++++++++++++++++++++

 子どもは、小学3年生ごろを境に、親離れを始める。しかし親が、それに気づき、子離れを始
めるのは、子どもが、中学生から高校生にかけてのこと。

 この時間的ギャップが、多くの悲喜劇を生む。掲示板に書きこんでくれたFさんの悩みも、そ
の一つ。

【Fさんへ】

 Fさんの育て方に原因があるわけではありません。またそういうふうに、自分を責めるのは、
正しくありません。

 あなたは親ですが、子どもという(人間)に対して、全責任があるわけではありません。子ども
は、子どもで、すでに自分の道を歩み始めています。(たしかに、あなたが、理想とする子ども
像からは、かけ離れているように見えるかもしれませんが……。)

 理由や原因は、わかりませんが、あなたの子どもは、相当、キズついています。学校で、いろ
いろあるのでしょう。うまくいかないこともあるのでしょう。つらいことや、狂うことも……。

一見、つっぱって見せたり、強がってみせたりするのは、自己表現が、うまくできないからで
す。そのもどかしさを、本人自身が一番、強く感じているはずです。

 ですから、「どうして勉強しないの!」「学校へ行かないの!」ではなく、子どもの立場で、もっ
というなら、あなたが昔、学生だったころ、友人に語りかけるように、語りかけてみることです。

 親風は禁物です。親風を吹かせば、あなたの子どもは、ますます、心を閉ざしてしまうでしょ
う。言うとしたら、「あなたはがんばっているわ」とか、「つらいこともあるよね」とか、「お母さん
も、学校へ行きたくなくて、つらいときもあった」です。

 幸いなことに、たいへん幸いなことに、部活だけは、がんばって行っているようですから、それ
を一芸として、伸ばすことを考えてください。その一芸がある間は、あなたの子どもは、自分の
道を踏みはずすことはないでしょう。またその一芸が、やがてあなたの子どもを、側面から支え
ることになります。

 残念ながら、すでにあなたの子どもは、親離れしています。つまり親として、あなたが子どもに
なすべきこと、できることは、ほとんどありません。また、何かをしようとか、そういうふうに、考
えないことです。

 子どもというのは、親の思いどおりにならないものです。ならないばかりか、親が行ってはほ
しくない方向に自ら進んでいくこともあります。

 では、どうするか?

 最終的には、「子どもを信ずる」しか、ありません。(といっても、あなたとあなたの子どもの間
の不信感は、相当なものと、推察されます。もし、あなたの子育てでどこに問題があったかと聞
かれれば、私は、その点をあげます。つまり親子の信頼関係の構築に失敗したという点で
す。)

 あなた自身が、不幸にして不幸な家庭に育った可能性もありますし、男子という異性というこ
とで、子育てにとまどいがあったのかもしれません。気負い先行型、心配先行型の子育てをし
てきた可能性があります。

 どちらにせよ、今、親子関係がうまくいっている家庭など、10に、1つ、あるいはよくて、2つと
か3つくらいしかないのも事実ですから、「まあ、こんなもの」と納得してください。(みんな、外か
ら見ると、うまくいっているように見えますが、ね。本当は、みんな、問題だらけですよ。外から
は、それが見えないだけ。)

 あなたは自分の子どもの姿を見ながら、子どもの心配をしているというより、あなたの不安や
心配を子どもにぶつけているだけかもしれませんね。あなたの子どもは、それを敏感に感じ取
って、「ウルセー!」となるわけです。

 こういう問題には、今のFさんには、わからないかもしれませんが、まだ二番底、三番底があ
ります。対処のし方をまちがえると、さらに、あなたの子どもは、あなたの手の届かない遠くに
行ってしまうこともありえるということです。

 だから今は、「これ以上、状態を悪化させないことだけ」を考えて、子どもの横をいっしょに、
歩いてみてください。方法としては、(1)友になり、(2)暖かい無視を繰りかえし、(3)ほどよい
親であることです。

 やりすぎず、しかし子どもが助けを求めてきたら、ていねいに応じてあげる、です。

 あなたは何とか、勉強をさせようとしていますが、子どもが、それを望まなければ、それまでと
いうことです。イギリスの格言にも、『馬を、水場に連れて行くことはできても、水を飲ませること
はできない』というのが、あります。

 あとの選択は、子どもに任せましょう。幸いなことに、あなたの子どもは、(部活)で、自分を光
らせています。それを伸ばすようにしてみたら、どうでしょうか。これからは、一芸が、子どもを
伸ばす時代です。

 そして大切なことは、もう子どものことには、かまわないで、あなたはあなたで、自分のしたい
ことをすればよいのです。1人の人間として、です。

 そういう姿を見て、あなたの子どもは、あなたから、何かを学ぶはずです。またそれにまさる、
不安や心配の解消法はありません。あなたの子どもにとって、です。たくましく、前向きに生き
ている親の姿ほど、子どもに安心感を与えるものは、ありません。

 「親をなめきったような態度を許せない」ということですが、Fさん、あなたは、かなり親意識の
強い方ですね。あなた自身がそういう家庭環境の中で、生まれ育ち、そういう意識をつくりあげ
られてしまったと考えるほうが正しいかもしれません。親は、なめられるもの。子どもは、親を踏
み台にして、さらに先へ行くものです。

 子どもなんかと、張りあわないこと。もともと張りあうような相手では、ないのです。

 くだらないから、そんな親意識は、捨てなさい!

 子どもがそういう態度をとったら、「ああ、そうですか」と言って、無視すればよいのです。それ
が親の、つまりは人間としての度量ということになります。

 あとは『許して、忘れる』。相手にしないこと、です。

 この問題は、一見、あなたの子どもの問題に見えますが、実は、子離れできない、もっと言え
ば、子どもへの依存性を断ち切ることができない、あなた自身の問題だということです。あなた
の子どもは、それに敏感に反応しているだけ、です。

 「月に1回ぐらい学校を休む」程度なら、許してあげなさい。「疲れているのね。まあ、そういう
ときは、休みなさい」と。

 ズル休み(怠学)ができる子どもというのは、それなりに、大物になりますよ。そういうときは、
「いっしょに、旅行でもしようか」と声をかけてみてください。(多分、いやがるでしょうが……。)
あなた自身も、大物になるのです。大物になって、子どもを包むのです。

 Fさんのように、親意識の強い人には、ハイハイと親の言うことを従順に聞いて、「ママ、ママ」
と甘えてくれる子どものほうが、よい子なのかもしれません。勉強も、まじめ(?)にやって、よい
成績をとって、人に好かれる子どもです。

 しかしそんな子ども、どこか気味が悪いと思いませんか? 私はそう思います。

 ……とまあ、勝手なことばかり書きましたが、いろいろな問題がある中でも、Fさんのかかえて
いる問題は、何でもない問題のように、思います。形こそ、ややギクシャクしていますが、あな
たの子どもは、今、たくましく、あなたから巣立ちしようとしているのです。そういう目で、見てあ
げてください。
(はやし浩司 子どもの反抗 子供の反抗 反抗期 対処 対処法)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●宗教心

 頭がボケ始めた兄は、実家にいるころは、欠かさず、その命日には、墓参りをしていた。そ
のこともあって、私といっしょに住むようになって、しばらくたった、ある日のこと。突然、「墓参り
をしたい」と言い出した。

 これには、ハタと困った。

 我が家には、仏壇はあるが、中身は、カラッポ。墓など、どこにもない。

 しかたないので、去年、何かの賞でもらったトロフィーを、兄に渡した。

 「なっ、この上に、観音様がのっているだろ。羽のはえた観音様だよ。おっぱいが、大きいだ
ろ。それだけ、ご利益もあるというわけ。

 この観音様に、毎日、祈るといいよ」と。

 そのトロフィーは、3段になっていて、一番下が地球儀、その上が、提灯様にふくらんだ、球。
そしてその上にもう一つ、ローソク立てのようになっていた。女神は、その上で、羽を広げて立
っていた。

 さっそく、兄は、そのトロフィーに向って、何やら、祈り始めた。

兄「何て、祈るんだ?」
私「さあ、何でもいいよ。頭がよくなりますように、でもね」
兄「頭は、悪くない」
私「だから、お前は、重症なんだよ」と。

 そして私は兄を、仏壇の前に連れていった。電動で、扉が開閉したり、電気が点灯したりす
る。兄が祈るのに合わせて、こっそりと、電気をつけてあげたり、扉を開閉させたりしてみせ
た。それを見て、兄は、「不思議やなあ」と言って、ますます、真剣に祈り始めた。

 「そういうものかあ?」と思ってみたり、「こんなことしていいのかなあ?」と思ってみたりする。

 まあ、私も、一応、真剣なフリをして、兄の横に座って、祈ってみせる。

私「何か、悲しいことや、困ったことがあったら、ここで祈るといい」
兄「わかった」
私「この神様は、ご利益があるぞ。何でも、お前の願いをかなえてくれるからな」
兄「わかった」と。

 居間へもどると、そこでワイフが、洗いものをしていた。「まあ、あんなもんだよ」と私が言う
と、ワイフは、笑ってはだめだというふうに、笑い虫を懸命に押しつぶしながら、こう言った。「い
いの? あんなウソ言ってエ?」と。

 まだ、私の兄ということで、何かの遠慮をしているようだ。

 少し曇った、どんよりとした空。そのとき、ワイフがこう言った。「お米がなくなったから、あと
で、買い物に行こう」と。私は、すかさず、「いいよ」と答えた。


●現実の子どもVS理想的な子ども像

 心理学の世界には、(現実自己)という言葉と、それに対して、(自己概念)という言葉があ
る。

 「現実の自分」を、(現実自己)という。一方、「私はこうでありたい」「こうあるべきだ」という概
念を、(自己概念)という。このギャップは、小さければ小さいほどよい。人間性は、そこで安定
する。が、このギャップが大きいとき、そこから劣等感が生まれる(フロイト)。

 同じように、親は、子どもに対して、(現実の子ども)と、(理想的な子ども像)のはざまで、も
がき、苦しむ。

 「うちの子は、こうであってほしい」「こうであるべきだ」というのを、理想的な子ども像という。し
かし現実には、そうでない……。

 そのギャップが大きければ大きいほど、親は、親として、葛藤する。「私は親だ」という親意識
の強い人ほど、そうだ。

 そしてこう悩む。

 「こんなハズはない」「うちの子は、やればできるはず」「できないのは、やらないから」と。

 さらに豪快な(?)親となると、こう言う。「幼児教育が大切です。幼児期からしっかりと教育す
れば、東大だって入れます。ノーベル賞だって取れます」と。

 実際、そう言った母親がいた。

 しかし、そういうものではない。そういうものでないことは、何百例も子育てを見てくると、わか
る。そこで私は、その母親にこう言った。

 「じゃあ、お母さん、お母さんも勉強して、東大へ入ってみたらいかがでしょうか?」と。

 私は皮肉をこめてそう言った。が、その母親は、照れ笑いをしながら、こう言った。「私は、も
う終わりましたから……」と。

 学問に終わりはない。真理の探究となると、さらに、終わりはない。つまり死ぬまで、私たち
は前向きに生きていく。探求しつづける。立ち止まったとたん、脳ミソは、腐る。

 そこで教訓。

 親は、子どもに、あるべき理想像を描きやすい。それはわかる。そういう夢や希望があるか
ら、子育ても、また楽しい。しかしそれには条件がある。

 夢や希望をもっても、それを子どもに強要してはならないということ。

 そこで大切なことは、あなたの子どもが、現実には、どうであるかを、しっかりと見きわめるこ
と。それについて、少し前にこんな原稿を書いた。

++++++++++++++++++++

●子どもの心を大切に

 子どもの心を大切にするということは、無理をしないということ。

たとえば神経症にせよ恐怖症にせよ、さらにはチック、怠学(なまけ)や不登校など、心の問題
をどこかに感じたら、決して無理をしてはいけない。

中には、「気はもちようだ」「わがままだ」と決めつけて、無理をする人がいる。さらに無理をしな
いことを、甘やかしと誤解している人がいる。しかし子どもの心は、無理をすればするほど、こ
じれる。そしてその分だけ、立ちなおりが遅れる。

しかし親というのは、それがわからない。結局は行きつくところまで行って、はじめて気がつく。
その途中で私のようなものがアドバイスしても、ムダ。「あなた本当のところがわかっていない」
とか、「うちの子どものことは私が一番よく知っている」と言ってはねのけてしまう。あとはこの繰
り返し。

 子どもというのは、一度悪循環に入ると、「以前のほうが症状が軽かった」ということを繰り返
しながら、悪くなる。そのとき親が何かをすれば、すればするほど裏目、裏目に出てくる。

もしそんな悪循環を心のどこかで感じたら、鉄則はただ一つ。あきらめる。そしてその状態を受
け入れ、それ以上悪くしないことだけを考えて、現状維持をはかる。

よくある例が、子どもの非行。子どもの非行は、ある日突然、始まる。それは軽い盗みや、夜
遊びであったりする。しかしこの段階で、子どもの心に静かに耳を傾ける人はまずいない。た
いていの親は強く叱ったり、体罰を加えたりする。しかしこうした一方的な行為は、症状をます
ます悪化させる。万引きから恐喝、外泊から家出へと進んでいく。

 子どもというのは、親の期待を一枚ずつはぎとりながら成長していく。また巣立ちも、決して美
しいものばかりではない。中には、「バカヤロー」と悪態をついて巣立ちしていく子どもいる。

しかし巣立ちは巣立ち。要はそれを受け入れること。それがわからなければ、あなた自身を振
り返ってみればよい。あなたは親の期待にじゅうぶん答えながらおとなになっただろうか。ある
いはあなたの巣立ちは、美しく、すばらしいものであっただろうか。そうでないなら、あまり子ど
もには期待しないこと。

昔からこう言うではないか。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。失礼な言い方かもしれないが、
子育てというのは、もともとそういうもの。

++++++++++++++++++++++

(後記)

 はからずも最後のところで、私は、こう書いた。『ウリのつるにナスビはならぬ』と。

 それに早く気づく親を賢明な親という。そうでなく、いつまでも、ムダな抵抗を繰りかえし、悶々
と悩む親を、そうでないという。

 ほとんどの親は、子育ても一段落すると、こう言って、自分をなぐさめる。

 「やっぱり、あんたは、ふつうの子だったのね。考えてみれば、何のことはない。私だって、ふ
つうの人間なのだから」と。

 子育てというのは、そういうもの。ホント!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

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ご連絡

静岡県在住の、マガジン読者のみなさんへ

突然の連絡を、失礼します。

本日、1月27日(木曜日)、静岡第一テレビ、
午後4:50〜7時の、「静岡○ごとワイド」の中で、子ども部屋における
机とイスの配置について、少し話します。

よろしかったら、見てください。
教室の中も、紹介されます。

鼻水をクシャクシャさせながら、話します。ホント!

原稿は、以下のHPに収録しておきます。前もって(あとでもよいですが……)
読んでくださると、お役にたつかと思います。

はやし浩司

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http://bwhayashi.fc2web.com/page023.html

****************************

あくまでも、「予定」です。ほんの数秒間の出演になるかも
しれません。そのときは、お笑いください。
(あるいは番組の変更があるかもしれません。そのときは、
また連絡いたします。)

では、お騒がせしました。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(519)

【近ごろ・あれこれ】

●満たされなかった過去

 引きこもりを起こした子どもが、ある特有の症状を示すことは、よく知られている。乳児期や
幼児期に使ったおもちゃを、取り出して遊ぶ、など。何か特定のものに、異常なまでにこだわる
こともある。

 A君(23歳)は、部屋の中に引きこもりながら、フィギュア(人形)や、ロボットのプラモデルば
かりを作っていた。もっとも、そのときは、A君は、回復期にあった。

 ふつうの生活をしている成人でも、ときとして、過去のある時期の自分にもどって、そのとき
の自分を、無意識のうちに再現しようとすることがある。

 たとえば3歳期に問題のあった人は、3歳のときの自分に、もどる。5歳期に問題のあった人
は、5歳のときの自分にもどる。さらに口唇期に問題のあった人は、飲酒や喫煙にたよるよう
になる。肛門期に問題のあった人は、異常なまでに、きれい好きになる、など。

 こうした一連の行動は、「退行」という言葉を使って説明される。

 極度の不安状態、心配や精神的苦痛に襲われたとき、この退行という現象は、現われやす
い。学生時代、こんな話をオーストラリアの友人から聞いたことがある。

 オーストラリア兵の話だが、ベトナムの戦場からサイゴンに帰ってきた兵隊たちは、いっせい
に、「女」を買いに街に出るという。

 が、女を買うといっても、セックスが目的ではない。みな、女を買って、一晩中、その女の乳房
を吸うためだそうだ。つまりそうして、極度な緊張感から、自分を解放しようとした(?)。

 ……こうした「退行」を、自分の中に知ることにより、私たちは、自分を、より深く知ることがで
きる。

 というのも、ときとして、たとえば、ここに書いたように、極度の不安状態などに自分が置かれ
たとき、人は、ときとして、子どもっぽいことをしてみせたり、ふつうではない、特有の症状をして
みせたりする。そういう自分を逆に観察して、自分の過去の、どこに、どのような問題があった
かを知ることができる。

 最近、聞いた話だが、69歳になるその人の義父が、こんな症状を示すという。何でも義母の
姿が、ほんの5分でも見えなくなったりすると、子どものように泣き叫びながら、義母の姿をさが
すのだという。

 この話を教えてくれた女性(40歳くらい)は、「まるで子どもの分離不安みたいです」と言って
いた。

 義父といっても、現役時代は、ごくふつうの会社員として活躍した人である。中規模の会社だ
ったが、それなりの地位にいた人である。そんな人でも、そうなる。その女性の話では、「頭が
少しボケてきたこともあるようですが、長年の慢性病で、気が弱くなっているせいではないでし
ょうか」とのこと。

 恐らくその義父は、幼児期に、一度、分離不安を経験しているのだろう。親の野姿が見えなく
なって、泣きながら、あとをおいかけた、とか。また、そう考えるほうが、自然である。その分離
不安を、60数年という年を超えて、再び、その義父は、再現している(?)。

 こうした「退行」は、多かれ少なかれ、みな、経験している。私や、あなたも、だ。例外はない。
ためしに、あなたの夫(もしくは妻)を観察してみるとよい。「どこか子どもぽいことをするな?」と
感じたら、それがどう子どもぽいかを知る。そしてそれを手がかりに、あなたの夫(もしくは妻)
の、過去を知る。

 その人にとっては、その時期に、何か、心の問題があったとみる。つまり人は、自分の過去
のどこかにできた、心のスキマを埋めるために、無意識のうちにも、満たされなかった自分の
過去を再現する。
(はやし浩司 退行 満たされなかった過去)


●逃避

 いやなことがあると、人は、それから逃げようとする。その逃げ方には、いろいろある。子ども
のばあいで、考えてみる。

(1)現実逃避
(2)現実回避
(3)代償的逃避
(4)自己逃避
(5)引きこもり、など。

 最近では、占い、まじない、超能力がある。こうしたものを信じたり、頼ったりすることによっ
て、子どもは、現実の不安や心配から逃避しようとする。

 その傾向が強くなるのは、受験期を迎えた小学校の高学年から、中高校にかけて。これを
「現実逃避」という。「超能力をさずかって、テストで、100点を取りたい」と言った中学生がい
た。

 つぎに、たとえば定期テストが押し迫っているというのに、友だちと、街をブラついてみたり、
コンサートに出かけてみたりすることがある。現実を忘れるために、そうする。これを「現実回
避」という。

 また逃避は、逃避だが、勉強をしなければいけないときに、スポーツの練習に励むというの
も、ある。私も、高校生のとき、日本史(日本史が苦手だった)の勉強をしなければならないと
き、得意の数学や英語の勉強ばかりをしていたときがある。つまり私は、数学や英語の勉強を
代償的にすることで、日本史の勉強から逃避していた。

 さらに自分自身を、その社会から逃避させてしまうこともある。ある日、ブラッと旅に出るな
ど。子どもでいえば、学校をサボって、街に出るというのが、それにあたる。

 で、その状態が、内にこもったのを、「引きこもり」という。(子どもの引きこもりは、これだけで
は、説明はできないが、症状としては、これで説明できる。)

 「逃避」という行動は、自分自身の精神的苦痛をやわらげるためのものと考えてよい。反対に
「逃避」を押さえこんでしまうと、そのひずみは、心のひずみとなって、さまざまな方面に現れ
る。逃避することを、「悪」と決めてかかっては、いけない。

 大切なことは、逃避と、うまくつきあうこと。ときに、夢想して、超能力の世界にひたるのも、よ
いかもしれない。ときに、学校をサボって、街をブラつくのも、よいかもしれない。一見、ムダな
行動のようにも見えるが、子どもは(そして人は)、そういう形で、自分の心を調整する。

 さらに大切なことは、そういう行動が見えたら、何が、子どもをそうさせているかを、早めに判
断すること。何か、原因があるはずである。昔から、『親の意見と、ナズビの花は、千に一つも
ムダがない』というが、これをもじると、『子どもの行動には、千に一つも、ムダがない』となる。

(補記)

 今、気がついたが、私が、日本の封建時代に、大きな反発を覚えるのは、それは私が、高校
生のとき、日本史に苦しめられたからではないか。反発を覚えたから、日本史が嫌いになった
のか、嫌いだったから、反発したのかは、わからない。

 しかしまったく関係ないとは、思えない。

 とくにあのころの日本史は、(今でも、そうだが)、まるで暗記科目のような科目だった。いくら
頭の中で、ストーリーが理解できていても、その言葉(単語)が出てこなければ、点は取れなか
った。英語も、似たような科目だったが、しかし英語には、まだ夢があった。「いつか、外国へ
行く」という夢だ。

 こうして考えてみると、今、私たちが、無意識のうちにも、「好き」とか「嫌い」とか言っているも
のでも、そのルーツをたどってみると、そこに何かがあることがわかる。

 そういう意味では、人間の心というのは、自分でつくっていく部分もないわけではないが、その
大半は、その環境の中で、(つまりは運命という無数の糸のからみあいの中で)、つくられてい
くものかもしれない。


●1日、250グラム

 隣のK国は、今年に入り住民1人当りの1日の食糧配給量を300グラムから250グラムに減
らしたという(「朝鮮日報」)。世界食糧計画(WFP)が1月24日、報告書で明らかにした。 

 1日250グラムという量は、WFPが勧奨する1日最小摂取量の、半分の量にすぎない。

 K国は、昨年度は、豊作だったという。しかし配給量は減らされた。理由の一つは、生産した
穀物を、民間市場へ流しているためだという。その分、配給量は減った。

 が、では、その民間市場で、米などの穀物を購入できるかというと、そうでもないらしい。同じ
く朝鮮日報によれば、「昨年12月の農民市場でのコメ1キロ当りの価格は600ウォンだった。
これは03年の平均価格120ウォンより 5倍値上がりした金額で、平均的な北朝鮮勤労者の
給与の30%に上る」(WFP)という。

 わかりやすく言えば、平均的な勤労者でも、3キロ強の米を買ったら、それで給料は消えてし
まうということになる。

 で、その250グラムという量は、どの程度の量をいうのだろうか。ちょっと調べてみたら、袋
入りのインスタントラーメンが、約100グラムということがわかった。つまりインスタントラーメ
ン、約2個半分の量ということになる。

 ただここで誤解してはいけないのは、配給といっても、ただでもらえるわけではない。配給券
が渡されて、その配給券で買える量ということらしい。配給券があれば、公定の安い価格で、
買える。(お金がなければ、もちろん買うことはできない。)

 そういうK国を見ると、K国の愚かさが、よくわかる。しかし考えてみれば、この日本だって、
それほどちがった政治をしているわけではない。昨日も、日本の社会H庁の公費ムダづかいを
報道している番組があった。

 まあ、コメントするのもなさけないほどの、ムダづかいである。

 ああいうのを見ていると、「どこの国も、同じだなあ」と思ってしまう。結局は、苦しむのは、弱
者と言われる、私たち(もの言わぬ従順な国民)ということになる。

 いや、不平、不満は、すでに爆発の限界を超えている。しかし今、私たちは、その怒りをどこ
へぶつけたらよいのか。そのぶつけ先が、ない。その気持は、K国の民衆も、同じではないだ
ろうか。

 「何か、おかしいぞ?」と思いながらも、何もできない。そのもどかしさだけを感じながら、今日
もまた、自分をごまかしながら生きる……。K国の報道を読みながら、そして250グラムという
数字を見ながら、そんなことを感じた。

(補記)

 このところK国は、何かにつけて、日本を批判している。「日本で自殺者が多いのは、人権問
題だ」(1・26)とか、など。

 言いたいことは山のようにあるが、そういうときは、「24」。ムシ=24の24である。(わかりま
すか? 私は、相手が何かいやなことを言ったときには、すかさず、心の中で、24とつぶやき
ます。「無視(むし)する」という意味です。ナイショ!)

 大切なことは、ポイントだけを整理して、あとは、事務的に処理していく。あんな国、まともに
相手にしても意味はない。まともに相手にしなければならないような国でもない。とにかく、2
4!)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●子どものほめ方

 昔、自分の孫(年長児)に、こう言っていた祖母がいた。「あんた、もっと、しっかり勉強しなさ
いよ。あんたができないから、先生は、ああしてわざとほめてくれるのよ。わかているの!」と。

 とんでもない言い方である。孫を伸ばすどころか、伸ばす芽を、祖母自身がつんでしまってい
る!

 グラハムという学者は、帰属理論※という理論の中で、こう説明している。

 「幼児期は、能力がすぐれているから、ほめられると子どもは考える。しかしおとなのばあい
は、努力がほめられるイコール、能力が劣っているから、ほめられると考える」と。

 冒頭にあげた祖母は、「能力が劣っているから、孫は、わざとほめられた」と思った。なぜそ
の祖母がそう感じたかは、グラハムの理論で説明できる。

 実際の例で考えてみよう。

 たとえば2人の中学受験生がいる。Aさんは、能力的には、それほど恵まれていない。一方、
Bさんは、能力的には、たいへん恵まれている。

 Aさんは、努力家。が、Bさんは、自分の能力を過信するあまり、どこか勉強のし方がいいか
げん。

 さて、いよいよ合格発表の日がやってきた。

 ケースとしては、つぎの4つが考えられる。

(1)Aさん、Bさん、ともに合格
(2)Aさんは、合格、Bさんは、不合格
(3)Aさんは、不合格、Bさんは合格
(4)Aさん、Bさん、ともに不合格

 さて、それぞれのばあい、あなたは、Aさんと、Bさんに、何と言って、言葉をかけるだろうか。

 実は、こうした事例は、よく経験する。ケースに応じて、ほめ方も、なぐさめ方も、ちがう。あえ
てここでは、答を書かないでおく。(たまたま現在は受験シーズンということもあり、企業秘
密!)しかしあなたなら、それぞれのケースでは、Aさんと、Bさんに、何と言うだろうか、少しだ
け、頭の中で考えてみてほしい。

 あえて(1)のケースについて言えば、Aさんに向っては、「ヤッター! おめでとう!」と言う。B
さんに向かっては、「受かって当然だから、心配していなかったよ」と言う。(多分?)

 つまり幼児期というのは、親や先生が子どもをほめると、子どもは、「自分はすばらしいから、
ほめられる」と思う。しかし年齢を経ると、その感じ方も変わってくるということ。そういう微妙な
心理も理解していないと、ほめるといっても、子どもをうまく、伸ばすことはできない。

 (子どものほめ方といっても、奥が深いぞ!)

 しかし一般論として、これだけは覚えておくとよい。

 子ども(幼児)をほめるにしても、努力と、やさしさは、どんどん、ほめる。遠慮なくほめる。
が、顔やスタイルは、ほめない。頭のよさは、微妙な問題を含んでいるので、時とばあいを考え
て、慎重にする。とくに集団教育の場では、そうである。

 「微妙な問題」というのは、たとえば頭のよい子どもは、それほど努力しなくても、スイスイと、
よい成績を示したりする。そういう子どもをほめると、努力そのものを、軽視するようになる。

 そしてその一方で、いくら努力しても、よい成績を出せない子どもには、劣等感をもたせてし
まうことがある。

 ほめ方、叱り方は、まさに教育の要(かなめ)と言ってもよい。

※帰属理論……すべての結果(表象に現われた症状)には、その帰属すべき原因があるとい
う考え方。日本的に言えば、因果応報論ということか。
(はやし浩司 S・グラハム 帰属理論 叱り方 しかり方 叱りかた 子供の叱り方)

+++++++++++++++++++++++

子どものほめ方、叱り方について書いた原稿を
添付します。(中日新聞発表済み。)

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子どもを叱る法

親が子どもを叱るとき

●叱るときは恐怖感を与えない

 子どもを叱るとき、最も大切なことは、恐怖感を与えないこと。『威圧で閉じる子どもの耳』と
覚えておく。中に親に叱られながら、しおらしくしている子どもがいる。が、反省しているから、そ
うしているのではない。こわいからそうしているだけ。

親が子どもを日常的に叱れば叱るほど、子どもはいわゆる「叱られじょうず」になる。頭をさげ
て、いかにも反省しているといった様子を見せる。しかしこれはフリ。親が叱るほどには、効果
は、ない。叱るときは、次のことを守る。

●叱るときの鉄則

 (1)人がいるところでは、叱らない(子どもの自尊心を守るため)。

(2)大声で怒鳴らない。そのかわり言うべきことは、繰り返し言う。「子どもの脳は耳から遠い」
と覚えておく。話した説教が、脳に届くには、時間がかかる。

(3)相手が幼児のときは、幼児の目線にまで、おとなの体を低くする(威圧感を与えないた
め)。視線をはずさない(真剣であることを示すため)。子どもの体を、しっかりと親の両手で固
定し、きちんとした言い方で話す。にらむのはよいが、体罰は避ける。とくに頭部への体罰は、
タブー。体罰は与えるとしても、「お尻」と決めておく。

(4)子どもが興奮状態になったら、手をひく。あきらめる。そしてここが重要だが、(5)叱ったこ
とについて、子どもが守られるようになったら、「ほら、できるわね」と、ほめてしあげる。ちなみ
に私が調査したところ、相手が幼児のばあい、約50%の母親が何らかの体罰を加えているの
がわかった(浜松市にて調査)。

げんこつ、頭たたき、チビクリ、お尻たたきなど。ほかに「グリグリ(げんこつで頭の両側をグル
グリする)」「ヒネリ(げんこつで頭をひねる)」など。台所のすみで正座、仏壇の前で正座という
ものもあった。「どうして仏壇の前で正座なのか?」と聞いたら、その子ども(中一男子)はこう
話してくれた。「お父さんが数年前に死んだから」と。何でもとても恐ろしいことだそうだ。体罰で
はないが、「(家からの)追い出し」というのも依然と多い。
●ほめるときは、おおげさに

 次に子どものほめ方。古代ローマの劇作家のシルスも、『忠告は秘かに、賞賛はおおやけ
に』と書いている。子どもをほめるときは、人前で、大声で、少しおおげさにほめる。そのとき頭
をなでる、抱くなどのスキンシップを併用するとよい。そしてあとは繰り返しほめる。

 ただ、一つだけ条件がある。子どもの、やさしさ、努力については、遠慮なくほめる。が、顔や
スタイルについては、ほめないほうがよい。幼児期に一度、そちらのほうに関心が向くと、見て
くれや、かっこうばかりを気にするようになる。実際、休み時間になると、化粧ばかりしていた女
子中学生がいた。また「頭」については、ほめてよいときと、そうでないときがあるので、慎重に
する。頭をほめすぎて、子どもがうぬぼれてしまったケースは、いくらでもある。

●励まし方

 叱り方、ほめ方と並んで重要なのが、励まし方。いつもプラスの暗示をかけるようにして、励
ますとよい。「あなたはこの前より、すばらしくなった」「去年よりずっとよくなった」など。またすで
に悩んだり、苦しんだり、さらにはがんばっている子どもに向かって、「がんばれ!」はタブー。

意味がないだけではなく、かえって子どもを袋小路へ追い込んでしまう。「やればできる」式の
励まし、「こんなことでは!」式の脅しも、タブー。結果が悪く、子どもが落ち込んでいるようなと
きはなおさら、「あなたはよくがんばった」式の前向きな姿勢で、子どもを温かく包んであげる。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(520)

●親の希望 vs 現実の子ども

 親が、心の中で希望として描く、子ども像。これを(子ども概念)と呼ぶ。一方、そこには、現
実の子どもがいる。それを(現実子ども)と呼ぶ。心理学でいう、(自己概念)と、(現実自己)と
いう言葉にならった。

 そこで私は、この(子ども概念)と(現実子ども)のほかに、もう一つ、(世間評価)を加える。こ
れも、(自己概念)と(現実自己)のほかに、もう一つ、(世間評価)を、加えたことに、まねる。他
人から見た子ども像ということで、「世間評価」という。

 親が、「うちの子は、こうであってほしい」と願いながら、心の中に描く、子ども像を、(子ども概
念)という。

 勉強がよくできて、スポーツマンで、よい性格をもっていて、人にも好かれる。集団の中でもリ
ーダーで、できれば、ハンサム。自分という親を尊敬してくれていて、親の相談相手にもなって
くれる……、と。

 しかし現実の子どもは、そうでないことが多い。問題だらけ。園でも学校でも、何かとトラブル
をよく起こす。成績もかんばしくない。できも悪い。性格もいじけているし、反抗ばかりしている。
このところ、勉強、そっちのけで、遊んでばかりいる。

 しかし子どもの姿というのは、それだけでは決まらない。親が知らない世界での評価もある。
家の中では、ゴロゴロしているだけ。生活態度も悪い。親を親とも思わない言動。しかしスポー
ツクラブでは、目だった活躍をしている、とか。

 こういうケースは、よくある。

 そこで、(子ども概念)と、(現実子ども)が、それなりに一致していれば、問題はない。(子ども
概念)と(世間評価)も、それなりに一致していれば、問題はない。しかしこの三者が、よきにつ
け、悪しきにつけ、距離を置いて、遊離すると、そこでさまざまな問題を引き起こす。

【例1】(以下の例は、すべてフィクションです。実際にあった例ではありません。)

 ある日、小学1年生になったS君のバッグの中を見て、私は驚いた。そうでなくても、これから
先、たいへんだろうなと思っていた子どもである。今でいうLD(学習障害児)であったかもしれ
ない。そのバッグの中には、難解なワークブックが、ぎっしりと入っていた。

 このケースでは、親は、S君に対して、過大な期待を抱いていたようである。そのため、「やら
せれば、できる」という信念(?)のもと、難解なワークブックを、何冊も買いそろえた。そして毎
日、S君が学校から帰ってくると、最低でも、2時間は、勉強を教えた。

 このS君のケースでは、ここでいう親が心の中で描く(子ども概念)と、(現実子ども)が、大き
くかけ離れていたことになる。

【例2】

 B君は、中学1年生。勉強は嫌い。ときどき、学校もサボる。しかし小学生のときから、少年
野球クラブでは、ずっと、レギュラー(ピッチャー)を務めてきた。その地区では、B君にまさるピ
ッチャーはいなかった。

 年に4回開かれる、地区大会では、B君の所属するチームは、たいてい優勝した。市の大会
で、準優勝したこともある。

 しかし母親との間では、けんかが絶えなかった。「勉強しなさい!」「うるさい!」と。あるとき、
母親は、「勉強しなければ、野球チームをやめる」とまで言った。が、B君は、その夜、家を出て
しまった。B君が、6年生のときのことである。

 中学生になってから、B君は、部活に野球部を選んだ。しかしその直後、B君は、監督の教
師と衝突してしまい、そのまま野球部をやめてしまった。B君が、グレ始めたのは、そのときか
らだった。

 このB君のケースでは、(子ども概念)と(現実子ども)は、それほど遊離していなかったが、
親が子どもに対してもっている(子ども概念)と、(世間評価)は、大きくズレていた。

【例3】

 私の実家は、以前は、いくつかの借家をもっていた。その中の一つは、表が駐車場で、裏が
一間だけの家になっていた。

 その借家には、父と子だけの二人が住んでいた。母親は、どうなったか知らない。が、その
子というか、高校生が、国立大学の医学部に合格した。父親は、酒に溺れる毎日だったとい
う。

 しばらくしてその父子は、その借家を出たが、私は、その話を、母から聞いて、心底、驚い
た。借家を訪れてみたが、酒のビンがいたるところに散乱していた。

 私が、「どんな子どもでしたか」と近所の人に聞くと、その人は、こう言った。「本当にすばらし
い息子さんでしたよ。毎日、父の酒を買うために、自転車で、酒屋へ通っていました」と。

 この父子の関係では、父親に、そもそも(子ども概念)があったかどうかは、疑わしい。放任と
無責任。しかしその子どもの(現実子ども)は、父親のもっていたであろう(子ども概念)を、は
るかに超えていた。(世間評価)も、である。

【例4】

 新幹線をおりて、バスで、友人の家に向かうときのこと。うしろの席で、あきらかに母と娘と思
われる二人が、こんな会話を始めた。母親は、45歳くらいか。娘は、20歳そこそこ。母親とい
うのは、どこかの大病院の院長を夫にもつ、女性らしい。どうやら、娘の結婚相手をだれにす
るかという相談のようだった。

母親「Xさんは、いい人だけど、私大卒でしょう。出世は望めないわね」
娘「それにXさんは、もう30歳よ」
母親「Yさんは、K大学で、4年間、講師をしていたそうよ。でもね、ああいう性格だから、お母さ
んは、薦めないわ」
娘「そうね。同じ意見よ。あの人は、私のタイプじゃないし……」
母親「Zさんは、どう? 患者さんの評判も、いいみたいだし……」
娘「そうね、一度、Zさんと、食事をしてみようかしら。でもZさんには、もう恋人がいるかもしれな
いわ」と。

 話の内容はともかくも、二人の会話を聞きながら、私は、いい親子だなあと思ってしまった。
呼吸が、ピタリとあっている。

 最後のこのケースでは、母のもつ(子ども概念)と、(現実子ども)は、一致している。大病院
の後継者を、二人でだれにするか、相談している。このばあいは、(世間評価)は、ほとんど、
問題になっていない。

 ふつう、この三者が、ともに接近していれば、親子関係は、スムーズに流れる。しかしこの三
者が、たがいに遊離し始めると、先に書いたように、親子関係は、ギクシャクし始める。

 何が子どもを苦しめるかといって、親の高望み、つまり過剰期待ほど、子どもを苦しめるもの
は、ない。

 一方。その反対のこともある。すばらしい子どもをもちながら、「できが悪い」と悩んでいる親
である。こういうケースは、少ないが、しかしないわけではない。

 そこであなた自身のこと。

 あなたは今、どのような(子ども概念)をもっているだろうか。そしてその(子ども概念)は、(現
実子ども)と一致しているだろうか。もし、そうならあなたは、今、すばらしい親子関係を築いて
いるはず。

 が、反対に、そうでなければ、そうでない。やがて長い時間をかけて、あなたの親子関係は、
ギクシャクしたものになる。気がついてみたら、親子断絶ということにもなりかねない。一度、
(世間評価)も参考にしながら、あなた自身のもっている(子ども概念)を、修正してみるとよい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


●産んでくれて、ありがとう!

 R社の掲示板に、こんな書きこみがあった。以前から、私のマガジンやHPを、励ましてくれて
いる読者の方からのものだった。その方は、ご自身と、ご自身の親との関係で、長く苦しんでい
る。

「こんにちは。公私共に、お忙しそうですね。

実は、また私自身の親子関係で、悶々としているのですが、
親との関係に悩んでいると友人に相談したところ、その友人も幼い頃、
親に「お前などいらない子だった」というような言葉の虐待を受けて
いたそうです。

その友人は、親に対して本当の自分を出せずに生きてきたけれど、
結婚するときにそれまでの自分の中のわだかまりを話したら、
親も謝ってくれたそうです。

友人自身も「一番言いたかった」「私を産んでくれてありがとう」
という一言を言えた、という話をしてくれたのですが……

私は、今、二人の子ども達に恵まれ、「生まれてきてくれてありがとう」
とは思っていますが、親に対しては「産んでくれてありがとう」
なんて思えないのです。

私の意見を、どう思われますか?」

+++++++++++++++++++++

 ふつう、「産んでやった」「産んでいただきました」という言葉は、ペアの関係にある。

 親は「産んでやった」と言い、子どもはそれを受けて、「産んでいただきました」と言う。しかし
その関係は、どこか、あのK国の人たちの関係に似ていると思いませんか。

 将軍様とやらは、何かにつけて、民衆に恩を売る。それを受けて、民衆たちは、何かにつけ
て、「将軍様のおかげです」と答える。一見、すばらしい関係に見えるが、どこか(?)。

 少し前だが、何かの宗教団体の大会で、こんなことを言う子どもがいた。

 「私は、五体満足で、生まれました。これも、お父さん、お母さんのおかげです。ありがとうご
ざいました」と。

 私はその言葉を聞いたとき、やはり(?)と思ってしまった。「もし、五体のどこかに問題があ
ったら、この子どもは、何と言うのだろうか?」と。

 だからといって、親に対して、感謝の念をもつことがおかしいと言っているのではない。私が
言いたいのは、親が、親側から、それを子どもに求めてはいけない。いわんや、期待したり、
強要してはいけないということ。

 親は、無条件で子どもを産み、育てる。無償の愛ともいう。「親だから……」「子だから……」
と気負うことはない。そうでなくても、親子の関係は、特殊なもの。ロレンツが発見した、(刷り込
み)のような刷り込みが、人間にもなされるということが、最近になって、わかってきた。

 卵からかえって、すぐ歩き始めるような鳥類は、最初に見たものや、聞いたものを、「親」と思
いこんでしまうという。そしてそのときできた、(親像)は、生涯にわたってつづくという。

 これは鳥の話だが、その刷り込みに、親は、甘えてはいけないということ。ある時期がきた
ら、親はしっかりと子離れをしなければならない。また子ども自身が、親離れするように、しっか
りとしむけなければならない。

 いつまでもベタベタの関係が、好ましいというわけではない。

 むしろ、親子であるという(しがらみ)、これを「家族自我群」というが、そのしがらみの中で、
悶々と悩んだり、苦しんだりしている人は、多い。切るに切れない、親子関係というわけであ
る。

 親子といえども、そこは純然たる人間関係。つまり、親は、親である前に、1人の人間。子ど
もも、子どもである前に、1人の人間。決して「親である」「子どもである」という関係に、甘えて
はいけない。

 きびしいことを書いたが、親であるということは、それくらい責任が重いということ。たとえば子
どもにすばらしい人間になってほしかったら、まず、その見本を、親が子どもに見せる。それく
らいの気構えがあっても、なかなかむずかしい。それが親子の関係である。

 さて、このメールをくれた女性は、いわゆる「幻惑」に苦しんでいる。家族自我群から発生する
悩みを総称して、幻惑という。その幻惑から、逃れるのは、容易なことではない。つまりは、そ
れくらい、この親子の(しがらみ)、つまり、家族自我群というのは、強烈であるということ。

 脳ミソの奥深くに、あたかも本能のように、しみついている。

 だから私としては、こう思う。「あまりこだわらないで、前だけを向いて進みなさい」と。

 人は、人。私は、私。その人がそれでハッピーなら、それでよいのです。「ああ、そうですか」と
笑ってすませたら、よいのです。家庭の事情というのは、まさに千差万別。だからあなたは、あ
なたで自分のことを考えればよいのです。

 またこれから先も、いっしょに考えていきましょう。
 書きこみ、ありがとうございました。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●今日こそは、儲(もう)けるぞ!

 午前9時。東京証券取引所が、開始になる。
 インターネットを接続して、そのときを待つ。
 昨日の終値で、私の手持ちの株は、買ったときの株価を回復した。
 今日は、その勢いを借りて、株価は、上昇するはず。

 で、今日の誓い。ほどよいところで、儲けたら、すぐ売る。
 欲はかかない。パソコンが一台分、買えるだけでよい。
 がんばるぞ!

 緊張の一瞬。

 9:03……昨日の終値で始まった。取引高は、多くない。これからだ。
 
 今のところ、売り気配のほうが、強い。このままでは、株価は、さがる?
 「更新」をクリックするが、株価は動かない。みなが、様子を見ているらしい。

 9;06……まだ、動かない。なぜだろう? ふだんなら、開始直後から、○千株程度は、動く
のだが……。いや、動いた。あがった。少しだが、あがった。0・24%の上昇。これで、6000
円の儲け!

 9:10……しかし、まだ売り圧力が強いようだ。売り気配が、180xxx株。買い気配が、72xx
x株。2対1。買い注文がもっと入らないと……。また動きが、止まった!

 9:13……やはり、さがった。もとの株価にもどった。6000円の儲けが、消えた。売りと買い
の気配が、まだ2対1。売り圧力がつづく。

 9:16……やや買い注文が、入り始めた。株価は動かないが、いいぞ、いいぞ。

 9;17……少しあがった、これで、また6000円の儲け。

 (しばらく、あちこちのサイトをながめる。届いた、メールも読む。原稿も、書く。)

 9:21……動きが少ない。動きが少ないときは、株価の変動もあまりない。こういうときは、し
ばらく様子を見るのがよい。

 9:25……このまま株価がさがったら、もうxxxx株、買い注文を出すつもり。これで手持ち株
は、xxxxx株になる。さあて、あがるか、さがるか? 何となく、嵐の前の静けさ。そんな感じ…
…。いつもと、動きがちがう。

 9:30……こうしてぼんやりと、画面をながめていると、眠くなる。しかし株価は動かない。日
足(ここ数か月の動き)、週足(ここ数年の動き)を見ても、今は、上昇傾向にあるはずなのだ
が……。

 9:35……株価、動かず。(時間のムダのように感じてきたので、このつづきは、またあとで
……。)

【中略】

10:15……さらにxxxx株の買いを入れる。株価は、さがったまま。反転上昇するのを期待す
るが、とにもかくにも、今朝は、動きが鈍い。風で言えば、無風状態。今しばらく様子をみる。今
が、底値だと思うが……。

10:28……少し値段の低いところで、大量の買い注文が入った。下値を支えるためらしい。
「もうこれ以上さがっては困る」という人(会社)が、大量の注文を入れたらしい。

 こういう動きが出てくると、その値段のところから、株価ははげしく上下するはず。ここは目が
離せない。さあ、どうなるか?

10:40……予想通り、底値を打ったところで、株価は急反転。急反落を繰りかえし始めた。あ
とはどちらを向くか、だ。上昇するか、暴落するか。

 全体としてみれば、売り圧力のほうが強いので、株価の急激な上昇は望めない。しかし取り
引き高が、少ない。私のような素人の個人投資家が動いているだけかも? 

 10:45……午前の取り引きは、あと15分で終了。このままでは、差し引き、数万円の損。ま
たまたパソコンが遠ざかった感じ。この話は、ワイフには、言わないでおこう。叱られそう。

 やはり私は、バクチには、向かない人間のようだ。(再確認!)


●不気味なニュース

ニューヨーク・タイムズは「南極半島周辺の棚氷が崩壊している」と、1月25日報道した。棚氷
が崩壊すると、今度は、その棚氷が止めている氷河そのものの流出速度が、速くなるという。
その結果、現在、「02〜03年南極半島にある、3つの氷河の流出速度が、8倍速くなってい
る」という。

(氷棚は、氷河の流れを食い止める、栓(せん)のようなもの。この栓が抜けると、氷河がどん
どんと海へ流れ出す。)

 「アムンゼン海の氷河が、溶けただけでも、海水面を1・3m引き上げるのに十分な氷を持っ
ている」とも。

 今すぐ、どうというわけではないのだろうが、北極にある凍土も溶けだしているという情報もあ
るから、考えてみれば、これは恐ろしい話である。仮に海の水面が、1・3メートルもあがれば、
東京都の都市部や、この浜松市の都市部は、すべて海面下に水没することになる。

 堤防を高くすればよいというものでもないらしい。またそれで海面上昇が止まるわけでもな
い。気温が上昇すれば、今度は、海水が膨張する。すると最終的には、海面は、150メートル
前後まで上昇するという。(150メートルだぞ!)

 また永久凍土が溶けはじめると、同時に、無尽蔵のメタンガスを発生させる。これがさらに地
球温暖化に拍車をかける。

 まさにいいことなし。そういう状態になる。

 まあ、私としては、なすすべもない。せいぜいできることと言えば、今日も、自転車通勤。大気
を汚染しないことに、ほんの少しだけ、貢献することだけ。考えても、出てくるのは、ため息? 
それともあくび? わけのわからない、ア〜ア〜という声だけ。

 環境問題も、子育てに似ている。結局は、行き着くところまで行かないと、人間は、自分の愚
かさに気づかない。同じように、親も、行き着くところまで行かないと、自分の愚かさに気づかな
い。

 「まだ、何とかなる」「うちの子にかぎって……」と思っているうちに、どんどんと深みにはまる。
状態は悪くなる。

 かなり話が脱線しそうなので、この話は、ここまで。


●環境判断能力

 このところ、「できる」と思ってやってみるのだが、「やっぱり、できなかった」という結果で終わ
ることが多くなったような気がする。見通しが甘くなったというか、ネバリが弱くなったというか…
…。

 つまりは、環境を判断する能力が、劣ってきたということになる。つまり、加齢とともに、この
環境判断能力、つまり「アフォーダンス知覚能力」は弱くなると言われている。

 が、問題は、このことではない。

 こうした失敗を重ねていると、自信喪失から、自己嫌悪におちいることがあるということ。ます
ます、自分自身を老人と決めこみ、気分が、老けこんでしまう。

 先日も、庭の前にある木の枝を切ろうとした。少し離れたところから見ると、それほど、高い
木ではない。30〜40年前の私なら、スイスイと登ったであろう、そんな木である。

 しかし実際、その木に登ろうとしたとき、足がすくんでしまった。ハシゴも用意したが、そのハ
シゴにも、登れなかった。

 体がかたくなってしまった。それに万が一のとき、手と腕だけで、体を支える自信もなかった。
そう感じたとたん、「だめだ」と思ってしまった。

 こうして私は、また一つ、自信をなくした。と、同時に、自分の中の(老い)を感じた。

 で、子どものばあい、反対に、環境判断能力がないため、ときとして、無茶をすることがある。
高いところから飛びおりてみたり、深い川を泳いで横切ろうとしてみたりする。私も子どものと
き、大きな羽を両肩につけ、一階の屋根の上から、飛び降りようとしたことがある。

 寸前で、思いとどまったからよいようなものの、あのとき、飛び降りていたら、足の骨くらい
は、折っていたかもしれない。

 一般論として、環境判断能力に欠ける子どもは、ときとして無茶をして、よく事故を引き起こ
す。スキーを覚えて、たった2日目に、上級者用のゲレンデをすべりおりてみたり、わずか数千
円のお金だけで、北海道を周遊しようとしてみたりするなど。

 要するに、「軽率」ということになる。

 この環境判断能力を養うためには、子どもに対する過干渉、過関心を最小限におさえ、自分
で考えて、自分で行動する子どもにする。その時期は、乳幼児期から始まる。

 「あなたは、どう思うの?」「どうしたらいいの?」という、語りかけを大切にする。

 実は、今、その環境判断能力の弱い子どもがふえている。身のまわりに危険が迫っているに
もかかわらず、その危険すら、認知できない。10年ほど前だが、どこかの家の庭の中に勝手
にしのびこみ、そこにいた犬にかまれた子ども(年長児)がいた。

 年長児なら、(こういう言い方は失礼かもしれないが……)、その危険性を、じゅうぶん認識し
ていておかしくない年齢のはずである。

 さて、私も、今度は、それとは反対の立場で、同じような失敗を繰りかえし始めている。さら
に、以前にはできたのに、最近になって、できなくなったということも多い。そんなわけで、今
は、年齢相応に、そして体力や知力相応に、自分がもっている環境判断能力を、調整しつつあ
る。

(具体例)

 たとえばビデオを見るときも、1日、1本と決めている。しかも寝る前には見ない。寝る前に見
ると、そのまま眠れなくなってしまう。2本も見ると、頭が痛くなってしまう。が、ときとして油断し
て、「今日はいいだろう」と、2本、見てしまうこともある。そしてそのあとは、いつもの頭痛。

 大切なことは、できることと、できないことを、的確に判断して、それに従うということか。無理
をしない。無茶をしない。冒険をしない、など。
(はやし浩司 環境判断能力 アフォーダンス知覚能力)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ボケ兄・行状記

 ボケが原因なのか。それとも生い立ちに問題があったのか。それはわからない。しかしボケ
た兄のわがままには、ときどき、がまんならないときがある。

 食事だけが楽しみなのは、よくわかる。しかし時間どおりに、食事を用意しないと、とたんに、
機嫌が悪くなる。

 たとえば朝食は、午前7時20分きっかり。
 昼食は、午後12時きっかり。
 夕食は、午後5時20分きっかり。

 それまでの私たちには、こうした規則はなかった。日によって、食事の時刻はまちまち。朝食
と昼食を一つにすることもあった。が、兄には、それが通らない。

 何度、「今夜は、夕食は、7時だよ」と念を押しても、「わかった」と返事をするのは、そのとき
だけ。やがて5時になると、食堂の前に、じっと、立って待っている。数分おきに、「まだか」「ま
だか」と騒ぐ。

 「用意ができたら、あとで部屋まで呼びにいくから、そこで待っていろ」と言っても、効果は、そ
のときだけ。また数分もすると、そこに立っている。そして、ボケ老人特有のいやみを、タラタラ
と言う。

 「かあちゃんは、5時に作ってくれた」
 「腹が減ると、風邪をひく」
 「早く食べないと、ご飯、冷えてしまう」とか、など。

 そういうとき、ワイフは、兄の言葉に合わせて、何度も、「24ね」「24ね」と言う。

 ムシ(無視=6x4)24の、「24」である。いちいち気にしていたら、こちらの気がヘンになる。
そこでニッコリ笑って、ワイフは、兄に、「24ね」と言う。やさしく言う。私とワイフが決めた、暗号
である。もちろん「無視しろ」という意味である。

私「晃子、24だよ、24!」
ワイフ「わかっているわ、24ね」と。

 そういう使い方をする。

 ……とまあ、毎日が、この繰りかえし。

 で、昼食は、私が用意してやっている。ワイフも、このところ、バテ気味。

 「歯が痛い」「入れ歯が合わない」「かたいものは食べられない」「かたいものを食べると、胃
が悪くなる」と、兄は、そんなことばかり言う。

 そこで冷蔵庫をのぞくと、それらしきものがない。パンの耳ですら、「かたい」と言って、テーブ
ルの上に、投げ捨ててしまう。

 私はサンドイッチを作った。もちろんパンの耳を切り落とした。つぎに、卵豆腐を取りだし、そ
の上に、小豆(あずき)をのせた。それと野菜ジュース。もう一品は、カニかまぼこの炒めたも
の。野菜を少しまぜた。

私「これで、かたいと言ったら、何も食べさせないぞ!」
ワイフ「好きなものは、かたくても食べるわよ。きらいなものは、かたいと言って、食べないの
よ」と。
私「卵豆腐の上に、小豆を載せたら、プリンみたいだね」
ワイフ「わかるんじゃないの?」
私「わからない、わからない」と。

 ボケの特徴の一つは、自己中心性。自分勝手でわがまま。自分のことしか考えない。そもそ
も人格が崩壊しているのだから、自己中心的になるのは、わかる。人格の「核」そのものが、な
い。が、ここまで自己中心性が進むと、世話をするのが、ときにバカバカしくなる。

 兄自身は、いっさい、何も手伝わない。料理の「リ」もしない。ただ食べるだけ。いや、ただ食
べるだけならまだしも、その料理に、文句をつける。

私「あのなあ、お前。お前は、お客さんじゃ、ないんだぞ。文句を言うな」
兄「オッケー」
私「オッケーはいいけど、少しは手伝えよ」
兄「オッケー」と。

 しかし、何もしない。手伝わない。食べたあとは、そのまま散らかして、テレビを見始める。そ
して、そのつど、「メガネがない」「入れ歯がない」と大騒ぎする。「自分でさがせ」と言うと、その
場でしゃがみこんで、シクシクと泣くマネをする。

私「あのなア、ウソ泣きはやめろ」
兄「ウソ泣きじゃ、ない」
私「だって、涙が出てないぞ」
兄「そうやな、涙が出ないな」と。

 自分の部屋においやると、あとは、音楽を聞くだけ。電気はすべてつけっぱなし。コタツも、電
気毛布も。……などなど。経済観念もないし、現実検証能力もない。自分のおかれた立場す
ら、わかっていない。何か不満なことがあると、「○○(姉の住む村)へ帰る」とか言って、子ども
のように、ダダをこねる。

 あわれみと同情。それにザワザワと心の中で騒ぐ、怒りと不安。しかし兄の姿は、私の近未
来の姿でもある。「私もああなるのかナ?」と思ってみたり、「ああは、なりたくないナ」と思って
みたりする。

 ところで、人間は、考えるから人間である。生きるということは、考えること。しかしその前に、
考える力そのものを失ってしまったら……。はたして、人間は人間なのか。人間は、人間でい
られるのか。唯一の救いは、兄が、まるでビデオテープのように、私の子ども時代の風景をよく
覚えていてくれること。もうとっくの昔に忘れてしまったはずの、近所に住んでいた人の名前
や、店の名前が、兄の口から、会話となって出てくる。それを聞いていると、走馬灯のように、
当時の情景が、あれこれと頭の中に浮かんでくる。

 それは淡くも、懐かしく、心を温めてくれる。

 だからそういう話を聞くのは、嫌いではない。もっとも兄にしてみれば、それは遠い昔の過去
の話ではなく、今という現実の話なのだが……。

 で、今日も、兄は、台所の入り口に立って、私にこうせがんだ。「そちらの部屋に入れてくれ」
と。しかし私は、心を鬼にして、こう言った。

 「入れてあげたいけど、お前は、約束を守らないだろ。ガス栓にさわられると、困るんだよ」
と。

 それに答えて、兄はさみしそうな顔をして、「さわらないから」と言った。

 しかし今の兄には、約束を守る能力は、もうない。それに放火癖もある。ライターを手にする
と、手当たり次第に、ものを燃やしたがる。「温情は禁物」と、何度も自分に言ってきかせて、兄
を部屋に押しもどす。

 多分、明日も、今日の繰りかえしだろう。覚悟して、世話をするしかない。


●かごめ、かごめ……

 ある小学校での入試風景。上級生の女の子が、その小学校へ受験にやってきた幼稚園児
たちと、いっしょに遊んでいる。

 その様子を、少し遠くから、担当の教官が、観察しながら、採点している。上級生の言うこと
を聞きながら、その指導に従っているかどうかをみるためではないか。最近、ふえてきた入試
方法である。

 で、ある小学校では、その上級生が、園児たちと、「♪かごめ、かごめ」の遊びをしたという。
昔から日本に伝わる、あの、わらべ歌である。

♪かごめ かごめ
 かごの なかの とりは、
 いつ いつ でやる
 よあけの ばんに 
 つると かめが つうべった
 うしろの しょうめん だあれ

(篭女、篭女
 篭の中の鳥は、
 いついつ出やる
 夜明けの晩に
 鶴と亀がゆうべった(すべった)
 うしろの正面、だあれ)

 「篭女」というのは、男によって篭(かご)の中に入れられた女、つまり特定の男に仕える専属
の遊女をいう。

 この歌は、その遊女を歌ったものだと言われている。「♪遊女よ、遊女、お前はいつになった
ら、篭から出て、自由になれるのか」と。

 しかしここで悲劇が起きる。「夜明けの晩」というのは、「晴れて夜が明ける、その前の晩」と
いう意味。そして「鶴と亀」というのは、「結婚式」の代名詞。だからこの歌を、そのまま解釈する
と、「晴れて夜が明ける、その前の晩に、結婚式が、流れてしまった」ということになる。

 問題は、そのあとの一文である。「♪うしろの正面、だあれ?」と。

 この文については、多くの文人や研究者が、それぞれの立場で解釈を加えている。「うしろ
で、こちらを向いているのは、だれ?」という意味だが、その中でも、一番、不気味なのは、こう
いう話だ。

 結婚式が流れてしまったことが原因で、その遊女は、自殺か何かをしてしまった。それでその
あと、その遊女は、幽霊となって、その男のうしろをついて歩くようになった、と。だから「あんた
のうしろにいるのは、だれだ〜〜〜ア?」と。

 この話は、若いころ、だれかに聞いた話である。……と、まあ、考えてみれば、不気味な話で
ある。それがわらべ歌となって、今に歌いつがれている。そして知ってか知らずか、(もちろん
知らないだろうが)、子どもたちが、その歌を歌い、遊ぶ。

 もっとも、「うしろの正面、だあれ」をどう解釈するかにもよる。ある人は、そのとき死んだの
は、遊女ではなく、遊女の腹の中にいた水子であったと説く。あるいは遊女の死は、自殺では
なく、男に殺されたという説もある。

 どちらにせよ、決して、楽しい話ではない。

 「かごめ、かごめ」の話を聞いて、思い出したので、ここにメモをしておくことにした。もちろん、
だからといって、この歌が、入試問題にふさわしくないとか、そんなヤボなことを言っているので
はない。念のため!
(はやし浩司 かごめ 篭女)

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最前線の子育て論byはやし浩司(521)

●ホイヘンス

 欧州宇宙機構(ESA)の、小型探査機ホイヘンスが、土星の衛星のタイタンに無事、着陸し
た(1月14日)。

 ホイヘンスは、氷と見られる塊(かたまり)が散らばっている地表や、水路や海岸線の跡とみ
られる地表の画像を、地球に送ってきた。

 タイタンは、太陽系の衛星の中では、ただ一つ、大気をもっている衛星として知られている。
生命誕生以前の原始の地球に似ているとも言われている。

 公開された写真を見ると、水路や海岸線のような跡が確認できるという。地表は、氷点下18
0度で、大気に含まれるメタンなどが、液状となって、地表を削った跡だとされている。

 このホイヘンスが送ってきた画像の中で、何よりも驚いたのは、(驚いたのは、私だけかもし
れないが)、有機物らしきものが堆積したような個所も、見つかったということ。いくら大気があ
るといっても、地球とは、まるで環境がちがう。そういうところでも、有機物、つまり生命体の存
在を思わせるものが、発見されたというのだ!

 ふつう生命というのは、(あくまでも、地球人の立場で、そう言うだけだが)、酸素と水、適度な
気温などがないと、誕生しないと言われている。とくに、人間のような知的生命体は、そうだ、
と。

 しかしどうも、そうではないようだ。

 たとえば、大気といっても、亜硫酸ガスとメタンガス。地表を流れるのは、メタンの川。気温
は、氷点下100度。地球人なら、そんな世界に入ったら、たちまちのうちに、こなごなの灰にな
ってしまう。(このあたりの科学的考証はいいかげん。ゴメン!)

 しかしそういう世界でも、まったく別の誕生経路を経て、何らかの生命体が生まれる可能性が
ある。今回のホイヘンスの送ってきた画像は、その可能性を示唆している。それに私は、驚い
た。しかし考えてみれば、これほど、楽しい話はない。

 その世界の生物は、硫酸でもビクともしない、特殊金属でできている。もちろん目も耳も、そし
て口もある。体全体は、球形かもしれないし、ゴツゴツした岩のようかもしれない。

 ただし、その生命体は、足を、数センチ動かすだけでも、地球時間で計測すると、2年から3
年かかる。恐ろしく、動きがにぶい。

 いや、「にぶい」と思うのは、地球人の私たちだけで、その生物どうしは、そんなことは思って
いない。ちょうど、今の私たちのように、ふつうに会話をしている。

 「今朝は、寒いですね」
 「本当に、そうですな」と。

 これだけの会話をするのに、地球時間で計測すると、100年程度かかる。言い忘れたが、そ
の星では、1年は、地球時間で計測すると、約100万年に相当する。(計算は、約100万倍し
てみた。)

 もちろん人間の私たちとは、会話はできない。しかし生命体は、生命体である。地球人の私
たちから見れば、気が遠くなるほど、長い時間をもった生命体である。言いかえると、何も地球
人のような体つきをして、コセコセと動き回る生命体だけが、生命体というわけでもないというこ
と。

 宇宙には、そういう生命体だって、ありえる。(もちろん、その反対も、ありえる。地球時間で、
ほんの数秒の間に、何世代も、生死を繰りかえす生命体である。)

 大切なことは、地球人の常識だけで、宇宙をながめてはいけないということか。今回のホイヘ
ンスによるタイタン探査のニュースを読みながら、私は、そんなことを考えた。


●R天日記

 原稿の中でも、日記風の原稿は、毎日、「R天日記」のほうにも掲載している。興味のある方
は、私のHPのトップページから、ぜひ、訪れてみてほしい。

 で、このR天日記だが、ここ数日、正確には、1月25日(火曜日)から、毎日アクセス数が、4
00件を超えるようになった。600件を超えると、「話題の日記」として、ベスト50に登録され
る。そんなことから、400件というのは、かなりの数と考えてよい。

 それまでは、多い日で、200件。平均して、100〜150件。

 が、1月25日から、連続して、400件を超えるようになった! これはどうしたことだろう?

 ところで、R天日記は、アクセスしてきた人のメールアドレスが、おおよそ、わかるようになっ
ている。(個人までは特定できないが……。)

 私と同じように、R天日記を書いている人たちからのアクセスを、内部アクセスという。

 R天日記とは関係のない、外部からの人たちからのアクセスを、外部アクセスという。

 内部アクセスとというのは、たとえば日記を配信すると同時に、どっと、平均して30〜50件、
入ってくるアクセスをいう。どこかで「新着日記」とか何とか、紹介されるらしい。それをめがけ
て、こうした人たちは、物品の販売をしかけてくる。

 が、その内部アクセスが一巡すると、今度は、外部アクセスにかわる。今のところ、1時間
で、昼間なら、20〜30件のアクセスがある。それが一日で、400件を超える。

 なぜだろう?

 どうして、急に、こんなにふえたのだろう。理由はわからない。原因もわからない。しかしとた
ん、おかしな緊張感が生まれた。「いいかげんなことは書けないぞ」という緊張感である。

 それまでは、日記ということもあって、原稿の推敲などは、ほとんど、しなかった。が、今は、し
ている。誤字、脱字がないかを調べ、ついで、文調を整える。

 何はともあれ、文というのは、だれかに読んでもらってはじめて、命を授かる。日記を読んでく
ださっているみなさん、ありがとう!


●ボーイフレンドが、ほしい!

 中学生のRさん(中3女子)が、ふと、こう言った。「先生、私、ボーイフレンドが、ほしいよオ」
と。

 「あなたなら、男たちが、放っておかないでしょう」と言うと、「好きな子を、パクられてしまった
ア」と。

 「フ〜〜ン」と言っただけで、しばらく、つぎの言葉が出てこなかった。

私「……ボーイフレンドと、何をしたいの?」
子「そりゃあ、いっしょに話をしたり、映画を見に行ったりとかさ、いろいろあるじゃん」
私「そうだな。そういうときが、一番、楽しいね」と。

 そのとき私は、自分の中学時代を思い浮かべていた。私には、そういう思い出が、まったく、
ない。

私「ぼくもね、好きな子がいたけど、電話で一度、話しただけだよ」
子「電話で?」
私「そう。相手の子が電話に出たとたん、何も話せなくなってしまったよ」
子「へえ〜エ。好きですとか何とか、言わなかったの?」
私「とても、言えなかったよ」と。

 そんなことを言いながら、ふと、Rさんを、見る。「そう言えば、そのときの彼女に似ているな」
と思ったが、それは言わなかった。あまりにも見えすいた、何というか、女たらしが、女性を口
説くときに、よく使うセリフである。

子「でね、先生、そういうときは、何て、相手の男に、言えばいいの?」
私「あのね、男というのは、雰囲気で、相手が、真剣かどうか、わかるんだよ。真剣に何かを言
えばいいよ。その真剣さが、相手の心の窓を開くよ」
子「じゃあ、何と言うの?」
私「真剣にね、『今度、映画を見にいこう』とでも、言ってみてごらん。それで相手に、気持が伝
わるよ。『好きです』と、いきなり言うと、相手もビビるからね」と。

 私にとっては、40年以上も前の話。しかし、そんな感じが、まるでしない。タイムマシンか何
かで、過去に、タイムトリップしたような雰囲気になってきた。今度は、私が質問する番だ。

私「いきなり、男の子から電話がかかってきて、その相手が何も言わなかったら、どう思う?」
子「へえ、先生、何とか、言葉をつなぐことができなかったの?」
私「できなかった。何も言えなかった」
子「そういうもんかなあ?」
私「そういうもんだよ。現実は、そうだった」と。

 あのとき、もしもう少しスマートに、愛を告白できていたら、どうなっていたか? うまくデートで
きただろうか? あの子と、そのあと、どうなっていただろうか? いろいろ考える。

私「いろいろな子とつきあって、その子がどんな子か、知るといいよ。そうするとね、自分がどん
な人間かもわかるからね。フラれたら、どこに原因があるかを自分で調べるんだよ。そうして、
どんどんと、自分をみがいていく。今は、そういう時期だから、いろいろな子とつきあうといいよ」
と。

 少し偉そうなことを言ってしまった。あのころの私、つまり中学時代の私など、ボロボロで、R
さんがそれを知ったら、確実にがっかりするにちがいない。ダサくて、田舎臭くて、クソまじめで
……。まったく、面白みのない男だった。

 私は、女性にモテるタイプではなかった。

私「いいか、ぼくの顔を見て、中学生のころのぼくを想像してみてほしい。想像するだけでいい」
子「うん、わかった。先生が、中学生だったころね」
私「そうだ。いいか、想像できたか?」
子「ハハハ、できる、できる」
私「じゃあ、そのぼくが、君に、『好きです』と告白したら、君は、どうする?」
子「気持、ワリ〜〜イ、サイテ〜」「気味、ワリ〜〜イ、サイアク〜ウ」
私「だろ……。なっ、わかってた」と。

 ますます自信をなくして、この話は、ここでおしまい。そのあと、私は、語気を強くして、こう言
った。「さあ、勉強だ! お前ら、時間をムダにするなよ!」と。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●もう1人の自分

 自分にとって、受けいれがたい、もう1人の自分を感じたとき、その自分を抑圧するために、
人は、それとは正反対の自分を演ずることがある。

 これを「反動形成」という。

 その中でも、とくによく知られているのが、牧師や教師による、反動形成。たとえば、牧師や
教師の中には、ことさら、セックスの話や、露骨な話を嫌ってみせる人がいる。

 特徴は、「ことさら」、つまり、不自然なほど、大げさな様子を見せること。信者や生徒が、「セ
ックス」という言葉を口にしただけで、「オー、NO!」と大声で、叫んでみせたりする。

 これは自分の職業観とは相容れない、許しがたい欲望を、自分の中で、抑圧しようとして起
きる現象である。

 ほかに幼児の世界で、よく知られている反動形成の例に、弟(妹)思いの、よい兄(姉)がい
る。本当の自分は、弟や妹を、殺したいほど憎んでいるのかもしれない。しかしそんな感情を
表に出せば、自分の立場がなくなってしまう。

 そこでその兄や姉は、ことさら、人前で、よい兄や姉を演じてみせたりする。しかしこれは意
識的な行為というよりは、無意識下でする行為と考えてよい。本人に、その自覚はない。

 さらに、その醜い本心を偽るために、仏様のように(できた人)を演ずる人もいる。老人に多
い。自分自身の醜い素性を、隠すためである。このタイプの人は、何十年もかけて(ニセの自
分)をみがきあげているので、ちょっとやそっとでは、他人には、それを見抜くことができない。
何十年も近くで住んでいる親類ですら、「仏様」と思いこませてしまう。

 反動形成であるかどうかは、先にも書いたように、「ことさらおおげさな」様子を見せるかどう
かで判断する。反動形成による行為は、どこか様子が不自然で、ぎこちない。ときにサービス
過剰になったりする。

 本当はその客の来訪を嫌っているにもかかわらず、満面に笑顔を浮かべ、愛想よくしてみせ
る、など。

 こうして人は、本当の自分を抑圧するために、その反対側の自分を演ずることがよくある。

 たとえば力のない政治家が、わざとふんぞりかえって歩いて見せるなど。あるいは体の弱い
子どもが、みなの前で、かえって乱暴に振る舞ったりするのも、それ。

 ほかにもいろいろな反動形成がある。

 本当は、たいへんケチな人が、豪快に、人に太っ腹なところを見せる。
 心の中では憎しみを感じている社員が、その上司に、必要以上にへつらう。
 自分に自信のない人が、わざと大型の馬力の大きな車に乗ってみせる、など。

 もう少し、その反動形成を、自分なりに、整理してみる。

(嫉妬、ねたみ)→(見えすいた親切、やさしさ)
(欲望、願望)→(見えすいた禁欲者、謙虚さ)
(悪魔性、邪悪な心)→(見えすいた善人、道徳者)
(闘争心、野心)→(見えすいた謙虚さ、温厚さ)
(ケチ、独占欲)→(見えすいた寛大さ、おおらかさ)
(劣等感、コンプレックス)→(見えすいた傲慢さ、大物)
(だらしない性格)→(見えすいた完ぺき主義者、潔癖主義)など。

 わかりやすく言えば、反動形成というのは、自分の心を偽ることをいう。中には、夫を心の中
で憎みながら、その反動として、つつしみ深く、できのよい妻を演ずることもあるそうだ。(私の
ワイフなどは、その1人かもしれない? ゾーッ!)

 あなたの中には、はたしてその反動形成による部分は、ないか? それを知るのも、また別
の自分を発見することにつながるのではないかと思う。
(はやし浩司 反動形成)

(補足)

 たまたま今日、年長児のクラスで、おっぱいの話になった。そのときのこと。私が子どもたち
に、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞くと、みな、おおげさな言い方で、「嫌いだヨ〜」と叫
んだ。

 これも反動形成の一つと考えてよい。このころになると、子どもは「恥ずかしい」という言葉の
意味がわかるようになる。たとえば、赤ちゃんに見られることは、恥ずかしいことと考える。だか
ら(おっぱいが好き)イコール、(赤ちゃん)と考えて、それをあえておおげさに否定してみせたり
する。

 しかしおっぱいが嫌いな子どもは、いない。とくに男児においては、そうだ。が、中に、正直な
子どもがいたりして、私が、「ウソをついてはダメだ」と、強くたしなめると、小声で、しかも少し
顔を赤らめながら、「好きだよ……」と言う子どももいるにはいる。しかしそういう子どもは、例
外と考えてよい。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●悲しき小国

 Y田さんの遺骨は、科学鑑定の結果、ニセモノだった。信ずるも、信ずるもない。日本側が、
あえて、ウソをつかねばならない、理由はない。かつての日本はどうだったかは知らないが、現
在の日本は、そういう国ではない。

 それに対して、K国は、「日本側の鑑定は、ねつ造だ」と。

 そう言いたい気持はわかるが、ではそのK国の鑑定水準は、いったい、どの程度なのかとい
うことになる。私の印象では、「?」が、100個くらいつく。そういうK国が、日本がした科学鑑定
を、「ねつ造だ」と。

 怒るよりも、笑うよりも、その前に、あわれみすら、感ずる。あまりにも低レベルで、話になら
ない。そしてさらに、昨今、言ってきた言葉が、「強制連行された朝鮮人の遺骨を返せ」だ。

 言うにことかいて、今度は、いちゃもんをつけてきた。当の本人たちは、本気なのだろうが、
今では、K国を、本気で相手にする国は、ない。

 そんなK国に対して、また「制裁」という言葉が浮かびあがってきた。自民党の中のタカ派と呼
ばれる人たちが、中心になって、そう言っている。「送金停止」「M号の入港禁止」など。

一応のジェスチャを見せているだけなのだろうが、あんなK国は、本気で相手にしてはいけな
い。

 今、日本が制裁すれば、それこそ、K国の思うツボ。日本は、6か国協議から脱落し、日本か
ら韓国と中国は、離反する。間に立つアメリカも、立場がなくなる。本命は、「核問題」。それが
霧散してしまう。

 が、それだけではすまない。K国は、戦前の植民地支配を口実に、日本に戦争をしかけてく
る。K国には、もうそれしか生き残る道は、ない。

 ここは冷静に。どこまでも冷静に。決して、感情的になってはいけない。拉致被害者たちの気
持もよくわかるが、相手は、私たちが考えているような、(すでに気がついている人も多いと思う
が)、まともな国ではない。まともな論理が通ずる国ではない。

 そんな国を相手にして、まともな論理をぶつけても意味はない。あえて制裁などしなくても、す
でにK国は、地獄の制裁を受けている。内部崩壊も、近いと言われている。後継者が、いまだ
に決まらないのも、その理由の一つ。

 K国の立場で、考えてみよう。

 経済政策は、やることなすこと、失敗ばかり。いくら「オレたちは、すばらしい」と叫んでみて
も、だれも相手にしてくれない。今では、アジアの中でも、最貧国。そういうK国にしてみれば、
アメリカや日本、さらに韓国や中国の繁栄が、しゃくにさわってしかたないのだろう。つまりは、
逆恨み。

 韓国に亡命した、F氏も言っているように、悪いのは、金XX以下、ほんの20〜100人の取り
巻き。K国の民衆には、責任はないし、かれらもまた、金XXという独裁者の犠牲者にすぎな
い。

 だかかこそ、ここは冷静に。私たちがすべきことは、金XX体制が、平和裏に、新しい、できれ
ば民主的な政権に変わるよう、側面から、働きかけることである。そのための努力は、忘れて
はいけない。

 方法としては、亡命者(脱北者)を、国外でどんどんと保護して、金XX体制を、自然崩壊にも
っていく。私は、それが一番、よい方法だと思うし、アメリカも、どうやらその方向で、動き出した
ようである。今、ここで日本が制裁に走り、そうしたアメリカの動きに、水をさしてはいけない。

(追記)

 K国への制裁についての動きが、このところ具体化してきた(1・29)。政府は28日、人道支
援の凍結・延期や送金制限などと並行して、北朝鮮の貨客船、「万景峰92」の入港禁止を検
討する、「二段構え」の制裁策で、対応する方針を固めた。

 しかし制裁といっても、この程度の制裁は、いわば、象徴的なもの。同じ日、つぎのような報
道が、全国を流れた。こちらの制裁は、まさに経済封鎖に等しい制裁である。

 つまり保険未加入の国際運航船の入港を禁止できる、「改正油濁損害賠償保障法」が、3月
1日から施行されることになった。つまり保険に入っていない船舶は、日本の港へ入港できなく
なる。これにより、K国船舶のほとんどが、日本の港へ、入港できなくなる。

 では、K国の船舶は、保険に入ればよいということになるが、K国の経済水準からすると、船
舶にかける保険料は、まさに天文学的数字となる。

 日本人にとって、仮に、年間200万円の保険料でも、彼らにしてみれば、2億円相当の負担
となる。その前に、保険会社が、保険の加入に応ずるかどうか? K国の船舶は、どれもボロ
ボロのボロ船。今にも死にそうな病人が、保険の加入を申し出るようなものである。

 K国は、これを実質的な「制裁」ととらえるのは、当然である。

 しかし考えてみれば、こうした法案が国会を通過した原因は、もともとK国自身がつくった。座
礁し、油濁した海岸をそのままにし、さらに船までそのままにして、彼らは、そのままK国へ帰っ
てしまった。そんな事件が、相ついだ。

 そのあと始末は、地元の自治体がしなければならなかった。こういうことを繰りかえしておい
て、「私たちは関係ない」ではすまされない。

 それはわかるが、問題は、こうした常識すら、彼らには、通用しないだろうということ。つまりこ
の3月1日を境に、K国は、日本に対して、何らかの(物理的行動)に出てくる可能性がある。

 日本とK国の関係は、とうとうくるところまで、きてしまった。私には、そんな感じがする。
 
(追記2)

 制裁について、国際外交の大鉄則は、「相手がいやがることを、ジワジワと攻める」こと。事
務的に、かつ冷静に。決して感情的になってはいけない。

 方法としては、(1)脱北者の支援、(2)脱北者を組織化する、(3)K国の人権問題を、国際
世論の中で、もりあげるなどがある。アメリカは、そういう方向で、K国の金XX体制を崩壊させ
ようとしている。日本も、アメリカに歩調をあわせたらよいと思うが、これも、もう、手遅れなの
か?

 私たち庶民は、その日に合わせて、それなりの覚悟をして、自衛手段を講ずるしかない。

(1)東京都が、ミサイル攻撃を受けたら、その時点で、日本の経済活動はマヒする。株価、円
は大暴落する。反対に、物価は急上昇し、人々は、不安にかられて、買いだめに走る。

(2)しばらく間をおいて、日米安保条約が発動され、アメリカ軍は、K国のミサイル貴地を、攻
撃。同時に、朝鮮半島で、戦争勃発(ぼっぱつ)。

(3)もうそうなると、6か国協議どころでは、なくなってしまう。

 私には、そんな地獄絵が見えてならないのだが……。


●ボケ兄・行状記

 土曜日の朝、肌を刺すような冷気。どんよりとした、曇り空。

 「まだ、起きてこないのよ」とワイフ。時計を見ると、9時。

私「……あいつ、死んでいるじゃ、ないのか?」
ワイフ「おかしいわね……」

 時間だけは正確。時計を片時も離さず、もっている。とくに食事の時刻には、うるさい。毎朝、
きっかり7時には起きてきて、朝食をせがむ。

私「見てくるよ……」
ワイフ「そうね」と。

 このところ、兄は、運動不足。食事のとき以外は、あまり部屋から出てこない。

 「とうとう、運動不足で、くたばったのかな?」と思った。「心筋梗塞か、脳梗塞か?」と。

 部屋に入ると、兄は、そこでフトンをかぶって眠っていた。

 「死んでいるのかも?」と思った。とたん、「もう少し、やさしくしてあげればよかった」と思った。
「いっしょに、温泉にでも、連れていってやればよかった」とも。上から見ると、指を三本、口にく
わえたまま、動かない。

 何とも、まが抜けた顔をしている。アホヅラ。しかし動きがない! 呼吸をしている気配もな
い!

 「本当に、死んでいるのかも……」と思った。

 実は、私は冷酷な人間だ。10数年前も、ヤギを飼っていたときのこと。毎日、エサをやるの
がめんどうになった。で、ある日、ふと、こう思った。「こんなヤツ、早く死んでしまえばいい」と。

 そしたら、本当にそのヤギは、その翌朝に、イモを食べて死んでしまった。

 以来、私は、自分のもつ特殊な能力(?)がこわくなった。私には動物の生死を決める、能力
がある。「私が死ねばいいと思ったヤツは、すぐ死んでしまう」と。そこでそういうふうには、思わ
ないことにした。

 5秒たち、10秒がたった。

数日前、どこからのレストランの帰りに、私は兄にこう言った。「お前のようなヤツは、早く死ん
だほうがいいんだよ。生きていても、どうせ、みんなに迷惑をかけるだけだろ?」と。その言葉
が、気になった。

 そのとき兄は、ヘラヘラと笑っていたが、私は、もちろん冗談のつもりだった。しかし……!!
 まさか……!!

 そっと、額に指を置いてみた。恐る恐る、置いてみた。肌のぬくもりを感じた。「よかった」と思
った。と、そのとたん、兄の顔が動いた。

私「ナ〜ンダ、生きていたのかア。お前、死んだと思っていた」
兄「あれ、もう7時か?」
私「7時じゃ、ないよ。9時だよ。もう起きろよ!」と。

 台所に帰ると、ワイフがそこに立っていた。

私「あいつね、生きてやがった。死んだと思っていたんだけど……」
ワイフ「朝寝坊するなんて、はじめてのことよ」
私「それだけ、居心地がよくなったんだろ」と。

 よく見ると、外では、小雨が降っていた。心なしか、先ほどよりは、暖かくなったように感じた。

 朝食は、私が兄の部屋に運んだ。ついでに好物の養M酒も。こうして今日も、また始まった。
時は、2005年の1月29日。


******************************

【メールをくださる方へ】

●件名のところには、必ず、お名前、簡単な住所をお願いします。

 つぎのような件名のメールは、即、文面を開くことなく、削除させていただいています。
 このところ、あやしげなメールが、ますます巧妙化していることが、その理由です。
 これは私や、みなさんのパソコンの健康を守るためです。
 よろしくご理解の上、ご協力ください。

 件名:お久しぶりです。お元気ですか。
 件名:がんばっていますね。ちょっと立ち寄ってみました。
 件名:お願いです。どうか、助けてください。
 件名:静岡の鈴木です。覚えていますか、ほか。

 心を鬼にして、「?」なメールは、容赦なく、何も考えることなく、
 サクサクと削除させていただいています。お許しください。

*******************************

●近況

 仕事は別として、このところ、人に会うのが、おっくうになってきた。が、かといって、何かをし
たいわけではない。要するに、怠(なま)けぐせ。

 今日も、数時間、ヒマがあったので、コタツに入ってDVDを見る。イギリスのBBCが制作し
た、「モナリザ」。しかしすぐ眠ってしまった。あとで知ったが、ワイフも眠っていた。

 起きてから、隣地の雑草を少し刈る。地主は東京の人だから、空き地は、荒れ放題。いつの
間にか、草刈りは、私の仕事になってしまった。

 夕方、長男に、「(夕食に)何を食べたいか?」と聞くと、「ステーキ」と。

 そこで今夜は、みんなでレストランに行くことにした。ただし私とワイフは、ステーキは食べな
い。だからレストランにした。(わかる?)

 1人分だけ、ステーキを料理すると、かえって割高になる。

 あとは、コタツに……と思っていたら、事故が起きた。玄関先から庭へ歩き出したところで、
ギクッと捻挫(ねんざ)。痛かった。息ができなかった。靴下を脱いでみると、ひどい内出血を起
こしていた。骨もいくつか、折れているかもしれない。

 湿布薬を張る以外、打つ手がない。しかし足の甲の捻挫でよかった。アキレス腱だったら、
即、入院! 今も、少し痛いが、じっとしていれば、何とかがまんできる。

 さてさて、もう時刻だから、これからみなで、レストランへ。

 時計を見ると、午後5時15分。外はかなり薄暗くなってきた。


●文部科学省の「学力調査」

 このほど文部科学省が、子どもの学力調査をした。それによると、「勉強が好き」と答えた高
校3年生は、20%だったという。

 ちなみに、01年の調査だが、それによると、

 「勉強が好き」と答えた、小学6年生……34%
             中学3年生……18%、だそうだ。

 学年を追うごとに、「勉強が好き」と答える子どもが減るということ。

 また学校以外での勉強について、

 「まったく勉強しない」と答えた高校生は、41%もいるという。約半数の子どもは、家では、ま
ったく勉強しないということか。

 同じように、

 「勉強をしない」と答えた、小学6年生……11%
              中学3年生…… 9%、だそうだ。

++++++++++++++

 こうした数字をみるとき注意しなければならないことは、「だから……」という解釈を、安易に
加えてはならないということ。

 だいたいにおいて、「勉強」とは何か。その意味を、はたして子どもたちは、わかっているのか
という問題もある。わかっていて、そう答えているのか。

 もちろん科目によっても、ちがうだろう。英語が好きでも、数学が嫌いという子どももいる。同
じ科目でも、ときに好きになったり、ときに嫌いになったりすることもある。

 さらに子どものばあい、先生との相性で、勉強が好きになったり、嫌いになったりすることが
多い。「先生が好きだから、理科が好き」と。

 また学校でする勉強だけが、勉強というわけでもない。E君(中2)は、2段式のペットボトルロ
ケットを作ったが、彼はそのため、夏休み一か月、その研究に没頭した。そういう勉強も、あ
る。

 で、中学生と高校生で、「勉強が好き」と答えた子どもが、18〜20%いたということは、私に
とっては、驚きである。少ないから驚いたのではなく、多いから、驚いた。20%もいたというの
は、驚きである。私はもっと、少ないかと思っていた。

 というのも、現在の教育体制の中では、子どもたちは、「上」から一方的に、勉強を与えられ
るだけ。それは、馬の前につりさげられたニンジンのようなもの。いくら前に走っても、子どもた
ちは、そのニンジンに追いつくことができない。

 もともと「勉強を好きになれ」というほうが、おかしい。

 そこで多くの教育者は、「勉強」に、夢と、目的と、希望を添えようとする。またそれがないと、
子どもを指導することはできない。
 
 (もう一つ、受験でおどすという方法がある。「いい高校へ入れ」「大学へ入れ」「しかし勉強し
ないと、いい大学へ入れないぞ」と。しかしこれは、本来、邪道。)

 そこで子どもを勉強嫌いにしないためには、どうするか。一つのコツは、子どもを、受動的な
立場に置かないということ。

 勉強というのは、子どもの立場でみると、一度、受動的になると、勉強そのものが、苦痛の種
となる。あまりよいたとえではないかもしれないが、子どもは、借金に追われる多重債務者のよ
うな立場になる。

 勉強しても、しても、いくらしても、追いつかない……。そんな状態になる。

 親が、子どもをそういう状態に追いこむこともある。子どもが、80点を取ってきたりすると、
「何よ、この点は! もっと、いい点を取りなさい」と言う。そこで子どもが、90点を取ってきたと
する。すると今度は、「どうして100点が取れないの」「あんたはやればできるはずだから」と言
う。

 ……と書き出したら、キリがない。この問題は、実は、底がたいへん深い。

 子どもを勉強好きにするというのは、教育がもつ、究極的な目標と考えてよい。好きにすれ
ば、それがどんな分野であれ、あとは子ども自身が、自分で伸びる。何も、学校で教える勉強
だけが、勉強というわけでもない。

 まあ、高校3年生になったとき、「私は勉強が好きだ」と言える子どもは、本当に幸福な子ども
と考えてよい。(勉強ができる・できない)はさておき、子どもの勉強を考えるとき、結局は、そ
れが教育の目標と考えてよい。

 よい大学(本当に、こういう言い方は、不愉快だが……)へ入るかどうかは、あくまでも、その
結果でしかない。
(はやし浩司 文部科学省 学力調査)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●自殺

自殺者が、3万人の大台を超えたという。その中でも、50歳代の自殺者がふえているという。

 レストランで、ワイフや息子たちと、そんな会話を始めた。

ワイフ「フ〜ン、月曜日の明け方、5時ごろ自殺する人が多いんだって」と。

 新聞記事に、そうあった。

私「月曜日ね。明け方の5時ねエ?」と。

 私もよく落ちこむ。しかし朝には、それを忘れている。だからどんなに落ちこんでいても、自分
に、「明日の朝になれば……」と言って聞かせて、目を閉じる。

 しかし朝の5時に多いとは、どういうことか? それは私の常識に反する。

私「どうして朝の5時なんだろう?」
ワ「きっと、その前の夜から、よく眠れないのじゃないかしら。朝まで、悶々としていて、それで
朝になって、自殺ということじゃ、ないかしら?」
私「そうだろうな。よく眠っていれば、自殺など、考えないよな」
ワ「そう、うつ病になると、早朝覚醒になるというでしょう。朝、早く目がさめるのよ。そういう日
が、何日もつづいて、それで……」

私「じゃあ、なぜ月曜日なんだ? ぼくだったら、土曜日かな?」
ワ「土曜日は休みだから、休みになれば、気が楽になるはずよ」
私「そうだなあ」

 厚生労働省の自殺死亡統計によれば、つぎのようになっている。

 03年度の自殺者は、過去最多の3万2109人。うち男性、2万3396人。女性、8713人。
ダントツに男性のほうが多い。

 曜日別の1日平均自殺者は、月曜日で、男性が約81人。女性が約27人。どちらも週末に
かけて減り、土曜日が一番少ない。

 時間帯は、男性が午前5時台から6時台(12・1%)。女性が午前10時台から午前0時台(1
6・1%)

月別では、男女とも、ほぼ4月前後が多く、年代別では、50歳代が多かったが、女性には、そ
うした年齢別の特徴は見られなかった。

 以上を総合すると、50歳台の男性で、4月の月曜日の、午前5時〜6時が、一番自殺者が
多いということになる。

 今年(05年)のカレンダーでみると、4月4日、11日、18日、25日が、あぶないということに
なる。私は、その50歳代。男性。気をつけよう。……というより、そのとき、自分の心がどのよ
うに変化するか、注意深く観察してみたい。
(はやし浩司 自殺 自殺統計 厚生労働省 人口動態調査)

(補記)

 私もその自殺予備軍の1人だから、声を大きくして、こう叫びたい。「決して、人の死を軽く論
じてほしくない」と。

 それぞれの人は、それぞれの深い事情と、言うにいわれない複雑な思いの中で、死を選択
する。死んでいく人には、その人しかわからない世界がある。その人の死について、ああでもな
い、こうでもないと勝手な解釈を加えること自体、その人に対して、失礼というもの。

 たとえば今、だれかがこう言ったとする。「命を粗末にしてはいけない」と。しかしこんな言葉な
ど、死を前にした人にとっては、カエルのヘほどの意味もない。(言いすぎかな?)

 ただ今、ここで言えることは、そういう「死」を背中に感じながらも、がんばって生きるとこと
に、人間の尊さというか、生きる尊さがあるのではないかということ。無数のドラマも、そこから
生まれる。

 明日、死ぬとわかっていても、今日は今日で、がんばって生きる。……みんなで力を合わせ
て、生きよう!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩
司  

●ボケ兄。行状記

兄の言動を聞いていて、気がついたことがある。その一つ。「暗い」。とにかく、暗い。

 たとえば朝起きてきたときから、不平、不満の連続。

 「今朝は、寒い」
 「湯が出ない」
 「コタツが、暖かくならない」
 「かたいものは、食べれない」など。

 一見、おだやか風な言い方をするが、その実、短気。CDをプレーヤーに入れるまでは、よい
のだが、スイッチを押して、音が鳴り出すまで、待てないらしい。その間に、あちこちを、ガチャ
ガチャ動かして、プレーヤーそのものをこわしてしまう。

 そして私には、「こわれた」「鳴らない」「むずかしい」と。

 ボケるということは、相対的に、周囲が、自分の思いどおりにならなくなることを意味する。本
当は、自分に原因があるのだが、それがわからない。そこで不平、不満がたまる、ということに
なるらしい。

 「冬だから、寒いに、決まっているだろ!」
 「一度、ボイラーで暖めるまでに、時間がかかるだろ!」
 「コタツのコンセントが抜けているから、暖かくならないのは、当たり前だろ!」
 「きらいな食べものを、すべて、かたいせいにするな!」と、そのつど反論したくなる。

 しかし反論しても、意味はない。そういった不平、不満そのものが、会話の中でかみあわな
い。

兄「今朝は寒い」
私「冬だからね」
兄「湯が出ない」
私「しばらく待っていないと、湯は出ないよ」
兄「コタツが暖かくならない」
私「コンセントをつないだか?」
兄「かたいものは、食べれない」
私「よく、かめよ」と。

 そして言った先から、自分の言葉を忘れていく。覚えていない。しばらくすると、また「今朝は
寒い」と言い出す。あとは、この繰りかえし。

 頭がボケて、感情が鈍麻する人もいるそうだ。しかし兄のばあい、感情は、ほとんど、残って
いる。さらに頭がボケて、凶暴になる人もいるそうだ。しかし兄のばあい、そういった凶暴性
は、ない。(よかった!)

 ただうつ病的な被害妄想、不安神経症的な不安感は、強い。食事の時刻が、少しでも遅れ
がちになると、パニック状態になる。「用意しているから、待ってろ!」と、何度さとしても、それ
を理解することができない。本人は、「永遠に、食事を与えらない」とでも、思っているのか。そ
れとも、私たちへの信頼関係がないのか。

 ボケた兄は、いわば人間の(原型)のようなもの。だからこそ、虫や魚のような生物のように、
(食べる)ことに執着するのかもしれない。兄にしてみれば、(生きること)イコール、(食べるこ
と)なのだ。

 しかしそれにしても、ものすごい執着力。執念といってもよい。ボケることで、かえって、(生)
への執念がますます、増強したといったふうである。「もう、ボケたから、生きている意味はな
い」とか、そういうふうには、考えないようだ。(私なら、そう考えそうだが、そう考える、主体性そ
のものがない?)

 兄の介護といいながら、その兄には、いろいろと教えられる。直接、私のしている幼児教育に
役だつことは少ないが、幼児教育のもつ独特の視点が、逆に、役だつことは多い。

 ワイフは、ときどき、こう言う。

 「子どもよ、子ども。わがままな子どもだと思えばいいのよ」と。

 その言葉には、まったく同感である。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【日記】

 昨夜は、レストランで夕食。長男は、大きなステーキを食べた。ワイフは、鶏肉ステーキ。そし
て私は、ハンガーグステーキ。

 少し生活費を入れてくれるようになってから、長男の態度に大きな変化が見られるようになっ
た。家の中も、存在感が大きくなったような気がする。

 家に帰ってきてからは、長男のHPの修理を手伝う。それは1時間ほどで、すんだ。そのあ
と、兄のために、森S一の歌謡曲のCDを、買ってくる。「森S一が聞きたい」と、突然、言い出し
たから。

 そのあと、廊下に、感知式のライトをつける。兄は、電気をつけても、消さない。そのため、兄
が通る部屋は、すべて、電気が明々とつけっぱなし。電気代も、ばかにならない。そこであちこ
ちのライトを、感知式のライトに、取りかえることにした。

 そのあとは、書斎にこもって、自分のパソコンで、遊ぶ。私にとって、一番、大切な時間であ
る。

 ……実のところ、私のHPも、おかしい。近く、新しいパソコンを買ったら、そのとき、移植しな
がら、なおすつもり。それまで、更新は、なし。ごめん!

 夜は、そのまま、12時ごろまで、起きている。

 枕もとの電気を消したとき、胃の中のハンバーグを重く感じた。「明日は、朝食は抜きだ」と思
いながら、静かに目を閉じる。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(522)

【タイムスリップ】

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少し前に書いた原稿をもとに、
短編の小説を書いてみました。
お楽しみください。

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【タイムスリップ】

●ボーイフレンドが、ほしい!(改作)

 中学生のR子さん(中3女子)が、ふと、こう言った。「先生、私、ボーイフレンドが、ほしいよ
オ」と。時刻は、午後9時をすぎていた。あと15分ほどで、教室が終わるというときだった。

 R子さんは、屈託のない子だった。それを聞いて、まわりの中学生たちが、笑った。

 「あなたなら、男たちが、放っておかないでしょう」と、私が言うと、隣の席にいたB子さんが、
「好きな子がいたんたけど、パクられてしまったんだってエ」と。

 「フ〜〜ン」と言っただけで、しばらく、つぎの言葉が出てこなかった。男が女を求める。それ
はわかる。しかし女も、男を求める? この年齢になっても、それがよくわからない。私の頭の
中には、ゆがんだ異性観というか、古典的な異性観が、しっかりとしみついている。

 遊ぶのは男、遊ばれるのは女。男はいつも攻撃的で、女はいつも受動的、と。そうでないとい
うことは、結婚してからわかったが、いまだに、そういう男女意識を消すことができない。

私「……ボーイフレンドと、何をしたいの?」と、私。どこか不謹慎な想像をしながら、そう聞い
た。

R「そりゃあ、いっしょに話をしたり、映画を見に行ったりとかさ、いろいろあるじゃん」と。

私には、期待はずれな答だった。少し、がっかりした。(ナーンダ、そんなことか)と思った。気を
とりなおして、「そうだな。そういうときが、一番、楽しいね」と、心にもないことを言った。

 しばらく沈黙がつづいた。子どもたちは、それぞれの教科書やワークブックとにらめっこして
いる。学校の宿題をしている子もいる。受験日は、近い。

●私の中学時代

 私はぼんやりと子どもたちを見ながら、自分の中学時代を思い浮かべていた。「ぼくにも、こ
ういう時代があったのかなあ」と。が、私には、そういう思い出、つまり女の子とつきあった思い
出が、まったく、ない。子どものころは、女の子といっしょにいただけで、「女たらし」とバカにさ
れた。中学生になってからも、この状態は、それほど、変わらなかった。

私「ぼくもね、好きな子がいたけど、電話で一度、話しただけだよ」
R「電話で?」
私「そう。相手の子が電話に出たとたん、何も話せなくなってしまったよ」
R「ヘエ〜エ。好きですとか何とか、言わなかったの?」
私「とても、言えなかったよ」と。

 そんなことを言いながら、ふと、Rさんを、見る。「そう言えば、そのときの彼女に似ている」と
思ったが、それは言わなかった。色白で、いつもほほえんでいるようなやさしい顔。が、あまり
にも見えすいた、何というか、それこそ、女たらしと呼ばれる男たちが、女性を口説くときに、よ
く使うセリフである。

R「でね、先生、そういうときは、何て、相手の男に、言えばいいの?」
私「そうだなあ……。あのね、男というのは、雰囲気で、相手が、真剣かどうか、わかるんだ
よ。真剣に何かを言えばいいよ。その真剣さが、相手の心の窓を開くよ」
R「じゃあ、何て、言うの?」
私「真剣にね、『今度、映画を見にいこう』とでも、言ってみてごらん。それで相手に、気持が伝
わるよ。『好きです』と、いきなり言うと、相手もビビるからね」と。

 私にとっては、40年以上も前の話。しかし、そんな感じが、まるでしない。タイムマシンか何
かで、過去に、タイムトリップしたような雰囲気になってきた。

今度は、私が質問した。

●私からの質問

私「じゃあ、聞くけどさ、いきなり、男の子から電話がかかってきて、その相手が何も言わなか
ったら、どう思う?」
R「どう思うって、どういうこと?」
私「へんだと思わないか?」
R「私は、思わないけど……。やっぱり何か言うべきだったわ」
私「そうかなあ……?」

R「で、先生、何とか、言葉をつなぐことができなかったの?」
私「できなかった。何も言えなかった」
R「好きですとか、映画に行こうとか、言わなかったの?」
私「思いつかなかった」
R「そういうもんかなあ?」
私「そういうもんだよ、現実は。そういうもんだよ」と。

 あのとき、もしもう少しスマートに、恋心を告白していたら、どうなっていただろうか? うまくデ
ートできただろうか? あの子と、そのあと、どうなっていただろうか? いろいろ考える。

 そして心は、あの日へ、タイムスリップ。

自宅にも電話機はあったが、私は、10円玉をにぎると、駅前の公衆電話に走った。電話の内
容は、だれにも、聞かれたくなかった。いや、数日前から、その日の電話を覚悟していたと思
う。そしてその日がやってきた。4月になったばかりの、春のときめきを感ずる、そんなある日
の午後だった。

 ……で、私が電話をすると、最初に、その女の子の母親が出た。当時としては、大きな雑貨
屋を営んでいた。母親は、その雑貨屋の店番をしていた。

私「Y子さんは、いますか? 林というものです」
母「Y子ですか。ちょっと待ってね」と。

 「Y子オ!」「林という人から、電話!」と。とたん、私の心臓は、はりさけんばかりに、はげしく
打ち始めた。

 「受話器をもどそうか」と何度も考えた。しかし私は、待った。息がつまった。時間だけが、ジリ
ジリと流れた。1秒、2秒、3秒……。

 遠くで、「ハーイ!」という声につづいて、足音が近づいてきた。その女の子は、ガチャリと受
話器を取って、こう言った。「何?」「何か、用?」と。私は、「ぼくです」とだけ、言った。それが
精一杯だった。

 そのとき私は、ハッと我にかえった。私は電話をすることは考えていたが、何を話すかまで
は、考えていなかった。とたん、腕だけが勝手に動いて、受話器を下に置いてしまった。

●再び、現実に……

R「それで、先生、その人と、どうなったの?」
私「ううん、それがね、それでおしまい」
R「デートはしなかったの?」
私「デートのし方も、知らなかったしね」と。

 そう、デートのし方も知らなかった。今なら、手をつないで歩くとか、抱きあうとか、そういうこと
を考えるかもしれない。

 ただおかしなことに、本当に、おかしなことに、その電話をした日を境に、その女の子への思
いが、急に、冷めていった。

私「そのときまでは、毎日、その女の子のことばかり考えていたけどね。でも、電話をしたとた
ん、急に、心が軽くなったよ。嫌いになったとか、そういうことではなく、スッキリとしたという感じ
かな」
子「わかる、わかる、その気持。そういうものよね」「そういうもの」
私「そういうもの?」
子「そうよ、そういうものよ。告白すると、胸の中がスッキリするのよね」と。

私「じゃあ、さあ、聞くけど、君たちは、ただ話をしたり、映画を見るだけで、それでいいの?」
子「どういうこと?」
私「言いにくいけど、それだけ?」
子「セックスをするということ?」と。

 最近の子どもたちは、変わった。そういう単語が、日常会話のように口から出てくる。

私「うん、まあ、そういうことだけど、サ」
子「している子も、何人かいるけどね。でも、私は、話すだけでいい」
私「でもさ、相手の男が、それで満足しなかったら、どうするの?」
子「そのときは、そのときね」と。

 その間に、何人かの子どもたちが会話に割りこんできた。「セックスしている人って、雰囲気
でわかるよね」「そうよね」「そうよね」と。私は、無視した。そしてこう言った。

「セックスもいいけど、いろいろな子とつきあって、その子がどんな子か、知るといいよ。そうす
るとね、自分がどんな人間かもわかるからね。フラれたら、どこに原因があるかを自分で調べ
るんだよ。そうして、どんどんと、自分をみがいていく。今は、そういう時期だから、いろいろな
子とつきあうといいよ」と。

 少し偉そうなことを言ってしまった。あのころの私、つまり中学時代の私など、ボロボロで、R
子さんがそれを知ったら、確実にがっかりするにちがいない。ダサくて、田舎臭くて、クソまじめ
で……。まったく、面白みのない男だった。

 私は、女性にモテるタイプではなかった。そこであえて、会話の流れをねじまげた。

●再び、告白

私「いいか、ぼくの顔を見て、中学生のころのぼくを想像してみてほしい。想像するだけでいい」

 私は、あごを少しひいて、子どもたちの顔をにらんだ。真顔にして見せた。そして視線を一巡
させたあと、R子さんのほうにその視線を固定した。

R「うん、わかった。先生が、中学生だったころね」
私「そうだ。いいか、想像できたか?」
R「ハハハ、待ってよ。……できる、できる」

「今は、こんなジジ臭い顔をしているけど、40年前のぼくだよ」と、私は、どこか中学生ぽいしぐ
さをしてみせた。

 少し離れたところにいる、K君(男子)がいた。その彼も、ニヤニヤしながら、こちらを見てい
た。

私「じゃあ、いいか、そのぼくが、今、君に電話をした。最初に電話を受け取ったのは、君の母
親だ。君の母親が、君を呼んだ。君は、受話器を取った。そして『何か、用?』と言った。その
君に、ぼくが、『好きです』と告白したら、さあ、君は、どうする?」

 R子さんは、一瞬、エッというような顔をしてみせたあと、すかさずこう言った。

「気持、ワリ〜〜イヨ〜、先生。サイテ〜(最低)」「気味、ワリ〜〜イ、サイアク〜ウ(最悪)」と。

 わかっていた。こんな質問、するまでもなかった。聞いた私が、バカだった。

 ……私は、ますます自信をなくして、この話は、ここでおしまい。ほんわかとした、ロマンス
が、ちょうどしゃぼん玉がはじけるように、パチンと消えた。40年の年月を越えて、「サイテ〜」
「サイアク〜」という声が、聞こえてきたような気がした。

私「そこまで、はっきりと言うことは、ないだろう!」
R「だってエ、先生、ごめん、ごめん、。気にした?」
私「そりゃあ、気にするさ。ショックだよ」
R「いいから、いいから。先生が奥さんに捨てられたら、私がデートしてあげるからネ」と。

そのあとしばらくして、語気を強くして、私は、こう言った。「さあ、勉強だ! お前ら、時間をム
ダにするなよ! 受験は近いぞ!」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(523)

●花粉症

花粉症の季節になった。「花粉症の季節」というのもおかしな言い方だが、そういう言い方が、
この日本ではすっかり、定着してしまった。

 厚生労働省の調べによれば、

 アレルギーのような症状があった……症状あり……35・9%
                  診断あり……14・7%
                  症状なし……59・1%、だそうだ(03年)。

 これには、アトピー性皮膚炎なども含まれ、みながみな、花粉症というわけではないだろう
が、それにしても、36%とは! 

 症状としては、「皮膚のかゆみや鼻水」。子どもや大都市の住民ほど、患者が多いという。

 実は、私も、24、5歳くらいのときから、45、6歳くらいまで、この花粉症に苦しんだ。最初
は、花粉症とは知らず、風邪薬ばかりのんでいた。

 が、何よりもつらかったのは、二男が、その花粉症になったこと。その季節になると、二男
は、本当に苦しんだ。毎朝、ゾンビのような風体で、顔を張らして起きてきた。それを見るたび
に、私とワイフは、沖縄へ移住することまで考えた。

 沖縄には、杉の木はないと聞いていた。

 が、私とて、戦わなかったわけではない。二男のベッドの周辺をすっぽりとビニールシートで
おおい、パイプをとりつけて、その中へ、一度、空気清浄機でろ過した空気を送ったこともあ
る。

 私が自作したものだが、病院の無菌室をマネたものだった。(ああ、今思い出したが、映画
「ET」に、そういうものが出てくるシーンがあった。あれである。)

 送風機は、熱帯魚用のポンプを使った。あれで、ボコボコと空気をシートの中に送った。

 しかし効果は、ほとんど、なかった。つまり二男の花粉症は、それくらい深刻なものだった。そ
のため、二男は、毎年、2〜5月は、ほとんど学校へは行かなかった。

 が、私のほうは、ちょうど12年ほど前から、症状が消えてしまった。春先に、毎年少しだけ、
軽い症状が出るが、1週間もすると、それが消えてしまう。そしてそのまま、夏を迎える。

 なぜ、症状が消えたか?

 その日、たまたま杉の木の植えかえ作業をしていた。頭から、小麦粉をかぶるようにして、作
業をしていた。10〜20分ごとに、メガネは花粉で、真っ白になってしまった。

 もちろん粘膜という粘膜は、パンパンに張れてしまった。息もできなかった。が、それでも作
業をつづけた。

 で、その夜のこと。私は家に帰ると、すぐ風呂に入った。そのときのこと。風呂の中で、ウソの
ように症状が消えていくのを、私はありありと感じた。私は、風呂の湯気のせいだと思った。
が、その風呂から出たときを境に、花粉症による症状が、私から、消えていた!

 これはいわばショック療法ということになるが、素人の方は、決して、マネをしてはいけないそ
うだ。それで命を落とす人もいるとか。

 そのほか、その数年前から、私はワイフと山歩きをするたびに、杉の木に向かって、こう話し
かけていた。

 「ぼくは、君たちの仲間だ。だからどうか、君たちの花粉で、ぼくをいじめないでほしい」と。

 それ以外の季節のときは、あの杉の木の香りを、胸いっぱいに吸い込みながら、山の中を歩
いた。今から思うと、それがよかったのではないかと、私は思う。

 が、肝心の二男の花粉症は、なおらなかった。やがてアメリカへ行くようになったので、やれ
やれと思っていたら、今度は、そのアメリカで、花粉症になってしまったという。アメリカにも、別
の、つまり杉の木に似た木があるらしい。

 ……と考えていくと、これはまさに、自然による、人類へのしっぺがえしということになる。ここ
からは私の推察だが、花粉症のメカニズムは、こうだ。

 花粉症を含む、アレルギー症状の原因は、自動車などが排出する、排気ガスだと言われて
いる。しかしその化石燃料(ガソリン)のもとは、太古の昔に栄えた、杉の木の祖先たちであ
る。それが地中で石油に変わった。

 その石油を掘り出して、燃料にした。その結果として、花粉症の症状を引き起こした。決し
て、因果関係がないわけではないのである。……と、勝手にそう思いこんでいる。

 今年は例年になく、大量の花粉が飛散すると予測されている。私もまったく症状が消えたわ
けではないので、早めに、予防策を講ずることにしている。

 参考になるかどうかわからないが、私のばあいは、つぎのようにしている。

(1)病院で、花粉注射を打ってもらう。(最初の1週間、2回)
(2)シソの葉エキスを大量に飲む。

 たいていそれで、1週間前後で、症状は消える。

 花粉症による苦しみは、恐らく、健康な人には理解できないだろう。が、その分、今は、春に
なると、花粉症のない世界を、私は、心底、楽しむことができるようになった。


●フランスの教育事情

フランスの「ラクロワ」という新聞が、こんな興味深い世論調査結果を報告している。

 フランス人の母親の43%が、毎日、子どもに向かって、「きょうのテストは何点だった?」と聞
いているという。

 同じ質問をする父親は、23%。「過半数の親が、テストの点に応じて、子どもに、ほうびを与
えたり、バツを与えたりする」そうだ。

 それについて、「親の75%が、テストの点数を気にしすぎていると意識しつつも、68%が、学
業成績を評価する貴重な指標」と、とらえているという。

 これは親の意識のちがいというよりも、教育システムのちがいによるものと考えてよい。欧米
では、生徒の成績はそのまま、教師の力と判断される。それだけに、教師側も、よりシビアな
立場に立たされる。フランスのことはよくわからないが、アメリカでは、教職についても、スポー
ツ選手と同じように、1年ごとの契約更新制になっている学校も、少なくない。教え方がへたな
教師は、1年で、クビになるということ。

 オーストラリアの語学校でも、毎週金曜日の最後の授業で、テストがなされる。そして冷酷な
までに、客観的に、その週の成績が評価される。

 欧米では、教師のほうが、点数をより気にしているということになる。(日本では、反対に、教
師自身が、学校間差別につながるとして、点数を公表することに、消極的になっている。)

 意外な記事だったので、ここに紹介した。


●頭は使う

体の筋肉と、脳みそ(脳の神経細胞)は、よく似ている。使わなければ、その時点から、その能
力は、後退し始める。

 で、頭のよしあしは、遺伝的な部分も否定はできないが、どうもそれだけでは決まらないよう
だ。

 たとえば体の筋肉にしても、使うから、鍛錬(たんれん)される。同じように、脳みそも、使うか
ら、鍛錬される。

 そこで重要なことは、鍛錬するかどうかということではなく、日常生活の中で、それを使う習慣
があるかないかということになる。あのアインシュタイン博士もこう書いている。「私は頭がいい
のではない。ただ人より、より長く考えるだけだ」と。

 つまり体の筋肉にせよ、脳みそにせよ、それを使うという習慣があれば、それでよし。健康
は、その結果として、向こうからやってくる。

 このちがいは、実は、すでに子どものときから始まっている。体を動かすことが好きな子ども
もいれば、そうでない子どももいる。頭を使うことが好きな子どももいれば、そうでない子どもも
いる。

 こうしたちがいが、何年も何年もかけて、目立った、ちがいとなって、外に現れる。だから大切
なことは、運動する習慣、考える習慣を、子どものときから身につけるということになる。

 ところで、これはあくまでも、私の印象なのだが、最近、自分で考える子どもが、少なくなって
きているような感じがする。脳の表層部分に飛来する情報を、そのまま口に出しているだけと
いう子どもである。

ペラペラとよくしゃべるのだが、中身がまったくない。話を聞いていても、どこかでものを考えて
いるという形跡がない。たまに、気のきいたことを言うが、それは情報と情報をつなぎあわせて
いるか、さもなければ、だれかの受け売り。

 子どものとき、一度、こういう方向性ができてしまうと、それを改めるのは、容易ではない。な
いことは、運動をするという習慣をみればわかる。たまに、40代、50代になってから、運動を
始める人がいるが、それは、そうせざるをえなくなった事情ができたから、というケースが多
い。

 たいていは、若いころのまま。若いころから運動をしない人は、年をとってからもしない。だか
ら、40代、50代になるころから、持病が、どっと悪化する。前面に出てくるようになる。

 しかし20代、30代のころから、健康であるにもかかわらず、毎日ジョギングしている人がい
る。そういう人は、自ら、生涯にわたって有効な、健康キップを手にしたようなものである。

 脳みそも、また同じ。

 パズルでも何でもよい。あなたが子どもに、「この問題を解いてみる?」と声をかけたとき、
「やる!」「やりたい!」と食いついてくる子どもは、すばらしい。そういう子どもは、自ら、生涯に
わたって有効な、賢人キップを手にしたようなものである。

 もう何度も書いてきたが、究極の健康法など、ありえない。体の鍛錬をやめたとたん、健康力
は退化する。同じように脳みその鍛錬もやめたとたん、知的能力は退化する。

 健康はともかくも、子どもは、その自ら考える子どもにしよう。考えることを楽しむ子どもにしよ
う。勉強ができるできないは、つぎのつぎ。あくまでも、その結果としてやってくる。

(補足)

 知的能力を維持するためには、現状維持という考え方だけでは、足りない。補充していくとい
う方法でも、足りない。知的レベルを維持するためには、常に前向きに補充していくという姿勢
が大切である。

 理由がある。

 知的レベルというときは、「忘却」「退化」「鈍化」「減退」という要素が、そこに加わるからであ
る。たとえていうなら、底に穴があいたバスタブを想像してみればよい。

 放っておけば、やがて水はなくなる。そこで上から水を補給する。しかし加齢とともに、底の穴
は大きくなる。だからますます多くの水を補給しなければならない。10年前、20年前より、多く
の水を補給しなければならない。

 わかりやすい例としては、英語の単語がある。

 10代、20代のころは、それなりに簡単に英語の単語を覚えられた。が、40代、50代となる
と、なかなか覚えられない。覚えられないばかりか、覚えてもすぐ忘れてしまう。もちろん10
代、20代のころ覚えた単語も、である。

 同じように、倫理も道徳も、そしてマナーも、加齢とともに、より心して補給していかねばなら
ない。若いころには、それなりにごまかしがきくが、年をとると、その気力が弱くなってしまう。そ
してその内に潜んでいた邪悪な自分が、ボロを出すようになる。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●男女共同参画事業

日本労働機構の調査によれば、専業主婦、就業主婦(被雇用主婦)にかかわらず、約80〜8
5%の女性が、「育児にストレスや不安を感じている」という。その中でも、「ひんぱんにある」と
答えた人が、30%前後もいる。

 子育ては重労働である。一瞬たりとも気が抜けない。動きのはげしい子どもをもつ親にとって
は、なおさらである。ちょっとした油断が、大事故につながるということも、少なくない。

 この問題を解決するための最善の方法は、男女共同参画事業の拡充である。男女のカベを
破り、ジェンダー(性差別)を解消する。はっきり言えば、夫に、もっと育児を負担させる。その
意識をもってもらう。

 そこで政府は、「2020年には、指導的立場になる女性が、30%前後になることを目標とす
る」(細田官房長官の私的懇談会)という方針を打ちだした。夫にその分だけ、家事、育児を負
担してもらおうというわけである。

(女性の社会進出によって、女性の負担を減らそうというのではなく、その分、男性にも、家事
や育児に、もっと目を向けてもらおうという考え方による。)しかしこの方針には、もう一つ、重
要な意味が隠されている。

 女性の負担を減らすことによって、現在進行中の少子化に歯止めをかけようというわけであ
る。言うまでもなく、少子化の最大の原因は、(母親の不安と心配)。その不安と心配が解消さ
れないかぎり、少子化に、歯止めをかけることができない。

 みんなで進めよう、男女共同参画事業! 日本のために!
(はやし浩司 男女共同参画事業 少子化)
 

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●誠司

孫の誠司は、どう見ても、日本人の私たちの顔とはちがう。私もワイフも、そう思っている。BW
の子どもたちですら、「英語人(外人)みたい」という。

 しかし顔というのは、不思議なものだ。

 同じ誠司だが、嫁のデニーズの両親たちは、そうは思っていない。「誠司は、アジア人の顔
だ」という。デニーズが両親に聞いたとき、両親は、そう言ったという。「半分、宗市にそっくり
だ」(日記)と。

 つまり日本人の私たちから見れば、外人の顔。しかしアメリカ人の両親から見れば、アジア
人の顔ということになる。

 そういう意味では、顔というのは、不思議なものだ。どこまでも相対的なもの。それもそのは
ず。私たちは、見慣れた自分たちの顔を基準にして、相手の顔を判断する。

 で、このところ、何かに疲れたようなとき、私は、どういうわけか、ひとりで宗市のHPを開き、
誠司の顔をぼんやりと、見ている。だれにでもそうなのだろうが、孫の顔には、不思議な力が
ある。人の心をいやす力といってもよい。

 そうして、しばらく見入っていると、心がなごんでくる。「つぎの新しい時代が始まったのだな」
という思い。そしてその思いが、死への恐怖をやわらげ、不安や孤独から自分を解放してくれ
る。

 少しおおげさな言い方になるかもしれないが、地球という乗り物に定員があるなら、いつか私
たちは、その席を、つぎの世代にゆずらねばならない。誠司を見ていると、すなおな気持ちで、
その席を、つぎの世代にゆずれるような気分になってくる。

 もっとも、私のマガジンを読んでくれている人は、大半が、若い父親や母親。(私の年齢で、こ
こまでインターネットに没頭している人は少ないし……。)だから孫の話など、ずっと先の話に
聞こえるかもしれない。

 しかしそんなあなたにも、両親がいて、ひょっとしたら、今の私のように、あなたの子どもを見
ているかもしれない。

 アメリカに住んでいるということもある。言葉も、通じない。いつかこの文章を誠司が読めるよ
うになるということも、ありえない。もうあきらめた。それに当然のことながら、私と誠司の人間
関係は、希薄。たがいの思い出はほとんどない。私にとってはともかくも、誠司には、ない。キ
ズナをつくるための、貴重な数年は、もう過ぎてしまった。

 仮に私やワイフが死んでも、誠司には、何ともないだろう。遠く離れた、見知らぬ土地の異邦
人。少なくとも誠司には、私たちはそういう存在である。

 が、だからといって、それについて不満に思っているわけではない。ゆいいつ重要なことは、
息子夫婦や誠司が、それぞれの道で幸福になること。彼らが自分でつかむ幸福には、私たち
夫婦は、関係ない。どのような形であれ、彼らが幸福になれば、それでよい。

 そこで今、私は、新しいことに気づいた。

 よく無償の愛とか、無条件の愛とかいう。しかしそういう言い方そのものが、おかしい。それに
気づいた。そんなことは当然のことであって、無償であるとか、無条件であるとか、そんな言葉
を使うことすら、おかしい。

 こうした言葉、つまり「無償」とか、「無条件」という言葉を使う人は、そうでないことに抵抗感を
覚える人が、あえて自分の気持ちを打ち消すために使うのではないか。いちいちそんなことを
考えていたら、かえって気が滅入ってしまう。めんどうだし、わずらわしい。

 孫の顔を見て、心がやすらぐなら、すなおにやすらげばよい。何も考えず。何も求めず。あえ
て言うなら、無私の愛ということか。私にとって、孫というのは、そういう存在。

 つい先ほども、孫の誠司の顔をみながら、心を休めた。今日も、いろいろあった。疲れた。で
は、みなさん、おやすみなさい。


●HPの回復

 昨日は、12時間かけて、HPを修復した。たいへんな作業だった。……といっても、12時間、
つきっきりでなおしたというわけではない。パソコンの処理能力が遅いので、それだけ時間が
かかった。

 で、今朝、最終チェック。朝、起きてみたら、HPは、完全に修復されていた。感動した。うれし
かった。と、同時に、Eマガの読者が、4人、ふえているのを知った。+喜び、倍増!

 2か月前だが、念のためということで、HPのデータを、CDに保存しておいたのが、よかった。
それをもとに、今回、HPを修復したわけだが、もしそれがなかったら、修復には、もっと時間が
かかったかもしれない。

 これからは、もっと、こまめに、HPの保存にこころがけることにする。パソコン本体の中で、D
ディスクに保存する。インターディスクに保存する。次期パソコンからは、DVDに焼いて保存す
る、など。

 改めて保存の重要性を知ると同時に、パソコンを信頼しすぎることの恐ろしさを確認した。


●マガジンは、今日から3月号

 今日は、1月31日。しかしこの原稿がマガジンに載るのは、3月2日、水曜日。このところや
や遅れがちだったが、やっと、追いついた。私はいつも、1か月先の原稿を書くことにしてい
る。

 どこかの雑誌社の編集長になったような気分だ。

 昔は(今も、基本的には、そうなのだろうが……)、雑誌を編集するときは、おおむね、2か月
先を考えながら、作業を進める。今(1・31)なら、4月号。桜の入学式を念頭に置いて、編集
を考える。

 しかしインターネットの時代になって、この世界も、すっかり様変わりした。原稿を書く、私も、
変わった。

 以前は、原稿を書くと、それらを雑誌社や出版社へ送った。知りあいをツテに、頭をさげなが
らの作業である。

 ときどき、反対に、雑誌社や出版社から仕事が回ってくることもあった。「ときどき」だ。地方
都市に住む人間の悲しさというか、人間関係をつくるだけでも、都会のライターより、何倍も時
間がかかる。

 が、私は、この数年、一作も、自分の原稿を雑誌社や出版社へは送っていない。本来なら、
そうすべきなのだろうが、今は、マガジンのほうが楽しい。自分自身が編集長になったような気
分を味わうことができる。

 で、多分、ほとんどの読者は、「どうせ、無料のマガジンだから……」「内容もその程度だろう
……」と思っているかもしれない。

 事実、そのとおりだから反論のしようがない。が、しかしそう決めこんでしまうのは、待ってほ
しい。私も、この世界を、30年以上、渡り歩いてきた。いろいろな雑誌社で、直接原稿を発表
してきた。

 しかしそういう原稿と比較しても、今、こうしてみなさんにお届けしている原稿は、何ら、遜色
はない。私はいつも、すべてを出し切って、原稿を書いている。たしかにサエは、鈍ってきた。
が、内容的には、自信がある。

 さて、今朝も、編集長の私が、ライターの私にこう叫ぶ。

 「おい、林君、いい原稿を20枚、至急出してくれ! 締め切りは、今日の正午だ!」と。

 それに答えて、ライターの私は、こう答える。

 「はい、編集長、わかりました。正午までには完成し、12時には、3月2日号の配信予約を入
れます!」と。

 こうして私の朝は、始まる。+(プラス)みなさん、おはようございます。これからもマガジンの
購読を、よろしくお願いします。

+++++++++++++++++++++

(補記)3月1日から、K国の船は、日本の港には、入港できなくなる。事実上の経済制裁という
ことになる。K国は、どう出てくるのだろう。おとなしく保険に加入してくるのだろうか。それとも、
彼らがいうところの「物理的報復」をしてくるのだろうか。

 この原稿を書きながら、そんなことを心配している。東京のみなさん、どうかお気をつけくださ
い。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 

●仮面

 昔から、1人、とても気になる女性がいる。よく知られた女性だが、もちろん、ここで名前を書く
ことはできない。その女性がだれかとわかるようなことも、書くことはできない。そのヒントも、ま
ずい。それを書けば、その女性の名誉を、ひどくキズつけることになる。

 その女性の名前をXX女史としておく。もともとは別の仕事をしていたが、ある日、何かのきっ
かけで、今の仕事をするようになった。年齢は、私より、上。それしか、書けない。

 その女性は、ときどきテレビなどにも出てきて、レポーターのインタビューを受けることがあ
る。見た感じは、たいへんおだやかで、やさしい。始終、笑みを絶やさない。話し方も、甘ったる
い言い方だが、相手を気づかう思いやりに、満ちあふれている。

 しかし、だ。

 どこか、へん。ぎこちない。不自然。大げさ。わざとらしい。何よりも気になるのは、「いかにも
私は聖人です」というような話し方をすること。視線を相手に合わせない。一方的に、しゃべる。
慈悲深い言葉を、相手に語りつづける。

 私が最初、その女性が気になったのは、ここにも書いたように、ジェスチヤが大げさだったか
ら。ときに、その場にいた人に、抱きついたり、頬ずりしたりしていた。どこか演技ぽい。「初対
面の人なのに、そこでするのかな?」と、そのときは、そう思った。

 反動形成の特徴は、ここにもあげたように、その言動が、どこか不自然で、ぎこちないこと。
大げさで、わざとらしい。話し方まで、まるでマリア様か、観音様のようになる。もう一つの特徴
を、つけ加えるなら、心がどこにあるかわからないような話し方をする。つかみどろこがない。
何を考えているか、よくわからない。

 私は、世間での評判とはちがって、そのXX女史の人間性(?)を、疑ってみるようになった。
その人の人間性は、その人自身の内側から出ているものではなく、反動形成によってつくられ
たものではないか、と。

 つまり、はっきり言えば、仮面。

 その仮面が、仮面をかぶり、さらにつぎの仮面をかぶる。やがてその仮面をかぶっているこ
とすら、自分でもわからなくなってしまう。そうした振るまいや、態度、姿勢、言い方すべてが、
その人のものとして、定着してしまう。

 恐らく、自分でも、どこからどこまでが、本当の自分で、どこから先が、仮面なのか、わかって
いないのではないかと思う。

 言うまでもなく、本当の(自分)は、醜い。その醜さを隠すために、反動形成としての仮面をか
ぶる。私はそのXX女史がテレビに顔を出すたびに、そのXX女史の顔を食い入るように見つめ
た。あれほどまでに、化けの皮を、分厚くかぶっている女性を、私は、ほかに知らない。

 ……という例は、少なくない。XX女史のような著名人は別として、あなたのまわりにも、似た
ような人が、1人や2人は、いるはず。

 見分け方は、簡単。

 ざっと頭の中でその人を思い浮かべてみる。そのとき、(1)どうも心が、つかめない。(2)何
を考えているか、わからない。(3)しかしいつも態度が大げさで、わざとらしく、ぎこちない。(4)
無理に自分をよい人間に見せようと、無理をしているようなところがある。そしてよく観察してみ
ると、(5)表の姿と裏の姿のちがいが、きわだって、はげしい、など。

 もちろん程度の差もある。ばあいもある。軽い人もいれば、そうでない人もいる。今でも、人
は、そういう人を、「タヌキ」と呼ぶ。表ヅラと、裏ヅラが、大きく違うからである。

 私の知人の中にも、そういう女性がいた。もう亡くなってから10年ほどになるが、近所では、
「マリア様」と呼ばれていた女性がいた。細くて、色白の顔をしていた。体つきも、きゃしゃだっ
た。

 その人と街で、出会ったりすると、さも私は人間のできがちがいますというような表情を見せ
たあと、「お子様は、元気ですか?」「お母様は、いかがですか?」と、私に話しかけてきた。た
しかに上品な顔だちをしていた。

 最初のころは、「ああ、私の家族のことを気にかけていてくれるのだな」と思っていたが、会う
たびに、そう言う。またどの人にも、そう言う。それがわかってからは、その女性を、疑ってみる
ようになった。

 「この女性は、自分をいい人間に見せるために、わざと、そう言っているのではないか」と。
が、それを確信させるようなことを、その女性がなくなってから、数年後に聞いた。

 何と、その女性が、その昔、寝たきりになっていた義祖母を、虐待していたというのだ。

 表では、つまり他人の目の届くところでは、義祖母思いの、やさしい嫁を演じながら、その裏
で、義祖母を虐待していたという。わざとおむつを取りかえてやらなかったり、わざと消化の悪
いものを食べさせたりするなど。

 その女性は、その義祖母の実の娘を、だれよりも警戒していたという。実際には、絶対に、二
人だけにはしなかった。そして義祖母の耳のそばで、いつもこう言っていたという。

 「いいこと、私の悪口を言ったら、もうあんたなんかのめんどうは、みないからね」と。

 実の娘は、その嫁の虐待を薄々感じてはいたが、しかしそれ以上は、介入できなかった。寝
たきりの老人の介護をするのは、たいへんな重労働である。実の娘だったが、その重労働を
引きうける自信がなかった。

 一方、その義祖母にしても、嫁のその女性を怒らせたら、それこそ、何もしてもらえなくなる。
他人の目の届くときだけでも、親切にしてもらえれば、それでいい。……というふうに考えてい
たのだろう。義祖母は義祖母なりに、「いい嫁です」と、人には言っていた。

 私はこの話を、聞いたとき、「あの人が……!」と絶句してしまった。その女性は、まさにマリ
ア様のような感じの女性だったからである。

 で、今から思うと、その女性の目的は、義祖母の残した財産ではなかったかと思う。義祖母
がなくなったあと、1億円近い遺産を、自分のものにしている。

 さて、冒頭に書いたXX女史だが、たしかに不気味な女性である。その派手な行いとは別に、
いつもテレビカメラのほうばかり気にしているといった感じ。「聖人というのは、私のような人間
をいうのです」というような態度を、これ見よがしに、演じて(?)見せることもある。

 その立場と地位、世間的な評価を気にしているうちに、別の(自分)をつくりあげてしまったの
かもしれない。「すばらしい人というのは、こういう人という」と、である。

 しかし仮面は仮面。ほかの人は欺(あざ)けても、私は、できない。この文章を読んだ、あなた
も、できない。反動形成というものが、どういうものか、そして、その仮面の見破り方を知ってし
まったからである。

++++++++++++++++

(追記)

 子どもの世界にも、この反動形成は、よく見られる。やはり、どこか不自然で、ぎこちない。大
げさで、わざとらしい。たいていは、その奥で、嫉妬や、ゆがんだ欲望とからんでいるとみる。

 その子どものモノを隠しながら、表面的には、親友を演ずる、など。そして最後の最後まで、
その子どものモノをいっしょに、さがすフリをしてみせたりする。

 私も、そういうケースを何例か経験しているが、「ふつうなら、そこまで協力しないのに……」と
思うようなことまで、してみせる。真っ暗になるまで、いっしょになくなったモノをさがしたりするな
ど。ここでいう「不自然さ」というのは、そういう不自然さをいう。

++++++++++++++++

反動形成の問題ではありませんが、以前
こんな原稿を書きました。思い出しましたので
ここに掲載します。
(中日新聞、投稿ずみ)

++++++++++++++++

●いじめの陰に嫉妬

 陰湿かつ執拗ないじめには、たいていその裏で嫉妬がからんでいる。この嫉妬というのは、
恐らく人間が下等動物の時代からもっていた、いわば原始的な感情の一つと言える。それだけ
に扱いかたをまちがえると、とんでもない結果を招く。

 市内のある幼稚園でこんなことがあった。

その母親は、その幼稚園でPTAの役員をしていた。その立場をよいことに、いつもその幼稚園
に出入りしていたのだが、ライバルの母親の娘(年中児)を見つけると、その子どもに執拗ない
じめを繰り返していた。手口はこうだ。

その子どもの横を通り過ぎながら、わざとその子どもを足蹴りにして倒す。そして「ごめんなさい
ね」と作り笑いをしながら、その子どもを抱きかかえて起こす。起こしながら、その勢いで、また
その子どもを放り投げて倒す。

以後、その子どもはその母親の姿を見かけただけで、顔を真っ青にしておびえるようになった
という。

ことのいきさつを子どもから聞いた母親は、相手の母親に、それとなく話をしてみたが、その母
親は最後までとぼけて、取りあわなかったという。父親同士が、同じ病院に勤める医師だった
ということもあった。被害にあった母親はそれ以上に強く、問いただすことができなかった。

似たようなケースだが、ほかにマンションのエレベータの中で、隣人の子ども(三歳男児)を、や
はり足蹴りにしていた母親もいた。この話を、八〇歳を過ぎた私の母にすると、母は、こう言っ
て笑った。「昔は、田舎のほうでは、子殺しというものまであったからね」と。

 子どものいじめとて例外ではない。Tさん(小三女児)は、陰湿なもの隠しで悩んでいた。体操
着やカバン、スリッパは言うに及ばず、成績表まで隠されてしまった。しかもそれが一年以上も
続いた。Tさんは転校まで考えていたが、もの隠しをしていたのは、Tさんの親友と思われてい
たUという女の子だった。

それがわかったとき、Tさんの母親は言葉を失ってしまった。「いつも最後まで学校に残って、
なくなったものを一緒にさがしていてくれたのはUさんでした」と。

Tさんは、クラスの人気者。背が高くて、スポーツマンだった。一方、Uは、ずんぐりした体格
の、どうみてもできがよい子どもには見えなかった。Uは、親友のふりをしながら、いつもTさん
のスキをねらっていた。そして最近でも、こんなことがあった。

 ある母親から、「うちの娘(中二)が、陰湿なもの隠しに悩んでいます。どうしたらいいでしょう
か」と。先のTさんの事件のときもそうだったが、こうしたもの隠しが長期にわたって続くときは、
身近にいる子どもをまず疑ってみる。

そこで私が、「今一番、身近にいる友人は誰か」と聞くと、その母親は、「そういえば、毎朝、迎
えにきてくれる子がいます」と。そこで私は、こうアドバイスした。

「朝、その子どもが迎えにきたら、じっとその子どもの目をみつめて、『おばさんは、何でも知っ
ていますからね』とだけ言いなさい」と。

その母親は、私のアドバイス通りに、その子どもにそう言った。以後、その日を境に、もの隠し
はウソのように消えた。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(524)

●子どものオナニー(自慰)

 受験をひかえた受験生が、毎晩(毎日)、オナニーにふけることは、珍しくない。

 財団法人、「日本性教育協会」の調査(1999年)によれば、

 マスターベーションの経験者  中学生……41・6%
                高校生……86・1%
                大学生……94・2%(以上、男子)

                中学生…… 7・7%
                高校生……19・5%
                大学生……40・1%(以上、女子)

 ということだそうだ。この割合は、近年増加傾向にあるが、とくに若年化が進んでいることが
知られている。

 たとえば男子中学生のばあい、マスターベーション経験者は、87年には、30・3%だったの
が、99年には、41・6%に増加している。性交経験者も、男子高校生だけをみても、11・5%
(87年)から、26・5%(99年)へと、増加している。

 そのオナニー(自慰、マスターベーション、手淫などとも呼ばれている)について、ある母親か
ら、相談があった。「中学3年生になる息子が、受験をひかえ、オナニーばかりしているようだ
が……」と。

 オナニーをすると、脳内で、麻薬様物質が放出されることがわかっている。現在、数10種類
ほど、発見されているが、大きく分けて、エンドロフィン系と、エンケファリン系に大別される。

 わかりやすく言えば、性的刺激を加えると、脳内で、勝手にモルヒネ様の物質がつくられ、そ
れが陶酔感を引き起こすということ。この陶酔感が、ときには、痛みをやわらげたり、精神の緊
張感をほぐしたりする。

 問題は、それが麻薬様の物質であること。習慣性があるか、ないかということになる。

 モルヒネには、習慣性があることが知られている。しかしエンドロフィンにしても、エンケファリ
ンにしても、それらは体内でつくられる物質である。そのため習慣性はないと考えられていた。
が、動物実験などでは、その習慣性が認められている。つまり、オナニーも繰りかえすと、「中
毒」になることもあるということ。

 その相談のあった中学生も、受験というプレッシャーから、緊張感を解放するため、オナニー
にふけっているものと思われる。そして相談のメールによれば、中毒化(?)しているということ
になる。

 オナニーの害については、「ない」というのが、一般的な意見だが、過度にそれにふけること
により、ここでいう中毒性が生まれることは、当然、考えられる。

 男子のばあいは、手淫(しゅいん)ということからもわかるように、好みの女性の裸体を思い
浮かべたり、写真やビデオをみながら、手でペニスを刺激して、快感を覚える。

 女子のばあいは、好みの男性に抱きつかれる様子を想像しながら、乳首や、クリトリス、膣を
刺激しながら、快感を覚える。

 男子のばあい、中に、肛門のほうから前立腺を刺激して、快感を得る子どももいる。

 さらに病的になると、依存症に似た症状を示すこともある。中学生や、高校生については、知
らないが、セックス依存症のおとな(とくに女性に多い)は、珍しくない。「セックスしているときだ
け、自分でいられる」と言った女性がいた。

 しかしこうした、エンドロフィンにしても、エンケファリンにしても、オナニーだけによってつくら
れるものではない。

 スポーツをしたり、音楽を聞いたりすることでも、脳内でつくられることが知られている。善行
を行うと、脳の辺縁系にある扁桃体でも、つくられるこも知られている。スポーツをした人や、ボ
ランティア活動をした人が、そのあと、よく「ああ、気持ちよかった」と言うのは、そのためであ
る。つまり、同じ快感を得る方法は、ほかにもあるということ。

 私のばあいも、夜中に、自転車で、30分〜1時間走ってきたあとなど、心地よい汗とともに、
気分がそう快になる。さらに翌朝、目をさましてみると、体中のこまかい細胞が、それぞれザワ
ザワと、活動しているのを感ずることもある。

 こうした方向に、子どもを指導しながら誘導するという方法もないわけではない。しかし中学
生ともなると、親の指導にも、限界がある。私の意見としては、子どもに任すしかないのではな
いかということ。

 こと、「性」にまつわる問題だけは、この時期になると、もう、どうしようもない。子ども自身がも
つ自己管理能力を信ずるしかない。現在の私やあなたがそうであるように、子どももまた、この
問題だけは、だれかに干渉されることを好まないだろう。
(はやし浩司 マスターベーション 自慰 オナニー 子どもの自慰 子供の自慰)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●あとから理由

 自分の失敗や失態をごまかすために、あとから理由を並べる子どもがいる。

私「花瓶を落として、割ったのはだれ?」
子「先生が、そんなところに置いたからよ」と。

 まだこの程度なら、よい。こんな(あとから理由)もある。

私「階段を飛び降りると、あぶないよ」
子「ママが、迎えにきたから……」

 子どもが階段を飛び降りたときには、母親の姿はまだ見えなかったはず。私が注意したあ
と、子どもの目に、母親が飛びこんできた。それでその子どもは、そう言った。

 こうした(あとから理由)を並べる子どもは、総じてみれば、勝気、負けず嫌い。どこかつっぱ
った症状も見られる。ものの考え方が、すなおでない。つまり、ひねくれている。

 原因の多くは、乳幼児期の何らかの欲求不満と考えてよい。それが子どもの心をゆがめた。

 子どものころ、一度、こういうクセが身につくと、それが(なおる)ということは、まず、ない。一
生、つづく。「心」というものは、そういうものだが、しかし一つだけ、なおす方法がある。

 それはまず、自分がそうであることに気づくこと。ついでに自分の乳幼児期のどこに問題があ
ったかを、さぐってみればよい。


●何でも、まず、否定

 こんな子どももいる。

 何かを話しかけると、まず、何でも否定する子どもである。

私「明日は、遠足だね」
子「どうせ、雨が降るよ」

私「いい服、着ているね」
子「ママが、バーゲンで買ったものよ」

私「今日の発言は、すばらしかったよ」
子「自分のできとしては、30点ね」と。

 すなおに、「そうです」「うれしい」とは言わない。ものごとを、一つずつ、ひねくれて考える。
が、当の本人には、それがわからない。それがその子どもにとっては、ごくふつうの会話のし方
ということになる。

 このばあいも、本人自身が、それに気づかないかぎり、それをなおすことはできない。私が、
「君の言い方はおかしいよ」と話しても、「おかしくない」とがんばる。

 印象に残っている女の子に、こんな子(年長児)がいた。

 ある日、幼稚園の庭に出て、その子に、こう話しかけた。

私「今日は、いい天気だね」
子「あそこに雲があるから、いい天気ではない」
私「雲があっても、いい天気だよ」
子「雲があるから、いい天気ではない」と。

 その子どもは、どこまでも、がんばった。

 原因は、やはり貧弱な乳幼児期にあるとみてよい。何かの欲求不満やわだかまりが、その
子どもの心をゆがめた。

 ……と書いて、実は、これは私やあなたの問題でもある。

 私たちは、「私は私」と思っているかもしれないが、その「私」の中には、(私であって、私でな
い部分)も多いということ。その(私であって私でない部分)が、「私」をゆがめることも多い。

 ここに書いた子どもにしても、いつか、そういう自分に気がつくことがあるだろうかといえば、
それはまず、ない。(こういう私の文章を読んで、自分を省(かえり)みることがあれば、話は
別。)「私は私」と思いこんだまま、おとなになり、そして老齢期を迎える。

 あるいはそういうゆがんだ部分が、肥大化することもあるかもしれない。生活苦や、不平不満
が、ますます心をゆがめる。

 そういう意味でも、自分を知るということは、たいへん重要なことである。このつづきは、また
別のところで考えてみたい。


●自分

 学生時代のこと。そのとき私は自転車に乗っていた。そして小さな路地に入った。そのときの
こと。

 少し前を、やや短いスカートをはいた女性が歩いていた。白くて細い足と、太ももが、見えた。

 とたん、私のペニスは、勝手に勃起してしまった。

 私にしても、はじめての経験だった。そのあとのことは、よく覚えていないが、おかしなことに、
あの路地だけは、そのあとも、私の夢の中によく出てくる。まるで映画のセットのようにである。

 ……という話は、ここではじめて、書いた。私は、それは恥ずかしいことだと、ずっと思ってい
た。

 しかし時代は、変わった。先日、ある若い人が書いているHPをのぞいてみたとき、私が経験
したことと同じことを、書いているのを知った。その若い人も、やはり、女性の足を見ただけで、
勃起してしまったというのだ。

 私はそれを読んで、「ナーンダ」と思った。「みんな、同じような経験をしているのだ」と。

 しかし私が書きたいのは、このことではない。

 その勃起した私は、私であったかという問題である。

 答など、改めて書くまでもない。その勃起した私は、(私であって私でない私)ということにな
る。

 が、考えてみると、では(私)とは何かと聞かれると、自分の中に、その(私)がほとんどいない
ことを知る。自信をもって、「これは私」と言える部分が、ほとんど、ない。その「私」をどんどんと
つきつめていくと、残ったのは、ウリの種のような、小さくて白い、かたまりのようになってしま
う。

 いったい、これはどうしたことなのか?

 女性の白い足を見たから、私は、勃起した。その性的エネルギーが、やがて恋となり、結婚
へとつながった。子どもが生まれ、育児も始まった。生活も始まった。人とのかかわりも、でき
た。

 そういう生活の中で、(私)があるとすれば、それはどこにあるのか。つまりは、どこからどこ
までが(私であって、私である)部分であり、どこから先が、(私であって、私でない部分)なのか
ということになる。

 ここにも書いたように、本当の私、つまり(私であって私である部分)というのは、ウリの種の
ようなものかもしれない。あとは、すべて(私であって私でない部分)ばかり。

 このことは、自分の体を見ればわかる。

 髪の毛から、足の爪先まで、「これは私のもの」という感じが、どうしても、もてない。どれ一つ
とっても、そうである。指は5本だし、その先には、ふぞろいの爪がある。色も、ツヤも、(私のも
の)というよりは、勝手に、そうなっている。「私の肉体」とは言うが、それは「私の心によって支
配しうる範囲の肉体」という意味にすぎない。

 「私」という「心」も、また同じ。

 先日も、ひょんなことから、ある女性の胸と乳首を、丸々見てしまったことがある。詳しくは書
けない。しかし見てしまった。

 そのときのこと、しばらくしてから、年甲斐もなく、またまたペニスが勃起してしまった。

 そういう自分をさらに振りかえりながら、私は、(私であって私でない部分)が、まだ元気なの
を知った。それがまちがっているというのではない。しかしそういうものにまどわされていると、
いつまでたっても、私は(私)を知ることができない。

 (私であって私である部分)は、どこにあるのか。そしてそれは何なのか。これからも、ずっと
考えていくことになるだろう。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●価格破壊

 近くに、大型のDIYショップができた。日用雑貨なら、何でもそろっている。その店の出口の横
に、ナ、何と、「10分、1000円の美容室」(仮名)という名前の美容室ができた。かねてから、
うわさには聞いていたが、そんな近くにできるとは!

 美容院というより、美容室。入り口で1000円のチケットを買った。すると、1人の女性が奥か
ら現れて、あれこれ指示してくれた。

 言われるまま、席につくと、いきなり、カット(散髪)開始!

 10分ではなかったが、結構、ていねいにカットしてくれた。15分ほどか? あとは、掃除機の
ようなもので、髪の毛を吸いとってくれた。それで、おしまい。使ったクシは、使い捨てということ
で、そのまま、みやげにくれた。

 私は、「これでいい」と思った。

 率直に言う。理髪店にせよ、美容院にせよ、日本での料金は、高すぎる。時間もかかる。て
いねいというか、バカていねい。子どものときでさえ、「何も、そこまでしてくれなくてもいい」と思
ったことも、何度かある。そしてその思いは、外国へ行ってみて、さらに強くなった。

 学生時代、オーストラリアでも、バーバー(散髪屋)といえば、たいていは、菓子屋の奥にあっ
て、その店の主人が、その合間にしてくれた。散髪といっても、簡単なもので、その分、料金も
安かった。アメリカでも、ほぼ事情は、同じだった。

 10分で1000円ということなら、単純に計算すれば、6時間働いて、3万6000円のあがり
(売り上げ)ということになる。20日間で、72万円。いろいろ経費もかかるだろうが、まあ、悪い
仕事ではない。

 そこで改めて、考える。いったい、日本の理容店や美容院は、何か、と。何も、理容店や美容
院が悪いといっているのではない。また個人の理容店や美容院を責めているのでもない。

 これは官僚主義国家の弊害といってもよい。この日本では、全国津々浦々、国家主権のお
よぶところすべて、官僚の支配下にある。管理と規制。「自由の国」と言いながら、自由にでき
る職種など、ほとんど、ない。資格だの、許可だの、認可だの、そんなもので、日本中、すべて
が、がんじがらめになっている。

 地方の観光案内をするだけでも、今では、資格が必要だという。一見便利な世界に見える
が、そのためにかかる、社会的経費を考えたら、バカにならない。(国家公務員と地方公務員
の人件費だけでも、40兆円! 日本の国家税収が42兆円前後! この事実を忘れれてはい
けない!)

 が、それだけではすまない。日本人自身が、ますます「自己責任」という言葉を忘れてしまう。
(国)に依存するようになってしまう。自分で考えて、自分の力で行動するということができなくな
ってしまう。

 たとえばよく言われるが、外国などでは、危険な道路でも、ガードレールがないところが多
い。「死にたくなければ、自分で気をつけろ」という論理である。が、この日本では、洪水が起き
ても、「行政の怠慢だ」「責任だ」と、住民は騒ぐ(失礼!)。

 その気持ちはわからないでもないが、しかし、その分だけ、お金がかかる。まだある。

 官僚主義国家では、官僚にしても、権限と管轄にしがみつき、国民の利益というよりは、自分
たちの利益を、まず優先する。「やるべきことはやります。しかしそれ以外のことは、知りませ
ん」「やりません」と。その結果が、今に見る、日本の不公平社会である。

 保護される人は、とことん保護される。されない人は、まったくの、カヤの外。

 で、美容院に話を戻すが、目的は、髪の毛をカットすること。だったら、もっと安くできないもの
か。……と、私はかねてから疑問に思っていた。

 そこで看板を見たとき、何も迷わず、その「10分、1000円の美容室」に飛びこんだ。

 結果は、大満足! ワイフも、「(美容師の)腕はいいみたね」と言った。もちろん女性でも、同
じ、1000円。

 これなら朝、自宅で、シャンプーをしたあと、その店に行けばよい。ふつうなら、4〜5000円
かかるシャンプー・カットが、消費税込みの1000円でできる。時間もムダにならない。

 これから先、こういう店がどんどんとふえればよいと願っている。応援するぞ!
(理容師、美容師のみなさん、ごめんなさい!)


●寒い

 大寒波が、目下、日本襲来中! 寒い。とにかく寒い。厚いコートを着て外に出る。身を切る
ような冷気。日本海側の人たちは、さぞかしたいへんだろうなと、ふと思う。冷気もさることなが
ら、このところ連日の大雪だという。

 そんな夜、小学6年生のDさんと、近くの書店へ行く。参考書を買うために、である。しかし行
ってみたが、ちょうど入れ替え時か。書庫には、これといった本がなかった。しかたないので、
みなに、あんまんと肉まんを買って帰る。

私「参考書は、慎重に選ぶんだよ」
D「どうして?」
私「自分に合わない参考書を買うと、それが理由で、勉強が嫌いになってしまうからね」と。

 教室へ帰ると、生徒たちがきていた。「おみやげだ!」と言うと、みな、「ヤッター!」と。が、そ
の中の2人は、「いらない」と。

私「どうして?」
子「夕飯を食べてきた」
私「……」と。

 子どもの学習指導で、気をつけている点が、いくつかある。その一つが、「参考書を自分で選
ぶ力を養う」。

 参考書にせよ、ワークブックにせよ、自分の力や、やり方に合ったものを、買う。それはちょう
ど料理人が、自分の腕と、料理の内容に応じて、調理器具をそろえるようなものである。

 それを教えるためには、実際に、子どもを、書店へ連れていくしかない。そして「この本は買っ
てはダメだよ」「この会社のは、良心的だからいいよ」などと言って、指導をする。
 
 問題の量が多ければよいというものではない。難しければよいというものでもない。私として
は、値段は少し割高になるが、月刊配布雑誌を勧めている。毎月、教材会社から送り届けら
れる学習雑誌である。何種類か出ているので、子どもの力に合ったものを選ぶとよい。

 コツは、無理をしないこと。無理な強制をしないこと。多少乱暴なやり方でも、その達成感を
大切にする、などなど。

 しかし何よりも大切なのは、子ども自身が、教科書を自分で開き、その教科書を読みなが
ら、勉強するという姿勢である。「自ら学び、自ら導く」。そういうふうに、子どもを、し向ける。そ
ういう意味では、子どもに依存心や依頼心をもたせることは、決定的にまずい。

 私の教室(BW)の宣伝になって恐縮だが、私のところでは、小学5、6年になると、子どもた
ちを複式学級の中で教える。上級生が下級生を監督し、一方、下級生は上級生から、勉強グ
セをもらう。

 イギリスのカレッジ制度における教育法を、まねたものである。

 そしていつも、子どもたちには、こう言っている。「いつまでも、ぼくに頼っていてはだめだ。勉
強は自分でするものだ。わからないところがあったら、そこだけを聞きにきなさい」と。

 一見、乱暴な指導方法に見えるかもしれないが、これにまさる指導法を、私は知らない。

 やがて夜、9時。

1人、2人と、子どもたちが帰っていった。教室をかたづけ、掃除する。何度も「外は寒いだろう
な」と思いながら、別の自分が、私にこう言って聞かせる。「健康のためだ。がんばろう!」と。

 こういう夜こそ、自転車に乗るから、意味がある。体も鍛えられる。がんばろう!


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●運命

 無数の糸。それが複雑にからんで、その人の(あり方)を決める。
 (進むべき方向)を決める。それを「運命」と、人は、呼ぶ。

 運命といっても、決して、不可思議なものではない。
もし運命が、あなたの手の届かないところで、
あなたを操っているように感ずるなら、それはあなたが無知だからにすぎない。
臆病(おくびょう)だからにすぎない。

 だから運命を感じたら、決して、恐れてはいけない。
 「戦う」というほど、おおげさなものではないにししても、
 そこに運命があるなら、決して、それから逃げてはいけない。

 過去をのろっても、しかたない。未来を嘆いても、しかたない。
 どうして今、そうなのかということだけを考えながら、
 今、できることを、すればよい。懸命にすればよい。

 運命は、それを恐れたとたん、あなたにとって、重荷になる。悪魔になる。
 しかし運命は、それを笑い飛ばしたとたん、軽くなる。悪魔は、向こうから退散する。

 どうせ短い、人生ではないか。いくら力んでみても、私たちの存在は、限りなく小さい。
 宇宙の、ゴミのまた、ゴミ。いくら偉そうなことを言っても、
その事実を変えることはできない。

 だったら、みんな、居なおって生きていこう。悩んだり、クヨクヨしても、始まらない。
 「今」はそこにあるし、私たちは、その「今」の中で生きている。
 
 ただ一つだけつけ加えるとしたら、いくら運命を感じても、その運命に
 身をゆだねてはいけない。相手の言うままになってはいけない。
 最後の最後のところでは、ふんばる。ふんばって、ふんばりつづける。

 そこに人間が人間として生きる意味がある。価値がある。
 無数のドラマも、そこから生まれ、私たちの命を、うるおい豊かなものにする。

 無知な人は、そこに不可思議な力を感じてしまう。そして愚につかないような、
 運勢論だの、占いだの、そんなバカげたものに、身をゆだねてしまう。

 そういう自分の愚かさと戦うためのゆいいつの方法は、自ら、賢くなること。
 もっとはっきり言えば、考えること。自分の頭で、考えて行動すること。

 人間は考えるから、人間である。また考えることによって、自らの運命を、
 自ら決めることができる。

 言い忘れたが、悪魔は、あなたの外にいるのではない。あなたの心の中にいる。
 あなたの心の中にいて、あなたがその手中に落ちてくるのを待っている。
 薄汚い笑みを浮かべながら、あなたを待っている。

 大切なことは、その悪魔を、決して、恐れてはいけないということ。
 恐れたとたん、その悪魔は、がん細胞のように、あなたの人間性まで、
 破壊する。最後の最後まで、じわじわと破壊する。

 さあ、あなたも、勇気を出して、あなたの運命を笑いとばそう。
 笑えばよい。「さあ、来い! くるなら、来い!」と。

 
(補足)

 自分の中の悪魔性は、相手にしないこと。仮に何か問題があったとしても、考えるのは、その
ときだけ。いつもいつも、悶々と考えるようなことはしてはいけない。

 このことは、私のワイフから、学んだ。ワイフはいつも、こう言っている。

 「私はそのときは、そのときのことを考えるけれど、そうでないときは、そのことは考えない」
と。

 楽天的に生きるための、重要なコツだと思う。

 そのときがきたら、そのとき、考えればよい。そういうことになる。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【緊急提言】

●今、K国への経済制裁をしてはいけない!

 K国への経済制裁は、国内向けには「やる」「やる」と言いながら、国際向けには、「慎重に」
という言葉を使いながら、「やらない」と公言している。

 一部の政治家が、「やる」「やる」と騒いでいるのは、いわばガス抜きのようなもの。事実、
今、K国に対して、経済制裁をすれば、どうなるか? そんなことは、ほんの少しだけ、頭を働
かせれば、わかること。

 今、経済制裁どころか、K国の国内事情はメチャメチャ。国連で北朝鮮への食糧支援窓口役
を担当している、世界食糧計画(WFP)がまとめた最近の報告書によると、この1月に入って
から、P市市場で取引される米価は最高40%、トウモロコシの価格は20%も、跳ねあがって
いるという。

 そのため、WFPはすでに、今年、K国住民650万人が、飢餓線上に置かれているとしてい
る。(650万人だぞ! 人口の約半分だぞ!)配給制もあるにはあるが、K国はP市市民と権
力階層および一部主要産業労働者のみに、それを実施しているという。

 すでにK国国民は、制裁以上の制裁を受けている。

 もしここで日本がK国に制裁をほどこせば、K国に、戦争開始の口実を与えるだけ。K国が、
もう少しまともな国ならまだしも、そうでないから、困る。さらに古今東西、どこの国の独裁者
も、政策が行きづまってくると、最後は、「戦争」という形で、その延命をはかろうとする。K国に
とっては、今が、そのとき。

 日本よ、日本人よ、その策略にはまってはいけない。ここで経済制裁すれば、それこそK国
の思うツボ。拉致問題はもちろん、日本は6か国協議から自ら、脱落することになる。が、それ
だけではすまない。

 化学兵器にせよ、細菌兵器にせよ、あるいは核兵器にせよ、ミサイル一発で、瞬時に、20万
人前後の日本人が死ぬことになる。もちろんK国も、ただではすまない。すまないが、日本は、
あんな国と、心中する必要はない。心中しては、ならない。

 拉致被害者の人たちの気持もよくわかる。わかるが、ここは、冷静に。決して、感情的になっ
てはいけない。

 問題は、「改正油濁損害賠償保障法」。

 この3月1日から、「改正油濁損害賠償保障法」が施行される。これによって、保険未加入の
国際運航船の、日本への入港を禁止できるようになる。K国船舶のほとんど(約97%)が、そ
の対象になり、K国の船舶は、事実上、日本の港への入港ができなくなる。

 当然、K国は、これをK国への制裁ととらえる。黒でも、「白」と言い張る国である。灰色である
なら、なおさら。「K国にとっては、事実上の経済制裁に映る」(中日新聞)と報道しているが、K
国にしてみれば、当然である。

 こうした流れの中で、日本とK国の間の貿易高は、ここ数年、激減している。が、その一方
で、K国と韓国、K国と中国の貿易高は、激増している。

 日本が単独で経済制裁をしても意味がないばかりか、かえってK国と韓国、中国との結びつ
きを太くしてしまう。そうなれば、仮に日K戦争ということになれば、中国はもちろん、韓国です
ら、K国を、ウラで支援することになる。

 へたをすれば、米中戦争へと進む可能性もないわけではない。

 K国はもちろん、韓国ですら、このところ、連日のように、反日キャンペーンを行っている。日
本ではほとんど報道されないような小さな事件ですらとりあげている。

たとえば東亜日報は、「日本のNK(62)文部科学相が、『(日本の歴史教科書には)、自虐的
な教科書がいっぱいある』と発言した」(1・30)と報道している。ほかにも、「強制連行に対する
賠償請求が、(日本の)最高裁で棄却された」というような報道も、流されている。

 (その一方で、韓国は、たとえばK国が、リビアに核関連物質を売却していたという疑惑報道
などは、いっさい、国内で、報道していない。)

 中国人の反日感情は、昨年夏のアジアカップ(サッカー)のときの様子を見れば、わかるは
ず。

 まさに四面楚歌(そか)の日本。こういう状況で、極東のこのアジアで、日本が導火線に火を
つければ、どうなるか?

 法治国家日本。それはわかる。しかしこの3月1日に、K国が、その法治国家日本に、どのよ
うに反応するか、率直に言って、私は、心配でならない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●ちょっと気になるニュース

(携帯電話は危険?)

携帯電話が小児ガンを誘発すると、ロシア政府の公共保健関係責任者が発表した。 
ロシアの国家保健の総責任医である、ケンナディ・オニシェンコ博士は、2月1日、政府の機関
紙であるロシスカヤ・カジェタを通じ、携帯電話が、とりわけ子供の健康を脅かすという研究結
果を発表した。 
オニシェンコ博士は、「ロシアの生薬研究所の研究によると、子どもはたった2分間の携帯電
話による通話でも、2時間にわたり生体の電気活動リズムが乱れることがわかった」と述べ
た。 
博士は幼いときから携帯電話を使えば、20〜29歳に脳腫瘍になる確率が高いというハンガ
リーの学者たちの研究結果も紹介した。 
オニシェンコ博士は、「携帯電話は不眠症、記憶力の減退、血圧の上昇を誘発する」とし、健
康に害がないというメーカーの主張を否定している。 
また、人は携帯電話を首にさげたり、ポケットに入れたり、手にして歩くなど、身近に携帯して
いるため、有害性をさらに高めていると説明した(以上、韓国、東亜日報)。
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 考えてみれば、強烈な電波である。ばあいによっては、数キロ先まで、届く。携帯電話の大き
さにだまされてはいけない。小さいから、電波も弱いだろうと考えるのは、とんでもない誤解。

 その携帯電話を、直接体に触れて、電波を発信する。考えてみれば、これほど、危険なこと
はない。ロシア政府の公共保健関係責任者が、発表した意見は、実は、かなり以前から指摘
されていたことである。

 携帯電話が原因で脳腫瘍。

実は、私は、この脳腫瘍の恐ろしさを、知っている。もう5、6年前だろうか。生徒の1人が、そ
の脳腫瘍で、なくなっている。もちろんその生徒が脳腫瘍になったのは、携帯電話が原因だっ
たと言っているのではない。しかし子どもの世界では、『疑わしきは、罰する』が大原則。

 「証拠がない」「確認されたわけではない」などという、安易な論理は、子どもの世界では、通
用しない。害が具体的に証明されてからでは、遅すぎる。

 子どもにもたせる携帯電話には、くれごれも、ご用心!

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KZ君という1人の少年の死について
書いた原稿を、転載します。

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●脳腫瘍で死んだKZ君

 KZ君という一人の少年が、一九九八年の夏、脳腫瘍で死んだ。三年近い闘病生活のあと
に、である。その彼をある日見舞うと、彼はこう言った。

「先生は、魔法が使えるか」と。そこで私がいくつかの手品を即興でしてみせると、「その魔法
で、ぼくをここから出してほしい」と。私は手品をしてみせたことを後悔した。

 いや、私は彼が死ぬとは思っていなかった。たいへんな病気だとは感じていたが、あの近代
的な医療設備を見たとき、「死ぬはずはない」と思った。だから子どもたちに千羽鶴を折らせた
ときも、山のような手紙を書かせたときも、どこか祭り気分のようなところがあった。

皆でワイワイやれば、それで彼も気がまぎれるのではないか、と。しかしそれが一年たち、手
術、再発を繰り返すようになり、さらに二年たつうちに、徐々に絶望感をもつようになった。彼の
苦痛でゆがんだ顔を見るたびに、当初の自分の気持ちを恥じた。実際には申しわけなくて、彼
の顔を見ることができなかった。私が彼の病気を悪くしてしまったかのように感じた。

 葬式のとき、KZ君の父は、こう言った。「私がKZ君に、今度生まれ変わるときは、何になり
たいかと聞くと、KZは、『生まれ変わっても、パパの子で生まれたい。好きなサッカーもできる
し、友だちもたくさんできる。もしパパの子どもでなかったら、それができなくなる』と言いました」
と。そんな不幸な病気になりながらも、KZ君は、「楽しかった」と言うのだ。その話を聞いて、私
だけではなく、皆が目頭を押さえた。

 ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の冒頭は、こんな詩で始まる。「誰の死なれど、人の
死に我が胸、痛む。我もまた人の子にありせば、それ故に問うことなかれ」と。

私はKZ君の遺体を見送りながら、「次の瞬間には、私もそちらへ行くから」と、心の奥で念じ
た。

この年齢になると、新しい友や親類を迎える数よりも、死別する友や親類の数のほうが多くな
る。人生の折り返し点はもう過ぎている。今まで以上に、これからの人生があっと言う間に終わ
ったとしても、私は驚かない。だからその詩は、こう続ける。「誰がために(あの弔いの)鐘は鳴
るなりや。汝がために鳴るなり」と。

 私は今、生きていて、この文を書いている。そして皆さんは今、生きていて、この文を読んで
いる。つまりこの文を通して、私とあなたがつながり、そしてKZ君のことを知り、KZ君の両親と
心がつながる。

もちろん私がこの文を書いたのは、過去のことだ。しかもあなたがこの文を読むとき、ひょっと
したら、私はもうこの世にいないかもしれない。しかし心がつながったとき、私はあなたの心の
中で生きることができるし、KZ君も、皆さんの心の中で生きることができる。それが重要なの
だ。

 KZ君は、今のこの世にはいない。無念だっただろうと思う。激しい恋も、結婚も、そして仕事
もできなかった。自分の足跡すら、満足に残すことができなかった。瞬間と言いながら、その瞬
間はあまりにも短かった。そういうKZ君の心を思いやりながら、今ここで、私たちは生きている
ことを確かめたい。それがKZ君への何よりの供養になる。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

+++++++++++++++++++++++

なにごともなく過ぎていく日々……
しかしその陰で、日本の経済は、
今、確実に、危機的な状況を迎えつつある。

少しショッキングなレポートになると思いますが、
こういう意見もあるのかという前提で、
お読みいただければ、うれしいです。

+++++++++++++++++++++++

●不気味な静けさ

 今、日本の経済は、不気味な静けさを、保っている。しかし、それはまさに、嵐の前の静け
さ。ふつうの嵐ではない。すでに、日本の国家経済は、暗黒かつ底なし地獄の、崖っぷちに立
たされている。

 これは脅しでも、予想でもない。数字という、客観的事実が示す、まぎれもない、事実である。

 あのアルゼンチンが、デフォルト(国家破綻)したのは、ちょうど今から、4年前の2001年の
12月23日。

 当時のリオドリゲス・サー大統領は、突然、対外債務の支払い停止を宣言した。その少し前
に、アルゼンチンは、預金封鎖(12月1日)を実施。預金額にかかわらず、預金者は、1週間
に250アメリカ・ドルしか引き出せなくなっていた。

 そのアルゼンチンだが、さぞかし借金がたまっていたのだろうと、だれしも思うだろう。が、と
んでもない。アルゼンチンがかかえていた公的債務は、約1400億ドル。日本円になおすと、
たったの15〜16兆円にすぎない。

 しかし今、日本は、国と地方自治体のかかえる公的債務を加えると、1000兆円近い金額に
なる。

 こう書くと、アルゼンチンと日本では、経済規模がちがうと主張する人がいるかもしれない。

 しかし、それも、どっこい。

 当時、アルゼンチンのGNPは、3000億ドル近くあった。つまりアルゼンチンは、GNPの約
半額で、国家が破産したことになる。

 が、日本がかかえる公的債務は、日本のGNPの約2倍。(日本のGDPは、約500兆円)。単
純計算をしても、今、日本がかかる危機は、アルゼンチンがかかえていた危機の、4倍というこ
とになる。

 すでに、日本が、この先、国家破綻におちいるのは、既定の事実。すでに日本や世界の経済
学者は、(そのあとの日本)を考え始めている。

 まあ、常識で考えても、日本の国家財政というか、財政運用は、メチャメチャ。現在、郵便貯
金から運用されている資金にしても、3分の1以上が、すでに不良債権化していると言われて
いる。つまり、紙くず。

「私には貯金があるからだいじょうぶ」と言っている人でも、例外ではない。

 暗い話ばかりしたが、もう少し、わかりやすく説明しよう。

 日の丸一家では、現在、夫の年収が、420万円。しかしぜいたくな生活をやめることができ
ない。立派な家や庭。必要もないのに、庭先には、ゲストハウスをつくったりしている。庭には、
大理石の歩道を二本もつくった。

それでは今の収入では、とても足りない。そこで年収分とほぼ同じ額の借金を毎年繰りかえし
ながら、800万円程度の生活をしている。

 そこしてたまりにたまった借金が、年収の約25倍の1億円。(1億円だぞ!)その利息の支
払いだけでも、毎年、300万円。もちろん、これもさらに、借金をしながら支払っている。

 もちろん日の丸家には、貯金がある。妻や子どもたちの貯金である。家や土地などの資産も
ある。だからいざとなれば、貯金をおろし、家や土地を売ればよい。夫は、こううそぶいている。
「いざとなれば、家と土地を売ればいいさ」と。

 家や土地を売ることはよいが、しかし、売ったあと、日の丸一家は、どこに住もうとしているの
か。しかも、それで借金が、消えるわけではない。アパートを借りる頭金すら残らない。(だいた
いにおいて、そんな家や土地を買う人すら、いない。)

 もしあなたの家計が、こういう状態なら、あなたは、いったい、その家計を、どうするだろうか。
ふつうなら、家計を切りつめ、ムダな出費をおさえる。しかし借金の額が、恐ろしい。1億円であ
る。切りつめて、やりすごせるような額ではない。これまたふつうの常識で考えれば、とっくの昔
に、自己破産の宣告をしていても、何ら、おかしくない。

 ……という、まあ、今、この日本は、実にバカげた、財政状況にある。

 いくら官僚主義国家とはいえ、国家公務員と地方公務員の人件費だけで、36〜8兆円。国
家税収が、42兆円前後だから、国家税収のほとんどが、公務員の人件費に消えていることに
なる。(わかる? 日本のみなさん、この事実!)

 しかも数が多い。現在。国家公務員と地方公務員の数だけでも、350〜60万人。そこでそ
の人件費を、公務員の数で割ると、公務員1人あたりの年収は、1000万円という数字が出て
くる。

 1人ひとりの公務員の人に責任があるとは、思っていない。しかしここは冷静に考えてみてほ
しい。今、公務員の人も、そうでない人も。

 こんなバカげた国が、ほかに、どこにある! アメリカなどでは、公務員の給料といえば、そこ
らのファーストフードの店員より安いというのが、常識。しかしこの日本では、公務員の給料
は、平均的民間労働者の給料の約2倍。一流企業のトップクラスの社員の給料よりよいか、そ
れとほぼ同じ。

 ホント!

 そこで日本を立てなおすために、日本政府はアメリカの研究機関に依頼して、5つの解決策
(柱)が打ちたてられた(アッシャー・レポート・99年)。

(1)債務の削減
(2)デフレの防止
(3)不良債権の解消
(4)高齢化社会への対策
(5)行政改革と規制緩和

 しかし以来5年。どれ一つ、うまくいっているものがない。とくに重要だったのが、(5)の行政
改革と規制緩和。わかりやすく言えば、官僚制度の是正である。

 しかしこの5年間で、むしろ、(1)から(5)まで、すべて悪化してしまった。わかりやすく言え
ば、官僚たちの手で、うまくねじまげられてしまった。

不良債権問題は、山を越えたとはよく言われているが、だれも、そんなふうには、思っていな
い。銀行は、超の上に、超が2つも3つもつくような超低金利というカンフル剤を打たれて、かろ
うじてもちこたえているにすぎない。(おかげで私たちの預金金利は、スズメの涙どころか、ゴキ
ブリの涙ほど。)

 また、たまたま今は、中国特需という、経済的恩恵を受けている。中国経済の急成長が、日
本の輸出産業を支えている。経済を支えている。しかしもしその中国経済がはじけたら、それ
こそ日本は、どうなることやら!

 問題は、なぜ、こういう日本になってしまったかということ。また、こういう日本を救うために
は、どうしたらよいかということ。

 私はやはり、教育の問題をあげる。つまり日本人は、硬直化した教育体制の中で、モービリ
ィテイ(機動力)をもった人材を育てることに、失敗してしまった。

 学校以外に道はなく、学校を離れて道はない。そんな体制の中で、自由にものを考え、自由
に行動する人材を育てることに失敗してしまった。

 本来なら、30年前に、日本の教育は、自由化されるべきだった。それが今ごろになって、や
っと、本当にやっと、校区規制が緩和されたり、大学間の単位交換ができるようになった。その
程度である。

 暗い話ばかりになったが、その暗さが、すぐそこにあっても、なかなか姿を現さない。みんな
それを知っていて、「何とかなるさ」「私には関係ない」と、考えることすら、あきらめてしまってい
る。私はそれを、「不気味な静けさ」と言っている。

 そこでデフォルト(国家破綻)になったら、どうしたらよいのか。そのとき、私たちは、どうしたら
よいのかということも、少し考えてみたい。

 日本の「円」は、アルゼンチンのペソのように、紙くずになることはないだろう。しかし猛烈な
ハイパーインフレで、その価値は、(そのときのIMFの介入度にもよるが)、10分の1とか、10
0分の1とかになる(推定)。

 優良企業は生き残ることができるが、都会から一歩離れた、地方の大、中、小企業のほとん
どは、外国企業に、投げ売りされる。もちろん社会保障制度も、崩壊する。

 そうなれば、若者たちは、仕事と食い物を求めて、海外へ出稼ぎに行くようになる。10年前、
20年前の中国の若者たちが、日本へやってきたように、である。

 官僚や公務員たちとて、例外ではない。IMFが、日本に介入してくれば、そのときは容赦な
く、リストラが実施される。その時点で、官僚や公務員の、半数以上が、職を失う。あるいはも
っと減る。もちろん給料はカット。退職金も年金も、カット。

 さらに悲惨なのは、私たちの年齢層である。50代〜以上の人たちである。貯金は、目減り
し、老後の社会保障制度は、なし。仕事はなし。日本人の3人に1人が、65歳以上になるとい
う現実の中で、どうして若い人たちに向って、「私たちのめんどうをみてほしい」と言うことができ
るのか。その若い人たちですら、仕事がない!

 ますます話が暗くなってしまったが、私は、こういう日本を、心底、心配している。で、あえて提
言を言わせてもらうなら、こういうことになる。

(1)みんなで選挙に行こう。そしてできるだけ若い候補者に票を入れよう。
(2)官僚政治を阻止するためにも、元官僚出身候補者には、票を入れないようにしよう。とくに
利権にぶらさがっている、族議員には、票を入れないでおこう。

 子どもの教育について言うなら、

(1)教育を自由化して、子どもたちがおとなになる過程の、そのコースを多様化しよう。
(2)おとなになってからも、自由に、職業を選択できるようにしよう。
(3)中途変更者が不利にならないようにしよう。役人の特権、利権を廃止ししょう。
(4)一芸をもった子どもが、もっと、教育の場で、評価されるようにしよう。

 ほかにもいろいろ言いたいことがあるが、今夜は、ここまで。頭が、かなり熱くなってしまっ
た。時計は、午前0時をいつの間にか、回ってしまった。このつづききは、また……。

++++++++++++++++++

 この日本では、官僚政治を批判する人が、本当に少ない。少ない上に、ますます少なくなって
きた。

 ほとんどの業種が、その官僚の支配下にあるからだ。農家の経営者ですら、数人集まれば、
補助金の話しばかりしている。「どうすれば、補助金がもらえるか」と。

 近くのコンピュータ・ソフトウエア開発会社の社長も、こう言っている。「うちのような会社が生
き残るかどうかは、公的な仕事をどれだけ受注できるかどうかで決まる」と。土木、建設業界に
ついては、言うに及ばず。

 みんな、「お上」にぶらさがっている!

 この私でも、ここに書いたようなことを、戦前に発表していたら、即、逮捕、投獄されていただ
ろう。もうすでに「あの林は、危険人物」と批評している人もいるかもしれない。

 しかし私は共産主義者でも、社会主義者でもない。自由主義者である。神や仏を否定するも
のではないが、しかし今、何かの宗教を信仰しているわけではない。ただ純粋に日本のことを
心配し、子どもたちの未来を心配している。

 日本は、先の戦争で、すべてを失った。今の日本は、その戦争の前の日本に、たいへんよく
似ている。みなが無関心で無責任。「今日、何とかすごせればそれでいい」と。つまりこの日本
は、再び、行き着くところまで自分で行かないと、気がつかない。同じ愚を再び繰りかえし始め
ている。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●分離不安

はやし先生、分離不安について相談します。    

長男が保育園の年長なのですが、1年前から登園拒否になりました。私は長男を保育園に送
って行った後、友達と駐車場(保育園の)で話をしていました。

その時に長男は園庭から私を呼んでいたのですが私は気がつきませんでした。しばらくすると
長男のお友達数人が、私に長男が泣いていることを教えてくれました。

長男は私を呼んでも気がつかなかったので悲しくなったようです。それから保育園の行くのを
嫌がるようになったのです。

突然の事で驚きましたが無理に行かせることはしないで、自分から行けるようになるまで待つ
ことにしました。原因は私が気がつかなかった事だけなのか、もしかしたらお友達と何かあった
のかなと考えたりもしましたが、やはり私が原因だなと思いました。

それは私が普段から叱ってばかりできっと愛情不足だといつも思っていたからです。そうわか
っていながらもいつも私はイライラしていて叱ってばかり。自分も幼い頃からずっと両親に叱ら
れてばかりで、暴力、無視もありました。

結婚して実家を出るまで自分のしたい事もできず否定ばかりされ、自由がありませんでした。
人と接するのが苦手で友達もあまりいません。長男を見ていると自分の幼い頃にそっくりなの
で、このまま私と同じように苦しんでいくのかと思うとつらくてたまりません。何とか連鎖を絶ちき
りたいという思いです。

去年の2月からほとんどお休みして、時々顔を出したり、一時退園をしたりしてきました。

9月になり保育園に行くとみんな運動会の練習をしていました。長男は運動が好きなので自分
から練習をするようになったのですが、私が何処にいるか見ながら練習していました。

私が少しでも動けば泣き出しそうです。それからは保育園に私がつきっきりならば半日ですが
行けるようになりました。保育園の先生方は理解して下さり、私は教室にお昼までおじゃまして
います。

長男は自分の席には座れず私のいる場所にいつもいました。手を洗いに行くのも私がついて
行く状態でした。最近は私が教室にいれば、自分で手を洗いに行ったり、席に座り作品を作っ
たり、お友達とお話したりしているのですが、私が保育園内ですが移動すると大泣きしたり、あ
せって私の所にきます。

しかし最近になって今まで甘えてくることがあまりなかったのですが、急に「抱っこ」と言い出し
て驚きました。うれしくなってぎゅっと抱きしめました。また弟が産まれてからさみしかったと言
いました。

少しずつ変化はみられるのですが、もうすぐ小学生のなるということもあり私から離れられない
ことにあせりが出てしまう。ちゃんと離れられるだろうかって。

今は意識してスキンシップをとるようにしています。今まで散々「お母さん遊ぼう」と言われても
苦しくなって遊んであげられなかったのですが少しずつ受け入れられるようになってきました。

これからどのようにしていったらよいのか、
先生アドバイスを宜しくお願い致します。(兵庫県A市・TSより)

+++++++++++++++++++++++

【TS様へ】

拝復

いきなり返事だけで、すみません。

分離不安というより、集団恐怖、もしくは対人恐怖
なども考えられます。恐怖症なども考えてください。

発端は、下の子どもが生まれたことによる、
嫉妬と欲求不満、それに「兄だから……」という
突き放しなどが考えられます。

この時点で赤ちゃんがえりが起きていたはずです。
下の子に攻撃的になったり、あるいはネチネチと赤ちゃんぽいしぐさになったりなど。
多くの母親は、そうした変化を見落としてしまいます。

が、今は、時期的には、もうそろそろピークを超えるころですから
あまり深刻に考えないで、つぎのことに注意してください。

(1)求めてきたときは、すかさず、いとわず、今なさって
おられるように、子どもが満足するまで、ぐいと抱いてあげます。
数分から10分前後で満足するはずです。(10秒足らずでよいこともあります。)

子どものほうから放す様子がみられたら、そっと、放してあげます。

(2)兄優先の家庭環境に切りかえます。
子どもが求めるなら、この際、しばらく添い寝、いっしょの
入浴なども、なさるとよいです。手つなぎ、抱っこも有効です。

スキンシップはとくに大切にしてください。

(3)あとは海産物(Ca、Mg、K)を主体とした食生活に切り替え、
甘いもの(白砂糖)、レトルト食品をひかえてください。

(4)園は、「行くべきところ」という考え方ではなく、
今の状態をこじらせないようにして、「途中で帰ってきても
いいのよ」式のねぎらいの言葉をかけてあげてください。

ほかの子どもたちより、何倍も、がんばっているのですから。

よくあることですから、終わってみると、一過性の問題だった
と気づくはずです。

今は今で、子育てを楽しんでください。

あなたは今、あなたとあなたの生まれ育った家庭環境の
問題に気づき始めています。

否定的な家庭環境で育ったということですが、その分、
親像が満足に入っていません。今の子育てがどこか
ぎこちないのは、そのためです。

しかし安心してください。

今、あなたはそれにも気づき始めています。
ですからあとは時間が解決してくれます。

あなたと、あなたの母親の関係を冷静に思い出して
みてください。

あなたは、自分の子どもに対しては、それを繰りかえしては
いけませんよ。
そこだけ気をつければ、問題は解決します。

若い方なのに、ここまで気がついておられるということは、
すばらしい方だと思います。

自信をもって、前に進んでください。

応援します。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●真の自由?

 今朝、朝食を終えたあと、ふと私はワイフにこう言った。

 「真理がわかれば、人間は、自由になれるんだってエ※」と。

 それに答えて、ワイフが、「自由って?」と。

 私は、聖書の言葉を、そのまま思い出した。「真理だよ。真理を手に入れれば、真の自由を
手に入れることができるんだよ」と。

 しかし、本当のところ、私には何もわかっていない。わかっていて、そう言ったのでもない。た
だの思いつき。口からの出まかせ。

 が、これだけは言える。もうムダにする時間は、ない、と。この世のありとあらゆるものをしっ
かりと見て、聞いて、知って、自分のものにする。私に残された時間は、あまりにも少ない。宇
宙の星々が、まばたきするほんのつぎの瞬間には、私は、永遠の闇の中に消える。

 こうしてワイフと朝食をともにできるのも、あと何年か?

 何かを残したいと考えたこともあるが、本当のところ、もうあきらめた。それに何かを残したと
ころで、それがいつまでつづくというのか。立派な墓石を建てたところで、それにどんな意味が
あるというのか。

 名声や地位や、名誉にいたっては、さらにそうだ。

 が、だからといって、生きることが虚しいと言っているのではない。

 もし生きることのすばらしさがあるとするなら、私のばあい、どうしても、あの「留学時代」に戻
ってしまう。あの時代が、私の原点であり、すべてであり、今も、あの時代が、私の心の中で、
さん然と輝いている。

 私は、幸福だった。本当に幸福だった。ああいう時代を、生きることができたということは、本
当に幸福だった。そのことをワイフに話すと、「いいわね。あなたには、そういう時代があったか
ら……」と。

 もし明日、死ぬということになったら、私は、あの時代の日々を心に描きながら、目を閉じる。
ほかに何も望まない。求めない。

 しかし「今」という時代も、あの「留学時代」に劣らないほど、幸福なときなのかもしれない。考
えてみれば、あのころはあのころで、さみしかった。

私「もし、ぼくが先に死んだら、一晩だけ、ぼくの横で寝てほしい」
ワイフ「……それでいいの?」
私「それでいい。できれば、手をつないでほしい」
ワイフ「わかったわ」

私「お前が、先に死んだら、その晩は、お前の横で寝てあげる。一晩中、ぼくの体で、お前を暖
めてあげる」
ワイフ「いいわよ、そんなことしてくれなくても……」
私「そうしたら、お前が生きかえるかもしれないし……」
ワイフ「あなたに任せるわ」

私「それに、もう、そろそろ、骨壷をつくっておこうか?」
ワイフ「そうね、早めにつくっておいたほうがいいかもね」
私「小さいのでいい。焼き物か、何かで……」
ワイフ「葬式は、どうするの?」
私「ぼくは、やらないよ。お前だけがそばにいれば、それでいい」
ワイフ「わかったわ」

私「あとは、お前が死ぬまで、その骨を預かってくれればいい。どうせ、ぼくのほうが、先に死ぬ
ことになるから」
ワイフ「二人とも死んだら、あとのことは、息子たちに任せればいいわよね」
私「そうだね」と。

 私のばあいは、友といっても、ワイフしかいない。しかしそのワイフを大切にしてきたかという
と、そうでもない。ひどいことばかりしてきた。若いときは、けんかばかりしていた。殴ってけがを
させたこともある。

 そんな私だから、真理などというのは、夢のまた夢。あと数百年、生きたところで、今と同じだ
ろう。だから、真の自由などいうのも、さらに夢のまた夢。

 いつまで生きても、この生きることにまつわる(さみしさ)から、解放されることは、ないだろう。
現に今、骨壷の話をしたとき、そこに私の限界を感じてしまった。生きることの終着駅のような
ものだが、それをそこに感じてしまった。

私「結局は、ぼくは、自由にはなれそうもないね」
ワイフ「いいじゃない、みんなそうなのだから……」
私「中途ハンパで死ぬということかな」
ワイフ「そういうことね」と。

(この原稿は、ボツにしようと思いましたが、私の一部であることにはちがいないということで、
収録しておくことにしました。)

※……『真理を知らん。而(しこう)して真理は、汝らに、自由を得さすべし』(新約聖書・ヨハネ
伝八章三二節)と。「真理を知れば、そのときこそ、あなたは自由になれる」と。

++++++++++++++++++++++++++

●真理

 イエス・キリストは、こう言っている。『真理を知らん。而(しこう)して真理は、汝らに、自由を得
さすべし』(新約聖書・ヨハネ伝八章三二節)と。「真理を知れば、そのときこそ、あなたは自由
になれる」と。

 私が、「私」にこだわるかぎり、その人は、真の自由を手に入れることはできない。たとえば
「私の財産」「私の名誉」「私の地位」「私の……」と。こういうものにこだわればこだわるほど、
体にクサリが巻きつく。実が重くなる。動けなくなる。

 「死の恐怖」は、まさに「喪失の恐怖」と言ってもよい。なぜ人が死をこわがるかといえば、そ
れは死によって、すべてのものを失うからである。

いくら、自由を求めても、死の前では、ひとたまりもない。死は人から、あらゆる自由をうばう。
この私とて、「私は自由だ!」といくら叫んでも、死を乗り越えて自由になることはできない。は
っきり言えば、死ぬのがこわい。

が、もし、失うものがないとしたら、どうだろうか。死をこわがるだろうか。たとえば無一文の人
は、どろぼうをこわがらない。もともと失うものがないからだ。が、へたに財産があると、そうは
いかない。外出しても、泥棒は入らないだろうか、ちゃんと戸締りしただろうかと、そればかりが
気になる。

そして本当に泥棒が入ったりすると、失ったものに対して、怒りや悲しみを覚える。泥棒を憎ん
だりする。「死」もこれと同じように考えることはできないだろうか。つまり、もし私から「私」をとっ
てしまえば、私がいないのだから、死をこわがらなくてもすむ?

 そこでイエス・キリストの言葉を、この問題に重ねてみる。イエス・キリストは、「真理」と「自由」
を、明らかに対比させている。つまり真理を解くカギが、自由にあると言っている。

言いかえると、真の自由を求めるのが、真理ということになる。もっと言えば、真理が何である
か、その謎を解くカギが、実は「自由」にある。さらにもっと言えば、究極の自由を求めること
が、真理に到達する道である。では、どうすればよいのか。


+++++++++++++++++++++

●スズメのエサ

 庭に来る野鳥の餌づけをするようになってから、もう何年になるだろうか。10年かな、15年
かな……?

 毎年、正月が終わるころから、3月の中ごろまで、庭の木に、エサ箱をつりさげる。野鳥たち
の食べ物が、ちょうどなくなるころである。

 が、今年は、いろいろあって、それを忘れてしまった。うかつだった。

 おととい庭を見ると、スズメたちが、そこにいた。みんな、ただぼんやりと、そこにいた。それ
を見て、私は、「しまった!」と思った。

私「今年は、忘れてしまったぞ」
ワイフ「エサを買ってきましょうよ」と。

 いろいろなエサがあるが、農協で買ってくる、ニワトリのエサ(混合飼料)がいちばんよい。値
段も安いし、栄養価も高い。10キロ入りで、1100円プラス消費税。一袋あれば、3月末まで、
もつ。

 街へ出たついでに、郊外の農協を回る。農協といっても、郊外の農協でないと、置いてない。
私たちは、農協のK支店までいった。車で20分ほどのところである。

 ……しかし1年もたって、覚えているとは! 今日まで、庭にはエサらしいエサはなかったは
ず。が、スズメたちは、それを覚えていた。きっと内心では、「どうして今年はないのだろう?」と
思っていたにちがいない。

 家に帰ってから、さっそくエサ台をつくる。キーウィの棚に、洗面器をつりさげて、その中に、
エサを入れる。庭に直接まくと、犬のハナがそれを食べてしまう。

 で、私はそのまま仕事に……。

 数時間してから、家に電話する。「スズメたちは来ているか?」と。ワイフは、「もう来ているわ
よ」と。それを聞いて安心した。

 こうした餌づけをしてはいけないという人もいる。野鳥たちが、それに依存するようになる。そ
うなると、かえって、野鳥たちのためにならない、と。

 しかしこのあたりから、野鳥が少なくなって、久しい。以前は、餌づけなどしなくても、スズメは
もちろん、冬になると、モズやヒヨドリ、ドバトなどが、ひっきりなしにやってきた。春の終わりに
は、メジロも集団でやってきた。ほかに何種類かの野鳥も。垣根の木には、無数の巣が並ん
だ。

 しかし今は、少なくなった。そう言えば、ここ半年くらい、ヒヨドリの姿を見ていない。どうしたの
だろう?

 私が死んだあとのことはわからないが、まあ、私が生きているかぎり、エサを与えてやるつも
り。これもつきあい。今さら、やめますとも言えない。

 そう、あの、何か、ものほしそうな顔をして、木々の上で、こちらを見てチッチッと泣きあってい
るスズメたちの姿を見たときのこと。私としては、どういうわけか、いてもたても、おられなくなっ
た。私はもともと、甘い人間。やさしい人間だとは思わないが、情にもろい。

 受話器を置いたとき、ポッと胸の中が暖かくなったのを感じた。


●HPの更新

 私のメインサイトになっているHPが、故障してしまった。で、その修復が、やっとおとといの
夜、すんだ。よかった。ほっとした。

 理由はよくわからないが、HTMLファイルを読み出せなくなってしまった。ソフト会社に電話す
ると、ファイルが破壊されたかも、とのこと。

 しかたないので、こういうときのために保存しておいたデータを、CDから読み出す。修復す
る。そのために、丸一日、かかった。

 まあ、その程度の被害ですんでよかった。……と自分では思っている。

 これからは、CDやDVDに焼いて保存するのではなく、ハードディスクに保存しよう。そのた
め、外づけのハードディスクを、今度の週末に買ってくるつもり。

 HPとはいうが、いろいろ気をつかう。何かと、たいへん。

 ……ということで、修復すると同じに、今回、トップページを、新しく作りなおした。灰色を基調
にした、少し、シックな落ちついたデザインにした。近くアップロードするつもりなので、興味のあ
る人は、どうか見てほしい。どうか、どうか、見てほしい。


●マリリン・モンローの宝石

 マリリン・モンローにまつわる、こんな有名な話がある。小学生がもっていた、数学パズルの
本に書いてあった話である(参考、沖田浩著「数学パズル」より改作)。

++++++++++++

 ある日、マリリン・モンローが、ニューヨークにある宝石店へやってきた。そして1万ドルの指
輪を買った。現金で、支払ったという。

 が、その翌日、マリリン・モンローは、その指輪をもって、またその宝石店へやってきた。そし
て、こう言った。

 「この指輪は、返すから、そこにある2万ドルの指輪をちょうだい」と。

 そこで店の主人が、差額の1万ドルを請求したところ、マリリン・モンローは、こう答えたとい
う。

 「昨日、1万ドル、払ったでしょう。それで1万ドル。そして今日、1万ドルの指輪を渡したでしょ
う。それで、1万ドル。だから合計で、2万ドルよ。その2万ドルの指輪を、さっさと、私に渡しな
さい!」と。

 実にマリリン・モンローらしい逸話(いつわ)である。どうしてマリリン・モンローらしいか、その
理由は、ここには書けない。しかしあなたが宝石店の主人なら、このマリリン・モンローに、どう
説明するだろうか。

 そのパズルの本では、ここがその問題になっている。「あなたなら、マリリン・モンローに、ど
う、説明するか?」と。

+++++++++++++++++++

(念のため)

 最近の中学、高校の入試問題では、こうした(説明問題)が、多く取り入れられるようになって
きている。

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(526)

●都会の貧乏人、田舎の貧乏人

 都会にも貧乏人がいる。田舎にも貧乏人がいる。

 あなたや私のことではない。「貧乏人」という言葉を読んで、どうか、怒らないでほしい。その
理由は、もう少し、あとでわかってもらえる。

 都会の貧乏人と田舎の貧乏人とくらべたとき、いちばん、大きくちがうのは、都会の貧乏人
は、目立たないが、都会では生きていくことができないこと。

 一方、田舎の貧乏人は、目立つが、田舎では、それなりに生きていくことができること。その
ちがいの理由は、実は、生活の中身、その中でも、とくに、「食べ物」にある。

 都会で一度、貧乏になると、生活そのものができなくなる。水道が止まる。電気が止まる。ガ
スが止まる。

 しかし田舎では、そうした心配はない。ないことはないが、それほど、深刻ではない。水は、山
からのもらい水。電気は最小限ですむ。ガスがなければ、枯れ木でまにあう。畑や田んぼがあ
るから、何とか食べていくことだけは、できる。

 ……実は、この話は、日本と、旧ソ連の話である。

 日本のデフォルト(国家破綻)は、もう時間の問題。そこでそのデフォルトをすでに経験した、
旧ソ連、さらにはアルゼンチンやメキシコ、タイなどと、日本を比較してみる。

 これらの国々と日本のちがいはといえば、ここにあげた(都会の貧乏人)と、(田舎の貧乏人)
の話に似ている。

 たとえば旧ソ連が崩壊したとき、(忘れてはならないのは、あれほどの大国でも、崩壊すると
きは、崩壊するということ!)、おびただしい失業者が街にあふれた。商工業は、1年以上にわ
たって、マヒしてしまった。

 しかし当時の旧ソ連の人たちは、見た感じは、みな、丸々と太っていた。餓死した人もいたの
だろうが、そういうニュースは、ほとんど日本には、伝わってこなかった。

 最大の理由は、食物だけは豊富にあったということ。値段が、べらぼうに安かったということ。
何しろ、土地が広い。モスクワの市民の約3分の1は、郊外に、別荘というか、別宅をもってい
て、週末になると、そこで家庭菜園などをしていた。つまり、都会の貧乏人でありながら、同時
に田舎の貧乏人もしていた。

 この状態は、アルゼンチンもメキシコも、よく似ていた。

 しかし日本は、ちがう。貧乏人を支える基盤、そのものが、弱い。もし日本がデフォルトという
ことになれば、日本人は、そのまま都会の貧乏人になってしまう。しかもこれだけの管理社会。
日本人は、何からなにまで、すべて国によって、管理されている。

 モビリィティ(機動性)そのものが、ない。

 私のことを書いて恐縮だが、私は浜松へ移り住んできたとき、すべてをなくした。まさにゼロ
からの出発だった。

 そこでお金になることは、何でもした。翻訳や通訳は言うにおよばず、家庭教師に塾の講師
など。ゴーストライターもしたし、会社の社内報も編集した。やがて雑誌の企画や教材づくり、さ
らにテレビの企画もするようになった。

 一日のうちに、数種類の仕事をこなすこともあった。もちろんメインは、幼稚園での講師。し
かしそれだけでは、収入は足りなかった。

 当時の若者たちには、私がもっていたようなモビリィティは、珍しくなかった。そういう意味で
は、私たちは、たくましかった。

 が、今、この日本という国が、破綻したら、日本人は、どうするだろうか。どうなるだろうか。

 子どものときから、管理、管理、また管理。そんな世界で、育てられている。5、6年前だが、
新聞にこんな投書を投稿していた女子大生がいた。いわく、

 「私たちの就職先がないのは、社会の責任だ。私たちは、言われるまま、しっかりと勉強して
きたのですから、就職先を用意するのは、社会の義務だ」と。

 私はそれを読んだとき、怒るよりも先に、笑ってしまった。そしてこう叫んだ。「甘ったれる
な!」と。

 私たちは、そうなってはほしくないが、しかし、デフォルトに対する、心構えだけは、怠っては
いけない。方法はいろいろある。

 一つは、頭の中で、シミュレーションしておくこと。社会の機能がマヒし、仕事がなくなり、お金
が、紙くず同然になった状態を、頭の中で想像してみる。そのとき、私たちは、どうすればよい
か、その方法と可能性を考えておく。

 もちろん前兆症状がないわけではない。

 預金封鎖、国債の塩漬け、企業倒産の連続。こうした動きが、連続して見られたら、デフォル
トは、秒読み段階に入ったとみてよい。

 決して、私は、みなさんに不安を与えるために書いているのではない。だれが考えても、つま
り私のようなド素人が考えても、今の日本の経済状況は、おかしい。狂っている。正常ではな
い。

 私は、その事実を言っているに、すぎない。

 ただ一つ、これがまた日本の特質なのだろが、日本以外の国は、対外債務を支払うことがで
きなくて、国家破綻した。しかし日本のばあいは、対外債務は、ほとんどない。ないばかりか、
巨額の対外債権をもっている。

 日本がかかえる膨大な借金は、実は、日本人に対してのものである。つまり日本という国
は、日本人に借金をしている。もっとわかりやすく言えば、借金だらけのおやじが、息子や娘か
らお金を借りまくっている状態に似ている。

 だから、財務省は、大きな顔をしているのかもしれない。が、もし、その息子や娘が、少しは
借金を返せと、おやじに迫ったら、どうなるか。それが日本型デフォルトの引き金になる。

 気をつけましょう。実は、あなたの預金は、すでに、そのほとんどが、紙くずなのです。(ちょっ
とショッキングな話で、ごめんなさい!)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●二男からのメール

 少し前、「真理と自由」について、書いた。それについて、アメリカに住む二男が、コメントを寄
せてくれた。

+++++++++++++++++++++

Hi!

I am sorry that my email was messed up last time. I really don't know 
why it's so hard to send Japanese email. Like I told Mama, I just wanted 
to say thank you for sending me the package and Sage really liked the 
elephant toy. He is calling it "zosan".

やあ!
前回、Eメールが、ごちゃごちゃになって、ごめんなさい。どうして
日本語のEメールを送るのが、こんなにもたいへんなのか、よくわかりません。

ママに話したんだけど、送ってくれた小包に、ただ「ありがとう」と言いたかった
だけです。

誠司は、ゾウのぬいぐるみが大好きで、「ゾーサン」と呼んでいます。

By the way, I read your diary at Rakuten. You are very "fudemame". I 
admire you.. :) I read the article about "Shinri". I am really glad that 
you are reading Bible. It's very hard to understand sometimes, but as 
you keep reading you will get more "context" and what those each words 
such as "Truth" or "Freedom" means.

ところで、パパの楽天の日記を読みました。パパは、たいへん筆まめですね。
(尊敬します。) 「真理」についての原稿を読みました。パパが聖書を
読んでいると知って、本当に喜んでいます。

ときどき理解するのが、たいへんむずかしいです。しかし読みつづけると、
より「中身」がわかってきます。そして「真理」とか、「自由」の意味が、
よくわかるようになるでしょう。

When Bible talks about "Shinri", it almost exclusively means "The word 
of God" and what it really boils down to is in John 3:16. Also, the 
"free" in the Bible usually refers to freedom from the bondage of sin, 
and especially in the text you quoted. Read right after the verse there 
on John 8:34. So this is really saying "If you believe in the word of 
God such as that I said in John 3:16, you will be freed from being a 
slave to sin".

聖書で「真理」というときは、それはほとんど排他的に、「神の言葉」を
意味します。そしてそれは、John3:16に集約されています。

聖書で「自由」というときは、「罪」の重さからの解放を意味します。
とくに、パパが引用した部分がそれです。その直後の、John 8:34
を読んでみてください。

そこには、こうあります。「もし3:16で、私が言ったように、
本当に神の言葉を信ずるなら、あなたは罪の奴隷から、解放されるでしょう」
と。

Just a thought to your heart.. 

ちょっと、パパの心に一言。

Cheers,
Soichi

++++++++++++++++++++++

 私も、とうとう息子に教えられる年齢になってしまった。しかも息子の英語は、私より、はるか
にうまい。いつの間にか、息子は、私の英語力を、はるかに超えた。が、うれしいはずなのに、
何か、さみしい。

 どうしてだろう?

 今まで、私は何をしてきたのだろうというさみしさかもしれない。自分だけが取り残されてい
く、さみしさかもしれない。何かを教えるべき立場にいる私が、反対に教えられている。

 そう言えば、二男がアメリカに旅立つ日、私は、二男にこう言った。

 「お前は、これから先、ぼくが見ることも、知ることもできなかった世界にふれるだろう。それ
は何か、今はわからない。でも、いつか、お前がそれを見たり、知ったりしたら、どうか、ぼくに
それを話してほしい。ぼくは、それを楽しみにしている」と。

 二男は、嫁のデニーズの手引きで、「神」を知った。そのメールの向こうに、私は二男夫婦の
幸福な生活を、かいま見た。

 私は、二男にこう返事を書いた。

 「ありがとう。お前の助けで、また一つ、新しいことを発見することができたよ。すばらしい奥さ
んだね。誠司も、かわいいよ。すばらしい子どもだ。笑顔が、デニーズにそっくりだよ。

 誠司のように、表情が豊かで、すばらしい子どもを育てるのは、たいへんなことだよ。お前た
ちは、すばらしい両親だよ。よくがんばったね」と。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●John 8:34

 息子に言われて、聖書(RYRIE版)を、ひもとく。

 John(8:34)には、こうある。

Jesus replies:
I tell you the truth, everyone who sins is a slave of sin.
Now a slave has no permanent place in the family, but a son belongs to it forever.
So if the Son sets you free, you will be free indeed.

イエスは、こう答えた。 
あなたに真実を話そう。罪ある人は、罪の奴隷である。
(罪の)奴隷には、家族の中に安住の場所はなく、息子が、永遠にそこにとりつく。
もし、その息子が、あなたを自由にするなら、あなたは本当に、自由になるだろう。

++++++++++++++++

 キリスト教でいう(sin=罪)という言葉には、独特のものがある。昔、オーストラリアの友人
に、一度、その意味を聞いたことがあるが、彼は、こう言った。「キリスト教徒でないと、理解で
きないだろうね」と。

 しかしニュアンスとしては、私にも、理解できるような気がする。

 邪悪な思想をもっている人は、いつもその邪悪な思想に振りまわされてしまう。そして自分が
邪悪なことをしていることにすら、気がつかなくなってしまう。つまり、邪悪な思想の奴隷にな
る。

 こんな勝手な解釈をすると、息子は怒るかもしれないが、私なりの解釈によれば、そうなる。

 つまり邪悪な思想に一度、とりつかれると、その時点で、自分の人生をムダにすることにな
る。一時の快楽を得ることはできるかもしれないが、一度キズついた人間性を取りもどすこと
は、容易なことではない。

 人生を、(真理への旅)にたとえるなら、その旅で、遠回りすることになる。あるいは道からは
ずれてしまう。だから、永遠に、その(真理)に、たどりつけなくなる。

 息子は、「真理を知れば、罪の奴隷から解放される」と言う。つまり罪の奴隷から、自らを解
放することが、自由である、と。

 しかし私の心の中には、邪悪なゴミがいっぱいある。ゴミだらけ。

 私は、平気で、人をうらむし、ねたむし、バカにするし、嫌うし、さげすむ。お金もほしいし、若
くて美しい女性を見れば、性的魅力を感じてしまう。まさに私は、(罪の奴隷、a slave of si
n)ということになる。

 私は、決して、善人でもないし、聖人でもない。

 だから私のような人間は、その臨終のとき、無間の孤独地獄の中で、もがき、苦しむ。失意と
悔恨。恐怖と不安。絶望と苦痛。そのどん底で、もがき、苦しむ。

 ……それがわかっているから、正直に告白するが、死ぬのが、こわい。こわくてならない。

 他人から見れば、私は、懸命にがんばっている人間に見えるかもしれない。一応、まじめだ
し、社会のルールは守っている。ウソはつかないし、健康にも注意している。いつも家族には、
誠実に接している。

 しかしそれとて、(自分がよい人間)だから、そうしているのではなく、臨終のときの自分が、こ
わいから、そうしているだけ。それはたとえて言うなら、借金取りに追いたてられるのがいやだ
から、仕事をしているようなもの。

 ほかに、私は、過去40年以上にわたって、人からお金を借りたことがない。それは私に何か
の哲学があって、それで借金をするのがいやだからではなく、頭をさげて、借りるのがいやだ
からにほかならない。根拠となる思想があって、そうしているのではない。

 同じように、本当に、同じように、私がいくら「私は自由だ」と叫んでも、そう叫んでいるだけ
で、本当に自由かどうかということになると、自分でも、まったく自信がない。

 やはり息子が言うように、本当に自由になるためには、自分の中にある、邪悪さから解放さ
れなければならない。お金がほしいくせいに、さもお金など興味はありませんというような顔をし
てみせる。それでは、真の自由を手にいれることはできない。

 しかしそれこそ、まさに偽善。その偽善のかたまりでは、真理には、到達できないということ。

 が、残された時間は、あまりにも、短い。今は、57歳。そのうち、兄のように頭もボケるだろ
う。そうなったら、おしまい。私は、何としても急がなければならない。

 宗市、ありがとう! お前を尊敬するよ!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●外付けハードディスクをつける

HPのデータを、CDに保存することができなくなった。たった52MBのHPなのだが、どうもうま
くできない。容量オーバーの表示とともに、フリーズしてしまう。

 そこで今日、外付けのハードディスクを買ってきた。I社の120GB。USB2接続。取りつけて
みたら、ウソのように簡単にできた。さっそく、いくつかのデータを保存してみた。またまた驚い
た。

 簡単、速い。CDだと、15分以上もかかっていた、コピーが、30秒足らずですんでしまう。(実
際には、もっと短いかも? 500MB程度のファイルなら、3分程度ですむと、何かの雑誌に書
いてあった。ただし、ここに書いた数字は、正確ではない。)

 が、取りつける直前、バタンと倒してしまった。(縦置きにしておいたため)。ハッと思ったが、
今のところ、順調に作動している。目下、別のパソコンで、「エラーをチェック」をしているとこ
ろ。これが結構、時間がかかる。

 その間、私は、この原稿を書いている。

 重要なデータは、そのつど、こまめに保存する。これはパソコンとつきあうときの、イロハ。こ
れからは、何でも、重要なデータは、外付けディスクに保存することにした。とにかく便利。コピ
ーして、それをハードディスクに張りつけるだけ。

 ちなみに、値段は、3年保証もつけて、1万6000円弱。

 しかし何でも、快適に作動するというのは、気持ちのよいものだ。ハハハ。


●国家破綻・これからの子育ては?

浜松市には、南米出身者を中心として、約2万4000人の外国人労働者たちが働いている(0
1年度)。あちこちに、小さな街ができるほどである。ある一角へ行くと、「ここは日本?」と思う
ようなところさえある。

 そういう外国人労働者を見ると、私たち日本人は、心のどこかで、「彼らは外国人」と思ってし
まう。しかし、本当に、そうか。そう言いきってよいのか。つまり彼らは、本当に、外国人労働者
なのか。ひょっとしたら、その姿は、近い未来の、日本人の姿ではないのか。

++++++++++++++

ご存知のように、1997年、韓国は、国家破綻(デフォルト)した。その年も終わろうとしていた、
11月21日、時のイム・チャン・ヨル副首相は、こう宣言した。

「今の難局を乗り切るには、IMFの誘導調整資金の援助を受けるしかない」と。

 そのときから、韓国の国家経済は、IMFの管理下に入ることになった。

 そのとき資金援助したのが、IMFに並んで、世界銀行と日本。それぞれが100億ドルを援助
した。そのほかにアメリカが、50億ドル。アジア開発銀行が、40億ドルなど。総計で、550億ド
ル!

 その結果、それまで33行あった主要銀行は、最終的には、3行になった。翌年には、失業者
は150万人を超え、韓国ウォンは、1ドルが、1000ウォンまで、下落した。

 ただ不幸中の幸いだったことは、韓国経済の規模がそれほど大きくなかったこと。今の日本
円になおせば、わずか5〜6兆円。それで、救済できたこと。(日本のばあい、あのN銀行救済
のためだけに、4兆円も、お金をドブに捨てている。C総連系列のC銀には、1兆円!)

 なおかつ、韓国は、その国家破綻をうまく利用して、韓国の経済を牛耳っていた、財閥を、解
体してしまった。つまり、韓国は、ゼロからやりなおすことで、生きかえり、若がえった。

 そしてその後の韓国の発展は、これまたご存知のように、めざましい!

 で、そういう韓国だが、教育という面でとらえると、どうなのか。

 たとえば今、韓国では、事実上の定年が、38歳ということになっている。58歳や、48歳では
ない。38歳である。

 それまでは韓国も、日本にならって、終身雇用、年功序列型の社会システムを営んできた。
しかし国家破綻をきっかけに、38歳とした。

 これはほんの一例だが、こうして韓国は、そのあと、世界でもまれに見る、競争型社会へと激
変した。復活した。日本のように、受験勉強だけして、合格すれば、あとは死ぬまで安泰といい
う社会を、自ら破棄したわけである。

 こうした競争主義は、冷徹な論理にもとづくものだが、しかし、この国際社会で生き残るため
には、必然である。能力と、実力と、やる気のあるものだけが、社会をひっぱる原動力となって
働く。

 もちろんその結果、多くの社会的ひずみが生まれたことも、否定できない。が、今、韓国は、
そうした問題をも、着々と解決しつつある。

 しかし、一方、この日本は、どうなのか?

 以前にも書いたが、あるテレビのレポーターが、当時の大蔵省の役人幹部に、こう聞いたこ
とがある。「あなたがたが、天下りをどう思いますか?」と。

 それに答えて、その役人幹部は、平然とこう言ってのけた。「私ら、今の仕事につくのに、そ
れ相当の苦労をしたのだから、当然です」と。

 彼らがいう「苦労」というには、受験競争をいう。今もそうだが、その受験競争というのは、ペ
ーパーテストをいう。

 で、この傾向は改まったかといえば、そうでもない。

 おととし(03)も、こんなシーンを、テレビで見た。「天下りをどう思うか?」という質問に対し
て、ある財務省の役人幹部は、こう答えていた。「私ら、仕事が忙しいから、退職後の就職先さ
がしができないのです。(だからしかたない)」と。

 私はウソを書いているのではない。ちゃんと、この耳で聞いた。

 こうした役人独特のエリート意識というのは、総じて、役人と言われる人たちは、みな、もって
いる。「役人が上で、庶民が下」と。だからその給料にしても、総じてみれば、役人の給料は、
民間の労働者の約2倍。

 平成13年度の「国民経済計算年報」によれば、日本人の給料は、おおむね、つぎのようにな
っている。

 1人当たりの人件費

     公務員             ……1018万円
     電気・ガス・水道の公営事業団体  ……795万円
     金融・保険業           ……678万円
     トヨタなどの自動車産業      ……629万円
     日本の民間企業に働く労働者の平均 ……448万円(この数字は02年)※

(※……企業規模100人以上、事業所規模50人以上の事業所、約3万4000事業所のうち
から抽出された約7500事業所の平均。つまり平均といいながら、中規模以上の企業で働く勤
労者の平均。つまり民間企業の中でも、恵まれた労働者。小企業、弱小企業、個人経営店を
含めると、さらに低くなる。)

 ここでいう「公務員」には、官公庁のトップ役人から、清掃に従事する自治体の職員まで含ま
れる。平均が1018万円ということは、1500万円の給料の人もいれば、500万円の人もいる
ということ。

 こうした人たちが、たがいに仕事を回しあい、外部からの参入を、ぜったいに認めない。ため
しに、あなたの近くにある公営の図書館や公民館の人たちが、どういう人事異動で、今の職場
にいるか、聞いてみるとよい。

 能力ではない。実力ではない。経験でも知識でもない。この日本では、一度、受験競争という
関門を通ってしまえば、あとは、すべてトコロテン方式で、死ぬまで安泰。

 それはそういう世界にどっぷりとつかっている人には、きわめて居心地のよい世界かもしれ
ないが、同時に、それは、日本の社会構造そのものを、硬直化させる元凶となっている。

 が、もし韓国のように、定年を38歳にして、実力主義にしたらどうだろうか。当然のことなが
ら、役人たちの世界から、猛反対が起きるにちがいない。何といっても、日本は、奈良時代の
昔から、世界に名だたる、官僚主義国家。そうは簡単には、動かない。

 それはわかるが、国家破綻してからでは、遅い。言うなれば、日本中が、廃墟となってからで
は遅い。

 あの先の戦争にしても、最後の最後まで、官僚たちが、へたにがんばるから、その最後の最
後で、原爆まで落とされた。今の日本は、当時の状況にたいへんよく似ている。あるいはそうに
でもならないと、日本人は気がつかないのか。

 結局は、この重いツケは、子どもたちの時代にのしかかる。というより、これからの子育て
は、そういう時代を見越して、していかなければならない。

 国家破綻ということになれば、今の韓国のように、若者たちが、こぞって、外国に移住するよ
うになる。出稼ぎというのではなく、移住である。韓国では、ここ数年、毎年、1万4000人前後
が、アメリカを中心として、海外へ移住している。海外定住をめざした留学生も、02年末まで
に、34万人を越えた。もちろん日本の学歴など、外国では通用しない。学歴ではない、中身
だ。

 「あなたは何ができるか」という視点で、今度は、外国の人が日本人を見るようになる。そうい
う中、臨機応変に環境に対応し、モビリィティ(機動性)のある子どもだけが、生き残ることがで
きる。

そういう時代がやってくることを見越して、自分の子どもを育てる。

 最後に、一言。「じゃあ、せめてうちの子だけでも、公務員に……」と、もし、あなたが考えてい
るなら、それは甘い。

仮にIMFが、日本に介入してくるような事態になれば、イの一番に、その公務員たちがリストラ
される。仮に公務員として残ることができても、もちろん給料は、最低限におさえられる。

 そういうことも考えて、子どもの教育を組みたてたらよい。

++++++++++++++

 今日も、近くの公営アパートの前を通ると、南米からやってきた労働者たちが、家族らしき人
たちと集まって、何やら大声で騒いでいた。陽気な人たちだ。これから春になると、さらににぎ
やかになる。

 その明るさだけが、ふと、私の重い心を軽くする。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(527)

●タイタニック

先日、幼稚園児たちに、映画「タイタニック」のサントラ盤の音楽を聞かせてやった。すると、す
かさず、彼らはみな、こう言った。

「チャルメラの音だ」「ラーメン屋さんみたい」と。

「君たちは、生まれるのが10年、遅かったよ」と言ってやった。しかしあの曲を聞いて、「チャル
メラの音」とは!

 で、私の得意芸は、そのサントラ盤をバックに、ローズが、笛で助けを求めるシーン。机にお
おいかぶさって、今にも死にそうな声で、こう言う。

「Come back...」と。

 しかし英語で言っても、子どもたちにはわからない。そこで「戻ってきてエ……」と。

 が、参観している母親たちは、みな、ゲラゲラ笑うが、子どもたちは、笑わない。そこでさらに
メガホンを使って、「生きているものはいないかア?」と、船員のまねをしてみせる。それに答え
て、子どもたちはいっせいに、「生きているよオ!」と。

 またまた爆笑。

 せっかくのすばらしい映画も、子どもたちには、ただのギャグ。残念。

 そうそうローズが助けを求めるところでは、私はピロピロと笛を吹いてみせる。念のため…
…。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(528)

【近頃・あれこれ】

●花粉症

花粉症とわかったとき、花粉症であることよりも、自然と同居できなくなった自分に、恐ろしさを
感じた。

 私が始まりなのか。もし人類が自然と同居できないということになれば、それは人類の絶滅を
意味する。

 少し大げさな意見に聞こえるかもしれないが、私は、そんなことまで考えた。と、同時に、「どう
して私が……」と、考えた。当時は、原因もわかららなかった。主要道路線沿いに患者が多い
ということで、最初に排気ガスが疑われた。もちろん直接の原因は、花粉だが……。

 そんなわけで、毎年、春が近づくと、ゆううつになった。最初は、軽い頭痛。それが終わると、
鼻水。くしゃみ。それが日に日に、ひどくなり、やがて粘膜という粘膜が、腫れあがる。

 呼吸が苦しく、夜も眠られない。しかしがまんできるのは、最初の数日。病院でくれる薬は強
烈だが、副作用も強い。鼻の中の粘膜はカラカラに、痛いほど、かわいた。が、効果は一時的
で、そのあと、猛烈な睡魔。反作用もあった。そのあと、かえって症状がひどくなった。呼吸する
のも、苦しくなった。体を支えているだけで、精一杯。おまけに、一日中、だるい。

 こうして1週間がすぎ、2週間がすぎる。年によって、ぜん息がひどくなるときもあった。体を横
にすると発作が起きる。座布団を幾重にも重ねて、椅子様にする。体を起こして寝る。もちろん
睡眠不足。この睡眠不足が、さらに症状を悪化させた。

 さらに3週間がすぎ、4週間がすぎる。もうそのころになると、体はヘトヘト。昼も夜もなく、頭
はぼんやりとする。目がかゆい。しかし一度、かいたら最後。目を引きちぎりたくなるほど、か
ゆくなる。

 で、1か月、2か月。花粉症がやっと軽くなるのは、5月になってから。南風を、海のほうに感
じたとたん、鼻から息がとおる。とたん、空に向かって、「バンザーイ」と叫ぶ。私にとって、いつ
も、そのときが春だった。

 花粉症……それは、花粉症になったものでないと、その苦しみはわからない。今では、さらに
よい薬が開発されてはいるが、もともと、花粉症をなおすというよりは、体の抵抗力をわざと落
として、反応をおさえようというもの。まともな薬ではない。

 で、今、その花粉症が、私から消えた。「加齢とともに、消える」と言う人もいる。私もその一
人だったかもしれない。ただよく覚えているのは、山を歩くとき、よく杉の木に話しかけながら、
歩いたということ。

 「ぼくはお前の敵ではない。どうして春になると、ぼくをいじめるのか」と。

 そしていつも、胸いっぱい、深呼吸を繰りかえした。今から思うと、それがよかったのかもしれ
ない。
 

●意識の変化
内閣府は2月5日、「男女共同参画社会に関する世論調査」結果を発表した。
 それによると、「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきだ」という考え方に反対する人が、92年
の調査開始後、はじめて賛成を上まわり、伝統的な家庭観が受け入れられなくなっていること
が明らかになったという。

 「夫は外、妻は家庭」という考えについては、
「賛成」「どちらかといえば賛成」……計45・2%
「反対」「どちらかと言えば反対」……計48・9%

 「反対」の割合は、20代で56・3%、30代で54・0%だったのに対し、60代では45・1%、7
0歳以上では31・2%と、若い世代に反発が強かった。

 女性の仕事についての考えについては、
「子どもができてもずっと続ける方がよい」……40・4%
「子どもができたらやめ、大きくなったら再び持つ方がよい」……34・9%
「子供ができるまでは持つ方がいい」……10・2%

 また、既婚者と同居者のいる人だけに、家庭内の実権を誰が握っているかについては、
「夫」……48・5%で、2002年の前回調査から7・1ポイント減った。

一方、「妻」は5・8ポイント増の22・7%となり、夫婦の"力関係"も変化しつつあることをうかが
わせたという。
(はやし浩司 内閣府調査 男女意識 男女共同参画社会 意識調査)

++++++++++++++++++

 わかりやすく言えば、こと「仕事」に関しては、男女の差別意識が少なくなったということ。実
際、職場を追い出され、育児に追いこまれることによって、女性が受ける、ストレスには、相当
なものがある。

 それについて書いた原稿が、つぎのものである。
 (中日新聞・投稿ずみ)

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【母親がアイドリングするとき】 

●アイドリングする母親

 何かもの足りない。どこか虚しくて、つかみどころがない。日々は平穏で、それなりに幸せの
ハズ。が、その実感がない。子育てもわずらわしい。夢や希望はないわけではないが、その充
実感がない……。

今、そんな女性がふえている。Hさん(三二歳)もそうだ。結婚したのは二四歳のとき。どこか不
本意な結婚だった。いや、二〇歳のころ、一度だけ電撃に打たれるような恋をしたが、その男
性とは、結局は別れた。そのあとしばらくして、今の夫と何となく交際を始め、数年後、これまた
何となく結婚した。

●マディソン郡の橋

 R・ウォラーの『マディソン郡の橋』の冒頭は、こんな文章で始まる。

「どこにでもある田舎道の土ぼこりの中から、道端の一輪の花から、聞こえてくる歌声がある」
(村松潔氏訳)と。

主人公のフランチェスカはキンケイドと会い、そこで彼女は突然の恋に落ちる。忘れていた生
命の叫びにその身を焦がす。どこまでも激しく、互いに愛しあう。

つまりフランチェスカは、「日に日に無神経になっていく世界で、かさぶただらけの感受性の殻
に閉じこもって」生活をしていたが、キンケイドに会って、一変する。彼女もまた、「(戦後の)あ
まり選り好みしてはいられないのを認めざるをえない」という状況の中で、アメリカ人のリチャー
ドと結婚していた。

●不完全燃焼症候群

 心理学的には、不完全燃焼症候群ということか。ちょうど信号待ちで止まった車のような状態
をいう。アイドリングばかりしていて、先へ進まない。からまわりばかりする。

Hさんはそうした不満を実家の両親にぶつけた。が、「わがまま」と叱られた。夫は夫で、「何が
不満だ」「お前は幸せなハズ」と、相手にしてくれなかった。しかしそれから受けるストレスは相
当なものだ。

昔、今東光という作家がいた。その今氏をある日、東京築地のがんセンターへ見舞うと、こん
な話をしてくれた。「自分は若いころは修行ばかりしていた。青春時代はそれで終わってしまっ
た。だから今でも、『しまった!』と思って、ベッドからとび起き、女を買いに行く」と。

「女を買う」と言っても、今氏のばあいは、絵のモデルになる女性を求めるということだった。晩
年の今氏は、裸の女性の絵をかいていた。細い線のしなやかなタッチの絵だった。私は今氏
の「生」への執着心に驚いたが、心の「かさぶた」というのは、そういうものか。その人の人生の
中で、いつまでも重く、心をふさぐ。

●思い切ってアクセルを踏む

 が、こういうアイドリング状態から抜け出た女性も多い。Tさんは、二人の女の子がいたが、
下の子が小学校へ入学すると同時に、手芸の店を出した。Aさんは、夫の医院を手伝ううち、
医療事務の知識を身につけ、やがて医療事務を教える講師になった。またNさんは、ヘルパー
の資格を取るために勉強を始めた、などなど。

「かさぶただらけの感受性の殻」から抜け出し、道路を走り出した人は多い。だから今、あなた
がアイドリングしているとしても、悲観的になることはない。時の流れは風のようなものだが、止
まることもある。しかしそのままということは、ない。

子育ても一段落するときがくる。そのときが新しい出発点。アイドリングをしても、それが終着
点と思うのではなく、そこを原点として前に進む。方法は簡単。勇気を出して、アクセルを踏
む。

妻でもなく、母でもなく、女でもなく、一人の人間として。それでまた風は吹き始める。人生は動
き始める。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(529)

●浦島太郎症候群

 平凡な生活。のどかな生活。しかし太郎は、ある日、一匹のカメを助けた。そしてそれが縁
で、竜宮城へ。

 そこからは太郎は、毎日、遊びザンマイの生活。タイやヒラメの舞いや踊りを見て暮らした。

 で、その生活にもあきた。そこで太郎は、「♪おいとまごいもそこそこに……」ということで、生
まれ育った、故郷の村に戻った。

 実は、私が書きたいのは、ここから先である。

 生まれ故郷の村に戻った太郎は、何をしたか? 太郎が竜宮城にいる間に、村の様子は、
すっかり変わってしまっていた。竜宮城と太郎のいた村とでは、時間の進み方が違ったという
説もある。

 それはともかくも、太郎が竜宮城にしばらくいた間に、故郷の村では、すでに何十年(?)も過
ぎていた。

 それはわかる。で、浦島太郎は、孤独の中で、嘆き悲しむ。それもわかる。

 そこで太郎は、乙姫からみやげにもらった、玉手箱を開ける。

 ……問題は、ここから。

 老人になった太郎は、そのあとどうしただろうか? このつづきについては、いろいろある。
鶴になって、空に飛んでいったという説もある。

 しかし私が書きたいのは、このことではない。言うなれば、それまでの太郎の生活は、ドラマ
に満ちた、楽しい生活だった。が、ある日気がついてみたら、太郎は、突然、老人になってい
た。
 
 そこで考えてみた。私なら、そういう生活に耐えられるだろうか、と。あるいは、私なら、どうい
う生き方を選択するだろうか、と。

 というのも、「老後」というのは、徐々にやってくるものではなく、ある日突然、やってくる。それ
までは、自分が、まさかその老人になっているとは思わない。ときどき、ふと、「そうかな?」と思
うことはあっても、「まさか」「私だけは」と、それを打ち消してしまう。

 太郎は、玉手箱から出た煙で、老人になったが、老人になり方という点では、私たちと、そう
はちがわない。たとえて言うなら、玉手箱は、子育て。その玉手箱から煙となって出ていったの
は、子どもたち。

 その子どもたちが煙となって玉手箱から出ていったとたん、突然、親は、そこに老後があるこ
とを知る。……知らされる。それまでは、何もかも夢中で、自分が年をとりつつあることすら、忘
れる。

 浦島太郎は、そのあとどうしたか。まさか心豊かな老後を送ったというわけでもないだろう。た
だここで言えるのは、浦島太郎の物語は、決して、おとぎ話の話ではないということ。だれしも、
いつか自分の人生を振りかえったとき、自分の物語であったと気づかされる。そんな物語であ
る。

 ……少し悲観的なものの見方をしてしまったが、今の私なら、そのときの浦島太郎の心境
が、よく理解できる。カラの玉手箱をぼんやりと見ながら、放心状態になっている太郎の心境
を、である。

(補記)

 親もある時期がきたら、じょうずに子離れをし、同時に、子どもには、じょうずに親離れできる
ように、指導していかねばならない。その時期は、子どもが小学校の3、4年生ごろとみてよ
い。ちょうどこのころ、子どもは、親の一方的な支配下からのがれて、自己を確立する時期にさ
しかかる。

 いつまでも、「親だから……」と子どもに、親風を吹かすのは、正しくない。一方、子どもは子
どもで、「子どもだから……」と、親に甘えるのも、正しくない。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


【お母さんのための、経済学】

●日本は、なぜ倒産しない?

これだけぼう大な借金をしているのに、どうして日本は、倒産しないのか? その額、もうすぐ1
000兆円!

 国民一人当たり、1000万円弱ということになる。4人家族なら、4000万円!

 が、日本は、倒産しない。なぜか?

 理由は、簡単。わが日の丸家では、おやじは、ロクに働きもせず、庭いじりばかりしている。
庭の中に、大理石を敷きつめた遊歩道を作ったり、離れの茶室を作ったり……。道楽ざんま
い。遊びこけている。

その金の出処(でどころ)といえば、自分の息子や娘。息子や娘に借用書(国債)を書いては、
金を借りまくっている。「いいじゃないか、どうせ、親子なんだから」と。

 そこである日、息子がこう言った。この息子は、本当に勤勉な息子で、朝は7時に会社に出
かけ、夜は、11時に家に帰ってくる。俗にいう「セブン・イレブン」人間。

 「おやじ、少し、お金を返してくれよ」と。

 しかしおやじには、金がない。そこでおやじは、娘のところにやってきて、こう言った。「な、ち
ゃんと借用書(国債)を書くから、また金を工面(くめん)してくれや」と。

 こうしてまたおやじは、借りたお金を使って、またまたムダづかい。必要もないのに、高速道
路を建設したり、新幹線の線路をのばしたり。あげくのはてには、海の上に空港を作ったり…
…。

 しかし、みんな、赤字。作れば作るほど、赤字。喜ぶのは、役人だけ。天下り先が、どんどん
とふえる。

 が、ある日、息子が気がついた。娘も気がついた。手元にあるのは、ぼう大な額の借用書
(国債)ばかり。借用書の合計は、1000万円になっていた。二人で、合計、2000万円!

 で、二人は、おやじに、こう迫った。「なあ、おやじ、おやじに貸した、2000万円、そろそろ返
してくれないか?」と。

 それを聞いておやじは、真っ青。返す金どころか、ほかにも、借金だらけ。そこでしかたない
から、おやじは、今度は、金を外国から、借りてくることにした。財務省の役人たちが、今年(0
5)に入ってから、ロンドンを中心として、日本の国債の販売促進活動を始めたのは、そのた
め。

 しかし今の日本に、お金を貸してくれる国が、どこにあるだろうか。

 
●アメリカは、なぜ、倒産しない?

 巨額の財政赤字と貿易赤字をかかえながら、どうしてアメリカは、倒産しないのか?

 しかし本当のところ、頭にくる。もしあなたもヒマがあったら、アメリカの中南部の中・高級住宅
地を歩いてみるとよい。

 映画「嵐が丘」に出てくるような、高級住宅が、ズラリと並んでいる。同じ人間なのに、それも、
それほど、働いている中身や時間は、ちがわないのに、どうして、アメリカ人たちは、こんなに
いい生活ができるのだろう。それを見せつけられると、本当のところ、頭にくる。

 なぜか?

 理由は、簡単。アメリカドルが、世界の基軸マネーになっているから。お金が不足してくれば、
アメリカは、ドルを、どんどんと印刷すればよい。印刷機で印刷すればよい。簡単なこと。あと
は、日本のような、貿易黒字国が、どんどんと、ドルを買いこんでくれる。

 強いということは、うらやましい。

 たとえて言うなら、有名画家の絵と、素人画家の絵のちがい。

 有名画家の絵は、乱暴な線画でも、一枚、数十万で飛ぶように売れる。一方、素人画家の絵
は、それが数年もかけて描いた絵であっても、価値は、「?」。二束三文。

国際社会では、アメリカドルは、その有名画家の絵のようなもの。みんなが「ほしい」「ほしい」と
言うから、価値がさがらない。

 買い手、つまりドルの引き受け先があるから、アメリカは、一向に困らない。だから倒産しな
い。

 が、問題が、ある。もしアメリカが弱みを見せれば、世界は、いっせいにドルを売り始めるだ
ろう。アメリカの力を疑うようになっただけでも、あぶない。

 そうなったのでは、やばい。そこでアメリカは、自国の威光と威信を守らねばならない。アフガ
ニスタンやイラクでの戦争も、その延長線上にある。「オレたちは、世界のリーダーだ」というこ
とを世界に見せつけながら、アメリカの力を誇示する。それがアメリカドルの価値を守ってい
る。

 ……とまあ、そういうふうに考えみると、なぜ、アメリカが倒産しないか、その理由がわかるは
ず。(しかし油断していると、あぶないぞ!)

 以上、はやし浩司の経済論。もともと専門外の分野なので、適当に読んで、適当に参考にし
ていただきたい。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(530)

【2月7日】

 長男は、朝早く、仕事に。三男は、オーストラリアで知りあった友人に会うために、長野(県)
へ。一方、私は、捻挫(ねんざ)した足が痛いので。これから医院へ。あとは、ワイフと、もう1
人、頭のボケた兄。

数日前も、夜9時ごろ、自分の部屋からノソノソ起きてきて、「夕飯を食べたかな?」と。「お前、
ちゃんと、食べたじゃないか。ギョーザを食べただろ?」と言いかえしてやると、「お茶を飲んだ
だけだ……」と。

 義理の兄に電話でそのことを話すと、ハハハと笑って、「そりゃあ、ボケも本格的だなあ」と。
義理の兄の母も、晩年は、10年近く、ボケてしまった。最後は、廊下で、ウンチをポタポタ落と
していたという。やがて兄も、そうなるのか?

 それにしても、今朝は、冷える。起きてすぐコタツに入ったが、身がもたない。服を着がえて、
またコタツに。これから少し株式の動きを見たあと、整形外科医院へ行くつもり。捻挫は捻挫で
も、どうも重症のようだ。

 で、いろいろあって、やっと昨夜、HPの修復が終わった。外付けのハードディスクにデータ
を、セーブして、一安心。

 ところで最近気がついたが、私にとってインターネットというのは、もうなくてはならない存在に
なりつつある。

 インターネットが、耳であり、声であり、頭脳ということになる。ニュースも、最近は、ほとんど、
インターネットをとおして読んでいる。友人との交信もそうだし、情報も、そこで手に入れてい
る。

 新聞も読まなくなった。テレビを見る時間も、少なくなった。図書がよいは、ほとんど、なくなっ
た。

 が、それだけではない。インターネットが、「私」自身になりつつある。とくにホームページがそ
うである。そこに、私の過去や現在が、凝縮されている。そこで今、ふと、思いついた。

 死んだら、人は、火葬され、遺骨を残す。しかし本当のところ、あんな遺骨に、どんな意味が
あるというのか(失礼)。人は、新陳代謝を繰りかえしながら、そのつど、肉体を自らつくりかえ
ている。遺骨を、故人の象徴のように考えるようになったのは、それだけあとあとの管理がしや
すいからにほかならない。

 が、もし本当に「私」を残したいと考えるなら、その人の書いたもの、残したものを、小さなマイ
クロチップに入れて、それを「遺品」にすればよい。そのほうが、よっぽど、実用的である。

 遺族たちは、いつかその人を偲(しの)びたいときは、そのマイクロチップをコンピュータに接
続して、その人が書いたものを読んだり、写真を見たりすればよい。あるいは、もうそういう時
代はすぐそこまできているような気がする。

 とりあえずは、すでに故人となった人たちのHPを集めて、インターネット墓地というのを考え
てみたらどうだろうか。

 永代供養……初回金のみ、10万円、とか、なんとか。考えるだけも、楽しい。

 たとえば広告は、こうすればよい。

 「あなたのHPを、永久に管理します」とか、何とか。宗派ごとに、HPを飾る体裁を変えてもよ
い。話が脱線したが、新しいビジネスになるかもしれない。


●ボケるということ

 ボケることによって、その人の人格は、崩壊する。具体的には、(1)ものの考え方が自己中
心的になり、(2)自己管理能力が喪失する。そして(3)まわりの人たちと、良好な人間関係
が、結べなくなる。

 頭のボケかかった兄を見ていると、それがよくわかる。

 食事のときも、自分で寒いと感ずると、電気ストーブを自分のほうにだけ向けてしまう(自己中
心性)。少しでも、嫌いな食べ物があると、「お医者さんが、こういうかたいものを食べるなと言
った」とか言って、テーブルの上に、投げ出してしまう(自己中心性)。数日前は、うどんを捨て
た。きっと、熱くて食べれなかったのだろうと思う。

 もちろん良好な人間関係は、結べない。遠まわしな、イヤミばかり言う。ワイフの手料理を一
方で食べながら、「(実家では)、食後にバナナを食べていた」「(実家では)、温かいミルクを飲
んでいた」と。
 
 そしてお決まりのボケ症状。夕食を食べたにもかかわらず、数時間もすると、「今日は、お茶
しか飲んでない」「夕食を食べないと、死んでしまう」とか。

 そのつど、私たちは、その瞬間には、怒りを感じながらも、それを笑い飛ばす。「本当に、お
前は、ボケてきたなア」と。

 少し前までは、食後の薬を自分の薬を選んで飲んでいた。が、最近、兄の上着のポケットの
中を見て、驚いた。飲んだはずの薬が、どっさりと出てきたからだ。つまり兄は、薬をのんでい
なかった(自己管理能力の欠落)。

 人格の完成度は、反対に、その人格を喪失していく人を見ると、よくわかる。あるいは、人格
の完成度の低い人を見ると、よくわかる。自分が相対的に高い立場になってはじめて、相手の
低さがわかる。

 子どもの世界も、また同じ。そして母親の世界も、また同じ。

 そこで再び、兄の話にもどるが、兄のように、きわめて自己中心性の強い人のばあい、(何
かをしてあげる)という行為が、すべてムダになってしまう。

 たとえばレストランへ連れていってあげる。近くの行楽地に連れていってあげる。好きな歌手
のCDを買ってきてあげる。

 こうした一連のサービスが、つまり兄を喜ばせてやろうというサービスが、兄の心の中にしみ
ていく前に、どこかへ消えてしまう。本人は、そうしたサービスを、当然のように思っているのか
もしれない。あるいは、何も感じていないのかもしれない。

 ワイフは、毎日、兄の世話に明け暮れているが、そういう意味では、ワイフに対しても、感謝
の「か」の字もない。ないばかりか、ときどき、ワイフに、あれこれ命令することもある。いちいち
考えていると、腹もたつ。笑って、自分をごまかすしかない。

 だからこうしたサービスは、結局は、意味のないサービスになってしまう。はからずも、私は今
朝、ワイフにこう言った。

 「ボケ老人の世話は、バカらしさとの戦いだね」と。

 そのバカらしさを乗り越えれば、心の負担は、軽くなる。しかし乗り越えられず、押しつぶされ
てしまうと、とたんに、重荷になる。

 が、重荷に感じていては、日々の生活は暗くなるだけ。だから結局は、笑い飛ばすしかない。

 ハハハ、ハハハ、ハハハ、と。


●早漏

 ワイフが、おかしなことを言った。「男も、年をとると、候(そうろう)言葉で話すようになるんだ
ってエ。○○さんの奥さんも、そう言っていたわ」と。「申し訳ないソウロウ」「ごめんソウロウって
ね」と。

 候文(そうろうぶん)といえば、江戸時代の言い方。「私は、〜〜で、候」とか、など。

 「?」と思って、つづきを聞くと、その「候」ではなく、「早漏」の「そうろう」のことだということがわ
かった。

 ナルホドと思ったが、この話は、たいへん微妙な話なので、ここまで。


********静岡市R幼稚園の方からのご質問より********

【質問1】

 5歳の子どもです。1、2学期は元気で、幼稚園へ通っていましたが、3学期になってから、教
室へひとりで入っていくことができなくなりました。

 友だちが声をかけてくれても、ダメで、入り口で待っているような状態です。心配ですが、どう
したらいいでしょうか。


【質問2】

 子ども(小5男児)を励ますつもりで、何かを言うと、「お母さんだって……」と言い返します。母
親を、ちょっとバカにしているようなところがあります。どうしたらいいでしょうか。


【質問3】

 2人兄妹の下の子のことです。「泣けば抱っこ」というふうに、何でも許してきました。こまごま
と言わないと、何もしません。春から小学校に入学します。だいじょうぶでしょうか。幼稚園で
は、しっかりとやってくれています。


【質問4】

 小学校へ行きだして、まわりを見ると、みな、親たちが子どもに、「勉強しなさい」「塾へ行きな
さい」と言っているのを聞きます。それを聞くと、あせってしまいます。どこまで親がすればよい
のか、悩んでいます。


【質問5】

 私の子どもは、心の内を表現するのが苦手です。そんな子どものストレスを解消するには、
どうしたらよいでしょうか。サインのようなものは、ありますか。


【質問6】

 一人っ子です。家庭では、いつも子ども中心で、勝負ごとも、私のほうで負けてあげたりして
います。競争する面も少なく、どうしたらよいでしょうか。


【質問7】

 1日中、「早くしなさい」と言っています。のんびり屋で、マイペースです。話すことに夢中になっ
てしまい、それで遅くなるようです。「早くしなさい」と言わずにすむ方法があれば、教えてくださ
い。


【質問8】

 私はずっときびしい母親でした。そのため子どもは、すっかり自信をなくしてしまい。自分を出
せない子どもになってしまいました。私なりに反省し、あきらめてきました。が、このところ、少し
ずつですが、自信をもち始めたようで、母親の私としては、何かと期待がわいてきました。これ
から先、どういうふうに指導したらよいでしょうか。

++++++++++++++

【はやし浩司より、R幼稚園のみなさんへ】


【質問1】

 5歳の子どもです。1、2学期は元気で、幼稚園へ通っていましたが、3学期になってから、教
室へひとりで入っていくことができなくなりました。

 友だちが声をかけてくれても、ダメで、入り口で待っているような状態です。心配ですが、どう
したらいいでしょうか。

【参考意見】

 何らかのこだわり(固着)をもっていることが考えられます。このこだわりが強くなると、恐怖症
などに発展します。考えられるのは、対人恐怖症、集団恐怖症などですが、こうした恐怖症に
よる恐怖感は、安易に考えてはいけません。

 「何でもないのよ」「がんばりなさい」という押しつけには、じゅうぶん、注意してください。要す
るに無理をしないこと。少しずつ、からんだ糸をほぐすように、子どもの立場で、子どもの心を
考えます。

 中に入れないようだったら、それを悪いことと決めてかからず、少しずつ、(実際の指導で
は、暖かい無視を繰りかえしながら)、子どもを中へ引き入れていくようにします。

 こじらせると、心身症、神経症へと発展します。さらに、一度、恐怖症のプロセス(思考プロセ
ス)ができてしまうと、いろいろな恐怖症になりやすくなりますから、注意してください。学校恐怖
症(不登校)も、その一つです。

 家庭では、それを責めたりしないこと。スキンシップを多くし、ほかの原因、たとえば欲求不満
になっていないかなどを、反省します。威圧的な家庭環境、虚圧的な雰囲気、拒否的な態度を
していないかを、反省してみてください。

 なお集団になじめない子について、補足として、少し考えてみます。

(補足)

●集団になじめない子ども

 集団になじめない子どもがいる。全体の10%程度はいるのではないか。集団の中で、つぎ
のような様子を示す。

(1)静かでおとなしい。柔和で、おっとりしている。
(2)従順で、自分の意思をはっきりと表示できない。
(3)いわゆる「いい子」だが、どこかつかみどころがない。
(4)まじめで、先生の指示などには、従順。できも悪くない。
(5)子どもらしい、ハツラツとした表情に欠ける。
(6)自分の感情を押し殺してしまうようなところがある。
(7)みなが大声で笑うようなときでも、それに乗ることができない。

 原因は、話せば長くなるが、新生児期から乳幼児期にかけての、母子関係の不全と考えてよ
い。子どもが、親の威圧的育児姿勢、拒否的態度、あるいは心配先行型の神経質な子育てな
どにより、ありのままの自分をさらけ出すことができなくなってしまったと考える。

 現実に、表情のとぼしい子ども、表情のない子どもがふえている。全体の10〜15%くらいは
いるのではないか。さらに自分の感情をすなおに表現できない子どもも、多い。

 問題は、こうした子どもは、外から受けるストレスを、その場でうまくかわすことができないと
いうこと。いやなことがあっても、それに反発することができない。言いたいことを言うことがで
きない。内へ内へと、それをためこんでしまう。心はいつも、ある種の緊張状態に置かれる。そ
してその結果として、集団に恐怖心をいだいたりするようになる。こじれて、不登校児になるこ
ともある。

 そこで大切なことは、こういうタイプの子どもは、どこかで、(「どこかで」といっても、家庭の中
ということになるが)、緊張状態をほぐすために、ガス抜きをしなければならない。仮に家庭の
中でも、抑えこんでしまうようなことがあると、子どもはさらに行き場をなくしてしまう。

 たいていこのタイプの子どもは、家の中では、まるで別人のように、騒いだり、大声を出した
り、わがままを言ったり、ときに暴力的であったりする。またそうすることによって、自分の心を
調整しようとする。

 家庭で、親の役割があるとすれば、そうしたガス抜きを、じょうずに手伝ってあげること。家の
中で、だらしない態度や、ぞんざいな様子を見せても、「ああ、この子は、外の世界でがんばっ
ているから……」と、大目にみる。

 そして何か、神経症的な症状を見せたら、その状態をそれ以上悪くしないことだけを考えて、
無理をしない。それに徹する。

 見た目の、つまり表面的な従順さや、まじめさに甘えて、過酷な負担を強いたり、過剰な期待
をしてはいけない。引くところは引きながら、「あなたは、無理をしなくていいのよ」というような
姿勢をつらぬく。

 なお小学校入学までに、一度、こうした様子を見せたら、それ以後、そうした様子が、(なお
る)ということは、まず、ない。おとなになってからも、つづくと考えてよい。だから大切なことは、
集団になじめないからといって、それを悪いことだと決めてかからないこと。

 子どもには、それぞれ、特有の特性のようなものがある。あとは、その特性にあわせて、つま
り無理をせず、子どもを伸ばしていくことを考える。


【質問2】

 子ども(小5男児)を励ますつもりで、何かを言うと、「お母さんだって……」と言い返します。母
親を、ちょっとバカにしているようなところがあります。どうしたらいいでしょうか。

【参考意見】

 反抗期ですね。それについて、まとめた原稿を、先に紹介します。

++++++++++++++++

 ●反抗期

 子どもの反抗期は、おおまかに分けると、つぎの3段階に分けることができる。私自身の経
験もまじえて、考えてみる。

【第1期】

 少年期(少女期)から、青年期への移行期で、この時期、子どもは、精神的にきわめて不安
定になる。将来への心配や不安が、心の中に、この時期特有の緊張感をつくる。その緊張感
が原因で、子どもの心は、ささいなことで、動揺しやすくなる。

この時期の子どもは、親に完ぺきさを求める一方、それに答えることができない親に大きな不
満をいだいたり、強く反発したりする。小学校の高学年から、中学校の2、3年にかけての時期
が、これにあたる。

○競争社会の認識(他人との衝突を繰りかえす。)
○現実の自己と、理想の自己の遊離(そうでありたい自分を、つかめない。)
○将来への不安、心配、失望(選別される恐怖。)
○複雑化する友人関係
○絶対的な親を求める一方、その裏切り(親への絶対意識が崩れる)

【第2期】

 親からの独立をめざし、親の権威を否定し始めるようになる。「親が、何だ!」「親風、吹かす
な!」という言葉が、口から出てくる。しかし親の権威を否定するということは、自ら、心のより
どころを否定することにもなる。そのため、心の状態は、ますます不安定になる。

こうした独立心と並行して、この時期、子どもは、自己の確立を目ざすようになる。家族の束縛
を嫌い、「私は私」という生き方を模索し始める。さらに進むと、この時期の子どもは、「自分さ
がし」という言葉をよく使うようになる。自分らしい生き方を模索するようになる。中学校の2、3
年から高校生にかけての時期をいう。

○独立心、自立心の芽生え(家族自我群からの独立。幻惑からの脱却。)
○干渉への抵抗(自分は自分でありたいという願い。)
○自己の模索(どうすればよいのかと悩む。)

【第3期】

 精神的に完成期に近づくと、親をも、自分と対等の人間と見ることができるようになる。親子
の上下意識は消え、人間対人間の、つまりは平等な人間関係になる。子どもが大学生から、
おとなにかけての時期と考えてよい。

 子どもは、この反抗期を経て、家族が家族としてもつ、一連の束縛感(家族自我群)からの独
立を果たす。

○受容と寛容(あきらめと、受諾。)
○社会性の確立(自分の立場を、決め始める。)
○恋愛期(恋をする。初恋。)
○家族への認識と、家庭づくりの準備(結婚観の模索)

こうした一連の流れを、一般的な流れとするなら、そうでない流れも、当然、考えられる。何ら
かの原因で、子ども自身が、じゅうぶんな反抗期を経験しないまま、おとなになるケースであ
る。

 強圧的な家庭環境で、子ども自身が、反抗らしい反抗ができないケース。
 親の権威主義が強すぎて、子ども自身が、その権威におしつぶされてしまうケース。
 家庭環境そのものが、きわめて不安定で、正常な心理的発育が望めないケース。
 異常な過保護、過干渉、過関心で、子どもの性格そのものが萎縮してしまうケース。
 親自身(あるいは子ども自身)の知的レベル、育児レベルが、低すぎるケース。
 親自身(あるいは子ども自身)に、情緒的、精神的問題があるケース、など。

 こういったケースでは、子どもは、反抗期らしい反抗期を経験しないまま、おとなになることが
ある。そして当然のことながら、その影響は、そのあとに現れる。

 じゅうぶんな反抗期を経験しなかった子どもは、一般的には、自立心、自律心にかけ、生活
力も弱く、どこかナヨナヨした生きザマを示すようになる。一見、柔和でやさしく、穏かで、おとな
しいが、生きる力そのものが弱い。よい例が、母親のでき愛が原因で、そうなる、マザコンタイ
プの男性である。(女性でも、マザコンになる人は、少なくない。)

 このタイプの男性(女性)は、反抗期らしい反抗期を経験しないため、自我の確立を不完全な
まま、終わらせてしまう。その結果として、外から見ても、つかみどころのない、つまりは、何を
考えているか、わからないといった性格の人間になりやすい。

 そんなわけで、子どもが親に向かって反抗するようになったら、親は、「うちの子も、いよいよ
巣立ちを始めた」と思いなおして、一歩、うしろへ退くようにするとよい。子どもの反抗を、決して
悪いことと決めてかかってはいけない。頭から、押さえつけたりしてはいけない。その度量の広
さが、あなたの子どもを、たくましい子どもに育てる。

++++++++++++++++++

 子どもは、反抗しながら、おとなになっていきます。反抗することを、「悪」と決めてかかっては
いけません。それともあなた自身は、いかがでしたか。そんな視点で、一度、自分を見つめて
みると、よいのではないでしょうか。


【質問3】

 2人兄妹の下の子のことです。「泣けば抱っこ」というふうに、何でも許してきました。こまごま
と言わないと、何もしません。春から小学校に入学します。だいじょうぶでしょうか。幼稚園で
は、しっかりとやってくれています。

【参考意見】

 要するに依存性の問題ですね。しかし子どもの依存性は、実は、親自身の問題なのです。親
自身が、依存性が強いから、子どもの依存性に甘くなってしまうというわけです。その結果とし
て、子どもに、依存心がついてしまうということになります。

 それだけに、この問題は、やっかいです。あなた自身の「心」をつくりかえなければならないか
らです。もっと言えば、子育ては、リズムの問題です。そのリズムを変えるのは、容易なことで
はありません。あるいは突然変えたりすると、今度は、子どものほうが、それに適応できなくな
ることもあります。

 昨日まで、「抱っこ」とせがめば抱っこしてくれた母親が、今日から「だめ」と言ったら、子ども
は、どんなふうに感ずるでしょうか。

 原因は、あなた自身が、乳幼児期に、どこか不安定な家庭で、依存性の強い子どもに育てら
れたことが考えられます。この問題は、「根」が深いということです。

 ただ幼稚園では、「しっかりとやっている」ということですので、お母さんが心配しているほど、
(心配な子)でないことは、考えられます。あるいは外の世界(幼稚園)でがんばっているから、
家の中で、かえって甘える(依存性)という態度をとるのかもしれません。

 幼稚園でがんばっているようなら、反対に、ほめてみたらどうでしょうか。「あなたは、よくやっ
ているわよ」「すばらしい子よ」と。

 そして母親は母親で、自分の道をさがします。子育てから離れて、自分のしたいことをしま
す。その結果として、子離れをし、子どもに自立を促すようにします。


【質問4】

 小学校へ行きだして、まわりを見ると、みな、親たちが子どもに、「勉強しなさい」「塾へ行きな
さい」と言っているのを聞きます。それを聞くと、あせってしまいます。どこまで親がすればよい
のか、悩んでいます。

【参考意見】

 YESかNOか、決めかねているときというのは、心も緊張し、そのため、たいへん不安定にな
ります。あなたが感じている不安感や、焦燥感も、そのあたりから生まれています。

 そういうときは、どちらか一方にすなおに、ころぶしかありません。ほかの親たちと同じよう
に、子どもには、「勉強しなさい」と言い、何も考えず、子どもを塾へ通わせる。あとは子どもが
もちかえる成績に一喜一憂しながら、子どもの未来を心配したり、あるいはその未来に希望を
もったり……。

 それがいやだというなら、あなた自身が、確固たる、子育て観と人生観を確立するしかありま
せん。「私は私」「私の子どもは、私の子ども」とです。

 そのために、私は、いろいろな情報と知識を提供しています。毎週、子育て通信を無料で配
信しています。(1000号で廃刊になりますので、早い者勝ちですよ!)

 「どこまで親がすればよいか」についてですが、親として必要なことはしまう。しかし必要以上
のことはしない。その限度をわきまえている親が、真の家族の喜びを与えられます(バートラン
ド・ラッセル)。

+++++++++++++++++++

自由な教育について書いた原稿を
添付します。

+++++++++++++++++++

常識は偏見のかたまり
●おけいこ塾は悪?
アインシュタインは、かつてこう言った。「常識などというものは、その人が十八歳のときにもっ
た偏見のかたまりである」と。

●学校は行かねばならぬという常識…アメリカにはホームスクールという制度がある。親が教
材一式を自分で買い込み、親が自宅で子どもを教育するという制度である。希望すれば、州政
府が家庭教師を派遣してくれる。

日本では、不登校児のための制度と理解している人が多いが、それは誤解。アメリカだけでも
九七年度には、ホームスクールの子どもが、一〇〇万人を超えた。毎年一五%前後の割合で
ふえ、〇一度末には二〇〇万人になるだろうと言われている。それを指導しているのが、「LI
F」(自由に学ぶ)という組織。「真に自由な教育は家庭でこそできる」という理念がそこにある。

地域のホームスクーラーが合同で研修会を開いたり、遠足をしたりしている。またこの運動は
世界的な広がりをみせ、世界で約千もの大学が、こうした子どもの受け入れを表明している。

●おけいこ塾は悪であるという常識…ドイツでは、子どもたちは学校が終わると、クラブへ通
う。早い子どもは午後一時に、遅い子どもでも三時ごろには、学校を出る。ドイツでは、週単位
で学習することになっていて、帰校時刻は、子ども自身が決めることができる。

そのクラブだが、各種のスポーツクラブのほか、算数クラブや科学クラブもある。学習クラブは
学校の中にあって、たいていは無料。学外のクラブも、月謝が千円前後。こうした親の負担を
軽減するために、ドイツでは、子ども一人当たり、二三〇マルク(日本円で約一四〇〇〇円)の
「子どもマネー」が支払われている。

この補助金は、子どもが就職するまで、最長二七歳まで支払われる。こうしたクラブ制度は、カ
ナダでもオーストラリアにもあって、子どもたちは自分の趣向と特性に合わせてクラブに通う。
日本にも水泳教室やサッカークラブなどがあるが、学外教育に対する世間の評価はまだ低
い。ついでにカナダでは、「教師は授業時間内の教育には責任をもつが、それ以外には責任
をもたない」という制度が徹底している。そのため学校側は教師の住所はもちろん、電話番号
すら親には教えない。

 日本がよいとか、悪いとか言っているのではない。日本人が常識と思っていることでも、世界
ではそうでないということもある。それがわかってほしかった。


【質問5】

 私の子どもは、心の内を表現するのが苦手です。そんな子どものストレスを解消するには、
どうしたらよいでしょうか。サインのようなものは、ありますか。

【参考意見】

 心の内をじょうずに表現できない子どもは、(1)攻撃型、(2)同情型、(3)依存型、(4)服従
型になると考えられています。(混合型もあります。)

 あなたという親の前で、心の内をうまく表現できないというのであれば、あなたとあなたの子ど
もの関係は、かなり危険な状態にあると思われます。親として、威圧的になっていないか、あな
た自身の情緒が不安定になっていないかどうかなどを、猛省してみてください。

 園や学校などで、内にこもるということであれば、自信をもたせるという方法で対処しますが、
簡単なことではありません。

 家へ帰ってきたら、子どもが気を抜き、心と体をのんびりと休めるような家庭環境を大切にし
てあげてください。

 サインとして考えられるのは、心身症(神経症)です。症状は、千差万別です。「うちの子、ち
ょっとおかしい症状をみせるな」と思ったら、この心身症(神経症)を疑ってみてください。

 診断シートを、あとでお渡しします。


【質問6】

 一人っ子です。家庭では、いつも子ども中心で、勝負ごとも、私のほうで負けてあげたりして
います。競争する面も少なく、どうしたらよいでしょうか。

【参考意見】

 一人っ子の問題は、いろいろ論じられていますが、何といっても、大きな問題は、(1)社会性
の不足です。たいていは親子だけのマンツーマンの家庭環境で育っているため、いわゆる温
室育ちになりやすいということです。

 それを補う方法は、いろいろありますので、今の状態を「結果」とは思わないで、これからの
子育てを考えてみてください。いろいろな団体の中で活動させるとか、など。やがて子ども自身
が、自分で、問題を克服していくようになります。


【質問7】

 1日中、「早くしなさい」と言っています。のんびり屋で、マイペースです。話すことに夢中になっ
てしまい、それで遅くなるようです。「早くしなさい」と言わずにすむ方法があれば、教えてくださ
い。

【参考意見】

 親子のリズムが、かみ合っていないとみます。親のほうが、何でも、ワンテンポ速い。それで
子どもが、いつも、ワンテンポ遅くみえます。

 さらにその根底には、子どもへの不信感、子育てへの不安感などが考えられます。そうした
不信感、不安感が姿をかえて、母親を、せっかちにさせます。

 で、実際に、その子どもがのんびりしているかといえば、そうでないケースが、ほとんど、で
す。(神経症による緩慢動作、緩慢行動は別です。)外の世界では、意外と、活発に行動してい
るものです。

 そこでもし機会があれば、外の世界(園や学校、スポーツをしているときなど)を、そっとのぞ
いてみてください。そういうところでも、のんびりしているようなら、また別の問題として考えます
が、まず、そういうことはないと思います。

 親の姿を見たとたん、別人のように、萎縮したり、動作が緩慢になる子どもは、珍しくありま
せん。

++++++++++++++++++++++

子育てリズム論について書いた原稿を添付します。

++++++++++++++++++++++

子育てリズム論
●子どもの心を大切に
 子育てはリズム。親子でそのリズムが合っていれば、それでよし。しかし親が四拍子で、子ど
もが三拍子では、リズムは合わない。いくら名曲でも、二つの曲を同時に演奏すれば、それは
騒音でしかない。そこでテスト。

 あなたが子どもと通りをあるいている姿を、思い浮かべてみてほしい。そのとき、(1)あなた
が、子どもの横か、うしろに立ってゆっくりと歩いていれば、よし。しかし(2)子どもの前に立っ
て、子どもの手をぐいぐいと引きながら歩いているようであれば、要注意。

今は、小さな亀裂かもしれないが、やがて断絶…ということにもなりかねない。このタイプの親
ほど、親意識が強い。「うちの子どものことは、私が一番よく知っている」と豪語する。へたに子
どもが口答えでもしようものなら、「何だ、親に向かって!」と、それを叱る。そしておけいこごと
でも何でも、親が勝手に決める。やめるときも、親が勝手に決める。子どもは子どもで、親の前
では従順に従う。そういう子どもを見ながら、「うちの子は、できのよい子」と錯覚する。が、仮
面は仮面。長くは続かない。

 ところでアメリカでは、親子の間でも、こんな会話をする。父「お前は、パパに何をしてほしい
のか」、子「パパは、ぼくに何をしてほしいのか」と。この段階で、互いにあいまいなことを言うの
を許されない。それだけに、実際そのように聞かれると、聞かれたほうは、ハッとする。緊張す
る。それはあるが、しかし日本人よりは、ずっと相手の気持ちを確かめながら行動している。

 このリズムのこわいところは、子どもが乳幼児のときに始まり、おとなになるまで続くというこ
と。その途中で変わるということは、まず、ない。ある女性(三二歳)は、こう言った。「今でも、
実家の親を前にすると、緊張します」と。別の男性(四〇歳)も、父親と同居しているが、親子の
会話はほとんど、ない。どこかでそのリズムを変えなければならないが、リズムは、その人の人
生観と深くからんでいるため、変えるのは容易ではない。

しかし変えるなら、早いほうがよい。早ければ早いほどよい。もしあなたが子どもの手を引きな
がら、子どもの前を歩いているようなら、今日からでも、子どもの歩調に合わせて、うしろを歩
く。たったそれだけのことだが、あなたは子育てのリズムを変えることができる。いつかやが
て、すばらしい親子関係を築くことができる。


【質問8】

 私はずっときびしい母親でした。そのため子どもは、すっかり自信をなくしてしまい。自分を出
せない子どもになってしまいました。私なりに反省し、あきらめてきました。が、このところ、少し
ずつですが、自信をもち始めたようで、母親の私としては、何かと期待がわいてきました。これ
から先、どういうふうに指導したらよいでしょうか。

【参考意見】

 子育ては、試行錯誤のかたまり。失敗することを恐れてはいけません。大切なことは、失敗
に気づくことです。問題は、そうした失敗に気づかないまま、また同じ失敗を繰りかえすことで
す。

 幸いなことに、この相談の方は、自分を見る目を、しっかりともっています。反省もしています
し、子どもへの影響も、自覚しています。つまり、すでにこの母親は、すばらしい母親だというこ
とです。

 ですから重要なことは、今の、育児姿勢を守ることです。「私なりに反省する」「あきらめる」
「何とか期待がわいてきた」など。すばらしい育児姿勢です。

 あとは、前向きに進みます。過去は過去。過去には、こだわらない、です。

 で、そのためにも、親としての学習だけは、つづけてください。手前味噌になりますが、どうか
私のHPを読んだり、マガジンを読んだりしてみてください。みんなでこれからも、ずっといっしょ
に、子育てを考えていきましょう。

***************************************



●こだわり

 自閉傾向(自閉症を含む)のある子どもが、ある特定のものに、ふつうでない(こだわり)を示
すことは、よく知られている。

 車の一部を見ただけで、車種と製造会社を言い当てたり、音楽の最初の1小節を耳にしただ
けで、曲名を言い当てたりするなど。全国の列車の時刻表を、ほとんど暗記してしまった子ども
もいた。

 ある子ども(年長児)は、毎日、青いズボンでないと、幼稚園へ行かなかった。また別の子ど
も(年長児)は、女の先生とは、絶対にあいさつをしなかった。

 こうしたこだわりは、程度の差こそあれ、だれにでも、ある。またときとして、人はふとしたこと
から、こうしたこだわりをもつことがある。

 ただ問題なのは、その問題にこだわると、大局的なものの考え方ができなくなるということ。
実は、私がそうだ。

 大きな問題と小さな問題が同時に起きたとする。重大さでは、比較にならない。そういうとき、
小さな問題にこだわっていると、大きな問題が、どこかへ飛んでいってしまう。本来なら、大きな
問題を優先的に考え、解決しなければならない。が、それができなくなってしまう。

 こうした(こだわり)は、国際問題でもよく経験する。

 決してK国による拉致問題が、小さな問題だというのではない。しかしその背後にひかえる、
(核問題)とくらべたら、また、ことの深刻さという点では、比較のしようがない。今、日本は、そ
して世界は、重大な危機的局面を迎えようとしている。

 (核問題)は、決して、K国だけの問題では終わらない。もう一つ、イランがある。イランも、K
国と同じような状況にあり、同じような問題をかかえている。

 そのイランに核があることについて、だまっていない国が一つ、ある。それがイスラエルであ
る。イランは、すでにイスラエルを攻撃できるだけのミサイルをもっている。その技術は、K国か
ら提供されたものだという。

 そのミサイルに、核兵器が搭載されたら、どうなるか? イスラエルの首都、テルアビブは、
たった一発の核兵器で、壊滅する。

 そこでにわかに浮上してきたのが、イスラエルの、イランへの先制攻撃である。つまり自国が
破壊される前に、イランの核関関連施設を、攻撃しようというものである。

 そこで少しだけ、冷静に考えてみようではないか。

 もしここでイスラエルが、イランに対して先制攻撃をしたら、どうなるか、と。もうそのときは、ア
メリカやロシアを巻きこんだ、アラブ対イスラエルの、第三次世界大戦になる。イラク戦争どこ
ろでは、なくなってしまう。

 問題は、そのとき、日本は、どうなるかだが、日本は、その中東に、90%近い原油を依存し
ている。(90%だぞ!)

 もし中東で、第三次世界大戦が始まれば、原油はストップする。が、それだけではすまない。
あくまでも可能性の問題だが、イランは、イスラエルを核攻撃する。と、同時に、遠く離れた、こ
の極東情勢も、きわめて不安定になる。

 イランとK国の関係が、はっきりすれば、なおさらだ。K国は、ミサイルの技術のみならず、核
兵器の原料も、イランに売り渡している可能性がある。そうなれば、イスラエルの盟友、アメリ
カがだまっていない。あるいはこうした混乱に乗じて、K国は、韓国もしくは、日本に攻撃をしか
けてくるかもしれない。

 今、世界情勢は、そこまで緊迫している。ここでだれかが、導火線に火をつければ、それこ
そ、取りかえしのつかないことになる。わかりやすく言えば、拉致問題どころでは、すまないとい
うこと。

 が、日本人は、今、拉致問題に、こだわっている。(繰りかえすが、だからといって、拉致問題
を軽くみろと言っているのではない。念のため。)しかしその問題だけにこだわっていると、もっ
と大きな問題を、見失ってしまう。

 今、ここで重要なことは、核問題を、どう解決するか、である。K国の核問題だけではなく、イ
ランの核問題も、含めてで、ある。

 世界の国々が、今、こぞって核兵器をもとうとしている。ブラジルにしても、アルゼンチンにし
ても、そうだ。つまり核の脅威は、静かに、しかし確実に、世界中に拡散しつつある。が、こうい
う状況になっても、核大国である、中国やロシアは、アメリカに一向に協力する気配を見せな
い。フランスにいたっては、なおさらだ。

 韓国ですら、「K国の核問題は、我々が解決してみせる」と、大見得を切ったものの、今日の
今日まで、何もできないでいる。できないばかりか、K国のご機嫌取りばかりをしている。内部
では、「同胞のK国が核兵器をもてば、韓国にも有利」などと主張している政治家もいる。

 で、アメリカが、核拡散防止条約(NPT)を、反古(ほご)にするとまで言い出した(04・12・3
1)。「みなさん、もうどうぞ、ご勝手に」というところか。もっとはっきり言えば、「もう、オレの知っ
たことか!」と。

 こういう大問題をすぐそこにかかえながら、制裁だのなんのと言っているほうが、おかしい。3
月1日からは、K国の船舶は、事実上、日本の港への入港ができなくなる。これは制裁ではな
いとは言っても、制裁である。

 K国は、今、最後の活路を、「戦争」に求めている。もしこんなとき、日本が、K国の制裁に走
ったら、この極東アジアは、どうなる? さらに、イスラエルが、イランを先制攻撃したら、どうな
る?

 ここは、冷静になろう。みんなで冷静になろう。拉致問題にこだわる日本人の心情も、よく理
解できる。できるが、しかし問題の大小をくらべたら、拉致問題程度のことで、戦争の引き金を
引いては、ならない。

 だれしも、ひとつのことにこだわると、その問題ばかりにこだわるようになる。そしてそこにあ
る、もっと大きな問題がわからなくなってしまう。

 拉致問題については、ただひたすら事務的に。どこまでも事務的に。重要なのは、核問題で
ある。もし核が、そこらのゲリラの手にも渡るような時代がやってきたら、そのとき、世界は、終
焉(しゅうえん)を迎えることになる。「核問題など、私には関係ない」と、もしあなたが思ってい
たら、それこそ、とんでもないまちがいであるということ。

 ……ということで、(こだわり)にからめて、国際問題を考えてみた。

【補記】

 日本は、たしかに世界から孤立している。しかし味方がいないわけではない。たとえばシンガ
ポール。ここはどうだろう? そのシンガポールと、自由貿易協定を結んでみては? つぎにイ
ンドがある。21世紀の後半は、南アジアの主人公はインドである。

 そのインドとも、やがて自由貿易協定を結ぶ。ちょうど、今のヨーロッパが、EUという一つの
国になったように、である。

 日本とシンガポールが、自由貿易協定を結べば、東南アジアのいくつかの国々が、それに追
従してくるはず。マレーシアやタイなど。オーストラリアやインドも。中国や韓国も重要だが、こう
まで反日感情が根強いと、それにかまけている間に、日本は、好機をのがしてしまうことにな
る。

 今なら、まだまにあう。日本にその余力がある間に、シンガポールと手を組む。10年後で
は、遅い。やるなら、今だ! さあ、どうだ! どうする?

(この記事は、去る2月8日に書いたものです。そののち、国際情勢が
大きく変化しているかもしれません。)

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(531)

【近ごろ・あれこれ】

●SK(俳優)の恐喝事件

 SKというよく知られた俳優が、恐喝未遂事件で逮捕された。ここ数日、朝昼のワイドショーで
は、その話題ばかり。

 何でもSKが、出演予定だった映画が、監督の一存でキャンセルされたらしい。それに怒った
SKが、その監督に、「金を出せ」と脅したという。(このあたりの情報は、聞き覚えによるものな
ので、不正確。)

 そのときSKが、電話口で、暴力団の名前を口に出して、金を払えと迫ったらしい。それが逮
捕の原因になった。

 で、そのSKが、逮捕直前、テレビのインタビューに答えていた。SKは、かなり興奮していた。
早口に、ペラペラと、自分の無実をまくしたてていた。

 で、その中で、こんなようなことを言った。(以下、聞き覚えなので、不正確。)

 「(相手の監督は、無名に近い)フェザー級。オレは、(有名人だから)スーパーミドル級なん
だ」と。つまりもともと相手になるような立場ではない、と。

 この言葉を聞いて思い出したのが、5、6年前に、世間をにぎわした、野球チームHの監督の
妻。たしかあの妻も、こう言っていた。「私は、(超有名人だから)、メジャーリーグ。相手の女
は、(たたの芝居役者だから)、マイナーリーグ。比較にならないでしょ」と。

 私はよく知らないが、こうしたタレントの世界には、タレント世界独特の、格づけのようなもの
があるようだ。もちろん有名であればあるほど、格が高い?

 「ナルホド」と思ったり、同時に、「そういうものかなア?」と思ったり……。タレントというのは、
一番自由きままに生きる、自由業者ではないのか。その自由業者が、「格づけ」にこだわると
は? 日本人というのは、どうして上から下まで、こうまで権威主義者なのか。

 もともと何かの哲学が基盤にあって、タレントになったような人たちではなさそうなので、そう
いう人たちの言葉を、真に受けるほうがおかしいのかも。しかしそれにしても、低劣。ホント!

 一流の俳優気取り。一流のマダム気取り。SKはともかくも、その監督に妻に関して言えば、
私のワイフのほうが、よほど、品もあり、知性もある。それにしても、インタビューで見せたSK
は、見苦しかった。

 口汚く、相手をののしっていたが、「恐喝した覚えはない」の一点張り。が、何よりも驚いたの
は、その番組に出てきた、コメンテイターたち。みな、SKの味方をしながら、こう言っていた。

 「これからは、電話で冗談も言えませんね」と。

 暴力団の名前をちらつかせ、金を出せと脅すのは、冗談ではすまない。有名人であるなら、
なおさらではないのか。SKのファンの方には、申し訳ないが……。


●捻挫(ねんざ)

いわゆる「下駄捻挫」をして、もう2週間になる。足を横にひねって、捻挫してしまった。

そこで先日、医院へ行ってレントゲンを取ってもらったら、足の側部の小さな骨が、折れている
のがわかった。道理で痛いはず。ギブスをはめているので、今は、思うように歩けない。が、し
かし自転車には乗れる。

 相変わらず、自転車通勤をしている。これをやめたら、私の健康は、おしまい。

 しかしときどき、不用意に足をひねったりすると、ギリギリとした痛みが走る。そしてそのあと、
半時間ほど、シクシクと痛む。きっとくっつきかけていた骨が、そのたびに、また離れるのだろ
う。

 ドクターは、大病院で、手術して、クギを打ってもらえと言った。しかし私は、断った。クギの写
真を見ただけで、おじけついてしまった。それに折れた骨も、小さなもの。「このままだと、なお
っても、少しは痛みが残る」と、ドクターは言ったが、少しくらいの痛みなど、どうということはな
い。そのうち、なれる。

 体のあちこちが、少しガタガタしてきたが、まあ、私の年齢にすれば、健康なほうだ。

 
●風邪

インフルエンザではないが、昨夜から体がゾクゾクした。今朝になって、それが風邪だとわかっ
た。いわゆる、自称「花粉風邪」。花粉症のなり始めに、かかる風邪。それを、私は、勝手にそ
う呼んでいる。

 おかしな寒気と、軽い熱。それに体のだるさ。

 今朝は、そんなわけで、午前中は、市販の感冒薬を飲んで、数時間眠る。本当は生ニンイク
を食べたいが、においが残るので、今日は断念。


●3月13日、愛知万博

愛知万博の招待状が届いた。みなさんより2週間早く、つまり開会式より2週間早く、愛知万博
(EXPO'05)を楽しむことができることになった。

 リニアモーターカーにも、特別に、試乗させてもらえるそうだ。楽しみだ。

 行ったら、写真をバチバチととってくる。HPに紹介する。どうか、お楽しみに!!
(そう言えば、この原稿がマガジンでみなさんのところに届くのは、3月11日。ちょうど、2日前
ということになる。この原稿を書いているのは、2月9日。)


●HPのデザイン変更

 数日前、HPのトップページのデザイン変更をした。

 それについて、ワイフが、「白っぽくて、見にくい」と言った。「白内障になったんじゃないの?」
とからかってやった。

 読者の方からも、「(灰色は)イメージが悪い」という連絡が入った。しかたないので、またまた
近く、デザインを変更するつもり。

 いろいろ色に迷い、私としては、無難な、灰色にしたつもりなのだが……。やはり明るい色の
ほうが、私のHPには、あっているようだ。


●インドのM君

 インドのM君から、10年ぶりに手紙が届いた。

 在インド、某国大使館の要職にあった人物である。今度、退職したそうだ。20年ほど前、東
京のホテルで会ったときには、腕の下に、ピストルをつりさげていた。ああいう立場の人は、日
本国内でも、自由にピストルを持ち歩けるらしい。

 手紙には、メールアドレスが二つ書いてあったが、インド人が使う英語のアルファベットは、読
みにくい。あちこちの文字と照らしあわせながら、アドレスを打ちこむが、どうもうまく送信できな
い。しかたないので、手紙で返事を書くことにした。

 M君と最初に会ったのは、1970年。もう34年来の友人ということになる。

 娘さんが結婚したとき、腕時計を送ったのだが、途中で、その郵便物は、消えてしまった。当
時は、そういう時代だった。今は、もうそういうことはないだろうが……。

 近く、一度、会うつもり。


●講演

 明日は、静岡市のR幼稚園で講演。しかし足の捻挫が、心配。松葉杖をついて、行くのもな
んだし……。

 まあ、がんばって行ってくる。これも仕事のうち。

 ところでこのところ、電子マガジンが低調。ほとんど読者がふえない。と書く私自身も、このと
ころ、BLOGのほうに力を入れ始めている。こちらのほうは、読者が、がんがんとふえている。

 時代は、どんどん変わっていく。とくにインターネットの世界では、そうだ。


●ワールドカップ

 今夜(2・9)、ワールドカップ最終予選、日本対K国戦。時間的に見ることができないが、私の
ばあい、そのほうが、いい。

 見たいが、とても、見ていられない。たぶん、その気持ちは、Xさん(X選手の妻)、Yさん(Y選
手の妻)も、同じではないか。Xさんや、Yさんに、いつかこう聞いてみたい。

 「みなさんは、みなさんの夫が出場する試合を見ていますか?」と。

 Xさんの娘さんに、先週、「お父さんは、今、どこにいるの?」と聞いたら。娘さんは、こう言っ
ていた。「ホテルよ」と。

 どこかのホテルにとまって、合宿しているらしい。

 いよいよ今夜、7時30分、キックオフ。私の予想では、3−0で日本の勝ち。(この予想はそ
のままにしておこう。もしも当たっていたとしても、林があとで、書き改めたと思ってほしくない。)

【結果・付記】

 結果は、かろうじてだが、2対1で、日本の勝ち。よかった。本当によかった。胸の中が、スー
ッとした。スポーツマンシップというより、敵意(=作られた怨念)むき出しの相手と戦うのも、疲
れること。日本の選手たち、よく、がんばった。ごくろうさん。+ありがとう!!!!


●ボケる(認知症の問題)

 ボケることの恐ろしさを、今、私は、現在進行形で体験しつつある。その中でも、ボケにともな
う、人格の崩壊ほど、恐ろしいものはない。

 人は、ボケればボケるほど、(1)ものの考え方が自己中心的になり、(2)自己管理能力が、
弱くなり、(3)良好な人間関係が、結べなくなる。ちょうど、EQ論(人格の完成論)を、逆に否定
する形で、ボケの症状が進む。

 そこでボケを防ぐためには、どうすればよいかということになる。

 しかしここでまた、大きな問題にぶつかる。つまり「ボケは防げるかどうか」という問題よりも、
「そもそも防ぐ必要があるのか」という問題である。仮にボケを防ぐとしても、やり方をまちがえ
ると、ただの時間稼ぎになってしまう。もっとはっきり言えば、時間のムダ。先のばしに過ぎなく
なってしまう。

 仮に、何かの訓練なり、指導なり、あるいは治療をしたところで、現状維持がよいところ。症
状が軽くなるということは、ない。(……と思う。)

 もちろんボケといっても、その症状は、一様ではない。「まだらボケ」という言葉さえある。原因
によって、ボケかたも、さまざま。しかしここでいうボケというのは、日々に、大小便をたれ流し、
夜も昼もなく、徘徊を繰りかえすようなボケをいう。アルツハイマー型痴呆症もその一つ。

 そこで私たちは、人格と、人権を、区別する。ボケるのは、あくまでも、人格であって、人権
は、関係ない、と。もっと言えば、「命」という観点から、人間を考える。またそういう観点をもた
ないと、極端な言い方をすれば、「ボケた人間には、生きる価値はない」という暴論が、生まれ
てきてしまう。

 私は、このことを、一匹の犬を飼っていて、学んだ。

 去年、16歳で死んだ犬は、最後のころは、ボケてしまった。大小便は、あたりかまわずした
し、耳も、目も、不自由になっていた。行動も動作も、かなり、おかしかった。

 そういう犬を見たとき、オーストラリアの友人たちは、さかんに「安楽死をさせてやれ」と言っ
た。アメリカ人の友人も、同じようなことを言った。彼らは、彼らが飼っている家畜やペットがそ
ういう状態になると、薬や銃で、殺すのだそうだ。彼らは、日本人とちがって、牧畜民族である。
ものの考え方が、少し、ちがう。

 しかしもちろん、日本人には、そういう習慣はない。とくに動物に対しては、そうだ。そのとき
のこと。私はそのとき、その犬との間に、生命の共有感を覚えた。この広い宇宙の一点で、し
かもその瞬間において、生命をともにしたという共有感である。

 その共有感こそが、人間について言うなら、私たちが守るべき「人権」ということになる。

 それに「ボケ」といっても、あくまでも相対的なものでしかない。私から見て、ボケているという
だけで、一つ、視点をかえれば、私だって、そのボケの仲間かもしれない。たとえばボケた老
人が、カセットテープレコーダー相手に、四苦八苦している姿は、パソコン相手に四苦八苦して
いる私の姿と、どこもちがわない。

 そこでボケるという現象を、再び、「人格の崩壊」という視点で考えなおしてみる。そういう視点
で見ると、今度は反対に、若くても、それに頭の活動はしっかりしていても、人格の崩壊した人
は、いくらでもいることがわかる。年齢は、関係ない。

 自分勝手でわがまま。自己管理能力もなく、他人と良好な人間関係を結べない。そういう人
である。人格の崩壊した人には生きる価値がないということになると、今度は、そういう人を、ど
う考えたらよいのかということになってしまう。

 つまりボケたから、生きる価値がないとか、ボケていないから、生きている価値があるという
論理は、まちがっているということになる。

 ただ実際のところ、先の犬については、私たちは、まったくと言ってよいほど、何もしなかっ
た。自然に任すという方法で、対処した。治療法はあったのだろうか。なかったのだろうか。そ
れすら確かめなかった。

 最後の1、2日、どこか痛そうなうめき声をあげた。それで人間がのむ、鎮痛薬をのませてみ
ようと考えていた矢先、その朝、静かに死んでいた。

 で、頭のボケた兄を見ながら、今、こう思う。

 ボケるのは、しかたないとしても、最後の最後まで、夢と希望と目的。この3つは、もたなくて
はならない。これは本人のためでもあるし、それを介護する、周囲の人たちのためでもある。

 この三つのない人を介護するのは、たいへん。もっと言えば、心のつかみどころのない人を
介護するのは、たいへん。

 しかしこの三つがあれば、その夢と希望と目的を共有することによって、その人のボケと戦う
ことができる。

一番むずかしいのは、夢や希望や、目的もなく、ただウロウロとボケていく老人ではないか。対
処のし方そのものが、わからない。私もいつかはボケるが、そういう老人にだけはなりたくな
い。つまりボケるにしても、じょうずにボケようと考えている。(自信はないが……。)


●パズル

 こんな問題があった。

 「風は北から南へ、秒速15メートルで吹いていた。そのとき、ちょうど北から南へ、時速70キ
ロで走っている電気機関車があった。さて、このとき、電気機関車の煙は、どちらの方向へた
なびくか」(ある数学パズルの本)。

 このとき少し数学に自信のある人なら、即座に、秒速15メートルに、60x60をかけて、時速
を計算する。そして時速54キロという数字を出す。

 つまり風の速さより、電気機関車の速度のほうが速いから、煙は、南から北へたなびくことに
なる。……と答える。

 しかし正解は、「電気機関車には、煙は、ない」である。

 ナルホド!

 で、こういう問題にパッと目を通すと、「これは数学パズルの本だ」という先入観から、数字の
ほうばかりに、気を取られてしまう。そして一度、その先入観にとらわれると、その先入観から
のがれるのは、容易ではない。

 頭の中で、秒速を、時速に計算しなおし始める。

 ……と、実は、こういう経験は、日常生活の中でも、よくする。おかしな先入観をもったため
に、ものの事実を、見誤ってしまうという経験である。しかし、これは、要するに、冷静さの問題
といってもよい。

 ちなみに、同じ問題を、ワイフに出してみたら、ワイフは、すかさず、こう言った。「あら、電気
機関車には、煙はないわよ」と。ただしワイフのばあいは、冷静だったからそう答えたかどうか
はわからない。

 私のように、複雑な脳ミソをもっている人間ほど、こういう問題に、ひかかりやすいのかもしれ
ない(?)。そういう面も、あるのでは……。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どもと接することの重要性

 幼児と接することのすばらしさは、この世界の外にいる人には、ひょっとしたら、理解しがたい
ものかもしれない。

 幼児と接していると、つぎのような経験をする。

(1)心が洗われる(心が、いつもシャワーで洗われるように感ずる。)
(2)生きる活力をもらう(生きるパワーをもらえる。)
(3)未来が開ける(前向きに伸びていく力を感ずる。)
(4)自分がわかる(自分の原点がわかる。)
(5)心が開く(開放された心と心の交流ができる。)

 この中でもとくに重要なのが、(1)と(2)である。当然のことながら、幼児の世界では、ゆがん
だ心は、通用しない。インチキやゴマカシも、通用しない。少しでもまちがったことをすると、即
座に、その場で、攻撃される。私は、ときに、それを風呂の中で浴びるシャワーのように感ず
る。

 もちろん、子どもたちの生きる力をそのまま自分のものとすることができる。旺盛な好奇心と
行動力。子どもたちの前では、ぼんやりと時間をつぶすなどということは、できない。子どもた
ちが、ワーッと声をあげながらやってきたとたん、それまでの「疲れ」が、吹き飛んでしまう。我
を忘れて、私も、その輪の中に入ってしまう。

 つぎに(3)の「未来が開ける」だが、これは、たとえば同じ知的訓練でも、痴呆老人の知的訓
練を少しだけ、想像してみればわかる。

 幼児に教えたことは、それがすべて基礎となって、幼児の知的骨格となっていく。しかし痴呆
老人のような人のばあいは、現状維持が精一杯。私には、老人指導の経験がないので、何と
も言えないが、「やれ」と言われても、多分、断るだろう。断ると言うよりも、できない。

 また子どもを見ていると、自分の原点を知ることがある。それについては、何度も書いてきた
ので、ここでは省略する。

 5つ目に、私は、「心が開く」をあげる。幼児の心は、たとえて言うなら、白紙の紙。純粋で、汚
れがない。(汚れている子どももいるにはいるが、しかし少数。)親切にしてあげたり、やさしくし
てあげると、そうしたこちらの思いが、スーッと、子どもの心の中にしみこんでいくのがわかる。

 教える側としては、それがとても、気持ちよい。心が暖かくなり、なごむ。孤独やさみしさも、同
時に、そのとき、いやされる。

 そこで、最近、こんな記事を読んだ。ボケ防止のためには、1日、1度は、子どもに接するとよ
い、と。何かの雑誌に書いてあった。どういう根拠(裏づけ)があって、そのドクターは、そう書い
たのかは知らないが、私の経験では、その意見は、正しいと思う。

 とくに幼児と接していると、接していること自体が、すばらしい刺激になる。たとえば、話は少
しそれるが、こうして教育論を書くにしても、子どもを目の前にすると、つぎつぎと新しい考えが
浮かんでくる。

 で、最近になって私は、こう思うことが多くなった。一応、月謝をもらって、幼児を毎日指導し
ているが、本当は、(余裕があれば)、むしろこちらのほうが月謝を出して、教えさせてもらう立
場ではないのか、と。

 もっとも、これには、大きな条件がある。つまり幼児と純粋な立場で、接するための条件と言
ってもよい。

 その第1は、親との信頼関係をしっかりとつくる。第2は、子どもと接しているときは、損得計
算をしない。第3は、教えるときは、子どもになったつもりで、いつも童心にかえる。第4は、子
どもを楽しませる。具体的には、笑わせる。

 ……さあ、もうそろそろ子どもたちが、階段をのぼってやってくるころ。私は、その準備をしな
ければならない。時は、2月X日、午後2時30分。

 幼児を教えるのは、本当に楽しい。ウソじゃない!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(532)

●孤独

昨日も、日本のどこかで、男女3人が、集団自殺したらしい。
その集団自殺の新聞記事を読みながら、ふと、こんなことを考えた。

++++++++++++++++++

この世で、一番、恐ろしいもの。それが、孤独。
だれにも相手にされず、話しかける相手もいない。
病気になっても、心配してくれる人もいない。
仮に、死んでも、その死を悲しむ人もいない。

そんな世界は、想像するだけでも、ぞっとする。

しかし……そんな想像など、あえて、しなくてもいい。
だれしも、すぐそこに、孤独を感じながら、生きている。
その孤独が怖(こわ)いから、毎日をごまかして
生きているだけ。孤独になるのを避けて生きているだけ。

では、その孤独を避ける方法はあるのか。
あるいは、孤独を感じたら、どうしたらいいのか。

いや、人間には、孤独を避ける力はない。孤独に
打ち克つ力もない。孤独は、それほどまでに恐ろしいもの。
仏教の世界でも、孤独を、無間地獄のひとつと位置づけている。

もし人がその孤独に包まれたら、ゾンビのように
ただ街中をフラフラとさまよい歩くか、
さもなくば、自ら、死を選ぶしかない。

数日前も、数人の男女が、車の中で、集団自殺をした。
集団で死ぬことで、孤独を少しでも、いやそうとしたのか。
理由は、わからない。原因もわからない。

絶望? 妄想? 自己否定? それとも心の病気?

ただ私たちが今、できることは、そこに孤独な人がいたら、
やさしい言葉をかけてやること。理解してやること。

その共鳴感が、私たちの心を広くし、心に、温もりを与える。
自らに、孤独をいやす力や、やすらぎを与える。

「あなたは、決してひとりではない」と伝えることで、
はじめて、「私は決してひとりではない」という確信を、
もつことができる。

その「輪」をつくること。その「輪」を広くすること。
この孤独だけは、絶対にひとりでは、立ち向かえない。
みなが、その「輪」をつくって、戦うしか、方法はない。
みなが、力を合わせて、守りあい、支えあうしかない。

今朝、それを発見した。あとは、それを具体的に、どう
考え、どう実行していくか、だ。今日もがんばろう!

(死に急ぐ人たちへ)

 死ぬことは、何でもない。
 だから、死に急ぐことは、ない。
 どうせ、ほうっておいても、
 いつか人は、死ぬんだから。

 死ぬことに、意味はない。
 まったく、意味はない。
 大切なことは、生きること。
 生きて、生きて、生き抜くこと、だよね。

 が、もし生きることに、さみしさを感じたら、
 今、さみしがっている人に声をかけてみよう。
 「私もさみしいんだよ」と。

 気取ることは、ない。飾ることもない。
 みんな、さみしい。
 さみしくない人は、いない。

 みんな元気そうに生きているけど、
 そう見えるだけ。そういうフリをしているだけ。

 ああ、いやだね、この肌寒さ。
 いやだね、このうっとおしい曇り空。

 何かと気が滅入る季節だけれど、
 ここはがんばって生きるしかないよね。
 そのうち、また、何か、いいこともあるだろうし……ね。

 ぼくも自信はないけれど、……つまり、本当のところ
 ぼくも、毎日、さみしくてしかたない。

 だからときどき、だれか、ウソでもいいから、
 やさしい言葉をかけてくれないかなと思うことがある。

 まあ、これはぼくの甘えのようなものかな。
 ともかくも、みんなで力を合わせて、生きていきましょう。

 決して、死に急いではいけませんよ。
 死ぬことには、何も意味はないのだから……。
 

●K国の「核兵器保有宣言」

 だれにも相手にされないものだから、またまたあの国のあの独裁者は、世間を騒がせてい
る。ご苦労様と言いたいが、しかし笑ってすますわけにもいかない。何しろ、問題は、「核兵
器」。

 そこでいつもの私の、少し過激な、国際政治論。

++++++++++++++++++++

 K国のねらいは、まず、アメリカとの二か国間交渉で、アメリカを、抑えるこむこと。「相互不可
侵条約」が、それである。

 こうしてまずアメリカを抑えこんだ上で、日朝交渉に臨む。しかし「交渉」などという甘いもので
はすまない。「戦後補償をしろ。さもなくば、東京をミサイル攻撃する」という、脅しである。

 その額、4兆円とも、10兆円とも言われている。へたをすれば、底なし。

 そのお金を、うしろでねらっているのが、中国とロシア。(本音を言えばね……。だから中国
は、さかんに、戦後補償交渉の仲介を申し出ている。いやな国だね。)ロシアもここ数日、「K国
と二か国協議をしてやったらどうか」と、アメリカに、さかんに、けしかけている。

 が、それにしても、理解できないのが、韓国。

 アメリカ軍の駐留を請いながら、その一方で、反米を唱え、親北政策をつづけている。今度
の「核兵器保有宣言」に対しても、ノ大統領自身は、沈黙を守ったまま。(ノ大統領自身が、言
葉を失ってしまった感じ?)取り巻きは、「いつもの脅し」「来月(3月)には、6か国協議は開催
されるはず」などと、トンチンカンなことばかり言っている。

 韓国は、アメリカの意向を無視して、K国内に、K工業団地を作ってやったり、40万トンもの
米を、無償で援助してやったり。あげくのはてには、「ワールドカップでは、南北、いっしょにドイ
ツへ行こう」などと騒いでいる。

 核兵器1発で、ソウルは、「火の海」になるというのに! 今朝(2.12)のニュースでも、送還
された脱北者が、K国内で、70人も公開処刑されたという。韓国の人たちは、「同胞に向って、
核兵器を使うことはないはず」と、タカをくっているようだが、K国の独裁者は、そんな常識のと
おる相手ではない。

 そこでアメリカということになる。

 韓国も日本も、いざとなったら、アメリカが助けてくれると考えている。しかしその前に、「どうし
てアメリカが、韓国や日本を守らねばならないのか」という疑問に、韓国や日本は、何も答えて
いない。

 K国の核兵器開発に、まったく反応を見せない、ロシア、中国、韓国。私がブッシュなら、「も
う、オレの知ったことか!」と言うだろう。事実、それに似た発言が、ホワイトハウス周辺から
も、漏れてきている。核拡散防止条約(NPT)をホゴにするとまで言い出した(04・12・31)。

 へたをすれば、その6か国協議から、一番先に抜けるのは、アメリカということにもなりかね
ない。さらに在韓米軍の完全撤退ということにも、なりかねない。もしそうなったら、韓国や日本
は、どうするのか。どうなるのか。

 K国の独裁者の狂った野望を、だれが抑えることができるのか?

 アメリカは、イラク、アフガニスタン問題で、疲れきっている。その上、今度は、イラン問題。K
国どころではないというのが、アメリカの本音ではないだろうか。おまけに、韓国は、アメリカの
言うことなど、何も聞かない。自分勝手なことばかりしている。今のノ大統領にしても、就任時に
は、「K国の核問題は、ワレワレが解決してみせる」と大見得を切っていた。

日本でも、基地移転の問題が起きるたびに、「反対」「出て行け」の大合唱。

 もうこうなると解決策は、ただ一つ。K国の金XX政権を、自然死に追いこむこと。そのため
に、K国の核問題を、国連の安保理に付託すること。そして中国、ロシアの賛成を得て、K国
を、経済封鎖すること。

 K国の「核兵器保有宣言」に対して、アメリカが、強硬な発言をひかえているのは、そのため
の布石と考えてよい。「やるだけのことはしました」と。と、同時に、中国や、ロシア、韓国にこう
言っている。

「もう、これでK国の本性が、おわかりになったでしょう、中国や、ロシアのみなさん」
「もう、私の知ったことではありませんよ、韓国のみなさん」と。

 そして日本に対しては、「これはあなたがたの問題でしょう。しっかりしなさいよ」と。

 かなり過激な、国際政治論でした。ごめん!
(2・12日記)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(533)

●メリル・ストリープの「愛と精霊の家」(ビデオ)を見る

 少し古いビデオだが、メリル・ストリープの「愛と精霊の家」を見る。よかった。星は、★★★★
プラス★の、5つ星。

 舞台は、1970代までのアルゼンチン。ちょうど、その直後、私は、ブエノスアイレスにいた。
当時は、ブエノスアイレスだけで、殺人事件が、一日に、30件以上も起きているというような時
代だった。

市の中心には、通称「ピンクハウス」と呼ばれる、大統領官邸があった。

 そのピンクハウスは、私が行ったときも、銃弾でボコボコだった(1975年ごろ)。その時代に
いたるまでの、そのころの物語。

 ワイフがメリル・ストリープの大ファンで、見終わったあと、「やっぱり、よかったわね」と言っ
た。ホント。ビデオを見ながら、いろいろ考えさせられた。一人の、超能力をもった女性のドラマ
チックな人生を描きながらも、流れが自然で、画面の中に、どんどんと吸いこまれていった。見
終わったあと、私自身も、同じ人生を経験したような錯覚にとらわれた。

 もちろん涙も出た。「生きるということは、こういうことかな」というヒントも得た。

 あとで聞いたら、ワイフも涙を流していたという。「本当に、流したのか?」と聞くと、「あなたの
前で見ていたから、あなたには、見えなかっただけよ」と。ワイフがビデオを見ながら、涙を流
すのは、めったにないこと。

 「フ〜ン」と、私は、むしろそちらのほうに驚いた。

 そのあと、しばらくして、ワイフとこんな会話をする。話題は、「家庭」と「家族」。

私「老人が、夢や希望や目的をもつということは、可能なのだろうか?」
ワイフ「可能よ」
私「……? じゃあ、お前には、どんな夢がある?」
ワイフ「みんなが、孫を連れて遊びに来てくれるでしょう。楽しみだわ」

私「そんなこと?」
ワイフ「これからは、そういう生き方になるのよ」
私「そうだな。これからは、息子や孫たちの幸福を考えながら生きるということかな」
ワイフ「みんなに心配をかけないように、ね」

私「あとは、息子たちに、ひとつの見本を見せられるような生き方をしたいな」
ワイフ「そうよ、見本を見せるのよ。夫婦としての、生きザマを、ね」
私「むずかしいね」
ワイフ「がんばるしかないわよ」と。

 そして私は、こんな話をした。このつづきは、別の原稿としてつぎに書く。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●幸福な家庭

オーストラリアに留学していたとき、一人の友人の家に、食事に招かれた。M君という、経済学
部に籍を置く学生だった。

 当時のオーストラリア人は、日本人とは比較にならないほど、高い水準の生活を楽しんでい
た。1ドルが400円の時代だった。平均的な農家でも、日本円に換算すると、年収が、1200
〜1400万円ほどあった(1970年当時)。当時、日本の大卒の初任給が、5〜6万円程度で
あったから、その「差」は大きかった。

 で、その友人の家に招かれて、私は驚いた。大きな冷蔵庫に、大きなエアコン。エレクトーン
もあったし、広い台所のテーブルの上には、オレンジが山のように積まれていた。

 当時の日本では、とても考えられない生活だった。

 そのM君には、二人の妹と、一人の弟がいた。上から、中学3年生、1年生、それに小学5年
生。みな、底抜けに明るい表情をしていた。

 父親は建築会社で、設計図を描いていた。母親は、パートで、中学校の教師をしていた。理
知的な父親。やさしく、笑顔を絶やさない母親。まるで夢の中で見るような幸福な家族だった。
少なくとも、私には、そう見えた。

 が、それから、15、6年後。日本の経済成長も、めざましかった。そんなとき、そのM君が、
仕事で日本へやってきた。そして私の家を訪ねてくれた。

 私は、M君の家族の消息を聞くのを、何よりも楽しみにしていた。が、M君から聞いた話は、
意外なものだった。

 M君の母親は、私が日本へ帰ってからしばらくして、がんでなくなってしまった。そのことはそ
れまでの手紙で、知っていた。

 で、そとき、M君から聞いた話では、上の妹は、そのときすでに、子どもを一人もうけたあと、
離婚していた。下の妹は、過食症になり、病院へ入院していた。一番下の弟も、大学へは入っ
たものの、アルコール依存症になり、毎日、ビールばかりを飲んでいるということだった。

 また、父親は、母親がなくなったあと、しばらく独身生活をつづけたが、私がM君に会ったとき
は、インドネシア人の女性と、同棲しているということだった。M君は、「おやじは、ショウブニス
ト(亭主関白)だから、インドネシア人の女性が気に入っているのさ」と笑っていた。

 私はその話を一つずつ聞きながら、「どうして?」と思ってしまった。離婚したり、がんで死ん
だり、何かの依存症になることが、「不幸」というわけではない。しかしあれほどまでに、幸福に
見えた家族でも、……それはたとえて言うなら、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の中に出て
くる、トラップ家のような家族だったが、そんな家族でも、時の流れの中で、バラバラになってし
まうこともあるものだな、と。

 今でも、あの当時の幸福そうな家族を思い出すと、たまらないほどの、いとおしさを感ずる。
切なさといってもよい。それとも、わびしさ? あの家族は、私がもっていなかったものを、すべ
て、もっていた。が、それらは、どこへ消えてしまったのか、と。

 ここにも書いたように、だからといって、そのM君が、今、不幸であると言っているのではな
い。今でも、M君は、ときどきメールをくれるが、陽気な人間性は、学生時代も、今も変わらな
い。

 が、しかしとくに、気になったのは、上の妹である。よくM君の家に遊びに行ったが、その妹に
会うのが、私には、何よりも楽しみだった。また彼女も、私によくしてくれた。そんな濃密な思い
出があるからこそ、彼女だけは、いわゆる、ふつうの(こういう言い方は失礼だということは、よ
く知っているが……)、ふつうの幸福な家庭を築いてほしかった。

 子どもを連れて、離婚したという話を聞いたときは、本当につらかった。さみしかった。

 そのM君のことを、私は、ていねいに思い出しながら、ワイフに話した。そしてその結論とし
て、私は、こう言った。

 「親のぼくたちにできることと言えば、子どもたちが、いつでも安心して帰ってこられる家庭を
用意しておいてあげること。それだけかもしれないね」と。「疲れたとき、心と体を休めることが
できるように……」とも。

 それに答えてワイフも、こう言った。「子どもたちに、心配をかけないことが、何よりも大切な
のよ」と。

 幸福な家庭は、みな、よく似ている。しかし壊れ方は、さまざま。その結果、不幸な家庭は、
千差万別。どれ一つとて、同じものは、ない。それはしかたないとしても、ただ言えることは、幸
福な家庭というのは、薄いガラスでできたガラス箱のようなもの。見た目には美しいが、もろくこ
われやすい。本当にこわれやすい。

 要は、「幸福」を感じたら、そっと、本当にそっと、それを守り育てていくことか。決して、その
幸福に甘えて、乱暴にあつかってはいけない。
 
 M君のあの家族を思い出すたびに、そう思う。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


最前線の子育て論byはやし浩司(534)

●死

 頭がボケれば、その分だけ、死の恐怖から、遠ざかることができるのか?

 私は、「遠ざかることができる」と考えていた。つまりボケることで、死の恐怖からのがれるこ
とができるのだ、と。

 しかしそれはまちがっていた。

 ボケた兄を観察していて、いくつか興味深いことに気がついた。兄は、たとえば時間や、食事
に、異常なまでに、固執する。それはわかる。しかし同時に、自分の体の変化にも、たいへん
敏感に反応する。

 鼻水が出ただけで、「風邪をひいた」「入院しなくてはいけない」とか。少し色の黒い便が出た
だけで、「死んでしまう」「胃潰瘍がひどくなった」とか。そのつど、世話をする私やワイフは、体
温計で体温をはかってやったり、その種の薬をのませたりする。

 何でもないことは最初からわかっていても、そうしてやることで、兄に、安心感を与えることが
できる。が、それをしないでおくと、1時間おきに、「病気だ」「内出血を起こしている」「肺炎にな
る」と騒ぐ。

 あのジョン・シュタインベック(John Steinbeck)は、つぎのように書いている。学生時代に、大
好きだった、アメリカの作家の一人である。

 You see, sir; death is an intellectual matter, but dying is pure pain.

 「あのね、だんな、死(の問題)は、知的な問題ですがね、しかし死ぬことは、苦痛なんですよ」
と。

 つまり「死」は何かと問われれば、それは、あくまでも知的なレベルの範囲での問題でしかな
い。幸福論を説いたからといって、幸福になれるということはない。恋愛論を説いたからといっ
て、すばらしい恋愛ができるというわけではない。同じように、「死」について論じたからといっ
て、その人が、「死」、もしくは「死の恐怖」から解放されるというわけではない。

もちろん頭がボケれば、「死」について論ずることはない。が、その「死」の問題と、「死ぬこと」
とは、まったく別のこと。頭がボケても、痛いものは痛い。こわいものは、こわい。つまり死に対
する恐怖心は、頭がボケたからといって、消えるものではない。

 若いころ、ある恩師に、こう聞いたことがある。その恩師は、そのとき、85歳をすぎていた。
その恩師に、「先生、年をとると、死ぬのがこわくなくなるものですか?」と。

 するとその恩師は、笑いながら、私にこう言った。「林さん、人間っていうのはね、いくつになっ
ても、死ぬのがこわいもんですよ」と。

 自分が生きているか、死んでいるかもわからないほど、頭がボケてしまえば、話は別なのだ
ろう。が、しかしそれでも、死の恐怖だけは、残るかもしれない。つまり人間は、そしてあらゆる
動物は、生きているかぎり、死の恐怖から、のがれることはできない。言いかえると、人間は、
なぜ生きるかといえば、死の恐怖をそこに感じているからということにもなる。

 夕方5時ごろになると、台所のドアをガタガタとゆすって、夕食をせがむ兄。その姿を見てい
ると、おなかがすき、夕食を食べたいからそうしているというよりは、何か、兄自身の中に潜
む、恐怖心が、兄を、せきたてているようにも見える。

 「食べたいから食べさせろ」というのではなく、「食べないと、死んでしまう」と。

 ワイフは、「夕食を作ってあげないわけではないのだから、もう少し、私を信頼して、待ってい
てくれればいい」と言うが、実は、この問題は、そんな単純なものではない。もっと奥が深いよう
に思う。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(535)

●兵庫県にお住まいの、Fさんからのメール

こんにちは、AK市のFと申します。
久しぶりに、はやし先生のHPを拝見しています。

現在、3人の子どもたちがいます。
長男6才、二男・三男3才(双子)です。
少しだけ、話を聞いていただけますか?

最近、自分の感情のままに子どもを叱り、押さえつけたり、脅したり・・最低な母親で
あることに気づいています。

自分より幼い子どもなのに、大切な大切なこどもなのに、少しでも気に入らないこと
や、失敗があると、怒鳴って異常に苛立っています。
時には手も出してしまいます・・。

我慢できないのか、我慢もしていないのか、自分でも分かりません。

先日、とてもショックな出来事がありました。

長男の幼稚園でお別れ会があり、親子で参加し、ゲームをしました。
そのときのことです。

子どもたちが、自分の母親の絵を描くゲームをしました。
正月にする、福笑いのようなゲームです。

しかし長男が並べた私の顔は、とても恐い顔でした。

そしてそのゲームをしながら、

1、料理をたくさん食べろと怒るママ
2、お風呂に入る前にトイレに行くママ
3、弟とばっかり遊んで、僕とは遊んでくれないママ

と言うのです。

正直、恥ずかしかったです。いつも、何か言われても「ちょっとまって!」で後回
し。構ってあげなかったことを反省しました。

でも、会から帰って私の怒りを息子にぶつけてしまいました・・・。

「何で、あんなに恐い顔をかくの?!」
「トイレに行くって、そんなこと言わなくてもいいでしょう!」
「ご飯も多すぎるんなら、もう食べなくってもいい!!」

私は、ものすごい剣幕でした。
その後、子どもも私も泣きました。双子も私が泣いているのを見て泣きました。

すみません、長々と・・。
子どもたちに辛く当たっていること、感情のコントロールができない事、私の全て、直し
たいって本当に思っています。

どうか、アドバイスしてください。
(兵庫県AK市、FSより)

+++++++++++++++++

【Fさんへ】

 いつもの書き方を少し変えて、アドバイスを、箇条書きにしてみます。うまくできるかどうかわ
かりませんが、お役に立てば、うれしいです。

●子育ては、考えてするものではない

 だれしも、「頭の中では、わかっているのですが、ついその場になると……」と言います。子育
てというのは、もともと、そういうものです。そこでいつも同じようなパターンで、同じような失敗を
するときは、(1)あなた自身の過去を冷静に見つめてみる。(2)何か(わだかまり)や(こだわ
り)があれば、まず、それに気づくことです。あとは時間が解決してくれます。


●子育ては、世代連鎖する

 子育ては、世代を超えて、親から子へと、よいことも、悪いことも、そのまま連鎖します。また
そういう部分が、ほとんどだということです。そういう意味で、「子育ては本能ではなく、学習によ
るもの」と考えます。つまり親は子育てをしながら、実は、自分が受けた子育てを、無意識のう
ちに繰りかえしているだけだということです。そこで重要なことは、悪い子育ては、つぎの世代
に、残さないということ。


●子育ての見本を見せる

 子育ての重要な点は、子どもを育てるのではなく、子育てのし方の見本を、子どもに見せると
いうことです。見せるだけでは、足りません。包みます。幸福な家庭というのは、こういうもの
だ。夫婦というのは、こういうものだ。家族というのは、こういうものだ、とです。そういう(学習)
があって、子どもは、親になったとき、はじめて、自分で子育てが自然な形でできるようになりま
す。


●子どもには負ける

 子どもに、勝とうと思わないこと。つまり親の優位性を見せつけないこと。どうせ相手にしても
しかたないし、本気で相手にしてはいけません。ときに親は、わざと負けてみせたり、バカなフ
リをして、子どもに自信をもたせます。適当なところで、親のほうが、手を引きます。「こんなバ
カな親など、アテにならないぞ」と子どもが思えば、しめたものです。


●子育ては重労働

 子育ては、もともと重労働です。そういう前提で、します。自分だけが苦しんでいるとか、おか
しいとか、子どもに問題があるなどと、考えてはいけません。しかしここが重要ですが、そういう
(苦しみ)をとおして、親は、ただの親から、真の親へと成長するのですよ。そのことは、子育て
が終わってみると、よくわかります。子育ての苦労が、それまで見えなかった、新しい世界を親
に見せてくれます。どうか、お楽しみに!


●自分の生きザマを!

 子育てをしながらも、親は、親で、自分の生きザマを確立します。「あなたはあなたで、勝手に
生きなさい。私は私で、勝手に生きます」と。そういう一歩退いた目が、ともすればギクシャクと
しがちな、親子関係に、風を通します。子どもだけを見て、子どもだけが視野にしか入らないと
いうのは、それだけあなたの生きザマが、小さいということです。あなたはあなたで、したいこと
を、すればいいのです。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●愛には懼(おそ)れなし

 「愛には懼(おそ)れなし」(新約聖書(ヨハネ・第1書・4・18)とある。つづけて、「全主愛は、
懼れを除く。懼れには苦難あればなり。懼るるものは、愛、いまだ全からず」と。

 愛はすべてであり、その愛があれば、すべての懼れがなくなるという。つまり何かに懼れてい
る人は、いまだ、その愛が完成されていないことを示す、と。

 ……こんな解釈を加えると、キリスト教徒の人たちは、不愉快に思うかもしれない。しかし私
は、私の解釈によってでも、イエス・キリストのこの言葉は、すばらしい言葉だと思う。どうしてか
わからないが、何度も読みかえしていると、心の中が暖まってくる。

 思えば、私の心は、すき間だらけ。ボロボロで、つかみどころがない。何かを求めてずっと生
きてきたはずなのに、その何かの片鱗(へんりん)すら、つかめないでいる。あがいている。

 だからさみしい。だから悲しい。心暖かい家族にめぐまれ、やさしい妻に恵まれ、それなりに
幸福な生活をしながらも、心の中は、すき間だらけ。何を考えても心配だし、不安は、打ち寄せ
る波のように、つぎからつぎへと、容赦なく襲ってくる。

 なぜだろう。何が、足りないのだろう。何が、まちがっているのだろう。

 生きることにまつわる、不安や心配、それらを総称して、「苦難」という。イエス・キリストは、そ
れらにおびえることを、「懼れ」と呼ぶ。ならば私は、その「懼れ」の最中(さなか)にいることにな
る。

 そう、私は、ときどき、生きている意味すら、わからなくなる。「なぜ、私はこんなところにいる
のだろう」と思うことさえある。自分をつかもうと、懸命にもがくのだが、どうしてもつかみきれな
い。

 そういう「懼れ」から逃れる方法は、ただ一つ。イエス・キリストは、「愛」だと説く。「人を愛する
心」だと説く。「なるほど」と思ってはみるが、しかし実際のところ、私には、その「愛」というの
が、何であるのか、よくわからない。

 相手に対する共鳴感のことなのか。相手の立場で、その相手の悲しみや苦しみを、共有する
ことなのか。あるいはまた、いつも私が書いているように、「許して、忘れる」ことなのか。

 ただこれだけは言える。だれでもよい。だれでもよいが、その人に親切にしてやったり、やさ
しくしてやったりすると、自分の心に張りついた孤独感が、ふと、やわらぐのを感ずることがあ
る。

 そういうのを「愛」と言うのだろうか。もしそうなら、そういった親切や、やさしさを、広げていけ
ばよいということになる。が、それは口で言うほど、簡単なことではない。

 が、私は、おかしな人間だ。その一方で、私は、何かに懸命にしがみつこうとしている。抵抗
しようとしているのかもしれない。すなおな気持ちで、人を愛し、愛されることを受け入れればよ
いのに、別の心は、それに反対している。

 なぜ、私は、こうまで「現実世界」に執着するのか。名声や地位、名誉とは、ほとんど決別し
た。しかしそれでもまだ、自分の心にすなおになれないでいる。善人になれないでいる。

 楽な生活をしたい。もっと人生を楽しみたい。お金も、嫌いではない。苦労はいやだし、人に
利用されるのも、いやだ。相手が悪人なら、なおさらだ。

 そういう自分を、どうしても、捨てきれない。もっとわかりやすく言えば、「善人になるのは、そ
れでよいとしても、その善人になったとき、それで生きていかれるのか」という疑問を、どうして
も、払いのけることができない。

 仕事もしなければならない。つまり生活費も稼がねばならない。きれいごとだけでは、私の世
界では生きていかれない。私が支えなければならない扶養家族だけも、現在、5人もいる。

 現実のほうが、まちがっているのかもしれない。それはわかっているが、聖書を読んでいる
と、どんどんと自分が現実離れしていくように感ずる。へたをすれば、私の人格が二分されてし
まう。

 今は、この程度しか、書けない。この先は、もう少し頭を冷やしてから書くことにしよう。まあ、
今日も、やさしい気持ちと、穏かな気持ちだけは、大切にしながら……。

 みなさん、おはようございます。今週も始まりました。2月14日、月曜日。

 そうだ、今日は、バレンタイン・ディーだ! 忘れていた! (私には関係ないが……。)


●時間と空間の共有感

 若いころの自分に、視点を置いてみる。私が、10歳とか、12歳のころだ。そのころも、私の
まわりには、たくさんの人がいた。

 最初に思い浮かんだのは、近所の菓子屋のおやじだった。頭のはげたおやじで、愛想はあ
まりよくなかったが、何かを買うと、いつも、おまけをくれた。菓子屋なのに、おもちゃのおまけ
をくれたこともある。

 つぎに学校の先生だ。Kという先生だ。ニックネームは、「かば」だった。名前が、「カバxx」だ
ったからではないか。
 
 ほかに、体育の先生や、道端で、おもちゃを売っていた男などなど。今から思うと、「かば」と
いうニックネームの先生をのぞいて、みんな、40代とか50代の人ばかり。

 そういう人を、順に頭の中で思い出していくと、やがて、言いようのない切なさを覚える。「か
ば」というニックネームの先生は、若い女性の先生だったが、まもなく、何かの病気で、死んで
しまった。

 で、計算すると、そのころのおやじにせよ、先生にせよ、今、生きていれば、90歳代とか10
0歳代になっているはず。しかし生きている人は、ほとんどいないはず。みんな、それぞれの時
代に、ぞれぞれの人生を懸命に生きたのだろう。が、結果としてみると、まるであとかたもなく
消えてしまっている。

 おかしな話に聞こえるかもしれないが、私は、そこに、人を愛する原点を感ずる。つまりそう
いう(切なさ)の中に、人を愛する原点を感ずる。私たちは、そういう自分の過去を振りかえりな
がら、実は、その時代に生きた人たちは、やがてくる将来の私たちであることを知る。

 私も、(そしてあなたも)、例外なく、やがて、だれかの思い出の中にその片鱗を残すことはあ
っても、そのまま、また消えていく。そこに生きることにまつわる、切なさを感じ、生きる人たち
に対しては、限りないいとおしさを、感ずる。

 それが、そのまま、「愛」につながっていく? 人類愛につながっていく? 結論を先に言え
ば、時間と空間の共有性。それが愛の原点ではないのか。

 たとえば今、1人の幼児に接したとする。年齢は、5歳だ。私との年齢の差は、50歳以上も
ある。そんなとき、私は、ふと、こう考える。

 「この子が、30歳や40歳になるころには、私は、もうこの世には、いないだろうな」と。つま
り、今度は、反対の立場で、今、懸命に生きている自分に、切なさを覚える。そしてその子ども
に対しては、限りない、いとおしさを覚える。

 今、うらんでいる人も、嫌っている人も、例外ではない。憎んでいる人も、さげすんでいる人
も、例外ではない。つぎの瞬間には、私は、そういう人たちもろとも、この世から消える。

 つまり私たちは、「今」というこの時間と、この身近な空間を、たがいに共有しているにすぎな
い。そしてそれから生まれる共有感には、はっきりとした限界がある。いくらがんばっても、命と
いう限界を超えて、私たちは、その先へ進むことはできない。もちろん私が生まれた以前の過
去へもどることもできない。その限界を感ずからこそ、今、時間と空間を共有するものに対し
て、限りない、いとおしさ、つまり、「愛」を感ずる。

 支離滅裂なことを書いてしまったが、もう少し、がまんして、私の話を聞いてほしい。わかりや
すく説明しよう。

 たとえばコンビニの中で、見知らぬ男性をみかけたとしよう。相手も私を知らない。何の関係
もない。

 しかし今、はっきりしているのは、私も、その男性も、「今」というこの時間を共有しているとい
うこと。距離も近い。この無限に広い宇宙という尺度でみるなら、別々の人間と言うよりは、同
じ人間。しかも一体化している。

 しかしそんな男性でも、そして私でも、あと半世紀もすれば、この世から、あとかたもなく、き
れいに消え去る。ともに、そういう運命を背負っている。

 そのことを思うと、その男性が、他人とは、とても思えなくなってくる。仮にその人が、悩んでい
たり、苦しんでいたりすれば、なおさらだ。私がそこにいるのが奇跡なら、その男性がそこにい
るのも、奇跡なのだ。そして「今」というこの瞬間において、時間と空間を共有しているというの
は、さらに奇跡なのだ。

 それがわからなければ、今、静かに目を閉じて、あなたという存在が、消滅してしまった状態
を想像してみればよい。

 あなたの肉体は、もうない。光を見る目も、音を聞く耳もない。心を動かす脳ミソもない。まっ
たくの虚無の世界だ。「私」が消えた状態では、この世界を認識することもできない。

 そういう世界から見ると、あなたがここにいるのも奇跡なら、その男性がそこにいるのも奇
跡。それがわかるはず。「だから、その男性を愛せよ」と、私は言っているのではない。ただ、
その男性との間に、時間と空間の共有性を感じたとたん、私は、その男性が、私とはまったく
無関係の他人とは、どうしても思えなくなってしまう。

 繰りかえしになるが、私は、それが「愛」、しいて言えば、「人類愛」の原点ではないかと思う。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(536)

●「?」だらけのノ政権(韓国)

 K国が、K国外務省を通して、正式に、(正式に、だ)、核兵器の保有宣言をした。「ワレワレ
は、核兵器をもっている。今後も増産する」と(05・2月)。

 これに対して、しばらく沈黙を保ったあと、ノ政権(韓国)は、「いつもの脅しにすぎない」「核兵
器をもっているという証拠はない」と。「だから、今後も、K国に対する、経済援助は続行する」
と。おまけにブッシュ大統領には、「金XX批判をひかえてほしい」とまで、注文を出している(0
5・2)。

 国内では、反北報道を、弾圧に近い形で抑制し、反米、反日運動を展開している。戦時中
に、日本軍に協力した人やその家族を洗い出している。あろうことか、あの大韓航空機爆発事
件まで、「実は当時の韓国政府のやらせである」とまで言い出している。

 こうした一連のニュースを読みながら、私のワイフまで、「ノ大統領は、金XXの子分みたい
ね」と。

 K国の核兵器保有宣言に対して、「核兵器をもっているという証拠はない」と言うくらいなら、ノ
大統領は、「K国は、核兵器をもっていない」という証拠を、出すべきではないのか。ノ大統領と
しては、いまさら、「私がまちがっていました」「私もだまされていました」とは、とても言えないの
だろう。

 自分たちだって、だまって、核兵器の製造に着手していた! それがバレると、「日本だっ
て、プルトニュウムをもっているではないか!」「騒いでいるのは、日本だけだ!」と。

 金大中政権もわかりにくかったが、ノ大統領になってから、さらに私は韓国が理解できなくな
ってしまった。今回のK国による核兵器保有宣言にしても、もっとも敏感に反応しなければなら
ないはずの韓国が、かえってK国の擁護に回っている(?)。

 もしソウルの地下で、K国が、核兵器を爆発させたら、ソウルは、どうなるのだろう? (K国
の地下トンネルは、ソウルまでのびているという話だぞ!)

 で、この2月に入って、K国内でも、反体制運動が、公然化してきた。「朝鮮解放人民委員会」
という組織までできた。

 その反体制運動が発する声明文の中にも、こうある。

「韓国政府は現実をまっすぐに見て、正しい対北政策を取ってほしい。K国人民は金XX政権の
延命のため、意味のない時間と金を費やしている韓国に、失望し、憤怒している」(ヤフー・ニュ
ース)と。

 私もこの意見には、同感だが、しかしそれが国際的な常識でもないだろうか。ノ大統領よ、も
う少し、「現実」を直視してほしい!
(05年02月15日記)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【月刊G・3月号を読む】

 もうすぐ4月号が発売になるというのに、昨日、3月号を購入していきた。「月刊G」である。こ
の雑誌の中の記事について、いろいろ考えてみたい。

●K国「内部崩壊」へ

 K国は、宗教的政治国家、あるいは政治的宗教国家。金XXの個人崇拝によって成りたって
いる国だから、簡単には、崩壊しない。……と、少し前まで、考えていた。カルト教団体に例を
見るまでもなく、宗教的政治国家は、外部からの攻撃が強くなればなるほど、内部は、結束す
る。最終的には、命までかける。

 戦前の神国日本が、それに近かった。

 さらに金XXの最後の命づなが、核兵器。6か国協議とか何とか、いろいろ言われているが、
金XXは、そうは、簡単には、手放さない。

 本誌は「多角的研究」と題して、(1)「裸の金正Y」(だれも知らない後継者の素顔、(2)「黄C
Cのソウル現地妻と6歳の息子」とつづいて、(3)「金XXは、もう政権を維持できない」とある。

 ほかに(4)「日本人元工作員の告白」、(5)「北朝鮮サッカーの栄光と挫折」という記事も。

 K国が崩壊する根拠として、著者の金徳H(元K国労働党幹部)は、つぎのような事実をあげ
る。

(1)面従腹背の部下たち
(2)飢餓の時代の再来
(3)ハイパーインフレ
(4)中国も、金XXを排除したがっている、と。

 金徳Hも、本誌の中で、韓国のノ大統領を、こう批判している。

 「(あと一押しすれば、金XX独裁体制は崩壊するところまできているのに)、韓国のノ政権
は、金剛山観光事業の促進や、開城工業団地の開発、年間40万トンにもおよぶ食糧支援な
ど、金XXの延命を図ろうと必死だ。

 ノ大統領は、昨秋にアメリカを訪問したとき、『金XX政権は、改革開放を推進できる政権だ』
と豪語して、アメリカの失笑を買ったが、朝鮮労働党の中枢に長年いた私からすれば、無知蒙
昧(もうまい)もいいところだ」(231P)と。

 ホント! 同感! 少しでも心理学を勉強したことがある人なら、わかることだが、今さら金X
Xの心理状態が、好転するなどということは、太陽が西から昇るのと同じくらい、ありえない。人
格の完成度にいたっては、なおさらで、ああいう独裁者に、人間味のある政治を期待するほう
が、おかしい。改革開放は、つぎのつぎ。

 反金XX闘争は、中朝国境付近から始まっているという。情報が、中国側から、流れ込んでい
るためらしい。


●無防備な夫が陥る熟年離婚のワナ

 熟年離婚がふえているという。1975年には、年間6810組しかなかった、「同居20年以上
の離婚」が、昨年(04)は、ナ、何と、4万5051組にもなったという。約10万人が、離婚したこ
とになる。

 そしてほとんどのケースでは、妻側が、ある日突然、「離婚してくれ」と言いだし、夫側が、寝
耳に水と、狼狽(ろうばい)するという。

 しかし女性の決意はかたく、弁護士などの説得で、気持ちを変えた女性は、その著者のS弁
護士によれば、ゼロだったという。

 「法廷でも尋問席に立った男性は、見ていても気の毒なほど、緊張してしまう人が大半です
が、……女性は、法廷でも、たいていは堂々とした態度をとります」とのこと。

 ところで、その熟年離婚だが、離婚する女性にとっては、夫が退職をして、退職金を手にして
から離婚を申し立てたほうが、得だそうだ。(知らなかった!)

 「退職金をいったん受け取ってしまえば、それは夫婦の財産になりますが、受け取る前は、架
空の財産でしかないので、(分与の)判断がむずかしい」と。

 だから夫の立場でいうなら、退職金を手にする前に、さっさと離婚したほうが、得ということに
なる。妻の立場でいうなら、夫が退職金をしっかりと手にするのを待ってから、離婚を申し立て
たほうが得ということになる。(いらぬお節介で、ごめん!)

 さらに、男も、女も、50歳を過ぎてからの恋は、猛烈になりやすいとか。「人生最後の花」とい
うわけである。著者は、「とくに女性の浮気には、用心しろ」と書いている。

 たとえば妻が、(1)何かの会合に、急に熱心になった。(2)食事の支度をする頻度が少なく
なった。(3)寝室を別にした、というようなときは、要注意だそうだ。

 さらに全体として、女性は、男性よりも、ウソがうまいとのこと。女性というのは、浮気がバラ
ても、とことんウソをつくとか。

 わかる、わかる……。

 私たち夫婦も、あぶないね。ホント。毎朝、顔をあわせるたびに、今日はだいじょうぶかなと、
恐る恐るワイフの顔色をうかがう。私のワイフなどは、何かにつけて、白黒、はっきりしている
から、私のことを一度、嫌いになったら、「生理的に合わない」とか何とか言って、そのまま家を
出て行ってしまうだろう。

 最後にこんなことも……。

 「統計に取れば、男性の浮気のほうが多いでしょう。しかし法律相談所を受けていると、(バレ
ていない妻の浮気)の多さには、驚かされます」と。

 当然ではないか! 10人の男が浮気するということは、10人のその相手の妻がいるという
こと。「男性の浮気のほうが多い」という考え方そのものが、おかしい(?)。もっとも、浮気とい
っても、いろいろある。

 「マジソン郡の橋」という小説の中に書いてあるような浮気もある。ああいう浮気なら、……こ
のつづきは、書けない。私のワイフも、このマガジンを読んでいるので。ごめん!


●小児性愛

 NY氏(K大講師)が書いている、「小児性愛とは何か」という記事も、たいへんおもしろかった
(「月刊G・3月号」p104)。

 女性のことは知らない。しかし男性には、それぞれ、固有の(?)性的嗜好性がある。それに
気づいたのは、ある日、私にこんなことを言った男性がいたからだ。私がまだ24、5歳のころ
のことだった。

 従業員が、15人ほどの、電気工事店を経営していた男性だった。いわく、「オレは、尻の大
きな女性が好きだ。そういう女性に、顔を押しつぶしてもらうと、ゾクゾクと感ずる」と。

 ある程度の範囲でのことなら、私にも理解できる。たとえば女性のスカートの下をのぞいてみ
たいとか、風呂屋の番台ごしに、女湯のほうをのぞいてみたいとか、など。私にも、そういう嗜
好性がないわけではない。しかし「大きな女性の尻で、顔を押しつぶしてもらいたい」とは! そ
のときは、「本当?」と思うと同時に、「人、それぞれだな」と思った。

 で、やがて年をとるにつれて、私は、10人の男がいれば、それぞれの人に、10種類の性的
嗜好性があるということを知った。女性の汚れた下着に興奮する男もいれば、ムチで女性に打
たれると興奮する男もいる。

 この世界には、正常も異常も、ない。スタンダード(標準)もなければ、基準もない。同性愛に
しても、いまでは、それを問題にする人はいない。しょせん男と女の世界。たがいに合意の上
でなら、何をしてもよい。が、一つだけ、「困る」というのがある。

 小児性愛である。性嗜好障害の一つと考えられている。

 先日も、N県で、小学生の女の子が誘拐され、殺されるという事件が起きた。犯人は、前科
のある30代半ばの男だった。(その男が、小児性愛者だったと言っているのではない。誤解の
ないように!)どんな性的嗜好性をもとうが、それはその人の勝手だが、相手が、子どもという
点で、問題がある。許せない。

 その小児性愛者については、WHO(世界保健機関)の「国際疾病分類」(ICD−10)の定義
によれば、つぎのようであるという(参考、同・月刊G)。

(1)前思春期(通常13歳以下)に対して強烈な性的衝動を、
(2)少なくとも6か月以上もっていて、
(3)実際に性的行為におよび、
(4)この性衝動のために本人が苦悩している。

 この中で、とくに注意をひくのは、小児性愛者は、子どもに対しては、性的衝動を感ずること
はあっても、成人の女性とのセックスなどでは、満足できないという点である(同、NY氏)。つま
り完成された女性の肉体には、興味を示さないということか。

 ここで私は、「興味」という言葉を使ったが、本当は正しくないかもしれない。たとえば私は、こ
の年齢になっても、いまだに同性愛者の気持ちが、理解できない。少しでも私の中に、その傾
向があるなら、理解できるかもしれない。

 たとえば、よく知られた例に、「のぞき」がある。窃視症ともいう。入浴中の女性に、性的興奮
を覚えるというものだが、私にも、それがあることに、あるとき、気がついた。廊下を歩いてい
て、ふと、ワイフの入浴中の姿が見えたときのこと。私はそれまで感じたことがない、性的興奮
を覚えた。

 だから「のぞき」については、理解できる。「旅館で、女湯をのぞいたよ」と言う男がいたりして
も、それほど違和感を覚えない。(だからといって、それを許しているわけではない。誤解のな
いように!)が、同性愛については、頭をさかさまにしても、理解できない。

 つまりこの性的嗜好性の問題は、白黒の境界が、きわめてはっきりしているということ。興味
があるとかないとか、関心があるとかないとか、そういう問題ではない。ある人にはあり、ない
人には、まったくない。そういう意味でも、性嗜好性障害の問題は、ほかの精神障害とは区別
される、特異な問題と考えてよい。

 そこでつぎの問題は、こうした性嗜好性障害は、その人の自身の努力で、変えられるものか
ということ。たとえば私について言うなら、同性には性的関心をもたない。そういう私でも、何ら
かの訓練や指導によって、関心をもつことができるようになるのだろうか。

 私の印象では、それは不可能ではないか思う。あえて正直に告白すれば、大きな女性の尻
は、私には、グロテスク以外の、何ものでもない。そんな尻に顔を押しつぶされたら、性的に興
奮する前に、嫌悪感に耐えきれず、逃げ出してしまうだろう。相手が男なら、なおさらだ。想像
するだけで、ゾッとする。

 では、小児性愛はどうか。たしかに子どもには、汚れのない美しさがある。しかしそれは「心」
のことであって、「肉体」のことではない。だから子どもに、性的魅力を感ずるということは、私
のばあいは、ない。

 が、小児愛者たちは、一般的な男たちが、成人した女性の胸や陰部を見たときに感ずるよう
な性的快感を、子どもに感ずるという。このときも、「なぜ」「どうして」という質問は、意味はな
い。感ずるものは、感ずるのであって、どうしようもない。同性愛者が、同性に性的な関心をも
つことについて、「なぜ」「どうして」と質問するのと、同じである。

 反対に、ではなぜ、私を含めて、一般的な男たちが、女性の胸や陰部に、関心をもつのか。
それについて、「なぜ」「どうして」と聞かれても、困る。性的嗜好性というのは、そういうものであ
る。

 で、NY氏は、先のN県で起きた女児誘拐殺害事件について、記事の中で、犯人の再犯性に
ついて、詳しく書いている。が、結論から先に言えば、いくら刑罰を科しても、こうした性的嗜好
性は、変えられないということらしい。根が深いというか、原始的な本能に根ざしているためで
はないか。

 そのため、再犯性がきわめて高く、一度犯罪を犯したものは、刑期を終えたあとも、追跡観
察が必要ということになる。

 その小児性愛者の特徴としては、つぎの二つがあるという(同誌)。

(1)小児性愛者は、子ども自身が、それを望んでいると錯覚している。
(2)性的興奮を得る段階で、視覚的刺激による部分が大きい。

 ふつう、男というのは、視覚的刺激だけではなく、女性の声や雰囲気、様子などで性的な興
奮を覚える。しかし小児性愛者は、視覚的な刺激が優勢で、聴覚的な刺激などには、ほとんど
反応しないということらしい。NY氏は、こうした事実をふまえて、「(小児性愛者には)何らかの
動物的な本能が欠落しているためだと考えられる」と結論づけている。

 ただしNY氏も書いているように、小児性愛者イコール、小児わいせつではないということ。

 大半の人は、そうした性的嗜好性をもちながらも、ごくふつうの人として、ふつうの生活を営ん
でいる。結婚して、子どもをもうけているケースも、少なくない。嗜好性の強弱の問題というより
は、その人の自己管理能力の問題ということになる。

 私も、この幼児教育の世界に入るとき、時の幼稚園の園長から、「絶対に守るように」と、き
びしい掟(おきて)を、授けられた。それはどんなことがあっても、女児には、指1本、触れては
ならないという掟だった。

 頭(ほめるときに頭をさわる)と、手(握手など)をのぞいて、以来、35年になるが、私は今で
も、その掟を守っている。その当時から、(当時は、小児性愛という言葉はなかったが……)、
そうした問題が、子どもの世界で起きていたからではないか。園長は、それを知っていた。

 で、何かの事情があって、幼児(女児)を抱きあげるときは、100%、例外なく、近くにいる母
親の了解を求めてからにしている。さらに、女児にかぎらず、女子中学生や、高校生と面を向
って話すときは、かならずポケットに手を入れて話すようにしている。これは掟とはちがうが、気
がついてみたら、いつの間にか、そうなっていた。

 言うまでもなく、不要な誤解をされないためである。

 ただ、NY氏によれば、小児愛者の中には、同性愛者も少なくないという。かならずしも、相手
が異性とはかぎらない。成人の男が、男児に、性的な衝動を感ずるようなケースをいう。こうい
うケースは、同じ性嗜好性障害の中でも、重症だそうだ。

 私のばあいは、相手が男児なら、平気で、抱きあげたり、ときには、プロレスごっこをしたりす
る。(女児とは、もちろん、したことがない。)しかしこれからは、男児との接触も、してはいけな
いということになるのか? 

 最後に、一例だけだが、私には、こんな失敗がある。

 その子ども(小3女児)は、何かにつけて、私に、ベタベタと体をすりよせてきた。イスに座っ
て、雑誌を読んでいるようなときでも、私にとびついてきた。私は、すかさず、その子どもを手で
押して、私の体から、離した。

 で、ある日、かなりきつくその子どもを叱った。

 その子どものためというよりは、参観している親たちに、不要な誤解を与えないためである。
こうした誤解は、私のような仕事をしている者にとっては、決定的に、まずい。

 が、その子どもは、その日を境に、私の教室へこなくなった。そればかりか、ほかの子どもた
ちに、「あの林は、私にエッチなことをした」と言いふらし始めた。

 私は、そのとき、40歳代の半ばごろだったが、これには激怒した。まず、その子どもの親に
電話をした。つづいて、その子どもを、電話口に出した。そして年甲斐(がい)もなく、怒鳴りつ
けてやった。いくらうわさでも、この世界にも、許せることと、許せないことがある。

 で、今でも、ときどき、私に体をベタベタとする寄せてくる子どもがいる。しかし最初の段階で、
きっぱりと、「それは悪いことだ」と子どもに、話すようにしている。この話は、小児性愛とは関
係ないが……。

 ほかにも、窃視症(のぞき)のほか、露出狂、サド、マゾなどの性嗜好性障害がある。原因の
多くは、乳幼児期における、ゆがんだ性意識の形成にあるとされる。「障害」とまでは言えない
にしても、威圧的な母親をもったために、女性に対して恐怖心をもつようになる男児も、少なく
ない。

 大切なことは、親は、子どもに対しては、ほどよい親であるということ。そして子どもは、子ど
もの世界を通して、自然な形で、性意識をはぐくむのが、よい。私の結論は、そういうことにな
る。
(はやし浩司 小児性愛 性嗜好障害 性的嗜好性 性嗜好性 小児愛)

(付記)

日本のK首相は2月15日の閣僚懇談会で、再犯率の高い犯罪で懲役刑を受け、出所した人
物の居住地などの情報を、法務省から警察庁に提供するための体制づくりを急ぐよう、関係閣
僚に指示した。対象犯罪は、性犯罪に加え、放火、麻薬、暴力犯などを想定している。これを
受け、政府は16日、再犯防止に関する関係省庁の局長・審議官級の会議を開催する。(ヤフ
ー・ニュースより)


●あやしげな電話・撃退法

 我が家にも、よくあやしげな電話がかかってくる。

 そこで今は、ナンバー通知に切りかえた。ナンバー非通知の電話は、電話そのものが、つな
がらないようにした。相手の電話番号が、そのまま表示されるようにした。以後、その種のあや
しげな電話は、ほとんどかかってこなくなった。

 で、「月刊G」によれば、いまだに、振込めサギの被害者が、ふえているという!
 
 昨年(04)11月までの被害額だけでも、約252億円! 全国で、1万8000件もあったとい
う!

 が、振り込めサギだけではない。架空請求、融資保証サギなどなど。ここに書いた252億円
という被害額は、まさに「氷山の一角にすぎない」(同、252p)そうだ。

 そこで撃退法ということになるが、一番確実な方法は、おかしな電話を受けたら、「折りかえし
電話いたしますから、電話番号を教えてください」と、相手に言うことだそうだ。

 サギのばあいは、自分の電話番号を教えない。まともな電話なら、すぐ電話番号を教えてく
れるはず。実は、私も、この方法で、あやしげな電話は、撃退している。が、敵もさるもの。さら
に新手(あらて)を考えてやってくる。この世界、油断もスキもあったものではない。

 先日も、息子の現住所を知りたいといってきた電話があった。「○○高校の事務局です。同
窓会の名簿づくりをしています」と言った。そこで私が、「現在の校長先生の名前はだれでした
っけ?」と、とぼけてみせると、シャーシャーと、架空の名前を口にした。

 若い女性の声だったが、「ここまでするか!」と驚いた。そこで「じゃあ、こちらから電話をかけ
なおしますから、電話番号を教えてください」と言うと、「どうしてですか?」と。

私「最近、この種のあやしげな電話が多いものですから」
女「そうですね。でも、私は○○高校のものです」
私「別に疑っているわけではありませんが、念のためです」
女「疑っているでしょ?」

私「ハハハ、そうですね。疑ってますよね。だってあなたの電話番号、05xxでしょ。浜松の電話
番号じゃ、ないもの……」
女「……(ガチャン)」と。


●「アレキサンダーの悲劇」

 評論家TT氏の「アレキサンダーの悲劇」も、おもしろかった(?)。副題は、「アメリカの悲
劇」。

 TT氏の評論の特徴は、最初に、徹底した資料集めから始めるところにある。こうしてTT氏
は、「オレほど、精密な資料をもっている者はいない」と誇示して、おおかたの評論家を、まず、
カヤの外に置く。「黙れ!」と。「控えおろう!」でもよい。

 しかし、史実に沿ったこまかい内容(時代、舞台、人名など)は、TT氏にしても、その原稿を
書いているときだけは、記憶にあるのだろうが、実際には、書き終わったあと、すぐ忘れてしま
っているにちがいない。

 読者の私たちなら、なおさらである。つぎからつぎへと、聞きなれないカタカナ名が出てくる
が、読んだつぎの瞬間には、もう忘れてしまった。

途中、「オりジナルのスクリプト(台本)では……」とか、「(ギリシア神話の)予備知識を得ていた
ほうがいい」などという、いつものTT氏らしい、どこか高慢な(失礼!)な、評論姿勢も、目立
つ。

 ……とまあ、かなり過激なことを書いたが、副題の「アメリカの悲劇」に関する部分は、全編で
14P中、2Pのみ。

 私は、TT氏の評論を読みながら、「アメリカの悲劇」というよりは、独裁者への反発心のほう
を、強く感じた。映画の評論という性格上、そこまでは気が回らなかったのかもしれないが、TT
氏が見ている視点は、まさに王者のそれ。

 同性愛についても、「純粋に精神的な関係は、男と女の間には成立せず、むしろ男と男の間
に成立する」という論法で、書きこんでいる。たしかにそういう面もあるかもしれないが、しかし
同性愛者たちがみな、そこまで深く考えて、同性愛をしているとは、私には考えにくい。

 この映画は、アメリカでは、評判が悪かったという。その理由が、その同性愛を肯定した部分
が目立ったからだという。しかしTT氏は、「こういうバカげた反応が出てくるところが、いかにも
今のアメリカらしい」と、逆に、酷評している。

 現実の同性愛は、エイズ問題に象徴されるように、それほど美しいものではない。それとも、
アレキサンダーのような歴史上の大物になると、おなじ同性愛でも、すばらしい哲学をもつよう
になるとでもいうのだろうか。

 私には、残念ながら、同性愛者の気持ちが、まったく理解できない。だから何とも評論のしよ
うがない。が、さすがTT氏、同性愛者に対する理解も、たいへん深い(?)。

 (若いころ、ときどき、同性愛者にアプローチされ、たいへん不愉快な思いをした経験が、何
度かある。それは、今でいうセクハラ。それから受ける不快感は、実際、そういうことをされたも
のでないとわからないだろう。

 だから今でも、同性愛者どうしが、体をからませているシーンを見たりすると、それを美しいと
思う前に、先に、はげしい嫌悪感を覚えてしまう。※)

 しかしTT氏は、「(この映画のアメリカでの評判が悪いのは、そうした同性愛など)、アレキサ
ンダーの性的側面の描き方に対する不満である。はっきりいうと、映画の中で、アレキサンダ
ーは、同性愛傾向を持った人物として描かれているが、それが不満なのだ」と決めつけてい
る。

 そうかな?

 本当に、TT氏は、アメリカ人に、それを確かめたのかな?

 同性愛を擁護したいという気持ちが先にあって、TT氏が、勝手にそう思いこんでいるだけで
はないのかな? 今のアメリカは、TT氏が思いこんでいるほど、同性愛に対して、それほどセ
ンシティブではないような気がする。

 全体として、TT氏は、映画「アレキサンダーの悲劇」は、史実にきわめて忠実に作られた、す
ばらしい映画だと、絶賛している。3回も、見たそうだ。そして「(そのすばらしさは)、3回見て、
はじめて発見できることである」と。

 ここを読んで、私は、この映画は、映画館では、見ないことに決めた。ビデオでじゅうぶん。
「そこまでアレキサンダーについて、詳しく知りたい」とは、思わない。(それに3回も見たくな
い!)何というか、テーブルの上に、どっさりとごちそうを出されたような気分。TT氏の評論を読
んだだけで、満腹になってしまった。

 (あるいは、先に出版社のほうから、映画評論を頼まれたから、3回も見たのではないかな?
 ……これは私の勝手な憶測。)

(補足※)

 一度は、同性愛者とは知らず、その家に泊めてもらったことがある。夜中にハッと気がつく
と、その男は、私の横に寝ていて、私の背中を、さすっていた。ゾーッ!

 もう一度は、それまでに、10年ほどつきあった男だが、ある日、喫茶店で、いきなり手を握ら
れた。そして「林君は、同性愛をどう思いますか?」と、質問された。そのときも、心底、ゾーッと
した。

 あるいはこんな例も。

 結婚式を終えて、花嫁が夫の部屋に入ってみると、その夫が、男の友人と抱きあって、キス
していたという。その光景を見て、花嫁は狂乱状態になり、花嫁の友人の家に逃げこんでき
た。

 たまたま私がその場に居あわせた。花嫁は、友人にあれこれとなだめられていたが、花嫁の
狂乱状態は、そのままだった。

 同性愛者が同性愛を肯定するのは、同性愛者の勝手だが、しかし世の中には、それをすな
おに受けいれられない人たちがいることも、忘れてはいけない。

 が、だからといって、私は何も、同性愛を否定しているのではない。また映画の中に、そうい
うシーンがあったからといって、映画全体の評価を変えることはない。ただ「バカげた反応」と決
めつけるTT氏の評論には、抵抗を感じた。

++++++++++++以上「月刊G・3月号を読んで+++++++++++

●揺れ動く心

 心というのは、揺れ動くものなのか。それを「迷い」という。つまり人は、そのつど、あれこれと
迷いながら、生きている。

 このところ、兄が、入浴をしぶるようになった。ワイフに聞くと、「もう3日も、入っていないの
よ」と。

 そこで昨日、昼間に、入浴させた。「夜は、寒いから、いやなのだろう」と、私のほうで、勝手
に解釈した。

 が、おもしろい兄で、私の指示には、何でもすなおに聞く。どうやら私を、祖父と錯誤している
ようだ。離れて暮らして、40年近くになる。今の兄には、私が、その祖父に見えるらしい。年齢
的にも、私は、兄が子どものころの祖父の年齢になった。顔も祖父の顔に似ている。

私「あのな、お前の頭、すぐ臭くなるだろ。だから頭は、きちんと洗えよ」
兄「OK、OK」
私「あとで、散髪してやるからな」
兄「OK、OK」と。

 頭を洗い、ついで立たせたまま、背中と腹を洗ってやる。つぎに足だが、私のほうが捻挫をし
ていることもあって、足の先までは、洗ってやれない。

 最後に、半ば目を閉じて、尻の穴を、数度、ゴジゴシと洗ってやる。

私「金XXと、足のウラくらいは、自分で洗えよ」
兄「OK、OK」と。

 ときどき、「痛い」とか、赤ちゃん言葉で、「くすぐったい」とか、言う。そして「おじいちゃんに、
よく銭湯で洗ってもらった」と言う。

 それを聞いていると、子ども時代の私の姿が、ありありと浮かんでくる。私も、銭湯へ通って
いた。しかし子どものころは、いつも女湯のほうに、入っていた。

 なつかしさと、あわれみ。同情と、いたわり。が、その一方で、「体くらい、自分で洗え」という、
怒りというか、それに似た感情も、顔を出す。だからときどき、タオルで、力いっぱい、背中をこ
すったりする。

 「痛い、痛い」
 「少しは、がまんしろ。黙って、静かにしていろ!」と。

 先日、はじめてワイフが、「家の中に、黒いモヤがかかった感じ」と、不平を漏らした。ボケた
兄がいることを、そう感じたらしい。だから、できるだけワイフには、世話をかけないようにして
いる。

 が、おかしなものだ。

 このところ、心のどこかで兄との同居を楽しむようになってきた。そのへんは、実に純朴な兄
で、何かやさしくしてあげると、ニコニコと笑って、それに答えてくれる。「今度は、パチンコに連
れていってやろうか」「今度は……」と考えているだけで、楽しくなる。

 ワイフは、「兄さんは、まるで幼児ね」と言うが、幼児だと思えば、私の得意分野。あつかい方
は、なれている。それに私は子どものころから、老人と同居の家庭に生まれ育っている。頭の
ボケた老人と同居することに、それほど、違和感を覚えない。

 「まあ、したいようにさせておけ」という対処法が、自然な形でできる。

 が、同時に、私は、その兄から、何かを学んでいるような気がする。老人問題にも詳しくなっ
たし、痴呆症(認識症)にも、詳しくなった。自分たちの老後を、より深く考えるようにもなった。

 そして、ここに書いた、「揺れ動く心」も。

 兄の介護をしていると、そのつど、私の心は、複雑に揺れ動く。こうした迷いは、それまであ
まり経験しなかったものだ。

 強く叱ったあと、「まずかったかな」と思って、兄の好物を部屋に届けたりする。テーブルを汚
したのを見て、「ちゃんと拭け」と言って、雑巾(ぞうきん)を投げつけたあと、私が拭いてやる。

 その瞬間、瞬間に、心が揺れ動く。

 それについてワイフは、「長い歴史があるからよ」と言うが、そのとおり。2人の間には、長い
歴史がある。思い出が、地層の層のようになって、積み重なっている。年齢が離れていたか
ら、いっしょに遊んだという思い出は、ほとんど、ない。ないが、それでも、思い出が、あちこち
で重なっている。

 が、それだけではない。それと同時に、「これがぼくの、10年後、20年後の姿か」と思った
り、あるいは、反対に、「もし立場が逆だったら」と思ったりする。

 それがモヤモヤとした、迷いになるようだ。

 そう言えば、昨日は、こんなことがあった。

 兄のために用意した、室内歩行訓練器を、兄が、こわしてしまった。しかたないので、私がド
ライバーでなおしてやっていると、横から、ペチャクチャと、話しかけてくる。それがうるさかっ
た。

 だから、私は、思わず、「うるさい!」「黙っていろ!」と。大声で、怒鳴った。

 兄は、さみしそうな顔をしてみせたあと、そのままコタツにうつむいてしまった。「言い過ぎたか
も……」と思ったが、そのままにしておいた。

 台所に帰ると、ワイフがそこに立っていた。「また怒鳴ってしまったよ」とポツリと言うと、ワイフ
は私を胸に抱いてくれた。

 今日こそは、動揺しないでおこう……と、今、心に決めた。兄との悪戦苦闘は、まだまだつづ
きそうである。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

+++++著作権BYはやし浩司++++++copy right by Hiroshi Hayashi+++++

最前線の子育て論byはやし浩司(537)

●夢、希望、目的

 子どもを伸ばすための、三種の神器、それが「夢、希望、そして目的」。

 それはわかるが、これは何も、子どもにかぎったことではない。おとなだって、そして老人だっ
て、そうだ。みな、そうだ。この夢、希望、目的にしがみつきながら、生きている。

 もし、この夢、希望、目的をなくしたら、人は、……。よくわからないが、私なら、生きていかれ
ないだろうと思う。

 が、中身は、それほど、重要ではない。花畑に咲く、大輪のバラが、その夢や希望や目的に
なることもある。しかしその一方で、砂漠に咲く、小さな一輪の花でも、その夢や希望や目的に
なることもある。

 大切なことは、どんなばあいでも、この夢、希望、目的を捨てないことだ。たとえ今は、消えた
ように見えるときがあっても、明日になれば、かならず、夢、希望、目的はもどってくる。

あのゲオルギウは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(しゅう
えん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残して
いる。

 ゲオルギウという人は、生涯のほとんどを、収容所ですごしたという。そのゲオルギウが、そ
う書いている。ギオルギウという人は、ものすごい人だと思う。

 以前書いた原稿の中から、いくつかを拾ってみる。


●希望論

 希望にせよ、その反対側にある絶望にせよ、おおかたのものは、虚妄である。『希望とは、
めざめている夢なり』(「断片」)と言った、アリストテレス。『絶望の虚妄なることは、ま
さに希望と相同じ』(「野草」)と言った、魯迅などがいる。

さらに端的に、『希望は、つねに私たちを欺く、ペテン師である。私のばあい、希望をな
くしたとき、はじめて幸福がおとずれた』(「格言と反省」)と言った、シャンフォールがい
る。

 このことは、子どもたちの世界を見ているとわかる。

 もう10年にもなるだろうか。「たまごっち」というわけのわからないゲームが、子ども
たちの世界で流行した。その前後に、あのポケモンブームがあり、それが最近では、遊戯
王、マジギャザというカードゲームに移り変わってきている。

 そういう世界で、子どもたちは、昔も今も、流行に流されるまま、一喜一憂している。
一度私が操作をまちがえて、あの(たまごっち)を殺して(?)しまったことがある。そ
のときその女の子(小1)は、狂ったように泣いた。「先生が、殺してしまったア!」と。
つまりその女の子は、(たまごっち)が死んだとき、絶望のどん底に落とされたことになる。

 同じように、その反対側に、希望がある。ある受験塾のパンフレットにはこうある。

 「努力は必ず、報われる。希望の星を、君自身の手でつかめ。○×進学塾」と。

 こうした世界を総じてながめていると、おとなの世界も、それほど違わないことが、よ
くわかる。希望にせよ、絶望にせよ、それはまさに虚妄の世界。それにまつわる人間たち
が、勝手につくりだした虚妄にすぎない。その虚妄にハマり、ときに希望をもったり、と
きに絶望したりする。

 ……となると、希望とは何か。絶望とは何か。もう一度、考えなおしてみる必要がある。

キリスト教には、こんな説話がある。あのノアが、大洪水に際して、神にこうたずねる。
「神よ、こうして邪悪な人々を滅ぼすくらいなら、どうして最初から、完全な人間をつ
くらなかったのか」と。それに対して、神は、こう答える。「人間に希望を与えるため」
と。

 少し話はそれるが、以前、こんなエッセー(中日新聞掲載済み)を書いたので、ここに
転載する。

++++++++++++++++++++

【子どもに善と悪を教えるとき】

●四割の善と四割の悪 

社会に四割の善があり、四割の悪があるなら、子どもの世界にも、四割の善があり、四
割の悪がある。子どもの世界は、まさにおとなの世界の縮図。おとなの世界をなおさない
で、子どもの世界だけをよくしようとしても、無理。子どもがはじめて読んだカタカナが、
「ホテル」であったり、「ソープ」であったりする(「クレヨンしんちゃん」V1)。

つまり子どもの世界をよくしたいと思ったら、社会そのものと闘う。時として教育をす
る者は、子どもにはきびしく、社会には甘くなりやすい。あるいはそういうワナにハマり
やすい。ある中学校の教師は、部活の試合で自分の生徒が負けたりすると、冬でもその生
徒を、プールの中に放り投げていた。

その教師はその教師の信念をもってそうしていたのだろうが、では自分自身に対しては
どうなのか。自分に対しては、そこまできびしいのか。社会に対しては、そこまできびし
いのか。親だってそうだ。子どもに「勉強しろ」と言う親は多い。しかし自分で勉強して
いる親は、少ない。

●善悪のハバから生まれる人間のドラマ

 話がそれたが、悪があることが悪いと言っているのではない。人間の世界が、ほかの動
物たちのように、特別によい人もいないが、特別に悪い人もいないというような世界にな
ってしまったら、何とつまらないことか。言いかえると、この善悪のハバこそが、人間の
世界を豊かでおもしろいものにしている。無数のドラマも、そこから生まれる。旧約聖書
についても、こんな説話が残っている。

 ノアが、「どうして人間のような(不完全な)生き物をつくったのか。(洪水で滅ぼすく
らいなら、最初から、完全な生き物にすればよかったはずだ)」と、神に聞いたときのこと。
神はこう答えている。「希望を与えるため」と。

もし人間がすべて天使のようになってしまったら、人間はよりよい人間になるという希
望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこともするが、努力によってよい人間にもなれる。
神のような人間になることもできる。旧約聖書の中の神は、「それが希望だ」と。

●子どもの世界だけの問題ではない

 子どもの世界に何か問題を見つけたら、それは子どもの世界だけの問題ではない。それ
がわかるかわからないかは、その人の問題意識の深さにもよるが、少なくとも子どもの世
界だけをどうこうしようとしても意味がない。

たとえば少し前、援助交際が話題になったが、それが問題ではない。問題は、そういう
環境を見て見ぬふりをしているあなた自身にある。そうでないというのなら、あなたの
仲間や、近隣の人が、そういうところで遊んでいることについて、あなたはどれほどそ
れと闘っているだろうか。

私の知人の中には五〇歳にもなるというのに、テレクラ通いをしている男がいる。高校
生の娘もいる。そこで私はある日、その男にこう聞いた。「君の娘が中年の男と援助交際を
していたら、君は許せるか」と。するとその男は笑いながら、こう言った。

「うちの娘は、そういうことはしないよ。うちの娘はまともだからね」と。私は「相手
の男を許せるか」という意味で聞いたのに、その知人は、「援助交際をする女性が悪い」と。
こういうおめでたさが積もり積もって、社会をゆがめる。子どもの世界をゆがめる。それ
が問題なのだ。

●悪と戦って、はじめて善人

 よいことをするから善人になるのではない。悪いことをしないから、善人というわけで
もない。悪と戦ってはじめて、人は善人になる。そういう視点をもったとき、あなたの社
会を見る目は、大きく変わる。子どもの世界も変わる。(中日新聞投稿済み)

++++++++++++++++++++++

 このエッセーの中で、私は「善悪論」について考えた。その中に、「希望論」を織りまぜ
た。それはともかくも、旧約聖書の中の神は、「もし人間がすべて天使のようになってしま
ったら、人間はよりよい人間になるという希望をなくしてしまう。つまり人間は悪いこと
もするが、努力によってよい人間にもなれる。神のような人間になることもできる。それ
が希望だ」と教えている。

 となると、絶望とは、その反対の状態ということになる。キリスト教では、「堕落(だら
く)」という言葉を使って、それを説明する。もちろんこれはキリスト教の立場にそった、
希望論であり、絶望論ということになる。だからほかの世界では、また違った考え方をす
る。

冒頭に書いた、アリストテレスにせよ、魯迅にせよ、彼らは彼らの立場で、希望論や絶
望論を説いた。が、私は今のところ、どういうわけか、このキリスト教で教える説話にひ
かれる。「人間は、努力によって、神のような人間にもなれる。それが希望だ」と。

 もちろん私は神を知らないし、神のような人間も知らない。だからいきなり、「そういう
人間になるのが希望だ」と言われても困る。しかし何となく、この説話は正しいような気
がする。言いかえると、キリスト教でいう希望論や絶望論に立つと、ちまたの世界の希望
論や絶望論は、たしかに「虚妄」に思えてくる。つい先日も、私は生徒たち(小四)にこ
う言った。授業の前に、遊戯王のカードについて、ワイワイと騒いでいた。

 「(遊戯王の)カードなど、何枚集めても、意味ないよ。強いカードをもっていると、心
はハッピーになるかもしれないけど、それは幻想だよ。幻想にだまされてはいけないよ。
ゲームはゲームだから、それを楽しむのは悪いことではないけど、どこかでしっかりと線
を引かないと、時間をムダにすることになるよ。カードなんかより、自分の時間のほうが、
はるかに大切ものだよ。それだけは、忘れてはいけないよ」と。

 まあ、言うだけのことは言ってみた。しかしだからといって、子どもたちの趣味まで否
定するのは、正しくない。もちろん私たちおとなにしても、一方でムダなことをしながら、
心を休めたり、癒(いや)したりする。が、それはあくまでも「趣味」。決して希望ではな
い。またそれがかなわないからといって、絶望する必要もない。大切なことは、どこかで
一線を引くこと。でないと、自分を見失うことになる。時間をムダにすることになる。

●絶望と希望

 人は希望を感じたとき、前に進み、絶望したとき、そこで立ち止まる。そしてそれぞれ
のとき、人には、まったくちがう、二つの力が作用する。

 希望を感じて前に進むときは、自己を外に向って伸ばす力が働き、絶望を感じて立ち止
まるときは、自己を内に向って掘りさげる力が働く。一見、正反対の力だが、この二つが あっ
て、人は、外にも、そして内にも、ハバのある人間になることができる。

 冒頭にあげた、「子どもの受験で失敗して、落ちこんでしまった母親」について言うなら、
そういう経験をとおして、母親は、自分を掘りさげることができる。私はその母親を慰め
ながらも、別の心で、「こうして人は、無数の落胆を乗り越えながら、ハバの広い人間にな
るのだ」と思った。

 そしていつか、人は、「死」という究極の絶望を味わうときが、やってくる。必ずやって
くる。そのとき、人は、その死をどう迎えるか。つまりその迎え方は、その人がいかに多
くの落胆を経験してきたかによっても、ちがう。

 『落胆は、絶望の母』と言った、キーツの言葉の意味は、そこにある。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●孤独

 孤独は、人の心を狂わす。そういう意味では、嫉妬、性欲と並んで、人間が原罪としてもつ、
三罪と考える。これら三罪は、扱い方をまちがえると、人の心を狂わす。

 この「三悪」という概念は、私が考えた。悪というよりは、「罪」。正確には、三罪ということにな
る。ほかによい言葉が、思いつかない。

孤独という罪
嫉妬という罪
性欲という罪

 嫉妬や性欲については、何度も書いてきた。ここでは孤独について考えてみたい。

 その孤独。肉体的な孤独と、精神的な孤独がある。

 肉体的な孤独には、精神的な苦痛がともなわない。当然である。

 私も学生時代、よくヒッチハイクをしながら、旅をした。お金がなかったこともある。そういう旅
には、孤独といえば孤独だったが、さみしさは、まったくなかった。見知らぬところで、見知らぬ
人のトラックに乗せてもらい、夜は、駅の構内で寝る。そして朝とともに、パンをかじりながら、
何キロも何キロも歩く。

 私はむしろ言いようのない解放感を味わった。それが楽しかった。

 一方、都会の雑踏の中を歩いていると、人間だらけなのに、おかしな孤独感を味わうことが
ある。そう、それをはっきりと意識したのは、アメリカのリトルロック(アーカンソー州の州都)と
いう町の中を歩いていたときのことだ。

 あのあたりまで行くと、ほとんどの人は、日本がどこにあるかさえ知らない。英語といっても、
南部なまりのベラメー・イングリッシュである。あのジョン・ウェイン(映画俳優)の英語を思い浮
かべればよい。

 私はふと、こう考えた。

 「こんなところで生きていくためには、私は何をすればよいのか」「何が、できるのか」と。

 肉体労働といっても、私の体は小さい。力もない。年齢も、年齢だ。アメリカで通用する資格
など、何もない。頼れる会社も組織もない。もちろん私は、アメリカ人ではない。市民権をとると
いっても、もう、不可能。

 通りで新聞を買った。私はその中のコラムをいくつか読みながら、「こういう新聞に自分のコ
ラムを載せてもらうだけでも、20年はかかるだろうな」と思った。20年でも、短いほうかもしれ
ない。

 そう思ったとき、足元をすくわれるような孤独感を覚えた。体中が、スカスカするような孤独感
である。「この国では、私はまったく必要とされていない」と感じたとき、さらにその孤独感は大
きくなった。

 ついでだが、そのとき、私は、日本という「国」のもつありがたさが、しみじみとわかった。で、
それはそれとして、孤独は、恐怖ですらある。

 いつになったら、人は、孤独という無間地獄から解放されるのか。あるいは永遠にされない
のか。あのゲオルギウもこう書いている。

 『孤独は、この世でもっとも恐ろしい苦しみである。どんなにはげしい恐怖でも、みながいっし
ょなら耐えられるが、孤独は、死にも等しい』と。

 ゲオルギウというのは、『どんなときでも、人がなさねばならないことは、世界が明日、終焉(し
ゅうえん)するとわかっていても、今日、リンゴの木を植えることだ』(二十五時)という名言を残
している作家である。ルーマニアの作家、1910年生まれ。

+++++++++++++++++++++

●私に夢、希望、目的

 そこで最後に、では、私の夢、希望、目的は何かと改めて考えてみる。

 毎日、こうして生きていることに、夢や希望、それに目的は、あるのだろうか、と。

 私が今、一番、楽しいと思うのは、パソコンショップをのぞいては、新製品に触れること。今は
(2・18)は、HPに音やビデオを入れることに夢中になっている。(いまだに方法は、よくわから
ないが、このわからないときが、楽しい。)

 希望は、いろいろあるが、目的は、今、発行している電子マガジンを、1000号までつづける
こと。とにかく、今は、それに向って、まっすぐに進んでいる。1001号以後のことは、考えてい
ない。

 毎号、原稿を書くたびに、何か、新しい発見をする。その発見も、楽しい。「こんなこともある
のか!」と。

 しかし自分でも、それがよくわかるが、脳ミソというのは、使わないでいると、すぐ腐る。体力
と同じで、毎日鍛えていないと、すぐ、使いものにならなくなる。こうしてモノを毎日、書いている
と、それがよくわかる。

 数日も、モノを書かないでいると、とたんに、ヒラメキやサエが消える。頭の中がボンヤリとし
てくる。

 ただ脳ミソの衰えは、体力とちがって、外からはわかりにくい。そのため、みな、油断してしま
うのではないか。それに脳ミソのばあいは、ほかに客観的な基準がないから、腐っても、自分
ではそれがわからない。

 「私は正常だ」「ふつうだ」と思っている間に、どんどんと腐っていく。それがこわい。

 だからあえて希望をいえば、脳ミソよ、いつまでも若くいてくれ、ということになる。
(050218)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(538)

●依存性の強い子ども

 ある母親(京都府・S市のEAさん)から、相談があった。「何かにつけて、リズムが、ワンテン
ポ遅く、心配である」と。転載の許可がもらえたので、そのまま紹介する。

 子どもは男児、小学1年生。家族は、母親のEAさんのほか、4歳と1歳の妹。祖父(相談者
の父)、祖母(相談者の母)、祖祖母(祖母の母)の7人。

+++++++++++++++++++++++

学校では、4時間目が算数の場合、みんなが時間中にできた問題を 給食の時間までしてい
る。他の子とくらべて、問題を解くのが遅いわけではない。(1)今 急がなければならないという
ことがわからない。(2)今、まわりは何をしているか読めない。(3)人より遅くても、気にしな
い。(4)いつもマイペース 

といった具合。

また、2時間続きの図工で 工作をする。先生が 提出するように言うが、2時間 隣のことおし
ゃべりばかりで、全く出できていない。隣の子は、おしゃべりしながら、作品は完成していた。と
いった具合です。 

私は、この子に何を どのように教えたらいいでしょうか? 

++++++++++++++++++++++++ 

 この相談の子どもに、依存性があるかどうかということは、わからない。しかし祖父母との同
居などが理由で、自立的な行動が苦手な子どものように感ずる。そこでまず依存性について考
えてみる。

 (繰りかえすが、だからといって、この子どもに、依存性があると言うのではない。念のた
め。)

 一度、子どもに依存性が身につくと、それをなおすのは、容易ではない。まず、ほとんどのば
あい、親自身が、それに気がついていない。依存性というものが、どういうものであるかさえ、
わかっていない。反対に、親にベタベタ甘える子どもイコール、いい子としてしまう。だから「あ
なたの子どもは、依存性が強い」と告げても、意味がない。

 そういう生活(=家庭環境)が、日常化してしているからである。

 たとえば、子どもが朝、起きる。そのとき母親は、その日に、子どもが着る服を、用意する。
洗濯したものの中から、いくつかを選び、子どもの前に置く。子どものパジャマを脱がせ、服を
着せる。

 子どもは、眠そうな目をこすりながら、母親の指示に従う。手をのばしたり、足をさしだしたり
する。

 そこで、子どもは、こう言う。「このズボンは、いやだ。ぼくは、青いズボンがいい」と。

 すると、母親は、タンスから今度は、青いズボンを取り出して、子どもにはかせようとする。子
どもは、ややその気になって、足を前に出す……。

 この時点で、子どものために、服を用意し、服を着せるのは、親の役目と、親も、子どもも、
考える。それがまちがっているというのではない。しかし同時に、親も子どもも、無意識のうち
に、それが(あるべき親子関係)と、錯覚する。

 衣服だけではない。こうして生活のあらゆる場面で、子どもに依存性が生まれる。

 が、ここで一つ、大きな問題にぶつかる。一般論としては、子どもの依存性に甘い親というの
は、その親自身も、依存性の強い人とみてよい。自分に依存性があるから、子どもの依存性
にも、甘くなる。

 はっきり言えば、子どもに依存しようとする。「あなたは、ママの子よ。だからママがおばあち
ゃんになったら、ママのめんどうをみてね」と。

 さらに親のその依存性は、そのまた親、子どもから見れば、祖父母の代から、連鎖してい
る。つまり代々と、親から子へ、子から孫へと、伝えられている。総じて見れば、日本の子育て
は、この(依存関係)の上に、成りたっている。社会のしくみも、そうなっている。(……いた。)

 たとえば少し前まで、「老いては子に従え」と、老人は、家族に依存しなければ、最期を迎える
ことすら、できなかった。(最近は、介護制度が整備されてきて、事情は、かなり変わってきた
が……。)

 子育ての目標をどこに置くかによっても、子育てのし方も変わってくるが、こと子どもの自立と
いうことになれば、こうした依存性は、子どもの自立にとっては、害になることはあっても、益に
なることはない。

 そこで親は、まず、子どもの依存性に、気がつかねばならない。しかし実のところ、これもむ
ずかしい。子どもの世話をすることを生きがいにしている親も、少なくない。

 さらに、一度、依存関係(反対の立場の人から見れば、保護関係)ができてしまうと、その関
係が、定着してしまうからである。

 (世話をされる人)と(世話をする人)の関係が、できてしまう。親子だけにかぎらない。兄弟、
夫婦、友人、社会など。(世話をされる人)は、いつしか、世話をされるのが当然と考えるように
なる。世話をする人は、世話をするのが当然と考えるようになる。そしてたがいがが、その前提
で、動くようになる。

 印象に残っている子どもに、S君(年中児)という子どもがいた。その子どもについて書いた原
稿を紹介する(中日新聞掲載済み)。

++++++++++++++++

●「どうして泣かすのですか!」 

 年中児でも、あと片づけのできない子どもは、一〇人のうち、二、三人はいる。皆が道具をバ
ッグの中にしまうときでも、ただ立っているだけ。あるいはプリントでも力まかせに、バッグの中
に押し込むだけ。しかも恐ろしく時間がかかる。「しまう」という言葉の意味すら理解できない。
そういうとき私がすべきことはただ一つ。片づけが終わるまで、ただひたすら、じっと待つ。

S君もそうだった。私が身振り手振りでそれを促していると、そのうちメソメソと泣き出してしまっ
た。こういうとき、子どもの涙にだまされてはいけない。このタイプの子どもは泣くことによって、
その場から逃げようとする。誰かに助けてもらおうとする。

しかしその日は運の悪いことに、たまたまS君の母親が教室の外で待っていた。母親は泣き声
を聞きつけると部屋の中へ飛び込んできて、こう言った。「どうしてうちの子を泣かすのです
か!」と。ていねいな言い方だったが、すご味のある声だった。

●親が先生に指導のポイント

 原因は手のかけすぎ。S君のケースでは、祖父母と、それに母親の三人が、S君の世話をし
ていた。裕福な家庭で、しかも一人っ子。ミルクをこぼしても、誰かが横からサッとふいてくれる
ような環境だった。しかしこのタイプの母親に、手のかけすぎを指摘しても、意味がない。

第一に、その意識がない。「私は子どもにとって、必要なことをしているだけ」と考えている。あ
るいは子どもに楽をさせるのが、親の愛だと誤解している。手をかけることが、親の生きがい
になっているケースもある。中には子どもが小学校に入学したとき、先生に「指導のポイント」を
書いて渡した母親すらいた。(親が先生に、だ!)「うちの子は、こうこうこういう子ですから、こ
ういうときには、こう指導してください」と。

●泣き明かした母親

 あるいは息子(小六)が修学旅行に行った夜、泣き明かした母親もいた。私が「どうしてです
か」と聞くと、「うちの子はああいう子どもだから、皆にいじめられているのではないかと、心配
で心配で……」と。それだけではない。私のような指導をする教師を、「乱暴だ」「不親切だ」と、
反対に遠ざけてしまう。

S君のケースでは、片づけを手伝ってやらなかった私に、かえって不満をもったらしい。そのあ
と母親は私には目もくれず、子どもの手を引いて教室から出ていってしまった。こういうケース
は今、本当に多い。そうそう先日も埼玉県のある私立幼稚園で講演をしたときのこと。そこの
園長が、こんなことを話してくれた。「今では、給食もレストラン感覚で用意してあげないと、親
は満足しないのですよ」と。こんなこともあった。

●「先生、こわい!」

 中学生たちをキャンプに連れていったときのこと。たき火の火が大きくなったとき、あわてて
逃げてきた男子中学生がいた。「先生、こわい!」と。私は子どものときから、ワンパク少年だ
った。喧嘩をしても負けたことがない。他人に手伝ってもらうのが、何よりもいやだった。今で
も、そうだ。

そういう私にとっては、このタイプの子どもは、どうにもこうにも私のリズムに合わない。このタイ
プの子どもに接すると、「どう指導するか」ということよりも、「何も指導しないほうが、かえってこ
の子どものためにはいいのではないか」と、そんなことまで考えてしまう。

●自分勝手でわがまま

 手をかけすぎると、自分勝手でわがままな子どもになる。幼児性が持続し、人格の「核」形成
そのものが遅れる。子どもはその年齢になると、その年齢にふさわしい「核」ができる。教える
側から見ると、「この子はこういう子だという、つかみどころ」ができる。が、その「核」の形成が
遅れる。

 子育ての第一目標は、子どもをたくましく自立させること。この一語に尽きる。しかしこのタイ
プの子どもは、(親が手をかける)→(ひ弱になる)→(ますます手をかける)の悪循環の中で、
ますますひ弱になっていく。昔から過保護児のことを「温室育ち」というが、まさに温室の中だけ
で育ったような感じになる。

人間が本来もっているはずの野性臭そのものがない。そのため温室の外へ出ると、「すぐ風邪
をひく」。キズつきやすく、くじけやすい。ほかに依存性が強い(自立した行動ができない。ひとり
では何もできない)、金銭感覚にうとい(損得の判断ができない。高価なものでも、平気で友だ
ちにあげてしまう)、善悪の判断が鈍い(悪に対する抵抗力が弱く、誘惑に弱い)、自制心に欠
ける(好きな食べ物を際限なく食べる。薬のトローチを食べてしまう)、目標やルールが守れな
いなど、溺愛児に似た特徴もある。

●「心配」が過保護の原因

 親が子どもを過保護にする背景には、何らかの「心配」が原因になっていることが多い。そし
てその心配の内容に応じて、過保護の形も変わってくる。食事面で過保護にするケース、運動
面で過保護にするケースなどがある。

 しかし何といっても、子どもに悪い影響を与えるのは、精神面での過保護である。「近所のA
君は悪い子だから、一緒に遊んではダメ」「公園の砂場には、いじめっ子がいるから、公園へ
行ってはダメ」などと、子どもの世界を、外の世界から隔離してしまう。そしておとなの世界だけ
で、子育てをしてしまう。本来子どもというのは、外の世界でもまれながら、成長し、たくましくな
る。が、精神面で過保護にすると、その成長そのものが、阻害される。

 そんなわけで子どもへの過保護を感じたら、まずその原因、つまり何が心配で過保護にして
いるかをさぐる。それをしないと、結局はいつまでたっても、その「心配の種」に振り回されるこ
とになる。

●じょうずに手を抜く

 要するに子育てで手を抜くことを恐れてはいけない。手を抜けば抜くほど、もちろんじょうずに
だが、子どもに自立心が育つ。私が作った格言だが、こんなのがある。

『何でも半分』……これは子どもにしてあげることは、何でも半分でやめ、残りの半分は自分で
させるという意味。靴下でも片方だけをはかせて、もう片方は自分ではかせるなど。

『あと一歩、その手前でやめる』……これも同じような意味だが、子どもに何かをしてあげるに
しても、やりすぎてはいけないという意味。「あと少し」というところでやめる。同じく靴下でたとえ
て言うなら、とちゅうまではかせて、あとは自分ではかせるなど。

●子どもはカラを脱ぎながら成長する

 子どもというのは、成長の段階で、そのつどカラを脱ぐようにして大きくなる。とくに満四・五歳
から五・五歳にかけての時期は、幼児期から少年少女期への移行期にあたる。この時期、子
どもは何かにつけて生意気になり、言葉も乱暴になる。友だちとの交際範囲も急速に広がり、
社会性も身につく。またそれが子どものあるべき姿ということになる。

が、その時期に溺愛と過保護が続くと、子どもはそのカラを脱げないまま、体だけが大きくな
る。たいていは、ものわかりのよい「いい子」のまま通り過ぎてしまう。これがいけない。それは
ちょうど借金のようなもので、あとになればなるほど利息がふくらみ、返済がたいへんになる。
同じようにカラを脱ぐべきときに脱がなかった子どもほど、何かにつけ、あとあと育てるのがた
いへんになる。

 いろいろまとまりのない話になってしまったが、手のかけすぎは、かえって子どものためにな
らない。これは子どもを育てるときの常識である。

++++++++++++++++

 話は少しそれるが、こうした依存性は、地域社会、さらに組織の中でも、生まれることがあ
る。つまりは、人間関係があるところなら、どこでも、ありえるということになる。

 しかもその関係は、複雑に入り組む。たとえばふだんは、自立心の強い人でも、ある特定の
人には、依存するなど。依存性があるからといって、どの人にも依存性があるということではな
い。

 子どももそうで、親に対して依存性が強くても、友だちの間では、親分のように振る舞う子ども
もいる。決して一面だけを見て、それがすべてと思ってはいけない。

 そこで重要なことは、依存性を、安易に、子どもにつけさせないようにすること。あるいは年齢
とともに、親のほうが、子育てから手を抜くこと。親の恩を押しつけたり、親のありがたみを、こ
とさら子どもに見せつけたりしてはいけない。

 子どもの親離れを、うまく誘導する。指導する。手助けする。それも親の役目と考えてよい。

 で、相談の件だが、この子どものばあい、大家族の中で、みなの手厚い保護、世話を受けて
育てられたことが、推定される。基本的には、過保護児に順じて、考えるのがよい。しかしこれ
は子どもの問題というよりは、家族の問題。もっと言えば、家族形態の問題。それだけに、扱
い方をまちがえると、家庭内での騒動の原因となりやすい。

 親も、こと、子どものことになると、妥協しない。最終的には、離婚か、さもなくば、別居という
ところまで、話が進んでしまう。

 そこで親は、こういうケースでは、つぎのように考える。(1)子どもに問題が起きるとしても、マ
イナーな問題として、あきらめる。(2)任すところは、祖父母などに任せて、親は親として、好き
勝手なことをする。そのメリットを生かすということ。

 で、依存性について、(この相談の子どもに、それがあるということではないが)、その内容
は、つぎのように分けて考える。

(1)問題逃避(いやなことがあると、逃げてしまう。)
(2)依頼心(問題が起きると、だれかに頼むことをまず考える。)
(3)責任回避(失敗しても、他人のせいにする。)
(4)無責任(責任ある行動ができない。)
(5)忍耐力の欠落(最後まで、やりぬく力に乏しい。)
(6)野性味の喪失(野性的なたくましさが消える。)
(7)服従性と隷属性(だれかれとなく、服従しやすくなる。)
(8)現実検証能力の不足(自分の姿を客観的に見ることができない。)
(9)未来への甘い展望性(何とかなるさ式のものの考え方をしやすくなる。)
(10)社会的抵抗力の不足(善悪の判断に乏しくなり、悪の誘惑に弱くなる。)

 などがある。当然、人格の「核」形成が遅れ、完成度も低くなる。他人への共鳴性、自己管理
能力、良好な人間関係などの面において、問題が起こりやすくなる。

 ただ誤解してはいけないのは、相互に依存関係のあるときは、それなりに人間関係も、スム
ーズに流れ、当人たちにとっては、居心地のよい世界であるということ。日本型の、「ムラ(邑)」
社会は、そうした濃密な相互依存性で成りたっていると考えてよい。

 白黒をはっきりさせないで、ナーナーで、丸く収めるという、実に日本的な問題解決の技法
も、そういうところから生まれた。

 で、この問題をつきつめていくと、それでもよいのか、という問題になってくる。「それでもい
い」と言う人に対しては、私としては、もう何も言うことはない。ここにも書いたように、相互に依
存しあう、相互依存型社会というのは、それなりに温もりがあり、居心地のよい世界である。今
でも、地方の農村社会へいくと、そういう依存関係を見ることがある。「これこそ、まさに日本人
が守るべき、日本の文化だ」と主張する人も、少なくない。

 たがいに監視しあい、(監視しあうのが、悪いというのではない)、干渉しあい、(干渉しあうと
いうのが、悪いということもでもない)、たがいに助けあう。都会では想像できないほど、濃密な
人間関係で、成りたっている。

 (反対に、都会地域では、人間関係が、あまりにも稀薄になりすぎるというきらいもないわけ
ではない。私などは、心の半分は、昔風、残りの半分は、現代風で、どうもすっきりしない。日
本的なドロドロとした人間関係にも、ついていけない。しかしアメリカ的な合理主義にも、抵抗を
感ずる。)

 つまりこの相談者がかかえる問題は、相談者の問題というよりは、日本の社会全体がかか
える、もっと根の深い問題ということになる。

 孫の世話をする祖父母にしても、孫の世話について、「祖父母のすべき最後の仕事」あるい
は、「生きがい」としているかもしれない。「理想の老後」と考えている可能性もある。

 そういう祖父母に向かって、子どもの自立を問題にするということは、祖父母の人生観を根
底から、ひっくりかえすことにもなりかねない。しかしそれをするのは、相談者のような若い女性
には、少し、荷が重過ぎるのでは?

 私はやはり、ここはあきらめて、祖父母に対して、よい嫁であることに心がけたほうが、よい
のではないかと思う。「おじいちゃん、おばあちゃんのおかげで、息子もいい子どもになってい
ます」と。

 問題がないわけではないが、この問題は、いつか子ども自身が自らの自己意識の中で、解
決できないわけではない。学校に入り、社会生活をつづけるうちに、徐々に修正されていく。そ
ういう子ども自身の力を信ずる。あるいはその手助けをする。

 そしてこうした家庭環境のもつ、メリットを生かしながら、親は親で、親自身の自立を考えてい
く。その結果として、子どもの自立をうなががす。離婚や別居を考えるのは、そのあとということ
になる。

 最後に、子どもというのは、一面だけを見て、判断してはいけない。学校での様子や、子ども
どうしの中での様子を見て、判断する。一度、学校の先生に、子どもの様子を聞いてみるの
も、大切なことではないだろうか。意外と、親の知らない世界では、まったく別の子どもであるこ
とが多い。

【京都府のEAさんへ】

 EAさんのお子さんとは、直接、関係のない(子どもの依存性)について、書いてしまいました。
あくまでも、そういう面も考えられるという前提で、お読みいただければ、うれしいです。(あるい
は、そうなってはいけないというふうに、考えてくださっても結構です。)

 お子さんを直接、見ていないので、何とも言えませんが、メールを読んだ印象としては、(満腹
症状)ではないかと思います。おいしい料理を、おなかいっぱい食べたような感じの子どもをい
います。

 ですから、空腹感、つまりガツガツした緊張感がないのでは、と。印象としては、乳幼児期か
ら、ていねいに、かつ手をかけて育てられた子どもといった、感じがしないでもありません。ひょ
っとしたら、ここに書いた、依存性もほかの子どもよりは、強いのかもしれません。

 つぎのような症状が見られたら、子育てから、少しずつ、手を抜いてみることを考えてみられ
ては、いかがでしょうか。

(1)いつも満足げで、おっとりとしている。
(2)競争心がなく、友だちに負けても平気。
(3)自分のもっているものを、平気で人にあげてしまう。
(4)ほかの子どもに、追従的。
(5)享楽的(その場だけの楽しみに没頭する)で、あきっぽいところがある。いやなことはしな
い。

 こういうケースでも、「なおそう」とか、「何とかしよう」とかは、あまり考えないほうがよいかもし
れません。小学1年生というと、すでに、方向性というか、「核」が、かなりできあがってしまって
いると考えます。

 「あなたはダメな子」式の指導をすると、かえって、症状がこじれたり、何かと弊害が出てくる
ことが多いです。たとえば自信をなくしたり、自我が軟弱になったりするなど。柔和だが、ハキ
がない子どもになることもあります。

 何か、得意分野、たとえばスポーツなどで、積極性を養うとよいかもしれません。この時期の
鉄則は、「不得意分野には、目をつぶり、得意分野をより伸ばせ」です。

 小学3、4年生ごろになってきますと、自我がはっきりしてきます。自己意識も育ってきます。
そういう子ども自身が、本来的にもつ「力」を信じて、そのころを目標に、今の状態を維持しな
がら、進みます。

 あせったところで、すぐに、どうこうなる問題ではありません。

 で、もし、祖父母の手のかけすぎなどが原因であったとしても、(つまりこの年代の祖父母は、
旧来型の子ども観をもっていますので)、今さら、もとにもどるわけではありません。「うちの子
は、こういう子」と割り切って、そこからスタートします。

 先にも書きましたように、祖父母との同居には、デメリットもあったかもしれませんが、しかし
メリットもたくさんあったはずです。

 で、ここが重要ですが、EAさんが心に描いている、理想の子ども像を、子どもに押しつけない
ことです。いろいろ不満もあり、同時に何かと心配な点があるかもしれませんが、何かと思うよ
うにならないのが、子育て、です。(みんな、そうですよ。子どもは親の夢や期待を一枚ずつ、
はぎとりながら、おとなになっていくものです。)

 やがて、もう2、3年もすると、お子さんは、親離れをし始めます。今、ここであれこれしようと
考えると、今度は、あなたとお子さんの、親子関係を、破壊することにもなりかねません。

 今は、何かと問題があるように見えるかもしれませんが、こうした問題には、二番底、三番底
があるということです。どうか、ご注意ください。

 で、お子さんには、「どうして早くできないの!」ではなく、「この前より、早くできるようになった
わね」という言い方をします。あなたの心の奥底に、お子さんに対するわだかまりや、不信感が
あれば、まずそれに気がつくことです。

 それがあると、いつまでたっても、「もっと……」「もっと……」と考えるようになり、いつまでた
っても、あなたに安穏たる日はやってこないと思います。

 マイペースな子どもは、少なくありません。しかしそれは同時に、子ども自身が、防衛的に、
自分を守ろうとしているためと考えます。ひょっととしたら、気うつ症的な部分があるのかもしれ
ません。動作、言動に、緩慢さ(ノロノロとし、とっさの行動ができない)というようであれば、この
気うつ症(心身症)を疑ってみます。

 強圧的な過干渉、威圧など。ガミガミ、こまごまと、もしあなたが子どもに接しているようであ
れば、注意してください。

 最後になりますが、依存性の問題にも気をつけてください。旧来型の子育て観をもっている
人は、親にベタベタ甘える子どもイコール、かわいい子イコール、いい子としがちです。

 子どもが親離れをしていくのを見るのは、親としては、さみしいものですが、そのさみしさに耐
えるのも、親の役目かもしれません。そのさみしさに負けてしまうと、子どもは、自立できない、
ひ弱な子どもになってしまいます。

 子育ての目標は、子どもをよき家庭人として自立させること。すべての目標をそこに置いて、
これからも子育てをしてみてください。

 メール、ありがとうございました。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●子どものウソ

【群馬県O市の、Hさんからの相談より】

+++++++++++++++++++++++

●子供の嘘とのつきあい方について、教えてください。

長女5才は、幼稚園での良いことは話しますが、自分のした悪いことはとくに話しません。です
から、長女の悪事(!?)については、友達の親御さんから聞くことが多いです。

たいがいは、お互い様のようですが、時々一方的に加害者の時があります。

(遊びの中でひとりの友達の背中をみんなではたいた、指図したのは長女……など)、相手の
あることなので親としては詳しく知りたく、話を聞こうとしますが、なかなか言いません。

 はじめは……何か幼稚園であったかな。
 次に……○○ちゃん(相手)と、どうかな。
 それでも言わないので、「○○ちゃんから、聴いたんだけど……」と。

 すると、少しずつ話し始めますが、全部言おうとしない。それでも問いつめると、今度は、△△
ちゃんがやれって言った。などと、人にかづける始末。さすがにこれは許せなくてここまでくる
と、強く叱ってしまいます。      

近所に住む祖母がそばにいると、長女が「何もやってない」と言っただけで、そうよね、と話は
そこで終わり。

長女が話さないのは、私たち親の受容が足りないからだと思いつつ、悪いことは隠せない、悪
いことは叱られて当然……と長女に分からせたくて、つい、つきつめて話そうとしてしまいます。

人のせいにするなんて、それがまかり通るなんて、ほっといたら良くないと思ってしまうのです。

今まで厳しく追及してきましたが、長女が口を割らないのは相変わらずです。(さすがに人のせ
いにすることはなくなりました。)私たちのやりかたは、逆効果? 祖母のように接するべき?

子供の言葉を信じること(受容)、でもさとすこと、なかなかうまくいきません。

幼児の自分を取り繕う嘘は、きびしく追求しないで聴いてあげるべきでしょうか。ケースバイケ
ースだとは思いますが、何か良いアドバイスがありましたらお願いします。

++++++++++++++++++++++

●子どもの世界

 子育てをしていると、つぎつぎと、問題が起きてくる。それは岸辺に打ち寄せる波のようでも
ある。小さな波がつづいたかと思うと、大きな波がやってくる。ときには、体をのみこむほど大き
な波がやってくることもある。

 で、そういうとき、つまり問題にぶつかるたびに、(当然のことだが)、親は、ときとして右往左
往し、混乱する。

 そこで重要なことは、そうした問題の一つ一つには、それなりに対処していかねばならない
が、もう少し大きな目で、問題解決のための思考プロセスを、頭の中に用意しておくということ
である。

 相談者の方は、子どものウソについて、悩んでいる。この時期、子どものウソは、珍しくない。
しかしこうした意図的なウソは、それほど大きな問題ではない。私たちおとなだって、日常的
に、ウソをついている。

 心配なウソとしては、妄想や、空想的虚言がある。それについては、すでに何度も書いてき
たので、それはそれとして、こうした問題は、つぎからつぎへとやってくる。私は、それを岸辺に
打ち寄せる波のようだという。

 そこで思考プロセスを、用意する。箇条書きにすると、こうなる。


●問題のない子育てはない

子育てをしていると、子育てや子どもにまつわる問題は、つぎからつぎへと、起きてくる。それ
は岸辺に打ち寄せる波のようなもの。問題のない子どもはいないし、したがって、問題のない
子育ては、ない。できのよい子ども(?)をもった親でも、その親なりに、いろいろな問題に、そ
のつど、直面する。できが悪ければ(?)、もっと直面する。子育てというのは、もともとそういう
ものであるという前提で、子育てを考える。


●解決プロセスを用意する

英文を読んでいて、意味のわからない単語にぶつかったら、辞書をひく。同じように、子育てで
何かの問題にぶつかったら、どのように解決するか、そのプロセスを、まず、つくっておく。兄弟
や親類に相談するのもよい。親に相談するのも、よい。何かのサークルに属するのもよい。自
分の身にまわりに、そういう相談相手を用意する。が、一番よいのは、自分の子どもより、2、
3歳年上の子どもをもつ、親と緊密になること。「うちもこうでしたよ」というアドバイスをもらっ
て、たいていの問題は、その場で解決する。


●動揺しない

株取引のガイドブックを読んでいたら、こんなことが書いてあった。「プロとアマのちがいは、プ
ロは、株価の上下に動揺しないが、アマは、動揺する。だからそのたびに、アマは、大損をす
る」と。子育ても、それに似ている。子育てで失敗しやすい親というのは、それだけ動揺しやす
い。子どもを、月単位、半年単位で見ることができない。そのつど、動揺し、あわてふためく。こ
の親の動揺が、子どもの問題を、こじらせる。


●自分なら……

賢い親は、いつも子育てをしながら、「自分ならどうか?」と、自問する。そうでない親は親意識
だけが強く、「〜〜あるべき」「〜〜であるべきでない」という視点で、子どもをみる。そして自分
の理想や価値観を、子どもに押しつけよとする。そこで子どもに何か問題が起きたら、「私なら
どうするか?」「私はどうだったか?」という視点で考える。たとえば子どもに向かって「ウソをつ
いてはダメ」と言ったら、「私ならどうか?」と。


●時間を置く

言葉というのは、耳に入ってから、脳に届くまで、かなりの時間がかかる。相手が子どもなら、
なおさらである。だから言うべきことは言いながらも、効果はすぐには、求めない。また言った
からといって、それですぐ、問題が解決するわけでもない。コツは、言うべきことは、淡々と言い
ながらも、あとは、時間を待つ。短気な親ほど、ガンガンと子どもを叱ったりするが、子どもはこ
わいから、おとなしくしているだけ。反省などしていない。


●叱られじょうずな子どもにしない

親や先生に叱られると、頭をうなだれて、いかにも叱られていますといった、様子を見せる子ど
もがいる。一見、すなおに反省しているかのように見えるが、反省などしていない。こわいから
そうしているだけ。もっと言えば、「嵐が通りすぎるのを待っているだけ」。中には、親に叱られ
ながら、心の中で歌を歌っていた子どももいた。だから同じ失敗をまた繰りかえす。


●叱っても、人権を踏みにじらない

先生に叱られたりすると、パッとその場で、土下座をしてみせる子どもがいる。いわゆる(叱ら
れじょうずな子ども)とみる。しかしだからといって、反省など、していない。そういう形で、自分
に降りかかってくる、火の粉を最小限にしようとする。子どもを叱ることもあるだろうが、しかし
どんなばあいも、最後のところでは、子どもの人権だけは守る。「あなたはダメな子」式の、人
格の「核」攻撃は、してはいけない。


●「核」攻撃は、禁物

子どもを叱っても、子どもの心の「核」にふれるようなことは、言ってはいけない。「やっぱり、あ
なたはダメな子ね」「あんたなんか、生まれてこなければよかったのよ」などというのが、それ。
叱るときは、行為のどこがどのように悪かったかだけを、言う。具体的に、こまかく言う。が、子
どもの人格にかかわるようなことは言わない。


●子どもは、親のマネをする

たいへん口がうまく、うそばかり言っている子どもがいた。しかしやがてその理由がわかった。
母親自身もそうだった。教師の世界には、「口のうまい親ほど、要注意」という、大鉄則があ
る。そういう親ほど、一度、敵(?)にまわると、今度は、その数百倍も、教師の悪口を言い出
す。子どもに誠実になってほしかったら、親自身が、誠実な様子を、日常生活の中で見せてお
く。


●一事が万事論

あなたは交通信号を、しっかりと守っているだろうか。もしそうなら、それでよし。しかし赤信号
でも、平気で、アクセルを踏むようなら、注意したほうがよい。あなたの子どもも、あなたに劣ら
ず、小ズルイ人間になるだけ。つまり親が、小ズルイことをしておきながら、子どもに向かって、
「約束を守りなさい」は、ない。ウソはつかない。約束は守る。ルールには従う。そういう親の姿
勢を見ながら、子どもは、(まじめさ)を身につける。


●代償的過保護に注意

「子どもはかわいい」「私は子どもを愛している」と、豪語する親ほど、本当のところ、愛が何で
あるか、わかっていない。子どもを愛するということは、それほどまでに、重く、深いもの。中に
は、子どもを自分の支配下において、自分の思いどおりにしたいと考えている親もいる。これを
代償的過保護という。一見、過保護に見えるが、その基盤に愛情がない。つまりは、愛もどき
の愛を、愛と錯覚しているだけ。


●子どもどうしのトラブルは、子どもに任す

子どもの世界で、子どもどうしのトラブルが起きたら、子どもに任す。親の介入は、最小限に。
そういうトラブルをとおして、子どもは、子どもなりの問題解決の技法を身につけていく。親とし
てはつらいところだが、1にがまん、2にがまん。親が口を出すのは、そのあとでよい。もちろん
子どものほうから、何かの助けを求めてきたら、そのときは、相談にのってやる。ほどよい親で
あることが、よい親の条件。


●許して忘れ、あとはあきらめる

子どもの問題は、許して、忘れる。そしてあとはあきらめる。「うちの子にかぎって……」「そんな
はずはない」「まだ何とかなる」と、親が考えている間は、親に安穏たる日々はやってこない。そ
こで「あきらめる」。あきらめると、その先にトンネルの出口を見ることができる。子どもの心に
も風が通るようになる。しかしヘタにがんばればがんばるほど、親は、袋小路に入る。子どもも
苦しむ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(539)

●3月

3月は、私たちにとっては、別れの月。多くの人が私から去っていき、そしてまた、新しい人が
やってくる。そんなわけで、昔は、「師走(しわす)」と言ったが、今は、ちがう。12月だから、忙
しいということは、とくにない。本当に忙しいのは、3月。

 その3月になると、無数の人が、頭の中に浮かんでは、消える。おとなも、子どもも……。

 不思議なことに、「そういう人たちはどうなったのか?」ということは、あまり考えない。私の記
憶にあるのは、当時のままの人たちであり、子どもたちである。毎年、同じことを繰りかえして
いると、同じ時代だけが繰りかえし、繰りかえし、やってくる。それをつづけていると、時の流れ
の中がわからなくなる。時の流れの中に、埋没してしまう。

 もちろん別れは、いつもさみしい。そこで私は、いつの間にか、新しい生徒を迎えると、去って
いった生徒のイメージをそのまま、その子どもに焼きつけるようにしている。名前や顔が似てい
るときは、さらにそうだ。

 そして「今」というそのときに、我を忘れる。没頭する。

 が、3月になると、ふと、「あの人は、どうなったのだろう」「あの子どもは、どうなったのだろう」
と考えることがある。今が、そのとき……?

 で、今、気がついたが、子どものことは、あまり考えない。頭に浮かんでくるのは、親たちのこ
とばかり。どうしてだろう。これも、幼児教育にかかわるものの、宿命のようなものかもしれな
い。子どもとの間には、人間関係は、生まれない。いくらがんばっても、相手は、幼児だ。だか
らどうしても、思い出は、希薄なまま。

 数年もすれば、私のことなど、すっかり忘れてしまう。たまに高校生くらいになって、たずねて
きてくれる子どもはいるには、いる。しかしこの30年間でも、そういう子どもは、数えるほどしか
いない。

 むしろ、親たちとのほうに、人間関係ができる。街で会っても、声をかけてくれる。そしておか
しなことだが、(そう思うのは、私だけだが……)、そういう人たちは、みな、どんどんと、勝手に
老けていく(失礼!)。

 30年もすると、当時、30歳だった若い母親も、60歳になる。それはわかっているが、そのと
きはじめて、(時の流れ)を、思い知らされる。そう言えば、「先生も、年をとりましたね」と言わ
れることが、このところ多くなった。ハハハ。

 そう言えば、私のことを、最近の子どもたちは、「おじいちゃん」とか、「ジジー」とか言う。少し
前までは、「おじさん」だったような気がするが……。

 もちろん印象に残っている人も多い。どういうわけか、その一方で、すっかり忘れてしまった
人も多い。突然、電話がかかってきたりして、「昔、お世話になりました……」と言われたりする
と、かえってとまどってしまう。

平凡は美徳であり、何ごともなく過ぎていくことはそれ自体、本当にありがたいこと。しかし「記
憶」ということになると、平凡な人生には、ほとんど何も残らない。

 しかしそれも私の人生、そのもの。まあ、今まで無事、こうして生きてこられたことに感謝しよ
う。これからのことはわからないが、今の状態が、できるだけ長くつづけばよいと願っている。

 さて、3月。ほんとうにあわただしい3月。ほっと息をつけるのは、4月の中旬になってから…
…。がんばります。みなさんも、どうか、がんばってください。これからもよろしくお願いします。

 来年度、新年中児になるみなさん、どうか、どうか、BWへおいでください。明るく、楽しく、伸
びやかな子どもにしますよ! 約束します!

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●笑えば、子どもは伸びる

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笑うことには、不思議な力がありますね。私は子どもを
教えるとき、「教えよう」「わからせよう」という気持ち
は最小限に。「楽しませよう」「楽しんでもらおう」とい
う気持ちを大切にしています。具体的には、ゲラゲラと
笑わせます。

その「笑い」について……・

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私は、幼児を教えるとき、何よりも、「笑い」を大切にしている。ときには、50分のレッスンの
間、ずっと笑いっぱなしにさせることもある。

 最近の研究では、「笑いは、心のジョギング」(小田晋、「イミダス」05年度版)とまで言われる
ようになった。

 「質問紙法で、ユーモアのセンスを評定すると、ユーモアの感覚があり、よく笑う人は、ストレ
ス状況下でも、抑うつ度の上昇と、免疫力の低下が抑制されることがわかっている。

 たとえば糖尿病患者や大学生に、退屈な講義を聞かせたあとには、血糖値は上昇するが、
3時間の漫才を聞かせたあとでは、とくに糖尿病患者では、血糖値の上昇を阻害することがわ
かってきた」(国際科学研究財団・村上・筑波大学名誉教授)という。

 がん患者についても、笑いのシャワーをあびせると、血液中の免疫機能をつかさどる、NK細
胞が、活性化することもわかっている(同)。

 子どももそうで、笑えば、子どもは、伸びる。前向きな学習態度も、そこから生まれる。「なお
す」という言葉は、安易には使えないが、軽い情緒障害や精神障害なら、そのままなおってしま
う。

 私は、そういう経験を、何度もしている。

 大声で、ゲラゲラ笑う。ただそれだけのことだが、子どもの心は、まっすぐに伸びていくという
こと。
(はやし浩司 笑い 笑えば伸びる 心のジョギング NK細胞 免疫機能 笑いの効能)

(補足)

 子どもたちは、私がヘマをしてみせると、よく笑う。たとえば粘土と棒で、三角や四角を作って
みせる。そのとき、粘土がゆるんでいて、ポロリと粘土の玉が落ちたりすると、腹をかかえて笑
う。

 こうしたレッスンで重要なことは、決して、おとなの優位性を子どもに見せつけてはいけないと
いうこと。優位性を押しつれば押しつけるほど、子どもの自我の発達が、押しつぶされることに
なる。

 ときには、子どもの前で、バカなおとなのフリをしてみせる。つまりそうして、子どもの自立をう
ながす。「おとななんて、アテにならない」と子どもが思うようになれば、シメたもの。そういうおお
らかさが、子どもを伸ばす。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●悪性自己愛症候群

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自己愛の三大特徴は、(1)極端な自己中心性、(2)
完ぺき主義、(3)他者の批判を許さない、ですね。

「自分は最高」と思う、その返す刀で、自分以外の
人の価値を認めません。歴代の独裁者たちに、その
例を見るまでもありません。

その自己愛が、さらに変質すると、ここでいう悪性
自己愛症候群と呼ばれる症状を見せるようになります。

こわいですよ〜、

++++++++++++++++++++++++

 小学生の少女を殺害するというような犯罪者に関して、「悪性自己愛症候群」という言葉が聞
かれる。

 自己愛者は、少なくない。一般論として、自己中心性が、極端なまでに肥大化し、「世界の中
心にいるのは私だけ」「私さえよければ、あとはかまわない」などと考えるようになるのを、自己
愛という。極端な完ぺき主義、他者の価値(人格)の否定なども、その中に含まれる。

 そうした自己愛が、さらに社会との隔絶などによって、独特の世界をつくることがある。多く
は、引きこもり(withdrawal)や、退却(retreat)をともなうことが多い。他者と良好な人間関係を
結べないためである。

 こうした状況が長くつづくと、性嗜好性障害のほか、倒錯的趣味や妄想性、空想的虚言性な
どが加速される。他者への暴力的攻撃性が出てくることもある。そうした症状を、総称して、
「悪性自己愛症候群」という。

 こうした悪性自己愛を防ぐためには、どうするか。

 言うまでもなく、他者との共鳴性を、大切にする。(他人の立場になって、他人の苦しみや悲し
みを共有することを、「共鳴性」という。)

ここ10年ほど、学校教育の現場でも、ボランティア活動の利点が見なおされてきているが、そ
うした活動、つまり損得を考えない他者への犠牲的行為、貢献をとおして、子どもに利他の心
を学ばせる。

 自分勝手で、わがままであるなど、子どもに利己的な様子が見られたら、「それは悪いこと」
と、はっきりと、さとしていく。言うまでもなく、利己と利他は、相反する、相克(そうこく)関係にあ
る。利己を修正するためには、利他的行動を子どもに求めるのが、もっとも有効である。

 さらに言えば、こうした利他性は、子どものばあい、(使いこむ)ことによって養われる。「子ど
もは使えば使うほど、よい子」という格言は、こうした背景から生まれた。ただしその時期は、
満4・5歳まで。この時期をすぎると、子どもは、親の指示に従わなくなる。

 この時期の家庭教育が、きわめて重要であることは、言うまでもない。
(はやし浩司 自己愛 自己愛者 悪性自己愛症候群 利己 利他 共鳴性)

(付記)

 「子どもに楽をさせるのが、親の愛の証(あかし)」などと、もしあなたが考えているなら、それ
は、とんでもない誤解である。

 子どもは使う。家事でも、何でも、だ。「あなたがこれをしなければ、家族の皆が困るのだ」と
いう雰囲気を、家庭の中につくっていく。子どもを決して、王子様や王女様にしてはいけない。

 子どもをかわいがるということは、子どもに楽をさせることではない。子どもにいい思いをさせ
ることでもない。子どもに好き勝手なことをさせることでもない。

 子どもをかわいがるということは、子どもを、いつか、よき家庭人として、自立させることであ
る。そのために、親としてはつらいところだが、子どもは使って使って、使いまくる。そういう育
児姿勢の中から、子どもは社会性を身につけ、忍耐力を養う。そしてここでいう「利他の心」を
学ぶ。余計なことかもしれないが……。

【補記】

 人はその成長とともに、「愛」を自分に対するもの(=自己愛)から、他人への愛(=対象愛)
へと転換していく。

 しかし乳幼児期に何らかの原因(多くは、愛情飢餓、欲求不満など)によって、その転換が、
遅れることがある。あるいは、内にこもったまま、外部に発展できなくなってしまう。

 自己愛者は、(自己)をすべての中心におき、自分を絶対化する。そのため完ぺき主義にお
ちいりやすく、自分の失敗はもちろん、他人からの批判、批評を許さない。批評、批判されただ
けで、混乱状態になる。

 日常的な行動としては、猪突猛進型。人の意見を聞かない。わがままで、自分勝手。しかし
当の本人は、そうは思っていない。「私が正しい」「私の正しさがわからないのは、それだけ、世
間の人たちが、愚かだから」と。

 自己愛者は、それでいて、他人の目を気にする。愛他的自己愛という言葉もある。他人の目
を意識したとたん、自分をよい人間に見せようと、見せかけの愛情を、ふりまいたりする。

 自己愛の中心にあるのが、幼児期の自己中心性。そのためフロイトは、自己愛者は、「リピド
ーが、自我の範囲にとどまって、他人に届かない状態」と考えた。つまりは、精神の未発達な
状態である、と。(これに対する、異説、反論は多いが……。)

 自己愛のことを、「ナルシズム」ともいう。ギリシア神話に出てくる、ナルキッソスに由来する。
自分の顔の美しさに自己陶酔してしまった男の話である。

 ほかに、自分の経歴や過去、さらに家柄に固執し、「私は絶対だ」と思うのも、変形自己愛者
と考えてよいのでは……? 日本には、まだ、このタイプの人が多い。
(はやし浩司 自己愛 対象愛 ナルシズム 自己陶酔 ナルキッソス)

++++++++++++++++++++++

●自己愛について

自分を大切にすることを、「自己愛」と誤解している人がいる。

 しかし自分を大切にすることと、「自分だけが大切な人間だ」と思うことは、別。自己愛は、も
ともと極端な自己中心性が肥大化して、そうなる。

 たとえば私の兄は、頭が半分ボケている。痴呆症というより、人格そのものが、崩壊し始めて
いる。

 だから、こんな奇妙な現象が起きている。

 兄は、いつも時計ばかりを見ている。そして夕方、5時ごろになると、台所へやってきて、わざ
と時計をのぞきこむしぐさをしてみせる。

 もちろん、家事など、いっさい手伝わない。時計をのぞきこむしぐさを見せるのは、「夕食はま
だか?」「早くつくれ!」というサインである。

 そこであわてて、ワイフは兄のために夕食を用意する。私たちは、いつも7時ごろ、食べる。

 で、用意し終わって、「さあ、どうぞ」とワイフが声をかけると、兄は、こう言う。「ごくろうさん」
と。

 「ありがとう」ではなく、「ごくろうさん」である。

 つまり夕食を用意するのは、私たちの義務ということになっている。これが自己中心性であ
る。兄は、自分のことしか考えていない。

 兄のばあいは、極端なケースだが、こうした自己中心性は、いろいろな場面で経験する。程
度の差こそあれ、だれにでもある。しかしあのフロイトは、こうした自己中心性は、人格の未発
達によるものと、位置づけている。

 つまり自己中心的であればあるほど、その人の人格の完成度は、低いということになる。

 そこで最初の話にもどる。

 自分を大切にするといのは、高度な精神作用によるもの。自己の尊厳や自尊心をそれによ
って、守る。その人の自己中心性とは、まったく異質のものである。自分を大切にする人イコー
ル、自己愛者ということにはならない。

【付記】

 自己中心的な人が、自分の自己中心性に気づくことは、まず、ない。自己中心的であること
が、(ふつう)になっているからである。

 このタイプの人は、たとえば、いわゆる(ただ働き)をしない。利益につながらない労働は、損
と考える。たまに(ただ働き)をしてみせることはあるが、それは他人の目の中で、自己評価を
あげるためである。「こういう仕事をしてみせれば、みなは、私のことをすばらしい人間と思うだ
ろう」(愛他的自己愛、偽善)と。

 で、よく観察してみると、こうした自己中心性は、親から子へと、代々、連鎖しているのがわか
る。自己中心的な子どもがいたとする。そういうばあい、母親自身も、たいへん自己中心的で
ある。

 そんなわけで、子どもが自己中心的であっても、今度は、それに気づく母親は、まず、いな
い。母親自身が、子どもが(ただ働き)をしていたりすると、「そんなバカなことはやめなさい!」
とたしなめたりする。こんな例があった。

 ある高校生が、私にこう言った。「文化祭の実行委員をしているヤツらは、あほだ」と。理由を
聞くと、「そんなことをしていれば、受験勉強ができなくなる」と。そこで私が、「そんな話を聞い
たら、君のお母さんは、がっかりするだろうな」と言うと、「ママも、そう言っている」と。

 自己愛も、またしかり。

 そこで改めて、自己愛診断テスト。

【あなたは、自己愛者?】

(  )いつも自分が、(他人から見て)、いい人に思われていないと気がすまない。
(  )「ころんでも、ただでは起きない」が、一つの人生観になっている。
(  )完ぺき主義で、他人に重要な仕事を任すことができない。うるさ型。
(  )他人が自分より幸福だったり、裕福だったりすると、嫉妬しやすい。
(  )他人の悪口や、不幸な話、ゴシップ話を話したり、聞いたりするのが好き。
(  )他人に批評、批判されることを好まない。批判されると、激怒する。
(  )人の好き嫌いがはっきりしている。嫌いな人を、徹底的に排斥する。
(  )自分の利益につなげるため、その場だけをうまく、すりぬけることが多い。
(  )自分の思いどおりにならないと、気がすまない。自分勝手でわがまま。
(  )信じられるのは自分だけ。他人を信ずることができない。そのため孤独。

 10項目あげてみたが、半分以上あてはまれば、自己愛者の可能性が高い。言うまでもなく、
自己愛者は、自己を愛するのと引き換えに、かぎりない孤独の世界に身を置くことになる。

 「クリスマス・キャロル」の中に出てくる、スクルージーが、自己愛者の典型と考えてよい。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【老齢社会】(再)

●高齢者、2500万人時代!

 もうすぐ高齢者が、2500万人に達するという(厚生労働省04・09)。

 2500万人と言われても実感がないが、要するに、こころにもそこにも、私のような老人が、
ごろごろするようになるということ。

 で、その老人にもいろいろある。大きく分けて、利己型と利他型。

 利己型というのは、結局は、自分のことしかしない、セルフィシュな老人群をいう。大半が、そ
うであると言ってもよい。

 利他型というのは、地域の仕事や活動を、積極的にしている老人群をいう。ボランティア活動
や自治会の仕事で、走り回っている。

 どちらがよいか悪いかという議論は、ほとんど意味がない。私自身は、利己型の老人群に
は、まったくといってよいほど、価値を認めない。が、本当にかわいそうなのは、本人たち自身
ではないのか。

 毎日、庭いじりをしているだけ。息子や娘もいるが、ほとんど、家には寄りつかない。夫婦の
会話も、これまたほとんど、ない。いくら長生きをしたからといって、そういう人生に、どういう意
味があるのか。

 一方、私の近所に、すでに腰がまがってしまった老人(女性)がいる。年齢は、90歳くらいで
ある。昨日も見ると、ハサミで(ハサミだぞ!)、一本、一本、雑草を切っていた。

 この女性は、もう20年近く、近くの中学校周辺の草刈りをひとりでしている。そういう老人を
見ると、頭がさがる。本当にさがる。しかし私は、そういう老人の中に、人間が生きる美しさを
感ずる。すばらしさを感ずる。

 そこであなたの周辺の老人をながめてみてほしい。あなた自身の両親でもよい。

 そういう老人をながめてみたとき、あなたは、そういう老人をどう評価するだろうか。つまり人
生の大先輩としての老人を、である。

 私は、一つの基準として、この利己型と利他型があると思う。「思う」というのは、まだそう言い
切る自信はないということ。私自身も、その老後を前にして、利己型の世界で、あがき、もがい
ている。偉そうなことは、言えない。

 しかしこれだけは言える。

 これからは、私たちは、老人として、社会の中でごろごろする存在になる。そのとき、若い人
たちに、尊敬される老人をめざさないと、結局は、自分で自分の立場を否定することになってし
まうということ。一昔前には、「粗大ゴミ」という言葉がはやった。その粗大ゴミになってしまうと
いうこと。

 そうなれば、どうなるか……? 社会のやっかい者として、嫌われるようになってしまうかもし
れない。2500万人という数字には、そういう意味も、含まれる。

 が、本当の恐怖は、そのことではない。利己的に生きれば生きるほど、その人自身が、無間
の孤独地獄を背負うことになる。クリスマス・キャロルのスクルージー※に、その例を見るまで
もない。それこそ、まさに本当の恐怖ということになる。

 そうならないためには、私たちは、今から、何をすべきか。どうしたらよいのか。それを考える
のも、老後の問題ということになる。

※(クリスマス・キャロル)……チャールズ・ディケンズの代表作。舞台はロンドン。ときは、クリ
スマス・イブ。ケチで、利己的なスクルージーのところに、7年前に死んだ協同経営者のマーレ
ーが、亡霊となって現れる。そして……。


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●善の集合

 1人の人間の中には、「善」もあれば、「悪」もありますよね。善ばかりの人間はいないし、悪
ばかりの人間はいません。

 そのときどきにおいても、微妙に変わります。

 でも、やはり、善か、悪かと聞かれれば、善がよいに決まっています。しかしひとりで、その善
を守るのも、たいへんなことですよね。だれかに認めてもらいたいし、だれかに支えてもらいた
い。「お前は善人だよ」と言ってもらえれば、さらにうれしい。励みにもなります。

 だからそういう「基準」が、人間には必要になってくるわけです。

 私は、それが、神であり、仏ではないかと思うわけです。善を慕う心がですね、どんどんと集
合して、神や仏になったのではないか、とです。

 つまりは、人間は、長い時間をかけて、善の「理想形」をつくったというわけです。「こうあって
ほしい」「こうあればいい」という思いが、集まって、です。

 たとえば今日、ワイフとドライブしながら、オーストラリアの少女合唱団が歌う、賛美歌のCD
を聴きました。オーストラリアにも、そういう団体がいくつかあるんだそうです。

 美しい声でした。それに美しい曲でした。それを聴いていたとき、何というか、心が洗われる
ような感じになるのですね。
 
 もちろんイエス・キリストが生きていた時代には、そんな曲はありませんでした。しかしそのあ
と、いろいろな人が、そのイエス・キリストに「理想の姿」「理想の心」を求めたわけです。

 それが今、たとえば、そうした賛美歌に結集したというわけです。

 では、本当のイエス・キリストは、どうであったかとか、釈迦はどうであったかというと、ひょっと
したら、私やあなたと、それほどちがわなかったかもしれませんよ。少なくとも、見た感じは、で
す。

 だって、この地上で生きるために、それなりに、人間としての生活もしなければならなかったと
思うのです。夜は寝て、朝は起きて、食事をする。仕事もしただろうし、入浴もしただろうし、そ
れに、大便だって、出したでしょう。

 で、いろいろな思想を残して、この地上からは去っていった……。そのあとですね、無数の人
たちが、心のよりどころとして、つまり「善」のよりどころとして、神や仏として、イエス・キリストや
釈迦を、祭りあげていった。

 いえ、それがまちがっているというのではありません。私は、それはすばらしいことだと思うの
です。つまりそういう形で、自分の中にある、「善」を守り、その一方で、「悪」と戦ってきたと、私
は思うのです。

 ひとりで、善の追求など、できないのです。やはり見本というか、手本というか、そういうもの
が必要なのですね。そうでないと、そのときどきにおいて、道に迷ってばかり。ときには、自分
のしていることが何であるかも、わからなくなってしまう。

 しかしその賛美歌を聴いていたとき、「ああ、これでいいんだ」という、何というか、自信のよう
なものが、心の中に生まれてきましたよ。「みんな、がんばっているんだな」という、思いも生ま
れてきます。そういうのが、私を支えてくれるんですね。

 私には、宗教心も、信仰心もないから、よくわかりませんが、しかし「善の集合体」としての、
神や仏であるなら、私でも、納得できます。みんなで人間の住むこの世界を、美しく、清らかな
ものにしていこうという、そんな願いが、そこに凝縮しているというわけです。

 だから私は、かつて、一度たりとも、神や仏を否定したことはありません。カルト教団体を攻
撃したことは、何度かありますが、しかしそれは、カルト教団を、です。それを信じている、信者
の方を否定したり、攻撃したことは、一度もありません。

 仮にある宗教団体が、まちがった教えを信者に教えているとしても、悪いのは、それを教えて
いる幹部の人たちです。信者ではありません。さらに宗教が否定されたとしても、しかしその宗
教とともに生きてきた、何十億もの、(あるいはそれ以上の)、人たちが織りなしたドラマまで、
否定されるものではありません。

 現にそのとき、CDから流れてきた音楽は、うっとりとするほど、すばらしいものでした。その
すばらしさこそが、ここでいう「ドラマ」の一つだと、私は思うのです。

 みんなが、それぞれの立場で、それがどんな形であれ、力を合わせて、善を追求したら、こ
の私たちの住む地球は、すばらしい場所になるのではないでしょうか。それは、まちがっていな
いと思うのですが……。


●「?」の論理

 日本の中にも、K国の国益を代弁する団体がありますよね、。C総連とか。その団体が、機
関紙を発行しているのですが、それによれば、C総連は、K国の核開発を、支持しているという
のです。

「(K国)外務省が私たちの心を代弁してくれた」と言い、「朝鮮人民は朝鮮半島がまっ二つにな
ったあとから、すべての不幸は米国の孤立圧殺策動が原因であることを、生活体験から悟っ
ている」(C新報・2・19)と。

 いろいろな意見があるものですね。

 K国が核開発をしているのは、日本を攻撃するためではないのですか? 今までも、K国の
高官たちは、公式の場所ですら、そう発言している。表向きは、「アメリカから自国を守るため」
などと言っていますが、武力でも核兵器の数でも、比較にならない。つまりC総連の人たちだっ
て、K国のミサイルが日本へ飛んでくれば、犠牲になることだってありえるわけです。

 それを「支持する」とは……?

 朝鮮が、今の韓国と、K国の二つに分断されたのは、アメリカの責任だというわけです。しか
も今、K国が貧しいのも、アメリカの圧殺策動が原因だ、と。

 「そういう考え方もあるんだな」と思ってみたり、「そうかな?」と思ってみたり。あるいは、「もう
少し、わかりあって、仲よくなれないものか」「日本にいても、そう言わざるをえないのかな?」と
も思ってみたり。とくに、在日朝鮮人の人たちは、ずっと、日本の様子や、アメリカの様子を、間
近で見ているわけだから、K国に住む、人たちとは、ちがった考え方をもってもよいはず?

 その在日朝鮮人の人たちが、日本に住みながら、アメリカや日本へ、かぎりない復讐心とい
うか、敵対心を燃やしているというのが、私には、どうしても理解できないのです。

 日本人にもいろいろな人がいますが、悪い人ばかりではないような気がします。同じように、
私たちだって、K国を批判しますが、K国の人たちを批判しているわけではありません。むしろ
K国の人たちのためも、心のどこかで考えながら、その独裁者である金XXを、批判しているわ
けです。

 今回の一連の拉致問題にしても、在日朝鮮人の人の中には、たぶん、心を痛めている人も
多いはず。私は、そういう人たちの良心を信じたいのですが、それとも、反対に、在日朝鮮人
の人たちは、そういった拉致事件まで、支持しているとでもいうのでしょうか。

 どこか、みなさん、沈黙を守ったまま。そういう良心的な人たちの声が聞こえてこないのが、
私には、残念でならないのですが……。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(540)

【静岡市R幼稚園の方から、講演の感想が届いています】(05年2月)

 先日は、お忙しいなか、 また、 足のけがで大変なところを
R幼稚園までお講義にきていただき、ありがとうございました。
 多くの父母の心に響き、たいへんな反響でした。
 父母からの手紙をお送りいたします。
 ありがとうございました。
                     R幼稚園 父母の会


●先日は、ケガを押しての御来園、本当にありがとうございました。
痛い足をひきづり、しかも電車でおいでくださった先生の姿に頭が下がりました。
先生のおっしゃっていた、さびついていない心で「約束を守る」というピュアな
気持ちで来てくださったのだと思いました。おかげさまで、約60名の
お母さま方に為になる時間を過ごしてもらうことができ、
はやし先生との出会いをプレゼントすることができました。

今回の先生の御講演で得たものはたくさんありましたが、
「やろう!!」と思ったのは、「方向性をつける」ことでした。
子供が4人もいますから、それぞれの子にどこまでやってあげられるか、
わかりませんが、まずは、なりたいもの目標を書いて、
家のどこかに張ってみたいと思います。

いつもの勉強が、ちょっと違うものに変身するかもしれません。
休日の過ごし方もかわると思います。ありがとうございまいした。
                    父母の会 会長 US


●先日は林先生の講演会に出席させてもらい大変勉強になりました。
息子は、3,4年生の時に反抗期がありました。
先生のおっしゃるとおり、反抗期をぬけて、一皮むけて
大きくなったと感じています。これからくる中学に入ってからの反抗期
どう反抗してくるか、そして、どのように大きくなっていくのか先生の話
を聞いて楽しみになりました。そして安心しました。ありがとうございました。


●とても為になるお話で、子育てについて考えるよい機会になりました。
不安に思っていることに対して的確なアドバイスをいただいて、まだ今なら
間に合うということに気持ちが軽くなりました。

「子育て」というより親も育っていかなければーと自分自身反省することも
多かったです。

子供にばかり期待したり、押しつけたりせず、子供の良い所をみつけ、
伸ばす環境作りを心がけたいと思います。


●先日は梨花幼稚園のセミナーに貴重なお時間をさいていただき、
ありがとうございました。自己管理能力や子離れについてなど、はやし先生
のお話にはとても勉強になることがたくさんあり、もっと子供と一緒にいる時間
を大切にしなくてはと実感しました。


●とてもおもしろくて、ドキドキするお話でした。
私は、お話を聞きながらメモをとるのが上手ではないので、一語も聞き逃したくない
と思うあまり、ペンを持ちながら手は止まっていました。(自分のメモ能力に落胆!) 

今まで、私自身に迷いながらもつい自分の考えを押しつけていた部分もあり、
反省しました。現在、小学一年生の長男に後数年で訪れる親離れの時期に上手く
対処できるか少し不安になった。でも私は自分と子供を信じて育てていきたいと思います。
お家の都合でどうしてもお話を聞くことができなかった友達がいます。


●今、子育てや自分自信に自信を失いかけている彼女に是非聞かせてあげたいと
思いました。

去年に引き続き、先生の講義を拝聴させていただきました。
前回同様、先生の講義の間中、うなずき家に帰り、ノートを見ながら、もう一度
先生のお話を思い出し、自分の子供への接し方についておち込んでおります。
1つクリアするとその次の段階を求め早くしなさいと声をかけ、
お友達がおけいこ事をしているとうちの子も何かした方がいいのかしら?と思ってしまう...

すべてを正していただいた様な気がします。1呼吸おきながら、私自身をみつめなおし、 

「明日は、今日よりいい日になる」をモットーとし、子育てを楽しみたいと思います。 


●4年前、幼稚園のホールで行われたテレビ寺子屋の話を聞いてから、今日の講演
を楽しみにしていました。母親として間違った事をしていないか、子供の可能性を
つぶしていないか、再確認できるチャンスをはやし先生の話でいただきました。
自分自身を反省し、子供を見つめていこうと思います。


●貴重なお話ありがとうございました。

わかっていながら気付かないようにしていた部分をするどく指摘された気がします。
「子供を直すのではなく、自分を直す」という言葉を肝に命じ、これからも子育てを
がんばっていきたいと思います。

         静岡県静岡市
                     R幼稚園 父母の会


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

【BW教室より】

●デジタルカメラ

 私は今、どこへ行くにも、デジタルカメラをもって歩く。C社のEXxxというカメら。小さくて性能
がよい。シャツの上ポケットに、スッポリと入る。

それにスイッチオンから、1秒前後で、スタンバイ状態になる。専門用語を使って言えば、「シャ
ッターチャンスをのがさない」。

 このカメラが、威力を発揮し始めた(?)。

 レッスンの間、態度が悪い子どもがいたとする。そういうときすかさずカメラをポケットから取
り出して、スイッチオンにする。

 私のカメラは、スイッチを入れると、ズイーンという音が出るようにセットしてある。しかも最大
ボリューム。

 そのカメラを、その子どものほうに、向ける。

子「何で、ぼくをとるの?」
私「君がふざけている写真をとって、あとに君のママに見せてあげる。証拠写真だ」と。

 すると子どもは、パッと机の下に隠れたりする。

私「出てこい。出てきて、今と同じことをしなさい」
子「いやだ」
私「じゃあ、もう、ふざけるんじゃ、ない」
子「わかった」と。

 こういうことを数度繰りかえすと、私が、自分の手をポケットに近づけただけで、子どもたち
は、サッと姿勢をなおす。こういうのを、条件反射という。

 その条件反射で思い出すのが、I・P・パブロフの「条件反射説」。

 犬にエサを見せると(=無条件刺激)、犬の口から唾液が出る(=無条件反応)。そこでパブ
ロフは、エサを与える前に、ベルを鳴らした(=条件刺激)。しばらくそれをつづけると、犬は、
ベルの音を聞いただけで、唾液を出すようになったという(=条件反射)。

 こうしてパブロフは、よく知られた「パブロフの条件反射説」を発表した。

 子どもたちは、私がポケットに手をかけただけで、姿勢をなおす……。あまりよい方法ではな
いかもしれないが、深い意味は、あまり考えないでしている。

 ところで、補足。

 デジタルカメラをいつももって歩くようになってから、まわりの景色を見る私の目が変わった。

 景色の中から、美しいものを、さがそうとするのである。それまでは、ただぼんやりとながめて
いただけなのだが、その中から、「写真にとりたいもの」をさがす。道端に咲く花とか、山の上に
かかる雲とか。

 そして「これは!」と思うものを、バシャリ、バシャリととる。(シャッターの音も、最大にセットし
てある。その音が、これまたそう快!)

 しかしメチャメチャとるわけではない。デジタルカメラだから、フィルムを使うわけではない。
が、それでも、おかしなことに、「ムダなものは、とりたくない」という心理が働く。

 これは「どうせムダなものをとっても、あとで編集作業がたいへんになるだけ」という思いがあ
るからではないか。だからいつも、1コマ、必殺。

 だからますます「美」に敏感になる。それまでの私になかった感覚なので、それを今、私は、
たいへん新鮮に感じている。みなさんも、デシタルカメラをもって、歩いてみてはどうだろうか?
 楽しいですよ。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●虐待ママの化けの皮

 ある小学校で校長をしている、A氏が、こんな話をしてくれた。

 ある子ども(小2男児)が、母親に虐待を受けていた。学校の通報で、近くの児童相談所に保
護された。背中に、大きなキズが、ムチで打たれたようについていた。話を聞くと、「バスタブを
洗うブラシで、体を洗われた」と。

 が、その翌朝一番に、校長のところに、母親から電話がかかってきた。校長は、緊張した。
腹にぐいと力を入れて、受話器を取った。しかし母親の声は、意外なほど、穏やかだった。

 校長は、私にこう言った。「声だけ聞いていると、まるで観音様か女神様のようでした。やさし
い声の調子、子どもを思いやる言葉など。そして何度も、『子どもを返してほしい』と言いまし
た」と。

私「演技で、そう言ったのですか?」
校長「とても演技には、聞こえませんでした」
私「しかし虐待をしていたのでしょ」
校長「そうなんです。ふつうの虐待ではありません。が、その母親の声を聞いていたとき、この
母親が、本当に同一人物かと、自分の耳を疑いました」と。

 「代理ミュンヒハウゼン症候群」という言葉もある。他人の目の前では、信じられないほどよい
親を演じながら、そのウラで子どもを虐待する。それを代理ミュンヒハウゼン症候群というが、
そういうケースは、決して少なくない。

が、その校長ですら、見抜けなかったのだから、その母親は、かなりの演技者とみてよい。た
だ、よく観察すると、どこか不自然。そんな印象を与える。行為がおおげさで、口がうまい。こち
らがあれこれ話しかけても、こちらの言葉が、相手の心の中にしみていかない。どこかへはぐ
らかされてしまう。

 しかし一般の人には、まず、見抜けない。以前、義母を介護していた女性(当時40歳くらい)
がいた。その女性は、義母を虐待していた。義母に食事を与えない、便をもらしても、放置する
など。が、近所の人たちのもならず、親戚の人たちの目も、あざむいていたというから、ふつう
ではない。みなは、そのみごとなまでの献身的な介護(=演技)ぶりを見ながら、「あの女性
は、仏様」と言いあっていたという。

 それも代理ミュンヒハウゼン症候群と考えてよい。

 しかしここが、悲しいところ。そういう虐待を受けながらも、子どもは子どもで、毎晩、「ママの
ところにもどりたい」「いい子になるから、家に帰して」と泣くという。

 その校長は、こう言った。「こういうとき、絶対に親子だけで話をさせてはいけないのですね。
子どもが、逆説得されてしまいます。あるいは母親の姿を見ただけで、『家に帰る』と泣き出し
たりします」と。

 まさに(悲しき子どもの心)ということになる。
(050222)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(541)

【近況・あれこれ】

●「ああは、なりたくない」

 ワイフが、友人から聞いた話。

 その家には、「大おばあちゃん」と呼ばれる、曾(ひい)祖母と、「おばちゃん」と呼ばれる、祖
母がいた。そこへその女性が、嫁いでいった。

 すでに曾祖母は、ボケていた。それを介護しながら、祖母はいつも、こう言っていたという。
「私は、ああはなりたくない」「私は、ああはならない」と。

 祖母は、たいへんしっかりとした人だったという。

 で、それから何年もたって、曾祖母はなくなった。そしてそれからまた何年かたって、今度は、
その祖母も、ボケ始めた。

 自分でしまい忘れたくせに、「嫁(=ワイフの友人)が、サイフを盗んだ」「通帳を盗んだ」と騒
いでいるという。

 それを見ながら、ワイフの友人は、「私は、ああはなりたくない」「私は、ああはならない」と言
っているという。

 ところでヨボヨボと歩いている老人を見ると、(とくに若い人は)、「自分はああはならない」と思
うもの。自分とは無縁の世界の人と、老人を、自分の住んでいる世界の外に置いてしまう。

 私も、実は、そうだった。しかし今、その老人世界の入り口に立ってみると、あっという間に、
こうなってしまったような感じがする。その間には、長い時間があったはずなのに、その時間
が、どこかへ飛んでいってしまった(?)。

 ワイフの友人は、こう言ったという。

 「今度は、おばあちゃん(祖母)が言っていたことと、私が、同じ言葉を繰りかえしているのを
知って、ぞっとしたわ」と。

 加齢とともに、どんな人でも、体力は衰えてくる。同じように知力も、衰えてくる。例外はない。
頭がよいから、ボケないということもない。ボケることには、ボケ特有のメカニズムが働く。

 そこでボケを防ぐには、どうしたらよいか。

 その前に誤解があるといけないので、いくつかの点を指摘しておきたい。

 加齢とともに、脳の中の動脈が硬化して、働きがにぶくなることはある。物忘れがひどくなっ
たり、相手の名前を思い出せなかったりする。しかしこれはボケではない。(もちろんボケの症
状にも、それはあるが。)

 これはただ単なる機能障害。

 が、その脳細胞が、何らかの理由で、死滅することがある。機質的に、脳の働きが悪くなる。
これがボケである。

 さあ、どうするか?

 インターネットであちこちを調べてみたが、いろいろな薬が販売されているらしい。しかしそう
いうものに手を出してよいものか、どうか?

 ただ私の意見としていうなら、頭の良し悪しには、関係なく、頭も体と同じように、使ったほう
がよいのではないかということ。しかも、いつも多方面に向けて、頭を使ったほうがよいのでは
ないかということ。

 いわゆる専門バカになってはいけない。中国にも、『知るものは、博(ひろ)からず』という、こ
とわざがある。あることがらに精通している人というのは、それ以外の分野のことについては、
よく知らないものという意味である。そうであってはいけない。

 このことは、子どもの世界を見ていると、よくわかる。

 中に、ある特定のことについて、ふつうでない(こだわり)を見せる子どもがいる。たとえばカ
ード(カード遊びのカード)についても、実にこまかいことまで、よく知っている。一見、頭がよさ
そうに見えるが、そのほかのことについては、そうでない。全体として、バランスに欠けることが
多い。

 そこで重要なのは、「考える」ことではなく、「考える習慣」である。

 学者であるとか、ないとか、そういうことは関係ない。その道の専門家であるとか、ないとか、
そういうことも関係ない。(そう言えば、最近、私に、「君は、心理学の専門家でもないのに、心
理学について意見を書くのはおかしい」と言ってきた人がいた。かわいそうな人だ。その道の
専門家だけが、専門分野について書くのが許されると、誤解している。そういう人は、悪しき権
威主義時代の亡霊と考えてよい。)

 考える習慣さえ身につけておけば、どこにいても、またどんなときでも、ものを考えることがで
きるようになる。そしてそれが脳ミソを、活性化させる。

 知力を体力と同じように考えることはできないが、しかし鍛(きた)え方という点では、よく似て
いる。

 健康を維持するためには、毎日、しっかりと運動をする。同じように、脳ミソの健康を守るた
めには、毎日、しっかりと頭を使う。

 私の方法が役にたつかどうかは、わからないが、私は、今年も、あの「イミダス2005」(集英
社)という、総合情報解説書を買ってきた。ほかにも、「日本の論点2005」(講談社)などなど。

 自分の知らない世界のできごとを知るのは、たいへん、おもしろい。頭の中で、バチバチと脳
細胞どうしが、火花を散らすこともある。そういう本をパラパラとめくりながら読んでいると、けっ
こう、楽しい。つまり、それが脳の活性化につながるのではないか? ……勝手にそう思ってい
るだけだが……。

 そうそう、もう一つ重要なことは、だれの意見を聞いても、一度、自分なりに反論してみるこ
と。相手の言うことをそのまま鵜(う)のみにしてしまったのでは、考えたことにはならない。

 ……実は私も、ボケた兄を見ながら、「私は、ああはなりたくない」「私は、ああはならない」と
思っている。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●利口とバカ(はやし流、バカのカベ)

 「私は利口だ」と思っている人ほど、バカ。「私はバカだ」と思っている人ほど、利口。つまり利
口とバカのちがいは、その(謙虚さ)にある。

 人間全体を、一つの(生物)としてみると、それがわかる。

 たとえば、サルの世界にも、多分、利口なサルとバカなサルがいる。しかしその差は、それほ
ど、大きくない。サルは、サル。どこまでいっても、サルは、サル。

 同じように人間も、どこまでいっても、人間は人間。

 もっと言えば、利口とバカのちがいは、相対的なものでしかない。では、利口とバカを区別す
るものは、何か?

 利口な人は、自分の無知を知りながら、前に向って、進む。しかし進めば進むほど、その先
に、さらに遠い道があるのを知る。

 が、バカな人は、自分が利口だと思う分だけ、自分の無知に気づかない。そして自分だけの
世界に住み、その中で、自分の思想をサビつかせてしまう。

 たとえばここに80歳を過ぎた老人がいる。その老人は、子どものころに受けた、「戦時訓※」
を、いまだに信奉している。彼にとって、理想の男性はいえば、乃木将軍であり、明治天皇であ
る。

 その人は、子どものときから、80歳になるまで、何を学んできたというのか? が、それだけ
ではない。「無知」には、もう一つの意味が含まれている。

 知力というのは、加齢とともに衰えていく。それについては、前にも書いた。が、それだけでは
ない。せっかく何らかの形で知力をみがいても、数か月、あるいは数年後には、すっかりと忘
れてしまうということは、よくある。

 私もときどき、数年前、10数年前に、自分が書いた原稿を読みなおすことがある。そういうと
き、よく、こう思う。「これはたしかに私の文章だが、本当にこんなことを書いたのか?」と。

 そういう意味では、脳ミソのキャパシティ(容量)、つまりパソコンでいえば、メモリーの量という
のは、年々、減っていくものなのか? 若いころは、1024MBだったのが、50歳をすぎると、
256MBになるとか。さらに60歳をすぎると、128MBになる……。

 だから現状を維持するだけでも、たいへん。いわんや、脳ミソを毎日、鍛えなかったら、どうな
るか? 今さら、ここに書くまでもない。

 そんなわけで、「私は無知だ」「バカだ」「アホだ」と思えば思うほど、その先に道が見えてくる。
しかし「私は利口だ」と思ったとたん、その人はがんこになり、小さなカプセルの中に閉じこもっ
てしまう。

 つまり、これが利口な人と、バカな人のちがいということになる。
(はやし浩司 バカ論 利口とバカの壁 馬鹿論 馬鹿)

(注※……日中戦争における軍紀の乱れに対して、時の天皇が、1941年に出した訓令。戦
意低下を回復するために出された。)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●多重人格性

その人の中に、もう1人の別の人がいるように感ずることがある。本来の人を、「主人格」とい
い、もう1人の人を、「交代人格」という。

 この主人格と交代人格が、交互に入れかわることを、解離性同一性障害、つまり多重人格
障害という。

 「障害」とまではいかなくても、その傾向のある人となると、いくらでもいる。子どもの世界で
も、よく観察される。

 平素は、穏やかで柔和。どこかさみしがり屋で、友だちの輪の中でも、静かにしている。が、
何かのことで、キレたりすると、まるで別人のようになってしまう。目つきそのものまで、変わっ
てしまう。眼球だけが、ギョロギョロと動くような感じになる。

 N君(小5男児)が、そうだった。

 で、一度、キレた状態になると、雰囲気そのものまで変わってしまう。さみしがり屋だったはず
なのに、突然、強くなって、相手に向って、暴言を吐いたりする。「お前は、この前、ぼくをバカ
にしたア!」と。

 N君は、心に大きなキズをもっていた。母親に聞くと、「家庭の中では思い当たることはない」
ということだったが、「多分、小学1年生のときに、ひどいいじめを受けていたからではないか」
ということだった。

 虐待、家庭内騒動が原因で、こうした多重人格性をもつことは、よく知られている。いじめで
多重人格性をもつこともある。

 診断基準としては、つぎのようなものがあるという(松原由枝「臨床心理学」)。

(1)2つ以上の異なった人格の存在が認められること。
(2)2つ以上の人格が、入れかわりながら、その人をコントロールしようとしていること。
(3)その人の実際の行動に基づく記憶が、部分的、時間的に失われていること。

こうした多重人格性が見られたら、穏かで静かな生活を基本として、「主人格」を安定させるこ
とに心がける。できれば「交代人格」の出やすい状況を、避ける。つまり刺激しない。

 さらにそうした子どもをよく観察してみると、興味深いことに気づく。

 そのN君のケースだが、一度、交代人格になると、過去に、その交代人格になったときだけ
が、連続して、記憶の中でつながってしまうということ。たとえば、平均して、1か月に2回ずつ、
交代人格になったとする。

 するとその交代人格になったときだけが、連続してつながってしまい、その間の、主人格の部
分が消えてしまう。

 N君が、X君にとびかかっていったときもそうだ。足蹴りをして、そのはずみに、X君に、けが
わさせてしまった。先週までは、仲がよかったはず。部屋を出るときも、いっしょに並んで帰っ
たはず。しかし一度、交代人格になると、X君とけんかしたことだけが、連続的につながってし
まう。

 「お前は、この前、こう言ったじゃないか!」
 「お前にあげた、○○カードを、返せ!」と。

 ときに、1年前、2年前の話にもどることもある。

 が、ひととおり混乱状態がつづき、一段落すると、一転、今度は、また柔和でやさしい表情の
N君にもどる。

 しかしそのとき、N君は、X君にあやまるということをしない。私が「あやまりなよ」と促すのだ
が、N君には、その自覚がない。まるで他人が、X君にけがをさせたかのように、平然としてい
る。「ぼくがしたんじゃない」というようなことまで言う。

 が、この段階で、気をつけなければいけないのは、あまりしつこくN君に、「あやまりなさい」と
責めると、またそこでN君が、キレてしまうということ。突発的にそうなる。だからほどほどのとこ
ろで、指導する側のほうが、話題を切りかえなければならない。

 そのN君は、今ごろ、どうしているだろうか? あれからもうxx年になる。ふと、今、そんなこと
を考えた。
(はやし浩司 解離性同一性障害 多重人格 主人格 交代人格)


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●パーソナル・スペース
 
 白人系の人たちは、会話をするとき、相手の人と、かなり広いスペース(距離)をとろうとす
る。

 一方、アラブ系の人たちは、比較的、せまいスペース(距離)をとろうとする。

 だから白人とアラブ人が、部屋の中央で会話をしていると、白人のほうは、どんどんとあとず
さりをし始める。距離を置こうとする。

一方、アラブ人は、どんどんと、相手を追いこんでいく。距離を縮めようとする。で、気がつくと、
白人は、壁に押しつけられてしまっている……ということになる。(この話は、高校の英語の教
科書に載っていた話。)

 人と話すとき、どの程度の距離を置くか。その距離は、実は、その2人の親密度によってもち
がうという。

恋人どうし……〜45センチ
友人どうし……45センチ〜1・2メートル
家族どうし……(50センチ前後)
仕事仲間どうし……(1メートル前後)
仕事の相手どうし……1・2メートル〜3・6メートル
公的な会話……3・6メートル〜
(数字は、「心理学のすべて」日本実業出版社より、(かっこ)内の数字は、私が、推測でつけ
足した。)

 つまり相手が、どの程度、自分との間に距離を置こうとしているかを知ることで、相手の自分
に対する好意(affection)を知ることができる。

 これはそのまま家族どうしの愛情を知る、バロメーターとしても、応用できる。

 あなたが近づいたとき、子どもの様子が自然であれば、それでよし。しかしあなたから一定の
距離を置こうと、離れたら、かなり要注意。……ということになるのでは?

 いや、実際には、親子の間では、そういう現象は、あまり起きないかもしれない。しかし教師と
生徒の間では、そういう現象は、よく起きる。

 何かのことでほめるため、頭をさすろうとすると、すなおに頭をそのままにしている子どももい
れば、どこかに嫌悪感を漂わせる子どももいる。たまに、「いや!」と言って、私の手を避けよう
とする子どもも、いる。

 要するに、スキンシップの問題ということか。この方法は、親子というより、夫婦の間の愛情を
知るのによいのかも(?)。これからワイフにそれをためしてみる。(たまたまこれから朝食なの
で……。)

私がそっと近づいたとき、ワイフは、どんな反応をしてみせるか? 何センチになったところで、
ワイフは、体を離し始めるか? 楽しみだ。
(はやし浩司 パーソナルスペース パーソナル・スペース 親密 親密度)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(542)

●子どもが、突然、「学校へ行きたくない!」と言ったとき……

++++++++++++++++++++++

もし、あなたの子どもが、ある朝、突然、
「学校へ行きたくない!」と叫んだとしたら……。

そんなときのために、こんな原稿を書いて
みました。

H県にお住まいの、KMさんという方から、
子どもの不登校についての相談がありました。

「今日も、学校へ行きませんでした。不安です。
本当にこれでよいのでしょうか?」と。

+++++++++++++++++++++++

 子どもがある朝、突然、「学校へ行きたくない」と言ったら……。たいていの親は、その段階
で、混乱状態になる。狂乱状態になる人も多い。「うちの子は、このままダメになってしまう!」
と。(本当は、ダメにはならないのだが……。)

 「まさか、うちの子にかぎって!」という思い。「どうして、うちの子が!」という思い。「不登校で
はなく、一時の迷いでは?」「ズル休みでは?」などと、いろいろ考える。

 ある母親は、こう言った。「話には聞いていました。しかしまさかうちの子が、そうなるとは、夢
にも思っていませんでした」と。

 そこで親は、理由を聞く。「何か、理由があるはずだ」と。しかし子どもは、「行きたくない」と、
わめくだけ。が、親は、納得しない。「友だちがいじめるの?」「先生と何かあったの?」と。

 本当のところ、子どもにも、その理由がよくわかっていない。親がしつこく、「どうしたの?」「理
由を言いなさい!」と迫るから、しかたなしに、あれこれと理由らしきことを口にする。

 「X君が、意地悪をした」「先生が、こわい」と。その時点で、親の憎悪は、X君や、先生に向け
られる。

 が、子どもは、泣き叫ぶ。「行きたくない!」と。あるいは子どもは自分の部屋に逃げたり、ト
イレの中に入ったまま出てこなかったりする。まさに狂乱状態となる。

 ……こう書くからといって、決して親を責めているのではない。怠学とちがって、いわゆる「学
校恐怖症」は、心の奥底からわき起こってくる「恐怖感」が原因で、そうなる。子ども自身にも、
その理由がよくわかっていない。

 一方、親は、言いようのない不安と、恐怖感に襲われる。それは怒涛(どとう)のように、親
を、襲う。

 とくに進学、進級をひかえているときは、そうだ。理由は、いくつかある。

+++++++++++++++

(1)日本人独得のコース意識
 
 何かにつけて、日本人は、「型(パターン)」を作りやすい。茶道や華道、書道などに、その例
をみる。そしてその延長として、「人は、こうあるべきだ」という「型」まで作ってしまう。

 それを「コース意識」という。日本人の多くは、このコースからはずれることに、不安感や恐怖
感を覚える。『みなと渡れば怖くない』といい、同時に、『出るクギは打たれる』という。つまり自
分がコースからはずれることを恐れる一方で、同時に、コースからはずれていく人を、許さな
い。あるいは、さげすむ。

(2)学歴信仰
 
 わかりやすく言えば、江戸時代の士農工商の身分制度が、明治時代に入って、学歴制度に
置きかわった。いわゆる「学校出」は、極端に優遇された。また一般庶民は、尋常小学校を出
るだけで精一杯。上級学校へ進学することは、至難のわざだった。こうした状態が、終戦直前
までつづいた。

 明治時代の終わりですら、東京大学の学生のうち、約8割弱が、士族、あるいは華族で占め
られた。一部の特権階級だけが、大学へ進学できた。そして全国の県令(現在の県知事)のほ
とんどは、自治省出身者で占められた。

 (現在でも、全国の県知事の大半が、元中央官僚である。その名残は、今も生きている。)

 学歴に対する日本人独得の執着心は、そんなところから生まれた。

(3)不公平社会

 この日本では、人生の入り口で、一度(合格)すると、あとはトコロテン方式で、一生、安楽な
世界が保証される。そうでなければ、そうでない。そういった不公平感を、親たちは、日常の生
活の中で、敏感に感じ取っている。

 親たちをして、子どもの受験勉強にかりたてる、本当の理由は、ここにある。

たとえば今、公立学校における学力の低下を心配している親は多い。しかし親たちが心配して
いるのは、(学力の低下)ではない。自分の子どもが、受験競争で不利になるのを、心配してい
る。

(4)権威主義社会

 権威が崩れたとはいえ、この日本には、まだまだ権威主義が残っている。わかりやすく言え
ば、差別意識ということになる。そのよい例が、「水戸黄門」である。葵の紋章をかかげ、「ひか
えおろう!」と一喝すると、周囲のものたちは、みな、地面に頭をつけて、ひれふす。

 日本人には、痛快な場面だが、そのおかしさというか、こっけいさには、気づいていない。は
っきり言えば、バカげている。

 オーストラリアの友人は、ある日、私にこう聞いた。「ヒロシ、水戸黄門が、悪いことをしたらど
うなるのか?」と。そこで私が、「水戸黄門は、悪いことはしない」と言ったら、「それはおかしい」
と。

 欧米では、民主主義の歴史は、そのままこうした権威主義との戦いを意味した。

 が、この日本には、いまだに、「偉い人」という言葉が残っている。英語では、それにかわる言
葉として、「respected man」(尊敬される人)という言葉を使う。

 「偉い人」と、「尊敬される人」の間には、大きな距離がある。日本では、ふつう、「偉い人」と
いうときは、地位や肩書きのある人をいう。英語国では、ふつう、「尊敬される人」というときは、
地位や肩書きは関係ない。

 今でも、大臣になったとたん、ふんぞりかえって歩く人は少なくない。(いますね、いまでも…
…。あごをひいて、腹を突き出し、握りこぶしをつくって、さも私は「大臣だ」というような顔をして
歩く人です。)

 さて、あなたはだいじょうぶか? 男が上で、女が下。夫が上で、妻が下。そして親が上で、
子が下と、あなたは考えていないだろうか。あの「水戸黄門」(テレビ番組)は、いまでも、20%
前後の視聴率を稼いでいるという。「おもしろい番組だ」と、何も考えないで見ている人ほど、権
威主義へのあこがれの強い人と見てよい。ご注意!

(5)代替コースがない

 この日本には、学校を離れて道はなく、学校以外に、道はない。つまりは、1本の道しか、許
されていない。

 しかしアメリカには、ホームスクールや、フリースクール、バウチャースクールなど、さまざまな
形のコースが用意されている。日本でも、高校へ行かなくても、大学検定試験(大検)に合格す
れば、大学の入学試験を受けられるしくみができてきている。

 しかし親の意識は、そこまで成熟していない。私が、「いいじゃないですか、子どもが行きたく
ないと言っているなら、学校など、行かなくても」などと言おうものなら、ほとんどの親は、目を白
黒させて驚く。

 本来なら、学校以外に、コースをいくつか用意しておくべきであった。しかし日本は、世界に名
だたる、管理国家。コースがふえればふえるほど、管理が、複雑になる。つまり官僚にしてみ
れば、教育支配が、それだけしにくくなる。

 で、学校以外に道はなく……、学校を離れて道はない……、となった。それが親の意識をが
んじがらめにしている。

(6)学校神話

 「学校神話」とはよく言ったもの。日本人は、「学校」に対して、神話的な絶対性を感じている。
「学校万能主義」も、そこから生まれた。今でも、子どもの世界で、何か問題が起きると、「学校
で……」と考える人は多い。

 家庭ですべきことまで、「教育は学校で……」と考える人は、もっと多い。

 ただ誤解しないでほしいのは、だからといって、私は、学校教育を否定しているのではない。
だれの目にも、公平で、良識ある教育は必要である。また明治以後、その学校教育が、日本
の発展の基盤になったことも事実である。

 しかし行きすぎた絶対性は、かえって弊害を生む。もっと言えば、カルト化する。私が子ども
のころには、子どもはもちろん、親ですら、学校の先生に逆らうことは、夢のまた夢。「学校の
先生が、こう言った」「教科書には、こう書いてある」と言えば、みな、それに従った。

 実際、子どもが不登校児になったときに見せる反応は、それまで信仰をつづけてきた人が、
その信仰を捨てるときの狂乱状態に似ている。

(7)日本人独特の依存性

 長くつづいた封建時代。それにつづく全体主義国家。そういう体制の中で、日本人は、日本
人独特の依存性を身につけてしまった。

 支配と服従。この両者が、相互にかみあって、独特の日本人の社会を形成した。

 たとえば学校教育にしても、つねに「お上」である、文部科学省(文部省)の言いなり。教科内
容から指導内容まで、すべて。PTAという組織はあるにはあるが、アメリカなどでみるPTAの
組織とは、まるで異質なもの。

 アメリカでは、公立の小学校ですら、PTAが相談して、勝手にカリキュラムを組んでいる。入
学時の年齢まで、自由に決められる。もちろん教師の人事権ももっている。が、日本のPTAは
……? みなさん、ご存知の通りである。

 こうした国への依存性が、学校教育を、窮屈(きゅうくつ)なものにしている。もっと言えば、
「子どもというのは、親が教育するもの」という意識がとぼしい。心のどこかで、「子どもは、国
に、教育してもらうもの」と考えている。

 「子どもが学校へ行きたくない」と叫んだとたん、親は、ハシゴをはずされたかのような不安感
を覚える。

+++++++++++++++

 かなり過激な意見を書いたが、ここまで書かないと、なぜ親が狂乱状態になるか、その理由
がわかってもらえない。だから書いた。先にも書いたように、だからといって、私は、学校教育
を否定しているのではない。

 大切なことは、こうした私たちの意識の奥深くに潜んで、私たちを操っている別の意識に気づ
くことである。それに気づけば、なぜ狂乱状態になるか、その理由がわかるはず。そしてそれ
がわかれば、狂乱状態にならないですむ。

 「学校恐怖症」については、たびたび書いてきたので、私のHPを見てほしい。子どもへの対
処方法も、そこに書いた。

 私の印象としては、「不登校を、もっと、気楽に考えたらよいのではないか」ということ。私の
息子の一人も、毎年、春先になると、不登校を繰りかえした。しかしそのときでも、私は、「無理
して行くことはないよ」と、息子の不登校を、かまえて考えることができた。

 それにはいろいろ理由があったが、しかし、もともと、学校というのは、そういうもの。そしてそ
う考えることによって、息子の不登校をそれ以上、こじらせることもなかった。

 多くの親たちは、最初の段階で、狂乱状態になる。この「狂乱状態」自体が、子どもの不登校
をこじらせることに、親たちは、気づいていない。

 先のトイレに逃げこんだ子ども(小2男児)のばあい、親は、ドライバーをもってきて、トイレの
ドアをはずしたという。それに対して、子どもは、まるで狂人のようにあばれて抵抗したという。

 相当なショックを子どもに与えたことになる。が、それではすまなかった。

 母親は、子どもを無理やり子どもを車に乗せると、そのまま学校へ。しかし子どもは車の支
柱に腕をまわし、車から離れようとしなかった。叫び声を聞きつけて、先生もかけつけてやって
きた。

 そのときの様子を、母親は、こう言う。「どこにあんな力があるのかと思われるような力で、車
にしがみついていました。先生と2人で体を離そうと思いましたが、ムダでした。

 で、その日はあきらめて、家に帰ることにしましたが、帰りの車の中では、息子は、もう鼻歌
を歌っていました」と。

 こういうことを繰りかえしながら、症状はこじれ、子どもは、ますますがんこになる。本来なら
数週間ですんだかもしれない不登校が、半年とか、1年にのびてしまう。

 では、どうして最初の段階で、親は、子どもに向かって、こう言えないのか。

 「そうよね。だれだって、ときには、学校へ行きたくないときもあるのよ。お母さんも、そうだっ
た。今日は、学校をサボって、2人で遊びに行こうね」と。

 その理由として、この原稿を書いた。

 くどいようだが、だからといって、私は、不登校を肯定しているのではない。「学校へなど、行
かなくてもいい」と言っているのではない。どうか、誤解のないように!

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(543)

【近況・あれこれ】

●風邪が抜けない!

 食欲も旺盛。運動も欠かさず、している。しかしどうも風邪っぽい。花粉症はなおったとはい
え、季節のはじめの1週間程度は、軽い症状が出る。その症状かとも思うが、どうもはっきりし
ない。

 病院では、風邪薬をもらってくる。

 軽い頭痛と、どこかゾクゾクする悪寒。鼻水も少し、出る。やはり花粉症の初期症状のよう
だ。今年は、花粉の飛散量が、例年より、はるかに多いという。


●「?」なコメント

 HPや、BLOGを公開しているため、ときどき、意味のよくわからないコメントが、寄せられる。

 悪意はないのだろうと思うが、先日は、「自分で、バーベルをもちあげてみろ」というのもあっ
た。(ただ、それだけの一文。)

 いろいろな解釈ができる。「お前の文章は、苦労に根ざしていない。自分で苦労してみたら、
もっと他人の苦労がよく理解できるはず」という意味か。

 しかし、もしそうなら、もう少し、かみくだいて、書いてほしい。「要点だけ言うから、あとは自分
で考えろ」というのは、どうも、不親切(失礼!)。

 で、さらに考えてみる。

 文章というのは、つまり私がこうして今、書いている文章というのは、自分の意思や心を、相
手に伝えるため。つまり相手があっての、文章である。わかりやすく言えば、私の文章を読ん
でくれるのは、私にとっては、「お客様」ということになる。

 読んでくれる人にしても、それだけ、貴重な、人生の何十万分の1の時間を使うことになる。
(今、計算してみたが、1時間は、80歳まで生きるとして、約70万分の1に相当する。)

 つまり書くほうは、その分だけの時間を、もらうことになる。だからいいかげんなことは書きた
くないし、書けない。

 まあ、このところ、毎日のように、いろいろなコメントが届く。イヤミを言ってくる人もいれば、
励ましの言葉を書いてくれる人もいる。批判や、批評には、もうなれた。(いちいち気にしていた
ら、HPの公開など、できない。)

 しかしこの「自分で、バーベルをもちあげてみろ」というコメントには、よい意味でも、悪い意味
でも、いろいろ考えさせられた。ホント!

 ところで最近、スパムメールが、ますます巧妙になってきた。

 今朝は、こんなのもあった。

 Re:○○女子高校のみなさんへ、保健室からの緊急連絡です。

 どこかのスケベサイトからのものだが、よくもまあ、あれこれと考えるものだ。アメリカでは、F
BIの名前を語った、ウィルス入りのメールも、横行しているという。

 こうした「?」なメールは、即、削除。絶対に開いてはいけない。それはよくわかっているが、
瞬間、削除するのをためらうこともある。「もしかしたら……」と思ってしまう。

 みなさんもくれぐれも、ご用心のほどを!


●自分を客観的に見る

 自己中心的であるということは、それだけ視野が狭いということ。視野が狭いから、自分の姿
を客観的に知ることができない。

 ひとりよがりな人。思いあがっている人。自分勝手でわがままな人など。

 その人にとっては、居心地のよい世界かもしれないが、他人の意見に耳を傾けない。実際に
は、「あの人は、どうせ私たちの言うことなど、聞かないから」という理由で、相手にされない。

 そうなれば、損をするのは、結局は、その人自身ということになる。が、ここが悲劇的なところ
だが、損をしながらも、その「損をしていること」にすら、気づかない。

 マズロー(アメリカ・心理学者)は、「自己実現」の最終段階として、「人生を、客観的な見地か
ら、見ること」をあげている。それができれば、「人間らしい、心を豊かな生活を送ることができ
る」と。

 「ナーンダ、そんなことか!」と思う人も多いかと思うが、実際のところ、自分を客観的に見る
ことは、むずかしい。が、方法がないわけではない。自分の姿を、他人の目を通して見ればよ
い。

 たとえば妻と対峙してすわる。そのとき、妻の目を通して、自分がどのように見えるかを、頭
の中で想像してみればよい。それでよい。

 この方法は、私が考えた方法だが、少し訓練をつむと、相手の心の中の状態までわかるよう
になる。何を考え、何を願っているかまで、わかるようになる。

 さらに生徒と対峙しているときも、そうである。

 私は、小さな教室を経営しているが、しかし、みながまいな、勉強がしたくて、私の教室へ来
るわけではない。中には、いやいやきている子どももいる。そういうとき、その子どもの目を通
して、自分を見る。

 すると、教え方、話し方、指導のし方が、まるで変わってくる。「勉強させよう」「教えてやろう」
という気持ちは消え、「いっしょに楽しもう」という気持ちになる。そう感じたとたん、子どもの表
情が、パッと明るくなる。

 その自己中心性だが、頭がボケ始めると、まず最初に、それが現れる。

 これについては、二つの見方がある。

 一つは、頭がボケたから、自分の姿を客観的に見ることができなくなり、結果として、自己中
心的になるという考え方。一般的には、そう考えられている。

 もう一つは、もともと人間は、自己中心的な生き物だが、それをカバーしていた(おおい)が、
ボケとともに、はずれたため、その結果として、自己中心性が、表に出てくると言う考え方。

 この後者の考え方は、幼児の精神的な発達段階を観察していると、わかる。たとえば満3、4
歳ごろまでの子どもは、きわめて自己中心的なものの考え方をする。が、そのころから、自己
愛(利己)から対象愛(利他)へと、自分を転換させていく。

 が、いくら利他的になったからといって、自己中心性が、消えるわけではない。家族や友だち
と仲よくするためには、自己中心的であってはいけない。それを子ども自身が学び、その結果
として、自己愛だけでは、足りないことを知る。

 話が複雑になってきたので、もう少しわかりやすく説明しよう。

 私たちの中心核には、(自己中心性)がある。その(自己中心性)を、ジャムパンのジャムと
するなら、外側のそれを包むパンが、学習によって作られた、利他性ということになる。

 この外側を包むパンの部分は、その人の精神作用の一部として、その人の気力によってコ
ントロールされている。

 しかし加齢とともに、その気力が弱くなり、(つまりパンが薄くなり)、中に入っていたジャム
が、外に出てきてしまうというわけである。

 もっとわかりやすく言えば、「地が表に出てくる」ということ。いろいろな苦労はして、それなり
にがんばったとしても、しかしジャムはジャム。そのジャムが、途中で、クリームに変わるという
ことは、ない。

 ……実は、このことは、私がもっとも恐れている部分でもある。

 私は、もともと善人ではない。今は、かろうじて善人ぶっているが、それはいわば、仮面(パ
ン)。気力だけで、自分を支えているが、やがてその気力が弱くなれば、地が表に出てくる。

 私はもともともは、自分勝手でわがままな人間だし、私ほど、自己中心的な子どもはいなかっ
た。そしてその自己中心性が、青年期や壮年期に、私の中から、消えたわけではない。ずっと
あったし、今もある。

 ふと、油断すると、すぐそれが出てきてしまう。

 だからボケるから、自己中心的になるのではなく、ボケることによって、それをおおっている
パンが、薄くなるから、自己中心性が表に出てくる。

 このことは、頭のボケた兄を観察していると、わかる。

 「ステレオがこわれた」と言っては、私のところにやってくる。しかしどこもこわれていない。タイ
マーにスイッチを勝手に押したため、タイマーがかかってしまう。

 そこで「タイマーを押してはダメ」と言って、タイマーのところに、ガムテープを張ってやる、が、
すぐそれをはずしてしまう。そしてまた、「こわれた!」と。

 毎日が、その繰りかえし。

 が、ときどき、自分からやってきて、「ステレオがなおった」「なおった」と報告にくる。私には、
どうでもよいことなのだが、兄には、それがわからない。私も同じように、ステレオの心配をして
いると思いこんでいる。そしてステレオがなおれば、私も、同じように喜ぶと、思いこんでいる。

 これが兄の自己中心性だが、こうした自己中心性は、満4歳児や5歳児についても、観察さ
れることがある。

 ……ということで、結論として、「もともと人間は、自己中心的な生き物だが、それをカバーし
ていた(おおい)が、ボケとともに、はずれたため、その結果として、自己中心性が、表に出てく
ると言う考え方」のほうが正しいのではないかと思う。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●夫婦の同調性

 夫婦といっても、いろいろな夫婦がいる。

 たがいに遠慮しあっている夫婦もいれば、ズケズケと言いたいことを言いあっている夫婦もい
る。それなりに、みな、うまくいっている。こと夫婦に関していえば、「こうあるべき」「こうあるべ
きではない」というふうに、形を決めることができない。

 しかし、その夫婦でも、微妙なニュアンスのちがいを感ずることがある。夫でいえば、妻側の
親類や兄弟に対する感じ方。妻でいえば、夫側の親類や兄弟に対する感じ方。

 もう少し具体的に考えてみよう。

 たとえば妻側の兄弟のだれかが、不幸な事件に巻きこまれたとする。そのとき、夫は、それ
なりに心配はするが、しかしそこには、限度がある。妻が、心配するほどには、心配しない。む
しろ妻をなぐさめる側に回る。

 反対に夫側の兄弟のだれかが、不幸な事件に巻きこまれたときも、そうだ。夫としては、自分
が心配するのと同じくらい、妻も同じように心配しているのではないかと思う。しかしそれにも限
度がある。そこまでは期待できない。夫側の問題は、あくまでも夫側の問題。

 しかしこうした問題は、夫婦の同調性を知る、一つの方法にはなる。つまりどこまで感情を共
有できるかによって、夫婦の同調性を知ることができる。当然のことながら、同調性の高い夫
婦ほど、親密度の高い夫婦ということになる。そうでなければ、そうでない。

 この話を進める前に、夫婦の同調性について、考えてみる。

 この話を進める前に、夫婦の同調性について、考えてみる。その同調性は、大きく、つぎの4
つに分けられる。

(1)同調性(相手と同じように考えたり、悩んだりする。)
(2)共鳴性(心の状態が、そのまま伝わってくる。)
(3)同情性(相手と同じような心の状態になる。)
(4)協調性(ともに、同じ行動をとる。)

 10年、20年といっしょに暮らしていると、夫婦の間に、ここでいう同調性が生まれる。わかり
やすく言えば、一体感。しかしこれには、一つ、重要な条件がある。

 農業や商業、自営業のような仕事を、ともにしている夫婦である。サラリーマン家庭のよう
に、夫は朝7時に出社、夜11時に帰宅というような家庭では、こうした同調性は、生まれにくい
のでは……?

 そう言えば、アメリカでサラリーマン生活をしている息子から聞いた話だが、あのあたりでは、
夫たちは、昼食時も、自宅に帰って、食事をするそうだ。またオーストラリアでは、仕事の帰り
に、職場の仲間たちと、いっしょに食事をすることは、ありえないという。欧米では、同じサラリ
ーマンをしながらも、夫たちは、日本人より、夫婦のつながりを、はるかに大切にしているよう
に感ずる。これは余談。

 しかしこの同調性があるから、夫婦という。この同調性が崩れたとき、同時に、夫婦の関係
も、終わる。残るのは、味気ない、夫婦という、形だけの関係……というのは、言い過ぎかもし
れないが、そういう関係に苦しんでいる夫婦は、多い。

 「セックスレスなんて、あたりまえ。朝も、家族の顔を見る前に、追い出されるように出社しま
す」と言った、男性がいた。が、それでいても、夫婦は夫婦。それなりに、みな、何となく、うまく
やっている。

 前にも引用したが、結婚の幸福度は、つぎの4つをみて、判定するそうだ(アメリカ・心理学
者・ターマン)。

(1)戸外の娯楽(趣味)を、ともにする。
(2)家計の扱いについて、夫婦が一致している。
(3)たがいに配偶者として、尊敬している。
(4)生まれかわっても、同じ配偶者と結婚すると思っている。

 ターマンによれば、仕事の内容や、同居時間は、あまり関係ないということになる。これは一
つの希望であると同時に、一方で、「そうかな?」という疑問も残るところである。

 私もいろいろな夫婦の形態を見てきたが、理想的な形というのは、やはり農村でみる夫婦の
形が、そうではないかと思う。朝、いっしょに起きて、たがいに仕事の段取りをして、共同して働
く。つまり苦楽をともにする、ということ。

 そういう中から、夫婦として、あるべき関係をつくりあげていく。家族のあり方は、その結果と
して、生まれる。

 国によっても、考え方はちがうが、たとえばこれからの未来では、こんな夫婦の形が、生まれ
てくるかもしれない。

 仕事は、家庭で。会社と家庭は、ネットワークでつながれている。夫と妻は、あくまでも共同経
営者。午後は、夫婦で食事をして、午後からは、それぞれが、それぞれの職場へ。しかし夕方
5時には家に帰ってきて、いっしょに、夕食。友だちを招待することも多い。

 ここでの結論を言えば、今まで、私たちは、あまりにも夫婦の形を犠牲にしすぎた。熟年離婚
とまではいかなくても、ほとんどの夫婦が、その一歩手前で、かろうじてふんばっている。私た
ちの年代の夫婦をながめてみると、そんな感じがする。

 私たち夫婦も含めてでの話だが、たがいに愛しあい、助けあい、励ましあい……などという夫
婦は、10組に1組もないのでは……? 

 話がそれたが、夫婦のきずなは、その同調性で決まる。夫の悲しみや苦しみは、妻の悲しみ
であり、苦しみ。妻の希望や喜びは、夫の希望であり、喜びである。

 そうした同調性が高い夫婦が、幸福な結婚生活ということになるのでは……?

 本当のところ、いまだに、よくわからないが……。このつづきは、また別の機会に。この原稿
は、あくまでも、参考までに。
(はやし浩司 幸福な結婚 結婚観 ターマン 夫婦の同調性 理想的な夫婦像)

+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●私の体質

 私は、戦後生まれだが、しかしいまだに、男尊女卑の思想を色濃く、心のどこかに残してい
る。「男は、仕事。女は、家事」という考え方も、完全に消えたわけではない。

 若いころは、仕事第一主義で、そのために家庭が犠牲になっても、しかたないと考えていた。
「男は、仕事さえしていればよい」とか、「家族を養ってやっている」という思いも、なかったとは
言わない。当時は、まだ、そういう時代だった。

 しかしこういう生き方はまちがっている。それはそのあと、さまざまな経験をとおして、思い知
らされた。オーストラリアでの留学時代が、とくに、大きな影響を与えたことは言うまでもない。

 で、それから30年以上。もうとっくの昔に忘れたはずなのに、この年齢になって、ときどき、
顔を出すようになった。亡霊のようでもある。あるいは、外皮がむけて、中身が外に出てきたの
かもしれない。

 たとえば仕事のことで、何かつまずいたようなとき、「男して、なさけない」とか、「こんなこと
は、妻には離せない」とか、そんなふうに考えてしまう。つまり、この「男して……」という部分
に、その亡霊のはしくれを感ずる。

 おかしなものだ。こういうときというのは、渥美清が演じた、『フー天の寅さん』を思いだす。
「男はつらいよ」という、あの言葉である。だれかに頼りたくても、頼れる相手はいない。そこに
いるのは、自分だけ。絶壁とまではいかないにしても、追いつめられた感じはする。で、ふと口
から出てくる言葉が、「男はつらいよ」。

 こうした思いは、女性も、もつものなのだろうか。あるいは、昔風の男だけがもつ独得の、思
いなのだろうか。しかし、女性が、「女はつらいよ」と言ったとしたら、それを聞いた人は、別の
意味にとらえてしまうかもしれない。

 景気は好転しつつある(?)とはいうものの、中高年に対する風当たりは、きつい。ある友人
は、先日、メールでこう書いてきた。

 「一社懸命(一生懸命)働いてきたつもりなんだけど、結果がこうではね」と。その彼は、その
少し前、30年近く勤めた会社を、リストラされた。その悲哀感というか、さみしさは、こう書くの
は失礼なことかもしれないが、女性たちには、理解できないかもしれない。

 今日も、どこか重い心をひきずりながら、仕事に向う。このところ、いいことなし。「健康である
だけでも、感謝しなければ」と、自分を励ます。が、同時に、「健康でなくなったら、どうしよう」と
も、考えてしまう。

 このところ、花粉症のこともあって、気が滅入る。きっと、軽いうつ状態になっているせいかも
しれない。今夜は早く、寝よう。(おやすみなさい)
(050224)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(544)

●夫婦の同調性

 夫婦といっても、いろいろな夫婦がいる。

 たがいに、どこか遠慮しあっている夫婦もいれば、ズケズケと言いたいことを言いあっている
夫婦もいる。それなりに、みな、うまくいっている。こと、夫婦についていえば、「こうあるべき」
「こうあるべきではない」というふうに、形を決めることができない。

 しかし、その夫婦でも、微妙なニュアンスのちがいを感ずることがある。夫でいえば、妻側の
親類や兄弟に対する感じ方。妻でいえば、夫側の親類や兄弟に対する感じ方。

 もう少し具体的に考えてみよう。

 たとえば妻側の兄弟のだれかが、不幸な事件に巻きこまれたとする。そのとき、夫は、それ
なりに心配はするが、しかしそこには、限度がある。妻が、心配するほどまでには、心配しな
い。むしろ妻をなぐさめる側に回る。

 反対に夫側の兄弟のだれかが、不幸な事件に巻きこまれたときも、そうだ。夫としては、自分
が心配するのと同じくらい、妻も、心配していると思う。(あるいは心配をかけてはいけないと思
う。)しかしそこまでは期待できない。夫側の問題は、あくまでも夫側の問題。

 しかしこうした問題は、夫婦の同調性を知る、一つの方法(バロメーター)にはなる。つまりど
こまで感情を共有できるかによって、夫婦の同調性を知ることができる。当然のことながら、同
調性の高い夫婦ほど、親密度の高い夫婦ということになる。そうでなければ、そうでない。

 この話を進める前に、夫婦の同調性について、考えてみる。その同調性は、大きく、つぎの4
つに分けられる。

(5)同調性(相手と同じように考えたり、悩んだりする。)
(6)共鳴性(心の状態が、そのまま伝わってくる。)
(7)同情性(相手と同じような心の状態になる。)
(8)協調性(ともに、同じ行動をとる。)


+++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩


●私の体質

 私は、戦後生まれだが、しかしいまだに、男尊女卑の思想を色濃く、心のどこかに残してい
る。「男は、仕事。女は、家事」という考え方も、完全に消えたわけではない。

 若いころは、仕事第一主義で、そのために家庭が犠牲になっても、しかたないと考えていた。
「男は、仕事さえしていればよい」とか。「家族を養ってやっている」という思いも、なかったとは
言わない。当時は、まだ、そういう時代だった。

 しかしこういう生き方はまちがっている。それはそのあと、さまざまな経験をとおして、思い知
らされた。オーストラリアでの留学時代が、とくに、大きな影響を与えたことは言うまでもない。

 で、それから30年以上。もうとっくの昔に忘れたはずなのに、この年齢になって、ときどき、
顔を出すようになった。亡霊のようでもある。あるいは、外皮がむけて、中身が外に出てきたの
かもしれない。

 たとえば仕事のことで、何かつまずいたようなとき、「男して、なさけない」とか、そんなふうに
考えてしまう。つまり、この「男して……」という部分に、その亡霊のはしくれを感ずる。

 おかしなものだ。こういうときというのは、渥美清が演じた、『フー天の寅さん』を思い出す。
「男はつらいよ」という、あの言葉である。だれかに頼りたくても、頼れる相手はいない。そこに
いるのは、自分だけ。絶壁とまではいかないにしても、追いつめられた感じはする。で、ふと口
から出てくる言葉が、「男はつらいよ」。

 こうした思いは、女性も、もつものなのだろうか。あるいは、昔風の男だけがもつ独得の、思
いなのだろうか。しかし、女性が、「女はつらいよ」と言ったとしたら、それを聞いた人は、別の
意味にとらえてしまうだろう。

 景気は好転しつつある(?)とはいうものの、中高年に対する風当たりは、きつい。ある友人
は、先日、メールでこう書いてきた。

 「一社懸命(一生懸命)働いてきたつもりなんだけど、結果がこうではね……」と。その彼は、
その少し前、30年近く勤めた会社を、リストラされた。その悲哀感というか、さみしさは、こう書
くのは失礼なことかもしれないが、女性たちには、理解できないものかもしれない。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●株価が1日で、2日間で、6万円も上昇!

 M社のパソコンがほしかった。それで数年ぶりに、ネット取り引きを始めた。で、先月は、G社
株で、xx万円(2桁)儲けた。で、そのあと、そのパソコンのメーカーのM社株を、xx株買った。
しかしすぐ、x万円、損をした。

 株価が下がったところで、改めてM社株を、xx株買った。(この会社は、1株単位で買う。)

 ところが買ったとたん、株価はジリジリとさがり始めた。「こんなことなら、株ではなく、パソコン
を買えばよかった」と思った。

 ところがである。24日(木曜日)、M社の株が2万円近く、あがった。ほぼ、買ったときの株価
に、もどった。

 さらに25日(金曜日)、株価は、一気に、上昇に転じた。午前中だけで、2万円も上昇。その
少し前に、私はM社の株を売った。これでxx万円の儲け。

 ヤッター!

 ……と思っていたら、M社の株は、さらに上昇をつづけ、25日の終値で、前々日比、計6万
円も上昇! 

 あと1時間、売るのをがまんしていたら、さらにxx万円、儲けたことになる。おしかった!

 しかし欲深い人は、損をする。私の目的は、新型パソコンを買うこと。その分のお金を、儲け
ること。つまり、すでにじゅうぶん、儲けた。

 で、今朝(26日)から、M社のウェブサイト(HP)を、あちこち、読んでいる。ほしい機種は、ほ
ぼ決まっている。

M社 AD63xxタイプ GT−SP1。

PEN 4 プロセッサ 640(3・2GH)
デュアル・チャンネル DDR2 SD−RAM 1024MB
160x2=320GB ハードディスク
nVIDIA GeForce 6600GTなどなど。

17インチ液晶モニターが付属して、17万円弱(送料込み)

 しかし、すごいパソコンだ。数字を見ただけで、ドキドキする。

 それをワイフに話すと、つまり株で、xx万円儲けたことを、ワイフに話すと、「もっと、株で儲け
たら?」と。すぐ欲を出すところが、ワイフの悪いところ。

 「あのね、儲けようと思わないから、儲かるの。儲けようと思う人は、損をするの。あくまでも、
小遣いの範囲で、楽しんでするから、儲かるの」と。


●否定的会話、肯定的会話

 仲が悪い老夫婦がいる。朝から晩まで、口げんかをしているという。それを見ている女性
(嫁)が、こう言った。

 「おたがいに、相手の言っていることを、何からなにまで、否定するのです。だから、けんかに
なって、当然です」と。

 たとえば夫が、「今朝は、パンを食べたい」と言うと、妻がすかさず、「朝から、パン?」と言う。

夫「パンは、ないのか?」
妻「あるわよ」
夫「だったら、パンでいい」
妻「せっかく、味噌汁を暖めたのに」

夫「今日は、このコートで散歩に行く」
妻「外は、寒いわよ」
夫「この服ではだめか?」
妻「こちらのにしなさい。そのコートは、穴があいているから」

夫「犬も散歩に連れて行く」
妻「やめなさいよ」
夫「海へ行きたい」
妻「風が強いわよ」と。

 妻側の根性は、かなりひねくれている。あるいはたとえば、もともと望まない結婚が根底にあ
って、不平不満が、心の奥底に、大きな(わだかまり)として残っているのかもしれない。生い立
ちの、貧しい家庭環境が、原因かもしれない。

その女性の話を聞くと、義母(=妻)は、義父(=夫)のやることなすこと、すべてが、気に入ら
ないらしい。

 そこで夫が、まずこう叫ぶ。「そうまで、何かなにまで、否定しなくてもいいだろう!」と。しかし
妻には、それが理解できない。否定しているという意識すら、ない。いわんや、心の奥底に潜
む、(わだかまり)に気づいていない。

 実際、こういう女性のような人と会話をしていると、少しも楽しくない。「あら、すてき」「そうね」
「そうしましょう」という、肯定的な返答があれば、会話も楽しくなる。しかし、そのつど、「それ
は、ダメよ」「いやよ」「ほかにことをしましょうよ」と言われたら、つぎの言葉すら、出てこない。

 そこでけんかになる。

 が、けんかになったとたん、その妻は、ますますがんこになるという。その女性に話しによれ
ば、いつも同じけんかをするという。

夫「もう、これ以上、さからうな!」
妻「さからってないわよ。どこがさからっているというの!」
夫「今、そう言って、さからっている!」
妻「さからっていないわよ!」と。

 この夫婦は、もっと、早い時期に離婚すべきだったかもしれない。これからも、暗くて、つまら
い、老後の夫婦生活を送ることになる。

(会話術)

 相手を楽しませる会話術というのを考えてみた。コツがある。

(1)「そうね」「それはいいね」と、いつも前向きにほめる。
(2)「じゃあ、こうしたらいい」と、相手の言ったことを、前向きに伸ばす。
(3)相手の言っていることを、まず、しっかりと聞く。
(4)自分の結論を、性急に出さない。
(5)基本的には、相手が取りあげたテーマについては、聞き役に回る。

 一方、してはいけないこととして、こんなことがある。

(1)知ったかぶりをしない。
(2)「そうじゃないわよ」式の否定をしない。
(3)頭から、「ダメよ」式の否定をしない。

 これは幼児を伸ばすときのコツでもある。たとえば幼児を指導するとき、重要なことは、おと
なの優位性を見せつけないこと。優位性を見せつければ見せつけるほど、子どもは、おとなに
対して服従的になったり、依存的になったりする。ひどいばあいには、自信喪失から、おとなに
なることに、恐怖感を覚えるようになるかもしれない。

 「パパって、意外と、だらしないな」「ママって、バカなところがあるね」と子どもに思わせつつ、
子どもに自信をもたせる。たとえばプロレスごっこをしても、最後は、おとなのほうが、負けたフ
リをしてみせる。決して、子どもを、やりこめたままにしてはいけない。


●ボケ兄行状記・その後

 「ボケ」という言葉自体が、その人の人権を無視している。(ふつうの世界では、禁止語。)そ
れはよくわかっている。しかし頭のボケた兄の介護をするのは、そういう言葉を使っても罪の意
識を感じないほどの、重労働。

 世話がかかるなどという、生易(なまやさ)しいものではない。トイレまでの廊下で、小便をもら
す。便器の周辺に、小便をまきちらす。そのたびに、雑巾で廊下を拭く。しかしその雑巾を、兄
は、いつの間にか、台所へもってきて、それでテーブルの上を拭く。

 が、何よりもつらいのは、(心の交流)がないこと。

 親切にしてやったり、やさしくしてやったりすることが、すべてアダとなって、かえってくる。

 当初、音楽を聞きたいというから、私が使っていたステレオセットを貸してやった。が、あっと
いう間に、破壊してしまった。

 台所で、自由で遊ばせていたら、ガスコックをひねってしまい、あやうく大惨事になるところだ
った。

 あるいは居間に座らせておいたら、税務署に提出する申告書を、メチャメチャにしてしまっ
た。一日で、乳酸飲料の「K」を、飲んでしまった。ほかに食事中でも、時をかまわず腸内ガス
を出す。便器を大便で汚す……。

 で、本人は、そうしたサービスに、少しは感謝しているかと思うと、そうではない。食事のたび
に、不平不満。

 「養M酒(薬用の酒)を、飲まないと、元気が出ない」
 「寝る前にミルクを飲まないと、朝、起きれない」などなど。

 間接的な言い方で、あれこれ注文をつけてくる。食事だけが楽しみなのは、よくわかる。しか
し、ほとんど毎日、「まずい」とか、「かあちゃんは、もっとおいしいものを出してくれた」などと言
う。

 しかたないので、私たちが家を出るときは、台所や居間には、入れないように、カギをつけ
た。玄関からは出て行かれないように、外からのカギもつけた。放火癖もあるから、ライターや
マッチ類は、すべて、始末した。

 そんなわけで、現在、私の心の中には、2人の自分がいる。やさしく心の温かい自分。もう1
人は、冷淡で、きびしい自分。

 こうしたボケた老人を指導するときは、どうしても、言葉がきつくなる。「○○ちゃん、こうした
ら、いいけどな」というような言い方では、通じない。そこでどうしても、結論だけの、命令口調に
なる。「〜〜しなさい!」と。

 こういう言い方が、他人には、冷たい言い方に聞こえるらしい。しかしことボケ老人には、やさ
しい、心のこもった言い方は、通用しない。(ボケ老人にもいろいろあるようだが……。)

 今夜も寝る前に、「体の調子はどうだ?」と声をかけてみた。数日前から、「頭が痛い」と言っ
ていた。そのつど、熱を測ったが、何ともない。

 すると、「熱がある。37度ある」と言う。「体温計で測ったのか?」と聞くと、脇の下から、体温
計を出すフリをする。

私「体温計など、ないぞ」
兄「あれ、机の上かな?」と。

 空想と現実が、ごちゃごちゃになってしまっているらしい。

私「体温計など、ないぞ。ウソを言ってはいかん」
兄「おかしいな、今まで、あったけどな」と。

 ところで、書店をのぞいてみると、ボケ防止に関する本は、たくさんある。ボケを自分で自覚し
て、予防しようとする人たちが読む本である。

 しかしボケてしまった人たちが読む本は、ない。ボケてしまった人は、もう本など読まない。そ
れにボケても、自分では、ボケたという自覚がない。兄もそうだ。

兄「みんなが、ぼくを、バカと、バカにする」
私「しかたないだろ。そうなんだから。お前はバカだよ」
兄「みんなが、バカにする」と。

 まあ、一応、私も教育評論家だが、たいへんひどいことを、口にしているような気がする。本
来なら、許されない言葉の連続。「ボケ」とか、「バカ」とか。まあ、そのうち、教育「評論家」の名
前など、返上しようかと考えている。こんなバカげた道楽(失礼!)、いつまでも、やっておられ
ない! (……というところまで考えてしまう。)

 しかしこれが現実。まさに現実。

 この日本には、ボケ老人は、10万人単位でいる。悲惨なのは、ボケた本人よりも、その周辺
で、悪戦苦闘している家族たち。その苦労と苦痛は、想像を絶するものである。ワイフですら、
兄と同居するようになってから、こう言った。

 「黒い雲が、どっかりと、家の中に居座っている感じ」と。

 いくら脳の機能が鈍っても、あるいは身体に障害があっても、(心の交流)があれば、まだ救
われる。介護する側は、それに励まされる。一言でも、兄の口から、「すまない」「ありがとう」と
いう言葉が、自然な形で出てくれば、苦労も、半減する。喜びにかわる。

 しかしボケ老人には、それがない。おかげで、今日の午後も、遠出はなし。兄の入れ歯装着
剤を買いにいったり、トイレ掃除用具を買いに行ったりで、つぶれてしまった。早く介護申請を
取りたいが、住民票が、まだG県のほうにあるので、ままならない。

 昨夜も郷里の姉に電話でこう言った。「お金がほしいわけではないけど、兄の年金分くらい
は、もらわないと、アホらしくて、世話はできないね」と。

 だから私はあえて言う。

 私のことを、頭のボケた兄のめんどうをみている、すばらしい弟だと思っているなら、それは
大まちがい! みたくて、みているのではない。私に、すぐれた人間性があるから、しているの
でもない。見るにみかねて、しかたないから、しているだけ! ハハハ!

 ……と書きながら、我が家の悪戦苦闘は、まだまだつづく。がんばります。がんばりましょう。

(付記)

 痴呆老人の介護をしていると、同時に、2つの相反する感情が、心を埋める。

 一つは、(冷淡と無視)。もう一つは、(同情と憐れみ)。

 しかし温情は、禁物。そのスキをついて、温情が、そのままアダになる。だから油断できな
い。もちろん、説得や約束、説教などは、意味がない。叱ったり、怒ったりすれば、逆効果。

 だから心の奥底では、(同情とあわれみ)を覚えながら、表面的には、かなり冷酷に接するし
かない。ものの言い方も、先に書いたように、結論だけの、つまりは、命令口調になる。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(545)

●長寿と健康

 この日本には、100歳以上の老人が、2万4000人以上いるといわれている(04・厚生労働
省調べ)。

 しかし残念なことに、健康で自活している老人は、数%といわれている。ほとんどが、介護を
必要とする老人ばかり。大半が、寝たきり老人ともいわれている。

 まあ、私も100歳とまでは思っていないが、ギリギリまでは生きたい。ただし、家族には、迷
惑をかけないような状態で、である。

 そこで必要なのは、自己管理能力ということになる。健康の何割かは、その人の自己管理能
力によって決まる。で、ざっと周囲を見回してみても、暴飲暴食を繰りかえし、タバコを吸い、運
動もしないという老人は、みるからに不健康な様子をしている。

 白澤卓二(東京老人総合研究所)という人が、「月刊現代」(雑誌)の中で、百寿者(100歳以
上生きている老人)の共通点として、つぎの6か条をあげている。それをそのまま、ここに紹介
させてもらう。

(1)タバコを吸わない。
(2)飲酒は適量
(3)高学歴
(4)子どものころ、比較的裕福な家庭で育った
(5)性格特性については、男性が神経症的傾向、女性は外向性傾向。誠実性が高く、男女と
も、調和性は低い。
(6)身体機能、疾病などについては、白内障や骨粗しょう症、骨折は多数認められる一方、糖
尿病の離間率が非常に少ない。また動脈硬化の進行が、遅い。

 東洋医学では、つぎのように教える。以前、私が書いた原稿を、そのまま転載する。

++++++++++++++++++

いわく、「八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨
み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの
崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的に
も悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」(上古天真論篇)と。

++++++++++++++++++

 ついでに、この上古天真論をテーマにして、書いた原稿を、
添付しておきます。(中日新聞発表済み)

++++++++++++++++++

子育ては自然体で(中日新聞掲載済み)

 『子育ては自然体で』とは、よく言われる。しかし自然体とは、何か。それがよくわからない。
そこで一つのヒントだが、漢方のバイブルと言われる『黄帝内経・素問』には、こうある。これは
健康法の奥義だが、しかし子育てにもそのままあてはまる。

いわく、「八風(自然)の理によく順応し、世俗の習慣にみずからの趣向を無理なく適応させ、恨
み怒りの気持ちはさらにない。行動や服飾もすべて俗世間の人と異なることなく、みずからの
崇高性を表面にあらわすこともない。身体的には働きすぎず、過労に陥ることもなく、精神的に
も悩みはなく、平静楽観を旨とし、自足を事とする」(上古天真論篇)と。

難解な文章だが、これを読みかえると、こうなる。

 まず子育ては、ごくふつうであること。子育てをゆがめる三大主義に、徹底主義、スパルタ主
義、完ぺき主義がある。

徹底主義というのは、親が「やる」と決めたら、徹底的にさせ、「やめる」と決めたら、パッとや
めさせるようなことをいう。よくあるのは、「成績がさがったから、ゲームは禁止」などと言って、
子どもの趣味を奪ってしまうこと。親子の間に大きなミゾをつくることになる。

スパルタ主義というのは、暴力や威圧を日常的に繰り返すことをいう。このスパルタ主義は、
子どもの心を深くキズつける。また完ぺき主義というのは、何でもかんでも子どもに完ぺきさを
求める育て方をいう。子どもの側からみて窮屈な家庭環境が、子どもの心をつぶす。

 次に子育ては、平静楽観を旨とする。いちいち世間の波風に合わせて動揺しない。「私は私」
「私の子どもは私の子ども」というように、心のどこかで一線を引く。あなたの子どものできがよ
くても、また悪くても、そうする。が、これが難しい。親はそのつど、見え、メンツ、世間体。これ
に振り回される。そして混乱する。言いかえると、この三つから解放されれば、子育てにまつわ
るほとんどの悩みは解消する。

要するに子どもへの過剰期待、過関心、過干渉は禁物。ぬか喜びも取り越し苦労もいけない。
「平静楽観」というのは、そういう意味だ。やりすぎてもいけない。足りなくてもいけない。必要な
ことはするが、必要以上にするのもいけない。「自足を事とする」と。実際どんな子どもにも、自
ら伸びる力は宿っている。そういう力を信じて、それを引き出す。

子育てを一言で言えば、そういうことになる。さらに黄帝内経には、こうある。「陰陽の大原理に
順応して生活すれば生存可能であり、それに背馳すれば死に、順応すれば太平である」(四気
調神大論篇)と。

おどろおどろしい文章だが、簡単に言えば、「自然体で子育てをすれば、子育てはうまくいく
が、そうでなければ、そうでない」ということになる。

子育てもつきつめれば、健康論とどこも違わない。ともに人間が太古の昔から、その目的とし
て、延々と繰り返してきた営みである。不摂生をし、暴飲暴食をすれば、健康は害せられる。
精神的に不安定な生活の中で、無理や強制をすれば、子どもの心は害せられる。栄養過多も
いけないが、栄養不足もいけない。子どもを愛することは大切なことだが、溺愛はいけない、な
ど。少しこじつけの感じがしないでもないが、健康論にからめて、教育論を考えてみた。

++++++++++++++++++

 ところで最近、年の功というか、若い親たちをみると、「ああ、この人は、このままだと、やが
て不健康になるぞ」とか、「この人は、年をとっても、健康のままだろうな」ということが、わかる
ようになった。

 ポイントは、肌。(肌しか、見えないが……。)漢方でいえば、肌肉(きにく)の様子ということに
なる。

 健康に注意している人は、その肌肉が、ひきしまり、ツヤがある。生き生きとした精彩を放っ
ている。

 が、そうでない人は、肌肉が、だらしなくたれさがっていて、どんよりとくすんでいる。漢方で言
えば、同じ白でも、ガイコツのような白さ、同じ黒でも、ススのような黒さということになる。

 それをもう少しまとめてみると、こうなる(はやし浩司著「目で見る漢方診断」より)。


(同じ、青い顔色でも……)
 草むしろのように、光沢を失った白っぽい、青色……死相
 カワセミのように、光沢のある青色……生きる症

(同じ、赤い顔色でも……)
 腐れ血のような、光沢のないどす黒い赤……死相
 雄鶏のトサカのように、光沢のある赤……生きる症

(同じ、黄色い顔色でも……)
 カラタチの熟した果実のように、光沢のない黄色……死相
 カニの卵を抱いた腹のように、光沢のある黄色……生きる症

(同じ、白い顔色でも……)
 ガイコツのように、光沢のない汚白色……死相
 豚の脂身のように、光沢のある白色……生きる症

(同じ、黒い顔色でも……)
 ススのように光沢のない、灰黒色……死相
 カラスの濡れ羽のように、光沢のある黒色……生きる症
  (以上、素問・五臓生成論編)


 で、やはり健康管理ということになるが、ここでまた、別の問題にぶつかってしまう。

 「長生きをして、それがどうなのか?」という問題である。

 そこで私は、「生きる」を、つぎの二つに分けて考える。(息る)と、(活きる)である。ともに「い
きる」と読む。

(1)息(いき)る……ただ生きているだけという生き方をいう。
(2)活(い)きる……自分で自分を活かしながら、活きる生き方をいう。

 だからといって、寝たきりの老人が、どうこうというのではない。みんな、最後の最後まで、天
寿をまっとうして生きることは、重要なことである。それはどんなことがあっても、否定してはい
けない。

 もしそれを否定してしまうと、「生命の限界」に、歯止めがかからなくなってしまう。端的に言え
ば、「生きる価値のないものは、死ねばよい」という、とんでもない発想に結びついてしまう危険
性がある。

 だから、人間は、最後の最後まで、生きる。たとえ息をするだけの人間になったとしても、生
きる。またそういう形で、まわりの私たちが、「生命の限界」を守ることは、重要なことである。

 が、こと、私自身のことになると、そうは思わない。先日も、私は、ワイフにこう言った。

 「もし、ぼくが寝たきりになったら、そっとそのままにしておいてほしい。風邪などをひいて、肺
炎にでもなれば、そのまま死ぬことができる。ムダな治療は、してほしくない」と。

 ワイフは、「わかったわ」とだけ言ったが、半分、うれしく、半分、さみしかった。

 生きる以上は、活きる。息ていいるだけでは、いけない。しかしこれはどこまでも、個人的なテ
ーマでしかない。私やあなたが、個人的な立場で、自分で考えて決めることである。
(はやし浩司 生きる 活きる 息る 上古天真論 八風の理 健康法)

【補記】

 日本語というのは、もともとは、単純な言語であったようだ。

 「かみ」というときは、「神」「髪」「上」「紙」などを意味する。共通するのは、「高貴なもの」「高
価なもの」という意味。つまり「高貴なもの」は、すべて「かみ」と言った?

 同じように、「くさ」も、「草」から、「臭い」「腐る」と転じたのではないか? 「草は臭い」「腐ると
臭い」など。

 ここで取りあげた、「生きる」もそうだ。もともとは、ひょっとしたら、「息をしていることを、生き
る」と言ったのではないか。漢字が、中国から輸入されたのは、ずっとあとになってからのこと
である。

 つまり「いきる」というのは、「息」に「る」が、ついて、動詞化したとも考えられる。息をしている
状態を、生きている、と。大昔の日本人は、その人の息をみて、生きているか、死んでいるか
を判断したにちがいない。(多分?)

 で、私は、「生きる」を、「息る」と「活きる」に分けた。決して、ダジャレで分けたのではない。そ
れをわかってほしかった。

 
++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
 
最前線の子育て論byはやし浩司(546)

●どうも調子が悪い(?)

 軽い風邪をひいたせいか、それとも、花粉症の初期症状のせいか、どうも、体の調子がよく
ありません。

 集中力も、長つづきしません。あれこれ考えてはいるのですが、それらが、シャボン玉の玉の
ように、パチン、パチンと、そのままはじけてどこかへ消えてしまいます。

 雑誌を、ぼんやりとながめているだけ。本来なら、今日あたりは、3月28日号のマガジンの
発行予約を入れなければならないのですが、原稿が足りません。足りないどころか、3月25日
号すら、まだ発行していません。(一応、一回分で、1500字x20枚と決めています。)

 さあ、どうしよう?

 そうそう、昨夜、自分で、画廊を開きました。今まで描いてきたイラストを、販売してみようと思
っています。興味のある方は、(はやし浩司のHP)のトップページの、「はやし浩司の画廊」か
ら、どうぞ。訪れてみてください。

 私が描いたイラストなんか、売れるだろうとは思っていません。まあ、何というか、「こんなこと
もできる」という、遊びのようなものです。ここで販売しているイラストは、今まで、自分の書いた
本の中で、さし絵として使ったものばかりです。

 ところで、気分が、晴れないのは、天気のせいかも? 曇りというわけではないですが、寒々
とした風が、ヒューヒューと吹いている。

 まあ、いろいろあります。この仕事も、楽しいことばかりではありません。ときどき、どこかへ
逃げたくなります。何もかも、忘れて……。何もかも、捨てて……。

 が、たまの日曜日。さきほど、山荘から帰ってきました。昼飯を食べて、昼寝して、それから
庭の雑草を、ワイフと2人で、抜いてきました。

 友人のTさんが、今度、隠居用の離れの部屋を増築したとか。祝いの席に招かれていたので
すが、そんなわけで、今日は、失礼してしまいました。(Tさん、ごめんなさい!)

 私には、軽い回避性障害があるのかも?

 こういうときは、だれにも会いたくありません。めんどうというより、わずらわしい……。かとい
って、頭の中は、カラッポ。だから今は、こんな文章しか、書けません。読んでくださっている方
には、たいへん申し訳ないと思います。どうか、お許しください。

 では、これからこのままコタツの中で、横になります。(ゴロリ)

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(547)

●ウソも方便

 子どもたちには、私は、いつも「ウソをついてはいけない」と教えている。しかし日本には、『ウ
ソも方便』という格言がある。使いようによっては、ウソも悪くない、と。その出典は、法華経(ほ
けきょう)という経典である。その経典の方便品(ほうべんぽん)の中に、こんな説話がある。

 あるとき、ある富豪の屋敷で、火事が起きた。門は、一つしかない。しかし中では、30人近い
子どもたちが、遊んでいる。このままでは、子どもたちは火事に巻きこまれて、死んでしまう。

 そこでその家主は、屋敷の中に飛びこんでいった。「火事だ、お前たち、外に出ろ!」と。しか
し子どもたちは、その意味がわからず、相変わらず、遊びつづけていた。そこで家主は、言葉
を変えた。

 「門の外に、きれいな羊車や、鹿車や、牛車や、がきている。さあ、行って乗ってきなさい」と。

 すると子どもたちは、ワーッと歓声をあげて、門の外に出たという。

 ここでいう「門」とは、「正門」、つまり「正法(しょうほう)につづく門」をいうという。つまり法華経
では、無邪気な人間を、正しい道に導くためには、ウソも使い方によっては、許されると教え
る。「ウソも方便」という言葉は、ここから生まれた。

 なお別説によると、そのときの家主は、子どもたちを火事から救い出したあと、子どもたち
に、おもちゃやお菓子をいっぱい積んだ牛車をプレゼントしたという。ウソのままで終わらせな
かったということか(?)。

 で、この話についての解釈はさておき、現代の私たちは、火事がすぐそばまできているにも
かかわらず、遊びこけている子どもたちのようなものかもしれない。

 環境、地球温暖化、緊迫するアジア情勢、K国の核問題などなど。どれ一つをとっても、深刻
な問題ばかりなのだが、ノー天気というか、そのときは、「そうだな」と思っても、つぎの瞬間に
は、それを忘れてしまう。

 これは意識の問題というよりも、脳ミソそのものの欠陥と考えてよい。人間の脳ミソというの
は、同時に複数の問題を処理することができない。たとえば英語を読みながら、掛け算の計算
をすることができない。

 つまり一つの問題に対処していると、そのほかの問題が、意識の中から、消えてしまう。が、
それだけではない。

 問題の軽重が、判断できなくなってしまう。

 ショッピングセンターに入るまで、地球の環境問題を論じていても、センターに入ったとたん、
「今晩のおかずは、何にしよう」と考え始める。と、同時に、環境問題については、すっかり、忘
れてしまう。

 そこで私たちが、その屋敷の中で、遊ぶ子どもたちであるとするなら、私たちは、どうすれば
よいのかということになる。火事は、もう、そこまで迫っている。このままでは、私たちは、みな、
焼け死んでしまう!

 私は、私たち一人ひとりが、賢くなること以外に方法はないのではないかと思う。ウソで導か
れるような時代でもないし、個人的には、私は、ウソは大嫌い。たとえそれが正門(正法)につ
づくウソではあったとしても、だ。

 屋敷の中にいる子どもたちにしても、自分で考え、自分で行動する力があれば、火事を見れ
ば、自分で逃げることができたはず。そういう意味でも、無知、無学は、それ自体が、「罪悪」と
考えてよい。

 たとえばこの民主主義政治体制の中では、自分たちの税金が、どこでどのように使われてい
るかを知らないのは、それ自体が、「罪悪」と考えてよい。「知らない」「関係ない」では、すまさ
れない。

 環境問題にしても、K国の核問題にしても、そうである。が、日本人は、欧米の人とくらべて、
無知、無関心であることについて、罪悪感が、きわめて乏しいのでは? たとえばオーストラリ
アでは、「君は、政治的に無関心すぎる」という言葉は、半ば、相手を非難する言葉として、よく
使われる。

 そこで最初の話にもどる。家主は、ウソを言って、子どもたちを助けた。「そういう方法しかな
かったのかなあ」と思ってみたり、「それでよかったのかなあ」と、思ってみたりする。

 まあ、私の結論といえば、やはり、ウソは、よくないのではないかということ。いくらさしせまっ
た状況ではあったにせよ、子どもたちの尻をたたいてでも、門の外に連れ出せば、よかった。
……と思う。

+++++++++++++++++++++

子どものウソについて、以前書いた原稿を
添付しておきます。

+++++++++++++++++++++

子どもがウソをつくとき

●ウソにもいろいろ

 ウソをウソとして自覚しながら言うウソ「虚言」と、あたかも空想の世界にいるかのようにして
つくウソ「空想的虚言」は、区別して考える。

 虚言というのは、自己防衛(言い逃れ、言いわけ、自己正当化など)、あるいは自己顕示(誇
示、吹聴、自慢、見栄など)のためにつくウソをいう。子ども自身にウソをついているという自覚
がある。

母「誰、ここにあったお菓子を食べたのは?」
子「ぼくじゃないよ」
母「手を見せなさい」
子「何もついてないよ。ちゃんと手を洗ったから……」と。

 同じようなウソだが、思い込みの強い子どもは、思い込んだことを本気で信じてウソをつく。
「昨日、通りを歩いたら、幽霊を見た」とか、「屋上にUFOが着陸した」というのがそれ。その思
い込みがさらに激しく、現実と空想の区別がつかなくなってしまった状態を、空想的虚言とい
う。こんなことがあった。

●空想の世界に生きる子ども

 ある日突然、一人の母親から電話がかかってきた。そしてこう言った。「うちの子(年長男児)
が手に大きなアザをつくってきました。子どもに話を聞くと、あなたにつねられたと言うではあり
ませんか。どうしてそういうことをするのですか。あなたは体罰反対ではなかったのですか!」
と。ものすごい剣幕だった。

が、私には思い当たることがない。そこで「知りません」と言うと、その母親は、「どうしてそうい
うウソを言うのですか。相手が子どもだと思って、いいかげんなことを言ってもらっては困りま
す!」と。

 その翌日その子どもと会ったので、それとなく話を聞くと、「(幼稚園からの)帰りのバスの中
で、A君につねられた」と。そのあと聞きもしないのに、ことこまかに話をつなげた。

が、そのあとA君に聞くと、A君も「知らない……」と。結局その子どもは、何らかの理由で母親
の注意をそらすために、自分でわざとアザをつくったらしい……、ということになった。こんなこ
ともあった。

●「お前は自分の生徒を疑うのか!」

 もうあれから、30年近くになる。

ある日、一人の女の子(小四)が、私のところへきてこう言った。「集金のお金を、バスの中で
落とした」と。そこでカバンの中をもう一度調べさせると、集金の袋と一緒に入っていたはずの
明細書だけはカバンの中に残っていた。明細書だけ残して、お金だけを落とすということは、常
識では考えられなかった。

そこでその落としたときの様子をたずねると、その女の子は無表情のまま、やはりことこまか
に話をつなげた。「バスが急にとまったとき体が前に倒れて、それでそのときカバンがほとんど
逆さまになり、お金を落とした」と。しかし落としたときの様子を覚えているというのもおかしい。
落としたなら落としたで、そのとき拾えばよかった……?

 で、この話はそれで終わったが、その数日後、その女の子の妹(小二)からこんな話を聞い
た。

何でもその女の子が、親に隠れて高価な人形を買ったというのだ。値段を聞くと、落としたとい
う金額とほぼ一致していた。が、この事件だけではなかった。そのほかにもおかしなことがたび
たび続いた。「宿題ができなかった」と言ったときも、「忘れ物をした」と言ったときも、そのつ
ど、どこかつじつまが合わなかった。

そこで私は意を決して、その女の子の家に行き、父親にその女の子の問題を伝えることにし
た。が、私の話を半分も聞かないうちに父親は激怒して、こう叫んだ。「君は、自分の生徒を疑
うのか!」と。そのときはじめてその女の子が、奥の部屋に隠れて立っているのがわかった。
「まずい」と思ったが、目と目があったその瞬間、その女の子はニヤリと笑った。

ほかに私の印象に残っているケースでは、「私はイタリアの女王!」と言い張って、一歩も引き
さがらなかった、オーストラリア人の女の子(六歳)がいた。「イタリアには女王はいないよ」とい
くら話しても、その女の子は「私は女王!」と言いつづけていた。

●空中の楼閣に住まわすな
 
イギリスの格言に、『子どもが空中の楼閣を想像するのはかまわないが、そこに住まわせては
ならない』というのがある。子どもがあれこれ空想するのは自由だが、しかしその空想の世界
にハマるようであれば、注意せよという意味である。

このタイプの子どもは、現実と空想の間に垣根がなくなってしまい、現実の世界に空想をもちこ
んだり、反対に、空想の世界に限りないリアリティをもちこんだりする。そして一度、虚構の世
界をつくりあげると、それがあたかも現実であるかのように、まさに「ああ言えばこう言う」式の
ウソを、シャーシャーとつく。ウソをウソと自覚しないのが、その特徴である。

●ウソは、静かに問いつめる

 子どものウソは、静かに問いつめてつぶす。「なぜ」「どうして」を繰り返しながら、最後は、「も
うウソは言わないこと」ですます。必要以上に子どもを責めたり、はげしく叱れば叱るほど、子
どもはますますウソがうまくなる。


 問題は空想的虚言だが、このタイプの子どもは、親の前や外の世界では、むしろ「できのい
い子」という印象を与えることが多い。ただ子どもらしいハツラツとした表情が消え、教える側か
ら見ると、心のどこかに膜がかかっているようになる。いわゆる「何を考えているかわからない
子ども」といった感じになる。

 こうした空想的虚言を子どもの中に感じたら、子どもの心を開放させることを第一に考える。
原因の第一は、強圧的な家庭環境にあると考えて、親子関係のあり方そのものを反省する。
とくにこのタイプの子どものばあい、強く叱れば叱るほど、虚構の世界に子どもを、追いやって
しまうことになるから注意する。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司


最前線の子育て論byはやし浩司(548)

●私のイライラ解消法

イライラしたら、どうするか?

 人、それぞれだろうが、私のばあいは、掃除。草刈り。とくにガソリンエンジンのついた草刈り
機で、バリバリと、草を刈るのがよい。あとは、買い物。

 今朝は、いろいろあった。それで朝から、気分は、ふさぎっぱなし。そこで掃除。昨日買ってき
た、新型の掃除機で、3部屋も、掃除した。

 あとは、トイレを、ピカピカにみがいた。その中で、食事ができるほど、きれいに、みがいた。
床に、ジュータンを敷いて、香水をまいた。よい気分。ホント!

 昼前に掃除は、終わった。そのあとは、料理。今日は、カレーライス。

 温めて食べるだけのレトルト・カレー。それに、たまねねぎと、肉を加えて、1人前を3人分
に、増大。こういうインチキ料理は、私の得意芸。

 おかげで昼ごろには、気分も、もどっていた。爽快(そうかい)とまではいかないが、まあ、ふ
つう。コタツに座って、ミルク・ティーを飲む。のどかな昼さがり。白い陽光が、窓から、背中を照
らす。

 人間は、本来は、一系統の脳みそしか、働かないようにできている。同時に、二つの作業を
こなすことはできない。

 簡単な例としては、複式学級がある。小学4年生と5年生を、同時に教えるような授業が、そ
れ。

 外の世界の人には、何でもないように見えるかもしれないが、複式学級ほど、疲れるものは
ない。どう疲れるかは、ここで説明しても意味はないかもしれないが、脳ミソが、おかしな緊張
感に包まれる。

 そこでイライラしたときの自分を静かに観察してみると、同時に複数の作業を、脳みそが処
理しようとしているのがわかる。複式学級でいえば、4年生と5年生の授業に、さらに中学1年
生の授業が加わったような感じかも?

 ところでこれからのコンピュータは、同時に複数の作業をこなすことができるようになるとい
う。脳みそを、2つとか、3つとか、同時にもっているような感じになるらしい。すでに64ビットマ
シンも、売りに出されている。(すごいなあ!)

 が、掃除をすることによって、自分の脳みそを単純化できる。つまり単純化することによっ
て、イライラを解消できる。何も考えないで、床がピカピカになっていくのを見るのは、それだけ
でも、気持ちよい。

 ……というのが、私のイライラ解消法。


●ネット・ショッピング開店

私のHPに、ネットショップを開いた。いつも他人のネットショップをながめながら、「ぼくも、こう
いうショップを作ってみたい」と思っていた。

 たまたまF社から、誘いがあった。「先着1000人まで、ネットショップ、開設無料」ということだ
った。そこで私も、ショップを開いてみることにした。

 しかし、何を売るか?

 いろいろさがしてみたが、よいものがない。で、思いついたのが、私の描いたイラスト画。今ま
で、あちこちの本で使ったイラスト画である。枚数にすれば、1000枚近くある。

 さっそく、その中の50枚ほどを、登録してみる。それはうまくいったが、送金方法で、迷った。
で、結局、代金引換郵便、もしくは、郵便振替の2種類にした。銀行振り込みとか、クレジットカ
ード払いとかいう方法もあったが、今イチ、信頼性に自信と責任がもてない。

 つぎに迷ったのが、値段。高くても売れないだろうし、安くても、売れないだろう。売るといって
も、あれこれ手間がかかる。そのことも考えて、1枚、3000円とした。

 (高いかなあ……?)

 「何でも新しいことには、挑戦してみるもの」というのが、私のモットー。売れなくて、ダメもと。
これも(遊び)のうち。

 興味のある人は、

https://cart1.fc2.com/cart/hhayashi/

 を、のぞいてみてほしい。ほかにも、これから先、何か、売れるものがあったら、このコーナー
で売っていきたい。(肝心の本のほうは、目下、大不況中! これもインターネットの影響だと
言われている。)


●怠惰

 頭のボケた兄の一日は、実に単純なものだ。朝、起きて、夜、寝るだけ。その間に、3度の食
事と、数日置きの入浴。それに自分の部屋の掃除だけ。

 いろいろ仕事をさせてみようと思ったが、させたとたん、パニック状態になってしまう。先日
は、CDプレーヤーを、発作的に、投げ捨ててしまった。そして、「ぼくは、体が弱い」「入院した
ことがある」と、そんなことばかりを言う。部屋のゴミすら、自分では、片づけない。

 そういう兄を見ていると、自分との落差に、がく然とする。

 私は、1時間でも、おしい。1分でも、おしい。「おしい」というより、だれかが時間をくれるとい
うのなら、遠慮なく、もらう。だれに頼まれたわけでも、また仕事(収入)になるわけでもないが、
私には、やりたいことや、してみたいことが、たくさんある。山ほど、ある。

 そこで「怠惰」について、考えてみる。脳ミソの問題もあるのだろうが、私の兄ほど、怠惰な人
間はいない。ボケ(認知症)には、そういう症状も、含まれるのか。

(1)行動と思考のループ性(毎日が、同じことの繰りかえし)
(2)知的能力の後退(毎日、努力をしても、現状維持が精一杯。その努力をしない。)
(3)後退的な人生観(不平、不満ばかりを、口にする)
(4)回顧性の増大(過去の話ばかりする。未来への展望性がない。)
(5)精神の腐敗(小ずるく、楽をすることばかりを考える。)

 5番目に、「精神の腐敗」をあげたが、怠惰は、常に、精神の腐敗をともなう。明るく、朗らか
な精神状態を、健康な精神とするなら、その精神が病む。腐る。

英語でも、『ころがる石には、苔(MOSS)がつかない』という。中国でも、『流水は、腐らず』と
いう。これらを裏から読むと、「ころがらない石には、苔がつき、水もとどこおると、腐る」という
ことになる。

そこで考えてみると、忙しいということは、それ自体が、美徳であることがわかる。体を動かし、
頭を働かせる。それが精神の腐敗を、防ぐ。

 それがわからなければ、広場に集まる老人たちの姿を見ればよい。一日中、何をするでもな
い、しないでもなし。イスに座って、ただひたすら世間話を繰りかえしている。一見、のどかに見
える光景だが、そんな老人からは、名誉も誇りも、生まれない。

 私はそんな老後生活は、決してあるべき、理想的な老後生活だとは、思わない。

 ただ、よく誤解されるが、名誉にせよ、誇りにせよ、それらは、自分の中の「己」(おのれ)に
対してするものであって、他人に対してするものではない。他人が、それを認めるか認めない
かは、つぎのつぎの問題。はっきり言えば、どうでもよい。

 そこで人は、自分の中に、(忙しさ)を、創作していく。朝、目をさましたら、その瞬間に、その
日にやるべきことを、決める。食事が終わったら、その瞬間に、そのつぎにやるべきことを、決
める。夜、床について、目を閉じたときもそうだ。

 今朝も、ワイフと、こんな会話をした。

私「どうせ世話をするなら、兄を、他山の石として、自分をみがかねば、損だ」
ワイフ「他山の石というのは、見習うべき石という意味よ」
私「そうだな。では、反面教師と言うべきか」
ワイフ「そうよね」と。

 他山の石……他の山の石を手本として、自分の石を磨くこと。中国故事。

ときどき、「兄の分まで、がんばってやろう」という気にはなる。しかし兄は、若いときから、生活
力は、ゼロ。今のワイフと同棲生活をするようになったときから、私は、収入の半分を、実家へ
送り届けてきた。もちろん結婚式もしていない。結婚式をする費用さえ、なかった。

 が、なぜ兄がそうなったかについて、私は、兄の体が弱いからだと考えていた。しかし、実
際、間近で兄を観察していると、そうではないような気がする。

 兄は、いつしか自分の病気を理由に、「怠惰な人間」、つまり、本物の怠け者になってしまっ
たようだ。何もしない。しようともしない。その意欲もない。病気が原因ではない。体の弱さが原
因でもない。

 さらによく観察すると、何をするにも、兄には、強烈なマイナスのストローク(弱化の原理)が、
働いているのがわかる。「何をしても、ぼくは、ダメだ」と、すべてを、そこにもどしてしまう。

 子どもの世界でも、ときどき見られる現象である。子どもは、何かのショック(たとえば、受験
の失敗、失恋、家庭内騒動など)が原因で、強度の自信喪失になることがある。その自信喪失
が、その子どもを、うしろ向きにひっぱることがある。ある時期、兄には、それが毎日のように
つづいたらしい。

 ただ兄とはいっても、私は、記憶の中で、兄といっしょに遊んだ経験が、まったく、ない。遊ん
でもらったという記憶も、まったくない。どこかおかしな家庭環境だったが、それについては、ま
たいつか書くことにして、私にとっての兄は、少し離れたところに住む、近所のお兄さんという感
じ。

 話が脱線しそうなので、もとにもどす。

 私が、30歳になったばかりのこと。恩師のT教授(当時、東大の副総長)は、私にこう言っ
た。「林君、今すぐ、ライフワークを始めなさい」と。

 私が驚いて、「まだ、30歳ですよ」と答えると、「今かでも、早すぎるということはない」と。

 ライフワークというのは、その人の生涯を象徴する業績をいう。私はライフワークというのは、
50代とか60代とかになってから、するものだと思っていた。が、そこでハタと困ってしまった。

 T教授のような科学者なら、そういうことも考えるが、私のばあい、まず仕事をして、生活費を
稼がねばならない。一日の80〜90%は、そのために、時間をとられる。残りの10%で、どう
やって、ライフワークを模索するのだ!

 ……ということで、あれからもう30年近くがすぎた。いまだにライフワークの「ワ」の字も見え
てこない。ただ、今、私がすべきことは、こうして「考えること」。それしかない。その先に何があ
るのかさえ、わからない。わからないが、それしかない。

 だから私は、人に、「林さんは、忙しいですか?」と聞かれると、いつもこう答える。「忙しくは
ありませんが、時間が足りません」と。

 実のところ、今朝も、朝寝坊をしてしまった。いつもなら、朝6時には起きて、原稿を書き始め
る。しかし今朝は、7時半だ。「しまった」と思い、台所へ、おりていくと、あの兄が、ボソボソと、
朝食を食べているところだった。毎朝、1時間程度、時間をかけて、朝食を食べている。

 それを見て、私は5分で、朝食を食べ終えた。食べ終えて、自分の書斎に、ころがりこんだ。
兄を反面教師としながら……。


++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
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【参考】世界の賢人たちの人生論

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What is life? We are born, we live a little and we die. 
- EB White, "Charlotte's Web "
人生って、何? 生まれて、少しだけ生きて、死ぬのよ。

To live is so startling it leaves little time for anything else. 
- Emily Dickinson
生きるって、驚くことばかり。ほかのことのための時間は、ほとんどないわ。

People's whole lives do pass in front of their eyes before they die. The process is called '
living'. 
- Terry Pratchett, "The Last Continent"
人間の人生というのはね、死ぬまでの間、目の前で、過ぎるだけ。その過程を、「生きている」
と言うのよ。

Life obliges me to do something, so I paint. 
- Rene Magritte, In Art/Painting 
人生というのは、私に何かを課してしるのね。だから私は描くだけ。

Literature is mostly about having sex and not much about having children. Life is the other 
way round. 
- David Lodge, The British Museum is Falling Down, In Literature 
文学というのは、ほとんどが、セックスをすることばかりで、あまり子どもをもつということには、
書かないものね。しかし人生は、その逆。

Life is pleasant. Death is peaceful. It's the transition that's troublesome. 
- Isaac Asimov, In Death 
人生は楽しい。死はやすらか。死ぬことは、人生から死へのめんどうな移動のこと。

Life without love is meaningless and goodness without love is impossible. 
- Greg Jurkiewicz, "The Neo-Reconstructionist Manifesto" In Love
愛のない人生は、意味がない。愛のない善は、ありえない。

Life dies inside a person when there are no others willing to be-friend him. He thus gets 
filled with emptiness and a non-existent sense of self-worth. 
- Mark R. J. Lavoie, In Loneliness 
その人に対して好意的な友がいなくなったとき、その人の中で、人生は死ぬ。かくしてその人
は、空虚感に満たされ、無価値であるという非存在感に満たされる。

Life is too deep for words, so don't try to describe it, just live it. 
- C.S. Lewis, In Humanity 
人生は、言葉では言い尽くせないほど、深い。だからそれを表現しようと思うな。ただ生きろ。

I could not, at any age, be content to take my place by the fireside and simply look on. Life 
was meant to be lived. Curiosity must be kept alive. One must never, for whatever reason, 
turn his back on life. 
- Eleanor Roosevelt, In Humanity 
私はどんな年齢のときも、暖炉のそばに居座って、ただそれを見るということに満足できなかっ
た。人生というのは、生きることを意味する。好奇心は、いつも生きていなければならない。人
は、どんな理由であるにせよ、人生に背を向けてはいけない。

Life is a succession of moments. To live each one is to succeed. 
- Corita Kent, In Struggle/Success 
人生というのは、瞬間の連続。それぞれの瞬間を生きるということは、つづけるということ。

Life is like playing the violin solo inpublic and learning the instument as you go. 
- Edward Geroge Bulwer-Lytton, In Humanity 
人生というのは、隠れてバイオリンのソロを弾くようなもの。そしてそれを弾きながら、楽器の弾
き方を学ぶようなもの。

Life is not so bad if you have plenty of luck, a good physique and not too much imagination. 
- Christopher Isherwood, In Imagination 
人生も、幸運が重なり、健康で、あまり想像力がなければ、それほど悪くはない。

Life has taught us that love does not consist in gazing at each other but in looking outward 
together in the same direction. 
- Antoine de Saint-Exupery, In Love 
人生というのは、たがいに見つめあうのが愛ではないと教える。そうではなく、外に向って、同じ
方向を、いっしょに見ることが愛だと教える。

Life is very interesting, if you make mistakes. 
- Georges Carpentier, In Humanity 
もしまちがいをおかせば、人生は、たいへんいおもしろい。

Life is raw material. We are artisans. We can sculpt our existence into something beautiful, 
or debase it into ugliness. It's in our hands. 
- Cathy Better, In Art/The Artist 
人生は、原材料。私たちは芸術家。私たちはそれを彫刻して、何か美しいものにする。あるい
はつぶして、見苦しいものにする。それは私たちの手にかかっている。

Life is a mystery, not a problem to be solved 
- Albert Einstein, In Mystery 
人生は神秘的。解くべき問題ではない。

+++++++++++++++++++++

 人生は、気楽に生きろと説く賢人もいれば、懸命に生きろと説く賢人もいる。

 一番印象に残ったのは、「人生というのは、たがいに見つめあうのが愛ではないと教える。そ
うではなく、外に向って、同じ方向を、いっしょに見ることが愛だと教える」というもの。

これは、フランスの飛行家・作家、アントワーヌ・M・R・ド・サン・テグジュペリの言葉。あの「星
の王子様」の作家である。日本でも、よく知られた言葉である。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(549)


●奇妙な事件

 G県のN市で、奇妙な心中事件が発生した。

 その家の男(夫)が、愛犬2匹を殺した上、娘夫婦、孫などを道づれにして、一家心中を図っ
たという。

 中日新聞は、つぎのように伝えている。

「27日午後1時50分ごろ、G県N市、老人保健施設のHT事務長(57)方で、H事務長の長女
の夫から、『義父に刃物で刺された』と、110番通報があった。

H事務長の家族や近くに住む長女一家の、計6人が、屋内で血を流したり、首を絞められたり
して、倒れているのを、駆けつけた同県警N署の捜査員が見つけ、このうち生後1カ月の乳児
を含む、5人が死亡した。

H事務長は首を切って自殺を図り、同県警は原事務長が無理心中を図ったとみて調べてい
る」と。

 幸いにも、男の妻は、朝、仕事に出かけていて、無事だった。しかもその男は、その直前ま
で、まったくふだんとは変わらない生活をしていたという。仕事仲間たちは、テレビの画面の前
で、みな、こう言っている。

 「静かな、ふつうの家庭でした」
 「仕事ぶりも、いつもと変わりませんでした」(テレビ報道)と。

 長男の仕事に問題があったとか、男に、神経痛の持病があったとかなど、いろいろ騒がれて
いるが、私も報道を見ていて、今回の事件ほど、首をかしげたものはなかった。男は、首にナ
イフを刺して自殺を図ったものの、一命はとりとめたようなので、やがて、真相が明らかになる
のだろう。が、それにしても、不可解な事件である。


●韓国のN大統領

韓国のN大統領が、「3・1独立運動」記念式典で、1日、日本に「賠償」の検討を促した発言を
した。

 韓国のN大統領が、ますます反日感情をあらわにしてきた。ものの考え方が、うしろ向きとい
うか、回顧主義的というか? この日の演説では、日本に、「もっと戦後補償をしろ」というよう
なことまで、演説の中で、におわせた。

 97年、つまり8年ほど前、韓国がデフォルト(国家破綻)したとき、資金援助したのが、IMFに
並んで、世界銀行と日本。日本は、IMFと並んで、それぞれが100億ドルずつ援助した。その
ほかにアメリカが、50億ドル。アジア開発銀行が、40億ドルなど。総計で、550億ドル! そ
の世界銀行や、IMFを、裏で支えているのも、実は、この日本。

日本が音頭を取り、世界から、550億ドルもの緊急援助を集めたわけだが、それによって、韓
国は自国経済をたてなおすことができた。が、そうした「恩」は、どこへ消えたのか? N大統領
よ、60年前の過去ではなく、8年前の過去を知れ!

 いまだに反米、反日の旗印をかかげ、親北政策を、推し進めている。K国が「核兵器保有宣
言」をしてからも、「まだ、核兵器は完成してないはず」と、K国寄りの意見を主張を繰りかえし
ている。K国を支えている。今月(3月)からは、K国の開城(ケソン)工業団地への送電も始め
る!

 いったい、韓国は、どうなってしまったのか? どこへ行こうとしているのか?

 本来なら、日本は、韓国とも、たもとを分かち、K国に対して、もっと強硬に出なければならな
い。いくら過去の歴史があるにせよ、日本にも、容認できることとできないことがある。K国の核
兵器保有宣言は、それほどまでに深刻な問題である。

 「K国の核問題は、ワレワレが解決してみせる」と、大見得を切って、大統領に就任した、N大
統領。その言葉の責任は、どうとるつもりなのか?

 
●ハゲタカ外資(ファンド)
 
 欧米では、「会社は、株主のもの」という意識が強い。しかし日本では、その意識が薄い。こ
の意識のちがいが、如実に現れたのが、今回の、ライブドアのH社長とフジテレビのH会長に
よる、ニッポン放送株争奪戦と考えてよい。

 なぜ、外資は、日本の会社の株を、買いあさりたがるのか?

 わかりやすく解説すると、こうなる。

 ここにA社という会社がある。発行株式数は、1万株。現在、A社の株価は、1000円。つまり
A社の価値は、総額、1000万円ということになる。

 しかしA社には、財産(内部留保)がある。その価値、3000万円。

 つまりもしあなたが1000万円もっていたら、A社の株をすべて買い占めることで、A社を自
分のものにすることができる。わかりやすく言えば、3000万円の価値のある会社を、1000
万円で自分のものにすることができる。

 本来なら、A社は、利益があったら、配当金をふやすなどして、株主に、その利益を還元しな
ければならない。しかしA社は、あれこれ財務をやりくりして、配当金を減らし、財産(内部留
保)をふやした。それが3000万円になった。

 おおかたの日本の企業は、こうして財産をふやし、会社そのものを、社長が私物化してい
る。よい例が、あの「シャンシャン株主総会」。たいした議論もしないまま、シャンシャンと手を打
って、総会を終えてしまう。つまりこうした体質の中にこそ、ハゲタカ外資と呼ばれる外資に、日
本の企業がねらわれる理由がある。

 「会社は、株主のものである」と考える、欧米型思考。一方、「会社は、それを作り、育てた社
長の財産である」と考える、日本型思考。その意識の戦いが、今、ライブドアのH社長とフジテ
レビのH会長との間で、今、繰り広げられている。

 昔から日本の企業は、よく「なれあい所帯だ」と言われてきた。よい例が、銀行。少し前まで、
護船団方式とも呼ばれていた。たがいに、たがいを守りあいながら、生きてきた。しかしこうし
た(ぬるま湯)経営では、これからの国際社会では、生き残ることができない。つまりハゲタカ
外資の標的にされる。

 そこで銀行のばあいは、合併に合併を重ねたりして、株の時価総額をあげて、外資に対抗し
ようとしている。いくら外資でも、無尽蔵に、お金をもっているわけではない。

 私は日本人だから、一応、フジテレビのH会長を応援する。しかしこれからの日本のことを考
えると、今回の争奪戦は、日本人には、よい教訓になるのでは……? 世界は、もう少し、きび
しい! (どこか無責任な意見で、ごめん!)


●「生」への執着

 私は、若いころから、こう考えていた。

 「頭がボケれば、それだけ、ものを考えなくなる。だから、『死』への恐怖も、それだけやわら
ぐはず。だから年をとって、頭がボケるのも、それなりに悪いことではない」と。

 しかしこの考え方は、まちがっていた。

 頭がボケるのは、大脳の働きが悪くなることをいう。しかし「生」への執着心は、もっと、奥が
深い。人間が、生来的にもつ本能そのものに、起因している。だから大脳の働きが悪くなったく
らいでは、影響を受けない。受けないばかりか、大脳によるコントロールが、できなくなるため、
もっと露骨になる。

 私は、このことを、頭のボケた兄を介護していて気がついた。

 頭はボケたはずなのに、「生」への執着心には、ものすごいものがある。たとえば食事にして
も、三度、三度、きちんと食べないと、死んでしまうと、本気で信じている。

 それに少しでも体の調子がおかしいと、やはり死んでしまうと、本気で信じている。

 ワイフは、「死ぬのがこわいのかしら?」と言うが、私が観察したところ、どうも、そういう消極
的なものではないようだ。兄は、兄なりに、生きたいのだ。どこまでも、どこまでも、生きたいの
だ。

 もちろん、生きる目的など、もうない。夢も希望も、ない。それでも、生きたいのだ。

 数日前も、「鼻水が出る。肺炎になる。入院する。死んでしまう」と騒いだ。

 そこで私が、「鼻水くらいでは、死なない。肺炎になったら、そのとき入院すればいい。どう
せ、お前なんか、生きていても、何の役にもたたないだろ」と言うと、体をかがめて、シクシクと
泣くマネをしてみせた。

私「やめろよ、そんな演技。どうせ、涙なんか、出ないだろ」
兄「かあちゃんが、薬をくれた」
私「オレは、かあちゃんじゃ、ないの。お前のじいちゃんだ」と。

 兄は、私のことを、祖父だと思い始めている。ときどき、私のことを、だれかほかの人の名前
で呼ぶこともある。そういう兄だが、しかし「生きたい」と、願っている(?)。

 が、ここで大きな矛盾を感ずる。

 今の兄には、現実検証能力が、ほとんどない。だから、「食べれば食べるほど、健康になる」
と、おかしな考え方をする。たとえば乳酸飲料のカルxxを、冷蔵庫に入れておくと、それを1日
で、飲んでしまう。

 5倍に希釈して飲む飲料だから、1日にして、5本分を飲んでしまうことになる。体によいわけ
がない。とくにそれほどの糖分を、大量に飲めば、脳間伝達物質にも影響を与える。情緒も、
不安定になる。

 「生きたい」という本能と、「では、どうすれば長生きできるか」という理性の部分が、かみあわ
ない。これがボケがボケであると言われる所以(ゆえん)である。

 「鼻水が出るから、死ぬ」と騒ぐ兄。その一方で、カルxxを1本飲んでしまう兄。私は、そこに
矛盾を感ずる。

 ところで近くの特別養護老人ホームでヘルパーをしている女性が、こんな話をしてくれた。何
でも、そのホームでは、ジジ・ババ様たちが、恋愛ごっこで、毎日、大騒動をしているという。

 「私の彼氏を取った」だの、「オレの女を取られた」だの、と。

 その女性は、こう言った。「80歳も過ぎた女性たちが、1人の男性を取りあって、泣き叫びな
がら、けんかをすることもありますよ」と。

 少し前に、その話を聞いたときには、私には、そういう現実が理解できなかった。しかし今な
ら、理解できる。「ナルホドネ」と。あのフロイトは、そういうジジ・ババ様たちの様子をみて、リピ
ドー(生きる原動力)を、性的エネルギーに結びつけたのかもしれない。

 それにしても、このところ、いろいろ考えさせられる。

 「生きるって、何だろう」と。

 私はもう、そのドアウェイ(玄関)に立ったが、この文章を読んでいる、あなたにも、確実に老
後はやってくる。

 頭も、確実にボケる。早い人で、30歳くらいから、ボケ始めるのではないか。いや、ボケるな
ら、ボケるでかまわない。そのボケるとき、ちょうどバケの皮がはがれるように、その下に潜ん
でいる人間性が、表に出てくる。それがこわい。ちょうど、理性のカバーがはずれて、「生」への
執着心だけが、モロに表に出てくることになる。

 頭のボケた兄を観察していて、それを発見した。

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司

最前線の子育て論byはやし浩司(550)

●フランスに住んでいるSRさんからの報告

 フランスに住んでいる、SRさんから、フランスの教育事情について、こんなメールが届いてい
ます。

+++++++++++++++++

はやし先生

お久しぶりです。
本当にご無沙汰してしまって、すいません。
毎日、メールをしようと思いつつ時が過ぎていくばかり。
今日のマガジンを読んで、今日こそは!と、メールしました。

足のけが、体調大丈夫ですか?
1月中旬から雷のためモデムが壊れ、修理に出して戻ってきたのが
1ヶ月後。その間どれだけマガジンを読みたかったことか。
マガジンによって心が癒されていたんだと、実感しました。

まずはフランスの事。6歳から日本で言う小学校に入るのですが
週間テスト、(暗記や朗読を含む)、大きな休みの前にある年に3回の
テストによって落第する可能性があるのです。
6歳に落第・・・と考えるとはやりテストの評価に厳しくなると思います。

できない教科は、家庭教師をつける人が多いです。
こちらでは塾は習い事。勉強は個人で家庭教師という感じです。
飛び級は幼稚園からあります。

知り合いには小学校で1学年飛び級をして、中学で1年落第という人もいるそうです。
大学入学資格バカロレアをとるのも大変なようです。
受かってから大学を選んだりします。
国によって本当に制度と考え方がちがいますね。

(中略)

今、仕事で日本語を教えていて、日本の文化よいところを伝えようと思っているだけに
現実の日本語は? 日本人は?
いろいろ考えています。

ここでもこの数ヶ月で日本人が増えました。
日本人が少ないせいか、はやし先生のいう、ジコチューな人もいます。
先生のマガジンを読むたびに、貴重な時間を大切な人と分かち合おうと思いました。
そう、みんな仲良くは難しいですね。
職場が一緒なだけに、彼女の前だと、やはり仮面をかぶった自分がいて
息切れがしそうになります。
でも、大丈夫。小さな問題ですよね。

こちらは例年にない寒さです。雪が降ったりして、冷えるのですが
ここB町はフランスの中でもまだ暖かい方なようです。

日本も寒いと聞きました。
足はもちろんのこと、無理しないようにお体ご自愛ください。

奥様にもよろしくお伝え下さい。
ちなみにK夫はまだ、私たちと川の字になって寝ています。次男は一人で一部屋ダブル 
ベッドで寝ています。

では、お元気で

フランス・SRより

+++++++++++++++++++

【SRさんへ】

 マガジンの原稿として、いただいたメールを利用してすみません。このところ、原稿を書くスピ
ードが、たいへん落ちてきました。本来なら、もう4月号を書いていなければならないのですが、
まだ3月25日号も、書いていない状態です。

 せっかく、励ましてくださっているのに、申しわけないのですが、このところ、「どうしてマガジン
を出しているのだろう?」という疑問ばかりが、先に立ちます。疲れたせいかな? それとも、
やる気をなくしたせいかな? 

 近く新型の、超高性能パソコンを買います。それが手に入ったら、心機一転、またモリモリと
創作意欲がわいてくるのではないかと思います。私は、もともと単純な人間です。何か刺激が
ないと、活力がわいてきません。

 フランスの教育事情を知れば知るほど、「フランスも必死なんだなあ」と思ってしまいます。何
と言っても、国をつくるのは、民。民をつくるのは、教育です。

 数年前ですが、カナダで小学校の校長をしている女性(Mさんという日系人)と話をしたことが
あります。そのとき、カナダでは、教師が、教室内での教育に、全神経が集中できるシステム
ができあがっていることを知りました。

 雑務など、いっさい、しない。教室外のことについては、いっさい、関知しない。

 が、この日本では、勉強という教育はもちろん、生活指導から、しつけ、家庭指導から、保健
指導まで、親たちが、何でもかんでも、学校に押しつけています。これではとても、質の高い教
育など、期待できるはずもないのです。

 SRさんのメールを読んでいて、あわせて、フランスの教育事情のきびしさというか、教育シス
テムのきびしさのようなものを知りました。教師自身が、必死にならないと、給料がもらえない。
そんなきびしさです。

フランスには、フランスなりの、いろいろな問題もあるのでしょう。が、ことこの日本に関していえ
ば、教育改革は、30年、遅れました。いや、40年かな?

 私自身、「もう、どうにでもなれ!」と、思っているほどです。ハハハ。

 ところで、「ジコチュー」。

 人は、自分がジコチューでなくなったとき、はじめて、それまでの自分がジコチューであったこ
とを知り、ついで、他人のジコチューがわかるものです。

 それまでは、わからない。ジコチューの問題は、そんなところにあります。

 で、そのジコチューの肥大化した状態が、「自己愛」ということになります。わがままで、自分
勝手。完ぺき主義で、自分が絶対と思いこんでしまう。他人の批評や批判を許さない。もちろ
ん他人との共鳴性は、ゼロ。

 EQ論によっても、このタイプの人は、人格の完成度が、低い人ということになります。名誉や
地位、学歴や肩書きとは、関係がありません。むしろ、そういう立場に安穏としている人ほど、
自己愛者が多いのも、事実です。

 で、ジコチューになればなるほど、それと引きかえに増大するのが、孤独感です。

 これは当然ですよね。

 それを私に教えてくれたのが、あのマザーテレサの言葉です。何度も取りあげた文ですが、
もう一度、ここに取りあげてみます。

+++++++++++++++++++

When Christ said: "I was hungry and you fed me," he didn't mean only the hunger for bread 
and for food; he also meant the hunger to be loved. Jesus himself experienced this 
loneliness. He came amongst his own and his own received him not, and it hurt him then and 
it has kept on hurting him. The same hunger, the same loneliness, the same having no one to 
be accepted by and to be loved and wanted by. Every human being in that case resembles 
Christ in his loneliness; and that is the hardest part, that's real hunger. 

キリストが言った。「私は空腹だった。あなたが食事を与えてくれた」と。彼はただ食物としての
パンを求める空腹を意味したのではなかった。彼は、愛されることの空腹を意味した。キリスト
自身も、孤独を経験している。つまりだれにも受け入れられず、だれにも愛されず、だれにも求
められないという、孤独を、である。彼自身も、孤独になった。そしてそのことが彼をキズつけ、
それからもキズつけつづけた。どんな人も孤独という点では、キリストに似ている。孤独は、もっ
ともきびしい、つまりは、真の空腹ということになる。

++++++++++++++++++

同じように、アリストテレスも、こう書き残しています。
No one would choose a friendless existence on condition of having all the other things in the 
world. 
世界中のあらゆるものを手に入れたとしても、だれも、孤独(friendless condition)は選ばない
だろう。
++++++++++++++++++

 ジコチューな人は、それだけ孤独なのですね。かわいそうで、あわれな人たちです。同情して
あげましょう。

 でね、私のばあいは、ジコチューな人たちとは、もうつきあわないようにしています。時間のム
ダというか、私に残された時間は、もう、それほど、多くはありません。最近は、「どうぞ、みなさ
ん、ご勝手に!」という心境です。

 で、先にも書いたように、ジコチューの人からは、そうでない人が理解できないものです。この
あたりに、一つの「壁(カベ)」があるように思います。もし、私が、「バカの壁」という本を書いた
ら、ジコチューの人たちを取りまく壁を、「バカの壁」とするでしょう。

 利口な人からは、バカな人が見えますが、バカな人からは、利口な人が見えないものです。

 そこで重要なことは、自分を取りまく、「バカの壁」を、どうやって自分で知るかということにな
ります。

 私は、その方法の一つとして、「常識」をあげます。ついでに、もう一作、私が書いた原稿を添
付します。これを書いてから、もう8年になります。この詩は、中日新聞ショッパーコンテストで、
副賞を取りました。

++++++++++++++++++++

●子どもたちへ

 魚は陸にあがらないよね。
 鳥は水の中に入らないよね。
 そんなことをすれば死んでしまうこと、
 みんな、知っているからね。
 そういうのを常識って言うんだよね。

 みんなもね、自分の心に
 静かに耳を傾けてみてごらん。
 きっとその常識の声が聞こえてくるよ。
 してはいけないこと、
 しなければならないこと、
 それを教えてくれるよ。

 ほかの人へのやさしさや思いやりは、
 ここちよい響きがするだろ。
 ほかの人を裏切ったり、
 いじめたりすることは、
 いやな響きがするだろ。
 みんなの心は、もうそれを知っているんだよ。
 
 あとはその常識に従えばいい。
 だってね、人間はね、
 その常識のおかげで、
 何十万年もの間、生きてきたんだもの。
 これからもその常識に従えばね、
 みんな仲よく、生きられるよ。
 わかったかな。
 
そういう自分自身の常識を、
 もっともっとみがいて、
 そしてそれを、大切にしようね。

(詩集「子どもたちへ」より)

+++++++++++++++++++++

 最近の研究でも、脳の中に、辺縁系という組織があり、その中でも扁桃体という部分が、人
間の善悪の判断をしているのではないかということがわかってきました。

 よいことをすると、この扁桃体から、エンケファリンやエンドロフィンなどの、麻薬様物質(モル
ヒネ様物質)が放出され、その人の脳内に陶酔感を引き起こすというのです。つまりそれが「気
持ちよさ」の原因である、と。

 話がそれましたが、ジコチューから自分を解放するためには、自分の常識をみがけばよいと
いうことになります。

 ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をして、ごくふつうに考え、悩み、生きる。そういう中
で、自分の常識をみがいていく。そしてそのためには、自分で考える。考えて、考えて、考え抜
く。

 それが今までに、私が導いた結論ということになります。もちろん、それで正しいとは思いま
せん。この先は、まだあると思います。それを、これからも追求していきたいと願っています。

 何だか、グチから始まったメールですが、SRさんのような方からメールをいただき、私も、何
度もSRさんのメールを読みました。励まされました。どうしようもないマガジンですが、SRさん
のように、喜んでくださっている人がいるということを知るだけでも、本当に、うれしいです。

 ありがとうございました。

 いただきましたメールのうち、フランスの教育事情に関する部分について、転載させていただ
きましたが、どうかお許しください。

 まだ未推敲のままの原稿ですが、送ります。

 日本は、暖冬といいながら、寒いです。昨夜も、頬を切るような冷気の中で、1時間ほど、自
転車で走りました。体の健康を維持するのも、楽なことではありません。がんばります!

はやし浩司・日本

++++++++++++++++++++++++++++++++++はやし浩司
****************以上、550*****************


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