×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。



Kenzi TAMARU
敦煌(Magao/Dunhuang)の洞窟
暗い洞窟の中でASA1400で漸く撮れました)



田丸謙二
はじめに

コンピュータの時代が始まった。情報化、国際化が
飛躍的に進み、科学技術も含めて、これまでになかっ
た早い速度で世界は加速度的に変わりつつある。こ
の十年間にインターネットが60倍に普及したというし、
これから二、三十年先の世の中はさらに想像以上に
変わるであろう。その時代を支えるのは今の若い人た
ちであり、その人たちのための「現在の教育」が国の
将来を決めることになる。

  日本は過去長い間マナブがマネブ(真似をする)か
ら由来していることでも解るように常に文化を輸入して
来た風土が出来上がっている。「学力」とえばとかく「知
識の量」で測られて来た。

  しかし、これからの回転の速い時代に適応し、それ
をリードできるのは自分の頭でしっかりと考える基礎
を身につけ、自立して創造的に考え、判断ができる個
性豊かな「知恵を持つ人材」である。単なる「ものしり」
ではない。携帯用のパソコンが出る時代である。時代
の激しい変化を先取りして、コンピュータのできないこ
とが出来る「「智慧」のある人材が求められる。クリエイ
テイブの時代の到来である。今の「横並びの知識偏重
の『学びて思わざる詰め込み教育』」を一日も早く抜本
的に改革しないと日本の将来は暗い。

Lisbon




窒素と水素とから
アンモニアを合成する反応と
その後の個体触媒
作用の解明
田丸謙二第二Website・・・●

ご挨拶と略歴 ##*
ご挨拶と略歴 ##*
アルバム
アルバム
(1)国の将来を決めるのは教育 *###
(1)国の将来を決めるのは教育 *###
(2)わが半生:思い出すままに  *##
(2)わが半生:思い出すままに  *##
(3)Independent  thinkerを *##
(3)Independent thinkerを *##
(4)知恵を育てる教育 *##
(4)知恵を育てる教育 *##
(5)日本をだめにするのは誰か
(5)日本をだめにするのは誰か
(6)昔を振り返り  *##
(6)昔を振り返り *##
(7) 田丸節郎について ##*
(7) 田丸節郎について ##*
(8)環境問題
(8)環境問題
(9) 中国と民主主義 *##
(9) 中国と民主主義 *##
(11)Einsteinからの手紙その他国際化について **##
(11)Einsteinからの手紙その他国際化について **##
(12)人は八十を過ぎてようやく熟す ##
(12)人は八十を過ぎてようやく熟す ##
(13)鎌倉宮カントリーテニスクラブ  
(13)鎌倉宮カントリーテニスクラブ  
(14) 考えさせる問題 *##
(14) 考えさせる問題 *##
メール
メール



    
田丸謙二の半生      

田丸謙二 (1923年11月2日誕生
1946年9月 東京帝国大学・理学部・化学科卒業 
1950年10月 理学博士の学位取得(東京大学) 
職歴: 
1951年4月  横浜国立大学・工学部・助教授 
1953年10月〜1956年5月 Princeton大学(米国)ポスドクとして留学 
1959年4月  横浜国立大学・工学部・教授  
1963年10月 東京大学・理学部・化学科・教授
1973年10月〜1976年3月 東京大学・評議員
1976年4月〜1984年3月 理化学研究所・主任研究員(兼任)
1976年4月〜1979年3月 東京大学・理学部長
1981年4月〜1983年3月 東京大学・総長特別補佐(副学長)
1984年5月  東京大学名誉教授
1984年4月  東京理科大学・理学部・教授
1995年4月〜1999年3月 山口東京理科大学・基礎工学部・教授・学部長
1999年10月〜12月 国際高等研究所フェロウ

1979年12月〜1984年12月 日米教育委員会・委員
1981年3月〜1983年2月 日本化学会・化学教育部会・会長
1982年6月〜1991年6月 ユネスコ(国際化学連合)国内委員会・委員
1984年7月〜1988年7月 国際触媒学会・会長
1987年1月〜1987年12月日本触媒学会・会長
1989年3月〜1990年2月  日本化学会・会長
1986年7月〜1989年7月  日本学術会議・第4部長
1989年6月〜1995年6月  日本学術会議・化学研究連絡委員会・委員長

受賞 
1964年12月  松永章(松永科学振興財団) 
1974年4月   日本化学会賞  
1985年11月  紫綬褒章  
1994年4月   勲二等瑞宝章 
1999年7月   工業教育賞(工学教育協会)
2000年6月   日本学士院賞




  自分の経歴について何か書くと言っても記憶にあるのは「ハリス幼稚園」に通ったおぼろげな記憶がある頃からかもしれない。むしろ小学校として「鎌倉師範学校の付属小学校」に通った記憶がはっきりとしている。小学校の3年生頃だったろうか、担任の塚本先生が私を教壇のところに立たせておいて、「田丸君が悪い子だと思う人は手を上げろ」といわれた時大部分の同級生はサッと手を挙げたが私と親しいK君だけは先生の言うとおりに手を上げたくないという顔をしながら迷っていた場面を覚えている。


一体何をしたのか全く覚えていないが、要するに塚本先生が私をよい生徒とは思っていなかったことは強く感じていた。4年生になった頃「学校には行きたくない」と拗ねていたことは覚えている。当時確かどこかの大学の先生の子供の同級生T君の母親と私の母とが学校に担任を変えてくれと頼みに行ったという。その結果だろうか5年生になった時以来N先生が担任になってN先生には全く叱られたこともなく機嫌よく学校に通ったことを覚えている。


小学校のクラス会を「リンドウ会」と称して長く続いたある歳に確か90歳を越した塚本先生が私に個人的に「君は偉くなると思っていたよ」と言われたのを覚えているが同じときに「T君の父親は大学の先生で、小学校の教師など下に見ていた」と言っていたのを覚えている。勿論我が家についても同様であったろうが。兎に角小学校の4年までは嫌われていたらしい。本当に何をして悪かったのか身に覚えはなかったが。


  中学は県立の湘南中学(現在の県立湘南高校)に通った。よく体育館で学校が終わってから気の合う連中とで楽しく遊んでいたのを覚えている。学科でいえば化学の時間は大嫌いで成績表にも明らかにその結果が出ていたらしい。普段成績表については何も言わなかった父親(化学を職業にしていた)に「化学が何故つまらないの」と言われて返事に困ったことを覚えている。全くの暗記物だったからである。父が「大学に行くと全く違う化学になるよ」と言った一言だけは覚えていた。当時中学は5年生まであってそれから旧制高校に進むのであったが、それまで家に7時ころ帰って9時には寝ていたが旧制中学の4年生になって夜10時まで起きて勉強をするようになり、父親に「欲が出た来たね」と言われたものである。


湘南中学ではいわゆる典型的『進学校』であって毎週火曜日には火曜テストという学力の試験がありその成績がよいと皆の前でノートを貰う仕組みがあったが私も、2、3年線の頃はノートを貰ったことは到底なかったが、4年生になった頃は貰うようになった。4年で幸運に成蹊高校に進学ができた。成蹊で学んだ化学はそれまで学んだ化学とは全く異なり「考える化学」になって大学には化学を選んだ。その当時は高校に進むのが厳しい試験であって東京大学でも無試験の学科もあったし、化学は最も厳しい学科の一つだったが大体2倍くらいの競争率であった。その頃の大学の化学の入試には実験の試験があり、資料を頂いて分析をするものであった。


私が受験した時は「水酸化バリウム」の固体の分析であった。成蹊高校では大学の分析の試験の備えもあって実験をさせてくれた。楽しいいい学校であった。湘南中学も成蹊高校もともに優れた学校で優れた親しい友達も沢山できて楽しい時代であった。


、 私は1946年の9月に東京帝国大学の理学部化学科を卒業した。終戦の翌年であるだけに東京も広く焼け野原になっていたし、世界中が第二次世界大戦の被害を大きく蒙っていた時である。敗戦の直後として卒業生の就職する企業もなく闇でサッカリンを作っていた企業が一見した企業らしい活性を示していたほどである。その頃「特別研究生」として戦争中に理系優遇のために設けられた制度が残っており、当時助手の給料を頂きながら大学の研究室に残れた制度が卒業クラスに二名ほどあり、大変に幸いに私は鮫島研究室に残って特別研究生として研究を続けることができた。これは私の生涯にとって大きな経歴の一つであった


  鮫島先生にお会いして大学院で何を研究いたしましょうかとお尋ねをしたところ「触媒作用」を研究したらよいのではないか、ということであった。「はい」と答えて引き下がったが、「触媒作用の研究」と言っても何の研究をするのか当時の鮫島研ではそれ以上は自分で考える習慣であった。当時は外国から戦時中の文献も入って来ず、古い本などを見ながらの研究で何をしたら良いのか、文字通り「暗中模索」、それはとても苦しい半年であった。迷いに迷った挙句選んだのはアセチレンのPd触媒による水素添加反応であった。


三重結合と二重結合の共存中の水素添加反応であった。結果を出してみると以外にもアセチレンが気相に存在する限りはエチレンの水素添加反応は進まず、気相中のアセチレンが全て水素化されてエチレンになると途端にエタンへの水素化反応が迅速に起こることであった。パラヂウム触媒で担体を変化させても挙動は同じであった。この面白い水素添加反応の結果は数年後にアメリカのEmmettたちが出版させた本に3ページにわたって引用させられたし、学部卒業後4年で理学博士の称号を頂いた。


  鮫島先生もご定年に近いし丁度横浜国立大学の工学部化学工業科の助手の席があるから行かないかということで横国大に木下研究室の助手として就職をした。当時の横国大では研究雰囲気などは全くに見られない状態であり研究費らしいものもほとんど存在しなかった。横浜高工から国立大学に昇格ほどない状態で夜学もあり、雑用が沢山あって有機化学まで講義をさせられた。仕方なくアメリカ留学のフルブライトの制度に応募をする決心をした。


いろいろ苦労をした結果としてPrinceton大学のSir Hugh Taylor 先生のところに1953年から1956年まで3年間留学をすることが出来た。本当に嬉しいことであった。これは後から解ったことではあるが、テイラー先生は昔亡父田丸節郎とハーバー研究室でお会いになったこともあり深くご尊敬下さっていたとのことであった。テイラー先生は実にすばらしい先生であり、私も一生ご尊敬している先生であったし、先生が多勢の優れた弟子たちを育成された中で田丸がべストだったと言われそのお言葉が多くの人、例えばソ連の大ボスのボレスコフさんなど、に納得されていたことは有難いことであった。


  Princeton で与えられた研究テーマはゲルマニウム水素化物がゲルマニウム表面の上で分解する反応であった。それまで得られた結果と違って反応物にゼロ次反応であって、反応中はゲルマニウム表面は水素原子で飽和されながら、吸着水素の脱離が律速として反応が進むものであった。その反応結果を基にして思いついたことをテイラー先生に申し上げた。触媒作用の機構はそれまで専ら反応速度式から推定されていて いてたとえば Langmuir-Hinshelwood の反応機構のように反応機構は速度式などで反応の外側から推測するだけのことであって、これからは触媒反応が現実に進む触媒正面を反応中に直接測定をして何が触媒表面に吸着をし、それら同志がどのように相互作用をしながら触媒反応が進んでいるものか実測に基づいて反応機構を解明すべきではないかという、いわゆる「in situ dynamic characterization 」を現実に提唱をしたところテイラー先生は大変に感心をされ、(You are very ambitious,と二度も溜息をつきながら感激された言葉を繰り返させられた)今まで世界で誰もしたことがないだけに本当にできるものであるか、具体的に教えてくれと言われるので早速その翌日実験方法を具体的に解明する方法を申し出て早速実験を始めたものである。


触媒作用が現実に起こる現場に何がどれだけ存在し、それらの間でいかなる化学反応が進み、全体的に触媒作用が営まれるものであるかを解明するのである。この方法は後に1960年にParis で大きな国際触媒学会が開催された席上でテイラー先生が総合講演をされ「これからの触媒作用の研究はこのような触媒作用が現実に進行をする現場の動きを直接実際に測定する「タマルの方法」ですることこそ本当に触媒作用の研究が本当の「科学」になるものであるとはっきりと講演された。


それまでは反応速度式の形で触媒作用が現実に起こっている現場を直接調べることなしに反応機構を推察するだけでしていただけであっただけに、触媒作用の起こる現場はこうなっているのであるという直接の現場を調べた上で初めて本当に反応機構が解明されることが世界で初めて解明されたのである。触媒作用の進む現場を世界で初めて推測からぬけ出して実測をしたのであるが幸運なことにその直後に反応中の固体表面を直接調べる方法が開発されたお蔭で触媒作用の機構が大きく発展したのである。


私はその前にPrinceton から帰国して日本の触媒討論会でタングステンによるアンモニアの分解反応を例にとって、報告をした。当時この反応はほとんどアンモニアにゼロ次反応であり触媒表面はアンモニア分子により飽和をされているものであると教科書にも書いてあった。然し「田丸の方法」で反応中に触媒表面の吸着を調べてみると水素はいかなる形でも吸着されておらず、窒素だけしか吸着されない反応であることが判明したという報告をした。その際に北海道大学の触媒研究所長の堀内寿郎先生が口をきわめてお褒めのお言葉を頂き、これまで世界で誰もしたことがなかった触媒作用の研究に画期的な飛躍を与えるもので、将来当然学士院賞を頂く価値があるものであると大変なお褒めの言葉を頂いた。


先生は「私について来て下さい」と言われるのでどこに行くのかと思ったら文部省の研究費関係の課長さんのところに行き、この田丸は世界でも画期的な素晴らしい研究開発をしたので是非特別に研究費を考慮してくれと言われて特別に研究費を頂くことになった。すべて皆に大変なご好意とご援助を頂いたのである。


Princeton から帰国して3年して横浜国立大学の教授になって研究室に学生を取り始め、学部卒業後にも素晴らしい研究者として発展した田中虔一君や中西準子さんなどが来た。この二人とも後で東京大学の教授になった。私は横浜国大教授として4年半して1963年10月に東京大学の理学部化学教室の教授に招かれた。歳からすれば満40歳一寸前であった。


  Princeton時代に大事なことを書き落としたことの一つは我々に女の双子が恵まれれたことであった。いよいよというので病院と打ち合わせて行き、いざ帰ろうとしたとき50がらみの出迎えの看護婦さんがとんでもないといわんばかりの顔をして曰く「何故キスをしないで行くのですか」と。これからお産をしようとする奥さんにキスもしないで帰る旦那など初めて見ると驚いた顔をしていた。今年、2015年で二人とも還暦になったという、驚くべきことである。ここで一つの資料はこの双子が生まれた一か月後にアインシュタインが全く同じ病院で亡くなったことであった。アインシュタインが明け方亡くなる前に彼は大きな声で独り言を母国語のドイツ語で何時間も喋っていたそうである。ただ非常に残念なことは付いていた看護婦がドイツ語が解らなかったとのことであった。きっと素晴らしい遺言であったに違いないのに、そんなドイツ語の解らない看護婦をつけていたとは、と言われてもいた。


  東大教授になってから10年して東大の評議員にさせられ、その3年後に理学部長にされて4年間、更にその2年後には東大の理科、文科一人づつの一人として副学長を2年も務めさせられた。それだけ書けば簡単に勤まる職を経たかと思われたら大間違いであった。東大に移って数年したころいわゆる「大学紛争」が起こった。学生たちは教授は「専門バカ」ということにして、大学の学問的重さが基本的に問われたのであり、安田講堂も学生に占拠され、職員の多くは自分の教室にも入れない状態で、大学は無政府状態に陥れられてしまった。これは世界的に広まった大学紛争の流れであり、学生は「全共闘」、「共産党」「ノンポリ」などに分かれてお互いにぶつかり合い、教職員もバラバラに攻め合ってしまって最後には東大の安田講堂も警察が身体を張って中にいる連中を取り捕まえたが、その捕まった連中の大半は東大生以外の連中であった。その年は東大の入学試験もできず中止になってしまった。


その猛烈な「大学紛争」の始まりのことである。理学部教授会は次期の理学部長として1971年に3年前に帰国された小平邦彦先生をお選びした。長くアメリカ、特にPrinceton に滞在された世界的数学者ではあったが到底その大騒動のきっかけの時代の「理学部長」として適任とも思えなかったが、大学は「学問の中心」であるべきことの象徴として皆でお選びしたのである。勿論小平先生は頑強にお断りになったが、いったん理学部教授会で選ばれた人が学部長になるのをお断りになる例を作ると、時が時だけに大変なことになるので、「皆でお助けするから」ということで無理矢理にお引き受け頂いた。


小平先生は「化学でしたら田丸さんにお願いしたい」という直接のお言葉で、Princeton時代に親しくしていたタマルが「学部長補佐」としてこき使われることになり、学生の委員長との会見も学部長に代わって正にこき使われたのである。大学がメチャクチャになった状態を何とか正規に戻そうと努めるそれはそれは大変なことであった。自分の研究室をまともにまとめながらの仕事である。幸いにして私の研究室の活性度は職員や学生の理解のもとに大紛争の中にありながらどうにか学問的な貢献は着実に実って行った。勿論これは学生たちの努力のお蔭でもあるが、研究室のボスとしてそれはそれは大変な努力でもあった。私は口癖として「折角いい頭を持っているのですからもっと考えなさい」と言って、自分自身の新しく革新的なアイデアを極力絞り出すよう学生一人一人によく自分で考えるようできるだけの努力をしたものである。


研究で最も大事なことは自分の頭を使いに使って新しい局面に発展させ研究の局面を飛躍的に向上させることである。そのお蔭ではないかと自分勝手に思っているのであるが、結果として彼らそれぞれが研究室を出て独立した地位に進んだとき、彼らなりに大変に優れた仕事をなし上げてくれている。正に学生の努力のお蔭であった。その結果として京都大学、大阪大学、東工大、筑波大、北大などの旧制大学の教授になっただけでなく、東京大学だけでも実に9人もの多数になっている。しかもその9人という多数の過半は東大にいたからなったのではなく、東大以外の地位にありながら優れた業績を上げて東大に招かれている。こんな多数の数がひとつの研究室から東大教授に招待されることは非常な例外であるといえる。


結果的には一応研究室なりに立派に人創りをしたことにもなるのである。後になって知ったのは米国のIBMという優れた会社では「考える」ということを特別に重要視をして取扱い、各人の机には「think]と書いた文鎮が置いてあり、使っているボールペンの軸には「think-IBM」が備わっているという やはり「頭脳を働かさせること』が学問の基本なのである。


大学紛争の中での管理職も簡単にはとても言い切れないが管理と研究の両方を完璧に成し遂げる辛さはとても尋常なことではなかったのである。大変な苦労でもあった。例えば、理学部長の頃など到底鎌倉から往復ができずめちゃくちゃなに大学の近くに臨時の部屋を借りたりもした。丁度その頃我が家ではマミの身に大変なことが起こり、突然マミが半身不随にもなって苦しがっている頃でもあった。食事の味がおいしいと言った時にさもうれしそうににっこりとした笑顔が忘れられない。


半身不随で味覚に自信が持てなかったのではなかろうか。半身不随になって、「申し訳ない」、「申し訳ない」と何度も繰り返し言われたことであるが、素晴らしい奥さんであっただけに今思い出しても可哀そうでならない。結婚生活もよく「こんなに幸せにしてくれて有り難う」と繰り返し言ってくれていた彼女の性格の良さが反映して美しく、理知的(兄たち二人は東京大学、理学部、工学部、もう一人は京都大学に進学、マミ双子はともにお茶大)、性格の良さが顔ににじみ出ていた。素直、真面目で素晴らしい奥さんであったのである。


近頃はあまりしないようではあるが、殊に弟子たちの結婚の仲人を35組ほどもしたのではないだろうか。しばしば言われたことにお仲人の奥さんがあまりに綺麗なので花嫁さんが見劣りして可愛そうだとさえ言われた。素晴らしい奥さんと一緒になり、幸せな暮らしを二人で温かく共有したことはこれ以上にない幸せであった。その上にお世話になったすべてに先生たちが例外なく好意をもって助けていただき新しく「田丸の方法」(「田丸の方法」と呼んでくれる人はほとんどありませんが)を確立してくださったし、学生たち沢山の人たちに助けていただき、更に加えて沢山の人たちにお世話になり、すべて皆さんのお蔭であった。文字通りの幸せな人生が与えられた恵まれた半生に感謝あるのみである。


 以上の「田丸の方法」以外にもいろいろな触媒作用について研究をした中に比較的重要なものとして所謂「Electron- Donor-Acceptor Complexes」に関する研究が60報以上の報文になっている。例えば水素化反応の触媒は白金やニッケルなどがよく知られているが、金属とは無縁の有機化合物やグラファイトとアルカリ金属の間で作る Electron-Donor-Acceptor錯体も案外なほど活性な作用をする。近頃窒素と水素とからアンモニア合成をする触媒について東工大の細野教授、原教授たちが新しい触媒についての研究を進めているが、Graphite や Phthalocianine がアルカリ金属と作るEDA 錯体が室温でも非常にゆっくりではあるがアンモニア合成の触媒作用をすることが報告されている。Graphiteや有機化合物とアルカリ金属の間に作る新しい触媒作用だけに


何処が触媒作用を生むものであるか極めて興味ある一連の研究であり、沢山の
これからの基本的重要問題を抱えている。
 
   
 Fritz Haber Institut の創立百年祭に招待されて
1911年にKaiser Wilhelm Institut として Berlinに創立された研究所が途中でFritz Haber Institut (FHI) と名前を変えて、十月26日〜28日の三日間に創立百年のお祝いをした。4年前にノーベル化学賞をとった前所長の Ertl 教授の75歳の誕生日のお祝いも兼ねて、世界中から一流の学者を招いての盛大な講演会でもあった。参加した人たちは物理、化学は言うまでもなく化学史の専門家まで含み、千人ほどの集まりであった。私は百年の歴史の中での「Haber と日本」と題して、原稿も見ずに、この百年の間での田丸家と Fritz HaberInstitut との関連について講演をした。


  内容的には亡父が1908年2月に Karlsruhe の Haber 研究室に留学し、「死ぬほど働いて」アンモニア合成の成功に関与し、1911年Haber が新設されたBerlin の Kaiser Wilhelm Institut の所長になった折に直ちに亡父を所員に招き、第一次世界大戦が始まって日独が敵対関係になるまで合計6年間 Haberと共に研究をして来た。今回においてその当時亡父が撮った百年前の写真を何枚も出して見せたのは現在見せられた聴衆にとっては大変に印象的であったようであったし、FHI としても非常に貴重なものであった。


その後1918年にHaber は「空気からパンを作った」ということでノーベル化学賞を受け、1924年に星一さんの招待に応じて夫妻で来日をした。在日中は各地で講演をし「国を発展させるには科学の振興が必要である]という、彼がドイツで英仏をしのいで国を振興させた実績に基づいた講演をし、亡父がそれを翻訳し、自分なりの科学振興の必要性も加えて、一冊の本として岩波から出版したのである。(事実その頃の我が国から欧州への自然科学の留学の75%はドイツに行ったものである)その影響もあってわが国では昭和一桁の非常な経済不況の中にありながら、Kaiser Wilhelm 協会をモデルにして日本学術振興会を作り、大学や研究所に研究費を増額分配し、学術論文数もほどなく倍増し、人材が育ち、アジアでも最も近代化した国になった。


ベルリン工科大学をモデル化して東京工大を新設もした。(この両方の学術振興の実積は亡父の大変な尽力なしでは実現しなかったものである)Haber がドイツの学術振興だけでなく結果的にはわが国でも科学振興の実績を積んだことは、科学を重視するドイツ人たちにとっても初耳であったし,大変に印象的でもあったらしい。(わが国でもほとんど知られていない)


   次世代として私が、世界で初めて触媒反応中に固体触媒表面の挙動を直接観察して、それまで反応機構は推論に基づいていただけだったのを飛躍的に発展させて、in situ characterization を開発し触媒科学が科学として生まれたことに触れてそれをErtl がそれを発展して例えば Photoemission electronmicroscope を用いて見事な発展をもたらしてノーベル賞に至ったことに触れ、さらに婿の大山茂生(現東京大学教授)がフンボルト賞を三年前にうけて Hajo Freund と共に半年間FHI に滞在したことを告げて、結局田丸家は過去百年の間三代にわたり FHIと深い関係を持って来たことを紹介し、これまで一世紀の間世界をリードして来たFHI が更なる新しい世紀も世界をリードすることを願う、と言って話を閉じた。


  話の途中に亡父が残した百年前の写真の中にある亡父が着ていたモーニングがベルリン製であり、百年の間無事に保たれ、興味あることに私の娘の大山秀子にピッタリのサイズであることを言って、秀子がその服を着て現れた時は皆で拍手大喝采であったし、ハ―バー夫妻が鎌倉の我が家を訪問した折の写真の中に、私が母の腕の中にいた赤ん坊であって、ハーバーと直接会っている証拠でもあると言った時も拍手が湧いた。


  話が終わってからの皆の態度はそれまでとはガラリと変わり、何十人もの人が入れ替わりに、素晴らしい話だった、wonderful だけでも十何人か、,beautiful, elegant, moving (感動的), gem (宝石)(招待に与った Friedrich さんの表現)、highlight (今回のCentenary の議長を務めた FTI のdirector のGerard Meijer 教授も使った表現), excellent (Ertl さんの表現)と各人なりの言葉を使って私に対してベタ褒めであった。


英語も解りやすく、素晴らしかったし、とにかく88歳の人があんな立派な presentation をするなんて考えられない、という大変な評判であった。そうしてあの話はとても内容が素晴らしくて、話を聞いておくだけではもったいないし、是非その資料をドイツ化学会やFHIに永久に保存すべき話であるから、面倒でももう一度同じ話をして貰いたいということになり、今度は聴衆は十何人の幹部の前でもう一度 presentation をさせられた。ビデオにまとまったら送ってくれるという。とにかくこの上ない大変な好評であった。ビジネスクラスの旅費まで出してくれてのご招待であったので、それに充分以上に報いることが出来て本当によかったと思った。中には鎌倉まで人を派遣して FHIの古い資料を見せてくれないか、とまで言われた。FHI の図書室に「田丸古文書」の枠を作ることも議論されているとのことであった。


  秀子が科学史の専門家に我が家には亡父が百年前に購入した Lavoisierヤ Liebig などの手書きの手紙があると伝えたら大変に興味を示していたという。亡父が購入したままに置いてあっただけに、多分世界で唯一の本物の手書きの手紙だけに、科学史の資料としても大変に貴重なものであるからである。秀子が我が家の物置の中にある資料を基にしてThe Chemical Record に投書したものが大変な興味深いものとなり今年(2015年10月)にドイツに招かれて講演に出かけた。


  世界の人口は前世紀中に4倍になった。遠からず世界の人口は二百億になるという。ハーバーのお蔭で1913年に窒素肥料のアンモニアが工業的に生産され始め、何十億もの人が飢餓から救われたのでる。


  ハーバーがノーベル賞を頂いた根拠になる学術論文が1914年から1915年に七つあるが、その一つはハーバーの総説であり残りのうち四つは田丸節郎が主な著者になっている。その功績としてベルリンに新設された研究所の所員として招かれたものであり、アインシュタインも同じ研究所にいた。


F. Haber, S.Tamaru and Ch. Ponnaz, Z. ElektroChem. 21,(1915) 89
F..Haber, and S.Tamaru, 同誌、21 (1915) 191
F. Haber, S.Tamaru and T.W.Oaholm, 同誌、21 (1915)206
F.Haber and S. Tamaru, 同誌、21 (1915) 228


 Fritz Haber 研究所がベルリンに創設されてから4年前に百年になるというのでの百年祭であったが、亡父田丸節郎がHaber の窒素固定に貢献をした業績もあって、その新しい研究所の所員に招かれた。第一次世界大戦が勃興して日独が敵対関係になるまで所員になっていたが、その新しい研究所の建設を基本として、日本に帰国して理研の設立に携わった。もう近く理研も設立百年のお祭りがやってくる。


Haberが1924年に日本に招かれて日本各地で講演をして、国を栄えさせるためにはその国の科学技術を振興させることであるということを強調し、亡父の田丸節郎がそれを日本語に翻訳して出版し、大変に強い影響を振りまき、人材を作ったのはアジヤで率先して近代化をして行った基本になった。例えばベルリンのベルリン大学よりもベルリン工科大学の方が産学一体となって繁栄したことを例にとって「東京工業大学」を設立した。当時各帝国大学にはすでに工学部があって余計ではないかという言葉もあったが亡父の献身的な努力があって設立をされた。


昭和一桁の時代は日本も経済的に苦しい時代であったが、亡父は桜井譲二先生を立てて努力をして、日本学術振興会を作り上げた。その裏には昭和天皇が日本の学術振興のためにご下賜金百五十万のご寄付を頂いたお蔭で、大変な効果があった。現在日本が世界でもトップクラスの一員になれたのもその頃の日本近代化のお蔭があったのである。


   しかし日本は明治以来西欧の進んだ実績を見につけて努力をした結果として近代化が進行したのではあるが、やはり歴史的に「後進国」の気配が強く残っている。例えば孫の大山レオが小学校で二年までアメリカで教育を受け、日本んに帰って来たが、このホームページにもあるが、例えば「救急車がこちらに来るときは高い音なのに向こうに行くときは低くなるのは何故」とか、「台風のメとはどうなっているの」とか沢山の質問をした。担任の先生が「私は長く教師をして来たがこんな利口な子は初めてだ」と言っていた。


孫はアメリカ式の「自分で考える」「independent thinking] 」を身に着けて来たからである。然し、しかし、である、彼が日本にいるに従い見る見る内にそのような質問もしなくなってしまって全く普通の日本の子供になったしまった。日本ではいい意味でも「和を以て貴しとなす」古来からの風習もあり歴史的な後進国性もあり、個人の成長が妨げられてきているのである。近頃漸くになって大学入試も「覚えるよりも考える内容」にすることが文部科学省でも言い出してきた。


教育の改革である。大部分の教師は自分の持っている教養知識を生徒に伝えるのは実際に楽な教育になってきているだけに、「先生の背を見て考えることを学ぶ」education (educeとは生徒の才能を引き出すこと)であって一方的に先生から「教え育てる教育」とはベクトルが逆なのである。有馬文相の時代にも「ゆとり教育」と言って考える教育を叫ばれたこともあったが、こんなことも知らないではと、「実力の低下」という反対が少なくなかった。私はある新設大学の入学試験で、基本的問題は面接で、記述試験では受験生が高校の教科書持参で試験をしてみた。受験生が高校の教科書を持参しているので単なる教科書に出ている暗記物は出題できず、考える種類の入試になるのである。


その際知識の教育を主にしている大学職員は入試問題を作ることが難しいことがわかる。これこそ正に考える入試(教育改革)なのである。国際的にも相手を説得するためには自分でよく考える基本が必要である。これまでの暗記中心の「試験に強い」だけで外務省に入っているのでは自律的な日本の外交も乏しくなりかねない。個人の成長があって初めて全体が成長するのである。






#印は比較的お読みいただきたいもの:
*印は比較的最近書き加えたもの
  
異なった依頼原稿や講演の下書きとして似た事柄がダ
ブっています。適当に飛ばしてお読み下さい

考える理科教育,化学,教育,暗記よりも思考力, 創造力, 化学の教え方, 時代を先取りした教育, 田丸謙二, 環境,
頭の使い方. 触媒. 浸透圧. 知恵を育てる教育. 入試問題, 入試, ハーバー, アンモニア合成, 中国, アインシュタイン,
田丸節郎. 高校の化学、教育改革、知恵を育てる、